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一第一回の交流活動を中心に一

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一第一回の交流活動を中心に一

全勝

序論

 この論稿は,日本青年団協議会(以下,日青協と略す)の対中交流(1956年

〜1966年)を中心に検討する。

 日青協は1951年に発足して以来,国際交流を活発に進あた。一方で日青協は,

国際交流の発展に様々な影響を受けながら主体性を確立し,自己教育を遂げて いったが,他方で,アジア及び世界に平和を作り出そうとする世界の青年運動 の1っとして,それらに発信する努力も行った。1955年から日青協は,アジァ の青年たちに目を向け,特に,中国との交流を最も重視し,1956年9月〜11月,

1957年9月〜10月,1958年4月〜5月,1960年12月〜1961年2月,1965年12月

〜1966年1月の計五回,中国を訪問した。中国側の中華全国民主青年連合会

(1957年,中華全国青年連合会と改称。以下,全青連と略す)は,1957年3月

〜4月,1966年6月〜7月の計二回訪日活動を行った。   r

 上述した各時期に行われた青年たちの交流は,それぞれ特定の政治的意図を 持ち,客観的効果を狙ったものであるから,その交流の実態について双方の意 図を探ることは,青年運動・社会教育という特定の領域のみならず,戦後新た に出発した日本及び中国の近代化以来のキーワードをっかむ事になると考えら れる。勿論,そこには研究上の制約がある。双方の交流にっいての資料のうち,

中国側の資料及び当事者へのアクセスができないケースは少なくない。これら

は政治的な理由で公開されていないのだが,波乱万丈ともいえる新中国の建国

以来,公開できないわけもあると,私は考える。こうした困難を極めた状況の

中で,主として日青協の好意により,日本側の資料及び当事者へのアクセスが

(2)

できたので,日青協の対中交流の部分にっいて多少の検討を加えてみた次第で ある。       一

 日青協と中国との交流については,1970年代からようやく真剣な研究が進め られた。それは,日本青年館編『日本青年団協議i会二十年史』(1971年。以下,

『20年史』と略す)の研究業績である。

 『20年史』は年史研究という形で対中交流を纏めている。これには,日青協 が当時の課題,すなわち主体性の完成のために,国際交流を如何に活用しよう と考えていたのかが述べられている。第一回の訪中活動にっいては,中国各地 を歴訪した代表団が,「新中国の逞しい意欲にあふれた建設ぶりをあらゆる角 度から視察,研究した」,「特にいたるところで青年や一般市民から熱烈な歓迎 を受け,寒河江団長も,招待先の中華全国民主青年連合会や,各地での青年た ちとの交歓を通じて『日中両国青年の不戦の誓い』を強調,中国側もこれに熱 烈な共鳴と支持を表明したので,日中両国青年の友好,親善を深める上に画期 的な成果がもたらされた」(1)と,交流の成果を総括した。日青協の訪中団に

よる新中国の社会主義建設への視察や両国青年の交流は,「冷戦」時代に異な る制度を持った両国の問の友好,親善に貢献する歴史的な意義があったと纏め

ている。

 次に,日青協『地域青年運動五十年史』(2001年。以下,『50年史』と略す)

には,大串隆吉「国際交流の中の青年たち」という一章が設けられ,さらに大 きく対中交流の研究が深められた。

 大串はかって,「青年会について見れば,地域の地縁的青年集団として,社 会教育政策を受容する集団としてではなく,新たな地縁的な集団として,教育 的価値を作り出す集団となる可能性を明らかにする意義がある」,「青年運動の 主体形成の点から,また国の政策による交流の組織化により,研究対象は世界 的に広がる」(2)と,述べている。「日本の青年国際世界に復帰」,「世界平和の ために」という二節の題目が示しているように,大串は,日青協の独立した立 場に基づいた対中交流の方法,交流の態度,くわえて交流の方針を分析してい る。,特に,「教育的価値を作りだす集団となる可能性」にっいて強調している。

大串論文は,特に第一回の訪中活動を重要視し,平和問題に関わる歴史問題と

(3)

沖縄問題との内容を詳しく分析する一方で,「中国側の歓迎は,各地で盛大な もので,団員たちは感激していた」とはいえ,「その訪中報告は冷静であった」

とも指摘している。彼は,小林辰巳の報告書を引用し,「共存の平和,.真実の 友誼,を勝ち取るためにより多くの交流を重ねて,両国の裸の姿を,より多.〈

の人民に知らせる橋渡しをしなくてはならないこと」を見出したのである(3)。

大串はまた,その後の交流の実態を踏まえた上で,新しい国際交流の方向性 一文化交流の重要性一も示している。

一,対中交流の時代背景

 日青協の前身である大日本連合青年団・大日本青年団・大日本青少年団は,

当時の政府の青年政策に取り組まれ,ヒトラー・ユーゲントおよび朝鮮連合青 年団と国際交流を行った(4)。

 戦後,日本が連合国,特にアメリカの占領下に置かれたことにより,日本の 青年団はアメリカの社会教育政策,青年組織の理念,手法を学んできた(5)。

1951年サンフランシスコ条約の締結により,日本は6年間にわたった占領体制 から解放され世界に復帰した。と同時に,アメリカと日米安全保障条約を締結

したことにより,青年団に置けるアメリカの青年理論の影響はさらに広がって いった(6)。日青協は1951年の発足以来,平和社会の実現に大きな期待を抱く 一方,冷戦構造に組み込まれた激しい世界の変化に戸惑っていた。日青協の第 一代目の会長である金星氏は,組織内部の整備を図るため,青年団体指導者の 養成および社会福祉問題に取り組みながら,早くも世界の青年たちとの交流の 条件を模索していた(7)。

 当時,世界の青年の国際組織は,次のように変化していた。1945年11月,世 界63力国の青年代表がロンドンに集まり,「世界中の平和と自由と民主主義と 独立と,そして平等のため」という目標を掲げて世界民主青年連盟(WFDY)

を結成したが,東西両陣営の冷戦の激化により,1949年9月,ブタペストで開

かれた第二回大会で分裂した。脱退したアメリカ,イギリスなどの主要な青少

年団体は,1949年8月に,ブリュセルで37力国の代表を集め,1948年に国連で

採択された「世界人権宣言」に基づく国際的な青少年団体の協力・提携を目的

(4)

とする世界青年会議(WAY)を組織した。

 日青協の結成前の1951年2月,青年団関係者は,第三次アメリカ教育使節団 に参加し,事務局長であった横山祐吉によりユースホステル活動が紹介された。

同年日青協が発足し,直後に静岡県で開かれた第一回定期大会で,日本青年館,

ボーイスカウト日本連盟,ガールスカウト日本連盟,YMCA, YWCA,日本 赤十字青少年課の六団体からなされた中央青少年団体協議会(中青蓮)への参 加を決定した。また,日本青年館嘱託の前田幸春(前CIE教育顧問)を世界 青年会議第二回大会にオブザーバーとして送った。1951年8月,アメリカの コーネル大学で開かれ,62力国の代表が参加した同大会において,日青協は国 際的な青年組織に初めて登場することとなった(8)。

 その他,1954年4月に栗林会長がアジア諸国会議に,1954年8月〜9月に辻 副会長,高橋常任理事,山村理事などが世界青年会議(WAY)に,1954年8 月〜10月に横山青年団研究所長が国際ユース・ホステル連盟総会に参加するな ど,日青協役員,関係者がヨーロッパ諸国を中心に海外へと出かけ,各国の青 少年団体と交流するようになったが,世界青年会議を中心に所謂西側の方との 交流が活発に行われていた。      ・

 1955年,辻会長が就任して日青協の新たな国際交流の方針を表明した。5月 に開かれた日青協第五回定期大会で辻は「対立する世界の平和の架け橋に」と いうタイトルで次のように述べている。「日本青年団こそ,敗戦の経験を生か し,平和と民主主義を元に,アジアの青年たちと力をあわせ,対立する二っの 世界における平和の架け橋となるべきであり,これこそ世界の青年運動の中に

おける日本の青年団の基本的態度ではなかろうかと考えるのであります」(9)。

 日青協は,中青連に加入したことにより世界青年会議の活動に関与しながら も,日青協が掲げた平和理念との距離感からやはりその限界を認識し始めた。

ソ連,中国などが主導していた世界民主青年連盟との交流は,上述した国際交

流の基本方針によりいよいよ始まろうとしていた。

(5)

二,日本側の訪中準備の経過

 1,招待状が届いた・

 1953年,鈴木副会長が,当時の国際農村青年集会準備会への参加をきっかけ に訪中活動を実現した(10)。1954年,西山常任理事一行も,国際農村青年集会 に出席してから中国を歴訪した(11)。1955年,成沢幹事ら第五回世界青年学生 平和友好祭に参加し,終了後,中国各地を歴訪した(12)。日青協はこうした

「裏口」から全青連との「糸口を開いた」(13)。

 1956年2月22日,全青連から日青協あてに,日本の青年を50名招待したいと いう招待状が届いた。招待状は,長くないのでこのままで引用する。

 「中国の青年は日本の青年に対して誠実な友誼を持っているが,数年来多く の日本の青年朋友が中国にこられ,中国の青年に忘れがたい印象を与えました。

同時に中国の青年に中日両国の友誼は実に貴重なものであること,同時にこれ らのことが世界とアジアの平和事業に重大な意義があることを語らせました。

われわれは中日両国青年の交友を重要視しその友好が日を追ってますます発展 することを希望します。親愛なる友よ。われわれは心からうれしく五十名の日 青協運動家,青年芸術家,青年体育家などの代表をわが国に招待いたします。

われわれは日本代表団が四月下旬に北京に到着し,四十日間中国に滞在し,と

もに春を謳歌したいと思います」(14)。

 上述したように,招待状は,まずこれまでの鈴木副会長などの訪中に対して,

「中国の青年に忘れがたい印象を与えました」と評価した上で,「同時に中国の 青年に中日両国青年の友誼は実に貴重なものであること,同時にこれらのこと が世界とアジアの平和事業に重大な意義があることを悟らせました。われわれ は中日両国青年の交友を重要視し,その友好が日を追ってますます発展するこ とを希望します」と,訪中招待の目的を述べている。次に,その対象を日青協 に限らず,日青協を通してより多くの日本の青年を招待したいという趣旨が掲 げられている。後に述べたように,これらの項目は,当時の中国政府の対日方 針と関係がある。

 さて,日青協は早速常任理事会,および2月24日,25日の第五回理事会で,

この招待状に対する議論を行った結果,「この招待に応じることにし,代表は

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各加盟団一名,締め切りは三月末日ということで,早速この代表団編成に取り 掛かる」(15)ということになった。

 2,招待状をめぐった議論

 1955年度日青協の定期大会において,辻会長は,前述したように対立してい た二っの青年組織への「架け橋論」を提唱し始あ,「これこそ世界の青年運動 における日本の青年団の基本的態度であると考える」と表明した。大会で選択 された方針では,「異なった目的,原理,手段の上に立っております」中国新 民主主義青年団などと連携することが定められ,この方針が「今後アジアの青 年運動を左右するものの一っ」とされた(16)。それは,アジアの青年も含あて 世界各国の青年たちの立場や思想,条件を尊重しながら,共通の問題にっいて 話し合いと協力の体制を作り出そうとしているものに他ならなかった。

 この方針は,次のような世界情勢の把握によっている。1954年に米国がビキ ニで水爆実験を行い,NATO(北大西洋条約機構)の機能を拡大,強化させ,

1955年にはソ連と旧東欧諸国の間に,旧東欧諸国友好相互援助条約が結ばれた。

一方で,1954年中国とインドが領土主権の相互尊重・相互不侵略・相互内政不 干渉・平等互恵・平和共存の平和五原則を提唱し,翌1955年にインドネシアの バンドンで「アジア・アフリカ会議」を開き,世界平和と協力の促進を中心と

した「バンドン精神」を呼びかけていた。

 こうした基本的な方針と態度を進め,日青協は1月に,日印勤労青年交渉計 画の準備打ち合わせ,アジア青年会議の準備のため,福本事務局長,日高常任 理事,河村山口県団長の三名が訪印し,その目標の実現に努めた。

 日青協は,このようにアジア青年との友好関係を深あようとしたが,前述し た招待状をきっかけに,平和運動を更に広げようとした。

 この第五回理事会で,以下の点にっいて確認した。1)「心良く招請に応じ

中国青年とともに話し合いを通して友好を深めてくると同時に中国青年を是非

近い将来に日青協として招請しようということが決定され,これが日青協を通

じて全国的な青年の問題に」になるようにすることと,確認した。2)各県団

に十万円のカンパを集めることを要請した。各県団には,この問題が組織的に

下され,訪中と合わせて中国青年招請の運動として取り組むよう指示がなされ

(7)

た。3)四月下旬渡航,滞在四十日,各県団の代表決定三月末日,などを決定。

そのときの日青協は条件として,訪中は日中友好運動の一環であり,ただ物見 遊山でいくのではなく,両国の青年たちは友好運動への参加者として位置づけ

られなければならないと定めた(17)。

 因みに,カンパ活動にあたって日青協側は,当時辻会長,福本事務局長を中 心にした体制を作り,事務局は日本青年館に設けられ,訪中及び中国の青年の 訪日に努めた。

 3,その後の動き

 1956年5月メーディーの前に,総評や,大阪,千葉,三重県などの府県会議i 員,旧軍人などに対する中国への招待が激増しっっあったので,政府はこれに 対して警戒し始めるとともに,これを制限しようという動きが激しくなり,4 月2日の次官会議,20日の閣議で中国渡航制限をする方針(18)を決あた。その 骨子は,1)国家及び地方公務員,2)政治的目的に利用される恐れのあるも

のは,渡航を許可しないという態度であった。っまり,旅券法第十三条五項

「著しく,かっ,直接に日本国の利益または公安を害する行為を行う恐れがあ るもの」の拡大解釈となっている。

 こうした動きの中,カンパ運動も腰折れになり,運動の意義が見失われよう とした。日青協は組織的に全力で働きかけをしながらも,「県によっては渡航 の自由をめぐって,基本的な人権を要求する運動になってきた」という(19)。

執行部は,中国訪問の査証を得るために,反対運動が起こった場合,その責任 は政府並びに与党にあるという態度で正式回答を迫った。このことにっいては,

当時自民党幹事長であった岸信介氏,松村謙三氏などに働きかけた結果,6月 23日,岸氏と面談ができた。日青協は,青年たちを中国だけでなく,ヨーロッ パ,米国,東南アジアの各国に派遣するという政府の方針に同意するが,選挙 以降,早急に結論を出すよう申し入れた(20)。

 『20年史』が述べた通り,7月4日,自民党中曽根副幹事長を通して政府は

その結果を日青協に通知した。「中共訪問にっいて,(自民)党としては積極的

に中共訪問を進めるという段階にはまだ達していない」が,「25名内外の中国

渡航可能」という見通しがはっきりした。日青協は,昭和31年度運動方針一

(8)

「国内におけるわれわれの運動を伸ばすために,アジア,アフリカの青年との 交流をはかり,この努力を基にして,世界のすべての青年の友好関係を深め,

対立する二っの世界への平和の架け橋となることは,われわれの基本的態度で ある」一に合致することでもあるとして,この案を受託する方針を決めた。

これらの事務に当たって,日青協は訪中問題の「特別対策委員会」を設けた。

 その後特別委員会は,強力な交渉を続けたが,その間,この問題は自民党や 政府との間における意思の疎通が重要であることが分かり,政府に対し,関係 者を通じて強く交渉を始めた結果,っいに9月10日中曽根自民党副幹事長より,

「渡航目的を中国で開かれる商品展覧会の見学として,二十二名に渡航許可証 を出す。ただし,二十二名は日青協代表としてでなく,個人として出す」こと が確答された。特別委員会は,「面子上」の問題として,また「書類上」の問 題であることを理由に変更を認め,「ただし,われわれの目的,訪中に対する 基本的態度は変わらないこと」も確認した。

 結局は22人に削減されたが,第一回訪中団は,次のメンバーであった。団長 寒河江善秋(山形),副団長今井正敏(栃木),中川周英(富山),事務局長谷 正水(高知)で,事務補佐早田和男(岐阜),第一班佐藤忠照(大分),小林辰 巳(山梨),池崎政義(石川),西村幸雄(京都),野沢正一(新潟),第二班平 沢進(群馬),池田稔(岡山),小森竜邦(広島),佐野百久(静岡),宮田吉金

(愛媛),代々木栄久(茨城),第三班米屋芳夫(富山),池田良八(山形),木 村一(青森),田川正義(熊本),新垣典子(沖縄),望月かの子(静岡)とい

う構成で1956年9月21日,中国へ出発した。第一回訪中団団員たちは,各県団 からの推薦により選ばれ,中国側が要求した日本各界の青年代表ではなかった が,結局,日青協に限られても優秀な青年運動活動家であった。

 最初は50名の招待とされていたものの,様々な問題に遭遇し結局22名の訪中 団員しか出発できなかったが,幾っかの県団では,その影響力を一層強く広げ ていた。富山県の場合,派遣の約30万円の費用は,県下275単位団を総動員し てカンパしたものであった。「(米屋芳夫前会長,中川周英会長)両代表は,九 月十六日午後五時二十四分富山駅発東京に向かった際,駅頭には,県青協役員,

県議会,県教育委員会,日中友好協会富山市部員ら約150人が集まって,午後

(9)

五時から壮行式を行い,宮本弥生県代表派遣後援会会長から激励の言葉があっ

た」(21)。

 高知県では,1956年4月7日,「中国青年の深い友情に応えよう」の趣旨に,

県教育委員会社会教育課内「中国に青年代表を送る会」事務局が設けられた。

運動への積極的な協力として「市内各校校長約す」というキャンペーンを11日 からもスタートした。溝渕知事,氏原市長が顧問,高知大学文理学部教授荒木 教授が常任委員会会長となった。「続々出された要求 谷氏を囲む座談会から」

という文章の中に次のように述べてられいる。「県民の青年代表として谷氏を 中国に送るにあたり,県下の青年を中心とするあらゆる人々の「こういうこと を見てきてほしい,こういうことを聞いてきてほしい」などの要望を結集する ために,各地で谷氏を囲む座談会が持たれた」,「これなどのところでは,いず れも多忙な中を夜間に集会を持ち,青年代表の中国訪問に対して,多くの要望 が出された」,「青年の要望としては,中国における青年男女の人間関係,生活

の明るさ暗さ,革命における青年の役割,古い迷信因習の打破をどのような方 法で成功させたか,また中国の軍備に対する中国青年の考え方はどうなのか等 等」,「また,どこの座談会からも出された問題は,日本の失業の状況を中国に知

らしてきてほしい」など,大学を卒業して職に就けないでいる青年,農村におけ る次,三男の青年,更に次,三男をもっ父親や母親からも意見が出された。ある 父親は,おやじの立場からの意見として,農村における次,三男問題を心配し,

「今ブラジル移民がやられているが,日中の国交回復がなされたあかっきには,

中国への移民ができるかどうか」,「そういうことを聞いてきてほしい」など,

「青年と父親母親の一っになった要望」でさえも出された。谷は,「これなど一 っ一っの要望に応えるべく,中国での四十日を,すべての人々の願いに背かぬ 様,有意義に過ごさねばと,更に決意を固め,帰国後には,進退の続く限り山 間避(ママ)地を問わず報告会を待たぬばと,準備かでもそのため予算を組ん でともに張り切っている」(22)と,その出発前の様子を描いている。

 沖縄県の場合,その訪中に当たっての影響は別の形で現れた。何故なら,沖

縄は当時,まだアメリカ政府に置かれた状態で,琉球政府という名目で日本の

領土に属していなかった。沖縄団の訪中にっいて,「昭和31年3月16日に開か

(10)

れた常任理事会で,結論として沖縄は特殊な事情下にあり,日青協事務局に勤 務する前沖青連副会長の新垣典子を派遣することに至った。だが,その後上京 中の瑞慶覧会長の反対意見があったため,再びに緊急理事会と理事会を開き検 討するとともに,各団体の意見を聞いた。同意という結果が出た。今回,会長 の反対意見がまたあったため,第三回の理事会を開き,強硬な意見もあり,あ

くまでも派遣する方針で,ようやく「中共」派遣の実現をさせた」(23)。

 4,招待状と中国当時の「対日政策」

 1950年代の朝鮮戦争(24)をきっかけに,経済,文化,政治,軍事などさまざ まな面で中国は当初,ソ連,東欧など社会主義諸国との関係でこれに対抗して いた(25)。「積極的」な対西側交流は,1950年代初頭の日本の青年団体との交流

から始まった(26)。

 まず,中国政府の対日政策の内容から見てみよう。1949年の中華人民共和国 の成立,1950年の朝鮮戦争に伴い,アメリカの在アジア軍事基地の拡張は急速 に進められていた。1950年12月4日,周恩来総理は,「琉球諸島及び小笠原諸 島の米信託統治は領土不拡大を決めたカイロー,ポッタム両宣言に違反」と述 べ,米の対日講和構i想に疑義を表明した。更に1951年8月15日,対日講和条約 草案にっいて,「沖縄,小笠原の日本分離はいかなる国際協定にも規定されて いない」と非難した(27)。サンフランシスコ条約に対して中国の基本的な態度 は,ソ連など東側社会主義諸国と同調していた(28)。

 次に,そのプロセスについて見てみよう。1952年,中国共産党中央が!「民間 外交により対日活動を行う」方針を決定,それにより周恩来総理の指導の下で 1蓼承志を中心とする対日活動事務室が設置された(29)。1955年3月1日には政 治局で,「中共中央の対日政策並びに対日活動方針及び計画について」という 文書を採択した(3°)。この文書が,中国共産党が対日政策にっいて全面的に分 析した最初の文書であると言われている。その内容は,対日政策の基本原則と,

それから当面どういう対日活動をしていくのかということからなっていた。基 本原則は,米軍が日本から撤退することを主張し,米軍の軍事基地設置,日本

の再軍備,軍国主義の復活に反対するという内容だったようである(31)。

 中国は,「民間」から「政府」へという基本的な考えだった(32)。っまり,平

(11)

和運動を通して,日本の民衆の力で特にアメリカに反対運動を起こそうとして いた。1955年,周恩来総理の日教組への談話(33)の中で,鮮明にこうした方針 が小林武団長に伝わっていたが,日米安保条約の問題,中国の台湾問題などに 集中し,沖縄問題はまだ机上に載せられなかった。正式にこれを問題視したの

は,日青協との交流からである。

 日青協は,こうした動きの中で,中国の招待状を受け取ったのである。

三,第一回訪中の諸相  1,訪問先

 中国側は,全青連(34)の主導で日青協訪中団を招待した。この時期の全青連 は,すでに1953年6月15日の規約改正で,任務を「世界の民主的青年と協力す ること」から,国際主義精神を唱える「統一戦線」にかえていたのである。即 ち,「各国青年との友好と協力を発展させるとともに,反殖民主義闘争し世界 平和を維持する」ことを目的とした。全青連の中で,中心的な役割を果たして いたのが,中華民主主義青年団(35)(のち,中国共産主義青年団)である。後 に中国共産党総書記になった胡耀邦は,そのときの書記であった。当時の全青 連は,中国共産党・政府の指導を受けて対日交流に非常に力を入れていたが,

対外交流の機関は,後に中国の外務大臣になった呉学謙が率いた国際連絡部

(36)であった。また,後に駐日大使の楊振亜が訪中団の事務職を担当していた。

 訪中団は9月20日に羽田空港を出発し,那覇空港を経て香港に到着,そこで 中国旅行社の出迎えにより広州に入った。22日,広州から旅だち,23日武漢に,

24日北京に着いた。24日〜10月3日の間に,北海公園,故宮,北京大学などの 見学以外に,農業合作社への調査,中国の青年,労働運動にっいての座談会も 開か劃た。9月30日夕方,北京飯店において周恩来総理により招待された夕食 会に参加した。1日,天安門国慶節で国賓として招待され,2日,北京市長招 待の園遊会に参加した。

 3日,北京から藩陽に行き,4日,労働者の住宅地などを見学した。5日,

ハルビンに到着,遊覧活動,工場見学,青年団関係者らとの交歓会などが行わ

れた。7日,長春にて,大学,自動車工場,映画制作所などを訪問した。9日,

(12)

藩陽に戻り,工業展覧会,工場視察,農業合作社,炭鉱見学を行い,12日午後,

撫順戦犯収容所も訪問し,13日〜15日,大連に滞在した。

 16日,再び北京に入った。今回は,農村合作社,国営農場などへの訪問視察 以外に,婦女運動,中国の青年運動などにっいて座談会を開いた。18日に,日 青協にっいての報告会が訪中団の主催で開かれた。

 22日〜23日,西安を見学。24日,25日,二班に分けて農業合作社視察を中心 に行った。26日重慶に到着,30日までに農業生産合作社,人民文化宮,青少年 文化宮,博物館,大学見学を行なった。31日〜11月5日,雲南省で少数民族問 題を中心に見学・調査を行った。6日〜9日,四川省成都市に到着,産業展覧 会,都江堰水利工事,公私合併商店訪問以外に,古跡見学もした。

 9日〜12日,三回目に北京に入り,中国の五ヵ年計画と財政の問題など座談 会を開いた。11日,平和賓館で周恩来総理が開いたレセプションに同席した。

 14日〜18日,上海に到着した。そこで農村,工場,社会教育施設などへの見 学の以外に,民族資本企業の公私合併について学んだ。16日の夜,谷事務局長,

新垣,小森,望月が沖縄,広島の状況報告会を上海市政治協商会講堂にて開い

た。

 その後,18日〜22日は杭州で,24日〜25日は広州で,26日は香港で様々な行 事に参加し,28日,那覇空港を経て羽田空港に帰着した。29日午後2時,日青 協第四回理事会にて帰国報告会が開催された。

 日青協訪中団は,上述したように70日間,中国の14都市を回った。日青協会 旗を中華全国民主青年連合会を初め15友好団体に送り,その礼として同じ数の 友誼旗,芸術品,種などを受け取った。訪問先と行事は,日青協のその後の統 計で計八種類98個(回)に及んでいた。つまり学校10ヶ所,農業関係10ヶ所,

機関7ヶ所,古跡・公園,工事現場21ヶ所,陳列・博物館12ヶ所,工場・文 化施設・病院など20ヶ所,青年団以外の招待会6ヶ所に,座談会,研究会も 計12回開催された。

 2,訪中の成果

 訪中団が,今回の訪中活動から何を残したかにっいて見てみよう。例えば

『中国青年報』に報じられた内容と,日青協の訪中を現場記録として手紙の形

(13)

でまとめた『中国便り』(以下,『便り』と略す)と,その後,日青協がまとあ た『中国訪問代表団報告書』(以下,報告書)にそれぞれの分析が行われてい

る。

 第一に,『中国青年報』の場合である。

 まず,『中国青年報』1956年9月28日の報道から見てみよう。9月27日夜の 北京での歓迎パーティにおける寒河江団長の発言である。寒河江は,日本の青 年団員430万人を代表して「心からお詫びを申し上げたい」,「心からあなた方

に謝罪する必要があると思います」と始めた。次に,この訪中を通じて中国と

「強い,持続する友人関係を作ること」を目標に掲げた。その理由は,「無意味 な戦争中に,われわれは多くの犠牲を払ってほかの民族に大きな被害を与え,

他方でわれわれ日本の青年が地球史上初の原子爆弾の被害を受けたからです。

それゆえ,われわれは心から平和を希求しています」とまとめた。中国に対し て,寒河江は,「青年だけではなく,全中国の人民がわれわれと同じように,

平和を追求しているのが分かりました」と率直な感想を述べ,「恨みではなく,

逆に信頼や友好を示して下さいました」,「この崇高な精神や平和を願う積極的 な努力に,われわれは深く感動しました」,「われわれは日中両国の友好が続く

ことを信じることができるようになりました」と,感銘を受けたことを示した。

 それ故に,「今後,いかなることが起きても,われわれは絶対に再び武器を 取って戦争を行うことを許しません。私は,このスピーチで中国の青年と日本

の青年との永遠の不戦の誓いをしたい」と,決意を表した。

 最後に,「わが国はいまだ,完全に独立したとはいえません。祖国の独立と 繁栄の実現のために努力することが,われわれ青年の光栄な任務なのです」と 日青協が直面した課題を提起し,「アジア諸国の友情や支持がなければ,特に 中国の友人の熱烈な支持がなければ,わが国の完全な独立や発展はありませ ん」と強く訴えた上で,「アジア諸国人民の共通の願い一独立と平和を実現 するために,われわれはあなた方とともに戦いを進めていくことを希望しま す」と提唱したのである。

 この挨拶から,戦争責任にっいて寒河江が第一回訪中団を代表して言及し,

日中戦争時の日本が中国に与えた被害にっいて謝罪している。また,これを踏

(14)

まえたうえで,悲惨な戦争を経験した青年たちの願い一沖縄復帰にかかわる,

独立した平和な日本への憧れ,中国人民からの無私な支持一を呼びかけてい た。実は,その後の訪中先のあらゆるところで,日本がかって植民地支配,侵 略戦争により中国側に与えた被害については言及され,今日の日本の独立・平 和の重要さが強調されていた。

 その後,『中国青年報』1956年10月9日の第三ページ,「中国に対する印象」

という寄稿で寒河江団長は,「中国政府と人民が何を考えられているのか,何 をなさっているのかのをはっきりとわかってきました」,「時間の推移したがっ て,われわれは遂に中国人民のわれわれに対する友好が心からの本当の願いな のだと十分に承知してきた」と,感想を述べた上,「ある学生は私に『われわ れは,過去の不愉快なことを忘れ,もっと未来にっいて話しましょう』と言っ てくれましたが,私は,この言葉に深く感動しました。平和は,このように立 てなければならないと思います。われわれと中国青年との間に立てられたこの 厚い信頼や友情を全日本人民と全中国人民に,更に,全世界の人民に伝えられ るよう,われわれは,一層親密に手をつながり,ともに努めていくべきだと 思っております」と結んだ。

 この寄稿で,寒河江は更に歴史認識について,中国側が提示した「中日両国 の友好が悠久的な歴史を持って,不幸的な時代がただ短い時期であった」未来 志向の,両国の関係を強化しようとする見方を示した。 ・

 沖縄問題にっいて,新垣典子さんの寄稿で,日本側が一っの問題提起を示し ている。この寄稿は,『中国青年報』1956年10月9日付けに載せられている。

 新垣はまず,「沖縄県が戦争の中で16万5千入(沖縄人口の三分の一を占め る)の尊い命を失った。戦後十一年も過ぎたが,八十万あまりの沖縄人民の生 活がまだ苦しんでいて,将来の生活がまだ保障できません」と,「沖縄の立法,

司法,行政がすべて米軍の下に置かれ,人民の自由や権利が躁躍され,財産権 や言論の自由が保障できず,更に生存権も保障できていません」と紹介し,

「われわれの呼びかけは沖縄を日本に返せ,ということです。この要求は,ア

メリカの統制から解放せよ,という怒りです」とまとめた。次に,「沖縄にあ

る米軍用基地が陸地総面積の12.7%を占め,その60%が繋がり,また島の中

(15)

間部に集中しています」といい・しかしながら・土地使用に関する費用につい て,「八十万の県民に死亡通知書を出したと考えます」というほど酷いことだ と,述べている。また,「(1956年)4月に沖縄県で一人の婦人が米軍に射殺さ れた事件がありました。それは,『立ち入り禁止』の禁区に発生したが,あの 婦人はただ廃棄された鉄を拾おうとしただけでした」。もう一っ,「ある米軍は

由美子という六歳の幼い子を強姦致死の上,遺体を廃棄しました」という事件 を紹介し,「いっか,どこか同じ悲しいことが再び起きるのか,誰でもわから ない。誰でもわれわれに再び第二次,第三次の由美子事件の再発生がないこと を保障してくれない」と訴えた。最後に,「われわれは,六億の中国の人民,

特に青年学生と婦人と手を組んで,更に十億,二十億の全世界の人民と固く団 結して,平和のために戦っていこうと期待しています」と結んだのである。

 中国側の態度は次の通りである。『中国青年報』1956年9月28日に載せられ ている全青連副主席劉西元のスピーチでは,「中国の青年たちは,日本の青年 たちが,原水爆反対や沖縄のことで立ち上がっていることをよく知っている」

と,独立・平和の日本の建設への活動にっいてすでに分かっていたことから,

全面的にこれを支持し,「日本と中国が仲良くしてこそ初めて,世界の平和も 招来されるものと思います」と,支持を表明した。このほかに,10月9日第三 版では,北京大学学生の趙震江などによる「われわれと日本青年との友誼が 益々強化して」,中国の一大学生魏金声による「われわれは平和を愛し,戦争

を憎む」というそれぞれの文章のなかで,原爆禁止,沖縄返還運動を戦ってい る日本の青年たちを励ました。また,例えば9月29日付けの中華全国総組合へ の訪問の記事や,10月1日付けの全国婦人連合会への訪問の記事や,中国の各 地で開かれた様々な集会の中で,中国側が原水爆禁止や沖縄復帰運動に支持を 表明していた。

 最後に,日本側の反応にっいて次のような記事が記載されている。11月27日,

寒河江団長鉢広州で,中国から離れる際に日青協訪中団を代表して次のメッ

セージを『中国青年報』で発表した。「この訪問を通じて,われわれは中国の

社会主義建設から色々学ぶことができました。また心からアジアと世界の平和

を追求する中国人民や青年と接触することによって,日本青年と中国青年との

(16)

理想が完全に一致することを確認しました。われわれは,アジアの平和がなけ れば,世界の平和もなく,日中両国の友好がなければ,アジアの平和が実現で きないと認識した。日中両国の友好の土台は両国人民の正確な理解と深い友誼 の上で立てなければならない。この見地から言えば,われわれは,われわれの 訪問が日中両国の友好関係の発展に大きな役割を果たしたと考えています」,

それ故に,「われわれは,1957年2月に中国青年代表団の東京への訪問を誘い たいと思います」。28日,日青協第四回理事会は,全青連に「貴団体及び中国 人民が日青協代表団への熱烈な歓迎と日中友好を促進する努力に感謝申し上げ

ます」という感謝電を送った。

 第二に,『便り』に見たままの中国についてである。

 第一回の訪中団は,中国各地を歴訪し,農村,合作社,工場,教育施設,公 私合営企業,水利土木事業,一般家庭,そのほかの国家施設などを訪れ,あら ゆる角度から新中国のあり方を視察,研究した。この見地から,訪中活動を一 っの学習活動と看傲すべきであろう。r便り』は,こうした学習の視点から訪 中活動を現地報告の形で紹介した。まず,歴史認識についてみてみよう。

 寒河江は,「私たちは,十年前に犯した過ちにっいて,本当に日本人の一人 として中国の人たちにお詫びしたい気持ちでやってきました」といっている。

訪中の感想にっいて,「新しい日中の未来をはじめようとしているこの美しい 気持ちにふれて代表団一同は,深い感動を覚えている」,「私たちの今一番求め ていることは平和である。中国の人民の求めているものもこの平和である」と,

述べている。「所以に,私は提案したい。日中両国は永遠に渡って戦わないと いうことを日中両国の不戦を」と結んだ(『便り1 第四信 平和を求める心 は一っ,23頁〜24頁)。この趣旨は,『中国青年報』が記述した内容と一致して

いる。

 次に,「なるほど変わった」中国社会主義建設の優越性を賛美している。

 『便り」では,多少差があるが,中国を正面から紹介している。例えば,長

春のある自動車工場を見学したとき,その内容を「第八信」としてまとめてい

る(『便り2 第八信 日本を追い抜く重工業の躍進,18頁〜23頁)。「この人

民中国の考え方と,実践力の旺盛さには,まったく感嘆するものがあります。

(17)

資本主義国家では,夢にも見られないようなことが,現にここでは,着々と実 現されっっあるのです」ということで,「まったくうらやましい限りです」,

「日本ではまるで人間性の磨減のように成立している,ように考えられています が,この中国一少なくともこの自動車工場では,これが最高の理想化として 実現されているのです」。その原因を,「社会主義国家における個人の優越性と

いうもののあり方を事実を持って示されたようなおもいでした」と求めた。更 に,日本に対して,「これだけの製品を生産する中国,誰がなんと言うと世界 の一等国でしょう。この国を,国家として認めていない国があるなんて嘘のよ うです。日本もそのバカな国の一っと思うと,全くなさけなくなってきます」,

「十五年日々の流れを知らない,日本の一部のものの非常識さが,笑われるで しょう」と,強く非難した。

 ここから,前述した寒河江団長,新垣が述べたものと同じ立場から中国を見 ていることがわかる。だが,この訪中活動から,できるだけ学習活動を通じて,

個人が関心をもったことをしっかりと身に着けていくという意図が強かった。

そこから,また新たな問題が出てくる。『便り4 第十四信』の中で(9頁),

中国側の準備手法,っまり数字で新旧社会を比較することに感嘆し,自ら見た ままの「中国」に不信感を示した。訪中団が10月27日にある農村合作社を見学 したときの話である。責任者の郷長さんは,なんと「村の規模,戸数,人口,

労働力,耕地,田畑,水田,農作物(水稲,小麦,野菜など),副業(豚,乳 牛など),養魚,植林や街路樹の育苗など」から,すべてものの各年度の変化 を数字で説明している。しかし,「この数字の説明は,工場に行っても,合作 社に行っても必ず聞かされます。しかも,驚くことには,それをほとんどメモ なしに,すらすらと説明して行くのです。数字的に,よくこれまで訓練された ものだと思います。社会主義建設も,五ヵ年計画の完成も,すべて数字とパー セントから出発している」と,中国側が提示したデータに「サッカク(ママ)

を起きます」とさえ感じたのである。また,雲南省の昆明の郊外にある,世界 に二箇所しかないという有名な石林を見に行ったとき,一行の中から,「『これ

も解放後にできたものか』か質問して,説明者を苦笑させた」こともあった。

 第三に,『報告書』が掲げた学習の成果にっいてである。

(18)

 『報告書』には,訪中団員たちのそれぞれの学習の成果が記述されている。

あわせて八っの文章が載せられている。寒河江「見たままの新中国」,小林

「平和への願い」,平沢「五ヵ年計画について」,中川「中国農業」,代々木「社 会主義商工業の社会主義改造」,西村・米屋「中国の労働者」,小森「少数民族

にっいて」,谷「中国青年運動一組織と活動状況にっいて」である。なお,こ の報告書は,当時の訪中団団員たちの関心を示したもので,共同学習した上で 指定された代表が執筆し,第二回訪中団の報告書と一緒になっている(37)。

 寒河江団長が書いた第一番目の文章では,かって中国で強調していた歴史認 識の問題などと違って,中国で見た民衆の身近な問題を提起している。まず,

「中国人の表情は明るくて逞しい意欲的な,昔の所謂支那人と別の民族のよう に変わった」と述べ,これまで他の訪中者らが言った「トゲトゲしく,暗く て」などのことを一掃した。彼はまた,女性の口紅にっいて,「下け髪に人民 服という男みたいな性格で,男みたいの活躍をしている,張り切った新中国の 婦人たちに,正直な話,同情するより羨ましく感じた」と,「旧満州に数年間 住んでいた昔の中国」への印象と比べて,「中国は変わったのである」と強調 している(1頁〜2頁)。次に,彼は,これを説明するために,「正札の商品」,

「消えた乞食」など,中国で見た中国の民衆の日常生活を紹介した(3頁〜4 頁)。更に,彼は,「生産競走(ママ)」と言う一節で,中国の社会主義建設に っいて,「人々は自分の土地を所有し,今はそれを共同管理において生産に励 んでいる」,各職場での生産競走(ママ),それから批判,自己批判,学習,と いう農村における「青年生産隊」,「演劇・音楽・体育」のことも評価した(5 頁〜7頁)。最後に,特に中国社会主義体制下の中国の民衆にっいて,「日本で

は,洗脳されなどといっているが,中国における人間改造」とは,「新しい革 命の方法であるように思う」,「国民の約80%が文盲だといわれた中国」では,

「技術教育や文化学習をどんどん進めている」,「民衆は進んでこの学習に参加 する」と,紹介した(7頁〜8頁)。

 小林辰巳が書いた「平和への願い」の平和観では,「私たちは,拍手の鳴り

止まない会場で,本当に親愛と善意の感情によって暖かく迎えてくれた中国青

年に,心から感謝の言葉を何度も送りながらも,過去において日本が犯した過

(19)

ちは,私たちの心の隅に謝罪しようと残っていた」(11頁〜12頁)と,これは 寒河江団長と同調している。しかしながら,「中国の青年は,富士山を聞かず に,沖縄は,原爆広島はと聞く」ことが不思議だったという。「あらゆる集会 で私たちは実態を話した。ことに上海においては,中国青年からの申し出で一 夜この問題にっいて座談会をもった」,「中国青年は自分の祖国を愛するととも

に,例えそれが世界のどこであっても,力による干渉の民族を虐げるものへの 反抗は,時と場所をかまわず爆発している」と述べたうえ,「思想教育の成果

として,こうした理解をしているが,この言葉に甘えてはならない」(12頁〜

13頁)という結論を出した。

 小林は,二っのことに注目した。一っは,彼が雲南省昆明で開かれた歓迎会 で,李湖南というかって日本の侵略戦争によって家族が酷い目に遭わされた女 性と出会ったとき,彼女の日本軍国主義者への控訴や,真の日中平和への希望 に感動し,「私たちは,教育の中では,どうしても消すことのできない心の溝 も,善意と友誼の交流の中では消すことができることを確信しあった」し,

「この問題は李さん一人でなく,六億の中国人民の中には,またまた数多くの 人がこうした心の来る意味を持っていることを知らなくてはならない」し,

「私たち日本国民の本当の姿を知ってもらうために,交流を重ねなくてはなら ない」(17頁)と,日中両国の民間交流の重要性を認識したのである。

 もう一っ,中国の青年にっいて,彼が一番感慨を抱いたのは,「日本を学習 している」(18頁)ことだった。「このとき一緒に出した農業技術に対する意見 では,忙しい農業部長は,細かいことを聞きたいからと代表団の中で農業に従 事している人を招いて一日座談会をもち意見を聞き,それを下部へ流すようと している。中国青年は,幹部も団員もいったいとなって素直な態度で,°日本の 国の状態を正しく知ろうと学習する意欲に燃えている姿を,私たちは目のあた

りに見てきた」(19頁)と,中国青年のもう一っの様子,学習しようとしたこ とに注目したのである。

 小林は日本の外交について,「独立国でありながら何かに束縛されているこ とを強く感じる,拘った外交政策から脱し,広い視野において行う外交のみが,

日本の前進を意味することを感じた」(18頁)とまとめた。

(20)

 平沢進「五年計画にっいて」では,1953年〜1958年の計画で新たに出発した 中国の建設の背景,その設定の事情及び実施以降の状況を紹介している。彼は,

最後にこの五ヵ年計画の問題点を提起しながらも,中国の憲法第十条の資本主 義的工商業を改造する条目を引用し,「次第に,資本家の所有制を,全人民の 所有制に変えて行く」(25頁)と,楽観的な見方を見せている。

 中川周英「中国の農業」では,「私たちは前後十二ヶの農村を訪問し視察し た」(27頁)まとめとなっている。彼は,主に中国側からもらった資料に基づ いて中国の解放前の実態を紹介し,新中国で如何にその封建性をなくしたかに っいて論じた。その後,新しい農村生産合作社にっいて,主にその成立後の農 民たちの生活状況,収入の増加,文化教育水準,生活水準の大幅な改善,社会 保障など様々な分野から,その成功を賛美している。中川も「中華人民共和国 土地法」(1950年6月)のことを非常に重視し,上述したすべての成果が,法 律から保障されていることを強調している(29頁)。彼は,中国の農村の発展

のために,今後の課題を提示しながらも,更なる期待を示している。

 佐々木栄久「資本主義商工業の社会主義改造」では,中国が社会主義に入っ て以来,昔の資本家のことや,現在中国でかれらが暮らしている様子を比較し て紹介している。上海で,栄さんという資本家へのインタビューで,「この資 本家の話を興味深くきいた」結果として,中国では既に,社会主義商工業の社 会主義改造の条件は「備わっていた」とした。彼も中国の憲法第十条を引用し,

この社会主義改造の政策,方針を称えた(46頁)。彼は,こうした公私合営化 の可能性に大いに期待したのである。

 西村幸雄・米屋芳夫「中国の労働者」では,所謂新中国の社会主義建設に参 加していた労働者たちの実態を紹介している。すべての事例は,この二人がか って暮らしていた中国の東北地方の工場の労働者の生活を取り上げている。っ まり,中国で展開されている労働競争の素晴らしさと,労働者たちの経済的な 生活の安定さと,婦人労働者たちの幸せのことであった。

 小森竜邦の少数民族問題研究では,中国の雲南省にある少数民族の過去,そ

の抑圧された状況をまず紹介し,解放された彼らの,平等で豊かな生活を描い

ている。彼は,これまで広島で悲惨な状況に置かれた部落の状況と比べながら,

(21)

立ち上がった中国の少数民族の裏側として,中国が取った新政策が素晴らしい といい,それを支えたものは,新しい憲法の中に見られると中国を称えた(61 頁)。補足資料として,彼は中国の珠江水上生活者の姿も紹介した。

 谷正水は青年運動を取り上げている。彼は,全青連の歴史的発展,現状を理 論的に考察した上で,その規約に載せられた「国際主義精神の教育活動」を特 に詳しく分析した。全青連の中核組織である中国共産主義青年団のことにっい ても,彼は,その目的,組織の任務,性格などを解明するために,中国語の原 文も引用しており,日青協の訪中活動に大いに役に立った(日本語版の両組織

の規約は,87頁〜98頁)。

 勿論,こうした肯定的評価だけではなか6た。小林辰巳は,公式の場で両方 ともがいった「熱烈な歓迎」にって,「思想教育」の結果と看倣し,「組織的 な」歓迎会であると断言した(12頁)。また,新垣典子もその後の回想で,中 国の普通の民衆の一人と出会ったとき,これまでの「熱烈な歓迎」と違った認 識感情を持った(38)。

 3,その後の影響

 他方で,中川周英は中国を親しく感じた。中川は次のように述べている。彼 は,9月26日夜のレセプションに参加し,「中国の青年たちの素直さと寛容さ,

更に平和を求めている姿と活動に胸を強く打たれました。中国の青年たちは,

もう日本の青少年たちと肩を並べるどころか数歩先んじ,世界の青少年として 堂々と歩みを続けていることをレセプションでの会話の中で受け取ることがで

きました」,「とにかく,中国人民はあげて世界平和と友好,ことに隣国日本と の友好を心から望んでいることを実感として受け取ることができたのです」(39)。

 「中共の平和攻勢」,「反米運動」の軌道に乗せられる恐れがあると言われて も,実際の交流から,人間の感情的部分はイデオロギーを超えて定着していく。

同じ平和への理念だったが,どういう道を歩んでいくのかということが問題だ。

中川周英は,「中国人民の言う平和は,私たち日本人が口にするような観念的

なものとは違い毎日の生活の汗のなかから求め,生み出している平和だという

ことを胸が痛くなるほど私には感じられるのです」といっている。その後,日

中友好協会を作って平和運動を推し進めた。

(22)

 谷正水は帰国後,青年団運動に暫くの間身を投じたが,1960年から22年間,

日本労働組合総評議会にて,日本の労働運動に取り組んだ。その後旧厚生省外 郭団体全社連で1982年〜1992年の約10年間,そして日中技能者交流センターで 10年間勤めていた。

 この「日中技能者交流センター」の仕事を通して,谷はまた「中国近代化の 歩みを見てきました」と述べている。中国の現在の課題にっいて,「経済の面 では,外資導入による合弁,合作会社を中心とした国際化が進み,WTO加盟 を巡っても国際社会への順応,国際ルールや慣行の遵守,それに伴う国内の法 整備,行動様式の確立が求められました。とりわけ知的所有権の問題などをめ ぐって,これらの難問が解決しっっあるのか。十分に見極める必要があります。

経済の成長と拡大の陰に,経済格差,地域格差が大きな問題です。国営企業の リストラを中心とした,労働力の流動化,若年層の安定雇用の道も,これから の課題でしょう」と,率直な意見を見出している。 1

 全体的に,「中国の政治の面では,経済問題と絡まりますが,幹部や官僚の 汚職や腐敗の問題は,一党独裁の政治路線を貫く限り,それは共産党指導部の 指導性にかかってきます」,「こうした中国経済の大きな発展と,社会構造の変 化を踏まえてみると,日中交流の難しさが大きくのしかかってきます」,「日本 の側として『歴史認識の問題』を抱えながら,経済の相互依存関係の増大の中 で,どのようなテーマで交流することが適切なのか。十分に検討する必要を感

じます」と,危機感を持ちながらも両国の未来に期待している(4°)。

 こうして訪問団員の中から,杉山金一郎日青協会長が言ったように,「国と 国との友好の一日も早く実現するための布石となること」を進める青年が生ま

れていた。

結びに

 日青協第一回の訪中活動は,当時の所謂「冷戦」という背景の中で展開され

始めた。民間外交を通じて日青協は,両国の問に親善や友好な雰囲気を作り出

すよう努めていた。一方で,中国側がいかにして社会主義の建設を維持・発展

させるかが,日本の青年たちの関心の的でもあった。交流に当たって,日青協

(23)

は日本の侵略戦争にっいて正式に謝罪し,中国側はこれを受け入れた。

 当時の中国の状況としては,新民主主義から社会主義へと発展し,その政治 形態として,「一党独裁下の民主集中制という形で,百家争鳴のキャンペーン も実施されていた。日本も含めた広範な統一戦線の維持と,すべての被抑圧国 家をプロレタリア精神で染め上げてゆく努力とは,両国の青年の間の「断固た

る団結」の中でのみ可能であると中国側が示していた。旧民主主義革命の中で 新民主主義革命を用意し,統一戦線を要求しっっ,中国共産党のヘゲモニーを 主張することも同様である。中国側は,これを新民主主義革命の理論として主 張しているのであって,社会主義建設にも実行しようとしていた。

 これに同意し,実行した日本の青年団体があった。日青協の訪中活動と殆ど 同じく行われていたものに,総評と関わる「日本青年と婦人訪中団」(団長,

井田保)があり,所謂「兄弟のような」関係で中国を見ていた。1956年11月11 日,北京で開かれた両組織への歓送会で井田は,あらゆる場所から見た中国人 民の平和友好を要求する願いから勇気や自信が付けられたといい,こうした情 報を是非日本人民に正確に伝えようと表明した。その上で,「砂川町軍事基地 に反対する闘争などから,われわれが是非米帝国主義をわが国の領土から追い出 す」(41)と,中国の青年たちと手を組んで戦っていくことを誓った。その成果と

して,11月15日,全青連との協定が結ばれたのである(42)。

 これと対照的に,「冷静的」に中国を見た日青協の訪中団員もいたし,中国 のことを中国の憲法をよく引用しながら評価した日青協の訪中団員もいたので,

日青協は中国側と「協定する」まで至らなかった。日青協の訪中活動は,独自 性を持った親善の旅として確かに一定の成果を収めたと言っても,中国の事情

を正確に把握することができなかった。それは,所謂「一国社会主義」国家建 設の固有な矛盾性(43),あるいは具体化された当時の中国の合作社運動(44)に っいて,訪中団員たちに十分な認識がなかったことと,中国側の招待者から,

それらを見せられなかったことが理由である。

(24)

(1)前掲『20年史』,236頁。

(2)大串隆吉著『青年団と国際交流の歴史』,有信堂,1999年,10頁。

(3)大串隆吉「国際交流の中の青年たち」,前掲日青協編『地域青年運動五十年史』,

 2001年,221頁。

(4)大串隆吉『青年団と国際交流の歴史』,有信堂,1999年,130頁〜198頁。

(5)小川利夫・新海英行等『日本占領と社会教育2 GHQの社会教育政策一成立と展

 開』,大空社,1990年3月。

(6) 田中治彦「青少年指導者講習会(IFEL)とその影響に関する総合的な研究,平成4  年度文部省科学研究費助成金(一般研究C),岡山大学田中治彦研究室,1993年。

(7)金星豊治「会長挨拶」,日青協第六回大会(結成大会)記事録1951年,6頁〜8頁。

(8) 前掲『20年史』,100頁〜101頁,に詳しい。

(9)辻一彦『日中青年友好運動五十年』,辻一彦連絡事務所,2006年,29頁〜31頁。中国  語版,藩徳全訳同書名,中国青年出版社,2006年,5頁〜6頁。

(10)大串隆吉など「鈴木重郎氏インタビュー」,1999年,2頁。

(11)大串隆吉「西山秀尚氏インタビュー」,1999年8月10日,京都,6頁。

(12)成沢栄一『勲章  妻への感謝一』,ほおずき書i籍,平和12年,152頁〜155頁。

(13)辻一彦『日中青年友好50年』,2006年,31頁〜32頁に詳しい。辻は,「その諸君らが,

 新中国の唯一の青年の全国組織である中華全国民主青年連合会と接触,その結果,中国  側が日本の青年団との交流や,日中両国青年の友好交流を行いたいという希望を強く  持っていることを知り,帰国後,このことを詳しく私に伝えたので,これが私の大きな

 情報源になっていたのである」と語っている。

(14)前掲『20年史』,208頁。

(15)前掲『20年史』,208頁。

(16)前掲辻『日中青年友好運動五十年』,31頁。

(17)参考とした資料は,昭和30年度,31年度理事会記録の永久保存版であった。そこか

 ら間接的に,「(新体制下の)第四回理事会資料」(昭和31年11月29日)の中で,『昭和三  十年度前年度の運動をかえりみて一一国際交流にっいてのまとめ』を利用した。

(18) 特に「政治的利用の場合」,渡航を認めないという趣旨であった。詳しい情報は,

 『読売新聞』,1956年4月24日,を参照されたい。

(19)渡航の自由について,以下のような資料を参照。佐藤幸治著『憲法』,青林書院,

 1981年,376頁。判例は,井上英治『憲法(全)の論証研究150選』,法曹同人,1990年,

 332頁〜334頁。

(20) 日青協内部発行資料『中国渡航情報』,第4号,1956年6月31日。自民党本部で自民  党岸幹事長と辻会長,寒河江訪中団長が訪中問題にっいて話し合ったときの確認事項や,

(25)

 この情勢に鑑みた執行部の分析や,今後の方針,という内容である。

(21)『富山県連合青年団協議会 五十周年記念誌』,同協議会・後援会,2003年,80頁。な お,『富山県青年団協議会二十年史』,1973年(昭和48年),富山県連合青年団協議会・後

援会も。

(22)高知県連合青年団『中国に青年代表を送る会ニュース』。これは,B5サイズ手書き  のガリ版のもので,日付は不明だが,1956年発行と推定される。二枚の原資料は,日青

協『1956年中国訪問資料 永久保存版』,他の訪中に関する資料と一緒に綴られている。

 「訪中団特別委員会」が集まった資料と思われる。

(23)新垣栄一編『沖縄県青年団史』,沖縄青年団協議会,1960年,421頁〜423頁。

(24)最新の成果として,朱健栄r毛沢東の朝鮮戦争』,岩波書店,2004年,を参照。本書

 は,各国の最新の研究成果に基づき,新たな資料も盛り込んだ決定版で,中国の参戦過

程をはじめて明らかにしたことが意義深い。その中で,特に「朝鮮参戦の決定が行われ

 た後,毛沢東の独断,独裁化に益々拍車がかかった」こと(443頁),それで,「ポスト冷

戦時代において,中国に一番『時代遅れ』の影響を残してしまったのである」という

 「酷」の結論(448頁)が,印象深かった。

(25)宇野重昭,小林弘二,矢吹晋『現代中国の歴史 1949〜1985』,有斐閣,1986年。当

 時の中国の対外政策にっいて,「1949年10月1日の政府布告は,同政府が全国人民を代表  する『唯一の合法的政府』であることを宣言し,およそ平等,互恵および相互に領土主

権を尊重することなどの原則を遵守しようと望むいかなる外国の政府とも均しく外交関 係を樹立することを望むものであるなど,すべての国に向かって呼びかけた。これは一 見,中立的立場を保っているように見える。しかし9月29日の『共同綱領』には,中華 人民共和国は,世界のすべての平和と自由を愛する国家及び人民,まず第一にソビエト 連邦,各人民民主主義諸国及び各被圧迫民族と提携し,国際平和と民主主義の陣営の側  に立って,共同して帝国主義の侵略に反対し,世界の恒久平和を確保すると明記して

 あった。新中国の立場は,おのずから明らかということができよう」(40頁)と,指摘し

 ている。対日本関係にっいて,「1950年2月14日に締結された『中ソ友好同盟相互援助条

約』は,日本,あるいは侵略行為において直接間接に日本と結託するそのほかの国の新

 たな侵略の防止を目的とし,有効期間は三十年とされた」(42頁〜43頁)と指摘している。

(26) 1954年,全学連副委員長松木登久の訪中を皮切りに,中国側はそれまで主に東側と  交流していたが,「積極的に」日本との交流に取り組んでいった。2000年3月22日,北京,

 中国青年運動歴史研究学会会長鄭洗氏へのインタビュー。

(27) データベース20世紀オンライン年表,東京大学東洋文化研究所田中明彦研究室作成。

 1945年〜1955年の部分。

(28) ソ連の対日講和問題について,対米覚書では,沖縄小笠原のことをカイロー,ボ

 ツタム両宣言に違反と表明した。1950年11月20日。

参照

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