厄日(毎月 l回25日発行)ISSN凹19-4剖3
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部落のいまを考える⑩ 〈解放教育の終駕〉 を考える 松岡 勲 ひろば⑫ 率直で聞かれた議論の必要性 ζべる刊行会 一一シンポジウム「同和行政と制度疲労」の議論を聞いて 熊 谷 亨4
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二
京都部落史研究所
編
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巻完結
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判・上製函入・各六
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頁
定価各巻九一六七円︵税込︶
−編集委員/井上清・上田正昭・奈良本辰也 原 田 伴 彦 ・ 渡 部 徹 圃編集責任/秋定嘉和・森谷魁久・師岡佑行 − け か 村 ん / 梅 原 猛 ・ 林 屋 辰 三 郎 ・ 日 高 六 郎 ・ 水 上 勉 ・ 村 井 康 彦最新の調査と研究のうえに新しい部落史像を構築
階 、 、 i s d 可午士服京都市上京区衣棚通上御霊前下ル土木ノ下町七三九 E V H A f m O 七 五 ︵ 四 一 回 ︶ 八 九 五 一 間 ︵ 四 一 四 ︶ 八 九 五 二 賎 原 偉 民 始 竺 制 社 の 会 巻 成 で 、ι 立2
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近
で 代 目.晶
代
F 山 ( 道長概 視民吾同 点像~ で 解 近害毒近現代︵概説︶
明治期より全国的中心であった、京都の 解放運動の歴史をはじめて解明する。第
三
巻
史
料
古
代
中
世
3 天 正 九 年 ︵ 一 五 八 一 ︶第
四
巻
史
料
近
世
1
天 正 一 O 年 ︵ 一 五 八 二 ︶ ; 享 和 三 年 ︵ 一 八 O 三 ︶第
五
巻
史
料
近
世
2
文 化 元 年 ︵ 一 八 O 四 ︶ 3 慶 応 三 年 ︵ 一 八 六 七 ︶第
六
巻
史
料
近
代
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明 治 元 年 ︵ 一 八 六 八 ︶ 1 明 治 四 O 年 ︵ 一 九 O 七 ︶第
七
巻
史
料
近
代
2
明 治 四 一 年 ︵ 一 九 O 八 ︶ 3 大 正 一 O 年 ︵ 一 九 二 二第
八
巻
史
料
近
代
3
大 正 一 一 年 ︵ 一 九 二 二 ︶ 3 昭 和 二 O 年 ︵ 一 九 四 五 ︶第九巻史料補編
編 年 史 料 集 に も れ た 重 要 史 料 に よ り 編 成 。第
十
巻
年
表
・
索
引
古代より現代までの本格的年表。 史 料 編 の 利 用 に 役 立 つ 索 引 。部落のいまを考え る ⑬
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松
岡
動 小 ︵ 中 学 校 教 員 ︶ 八月二四日 l 二 五 日 と ﹁ 第 一 一 一 一 回 部 落 問 題 全 国 交 流 会﹂があり、住田一郎さんの﹁解放教育の終鷲﹂という 報告があるので、大いに期待して参加した。住田さんの 報告は、﹁特別措置法下における﹃部落対策教育﹄は措 置法終結時のこの際、もう止めにしたらどうか﹂という 主旨であった。全く同感である。住固さんの報告と分科 会の討議を機会に、この際、﹁解放教育の何を終わらせ る べ き か ﹂ に 関 す る 私 の 考 え を 整 理 し て お こ う と 思 う 。 私は現在﹁一般﹂校に勤務しており、﹁同和﹂校を離 れ六年半になる。−九七二年四月!八二年三月までの一0
年間と八六年四月i
九O
年三月までの四年間、あわせ て一四年間を同じ部落を校区にもつ小・中学校に勤務し た 。 同和校を離れて時聞がたち、当時の﹁解放教育﹂の内を
考
え
る
容 を 冷 静 に 客 観 化 で き る 時 期 に な っ た こ と 、 も う 一 つ は 、 現在勤務する一般校での仕事との関連で、当時の解放教 育 を 相 対 化 す る 意 味 が 、 分 科 会 の 討 議 で 見 え て き た の で 、 ﹁解放教育の終罵﹂について私の考えをまとめておきた ‘ v ﹁ 学 力 保 障 偏 重 ﹂ へ の 転 換 私が同和校を離れた九O
年頃から、高槻市では同和校 での教育が顕著な変化を見せた。大阪府下でも、高槻は 同和教育において学力保障のみに傾斜する傾向に最後ま で抵抗してきた。しかし、解放同盟の要求である﹁学力 実態テスト﹂を高槻の同和校は入0
年代後半には実施せ こベる 1ざるをえなくなっていた。そして、その学力保障偏重の 流れが表面化したのが九
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年代だった。以前に勤務して いた中学校が九二年に文部省の﹁同和教育指定校﹂とな り、学力保障に関する公開授業を実施し、その頃より高 槻も学力保障偏重の路線に大転換をする。その後、この 中学校と関連する小学校の同和校もふくめて、毎年、公 開授業が実施され、その傾向が定着する。公開授業当日 には当該校の教員は﹁ネクタイを着用すべし﹂と管理職 から指示があるとか、原学級︵普通学級︶でいつも授業 を受けている障害児を府教委が来るから当日のみ抜き出 して抽出授業をするとか、笑えない現実が進行している と 聞 く 。 中学校の公開授業の冊子には次のように書かれている。 ﹁地区﹂生の置かれている状況は厳しく、低学力 をなかなか克服しきれず、高校進学率は﹁地区﹂外 生 よ り 一Ol
二O%
低 い 状 態 が 続 い て い た 。 そ し て 、 一九八六︵昭和六一︶年の三月には﹁地区﹂生の高 校進学率がついに六O%
を下回ってしまい、このこ とをきっかけに﹁地区﹂生の学力と進路を保障する ために市教育委員会や校区の小学校、同和教育研究 協議会、部落解放同盟支部などが参加した研究協議 の組織である﹁学力保障プロジェクト﹂︵現在は ﹁教育改革推進会議﹂と改組︶が発足した。その組 織で明らかにされた本校の教育課題は、次の六点で あ る 。 ① ﹁地区﹂生と﹁地区﹂外生の客観的な学力実態 を把握するため学力診断テスト︵毎年同じ問題︶ を 実 施 す る 。 抽出促進授業の教育内容を検討し、早期実施す る 。 ② ③高校進学保障の取り組みとして中三合宿を実施 す る 。 ④部落問題学習と学力保障の取り組みを結合させ る 。 ⑥ ⑤ 部 落 解 放 子 ど も 会 の 結 集 率 を 高 め る 。 自学自習促進のための具体的手だてを提示する。 この六つの課題には含まれていないが、﹁地区﹂ 生 を 中 心 に し た ﹁ 荒 れ ﹂ ︵ こ こ で 言 う ﹁ 荒 れ ﹂ と は 、 学 校 内 外 に 関 係 す る ﹁ 非 行 ﹂ ︹ 校 内 暴 力 、 い じ め 、 対 教 師 暴 力 及 ぴ 社 会 的 な 領 域 に ま で い た る ﹁ 非 行 ﹂ ︺ を 意 味 す る ーー執筆者注︶を克服することも大きな課題の一つ で あ っ た 。今まで学校の中で反対もあった部落の生徒の抽出促進 授 業 ︵ 低 学 力 の 部 落 の 生 徒 の み を ク ラ ス の 授 業 か ら 抜 き 出 し て学力を促進する授業︶も基本路線になり、複数︵入り込 み ︶ 授 業 ︵ 主 と な る 授 業 者 と 低 学 力 の 部 落 の 生 徒 に つ く 教 員 とからなる二人制の授業︶とあわせて実施されるようにな った。その上、クラスの生徒数を二分の一にする少数授 業︵分割授業︶も英語・数学で大胆に実施されていく。 この転換は、解放同盟の要求と大阪府同和教育研究協議 会の指導によるものであった。その時期は、一方での文 部省による新指導要領︵新学力観︶体制の進行と日教組 の連合路線への移行・路線転換とも重なっており、高槻 市教組と高槻市同和教育研究協議会もその進行と一体と なり、同和教育の路線転換が進み、﹁同和校の取り組み に一般校も学べ﹂との大合唱となっている。 部落の子どもと部落外の子どもとの 不平等な関係 私が高槻市の同和校に転勤した頃は、矢田教育差別事 件の直後にあたり、その頃、反戦運動の敗北の中で、教 員の左派が何かを求めて同和校に集まって来ていた。そ れは、部落の側からの提起︵被差別の側からの告発︶を 受けとめることにより、新しい教育の進展に関与したい からであった。また、自分が生きてきた差別する側に欠 けているものを、部落の人々との接触の中からつかみと りたいという気持があったからである。部落に何か心ひ かれるものがあったのである。 同和校ではじめて担当した六年生を前にして、部落聞 の ぞ 題学習に臨んだとき、部落の子どもたちはうつむきかげ んで、顔を上げることのできない子どももいた。その中 で、﹁差別する人より、差別されている人の方があたた かい﹂﹁もう一度生まれ変わるとしたら、部落に生まれ たい﹂﹁でも、部落から出たい、逃げたい﹂などの部落 の子どもの声が出てきた。その言葉を聞いて、揺れる部 落外の子どもの心と同じように私の心も揺れ動いていた。 部落外の子どもと私の心の揺れは同一であり、その点を 大事にしたいと思った。その共振の世界の中で、私は部 落の子どもと部落外の子どもの関係性を開くことの大切 さ を 教 え ら れ た 。 だが、部落の子どもと部落外の子どもとの対等の関係 の中で、部落問題を考えようとする私のスタンスとはち がう学校の雰囲気が最初からあった。ー一四年間の勤務の こベる 3
いつも違和感を持ったのは、、部落の子どもと部落 外の子どもを見る教員の視線が部落の子どものみに向け られる傾向があったことだ。関連して、教員は﹁部落の 側に立ちきらねばならない﹂というよく使われた論理に も、はたして部落外の教員がそう簡単に﹁部落の側﹂に 立てるものかとの疑問が一貫してあった。部落外の教員 として、部落からの提起を教育課題としてどう受けとめ るがの問題だと私は考えてきた。また、部落の子どもと 部落外の子どもとの関係、両者の解放の謀題は平等のは ずであり、いつも両者を視野に入れてやってきたつもり で あ る 。 小学校勤務の最後の頃は、同和校での一
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年の経過が あ っ た 。 そ の 一O
年の内に進んだ変化は大きい。小学校 より中学校へ進んだ部落の子どもたちは、荒れやいじめ の当事者になっていた。その背景には、中学校の管理的 体質や高校進学の壁があったと思う。その現実の小学校 への照り返しとして、学力主義への傾斜と子どもへの規 制の強化などが小学校にあらわれていた。 学力主義への傾斜は次のように進行した。部落の子ど もの低学力に対する取り組みとして算数等の自主編成運 動が始まった 0 1 当初は子どもの学習のつまずきに対する 中 で 、 ∼ ''' 真撃な取り組みであったが、部落の子どもの低学力の厳 しい現実の中で、やがて教材の量が膨大に増えていき、 授業時間も規定時聞をオーバーすることになり、学校内 の裁量で算数の時間数を増やすことも起こった。また、 授業時間以内で対応できないため、放課後の補充授業が 続くことになった。補充授業は子どもたちにとっては、 ﹁残り勉強﹂であり、嫌なものであるので、逃げる子ど もたちを追いかける教員と子どもの﹁いたちごっこ﹂の 繰り返しとなった。その上、部落の子どもの学力実態の 厳しい現実から抽出促進の必要が主張され、小学校でも 抽出促進授業が一部で導入され始めた。抽出授業はクラ スから部落の子どもを抜き出し、他の子どもと切り離す ことになるので、子どもの孤立を生みだした。抽出授業 を効果的に進めるためには﹁部落民宣言﹂の取り組みが 小学校でも必要とされ、無理な形で進められることも起 こ り 始 め た 。 中学校での子どもの荒れの現実は、小学校での生活指 導の強化として反映された。今まで﹁管理主義﹂としてべ 批判されてきた核班キつくり方式が子どもに対する学校内 での生活指導の方式として取り入れられた。この方式は、 クラス内の班に学校内の生活の規制︵当番、宿題の点検J一 等 ︶ の 責 任 を 負 わ せ 、 自 主 管 理 さ せ る ﹁ 現 代 版 五 人 組 ﹂ である。その導入によって、小学校の段階で部落の子ど もの﹁非行﹂や荒れを予防しようとするものであった。 この生活点検方式は学力保障重視の傾向と結びつき、班 どうしを競争させる﹁漢字大会﹂﹁計算大会﹂までが学 年全体で行なわれ、グロテスクな様相にまでなった。そ の動きに対して、校内では賛否二分する議論があったが、 私はその方向に抵抗してきた。 また、子どもの変化も大きかった。措置法体制の進行 の中で、部落の子どもの社会意識が変化し、部落民とし ノての意識の低下がみられた。部落の生徒に対する教育体 制の整備は、残念なことに、受動的学習態度を部落の子 どもに作り出していた。それは複数授業・抽出授業等で 部落の子どものみに焦点が当てられること、部落の子ど もに教員が﹁手とり、足とり﹂バッタリとつくことの結 果であった。部落の子どもは学校での同和教育、放課後 の部落解放子ども会での活動と、結果的には長時間の ﹁管理﹂の中に置かれるようになっていた。管理の中で は主体的な子どもは育たない。また、部落の子どもに対 する手あつい保護、あるいは過保護状態が部落の子ども と部落外の子どもの力関係の逆転を生み出していた。そ れは部落の子どもたちを学校内のボス的存在にさせ、部 1 一 落の子どもが力の支配の頂点に立つ傾向となってあらわ一 れていた。いじめの加害者となる部落の子も見られた。一 四年の聞をあけて叶同じ部落を校区にもつ中学校に転一 勤したが、先に述べた傾向は強まっていた。小学校では一 複数授業が基本であったが、中学校では抽出促進授業が一 中心であった。抽出生徒がクラスでの人間関係から切れ一 ることも起こり、また、抽出授業に出ている部落の生徒一 の原学級の授業への復帰は 1 原学級の授業との落差がど− んどん広がっているため絶望的であった。そして、抽出一 授業と結びついた﹁部落民宣ニ=己の取り組みが中学校で“ は大きな課題となっていた。しかし、生徒の主体的行為一 としての部落民宣言とはなりがたい生徒の現実があり、一 形式的・機械的な取り組みになることが多かった。実際一 には抽出予定の生徒が部落民宣言に到らず、一年間、抽一 出授業ができないケ l スもあった。また、部落の生徒を一 中心に部落外の生徒も結びつき、暴力支配やいじめがは一 びこり、学校が荒れていた。荒れる部落の生徒をかばっ− て、かばって、かばいたおす同和校の体質は、部落の生一 徒を惰民化させていたし、部落外の生徒に﹁恨み・つら一 み・ねたみ﹂などの逆差別意識を沈潜させていたと思う。− こベる 5
その頃の中学生で、現在は社会人となっている部落外 の卒業生と当時のことを話したことがあった。彼は、成 績では地元高校以外に進学できる生徒だったが、高校間 格差をなくし、新設高校を育てる、地元校集中受験運動 の中心メンバーとなり進学していった。高校に入り、家 が貧しいことがあり、﹁国公立大学にしか進学できない から、勉強の仕方をどうしたらよいか﹂と進路係の教員 に相談に行った。しかし、﹁学校外での︵塾等の︶勉強 の方法を考えなさい﹂との返事しか返ってこなかった。 そこで、一年後に高校に見切りをつけて退学じ、新聞販 売店に住み込み、大学検定試験に合格した上、新聞社の 奨学金を取り、大学に進学した。彼は﹁できるものなら、 もう一度、中学三年生にもどり、部落の彼らに思ってい ることを言ってみたい、今なら言える﹂と言った。社会 経験をつんだ現在、伺人対個人の関係で、部落の彼らの ﹁甘さ﹂に対して自分の考えを対置できると考えたのだ ろう。それは大検に合格し、まもなく大学受験をする頃 の言葉であった。当時を振り返ってみると、部落の生徒 と部落外の生徒との関係は対等ではなかったと言える。 部落近世政治起源説への屈服 中学校での三年目のことであった。社会科での部落史 学習の内容を変えようという計画があった。中学校と小 学校と部落子ども会指導員との連携会議が持たれ、中学 校としては部落政治起源論の枠組みを破る授業に取り組 むことにした。かつて、小学校ではじめて部落史学習に 取り組んだとき、部落の成立を近世幕藩体制による政治 的設定との展開しかできなかったが、その中で、部落の 子どもたちの﹁それでも、なんで私らの先祖は部落に落 とされてん:::﹂との聞いに答えられなかったという苦 い経験が私にはあった。その後、大阪府同教の事務局を 担当したことで、部落解放史講座の企画をすることがで き、横井清さん、師岡佑行さん、網野善彦さんらを講師 に招き、部落史研究の新たな展開に多くを学ぶことがで き、目を聞かれた。私はいずれ納得のいく部落史内授業 を展開したいと考えていた。私は当時、校内の社会科部 の代表として関わった。その時の授業者は授業のねらい を 次 の よ う に 書 い て い る 。
近世に現在の被差別部落につながるものが、権力 者によって設定される。なぜという聞いには、土一 投、一向一撲などの民衆のエネルギーの高揚を権力 者がおそれ、支配を維持するために、民衆を分断す る身分制を強化していくと答えてきた。しかし、な ぜ権力者の設定を民衆が、つけつけたのか、どのよう にして:::という民衆の意識には、今までふれずに きた。あいまいなままにしてきた。民衆が一部の 人々を賎視することが、どのような歴史的条件のも とに成り立ったのか、そのことを明らかにすること ができれば、民衆の側の差別意識に切り込んでいけ るだろう。そのオカシサに気付いていくと考えてき た 。 その賎視を考える題材として中世の︿ケガレ意識﹀を 取り上げ、具体的には網野善彦・文、司修・絵﹃河原 にできた中世の町||へんれきする人びとの集まるとこ ろ﹄︵岩波書店︶からスライドを作成し、授業化した。 河原に住んだ人々に焦点をあて、河原という世界が古 代・中世の人々にとってどのような世界であったか、そ して、そこでどのような生活が営まれていたか、︿ケガ の変化を見ていく中で、賎視する人と賎視され レ 意 識 Y る人との関係を考える授業を展開した。 この授業は地域に公開していたので、公開授業の直後 に解放同盟支部よりストップがかかった。事前に授業の 細案は出せていなかったが、大枠は子ども会指導員の参 加した事前の連携会議で出していた。事前には問題があ るとの指摘はなかったので、授業後に支部内でクレーム がついたと思われる。連携会議でこの授業の内容が差別 的であると、子ども会指導員より追及があり、私と授業 者がそれを受けた。この授業は﹁暗い﹂、この授業で ﹁部落の子どもは傷ついている﹂というのが追及の内容 で あ っ た 。 ・部落の発生史の段階でかけがれ H の意識を扱うこ とは、現代の部落差別につながる。授業のタイトル のグいやしまれた人々 d は、部落 H いやしまれた 人々というイメージを持たせ、かけがれが意識を扱 うことは、部落は H けがれている μ という意識を持 たせる。また、この授業では、中世の﹁えた﹂﹁非 人﹂とされた人々がそのまま江戸時代の﹁えた﹂ ﹁非人﹂と直結すると子どもに読み取られ、問題が あ る 。 こぺる 部落の人間として、この授業を聞いて傷ついてい 7
る。民衆の差別意識を教えたいのなら、明治以降の 現代に直結する教材、部落外の子が自分のこととと らえられる教材、例えば解放令反対一授などを扱う べきである。部落解放の展望を持たせるような学習 を す べ き で あ る 。 以上のような追及と、この授業を即刻やめるべきであ るとの要求があり、四時間もさまざまな説明と抵抗をし たが、残念ながらこの要求を飲まざるをえなかった。学 校側の子ども会担当で同じ社会科の同僚から、支部以上 の言葉を荒げた追及もあり、こういう時には﹁鉄砲の玉 が後ろから飛んでくる﹂ものだと実感した。本音では、 決して差別的であるとは思っていないにもかかわらず、 ﹁この授業は結果として差別を広めた﹂と確認せざるを えなかった。屈辱感と挫折感は深く残った。部落解放運 動のタブーとぶつかった経験であり、糾弾の具体的内実 がこんなものであるのかと感じた実体験でもあった。 ﹁差別をなくす﹂という共通の倫理的枠組みを学校と 被差別者の運動団体とが持つとき、納得のいかない内容 であっても、運動団体が優位に立つということを痛感し た。なぜ、このような理不尽がまかり通るのかを考える と、一つには、分科会の討論での﹁運動団体との関係の 根には差別意識の問題がある﹂との指摘は当たっている と思う。差別する側にいる者には﹁もしかして、差別し ているのではないか﹂と思ってしまう心の揺らぎゃ強迫 観念がある。しかじそれよりも私が重要と考えるのは、 部落問題が﹁国民的課題﹂とされ、特別措置法成立以来 の法体制の確立の中で、解放同盟が学校に対して﹁権 力﹂として機能していることの問題点でああ。 今、部落近世政治起源説への屈服を振り返ってみると、 次の一六年前の横井清さんの指摘は教育現場にとって、 未完の課題である。その後の部落研究の進展︵﹃京都の 部落史﹄完結などを見ると︶では、すでに見通しがつい て い る と 思 う の だ が 。 ﹁ : : : そ の 前 を 知 り た い ﹂ と い う 子 ら の 要 望 の 鉾 先きは、必然的に﹁中世史﹂研究者へと向けられて いる。﹁中世﹂とは、いったいどういう時代であっ たのか、その﹁中世﹂での差別の実態はどのようで あったのか、そして、その差別は﹁近世﹂における 被差別部落の成立、部落差別の確立に向けて、いっ たいどのようにして結びついていったのかーーとい う こ と に も な ろ う か , 。 し か も 、 そ の ひ と つ ひ と つ に みずから生まれて育った部落の歴史にも深 つ い ・ て 、
く関わりつつ知りたいのであろう。そうした子らの 前に仲立しがちの教師たちの多くもまた、その主た る関心を﹁中世﹂に、さらには﹁中世から近世へ﹂ の連続面へと転じてきているのである。︵﹃歴史公 論 ﹄ 一 九 八
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年 六 月 号 ︶ 四 終わりの始まり 同和校を離れ、六年半がたつた。差別問題には二度と 深入りはすまいと思って転勤したのだが、結局、今の私 は在日朝鮮人教育の課題に対している。今の時点で﹁解 放教育﹂を相対化することの意味は私にとって何か、私 は﹁何﹂を終わらせ、﹁何﹂を始めなければならないの か 、 そ の 点 を 整 理 し て お き た い 。 それに関連して一般校の状況で気になることがある。 ﹁同和教育の常識﹂というものがまかり通っていること だ。部落近世政治起源説が然り、部落問題を語るときの 悲惨さのみを強調する傾向、部落問題は部落外の生徒に 理解されてこそ成功であるにもかかわらず、同和校の ﹁実践﹂が直輸入されていることなど、挙げたらきりが − tない。そんな状況を前にして、同和校で周囲に違和感を 持ちながらも、私のとってきたスタンスをこれからも持 ち 続 け た い と 思 っ て い る 。 そ れ を 現 在 の 関 心 事 項 で 言 、 っ と、在日朝鮮人生徒と日本人生徒との関係を対等の地平 に置いて見ていきたいということだ。ただ、気をつけな ければならないと、この頃考えていることは、やはり公 私ともに復活するもう一つの﹁同和教育の常識﹂である。 それは﹁立場の自覚﹂をせまるときの性急な政治主義・ 集団主義、﹁成果﹂を急ぐ傾向である。急がずにやって い か ね ば と 思 っ て い る 。 最近のテレビ番組で、﹁未来潮流/文化人類学者・今 福龍太の H 文化は︿混血 γ す る U﹂を見たが、大変おも しろかった。多民族が混交するロサンゼルス、民族の根 っこに帰結する﹁アイデンティティ﹂という思考方法の 無効さを考えさせられた。日系アメリカ人の女性作家の 話がアクチュアルであった。三世の彼女がアイデンティ ティを求めて留学した日本にはそれは無かった。それを 見つけたのが混血をプラス価値とするブラジルであった。 未来に向かってのアイダンティティは︿ X ゾ i ン V に あ る と 、 今 福 氏 は 言 、 っ 。 私 が 求 め て い る 方 向 だ 。 私が関係する在日朝鮮人教育で、民族的自覚を生徒に こぺる 9持たせるための従来の方向では打開できない生徒の現実 がある。その点について、この番組に刺激されて、以下 に、現在、私が考えていることをまとめてみようと思う。 ①現在、中学校に通う在日朝鮮人生徒たちは、三世に なり、もう四世もいる。この生徒たちが﹁民族的アイ デンティティ﹂を持つことは、ほんとうに可能なのか という疑問である。この間題については、日本への同 化でもなく、また、非現実的な﹁祖国﹂への民族的回 帰でもない第三の道としで︿在日であること﹀に活路 を見いだす方向が金時鐘氏等によって打ちだされてき た 。 それにしても、在日朝鮮人生徒の現実は同世代の日 本人生徒の感性とあまりにも同質的である。そこから 在日朝鮮人生徒の認識を引き剥がす手法として教員が 経験則で身につけているものは、日本社会の差別的現 実を彼らに突きつけることである。それはある意味で はやむをえず取らざるをえない方法であるが、彼らを 日本社会の排除による自己否定的認識にのみにとどま らせることでよいのか、と’の疑問をいつも持つ。その ようなことを考えるとき、今福氏の仕事の中で言、っ ︿ ク レ オ
l
ル主義﹀、あるいは︿文化は混血する﹀との 考えに、これまでの私の疑問を解く鍵があるように思 、 つ ノ 。 生徒たちのアイデンティティは、自己の﹁民族﹂ ︵在日朝鮮人生徒にそれがあるとして︶の過去に、ま たは、現在の現実にのみあるのでなく、︿未来に由か つ て の グ X ゾ l ン H ﹀にあるのだろうと思う。そのこ とを深めて考えていきたいと思う。 ②次に考えるゆは、在日朝鮮人生徒と関係を結ぶ日本 人生徒の側の問題である。私の勤務する中学校は﹁高 級住宅地﹂の中にあり、塾通いにあけくれる生徒たち にとって、在日朝鮮人生徒とつながる意味は何かとい うことである。差別問題が論じられるとき、差別され る側にのみに視点があてられがちであるが、私は日本 人生徒がからめとられている日常からの解放の問題を 重視したいと思っている。在日朝鮮人生徒と日本人生 徒の両者を視野に入れて考えようとするとき、次の市 村弘正氏の指摘は重要であると思う。 若い日本人が現実に対して当事者感覚をもてぬま ま﹁何者でもない﹂ものになりつつあるとすれば、 かれ︵在日朝鮮人三世︶は、同じように何者でもな いものであるとともに、日本人ではないものである。そのことが、かれの日常生活にたえず絡みついてく る。すなわち、かれの存在は、日本人ではないとい うことによって一面的に規定されるのではない。そ の一面をとりだそうとするのでもない。かれは二重 に﹁ない﹂ものとしての存在様態のもとに置かれる のである。かれにとって三代目であるということは そ う い う こ と で あ る 。 ︵ ﹁ 在 日 三 世 の カ フ カ ﹂ ﹁ 小 さ きものの諸形態﹄筑摩書房、所収︶ この文章は、在日朝鮮人三世に焦点があてられている が、在日朝鮮人生徒と日本人生徒の両者が置かれている 状況が見えてくる。私は教員として彼らに接していくと き、両者がどのように関係を取り結べばよいか、また、 両者の解放はいかにして可能かを考えたい。その時、差 別問題だけの視角で生徒の関係を見ないことに心がけた い。そこで、本質的な問題として考えたいのは、﹁若い 世代のアイデンティティの確立﹂は可能なのかというこ とである。これは、感覚的な予感なのだが、アイデンテ ィティという根つきの思想ではなく、︿融通無碍のバイ パスの発想﹀で人生を切り開くことが今の若い世代には 可能ではないのか。それが今福氏の言、っ﹁未来のアイデ グ
X
ゾ l ン d にある﹂ということではない ン テ イ テ イ は かと思う。私もその未知の方向を模索しながら、両者が 在日朝鮮人問題を考える中で︿両側から超える﹀営みに、 教育として伴走していきたいと考える。 最後に被差別者の運動団体との関係についてであるが、 高槻市でも在日朝鮮人教育にとって在日朝鮮人の運動団 体の存在意義は大きい。私の勤務校での在日朝鮮人教育 の確立にとっても、運動団体との連携が重要であった。 ただ、今後、学力保障問題や在日朝鮮人生徒の自覚とい う課題の困難さなどをめぐって、同和校での混迷と同質 の問題に突き当たらざるをえないだろう。もう、同和校 で経験したような挫折は二度と御免だから、在日朝鮮人 二世・三世の人たちと本音でじっくり意見を交わしなが ら、共同作業者として、向き合っていきたい。納得のい わ だ ち かないところで引き下がるような同和校での轍を踏ま ないでおきたい。彼らと真の意味での共同作業ができる かが問題だと思う。しばらく、今の地点に腰をすえよう と 思 う 今 日 こ の 頃 で あ る 。 こぺる 11ひろば⑫ 熊谷亨︵楽只隣保館資料室︶
率直で聞かれた議論
の必要性
シ ン ポ ジ ウ ム ﹁ 同 和 行 政 と 制 度 疲 労 ﹂ の 議 論 を 聞 い て 一O
月二日、鈴木マサホさんの呼びかけによるシンポ ジウム﹁同和行政と制度疲労||今後の同和行政のあり 方をめぐって﹂が行われました。予定時刻の間際に会場 に行ったところ、受付の長蛇の列にびっくり。あとで聞 一 人O
人近くの参加があったとか。五O
人 い た と こ ろ 、 くらいの集まりを予想していた当方の不明を恥じる次第。 ﹁運動体と行政だけでなく、どう市民が部落問題解決 の取り組みに登場するのか。そこで人間同士の関係をど うつくるのか﹂をめぐる鈴木さん・藤田さんの話を受け I て、会場からは運動団体の幹部、学校の教員や同和対策 室の職員からも率直な意見が出されていました。私も普 段いろいろな人と話をしていて、﹁このままの運動︵同 . , 和行政、同和教育︶ではいけない。これでは差別はなく ならない﹂ということは、ほほ共通の認識となっできて い る と 感 じ て い ま す 。 では次に何をしたらいいのか||そこで多くの入が思 い悩んでいます。﹃こベる﹄九月号で鈴木さんが触れて いるように、運動や行政それぞれにおいて﹁見直し﹂作 業が取り組まれてきています。しかし、そこでの議論も まだまだ﹁既存の施策を、どう﹃実害﹄のない程度に縮 小するか﹂﹁個人給付の所得基準をどこに設定するか﹂ という地点に止まりがちです。部落解放運動、部落差別 をなくす取り組みそのものをどうとらえるのか、行政闘 争というこれまでの枠にとらわれない新しいイメージを どうつくっていくのかについて、もっともっと議論する 必 要 が あ り ま す 。 かつて、部落問題解決への行政責任を追及することは 必要なことでしたし、それは大きな成果を生み出してき ました。しかし、逆にその成果に縛られ、部落解放への 取り組みを行政施策の積み重ねの中でしか発想できなく なっています。同和啓発が、施策の意義・目的の説明であったり、部落の視察が施設見学であったりするのは故 4 なきことではありません。また九雇用促進で京都市の職 員となる人が増えるにつれ、事実上、部落解放運動が ﹁京都市職員となった部落出身者による運動︵逆に言え ば、京都市職員でなければ参加できないことなってい る側面もあります。 昨年春、京都市でも﹁施策の見直し﹂が実施されまし た。京都市の同和行政の流れ、施策の見直しをめぐる動 きについては、本誌九月号の鈴木さんの論文に詳しいの で、ここでは詳細は省きますが、おおざっぱに言えば、 住宅家賃や保育料などの政策料金を部落外の二分の一と していくというものです。部落の低位性や部落外との格 差は大幅に改善されてきたというのは衆目の一致すると ころであり、経済支援を主たる内容としたこれまでの同 和施策が見直されるのは当然のことです。 住宅を例にとると、京都市の現行の改良住宅の家賃は、 最低の三千円から最高で一万三千円、もっとも多いのは、 六千円前後の住宅です。現在の部落の経済状態と家賃の アンバランスが大きな問題を生じており、来年度以降、 公 京 募 都 す 市 れ の ば 場 よ 合 い の 居 で 住 し 面 よ
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平 米 を 越 え る 改 良 住 宅 それを円第二種公営住宅家賃額のおおむね二分のこを めどとした家賃に改定するとされています。 ここで問題なのは、施策の単純な打ち切り・政策料金年の
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っ ぽ け っ か て ね い な る し3 、 と 壮 いうことです。それらの人々の多くは、高等教育を身に つけ、経済的にも安定した層に属しており、本来、地域 の指導者として力を発揮してほしい人々です。そうした 人の中からも﹁改定家賃を払、つくらいなら、この際、マ イホーム購入計画を前倒ししよう﹂と考える人がたくさ んでてきて不思議ではありません。また、これまでであ れば部落外に住居を求めていても、改良住宅を使用し続 ける人は少なくありませんでしたが、改定によって明け 渡す人も出てくるでしょう。つまりは、空き家が増加す る一方、高齢者などの経済的な困難を抱えた層が部落の 中に残ることになります。では、空き家にどんどん一般 が建てられるようになったのは七0
年代後半からです。 こベる 13他地域では﹁改良住宅が一般の公営住宅の水準をリ l ド していった﹂事例が多々あるそうですが、京都市の場合、 残念ながらそうはなっていません。高層住宅でも、四
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平米を越える程度の間取りのものが多く、ベランダや浴 室ならぬ﹁浴槽を設置できるスペース﹂をもった住宅が 建設されはじめたのは、数年前のことです。規模・設備 から言って、政策料金をやめ、通常の公営住宅と同じ基 準を適用したとしても、それほど高い家賃設定とはなり 祉 ま 住 せ 宅 ん と 。 し 昨 て 寸f (J) (1)位 哩
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ま 告 賃 住 の 宅 導 の 入 福 等︶ともあいまって、部落が﹁低所得者向け公営住宅団 地﹂へと純化してしまうというのは言い過、きでしょうか。 せっかく何年もかけて﹁差別と貧困の悪循環﹂を打ち壊 してきたのに、再び貧困対策が集中的に取り組まれなく てはならない地域が現出する:::という予測は悲観的に 過ぎるでしょうか。 そういう選択肢も﹁あり﹂とは思います。しかし、そ れが部落解放運動や同和行政・教育がめざしてきた部落 め姿なのでしょうか。︵﹁見直し﹂をせずとも、同和施策 が、これまで通りの貧困対策として実施され続ける限り、 早 晩 、 同 じ 事 態 を 招 く で し ょ う 。 ︶ 先にも述べたように、﹁見直し﹂をはじめとしたさま ざ ま な 議 壬記為 日間 を 部 落 解 放 運 動 部 落 差 別 を な く す 取 り 組 みの︵貧困対策から抜け出た︶新しいイメージをつくる 作業へと結びつけていく必要があると、私は考えていま す。﹁運動体と行政が取り組み、市民にはそれを啓発で 理解してもらう﹂という現在の構図をつくりかえていく 必 要 が あ り ま す 。 それがどんなものか、私の中でも暖昧模糊としていま すが、とりあえず思い描いているのは、 つぎのようなこ と で す 。 ①まず、部落にさまざまな﹁力﹂をもっ人々を育 成し、その人々が部落の中で暮らしていける状況 を つ く る こ と 。 ②その人たちが中心となって部落全体をカバーす る住民自治組織を確立し︵住民が、﹁運動団体代 表﹂ではなく﹁住民﹂として参〆加する︶近隣の町 内会や自治連合会、社会福祉協議会と﹁人権﹂という中身をもって連携をはかること。 ③そして、部落差別をなくそうとする部落内外を 貫く︵部落の外で暮らす部落出身者も含めた︶市 民 の 輸 を 形 成 す る こ と 。 ①
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③それぞれの段階に対応する、運動の取り組み、 行政の施策︵貧困対策ではなくコミュニティを育むこと を主眼とした、必ずしも﹁同和対策﹂と冠されることを 要しないて市民の参加が得られる必要があります。 京都市の当面する大きな課題として、改良住宅の建て 替えがあり、﹁永住できる町づくり﹂が今後の同和行政 のキーワードとして打ち出されてきています。おりしも、 いくつかの部落では、住民参加を軸としたまちづくり運 動が組織化されてきています。地区ごとに状況はちがっ ていますが、将来の部落をどんなまちとしていくのかを 議論するいい機会であり、その中で、ぜひとも多様な層 が 生 活 し 得 る 、 コミュニティを育む住宅群を実現してい くことがのぞまれます︵適正な応能応益家賃も考慮され る べ き ︶ 。 ま た 、 京 都 市 で は 、 いわゆる﹁属地属人﹂を基本とし て同和施策が実施されてきました。隣保館や保育所など の地区施設は、その施策の投下拠点としての役割を果た してきました。他の地方から見れば、﹁何で今さらそん なことが議論になるのか﹂と思われるかもしれませんが、 京都で大きな問題としてあるのが、そうした施設の共同 利用です。対象を部落に限定した方が効果が上がる施 策・施設もあれば、限定しない方がよいものも当然あり ます。近隣の住民に、あるスポーツのエキスパートがい たら、ぜひその人の参加を得てサークルを発足させるこ とも考えられるでしょう。それが、部落の側から見れば、 さまざまな力を付けていくことになり、小学校区なり中 学校区単位で見れば、地域住民の自治活動を活発化させ ていくことでもあります。私自身も、﹁市民の参加﹂と いうとつい、﹁階級的共同闘争﹂などという発想をして しまいますが、むしろ、こうしたイメージでとらえてい くべきであろうと考えています。 とはいえ、そうした地域での交流がそのままで差別意 こぺる 識の解消につながるとは思いません。人々の意識の底に へばりついた﹁部落はこわい﹂というイメージは非常に 15強固であり、ささいなことをきっかけにひょいと顔を出 します。それを本当になくしていくためには、より広い 範囲での、部落出身である・なしを問わない、部落差別 か を て な 聞 く 思 し
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しミ そ う れは﹁何万人の決起集会﹂といったものではなく、例え ば、今回のような小さな集まりが各地で無数に聞かれ、 人やが結びあい、議論を続けていくことだろうと思いま す シンポジウムで、﹁オープンに話をしていくのは賛成 なのだが、﹃すべてを公にする﹄というのはやはり問題 を生むのでは﹂という意見が教員の方から出され、しば し議論になりました。同意する意見もあれば、﹁なぜ ﹃問題を生む﹄と考えるのか、そこをつきつめてみるべ き﹂という意見も出されました。藤田さんからは、自身 の経験を踏まえて、﹁ためらい﹂﹁いたわり﹂が、むしろ ﹁堕落﹂を生んできたこと、議論すべきことを、議論す べき時にしてこなかったツケが結局は部落の側に回って しまうことが述べられました。藤田さんが差別判断の資 格と基準をめぐる二つめテ l ゼを執揃に批判するのも、 この点にあるのでしょう。 以上、シンポジウムに参加しての私の感想を﹁夢﹂も 含めて、本誌九月号での鈴木さんの呼びかけに応えるか たちで記してみました。私の経験は京都市内の、それも ごく狭い範囲のものにすぎません。差別をなくすとはど ういうことなのか、ぜひまた議論を重ねていきたいと思 い ま す 。 "<r ff 唱 , .m
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