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中華民国時期(1912-1949 年)における 国家統合と社会教育の研究

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中華民国時期(1912-1949 年)における 国家統合と社会教育の研究

新保 敦子

(2)

中華民国時期(1912-1949 年)における国家統合と社会教育の研究

新保 敦子

目次

序章 1 第 1 節 本論の目的 1 第 2 節 分析の視角

第 3 節 従来の研究動向及び本研究の意義 第 4 節 本論の構成および基本史料 第 1 項 本論の構成

第 2 項 基本史料

序章注

第 1 章 江蘇省における民衆に対する基礎教育と国家統合 31 第 1 節 近代学制の地方浸透と私塾 31 ー江蘇省無錫県に焦点を当ててー

はじめに

第 1 項 初等教育普及の全国的動向及び私塾の展開 1、清末から民国時期にかけての初等教育制度の導入 2、清末から民国時期にかけての私塾の動向

3、私塾の存立基盤

第 2 項 江蘇省における近代教育の導入と私塾 1、近代小学普及の立ち遅れ

2、私塾の動向

3、江蘇省における私塾発展の基盤

第 3 項 南京国民政府統治下における私塾改良政策 第 4 項 清末民初の無錫県における教育の発展 1、清末における近代教育の導入

2、私立学校の発展 第 5 項 無錫県における私塾 1、私塾の設立

1)清末民初における私塾の発展と政府の対私塾施策

I

(3)

2)私塾数及び分布

3)郷鎮レベルでの小学校及び私塾の設置 2、私塾の創設年

第 6 項 私塾における教学の実態 1、塾師

1)年齢・収入 2)学歴・職歴 3)教員経験者の塾師 4)塾師訓練班

2、私塾における教育の実態 1)カリキュラム 2)学級形態 3)設備・学費 第 7 項 日中戦争後の私塾の歩み まとめ

第 2 節 国民党統治下における民衆教育の発展

ー兪慶棠と江蘇省立教育学院をめぐってー 81 はじめに

第 1 項 民国時期における社会教育政策の展開 1、北洋軍閥政府時代(1912-1927 年)

2、南京国民政府時代(1927-1949 年)

第 2 項 江蘇省における社会教育の発展と民衆教育館 1、江蘇省における社会教育行政

2、江蘇省における民衆教育館の発展

第 3 項 江蘇省立教育学院における民衆教育の人材養成 1、設立の経緯

2、江蘇省立教育学院における人材養成事業 第 4 項 江蘇省立教育学院のその後

第 5 項 兪慶棠と民衆教育 まとめ

第 1 章注

第 2 章 華北農村における郷村建設運動の展開 148 第 1 節 中華平民教育促進会と郷村建設運動 148

II

(4)

ー河北省定県における実践を中心としてー はじめに

第 1 項 平教会と郷村建設運動 1、郷村建設運動の展開

2、平民主義の高揚と平教会の創設 3、平民教育運動から郷村教育運動へ 第 2 項 定県における郷村建設運動の開始 1、定県実験の理論的基礎

2、定県実験への道

第 3 項 実験期における事業の発展 1、定県実験の拡大

2、四大教育を中心とする研究・実験 第 4 項 県政改革期における定県実験の軍事化 1、国民政府の諸政策と平教会

2、定県実験の軍事化 3、導生制

第 5 項 定県実験における人材養成事業 第 6 項 定県実験の意義と限界

1、意義 2、限界

3、その後の定県実験 まとめ

第 2 節 梁漱溟と郷村建設運動

ー山東省鄒平県における実践を中心としてー 193 はじめに

第 1 項 梁漱溟の郷村建設運動とその思想的基盤 1、郷村建設運動への関与

2、梁漱冥の教育思想 第 2 項 鄒平県における実践 1、山東郷村建設研究院の設立 2、鄒平実践の展開

1)鄒平実践の概況 2)郷学・村学 3)合作社 4)自衛訓練

III

(5)

第 3 項 梁漱溟の教育実践の意義と限界 1、意義

2、限界

3、残された課題とその後の梁漱溟 まとめ

第 2 章注

第 3 章 日中戦争時期における日本の回教徒工作と少数民族教育 236 第 1 節 日中戦争時期における日本の回教徒工作 236 はじめに

第 1 項 中国におけるイスラーム教徒を取り巻く状況 1、民国時期におけるイスラーム教徒

2、国民党のイスラーム政策 3、共産党のイスラーム政策 第 2 項 日本軍の回教徒工作の背景

第 3 項 中華民国臨時政府=傀儡政府と中国回教総聯合会 1、中国回教総聯合会の設立

2、中国回教総聯合会の事業

第 4 項 日本国内における回教徒工作の動向 1、亡命ムスリムの活動

2、イスラーム研究の進展 3、東京回教礼拝堂の設立 第 5 項 大日本回教協会をめぐって 1、大日本回教協会の成立 2、回教公認に向けての活動 3、大日本回教協会の諸事業 まとめ

第 2 節 日本占領下の北京における回民教育 272 はじめに

第 1 項 近代的回民教育の胎動

第 2 項 日中戦争の勃発と北京におけるイスラーム系小学校 第 3 項 小学校におけるイスラーム化の試み

1、回民知識人による小学校の設立 2、イスラーム化を巡る回聯の思惑と回民

IV

(6)

第 4 項 イスラーム系学校における日本語教育と文化工作 1、華北占領地における日本語教育

2、イスラーム系小学校における日本語教育 3、西北中学における文化工作の挫折 まとめ

第 3 節 日本占領下の華北におけるイスラーム青年工作 295 ー中国回教青年団をめぐってー

はじめに 第 1 項 新民会における民衆工作 1、青年訓練所

2、民衆教育館から新民教育館へ 第 2 項 中国回教青年団の組織化 第 3 項 青年団における訓練

1、軍事教練を中心とする訓練内容 2、訓練終了後の進路

第 4 項 勤労奉仕と青年団の活動停止 第 5 項 ある青年の回想をめぐって まとめ

第 4 節 蒙疆政権における日本の回教徒工作と教育(1)

ー西北回教聯合会を中心としてー 318 はじめに

第 1 項 蒙疆政権と少数民族 第 2 項 西北回聯の設立及び事業 1、西北回聯の設立

2、西北回聯の事業

第 3 項 回民青年に対する教育活動

第 4 項 西北回聯における小村不二男の活動 第 5 項 回教徒工作関係者のその後

第 6 項 まとめー西北回聯の回教徒工作が残したものー

第 5 節 蒙疆政権における日本の回教徒工作と教育(2) 340 ー善隣回民女塾を中心としてー

はじめに 第 1 項 善隣回民女塾の設立

V

(7)

1、善隣協会における回教徒工作 2、設立の経緯及び主旨

第 2 項 女塾における教育と生活 第 3 項 塾外における積極的な活動 第 4 項 蒙疆回教女子訪日視察団の派遣

第 5 項 ある塾生をめぐってー丁瑞蘭についてー 第 6 項 女塾関係者のその後

まとめ 第 3 章注

第 4 章 旧解放区における識字学習運動 403 第 1 節 旧解放区における識字学習運動の展開 403 はじめに

第 1 項 中央ソビエト区における識字学習運動 1、歴史的背景

2、識字学習運動の展開 3、識字教材の内容 第 2 項 旧解放区の歴史的背景 1、旧解放区の成立 2、整風運動

第 3 項 旧解放区における識字学習運動の実践 1、組織

1)学校形態

2)クラス・小組形態 2、内容

まとめ

第 2 節 民営公助の教育政策と民営公助学校 430 はじめに

第 1 項 民営公助の教育政策 1、民営公助学校の設立 2、民営公助学校の実際 3、民営公助学校の諸問題

第 2 項 民営公助学校についてー楊家湾小学の実践ー 第 3 項 楊家湾小学における成人対象の識字教育

VI

(8)

第 4 項 模範教師陶端予について まとめ

第 3 節 識字学習運動と中国人意識の形成 449 はじめに

第 1 項 山東抗日根拠地金溝官荘における識字学習運動 1、金溝官荘について

2、金溝官荘における識字学習運動の展開 第 2 項 必要と自発

第 3 項 識字学習運動とナショナリズムの形成 1、政治・経済的翻身と国家統合 2、識字学習運動と中国人の形成 3、識字学習運動と意識化 まとめ

第 4 章注

結章 499 第 1 節 各章のまとめ 499 第 1 項 江蘇省における民衆に対する基礎教育と国家統合

第 2 項 華北農村における郷村建設運動の展開

第 3 項 日中戦争時期における日本の回教徒工作と少数民族教育 第 4 項 旧解放区における識字学習運動

第 2 節 全体のまとめ 第 3 節 今後の課題

第 1 項 現代中国の教育が抱える課題 第 2 項 研究上の課題

あとがき 528

VII

(9)

凡例:

・本論は横書きとする。ちなみに中華人民共和国では、現在、横書きの文書スタイルが標 準的である。

また横書きのために、数字の表記は原則としてアラビア数字を基本とする。ただし書籍 のタイトルなどの固有名詞の場合には、漢数字を用いる。

・本論で対象としている中華民国時期(1912-1949 年)に、元号として中国では「民国」、

日本においては「昭和」が用いられていた。本論では、煩雑さを避けるために基本的に西 暦に統一するものとする。

・文中の氏名は敬称略とする。

・地名については、原則として、当時、その地域を支配していた政権の下で、使用されて いた地名を用いるものとする。例えば中国の東北部は日本の占領下では「満洲」が用いら れため、本論では現地名を使用する。こうした地名は日本側の政治的な意図の下に使用さ れており、本来ならばかっこをつけて表記すべきであるが、煩雑なためかっこは省略した。

また都市名については、他の政権での呼称がある場合、初出に関しては( )で示すも のとする。

・注は各章ごとに、章末に添付する。

VIII

(10)

序章

第 1 節 本論の目的

本論の目的は、中華民国建国から中華人民共和国建国に至るまでのいわゆる民国時期 (1912-1949 年)に焦点を当て、民衆の間に国民意識が形成され国家統合に向かう上で、社 会教育がいかに重要な役割を果たしていくのかを解明することにある。

歴史的に見れば中国ではアヘン戦争(1840-1842 年)以来、それまで国家を支えてきた伝 統的な王朝システムが崩壊し、帝国主義諸国の侵略に伴う自給自足経済の破綻、土地所有 関係の不平等などのために、人口の大部分を占める農村社会の窮乏化が進んでいた。

20 世紀に入り辛亥革命(1911 年)によって清朝が倒れ、漢族による統一政権である中華 民国が成立した。しかしながら政権は不安定で、特に 1910 年代後半から 1920 年代にかけ ては、軍閥混戦による農村破壊が著しく、それに加えて自然災害も深刻であった。

また民国時期における中国の社会は、村落共同体としてのまとまりや統制も希薄で、む しろ個人主義によって特徴づけられていた。中華民国建国の父である孫文は、中国人を「ば らばらの砂」と称していたが、中国の民衆は国家に対する求心力を失い、戦災あるいは自 然災害にも個人的に対処せざるを得ず、生存の危機に瀕していたのである(1)。そのため中 国は、名目的な独立のみならず、実質的な統一国家を建設し対外的な独立を勝ち取る必要 性に迫られていたと言えよう。

国家の統合において、国民の形成は必須の課題である。伝統的な中華世界には、国民と いう概念はなかった。しかし国家滅亡の危機に曝される中で、ばらばらの砂であった中国 の民衆は中国国民としての意識を持つようになり、こうして初めて中国という国家が統合 に向かうのであった。

その意味で 19 世紀以来の帝国主義諸国の侵略、とりわけ中国全土が戦場となり、膨大な 数の犠牲者を出した日中戦争(1937-1945 年。中国では「抗日戦争」)は、中国の民衆が中 国という国家に帰属する国民としてのナショナル・アイデンティティを形成し、「中国人」

(11)

としての一体感を持つ上で、大きなインパクトを与えたと言えよう(2)。

ちなみに中国において国家は自明のものとして存在しているのではなく、創られるもの である。そして日中戦争における抗戦は、その後中華人民共和国という統一国家を創成し ていく直接の原動力となったのである(3)。それは中華人民共和国の国歌である義勇軍行進 曲が、もともと抗日へ向けての士気を鼓舞するため唱われてきた抗日歌であったことにも 象徴されよう。

このように清末から民国時期にかけて、特に日中戦争時期にナショナリズムが高揚して いくが、民衆が「中国人」としての意識を持つ上で、社会教育を通じての国民意識の形成 は、扇の要として極めて重要な役割を果たしたのである。

歴史的に見るならば清末以来、政府は近代的な学校教育制度を導入し、国民意識の形成 に尽力してきた。しかしながら近代学校教育制度の導入は必ずしも順調には進まなかった。

政府の財政難などの要因から、近代学校を建設し教員を養成してその給与を支給すること が、困難だったからである。

一方、学校教育の普及が遅れ、結果的に社会教育は大きな役割を果たすことが期待され ることになった。これは中国における近代教育の歩みを考察する上で、見過ごすことがで きない特質として指摘できる。

ちなみに民国時期においては、正規の学校教育以外の、主に成人及び青年を対象とする 教育活動を指すのに、一般的に社会教育の名称が使われていた。その意味で中国における 社会教育の概念は、日本におけるそれと重なり合う。これは清末に日本から社会教育とい う用語が移入され、民国時期に近代社会教育が展開していったためである。

また社会教育と並んで清末から民国初期にかけては「通俗教育」、さらに 1920 年代から 30 年代にかけては「民衆教育」という用語も使用されてきた。両者はともに学校教育以外 の教育活動を指し、社会教育とほぼ同義と考えることができる。

中国では、初等教育の普及が遅れ非識字人口は膨大な数に上っていたため、ここでいう 社会教育とは、生活上基本的な読み書き能力(リテラシー)を国民が身につけるための識字

(12)

教育を中心とするものであった。中国のように近代化が遅れた国においては、近代的な学 校教育制度の導入が順調ではないことに加えて、学校教育によって識字能力を習得した児 童が成人するのを待つ時間的余裕が無かった。そのため青年及び成人に対する識字教育の 重要性は極めて高いものがあった。

また中国においては識字教育によって基礎的識字能力とともに、国民意識の形成が図ら れた。例えば識字教育の中で「中国人」「抗日戦争」ということばを学ぶことで、中国の民 衆は単一の国民として自己を規定し、中国人としてのアイデンティティを形成するように なったのである。

こうして近代中国においては、識字教育を中心とする社会教育によって、基本的な読み 書き能力とともに国民意識の形成が実現され、国家統合を支える民衆の力量形成が行われ ることになった。つまり統一国家の形成及び対外的独立の達成へ向けての内実を準備し、

中国人としての意識を持った国民を創出したのが、まさに社会教育だったのである。

したがって本論では、中華民国時期における民衆の識字能力の獲得及び国民意識の形成 過程を跡づけ、識字教育を中心とする社会教育が国家の近代的な統合を実現し、対外的な 独立国家としての中国を生み出していくダイナミズムを描くことを課題とする。

また民国時期における中国社会は決して同質ではなく、社会階級的にも、また地域的、

民族的にも差異が大きかった。しかし日中戦争において中国が国家的な危機に曝される過 程において、人々は階級、地域、民族による差異を越えて「中国人」へと参画していった。

多様で異質な存在を抱えながらも、中国の民衆が中国国民としてまとまる上で、社会教育 がいかなる役割を果たしたのかを、行論では明らかにしていきたい。

総じて本論は、民国時期の社会教育が演じた歴史的役割を、中国近代史の文脈の中で総 体的に明らかにしようとするものであり、新たなる中国近代社会教育史研究を構築するた めの一つの試みと言えよう。

このようなテーマを設定するに当たっては、二つの相互に関連した問題意識があった。

一つは、アヘン戦争以降近代化に向かった中国における社会教育の本質とは何かを究明す

(13)

ることである。

清末から民国時期にかけての社会教育は、ナショナリズムの形成及び国家統合の達成と いう点で主要な役割を演じながらも、ある意味で、民衆を「上から」教化・啓蒙するため の手段としても、為政者から一貫して利用されてきた。また人民共和国建国後においても、

社会教育が大衆統治の手段として政治的に用いられてきたのは、否定できない。これは中 国における社会教育が背負わされてきた、歴史的宿命とも言える。

したがって社会教育がナショナリズムの形成に大きく関与しながらも、あるいは大きく 関与したからこそ、民衆教化の道具という枠組みを越えることができなかった歴史的経緯 を明らかにすることは、現代中国における社会教育の本質を論じる上でも大きな意義があ ると思われる。

今一つは、中国人としてのアイデンティティはどのように形成されてきたのかを解明し、

その特徴を明らかにすることである。

日中戦争に伴うナショナリズムの高揚は日中戦争を勝利に導き、1949 年には中華人民共 和国が建国されることになった。けれども、この強烈なナショナリズムは人民共和国建国 後、各地で摩擦を起こして来たのも事実である。例えば朝鮮戦争、チベット問題、中ソ国 境紛争、中越戦争などがその具体的な例証となろう。

また現在、日中関係は、日中国交回復直後の日中友好を基調とするものから、緊張を孕 んだものに変容を遂げつつある。例えば日本と中国との間には、教科書問題、従軍慰安婦 問題、歴史認識問題、個人賠償請求問題など日中戦争に端を発した様々な問題がくすぶり 続けている。

その意味で中国におけるナショナル・アイデンティティがどのように形成されてきたの かを解明し、ナショナリズムの本質に迫ることは、現代中国を理解するだけでなく日中関 係を考える上で、極めて意義のある作業なのである。

ちなみに本論で主に検討の対象とするのは民国時期(1912-1949 年)である。中でも 1920 年代半ばから 1945 年に至る約 20 年間に焦点を当て、考察していくものとする。

(14)

この間には、国民党による北伐開始、南京国民政府(国民党政権)の成立、国民党の下で の全国統一、共産党によるソビエト区の建設、長征、さらに日本の軍事侵略とそれに対す る中国側の抗戦勝利といった歴史的事件が次々に発生している。つまり近代中国にとって 決定的な転換点であるとともに、社会を支えてきた旧来の枠組みが土台から崩れ、多様な 動きが族生し新たなる統合を求めて模索が繰り返された時期であった。

また民国時期は、北洋軍閥政府、国民政府(国民党政権)だけでなく、共産党、日本軍部 など様々な勢力が、社会教育へのアプローチを試みている。さらに政府だけでなく民間の 側からも社会教育への取り組みが活発化し、知識人や民衆を巻き込みながら、都市部ある いは広大な農村部を舞台として様々な社会教育が展開された。その意味では混沌としなが らも、変革へのエネルギーに満ち溢れていた時代であったと言えよう。

第 2 節 分析の視角

本論では、民国時期の社会教育を考える上でとりわけ注目すべき実践を取り上げる。ま た異なる地域や政権下、異なる実施主体による多様な実践を論じることで、民国時期にお ける社会教育を重層的に捉え分析していきたいと考える。

まず中華民国成立後、国民革命を経て 1927 年の国民党政権樹立、さらに日中戦争開始前 までの時期(1912-1937 年)においては、①江蘇省における民衆に対する基礎教育と国家統 合、②華北農村における郷村建設運動、について考察していく。

また日中戦争勃発後の時期(1937-1945 年)については、③華北及び蒙疆占領地(=日本 軍統治地域)における回教徒工作と少数民族教育、④旧解放区(=共産党統治地域)におけ る識字学習運動、について論じていくものとする。

1、江蘇省における民衆に対する基礎教育と国家統合

江蘇省は近代教育の先進地域であり、また 1927 年の南京国民政府の樹立後には、政権の 膝元として建設が重視された。ここでは、江蘇省に焦点を当てながら、民国時期に国家統

(15)

合の基盤となる民衆の基礎的識字能力はどのような形で育成されたのかを論じる。また国 民政府は民衆に対する基礎教育をどのように掌握し国家統合に導こうとしたのか、その中 で、いかに民衆の自生的な教育活動が変容を遂げ、あるいは独自の発展を遂げようとして いたのかを分析する。

本論では、清末から民国時期にかけての近代教育の導入過程において、民衆がいかなる 形で基本的な識字能力を身につけていったのかを具体的に検討するため、まず正規の近代 学校以外の教育機関としての「私塾」について論じていく。

中国においては近代的な学校教育制度の整備が遅れたが、その一方で旧来の伝統的な教 育機関としての私塾が存在し民衆の中に根付いていた。こうした民間の私的な教育機関と しての私塾は、中華民国時期に全国的に存在し、1937 年に日中戦争が始まる直前において も、読み書きを教授する重要な教育機関であった。

これは民衆の側の教育要求を政府が満たすことができないため、民衆が自分たちの力で 教育を営んでいたということであり、注目に値する。また学校教育以外のノンフォーマル・

エデュケーションとしての社会教育が、民国時期の農村において、大きな役割を果たして いたことを物語るものであろう。

私塾は児童を対象とする初等教育機関であり、厳密な意味では青年及び成人層を対象と する社会教育の範疇には入らない。しかし正規の学校教育以外の民衆の自生的な教育機関 であること、また民国時期全体を見通した時に、私塾は民衆の基礎的識字能力の向上にと って見過ごすことができない役割を果たしたことから、本論では取り上げていきたい。

本論においては、国家の教育政策や近代小学との関係を踏まえながら、私塾について歴 史的に分析する。具体的には、伝統的に文化が発達し、民国時期に入ってからも私塾数が 全国第 1 位であった江蘇省に焦点を当て、無錫県の事例を分析しながら、私塾の実態を明 らかにしていく。

また江蘇省は 1927 年に成立した南京国民政府の膝元であったため、特に国民党政権の成 立後、初等教育の普及を政府が強力に推進する過程において、政府はいかに私塾を体制に

(16)

取り込もうとしたのか、その結果、私塾はどのような変貌を遂げていったのかについて、

合わせて論じていきたい。

次ぎに 1920 年代後半から 30 年代にかけて教育関係者から広く提唱されるようになった

「民衆教育」についても検討する。民衆教育は、主として失学の青年・成人に対する補習 教育や継続教育を意味し、教育を受けることができなかった民衆に対して、教育の機会を 保障しようとするものである。民衆教育も社会教育の範疇に入れて考えることができる。

南京に国民政府が成立して以降、民衆教育の施策が積極的に進められることになり、失 学の青年・成人のための補習教育機関である民衆学校や、地域における民衆の教育・文化 の中心センターとしての民衆教育館が全国各地に設立された。民衆教育館は、講演会や講 座、あるいは各種職業訓練などの多様な事業を実施し、その意味では、日本の公民館にか なり近い性格を有していたといえよう。

とりわけ江蘇省は国民党政権の首都南京を擁する地域であり、民衆教育の先進地域でも あった。そのため各県レベルに多くの民衆教育館が設立され、民衆教育館網が形成されて いた他、民衆教育の専門家を養成するため、江蘇省立教育学院という高等教育機関が江蘇 省無錫に創設された。

同教育学院の卒業生は民衆教育館の職員、あるいは行政の社会教育担当職員として活躍 し、江蘇省の民衆教育の発展に大きな影響を及ぼした。こうした江蘇の民衆教育は全国各 地にも広がり、他の省でも江蘇をモデルとして民衆教育及び社会教育の事業を推進してい た。

このように民国時期において、国民政府成立後、地方政府レベルでも民衆教育に積極的 に取り組み、民衆教育館網が形成されていたこと、民衆教育の人材養成を高等教育段階で 行ったことなど、注目すべきであろう。日本において、社会教育の専門職員である社会教 育主事を高等教育機関において養成するようになったのは、ようやく第二次世界大戦後の ことだったからである。

本論ではしたがって、江蘇省を舞台として、1920 年代末から 30 年代にかけて展開され

(17)

た民衆教育について論じ、民衆教育がどのような要因から発展していったのかを考察して いく。また江蘇省における民衆教育に尽力した女性として、江蘇省教育庁社会教育科科長 であった兪慶棠を取り上げ、その事績について合わせて検討していきたい。

2、華北農村における郷村建設運動の展開

第 2 に本論では、1920 年代後半から日中戦争が勃発する 37 年までの約 10 年間に展開さ れた、郷村建設運動について論じていく。

中国の農村社会は清末以来、外国帝国主義の侵略に伴う自給自足経済の崩壊、土地所有 関係の不平等など複合的な要因のために、窮乏化が進んでいた。そのため 1912 年の中華民 国成立以降も、農業国でありながら米・小麦・綿花の入超が続くという困難な状況にあっ た。特に中国の華北においては、同族的な結合が相対的に強かった華南の農村とは異なり、

共同体的な関係が崩れ、農民は餓死寸前まで追いつめられていたと言われる。

そのため知識人の中にも、農村問題の解決こそ中国の危機を克服するための鍵として認 識し、農村において活発な郷村工作を実践する者も生まれ、全国各地で活動が展開されて いった。そして新しい民衆自治組織の結成や、農業技術の改良、あるいは農民への教育の 普及を通して農村を再建し、民族的危機を克服する道が模索されたのである。

これら一連の郷村工作への取り組みは、一般的に「郷村建設運動」と総称されている。

国家的な危機に際して、教育を軸に据えての農村改造を目指し郷土の再生や国家の振興を 希求した同運動は、民国時期における社会教育の歴史において、特筆すべき存在と言えよ う。

当時、多くの団体・機関が全国各地で郷村建設運動に取り組んでいたが、本論では特に 中国華北における二つの実践、つまり①晏陽初を中心とする中華平民教育促進会(以下平教 会と略称)による河北省定県における実践、②梁漱溟による山東省鄒平県における実践、を 取り上げ論じるものとする。

晏陽初(1890-1990 年)は、識字教育や郷村改造の上で目覚ましい活躍を演じた指導者で

(18)

あり、中国のみならずアメリカやフィリピンなど中国国外でも著名な社会実践家である。

平教会は、1923 年に、五・四運動以来の民主主義(=平民主義)の潮流の中で創設され、

晏陽初らアメリカ留学帰国者をその中核としていた。設立当初は主に都市部を中心とする 識字運動(=平民教育運動)を展開していた。中国における識字教育が全国的に大衆運動と しての盛り上がりを見せたのは、平教会の平民教育運動による所が大きい。

1920 年代後半になると、平教会は中国農村の経済破綻を背景として、農村部の再建を視 野に入れての活動を行い、華北に位置する河北省定県を拠点としての郷村工作を実施した。

定県での取り組みにおいては、米国からの資金援助の下にプラグマティズムの考えに基 づき大胆な農村改革の実験が実施され、定県実験と呼称されている。定県実験は、人員・

資金・計画等の各面において、郷村建設運動史上、最大規模の事業と考えられる。

一方、梁漱溟(1893-1988 年)は、中国の 20 世紀を代表する思想家・哲学者であり、同 時に社会実践家である。梁は山東郷村建設研究院を中核として、1931 年に山東省鄒平県に おける実践に着手した。鄒平実践の特徴は、伝統的共同体社会における相互扶助的・教化 的人間関係への回帰を通して、農村社会の再生を図るところにあった。

晏陽初を中心とする平教会の定県実験が、米国モデルの農村近代化を指向したとすれば、

梁漱溟による山東省鄒平県における実践は、伝統への回帰を目指すものであった。本論で は、郷村建設運動を共に代表しながらも対照的なこの両者の実践に焦点を当てて、中国農 村及び国家の危機に臨んで、いかに中国の知識人が取り組もうとしたのかについて考察し、

また郷村建設運動の意義と限界とについて論じていきたい。

3、華北及び蒙疆占領地における回教徒工作と少数民族教育

第 3 に本論では、日本軍が中国におけるイスラーム教徒に対して行った「回教徒工作」

(「回教工作」とも呼称)という点から、華北及び蒙疆占領地における教育を検討していく。

「回教」という用語は、現在では「イスラーム教」と呼称するのが適当と考えられるが、

本論では当時の呼称に従って原則的に「回教徒工作」をそのまま使用する。

(19)

日本軍は日中戦争の勃発に伴い、華北への侵略を本格化し、さらにチャハル省張家口か ら綏遠省包頭にかけて軍事占領下に置き、1939 年には蒙古聯合自治政府(一般的に蒙疆政 権と呼称)を成立させた。日本軍部は民族分断政策により漢族を牽制するため、また中国西 北部への侵攻を視野に入れて、「回教徒工作」を展開した。

中国西北部は中央アジアから続くイスラーム教徒の居住地域であった。日本軍部は漢族 とイスラーム教徒との間に横たわる歴史的確執を巧みに利用しながら、占領政策を進めよ うとしたのである。

具体的には華北及び蒙疆占領地において、主に「回民」に対する回教徒工作を展開した。

そのため日本軍はイスラーム教徒の団体である中国回教総聯合会(回聯)を北京に設立し た。回民は漢語を母語とするイスラーム教徒であり、中華人民共和国建国後は、回族と呼 称されるようになった少数民族である。

このように日本軍の回教徒工作を本論で論じるのは、日中戦争時期に少数民族が中国国 民としてまとまっていった背景を明らかにするためである。

国家の統合において少数民族といったマイノリティをいかに参画させるかは、その鍵を 握る重要な問題である。中国においては日中戦争時期に、漢族だけでなく少数民族も中国 人としてのナショナル・アイデンティティを形成していった。それでは言語、宗教、風俗 習慣といった多くの文化的差異にもかかわらず、少数民族はなぜ中国に帰属する中国人と しての意識を抱くようになっていったのであろうか。本論ではこの点について解き明かす ため、日本軍の回教徒工作と少数民族教育という視点から検討していきたい。

また日本軍は、当時、華北占領地に日本型の青年中心・団体中心の社会教育を持ち込ん だが、回教徒工作においても、青年団、青年学校、あるいは塾を通じての教育が重視され ていた。そのため本論では、日中戦争時期の日本の回教徒工作の実態を、青年層に対する 教育という側面から明らかにしていく。

さらに回教徒工作はイスラーム教徒にどのような作用を及ぼし、それに対して彼らはど のように立ち向かおうとしたのか。回教徒工作はイスラーム教徒に結果的に何をもたらし

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たのか。こうした諸点について考察していきたい。

また同じ占領地といっても華北と蒙疆とでは、歴史的・社会的状況が異なるため、回教 徒工作においても、基本的な政策や事業内容の面で同一ではなかった。本論では、両者の 違いを浮かび上がらせながら論じていく。

4、旧解放区における識字学習運動

第 4 に本論では、日中戦争時期に、共産党の統治下にあった旧解放区において活発化し、

土地改革の進行とパラレルに進められた非識字成人を主な対象とする識字学習運動を考察 する。

中国の旧解放区とは、日中戦争(1937-1945 年)時期に、中国共産党によって建設された 地区を指す。一般的に旧解放区は山間の僻地、あるいは省境に建設されたため、国民党や 日本軍の影響から比較的自由であり、日中戦争を支える根拠地となった。旧解放区の中で、

中核的役割を果たしたのは、中国西北の内陸部に位置する陝甘寧辺区(陝西省、甘粛省、寧 夏省に跨る地域、首都は延安)である。

旧解放区は交通が不便で文明から隔絶された地域に建設されたため、学校教育も普及し ておらず、成人のほとんどが非識字者であった。そのため識字学習が重視され、各地に識 字組などの成人対象の補習教育機関が設立された。こうした識字学習は大衆運動として、

多くの農民を巻き込みながら展開されたのである。

日中戦争における中国人民の抗戦は、中国人が中国という国家に帰属する人民としての

「中国人」意識を形成し、国家が対外的な独立を果たし近代国家へと統合されていく上で の原動力となっていったが、こうした中国人としての意識の形成過程において、旧解放区 における識字学習運動は、極めて大きな作用を及ぼした。

本論においては日中戦争の中で、識字学習運動が果たした役割について詳細に検討し、

同運動がばらばらの砂であった中国人を中国国民へと統合していく、そのメカニズムを明 らかにしていきたい。

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(21)

また旧解放区では、大衆を能動的存在と捉え、その自発性を尊重しようとする「大衆路 線」が積極的に唱道されていた。大衆路線を具体化する形で教育事業においては、大衆に 依拠しながら学校を設立し、政府が支援するという方式である「民営公助」の教育方針が 打ち出され、数多くの民営公助学校が設立された。本論では民営公助のモデル小学校を取 り上げ検討するとともに、同校の女性教員であった陶端予(1921-1992 年)の事績について、

合わせて論じるものとする。

第 3 節 従来の研究動向及び本論の意義

それでは、これまで本論に関連する領域では、どのような研究成果が蓄積され、またこ れらの研究で残されてきた課題とは、いかなるものであっただろうか。以下では、従来の 研究の到達点と限界とを述べた上で、本研究の意義について触れていきたい。

第 1 に、これまで中華民国時期の教育史については、かなり多数の研究がなされてきた が、それにも拘わらず社会教育に関しては、個別的で断片的な研究が多かったことである。

1990 年代以降、民国時期の教育史については研究が進み、中国では『中華民国教育史』

(1990 年)、『民国教育史』(1997 年)などの通史が出版されている(7)。また日本における民 国時期の教育史研究については、『日本の中華民国史研究』(1995 年)の中に高田幸男の詳 細な紹介があり、この時期に関する教育史研究が着実に進められてきたことがわかる(5)。

しかし民国時期においては社会教育が重要な役割を果たしたにも拘わらず、社会教育と いう観点から中国社会を分析し、社会教育の本質を総体的に明らかにしようとした研究は、

極めて不十分であった(6)。

これは学校教育の場合、カリキュラム、教師などに関する資料が残されているのに対し て、社会教育は、どちらかというと捉えどころがなく、実態を明らかにすることが難しい、

といった理由によっている。社会教育について検討するためには、当時の雑誌論文、新聞、

あるいは公文書などを丁寧に読み解き、一つ一つの事実をモザイクのように組み合わせ、

全体像を再構築していく必要があるからである。

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(22)

その意味で本論は、民国時期の社会教育に焦点を当てた近代中国社会教育史研究の一翼 を担うものであり、国民の形成と国家の統一とに社会教育が果たした役割を明らかにする 意義があると思われる。

第 2 に、従来の中国教育史研究、特に中国における研究においては中央の動向分析が中 心であり、省、県など地方レベルでの動きを明らかにするものが必ずしも多くなかった。

一方、日本における中国史研究は実証性を重視しており、全体の傾向としてはミクロ的 研究が多い。そのため中国教育史研究においても、地方レベルでの教育史研究は、一定の 蓄積がなされてきた。例えば地方教育史の先駆的研究としては、近代学校制度の地方にお ける浸透過程について論じた阿部洋の『中国近代学校史研究』(1993 年)がある(7)。しか し地方レベルでの近代教育についての検討は、資料上の制約もあり、まだまだ充分とは言 えない。

しかしながら 90 年代以降、中国において地方教育史資料の編集が進められるようになり、

例えば『北京近代教育行政資料』(1995 年)、あるいは『内蒙古教育史志資料』(1995 年) などの一連の地方教育史資料集が、出版されるようになってきている(8)。さらに民国時期 に地方で出版された教育関係雑誌の復刻版やマイクロフィルムが出版されており、これら の資料を元にして中国各地で地方教育史も出版されるようになった(9)。

本論では、こうした資料や研究成果に依拠しつつ、省、市、県、あるいは学校レベルま で下ろして、教育の実像を明らかにしようと試みている。またできるだけ教師ー学習者の 関係性を歴史の中で浮かび上がらせ、民衆の声を聞きながら歴史を再構築することを重視 した。その意味で本論は、よりミクロな地域教育史研究への一つの試みである。

第 3 に、人民共和国における中国近代教育史研究は、共産党の教育工作に関する記述が 主流を占めてきたが、文革や 1989 年に発生した天安門事件を経て、今や共産党の教育工作 に対する再検討が必要となってきたことである。

例えば共産党による旧解放区における教育は、人民共和国における教育の原点としての 重要性を持つものとして、長年にわたって極めて高く評価されてきた。1960 年代にすでに

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執筆され文革後の早い段階に出版された、陳景盤の『中国近代教育史』(1979 年)や陳元暉 の『中国現代教育史』(1979 年)が、その典型であろう(10)。また日本における研究に目を 向ければ、新島淳良の『中国の教育』(1957 年)も、共産党の立場に立脚し、解放区に重点 を置きながら共産党の教育実践に焦点を当てた中国共産党教育史である(11)。

しかし現在、中国共産党に対しても、新しい角度からの研究が進んでいる。そして日中 戦争時期の旧解放区においても粛清や知識人への迫害が行われたことが明らかにされつつ ある(12)。その意味から、新しい観点に立って、旧解放区における識字学習を捉え直す必 要性があると思われる。

一方、従来、1920 年代から 30 年代にかけての郷村建設運動など、国民党統治下の動き に関しては、あまり関心が寄せられず、正当な評価も与えられてこなかった。

しかし中国の農村部における貧困をいかに解決するかは、現在に至るまで、20 世紀の中 国を貫いて存在してきた大きな問題であった。その意味でこの課題に取り組んだ郷村建設 運動には先駆的な意義があり、中国近代史においても注目すべきものと考えることができ る。

したがって本論は、民国時期の教育史研究の偏りを是正し、国民党統治下における諸実 践の再評価を目指す試みと言えよう。

第 4 に、これまで人民共和国における、教育家に対する人物研究が特定の人物群に偏り、

それ以外の研究は必ずしも充分ではなかったことである。つまり概して共産党の指導者及 びそれに近い立場の人物に関する研究が進む一方で、共産党から批判された人物について は、研究対象として取り上げられることさえもなかった。

毛沢東など共産党指導者の教育思想や教育工作に関する研究は、教育研究の中の重要な 一項目であった。例えば文革前に北京師範大学で編集・出版された『中国近代現代教育史』

(1957 年)において、毛沢東の教育学説は 1 つの章を当てられ詳細に論じられている(13)。

また徐特立(1877-1968 年)は、毛沢東が湖南高等師範学校の学生であった時の教師であ り、早い段階から中国共産党に参加しその中心メンバーの一人でもあったが、彼の教育界

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における名望は高く、その人物研究や資料上の整備も早くから進められてきた(14)。

その他、民国時期に活躍した教育家の中では、哲学者であり北洋軍閥政府の教育総長や 北京大学総長などを歴任し、中国の教育界に多大な貢献をした蔡元培(1868-1940 年)に関 する研究が比較的充実している(15)。陶行知(1891-1946 年)も人民中国において一時、批 判されたが、概して高く評価されてきた。ちなみに陶行知に関する日本側の研究としては、

中国教育研究の日本における先駆的存在であった斉藤秋男の研究がある(16)。

しかしながら郷村建設運動に関与した晏陽初及び梁漱溟は、共産党が進めようとした貧 農中心の土地改革を阻害したとして、長らく批判の対象であった。特に晏陽初については、

1945 年から 49 年にかけて戦われた国共内戦の時期に、国民党に協力し、国民党がアメリ カから援助を受ける立て役者となったこともあり、研究することさえ憚られる状況にあっ た。

ただし文化大革命の終了後、1980 年代に入ってからようやく晏陽初及び梁漱溟について の研究が人民共和国でも開始されるようになった(17)。また近年来、著作集などの出版も 行われれるようになり、『晏陽初全集』、『梁漱溟全集』がそれぞれ出版されている(18)。

また民国時期から現在に至るまで活躍した教育家の論文を収録したものとして『中国近 代教育論著叢書』が 1991 年以降、継続的に出版されている(19)。この中には、晏陽初や梁 漱溟が収録されている。同シリーズにはそれ以外にも、民国時期に活躍した教育家、例え ば民衆教育の発展に尽力した兪慶棠(1897-1949 年)、幼児教育の専門家である陳鶴琴 (1892-1982 年)、南京国民政府の教育部部長であった蒋夢鱗(1886-1964 年)なども収めら れている。ちなみに国民党政権の要職を勤め、人民中国建国後は、国民党とともに台湾に 渡った蒋夢鱗を取り上げている点は、ここ数年来の教育史研究における変化を象徴してお り注目に値しよう。

このように近年来、人物研究の基盤が着実に整備されつつあると言えよう。本論では、

これらの新しく刊行された資料や研究に基づきながら、晏陽初及び梁漱溟の再評価を試み る。またこうした人物研究の一貫として本論では、国民党統治下において江蘇省の民衆教

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育の発展に貢献した兪慶棠を取り上げ、その事績を掘り起こしていきたい。

第 5 に、これまで日中両国では植民地教育研究について、精力的な研究が行われてきた が、こうした研究は満洲国の研究が大多数を占め、それ以外の地域については極めて限定 されたものだったことである(20)。

例えば『「大東亜戦争」期における日本植民地・占領地の総合的研究』(2001 年)には、

日中両国における満洲国に関する植民地教育研究の詳細な文献リストが紹介されており、

満洲国を中心とする植民地研究が着実に進められてきたことを示している(21)。その一方、

華北及び蒙疆の占領地については、ようやく研究の緒についた段階と言えよう(22)。

しかし日本の占領政策は、満洲国、華北、蒙疆といった地域ごとに、かなり異なる点が あり、一括りに語ることはできない。その意味でも満洲とは違う特質を持った華北、蒙疆 占領地における教育の実像を明らかにすることは重要と思われる。

したがって本論においては、1937 年の日中戦争勃発後の華北及び蒙疆の日本占領地にお ける教育について検討し、戦闘に伴う教育破壊の実態を明らかにしながら、日本の軍事占 領が占領地における教育にどのような影響や弊害をもたらしたのかを論じていきたい。

華北及び蒙疆政権における研究がこれまで充分ではなかった背景としては、満洲国関係 のように資料がまとまった形で遺されていないことがある。概して華北や蒙疆においては 日本軍の占領期間が短く、政権としての体制固めが充分できなかったこと、また太平洋戦 争が始まり日本の敗色が濃くなるにつれて、出版事情もままならず資料自体も少ないこと がある。また蒙疆政権の場合、日本軍敗走時に多くの資料が焼失したと言われている。そ のため、これらの占領地に関する研究は、当時の新聞、雑誌、公文書などの分散した資料 をつなぎ合わせながら、時代状況を再構築していく必要がある。

その意味で、本論は大日本帝国の占領下にあった地域における教育の全体像を浮かび上 がらせるための基礎的作業の一貫であるとともに、植民地・占領地教育研究上の空白を埋 める意義があると考えられる。

第 6 に、少数民族の観点から日本軍の占領政策を見通した研究が少なく、日本軍占領下

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での少数民族政策についての研究は甚だ不十分だったことである。

日本軍は、日中戦争時期に占領政策を遂行するために積極的な回教徒工作を展開し、関 係したイスラーム教徒に与えた被害は多大なものがあった。しかしながら、建国後、こう した回教徒工作は歴史の中に埋没してしまい全貌が明らかにされることはなかった。それ は中国側にとってはあくまでも弾劾の対象であり、研究に値しないと見なされてきたため であるし、日本側にとっては隠蔽したい事実であり、消し去りたい記憶だったからである。

例えば中国側の少数民族史研究、あるいは少数民族研究において、日中戦争時期を対象 とする研究はそもそも充分なものではないが(23)、数少ない研究の中では、日本軍と交戦 した回民の事績の賞揚が中心であった(24)。その一方、日本の占領下の回民に対する認識 は厳しく、特に占領政策への協力者は「回奸」(回民の裏切り者)として厳しく断罪されい る(25)。

また日本国内においては、日本軍の回教徒工作に関して、これまで明らかにすべき課題 として提起されながらも、研究はごく限られたものでしかなかった(26)。

しかしながら事実を丁寧に掘り起こしていくと、対日協力者であっても実は積極的な形 であれ消極的な形であれ日本軍の占領政策に抵抗していた部分もあり、単なる「回奸」と して片づけることはできない。さらに占領地における教育の実態を少数民族、特にイスラ ーム教徒の側から考察する試みは、日本軍による支配の実態を新しい角度から浮き彫りに し、日本的近代の総体とその遺産とを問い直す上で、意義があると考えられる。

日中戦争時期はマージナルな存在であった少数民族が、歴史の表舞台に踊り出した時代 でもあり、少数民族研究にとって見過ごすことができない時期である。その意味で本論は 少数民族史研究や、少数民族教育史研究の重要な一角をなすものと思われる。

最後に第 7 として、日本国内における社会教育研究に目を向けてみると、諸外国に関す る社会教育研究史は、どちらかというと欧米を中心としたものであったことである。

しかしながら世界史的な立場から日本の社会教育を相対化する営みを「比較社会教育史 研究」とするならば、欧米を対象とするだけでは不十分である。つまり日本における近代

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化と人間形成、さらにそこにおいて社会教育が果たした役割を把握した上で、現代日本の 社会教育の諸課題に対して的確な認識をするためには、東アジアという大きな枠組みで理 解する必要がある。

欧米諸国に遅れて近代化が進行した東アジア地域において、近代化を担いうる新しい人 間を教育によって創出することは、国家の存亡をかけた課題であり急務であった。そこで は伝統と近代との、土着と外来との確執の中で、近代教育の導入に力が注がれてきたので ある。

とりわけ中国は比較のための一つの座標軸として有効な手段になる。日中両国の教育近 代化の軌跡は、連鎖的あるいは雁行的に進行してきた。例えば日本は明治維新後、西欧を モデルとして近代教育の導入を図ったが、こうした日本をモデルとして、中国においては 清末から民国初めにかけて教育改革が推進された。そして各地の教育機関では、教師役と して日本人教習が教鞭を執ることも少なくなかった(27)。

その後、日本の「対華 21 ケ条要求」及びそれに伴う中国民衆の抗日行動の激化に象徴さ れるような日中間の対立の深まりを背景として、1920 年代に入ると、中国は日本モデルを 脱して米国をモデルとした教育改革を進めることになった(28)。

また社会教育についても、当初は日本の社会教育に習う形で中国における近代社会教育 は始動したが、後にアメリカの影響を受けながらも独自の発展を遂げるようになる。

しかし日本軍部の中国への侵攻を背景として、1930 年代になると植民地や占領地におい て、日中の教育は衝突と交錯を始めることになる。そして近代化へと複雑な動きを始めた 中国の教育界に、近代化の矛盾を抱えた日本がその矛盾を転嫁する形で、支配者として君 臨していったのである(29)。例えば日本の軍事占領下においては、青年対象の事業が重視 され、日本型社会教育の典型と言える青年団や青年学校、青年訓練所、あるいは塾が多数 設立され、中国の青年が強制的に動員されることになった。

本論は、占領下における日本型教育の移入の実態を明らかにし、日中の社会教育の衝突 と交錯を丁寧に跡づけながら、絡み合ってきた日中の教育近代化の糸を紐解く一つの試み

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である。それは過去の植民地や占領地における教育を理解するためだけでなく、日本や中 国、さらにアジア全体の教育の未来を見通す上で重要な作業と思われる。その意味で本論 は、日中教育交流史研究であるとともに、比較社会教育史研究の一翼を担うものと考える ことができる。

第 4 節 本論の構成及び基本史料 第 1 項 本論の構成

本論は以下のような構成をとっている。

第 1 章では、江蘇省に焦点を当てながら、民国時期における民衆に対する基礎教育と国 家統合について論じる。

第 1 章第 1 節では、中華民国時期には近代的な学校教育の普及が容易ではなかったこと、

その一方で私塾といった、正規の学校教育以外の伝統的な形態を留めた民衆独自の初等の 教育機関が、民衆に対する基礎教育の普及において大きな役割を果たしたことを論じる。

それとともに、政府はどのように私塾を体制内に取り込もうとしたのか、その結果、私塾 はどのように変貌を遂げていったのかを、私塾をめぐる国家の政策や私塾と近代小学との 関係を踏まえながら歴史的に分析していく。

第 1 章第 2 節では、まず国民政府の統治下における全国的規模での社会教育の発展過程 を概観した上で、江蘇省に焦点を当て、民衆教育の専門的人材を養成する高等教育機関で ある江蘇省立教育学院の創設の経緯について考察する。また同学院ではどのような教育が 行われ、江蘇省における民衆教育の発展の上でいかなる作用を及ぼしたのかを、具体的に 検討していく。

第 2 章では、民国時期に展開された郷村建設運動を対象として取り上げる。特に近代合 理主義に立脚した晏陽初と、それとは対照的に伝統に依拠した梁漱溟の双方に焦点を当て ながら検討し、その意義と限界とを明らかにしていく。

まず第 2 章第 1 節においては、晏陽初を中心とする平教会の河北省定県での実践に焦点

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を当てて考察し、当時の時代状況の中で定県実験が果たした歴史的役割とその内包してい た問題点とを、概括的に検討する。

第 2 章第 2 節においては、中国独自の農村復興の方向を試行錯誤し、山東省鄒平県を舞 台にそのあり方を探求した、梁漱溟を中心とする山東省郷村建設研究院の実践を分析する。

第 3 章では、日本軍部が進めた回教徒工作を、とりわけその教育事業面について取り上 げる。この方面の研究は、従来ほとんど手つかずのまま残されてきたため、本論では多く の分量を当てるものとする。

まず第 3 章第 1 節において、なぜ日本軍は回教徒工作を企てたのか、日本の回教徒工作 はどのように行われ、その内実はいかなるものであったのかを探っていきたい。本節にお いては、合わせて日本国内の動向にも焦点を当てていく。

第 3 章第 2 節においては、華北の傀儡政権下における回民教育に注目し、日本の軍事支 配がイスラーム改革運動の中で進められていた回民教育の近代化への取り組みに与えた影 響について分析する。また日本軍による回教徒工作に対して、回民はどのように立ち向か い、いかなる形で自分たちの信仰を守り後代を育てるための試行錯誤をしたのかについて 考察していきたい。

本節においては日本軍による少数民族教育政策や占領下の回民教育の全体像に迫るため の基礎作業として、主に学校教育について論じるものとする。

第 3 章第 3 節においては、回聯の主な事業の一つであった中国回教青年団を取り上げる。

同青年団は、青年幹部を養成して一般イスラーム青年の指導に当たらせることを企図して いた。また将来的にはイスラーム教徒の軍隊を作る意図があったと言われている。

本節では中国回教青年団が設立された時代状況を明らかにするため、まず日本軍の軍事 侵攻に伴っていかに華北の社会教育が破壊されたのか、その実態をまず明らかにしていき たい。さらに華北占領下における民衆工作を概観した上で、中国回聯の設立経緯、事業な どについて取り上げていく。

また中国回教青年団のカリキュラムや活動内容、訓練修了生の進路などから、訓練の実

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態に迫り、その上で回聯の主要な事業として進められた青年団が、なぜ終焉に向かったの かを考察していく。こうした考察を通じて日本軍が軍事占領下のイスラーム青年を、どの ような形で利用しようとしたのか、さらに青年団における回教徒工作の失敗がいかに青年 達を共産党の側に駆り立てていったのかを跡づけていく。

第 3 章第 4 節においては、蒙疆政権下における回教徒工作、特に青年に対する教育活動 を中心として取り上げていく。また回教徒工作を推進した日本人指導者に焦点を当て、蒙 疆政権下で進められた回教徒工作は何を企図し、どのような経緯を辿って終焉に至ったの かを論じるものとする。

第 3 章第 5 節では、蒙疆政権下で特に回民の女子青年のため創設された善隣回民女塾に 焦点を当てる。善隣回民女塾については、当時、日本側から高く評価され、見学者も多数 に上った。その一方、人民共和国における回族史研究においては、厳しく批判されてきた。

本論では女塾の実像を明らかにするとともに、蒙疆政権における日本軍の回教徒工作が、

その後、回民に何をもたらしたのかについて踏み込んで論じていきたい。

第 4 章では、旧解放区における識字学習運動について取り上げる。まず第 4 章第 1 節に おいて日中戦争時期に陝甘寧辺区を中心とする旧解放区において実施された識字学習運動 を、組織、内容等の角度から分析する。

次ぎに第 4 章第 2 節で旧解放区で登場した「民営公助」、すなわち大衆に依拠しながら学 校を設立し、政府が支援するという方式を検討する。旧解放区では、大衆を能動的存在と 捉え、その自発性を尊重しようとする「大衆路線」が積極的に唱道されていた。大衆路線 を具体化する形で教育事業においては、民営公助の教育方針が打ち出され、数多くの民営 公助学校が設立されたのである。

ここでは民営公助学校のモデルとして、当時、解放区で注目を集めていた、延安郊外の 楊家湾小学を取り上げるものとする。楊家湾小学では、都市出身の女性教員である陶端予 (1921-1992 年)が、民衆の日常生活に根ざした教育実践を展開した。

また日中戦争という外圧への抵抗の過程で中国は国家統合に向かうが、第 4 章第 3 節に

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おいて、このプロセスにおいて識字学習運動が果たした役割を考察する。つまり識字学習 運動の中で、個々の人間がいかに中国人としての団結の必要性を認識し、国民意識が形成 されていったのかについて検討しつつ、本論のまとめとしていきたい。

第 2 項 基本史料

本論は歴史研究であるため、まず当時の文献、特に現地で発行された第一次資料である 新聞や雑誌、さらに実践者の著作を読み解くことを基本的な方法として用いている。近年 来、民国時期における新聞や雑誌の復刻版がようやく出版されるようになってきたのは幸 いなことである。また『中国近代学制史料』、『中華民国史档案資料匯編』など、政府の公 文書などを含む第一次資料を収録した貴重な資料集も出版されるようになっている(30)。

こうした資料に基づきながら、本論では地方レベル、あるいは学校や教室レベルといっ たミクロ的分析にこだわりつつ、歴史像を再構成することに重点を置いた。例えば実際の 教育現場では何が教えられており、教師と学習者との関係はどうであったのか、学習者は そこで何を学び何を感じていたのか、といった学習者の内面に一歩踏み込み彼らの心の軌 跡を明らかにしながら歴史を再構築することに留意した。

基本文献としては、第 1 章については、民国時期における教育統計や江蘇省教育関係の 基本文献が中心となる。例えば『中華民国二十四年度全国教育統計簡編』『無錫三年教育』

などを利用した(31)。また『教育与民衆』、『江蘇教育』などの雑誌も参照した(32)。これ らの多くはスタンフォード大学フーバー研究所の東アジア図書館に所蔵されている。

第 2 章の平教会の定県実験については、『民間』などの雑誌に拠るところが大きい(33)。

また梁漱溟による郷村建設運動については、梁の主要著作に依拠した。また最近では、晏 陽初や梁漱溟の著作集も刊行されるようになっており、こうした資料に基づき本論は執筆 されている。

第 3 章の日本の回教徒工作は、日本語及び中国語資料をつき合わせながら執筆されてい る。まず日本語資料としては『月刊回教圏』『蒙古』などの雑誌や『蒙疆新聞』の外、早稲

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田大学に所蔵されている大日本回教協会関係資料に依拠した(34)。また日本軍関係では、

防衛研究所が所蔵する資料を主に利用した。

中国語資料としては傀儡政権の下で発行された『回教月刊』、『回教週報』などの雑誌や 新聞に依拠する所が大きい(35)。また南京の中国第二歴史档案館所蔵の華北政務委員会教 育総署関係資料や、北京市档案館所蔵の臨時政府、華北政務委員会関係の公文書などを利 用している。

第 4 章においては、当時、延安で出版されていた共産党の機関誌である『解放日報』や、

その他共産党の当時の出版物などの第一次資料を重点的に用いるものとする(36)。中華人 民共和国建国後、50 年を経た現在、共産党の関係文書の掘り起こしや整理が進んでいる。

その意味で、こうした文献を踏まえて、共産党が旧解放区において展開した識字学習運動 について、その全体像を再検討することは、意義があると考えられる。

また文献と並んで重要なのは、現地調査によって得られるインタビューである。本論の 執筆に関わって話しを聞いたのは、当時の実践の関係者、あるいはその家族約 50 名以上に 上っている。

インタビューによって語られるオーラル・ヒストリーは極めて貴重な資料であり、やや 無味乾燥とも思われる歴史的事実に、当時の関係者の息吹を吹き込むものである。そのこ とで歴史研究はリアリティを獲得し、現在、あるいは未来にとって意味を持つものとなる。

本論においては、こうしたインタビューの成果もまじえながら、中国社会教育史を再構成 していきたい。

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