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第 1 章国政選挙から見た京都共産党本章では国政選挙である衆議院選挙と参議院選挙の双方における 京都選挙区での共産党の得票率を概観し 全国での共産党得票率との比較を通して 共産党の強さがいつからのものであるのか またいつ党勢を拡大したのかを分析していきたい 第一節衆議院選挙 1947 年の第 23

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2016 年度 一橋大学社会学部 中北浩爾ゼミナール ゼミ論文

京都における共産党―なぜ強いのか―

社会学部3 年 4114068A 神林碧

目次

はじめに 第1章 国政選挙からみた京都共産党 第1節 衆議院選挙 第2節 参議院選挙 第2章 京都での躍進の背景 第1節 リベラルな気風 第2節 蜷川革新府政 第3章 なぜ今もなお強いのか 第1節 党組織 第2節 「自共対決」の時代へ おわりに

はじめに

京都は元来、自民党と共産党による「自共二大政党制」と呼ばれてきたことなどから、 歴史的にみても日本共産党の存在感が大きい地域であるといえる。民主党の台頭などに より一時はその存在に陰りが見えてきたと思われたが、2015 年の統一地方選挙におい て、共産党が京都府内の市町村議選に擁立した公認候補全員が当選し、府内の自治体議 員のうち共産議員が占める割合が2 割を突破するなど、再び京都における共産党の躍進 が目立っている状況である。また京都といえば1950 年から 78 年まで蜷川虎三府知事 の下で、「憲法を暮らしの中に生かそう」をスローガンとする革新府政が行われたこと などからみても、従来から住民の間でリベラルな価値観が浸透しており、おのずと共産 党の支持が得られやすい地域であるとも見ることができる。本稿では、日本共産党が過 去から現在にかけて京都で一定の存在であり続けた要因を、京都府の歴史的背景や蜷川 革新府政、党組織などの観点から考察していくものとする。 第1 章では、実際の国政選挙の結果を参考にしながら京都選挙区における日本共産党 の存在を概観し、その強さはいつからのものなのか、いつ党勢が拡大したのかを分析す る。 第2 章では、共産党が京都で躍進する背景として歴史的に続くリベラルな気風や党勢 拡大における蜷川府政の影響を分析していく。 第3 章では、京都においてなぜ今もなお共産党が強い存在感を維持できているのかに ついて、共産党独自の党組織に加え「自共対決」の到来という観点から分析を試みたい。

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1 章 国政選挙から見た京都共産党

本章では国政選挙である衆議院選挙と参議院選挙の双方における、京都選挙区での共 産党の得票率を概観し、全国での共産党得票率との比較を通して、共産党の強さがいつ からのものであるのか、またいつ党勢を拡大したのかを分析していきたい。 第一節 衆議院選挙 1947 年の第 23 回衆議院議員総選挙では、日本国憲法が施行される直前に、大日本帝 国憲法下にて成立した第1 次吉田茂内閣が自らの正当性を世に問う目的で行われた。本 節ではそれ以降の衆議院選挙における京都選挙区および全国の共産党の支持率の動向 を概観し、分析を加えていきたい。また京都選挙区については、1994 年の政治改革四 法の成立に伴う選挙制度改革の前後で選挙区の数が 2 区から 6 区に増えていることに 留意されたい。 ○選挙区の具体的説明・特徴(選挙制度改革以後) 小選挙区制移行後の 6 区それぞれ の具体的な説明をすると、第一区は京 都市のうち北区、上京区、中京区、下 京区、南区を区域とし、京都市の中心 部全域をカバーしている。立命館大学 や同志社大学などの大学が存在する ことや、伝統産業に従事する中小企業 が多いことが特徴である。設置以来、 自民党の伊吹文明氏と共産党の穀田 恵二氏が激しく票を争っている選挙 区であり、共産党の支持は強固な地域 といえる。 第二区は京都市の左京区、東山区、山科区が区域であり、京都大学が立地しているこ となどから学術関係者や学生などが比較的多く居住している地域である。伝統的に左派 が強く、共産党が1 区と並ぶ得票を得てきた地域である。 第三区は京都市の伏見区と、向日市、長岡京市、乙訓郡の大山崎町を区域とする。1996 年の第41 回総選挙では共産党の寺前巌が当選し、共産党が選挙区で議席を獲得した一 例として挙げられる。 第四区は京都市の右京区と西京区、亀岡市、南丹市、船井郡京丹波町を区域とする。 かつては自民党の野中広務氏の基盤であり、野中氏の政界引退後も自民党は強い基盤を 築いている。 第五区は福知山市、舞鶴市、綾部市、宮津市、京丹後市、与謝郡伊根町・与謝野町を

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区域とする。保守基盤の強い京都北部に位置する選挙区であり、自由民主党の谷垣貞一 氏が一貫して議席を確保しており、京都府では数少ない自民党の牙城になっている。 第六区は京都府の南部を区域としており、宇治市や城陽市、八幡市などが区域となっ ている。従来は自民党が強い基盤を持っていたが、最近では民主党(現:民進党)の山井 和則氏が五連続の勝利で安定した支持を得ている。 ○選挙区の具体的説明・特徴(選挙制度改革前) 選挙制度改革以前の選挙区は2 つのみであった。第一区は定員が 5 で、現在の一区と 二区のエリアを区域としていた。この区は中選挙区制下で共産党が複数候補を立てたこ とのある数少ない選挙区であり、1972 年と 1979 年選挙では二人の当選を果たしてい る第二区に関しても定員は5であり、現在の第三区から第六区までのエリアを区域とし ていた。こちらの選挙区も共産党が複数候補を立てたことのある数少ない一例である。 ○得票率の推移の分析 次に実際に京都選挙区における共産党の得票率の推移を見たうえで、具体的な分析に 移ることとする。 (図 1)

1区

2区

全国

1947

4.0%

1.6%

3.7%

1949

17.9%

9.2%

9.8%

1952

7.9%

2.6%

2.5%

1953

7.8%

4.2%

1.9%

1955

9.6%

2.9%

2.0%

1958

9.6%

2.3%

2.6%

1960

13.3%

5.2%

2.9%

1963

16.6%

10.7%

4.0%

1967

15.7%

13.2%

4.8%

1969

21.2%

19.8%

6.8%

1972

30.0%

20.9%

10.5%

1976

24.4%

19.1%

10.4%

1979

27.2%

19.9%

10.4%

1980

25.3%

26.1%

9.8%

1983

26.5%

20.8%

9.3%

1986

26.4%

20.6%

8.8%

1990

21.8%

17.1%

8.0%

1993

20.3%

18.5%

7.7%

得票率

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(図 2) (図 3) 上の図1、図 2 は第 23 回総選挙から第 47 回総選挙における、京都選挙区ごとの共産 党支持率に加え全国での得票率を、総務省のデータをもとにまとめた表である。図3 の グラフは選挙制度改革前までの京都選挙区における得票率と全国での得票率と差を可 視化したものである(選挙制度改革以降に関しては、改革前と傾向が変化しないため割 愛)。 以上の図から見てわかるように、京都において共産党は戦後から現在までの長い期間 を通して安定して強い存在感を維持しており、とりわけ選挙制度改革前の第一区におい てその傾向は顕著といえる。ゆえに、戦後において共産党が支持を得るようになった歴 史的な契機といったものが存在するのではなく、京都には共産党が支持を得やすい社会 的または構造的要因が戦前からみられ、現在までその影響が続いているとみるほうが妥 当ではないだろうか。本稿では具体的に第二章において、そうした要因をリベラルな気

1区

2区

3区

4区

5区

6区

全国

1996

30.0%

28.7%

34.7%

29.5%

20.4%

17.2%

12.6%

2000

33.4%

26.7%

24.6%

23.9%

20.3%

18.6%

12.1%

2003

25.7%

18.0%

17.2%

17.0%

14.8%

13.0%

8.1%

2005

23.3%

17.0%

14.9%

13.8%

13.9%

12.7%

7.3%

2009

22.2%

14.7%

13.7%

11.4%

9.5%

10.5%

4.2%

2012

19.8%

16.8%

14.3%

11.4%

12.4%

10.1%

7.9%

2014

29.4%

21.2%

16.1%

17.0%

14.4%

14.6%

13.3%

得票率

0 5 10 15 20 25 30 35 1947 1949 1952 1953 1955 1958 1960 1963 1967 1969 1972 1976 1979 1980 1983 1986 1990 1993 1区 2区 全国

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風と定義し、分析を試みたい。また1972 年選挙にも注目する必要がある。1 区におけ る得票率が30%に達したのに加え、先にも述べたように、この選挙で共産党は 1 区に おいて候補を二人擁立し、そのどちらもが当選している。これについても第二章にて具 体的に述べていくものとし、次に参議院議員選挙の分析に移っていきたい。 第二節 参議院選挙 参議院選挙は日本国憲法施行後の1947 年の第 1 回から現在まで合計で 24 回行われ ており、本節では京都選挙区における共産党の支持率の動向を振り返り、前節と同様に 分析を試みたい。 ○選挙区の具体的説明・特徴 参議院選挙は都道府県単位の選挙区となっており、衆議院選挙のように京都府の中に 複数の選挙区が存在することはなく、京都府で1 つの選挙区となる。定数は 4 で、改選 議席数は2 である。共産党は蜷川革新府政下において勢力を伸ばし、1974 年参院選か ら 1986 年参院選までは自民党と共産党で議席を占め、「自共指定席」とまで呼ばれた こととして知られている。その後共産党は議席を失う時期が続くが、2013 年参院選で は共産党の倉林明子氏が議席を獲得し、復調の兆しが見られている。 ○得票率の分析 (図 4) 次に実際に京都選挙区における共 産党の得票率の推移を見たうえで、 具体的な分析に移ることとする。 図4 は 1947 年参院選から 2016 年 参院選までの、京都における共産党 得票率と、全国における共産党得票 率を表したものである。(※1950 年は 社会党と共産党の共同推薦ゆえに分 析には含めない。また1953 年は無立 候補だった。) 図5 は図 4 の表を基に作成したグ ラフであり、京都選挙区と全国にお ける共産党得票率の差を可視化した ものである。 年 京都 全国 1947 4.8% 2.9% 1950 29.4% 4.7% 1953 0.0% 1.0% 1956 9.0% 3.8% 1959 8.8% 3.3% 1962 13.0% 4.8% 1965 20.3% 6.9% 1968 27.5% 8.2% 1971 27.8% 12.0% 1974 29.3% 12.0% 1977 23.2% 9.9% 1980 28.0% 11.7% 1983 28.1% 10.5% 1986 25.7% 11.4% 1989 24.1% 7.0% 1992 28.8% 10.6% 1995 28.0% 10.3% 1998 33.9% 15.6% 2001 22.1% 9.8% 2004 23.8% 9.8% 2007 23.9% 8.7% 2010 16.6% 7.2% 2013 20.7% 10.6% 2016 20.0% 7.2% 得票率

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(図5) 以上の図から見てもわかるよう、衆議院選挙と同様に、一貫して京都選挙区では全国 よりも高い支持率を維持しているといえる。ゆえにやはり京都には戦前から続くリベラ ルな気風が存在して強い影響力を持ち、共産党の強さにつながっているといえよう。そ れに加え、「自共指定席」と呼ばれた1974 年参院選から 1986 年参院選までの間に、共 産党がどのように支持を拡大していったのかについても、蜷川革新府政という観点から 第二章にて分析を加えていきたい。

第二章 京都での躍進の背景

第一章にてこれまでの国政選挙の結果を分析したうえで、共産党が京都にて躍進した 背景には、1 つには戦前から続くリベラルの気風、もう 1 つには 1950 年から 78 年ま で続いた蜷川革新府政の2 つが挙げられることがわかった。本章ではそのそれぞれにつ いて具体的な分析を加えるものとする。 第一節 リベラルな気風 京都といえばかつての日本の都として君臨し、天皇が居住していたが、幕末の政治的 動乱の中で東京に遷都されたという歴史的事実がある。それに対する京都の人々の感情 が現在まで影響を及ぼし、反権力・反中央の風土につながっているという意見がある。 またそれに加え京都府に所在する革新的色彩の強い大学の影響に関してもかねてから 言われているところであり、分析が必要であるといえる。 この節では以上の2つに絞って、リベラルな風土の存在を分析していく。 0 5 10 15 20 25 30 35 40 京都 全国

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○反権力・反中央の風土 京都府という土地には、様々な面から見て進歩的・革新的な風土が根付いているとい える。三宅は京都における風土の特殊性について、「京都の伝統文化が、王朝政治との かかわりあいと、明治以降の中央集権への抵抗的性格によって形成されてきた」1(三宅 1981)と述べ、それが京都の革新勢力とうまく結合していると述べた。かつては京都に 都があったがその都が東京に移ったことで、東京に対する反骨精神が京都の反権力・反 中央の風土を生んでいると分析される。「天皇陛下は東京に仮住まいしている」といっ たように言うのが京都人気質であるという指摘もされ2、長年日本の都を担ってきたこ とから、中央政府の思い通りにはさせないというプライドがあるのかもしれない。 また「桑原武夫と梅棹忠夫は京都人の理想像における価値体系の原理を習慣の尊重と し、それをマンネリズムという言葉で表現した(桑原・梅原、1956)。また『京都人の特 徴は過去にある。京都人にとってすべては過去の延長である。過去がすべてを決定する のである』3(桑原・梅棹、1956)」とも述べており、過去の歴史的動乱に対する感情やト ラウマが、現在までも脈々と受け継がれているとも考えられる。ゆえに、上で述べたよ うな反権力・反中央の風土が形成されるのは、今述べた京都人の特徴を鑑みると至極当 然であり、それらが共産党の支持につながっていると分析することができるであろう。 ○京都府に所在する大学 京都府に所在する大学の中でとくに有名なのは、京都大学、立命館大学、同志社大学 の3 つである。「党府委員会の渡辺委員長は(京都において共産党が支持を得られている 要因として)『(立命館大や京都大など)進歩革新の伝統のある大学が多いからではない か』と分析する。立命館大には、昭和8年に思想信条を理由に京大の教員が弾圧された 『滝川事件』で京大を追放され、戦後、立命館大学長となった民法学者の末川博氏がい た。党関係者によると、リベラルな末川氏にあこがれ、立命館大に入学したという古参 党員も多いといい、党副委員長の市田忠義参院議員や党国対委員長の穀田恵二衆院議員 らも立命館大のOBだ。立命館大は、共産党の青年組織『日本民主青年同盟(民青)』 の一大拠点でもある。ある党幹部は『地方から京都に来た学生が党員となり、その後、 全国各地に就職し、職場や地域でリーダーになるという流れができた』と語る。」4こう した大学の存在も、京都には左翼的な伝統といったものが存在することの一つの例であ り、共産党が京都で支持を得る要因といえるかもしれない。 1三宅一郎・村松岐夫『京都市政治の動態』有斐閣、1981 年、17 頁。 2大下英治『日本共産党の深層』蒼洋社、1982 年、150 頁。 3三宅一郎・村松岐夫、前掲書、59 頁。 4池田進一「千年の都・京都はなぜ“赤い”のか」『産経WEST』、2015 年 6 月 23 日、http://www.sankei.com/west/news/150623/wst1506230007-n3.html、2017 年 2 月21 日参照。

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第二節 蜷川革新府政 第一章で見たように、衆議院と参議院の双方において、共産党が支持率を拡大させて いったのは蜷川革新府政下(1950~78)においてであり、とりわけ衆議院選挙については 1972 年選挙において支持率が 30%を超えたことが挙げられる。この節においては、蜷 川革新府政がどのような経緯を経て実現したのかを見たうえで、その中で共産党がどの ように支持を広げていくことに成功したのかについて分析を試みたい。 ○蜷川府知事の誕生 敗戦直後、新憲法の制定などにより、結社の自由や労働組合の合法化などの民主的権 利を得た京都府民は、続々と労働組合、農民組合、民主的諸団体を結成した。1946 年 2 月には、社会党、共産党、労働組合、農民組合などの民主的諸団体が結集し、京都民 主統一戦線が結成され、その後の京都府民の民主的運動を指導する立場となっていく。 5また1950 年の京都市長選挙を前に、社会党、共産党を中心とした全京都民主戦線統一 会議、いわゆる「民統会議」が結成され、市長選に勝利した。6民統会議は大戦における 全面講和のスローガンなどを掲げたメーデーなどを主催したことに加え、各地域には住 民の生活を守るための「生活を守る会」を組織する7など、こちらも京都における民主 運動をけん引する存在であった。こうした諸団体が戦後の比較的に早い段階で成立した ことも、先に述べたような京都に流れるリベラルな気風の一つの事例といえるかもしれ ない。 これらの諸団体からの支持を受け、1950 年の府知事選挙にて、蜷川虎三氏が立候補 し当選した。蜷川知事は「憲法を暮らしの中に生かそう」というスローガンの下で革新 府政を展開し、それを支えたのは先の「民統会議」などの革新勢力やとりわけ官公労(日 本官公庁労働組合協議会)などの自治体労働者と京都教職員組合などの教育労働者であ ったという。8自治体労働者に関していえば、当時の地方財政再建整備法に対する反対 運動を主導するなど、京都の労働者組織の中でも特別大きな役割や地位を担うようにな っていった。蜷川革新府政は、こうした革新勢力の民党会議への統一に支えられ、中小 企業者、農村漁民、学者、文化人、宗教関係者、医療関係者、婦人等々の多くの階層と 団体、都市と農村とをつなぐ行政を展開し9、28 年という長い期間にわたって安定した 支持を獲得し続けたのであった。 ○共産党はどのように支持を広げたのか 5島恭彦・自治体問題研究所京都民主府政研究会編『京都民主府政』自治体研究社、 1975 年、26 頁。 6島恭彦・自治体問題研究所京都民主府政研究会編、前掲書、26 頁。 7島恭彦・自治体問題研究所京都民主府政研究会編、前掲書、27 頁。 8島恭彦・自治体問題研究所京都民主府政研究会編、前掲書、16 頁。 9島恭彦・自治体問題研究所京都民主府政研究会編、前掲書、16 頁。

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蜷川革新府政下において共産党が支持を広げていったことは先ほどから繰り返し述 べているが、実際にどのように支持を広げていったのかをここでは分析していきたい。 第1 節で述べたような、京都における歴史的伝統から見ても共産党が他政党と比べて 支持を得やすい環境にあるのは否定できないが、一方で党の主体的努力の積み重ねなし には今日のような勢力を確保することはできなかったのではないだろうか。共産党は戦 後早い段階から、市民の生活を守る取り組みをしてきたといえ、具体例を挙げれば民医 連や民主商工会、新婦人の会などの元団体を組織したのは共産党であり10、それらが発 展・成長してこれらの団体が誕生した。また先に述べたように民統会議などの統一戦線 にも持続的に取り組み、地域活動への献身を続けてきたことが、蜷川革新府政の政治ス タイル並びに政策体系と相乗作用を起こし、さらに京都府市民団体協議会(1996 年 5 月 に誕生。中小企業・零細商店に加え、左派文化人を一体化させた。) を媒体にして、医 師会、中小企業団体と提携し、商店街までに共産党支持が入り込むことに成功した11こ とも重要な点であろう。こうした共産党の圧倒的な組織力により着実に同党の支持が広 まっていったといえる。また民青(日本民主青年同盟)などの党周辺組織や京教組(京都教 職員組合)、府職労(京都府職員労働組合)、京建労(全京都建築労働組合)などの労働組合 内部に献身的で精力的な活動家層を擁していた12ことも、共産党の党勢拡大を支えてい た。 具体的に同党躍進の契機となったのは、中央政府による全国的な、巨大資本中心の高 度経済成長政策が京都市の伝統的な産業構造を揺さぶり続けたことから生まれた土着 中間層の危機感に対して同党の掲げる「反独占」の主張がアピールした 13ことである。 1972 年衆院選では、共産党が京都一区で全国初の 2 議席獲得を実現した選挙であるが、 その躍進の背景となったとある事件がある。当時の田中角栄内閣の看板政策の一つであ った「日本列島改造計画」の一環として工場三法の一つである工業再配置促進法案が提 出された。この法律は、過度に工業が集積している地域から集積度合の低い地域への工 場の移転及び当該地域における工場の新増設を促進するためのものであったが、京都に 関しては通産省の線引きによって京都市全域が移転促進地域に指定され、それに対する 西陣の織物工業組合など伝統産業界からすさまじい反発が起こり、これが京都中小企業 団体協議会、府中小企業団体中央会へと広がった。京都一区に属する各党の国会議員が それぞれの立場から通産省の官僚的な線引きを批判し、それを撤回させることを約束し た中で、共産党の谷口善太郎代議士が最も機敏に行動し、結果として移転地域から京都 市を外すことに成功する立役者となった。こうした谷口の動きが、それまで保守的であ った西陣の地域に共産党が受け入れられる突破口になったといわれている。実際に西陣 10三宅一郎・村松岐夫、前掲書、215 頁。 11三宅一郎・村松岐夫、前掲書、37 頁。 12三宅一郎・村松岐夫、前掲書、38 頁。 13三宅一郎・村松岐夫、前掲書、38 頁。

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の織物関係諸組合はそれまでの自民、民社候補の支持に共産党候補を加えたり、特定候 補支持を行ったりしないという対応も見られるようになった。その結果、1972 年衆院 選では西陣地区に属する上京区と北区でもっとも大きな得票率増を記録して 2 議席獲 得を実現し、この一連の事件により参院選においても共産党の支持が拡大したといえる であろう。 また共産党の党勢拡大を考えるうえで、社会党の存在も考慮する必要がある。共産党 は蜷川革新府政の誕生の時点から民統会議を通じて府政への一定の影響力を持ってい たといえるが、蜷川氏自身が社会党からの公認を得て立候補したという事実もあり、府 政初期は社会党が京都における革新政党として強い支持を得ていた。しかしその後 1970 年代前後から徐々に共産党の支持率が上昇し、社会党との立場が逆転する現象が 起こる。こうした社会党の衰退に関しては、社会党の革新自治体に対する基本的姿勢が 党内の左右対立によって終始定まることがなかったことから、府民の信頼を得ることが できなかった14ことが大きいといわれる。こうした中で社会党は徐々に支持を失い、共 産党が革新勢力の受け皿となり支持を拡大していったとみることもできる。 以上、本章をまとめると、日本共産党が京都府において支持を得た要因としては、戦 前から続くリベラルな気風により、共産党が支持を得やすい下地が京都には作られてい たことに加え、1950 年からの蜷川革新府政当初から、民統会議などを通じて府政に対 する一定の影響力を持っていたことから支持を広げることに成功したと考えられる。ま た1972 年衆院選の直前に、当時の田中内閣による工業再配置促進法案に対して機敏な 対応を見せたことが、従来保守的であった西陣地区の支持を得ることに成功し、さらな る党勢拡大につながったといわれている。また社会党の衰退による、左派の票の受け皿 となることに成功したことも一つの要因であるといえる。

第三章 なぜ今もなお強いのか

第二章では共産党が京都で躍進した背景として、戦前から脈々と受け継がれてきたリ ベラルの気風、そして蜷川革新府政を挙げ、1972 年選挙における共産党の動きにより 党勢が拡大したことも明らかにできた。また初めにも述べたように現在も共産党は京都 で強い存在感を維持しており、2013 年参院選では 9 年ぶりに共産党が議席を獲得し、 2015 年の統一地方選挙においては共産党が京都府内の市町村議選に擁立した公認候補 全員が当選し、府内の自治体議員のうち共産議員が占める割合が2 割を突破した。本章 では、前章でみてきた共産党が京都において党勢拡大した要因を踏まえたうえで、なぜ 今も安定した支持を得られているのかについて、日本共産党の党組織や、自民党に代わ るオルタナティブとしての観点から分析をしていきたい。 14三宅一郎・村松岐夫、前掲書、38 頁。

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第一節 党組織 ここでは共産党の党組織、とりわけ基礎組織とされる支部について詳しくみたうえで、 それが強固な党の支持基盤につながっていることを見ていきたい。 まずは党組織についてだが、基本的には中央組織(中央委員会)、都道府県組織(都道府 県委員会)、地区組織(地区委員会)、基礎組織(支部委員会)の 4 つから成り立っている。 15一般的な党員が所属し、党生活を送るのか支部においてであり、支部が党の基礎組織 という位置づけがなされている。支部に関する具体的な説明に移ると、支部は3 人以上 の党員のいる職場、地域、学園で組織され、2010 年現在で全国に 2 万 2 千存在すると されている。16職場につくられる支部は「職場支部」、地域で結集する支部は「居住支部」 または「地域支部」、大学など学生で組織されるものは「学園支部」などと呼ばれ、共 産党支部は、他の日本の政党には見られないほど多く組織され、都市部の居住支部はと くに身近に存在し、京都においても1000 を超える支部が存在している17とのことであ る。また党員が3 人に満たない地域や職場、学園においては場合によって支部準備会が 置かれるなど、これはきめ細やかな党組織になっていることの一つの事例といえる。他 政党でもっとも支部の数が多いのは自民党であり、それでも約7000 にとどまっている ことから見ても、共産党の地方組織は圧倒的に充実しており、揺るがない支持を得る一 つの要因といえないだろうか。「自民党京都府連会長の西田昌司参院議員は、共産党が 打ち出す政策や意見に賛同することは決してないものの、共産党の地方議員が地道に活 動していることは評価しているという。『本当にこまめに有権者を回っている。これこ そ本来、われわれがしなくてはいけない政治活動だ』と話した。」18こうした発言が他党 の現職議員から出てくるのは、共産党の地方組織の充実ぶりに対して脅威に感じている 証拠であり、こうしたきめ細やかな支部の存在が、京都における共産党の強さを今も維 持させているといえるであろう。 15日本共産党中央委員会「日本共産党規約―党紹介」日本共産党、2000 年 11 月 24 日、http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html、最終閲覧日 2017 年 2 月 21 日。 16志位和夫 「政党の値打ちは何によってはかられるか 第 40 回赤旗まつり 志位委員 長の記念演説」 『しんぶん赤旗』2010 年 11 月 9 日。 17「京都府委員会の紹介」日本共産党京都府委員会、掲載年月日不明、 http://www.jcp-kyoto.jp/prof/、最終閲覧日 2017 年 2 月 21 日。 18池田進一「千年の都・京都はなぜ“赤い”のか」『産経WEST』2015 年 6 月 23 日、 http://www.sankei.com/west/news/150623/wst1506230007-n3.html、最終閲覧日 2017 年 2 月 21 日。

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第二節 「自共対決」の時代へ 前節では、共産党のきめ細やかな党組織が強い支持率を維持している一要因であると 見てきたが、ここでは民主党(現民進党)などの他政党と日本共産党がどのような点で差 異化され、自民党に対するオルタナティブとなりつつあるのかということについてみて いく。 1994 年の選挙制度改革により、衆院選では中選挙区制から小選挙区制へと移行し、 日本政治は二大政党制に変化していくようになった。そして2009 年の衆議院選挙によ り自民党から民主党への政権交代が実現した。その間、共産党は民主党の台頭に押され る形で支持率に伸び悩み、実際に図2 みても、2003 年から 2009 年の間は共産党の全 国支持率は一桁に落ち込んでいる。しかし、自民党が政権を奪還した 2012 年選挙は 7.9%に持ち直し、2014 年選挙は 13.3%まで回復した。とりわけ京都府第一区に関して いえば、2012 年選挙と比べて約 10 ポイントの上乗せに成功している。これはやはり民 主党の政権運営が失敗し、それに失望した有権者の受け皿のなることに成功したとみる ことができるのではないだろうか。京都府第一区に注目すると、2009 年選挙では民主 党候補が40%以上の得票を得て勝利、2012 年選挙では自民党候補が勝利し、次点は日 本維新の会であり、共産党の穀田候補は第三候補に甘んじていたが、2014 年選挙では 得票率では自民党に次ぐ第二党に復活し、再び支持を得られるようになっている。民主 党や維新の会といった政党が与党自民党との差異化に失敗し、とりわけ民主党に関して は野田政権時に原発再稼働に動き出すなど、民主党支持者の間でも大きな失望感が生ま れたであろう。日本維新の会に関しても、民主党への失望と同時に第三局としてメディ アがもてはやし、橋下徹氏のカリスマ性も相まって2012 年選挙では一定の支持を得る ものの、実際には自民党とも大して変わらず、実際には自民党よりも右寄りであるとも いわれている。一方、日本共産党はかつてから政策が一貫していたことに有権者は惹き つけられた。原発問題に関しても、3.11 の事故が起きるはるか以前より、日本共産党は 公式に反対の立場をとっており、地道に反対運動を続けていた。19こうした政策の一貫 性に加え、他政党の「自民党化」が相互に影響を及ぼした結果、「自民対共産」という 対決軸が鮮明になりだし、自民党政治に対する批判票の受け皿が日本共産党になってい るのである。こうしたことも、日本共産党が現在も支持を得ることに成功している1 つ の要因といえるだろう。 以上本章をまとめると、日本共産党が現在でも京都において強い支持を得られている 要因として、きめ細やかな党組織、とりわけ支部の充実さが、共産党の支持を強固にし ていることに加え、日本共産党の政策の一貫性により他政党との差異化に成功し、「自 共対決」の構図が見えつつあることが挙げられる。 19大下英治、前掲書、43 頁。

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おわりに

本稿では、日本共産党が過去から現在にかけて京都で一定の存在であり続けた要因を、 京都府の歴史的背景や、党組織などの観点から考察してきた。様々な観点からみても京 都は他とは違う特別な存在であり、共産党が強い支持を得るのは必然であるといえる一 方で、先にも述べたように共産党の地道な党活動なしにはそうした支持を得ることはで きなかったであろう。本来、政党は有権者の意見を集約し、議会などでそれを表出して いくための存在であり、常に有権者のそばにあり続けるべき存在であるとみることもで きる。しかし近年の日本政治において、そうした本来の政党の姿を維持できているのは もはや日本共産党くらいではないだろうか。共産党京都府委員会は “住民の苦難ある ところ日本共産党あり”の立場で、草の根から政治を変える多彩な活動を進めている20 という。もちろん日本共産党の政策や主張がすべて正しいとは全く限らないが、そうし た有権者に対する姿勢という点で、他の政党が習うべきところは多分にあるだろう。実 際に先に紹介した通り、自民党の西田昌司参院議員はこうした共産党の地道な政治活動 を高く評価し、それを自分たちもしなくてはならないと述べている。共産党の活動に関 してはネットなどでも様々な批判があるのは確かであるが、こうした共産党の地道な活 動形態に関しては、政党が忘れてはいけない大切なことを思い出させてくれているよう に感じる。今後もそうした地道な政治活動を日本共産党が続けていき、他政党がそれを 見習っていくようなことが起きれば、最終的には若者を中心とする人々の「政治離れ」 といったような現象は解消されていくかもしれない。そうした可能性は決して高くない が、政治学を学ぶ一学生としてはそんな未来を期待したい。 【参考文献】 書籍 ・大下英治『日本共産党の深層』イースト新書、2014 年。 ・大宅壮一『大宅壮一全集第十一巻』蒼洋社、1982 年。 ・自治体問題研究所編『革新首長と自治体労働者』自治体研究社、1975 年。 ・自治体問題研究所京都民主市政研究会編『京都民主市政―反動と民主のたたかい』 自治体研究社、1975 年。 ・自治体問題研究所京都民主府政研究会編『京都民主府政―その到達点と課題』 自治体研究社、1974 年。 ・三宅一郎・村松岐夫『京都市政治の動態―大都市政治の総合的分析』有斐閣、1981 年。 WEB 20 「京都府委員会の紹介」日本共産党京都府委員会、掲載年月日不明、 http://www.jcp-kyoto.jp/prof/、最終閲覧日 2017 年 2 月 21 日。

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・池田進一「千年の都・京都はなぜ“赤い”のか」『産経WEST』2015 年 6 月 23 日、 http://www.sankei.com/west/news/150623/wst1506230007-n3.html、最終閲覧日 2017 年 2 月 21 日。 ・「京都府委員会の紹介」日本共産党京都府委員会、掲載年月日不明、 http://www.jcp-kyoto.jp/prof/、最終閲覧日2017 年 2 月 21 日。 ・日本共産党中央委員会「日本共産党―党規約」日本共産党、2000 年 11 月 24 日、 http://www.jcp.or.jp/web_jcp/html/Kiyaku/index.html、最終閲覧日2017 年 2 月 21 日。

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