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〈資料紹介〉児島献吉郎と支那文学史―年譜と資料紹介―

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Academic year: 2021

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一、はじめに  本稿は、明治から昭和初期を生きた漢学者児島献吉郎(1866-1931)(一名献吉、字は子 文、号は星江、一枝巣)の年譜と、彼に関する資料を紹介したものである。  明治期は、西欧近代に始まった「文学史」という装置を使って、日本で多くの「支那文 学史」が書かれ、出版された時代だった。この時期に中国文学史という書物が多く書かれ た時代背景について、川合康三氏は以下のように説明している。 古城の『支那文学史』がまとまった中国文学史として早期のものであることに違いな いが、しかし世界最初の中国文学史は何か、といった問題の立て方は、さほど意味が ない。より重要なのは、二十世紀を目前とした時期に至って、突如として中国文学史 と題する書物が一斉に書かれ始めたということである。それが文学史なるものの性格 をよく表わしていると思う。すなわち文学史という概念は西欧近代が生み出したもの なのであった。十九世紀西欧において近代歴史学が確立し、そこから派生して文化の 様々な領域における通史が書かれるようになり、文学史もその一つとして生まれたの である。⑴  西洋近代に生まれた文学史の枠組みを日本でまず取り入れたのは、三上参次・高津鍬太 郎の『日本文学史』だった。その緒言には西洋の文学書、文学史に接して感動を覚え、西 洋の文学史に倣って執筆した動機が明記されている⑵。三上・高津が『日本文学史』の執 筆を決意したのは大学在学中のことだったし、『支那文学史』(経済雑誌社、1897 年)を 書いた古城貞吉(1866-1949)は三十一歳で、藤田豊八(剣峰)(1896-1929)、笹川種郎 (臨風)(1870-1949)、久保得二(天随)(1875-1934)らも三十歳の若さで陸続と『支那文 学史』を出版した。  『日本文学史』の著者三上・高津も含め、文学史という装置に着目し挑戦した人たちが、 いずれも極めて若い世代だったことに注目して、川合氏は次のように言う。  どの分野においても弱年にして第一線で活動しているのが明治期全体の傾向であろ うが、西欧の文学史に刺激されて東洋の文学史に挑むという新しい試みは、若い学徒 をこそ惹き付けるものがあったのだろう。初期の文学史家に共通するもう一つの性格 は、彼らはいずれも後年必ずしもその道の専家とはならず、三上は国史、古城と藤田

幸福 香織

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は東洋史、笹川は日本美術というように、他の分野で学問的業績をあげていることで ある。これも今日では考えにくいことのように思う。当時は長年の研鑽を積まなくて も通史が書けるほどの力を備えていたともいえるであろうし、また学問領域がまだ未 分化の状態で、専門的なディシプリンも確立していなかったために、容易に他の分野 に移っていったのであろうか。それにしても、今日では学的蓄積の集大成であるかの ように考えられる文学史執筆が、明治期においては出発点において成されているとい うことは、当時と今の文学史が含む性格の相違を暗示しているかもしれない。⑶  執筆者の若さと、中国文学の専門家ではなく後に他の分野の専家となった人々だったこ と。この二点を現代の中国文学史執筆者との相違としてとりあげている。  だが、児島献吉郎の場合は少し事情が異なる。彼は明治 24(1891)年、26 歳で雑誌『支 那文学』に「支那文学史」を連載して、支那文学史の執筆に着手して以来、47 歳で『支 那文学史綱』を出版するまで、二十年余り「支那文学史」の研究と執筆に関わり続けた。 それはおそらく、帝国大学文科大学附属古典講習科漢書課後期を卒業後、第五高等学校教 授、東京高等師範教授と歴任した、彼の経歴と深く関わっており、また当時「支那文学 史」執筆の目的が、中国文学研究上の必要よりも、教学上要請されたテーマであったこと を示唆していると思う。  児島献吉郎と中国文学史との関わりについては、これまで数種の論文があるが、まと まった年譜や漢詩文集は見当たらない⑷。児島献吉郎と「支那文学史」の関わりを考察す る準備として、彼の年譜とそれぞれの時期の著作を以下にまとめ、今後の課題を附してお きたい。 二、児島献吉郎年譜と資料紹介  凡例    ●は学歴、職歴等 〇は雑誌発表の論文および漢詩文、雑文 ◎は著書 □は編書、訳書  下記の年譜は、おもに国会図書館データベース、国立情報学研究所学術情報データベー ス(CiNii)(検索語は、「児島献吉」、「児島献吉郎」、「児島星江」、「一枝巣」、「児島子 文」)等をもとに、各種資料を相互に参照して作成した。版を重ねたと思われる資料につ いては出版年の古いものを採った。末尾に年譜注として学歴、職歴等(●)の根拠を示し た。また付記1として児島献吉郎の出版年不明の著作を、付記2として児島の著書の中国 語翻訳を、付記3として児島献吉郎とその著作に言及する資料を、付記4として児島の蔵 書を所蔵する図書館を示した。年譜もまだ完全なものとは言えず、また資料についても管

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見に及ばないものが多いが、研究途中の報告として示し、広く批正を請いたい。 元号(西暦) 月 齢 事跡 根拠 慶応2(1866) 6 月 1 ●邑久郡宋三村で、漢学者児島桑村(東雄)の次子に生ま れる ① ●邑久中学に学ぶ ② ●二松学舎に学ぶ ③ 明治 17(1884) 20 ●帝國大学文科大学付属古典講習科後期入学 ④ 明治 21(1888) 7 月 23 ●帝國大学文科大学付属古典講習科後期卒業 ⑤ 明治 22(1889) 3 月 24 〇「文章論」(雑誌『文』第二巻 6 号) 明治 22(1889) 4 月 24 〇「再ビ文章ヲ論ジ美妙子ニ示ス」(雑誌『文』第二巻 8 号) 明治 22(1889) 5 月 24 〇「再ビ文章ヲ論ズ」(雑誌『文』第 2 巻 9 号) 明治 22(1889) 5 月 24 〇「言文一致ヲ論ジ美妙齋主人ノ攻撃ニ答フ」(雑誌『文』 第二巻 10 号) 明治 22(1889) 7 月 24 〇「美妙子ニ難ジ併セテ瓢箪生及藤山豊氏ニ白ス」(雑誌 『文』第 3 巻 1 号) 明治 23(1890) 25 ●帝國博物館美術部員 ⑥ 明治 23(1890) 8 月 25 ●三島中洲の妻の姪妹尾信子と結婚 ⑦ 明治 24(1891) 8 月 26 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』1 号) 明治 24(1891) 9 月 26 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 2 号) 明治 24(1891) 9 月 26 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 3 号) 明治 24(1891) 11 月 26 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 4 号) 明治 24(1891) 11 月 26 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 5 号) 明治 24(1891) 12 月 26 〇「支那文學史」(同文社『支那文學』第 6 号) 明治 24(1891) 12 月 26 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 7 号) 明治 25(1892) 12 月 27 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 8 号) 明治 25(1892) 1 月 27 〇「支那文學史」「文章規範」(同文社『支那文學』第 9 号) 明治 25(1892) 2 月 27 〇「文章規範」、狩野良知著「支那教學史略」批評(同文 社『支那文學』第 10 号) 明治 25(1892) 2 月 27 〇「文章規範」「支那文學史」古志學人評『朗吟集』批評 (同文社『支那文學』第 11 号) 明治 25(1892) 3 月 27 〇「文章規範」「支那理気學ニ就テ」(同文社『支那文學』 第 12 号) 明治 25(1892) 3 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 13 号) 明治 25(1892) 4 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 14 号) 明治 25(1892) 4 月 27 〇「文章規範」、『拙堂紀行文詩』批評(同文社『支那文 學』第 15 号) 明治 25(1892) 5 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 16 号)

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元号(西暦) 月 齢 事跡 根拠 明治 25(1892) 5 月 27 〇「支那理気學ニ就テ」「文章規範」「拙堂紀行文詩」(同 文社『支那文學』(第 17 号) 明治 25(1892) 6 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 18 号) 明治 25(1892) 6 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 19 号) 明治 25(1892) 7 月 27 〇「文章規範」「支那理気學ニ就テ」(同文社『支那文學』 第 20 号) 明治 25(1892) 7 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 21 号) 明治 25(1892) 8 月 27 〇「文章規範」(同文社『支那文學』第 22 号) 明治 25(1892) 11 月 27 〇「名印部類序」(川崎千虎・松尾四郎『名印部類』春陽堂) 明治 25(1892) 12 月 27 〇「寺師直溫君墓銘」(『天則』第 5 編第 6 号) 明治 26(1893) 28 〇「前漢文學評論」(『城南評論』11 号) 明治 26(1893) 28 〇「前漢文學評論」(『城南評論』12 号) 明治 26(1893) 5 月 28 〇城南評論「前漢文學評論(其一)」(『しからみ草紙』第 44 号) 明治 26(1893) 28 〇城南評論「前漢第一期の文學」(『しからみ草紙』第 46 号) 明治 26(1893) 9 月 28 〇城南評論「前漢第一期の文學 承前」(『しからみ草紙』 第 48 号) 明治 26(1893) 11 月 28 〇城南評論「前漢文學評論(其四)」(『しからみ草紙』第 50 号) 明治 26(1893) 12 月 28 〇城南評論「東遊紀程」(『しからみ草紙』第 51 号) 〇「海鶴仙史遺像記」(『天則』第五編第十二号) 明治 26(1893) 28 詩文結社「行余文社」を山田準、池田胤、西村豊とともに 興す。毎月三島中洲、川北梅山を迎えて開催された。社員 には石崎謙、宮内黙蔵、久保檜谷、本城問亭、池田精一、 河合輗次郎、加藤復齋、三島廣らがいた。 ⑧ 明治 27(1894) 1 月 29 〇城南評論「前漢文學評論(其五)」(『しからみ草紙』第 52 号) 明治 27(1894) 29 〇「文學小史」第一章総論(漢文書院『支那学』第 1 号) 明治 27(1894) 29 〇「文學小史」第一節虞夏の時代(漢文書院『支那学』第 2 号) 明治 27(1894) 29 〇「文學小史」第二節殷周の時代 第三節春秋戦国の時代 (漢文書院『支那学』第 6 号) 明治 28(1895) 2 月 30 ◎『東洋史綱』上巻(八尾書店) 時期不明 ●東京府立第一中学校勤務 ⑨ 明治 31(1898) 8 月 33 ●妻信子、肺の病気のため没。26 歳。 ●第五高等学校教授 ⑩ 明治 32(1899) 3 月 34 〇「老子の人物、學術及其時勢」(『龍南會雑誌』71)

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元号(西暦) 月 齢 事跡 根拠 明治 32(1899) 5 月 34 〇「老子の人物、學術及其時勢(承前)」「斷腸紀行」(『龍 南會雑誌』72) 明治 32(1899) 34 〇「記瘞骨事」(『龍南會雑誌』73) 明治 32(1899) 10 月 34 〇「老子の人物、學術及其時勢(承前)」(『龍南會雑誌』74) 明治 32(1899) 12 月 34 〇漢詩(『龍南會雑誌』76) 明治 33(1900) 2 月 35 〇「老子の人物、學術及其時勢(承前)」(『龍南會雑誌』77) 明治 33(1900) 5 月 35 〇「遊玖磨峡記」(『龍南會雑誌』78) 明治 33(1900) 6 月 35 〇「天野山城墟碑」(『龍南會雑誌』79) 明治 33(1900) 9 月 35 〇「文學上楊雄の眞價値」(『龍南會雑誌』81) 明治 33(1900) 10 月 35 〇「文學上楊雄の眞價値(承前)」(『龍南會雑誌』82) 明治 34(1901) 4 月 36 〇「遊耶馬渓記」(『龍南會雑誌』84) 明治 34(1901) 6 月 36 〇「斧柯峽記」・漢詩(『龍南會雑誌』85) 明治 34(1901) 10 月 36 〇「詩人屈原」(『龍南會雑誌』87) 明治 34(1901) 11 月 36 〇「詩人屈原其二」(『龍南會雑誌』88) 明治 34(1901) 12 月 36 〇「詩人屈原其三」(『龍南會雑誌』89) 明治 35(1902) 2 月 37 〇「詩人的英雄」(『龍南會雑誌』90) 明治 35(1902) 8 月 37 ◎『漢文典』正(冨山房) 明治 36(1903) 2 月 38 〇「晉代文學と竹林七賢」「跋航南詩草」(『龍南會雑誌』97) 明治 36 年 38 ◎『漢文典』續(冨山房) 明治 36(1903) 6 月 38 〇「田園詩人陶淵明」「遊天草島記」(『龍南會雑誌』100) 明治 36(1903) 10 月 38 〇「晉代文學と竹林七賢(承前)」「田園詩人陶淵明(承 前)」(『龍南會雑誌』101) 明治 36(1903) 11 月 38 〇「曉獵」(『龍南會雑誌』102) 明治 36(1903) 12 月 38 〇「戰國時代の四大文豪(其一)」(『龍南會雑誌』103) 明治 37(1904) 2 月 39 〇「戰國時代の四大文豪(其二)」(『龍南會雑誌』104) 明治 37(1904) 3 月 39 〇「戰國時代の四大文豪(其三)」(『龍南會雑誌』105) 明治 37(1904) 5 月 39 〇「戰國時代の四大文豪(其四)」(『龍南會雑誌』106) 明治 37(1904) 10 月 39 〇「戰國時代の四大文豪(其五)」(『龍南會雑誌』107) 明治 37(1904) 11 月 39 〇「戰國時代の四大文豪(其六)」(『龍南會雑誌』108) 明治 38(1905) 1 月 40 〇「戰國時代の四大文豪(其七)」(『龍南會雑誌』109) 明治 38(1905) 3 月 40 〇「戰國時代の四大文豪(其八)」(『龍南會雑誌』110) 明治 38(1905) 11 月 40 〇「賦聖長卿」(『龍南會雑誌』114) 明治 39(1906) 41 〇「支那南北朝に於ける佛教」(『龍南會雑誌』116) 明治 39(1906) 41 〇「支那南北朝に於ける佛教(承前)」(『龍南會雑誌』117) 明治 41(1908) 6 月 43 〇「支那文學論」(『龍南會雑誌』126) 明治 41(1908) 11 月 43 〇「入薩記」(『龍南會雑誌』127) 明治 42(1909) 1 月 44 ●東京高等師範学校教授 ⑪

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元号(西暦) 月 齢 事跡 根拠 明治 42(1909) 3 月 44 ◎『支那大文學史古代編』(冨山房) 明治 43(1910) 45 □「子張篇」「堯曰篇」(島田三郎編『新論語』成功雑誌社) 明治 43(1910) 45 □『新編漢文讀本』(國語漢文會編輯、兒島獻吉郎再訂、 渋谷啓蔵校訂、山海堂書店) 明治 43(1910) 45 〇三島中洲評『唐宋八家文讀本』解題 明治 45(1912) 7 月 47 ◎『支那文學史綱』(冨山房) 大正 2(1913) 48 〇「漢文典上、於于乎の用法」(『國学院雑誌』18 ⑼) 大正 2(1913) 48 〇「漢文典上、於于乎の用法(二)」(『國学院雑誌』18 ⑽) 大正 2(1913) 48 □児島献吉郎編『女子漢文教科書』(光風館書店) 大正 4(1915) 50 □『新漢和大辞林』春日靖軒編纂、児島献吉郎監修(公文 書院) 大正 5(1916) 1 月 51 □『日本外史鈔本』児島献吉郎編(光風館書店) 大正 5(1916) 51 □『孝經忠經教本』児島献吉郎編(光風館書店) 大正 5(1916) 51 □『史記鈔本』児島献吉郎編(光風館書店) 大正 5(1916) 51 □『論孟鈔本』児島献吉郎編(光風館書店) 大正 6(1917) 52 □児島献吉郎・諸橋轍次共編『師範學校漢文讀本』(目黒 書店) 大正 6(1918) 52 □『小學鈔本』児島献吉郎編(光風館書店) 大正7(1918) 53 □『正續文章規範鈔本』児島献吉郎編(光風館) 大正7(1918) 53 □『唐宋八家文鈔本』児島献吉郎編(光風館書店) 大正 8(1919) 54 □編『近古史談鈔本』大槻磐渓原著、児島献吉郎編(光風 館書店) 大正 9(1920) 55 〇「詩人の感傷美」(『斯文』2 ⑶) 大正 9(1920) 2 月 55 ◎『散文考』(目黒書店) 大正 10(1921) 56 ●「支那韻文考」で文学博士。 ⑫ 大正 10(1921) 56 □訳注『七書』『鬼谷子』『陸賈新語』『春秋左氏傳』(国民 文庫刊行会) 大正 10(1921) 56 〇「思想界に於ける孔孟二派の陵轢」(『斯文』3 ⑹ 大正 11(1922) 5 月 57 □『孝經講義』中澤信著、児島献吉郎閲(文章院) 大正 11(1922) 57 □『模範習字帖』児島献吉郎編、岡山高蔭書(帝国書院) 大正 11(1922) 57 〇「思想界に於ける孔孟二派の陵轢(續)」(『斯文』4 ⑵) 大正 11(1922) 57 ◎『韻文考』(目黒書店) 大正 12(1923) 2 月 57 〇「老子の内容」『日本敎育』第 2 巻第 2 号(法制時報社) 大正 12(1923) 5 月 58 〇「唐詩選講義」(『二松学舎講義録』29) 大正 12(1923) 58 ◎『文法本位漢文釋法』(帝国書院) 大正 12(1923) 7 月 58 ●支那へ出張 ⑬ 大正 12(1923) 58 ◎『支那文學概論』(京文社)

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元号(西暦) 月 齢 事跡 根拠 大正 13(1924) 59 ●二松学舎学長 ⑭ 大正 13(1924) 59 〇「荘子考」(『東京高師國漢会パンフレット第 1 輯』東京 高等師範學校国語漢文學会) 大正 13(1924) 59 〇「墨子考」(『斯文』6(1/2)) 大正 13(1924) 59 〇「漢文學の内容、特に道家道敎及び老子に就いて」「中 江黙雷壽像記」(『斯文』6 ⑸) 大正 14(1925) 1 月 60 □『中等敎育帝國読本巻3』増田啓策、児島献吉郎共編 (帝國書院) 大正 14(1925) 4 月 60 ◎『中等敎育初等漢文典』児島献吉郎、新樂金橘共著(伊 川堂書房) 大正 14(1925) 8 月 60 ◎『漢文學の内容的価値;講習題目』児島献吉郎講述(出 版者不明) 大正 14(1925) 10 月 60 ○「支那文學の感情的内容」(『斯文』7 ⑸) 大正 14(1925) 12 月 60 ○「支那文學の感情的内容(承前)」(『斯文』7 ⑹) 大正 15(1926) 1 月 61 ◎『帝國中等作文巻四』(帝国書院) 大正 15(1926) 1 月 61 〇「文検漢文科試験に就いて」(『文検世界』12 ⑴) 大正 15(1926) 6 月 61 ●京城帝國大学漢文科主任教授 ⑮ 昭和2(1927) 5 月 62 〇「孔夫子の集大成」(『斯文』9 ⑸) 昭和2(1927) 62 ◎「支那文學史」(早稲田大學出版部『早稲田大學文學講 義』第 6 巻) ◎「漢文作法」(早稲田大學出版部『早稲田大學文學講義』 第 8 巻) 昭和 2(1927) 62 □『漢文新鈔:標準問題』児島献吉郎編(光風館書店) 昭和 2(1927) 62 □『十八史略鈔本』児島献吉郎編(光風館書店) 昭和 3(1928) 3 月 63 ○「我輩の老子觀」(『朝鮮』154 号朝鮮総督府) 昭和 4(1929) 64 ○「漢文の成績が悪くなった」(大月静夫『最新指導文検 国語科受験法』大同館書店) 昭和 5(1930) 1 月 65 ○「樂府に見はれたる支那詩人の傳統的思想」(『斯文』12 ⑴) 昭和 5(1930) 2 月 65 ○「樂府に見はれたる支那詩人の傳統的思想(二)」(『斯 文』12 ⑵) 昭和 5(1930) 65 ●京城帝國大学漢文科主任教授を辞す ⑯ 昭和 6(1931) 2 月 66 ◎『支那諸子百家考』(目黒書店) 昭和 6(1931) 9 月 66 □『帝國漢文巻1巻2巻3巻4巻5』児島献吉郎、西澤道 寛共編(帝國書院) 昭和 6(1931) 12 月 66 ●熊本に卒す ⑰ 昭和 7(1932) 4 月 ◎『十八史略鈔詳解』(健文社) 昭和 8(1933) ◎『支那文學雜考』(関書院)

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【年譜注】 ①『岡山県歴史人物事典』(三浦叶) ②『岡山県歴史人物事典』(三浦叶) ③『岡山県歴史人物事典』(三浦叶) ④「古典講習科時代の菅沼貞風を語る」山田準(『歴史地理』79 巻第 4 号昭和 17(1942) 年日本地理学会) ⑤『岡山県歴史人物事典』(三浦叶) ⑥『岡山県歴史人物事典』(三浦叶)、杜軼文「児島献吉郎の支那文学史研究について」 『二松学舎大学人文論叢』第 71 輯 186 頁 ⑦「三島中洲年譜」(二松学舎大学附属図書館『三島中洲と近代―其一―』83 頁(平成 25 (2013)年 3 月) ⑧『漢学の近代 明治の精神に学ぶ』二松学舎大学私立大学戦略的研究基盤形成支援事業 「近代日本の「知」の形成と漢学」2018 年 12 月 15 頁 ⑨『岡山県歴史人物事典』(三浦叶)、池田蘆洲「贈兒島子文赴西京序」は、児島が美術審 査官として、明治 28 年京都で開催された内国勧業博覧会に赴く際に、池田蘆洲が児島 に贈った文章である。帝國美術館退職と東京府立第一中学校着任の時期は確定できない が、明治 28 年から 31 年の時期と推定される。 ⑩兒島獻吉郎「記瘞骨事」(『龍南會雑誌』73) ⑪任免裁可書(大正 13 年任免巻 53)国立公文書館 ⑫『岡山県歴史人物事典』(三浦叶) ⑬内閣行政文書大正 12 年 7 月 18 日任免第五十三 ⑭『二松学舎百年史』二松学舎、1977 年 473 頁 ⑮任免裁可書(大正 15 年叙位巻 4)国立公文書館 ⑯任免裁可書(昭和 5 年任免巻 2)国立公文書館 ⑰山田準「兒島星江君を憶ふ」宇野哲人「兒島博士を憶ふ」鹽谷溫「二度の御見舞」(『斯 文』14 編第 2 號) 【付記1】出版年不明の著作 〇兒島獻吉郎講述『大学講義』早稲田大学出版部 〇兒島獻吉郎講述『漢文作法』早稲田大学出版部 〇兒島獻吉郎『星江餘滴』(私家版か。『近世漢学者伝記著作大事典』に書名のみあげる が、未見。) 【付記2】中国語翻訳 〇兒島獻吉郎著、胡行之訳述『中国文學概論』北新書局 1933 年

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〇兒島獻吉郎著、隋樹森譯述『毛詩楚辞考』国学小叢書 1936 年(別タイトル『支那文学 雜考』) 【付記3】児島献吉郎とその著作に言及する資料 〇瓢箪生「児島先生と吉見先生へ」『文』第 2 巻 7 号明治 22 年(1889)4 月 15 日発行) 〇瓢箪生「児島先生へ」『文』第 2 巻 9 号明治 22 年(1889)5 月 15 日発行) 〇美妙子(山田美妙)「言文一致論ニ付キ児島献吉氏ノ駁撃ニ答ヘテ」(『文』第 2 巻 9 号 明治 22 年(1889)5 月 15 日発行)(臨川書店『山田美妙集』第 9 巻平成 26(2004)年) 〇美妙子(山田美妙)「児島献吉氏ノ「再ビ文章ヲ論ズ」ヲ読ンデ」(『文』第 2 巻 10 号明 治 22 年(1889)5 月 31 日発行)(臨川書店『山田美妙集』第 9 巻平成 26(2004)年) 〇藤山豊「文章論ニツイテ児島君及美妙子ニ告グ」(『文』第 2 巻 10 号明治 22 年(1889) 5 月 31 日発行) 〇美妙子(山田美妙)「児島献吉氏及ビ其他ノ非言文一致論者諸氏ヘ」(『文』第 2 巻 10 号 明治 22 年(1889)5 月 31 日発行)(臨川書店『山田美妙集』第 9 巻平成 26(2004)年) 〇美妙子(山田美妙)「児島献吉氏及ビ其他ノ非言文一致論者諸氏ヘ」(未完)(『文』第 2 巻 11 号明治 22 年(1889)6 月 15 日発行) 〇美妙子(山田美妙)「児島献吉氏及ビ其他ノ非言文一致論者諸氏ヘ」(未完)(『文』第 2 巻 12 号明治 22 年(1889)6 月 30 日発行) 〇池田蘆洲「贈兒島子文赴西京序」明治 28(1895)年池田勝雄『蘆洲遺稿上』昭和 9 (1934)年) 〇池田蘆洲「送兒島星江游松州序」明治 29(1896)年(池田勝雄『蘆洲遺稿上』昭和 9 (1934)年) 〇池田蘆洲「與兒島子文論文書」明治 30(1897)年(池田勝雄『蘆洲遺稿上』昭和 9 (1934)年) 〇長尾雨山「一枝巣記」(『龍南會雜誌』63 号明治 31(1898)年 2 月) 〇吉井庵千暦「兒島星江の口髯」(大学堂『名士の笑譚』明治 33 年(1900)4 月) 〇本城問亭「一枝巣記」(本城問亭『問亭遺文』元・大正 5(1916)年) 〇山田準「兒島星江君を憶ふ」(『斯文』14 編第 2 號・昭和7(1932)年 2 月) 〇宇野哲人「兒島博士を憶ふ」(『斯文』14 編第 2 號・昭和7(1932)年 2 月) 〇鹽谷溫「二度の御見舞」(『斯文』14 編第 2 號・昭和7(1932)年 2 月) 〇山田準、諸家次韻 漢詩「輓兒島星江君」(『斯文』14 編第 2 號・昭和7(1932)年 2 月) 〇佐倉孫三「追懷漫談」(二松学舎『二松学舎六十年史要』昭和 12(1937)年 12 月) 〇山田準「松門懷舊記」(二松学舎『二松学舎六十年史要』昭和 12(1937)年 12 月) 〇山田準「古典講習科時代の菅沼貞風を語る」(『歴史地理』第 79 巻第 4 號昭和 17 年 4 月)

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〇『三島中洲と近代』其一∼其六(二松学舎大学附属図書館、平成 25 年∼ 30 年)其三に は、児島献吉郎筆、山田準宛の手紙が九通紹介されている。また三島中洲門下の東京大 学古典講習科の人々の書簡には、児島の名が散見する。 【付記4】児島献吉郎蔵書について 国会図書館データベース、国立情報学研究所学術情報データベース(CiNii)によれば、 「一枝巣」、「一枝巣蔵書」と印記のある書は 28 種見出され、王時敏『山水図扇面』が東京 国立博物館に、『増讀韓非子二十巻附録一巻』が九州大学中央図書館に、『近聞寓筆』四巻 『近聞雑録』一巻が関西大学図書館に、幸田露伴著『小説葉末集』が早稲田大学柳田文庫 に、それ以外が筑波大学附属図書館に所蔵されている。 三、まとめと今後の課題  以上の年譜から、児島献吉郎と「支那文学史」との関わりをおよそ次のようにまとめる ことができるだろう。  帝国大学文科大学附属古典講習科漢書課を卒業した後、児島献吉郎は、雑誌『支那文 学』に「支那文学史」を発表し、支那文学史執筆に着手した。この「支那文学史」は、結 果的に、上古史のみに終わったが、冒頭の総論に時代区分を示して、 ⑴ 第一期 太古より秦に至るまで  ⑵ 第二期 秦漢以来唐に至るまで ⑶ 第三期 宋から清まで ⑷ 第四期 清代 というところから、当初通史的な視野をもっていたことがうかがわれる。しかし、実際に 書かれたのは第 11 号の『詩経』、上古史までであった。11 号「支那文学史」の末尾に次 のような著者識を記している。 著者ガ初メ是稿ヲ起スヤ第一章ニ文學全体ノ盛衰ヲ叙シ第二章ニ文章ノ變遷ヲ叙シ第 三章ニ詩歌ノ來歷ヲ叙へ第四章ニ文字ノ沿革ヲ叙へ第五章ニ典籍ノ眞僞ヲ叙へ以テ上 古史ヲ完結セシガ文字ノ沿革ハ岡田氏ノ文字史リ詳カナリ典籍ノ眞僞ハ読者ノ倦厭ヲ 生スルニ過キザルヲ以テ今第四章及ヒ第五章ヲ省略シテ更ニ中古文學史ニ移ラントス  「岡田氏の文字史」とは、『支那文学』誌上 16 回連載された岡田正之の「支那文字史」 を指す。当初の予定を変更して、上古史のうち、第一章に文学全体の盛衰、第二章に文章 の変遷、第三章に詩歌の来歴を述べ、『詩経』までで上古史を終わり、中古文学史に移る というのである。「中古文學史」とは⑵第二期秦漢以降唐までを指すだろうが、予告に反 して、以後続編は終刊の 23 号(明治 25 年 8 月)まで掲載されることはなかった。  その後を受けたものか、明治 26(1892)年から明治 27(1893)年に前漢文学に関する

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八篇の論考が雑誌『城南評論』と『しがらみ草紙』に発表された。『しがらみ草紙』第 44 号(明治 26(1892)年 5 月)目次に、 この度城南評論と文學評論柵草紙を併して新に志がらみ草紙と題し、城南評論社と新 聲社とを合したる柵社より發行す。 といい、掲載誌名は変わるが、実質同じ雑誌に連続して投稿されたものである。  明治 31 年、児島献吉郎は第五高等学校教授として熊本に赴任し、以後熊本を去るまで、 機関誌『龍南會雑誌』に論考・漢詩文を毎号のように発表した。論考は児島献吉郎の名 で、漢詩文は児島星江の名で寄稿されている。文学史の論考では、老子、楊雄、屈原、詩 人的英雄(曹操)、陶淵明、戦国時代の四大文豪と、司馬相如、南北朝の仏教についての 文章を書いた。  『龍南會雑誌』掲載の論考と後に出版された『支那大文学史古代編』の章名を比較する と、以下のような類似が見られる。 『龍南會雑誌』 『支那大文学史古代編』 賦聖長 第五期第八章 賦聖長 詩人的英雄 第六期第四章 横槊詩人 (小題)曹操は詩人的英雄? 晉代文學と竹林の七賢 第六期第八章 竹林七賢 田園詩人陶淵明 第六期第十五章 田園詩人 支那南北朝に於ける佛敎 第六期第十六章 南北朝の佛教思潮  内容の詳細な比較は、後の機会に譲るが、『支那文學』に掲載した「支那文学史」、『支 那學』掲載の「文學小史」、そして『龍南會雑誌』掲載の論考を骨子とし、さらに内容を 豊富に盛り込み、六朝までの文学史を詳細にまとめたものが『支那大文学史古代編』だっ たと、一応の推察ができるだろうと思う。『支那大文学史古代編』は、明治 42 年東京師範 學校教授として東京に戻ってすぐに出版された。この時、児島献吉郎は、『支那大文学史 古代編』を上梓した際の友人の反応を、親友山田準宛の私信に書き送っている。 …島田青石氏は貴兄之後序ニ就き大ニ賞賛致し居候。市村器堂は小生之假名交じり文 に感歎措く能はす、一讀再讀倦むを覚へす、愈進みて愈巻を釋つるに忍びすとて、遇 ふ人ごとに廣告致居候由に有之候。岡田正之・林泰輔君などは皆器堂之長廣舌に膽を 抜かれて、風聲鶴唳にも驚き居候は、捧腹之次第に御座候。要するに、東都の人士は 畏るへきもの無之と、小生も俄に天狗と(平素よりの天狗が)相成候次第に御座候。

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…⑸  「貴兄之後序」とは、山田準の『支那大文学史古代編』後序をいう。文中、島田青石は 島田欽一(1866 ∼ 1937)、東京帝国大学文科大学漢学科の主任島田重礼の長男、帝国大学 文科大学附属古典講習科漢書課後期で児島献吉郎と同期に学び、一高、東京文理大教授と なった。雑誌『支那文学』にも参加した。市村器堂は市村瓚次郎(1864 ∼ 1947)で、帝 国大学文科大学附属古典講習科漢書課前期を首席で卒業し、東京帝国大学教授となり、白 鳥庫吉とともに東洋史学の先駆者となった。岡田正之(1864 ∼ 1927)は帝国大学文科 大学附属古典講習科漢書課前期を卒業し、日本漢文学の基礎を作った。林泰輔(1854 ∼ 1922)は帝国大学文科大学附属古典講習科漢書課前期を卒業し、朝鮮史や甲骨文研究の先 駆者となった。いずれも帝国大学文科大学附属古典講習科漢書課前後期の卒業生であり、 卒業後も深いつながりがあったことがうかがわれる。  東京に戻ってからの児島献吉郎の編著には、教科書や参考書に関する編著が圧倒的に多 い。熊本五高から東京高等師範に移った時、山田準宛の私信に、次のような感想を洩らし ている。 高等師範の生徒も教師も、皆五高等の生徒教師と其趣を殊にし、不愉快至極に御座 候。生徒がクダラヌ事に質問の多きは、学問に忠實なるに非ずして、他日教壇に立ち し時のことを苦慮せるものの如くに有之候。小生も新任と思へばコソ可成辛抱もすれ ども、何れは一度破裂することあらんかと心配罷在候。 東京に来たりしより、文学史續稿は未た一篇も否々一行も起草することなし。東京は 何となく忙殺せられて、勉強の出来ぬ處と存候。⑹  東京は忙しないところで勉強ができない。加えて高等師範の生徒たちが興味を示すのは 学問ではなく将来教壇に立った時に役立つ実際の知識ばかり、と嘆息している。実際、東 京高等師範教授となって以降の児島の業績は、論考よりも、教学のための辞書やテキスト の編纂がきわめて多くなっている。  明治 45 年(1912)、児島は、通史の体裁をとり、簡明を旨とした『支那文学史綱』をま とめた。この本は以後多くの版を重ねた。東京高等師範に着任後、『支那大文学史古代編』 の続編を書き継ぐことより、需要の多い、簡便で通史の体裁をもつ『支那文学史綱』が優 先されたのかもしれない。  以上が児島献吉郎と「支那文学史」の関わりだが、最後に、彼が明治 22 年雑誌『文』 に、言文一致に反対する数篇の文章を投稿したことに注目しておきたい。言文一致を近代に 成立した日本語表現の問題、支那文学史を外国の文学史の一つ、と見れば、この二つはかけ 離れた問題のように感じられる。が、明治期には、密接に関連した問題だったと思われる。  児島の一連の言文一致反対の最初の論である「文章論」は、明治 22 年(1889)に発表

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されたが、その前言に以下のようにいう。 因ニ云予曾テ大学ニ在ルノ頃、日本文章論ヲ著ハシ古今文章ノ変遷ヲ論ズ、此ノ篇ハ 即其ノ一節ナリ、今茲ヲ再校シ以テ貴社ニ投ジ、四方諸彦ノ教ヲ待ツ。此ノ篇ハ原ト 漢文ヲ以テ起草セシモノナレバ、文勢自然ニ繁縟ニ過ギ、議論或ハ鋒鋩ヲ露ス所ア リ、看官咎ムルナクンバ幸甚幸甚。⑺  児島が学生時代に執筆した「日本文章論」の全体が、どのようなものだったか、今知る 術がないが、「文章論」中に、 顧フニ和文の振ハザル所以ハ漢学アルヲ以テナリ、夫レ和文盛ナレバ漢学振ハズ、漢 学盛ナレバ和文衰フルハ既往ニ徴シテ章章タリ、故ニ和漢学ハ与ニ我邦草昧ノ世ニ起 リ、其ノ親、兄弟ノ如シト雖、其ノ勢水火ノ相容レザルガ如ク、一盛一衰猶四時ノ循 環スルガ如シ、而シテ漢学ハ常ニ王公縉紳ノ学ト為リ、和学ハ僅ニ婦人女子ノ手ニ落 ツ…⑻ というところから推せば、おそらく和文も漢文も含めて日本の文章であり、その盛衰交 代、「古今文章ノ変遷」をいうものだっただろうし、当然漢文の優位を主張するものだっ ただろうと思う。  児島だけでなく、当時の知識人に、新しい国文の模範として言文一致はあまり支持され ていなかったらしい。菊野雅之「明治始発期における日本文学史の叙述姿勢に関わる試論 ―軍記に関わる言説を中心に―」は、三上参次・高津鍬三郎『日本文学史』(1890)を考 察する中で、次のように言う⑼。 なお、この三上・高津『日本文学史』にもすでに「言文一致」の言葉が確認される が、俗文を文語化したものとして、新たな国文としてはふさわしくないものとして退 けられている。この言文一致体に関する見解は、当時の一般的な見解であり、言文一 致運動による文体観の大きな変化はもう少し時を待たねばならなかった。  そして三上・高津『日本文学史』が模範としているのは、江戸時代の漢学者の文体だった。 かくの如くして、新に漢学者の手に成りたる、一種の和漢混和文は、実に今日国文の 模範とすべきものなり。優美にして、しかも雅文のごとく柔弱ならず。遒強にして、 しかも漢文の如く佶屈ならず。妙に和漢両文章の粋を抜き、長を取りて之を混化融成 せしものなれば、如何に富瞻なる思想も如何に錯綜せる事物も之を写し出だすに於 て、自由自在ならざるなし⑽。  明治の学制制定以降の新しい国文の文体として、近代の漢学者から受け継いだ和漢混和 文が、支持されていた。とすれば、言文一致反対論と漢詩文の入門書としての支那文学史 は容易につながるはずだ。  戦後の国語教育を受けて育った筆者には、真似事に過ぎなくても俳句と和歌の創作に

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触れた記憶があるが、表現として漢詩漢文を学習する機会はなかった。「日本文学史」と 「支那文学史」は二つの別の流れとして記述することが定着していて、漢詩文とかな文学 が混然ひとつになったような文学史、日本の文章の変遷を説くものはなかった。また言文 一致体は、明治期以降短期間で驚くべき水準に達し、文学としてすでに成熟していた。表 現も読書も、言文一致体が当然であった。これは筆者一人ではなく、同世代以降の人はほ ぼ同様だろうと思われる。  明治と現在の、日本語表現をめぐる状況には大きな溝が横たわるが、資料を援用しなが らその溝を乗り越えることが、明治期の支那文学史流行の背景と児島献吉郎の支那文学史 執筆の姿勢を知る手掛かりになるだろうと思う。『文』誌上の児島の言文一致反対論と、 雑誌『支那文学』について、日本語の表現の問題を視野に入れながら、次の機会に考察し たい。 注 ⑴川合康三「唐代における文学史的思考(上)」京都大学文學部研究紀要 37(1998) ⑵「著者二人曾て大学に在りし時、共に西洋の文学書を繙きて、其編纂法の宜しきを得た るを嘆賞し、また文学史といふ者ありて文学の発達を詳らかにせるを観、之を研究する 順序の、よく整いたるを喜びき。之と同時に、本邦には未だ彼が如き文学書あらず。ま た文学史といふ者もなくして、本邦の文学を研究するは、外国の文学を研究するよりも 一層困難なることを感ずる毎に、未だ曾て、彼を羨み、此れを憐れみ、如何にもして、 我国にも彼に劣らざる文学書、また彼に譲らざる文学史あらしめんとの慷慨の念、勃 然として起らざること無かりき。(三上参次・高津鍬太郎『日本文学史』上(金港堂  1890 年)緒言 ⑶川合康三「唐代における文学史的思考(上)」京都大学文學部研究紀要 37(1998) ⑷杜軼文「児島献吉郎の支那文学研究について」『二松学舎人文論叢』71、2003 年、杜軼 文「児島献吉郎著『支那文学史綱』に関する考察」『二松;大学院紀要』2011 年 ⑸『三島中洲と近代 其三』平成 27 年 3 月二松学舎大学附属図書館、43 頁 ⑹『三島中洲と近代 其三』平成 27 年 3 月二松学舎大学附属図書館、43 頁 ⑺吉田澄夫・井之口有一編『明治以降国語問題論集』風間書房、1964 年 ⑻吉田澄夫・井之口有一編『明治以降国語問題論集』風間書房、1964 年 ⑼菊野雅之「明治始発期における日本文学史の叙述姿勢に関する試論―軍記に関わる言説 を中心に―」『横浜国大国語研究』32、2014 年 ⑽三上参次・高津鍬三郎『日本文学史』1890 年、下巻 211 頁

参照

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