◇ 研
究
報
告(2000年
度)
茅 ケ崎市 北 部 丘 陵 地 域 に お け る農家 の生 活 環 境
〈
住 生 活 の変 容 を視 点 と して〉
女子短期大学部 川
崎
衿
子
は じめ に 1研 究 の 目 的 茅 ケ崎 市 は地 形 的 に は北 部 の丘 陵 地 域 と南 部 の平 野 地 域 に大 き く二 分 さ れ る 。 北 部 地 域 は相 模 川 左 岸 に 広 が る相 模 の台 地 の 南 部 に位 置 し、 富 士 や 箱 根 の 火 山 活 動 の 影 響 を 受 けて 十 数 万 年 か ら数 万 年 前 に か けて 形 成 さ れ た も の と い わ れ る 。 ま た 市 街 地 化 の進 行 す る南 部 地 域 は相 模 川 流 域 に発 達 し た 相 模 沖 積 平 野 の 一 部 と して 約2万 年 前 か ら地 形 が 形 づ く られ た とい わ れ る。 さ ら に 茅 ケ崎 の 地 に 人 間 が 住 み 始 め た の は約 一 万 数 千 年 前 と い わ れ 、 以 来 居 住 地 と して の歴 史 は衰 え る こ と な く今 日 に 到 っ て い る 。 市 内 に は 旧東 海 道 に沿 った 社 寺 を は じめ とす る歴 史 遺 産 、 文 化 資 源 が 点 在 し 、 そ れ らは生 活 環 境 と一 体 と な って 残 され 、 茅 ケ崎 ら し い 町 並 み を 継 承 して い る。 ま た 明 治31年 の茅 ケ崎 駅 開 設 に よ って 海 水 浴 場 が 開 か れ 、 そ れ に伴 い海 浜 別 荘 が 増 加 し、 以 後 、 「茅 ケ崎 」 は湘 南 の 海 を 象 徴 す る文 化 的 な雰 囲 気 を 先 導 す る新 し い役 割 を 得 た と い え る。 戦 時 下 に は軍 事 演 習 場 、 軍 需 工 場 な どが 設 け られ 、 戦 後 は ア メ リ カ軍 が 駐 留 した 時 期 を経 て 、 昭 和22年 茅 ケ崎 町 は 市 制 を 施 行 し、 県 下 で は戦 後 初 の 新 市 と な っ た 。 昭 和30年 代 、40年代 の 高 度 経 済 成 長 と歩 調 を合 わ せ て 、農 業 を は じめ と し た第 一 次 産 業 中心 の 市 の 産 業 構 造 は大 き く変 化 し、 今 日 に み る 住 宅 都 市 、 観 光 都 市 と して の 発 展 を遂 げ て き た 。 しか しな が ら、 失 わ れ た も の の 代 償 は大 き く、 都 市 化 に よ る緑 の 減 少 や 町 並 み の 変 貌 、 広 告 物 の 氾 濫 、 猥 雑 な 景 観 の増 加 、 無 秩 序 な 土 地 利 用 な ど多 くの 問 題 を 生 じ させ て い る。 豊 か さ を実 感 させ る快 適 性 、 さ ら に安 全 性 や利 便 性 を 備 え た 町 づ く り に は 、 開 発 発 展 の み な らず 、 自然 景 観 の保 全 や 地 域 の 歴 史 ・文 化 、 緑 の 活 用 な ど を ふ ま え た 都 市 規 模 の 基 本 計 画 が 必 要 と さ れ る 。 そ の過 程 に お いて 、 地 域 住 民 の視 点 は尊 重 さ れ 、 一40一町 づ く りの 基 本 姿 勢 整 備 の重 要 な 条 件 とす べ き こ と は い うま で も な い 。 「茅 ケ崎 市 都 市 マ ス タ ー プ ラ ン」(平 成9年8月)で は将 来 都 市 構 想 が 示 さ れ 、 さ ら に は 「茅 ケ崎 市 都 市 景 観 基 本 計 画 」(平 成10年2月)で は4っ の ゾ ー ン と5っ の ベ ル ト、18の 拠 点 を 示 した環 境 保 全 の将 来 像 が 策 定 さ れ て い る。 北 部 丘 陵 地 域 、 中 部 地 域 、 中 心 市 街 地 域 、海 岸 地 域 の4っ の景 観 ゾ ー ン は そ れ ぞ れ 景 観 形 成 の テ ー マ が う た わ れ 、 景 観 構 造 の特 色 が 明 らか に さ れ て い る。 こ の う ち北 部 丘 陵 地 域 は、 従 前 か ら都 市 近 郊 の 特 性 を 生 か し た 農 業 主 体 の 土 地 利 用 に力 点 が 置 か れ て き た が 、 周 辺 の都 市 構 造 や社 会 環 境 の 変 化 、 大 学 の 開 設 な ど に よ り地 域 性 を 大 き く変 え よ う と して い る。 都 市 マ ス タ ー プ ラ ン に お い て は 価 値 の 高 い 田 園 環 境 、 野 生 生 物 生 息 地 域 を 保 全 す る と と もに 、 自然 公 園 や 運 動 公 園 の 整 備 を 促 進 し、 自然 との ふ れ あ い の場 、 人 と の 交 流 の 場 と して 活 用 す る方 針 が 示 さ れ て い る。 豊 か な 自然 が 広 が る一 方 、 大 学 、 福 祉 施 設 、 病 院 な ど 多 様 な 土 地 利 用 が は か ら れ て い る。 しか しな が ら明 確 な 地 域 像 が 形 成 さ れ て い る と は言 い 難 く、 未 整 備 で 荒 廃 した ま ま 放 置 され て い る土 地 もみ られ 、 新 し い時 代 に 即 応 し た 景 観 形 成 の 実 現 に は さ らな る努 力 が 必 要 と思 わ れ る。 これ ら一 連 の 動 きの 中 か ら、 環 境 を守 り、 美 し い 景 観 を 保 存 し よ う と す る ボ ラ ン タ リー 活 動 が生 ま れ 、 各 地 域 ご との 実 地 調 査 が 行 わ れ た 。 そ の 結 果 、 北 部 丘 陵 地 域 に お い て は 以 下 の もの が 景 観 資 源 と して 報 告 さ れ た。 (平 成7年 度 景 観 基 本 計 画 策 定 調 査)
名 称
区
分
i柳谷外集落
自然的景観資源
2腰掛け神社
歴史的景観自然
3田代邸の屋敷林
歴史的景観資源
4 きっ ね坂眺望的景観資源
5塩川邸の屋敷林 と桜並木
自然的景観資源
6川 口邸の長屋門
歴史的景観資源
7善谷寺
歴史的景観資源
本 報 告 で は上 記 景 観 資 源 の 中 か ら住 居 史 、 住 生 活 に関 わ る もの(田 代 邸 、 塩 川 邸 、 川 口邸)に 注 目 し、 そ の詳 細 を 明 らか に す る こ と を 目 的 と し た 。 しか し各 々 の 由 来に っ い て は伝 聞 や 居 住 者 の 記 憶 に よ る と こ ろ が 大 き く、 史 料 の保 存 も不 十 分 で あ り 、 さ ら に現 状 の 実 態 把 握 も十 分 に行 わ れ て い な い 。 歴 史 的 、 文 化 的 遺 産 を ど の よ う に 位 置 づ け るか は今 後 の 町 づ く りの 方 途 を 探 る上 で 重 要 な 条 件 と な る が 、 こ れ らの 基 礎 資 料 の 未 整 備 は 直 ち に解 決 を 図 らな け れ ば な らな い 問 題 で あ り、 早 急 に補 完 す る 必 要 が あ る と思 わ れ る。 以 上 の 問 題 意 識 か ら以 下 の3件 を 対 象 と して 、 当 該 住 居 の 由 来 、 家 族 と地 域 の 関 係 、 住 生 活 の変 容 を 明 らか に した 。 1塩 川 邸:茅 ケ崎 市 芹 沢 1902(明 治35)年 建 設 。 木 造2階 建 て 。 住 居 と と も に敷 地 外 周 の桜 並 木 が 名 所 と な っ て い る。 塩 川 家 自体 は この 地 に 居 を構 え た の は1500年 代(天 正 年 間)と み ら れ る 。 現 存 す る住 居 は昭 和40年 代 に 大 改 造 した もの で あ る。 2川 口 邸:茅 ケ崎 市 芹 沢 市 内 有 数 の 歴 史 的 価 値 の 高 い長 屋 門 を もっ 旧 家 で あ る 。 1894(明 治27)年 頃 、 長 屋 門 建 設 。 昭 和20年 、 昭 和51年 に 改 修 さ れ た 。 現 在 の 川 口邸 の 住 居 基 盤 は大 正14年 に建 設 さ れ 、 昭 和54年 、 平 成5年 に 大 改 修 さ れ た もの で あ る。 3田 代 邸 二茅 ケ崎 市 芹 沢 現 在 の 田代 邸 は50年 ほ ど前 に建 て 替 え た も の で あ る 。 旧 田 代 邸 に あ った 箪 笥 階 段 は、 現 在 堤 の 民 家 に納 め ら れ て い る 。 屋 敷 林 の 由 来 は明 らか で は な い が 、 そ の 中 に あ る欅 は樹 齢700年 と いわ れ る 。
2調
査研究概要
1)研
究方法
研究資料の収集に当たっては、茅 ケ崎市都市政策課 の協力を得 た。 また茅 ヶ崎市
教育委員会生涯学習課文化財保護担当部局か らも有意義 な示唆を得 た。それ ら研 究
に関わ る資料か ら事実関係を照合、面接及 び実地調査 を行 った。実地調査 は次 の2
面か ら構成 される。
1居
住者か らの聞 き取 り、当該住居の保存文書、書 き付 けなどか らの検証。
2建
物 実測、増改築歴状況把握。
2)実
地調査時期2000(平
成12)年8月
∼2001(平 成13)年3月
一42一・予 備 調 査 岡 本 邸 訪 問:2000年8月 ・本 調 査 塩 川 邸:2000年9月25日 、10月26日 、12月21日 川 口 邸:2000年12月21日 、2001年1月25日 田 代 邸:2001年3月30日 以 上 の時 期 以 外 に も当 該 住 宅 居 住 者 へ の 電 話 、 手 紙 な ど に よ り調 査 補 完 、 修 正 を 行 った 。 尚 、 以 下 は事 前 調 査 か ら予 備 調 査 お よ び本 研 究 に 関 わ り 、 実 地 調 査 の 推 進 に 働 い た共 同 研 究 者 で あ る。 ・茅 ヶ崎 市 の 市 民 団 体 「ま ち景 ま ち観 フ ォ ー ラ ム ・茅 ヶ崎 」 代 表 ・益 永 律 子 副 代 表 ・高 見 澤 和 子
また建築実測 に当た っては湘南設計監理協会の協力 を得 た。以下 が実測担 当者 で
あ る。
洋 建 築 企 画 山 口 洋 一 郎(塩 川 邸) 建 楽 設 計 三 澤 護(塩 川 邸) 湘 南Toru工 房 数 田 亨(塩 川 邸) 鈴 木 建 築 設 計 事 務 所 鈴 木 仁(塩 川 邸) 岸 設 計 岸 照 弘(川 口邸 長 屋 門) ア リー ナ エ ン ジ__..アリン グ 長 沼 宏 紀(川 口邸 長 屋 門) ア リー ナ エ ン ジ ニ ア リン グ 菊 地 陽 子(川 口邸 長 屋 門) 3茅 ヶ崎 市 内 の農 家 の 現 状 茅 ケ崎 の 農 村 風 景 が変 わ り始 め た の は明 治 末 期 か ら と い わ れ る。 畑 に は桃 、 梨 な ど の 果 樹 や 桑 が 植 え られ 、 養 蚕 、 畜 産 も含 め た多 角 的 な 経 営 形 態 が み られ る よ う に な っ た 。 特 に乳 牛 飼 育 は別 荘 や 南 湖 院 の 需 要 に よ り大 正 期 後 半 以 降 、 盛 ん に 行 わ れ る よ う に な った 。 大 正12年9月 に お き た関 東 大 地 震 は茅 ヶ崎 に甚 大 な 被 害 を も た ら し た 。 大 方 の 農 家 は全 壊 し、 そ の 後 の 復 興 事 業 、 経 済 状 況 、 あ る い は 建 て 替 え に よ り農 村 風 景 は大 き く変 わ っ て い っ た 。 茅 葺 き か ら トタ ン屋 根 へ の 変 更 、 味 噌 部 屋 の 廃 止 、 土 間 の 縮小 な ど 伝 統 的 農 家 の た た ず ま い は変 容 し、 生 活 様 式 の 近 代 化 が進 行 した。 次 に起 こ っ た 昭 和 恐 慌 は農 村 に大 き な 打 撃 を 与 え た 。 繭 そ の 他 の 農 産 物 価 格 の 低 落 は、 人 々 を 現 金 収 入 の道 へ と向 か わ せ 、 近 在 の工 場 へ と働 き 口 を 求 め る兼 業 農 家 が 激 増 した 。 さ らな る都 市 化 、 宅 地 化 の 趨 勢 は従 来 の 農 業 の 形 態 に変 革 を 促 し 、 換 金 性 の 高 い 野 菜 、 花 卉 、 果 樹 栽 培 な ど が導 入 され 、 時 代 へ の 対 応 が 要 求 さ れ た 。 戦 後 の農 村 は農 地 改 革 か ら始 ま り、地 主 、 小 作 、 自 作 の 代 表 か ら な る農 地 委 員 会 が設 立 さ れ 、 さ ら に農 業 協 同組 合 法 に よ る農 協 が結 成 さ れ て 、 茅 ケ崎 市 の 農 業 は都 市 近 郊 農 業 と して 発 展 して き た。 現 在 茅 ヶ崎 市 農 業 委 員 会 が 把 握 して い る農 家(兼 業 農 家 含)は746戸(2000年 農 業 セ ンサ ス)で あ る 。 そ の うち北 部 丘 陵 地 域(堤 ・下 寺 尾 ・芹 沢 ・行 谷)の 農 家(同 上)は260戸 、 そ の う ち畜 産 農 家 は14戸 で そ の数 は ど ち ら も減 少 傾 向 を 示 し て い る 。 ま た経 営 耕 地 面 積(畑 地 。田)は412ha(神 奈 川 県 企 画 部 統 計 課)と な り、 昭 和40年 代 と比 較 す る と約3分 の1と 減 少 して い る 。
口
茅 ケ崎市農業委員会会長 ・岡本良雄氏の話 より
岡 本 家 が この 地 に居 を 定 め た の は1700年 代(元 禄 年 間)と い わ れ る が 、 現 在 は 養 豚 農 家 と して この 地 域 で は有 数 の 生 産 量 を もち っ っ 、 米 、 麦 、 さっ ま い もの 収 穫 を あ げて い る。 良 雄 氏 は9人 兄 弟 の 長 男 と して 昭 和2年 、 生 まれ た 。 昭 和39年 、 先 代 の 生 存 中 に 農 地6600坪 の 一 括 贈 与 を 受 け、 そ の 経 営 を 引 き継 い だ 。 大 正12年 の 関 東 大 震 災 に よ り岡 本 邸 は打 撃 を 受 け、 この 時 の 建 て 替 え で 藁 葺 き屋 根 は トタ ン屋 根 に 変 更 さ れ た 。 現 在 の 岡 本 邸 は昭 和42年 に新 築 した もの で あ る。 約3000坪 の 敷 地 に 住 宅 、 土 蔵 、 養 豚 舎 数 棟 、 そ の 他 資 材 棟 が 配 置 され て い る 。住 宅 南 面 の 空 地 は 広 く、 作 業 場 、 駐 車 場 な ど 多 目的 に 使 わ れ て い る。 玄 関 は他 の 農 家 に も多 く見 られ る よ う な 桁 側 に 突 出 した 南 入 り形 式 で 、 近 郊 農 家 の 外 観 的 特 徴 を 備 え て い る 。 本 体 部 分 にっ い て も南 面 廊 下 、 続 き間 か ら構 成 され 、農 家 と して の伝 統 的 生 活 様 式 が 近 年 ま で 温 存 さ れ て き た こ とが うか が え る。 全 国 的 に も農 業 及 び農 家 経 営 上 の 問 題 は後 継 者 不 足 と い わ れ る が 、 良 雄 氏 の 後 は 長 男 が 後 継 し、 現 時 点 で はそ の心 配 は な い 。 ま た 長 子 相 続 の 時 代 と は異 な る相 続 制 度 の 今 日的 問 題 も農 家 の継 続 を 困 難 に して い る状 況 と さ れ る が 、 岡 本 家 で は 当 主 の 意 志 で 、 次 男 に は生 前 財 産 分 与 を 行 い相 続 に関 わ る解 決 を 試 み て い る 。 しか し、 次 の孫 の 代 へ と継 承 で き る か 否 か にっ いて は明 らか で は な い 。 II農 家 存 続 は楽 観 を許 さ な い状 況 で あ るが 、今 後 よ り多 面 的 な試 行 が 必 要 が あ ろ う 。 -u7期 盛 ん で あ っ た貸 し農 園 は 、 無 農 薬 農 法 に頼 る こ とが 多 く周 囲 の 農 作 物 に 対 す る配 慮 が 欠 け る た め消 極 的 に な らざ るを 得 な い 。 現 在 、 北 部 丘 陵 地 域 は交 通 路 線 の 充 実 を 図 る と と も に貴 重 な 自然 環 境 や緑 の 保 全 、 生 物 の 生 息 を 支 え る農 地 や 草 地 な どを 生 態 的 に結 ぶ ビ オ トー プ ・ネ ッ トワ ー ク づ く り が進 め られ て い る 。 ま た 整 備 中 の 県 立 北 部 丘 陵 公 園 に は 、 こ れ を 中 心 と し た 多 く の 交 流 拠 点 づ く りが 実 現 す る も の と期 待 が寄 せ られ る。 前 出 の 茅 ケ崎 市 都 市 マ ス ター プ ラ ンで も都 市 的 な利 便 性 と農 村 の 自然 環 境 を併 せ も っ た 農 業 基 盤 を 整 備 し、 都 市 農 業 の 振 興 を は か る こ と が 謳 わ れ て お り、 時 代 に 即 し た 環 境 保 全 型 の 新 し い 農 業 基 盤 が生 ま れ て く る こ とが 予 測 さ れ る。 図1北 部 丘 陵 地 域 整 備 方 針 図 茅 ケ崎市 ・都市 マスタ ープ ラン概要版(平 成9年8月)よ り
ll塩 川 邸 に つ い て
1塩
川家の由来 と家族
塩 川 家 は伝 承 に よ る と武 田信 玄 の 流 れ を汲 む と い わ れ て い る 。 日蓮 宗 本 山 で あ る 富 士 の 本 門 寺 よ り1582(天 正10)年 に授 か っ た と い わ れ る お 曼 陀 羅 の 存 在 か ら、 そ の 頃 よ り こ の地 ・芹 沢 に居 を 定 め た と思 わ れ る。 現 戸 主 の 塩 川 十 善 よ り三 代 遡 る 塩 川 善 左 衛 門 は近 在 の遠 藤 よ り養 子 と して 塩 川 家 に入 り、 明 治 初 年 に は 芹 沢 の 名 主(後 に戸 長)と な っ た 。 そ の息 子 廣 三 郎 は熱 心 に勉 学 に勤 し み 、 吉 田 茂 が 学 ん だ こ と で も知 られ る藤 沢 ・羽 鳥 の 「耕 余 塾 」 の 門 下 生 とな っ た 。 耕 余 塾 は姫 路 藩 出 身 の 漢 学 者 小 笠 原 東 陽 が 羽 鳥 の 素 封 家 三 觜 八 郎 右:衛門 の支 援 に よ って1972(明 治5)年 に 開 い た私 塾 「読 書 院 」 を 前 身 に、1977(明 治10)に 開 学 した 寄 宿 制 の 中 学 校 で あ る 。 後 に耕 余 義 塾 と名 を 改 め た が 、 東 洋 古 典 中 心 の 教 育 を 重 視 す る と と も に 洋 学 を と り い れ 、 内 容 の充 実 した 一 流 校 と して の 名 声 を得 て 、 神 奈 川 県 下 に 及 ば ず 東 京 か ら も優 れ た 子 弟 を集 め た 。 読 書 院 か ら始 ま り耕 余 義 塾 が1900(明 治33)年 に 閉 鎖 さ れ る ま で の28年 間 に 政 治 、 外 交 、 実 業 、 教 育 の各 方 面 に逸 材 を 排 出 して お り 、 そ の 教 育 の 独 自性 に は今 日学 ぶ 点 が 多 い と さ れ る 。 耕 余 塾 は 、 も と も と は農 家 の 子 弟 の な か にお い て 将 来 地 域 社 会 の 指 導 者 と な る者 を 集 め 、 養 成 す る こ と を 目的 と して い た。 小 笠 原 東 陽 は 、 村 民 を 学 問 に 目 覚 め さ せ る た め 、 ま ず 水 滸 伝 の 講 釈 か ら始 め た と い わ れ るが 、 や が て 東 陽 の 学 徳 を 慕 っ て 入 門 を 求 め る者 が 多 くな った 。 入 学 の 年 齢 に っ い て は 中 学 校 入 学 資 格 年 齢 が 問 わ れ た が 、 修 業 年 に っ い て は20歳 く ら い ま で教 育 を 受 け て い た 例 もあ り緩 や か な 運 営 が な され て い た ら し い。 廣 三 郎 が 生 ま れ た の が1860年 で あ る こ とか ら考 え る と 、 彼 が 通 い 始 め た の は 読 書 院 時 代 で は な い か と思 わ れ る 。 篤 学 の塩 川 家 は教 育 に は一一際 熱 心 で あ り、 廣 三 郎 も 自身 の 息 子 達 に も高 等 教 育 を 望 み 、 病 弱 で あ り若 く して 没 した 勤 を 除 く他 の 三 人 を 師 範 学 校(現 横 浜 国 立 大 学)に 進 学 さ せ た 。 そ の息 子 の う ち の 一 人 、 善 司 は 師 範 学 校 在 学 中 に 交 通 事 故 に遭 い、 左 足 首 切 断 の 障 害 を 負 う こ と と な っ た 。 通 学 の 不 便 か ら転 校 を 余 儀 な く され 、 さ ら に廣 三 郎 の 強 い奨 め もあ っ て 、 次 男 で は あ っ た が 塩 川 家 を 継 ぐ こ と と な っ た 。 兄 ・唯 一 郎 と弟 ・英 雄 は家 督 を 善 司 に委 ね 塩 川 家 を 離 れ た 。 戦 前 は 男 女 の 雇 い 人 を抱 え 、 地 主 と して 広 く農 業 を 営 ん で き た が 、 戦 後 は 農 地 解 放 に よ りか な り な土 地 を手 放 し経 済 的 に苦 しい時 代 を 過 ご し た 。 善 司 ・ユ キ 夫 婦 は 昭 和2年 生 ま れ の長 女 ・三 枝 子 を は じめ と して二 男 四 女 の6人 の子 ど もを も う け た 。 一46一しか しユ キ は末 子 ・玲 子 を 昭 和20年 に産 ん だ 後 、 そ の 幼 い子 を 残 し て 昭 和22年41歳 で 亡 くな っ た 。 そ の後 、 ハ ル が後 妻 と して 迎 え られ た 。 善 司 は昭 和19年 か ら戦 後 の 1年 間 、 小 出村 助 役 を 勤 め た。 現 戸 主 ・十 善 は、 姉 に続 いて 昭 和5年 に長 男 と して 生 ま れ た。 村 立 小 出 小 学 校 へ は 徒 歩 で 通 い 、 そ の 後 、 戦 後 の 学 校 制 度 転 換 期 に 当 た り県 立 湘 南 中 学 校 、 高 等 学 校 (藤 沢 市)へ と進 む が 、 通 学 に は 自転 車 を利 用 した。 時 に は 事 情 に 応 じて 、 小 出 二 本 松 か らバ ス に乗 り茅 ヶ崎 駅 か ら国 鉄 に 乗 り藤 沢 駅 ま で 行 き学 校 ま で歩 い た 。 藤 沢 市 に接 した芹 沢 地 区 は今 も って 、 交 通 手 段 が 未 整 備 で あ り、 住 民 は 公 共 交 通 網 か ら隔 絶 さ れ て い る。 昭和2年 に小 出村 と 茅 ヶ崎 町 を 結 ぶ 小 出 県 道 が 開 設 、 ま た 小 出 村 と寒 川 を 結 ぶ 県 道 、 藤 沢 ・寒 川 線 が 建 設 され た こ とに よ り、 芹 沢 住 民 は そ の 二 線 が 交 わ る小 出 二 本 松 か らのバ ス利 用 が可 能 とな った。 二 本 松 周 辺 の県 道 沿 い に は村 役 場 、 郵 便 局 、 小 学 校 、 駐 在 所 、 消 防 署 、 公 民 館 な どの公 的 機 関 が 並 び、 当 時 か らそ の 一 帯 は地 域 の 中 心 的 役 割 を果 た して きた こ とが わ か る。 しか し芹 沢 住 民 は、 日常 的 な 生 活 に関 して は茅 ケ崎 の 町 に出 る よ り も藤 沢 との っ な が りが 強 か った とい う。 以 下 に塩 川 家 の 家 系 を 示 す 。
図2塩
川家家系図
十 善 ・芳 江 夫 妻 は3人 の 女 子 を 得 た が 、 この 子 ど も達 も片 道2、30分 を か け て 小 出 小 学 校 に徒 歩 で通 い 、 さ らに 中 学 、 高 校 に進 学 す る 時 を 迎 え て も依 然 交 通 事 情 は 変 わ らず 、 そ の 間 の 苦 労 は多 か っ た と語 っ て い る 。 周 辺 に 人 家 が 少 な く、 家 か らバ ス 停 ま で の 距 離 も長 い た め家 族 が 送 迎 を す る こ と も少 な く な か っ た 。 こ の 事 情 は現 在 も変 わ らず 地 域 活 性 化 の 大 き な 課 題 とな って い る 。 十 善 は昭 和31年 に芳 江 と結 婚 、 善 司 ・ハ ル夫 妻 との 二 世 帯 生 活 が 始 ま っ た 。 や が て十 善 の 兄 弟 姉 妹 も家 を 離 れ 、3人 の 子 ど も達 が 生 ま れ 、7人 家 族 の 時 代 が 長 く続 く。 昭 和43年 に父 ・善 司 が 亡 くな り、5年 後 に ハ ル が 亡 くな り、 そ の 後 子 ど も達 が そ れ ぞ れ に 結 婚 して 家 を離 れ 、 現 在 は夫 妻 二 人 で の 暮 ら しを維 持 して い る。 十 善 自身 は農 家 の 後 継 者 と して10年 ほ ど農 業 に 就 い た が 、 健 康 上 の 理 由 か ら農 業 を 離 れ て 勤 務 生 活 に き り変 え 、 現 在 は茅 ケ崎 市 市 会 議 員 を して い る。 農 地 で は 自家 用 の 野 菜 、 果 実 、 米 な ど を作 り、 全 て 自家 用 に消 費 して い る 。 時 代 の 変 容 と と も に生 活 の 内 容 、 生 活 様 式 は変 わ っ た が 、 塩 川 家 は 旧 家 と し て の 伝 承 行 事 を 続 け て い る 。 暮 れ の年 迎 え 行 事 か ら正 月 行 事 、 お 盆 、 春 秋 の 彼 岸 、 法 事 な どが 中 心 で あ る が 、 先 代 の 頃 と比 べ る とか な り な も の を 省 略 化 して い る 。 特 に 農 閑 期 に は恒 例 で あ った 保 存 食 の 製 造 、貯 蔵 、餅 つ き な ど 食 生 活 に 関 す る 行 事 が 行 わ れ な くな っ た。 ま た 地 縁 的 な協 力 関 係 も薄 れ が ち で あ るが 、葬 式 に っ い て は地 域 組 合 が 責 任 を も っ て 取 り仕 切 る慣 行 が続 け られ て い る 。 こ れ と は別 に 旧 家 で あ る塩 川 家 ら近 所8軒 は 古 くか ら伝 わ る地 神 講 ・13日 講 を 続 け て お り、毎 月13日 に は8軒 が 回 り持 ち で 幹 事 を 務 め 、 懇 親 会 等 を 開 い て い る 。 しか し これ ら も今 後 代 替 わ り と な れ ば い ず れ 消 滅 し て い くで あ ろ う と危 惧 さ れ る 。 北 部 一 帯 の 山影 を 背 負 っ た地 形 や 、 小 出 川 沿 い に 開 拓 さ れ た 農 地 は 開 発 の 波 に 直 に 荒 らさ れ る こ と な く、 他 の 地 域 に比 べ る と独 特 の 歴 史 的 雰 囲 気 を 漂 わ せ て い る 。 山 あ い の 細 い道 、 樹 齢 を 重 ね た森 林 、里 山 の光 景 、 湿 潤 な 植 生 、 由 緒 あ る寺 社 な ど の 存 在 は 、 先 祖 伝 来 の土 地 と生 活 文 化 が 長 く継 承 さ れ て い る こ と を 実 感 させ る 。 北 部 丘 陵 公 園 計 画 は そ れ らの 自然 保 全 を大 き な 目標 に して は い る が 、 そ の た め に は 農 地 を 守 り、 土 地 の 管 理 を 徹 底 させ て 荒 廃 を 防 ぐ こ と が 重 要 で あ る 。 農 地 は 手 入 れ を し な け れ ば す ぐ に荒 れ地 とな る。 土 地 管 理 に は費 用 と人 手 が か か り 、 そ れ に積 極 的 な姿 勢 を もっ こ と は難 しい 。 後 継 者 問 題 と も重 な り か な り な 難 題 で あ る と考 え られ て い る。 塩 川 家 で は今 後 この家 を ど の よ う に維 持 し、活 用 して い くか に っ い て の 明 確 な 方 .・
針 は定 め て い な い。 北 部 丘 陵 公 園 計 画 に合 わ せ て 、 農 業 振 興 と地 域 開 発 を 両 立 さ せ る よ うな試 案 、 例 え ば 市 民 農 園 へ の 開 放 、 農 産 物 直 売 な ど に も関 心 は あ る が 、 ど の 方 策 が 適 して い るか を 考 慮 して い くと い う。
2塩
川邸 の建設 と変容
1)第1期 ・建 設 か ら昭 和 初 期 ま で の 約40年 間 塩 川 邸 建 設 に 由 来 す る最 も古 い記 録 は、 現 ・塩 川 邸 が1902(明 治35)年 に 建 て 替 え られ た お りに 小 屋 組 に残 され た 木 札 にみ る こ とが で き る 。 こ れ に よ る と 当 時 の 建 て 替 え が 、 塩 川 廣 三 郎 を 施 主 と して1796(寛 政8)年 に建 て られ た住 宅 の 再 建 で あ る こ とが わ か る 。 1796(寛 政8)年 新 築 1902(明 治35)年 建 て 替 え 施 主 ・塩 川 廣 三 郎42歳 105年 間 の 耐 用 の 後 、 明 治34年 に取 り壊 され 再 建 が 開 始 され た 。 塩 川 家 所 蔵 の 「職 人 夫 日記 簿 」 に は工 事 期 間 中 の 人 工 、 職 方 、 賃 金 が 記 録 さ れ て い る 。 工 事 は寒 川 の 棟 梁 が 取 り仕 切 り、 主 要 な 構 造 材 は 、 塩 川 家 所 有 の 山 林 か ら伐 採 製 材 し た もの を 使 用 し た。 屋 根 は茅 葺 き、 勾 配 は現 在 の 屋 根 の倍 は あ っ た と い う。 明 治35年 末 に は竣 工 し、 新 居 で の年 越 し、 年 迎 え が な さ れ た もの と思 わ れ る。 新 年1月6日 の お 披 露 目す な わ ち竣 工 祝 い に は近 在 、 近 郊 か らの 祝 儀 が多 く集 ま り、 そ の 様 子 が 「家 移 御 祝 儀 長 」 に 記 さ れ て い る。 当 時 は農 業 と と も に養 蚕 業 に も力 を 入 れ て お り、2階 、 お よ び 小 屋 裏 は蚕 室 と し て 使 用 さ れ た 。 蚕 室 の 室 温 を適 度 に保 っ た め 、 中 央 に 均 等 に4カ 所 の い ろ り が 設 け られ 、 常 時 炭 が くべ られ て い た 。2階 の 外 周 は 障子 、 板 戸 が 設 け ら れ 、 室 温 調 整 に は慎 重 な配 慮 が な され た 。 土 間 の北 側 に は味 噌 蔵 が あ り、 味 噌 と と も に 自家 製 の 醤 油 も保 存 した 。 農 閑 期 に な る と醤 油 絞 り の職 人 が 堤 か ら来 た 。 沢 庵 は100本 位 を 毎 年 漬 け 、3っ の4斗 樽 が 味 噌 蔵 に 並 ん だ 。 か ま ど が 置 か れ 、 家 族 と使 用 人 の 大 量 の 調 理 が 行 わ れ た 。 水 は 戸 外 の井 戸 か ら運 ん だ 溜 水 を 使 った 。 そ の 他 石 臼 や 農 具 類 も置 か れ て い た 。 藁 で 草 履 、 俵 を 作 る と き に 広 い土 間 は便 利 で あ っ た 。 家 族 の 食 事 は階 段 横 の い ろ りを 囲 ん で 行 わ れ 、 使 用 人 は台 所 で の 食 事 が 常 で あ っ た 。 就 寝 に は奥 の8畳 間 は善 司 夫 婦 が使 い 、 そ の 他 子 ど も達 は特 に専 用 的 に 部 屋 を 使 う こ と は な か っ た 。 使 用 人 は い ろ り端 で 就 寝 し た。 1923(大 正12)年 の 大 地 震 は 、 震 源 地 が相 模 川 河 口 沖 で あ っ た こ とか ら、 茅 ヶ崎1階 2階 図31902(明 治35)年 建 設 当 時 の 平 面 図 復 元 図 作成 に 当 た って は塩 川 十 善 氏 の 記 憶 に よ る と ころ が大 き く、 詳 細 な 部分 は不 明 確 で あ る 。 味 噌 蔵 の 位 置 は土 間 北 側 で は あ っ たが 、 広 さ にっ い て は 図面 上 記 す こ とは で き なか っ た。 ま た、 台 所 の大 き さ に っ い て も現 状 か らの推 測 に よ る と こ ろが 大 きい 。 大 黒柱 は375㎜ 角 、 主 要 構 造 柱235mm角 な ど大 構 造 材 が 使 用 され て い る。 一50一
は壊 滅 的 な 被 害 を 受 け た 。 市 史 に よ れ ば茅 ケ崎 町 の 住 宅3426戸 の う ち3319戸 が 全 半 壊 、 町 営 建 築 物 も壊 滅 、 交 通 網 も寸 断 さ れ 、 死 者 は156人 に達 した 。 小 出村 で も役 場 、 小 学 校 が 倒 壊 し、大 き な 被 害 を 受 け た 。 土 地 の 隆 起 が お こ り、 地 形 が 変 わ る ほ ど の 災 害 で あ り な が ら、 芹 沢 地 区 で は中 心 部 ほ どの 被 害 を 受 け な か っ た 。 塩 川 家 周 辺 の 住 宅 が 倒 壊 した の に もか か わ らず 、 当家 で は ほ とん ど被 害 を 受 け な か っ た と い う。 この 時 、 建 て 替 え が 行 わ れ た 農 家 で は茅 葺 き屋 根 を トタ ン葺 き に 変 更 す る な ど 、 こ の地 域 の 農 村 住 宅 の 外 観 が大 き く変 わ っ た と い わ れ る 。 当 時 、風 呂 は母 屋 とは離 れ た南 側 の別 棟 あ り、この形 態 は昭 和10年 代 まで続 け られ た。 2)第2期 ・昭 和 初 め の 屋 根 改 修 か らの約30年 間 昭 和5年 に十 善 が 生 ま れ た 頃 、藁 葺 き屋 根 は トタ ン屋 根 に変 更 され た 。 明 治35年 の 新 築 か ら約30年 経 過 した屋 根 葺 き替 え 時 に は 、 震 災 後 の 周 辺 農 家 の 再 建 に 合 わ せ る よ う に 当 家 で も トタ ン屋 根 を 採 用 した。 小 屋 組 は そ の ま ま に し た 急 勾 配 の ト タ ン屋 根 とな っ た 。 そ れ 以 外 は大 き な 変 革 も な く、 戦 争 を 挟 ん だ 暮 ら しが 継 続 さ れ る。 病 弱 で 家 に い る こ と の 多 か っ た十 善 の 伯 父 に当 た る勤 の た め に 、2階 の 一 隅 に 書 庫 が 設 け ら れ た 。 しか し彼 は昭 和10年 頃 に亡 くな り、 書 籍 類 は か た づ け られ 東 京 の 古 本 屋 に売 却 され た 。 戦 時 中 は 米 軍 の 相 模 原 上 陸 、 本 土 決 戦 に備 え て2階 の 蚕 部 屋 に一 中 隊 が 駐 在 し た 。 常 時 交 互 に15、6人 ず っ が 出 入 り し、 軍 人 の 宿 泊 所 と して利 用 さ れ 、 近 辺 の 防 空 壕 を 築 く作 業 、 陣 地 築 造 な ど が行 わ れ た。 十 善 は学 徒 動 員 に よ り 、 矢 畑 の ト ピー 工 業 に 配 属 さ れ 工 場 労 働 に 従 事 した 。 戦 後 は際 だ っ た 変 更 もな く住 宅 は そ の ま ま 使 わ れ 、 十 善 の 兄 弟 姉 妹 達 は そ れ ぞ れ に結 婚 、 独 立 を して 家 を 離 れ た 。 昭 和31年 十 善 ・芳 江 は結 婚 す るが 、 新 婚 の 若 夫 婦 は南 側8畳 の 和 室 を 寝 室 と して 使 い 、両 親 は そ れ に 隣 接 した奥 の8畳 を 寝 室 と した 。 結 婚 当 時 はか ま ど は 土 間 に据 え ら れ 、 土 間 で は 農 業 にか か わ る室 内 作 業 が 行 わ れ 、 わ ら で 草 履 や 俵 な ど も作 られ て い た 。 食 事 は 土 間 に 続 い た 北 側 の板 の 間 で 行 い、 家 族 一 同 が卓 袱 台 を 囲 ん だ 。 水 道 が ひ か れ た の はそ れ よ り5、6年後 で 、 そ れ まで は井 戸 か ら水 を運 び 溜 水 を 炊 事 に 使 って い た 。 電 話 は37、8年頃 に導 入 さ れ た 。 こ れ と前 後 して 敷 地 の道 路 側 に桜 の 苗 木 が 植 え ら れ 、 今 日 の 地 域 の 特 徴 的 な 風 景 を 作 り出 して い る。 桜 並 木 の樹 木 自体 は特 に手 入 れ もせ ず に 成 長 し た と い うが 、 落 ち 葉 の 管 理 、 害 虫 駆 除 な ど手 間 と費 用 が か か る こ と が 多 い。
写 真1お よ び2塩 川 邸 の桜 並 木 毎年春には満開の桜が道を華やかにする。 3)第3期 ・昭 和40年 代 の 大 改 装 十 善 ・芳 江夫 妻 は、 昭和31年 生 まれ の長 女 を初 め と して3人 の 子 ど もを 設 け 家 族 は拡 大 して い った が 、一 方 、十 善 の姉 妹 達 は そ れ ぞれ 家 を 出 て核 家 族 化 が 進 行 す る 。 十 善 の 父 ・善 司 が 昭和43年 に亡 くな り、 そ れ を 契機 と して改 造 の要 求 が 顕 在 化 す る。 成 長 した 3人 の子 ど も達 か ら も独 立 空 間 の要 求 が腐 ま り、 大 幅 な 内部 改 変 期 を 迎 え る。 1階 の増 築 、 土 間 の解消 、畳 か ら板 の 間 へ の洋 室 化 、 台 所 、浴 室 、 便 所 等 の設 備 改 変 、 そ して2階 に は子 ど も室 が3室 設 け られ た。 2カ 所 あ った2階 へ の階 段 は1カ 所 に ま と め られ 、 実情 に合 わ せ た 内 部 機 能 の 単 純 化 が見 られ る。 ま た浴 室 が完 全 に 内部 化 され た。 建設 当 時 、浴 室 は母 屋 と離 れ て 別 棟 に建 て られ た が 、昭 和10年 代 頃 に は北 側 の軒 下 に移 動 した。 これ に よ り不 便 が 解 消 さ れ 、 か な り快 適 に な った と い うが、 完 全 に内 部 化 さ れ たの は この時 の改 築 に よ る もの で あ る。 南 側 和 室3室 と廊 下 は建 設 当 時 の ま ま に 残 した が 、 そ の 他 は今 日 の 工 法 、 建 材 、 仕 様 を 用 い て の 改 築 工 事 が な さ れ た。 さ ら に 南 入 りの 玄 関 が 設 け られ た 。 南 の 軒 側 に 張 り出 して 玄 関 を加 え る 間 取 り は、 戦 後 の 農 家 住 宅 の変 化 の 中 で も一 般 的 な 傾 向 を 示 して い る が 、 こ の 地 域 に お い て も 随 所 に 同 じよ うな様 相 が現 れ て い る。 ま た外 周 壁 の 改 装 と と も に 木 製 建 具 はi階 南 一52一
側 廊 下 部 分 を 除 いて 、 ア ル ミサ ッ シに 入 れ替 え られ た 。 ト タ ン屋 根 は 勾 配 を 緩 く変 更 して 、 瓦 屋 根 に葺 き替 え られ 、現 在 の 外 観 が造 られ る に至 っ た 。 平 面 図 上 は記 載 して い な い が 、 実 際 に は南 側 廊 下 の 東 止 ま りか ら続 く離 れ 屋 が 建 て られ て い る。2部 屋 を もっ もの で あ る が 、 議 員 活 動 の 事 務 所 と して 使 わ れ て い る 。 平 成7年 か ら は十 善 ・芳 江 夫 婦 の二 人 き りの生 活 と な っ た が 、2階 は通 常 の 生 活 に は全 く使 わ れ ず 物 置 と な っ て い る 。 明 治 か ら大 正 、 昭 和 と拡 大 す る家 族 か ら昭 和40年 代 に 次 第 に 核 家 族 化 して い く様 子 、 さ らに 近 年 の 高 齢 者 二 人 世 帯 とな る ま で の 経 時 的 変 化 を 〔図4〕 に示 す 。 〔図5〕 で は核 家 族 化 しっ っ も子 ど もの 成 長 に合 わ せ て 、 発 展 変 容 して い く平 面 構 造 を 示 して い る。 写 真3お よ び4和 室 障子、神棚な ど建設 当時の状態 が残 され ている。
図4
塩川家家族の変化
1階 L2階 図5現 在 の 平 面 図. 昭 和40年 頃 に 土 間 まわ り、 和 室 仕 様 が 変 わ り、 北 側 台 所 周 辺 が大 き く増 築 さ れ た。2階 の 有 効 利 用 が 図 られ 、 浴 室 は完 全 に 内 部 に取 り入 れ られ た 。 西 側 の 広 縁 は これ よ り10年 後 の昭 和50年 代 に付 け加 え られ た。.
川 川 口邸長屋門 につ いて
1川 口 家 の 由 来 現 在 の 川 口 家 の 戸 主 ・川 口泰 雄 は昭 和2年 生 ま れ 、 川 口 家 が この 地 に居 を 定 め て 以 来12代 目 の戸 主 に 当 た る 。 昭 和26年 に川 口家 の 養 女 ・キ ミ コ と結 婚 、 同 時 に 先 代 と の 養 子 縁 組 を 結 び 川 口家 を 継 承 して い る。 当家 の 祖 先 は小 田 原 よ り来 た と伝 え られ て い る が 、 記 録 に残 る の は8代 目 ・川 口伊 兵 衛 か らで あ る。 伊 兵 衛 は1862(文 久2) 年 に 神 田 村(現 在 の平 塚 市 内)に 生 ま れ 長 じて 川 口家 に 入 籍 し た 。 以 下9代 目 ・川 口吉 衛 門 、10代 目 ・川 口喜 佐 ヱ衛 門 、11代 目 ・川 口久 吉 、 そ して 泰 雄 と 引 き継 が れ 、 13代 目 と な る泰 雄 の長 男 ・久 雄 も次 代 を担 う こ とが約 束 され て い る 。 川 口家 は 、 先 祖 代 々 この 地 に お い て 大 地 主 と して 農 業 を 営 ん で き た 。 戦 後 の 農 地 解 放 政 策 で は多 くの土 地 を 失 い 、 そ の 農 地 も小 分 化 され 分 散 し た が 、 今 日 に お い て も宅 地420坪 、 農 地120aを 所 有 す る大 規 模 兼 業 農 家 で あ る。 現 在 の 居 住 形 態 は泰 雄 夫 妻 、 長 男 ・久 雄 夫 妻 とそ の 子 ど も、 合 わ せ て6人 の2世 帯3世 代 同 居 で あ る 。 今 回 の 調 査 の 対 象 と した 長 屋 門 は、9代 目 ・川 口吉 衛 門 に よ って 建 設 さ れ た もの で あ る。 吉 衛 門 は、1870(明 治3)年 に生 ま れ 、1906(明 治39)年 に 亡 く な り36年 間 の生 涯 を 閉 じた 。 そ の約10年 前 頃 、 吉 衛 門24、5才 の 頃 長 屋 門 が 新 築 さ れ た 。 収 穫 し た米 の納 め 所 、 農 機 具 の収 納 、 農 作 物 の 管 理 保 管 場 所 と して の 用 途 は 勿 論 、 地 主 の 館 と して の格 式 を 備 え た もの で あ っ た 。 11代 目 の 川 口久 吉 は村 役 場 に勤 め、1921(大 正7)年 に29才 で 小 出 村 の 収 入 役 と な り、翌 年 に は小 出 村 村 長 に選 出 さ れ 、 この 地 域 の 行 政 を 担 う よ う に な っ た 。 村 長 職 を 退 い た 後 、 小 出 村 郵 便 取 扱 所 開 設 と と もに初 代 所 長 と な り 、 次 い で 郵 便 取 扱 所 が 郵 便 局 に変 更 、 そ の 局 長 と な っ た 。 そ の 職 は昭 和28年 の 逝 去 に依 り泰 雄 へ と 引 き 継 が れ た 。 平 成3年7月 、 泰 雄 の定 年 退 職 に伴 い久 雄 が 局 長 に就 任 、 現 在 に い た って い る 。 小 出 郵 便 局 は1938(昭 和13)年 に郵 便 取 扱 所 と して 開 設 さ れ た 。1940(昭 和15) 年 に郵 便 局 と な り郵 便 貯 金 、簡 易 保 険 、 電 話 交 換 、 電 報 配 達 業 務 が 開 始 さ れ た 。 小 出 村 と寒 川 を 結 ぶ 県 道 、 藤 沢 ・寒 川 線 沿 い の 二 本 松 周 辺 に は既 に 小 出 小 学 校 、 村 役 場 、 駐 在 所 な ど が 集 ま って い た が 、 小 出郵 便 局 が で き た こ と に よ り こ の 地 一 帯 の 中 心 的 役 割 は一 層 高 ま っ た 。 1923(大 正12)年 の関 東 大 地 震 で は 、100年 の 風 雪 に耐 え た川 口家 の 母 屋 は全壊 し、 一56一建 て 替 え が 行 わ れ た 。 屋 根 は トタ ン葺 き に変 わ り、 約230㎡ 、70坪 程 の し もた や 風 住 居 が1925(大 正14)年 に竣 工 し た。 そ の 後1979(昭 和54)年 、 長 男 の 結 婚 を 機 会 に 二 世 帯 住 宅 を 目的 に と した大 規 模 な 増 築 が 行 わ れ 、 同 時 に親 世 帯 の 住 む 既 存 部 分 に も改 修 の 手 が 加 え られ た 。 そ の 後1993(平 成5)年 に は子 世 帯 部 分 は そ の ま ま に 、 大 正14年 建 設 の 親 世 帯 部 分 を 取 り壊 して 新 た な住 居 が 生 ま れ 、 二 世 帯 住 宅 の 形 式 を 保 ち っ っ 現 在 に至 って い る 。 2長 屋 門 に っ い て 1894、5(明 治27、8)年 頃 、 間 口8.5間 、 奥 行 き2.5間 の長 屋 門 が 建 設 さ れ た 。 屋 根 は 茅 葺 き、 外 壁 は腰 部 分 は下 見 板 張 り、 上 部 は漆 喰 塗 り壁 で あ っ た こ と が 茅 ケ崎 市 の 版 画 家 馬 渕 録 太 郎 が 残 した版 画 か ら認 め られ る。 馬 渕 録 太 郎 は1890年 に 生 ま れ 、 80歳 の 時 に 横 浜 市 よ り茅 ヶ崎 芹 沢 に移 住 し、 こ の地 に お いて1992年102歳 で 没 し た 。 彼 の 作 品 は 、 か つ て は報 道 写 真 の役 割 を 果 た した 木 口木 版 の 技 法 に よ る もの で 、 そ の 描 写 は精 密 で あ りま た情 感 に溢 れ て い る。 春 夏 秋 冬 の 野 仏 を 描 い た 小 品 「芹 沢 の 石 仏 」(1972∼1974)の4点 が茅 ケ崎 市 美 術 館 に 収 蔵 さ れ て い る。 関 東 大 地 震 で は母 屋 が 全 壊 した に も拘 わ らず 、 長 屋 門 は 被 害 を 免 れ 、 そ の 後 も長 ら く建 設 時 の 形 状 を 維 持 して き た。1945(昭 和20)年 脚 部 が 腐 食 し た た め 柱 の 下 部 を 切 り詰 め 、 そ の 部 分 を新 規 の 柱 と交 換 す る修 復 工 事 が 行 わ れ た 。 屋 根 の 形 状 、 仕 様 は そ の ま ま に して 外 観 上 の変 更 は行 わ れ な か った 。1951(昭 和26)年 、 泰 雄 が 当 家 に入 り、 以 来 約3年 ご と に屋 根 の葺 き替 え を 実 施 して き た 。 昭 和40年 代 頃 か ら経 年 変 化 に よ る損 傷 も 目立 ち 、 特 に 屋 根 、 土 台 、 柱 脚 部 の 腐 食 が 進 行 した 。 修 理 補 修 の 経 常 的 な 管 理 に も限 界 を 来 し、1976(昭 和51)年 に は 大 規 模 改 修 を 行 っ た 。 柱 、 梁 な ど の 主 要 構 造 や門 扉 な ど は旧 来 の ま ま残 し、 建 物 下 部2尺2寸(約66cm) を 改 築 、 基 礎 は コ ン ク リー ト布 基 礎 に変 え られ た 。 さ らに 屋 根 は 瓦 葺 き に 変 更 さ れ た 。 当 然 小 屋 組 も改 築 さ れ 、 屋 根 勾 配 に も大 き な変 化 が 見 られ た 。 施 工 は 藤 沢 市 鵠 沼 の 工 務 店 に よ って 行 わ れ 、 改 修 に か か っ た本 工 事 費 は650万 円 を 超 え た 。 こ れ に は 屋 根 取 り壊 し工 事 費 、 付 帯 工 事 費 、 設 計 料 な ど は算 入 さ れ て お らず 、 最 終 的 な 改 修 総 額 は当 時 の 同 規 模 の 標 準 的 住 宅 以 上 の 金 額 に な っ た もの と思 わ れ る 。 門 扉 両 側 の 柱 は260㎜ 角 、 出 隅 柱 は180mm角 、一 般 柱 は130mm角 、 門 上 部 開 通 部 の 梁 背 は300mmで あ る。 床 高 は480㎜ 、 建 物 の最 高 高 さ は約5300mmで あ る。 板 張 り の 部 屋 は従 来 か ら納 戸 と して 使 わ れ 、土 間 の 部 屋 は農 機 具 、 収 穫 物 、 農 産
に 必 要 な そ の 他 の 物 品 の 保 管 場 所 と して 多 目的 に 使 わ れ て き た 。 現 在 は車 庫 と し て の 役 目 も果 た して い る 。 川 口 家 が 何 百 年 か の長 き に 渡 り、 絶 え る こ と な く この 地 に住 み 続 け られ て き た 要 因 を 泰 雄 は次 の よ うに 述 べ て い る。 「昔 か らの 家 督 制 度 と倹 約 の 精 神 を 重 ん じ る 当 家 の 家 訓 が 家 を 存 続 させ て き た 最 大 の 要 因 と思 わ れ ます 。 私 、 妻 と も に 先 代 との 血 の っ な が り は あ りま せ ん が 、 川 口家 の 人 間 と して 生 き て き ま し た 。 以 前 に も血 縁 の 途 切 れ た 時 代 が あ り ま した が 、 いっ の 時 代 に も家 名 を 守 る と い う こ と を 大 事 に して き た こ と と思 い ます 。」 長 屋 門 の 維 持 管 理 に は大 きな 経 済 負 担 が か か る。 門 自体 は何 も経 済 効 果 を 生 み 出 さ ず 、 こ れ を 活 用 して 収 入 を 得 る こ と も期 待 で きな い 。 しか し な が ら、 土 地 の 古 老 か ら長 屋 門 と先 代 や先 々代 の 人 物 に ま つ わ る昔 話 を 聞 く と、 こ れ を 疎 か に す る こ と は で き な い と泰 雄 は感 じて い る。 さ ら に関 東 大 地 震 に も耐 え て き た 長 屋 門 の 強 靱 さ の 中 に 、 川 口家 の存 在 を み る と い う。 「関 東 大 震 災 で 、 住 宅 、 倉 は全 滅 しま し た が 、 残 っ た長 屋 門 は我 が家 の 唯 一 の 象 徴 的 建 物 で す 。」 従 って 自分 の力 の続 く限 り、 維 持 を して い くこ とが 努 め で あ る と心 得 て い る 。次 期 改 修 に 備 え て の 積 立 金 管 理 な ど 長 屋 門 を 後 代 に繋 げ る方 策 に も心 を 砕 い て い る。 現 実 の 日常 生 活 と して の 長 屋 門 の 問 題 は使 用 上 の 不 便 さ で あ る と い う。 建 設 当 時 、 門 を 通 過 す る最 大 幅 の も の は荷 車 程 度 で あ っ た 。従 っ て 門 扉 の 幅 はそ れ で十 分 で あ っ た が 、 時 代 が 経 過 す る と と もに 荷 車 は 自動 車 に変 わ り、 し か も年 々 大 型 化 して い る た め2.2mの 門 幅 で は実 情 に合 わ な くな って き て い る。 直 ぐ に変 更 す る予 定 はな い が 、 い ず れ 考 え な け れ ば な らな い時 が 来 る で あ ろ う と案 じて い る。 農 業 生 活 の 面 で は作 物 は 自家 消 費 を 主 体 と して い る。 現 在 程 度 の生 産 で も続 行 し て い く こ と は難 しい と感 じて い る。 泰 雄 自身 は 自分 の 代 で あ る う ち は 今 の ま ま の 農 業 を 続 け て い く と して い る。 時 に農 具 を 自分 で工 夫 して 作 り 、 棕 櫚 縄 、 箒 、 笊 、 そ の 他 の 生 産 技 術 も伝 え て い る 。 川 口 家 に 限 らず 、 農 業 の 活 性 化 に っ い て は 明 る い見 通 し を 立 て る こ と が で き な い 状 況 で あ る。 単 独 に世 帯 単 位 で の 努 力 に は限 界 が あ り、 こ の ま ま で は衰 退 して 行 く で あ ろ う が 、 少 しで も可 能 性 を探 るの で あ れ ば 、 地 域 が 一 体 と な り協 力 して い け る 目標 が あ れ ば 、 活 路 を 見 い だ す こ とが で き るか も しれ な い 、 と泰 雄 は語 って い る。
現在進 行中の北部丘陵公園計画 と合わせて、農業 に直接携わ る人々がまだ保有 し
一58一ている農業 の知識 と技術、道具生産技術などを地域活性化の中 に取 り組 む こと、 こ
れ も一つの方策である。青少年 に対す る生活教育の一環 として、或 いは成人向 けの
生涯教育の一分野 として農業 は多 くの可能性を内包 して いる。農業生産 は もとよ り
農業を立脚点 とした環境教育、健康教育、情操教育 などに領域 を拡大す る ことがで
きる。それ らの実現 にふ さわ しい背景 として、生産活動 の足跡 をたどる ことので き
る歴史的景観遺産 は有効 な条件 を備えて いる。
地域計画 と農業の革新的な方向模索の中に、川 口家の長屋門存続 の将来的見通 し
が開かれるのではないかと考え る。
IVお わ り に 1田 代 邸 の 屋 敷 林 に つ い て 現 在 の 田 代 邸 は1952、3(昭 和27、8)年 頃 建 て 替 え られ た も の で あ り、 史 的 観 点 か らの 建 物 考 察 に は時 間 的 経 過 が 浅 い と思 わ れ る。 従 っ て 田 代 邸 に つ いて は塩 川 邸 、 川 口邸 と異 な り、 建 物 実 測 、 生 活 歴 の 詳 細 調 査 は実 施 せ ず 、 屋 敷 林 を 中 心 に 、 田 代 家 の 生 活 概 要 記 録 を 主 眼 と した 。 しか しな が ら田 代 邸 の 存 在 は 、 茅 ケ崎 市 北 部 丘 陵 地 域 の 今 後 の あ り方 を 示 唆 す る内 容 を含 む もの で あ り、 本 報 告 の 最 終 章 の 導 入 と し て こ こ に記 す もの で あ る 。 先 代 ・田 代 忠 正 の未 亡 人 チ トシ(1921・ 大 正10年 生 。80歳)に よ れ ば 、 旧 田 代 邸 は明 治 中 頃 に建 て られ 、 そ の後 関 東 大 地 震 に も大 き な被 害 を 受 け ず に耐 え て き た が 、 自分 が 嫁 入 りを した昭 和20年 に はか な りの 損 傷 が み られ た と い う。 当 地 に お け る 田 代 家 の一 代 目を 遡 る と、 文 化 ・文 政 年 間(1804∼1830)に ま で た ど る こ とが で き る。 以 来 家 系 は継 承 さ れ 、 先 代 ・5代目 の 忠 正 は1998年 に83歳 で 亡 く な り、 現 在 の 戸 主 は6代 目 ・喜 一 で あ る。 屋 敷 の敷 地 面 積 は約1500㎡ 、 農 地 は150a を 有 す るが 、 農 業 を 職 業 と は して い な い 。3aの 米 を 生 産 し、 畑 地 で は 大 根 、 キ ャ ベ ツ 、 人 参 、里 芋 、 ジ ャガ イ モ 、 玉 葱 、 そ の 他 多 種 を 生 産 して い る。 自 家 消 費 以 上 の 余 剰 品 は知 り合 い に配 分 な ど して 消 化 して い る の が 現 状 で あ る 。 約30m続 く こん も り と し た生 け垣 は、 高 木 が 「もち 」、 低 木 が 「っ げ」 で 構 成 され 、 そ の 特 徴 を 生 か した異 な る2種 の樹 木 が 美 し い景 観 を 作 り 出 して い る 。 こ の 生 け垣 につ い て は 「茅 ケ崎 市 生 け垣 奨 励 事 業 の 助 成 金 」 が 支 払 わ れ て い る 。 しか し、 実 際 の 手 入 れ は 田 代 家 が行 わ な け れ ば な らず 、 そ の 労 働 負 担 は軽 い も の で は な い 。 ま た 生 け垣 に沿 っ た 内 側 に は樹 齢700年 を 超 す と い わ れ る欅 の 大 木 が あ り、 こ の場 所 の 景図6川 口邸 長 屋 門 ・現 在 の 平 面 図 、 屋 根 伏 図
写真5お よび6長
屋門の道路側か ら全景 と内部
観 を さ らに 際 だ た せ て い る 。 旧 田 代 邸 で は戦 前 ま で は駄 菓 子 屋 を 開 い て い た と い う。 道 路 側 に7、8枚 の 引 き 戸 を もっ 土 間 が あ り、 そ れ に続 く板 床 の 上 に商 品 を 並 べ て 商 い を して い た 。 も と も と屋 敷 林 と な る生 け垣 は 、道 路 か らみ て 左 手 の み が 通 行 用 に 開 口 さ れ て い た が 、 チ ト シが こ こ に来 た 後 、 農 耕 牛 の 出 入 りの た め に右 手 に も開 口部 を 設 け 、 今 日 で は新 し い方 が 日常 的 に使 用 さ れ て い る。 古 い 歴 史 を もっ 腰 掛 神 社 周 辺 の 自然 林 とそ れ に続 く田 代 邸 の 屋 敷 林 は一 体 と な っ て この 地 域 の 自然 環 境 を 豊 か に 印 象 づ け て い る。 一 方 で 田 代 チ トシ は 、 こ の 地 域 の 最 大 の 問 題 は交 通 の 便 の 悪 さ だ と述 べ て い る 。 公 共 交 通 が 未 整 備 で あ る こ とか ら 、 田 代 家 で は 家 族 が 一 人 一 台 の 自動 車 を 持 ち、 そ れ ぞ れ が 通 勤 に 使 用 して い る。 さ ら に 農 耕 車 両 を 加 え る と田 代 家 で は5台 の 自動 車 を 運 用 しな けれ ば な ら な い 。 交 通 手 段 が な い 状 況 で は、 自動 車 の 運 転 が で き な い 者 の 行 動 範 囲 は 当 然 限 られ て く る 。 運 転 す る者 が 不 在 と な る 日 中 の 遠 出 は難 し く、 した が っ て 自 由 な外 出 は 制 限 さ れ る 。 高 齢 に な る ほ ど 、 この 傾 向 が 強 く、 遠 出 の 外 出 の 機 会 は 少 な くな る 。 こ の よ うな 地 域 事 情 か ら古 くか ら住 む知 り合 い同 士 の っ き あ い は 深 く、 地 元 の 連 帯 感 は 強 い 。 他 の 地 域 か ら隔 絶 され て い る こ と が 、 長 く友 好 的 な地 縁 関 係 を保 っ 要 因 とな っ て い る こ と も うか が え る。 田 代 邸 に 続 く腰 掛 神 社 の 直 ぐ隣 で は県 立 北 部 丘 陵 公 園 の 建 設 が 進 行 して い る 。 こ の 実 現 と と もに 、 市 で は バ ス路 線 の 充 実 を 図 り、 交 流 拠 点 づ く りに取 り組 ん で い る 。 地 域 住 民 は、 市 が構 想 す る 「公 園 建 設 に よ る潤 い と や す ら ぎ の 創 出 」 以 上 に 、 公 園 建 設 が 交 通 問 題 解 決 へ と繋 が る こ と に期 待 を 寄 せ て い る。
写真7田
代邸屋敷林
2地 域 文 化 の 醸 成 を め ぐる討 議 茅 ケ崎 市 の 北 部 地 域 に あ って 永 代 に わ た り 「家 」 と土 地 と守 り 、 今 日 ま で 営 み を 継 続 さ せ て き た3件 の 事 例 を 通 して 、 そ れ らの 要 因 を ま と め て み た い 。 今 回 は共 同 研 究 者3人 の 座 談 会 の 機 会 を も った 。 以 下 はそ の記 録 で あ る 。 出席 者:益 永 律 子(ま ち 観 ま ち景 フ ォ ー ラ ム ・茅 ヶ崎 代 表) 高 見 澤 和 子(ま ち 観 ま ち景 フ ォ ー ラ ム ・茅 ヶ崎 副 代 表) 川 崎 衿 子(文 教 大 学 女 子 短 期 大 学 部 ・ラ イ フ デ ザ イ ン学 科) 川 崎:今 回 の 研 究 は北 部 丘 陵 地 域 の 町 づ く りを ど う考 え て い っ た ら よ い か と い う 遠 大 な展 望 か らみ る と ほん の 小 さ な と っか か り にす ぎ ま せ ん が 、 本 日 は今 ま で の 活 働 の総 括 と して 自 由 に意 見 を交 換 した い と思 い ます 。 高 見 澤:5、6年 前 に見 た と き の 田代 邸 の生 け垣 は も っ と手 入 れ が して あ っ て 、 立 派 で した 。 や は り世 帯 の 高 齢 化 が進 ん で い る の で し ょ う と、 外 側 か ら も想 像 が っ きま す よ ね 。 塩 川 さ ん の お 宅 も今 は夫 婦 二 人 に な り、 家 の 手 入 れ に 負 担 が か か る こ と を 嘆 い て い ら っ し ゃ い ま した よ ね 。 次 の 世 代 が 同 居 して い て 、 家 を 守 る 後 継 者 が 存 在 して い る と い う の は川 口 さ ん で す よ ね 。 益 永:家 を 継 い で い く こ と、 地 域 共 同 体 を っ な げ て い く こ と 、 農 業 を 続 け て い く こ と は強 い 思 い が な い限 り無 理 が あ る だ ろ う し、 そ こ に は しん ど さ を 引 っ 張 り込 み な が ら割 り切 れ な い思 い が 山 積 して い る こ と を っ くつ く感 じ ま し た 。 か っ て は家 の 相 続 は宿 命 的 に背 負 わ さ れ て い た 訳 で す が 、 今 の 時 代 で も、 そ う簡 単 に 自分 の意 志 だ け で は生 きて い け な い 宿 命 と い う枷 が あ る の で す ね 。 川 崎:今 回 お 訪 ね した お 宅 は、 そ れ ぞ れ が戦 前 ま で は 当 時 の 富 裕 階 層 で す よ ね 。 も と も と何 代 も家 を継 承 して い る人 達 は、 家 や土 地 に 対 す る帰 属 性 が 強 く、 そ れ らを 守 ろ う とす る意 識 と共 に育 って き た と思 うの で す よ ね 。 と こ ろ が 自 分 た ち の 子 ど も達 に はそ う い う教 育 を して こ なか っ た し、 ま たで きな か っ た の で し ょ うね 。 益 永:歴 史 的 に は損 な時 代 の継 承 者 と い う こ とに な る の で し ょ う。 川 崎:あ そ この 北 部 丘 陵 とい う土 地 柄 にっ いて は 何 か 感 じ ま せ ん で した か 。 地 形 と い い 、 何 と な く開 放 的 な 陽 性 な感 じか ら は ほ ど遠 い 、 隠 れ 文 化 的 な 性 格 を 感 じ るの で す が 。 高 見 澤:言 い 伝 え で は武 田 信 玄 の 流 れ を 汲 む と も言 わ れ て い ま す か ら 、 あ の 地 域 の 方 々 は 自 負 心 を も って ひ っそ り と暮 ら し続 け て き た の が 感 じ られ ま した 。 一62一
川 崎:い わ ゆ る 田舎 の 光 景 、 た とえ ば 日が カ ンカ ン と 照 りつ け 、 遠 く ま で 見 通 せ る澄 ん だ 空 気 な ど陽 気 で 乾 い た 田 舎 の に お い は 感 じ られ ませ ん 。 川 口 さ ん の お 宅 に 車 で 行 くと きで も こん な狭 い 険 し い 山 道 、 雪 で も降 っ た ら ど うす る の か 、 と思 い ま した もの ね 。交 通 の 便 が 悪 い 故 に 、 閉 ざ さ れ た 山 間 の 地 と い う印象 は ど う して も強 くな って し ま う と思 い ます 。 高 見 澤:今 は 茅 ヶ崎 と い う一 っ の く く り に な って い ま す け ど 、 昔 は こ の あ た り は 全 く違 う文 化 圏 で あ っ た と思 い ま す 。 昔 の 茅 ケ崎 は 、 駅 周 辺 と海 岸 が 一 地 域 と して ま と め られ て い たわ け で す か ら、 こ こ とっ な が っ て い た と 思 うの が 間 違 い な の で し ょ う。 川 崎:少 し話 を農 業 に戻 しま す と、 最 初 に お訪 ね し た 岡 本 ぎ ん は 、 貸 し農 園 計 画 は賛 成 で き な い と言 って い ま した よね 。 あ れ は 農 業 で は な い 。 貸 農 園 の 利 用 者 は、 農 薬 を 使 わ な い とか 、 既 存 の 農 家 と な じ め な い や り方 に か な り警 戒 感 を も って い る よ う に感 じま したが 、 そ れ に対 して 塩 川 さ ん の 考 え は 、 市 民 農 園 を 農 業 が生 き延 び て い く方 策 と して 肯 定 して い ま し た が 、 これ に つ い て は いか が で し ょ う。 益 永:農 地 が な くな り地 域 の景 観 や 環 境 が 、 が ら っ と 変 わ っ た り 、 あ る い は 農 地 が 活 用 さ れ ず に、 地 面 が 荒 れ る だ け に な る の な らば 、 や は り何 か が 植 え ら れ 手 入 れ が な さ れ て い た方 が い い。 昔 は農 業 は環 境 保 全 に か な り貢 献 を し て い た の で す か ら、 塩 川 さ ん の考 え は農 業 と環 境 の 両 立 を 目 指 す 一 っ の 妥 協 的 な方 法 だ と は思 い ます 。 岡 本 さん の よ う に趣 味 の 農 業 を 否 定 す る と 、 専 業 農 家 しか 生 き残 れ な い こ と に な りま す し、 そ れ は 後 継 者 問 題 と い う最 大 の 難 関 を 抱 え る こ と に な り、 後 が 続 か な い こ とに な り ます 。 高 見 澤:現 在 進 行 中 の北 部 丘 陵 公 園 の 問 題 な の で す が 、 あ そ こ は 共 生 を テ ー マ に 自 然 や 人 と の 共 生 を 目指 して い ます が 、 そ こ に 来 た 人 同 士 は ふ れ あ い が 生 ま れ る で し ょ うが 、 地 域 の 人 と のふ れ あ い と い う意 味 で は ど う で し ょ うか 。 た と え ば古 い民 家 を 改 装 して お 食 事 所 を っ く る と か 、 土 地 の 人 が 経 営 を し て 、 そ の雰 囲 気 を楽 しみ に人 が集 ま る よ うな こ と は考 え な い の で し ょ う か 。 ^今 の 時 代 の 要 求 と古 い もの の 保 存 は絡 み 合 わ な い と 、 そ こ か ら何 の 意 味 も 出 て こ な い と言 う こ と に な り ます 。 益 永:あ の 地 域 に丘 陵 公 園 が で き る こ と に よ って 、 交 通 も整 備 され て 便 利 に な る、 と い う こ と は あ そ こ に居 っ け る大 き な条 件 が 整 う こ と に な り ま す 。 茅 ヶ崎 の 中 で も南 部 は都 会 、 北 部 は 農 村 と い う関 係 を 積 極 的 に 利 用 す る 可 能 性 も 期 待 で き るわ け で す 。 都 会 の 人 が疲 れ た ら農 村 に 行 っ て 、 ち ょ う ど 近 場 に
あ る別 荘 地 の よ うな 利 用 の仕 方 は い か が で し ょ う。 そ して 小 規 模 な が ら農 園 を経 営 す る こ と も で き るよ うな 気 が す る の で す が 。 高 見 澤:観 光 農 園 にす る に は、 少 し は洒 落 た雰 囲 気 が な け れ ば 人 は集 ま ら な い と思 い ま す 。 日本 の 伝 統 的 な光 景 の 中 に、 今 日 の 志 向 を 取 り入 れ な い と魅 力 が な い し、大 き くは望 ま な い け れ ど、 夢 や ロ マ ンの 要 素 を っ く ら な い と 。 そ れ は 自然 に は生 ま れ て は き ま せ ん よね 。 川 崎:川 口邸 、 塩 川 邸 は規 模 が 大 き い か ら利 用 の 道 は 残 さ れ て は い ま す が 、 町 並 み を も っ と大 切 に して い い で す よ ね 。 塩 川 さん の 家 の桜 並 木 は 見 事 な も の と聞 き ま す し、 そ れ を 見 な が ら歩 く と川 口 さ ん の 長 屋 門 に 辿 り着 く、 と い う景 観 は財 産 で す よ ね 。 これ を も う少 し長 く連 続 性 を も た せ る こ とが で き た ら素 晴 ら しい の で す が 。 高 見 澤:南 部 は湘 南 の イ メ ー ジ を 広 め る の に あ る程 度 成 功 して 、 今 の 茅 ケ崎 の 知 名 度 は南 部 の海 岸 が 先 行 して い ます が 、 そ れ に は ず れ て い る北 部 の 扱 い に遅 れ が 目立 っ の が現 状 で す 。 や っ とバ ス が計 画 され て期 待 して い る人 も多 い 。 そ の よ うな 開 発 が な い と人 口流 出 に歯 止 め が か か ら な い の で す 。 塩 川 さ ん の 桜 が い い な あ 、 見 に 行 き た い な あ と思 っ て も、 南 部 に 住 ん で い る人 は行 き よ うが な い し、 行 く気 も起 こ らな い と い う の が 今 ま で で した 。 ウ ォ ー キ ン グ ラ リー と コー ス案 内 は出 て いて も、 あ れ を 全 部 歩 け る人 は そ う多 くな い はず で す 。 部 分 的 に 少 しそ の周 辺 だ け を 歩 い て み た い人 に 対 して は 、 今 で も不 親 切 で す よ ね 。 バ ス ル ー トを 早 く考 え て も らわ な い と。 川 崎:開 発 と い う言 葉 は も う古 くな って い ます 。 開 発 は野 山 を 削 る こ とで は な く、 野 山 の環 境 を 最 大 限 残 しな が ら、 住 民 生 活 の 便 利 と か 、 能 率 を 引 き 出 す 基 盤 を整 備 す る こ とだ と思 い ま す 。 益 永:ど ん な に い い 環 境 や 風 景 で も 、人 の 目 に触 れ られ な け れ ば 、 そ れ が 大 事 か も解 らな い し、 守 ろ う と い う気 に もな らな い 。 環 境 保 全 と 人 と の ふ れ あ い と い うの は 同 じ方 向 に あ る と い う こ とを 認 識 す る必 要 が あ る と思 い ます 。 川 崎:今 回 あ ま り多 くの 人 に は知 ら れ て い な い北 部 の地 域 を 見 て 回 り ま し た が 、 そ こ に は歴 史 と伝 統 を 抱 え な が ら家 を守 り営 々 と生 き て い る方 々 が 、 し っ か り と地 域 を支 え て い る こ と に感 激 い た しま した 。 家 の 行 事 、 地 域 の 行 事 を 継 承 して い る様 子 も うか が い ま した が 、 今 回 は そ れ ら に っ い て 報 告 す る ス ペ ー ス が 不 十 分 で した の で 、 ま た次 の 機 会 に 討 議 の 対 象 に し た い と思 い ま す 。 本 日 は あ りが と う ご ざ い ま した。 一64一