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近代沖縄の新聞広告等にみる新たな酒類の登場と泡盛(予備的考察): 沖縄地域学リポジトリ

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(1)

Author(s)

萩尾, 俊章

Citation

沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE

HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(37): 1-22

Issue Date

2014-03-20

URL

http://hdl.handle.net/20.500.12001/17442

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近代沖縄の新聞広告等にみる新たな酒類の登場と泡盛(予備的考察)

萩尾 俊章 はじめに 前紀要の論考「戦前の新聞資料にみる泡盛ならびに泡盛産業を取り巻く様相」において、 戦前期の新聞資料をもとに、おもに明治 30 ~ 40 年代の泡盛や泡盛産業にまつわる様相 について考察してみた。近代の泡盛は産業化と民間への広まり、日本の酒類に関する税制 問題も絡みながら、様々な問題や事象を惹起していった。(1) 近代の沖縄は泡盛をはじめとする新たな産業の興隆とともに、一方では県外から様々な 商品も流入し、浸透していく時期でもある。そうした点を考察する際には、様々な文献・ 資料等もさることながら、チラシ広告や新聞広告等は貴重な素材を提供してくれると考え られる。ただ、沖縄研究においてはこれまではそうした新聞広告資料等を活用して、比較 考察した論考は管見の限りではまだ把握していない。 江戸、明治、大正時代にかけて、商店、問屋、仲買 、製造販売元などが宣伝のために作 成した広告チラシである引札は、当時の世相風俗を知るための貴重な歴史資料である(2)。一 枚刷りの引札には版画絵師などが関わったものもあり、ある意味では美術的な価値をもつ ものもあった。その後のチラシ広告も世相を映す鏡として重要な研究対象にもなりえる。 前稿で言及したように、近代沖縄では個人の飲酒慣行が広がりをみせるとともに、泡盛 以外の様々な酒類が市場にも現れてきていた。1901 年(明治 34)10 月 17 日『琉球新報』 「他府県人の沖縄観(二)」には「衣食住(前略)酒は存外普及しをりて片田舎にて麦酒葡 萄酒正宗あり併し土人の好んて飲む者は泡盛酒にて一合代一銭二三厘より一銭七八厘計な り(後略)」とあり、ビールやブドウ酒、清酒などが流通していたことがわかる。しかし、 地元の人々は好んで泡盛を飲んでいることが紹介されている。 本稿ではこうした点の様相を探るために、チラシ広告や新聞広告等を活用して、泡盛の ほか、ビール、清酒、葡萄酒などの広告を通じて、どのような広告主体がどのような商品

HAGIO Toshiaki: The Emergence of New Liquors and Awamori as Reported in Newspaper Advertisements in Modern Okinawa (Preliminary Study)

(1) 萩尾俊章「戦前の新聞資料にみる泡盛ならびに泡盛産業を取り巻く様相」『沖縄史料編集紀要』第 36 号 2013 年

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を流通させながら、宣伝広報をしていたのかを考察する。対象となる新聞資料は膨大であ ることから、明治期以降のすべての新聞広告を調査・確認することはできていないので、 ここでは新聞資料の一部に限定して考察をしておきたい。したがって、本稿は予備的な考 察であることをあらかじめ断っておきたい。 なお、新聞広告等の文字は基本的に旧漢字や漢数字・旧かなづかいはそのまま表記した。 同一意味で違う漢字表記の場合も同じく原文に従った。また広告に登場する商号は各種あ るために、本文中では◇の記号で表示し、見出し項目の区切り等には/の記号を用いた。 1.泡盛売出広告 新聞広告について検討する前に、数は限られているが、県外において戦前に作成・配布 された泡盛関係の広告チラシについてみておきたい。泡盛の売出チラシ広告はとくに県外 において多く作成されたことが推察される。しかし、沖縄県内において実際に資料として 確認できるのはごく僅かで、沖縄市の諸見民芸館が所蔵している資料1点と沖縄県立博物 館・美術館が収蔵している資料1点の合計2点である。県外にはまだまだ資料として残さ れている可能性もあるので、今後とも機会を利用して情報を収集していきたい。 ここではこの2点について紹介しておく。最初に沖縄市の諸見民芸館(伊禮吉信館長) が所蔵している資料が図1である。 この広告チラシは「琉球泡盛酒之特色」と題した泡盛広告で、チラシ面には時期の記載 はないが、裏面に「明治 34 年7月 22 日」の墨書があることから、当該年号の以前に作 成されたチラシであることがうかがえる。 チラシの上面には「衛生経済を重ずる諸君は必ず一読せられよ」とある。「琉球泡盛酒 之特色」としては第1から第 10 までのことが記されており、特色部分を太文字で強調し、 宣伝している。 「高尚なる香気」「フウゼル油 ・・・ 除去」「無害第一」「防腐剤混和せず」「婦女子の口に も適す」「冷燗共に宜しく(中略)燗する方宜し且つ価額は焼酎より廉」「泡盛酒一合の酔 加減は清酒の二合五勺に相当」「頭痛嘔吐宿酔の憂ひなし」「功力は葡萄酒の代用たるべし」 「数十年を経過するも決して腐敗変味せず年数を経るに従ひ善良となる」「衛生上経済上大 徳用の飲料」など、泡盛の特徴・効用などを力説した内容になっている。 このチラシの地域表示は「濱松町大工 琉球商店」とあり、静岡県浜松市中区に大工 町があることから、同所と考えられる。「琉球商店」と自称していることが気にかかるが、 沖縄出身者が経営していた商店なのだろうか。「琉球紬」「漆器類」「琉球飛白(一名薩摩 飛白)」なども取り扱う販売所でもあった。琉球飛白というのは琉球絣を指している。い

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ずれにしても、東京や大阪などの大都市圏地区ではなく、東海地方の主要都市においても 泡盛広告が作成されていたことがわかる。 次に紹介するのは「大徳用泡盛酒売出し広告」で、沖縄県立博物館・美術館に所蔵され ている(図2参照)。京都福知山の「稲葉屋」での泡盛の広告で、明治 37 年3月とある。 福知山といえば京都府でも地方都市にあたる。京都近郊とはいえ、こうした地域でも泡盛 が特約店を通して販売されていたことは注目に値する。 この広告チラシによれば、泡盛は琉球名産で風味焼酎に勝り、泡盛酒の効用として風味 は宜しく値段は安く、常に飲用すれば血液の循環を助け悪疫の予防となることなどを挙げ、 絶賛している。また、風味が強いときには、泡盛酒一升につき水一升か湯を混ぜ適宜の燗 をして飲用するとよく、さらには甘味を好む人には氷砂糖あるいは白砂糖を混ぜるとすこ ぶる美味になり、ご婦人方にもよいと推奨している。なんとも頼もしい謳い文句である。 また、泡盛の容器としては、縄巻き壺だけでなく、瓶詰めの泡盛も販売されていたことが わかる。 こうしたチラシ広告は全国各地に多数あったことが予想されるが、チラシ広告自体が消 耗品の使い捨てであり、残存率が低いことも重なり、著者が把握している泡盛関連のチラ 図1.泡盛広告チラシ(諸見民芸館所蔵)

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シ広告も少ない。他にもこうした沖縄県外でのチラシ広告の情報がある場合にはご教示い ただければ幸いである。 2.新聞広告に見る種々の酒類の流入 明治期以降の沖縄県には様々な商品がもたらされたと考えられる。こうした商品の流通 に関わったものとしては寄留商人の活動も大きい。西里喜行は「寄留商人が多方面におい て沖縄の近代化に果たした役割は正当に評価されなければならない」とした。(3) さて、新聞広告を見ると様々な商品が流通していく様子がみてとれる。商品の流通につ いては、全体としての宣伝広告の傾向を分析する視点も必要と痛感されるが、著者にはそ こまでの力量もないので、ここでは主に酒類に絞って検討を進めておきたい。 沖縄関連の新聞資料では早い時期の新聞は明治 31 年である。それ以前にも発刊された 原紙は残されているものもあるが、ごく僅かであるために、ここではほぼ年間を通して多 く残存している時期の新聞資料を取り扱うこととした。 (3) 西里喜行『近代沖縄の寄留商人』ひるぎ社 1982 年 3頁 図2.「大徳用泡盛酒売出し広告」(沖縄県立博物館・美術館所蔵)

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例えば、1898 年(明治 31)4月~ 12 月の『琉球新報』をみると、嗜好品では煙草の 広告は多く見受けられるが、酒類に限るとあまり目立った広告は看取されない。日本酒(清 酒)関係の広告がいくつか見出される程度である。 この年で最初に登場するのは『琉球新報』 1898 年(明治 31)7 月 7 日4面に掲載され た青木商舗の広告である(図3参照)。日本酒の「幾久一」「正宗」銘柄の壜詰を進物用に 便利として販売する広告である。青木商舗は那覇区東の警察裏門前にあり、日本酒銘柄を 壜詰で販売しているというから、この時代には壜容器での流通がすでに始まっていたこと がわかる。同様の広告が同年7月9日、7月 11 日、7月 13 日、7月 15 日にも掲載され ている。 いま一つは『琉球新報』1898 年(明治 31) 10 月 15 日4面に掲載されている那覇西村・藤 屋の広告である(図4参照)。内容は清酒「白鶴」 の宣伝広告で、醸造元である兵庫県摂津國灘御影 の嘉納治兵衛と発売元である大阪市の嘉納合名 会社による広告である。広告には清酒が沖縄の人 びとに馴染みがないためか、その卓絶さをアピー ルしつつ、冷温による飲用方法を解説し、保管方 法も注記している点が着目される。同様の広告が 同年 10 月 17 日、10 月 19 日、10 月 21 日にも 掲載されている。 図4.清酒広告② 図3.清酒広告①

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その後の明治 32 年の新聞広告を概観すると以下のようである。 『琉球新報』1899 年(明治 32)1 月 5 日4面に「謹賀新年 アサヒビール 大阪麦酒 株式会社 醸造元 大阪府下三島郡吹田村 /出張所 同市東区高麗橋二丁目/製瓶所同 府下西成郡鷺洲村大字海老江」としてビール会社自体の広告がみえる。その後にも『琉球 新報』同年5月 27 日付4面や8月 7 日付4面に「アサヒビール広告 大坂麦酒株式会社」 が登場する(図5参照)。ビールの広告としては初期の広告といえる。ビールのラベルイ ラストを掲載し、当時としては注目を惹くデザインである。ただし、沖縄での販売所・代 理店等の記載ははない。 また、『琉球新報』1899 年(明治 32)8月9日4面には「各国大博覧会優等賞牌受領  宮内省御用品 春駒印日本酒 鳥井合名 会社/(電話堺十番電報略称トリ井)大阪 府堺市」とあり、「春駒印日本酒」の広告が みえる。この広告もその後の『琉球新報』 同年8月 11 日、8月 19 日、9月 11 日、 9月 13 日、9月 17 日、9月 21 日の各4 面にも掲載されていて、アサヒビール広告 と同様に、製造業者による直接広告である。 同じく、『琉球新報』1899 年(明治 32) 12 月9日4面(図6参照)には、「酒駄売 小うり 銘酒 花菊正宗 三菱正宗 桜正宗  各瓶詰/右ハ精々廉価大販売仕候間多少 図7.清酒広告④ 図6.清酒広告③ 図5.ビール広告①

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に限ラス御注文被下度候/大阪市東区瓦町五丁目 津國本店 同瓶詰部」とあり、日本酒 大手メーカー商品を取り扱う小売店の広告も掲載されている。 ところで、『琉球新報』1899 年(明治 32)3月 20 日4面(図8参照)には、「改良日 本酒白菊盛印発売広告/宮内省御用品/醸造元 大阪府堺市 肥後與八郎/県下一手大販 売所那覇大門前 平尾本店 同西警察署前 平尾分店」がみえる。こちらは「白菊盛」と いう銘柄の日本酒・清酒のジャンルである。広告は製造業者主体の広告ではなく、沖縄の 販売所の広告である。平尾商店は大阪系の寄留商人の平尾喜八・喜三郎父子の創業した商 店で、雑貨商として活躍した。寄留商人の多くが鹿児島系であったなかで、草分けとして 成功した商人である(4)。奈良出身ではあるが、大阪系の寄留商人として大阪の清酒を取り 扱ったものだろうか。 こうした寄留商人が経営する商店において、各種の酒類が販売されていた。『琉球新報』 1899 年(明治 32)12 月 25 日4面には(図7参照)、「広告 ●幾久一銘酒 ●同印瓶 詰 ●瓢正宗印瓶詰 ●同印機械瓶詰 /右沢山着荷多少ニ不拘安価販売仕候間何卒御購 (4) 西里喜行、前掲書 104 ~ 117 頁 図8.清酒広告⑤

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求之程奉願候也 /那覇警察署裏門前 十二月廿五日 青木商店」がみえる。 さらに『琉球新報』1899 年(明治 32)12 月 27 日3面には(図7参照)、「広告 ● 銘酒壽印樽及瓶詰 ●正宗印器械口瓶詰 ●歳暮及年玉用至極便利の酒券 那覇県庁之前  慶田酒店」がある。また、同じ紙面には「広告 屠蘇 袋入/屠蘇酒 瓶詰/紫蘇酒  同/類似正宗上酒 舛売/清酒しら菊盛 舛売/右例年の通り年始歳暮の御進物用の御便 利の為め引替券発行仕候間御購求被下度候也/那覇大門前 楠見支店」とあり、屠蘇酒の ように、本土の習慣である一年間の邪気を払い長寿を願って正月に呑む縁起物の酒などの 販売も行われ始めている。おそらくは沖縄県に在住する県外出身者の間で重宝されたので あろう。 なお、『琉球新報』1899 年(明治 32)5月9日4面に「増酒資料 申込所 東京市神 田区五軒町 日本授産館」とあり、「増酒資料さけふやすもと」として広告がある。6月 25 日及び 27 日・29 日、8月7日の4面に登場しているが、この広告は全国的なレベル で宣伝広告された商品のようで、チラシ広告が増田太次郎『江戸から明治・大正へ 引札 絵びら錦絵広告』にも掲載紹介がなされている。(5) 以上が主に明治 31 ~ 32 年時期の新聞広告に登場する酒類であるが、そこから浮かび 上がるのは日本酒の清酒とビール広告が主で、泡盛やその他の洋酒は看取されないことで ある。広告の主体としては、酒の製造業者が直接に広告を掲載するケース、県外の販売店 が酒の広告を掲載するケース、そして地元沖縄の寄留商人が販売店として広告を掲載する ケースがみられた。 この時期の広告に泡盛も登場するが、その内容は料理店において泡盛があることを紹介 する程度のものである。したがって、明治 30 年代初期において、泡盛関係の宣伝広告は まだ普及していなかったことが推察される。 さて、沖縄県教育委員会発行の『植物標本より得られた近代沖縄の新聞』(2007 年)に は明治期の終わりから大正、昭和初期の各種新聞が一冊に収録されており、概観する上で 格好の資料である。以下においてはその中から泡盛以外の酒類広告について摘記しておき たい。必要に応じて、注記しつつ、所収以外の新聞も合わせて参考としておきたい。 (1) 日本酒(清酒) 『琉球新報』1922 年(大正5)5月 31 日3面には清酒「澤之鶴」の広告がみえる。「帝 国医科大学模範薬局御撰用/醇良清酒/特約発売/夏期に安心して飲める酒はサハノツル に限る/摂津灘新在家 石崎合資会社醸造/一手販売 那覇港東大門前 ◇木内商店」と (5) 増田太次郎、前掲書 153 頁

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ある。木内商店が特約発売として「澤之鶴」を取り扱っていた。同じ広告は同年6月3日 4面、6月 17 日1面、6月 25 日4面 にも掲載されている。 その後、『沖縄朝日新聞』1922 年(大正 11)2月 18 日4面には「銘酒 澤之鶴/冷 御売出し酒なくてなんで己が桜かなイタラ飲んでヒンと頭に来ぬ/口あたりの善い酒は禁 酒などと野暮は云はれぬもの澤之鶴を適度に召し上れば元気は溢れ御身体はいつもお丈夫 です/那覇石門通り ◇木内商店 電話一四五番」とある。日本酒の広告であるが、謳い 文句を挿入した宣伝となっており、広告のあり様も変化していることがうかがえる。 また、同じ時期の『沖縄タイムス』1922 年(大正 11)2月 21 日4面には清酒「白菊盛」 の広告がみえ、「和洋缶詰食料品/白菊盛 弊店印の壱升瓶ご携帯なされしお方は見当次 第徴収仕候/醤油 樽詰 瓶詰 白赤上味噌 右続々御用命仰付下サレ度候/那覇市大門 前 銘酒白菊盛特約店 内野商店 電話一二五」とある。ここで注目されるのは当該店印 の壱升瓶を持参すると代金を支払うサービスを行っているところである。瓶が貴重である こともあり、リサイクルの方法も始まっていた。 その他、「清酒 福娘 総裁正宗」は◇小島屋醤油店で〔『沖縄タイムス』1923 年(大 正 12)5月 15 日4面〕、「忠勇」は「前ノ毛通リ 日向屋」〔『沖縄タイムス』1923 年 (大正 12)10 月 1 日2面他〕で取り扱っていた。「忠勇」は灘若林合名会社の醸造で、沖 縄県特約店として日向屋が取り扱っていたことが別の広告から判明する〔『沖縄タイムス』 1924 年(大正 13)2月 20 日1面〕。最高級清酒と銘打った「白鶴」は兵庫県灘御影の 嘉納合名会社 が醸造元である。特約店として那覇警察署前の丹下食料品店が取り扱ってい た。さらに、灘銘酒「富久娘」と堺銘酒「壽」は那覇東県庁前・慶田商店で取り扱われて いた〔『沖縄新聞』1909 年(明治 42)12 月 12 日 36 面〕。 このように日本酒(清酒)は大手の銘柄を中心に沖縄に流通していたことがわかる。ただ、 日本酒が県外からの在住者や地元沖縄の人びとの間で、いかほどの割合で飲まれていたの かは現段階では判断するに足る適当な資料が見当たらない。しかしながら、日本酒(清酒) の広告が引き続き昭和初期にかけても掲載されていることから、一定の需要はあったと推 定される。 (2) ビール 次にビール関係の広告も多く見られる。『沖縄新聞』1909 年(明治 42)12 月 12 日に は沖縄那覇東の慶田支店による「キリンビール」の広告がみえるが、これには麒麟のイラ ストが掲載されており、視覚に訴える広告である。キリンビールの広告はその後も大正期

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から昭和初期にかけて『沖縄朝日新聞』等の紙面でも掲載されている。(6) また、『沖縄新聞』1911 年(明治 44)3月 25 日には「ボツクエール キリンビール ノ一種ニシテ味ヒ談泊絶好飲料ナリ 販売所那覇東 慶田商店 電話一一二番」との広告 があり、ビールも主要銘柄だけでなく、各種のビールも紹介され始めている。このことは 『沖縄時事新報』1920 年(大正9)7月 20 日4面に「名実共ニ東洋一 キリンビール  真価盆顕ル 黒ビールモアリマス 特約店 西本町 慶田支店 電話一一〇」とあるよう に、黒ビールの商品も登場していることからも伺える。『沖縄朝日新聞』1925 年(大正 14)3月1日1面には「名声噴々たるキリンビール 冬飲むビール キリン黒ビール」と あり続けて「飲み心地よき 菊正宗 味も香もよい徳用な ◇醤油 英国の花と薫るウイ スキー ブランデー 西本町五丁目 ◇慶田支店 電話一一〇」として、日本酒や洋酒の ウイスキーやブランデーも合わせて宣伝している(図9参照)。同じ広告は同年3月8日、 5月 1 日にも掲載されている。 『琉球新報』1916 年(大正5)5月7日4面には「サクラビール」の広告がみえ、沖 縄県一手販売として那覇西本町・◇藤屋が取り扱っている。同様の広告は同紙同年5月9 日4面から同年6月 17 日1面等にも随時掲載されている。藤屋は『沖縄新聞』1909 年(明 治 42)7月 10 日4面には沖縄県一手特約として「カブトビール」の広告も出している。 先の「サクラビール」は、『沖縄タイムス』1925 年(昭和2)10 月 13 日1面に「サ クラビール 特約 石門通り・木内商店 電話一四五」の広告がみえる。この広告で注目 されるのは「王冠景品付特売」という販売 戦略で、景品付きによる商品販売も取り組 まれていた。木内商店によるサクラビール の同様の広告は、『沖縄タイムス』同年 11 月6日1面、『沖縄昭和新聞』1928 年(昭 和3)9月6日4面、9月 10 日4面、9 月 15 日1面、9月 16 日1面等がある。 『沖縄新聞』1911 年(明治 44)3月 17 日4面には「冬季好飲料 ミュンヘン ビール」の小さな広告がみえる。醸造元や 販売元などの記載は一切なく、冠の見出し と銘柄のみで、従来にない広告スタイルで (6)『沖縄写真帖』(小澤書店 1916 年、85 頁)には慶田商店の写真があり、キリンビールの看板がみえ、 専門的に取り扱っていたことがわかる。 図9.ビール広告②

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ある。後述する<その他酒類>で紹介する広告スタイルに若干共通している。 以上のように様々なメーカーのビールが流通していたことを新聞広告を通して看取する ことができる。 次は醸造元や販売店の広告ではないが、『沖縄タイムス』1921 年(大正 10)6月 15 日3面には「瓶詰 冷生ビール(一本金六五銭) 老紅酒(一升金一円五十銭)冷ビール は一本でも配達致します/波上通り 別天閣 電話七二番」とあり、ビールを冷やして飲 むという習慣も登場し、配達のサービスも行われた。別天閣は別の広告をみると「支那料理」 とあり、中華料理を供していた〔『沖縄日日新聞』1921 年(大正 12)2月 19 日4面〕。 さらには『琉球新報』1916 年(大正5)5月9日3面に「奥武山公園 花月支店」の 広告があり、おそらく御物城の花月楼のことであろうか、「サクラビヤホール 例年の通 り5月1日より開業仕候」とあり、提供方法としてすでにビヤホールも始まっていたこと がわかる。 なお、ビールの直接的な宣伝とは関係ないが、『琉球新報』1916 年(大正5)5月 14 日1面には大日本麦酒会社「国産アサヒビール」の広告に「紳士は常に愛国の念を忘れず」 とあり、同年6月 13 日4面、6月 25 日4面にも「国産アサヒビール 国富増進の要は 国産奨励にあり/一杯のビールにも愛国の念を忘る勿れ」などとの宣伝文言があり、時代 背景として第一次世界大戦(1914 ~ 1918 年)の最中であり、国威発揚などの謳い文句 が宣伝広告にも反映されていた。 ビールの需要に関連して、『沖縄朝日新聞』1925 年(大正 14)6月 27 日3面には興 味深い記事が掲載されている。内容は以下のようである。 「飲み物の贅沢化 麦酒の輸入が十五万円◇遂年増加する その八割は那覇で消化」と 題した記事が掲載されている。「生計の苦しみにもがき乍ら芳醇な泡盛に酒興三昧を貪る 者の少く無い近頃世の中は自棄か多分に廻□た所為かそれとも口が贅沢化したのか麦酒の 需要も太したものである。尤も近頃の様にむし暑い夜にはなみなみと泡立つて注がれる麦 酒の爽味には誰しも一寸誘惑を感ずるのだが都会人にはひとしほそれが馴かしまれる那覇 港務所の輸出入統計によると最近の麦酒輸入高は大正十一年が二万四千九百九十二ダース 価格十三万五百八十四円同十二年二万九千二百三十六ダース十四万三千二百五十八円昨年 度が三万ダース価格十五万千余円にて遂年増加する一方である輸入の多い月は五月より十 月迄にて毎月一万円以上である。飲物の贅沢化は多くは都会人の趣味性を物語るものであ るが年々十四万以上の輸入もその八割迄は那覇にて消化されると」。 この記事からうかがえるように、大正時期にはビールの需要はかなりの量だったようで、 那覇の都市部ではビール愛飲者が増えていた飲酒状況を指摘できる。

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(3) その他酒類 最後にビール以外の洋酒をみておきたい。『沖縄新聞』1909 年(明治 42)7月 10 日 4面には「精選醸造諸白醤油味噌 雑貨卸小売商 ◇濱田店{種子油素麺洋酒缶詰砂糖}」 の広告がみえ、商店で他の雑貨類とともに、洋酒が販売されていたことがわかる。この濱 田商店は大正6年に発刊された『沖縄写真帖』の写真によると、店の看板からサッポロビー ルやアサヒビールも取り扱っていたことが判明する(7)。濱田商店は鹿児島系寄留商人の濱田 平畩の創業で、荒物雑貨商・醤油醸造業として成功した。撮影された写真は西本町の店舗で、 正確な時期が不明なため、時代は特定できないが、濱田商店は大正 14 年の東町大火の後 に大門前大通りに本店を移転し、郵便局の東隣を支店とした。醤油醸造所は久米町にあった。 すでにビールの項で取り上げた「冬季好飲料 ミュンヘンビール」〔『沖縄新聞』1911 年(明治 44)3月 17 日〕のような商品のみの広告手法がみられる。『沖縄タイムス』 1925 年(大正 14)2月 26 日1面には「ヘルメスウ井スキー」の広告があり、宣伝文と ともに印象的なイラストが掲載されている(図 10 参照)。また、『沖縄タイムス』1928 年(昭 和3)6月 14 日1面には「赤玉ポートワイン」の広告がみえ、同じく宣伝文とともにイ ラストを組み合わせた広告デザインとなっている。 ちなみに、これはチラシについて指摘されていることであるが、大正時代のチラシは読 むことよりは見られることを意識した商業美術的なチラシに変化するという(8)。新聞広告に ついてもデザインが多様化し、華やかになっていく印象を受ける。 (7)『沖縄写真帖』78 頁 (8) 増田太次郎、前掲書 166 ~ 167 頁 図 10.洋酒広告①    図 11.洋酒広告②

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その後の洋酒等の広告で注目されるのは『沖縄時事新報』1920 年(大正9)2月 19 日4面に掲載された丹下商店の広告である(図 11 参照)。紙面広告には「洋酒各種品揃  ブランデー 伊太利ベルモット ペパーミント コクテーヌ 佛國生産葡萄酒 ミツワ 規那鐵葡萄酒 五色乃酒 大英國皇室御用達 世界一品 キングジョージウヰスキヰ(中 略)其他洋酒缶詰類種々取揃へ居り候に付き多少共御用命願上候 洋酒食糧缶詰類 那覇 区東町1丁目 ◇丹下商店 電話二十二番」とある。同年7月6日2面にも掲載されてお り、様々な洋酒類が導入されて、紹介されている点は注目に値する。 同様の広告がその後の『沖縄タイムス』1922 年(大正 11)10 月 15 日4面にもみえる。 広告主は同じ丹下商店である。「買って下さい ハクツルサイダー/中元の贈答品/那覇 警察署前 丹下の食料品を/丹下食料品店 電話二十二番/営業品目 和洋酒の部 銘酒 白鶴折詰瓶詰各種 ミワカリ正宗 ウ井スキ井各種 ブランデー ベルモット ペパーミ ント コクテール ウ井スタン 五色酒 生葡萄酒各種 蜂印葡萄酒 赤玉ポートワイン  白玉ホワイトワイン 何首鳥葡萄酒 ミツワ□参葡萄酒 ミツワキナテツ葡萄酒 七寶 □参葡萄酒 三寶ポートワイン」とあり、多種多様な品揃えである。同商 店では他に練乳 薬味之部のカルピス、酢素、ワシミルク、クマミルク、コ ーヒー、紅茶等など嗜好品も取 り扱っていた。 他にも『沖縄タイムス』1925 年(大正 14)2月 26 日1面(図 12 参照)には、那覇 局前・福岡商会食料品部の広告として、「高 級食料品店 営業品目 キリンビール 清 涼飲料各種 ウ井スキー ブランデー 舶 来葡萄酒 甘味葡萄酒 清酒瓶詰 銘酒瓶 詰(後略)」の広告、こうした大きな商店で はなくても、『沖縄時事新報』1920 年(大 正9)7月 20 日4面には「◇印醤油 ウイ スキー 販売 那覇石門通竹ノ内商店向  森實良商店製酒所 電話二五二番」の広告 がみえ、大正期の那覇には各種の洋酒等を 取り扱う食料品店や商店が営業をしていた ことを知ることができる。 図 12.食料品店広告

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3.泡盛に関する新聞広告 明治期から大正期にかけての泡盛関係の新聞広告は、悉皆的な集計と分析をしないと正 確な判断はできないが、全体的な印象としては、他の酒類広告に比較すると多くはないよ うである。 最初に「泡盛」の用語が広告にみえるのは料理店の広告である(図 13 参照)。『琉球新報』 1898 年(明治 31)11 月 29 日4面に掲載されたもので、真教寺門前・花家分店の会席 料理の宣伝広告の中に、鶏肉すき焼などとともに「泡盛あり 一瓶五銭」とある。料理店 のメニューは和食であるが、酒は泡盛が提供されていた。日本酒(清酒)は流通していたが、 泡盛はまだまだ飲食店で多く飲まれるには至っていなかったせいなのだろうか。 翌年の『琉球新報』1899 年(明治 32)6月 23 日4面にも「本願寺横通 現金料理店  花家」の広告がみえる。「泡盛あり 一本五銭 軽便と安値は花家の金観板なり/洋食 辨當て一杯を傾け勘定か廿銭とハ他に比類なき大安売なり貧乏と正直ハ花家の名物なり/ 懸売ハ一切御断其かわり御注文外の御肴は決して出しませぬ市内ハ多少に不拘仕出し致し 舛廿銭以上御買上の方には福引出し舛/冷素麺刺身取肴すし洋食会席料理辨當其外御誂の 品は何てもいたし舛/修学旅行等多人数様の御賄ハ別て安直に御受負致し舛て予め御通知 願舛」との広告内容である。 明治 30 年代初期においては泡盛の醸造元や販売店の広告はみられず、こうした料理店 の品目として泡盛が散見される程度なのである。 図 13.料理店広告    図 14.商店泡盛広告

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『沖縄新聞』1909 年(明治 42)7月 10 日4面には「内外米穀米利堅粉 種子油 昆 布 素麺 並ニ砂糖 泡盛商 那覇区西 ◇小牧商店」の広告がみえるが、泡盛商として の紹介になっており、銘柄などの情報はない。 少し時代を下って大正期になるが、『琉球新報』1916 年(大正5)5月 19 日1面には「酒 造販売業 泡盛醸造 種豚販売 那覇区垣花町一丁目 ◇新名醸造店/泡盛卸小売販売  渡地前濱通リ ◇城間商店/泡盛卸売並ニスクガラス販売 那覇区渡地前濱通リ ◇石川太 郎/泡盛醸造卸小売販売 牧志町二丁目一番地 宮城酒屋」というような広告が掲載され ている。類似の広告が同紙同年5月 27 日4面にも掲載されている。 これらの広告で興味深いのは、酒造販売業の新名醸造店は種豚を同時に販売している点 である。酒造所では泡盛の製造工程において酒粕が残滓として生ずる。これは酒屋として は処理に困るものであるが、栄養価には富むために、豚の飼料として最適なので酒屋の中 には養豚業を営むところも多く、そのため畑作も行っていたという伝承はよく聞ける。広 告はそうした背景を物語っている。八重山の『海南時報』1937 年(昭和 12)7月2日4 面にも、石垣の玉那覇酒屋が「種子豚分譲 バークシャ種牝」との広告を出しており、同 様の事情による。また、別の広告「泡盛卸売並ニスクガラス販売」は酒の肴でもあるスク ガラスを一緒に供しており、酒のつまみとして一般に需要が多かったのであろう。 大正期から昭和初期にかけての泡盛に関する新聞広告は次のようなものが例として挙げ られる。 ◎「開店披露営業品目 内外米穀 砂糖 肥料 石炭 泡盛 西本町四丁目 川本梅壽商店 電話  四三一(略)」〔『沖縄日日新聞』1921 年(大正 10)2月 21 日4面〕 ◎「琉球泡盛醸造販売 那覇市泊 醸造場 電話二七三番 石川逢厚/那覇市通堂町渡地 前ノ濱 販売部 電話四六一番」〔『沖縄朝日新聞』1925 年(大正 14)3月6日1面〕 ◎「内外米穀泡盛肥料砂糖委托 那覇市西新町二ノ三七 ◇新里康昌商店 電話四三四番」〔『沖縄 朝日新聞』1925 年(大正 14)3月6日2面〕 ◎「米穀泡盛肥料砂糖商 那覇市東町一丁目十一番地 ◇新里康昌商店 電話四三四番」〔『沖縄日 日新聞』1933 年(昭和8)1月1日2面〕 これらの広告からわかるように、商店や酒造所が販売部を設けて「泡盛」を販売してい る仕組みで、しかも商店はその他の穀物や肥料・砂糖等の雑貨類と併せて紹介しているに 過ぎないものである。 泡盛そのものを強調して宣伝広告しているものとしては、『沖縄朝日新聞』1921 年(大 正 10)1月 24 日4面の「広告 泡盛 風味佳良 度数確実 大勉強 那覇区西新町二丁 目四十六番地山川橋四ツ角側 ◇金城豊一商店」が初期の広告である(図 14 参照)。宣伝 文句は少ないが、泡盛の風味や度数の品質等を前面に出している。ここでもまだ個々の酒 造所の銘柄などは表れていない。

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図 16.浦島酒広告② 図 15.浦島酒広告①

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泡盛の銘柄が登場するのは次の広告である。『沖縄朝日新聞』1920 年(大正9)9月 21 日3面(図 15 参照)には「秋季ノ飲料ニハ 改良泡盛 浦島酒 芳香美味 南陽焼 酎 大得用ニシテ心気爽快ニナリマス/那覇区外小禄 ◇南陽造酒株式会社 電話二七一  私書函一七/渡地前ノ濱 出張所販売部」とある。本広告の「改良泡盛 浦島酒」が泡 盛のどのような改良酒なのかが不詳であるが、銘柄として「浦島酒」がお目見えしている。 またもう一つの銘柄「南陽焼酎」との違いも、原料等の相違によるものか気にかかるとこ ろである。銘柄の登場としては初期のものとはいえるが、初出か否かはすべての新聞広告 等を詳細に調べないと判断できないため、ここでは留保しておきたい。この南陽造酒株式 会社は平尾商店を経営する平尾喜三郎が会社社長でもあり、南陽自転車や南陽薬品なども 幅広く経営し、沖縄経済界の重鎮でもあり、沖縄県酒造組合長にも就任している。 『沖縄日日新聞』1921 年(大正 10)2 月 2 日4面、同 2 月 13 日3面、同 2 月 19 日 3面(図 16 参照)にも、所在地が「小禄村」との違いはあるが、これと類似した広告が 掲載されている。こちらの広告では少々気になる広告文がある。「近来当社浦島酒及ビ焼 酎ノ売出シニ付キ区内各商店ニ於テハ内地ヨリ輸入シタル芋焼酎又ハ似品ヲ以テ浦島及ビ 南陽焼酎トシテ販売致サレ居ル由ナレハ世ノ愛飲諸氏ノ御試飲ヲ希ノト共ニ多少共御買上 御引立アラン事ヲ頗フ」とあり、九州の鹿児島あたりからもたらされた焼酎が泡盛の類似 品として出回っていた様子がうかがえる。ある意味では泡盛が好評価の対象となっていた という解釈ができるかもしれない。 さて、 『沖縄朝日新聞』1924 年(大正 13) 8月 13 日1面(図 17 参照)にはお土産品 広告としては初期のものと思慮される広告が ある。内容は以下のようである。 「○琉球土産品としては◆純琉球泡盛○度 数升目確実、風味佳良 送つて便利で受けて 喜ぶ真の御土産 他府県への御土産には是非 御求め下さい(中略)各種容器入れにして準 備してあります●五合詰、一升詰、二升詰  ●三升詰、四升詰、五升詰 各種/容器は優 美にして他製品の追従を許さぬ、御土産用容 器考案者 販売所  那覇市西本町野間商会 横入ル 城間大郎/醸造所 首里市崎山町  城間酒造部」とある。 図 17.琉球泡盛広告

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首里市崎山町の城間酒造所が広告したもので、大正末期から昭和初期にかけては、泡盛 が本土市場に向けて販路を拡大する時期にあたり、お土産品としても需要が多かったこと が推察される。 さて、坂本万七写真集には「竹製品を運ぶ荷馬車」の写真に、鰹節物産を扱う大迫商店 の隣りに、商店名が人物に隠れてみえないが、泡盛(銘柄なし)と雑貨を取り扱う「□村 商店」が写っている(9)。また、同写真集には酒屋の写真が掲載されていて、大甕に泡盛を入 れ計り売りをしていた様子がみえるが、店先のみの写真のために上部の看板の有無が確認 できず店名は不明である。 また、大正6年に発刊された『沖縄写真帖』には、代表的寄留商人の店、西本町にあっ た米穀、酒類、醤油の卸問屋森商店の写真が紹介されている。その看板には清酒「白鶴」 が描かれている(10)。また、那覇市史の写真集『激動の記録 那覇百年の歩み』には那覇市営 バスの写真が掲載され、その車告には石川酒造醸の銘柄として「アサヒ泡盛」がみえる(11)。 こうした泡盛をはじめとする酒類に関する広告媒体の動きと銘柄の確立は連動していると 推察される。したがって、新聞広告等の確認作業とともに、その他の写真資料や人名録他 の資料との多角的な照合作業により実態を浮 かび上がらせることができると思われる。 4.宮古・八重山の泡盛関連新聞広告 沖縄本島の新聞には非常に珍しいことに宮 古関連の広告が一部見いだせる。 『沖縄朝日新聞』1925 年(大正 14)3 月 10 日1面には「琉球泡盛醸造販売 醸造 元 首里市赤田町一ノ二八 琉球泡盛酒造組 合後/販売元 那覇市西本町二ノ一 糖商組 合隣 宮城能宏商店/支店 宮古郡平良町西 里四六 主任 照屋孚次郎 與那嶺眞朗」と の広告がある。この宮城商店は首里市赤田で 泡盛を製造するとともに、製品を販売してい た。ここで注目されるのは宮古にも支店を開 (9) 坂本万七『坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和 10 年代』新星図書 1982 年、104 ~ 105 頁 (10)『沖縄写真帖』 64 頁 (11) 那覇市企画部市史編集室『激動の記録 那覇百年のあゆみ』1980 年、19 頁 図 18.野村酒類醸造場広告

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設していた点である。このことは次の野村酒造所の開設ともかかわる内容であり、宮古で の泡盛需要に起因していたようである。 また、『沖縄朝日新聞』1927 年(昭和2)9月 20 日3面には泡盛醸造販売業である野 村酒類醸造場の広告がみえる(図 18 参照)。同年 10 月 13 日1面、11 月 11 日1面、12 月2日4面にも同様の広告が掲載されている。沖縄本島の新聞に宮古の酒造業者の広告が 掲載されること自体が珍しく、経営者の営業展開の方針にかかわることだろうか。 宮古での酒造場は、大正 13 年(1924)に平良市西里に創業したこの野村酒類醸造場を 嚆矢とし、宮古における泡盛の製造販売が本格的に始められた。創業者の野村安重は首里 の生まれで、最初は首里の酒屋 10 軒の帳簿をつける事務仕事をしていた。後に、鳥堀の 酒屋に見込まれて同家の娘を嫁にもらった。本人は宮古に泡盛がないと聞いて、明治の終 わり頃から五斗入れの壺に酒を詰めて伝馬船で宮古に運びはじめた。宮古で酒がよく売れ るので、平良で酒屋を始めるようになったという(12)。1909 年(明治 42)12 月5日付の『沖 縄毎日新聞』には、宮古の輸入品中で最も多額なのは泡盛との記事がでている。 その後、昭和初期までに中尾酒造場などをはじめとして7酒造所が誕生した。 このように近代における宮古の酒造りは沖縄本島や県外の酒造家によって本格的に始め られた。地元の酒造りが盛んになる前は、“ シュリザケ ”(首里酒)を野村(野村酒造場) と中尾(中尾酒造場)が造って売りだしたと言われる。「シュリザケ(首里酒)」とは本島 から持ち込まれる酒および最初に宮古で造られた酒のことで、当初は地元で造られた酒と 明確に区別していたようである。既述の宮城商店が宮古に敢えて支店を設けたのは、この ような宮古での泡盛事情があったと推察される。 ところで、沖縄本島の新聞ではないが、八重山地域の地元新聞の泡盛広告を見ると、興 味深い事実が浮かび上がってくる。かつて石垣市立八重山博物館の内原節子氏の協力で資 料提供を頂いたもので、大正時代から昭和 10 年代の八重山の新聞広告を通覧すると、ど うも昭和 12 年頃から地元の酒造所が自社の銘柄を命名して販売をはじめている動向がみ てとれる。 大正期から昭和9年頃の新聞広告には単に「泡盛製造 浦添酒屋」とか「泡盛醸造所  屋比久酒屋」としかないのが、昭和 12 年の広告には「玉の露泡盛製造元 玉那覇有和」 とか「泡盛鷲の鳥 崎山醸造所吟醸」などの銘柄を表記した広告が登場してくるからであ る(図 19 ~ 21 参照)。したがって、八重山地域における泡盛の銘柄による販売取り組み は昭和 10 年代からスタートしていたと考えてよいだろう。 (12) 萩尾俊章「宮古・八重山諸島における「酒」の歴史的変遷」『沖縄県立博物館紀要 第 17 号』1991 年、 28 頁

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④    ⑤   ⑥ 図 19.八重山関係新聞広告 ①『海南時報』昭和 11 年8月 20 日 ④『先島朝日新聞』昭和7年1月1日 ②『先嶋新聞』大正9年1月1日 ⑤『先島朝日新聞』昭和 12 年1月1日 ③『八重山新報』昭和8年1月1日 ⑥『先島朝日新聞』昭和 12 年1月1日 ①    ②   ③

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おわりに 沖縄の宣伝・広告史を取り扱った論考はほとんどない状況であり、依拠する論文もない のが現状である。したがって、本稿の内容・論評については関係諸氏からのご教示をいた だければ幸いである。 本文では取り上げなかったが、広告の中には個人による「禁酒」広告もあることが判明 した。「自今禁酒 上の蔵 ○○○○(氏名)」〔『琉球新報』1900 年(明治 33)11 月5 日4面〕として明確な理由はなかったり、「私儀病気に付自今全快に到る迄禁酒仕候 明 治三三年十月一九日 ○○○○(氏名)」〔『琉球新報』1900 年(明治 33)10 月 25 日4面〕 と病気が理由であったり、「酒は私に取つて尤も大きな敵である事を知りながらも、つい 今日迄彼と妥協 握手して来たのであります、處□彼は矢張何処迄も悪魔であつて絶へず 私の内にある生命を亡ぼそうとして居る事を痛感□せられました ・・・・ 爰に一寸禁酒の理 由を申述べて置きます 一月五日 ○○○○(氏名)」〔『沖縄タイムス』1923 年(大正 12)1 月 9 日3面〕などと長々と理由を述べて告知しているものもある。すべての紙面を チェックしていないので、掲載数の頻度は明確ではないが、当時様々な酒の流通と普及が ありながら、飲酒が日常化して種々の弊害が起こっていたことに起因するものと考えられ る。 図 20.泡盛「鷲の鳥」広告    図 21.各種銘柄広告   (『海南時報』昭和 12 年7月 11 日)     (『先島朝日新聞』昭和 14 年4月 29 日)

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本稿で取り扱った新聞資料とは言っても限られた範囲内の新聞であるために、今後は残 存するすべての新聞紙面広告について総体的データを作成し、分析を進めていきたい。合 わせてチラシ広告や写真資料にも調査対象を広げることで、多角的な視点から近代沖縄に おける泡盛をはじめとする酒類の展開の諸相について考察を加えていきたい。 末筆ながら、図版資料の掲載をご快諾いただいた沖縄市の諸見民芸館・伊禮吉信館長、 ならびに沖縄県立博物館・美術館には感謝申し上げたい。 主要参考文献 『沖縄写真帖』小澤書店 1916 年 琉球新報社『写真集「むかし沖縄」』1978 年 那覇市企画部市史編集室『資料篇第2巻中の7 那覇の民俗』1979 年  那覇市企画部市史編集室『激動の記録 那覇百年のあゆみ』1980 年 増田太次郎『江戸から明治・大正へ 引札絵びら錦絵広告』誠文堂新光社 1981 年 西里喜行『近代沖縄の寄留商人』ひるぎ社 1982 年  坂本万七『坂本万七遺作写真集 沖縄・昭和 10 年代』新星図書 1982 年 萩尾俊章「宮古・八重山諸島における「酒」の歴史的変遷」『沖縄県立博物館紀要第 17 号』1991 年 沖縄県教育委員会『植物標本より得られた近代沖縄の新聞(沖縄県史研究叢書 17)』2007 年

参照

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