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桓玄と陶淵明

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(1)Title. 桓玄と陶淵明. Author(s). 石田, 公道. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 20(2): 61-72. Issue Date. 1970-01. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3972. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第 20 巻 第 2 号. 昭和45年1月. 北海道教育大学紀要(第一部A). 桓. 玄. 石. 陶. と. 淵. 公. 田. 明. 道. 北海道教育大学札幌分校国語国文学研究室. くodo 18日[DA: 1 くangen 七o T6emnel 1. I. 辛丑歳. 七月, 赴仮, 還江陵 七. 夜, 行塗口. 間居三十載 遂輿塵事冥 詩書敦宿好 林園無世情 女ロ何舎此去 遥遥至西荊 叩核新秋月 臨流別友生 涼風起鷺夕 夜景湛虚明 昭昭天宇間 畠畠川上平 懐役不違寝 中宵尚孤征 商歌非吾事 依依在細耕 投冠旋嘗疲 不鴬好爵姿 養虞衡茅下 庶以善目名. 辛丑の歳 七月, 赴仮して江に陵還らんとして ・く 夜, 塗口を行 間居すること三十載 遂に塵事と冥 (はるか) なり 詩書. 宿 (もと) より好むこと 敦く. 林園. 世情なし. 如何なればこれを舎て去りて 遥々と して西荊に至るや ・) をたたく 襖 (かし. 新秋の月. 流れに臨んで友生 (とも) に別る 涼風はまさに夕ならんとするに起り 夜景は虚しき明りを湛う 昭昭と して天宇 (そら) は聞く 畠畠 (きょうきょう) と して川上は平かなり 役を懐えを 寝 ぬる迄あらず 中宵. なおひとり征く. 商歌. わが事にあらず. 依依たろは細耕にあり 冠を投 じて旧塩に旋 (かえ) り 好爵のために 繁 (つな) がれざらん 真を養う. 衡茅の下. 庶くば善を以て自ら名 づけられんことを. こ の 詩 に 題 せ られ て い る 辛丑の歳, 七月 というのは, 東晋の安帝の隆安3年 ( 401年) に当 が 日 だ られ てい る う は 休 暇 期 満 る こ と せ り, 陶淵明三十七歳の時である, と い の の つ と 赴暇 から, 陶淵明は彼が仕えている主人から休暇を貰い 家に帰っていたが, 休暇の期限が切れたの. で, 再び赴任 して江陵に遣る途中, 塗口を過ぎる際に作ったのである, 塗口は樗陽から楊子江を.

(3) . 石. 田. 公. 道. 遡 って江隣に行く途中の港町である. それでは陶淵明が仕進したという相手は誰か, 当時荊州の兎 縄史を していた桓玄という人物がそ れであろうというのが大方 の考証である. 江陵は桓玄の本拠で, 当時桓玄はこの地方の刺史を し ていた股仲儀を打倒 して, 自ら荊州の刺史と してこの地方に君臨していたのである. 泉雄桓玄は陶淵明よりは四歳の年少, 時に三十三歳の血気盛りであったが, 当時既に彼の勢力 は江南の地を圧 し, 東晋の軍閥中最大の実力者 にのし上り, 京口軍団の事実上の支配者である劉 牢之, その勇将で後に桓玄を打倒して宋王朝の創始者となっ た劉格さえも一目を置く程の勢力を 誇 っ て い た の で あ る,. 陶淵明は何故 に桓玄のような野心家に仕進 したのであろうか. 桓玄は人も知る如く一時的にも せよ東晋の天下を奪 っ て自ら帝位についたいわば纂奪者である, 陶淵明のような人物が 彼の野望 を見抜けないはずはないと推察 せられるのに, 桓玄の野望がいよいよ露骨に現われて く る 最 中 に, どうしてわざわざ江陵まで出かけて行っ たのであろうかとする疑問である, その理由につい て陶淵明自身は何も語ることはない, こ の 詩 の 最 初 に言森ぜ ら れ る こ と は, 過 去 に お け る彼 の 生 活 で あ る.. --自分は世間からかくれた生活をすることが30年にもなり, もうす っ かり俗世間の煩雑なこ とからも縁遠くなっ てしまった, 自分は言寺書, つまり学問をすることが好きであるが, それは田 園の生活にG ′土世間 の雑事に煩わされないよいところがあるからだ-- と田園生活を愛好していた こ と が 述 べ ら れ る.. 亥ロ何なれはこれを舎て去りて 遥々と して西荊に至るや 板を叩く. 新秋の月. 流れに臨んで友生と別る --ところが思いがけない事情によ っ て, 自分の安んずる境涯を捨て去っ て, はるばると西の かた荊州の地に赴こうとするのか. ヲ 判州はいうまでもなく桓玄の根拠地である, 折から新秋の 名月の下に櫓桟をうごかしながら, 自分を送りに川 の傍まで送 ってくれた友だちと別れること である-- 当時荊州は桓玄の根拠地であるが, 陶淵明はあらたなる意気込みの下に桓玄の陣営に参加 しよ うとしたのである, その悲槍な決意は次の如く述 べられている, 涼風はまさに夕ならんとするに起り 夜景は虚明を纏う 昭昭として天宇は聞く 嘉島と して川上は平かなり 役を懐えば寝ぬるに違あらず 中宵になおひとりゆく この中にこめられた陶淵明の決意には並々ならぬものがあるよ うに感ぜられるが, 事の詳細に 至 っては知ることができない. 当時桓玄の勢力は隆々たるものがあり, 東晋の王朝に代り得る大 勢力と して社会の第 一線にのし上っ て来ており, 陶淵明はおそらく桓玄の本拠である江陵へと赴 いたのであろう, しかし依 然と して彼の心中には常に忘オも得ない田園の生活があ った, 商歌はわが事にあらず 依依たろは綱緋にあり - 62 -.

(4) . 桓 玄 と. 陶 淵 明. 冠を投 じて旧壕に旋り 好爵のために 警がれざらん 真を衡茅の下に養い 庶くは善を以て自ら名づけられんこと を 商歌というのは, 商という階調の歌という意味であるが, 戦国の世,答の桓公が牛飼の奪戚とい う者が商歌して過ぐるをきいて挙げ用いた故事である, つまり陶淵明にとっ ては挙用せられて天 下に名を為すはわが本領とするところではない. 自分の乞い願うところは細耕, つまり論語の 徴 子篇に, 長狙, 柴縞という乱世の隠遁者が相並んで田を耕したあの揺耕にこそわが願いはあるの だ, 自分は冠爵などは投げ出して旧い村里に帰り, 宮途の栄進などには一身をつながれるような こと は しない よ う に しよ う.. 衝とは二本の柱 の上に横にした木のことで簡素な門, 茅とは力 や の こ と で 茅 葺 き の 家 の こ と, このような粗末な家の中で 真 この言葉は 陶淵明によって理想の境地として用いらるる言葉で あるが, 偽りのない真実な るものへの生活信条を養うことにより, 善人であるとみんなの者から 言 わ れ た い も の であ る, と い う の が こ の 詩 の 大 意 の よ う に 思 わ れ る,. ここで注意しなければならないことは陶淵明は 政界に活躍して輝か しい栄名を残す こ と よ り は, 晒巻の中に埋もれて平凡 な生活に安んじ, 庶民の一人と していい人だと呼ばれたいというこ とは, 陶淵明のいわゆる隠逸の性格を窺うに足る資料と して貴重である . つまり陶淵明を土世の中から完全にかくれ去るのではない, 庶民の間に親しく交わり, 人間の真 な るものを養ない, 虚偽と権謀と にわずらわされない生活をしようというのである, 彼よりも以 前のいわゆ る隠遁的な人物が時に 奇矯な振舞をしたり, 一般人と絶交したりする, いわゆる日常 の生活行動を否定 して放逸過激な行動をするのとは性格が異なっている. さてこの作品全般を流れている美しい詩情の中にも, 何か陶淵明の心の中に切迫 した気持が流 れ てい る が, そ れ が 具 体 的 に は 何 を 指 して い る か 明 ら か で な い,. 桓玄がその主人である股仲港を殺 して荊州をその手中に 収めたのはその前年の隆安 3 年 で あ り, その後桓玄は自らその地に君臨 していたと想像されるから, 陶淵明が仕えた人は当然2年後 には東晋の天下を奪取する立役者になるわけである. 陶淵明が劉牢之の鎮軍参軍として 孫恩を主領とする農民一擬の鎮圧に参加 してから1ヶ年経つ か経たない内 に自ら仕進が自分の性分に合わないことを述べ, やがて田園に帰ることこそ本来の 願いである, (始めて鎮軍参軍と作りて曲阿を経しときに作る) と述べながら, その舌の根も乾 かない内に桓玄の陣営に参加するようになっ たのはどうしたことであろうか, その為には桓温・桓玄と続く桓氏一門と陶侃・孟嘉、 陶淵明と続く陶氏一門との関係を詳細に 検討する必要があるであろう,. 当時の婦陽つまり陶淵明の故郷から楊子江を遡ること約4 00キロ位の地点にある江陵は、 この 地方荊州の中心都市であっ た. 国都健康の下流約10キロの地点にある京口 (鎮江) が東晋王朝の 束の要衝であるとすれば, その上流の要衝江陵は東晋王朝の西の要衝であった, この江陵を根拠地と して次第にその勢力を拡大 し, やがて束晋の王朝を打倒するのがこの桓玄 である, 桓玄はかつてこの地方に威勢を振っ た大軍閥桓温の庶子と して東晋の大和4年 ( 366年) 生まれている, 陶淵明より若きこと四歳, 彼の競争相手劉劉格より若きこと六歳であったことに i -( 3「.

(5) . 石. 田. 公. 道. な る,. 桓玄は劉格とことなり一朝にして興 った風雲児ではない, 彼の父桓温は桓 非の二男で護国竜尤 (安徴省懐遠県) より出でた豪族であるといわれている, 東晋の元帝が建康 に新王朝を建 てて, これを迎えた班邪の貴族王 導は従兄の王敦を荊州の支配者と して江隣に配置 した, ところが主敦 はやがて東晋の施政方針に 反対して反旗をひろがえすことになる, そこでこれを討伐するために 蘇峻・祖約の両名が派 遣される. ところがこの蘇峻は歴陽 (安徽省和州) で反乱を起こす. 桓弊 は王敦の乱を討 っ て功績をあげるが, 蕨峻の乱に 義軍を糾合 して戦い殉難 してしまう. この反乱 鎮圧に功績のあ っ たのが郡駿であり, 郡墜はやがて楊子江下流の軍事権を掌握して京口軍団の基 礎を作る, 桓温はこの動乱に父の仇を討 っ て家名をあげ荊州の都督と して江陵に 鎮すること になる. やが て彼は楊子江を遡っ て成漢国を滅して楊子江一帯を晋の領域とすることに成功, 人気に乗 じてや がて東 晋の天下に野望を抱くに至る, 而も彼の妻は東晋の現帝の皇女に当 っており, 時の天子の 伯 父 に 当 っ て い ると こ ろ か ら, そ の 家 柄 か ら して も 不 足 は な い,. 当時の貴族 社会的の風潮と して最も重んぜられたものは勿論家柄であるが, それに次いで重ん ぜられたものが風采であり, それに当時の教養, いわゆる清談にすぐれていることである, とこ ろが桓2 品はそのいずれにおいてもひげをとらなか った. 宋の劉義数の撰するところの世説新語は 一 種の清談集ともいうべきもの であるが, 彼に関する数多くの逸話を伝えている, 桓温が北征 して金城 (江蘇省句容県) を通 った時, 彼が以前に狼 邪の内史をしていた時に植え た柳がみな十囲 にもな っているのをみて嘆息 した, 「樹木でさえもこの通りだ, 人たるもの感慨 を催さずにいられ ょぅか」 そういっ てはらはらと涙を流した. これは 晋書の桓温伝にものせてあることであるが, 彼が大望を抱く人物であっ たことがわかる. 彼は当時における清談 の名人でもあり, 彼の逸話は. 世説新語 の中でも百回位も語られてお. り, その回数は当時の名宰相といわれた謝安についでおり, 最も多くの話柄を提供した人物の一 人 で あ る, そ の 一 つ に 次 の こ と が あ る.. を まこ) を執り, 桓温が限邪王司馬星と共に朝廷に参内 したことがある, その時彼は 「伯や登 ( 王のために前駆す」 といいながら先に立っ て 謁見の部屋には入っ てい っ た, この言葉は詩経衛風 の中の詩の一句であるが, このような職嵯の場合に古典の言葉を引用し, 而もこれを機智的に活 用 できる才能は, 当時最も高く尚ばれたものである. おまけに彼は, 荊州 の大軍閥として江陵に媛 居し, 下流の建康ににらみをきかせていたのであ る. 桓温の勢力が増大することは東晋の政権にと っ て決して好もしいことではないので, 司馬豆 はここで股浩を起用した, 股浩は桓温の友人であるがまた競争相手でもあった, この頃北方では勇将石虎が殴して混乱が生 じていたが, 東晋ではこれを好機として失地回復を 名として股浩を総大将として寿陽 (安徽省寿県) を根拠地として北伐を開始した. ところが股浩 は充分の効果を挙げることができず失却してしまう, そのため桓温の勢力はかえっ て増大し京口 軍団の支配権を確立し, 江陵より裏陽を経て閑中を 正し, 洛陽を回復し南郡公となり, 仮の威名 は朝廷を圧し, 上表して洛陽に還都し, 江南に避難した人民を北帰させ旧都を復興すべしと説い た,. 当時桓温の勢は当るべからざるものがあり, みだりに廷臣の更迭を行ない, 京口軍団の有力者 である郡超を幕下に収め, 京口軍団の指導権を掌握するに至 った, ところが破綻は思わぬところからおこった. 当時華北では遼東の地に慕容氏が勃興し, 国号を - 64 一.

(6) . 桓 玄 と. 陶 淵. 明. 燕と 号していたが, 桓温はこの前燕の軍を一蹴して更に威名を高 めようと湖熟 (江蘇省怖県) に 兵をすすめた, 大和4年 (3 69年) 彼の弟桓仲と共に北伐した桓温の軍は防頭で決戦し 前燕の , 慕容垂 の軍に大敗して却 って威名を失墜し, これを境として桓温 の雄図は挫折してしまうことに な る,. 桓玄が生まれ たのはくしくもこの年大和4年であるが その2年後には司馬突を廃し 簡女帝 , , を立てやがて自ら帝位をうかがうが, 彼自身も寧康元年 (371年)62歳を以てこ の世を去る . 「男子たるも のこの世に生まれて 芳名を後世に流す こともできないならば臭名を千載に残した いものだ」 とは彼 の言葉であると伝えられている. この桓温の参謀として活躍した孟嘉は陶淵明の外祖父に当っ ており 陶淵明は この外祖父の為 , に長女の伝記を残している. 陶淵明 の家がこの桓温氏に親近 感を抱いていたのはこの孟嘉と 桓温 が主従関 係を持っ ていたことに起因することは確か であろう , 桓温の志● をついだのか桓玄である, 彼は桓温が心残りの多 い人生を終った時僅かに5歳であ っ た. 雌伏20年余, 東晋の政局が不安定な混乱をつづけている間に 荊州 のの乗 り史股仲湛の部下と , して, 亡父桓温の旧剖rドを次第に糾合しつつ, 隠然たる勢力を確 保し やがては主人の股沖儀を , 圧倒して荊州軍 団を左右する大軍閥にのし上って行ったのである . 陶淵明が劉牢之 の参軍として孫恩暴動 の鎮圧に従軍していた頃 桓玄は股仲笹を打倒して荊州 , の刺史となっ ているが, 陶淵明は劉牢之の参軍を辞して間もなく隆安4年には早くも桓玄の根拠 地 で あ る 江 陵 へ と 赴 い て い る の で あ る, こ の理 由 を ど の よ う に 理 解 し た ら よ い の か .. 第一に考えられる のは陶淵明の反東晋王朝的な環境である. 陶淵明の家柄は東晋の王朝と共に 北方から移住した士族ではなく, 旧い以前はとも角南方土着 の士族であったと考えられる とこ , ろが新たに江南の地に主権者と して君臨したのは北方から移っ て来た新政権である つまり南方 , 土着の士族達にと っ ては, 東晋の貴族 群は理由もなく自分達の上に君臨 した横暴な権力者に過ぎ ない, その横暴な官僚貴族 群の為に土着の南方人の活躍する舞台は全く閉ざされて しま ている っ と いっ てよかっ た. 活躍の舞台を求める為には, 東昔王朝の下にその下僚と して働くか 軍人と , して武勲を立てて社会の第一線に躍り出るのか二つの方法しかなかったのである 陶淵明が柄に , もなく劉牢之の参軍として従軍するようになったのも, 劉牢之が形 式的には鎮北将軍謝玄の部下 であ っ てもやがて時機をみては東晋の王朝に圧力をかけ得る ような 人物であるからだと解すべ き ではな いか, しかし劉牢之およびその周囲の人物は陶淵明の人柄や教養 とはあまりにもかけ離れ た人達ばかりで, 幻滅を感じた陶淵明は半年経つか経たない中に郷里の澱陽に引きあげて来た の である, 陶淵明にとっ て桓玄は劉牢之に比べると 環境からみてより身近な存在であると共に別の 意味で陶淵明によ り近い存在であった. それは桓玄の教養である 桓玄は荊州軍団 の領袖である , と共に文化の愛好者, 擁護者として劉牢之とは型の異なっ た軍人であっ た つまり彼は当時の伝 . 統的な教養を身につけ, 同時に芸術や 文化についても理解があり 有名な画家顧憧之のパ トロン , と して も 著 名 で あ る, 世 説 新 語 に は 桓 玄 に つ い て の 数 多 く の エ ピ ソ ー ドを 伝 え て い る が こ れ は ,. 彼が当時流行の清談の名士であったことを証明 している, つまり桓玄は反東晋的な武人であると 同時に六朝時代 の貴族的風気をも兼ね備えた人物で, いわば陶淵明と同じ環境にある人物で 陶 , 淵明が身をよせるとすればむ しろ当代に於ける最も適当な人物 であっ たといえよう , 後世彼は東晋の王朝を打倒して自ら天子を潜した ので陶淵明の行動に対 して 不可解であると批 評す る人もいる, しかしそれは陶淵明が 東晋の王朝に忠誠を尽すべき人間であると の判断に立 っ ているからで, 事実は前述したように陶淵明にと って東晋王朝は忠誠を尽すべき相 手ではなく , - 65 一.

(7) . 石. 田. 公. 道. む しろ頒敗と混乱の貴 族政権に対 しては, 反感を抱きこそすれ, 好意を寄せる べき理由などどこ に も 存 在 しな か っ た の で あ る,. べ 陶淵明は桓玄に対して最大の期待を寄せ たにかかわ らず, 結果は必 ずしも満足す きものでは ば善 ねがわく 下に養い , なかった, それは彼の素志とするところのものがい わゆる 「真を衡茅の 肌 を以て自ら名 づけられんことを」 である以上, この点に関する限り 野心家肌の桓玄とは詩人家 の陶淵 明と一致するは ずがないのである, 当時桓玄の勢 力は昇天の勢があり, 彼の支配圏は東晋の三分の二を占める位にまでなっ たと自 負 し, 東晋の天下をやがてわが手に収める べく着々と手段をめく ら して い た の で あ る. 東晋の王朝と 錐も無視する わけにはゆか ず, 北府の将軍劉牢之をして之を討伐させようとした が, 劉牢之は総大将の司馬元顕と不和であ った関係から再び寝返っ て桓玄に降参するとい う仕末 であっ た. こうなるともう桓玄の行方をさえ ぎる者は何もない, 桓玄は難なく建康の政権を掌握 し, 詔を偽り, 自ら百榛を総 べ, 司馬道子を安城郡に徒し, 司馬元顕を市に殺し, 国号を楚と改 め, 東晋の安帝を 樽陽に幽閉 した. 樽陽は陶淵明の郷里である, 陶淵明が仕えた劉牢之は京口の軍団長から会稽の大守へ配置替えを 命ぜられ, その後には一族 の桓修が京口軍団の総帥と して任命せられる ことになる. 劉牢之は自分の将来に不安を 抱き, 桓 玄に対 して反逆を企てるが, 手違いの 為に楊子江の河畔で首を綴って果てて しまう, その子の劉 敬宣は父の埋葬する暇もなく, 北方河北の地へと逃 げて行く, かつて斑水の戦の勇将の末路とし てはまことに悲惨な最後であった, 彼は野性的な軍人であったが, 結局は自分の主君であった王 玄 恭や司馬元顕を裏切 ったり, 内応したり しながら, この乱世に 生き抜こうとするが, 最後は桓 最後 の為にあやつられて末路は悲惨であった. 彼は乱世に生き 抜くだけの知性に欠如しており, たの か まで確乎たる目標と信念がなく, 東晋貴族 群の走狗として生きて行く 型の人間でしかな っ である, それを打破 し自らの武力 を確信 し, 貴族的な 伝統や権力を無視して, 遂に野望を実現さ せて王 位の座に就 いたのが, かつて劉牢之の武将として活躍した劉格であ った. さてこの頃陶淵明はどのように して遇していたか, 陶淵明の作品に 「奨卯の歳, 始春, 田舎に て 懐古す, 二首」 というのがあるから, 既にその頃はもう桓玄の許を去 って郷里に引 きあげ いた わけである. 5年 奨卯の歳とは元 興2年 (403年) に当って いるが, 前の詩が 作られた辛丑の歳七月 の隆安 間 てそう長い ( 40 1年) からみれ ば 約1年半を経過 しているわ けであるが, 前の詩の内容から考え 桓玄の幕下に在ったとは考えられない, 李長之氏の説によれ ば 「程氏の妹を祭る文」 (全集巻七) が江隣に の中に 「昔, 江陵に在りて, 重ねて天罰に雇う」 という 語があるが, このことは陶淵明 ごとく泰隔(か いた 時に母親が亡くなっ たことを意味している, また「兄弟索居すること, 楚越の と述べてい い かく) す, これ我と 繭とは, 百哀こ才t切なり. 緊瀦たり高き雲, 誠講たり冬の月」 述 べて であろうと ることからして, 陶淵明は母の死を理由として, 江陵を去 って溝陽に帰ったの いるが, そうであれば彼は江陵に帰任すると間もなく任を辞して故郷に帰り農耕に従事していた ので あ る,. 在昔. 南畝のことを きけども. 当年. 覧に践まず. しばしば空しきに既に人あり - 66 -.

(8) . 桓 玄 と. 春興. 陶 淵 明. あに自ら免かれんや. 夙農. わが駕を装い 途を啓けば情は巳に緬 (はるか) なり 鳥はさえ ずりて新節を歓び 冷風. 余善を送る. 寒竹. 荒膜を被 (おお) い 地は人 の竿なるがために遺 し ここをもっ て植杖の 翁 悠然と して遂に返らず 理に即して は通議しこ塊ずるも 保つところ詑ぞす なわち浅からんや (従弟敬遠に与う, 二首の中 の一首) この詩の中には陶淵明が農耕生活 の中に本格的に とげ入ろ うとする並々ならぬ決意の程が述べ られているように思われる, 陶淵明は田園の生活を愛し それを願 いとしたことは幾度か作品 の , 中に詠ぜられ ている, ところが田園の生活 農耕生活は必ずしも楽しいことばかりでなく 生活 , , 苦が伴う, 殊に陶淵明のような文化人にと っ て言うべくして行なわれ難 い事であったにちが いな い. そこで彼は生活を資を得る方策として幾度 か仕官の道に志した ところが苦労の果に得られ . たものは, 彼の性分に合わない仕事であ り, 当時最高の教養人と しては必ずしも適当な仕事では なかったのである. もし彼がかりに東晋貴族の緑につながる一族であれば 或いは彼が希望する , ような地位が得られ, 彼は悠々として詩文の道に自適することが出来たかも知れない しかし希 . 望するような地 位が得られない場合どのようにして人生を送ればよいのか この詩はこれに対す . る 一 つ の 提 案 と して み る べ き で は な か ろ う か .. この詩の中には田園に帰 り農耕に従事することの喜びと確信とがはっ きり感じられる 幾度か . の就職と仕官, そのいずれも陶 淵明の希望を満たしてくれるものではなかった 殊に最も期待し . ていた桓玄に対して失望した現在では陶淵明の生きて行く道は 社会的には絶望であ たに違いな っ い, そ こで 田 園 生 活 を し て ゆ く に し て も 理 論 的 な 信 条 と い う も の を 持 ち た か た に 違 い な い こ っ ,. の詩が作られ たのは欝陽に帰ってから既に1年以上も経っ ており そ の間々土母の喪に服しており , 静かに世の中の推移を眺めていたに違いなし ・ , 殊にこの1ヶ年間は東晋の政治情勢は最も多事多 難な年であっ た, 南方には 孫恩の天師道の- 撲のの動乱は なお続 いており 西方江陵からは桓玄 , の勢力が東晋打倒の野望をおしすすめて建康に迫り 昔彼が仕えた劉牢之はあえない最後を遂げ , るというような社会情 勢の変化と混乱を陶淵明は 静かに見守りながらし 、わゆる帰田へ の信念を深 めて行ったのではなかろぅ か, 更に他の一 つの詩もその推定を確 実にするものの如くである . 奨卯の歳 始春 田舎に懐古す その一. 先師遺訓あり 道を憂えて貧を憂えざれと 膳望するも逝かを こして逮び難く 転た長えに勤むることを思 (こころざ) さんと欲す 来 (すき) を乗りて時務を歓び 顔を解 (ほころば) せて農人に歓む 平時には遺風交 (ゆきか) かい 一 67 -.

(9) . 石. 良苗. また新を懐く. 未だ. 歳功を量らずといえ ども. 即事. 欣ぶところ多し. 田. 公. 道. 耕す者は時ありて息うも 行く者は. 津を問うことな し. 日入りて相と もに帰り 壷奨もて近隣を労 Qaぎら) ぅ 長吟して 柴門掩い 馴か. 鹿畝の民と なる 訳. 先師である 孔子は次のような教訓を残している. 士たろ者は道を求めることに心を用いるべき で, 貧乏などを気にする必要はないと, 自分はこの 孔子の心境をはる かに望みながめるばかりで, 到底その境地に 達することはで きない, ただせっ せとつとめ てその境地に近 づこうとするだけで ある. そこですきをとってその季節季節の農事をよろこび, 顔をにこにこさせて, 農民たちに農 業には げむようにとす すめる, 平らかな 畠には遠くから風 が吹 いてくるし, 育ちのよい苗は, 新 しい芽をはらんでいる. まだ今年はいく ら位とれるかは判らないけれども, 毎日毎 日にふれるも のがす べて楽しい, 農業をしている者は, 時には休息をとることもあるけれど も, 自分のところにや って来て (孔 子が長担・柴溺に道を問うたように) 私に渡し場をたずねる旅人はや って来ない. 日が暮れると 皆と一緒に家路につき壷にたたえ られた酒をた ずさえて 近隣の人に振 舞ってその 一 労をねぎらう. やがて歌を口 ずさみながら 柴の戸を閉める. そしてこれでよいのだ. ともかく 介の農夫となったのだ. 義があ この詩の 中に詠 ぜられている趣は静かな調子の中に 農耕によって 生き抜くことにこそ意 生活 矛盾にみちた 経過してきた るのだと自分自 身に言いきかせ ているような趣がある. これまで を反省しながら, 今後の精神的な根拠を自 分自身に言いきかせているような口調である. 「先師, 遺訓あり」 というのは 「論語・衛霊公篇」 の中に出てくる孔子の言葉で 「君子は道を 精 憂えて, 貧を憂え ず」 というのに基 づいている, 彼の心の支柱となっているのは, 勿論儒教的 神であり, 当時一般の風潮とは必ずしも同一ではない. そのよう な儒教的な教養をつけたイ ンテ リが心安らかに 生きて行く 為には, 当時の社会はあまりにもひどすぎた. 柴湖」 な 私が引いた 作品の 一 つには 扇直杖の翁」 なる人物がでてくる し, 後の詩には 「長狙・ 人達である .こ る人物 があらわれる. これらは 共に論語の中にでてくるいわゆる隠者と呼ばれる き こそ心 の安 ら のよう な時代に 植杖の翁 にこそ生活 の理想があり, 長担・柴溺 の 生 方 に ぎを 求 め る こと が で き る の だ, し か し こ こ で 注 意 し な け れ ば な ら な い の は,. 植杖の翁. に して も. 長坦・柴溺. に して も隠. そ 者であっても特に 一般人と異なった異様な風体をし, また異様な 行動にでて世人を驚ろかせ, 哲人である . れによ って名声を博 するような隠者で はなく, 市井の平凡な常 識的な 達観者であり ここに 陶淵明の隠逸の 性格の一端をみること ができる,. 元興2年 (403年) の幕, 陶淵明は 「奨卯の歳十二月中の作, 従 弟敬遠に与う」 と題する詩を 8一 -6.

(10) . 桓 玄 と. 陶 淵 明. 残している, そしてその詩は 年頭 に作られた 「奨卯の歳始春 田舎に懐古す 二首」 に比較して , , 深刻にして沈痛の情に溢れているように感ぜられる. 逃を衡門の下に寝 (いこ) わせ 選かに世と相絶つ 顧勝するに 誰も知るなく 荊門は昼 も常にr 濁す 凄凄たり歳暮の風 繋緊たり日を経るの雪 耳を傾くるも希声なし 目 に 在 り て は 暗く し て す で に 潔 し .. 動気. 襟袖を侵し. 箪瓢しばしば設くるを謝す 請索たり空宇の中 了 (つ い に) - と し て 悦 ぶ べ き な し. 千載の書を歴覧し 時時に遣烈を見る 高き操は掌るところにあらざれど 深く得たり, 固窮の節 荷くも由らざれば. 平津. 栖 遅 説ぞ拙なりとなさん. を. 意を寄す. 一言の外. この契り. 誰か能く別たん. 徒弟敬遠は彼の最も心の通い合った人物であると思われるが, 8年後に 僅かに三十歳を過ぎた かりで亡くなっている, 彼の為に書かれた 「従弟敬遠を祭るの文」(全集巻七)には 彼との関係. を伝えて次の如く述べている. 「ただ我と爾とは, ただに親しき友なるのみに非ず, 父は則ち同生にして 母は則 ち 従 母 な ,. り」 即ち二人の父は兄弟であり, 母たちも互いに縁者でありこの点でも殊に親密であ ったと思われ , 女は長くして情 は切なるものが感ぜられる, 「かの昔日, 同房の歓を念ぅに, 冬は細蔦なく, 夏は瓢箪に渇せり, 相将いるに道を以てし , 相ほころばすに顔を以てす, あに乏しきを多とせんや, 忽ちにして飢寒を忘る」 と述べ更に 「余 かつて学仕するも, 人事に纏 綿し, 流浪して成すなく, 素志に負かんことを纏る 策を蝕めて帰 . 来せしが, 爾はわが意を知れり」 とも述 べているところをみると, 陶淵明が最も心を許した友で あったに違いない, 従っ て敬遠当人ならば陶淵明がどんなことを述べているか充分に理解したに ちがいない. 詩の末尾に 「意を寄す, 一言の外, この契り誰か能く別 たん」 というのは 「自分は この詩に託して自分の気持を述べるが, 君ならば私の気持を理解してくれるにちが いないという 意味であり, この詩の内容は彼の切実な心情を伝えているものの如くであ る. 殊にこの後半に述 べられている沈痛なひびきは矢張り当時の政局と無 関係ではないであろうといわれている , 奨卯の歳十二月とは桓玄が東晋の安帝を湯陽に幽閉し, 自ら帝位につき国号を楚と改めた時と いみじくも時期を同じくしている, 陶淵明のこの詩はこの政変に対する意志表示ともみ 、られる, 一 69 -.

(11) . 石. 田. 公. 道. 桓玄のやり方はあまりにも強引であり, 性急であり, ただ帝位につくことに急で あった. 兵乱 と飢鐘の直後であり, 東晋王朝の執政司馬道子, 元顕の放漫 政策を如何にして拾収するか, その 対策にこそ努力す べきであったにもかかわらず, 桓玄は何等それに対する施策も方針も持ち合わ せてはいなかった. それに北府の旧将たちを殺したり, 追放したり, 反対する者があれを こ れ を 処 分 す る と い う 有 様 で, た ち ま ち に し て す っ か り 人 望 を 失 っ て し ま っ た.. 殊に自分に王位を譲らせる為の詔を発せしめたり, 百官をして勧進させる真似事を し た り し た, 桓玄の政権奪取 の方法は女帝曹室の場合に比 べて更に欺隔に みちて且つ性急に して露骨であ っ た,. 彼はイ ンテリの支持を得る目的を 以て, 当時野の遺賢を尚ぶという体裁を作るため, 皇甫希之 という人物に金を与えて山 林に隠 遁させ, あらかじめ応 じないように命 じておき, 彼を著作郎と して徴したので ある, 皇甫希之が辞退すると, 日を経て詔 を発して彼を高士とし て賞讃したので ある. 当時の識者は 之を見抜いて物笑いとして 充隠 という言葉さえで きた, 桓玄はまたいわゆる文化 人でもあり, 書画, 骨とうの愛 好者でもあった, 貴重な書画があれば 捲き上げたり, 嚇し取ったり, 時には賭け ごとをして分捕ったりしたと伝えられている. 要するに彼が打倒した東晋王朝の貴族達と 同じ型の人間であった. ただ彼等よりやや強大な軍 事力を備えてい るだけの人間で, 抱負もなけれ ば経論もなく, 百姓人民達の与望を荷うこともで きず, 一般貴族や軍閥 の信望をつな ぎとめることも出来なかっ た. 東晋の政権 が建康を中心に樹立せられてから, もう100年近くの歳月 が流れており, 王導, 謝安 に指導され ていた時代は過 ぎ去り, 上には無能 無頼の人物が政権をろう断し, 而も肥水の戦い等 により, 自らの実力に確信を持つ新しい軍閥 が拾頭してくるようになれ ば, い ずれは打倒されな ければならない東晋の王朝であったのである, しかしそれを 為すのは当然のこととして東晋の貴 族とは異質の 新しい勢力であ るはずであったのであ るが, 桓玄はいわ ば束晋の貴族群とは同種, 同型の文化人軍閥にす ぎず政策もまた皆無に近かった. 陶淵明の家柄は父祖以来, 反東晋的な環境 にあり, 東晋の惰落した王朝が崩壊することは, 彼 の 立 場 と し て は 必 ず し も 悲 し む に は 当 ら な い こ と で あ っ た に 違 い な い, ま し て や 一 度 は 仕 え た こ. とがある桓玄が政権の座につくことは慶賀す べきことには違いない事である, しかし桓玄のやり 方はあまりも儒 教的な教養人である陶淵明からみれ ば背徳的であり, 許す べかざる暴挙である. 例え自分の 身内の者から犯 罪者の出た場合に於ける, 親近者のやり切れない気持, 全面的に自 分と同じ階層のホー プとして期待していた桓玄の失敗に対する絶望感, その心境を 了 に 一 と し て悦ぶ べきなし と心境を吐露したのではあるまいか, まして東晋の廃帝は陶淵明と同じ湯陽に 囚 わ れ の 身 と な っ て い る の で あ る.. 陶淵明はよく彼の 作品の中に 固窮の節 と い う 語 を 用 い て い る, こ の 言 葉 は 論 語 の 中 に 出 て ラ人の子路が憤慨の余り 君子もまた 窮 来る言葉で, 孔子の 一行が陳国で食 糧を絶たれた時に, r す る こ と あ る か と問うた時, 孔子は 「君子も固より 窮す, . 小人窮すれ ばここに濫る」 (論語・ 衛霊公) と答えたこ とに基 づくものと思われるが, 陶淵明独自の新造語で, 飲酒, 二十首と題す る作品の中にも 「覚に固窮の節を 抱き, 飢寒, 更しところに 飽く」 といい, 「会ることありて作 る」 と題する作品にも 「固窮, 夙に帰する所なり」 と詠じている, この言葉 は陶淵明独特の用語 であるが 「歴代古今の書をひもとけば, 功業を為し遂げ, 後世に名を残した 人物は沢山いる, 順 巷に窮居してい る自分には, とてもそのようなことは望む べくもないが, どんなに困 窮 す る よ うなことがあ っても決して濫に及んで不義の徒に粗することはしないぞ」 と自分の時局に 対する. - 70 -.

(12) . 恒 玄 と 陶 淵 明. 信念を述 べてい るのではなかろぅ か. 桓温・桓玄 二代に亘る江陵軍閥は陶淵明にとっ ては最も期待をよせた貴族軍閥であり, その成 功を祈 ってし ・たに違いない, ところがその期待は見事に外れ, その翌年の二月, ひそかに 機会を うかが って いた劉格は同志と語らい兵を挙げて建康を急襲する, 桓玄は一たび縁陽に逃げ 五月 , 更に江陵に走り一世の風雲児もあえない最後を遂げてしまう, 桓玄は時に三十六歳, 陶淵明は三 十 八 歳 の 時 に 当 っ て い る.. 桓玄が建康を退去する折に彼は劉格・劉毅の反乱軍に対して戦争の指揮をすることよりも, 彼 がこれまで苦心して集めた書画・骨とうの類を女廿何にして 江陵に運ぶかに頭を悩ま していたとい われている, これは彼の無策, 無為ぶりをオーバ ーに表現した話柄であるが, 私はまた別の 解釈 を持つ. すなわち桓玄は戦争に勝つことよりも むしろ芸術や芸術品により関心 を持つ文化人であった . 従っ て戦乱によっ て散供するであろう芸術品の運命により関,Dを抱いたのである, 彼は無意味な 破壊を喜ぶ型の人間ではなく伝統と文化の擁護者であった旧き時代の武人 で あ っ た. 陶淵明の 「擬古」 と題する最後の一つには次の如く詠ぜられている, 桑を種う. 長江のほとり 三年にしてまさに採るべきを望む 枝条. 始めて茂らんと欲して. 忽ち山河の改まるに値う 河 (えだ) と葉とはおのずから椎け折れ 根と株とは槍海に浮べり 春蚕. すでに食なく. 寒衣. 誰かに待たんと欲する. もと高原に植えず 今日. また何を悔 いん. この詩は古来陶淵明が何を述 べようとしているかについて見解を異にする, 鈴木虎雄氏は 「桑 の木に托して自己の処世の拙なさをあざけり, かつ自らあきらめの言葉を述べたものであろう」 (陶淵明詩解) と解する, 之に対し李長之氏はその政治詩であることを指摘して, 桓玄の失敗を 惜しんだものとみている, もしそうであるとするならば, この詩は次の如き遇意を含むもの と解 せ ら れ る.. 「長江のほとりに桓玄という政権が誕生して, 着々と成長を遂げて行ったので, 3 年位経てば 立派な成果を収めるものと信じていた, いよいよ勢力を伸長しようとした時に, 忽ちにして思い がけない劉格の政変が勃発することとなり, その軍隊はあ っという間に敗れてしまい, 一門一族 の者はばらばらとなり, 青海原に浮び逃げる仕末であった, 人民は生産を始めようとしても 食 べ るべき食糧もない仕末であり, 寒さにふるえていても誰も衣せくれる者もない, もともと遠大な 計 画 が な く, 基 礎 が し っ か り し て い な か っ た か ら こ そ こ ん な こ と に な っ た の だ.. 今 と な っ て は′擢. んでも致し方のないことだ」 このように解することは堀か冒険に過ぎるかも知れないが この作品が何等の楓刺の意図を含む ものであろうことは諸家の指摘するところであり, 彼の段後彼の全集を刊行した諦統も, 彼は単 なる大酒飲みではなく, 政局に対しても無関心ではあり得なかったと述べている. - 71 -.

(13) . 石. 田. 道. 公. 特に彼が最も期待をかけていた桓玄が, 彼の期待に反してさんざんの失敗をして滅び去ったこ とは彼にとっ て最も精神的な打撃であっ たに違いない, 東晋の朝廷は素より彼の栄達を阻んでい る大きな壁であり, それ故にこそ 劉牢之のような外様の軍閥によっ て身を立てようとした陶淵明 である. それに 嫌気がさして郷里に引 きあげた末に仕えた桓玄であ る. 桓玄が失敗すればもう仕 進する相手はないわけであ る. こうなればいわゆる. 固窮の節. つまり心の中に固く心の操を堅. 持しようという意志の表現であると思うが, この言葉がよく詩中に用いられるようになるのも桓 玄の段落以後のことであることを考えると陶淵明は桓玄の許を辞しながらも, なお桓玄の将来に 期 待 しよ う と い う 気 持 を 持 っ て い た の で は あ る ま い か.. 殊に彼に代っ て建康の東晋王朝を左右し, やがては宋の武帝として東晋の天下を掌握する人物 嘗て劉牢之の下で同じ鎮軍参軍として席を同 じくしたこともあるであろう 劉格・陶淵明とはほぼ 同じ時代に生を亨けながら全く異質の生活環境に育った無頼漢あがりの軍人が, 実力によ っ て社 会の第 一線 にのし上り, 天下の男一人者として民衆の上に君臨して行く有様をみ ると, 陶淵明の ような旧い秩序と教養の中に人となった者にとっ ては, なんとも痛憤の心情が湧き起こらずには い ら れ な か っ た の で は あ る ま い か.. しかし当時の東晋の政局はもはや根本的に立て直さなければならないような 時機に到着してい たのである, 肥水の戦以来, 孫恩の一榛以来着々と実力を養いかつ自信をつけていた新しい軍閥 教養もなければ, 清談もやらない, 書画骨とうの趣味もない, 政治をやるのに必要でないものに は全く関心を示さない, それでいで戦争には滅法につよい新しい実力者の時イヒがすぐ近くまで迫 っ て い た の で あ る.. - 72 -.

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参照

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