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太平天国と蘇州農村

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Academic year: 2021

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(1)Title. 太平天国と蘇州農村. Author(s). 夏井, 春喜. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. B, 社会科学編, 43(1): 15-30. Issue Date. 1992-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4520. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 北海道教育大学紀要 (第1部B) 第43巻 第1号 I I 43 i Sec i lof Hokkaido Universi t ty of 飯iucat 1ouma on( on IB) VO - . , No. 平成4年7月 l Ju y ,1992. 太 平 天 国 と 蘇 州 農 村. 夏. 井. 春. 喜. 『勧世良言』 等からキリスト教の教義を借用し 中国の宗教では極めて稀な一神教=拝上帝教の , 創立や, 西欧に倣い中国で初めて資本主義的な社会変革のビジョ ンを提示した洪仁汗の『資政新編』 の刊行等, 太平天国革命は確かに中国の“近代”の開幕を告げるにふさわしい内容を含んでいた. し かし, 太平天国革命は基本的には”中国歴代農民反乱の最高峰“であり, 旧来の農民反乱の伝統的平 均主義や皇帝専制主義の呪縛から脱する事はできず, 濃厚な封建的王朝を再生産 し, 湘准軍と外国 列強の武力によっ て崩壊した‐ とはいっ ても, 太平天国革命が清朝政府及び旧来の中国伝統社会に 「 与えた衝撃は極めて大きかっ た‐ 清末の文章には, 「軍興より以来」 , 兵葵より以来一という語が常 套句として使用され, 太平天国が一つの時代の転換点と意識されていた. 太平天国を中心とする 民 衆や少数民族の諸反乱= 「内憂」 と, 二度に亙る外国列強の侵略= 「外患」 を経て, 清朝支配層は, 在地の生監層を含めて, 従来までの伝統的支配方法では立ち行かなく なり, 好むと好ま ざるとに拘 わらず, 支配体制を再編し, 中国社会の一定の「近代化」-洋務運動一に着手せ ざるを得なく なるの で あ る.. 太平天国革命がその後の中国農村社会に如何なる影響を与え, 如何なる変化を斎らしたかという 問題については, 太平天国の革命性質問題と関わり幾つかの論文が発表され, その中で蘇断院三省 では, 太平天国後, 自作農が増加 し, 地主-小作関係に於いても永佃制が広まったとの指摘が行わ 1 }蘇州の地主-小作関 れ,これが中国の資本主義化と如何なる関係を持つかの論争も行われている.( 係に与えた太平天国の影響は極めて深刻で, その衝撃の大きさから言えば辛亥革命をはるかに凌 ぐ も の で あ っ た と 思われる. 本報告はこれまでの諸研究をもとに, 僅か3年半の支配に過 ぎない太平 天国革命が蘇州の農村社会, とりわけ地主-小作関係に如何なる変化を蒸らしたのかを考察 しよう とするものである.. 長江下流デルタの中央に位置する蘇州 は, 「上有天堂, 下有蘇杭」と杭州と共にこの世の天国と調 われ, 明清時代中国の文化・経済の最先進地域で, 田賦収入では面積では88分の1に過 ぎない蘇州 2 )明代にすでに「呉中之民 有田者什一 為人佃作 一 府で, 全体の1割足らずを占めていたという.( , , 3 ( )と 地主-小作関係が普遍的なものとなり 自作農の占める比重が他の地域より低く なっ 者十九一 , , ていた. 清代康無1 5年丈量の魚鱗冊に基づく統計的な分析によると, 田地の三分の二以上, 坪によ 4 } ては9 5%以上が小作地であ っ ったことが指摘されている.( 明未清初以降, 地主が郷村から都市に移住するようになり, 地主の城居化・寄生化が進行した . 太平天国占領時期に蘇州城北郊十数キロの 「斉門外永昌」 に根拠地を持ち, 長洲県と常熱県南部 に 割拠的勢力を張り, 「郷戸」と在地地主の典型的存在である永昌徐氏の徐侃瞳は蘇州城内の元和県蔚 5ば た永昌徐局の頭領除侃暖の 門内厳街前に24間の平屋と東小橋に1 4間の醤園を所有していた.( 15.

(3) . 夏 井 春 喜. 従兄弟で徐局にも参加した徐侃杢は, 城内中心の元妙観に程近い喬司空巷に石麟義荘を光緒五年に 創立しており, 徐侃杢の弟徐侃藻の娘徐淑英も城内南石子街に, 父の意志を受 け継 ぎ春瞳義荘を創 6 )これらのことは, 永昌徐氏も決して城居化と無縁ではなかっ た 設し, 宣統元年に請族されている.( 6 3~1 2保(旧呉県11都1 30~40年代の調査によると, 楓橋鎮付近の呉県11 9 ことを示している.1 ,1 500畝余りの田地の内, 約6割が蘇州城 内, 1割が木満鎮, 8%が楓橋鎮の地主等, 図に相当)の約1 7 〉 大部分が城居地 主のよっ て所有され,本地の農民が所有 する田地は2割にも満たなかっ たという.{ ( 8 ) 唯亭鎮北方の唯亭山郷の約3500畝の田地の91%が蘇州 城内の地主の所有地であっ たという. このように, 明未清初以降地主の城居化が進行し, かつ土地所有権 が少数の地主に集中する傾向 がみられるが, 個別の地主・租桟の土地所有状況をみると, むしろ散在的であっ た. 長洲県黄壕鎮 2 4 付近に存在したと思われる「沈恒豊桟」の管業地の分布は, 長洲県中部の東6, 7, 11 , ,1 , 上1 地域的には1つ 7坪 が1件しか分布していない の約4 0%の5 ており 坪 5都,32図1 46坪 に亙っ 1 . , の好む こ24件とかなりの集中が見られる場合もあるが,全体的見ると土地の所有権が坪毎に異なると 9に のため 地主・租桟が多数の地域の異なる佃戸と小作関係を結 ぶ いう分散的分布になっ ていた.( , のは勿論, 佃戸も複数の地主・租桟と小作関係を結ぶという状態であった. 例えば, 鶴見尚弘氏の 0 1 }田地の売買・典質がかな 0人以上の地主の所有地を小作する佃戸もいたという.( 分析によると, 1 り頻繁に行われ, また田面の売買, 分割相続による佃戸の変化も少なくなく, 地主-佃戸の個別的 関係は必ずしも固定的なものではなかっ た. 地主の城居化と地主-佃戸の個別的関係が流動的であ ることは, 地主の土地及び佃戸に対する支配力の弱化を 斎らす‐ この問題は太平天国以後深刻化す るが, 地主は在地に催甲という自己の代理人を置き, 田地・佃戸を掌握すると共に,『山陽収租全案』 に見られるような官の 公権力を借りて小作料の確保を図るのである‐ 租桟の簿冊から蘇州の 地主-小作関係を具体的に考察すると, まず第一に佃戸の田面権が太平天 国革命以前に普遍的に確 立していたことが見いだされる. 太平天国後, 陶鞠は 『租巌』 の中で, 田 面権について次のように述べている.「俗有田底・田面之称. 田面者佃農之所有, 田主紙有田底而巳. 蓋与佃農各有其半. 故田主難易, 而佃農不易, 佃農或易, 而田主亦不与.」 「凡農人目有而目耕者, 無底面之別, 則日起種田 (亦日目田) 、然十不及一二也. 外此則皆租田也. 租田又有所謂田面者 (起 , 種田或力不能目耕, 則出賃於人, 亦必入頂手銭若干, 謂之頂手田面, 然後按額徴租. 如無頂手銭, 郡棄不取, 而受取買田底, 於租額外男入花利米) . ……至於田則城市之人, 皆以田連底面者為滑田, 以田面聴佃者目有之. 蓋佃者無田面之係累, 則有田者雛或侵刻之, 将今歳受困, 来年而易主突. 惟. 以其田面為恒産所在, 故錐厚其租額, 高其折価, 迫其限日, 酷烈其折辱鼓吸之端, 而一身之所事, 畜子孫之所筒頼, 不能舎而之他. 甚者有田之家, 或強奪佃者之田面, 以抵其租, 而転以告於人, 彼. ( 1 1 )「沈恒豊桟」 の威豊九年の 「額租簿」 には“加息米” の記載 佃者錐無如何, 亦終港惨不忍去也」 . のあるもの が幾つかある. この加息米は 『租霧』 の花利米と同一のものと 思われる. 花利米は, 花 1 3 )田底・田面双方共所有する地主が小作に出したり, 田面を所 2 1 )無錫では蓋頭とも呼ばれ,( 厘米,( 有する佃戸が又小作に出したりする時に, 田面代として徴収する 「小租」 に当たるものである. 「額 租簿」 のよるとその 額は一畝当たり1~5斗程度である. こうした 「小租」=加息米の記載があるこ とは, これ以外は田面権を所有した佃戸であっ たことを示している. 「額租簿」454件中, 加息米の 1件に過 ぎず, 面積的も3.3%に過 ぎない. また佃戸名 記載のあるもの-佃面権の ないもの-は, 1 と小作面積を対照すると, 兄弟と思われる佃戸が同一面積を小作している例も相当多く, これは田 面が分割相続されたものと考 えられる. このように 『租霧』 の記述は太平天国以前にもあてはまり, 1 4 )必ずしも的を得たものとはいえない 蘇南の永佃制の発生を太平天国後の招墾に求めるのは,( . 租桟の簿冊を考察すると, 第二に太平天国以前にも蘇州の小作料納入が主に貨幣で行われていた. 1 6.

(4) . 太平天国と蘇州農村. ことが分かる.「沈恒豊桟一の威豊九年及び同治四~七年の小作料納入に何が使用されたかを見ると, 1 5 }貨幣納と言っても こ 太平天国進出前の威豊九年でも貨幣納が約91 5%と大多数を占めている.( ‐ , こでの貨幣納は田租額が貨幣で表示されている銭租ではなく, 米で表示されている田租額を貨幣に 換算して納入する折租である‐ 米の納入も相当の割合を占めているが, 米は全て限外の脹収の時期 に納入されている. 蘇州の小作料徴収は, 大体立冬前後から開始され, 最初の二日間が 「開倉」 と 呼ばれ, 平年作ならば一割程度の割引が行われる. 以下約十日を区切り, 「頭眼」・「二眼」・「三眼」 と続き, 割引もそれに従っ て逓減する. 三眼までが眼内で, 佃戸が租桟に赴いて納入する.「沈恒豊 桟」 やその他の同治年間から民国期にかけての租桟簿冊において限内での米納入は殆ど見か ける こ とができない. 佃戸が地主・租桟に赴いて納入する限内は, 米での納入は原則として認められてお 1 6 )三限を過ぎると今度は租桟が県の差 らず, 全て貨幣で納入するよう強制されていたようである.{ 役の応援を得て, 催甲・地保と共に佃戸の家に行き未完の小作料を催促する. 米の納入がこの時期 に集中しているのは, 佃戸の手元の米を催取した結果であろう. 米以外にも豆・鶏・豚・夏布等も 小作料の代わりに催取されている場合もあり,如何なる催租が行われていたか多少とも想像できる. 米作地帯の長洲県中部でこう した貨幣納が行われていたことは, 佃戸の主要生産物の米穀がすでに 相当部分販売に回されていたことを示している. 蘇南の農村に於ける副業生産の比重の高さを併せ て考えると, 佃戸がすでに商品生産, 貨幣経済に深く組み込まれていたと言えよう. 後述するよう に太平天国後, この折租の収奪が佃戸に更に重くのしかかる. 次に抗租の状態を見てみたい. 「沈恒豊桟一の威豊 九年の「額租簿一の前欠欄から道光二十九年~威 9年-2 0‐3%,30年-4‐8%,威豊元年- 豊九年1 1年間欠租率を作成すると次のようになる‐道光2 7.6 %, 2 年 -13‐2 %, 3 年 -45‐7 %, 4 年 -13‐0 %, 5 年 -10.7 %, 6 年 -61‐3 %, 7 年 -17‐. 8‐7%, 9年-22‐ 8%. この11年間に佃戸の出入りが予想され必ずしも正確とは言え 5%, 8年-1 ないが, 大体の傾向は読み取れる. これによると, 11年間で道光二十九年, 威豊三年, 六年と三回 の欠租のピークがあっ た. 道光二十九年は, 「夏五月, 大雨傾注, 昼夜不息, 河水暴張丈余, 田瞳街 醐票没無数‐ 是年高下田無収, 米価昂貴, 毎石値銭 巷在巨浸中, 水甚於葵未年(道光三年) , 民間停 槽. 六千, 遍地飢民, 惨不忍言. 奉旨発幣, 賑池燭緩有差. 城郷段富議難米, 設粥廠施棉衣, 民情梢定. 1 7 )と 未曾有の水害と それに続く疫 冬疫癒盛行, 棺木無資, 半多藁葬‐ 至明年五六月, 疫始平」( , , 「 病に見舞われた年であっ た. 威豊六年は, 夏大早, 河港多澗, 陽城・健傷諸河, 歩行可通, 農民 扉 水甚報. 八月飛蛙蔽天, 集田傷禾, 郷人鳴鍛駆逐, 或争捕焚臥, 卒不能浄. 後連遇陣雨, 始滅. …… 1 8 )と 早魁と蛙害があり 欠 租が増加したのである 威豊三年の欠租の増加の原 是年禾麦均撤収」( , , ‐ 因は全くこれらと違うものであり, 災害ではなく, 太平天国が南京を攻略し, 天京と改称興都し,. 更に揚州・鎮江に東進したことにあっ た. 太平天国が天京冥都し, 揚州・鎮江を陥すと, 蘇南の民 衆運動は一気に高揚した‐ 上海では劉麗川等の小刀会が反乱を起こし, 青浦県では周立春が率いる 抗糧暴動が発生した. 抗租運動も活発になり, 常州・蘇州・松江各地で地主・大戸への打ち壊し事 件が頻発する. 常州府陽湖県の郷紳で後に曽国藩の幕僚となっ た越烈文は, この年の抗租風潮を次 のように日記に記している. 「(十二月) 十三日葵未, 雨. 是晩詮舟赴鄭荘収租‐ 十四日甲申, 陰.. 辰刻至鄭荘, 歩行主大干村, 離鎮二里. 佃戸三十余家率居是村. 今年登穀頗豊, 而升斗細民, 皆以 賊鋒在迩, 官司無暇為人理田事, 弧欲強減旧数, 田舎翁斤斤持之, 住往相関, 此間民風視他処尤絞. 議己久定, 畝租僅三斗二升, 余家薄田百畝余, 去折去耗, 計所入不及三十石. 然較之遭難流徒, 田 1 9 ( )この年は「大稔」であっ たが 佃戸は太平天国が間近に迫り 支配体 園零落者, 目前為猶幸美」 , , . 「 2 0 )の行動に出たのである このこと佃戸が政治的 制が動揺した機会に乗じて 各郷佃戸不肯納租」( . に非常に敏感であることを示すと共に, 「官司無暇為人理田事」のために佃戸が強引に田租額の減免. 17.

(5) . 夏 井 春 喜. を求めたとあるように, 地主の収租が地主単独の力だけでできるものではなく, 『山陽収租全案』等 で見られるような公権力の暴力によっ て支えられており, 支配体制の動揺がそのまま欠租の増加に 直結するようになっ ていることをも示している. 更にこの時の抗租運動の中で佃戸が大幅な田租額 の引き下 げを要求していることも注目される. この大千村では佃戸が 「往往相関」 した結果, 一畝 当たり三斗二升と三分の一以下に減免されている. 呉江県葵里鎮でも,「成豊三年冬, 湯字坪郷民陸. 孝忠.陸孝恩.胤耀采.顧翫子等渠衆, 与田主争輸租之数, 毎畝只許納五斗三升. 初僅複和糟穀, 継則以碧糠充数, 而斯時之糧賦, 官吏浮収暴飲, 故業戸不支, 多以田単投送紳富, 巽脱累也. 迫四 年冬, 孝忠等叫集七十二坪之衆, 漸謀煽乱, 長田段氏, 里中察氏・沈氏皆被劫掠, 里人士共白之官.. 五年春, 巡撫吉爾杭阿徽候補知州周休潤率勇勤捕, 檎陸孝忠・陸孝恩・陸阿大置諸法, 余悉圏治,. 2 1 )と 田租額の約半分の五斗三升を要求した抗租暴動が起きている 事乃定」( . , 太平天国の天京冥都, 揚州・鎮江への進出は, 蘇南の支配体制を大きく動揺させ, これに乗じた 民衆諸運動を一気に高揚させた. しかもこの中で佃戸が, 従来一畝当たり一石二, 三斗にも及ぶ田 租額の大幅引き下げを求めて抗租運動を展開したことは, この高 額の田租額に支えられた田賦収奪 にも影響を及ぼし, 呉江県での 「斯時之糧賦, 官吏浮収暴飲, 故業戸不支, 多以田単投送紳富, 翼 脱累也」 という史料に見られるように, 大戸・小戸の格差の拡大, 大戸の包機, 抗糧の頻発に繋が. り, 支 配層の一部分に深刻な危機感を勝らした. 薦桂芽の均賦論は正にこの危機感の表明 であ っ 2 2 }しかし 翌四年に江南・江北大営が強化され 太平天国の東進が食い止められることによっ た.{ , , て, 支配体制の動揺も収まり, 「沈恒豊桟」の欠租率に見られるように, 収租状況も好転し, ほぼ威 豊2年以前の状態に戻っ た. このため危機感も薄れ, 均賦の措置も実行には移されず, 本格的な田 賦・田租関係の再編措置は太平天国鎮圧後を待たなければならなかっ た. 威豊四年に蘇南の支配体制が再構築され, 収租状況も一定好転するが, 三年に見せた佃戸の抗租 エネルギーは完全に抑え込まれた訳でなく, 欠租率は年を逐っ て増加の傾向を示している. 抗租が 次第に日常的になっ ていっ たのである. 「沈恒豊桟」の欠租回数分布を見ても抗租が日常的になっ て いたことが窺える. 日常的に完納しない佃戸が相当数存在しており, 欠租回数が11年の半分以上の 2%を占めている. 一方欠租回数が0回, 1回という殆ど完 6回を越えるものが100件と全体の約2 2 3 }蘇州の 納している佃戸も約27%おり, 完納するものと, 欠租するものとの固定的になっている.( 田租額は極めて重く, 一度欠租すれば翌年この欠租分 を併せて完納することは極めて困難である. しかし, 11年間一回も完納しなくとも, 尚改佃されることなく小作している者がいることは, 佃戸 が田面に依拠して地主の土地を占拠する史料の 「頑佃覇種」 の存在を裏付けるものであろう.. 860年5月, 江南大営を強襲し, 和春・張国襟を職減した太平軍はそのまま東進し一気に蘇南を 1 席巻した. 清朝の江南の長官両江総督何桂清は, 忽忽と常熱から上海に逃亡し, 江蘇巡撫徐有壬は 蘇州城陥落と共に殺害され, 清朝の蘇南支配体制の中枢が崩壊した. 太平天国は江南大営を職減し てから僅か3ヵ月 で上海・常熱を除く全蘇南を支配下にいれた. しかし, 太平天国の蘇南における 支配は必ずしも強固であったと言えなかっ た. 逃亡した蘇州の官紳達は開港場上海に, 列強と共に 中外会防局を組織し, アメリカ人ウオ ー ドを隊長といる洋槍隊を創設し, 上海防衛と蘇南の失地回 復を画策していた. 一方蘇州各地においても, 清朝の官僚支配機構は壊滅的打撃を受けたが, 郷村 では 「是時北面常昭未失, 南面望亭民団至陸賢橋同墜好殺長毛十数人, 東南民団長洲県徐氏・馬氏・. 張氏防禦周密, 賊始有畏心, 而団練因此得堅. 四郷立局互相保衛者, 西至後橋・安鎮, 南至望亭,. 2 4 )と 各地に団練武装組織が創られ太平天国に抵抗した 彼ら 東至永昌, 北至祝塘, 皆一呼可集」( , .. 18.

(6) . 太平天国と蘇州農村. 2 5 )主な首領には 王 は紅黄色の太平軍と区別するため白色の布を纏っ たことから”白頭”と呼ばれ,( , 元昌 (江陰県祝塘鎮) , 揚宗漉 (無錫県何塘橋) , 華翼倫 (金慶県蕩ロ鎮) , 徐侃援 (長洲県東永昌) , 馬善・馬安潤親子 (同黄土橋) , 張琳 (常熱県呉塔市) , 費玉成 (元和県周荘鎮) 等がおり, お互い 860年9月, 常熱県城が太平天国の手に陥ちると, これ に密接な連絡を取り太平天国に対抗した. 1 ら団練も次第に追いつめられ, 張琳を皮切りに費玉成・徐侃援も太平天国の招撫を受け, 同年末ま でには蘇南一体はほ ぼ太平天国の支配下に入っ た. しかし, このことは蘇南において完全に太平天国の諸政策が貫徹したことを意味しない. 徐侃暖 が招撫を受ける際に, この時団練の招撫を推進した太平天国側の責任者主将忠殿左同検熊方茎との ( 2 6 } 間に,「各不相犯, 附近各郷造冊徴糧, 均帰本地人掘理, 不派長髪一箇, 郷民不願留髪者聴其目便」 と, 徐氏の当地での支配を認める約束が交わされた‐ 費玉成の場合も同様であっ た. 「(八月) 初八. 2 7 )遣巣湖薫姓致書玉成, 始述仰慕之枕 擬欲旦暮過 日, 有偽忠殿左同検今江蘇候補府熊観察建勲,( , 従, 継言業巳梨明忠王各不打杖, 望為依旧団練云云. 玉成乃会集鎮董商議, 倶言三面南賊, 周荘孤 立無援, 勢必不支, 不如姑充之, 以僕大軍. 玉成云, 然則吾以一身応賊, 諸君依旧団練可也. 乃復. 書於熊, 与之約周荘ー鎮及附近郷村在十里内者, 不得設官設‐ F , 所有徴収伝喚等事, 当設局承掘, 往来供応, 亦由局内派人, 城中一切不問, 方可従命‐ 熊持其書告知忠逆, 遂率数舟径至鎮, 与玉成 云, 一切如約. 即与招安告示信宿而去‐ ……近地郷官倶由費局挙用, 凡事案命而行. 其初賊亦一山 東人来監銀米横甚, 玉成命逐之, 不去, 衆怒縛而沈諸河, 賊乃不復派人到郷, 悉聴費氏主持, 里人 2 8 } このように 太平天国に抵抗する団練武装勢力の招撫は 彼らが団練の武力と在地 頼以梢安」( , , . での割拠的支配を維持しつつ, 太平天国に帰順し, 官職等を受け, 太平天国の徴税・徴発に応える. という形で行われた. 永昌徐局や周荘費局は, 太平天国 に帰順した後も, 自己の武装勢力の拡大に 努め, 付近郷村の郷官も彼らが任命した. 太平天国と和を通ずると共 に上海で蘇南の失地回復を画 策する清朝の官紳とも連絡を取り, 清朝官吏が駐在するなど”両面討女ヂ の独立王国の様相を呈し, 2 9 ) 太平天国の蘇南支配に大きな禍根を残すことになっ た.( 太平天国及びその蘇福省の領袖李秀成が, なぜ団練武装勢力の招撫を推進し, 彼らの在地での割 拠的支配を容認したのであろうか. 李秀成等一部の太平天国指導者の“変質”のせいに帰すことはで きない. 太平天国が蘇杭に新天地を切り開こうとしたの は, 洪仁汗の 「為今之計, 目天京而論, 北 距川・険, 西距長城, 南距雲・貴・両専, 倶有五六千里之遥, 惟東距蘇・杭・上海, 不及千里之遠.. 厚薄之勢既殊, 而乗勝下取, 其功易成. -侯下路既得, 即取百万買置火輪二十個, 沿長江上取, 男. 3 0 ( } 発兵一枝, 由南進江西, 発兵一枝, 由北進薪黄, 合取湖北, 則長江両岸倶為我有, 則根本可久大美」 の策に見られるように, 湘軍が揚子江の重鎮安慶の包囲を強め, 上流から天京を窺っており, この 窮地を脱するために東方に新天地を切り開き, 清朝の財富の供給地蘇杭を得て, その財富・兵力で. 再び反転し湘軍を叩こうとするものであっ た. クリークが網の目のように張り巡らされた地形を生 かし, 槍船という小型の武装船を操りゲリラ的に抵抗する団練武装勢力に手を焼いた太平天国は, 早急な支配の安定と, 田賦等の軍節確保を図るために, 徹底的に対決し壊滅する道より手っ とり早 い招撫の道を選んだと思われる. 李秀成が, 熊方茎を登用したのもこの表れ であっ た. 更に李秀成 が蘇南経営に専念できない状況もこの招撫を推し進めた一つの原因と 思われる. 上海への三回に亙 る攻撃, 安慶解囲のための陳玉成と呼応した武漢攻 撃, 天京解囲を目指した江北への作戦, 太平天 国の軍事的状況が悪化するにつれて, 李秀成は拙政園の忠王府で蘇南の経営に専念できず, 東奔西 走せ ざるを得なかっ た. 李秀成が不在がちであっ たことは, 妥協的にせよ早急な支配の安 定を必要 とし, 更に購下の部将の遠心ゞ性を生みだし, 団練武装勢力の存在を容認させたと思われる. 太平天国の蘇南占領支配において, 軍髄の確保と支配秩序の安定が優先され, 地域によっ ては旧 19.

(7) . 夏 井 春 喜. 来の清朝の支配の末端を担っ た団練及び在地支配層 がそのまま温存されて太平天国の在 地支配をも 担当したため, 必ずしも蘇南全域に太平天国の政策が貫徹したとは言い難く, 田賦・田租の徴収状 3 1 )しかし 第一に永昌徐局にしても費玉成にしても太平天 況などにも地域による差異がみられる.( , 国の支配を完全に拒否するだけの力がなかったこと, 第二に彼らは蘇州の清朝支配機構の中枢にい た訳でなく, むしろ蘇州の官紳とは一定の矛盾があり, 太平天国と清朝が対時する状況を好機とし て, 太平天国の官職を受け, 徴税・治安という在地支配の末端を担う郷官を自ら任命するなど, 太 平天国の権威を利用して自己の勢力の拡大を図っていたことからみて, 濃淡の差はあれ, 太平天国 の土地政策などの影響は蘇州全体に及んでいたと思われる. 次に, 太平天国占領時期の地主-小作 関係を見てみたい. ” 蘇州における太平天国の土地政策は 従前と基本的には変化せず“照旧交糧納税 という原則 がその まま取られた. 「糧従租排, 理所当然. ……其在郷業戸, 僻目行完納, 照旧収租, 不准抗覇. ……如 ′ ただ地 3 2 )と 地主の収租も容認され, 佃戸の抗租は禁止された. 有頑佃抗還呑租, 許即送局比追」( , 「 芦嘘・盛沢・華塔等処業戸 主の収租は無条件に認められていた訳ではなく, 聞上三県及本県 , 各自. 収租, 毎畝約四五斗. 同里業戸公議, 令各卒長発追租単, 由局収租, 旋得鐘監軍文書, 必先報明田 3 3 ) 「長毛同司馬・ 数・坪名・花戸存案, 然後施行, 各業因有或報或不報者, 因循観望, 事不果行」( ,. 百長下郷写田畝冊, 限期収租, 要業戸領愚収租, 現今各業戸倶不領悪. 長毛告示, 不領悪収租者,. 3 4 )と 田数・汗名等を報告造冊し 田悪を受領することが必要であった. 田悪を交付す 其田充公」( , , ることによっ て, 太平天国は土地所有と租佃関係を確定すると共 に, 太平天国への帰順の証にしよ ” うとしたのである. また清朝の官僚となっ ている地主の土地は“妖産 として没収され, 注塑 が永昌 徐局を非難しているように郷官局が収租掘糧した. 太平天国は基本的には“照旧交糧納税”を継承し, それまでの地主-小作関係に基づき地主が収租 し田賦を完納することを原則とした. しかし, 太平天国占領下の蘇州において地主の収租は極めて 困難であっ た. 蘇州の地主は前述した如く城居地主が多く, 寄生化が進行しており, 一度太平天国 の侵攻で郷村の秩序が崩壊すると地主-佃戸の個人的誼が薄い だけに収租は極めて困難となっ た. 3 5 }地主の一部は上海や通州に逃亡して 「流離未 郷村に逃れた紳士家族は 「毎為郷農悔辱一 された.( 3 6 )上海に逃亡し 帰一 の状態にあり, 「尚年帰来収租」 しても 「多半向隅空転」 せ ざるを得なかった.{ た地主金文楽・陸玉塞が徐侃暖に収租を依頼しているように, 親戚・知人に田冊を渡し収租を委託 する場合もあっ たが, 「星散寄居」している城居地主が「帰来収租」することは難しい状態にあっ た. これに加えて, 太平天国の蘇南進出と共に佃戸の杭租は一気に高まっ た.「是冬凡里人有田者, 由郷. 官勧諭梢収租, 而佃農惇然不顧, 転糾衆打田主之家. 挑浜村為之信, 事起於南棚方氏. 於是西棚金 氏, 東柵厳氏家, 什物尽被殴壊, 而厳氏二舟泊屋後亦被焚. 陳某被縛於昆山城陛廟石獅子上, 幾飽 衆拳. 方氏之宅深而広, 其被殴者, 同族及同居之家, 而田主反脱禍. 居停段氏特佃素寛厚, 故不波 3 7 )といっ た佃戸の打ち壊しが各地で発生した 太平天国は前述のように抗租を禁止したが, 抗 及」( . 員東市梢四図荘顧某衆衆抗租, 以青布紫頭為記, 各業戸訴於城賊. (威豊十 租風潮は収まらず, 「安金. 一年) 十二月十四日, 賊使偽郷官引導至郷弾圧. 顧某鳴鍵集衆, 拒賊於蘇家橋安家墳. 顧某奮勇当. 3 8 )と太平天国と対決した 先, 為賊所傷, 郷衆潰, 賊焚村落, 隣村無害. 旋為郷官調停, 一律還租」( 卸・曹和卿等創収租之説, 各処設立偽局, 按図代収, 令業戸到局 り, 「威豊十一年二, 三月間, 銭華り ( 3 9 } 目収. 旋於四月中, 呉塔・下塘・査家浜之偽局被居民黒夜打散, 偽董事及常局者皆潜逃, 其事遂止」 と収租局や郷官局 が打ち壊される場合もあっ た. このような佃戸の抗租によっ て, 地主の収租は困 難を極め, 地域によっ ては 「各佃戸認真租田等目産, 故不輸租, 各業戸亦無法想, 惟郷業熟悉田佃 0 4 }と殆ど収租できない所もあっ た 呉江県の柳兆薫もこうした状態を 者, 或可毎石収 一二斗不等」{ .. 20.

(8) . 太平天国と蘇州農村. 「租風不佳之至」( 4 1 }と嘆いている ‐ 太平天国は地主の収租を容認し, 地主を基本的には 「掘糧」 の対象としたが 以上見たよう に太 , 平天国の蘇南占領に勢いづけられた佃戸の抗租風潮の高揚 によっ て地主自身によるの収 租は極めて 困難であっ た. こう した状況の下で取られたの力ざ着佃糖糧“”設局収租“ という直接耕作者 である 佃戸から郷官が設置した局が収租し, 田賦を確保しようとするやり方であっ た 「糧従租掘 理所当 ‐ ,. 然. 今昔情形是宜区別. ……我天朝克服蘇省, 安撫之後, 甫徴之初, 即経前爵憲熊推念在城業戸流 離未帰, 出示暁諭, 姑着佃戸代完地糧, 僕業戸帰来, 照租額算我. ……尚年又経招業収租, 並飴撫. 2 }という布告や 「有長毛告示 要収銭糧 4 天候徐 飴令各葬B官設局照料, 母使帰来業戸, 徒指望梅」( , , . 諭各業戸・各糧戸, 不論廟田・公田・学田等倶要造冊, 収租・完糧 倫有移家在外 遠出他方 即 . , , 3 行回家収租・完糧. 如不 回来, 其不回来, 其田著郷官収租・完糧 充公, 佃戸亦不准隠匿分署」( 4 }と いう史料で分かるよう に, この方法は収租・完糧すべき地主が「流離未帰一の状態のために 「権宜」 , の措置であっ た. 地主が不在なため, 田賦徴収のための田 冊作成において「賊初至時 派定偽郷官 , , 4 4 }と 佃戸が田数等 責令将各図田地造偽冊而収糧. 偽郷官向佃戸写取田数, 佃戸中毎有以多報少」( , を報告する場合も少なくなかった. この中で「偽監軍提各郷卒長給田悪, 毎畝銭三百六十 領悪後 , . 4 5 )と 佃戸が銭を出して田悪を受取り 小作地を自分 の物に 租田概作目産, 農民窃喜, 陸続完納」( , , することも 一部 で発生した. ”着佃源糧”と直接佃戸から郷官が収 租する方法は 大体郷官が局を設け 地主或いは佃戸か ら田 , , 数その他の報告を受け田冊を作り, 収租しそこから田賦や局費等を控除して地主に渡した こう し . た 「設局収租」 は地主が収租し掘糧する 「理所当然」 のやり方が相当困難 であるという状況下 で生 まれた 「権宜」 の方法であっ たが, 太平天国 にとっ ては確実に田賦が確保 でき-これが太平天国の 蘇南進出の主要目的の一つであっ た-, 地主にとっ ても抗租の激しい中で何がしかの小作料を手に 入れることができ, 更に郷官を支配する団練武装勢力にとっ ても 「局費」 の名目で団練経費を徴収 できうるうま味があり, 不在の地主だけでなく在地の地主がいる田地 にも行われ 蘇州 各地で広範 , に展開した. 佃戸の抗租は 「見武軍政洪□□示十款, 如佃農匿田抗租 兄弟籍公索詐等項 本人処 , , 4 6 )と厳しく禁止され 「如有頑佃抗還呑租 許即送局比追 ( 7 )と局及び其の後ろだて 斯, 田畝充公一( 」4 , , の太平天国や団練武装勢力 によっ て比追弾圧を受けることになっ た 先に挙げた無錫安鎮の如く太 . 平天国の武力で抗 租が鎮圧されている‐ こうした太平天国占領時期地主の収租・楯糧が相当困難な 状況の下 で 「権宜」 の方法として行わ れた 「設局収租」 は 佃戸から小作料をとる後ろだてとして , 地主によっ ても認識され, 太平天国鎮圧後も形を変えて受け継がれる ‐ 次に太平天国占領時期の小作料徴収状況を見ると, 田租額が大幅に低下したことが注目される . 呉江県で自ら収租した柳兆窯の田粗額を見ると, 威豊十年は十二月一日から収 租が開始され 五日 , までが畝当たり四斗五升, 六日~十日が五升 と定められており 地域によっ ては更に減免された , . 4 8 ) 付近の北庫局では四斗一升, 華塔局では四斗二升 であっ た ( ‐ 翌十一年は一五 租額が実収八斗四升, 4 9 }長洲県北部・常熱県南部 では 威豊十年は黄± 一四租額が実収七斗である‐( 兼鎮付近が 「租収五成」 , 5 0 { ) であり, 田賦は一斗であっ たという. 十一年は常熱県南部で最初は七斗二升(内訳, 糧三斗二升 , 局費一斗, 田愚一斗, 委員監局費一斗, 業主一斗, 出張房掛号銭20文) であっ たが 後に 「浮収 」 , を訴えられて六斗五升 (内訳, 糧三斗七升, 田悪一斗, 局費五升 経造費一升 師旅帥・司馬・百 , , 5 1 )同治元年は長洲・相城 で七斗 そのうち二斗が永 長費二升, 租米一斗) に引き下げられている ( . , 2 5 ) 昌徐局に, 二斗四升が地主の取り分であっ た ( . 太平天国前の蘇州 の田租額は畝当たり一石一斗五 升程度が平均 であり, これと比べると太平天国占領時期に蘇州の田租額が大きく低下していること が分かる. 特に地主の取り分 が大きく圧縮された 常熱南部では僅か畝当たり一斗で 「費大於租 . , 21.

(9) . 夏 井 春 喜. 5 4 )と地 5 3 }「業戸二年無租, 餓死不少, 幸而降価鷲田佃戸, 十得二, 三, 何以延命」{ 業主幾難糊口」( 主の苦境が述べられている史料もある. 長洲県にしても地主の取り分は二斗四升に過ぎない. 小作 料中の田賦の占める割合は 太平天国前で約40%程度で計算すれば, 地主の取り分は六斗を上回る. 太平天国の設局収租 はあくまでも田賦の確保を目的としており, 更に自己の勢力拡大を図る団練の 思惑もあり, 田賦‐局費の確保が優先され, 田租額の低下の 影響を地主が被っ たと言える. 田租額 の大幅低下は租桟の簿冊からも見て取れる. 「沈恒豊桟」 の 「額租簿」 をみると, 威豊十一年は453 8件が完納して いる. この完納分について 00件, 全体の約 2割に収租の記載がある. その内4 件中1 納入日と納租額を見てみると, 十一月二十六日までが二斗三升程度, 二十九日までが二斗七, 八斗, 以後が三斗五升~四升となっており, 田租額そのもの が大幅に引き下 げられて いる. 地域的にも黄 1都, しかも11都上8~11図がおもな収租地域であり, 租桟の管理範囲 が相当 壊鎮付近の 7都と1 狭まっ ていること が窺える. 同治元年は前年より更に収租状況が悪化 し, 件数では19件で, 完納し た田租額を見ると畝当たり 一斗余りである. 地域も租桟所在 地と思われる付近に 限定されている. 「 簿冊の記載が 「沈恒豊桟」 の収租全体を表したものでなく, 自ら収租した分 だけで他に 局収」 の 分が有る可能性もあるが, それでも田租額が大幅に低下し, 租桟の支配の 及ぶ範囲がその所在 地付 近でしかなかっ たことは明らかであろう. このように太平天国占領 時期に蘇州の田租額は大幅に低下し, 威豊十年は従来の五割以下, 十一 年以降も多くて六割程度に引き下 げられた. この最 大の原動力となっ たのは佃戸の 抗租であり, 威 豊三年の闘 争の延長線に立つもので, 僅か三年間に過ぎなかっ たが佃戸がかち取っ た大きな成果で あっ た. これと共に太平天国が 「汗佃戸」 と低い田租額を認めたことも大きな要因となっ たと思わ 5 5 )これを見る と太平天国は従 来の地主-小作関係を認め, 佃戸の抗租を禁止したが, 清朝と れる.( は少し性格を異にする政権のように思われる. 四 2月太平天国の蘇福省の省都蘇州が陥落し, 翌64年7月には 天京が陥された. 蘇州の郷 863年1 1 紳は, 李鴻章の准軍と共に帰還し, 太平天国によっ て破壊された自 己の支配体制の再構築を図る. この支配体制の再編は, 太平天国以前の体制への復帰ではなく, 太平天国等の民衆運動の高揚と外 国列強の政治・ 経済的侵略に対応した新たな支配体制の構築であった. )と評され ( 5 3 太平天国から蘇州を奪還した地主は直ちに収租を開始しよう とするが, 「乱後人心変」 る太平天国の占領を境とする 抗租の高まりと, 田地の清査が必要であっ たこと, 更に減賦の実行が 日程に上っ ていたことなどにより, 蘇州克復直後の同治二, 三年は臨時の措置が取られた. それは 「 租指と呼ばれる 方法であっ た. それは李鴻章の奏議によると次のようなものである. 同治二年 八月 間, 蘇城 未復之時, 拠総掘団練刑部郎 中播曽環, 転拠局員周椿・紳董呉嘉椿等, 以親歴三県郷境,. 除呉県全境被隅外, 凡長元各郷己経克復者, 秋禾可望豊収, 因蘇城論陥後, 各佃租粁, 或土豪代収, 或偽職征収, 業戸則穎粒倶無, 向該官紳訴述, 並求総局為之経理, 余願今歳減収五成租息内, 以三 分之一報指軍節, 又男提善後撫位経費. ……凡成熟田一畝, 共収佃戸租米六斗, 以二斗報指軍米, 6 5 ( ) 以一斗四升損 掘撫他, 以一升充掘公経費, 余米二斗五升給還業戸」 . ここでは各罪=の地主の 請願で 租指が実施されたように述べ られて いるが, 「(減賦実施の報を聞き) 数月以来, 民間喜動, 顔色謂. 有再生之望, 乃蘇城逆賊尚未退出, 長洲・元和等紳士, 忽有設局収租之議. 毎畝期収米六斗, 以充. 5 7 }と 蘇州の郷紳のイニシアチー ブで実施され 軍銅・善後‐撫値種種需用, 小民聞之, 爽然若失」( , 的である. 租指は宮側にとっ て, 軍 ているという受動 だ決定を待 柳兆蕪などもた たよう であり, っ 「 節調達のためには中央への報錐が義務づけられている正 税の田賦よりも, 臨時税の損が 就地欝銅」. 22.

(10) . 太平天国と蘇州農村. に適していたこと等の利点があっ たが, 地主にとっ ても次のような利点があっ た 第一に収租が極 . めて困難な状況の下で田賦の徴収が過酷に行われると, 田租で田賦を償えない恐れがあるが 収租 , した分から一定額を指として支払う方法 だと確実に地主に小作料が入っ てくること 第二に太平天 . 国占領時期に低田租を実現した佃戸に対して, 一気に原額に復することば大きな反発を招くことに なり, 一定期間五, 六割の抑 えておく必要があったこと. 最後のそして最も大きな利点 は 太平天 , 国の蘇州占領を機に高揚した佃戸の抗租を, 田租と田賦を一体化させることによっ て 官の公権力 , を動員 して抑え込み, 太平天国占領時期に混乱した地主-小 作関係を 「正常」 化する槌子と できる ことであっ た. 租指は節指租息局等を 「設局」 し収租するもので, 形態的には太平天国の 「設局収 租」 と類似していたが, 内実的には 「変本加勧」 した官憲と地主が一体となっ た過酷な追比機関 で あっ た. この租指のような田租と田賦を併せ て徴収する方式は, 辛亥革命 日本の占領下といっ た , 収租が困難な 「非常時」 に再三行われており, 太平天国鎮圧直後の租指はその濫鯵 であっ たといえ る‐. 租指は同治二年や三年夏の麦 租 (蘇州三首県にはないが常熱 には存在) などでは 例えば 「東局 ,. 各鎮挙董設局, 共九処. 各業戸以租簿交局, 公収公指, 無論租目業, 毎畝指銭八十文, 業戸亦籍此. 5 9 }と直接佃戸から徴収することもあっ たが 基本的には 「今歳業戸収租 要将租由単写明 租 収租」{ , , 額・佃戸・田名・畝数, 送県用印 発交業戸, 持単向佃収租, 該佃還租後将此単収 回 交由地催徹 県 , 6 0 )と 地主が租由単の清 冊を局に報告し 印を貰い自ら収租し 局備査, 業戸即行完指, 換給指照」{ , , 完指するというやり方が取られた. 局 には指を取り扱う 委員・董事・司事 の外に書役や 差船もお 6 1 )納租しない佃戸を比追した 柳兆燕の日記を 見ても 「適蒐差秋亭目梨来 即以切脚付彼 明 り,( . , , , 「 6 2 )県から派遣さ れた差 鋤こ 日開追暁仙・陸啓元, 巧字坪玩佃」 , 大富始有来還租, 明日要去差追」( よる催租が行われている. 永昌徐侃精も 「各佃 心懐観望」 し, 収租状況が悪く 「発差船来郷」 を要 6 3 }その後の地主と官憲が一体 となっ た暴力的な収 租体制はこの租指を挺子として成立 請している.( したといえる. 以上のような官の公権力を動員 した収租体制 が取られたにも拘 らず 同治二 三年 , , の収租は余り芳しいものではなかっ た. 同治二年に呉江県では 「(十二月) 二十四日 節指租息局停 , 収, 業田収不及什四, 目業田蕩約収什七 同里所属, 惟南路一帯夏秋 之間遭賊牒間 余皆成熟 所 . , . 4 6 }と租指の納入は四割に満たなかっ 以遅滞者, 因乱後人心変也. 周荘局収什之八, 芦壇局亦佑沸」( たところもあっ た. 翌三年は元額の六割 の額であっ たが, 柳兆蕪の所では年内にその70%程度しか 6 5 } 収租できず, 欠租の佃戸は 700 人 に も 達 し た‐ ( 同治四年, 田地の清査も終わり漕糧の約三分の一を減ずる減賦が実施され 臨時措置 であっ た租 , 指は取り消され, 田租額も元に戻さ れた‐ しかし,「沈恒豊桟」・「蒐氏義荘一等の租桟簿冊を見るとみ 収租状況は極めて悪かっ た. 同治四年の納租率は40%程度 で 欠租率は5割を依然として越 えて肉 , 6 6に うした 「大異末乱時人心 ( 7 )という太平天国後も継続される佃戸 のー た.{ 亘常的抗租の状況 に対 」6 して, 蘇州の郷紳は何らかの対策を取ら ざる得なかった . 太平天国 鎮圧以後も継続する佃戸の抗租風潮を抑え 地主-小作関係 を安定化させるため に蘇州 , の郷紳が取っ た .措置の第一は, 減租を実施し, 田租額を引き下げた ことである 同治四年 蘇南も . , 漸西と共に漕糧 の三分の-を減額する減賦が実施された 翌五年 蘇州では 「減賦既定 象調:租 . , , 6 8 以供賦, 減賦目宜減 租. 是秋議定 (減租) ……是為減賦之終事云」( }と 減賦に引き続いて減租が , 行われた. 従来から田賦の減免が行われた場合 一部が佃戸にも 「霧益」 され その比率は 「伏査 , , 康無四十八年, 給事中高巡昌奏, 遇蝿免銭糧 将佃戸田租 亦酌指免 奉旨必得均平 方為有益 , , ‐ , . 6 9 )と 業七佃三が定例となっ ていたという 尋戸部譲業主免十分之七, 佃戸一分之三, 永遠為例」{ , . この時の減租もこう した 慣例に従っ て行われたが, 業佃の比率には後述するように変化があっ たと 23.

(11) . 夏 井 春 喜. 思われる. この 時の減租の算定方 法については, 文献史料では三種類あるが, 減租前後の田租額が 2冊,約千件について分析すると,98%が-畝当たりの田租額が 記載されている 四種類の租桟簿冊1 5掛けし, それに0.98石 一石以下の場合は0‐98掛け, 一石を越える場合は一石を越える端数を0. 『 『 呉江県続志 』 を加えたのが, 減租後の 一畝当たりの田租額になるという光緒 , 光緒 嵐山新陽続修 合志』 の記載と 一致する. 減租はこのやり 方で算定されたことは間違いないと思われる. この両県 7 0 }という語句があり, 蘇州三首県でまず章程が作られ, そ の記述の中に 「照長元呉三県減租章程」( れを倣っ てその他の県の 章程が作られて, 蘇州府がほぼ同じ章程で実施されたと思われる. この章 7 1 }とあるように, 「郡紳」 即ち蘇州城 内 程は, 「郡紳業議減租, 票請前藩憲王, 示諭問属 一体遵行」( 「 の郷紳 (徳桂券・顧文 彬‐潜曽堆・注 埜等) がイニシアチーブを取り, 布政使に票請して 間属 - 「 体」に行われたという. この郡紳主導の減租に対する批判も存在した. 永昌徐氏は, 薙正年間の 可 業戸目行酌減, 不必官為経理」 という諭旨に準拠し, 地主が自ら佃戸の減租を定めること ができる ( 7 2 }と 独自の減免を実行した. と考え,「是以於収租 時, 除照業七佃 三定例核減外, 格外多譲米若干」 , 周荘の陶煎は, この減租 のやり方は 「田主声言減租, 以虚額之数, 畝減其三斗. 故向止 一石二斗而 「 無増者, 今亦一石二斗」 と 「虚額」 に基づき行われ, 実質的な減租になっていないと批判 し, 減賦 3 7 }王晒愛も 「虚額」 の減免や, 従来の業七佃三 三之一, 租亦減三之一」 と大幅な減租を提唱した.( 7 4 ( ) の比率では佃戸を鼓舞することはできないと して 「普減二成 (或いは一成) 之説」 を主張した. 抗 これらの 説は傷桂芥等郡 紳には受け入れられなかっ た. 徐氏のように個別 的に対処すると佃戸の 租を助長 しかねなかっ た‐ 地主全体が一体となっ た対応が必要だっ たのである. また陶鞠や王柄愛 のよう な 「実額」 に基づいた大幅な減免では, 減賦額を減租額が上回り, 地主の取り分の減少を招 くこと, 減免して定めた田租額が佃戸の抗租等により 「虚額」 に転化しかねないことのために, 地 「 主全体の合意が得られなかっ たからである. 減租章程は, 独自の減免を行っ た徐氏は 其実城中多 7 5 )とあまり 「遵行一 されていないと批判している が, 徐氏が太平天国占領 時期 有不遵, 何論闇属」( 7 6 }という悪行の恨みはあるにせよ, 章程 の「土豪代収」 「余家長邑, 額租四千余石, 悉被徐逆収去」( を遵守しないこ とを理由に罰金を処せられているこ と, 地域的異なる四租桟の減租算定方法が一致 することなどを見ると, 強制力を伴っ て蘇州全体に実行されたと思われる‐ 同治五年の減租は, 佃戸にとって実質的にどのく らいの減免となっ たであろうか. 租桟簿冊 史料 ‐010 で見てみたい. 国会図書館収 蔵の 「殖氏義荘」 (9冊) では減租の結果一畝当たりの田租額は1 「 「 0%である. 穀号租冊」 51石下がり, 減免され額は全体の5. 石から0.959石に0.0 , 翠字坪採蓮橋 27石, 7 93石, 0.0 0石→0. 蔵 各1冊)の三租桟はそ れぞれ1 .00 租冊」 , 桟名不詳(以上一橋大学収 ,. 2.7 %, 1.129 石 → 1‐043 石, 0‐086 石, 7‐6 %, 0‐996 石 → 0.936 石, 0‐060 石, 6‐0 % と な っ て い. 00石に50~60%が 00石~1 .1 .0 る. 減租後の一畝当たりの田租額を他の租桟簿冊史料でみると, 1 考えると 示している これから 050石程度を 入る分布となっ ており, 平均は大体1 , 四租桟の内, ‐ ‐ 「翠字坪採蓮橋租冊」を除く三租桟の田租額は蘇州の中でも低い方に属するようである. 「翠字坪採 蓮橋租冊」 がほぼ平均的とすると, 大体7~8%減免されたといえる. 蘇州三首県の田 地の約 八割 0 86石で, 「翠字坪採蓮橋租冊Jの が宮田三斗七升則である. この田則の 漕糧減免額は一畝当たり0. ( 7 7 )減賦の実施と共に 「浮 減租額と大体同額である‐ 田賦徴収は実際には 「浮収」 が行われており, 収」 の裁 汰がなされたため, 実際の滅賦額は額面よりも大きく なると思われる が, 額面だけからみ 7 8 }蘇州の郷 紳が「同治三年恩減漕糧, 城中紳業, れば, 減賦額の殆どが減租にまわっ たことになる.( { 7 9 )と述べていることもあながち 虚言とはいえない. 格外体1血, 将業主応免十分 之七, 尽数蝿入佃戸」 陶鞄や王煩愛のやり方では減租 額が減賦額を上回り, 地主全体の合意形成は困難であり, 地主の取 り 分 を減少させずに, 佃戸に 「格外体池」 するにはこの程 度が限度であっ たろう. しかし, 佃戸か 24.

(12) . 太平天国と蘇州農村. らみれば, 確かに従来の業七佃三を越えた地主の譲歩をかち取っ たとはいえ, 減租額は 7 ~ 8%に 過 ぎず, しかも徴収費用に当たる力米 (大体毎畝四升) が減ぜられてお らず, 実質減免額はこれを 下回っ た. 太平天国占領時期に実現した大幅な引き下げとは比較にできない減 租であり この減租 , を機に佃戸の納租状況が好転 した訳ではない. 以後, 蘇州では二五減租も実施さ れず 新中国成立 , 0 8 ) ま で こ の 田 租 額 は 維 持 さ れ る. {. ちなみに蘇州と同じく減賦が実施さ れた断西では減租は行われなかっ た 左宗業 によると 「近接 . , 陳紳其元書, 言減賦宜減租, 極為有理. 然弟意此事須由各紳戸 目為主持, 自相傷導, 乃無他弊 且 , -経官司示諭, 反長佃民抗納之風. 又此次減賦, 断中主意, 在位小戸抑大戸 究是小戸実恵為多 , , ( 8 1 )と 海寧の紳士陳其元から減租の実施を進言されたが 若再由官示令大戸減租, 似亦未免偏重也」 , , 減租は地主が自主的に行うべきで官が示諭すれば 「反長佃民抗納之風」 こと, 減賦は小戸に重点 を 置いて実行し, そのうえ減租すれば大戸の負担が大きくなり過 ぎる, という理由で蘇州のような減 租は実施されなかっ たという‐ こう した左宗業の意向もあっ たが, 蘇州と断西との差異は太平天国 後の両地域のあり方の違いに由来すると思われる. 新西は太平天国の鎮圧過程 で人口が鋭減し, 温 8 2 }蘇州 では客民の流入は一部 でしか行わ 州.台州の新東や湖広から客民を招いて墾荒が行われた.( 「 れず, 基本的には元の地主-小 作関係が維持された‐ 沈恒豊桟」の簿冊をみても太平天国を挟んで の佃戸変化はさほど大きくない. 太平天国占領時期に低田租を実現した佃戸 に対処するために 減 , 租の実施が必要だっ たのであろう. 太平天国後蘇州 の郷紳が地主-小作関係を安定化するために取った第二の措置は 小作条件を均 , 一 にしようとしたことである. 同治五年に減租が実施されると同時に 「是時沈宝謙有減租議 凡租 , .. 斜一以監司之鉄斜為準, 下頒格式, 立有公所, 偉収租者各領准料, 毎隔ー年, 送公所較准. 其折色. 8 3 }と 収租に使用する升を監司の鉄料に統一 之価, 亦必奨集公所, 公議一価, 有減無増. 悉従之」( , することと, 折価を公議して定めその額以上で収租しないことが決定された この外 災害時の減 , . 免も 「蘇城業田各主, 以佃戸紛紛報荒, 不能全数収租, 現在公議, 擬毎畝各減一斗云云」( 8 のと 公 , 議によっ て決定されている. こう した升の統一, 折価や災害時の減免の公議は その実施において , 一定の強制力を伴っ ていた. 例えば, 光緒六年秋, 婁門外永倉の某紳が六斗余りも入る五斗升を使 用していると佃戸に訴え られるという事件があっ た. 某紳は 「為抵完低米而設」 と言い訳したが , 「目後収租 須一律官斜 庶農佃不至籍口 という命令が下された { 8 5 )民国に入っ てであるが 唯 」 , , . , 亭の呉備徳桟 が 「減折収租」 を守らず収租したと佃戸から訴えられ, 取りすぎた分を返還させられ 8 6 )同治五年の減租章程も前述の如く布政使の布告が出さ れ 「間属一体遵行 した 一畝当 ている.( 」 . , たりの田租額を見ても, 減租の結果個別的差 異がかなり縮まった 1石から1 1石に約半数 ‐ . ‐95 ,0 1 石から1 5石の間に約八割が集 中する分布となっている. ‐ このように地主-小作の私的問題と思われる升, 折価, 減免額, 開倉日(立冬前後に集中) 減租 , 額の算定な どが, 個別地主の対応 に任されず, 地主 (有力郷紳) の公議や官の布告 によっ て定めら れるようになっ たのには, 次の二つの要因があっ たと思われる 太平天国後地主の城居化・寄生化 . が一層進行し, 各地に佃戸が圧倒的 多数を占める村落が生ま れ, 佃戸の地域的結合は強められてい っ た。 地主の土地は各地 に散在的に分布し, 一人の佃戸が複数の地主と小作関係を結ぶことも普遍 的になっ ていき, また田地や田面の売買・典質による地主・佃戸相互関係の流動性 のために地主と 佃戸の個人的関係は益々希薄になる傾向にあっ た このため-地域で 例えば同じ佃戸 が耕作する . , 異なる地主の隣合う土地の小作条件が異なる ことは, 佃戸に抗租の口実を与えることになりかねな かっ たこと, これが第一である. 第二は, 地主の寄生化で佃戸 に対する支配力が低下し 太平天国 , 時期に高揚し, そのエネルギーを継続させて いる佃戸に対処するには 個別的な地主の力では不可 , 25.

(13) . 夏 井 春 客. 能で, 地主階級全体が一体となっ て対処する必要があっ たことである. このためには地方官憲の強 制力を必要であり, 秩序を乱す地主に対 しては制裁も行われたのである. 蘇州の郷紳 が取っ た第三の措置は, 地方政府の公権力を槌子とした官憲・地主一体となっ た暴力 的収租体制を作り 上げたことである. 太平天国鎮圧直後の租指徴収にお いて, 節指租息局等の局 が 設けられ, 直接佃戸より徴収したり, 或いは地主の収租を保障する追比機関としての役割をはたし た. 租損が取り消された後も, 追租局・催租局等という公的な追租機関が毎年設置され, 地主の収 租を保障した. 三限を過ぎても小作料を完納しない 「疲頑佃戸」 を地主は県や局に報告しすると, 県からは差役が派遣され地主・租桟の 催甲や地保・経造と共に佃戸の家に赴いて催租 し, それでも 納租できないときは, 県や局に管押した. そこでは, 「蘇之業田者, 遇有佃戸欠租, 無不送官追比, 撃其轡復棚頚, 或三日一比, 或五日一比, 比時或筈八百, 或答一千, 惟業田者所欲. 毎至冬間, 三 8 7 ) ( 県頭門左右, 緩競而荷校者, 以数百計. 在業田者則云, 糧従租出, 租由佃輸, 頑佃抗欠, 目応懲比」 「 「 といっ た暴力的追比が行 われた. こう した 「設局収租」 送官追比」 は, 目同治二年……城中紳富,. 献議大吏創設収租局……請委多官為之徴比, ……厭後租事皆聯官為声気, 訴控比責, 不必庭質, 隷. 8 8 }と 租指による 「公私両利之計」 と契機として行われ 役提摂, 不必鍛票, 受任有田者之所欲為」{ , 「 「 たものである. その前を遡れ ば太平天国の 設局収租」 に由来すると思わ れる. 太平天国の 設局 収租」 は, 地主が多く逃亡し, かつ佃戸抗租の高まりで地主から田賦を徴収することが困難であっ たという状況の下で実施された一つの便法であり, 佃戸にとっても一定の利点があっ たが, 太平天 国後の収租局等の設局, 「送官追比」 は, 「糧従租出」 の論理の下に官憲の 公権力を動員 して小作料 を佃戸から暴力的に徴収する全くの 地主のためのものであっ た. 納租額からみると, その年の納租 8 9 }と開倉が最も多く, 眼内に大 状況如何にもよる が, 通常では 「各桟一年所入, 全以開倉日為主」( 部分が納入される. 催租も年内で大体終わり, 年を越して催取される分 は数%にも満たない. 額か らみれば 「送官追比」 は大して重要とは 思われない. しかし, こうした暴力的収租, 見せしめなし には, 限内の収租そのもの が不可能になる恐れがあっ たと思われる. 以上のような官憲・地主一体となっ た暴力的な収租体制 が成立すると共に, 地主の組織化も進行 した. 租桟の盛行 がそれである. 租桟は元々は徴収した小作米を入れる倉を 意味したと思われるが, 次第に収租を管理する機関となり, 各地主が自己の小作地を管理 するために設けるようになり, 租 桟内で収租 を取り仕切る脹房と, 在地で小作地と佃戸とを管理する催甲を持つ. こうした 組織を持 「 っ た租桟は義荘の管理などから始まり, その起源は 清初まで遡ると思われるが, 清末民国期には 主 として何らかの官職背景をもっ て居る紳士が, 他の地主からその所有地の管理経営を委託されて, これを 自己の所有地や, 受典地などと 一括して管理し, コミッショ ン・ベー シスでその全体から小 作料を徴収し, その全体について税を代納するために設 けた, 土地の管理経営と包擬との大規模機 0 9 )となっ ている これは 地主の城居化に伴い, 中小地主が管 理が困難となっ た自己の小作地を 構」( . 有力な郷紳に委託するようになっ たためである. こうして太平天国後の蘇州の支配体制の再編を指 導する郷紳の租桟に収租権が次第に集中するようになり, 租桟も公的な色彩を帯びてゆく. 例えば 1 9 )民国期には租桟の設置は官の承認 田損という絹税の 徴収が租桟を通 して行おうと試みられたり,{ 2 }租桟を経営する有力郷紳と地方官憲との癒着が進行し, 9 を必要とし, 帳簿等には印紙が貼られた.( 前述した暴力的収租体制が取られたのである. 辛亥革命以後は 「田業会」 等が創設されこの癒着は 更に進行する. 太平天国後, 蘇州の地主の佃戸収奪方法にも変化が生じた. 折価という交換過程を通 じた収奪が 加わっ たことである. 前述の如く, 太平天国前においても蘇州では折租が主流であった。 太平天国 後, 佃戸が納租に使用 する貨幣が銅銭から洋元に, その洋元も本洋 (スペイ ン銀貨) から英洋 (メ 26.

(14) . 太平天国と蘇州農村. キシコ銀貨) に変わった. 佃戸が小作料を納める貨幣が洋元 になっ たにも拘わらず折価の基準は依 9 3 }このため佃戸は「佃戸赴桟完租 高其米価 短其洋価 若交現銭 然として銅銭に置かれていた。( , , , , ( 9 4 ) 「誼刈割後 碧碓之下 頗有暗耗 毎畝不過一石七八斗 而 則出串通盤, 提陳腐鉄, 種種留難」 , , , , ,. 城中租桟折価甚昂, 毎石定価二千二三百文不等. 適値新穀登場, 米市, 諜秩, 毎石不過一元七八角,. 9 5 { ) 洋価短至一千零七十文, 郷民載米出糧, 持洋完租, 以洋作銭, 三過其門, 吃酢不少, 大都控肉補嬉」 と, 小作料納入過程 で, 米→洋元, 洋元→銅銭の交換を強いられ, それぞれにおいて租桟が定めた 折価と市価の格差に苦しめられることになった. ことに豊作の年は折価と市価 の格差は大きく 「熟. 荒」と呼ばれる豊作貧乏に見舞われた. こうした折価と市価の格差を通じた地主の収穫だけでなく, 佃戸は米の販売・典質・購入, 銭洋の両替を通して商人・高利 貸しの収奪をも受けるようになる . さらに折租の展開はチョッ プを通して銭荘を支配する上海の外国銀行・商社の金融支配の網の中 に 佃戸も入っ ていくことをも意味し, 蘇州農村が次第に半植民地経済に組み込まれていく過程を表し て いる と 思 わ れ る.. 太平天国が蘇州の農村社会に与えた影響は極めて深刻であっ た. 辛亥革命においては蘇州の郷紳 は, 「革命」政権を樹立し, 自己の権益を守ることに成功し, 革命が収租に与えた影響は辛亥の年一 年のみで, 民国に入ると清末よりも収租状況は好転する. 太平天国後の収租状況を見ると, 収租が 9 6 } 一応の安定化するのは同治九年頃からで, しかも太平天国前の水準を下回るものであっ た ( . 太平 天国占領時期の高揚した佃戸 の運動に対処するために, 蘇州の郷紳が行っ た措置は, 以上見たよう に減租, 地 主の組織化, 官憲と一体となっ た暴力的収租体制の構築, 小作条件の均一化 等であり, これによっ て地主-小作関係を安定さ せようとした. これらの措置は, 太平天国の地主-小作関係 がもはや個別的な地主と佃 戸の関係の枠に収まりきれなくなっ ていたことを示している 田賦の納 . 入において一部佃戸が負担することも行われたり, 租桟の代納も行われ, 単に 「糧従租出」 という 建て前だけでなく, 佃戸は地方官憲にとっ ても実質的な 「納税戸」 と認識され始めた 地主にして . も, 地主階級全体がまとまり, 官憲の公権力の保障無しには収租は不可能となり, 地主と官憲の癒 着, 利害の一致が進行していく‐ 地主-小作関係は個別的 「私的」 関係から 総地主‐官憲対総佃 , 戸の 「公的」 関係に転化していっ たのである.. )王. ( 1 ) 李文治 「太平天国革命対変革封建生産関係的作用」『光明日報』19 61年1月1 6日‐ 郡循正 「太平天国革命後江南 的土地関係和階級関係一 同19 61年2月 2 日‐ 茅家埼「太平天国革命後江南農村土地関係試探」『新建設』1 9 61-1 2 ‐ 王天奨「太平天国革命後蘇断院三省的土地関係一同196 3一8‐ 王興福「太平天国革命後断江的土地関係」「史学月刊』 1 96 5-5‐ 劉曜 「従長江中下癖地区農村経済的変化看太平天国革命的歴史作用」『歴史研究』19 7 9一6‐ 林増平 「太 「論清代後期江断続三省原太平天国 平天国革命推動中国資本主義発展的問題有特進一歩探索」 同1 97 9一1 0 李文治 . 占領区土地関係的変化」 同1 981-6. 2 3 ( ) ) 顧炎武 「蘇松二府田賦之重」 『日知録』 巻1 0 ,( ‐ ( ) 鶴見尚弘「康畷十五年丈量, 蘇州府長洲県魚鱗図冊の田土統計的考察」 『木村正雄先生退官記念東洋史論集』19 4 7 6 年. 「再び, 康繋十五年丈量蘇州府長洲県魚鱗図冊に関する田土統計的考察」 『中嶋敏先生古稀記念論集』 下 汲古 , 書院, 1 9 81年‐ 「 ) 「候選員外郎徐侃碓即峨士禦稿」 ( 5 4号, 1 96 4年, 1 0 5~1 0 6 , 呈復長洲県呉承路広庵」 『双鯉編』 『近代史資料』総3 頁‐. { 6 ) 民国 『呉県志』 巻31 , 公署. { ) 林恵海 『中支江南農村社会制度研究』 上, 有斐閣, 1 7 9 53年, 9 9~1 0 4頁.. 27.

(15) . 夏 井 春 喜 3 2~13 3頁. 3年, 1 9 3 ( 8 ) 施中一 『旧農村的新気象』 蘇州中華基督教青年会, 1 9 81年, -」『史学雑誌』90一7, 1 「 治減租とそれに至る過程 一租桟における収租状況一同 9世紀葉蘇州の ( 9 ) 拙稿 1 20 頁‐. ( o ) 鶴見尚弘 「廉繋十五年丈量, 蘇州府長洲県魚鱗図冊の田土統計的考察」 前掲. l 7年所収) 97 . ( 1 1 ) 陶腕 『租厳』 重租論, 重租申言‐流弊 (鈴木智夫 『近代中国の地主制』 汲古書院, 1 77年, 7 8頁. 9 鰹 ) 何夢雷 『蘇州無錫常熱三県佃租制度調査』 (中国地政研究所叢刊) 成文出版社, 1 3 ( 1 ) 『中 国 経 済年 鑑』 1934 年, G 170~171 頁. ( 1 ) 例えば 「江蘇佃戸種田畝, 有肥土之称, 又呼為田面, 則佃戸於業主田畝上, 有相当之地価, 不奮-田畝, 而設定 4 所有権人於其上‐ 其発生之原因, 由洪揚兵奨以後, 業主流離, 土地荒蕪, 佃戸即投資耕種, 遺業主帰来, 即許佃戸 特別利益, 准其永遠佃種. 相沿巳久, 佃戸覚持其永佃権, 視為一部分之所有権, 不准業主自由奪佃, 業主亦無異議」 0年, 3 17頁.) (中華民国司法行政部編 『民商事晋隣調査報告書』193 『 03 , ( 勤 拙稿 「太平天国後の蘇州にお ける小作料徴収関係について‐租冊史料の分析を通して-」 土地制度史学』1 1984年, 23頁, 図 1.. { } 例えば 「蘇郡米価碇賊, 各処田業収租所定折価, 総在二千五六百文計, 毎還租一畝, 須糧両石, 由是各佃皆負米 1 6 「収租為難」 『申報』 光緒4年1 6日) 1月1 , 上桟, 桟中不充収米, 佃戸亦不肯納銭, 彼此抵梧, 多有全欠未完者」 ( 「最可異者 納租収銭, 而不収米」 (陶鞠 『租巌』 重租論) . , 1 8 ( 1 7 D 光緒 『毘新両県続修合志』 巻51 ) , 祥異‐ ,( 9 6 2年, 第三冊, 38頁. ( 9 ) 越烈文 「落花春雨巣日記」 太平天国歴史博物館編 『太平天国史料叢編簡輯』 中華書局, 1 1 9年, 80頁. 97 例 ) 侠名 「勾呉葵甲録」『太平天国史料専輯- 《中華文史論叢》 増刊-』 上海古籍出版社, 1 御 ◎ ) 解 ( 2 4 ). 2 光緒 『繋里続志』 巻1 , 雑録. 0 97 5年. 高橋孝助 「威豊三年前後の江南における均厭論-近代郷紳のある出発-」 『宮城教育大学紀要』1 ,1 「 表2 前掲 4頁 況 1 9世紀中葉蘇州の一租桟における収租状 」 拙稿 1 , ‐ , 9 59 華翼倫 「錫金団練始末記」 中国科学院歴史研究所第三所近代史資料編輯組編 『太平天国資料』 科学出版社, 1. 年, 122 頁.. 51年, 第5冊, 251頁. 同 劉継増 「紀無錫県城失守克復本末」 中国史学会編 『太平天国』 神州国光社, 19 2 4頁‐ 筋 ) 華翼倫 「錫金団練始末記」 前掲, 1 解 ) 熊方茎は,「伝聞熊之父, 向官蘇省, 其幼年曽随富来蘇, 目以為与蘇有縁, 故管理地方, 頗革長毛之苛政. 呉民不 審其意而翻疑之, 其後忠逆甚疑其行事, 遣之出, 令拒守平湖・乍浦之間‐ 卒能反正, 大吏奏聞, 質為知府, 初名方 01頁) と, 清朝に寝返ってから建勲 0 0~3 茎, 後改名建勲云」 (潜鐘瑞 「蘇台祭鹿記」『太平天国』 前掲, 第五冊, 3 と改名した. 鱗 ) 陶鞠 『貞豊里庚申見聞録』 巻上. 5 8年3月31日. 拙稿 「太平天国時期蘇州にお ける 9 回 翼熱村 「打進太平天国内部的地主“永昌徐氏“ 」『光明日報』1 『 9 83年. 土豪的支配について-長洲県の永昌徐局の場合-」 中国史における社会と民衆』 汲古書院, 1 『 5 2頁. 鋤 ) 「洪仁坪目述」 太平天国』 前掲, 第二冊, 8 9 8 4年, 童 ) 蘇州の太平天国占領下の土地関係状況については郭毅生 『太平天国経済制度』 中国社会科学出版社, 1 ( 3 1 81年, 等参照. 類時 『太平天国在蘇州』 江蘇人民出版社, 19 「 還租以好佃力告示」 太平天国歴史博物館編 『太平天国文書鍵編』 塀理長洲軍民事務黄酌定 ( 5 ) 瑛天安 の ) ( ) 3 2 ,5 ,は ,鰯 5~1 46頁. 9年14 97 中華書局, 1 9 55一1, 44頁. 解 ) 知非 「呉江庚申紀事」 『近代史資料』 1 4頁. 御 侠名 「庚申避難日記」『太平天国史料叢編簡輯』 前掲, 第四冊, 51 980一4. 御 陵跨 「劫余雑録」 『揚州師範学院学報』1 『 3 6 ) 注鰯 )及び 「艇天安燕理長洲軍民事務黄為委照酌定租額設局照料収租事給前中参軍帥張等札」 太平天国文書桑編』 ( 前掲, 109頁‐. 6頁. 例 揚引伝 「野煙録」 『太平天国史料蕪編簡輯』 前掲, 第二冊, 17 御 侠名 「平賊紀略」 同前, 第一冊, 281頁‐ 3頁. 御 侠名 「避難紀略」 『太平天国史料専輯』 前掲, 7 9頁‐ 回 「平賊紀略」 前掲, 27 23頁‐ 回 柳兆薫 「柳兆蕪日記」 『太平天国史料専輯』 前掲, 2 89頁. ) 「庚申避難日記」 前掲, 4 鰹 3頁. 似 ) 「避難紀略」 前掲, 7 0 4頁. 巷圃野老 「庚葵紀略」『太平天国資料』 前掲, 1 婚 )↑ 28.

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