キルケゴール初期講集話の研究
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(2) . 第 24 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和4 8年9月. キルケ ゴール初 期講話集の研究 豊. 福. 淳. 一. 北海道教育大学釧路分校哲学研究室. junichi TOYOFUKt 丁; Die Forschung der Ersten Reden in Kierkegaard .. キ ル ケ ゴ ー ル は, 1843年 2月 に 匿 名 の 美 的 著 作, 『あ れ か こ れ か』 を 出版 し, 続 い て 彼 の 誕 生 日. 5月 5日に, 亡き父に捧げた最初の宗教的著作, 『二つの教化的講話』 を本名で出版 した。 それ以 来, 43年の 『反復』 , 『不安の概念』 にいたる美 , 『おそれとおののき』 から, 44年の 『哲学的断片』 的哲学的著作のあいだにはさまるように, 来たる べき思想的飛躍を準備しながら, 13篇もの教化的 講話を書いてし・る。 みずから宗教的著作家であることを認 じていたキルケ ゴールは, 世間の人々に 大いに読まれた偽名の美的著作は左手で差 し出したのに対して, 「大きな森の片隅の一輪の花」 に すぎないが, 本名の宗教的著作 (キルケ ゴールは初期の18篇の教化的講話をも美的著作のなかへ分 ) 類しているが, 内容的にはやはり宗教的著作と見なされる べ きであろう1 。)は真剣に右手で人々に 差し出したのであっ た。 当時から今日にいたるまで, 美的著作に比 べて, これらの宗教的講話はキ ルケ ゴール研究者にさえ深い意味で注目されなかったのであるが, これらの講話のなかには心 して 読まれる べ き豊かな内容があるとともに, キルケ ゴールの思想と生き方の謎を解く多くの手がかり が ひ そ ん で い る.. 3年5月) とそれ以後44年秋にいたる諸講 この小論では, とくに最初の 『一 つの教化的講話』 (4 話とのあいだに見 られる大きな内容の相違に注目しながら, キルケ ゴール自身の実存と思想的変遷 を探ってみたいと思う。 そこには, 信仰により世俗的なものを含めて愛の反復を信 じる立場から, 現世的なものと自己自身との断念によるよりい っそう苦難に満ちた信仰へという道が展開されてい る。 本稿では, 主として初期講話集のなかからこうしたキルケ ゴール自身の個人的体験にかかわる 内容を意識的に追求してみたいと思う。 1 843年の 『二つの教化的講話』 . 1 キ ルケ ゴ ー ル は, 43年 5月 5 日の最初の講話, 『二つの教化的講話』 において, その序文から内. 容に関し, 一貫 して彼の個人的人間的関係を辿りながら, その内容を展開している。 すなわち, こ の講話は亡き父に捧げられ, 出版日の 5月 5 日は彼の誕生日であり, かつての婚約者 レギーネにひ そ か に 呼 び か け る 形 式 を と っ て い る. そ の 序 文 の な か で, キ ル ケ ゴ ー ル は 「つ い に, こ の 書 は, 私. が喜びと感謝をもって私の読者と呼ぶあのひとりの人に, この書が探し, この書がいわば両手をひ ろげて差し出すあのひとりの人に, たとえ出会った瞬間にその出会いが喜々 しく頼も しいものであ ろうとも, それとも, 「ものうく憂いに満ちた」 ものであろうとも, 親切にも会っ てくれ, 親切に )」 と述 べて こ の 講話 が 事 も こ の 書 を 受 け 取 っ て く れ る あ の ひ と り の 人に, 出 会 っ た の で あ っ た2 。 ,.
(3) . Vo l .24 No .l. i i ido Udi i ct ty of Educat lof Hokka on (Se on I A) ver s journa. Sept , ,1973. い る。 こ の 言 葉 は, こ の 講 話 で 実 上 「あの ひ と り の 人」 , レギ ー ネ に 向 け られ て い る こ と を 暗 示 して. 最も強い個人的意味をもち, 後の講話でたえ ず繰り返されながら一般化されて, ついにはキ ルケ ゴ ールの思想にとっ て決定的意味をもつ 「単独者」 という言葉に昇華 したのである. 本文のうち, 第一講話 「信仰の期待, 元日」においても, やはりキルケ ゴールが牧師職の位置に立 ち, レギ ーネ個人に直接語りかける 形式で講話が進められている。 キルケ ゴールは 「あるひとりの 人」 の福祉に対してほかの誰よりも大きい心配を し, あらゆる善い願い事で守っ てやりたいのに, たっ たひとつの願い事も してやれない, と卒直に旧婚約者への愛慕の情を吐露している。 キルケ ゴ ールの内心の意 図は, 愛する者が信仰をもつようにということであっ た. しかし信仰は願って得ら れるものではなく, 彼は思い煩い, 自分の愛の間違いに気 づく。 つまり, 願うだけで他人に 至上善 である信仰を手に入れてやることができれば, まさにそのことによって信仰を不完全なものに した のである. 「信仰には, 何 びとも信仰を他の人間に与えることはできないという, ある新しいす ば らしさがある。 むしろ人間のなかにある最も高いもの, 最も高貴なもの, 最も神聖なものは, 人間 各自のもっ ているもの, 各自のうちにある根源的なもの, いやそれをもとうと意志する各自の人間 の も っ て い る も の な の だ. そ して こ の よ う な 条 件 に お い て の み, 信 仰 が も た らさ れ う る に す ぎ な い. ということこそ, 信仰のす ば らしさなのだ. それゆえに, 信仰こそ唯一の犯す べからざ る 財 で あ る. なぜな ら, それはたえず獲得されることによってのみ所有され, たえ ず作り出されることによ )」 っ て の み 獲 得 さ れ る も の だ か らだ と3 . こ う して キ ル ケゴ ー ル は, 自 分 を 限 界 内 に と どま らせ, レ ギ ー ネ を 正 当 の 位 置 に 置く こ と に よ っ. て, 両者のあいだを切り離したのである。 彼は, 二人がより高い信仰において結 ばれるように願っ たのであったが, 彼の認識 した真理は彼を幸福に しなかった. む しろ彼は真理を 深く知れば知るほ ど, 他人との関係においてますます離れてゆき, 無力になるのを感じた. まさに 「人生とは矛盾で ) 」 こ の 期 の キ ル ケ ゴ ー ル は 信 仰 に よ る 愛 の 反 復 を さ え 考 え て い た だ け に, こ う した 考 え に あ る4 . ,. 耐え られなかった. 彼は苦悩のすえに, 他人に対する彼の関係が真の意義をうるにいたる説明にた ど り つく. そ の 説 明 と は, ソ ク ラ テ ス の アイ ロ ニ カ ル な 助 産 術 の 立 場 を 愛 す る 人 に と り 入 れ た の で あ っ て, そ れ は き わ め て アイ ロ ニ カ ル な 論 理 に も と づ く と と も に, こ の 上 な く 倫 理 的 に 真 剣 な も の. であった. すなわち, 自分の願いによっ て, 他人に至上の善を贈ることができれ ば, 人はそれを与 えた瞬間に, 相手からふたた び奪い取ることになるであろ う. 「最高のものとは, 彼がそれを自分 ま ) で自分に与えうるということだからである5 .」そこで相手がみずから信仰を得た 場合には, 彼は すます喜びたいと思うし, また, 「彼 (レギーネ) がそれを所有 していないかぎり, 私はもちろん 大 い に 彼 の 手 助 け を す る こ と が で き る, … … ど ん な 困 難 を も 彼 と い っ し ょ に 切 り 抜 け て い っ て, 彼. の不正を説明するものは, 結局もはやただひとつの言葉, つまり, 彼 がそれを意志していないと い ) 」 キ ル ケ ゴ ルは楽観的に, 相手はこれに耐えられ う 言 葉 しか 彼に 残 らな い よ うに し よ う と 思 う6 . ず, 信仰を獲得することになるだろうと述 べて, 愛する人のために信仰のす ばらしさを讃美し相手 の信仰に入るのを確信 していたの である. いずれに しても相手は信仰を所有するようになると, 彼 は明るい希望をいだき, 元日に当り, 信仰の共有によっ て二人が同 じ道を歩むなら, 未来を克服し ) う る 唯 一 の 力 を 得 た こ と に な る, と 考 え て い た の で あ る7 .. キルケ ゴールはさ らに矢つぎばやに問いを重ねている. 人は何によっ て未来の変転を征服するの か. 永遠は未来の根拠であるから, 永遠なものに より未来は征服される。 それでは 人間のうちにあ ) る永遠の力は何か. 信仰である.「信仰の期待とは何か. 勝利である8 。」キルケ ゴールは, 信仰の期 待の内容として, ただ単に精神的な勝利だけでなく, 現世的なものにおける勝利をも同時に結びつ けて考えているのである. 「神があのように目に見える事物で御自 分を私にお示しにならないのは.
(4) . 第 24 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部A). 昭和4 8年9月. 結構なこ とだ。 われわれが引き離されるのは, いつかまた会うためなのだ。 (私はいつまでも, 毎 あかし しるし 日, 毎日, 証明や兆候や奇蹟を望む子供であろうと願うことはできはしない。 いつまでも子供のま まであっ たら, 私は全力をあげ全霊をつく して 愛することはとてもできはしないだろう。)いまわれ われは別れている。 われわれは毎日は会わない。 ただひそかに, 信仰による期待の勝利の瞬間に, ) われわれは会うばかりなのだ9 .」このようにキルケ ゴールは, 信仰を通じて精神的な同化と現世で の愛の期待に満ちている。 信ずる者は自分の期待に対してなんの証明も求めなし・ . 時間は信仰の期 待を証明することも反駁することもできない. 信仰は永 遠を期待しているからである. 一見小さく て取るに足りないが, それでいて内容が実に豊かであるひとつの小さな言葉がある。 それは 「いつ ider という言葉である. 年老いた者も, 若い者も, いたましい困苦欠乏, ひと知 か は つい に」 oms )」 と つ ぶ や o れ ぬ 思 い 煩 い で 疲 れ て しま っ て, 「か く して い つ か は つ い に 救 い に い た らん こ と をl く。 しか し. , こ の 言 葉 を だ れ も 他 人 か ら学 ぶ の で は な い. む しろ め い め い の 者 が 自 分 で た だ 神 か ら 神 に よ っ て 学 ぶ ほ か な い の で あ る。. 以上のように, 第一講話 「信仰の期待」 で, キルケ ゴールはしギーネに 対し, 直接的地上的な愛 ではなく, まず信仰を説き薦め, その信仰にもと づいた精神的な愛によっ て二人が共通の目的に結 ば れ る こ と を ひ そ か に 期 待 して い た の で あ る。. また, 第二講話 「すべての善い贈り物と, す べての完全な賜物は, 上か ら下ってくる」 (ヤコブ 書 第 1 章17節) に お い て も, 考 察 の 中 心 に レギ ー ネ が 置 か れ て い る。 「も しあ な た(キ ル ケ ゴ ー ル). が, 永遠は願っ たものを自分にもたらしてくれるだろう, 自分の目の快楽であり心の欲求であっ た ものを自分にもたらしてくれるだろう, という確信をえることができさえしたら, あなたはそれを 諦めたことであろう。 あなたはあなたの魂を耐え忍ばせたことであろう. あなたはひそかに憧れな が ら待 と う と 思 っ た こ と で あ ろ う。 あ あ こ の 確 信 も あ な た に は 拒 ま れ た の で あ るID。」. この文中の. 「あ な た」 は キ ル ケ ゴ ー ル で あり, 「目 の 快 楽」, 「心 の 欲 求」 と は 一 年 前 の1842年 5月 の 日 記 に 見 2 ) られ る よ うに, 明 らか に レギ ー ネ を 指 す も の で あ っ た1 。 それがこの講話に再現されているだけで. なく, この講話そのものがレギーネに対する負い目の弁明であるとともに, ふたたび彼女を取り戻 しう る か も しれ な い と い う 可 能 性 を, キ ル ヶ ゴ ← ル が ひ そ か に 信 じて い る こ と を 暗 示 して い る 。. コリ ント人への第二の手紙第1 1章に見られる 「私が少しばかり愚かなことを言うのを, どうか, 忍 ん で ほ しい」 と い う 書 き 出 しに な ら う て, キ ル ケ ゴ ー ル が 「愚 か な 人 間 的 な 話 し方」 で 語 る の は. 「ここにあなた (レギーネ) の幸福を望んでくれると信じたので心からあなた が信頼をよせている ひ と り の 人 (キ ル ケ ゴ ー ル) が い る と しよ う. (と こ ろ が, あ な た と そ の 人 と が,,あ な た に 役 立 つ も の が 何 で あ る か に つ い て そ れ ぞ れ 違 っ た 観 念 を も っ て い る と した ら, ど う で あ ろ う。 そ した ら,. あなたはその人を説得しようと試みることであろう。 おそ らく, あなたの願望を満た してくれるよ うに と, そ の人 に 乞 い 求 め る こ と で あ ろ う.) しかし, その人があくまでもあなたの願望を満たす ことを拒みつづけるならば, あなたはその人に乞うことをやめるであろう, あなたはこう言うであ ろ う。. 私 が い ま 私 の 懇 願 で 彼 の 心 を 動 か して, 彼 が 正 しい と 思 っ て い な い こ と を さ せ た と した ら. も っ と恐 ろ しい こ と が 起 こ っ た で あ ろ う。 つ ま り, 私 が あ ま り に も 弱 か っ た の で 彼 ま で も 私 と 同 じ よ うに 弱 く して しま っ た, と い う こ と に な っ た だ ろ う。 そ の と き, た と え 私 が 陶 酔 の 瞬 間 に お い て. 彼の弱さを愛情と呼んだとしても, 私はほんとうに彼を失い, 彼に対する私の信頼を失ったことに 3 )J こ の よ う に キ ル ケ ゴ ー ル は しギ ー ネ に 諦 め る よ う に 説 き 愛 す る 者 を して 正 なるだろう と1 , しいことを行わせないようにするのは, 結局, 愛する者を失うことであるのを間接的に告げている の で あ る。 パ ウ ロは, 「私 は キ リ ス トの た め な らば, 弱 さ と 侮 辱 と, 危 機 と, 迫 害 と, 行 き 詰 ま り と に 甘 ん 3 -.
(5) . 1 VO .I ,24 No. i i i ido Uni t lof Hokka t s on I A) Journa ver on (Sec I Educat yo. Sept , ,1973. じよ う。 な ぜ な ら, 私 が 弱 い 時 に こ そ, 私 は 強 い か ら で あ る。」(コ リ ン ト 人 へ の 第 二 の 手 紙12一10). と語っ ているが, これは神の前での人間の弱さと無力さの自覚か ら生まれる信仰, そしてその信仰 の 絶 大 な 力 と い う 意 味 で 「弱 さ の 強 さ」 に 通 じる も の で あ っ た。 キ ル ケ ゴ ー ル は こ の こ と を 人 間 的 な 弱さ の 意 味 に と っ て, レ ギ ー ネ と の 愛 情 の 問 題 に あ て は め て 考 え て い る の で あ る。 ど う して も 結 婚 を 望 む レギ ー ネ の 意 図 に 直 接 に 応 ず る こ と は,同 時 に レギ ー ネ も キ ル ケ ゴ ー ル も 弱 く して しま い,. も し万一結婚 して彼を得たとしても, 真実の意味では彼を失っ たことになる, した がって人間的な 弱みに根ざす愛ではなく, 神にもとづく愛こそ真実なものだとキルケ ゴールは考えたのである。 そ れ と 並 ん で, キ ル ケ ゴ ー ル が こ こ で は ふ れ て い な い が, パ ウ ロ の こ と ば 「そ こ で, 高 慢 に な ら. ないように, 私の肉体に一つのとげが与えられた。 それは, 高慢にな らないように, 私を打つサタ ンの 使 い で あ る。」 (コ リ ン ト人 へ の 第 二 の 手 紙12- 7) に 見 ら れ る 「肉 中 の 刺」 が キ ル ケ ゴ ー ル の. 婚約破棄の原因の重要な一つであり, 彼自身の体内に深くささった憂欝であること が暗示されてい る。. 直接的な愛と違っ て, 信仰による取り戻 しを含む愛は, 悔い改めによる罪の赦 しにかかわる愛で もある。 「人間は神を, 自己の不完全さに応 じて愛する場合にのみ, 真に愛することができる。 こ の愛は どんな愛か。 それは悔悟の愛である。 悔悟の愛はほかのすべての愛よりも美しい。 なぜなら 悔悟の愛においてあなたは神を愛するのだからである。 そ して悔悟の愛はほかの すべての愛よりも 4 ) より忠実であり, より内面的であるi 。」 悔悟はキルケ ゴールにとっ て, 罰に対する感謝であるば かりでなく, 摂理に対する感謝でもある。 「主ご自身が 「き ょうにも」 endnu idag と語りたもう ように, 主の使徒も, きょ うにも, す べての善し・贈り物と, すべての完全な賜物は, 上から, 光の )」 5 父 か ら下 っ て く る, 父 に は 変 化 と か, 回 転 の 影 と い う も の も な い, と 言 う1 。. キ ル ケ ゴ ー ル は,. 悔悟の愛を通してこそ 「きょ うにも」 最も善い贈り物である, レギーネとの愛 の反復が, 信仰によ って結ばれた形で上から下っ てくると考えたのではないであろうか。 キルケ ゴール自身, 喜 びにつけ悲 しみにつけ, 激 しくゆれ動きがちな自分の心や, 悔い改めによ っ ては じめて得られる罪の赦 しな どを考えたのであろう, 神には 「変化とか, 回転の影もない」 と いうことに深く感動 している。 それは人の心を慰め和 らげ, 「病をいやす大きな力をもつ」 もので あった。 そのことは逆に考えれ ば, 一年後にあの 『不安の概念』 が書かれたように, 当時のキルケ ゴ【ルがいかに不安と憂欝, 負い目と悔恨のもとに苦 しんでいたかを示 している. そうした苦悩に もかかわらず, ここではこうした明るい, 希望にみちた言葉を信 じることによって, 第一講話に見 られた 「ついにいつかは」 という忍耐を覚悟した期待が, 「きょ うのうちにも」 という真近な期待 の確信に変 っていることに注意 したい。 この言葉は後の講話にも しば しばあらわれるが, この講話 におけるほ ど, キルケ ゴール自身の人間的な愛の期待を感じさせるものはほかにないからである。 こうした推察を裏書きす る事実と して,43年4月16日, 奇 しくも復活祭の日にフル‐エー教会で, キルケ ゴールはすでに婚約を解消 していた レギ【ネの非常に愛 着をこめた「うなずき」に出会っ た。 日記にはこう書かれてある。 「彼女がそんなことを してくれなかっ たらよかっ たのに. 一年半の苦 しみは今はもう無駄だっ た, 私はあらゆる巨大な努力を重ねたのだ, だが彼女は私 が欺嚇者だとは やはり信 じていない, 彼女は私を信 じているのだ. 恐ろしい試練が今 や彼 女の前に立っているのだ. 次の試練は私が偽善者だということになる. 私達が高く達 すれば達するだけ, それはますます恐ろ しいものになる。 私のような内面性と私の ような宗教性をもっ た人間がそのような態度を とること 6 ) に な る と は1 。」. かく して キ ル ケ ゴ ー ル は 愛 の 反 復 の 希 望 に 燃 え, 心 を 踊 らせ て ベ ル リ ンへ 旅 立 っ. たのであっ た。 この二度目の愛の反復は, 最初の直接的な愛でなく, 苦悩と不安を通過 した信仰に もとづく 弁証法的に より高い愛になっ て結実するはずであった。 しか し, 事実はキルケ ゴールの予.
(6) . 第 24 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 想とは全く逆の方向に進展す るはめになったのである. 昭和48年9月. そ の レギ ー ネ の う な ず き が, 実 は 彼 女 の 別. な婚約のしるしであり, キルケ ゴールへの精神的な らびに世俗的な別れの決定的表現であっ たこと に彼が気 づいたときに, 彼はさらに激 しい悩みと深刻な苦しみに襲われたことは, 次の一連の講話 によくあらわれているのである。 とはいえ, 美的著作だけでなく, 右手で真剣に差 し出した宗教的 講話にも, キルケゴールの個人的な人間関係の愛憎がじかににじみ出ているのは, 見落されてはな らない重要な事実である。 2, 1 843年秋の 『三つの教化的講話』 と 『四つの教化的講話』 43年 4月16日 の レ ギ ー ネ の う な ず き に 愛 の 反 復 を 予 感 した 直 後, キ ル ケ ゴ ー ル は ベ ル リ ン へ 旅 立. ち, 想起や思い出と異なり, 「反復」 という独自な新しい概念に思いをこらすことによっ て, 信仰 による永遠な愛の反復を期待したのであっ た。 43年秋 『反復』 と同時に出版された 『おそれとおの の き』 に おい て も, ア ブ ラ ハ ム に 見 ら れ る よ う に, 神 に 対 す る 絶 対 的 な 義 務 の た め に, 倫 理 的 な も. のの目的論的中止 が説かれてはいるものの, 永遠なものへの信仰 が得られた際には, この現実への かかわりがいつでも始められる用意があり, キルケ ゴ【ル自身もそれを望んでい た態度が見 られた のであっ た。 たとえば, 「諦めの騎士」 に対 し, 「信仰の騎士」 はより高い立場に立ち, その典型 であるア ブラハムは愛する一人息子イ サクを, 神への犠牲に捧げな がら再びその手に取り戻すので ある。 先 の 『一 つ の 講 話』 の 最 後 の 聖 句 「き ょ う に も」 は, キ ル ケ ゴ ー ル 自 身 の 期 待 実 現 の 日 が 間 近い の を 感 じさ せ る も の で あ っ た の で あ る。 と こ ろ が キ ル ケ ゴ ー ル は, 彼 の 諸 著 を 印 刷 す る た め に, 7月 に な っ て コ ペ ンハ ー ゲ ンに 帰 っ て き た が, す で に 6月 に, レギ ー ネ は か つ て の 家 庭 教 師 フ リ ッ ツ ぬ ス レ ー ゲ ル と 婚 約 を か わ して い た の で あ る。 こ の こ と を 知 っ た キ ル ケ ゴ ー ル は, 激 しい 怒 り と 苦 悩 を 味 わ い な が ら, 日 記 に 次 の よ う に. 記している。 「人間に起こりうる最も恐ろしいことは, 彼が本質的なことについて自分自身に滑稽 な も の と な る こ と で あり, た と え ば 彼 の 心 情 の 内 容 が ナ ンセ ンス で あ る の を 彼 が 発 見 す る と い う こ. うな危険を容易に招くことがある。 たとえば, 叫びや悲鳴 とである。 人は他の人との関係でこのょ, な どを 信 ず る こ と に よ っ て で あ る。 こ こ で は 頑 丈 に 作 られ て い る こ と が 必 要 な の だ1の。」. キルケゴ. ) 8 」と ールは頑丈に作られておらず, まさに懐滅的打撃を受け, この宗教的危機を 「可能性の教育1 して受取りなおす高価な犠牲を払っ たのであっ た。 彼はしギーネが, 婚約解消は自分の死を意味す る と 言 っ た こ と, そ れ に キ リ ス ト と 彼 の 父 の 思 い 出 に か け て の 彼 女 の 訴 え を あ ま り に も ま じめ に 受. 取りすぎていたのであった。 彼は自分を永遠に彼女に捧げてきたものと見な してきたのである。 と こ ろ が こ こ で, キ ル ケ ゴ ー ル は 遂 に ひ た す ら現 実 的 な も の と 自 己 自 身 と の 断 念 に 努 め, い わ ば 相 対. 的なものには相対的にかかわるとともに, 絶対的なものには絶対的にかかわる態度を とるにいたっ たのである。 レギーネの再婚約を契機に して見せた彼のこの変化は, 微妙なものではあるが, 当の 3年秋以降の一連の講話や, 44年6月 の『哲学的断片』 著作 『反復』 の一部改筆はもちろんのこと, 4 5年の 『哲学的断片へのあとがき』 と一連の宗教哲学的著作への足がかりとなるだけに, 見 さ らに4 逃すことのできない重要な変化であると言っ てよいであろう。 さ て, 『反 復』, 『お そ れ と お の の き』 か ら6 日 お く れ て, 43年10月19日 に 出 版 さ れ た 『三 つ の 教. 化的講話』 ,12月16日出版の 『四つの教化的講話』 のなかから, われわれの主題に関係のあるもの だ けをとりあげてみよう。 こ の 『ニ つ の 教 化 的 講 話』 は, 『反 復』 と 『お そ れ と お の の き』 に す ぐ続 い て 出 さ れ た だ け に,. キルケ ゴールの婚約に伴う危機, とくにレギーネの新たな婚約による懐滅的打撃から立直る最初の キリスト教的答えである。 したがっ て, この講話はそれら匿名の著作の虚構を支える本心の吐 露で 「 5. 「.
(7) . l vo 、24 NO .l. i i i do Uni lof Hokkai t ionrna on IA) ver s on (sect y of Bducat. Sept . ,1973. あ る と い っ て よい.. 先の最初の講話, 『二つの講話』 では, 「喜びと感謝をもっ て私の読者と呼びあのひとりの人」 と い う 言 葉 で, レ ギ ー ネ 個 人 を 指 して い た。 と こ ろ が こ の 講 話 の 序 文 で は, レギ ー ネ の 再 婚 約 に よ り, 明 らか に 「あ の ひ とり の 人」 と い う 言 葉 か ら 彼 女 は は ず さ れ て 考 え られ て い る. そ こ に, 48年. 以降キルケ ゴ【ルの著作に明瞭となるように, 人間存在の理解に対 し根底となる 「単独者」 の概念 成立のきっ かけがひそむのである. この講話は, レギーネの再婚約者がキルケ ゴールの内面に及 ぼ した深い亀裂を示す ことによっ て, レギーネのための直接的な著作活動か ら, さ らに広い一般的な 著作活動 への移行 をあらわしているのである。 傷ついた魂がその傷に対して何の救いをも見出 しえないとき, どうすれ ばよいのか, 閉ざされた 心が内面的な力を求めるのに, 救いの力でなく挫折 しか見出 しえないとき, どうすればよいのか。 この講話の答えは, 神に対する愛が人間の正 しい救いとなり, 逆に, 神からの愛 が人間の悲劇と罪 に対 し勝利をおさめ, 魂に精神的な力を与えるということである. 最初の二つの講話は 「愛は多く の 罪 を お お う」 と い う 同 一 の テ ー マ で あ る.. ペテロ第一の手紙4--7, 「万物の終りが近 づいている. だから, 心を確かに し, 身を慎んで, 努めて祈りなさい. 何よりもまず, 互いの愛を熱く保ちなさい. 愛は多くの罪をおおう も の で あ る.」こ の 聖 句 に も と づ い て キ ル ケ ゴ ー ル は, 愛 が 正 しい と 思 う 人 の 罪 を あを き, 悔い改める 人の罪. をおおうことを 説いている. 「心に愛が住むとき, 耳は閉じ, 世間の言葉を聞かず, あ ざけりのき びしさを聞かない. 心に憎しみが住むとき, 罪は人の戸口に停み, その多くの欲望は彼に向かう. 9 ) しかし, 愛が心に住むとき, 罪は遠くへ飛 び去 り, 人は罪を二度と見ることはない1 .」 また, 「愛 が多くの罪に勝利 したとき, 愛はまた多くの罪をおおうことを知っ ている. 放蕩息子の父がそうし たように, 愛はすべてのものを祝っ て受け入れる用意ができている. 愛は手を拡げて迷っ た者を待 ち, す べて を忘れて, 愛がふたた び多くの罪をおおうことにより, 彼自身にす べてを忘れさせるの 0 )」 で あ る2 .. キ ル ケ ゴ ー ル は こ れ ま で の 地 上 の 愛 に も と づ く 怒 り と 悲 しみ, 不 安 と 絶 望 か ら, 自 分. の心を静めるために懸命の努力を重ねているのである。 彼は危機的状態か ら救われ, 無言の信頼で き る 愛 を 自 分 の も の と した い と 考 え, こ の 愛 を ペ テ ロ の 第 一 の 手 紙 3 - 1 に 見 られ る, あ ら ゆ る 病. び をとおして忠実な女性の愛にたとえ, 個 人的関係を .ぼかしながらも, 間接にレギ ネに対するき パ しい批判を加えているのである. 「罪ある女」 .が例にひかれ, お ごりたかぶっ た リサイ 人は正義 によって実は不正をな しているのに, イ エスは 「私もあなたを罰 しない。 行って ふたたび罪を犯さ ないように しなさい」 と答えた。 罪の罰は新 しい罪を生むが, しかしキリス ト教的愛は罪人を愛し そ の 愛 に よ り 彼 の 多 く の 罪 を お お う か ら で あ る. こ う した 愛 の と らえ 方 は, 若 き ヘ ー ゲ ル の 「愛 に. よる運命の和解」 と似ている. ヘーゲルも愛によっ て人間と神との神秘的合一に近 づいたのであっ たが, 遂に愛の主観性に限界を感じ, 愛を超える国家共同体, 歴史に目を向けたのに, キルケ ゴ ルはあくまでも神的愛に肉薄するのである. それではどのように して愛は多くの罪をおおうのか. 「愛が遠くから多くの刺を見れば見るほど 刺は怖ろしい. しかし愛が近づいて行けば行くほど, ますます愛は刺を見ることがない. そ して愛 が刺によって致命傷を負いながら, その胸に刺をす べて受取っ たとき, 愛はもはや刺を見ることな 1 ) く, ただ愛と楽園の至福を見るだけである2 .」 愛は人間から完全性を奪う。 負い目ある人はここ で慎み深くあろうとする. 愛は彼にとっ てつらいものである. しか し, 愛 は人間の不完全性を奪い その罪を, その患難を奪う. 愛は彼からその強さを奪うが, その苦難を も奪うのである. 「愛がお お う こ と が で き ず, た だ 他 人 (レギ ー ネ) を 救 う こ と に つ い て の 愛 の 喜 び だ け が お お う こ と の で き )」 2 る よ う な, 存 在 しな い ほ ど怖 ろ しい 苦 難 が どこ に あ ろ ぅ か2 . 一 6. 「. キ ルケ ゴー ルの 内 心 に は地 上 的 な.
(8) . 第 24 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和48年9月. 愛から信仰の愛への高まりが見られ, それは明らかに彼の精神的破局から成立したものであっ た.. 愛 が 人 間 に 与 え る 新 しい も の と は, キ ル ケ ゴ ー ル に と っ て 神関 係 の 深 さ で あ っ た。 こ の 一 つ の 愛 の. 7年の 『愛のわ ざ』 において結実するキリスト教的愛の原像をあらわしている。 講話は, 4 第三の講話, 「内なる人を強くすること」 は, 『反復』 において見出 しえなかっ た宗教的慰めを とりあげている。 キルケ ゴール自身が 「内なる人を強くされ」 ていたので, 自分自身に対 し毅然と した講話を書くことができたのである。 絶望的な魂は, その苦難を神に感謝することができるとき 救われ強め られるのである。 「人間が真に思い煩っ ているかぎり, 神の助けですべてのものが内な あかし. る人を強くするのに役 立つであろう。 なぜなら神は誠実で, ご自分のことを証 しないでおられたわ けではないからである。 神は霊であり, それゆえ霊においてのみ証を与えることができる。 すなわ ち, 内なる人において証を与え ることができる。 神の外面的証はす べて, もしそのような証が問題 3 ) になりうるとすれば, 偽麻となりうる2 .」 キルケ ゴールの新約聖書の啓示に対する信仰は, 明ら かに外面的客観的なものではなく, 個 人のうちの霊の内面的証にもとづいたものである. 当時のキ ルケ ゴールが ドイ ツの神秘主義や, 内面的神秘的信仰へ向かう傾向のあっ たこともこうした点から お の ず と 理 解 さ れ る の で あ る。. 内なる人の強めは, だれも自分みずから与えることはできない. 証を与える人は神であり, パ ウ ロの語るように, 証そのものは神の贈物だからである。 「真にそこで, 天の神は私の最初の愛であ っ た, と語りうる人は幸い である。 その人の生命が, この愛の祝福された強めであっ た人は幸いで ある。 人生において失敗し, 内なるものの代わりに外面 的なものを奪われたにもかかわらず, その 魂が多くの仕方で世 のなかへ編み込 まれたにもかかわらず, それでも なおふたたび内 なる人におい 4 )」 て 新 た に な っ た 人, 自 分 の 神 に 還 る こ と に よ っ て 内 な る 人 に お い て 強 め られ た 人 は 幸 い で あ る2 。. この講話の厳粛な結語は, 43年夏の危機以来, 彼の身に起こった地上的なものの内面的問題が,「神 への還帰」 として解決される見通しが立てられたことを如実に物語っているのである. 『ニつの講話』 から二ヶ月おくれて出版された 『四つの講話』 に共通の間も, 『反復』 , 『おそれ と お の の き』 の テ ー マ を 展 開 した も の で あ る。 そ れ は, 人 が 最 愛 の も の を 失 っ た と き, な お 神 が 善. い贈り物を授ける ことを信ずることができるかということである。 『四つの講話』 の第一講話, 「主は与え, 主は取りたまう, 主の名はほむべ きかな」 (ヨ ブ記1 -21) に お い て, キ ル ケ ゴ ー ル は 一 貫 して ヨ ブ の 言 葉 「主 は 与 え, 主 は 取 り た ま う」 だ け を と り あ げ て, ヨ ブの 信 仰 あ つ い 態 度 を 賞 讃 して い る。 こ の こ と は, キ ル ケ ゴ ー ル が レギ ー ネ を 決 定 的 に 失. っ たその悲痛な思いのなかで, 主に試され, すべてを失いながらその試みに耐えたヨ ブから多くの ものを学ぼうとする心をあらわしている。 そういう意味で, この当時彼にはヨ ブ以上に慰めを与え る人物は他にいない。 ヨ ブの名前は, だれかがそれを思いだすかいなかが重要なのではない。 大切 なことは言葉の内容であり, 言葉が含む思想の豊さである, . 「試された人だけが, 彼自身試される が ことによってその言葉を試 した人だけ , その言葉を正しく理解する. このような弟士だけを, こ 5 )」 の よ うな 解 決 者 だ け を ヨ ブ は 望 む の で あ る2 。. キ ル ケ ゴ ← ル は ヨ ブ の 言 葉 の 解 釈 に お い て, 主 が. すべてを取り去っ たときに, ヨ ブの最初の 言葉が 「主は取りたもう」 でなく, 「主は与えた」 であ っ たことを重視 している。 すべてを失いながらヨブは, 主がいま彼から取り去っ た祝福のすべてを か つて 彼に 与 え た こ と を 感 謝 した の で あ る。 こ う した ヨ ブ の 態 度 の 賞 讃 に は, レギ ー ネ を 取 り た も うた 主 に 対 す る キ ル ケ ゴ ー ル の 感 謝 が ひ そ ん で い る. と はい え, 「彼 の 目 の 喜 び で あ っ た も の を ヨ ブ は 再 び 見 た い と 願 っ た。 彼 の 悲 しみ は, そ れ が か つ て そ うで あ っ た よ り も, も っ と 美 しく 見 せ か け る こ と に よ っ て 彼 を 罰 し た。 彼 の 魂 が 喜 ん だ も の. は, 今再 び渇望されている。 彼の悲 しみは, それが以前そうであっ たよりもそれをも っ と望ま しい.
(9) . ] Vo .24 No .l. ido Univer lof Hokka journa i i i t s on (Sect on I A) y of Educat. )J 6 も の に 描 く こ と に よ っ て 彼 を 罰 した2. Sept . ,1973. 主 は 本 当 に 変 っ た の か。 否, 「主 は す べ て を 取 り た ま わ. なかっ た。 なぜなら主はヨ ブの賞讃を, 心の平安を, その平安が生まれる信仰の誠実を取りたまわ 7 )」 な か っ た か らで あ る2 。. 問 題 の 核 心 は ヨ ブが す べ て を 取 り戻 す こ と に あ る の で な く, 主 の 取 り た. まうものはすでに与え られたものであるという事実の強調 に, キルケ ゴールの姿勢がうかがわれる の で あ る。. 第二, 三講話, 「あらゆる良い贈り物, あらゆる完全な贈り物は, 上から下っ て来る」 は, 先の 一 『 つの講話』 の第二講話と同じ主題をとり扱っ ているのであるが, 先には贈り物に力点が置かれ たのに, ここでは何が善であり, 完全であるかという点に焦点が置かれている. マタイ 伝の山上の 垂訓から例がひかれる。 たとえ悪い者であっ ても父は自分の子供にはその求めている良い贈り物を 与え, その子がパ ンを求めているのに, 石を与える者 があ ろうか。 「あなたがたは悪い者であっ て も, 良い贈り物をす ることを知っ ているとすれば, 天にいますあなたがたの父はなおさら, 求めて く る 者 に 良 い も の を 下 さ ら な い こ と が あ ろ う か。」 (マ タイ 7 -11) こ の 神 の 完 全 さ に 比 べ て, キ ル. ケ ゴールは人間の, とくに自分自身の立場の不完全さに注目せざるをえない。 世の栄光を喜 ばない た め に, 目 を 閉 じ, 世 の 空 しい 話 が 間 え な い よ う に, 耳 を ふ さ く ことが何の役にたつか 「人々が . 良い贈り物を与えぬことを知るのが何の役にたつであろうか。 これま で一度もあなたの愛が良い贈 り物を与えることができなかっ たという, 人間生活の最も深い苦しみを知ることが何の役にたつで 8 )」 あ ろ う か2 .. こ の 言 葉 に よ っ て 彼 は, 愛 す る 人 に 最 も 本 質 的 な も の を 贈 る こ と が で き な か っ た と. いう自分の苦 しみを考えている。 人間の贈り物の何と不完全なことか。 それに比 べて, 神の贈り物 の何と良く完全であることか。 この点にこの講話の意図するものがうかがわれる。 ま た, キ ル ケ ゴ ー ル は 同 じヤ コ ブ 書 か ら 「人 は す べ て, 聞 く に 早く, 語 る に お そ く, 怒 る に お そ. くあるべ きである。 人の怒りは, 神の義を全うするものではないからである。」を引いて, 自分の怒 りを戒めている。 怒りを克服して, 怒るにおそい時でさえ, 「怒りはいわば 人間の内面に しがみつ 9 ) き, そこで神の前で正 しくないことを行うことがありえよう2 .」「怒りが人間に対 し力を得ると, たとえこの力が怒りによって全世界を支配す るとしても, なお人間は自己自身を失い, 彼の魂を失 0 )」 う で あ ろ う3 .. こ う した 言 葉, と く に 内 心 に 怒 り が こ も る と い う 表 現 は, ヒ ル シ ュ も 注 意 す る よ. う に, レギ ー ネ の 再 婚 約 に よ っ て キ ル ケ ゴ ー ル の 感 じた も の で あ っ た。 彼 は 内 心 の 怒 り を しず め,. 静かな自己犠牲の境地で, 「施 しをす る場合, 右の手のしていることを左の手に知らせるな」 を自 分の心の大きな課題と しているのである。 第四講話, 「忍耐によっ て自分の魂をかち取ること」 (ルカ2 ) は, 『反復』 とともに 『死 1-19 にいたる病』 と密接に関係 した問題を取り扱っている. この講話で特徴的なことは, 人間の実存的 状況を明確に規定 していることである. 魂は 「外面的なものと内面的なものとの, 時間的なものと 1 ) 永遠なものとの間の自己矛盾3 」 である. 魂が単に世間的な有限性や, あるいは超世間的な無限性 に向かうことによっ てその二元的な緊張から逃避するなら, 魂は絶望にいたり, その本性を失っ て しま うで あ ろ う。 そ れ で は どの よ う に して 人 は 自 分 自 身 の 主 人 公 と な る こ と が で き る か。 キ ル ケ ゴ. ルによれ ば, 「魂は同時に所有され, かち取られるべ きである. 魂は不当な所有としての世間に 属 しているが, 魂は真の所有としての神に属 している。 すなわち, かち取られるべき所有と してこ れを所有する 人間自身に属している。 このように して人は, も し彼が現実に魂をかち取るなら, そ 2 ) 」した が っ て, 世 間 的 な も の を 獲 得 の 魂 を 世 か ら, 神 か ら, 自 己 自 身 に よ っ て か ち 取 る の で あ る3 。. することは愚かな, 絶望的な努力に しかすぎない。 人の魂をかち取ることは 「全世界との闘争をつ げる課題」 である. 戦いは, 人間を神に対する最も内面的な関係へもた らすのであり, 外面的なも のの獲得ではなく, 本質的に所有されうるものの獲得を約束 したのであっ た。 魂をかち取ることに 8 ー.
(10) . 第2 4巻 第1号 第 ぢ. ^ 旭 日 引氾 」 部A) 第一部A 北海道教育大学紀要(. 昭和48年9月. よっ て, 人は世間における自分の負い目を自由なものにするのである. 真に自己となり, 自己の運 命の主人公となるのは, 恐ろしい期待と世間的偽蹄のただなかにあっ て, ただ 「忍耐」 によっ ての み 達 成 さ れ る の で あ る。 自 分 の 魂 を か ち 取 る こ と は, キ ル ケ ゴ ー ル に と っ て, 倫 理 的 な 行 為 で は な. く, 信仰と神的な愛の行為なのである. この講話で, キルケ ゴールは真の人間性と内面性, 自由と人格性を, 人間の本質的な矛盾におい てのみ知り, しかも永遠なものへの正しい関係が矛盾の止揚に ではなく, 矛盾のな かの生の深さに あることを理解する点で, 個人的な危機に購われた高価な知恵をもつにいたっている。 彼は倫理的 宗教的責任によっ て人間の実存を, 苦悩を伴っ た神関係へ導いたのである. 『あれかこれか』 の美 的, 倫理的立場からすれば, こうした表現は驚くべき内面的昇華を示 している。 新 しい観点の核心 は, 人間が真に自由に内面的になる唯一の行為は, 受難にもとづく忍耐 の緊張と自己集中である 。 後の講話でますます強調されるように, キルケ ゴ ルは, 忍耐が能動的な自由の実現にいたる矛盾 と緊張に満ちた行為であることを認識 していたのである。 この講話にはまた, 後年のコルサール事 件を思わせる世との戦いの 準備が成熟 しつつあるのがうかがわれる。 自分の魂をかち取’ ることが 「全世界との闘争をつげる課題」 であり, 世俗に背を向け, 人間の最も内的本質的なものに向かう 彼の 態 度 が 明 ら か で あ る。 こ の こ と は 忍 耐 の 問 題 と か ら ん で, 次 の 『一 つ の 講 話』 『三 つ の 講 話』 , に さ らに 鮮 明 に あ らわ れ る と こ ろ で あ る. 3, 1 8 44年の 『二つの教 化的講話』 と 『三つの激化的講話』 44年 3月 5日 に 『一 つ の 講 話』 が, 6月 8 日には 『ニつの講話』 が出版されたが ここでは一年 ,. 前の講話と同じ 『二つの講話』 を主としてとりあげて みよう。 『三つの講話』 が 『哲学的断片』 を 補完する役割をもつのに対して, この 『一 つの講話』 のほうがキルケゴールの個人的人間関係をよ く あ らわ して い る か ら で あ る。 さ て 『一 つ の 講 話』 の 序 文 に お い て, 「こ の 書 物 は, 世 間 的 な 希 望 を も っ て い な い わ け で は な い. が, 不正確なことに対する, ない しは不正確なことについての希望 はす べて心の底から断念してい る。 以 前 の 書 物 と 同 じ よ う に 「入 っ て 行 く の が 無 駄 で あ る に ち が い な い よ う な こ と」 (テ サ ロ ニ ケ 3 ) 人 へ の 第 一 の 手 紙 2 - 1) を 望 み は しな い3 。」 と語ることによって, 世間的な賞讃を期待 して. , 宗教界へ入っ て行くことに対する断念の気持が明瞭に表明されている。 さらに 「私が喜びと感謝と 4 をもって私の読者と呼ぶ人」 に対しても, 「たえずただ立ち去っ て行く者でありたい3 ) 」 と世俗的 な 愛 へ の訣 別 を 明 ら かに して い る. こ の こ と は 『三 つ の 講 話』 に お い て も, 「た え ず 忘 れ 去 られ る 5 )」 と い う の と 軌 を 一 に して い る こ と だ け望 ん で い る3 。. 先の講話と同じ主題の第一講話, 「忍耐によって自分の魂をかち取るこ と」 のなかで賞讃される のは, 人間の内面的な魂の強さである。 人が真に 「生と死を賭して」 保持すべきものは, 外間的な ものではなく, 永遠なもの, す なわち 「人間の魂」 以外の何ものでもない。 地上の財宝が失われる のに反 して, 「も し自分の魂を失うなら, 魂は全時間にわたって, 永遠にわたって失われたのであ り, た とえ 一 瞬 失 わ れ た に して も, 永 久 に 失 わ れ た の で あ り, 死 も 彼 を 救 い え な い で あ ろ う3 6 ) 。」. 魂をかち取るには, 手段はただ一つしかない。 「その手段とは忍耐である 人はまず自分の魂を獲 。 得 し, ついで魂をかち取るために忍耐を必要とするのでなく, 実に魂をかち取ることによっ てのみ 魂を獲得するのであり, したがっ て忍耐は最初に して最後の条件である3 7 ) 。」ここに忍耐はつねに受 動的であるとともに能動的であり, 能動的であるとともに受動的であるという弁証法がみられる 。 忍耐によっ て自分の魂をかち取ること, すなわちかち取るべきものが何であるかを忍耐をもって確 信することが大切である。 なぜなら, ここで忍耐の助けを借りなければ, どんなに努力を しても何.
(11) . VOI .24 No .l. i i i t i ido Un t on I A) l of Hokka on (Sec ver journa s y ofEducat. Sept . ,1973. か別なものを 獲得することになり, 自己の魂を失っ て しまうか らである. 「忍耐によって自分の魂 をかち取ること, すなわち魂を忍耐の内深く保有 し, 魂が忍耐の外に出ない ように し, このように ・が始めら して決 して疲れない敵, つまり時間と, 多種多彩な敵, つまり世間との長期にわたる戦し )」 を キ ル ケ ゴ ー ル は 自 分 自 身 に 対 して 課 して 8 れ た と き に も, 魂 が 損 ぜ られ な い よ う に す る こ と3 ,. いるのである. 永遠なものとの, 神との, 自己自身との恐るべき戦い が行われるとき, 魂が忍耐の 支配を脱しないようにすることが肝要である. なぜなら 「この戦いにあっては, 永遠なものを失う 者は神と自己自身を失い, 神を失う者は永遠なものと自己自身を失い, 自己自身を失う者は永遠な 9 ) ものと神を失 うからである3 .」レギーネに対する愛の反復の可能性を断たれ, 現世的なものとのつ ながりをす べて断念しなければならなかっ たキルケ ゴールに とって, 忍耐によっ て自分の魂をかち 取ることので きる人間こそ最高の勇気をもっ た存在であっ た. この講話の最後で, 世間的な 「明日 0 ) 」 は, もはや先 があるさ」 という言葉に対し, 忍耐の語る力強い言葉 「今日にもと主は言われる4 す . がこの一瞬に生成 るための用意で く 永遠なもの の講話に見 られた ような愛の反復の期待ではな , あり, 各瞬間に魂の自己覚醒が要求される ことへの警告であっ たのである. 第二講話 「期待の忍耐」 は, キルケ ゴールの忍耐する期待がどこへ向かっ ているかをよくあらわ す講話である. 人間は忍耐をとおして, 世俗に対す る無限な否定により, 真の神関係へいたるので ある. 忍耐と真 の神関係の結 びつきは, キルケ ゴール自 身の生き方の完全な内的崩壊から生まれた のであった. 寡婦, ア ソナについて のこの講話は, キルケ ゴールの人間に対する理解の深さと進展 を示 しており, 聖書中のヨ ブ, ヨハネ, パウロ, アソナと続く 一群の人間像はすべて, 真に内面的 に自由な人間の典型であり, 自己の魂を忍耐のうちにかち取っ た, キルケ ゴールの師と仰ぐに 足る 人物である. こうした人間考察の成果が, ヒルシュの洞察するように, 後のキルケ ゴ【 ル 独 自 の 「実存」 概念を準備 したことは 間違いない. 期待にみちて忍耐する女預言者ア ソナの謙虚な自己否定, 何物をも望むことのない 敬度な態度が ,一切もう一度神に委ね, あな キ ル ケ ゴ 【 ル の よ い もの支えとなるのである. 「あなたの 思い煩いを た自身の愛に赴くがよい. その大海原か ら期待が今一度再生し, 高揚す る天 が開けて見える. 再生 する, というよりはむ しろ, 新 しく生 じる. 地上的な期待が無力となり, 絶望的に崩壊するとき, 1 ) まさにこうした天上の期待 が始まるのだか ら, と4 .」このように地上的な期待から天上の期待へと 期待の質的高 まりが見 られることによって, そこに神とのかかわりのなかか ら, 人間の新生が生ま れ る の で ある.. 地上の患難を短 かくするものは何か. それは時間である. しかし, たとえ全生涯にわたって続い たとしても患難を しば しのものとするものは何 かといえ ば, それは永遠なものの期待であり, 永遠 なものを期待する忍耐である. そしてつねにこのように言いうることこそ, 永遠な期待の時間的な ものに対する勝利 である. キルケ ゴールは,ある人が忍耐強いかどうかを判定するのは誰 かと問う. 最も深い意味において, ある人が忍耐強いかどうかを決定するのは, その期待そのもの, その 「期 待の本質」 である。 すなわち, その期待 が真に期待であるような人はそ の期待のゆえに忍耐強い. 期待が焦燥の原因となっている場合, その期待を捨てなけれ ばならないのに, 忍耐強いのは誤り で あろう. 地上的, 相対的な期待はす べて忍耐強く期待される べきものではない. 「忍耐を要求する ような真実の期待のみがまた忍耐を養成する. (しかし, 真実の期待は人間に 本質的にかかわる よ うなものであり, それを 成就することは人間自身の力に任されてはいない. それゆえ, 真実に期待 ) 」こ の 点 で キル ケ ゴ ー ル は, 忍 耐 を 神 か ら の 贈 り 物 と して 2 して い る 人は 誰 で も 神 に 関 係 して い る4 .. の受難の行為と考えることに よって, 自由と恩寵 の関係へ進 んでいる. 神は善い, 完全な贈り物 と して,新らしい神関 係を与える だけでなく,この贈り物を受け取る人間の側の条件をも与えるのであ - 10 「.
(12) . 第 24 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 8年9月. る。 この条件とは天へ, 神へ向かう信仰である。 しかし, この信仰を確立 し, 実存の方向づけをす ることは, 人間が自己集中によっ て解決すべき自由の課題である。 信仰が人間の自由意志に関する 事 柄 だ とい う 考 え 方 は, キ ル ケ ゴ ー ル に お い て, 恩 寵 の 問 題 と 密 接 に 関 係 して い る の で あ る 。 「忍. ) 3 耐は受動的であるとともに能動的である4 」 という, 忍耐の弁証法がここに成立する。 いわば, 絶 対的なものを信 じての絶対他力の生活, そこには自力を頼んでおごる気持もなく, ひたすら期待す る生活が続くのみである。 しかし, 絶対的なものを信じて祈る行為はまさ しく自力であり, 他力と 自力の相即は揮然として一体となっ ており, 完全には区別しがたい。 宗教性Aの先駆的形態と して のこの講話には, 人間の内在的立場がより強く前面に出てくるのである。 真実に期待している者は不断にその期待にかかわる。 結果はアソナの期待が成就 したことを示 し て い る。 イ エ ス の 生 誕 が そ れ で あ り, そ の 瞬 間 に 彼 女 は, ツメ オ ン と 同 じく, そ こ か ら 立 ち 去 ろ う. としている。 たとえ成就の瞬間が時間のうちで生じなかっ たとしても, 彼女はその期待によっ て永 遠に参与 し, 期待の成就にめぐりあっ たであろう。 孤独なアソナは84才になる まで人生の苦痛に耐 え, 涙 して 種 を ま い た。 こ の よ うに して 彼 女 は 「期 待 の 証 人」 と して つ ね に 思 い 起 こ さ れ る の で あ. る。 「貧しく孤独であっ た者に祝福あれ。 不妊であっ た者に祝福あれ。 世間を失い, しかも世間に 対する期待という欲望が二度とその心のうちに目覚めなかっ た者に祝福あれ。 その期待が死の門を 通っ て永遠なものにいたり, その期待が確保され, ついには地上的な眼差 しでそれを見ても, 時間 4 ) のうちでは二度と見ようとはしなくなっ た者に祝福あれ4 。」信仰が永遠なものへの期待として, こ の世の試練と緊張のもとに営まれる限り, 人間の自由によっ て人間性の 根源的な同復である新生が 受け取られるのである。 決断の瞬間に, われわれの内部に新生の秘 密が生まれる。 信仰は人間の 無 力のために, 神の栄光を讃える祈りである. それと同時に信仰は自己自身に対する絶望にもとづく 神的な父性愛への卒直な信頼でもある。 両者は密接に関連 しており, 忍耐によって受け取られるの は全能の神の愛である。 キリスト教が逆説であり, 背理によっ てのみとらえられるという後の立 場 も す で に こ こ に あ らわ れ て い る。 キ ル ケ ゴ ー ル は, ま さ に ア ソナ の 心 を と お して, 世 間 と 愛 す る 者. への欲望と期待 から訣別し, 絶対的なものに向かうことに必死の努力を傾けたのである。 最後に, 続いて出された44年6月 8 日 の 『ニ つ の 講 話』 を と り 上 げ て み る と, こ の 講 話 も 先 の 『一 つ の 講 話』 と 同 じく, 現 世 的 な も の へ の 諦 め と い う 線 で 貫 か れ て い る が, キ ル ケ ゴ ー ル と し ギ. ーネとの個人的問題 が次第に薄れている。 この講話は, 同じく6月13日に出版された, 論 理 的 な 『哲学的断片』 と内面的連関があり, それを補完 しようとする意図がこめられている。 『ニ つ の 講 話』 全 体 を と お して 言 わ れ て い る の は, 自 己 自 身 へ の 「気 遣 い」 Bekymr ing と い う. ことである. 世俗的なものの諦めによって失われた時間的なものをふたたび取り戻すことではなく まさ しく自己自身を取り戻 すことが意図されているのである。 それが 後の客観的真理に対する主体 的真理と言われるものであり, 同時にそのことによっ て, 一切を冷ややかな認識問題と して しまう 思弁哲学への批判がこめられている. こうした立場から相対的なものには相対的に, 絶対的なもの には絶対的にかかわる態度が確立するとともに, それに伴う人間の苦悩, 負い目, 悔い改めによる 罪の赦 しな どの問題がおのずと前面に出てくることになる。 ヨ ハ ネ ス o ク リ ス マ ス は 『断 片』 に お い て, 人 間 理 性 に よ っ て は 決 して 近 づ き え な い キリ ス ト教. 信仰の逆説に深く思いをいたしているが, しかし彼はこの問題を純粋に理論家として, 個人的には 局外者の態度で取り扱っ ている。 そのため 『断片』 の神は, いわば冷ややかな論理的な神であるの 5 ) に対 して, この講話の神は, 人間に自己の主体的真理について 「気遣う4 」 ことを教え る 神 で あ る。 この講話は 『断片』 にひそむ誤解をとり除こうと し, 逆説が 同く遠なものの期待」 のなかに安 らっ ていることを示 している。 キリスト教信仰が日常の人間的課題に対 し, とりわけ倫理的‐宗教. 一 11 「.
(13) . VOL 24 No .1. i i f Bducat i do Uni i t l。f H0kka t on IA) on (Sec ver s 1ourna yo. Sept . ,1973. 的 課 題 に 対 し, い つ で も 親 しく 対 応 し て い る こ と が 示 さ れ る の で あ る。. そのため, 『三つの講話』 の最初の講話は 「あなたの若い日にあなたの造り主を覚えよ」 (伝道 の 書12- 1) とい う 卑 近 な テ ー マ で 始 ま っ て い る。 キ ル ケ ゴ ー ル は 無 関 心 の 真 理 と 気 遣 い の 真 理 と. を対比させ, 気遣いの真理の重要さを力を こめて説いている。 自分自身や他人に対 し無関心になる よう自己を律する者が, 真の偉大な人のように 思われるであろうが, 個人の老若, 幸, 不幸につい て無関心でなく, 自己自身について気 遣い続ける者こそ決定的真理にかかわるのである。 厭世的に 「空の空, 一切は空である」 と無関心を説く 「伝道の書」 に対し, 「若い日にあなたの造り 主を覚 えよ」 という言葉こそ, 伝道者の説く意図であっ て, これがまさ しく気遣いの真 理である。 人間は 若い日にこそ最も自然に最もよくその造り 主を覚えるからであり, 全生涯を通 じて若い日の思いを 保持するなら, まさ しく善い業 を遂行 したことになる からである。 肉体的には, 母の胎内にいる九 ヶ月 ほど著 しい生成をすることはない し, 精神的に言え ば, 若い日の秘められた人生におい て, 神 的 に 成 長 す る と き ほ ど著 しく 成 長 す る こ と は な い の で あ る。 こ の よ う に, キ ル ケ ゴ ー ル は 無 関 心 の. 真理と気遣いの真理, 後のいわゆる 「客観的真理」 と 「主体的真理」 とを対比している。 あらゆる 場合に妥当する偉大な立場, 普遍的論理的立場に対して, ただ個々の場合に特別に適合するにすぎ ない が, 一人一人の人にその特殊な事情に則 して限りなく関心をよせる立場, たえず個々の人に, あたかも彼一人にだけかかわっ てい るかのようにかかわり続ける配慮と 「気遣い」 の立場がここに 明 確 に 表 明 さ れ て い る の で あ る。. 『断片』 では, 神の存在証明につい ても, 論証によっ ては神の存在の知られないことを述 べ, こ の問題に否定的態度を とっ ていた。 しかし, この講話では 「一本のわ らからでも神の存在を証明 し よう」 と言っ た, イタリアの自 然哲学者ヴァニニをあげて, 痛烈に調刺 し, やはり神の存在証明に 背を向けている。 ここでは 『断片』 の普遍的o論理的な論述を補 っ て, 素直に造り 主を覚えること 6 ) を強調 しているのである4 。 また 『断片』 では, 永遠の 至福の可能性を肯定する立場と否定する立 場を想定 し, 普遍的に 論議が展開され, クリマクスは 両者を仮説として扱うことによっ て, いずれ の立場にも軍配を上げない でいた。 その論述は普遍妥当的ではある が, 「無関心」 であり, 誤解の おそれさえあっ た。 そこで 『三つの講話』 すべてにわたっ て, 気遣いの重要なことが, 永遠の至福 に対する無限な配慮の必要 性が明らかにされているのである。 この 「永遠の至福の期待」 のために, これをテーマ とした第二講話は使徒パ ウロをとりあげてい る。 パ ウロは世から掛斥され, 遂に苦難のすえ殉致 したが, なお天の至福 が永遠に苦難を償っ てあ まりあることを理解していた。 永遠の至福の期待は, 処世智にたけた世俗的な 「経験」 の理解力を はるかに凌駕するほど, 溢れんばかりに慰めるのである。 ここには永遠の至福こそは万事を決定す る決定的なものであり, 永遠の至福を誠意をこめて期待す べ きであるという見解 が示されている. たとえ どのように期待 したところで, 人間は至福にあずかりえ ないかも しれない が, それでもなお かつ 「つねにそれ自体有効であるもの, 永遠の至福にかかわり, 深く気遣うべきであり, この点に こそ人間の最も高尚で, 最も聖なるもの, そこに還帰することによっ て, 現世的時間的なものを断 7 ) 念 し, 自己自身と和解 し, それによっ て雑多な人世と和解するにいたるものがある4 .」とキルケ ゴ 理解さ あらゆる人に本質的なことを ールは根本的な信念を明らかに している。 永遠の至福の期待は 8 )」 も の で あ る こ と が, い わ ば 相 対 的 な も せ て, 「そ の 隣 人 と, そ の 友 人 と, そ の 敵 と和 解 さ せ る4. のには相対的にかかわるものであること が教えられている。 第三講話, 「あの方は栄え, 私は衰えねばならない」 において範 がとられているのは, 洗礼者ヨ ハ ネ と 彼 の イ エ ス に 対 す る 態 度 で あ る. ヨ ハ ネ か ら キ ル ケ ゴ ー ル は 何 を 学 ぼ う と す る の か。 ヨ ハ ネ. は救世 主ではなく, 自分の後から来られる御方の道を用意 するために, 荒野で叫んでいた。 彼の弟 2 一1.
(14) . 懲 24 巻 第 2 号. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 昭和4 8年9月. 士たちは, ヨハネの証した御方が洗礼を授け, 皆がその方のところへ行くというので落胆したとき ヨ ハ ネ は 答 え て 言 っ た。 「私 の こ の 喜 び は 満 ち 足 り て い る あの方は栄え, 私は衰えねを な ら な ) 9 い4 。」こうした謙虚な自己否定はそれ自体忠実であり続け, その人自身は衰え ても必ずや栄える人 と和解 している。 事実, あの証とともにヨハネの太陽は没 し去っ たが, その瞬間より彼が偉大な時 はなかっ たのである。 したがっ て彼もまた栄えたのであり, 没し去っ た時に最も偉大だっ たのであ る。 ヨハネと同じく, 個々の人もはるかに卑小な連関においてであれ, 似たようなことを同 じよう に遂行すべ きである。 まず, 謙虚に自己自身を否定 すること, 自分の性行を克服することを学んだ ならば, 喜びもまた勝ちどきをあげるだろうからである. 洗 礼 者 ヨ ハ ネ のイ エ ス に 対 す る 態 度 は, 実 は レギ ー ネ の 婚 約 者 ス レ ー ゲル に 対 す る キ ル ケ ゴ ー ル. の態度でもあっ た。 キルケ ゴールは謙虚に自己を否定 しつつ, 花婿ス レーゲルに対して心からの祝 )」 と い 0 意 を表 して い る の で あ る。 か つ て の 恋 人 に 対 す る こ の 世 の 未 練 を 断 ち 切 り, 「新 しい 喜 び5. ういっ そう高い立場に対する志向が見 られるのである。 ここで志向されている新しい立場とは, 若 い日にその造り主に思いをいた し, つねにそれ自体において調和 している永遠なもの, 永遠の至福 1 を た だ一 筋 に 期 待 す べ き で あ る, と い う こ と に ほ か な ら な い。 後 の 『あ と が き』 に お い て, 逆 説 的. キリスト教的な立場, 宗教性Bと区別され, その前提であり, 母胎であるとされた宗教性A, 「み 1 ) 」 ずからの絶対的テロスに対 しては絶対的に, 同時に相対的テロスに対 しては相対的にかかわる5 ゴ する重大な確信として 一般宗教的な立場がここに両講話を通じて見られ, キルヶ ‐ルの今後を決 提 出さ れ て い る の で あ る。 以 上 の よ う に1843年 か ら44年 に か け て の14篇 も の 講 話 は, す べ て キ ル ケ ゴ ー ル 個 人 の 内 面 的 体 験 と か らみ あ っ て 成 立 して い る の が わ か る。 キ ル ケ ゴ ー ル は こ れ を 建 徳 的 な 講 話 に 昇 華 さ せ る こ と に. よっ て本名で発表 し, 聖書中の諸人物に真の期待と忍耐とを学びながら, 自己自身の内面的危機を 乗り越えたのである。 (註) i berg og 日・ 0. 1) s中ren Kierkerkegaard:Samlede vaerker .L . He ,udgivetaf A. B. Drachmann ,} S Bi d 18 S V Lang 集第三版 デンマ と n 8 5 ( 以下 ーク語全 962 略 ) e . . . , 。 , ,1 , i Emanue I Hi en,Bd 亘,S r sch:Ki erkegaard Stud 。56 。 ヒルシュ も18編の初期講話集を宗教的著作と見る ことに傾いている。 2) S. V. Bind 4 ,S ,13 , 桝田啓三郎訳 『キルケ ゴール全集5』 筑摩書房, 213~4ページ。 以下 『二つの講 話』 については, 訳文を 「……である」 調に変えて参照させていただいた。 idり S 3)ib ,21, 桝 田 訳231~2ペ ー ジ。 bid, S 4) i .22 , 桝 田 訳232ペ ージ。 bidり S 5) i ,22. 桝 田訳233ペ ー ジ。 i d 6)ib . ,22. 桝 田 訳234ペ ー ジ。 ,S bid 7) i . ,S 22, 桝 田 訳234ペ ー ジ。 idり S 8)ib .26. 桝 田 訳241ペ ー ジ。. d i b 2 9)i .3 , 桝田訳253ページ。 (傍点筆者。) . ,S. idリ S 10) ib 、33 , 桝 田 訳257ペ ージ。 idり S,38-9, 桝 田 訳269ペ ー ジ。 11) ib ivne af P. A, He i be rg og V 29 2) S≠ren Kierkegaards Papirer 1 r , udg ,Kuh , 『全集5』 ,(以下Pと略)mA2. 1-2ページ (訳註) 参照。 桝田訳 38. 13) S , V,Bind 4 ,S .39~40. 桝 田 訳271ペ ー ジ。 d i 14)ib . ,S,47, 桝 田 訳286ペ ー ジ。 i dり S 15) ib .49. 桝 田 訳290ペ ー ジ。 16) P. N‐ A 9 7 2~3ページ参照。 , ラウリー著 「キルケ ゴール小伝」 大谷長訳, 創女社, 16 17) P 68ペ . W A 166. ホ ー レ ソベ ー ヤ 著 「セ ー レ ンoキエルケ ゴール伝」 大谷長他訳, ミネル ヴァ書房, 1. ージ参照。. 一 13.
(15) . I VO .24 No .l. ion I A) i lof Hokka f Educat ido Uni i ty o journa s ver on (Sect. .. Sept , ,1973. 18) S nd 6 ,S .234 , V, Bi . 19) S ,S .63 . . V. Bind 4 id 20)ib , . ,S.64 id b 21)i . ,S.74 . id 22)ib , ,73 . ,S id 23)ib - . ,S.85 24) ibid . ,S .96 .. d i b ) があるが, ここでは省略した. )i 44 25 06 ,2 , 14 . .1 ,S . この講話のあとに 『一つの未刊の講話』 ( id 26)ib . . ,S .110 i d 27) ib . . ,S.114 id 28) ib , ,S .123 .. l i / 44 r sch:Erbau che Reden 1843 29)ibld, ,S .203 . .128 . E. Hi ,S 30) S ,S .128 . , V. Bind 4 i en ud r 3 sch:St 1)ibid. .61. .151, Hi ,虹 S ,S Bind 4 32) S .151 , V, ,S . id 33)ib , ,S.163 。 d i 34)ib , ,S,163 . id 35) ib . ,S,209 . id 36)ib , 。 ,S.169 id b 37) i . . ,S,170 id h 38) i .175 , . ,S id b 39)i , . ,S.180. i dりS b 2 4 0)i .18 . ルカによる福書第23章第43節. d 6~3 8節参照. i b 93 41)i . .1 。 (傍点筆者) アソナについてはルカによる福音書第11章第3 ,S i d 42)ib . . ,S.198. Hi r sch:Studi en u, S,63 . id 44)ib . . .202~3 ,S id 45)ib . ,S,211. d bi 0 46)i . S. V, Bind 6 ,S . 若山玄芳 「『哲学的断片』と『三つの教化的講話』について」 東京 . ,S.220 .4. )ibid, 43 ,179 。 ,S. 96 7 都立大学人文学報58 ,1 , 47ページ参照.. 47) S , S.239. . V. Bind 4. d b i )i 7 48 .23 . . ,S. 0節. ヨハネによる福音書第3章第3. l i / 44 che Reden 1843 工sch:Brbau id ス レー ゲ ル と の 関 係 に つ い ては Hi 49)ib . ,S ,219 . Cf . , .247 ,S S id 2 5 7 50) ib . . , . nd lo 51) S , S,82 . , V,Bi. なお, 44年の 『二つの講話』 と 『三つの講話』 については 『キルケ ゴール講話・遺稿集第二巻』 若山, 浜田 豊福共訳, 理想社, 昭和48年出版予定参照.. 一 14 「.
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