明使仲猷租闡・無逸克勤帰国以後の日明関係
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(2) 実録』巻九〇) (ハ)洪武八年正月に遣使者、使者共に不明で入貢するが内容は不明。〈『太祖実録呈巻 九六) (二)洪武九年四月甲申朔に日本國王良懐の使者、沙門圭庭用が奉表し、馬・方物を貢す。 (『太祖実録』巻一〇五). (ホ)洪武十二年閏五月焼野に日本國王良懐の使者、劉李下、通褻尤盧・愈豊がk表し、 馬および刀・甲・四重などを貢す。(『太祖実録』巻一二五) (へ)洪武十三年五月に日本國王良懐の使者、僧岡引が来るも無表、馬および鉦童・刀・. 特等を貢するも、不誠を以て書く。(『太祖実録』巻一三一) (ト)洪武十三年九月甲午に征夷将軍源義満の使者僧明悟・法門が来るも無表、丞相宛の 書をもたらす。貢を響く。(『太祖実録』巻一三三) (チ)洪武十四年七月戊戌に日本牛王隅隅の使者、僧如謡が来て、方物・馬十匹を貢する も、その貢を却く。(『太祖実録』巻一三八). (リ)洪武十九年十一月辛酉に日本國王良懐の使者僧宗嗣亮が上表して方物を貢す。これ を却く。(『太組実録』巻一七九). 以上(イ)∼(リ)の中で、「日本國王良馬」の使者は、(二)(ホ)(へ)(チ) (リ)である。. 佐久間重男・栗林宣夫氏は(リ)については、これより三年前の永徳三年・弘和三年 や ぺ (1383)の三月に懐良親王は筑後の矢部で死去しているので、この使者は懐良からのもの. でないとし、他の日本國王良馬の使者も果たして門門の使者であるかどうか疑問であると する論及をなされた(2)。. 石原道博氏、佐久間氏は(イ)・(ホ)の「通事尤慶」に注目され、この人物は同一人 物であり、佐久間氏は(ホ)の洪武十二年の日本國王良懐の使者は島津氏久の使者である とするのが妥当であると論じられている。そして、洪武七・八年(1374・75)の段階で懐 良の征西将軍府は今川了俊によって肥後の山中に逼塞せざるをえない状態で、大陸に派遣 船を出すことが果たして可能であったかどうかはなはだ疑問であり、他の日本國王良懐の 使者というのも南朝以外の九州勢力が派遣したと考えるのが妥当であると論じられた(3)。. また、栗林氏も(二)の懐良の使者は、倭窟の侵入がやまないのに業を煮やした太祖が、 中書省に詰問叱責書を日本に出させた結果(4)、それに対する謝罪の使というのであるが、. 筑後の矢部に引退していた懐良が、謝罪の遣明使を送る必要があったのかと『太祖実録』 の記事を疑っている。また、尤盧に関しては、通事が同一人物であることだけから、島津 の使いと断定するのはためらうが、矢部にこもっている野良が明に使いを送る必要性も可 能性も疑わしいので懐良の使者ではないだろうと論及された(5)。 (註). 一33一.
(3) (1)佐久間重男「明初の日中関係をめぐる二、三の問題一洪武帝の対外政策を中心とし. て一」(r北海道大学人文科学論集』第四号・1966、後r日明関係史の研究』吉川 弘文館・1922に所収、63頁)を参照して作成。 (2)佐久間重男・前掲書、66頁。栗林宣夫「日本国二三懐の遣使について」(『文教大 学教育学部紀要』13・1979)。 (3)石原道博「日明交渉の開始と不立国日本の成立」『茨城大学文理学部紀要(人文科 学)』・1954、佐久間重男・前掲書、67頁。 (4)『太祖実録』巻一〇五、洪武九年四月甲申朔に、(二)の記事に続けて、 先是。倭人屡冠瀕海州縣。上命中書移文。責之。 とある。 (5)栗林宣夫・前掲論文。. (二)「水島の役」後の九州諸豪族の動向 こうらさん. 懐良親王は建徳二年(応安五・1371)八月十二H、大宰府陥落後、高良山に退いた。そ の追い打ちをかけるように、文中二年(応安六・1373)、征西将軍府の中心である菊池武 光が死去した。さらには、翌文中三年に武光を嗣いだ武政も亡くなり、弱冠十二歳の菊池 賀々丸(後の武朝)が後を嗣ぐことになったが、その勢力凋落は覆うべくもなかった。そ こで菊池辛々丸は、高良山を出て懐良親王を奉じて、肥後の菊池の本拠に撤退した。その 後は、今川了俊も菊池氏の本拠が意外に強固であること、阿蘇氏を始めとする肥後諸豪族 の向背が曖昧であるため、勝利を一挙に決することはできなかった。. 応安七年(文中三・1374)七月、今川了俊は軍を肥後水島に進めた。了俊はこの水島で. 一挙に勝利を得ようとし、九州の三大守護勢力である歩箋馨養・焚灘・島津氏久の来 援を乞うた。大友隔世・島津氏久は来陣したが、少弐冬資は、なかなか腰を上げようとは しなかった。しかし、島津氏久の勧誘でようやく来陣した。ところが、ここで今川了俊は 少弐冬資を刺殺してしまったのである。世に云う「水島の役」である。理由は少弐冬資の 「南朝への二心」というほ)。. 大友親世は了俊の慰撫に従ったが、島津氏久は、「九州三人面目を失う」と称して、憤 然として水島を去り、以後、南朝に味方したり、幕府方に帰順したりをくりかえすが、今 川了俊には決して与しなかった。島津氏は貞久の没後、兄の齢麦が薩摩守護(奥州家)を、 弟氏久が大隅守護(総州家)を継ぎ、対立していた。了俊はその対立を利用して、南九州 これひさ 経略を進めようとしたのだが、師久が死去し、跡を継いだ伊久がまもなく了俊に反旗を翻. したことから、了俊の九州経略は最大の苦境に陥ったのである(2)。. 一34一.
(4) 水島の陣で今川了俊が少弐冬資を賭殺したことは、「対外交渉の権限の掌握に、少なか らず有利に作用していることは否めない」「この権限の掌握は、幕府・九州探題の九州経 営上:の必須条件の一つであった」という川添昭二氏の論(3)は重視されねばならない。. 永和二年(天授二・1376)九月十九日付の阿蘇家今川了俊書状窟(『阿蘇家文書』阿蘇 文書爲第七)に、. 京都御含心事ハ、まつ大内入道二、被歯偏て、年内可渡海之由、以爾使仰られて候へ とも、かい・\しく申さす候間、 → ・へ 瀟・ こ ハハ 「1たかひ ほとに む. ねといくさし候物とも、一族家人三百よ人同心候て、豊後二越候て、吉広入道(氏輔 ・一一. ワ)相共二豊前二打越候て、少弼(今川氏兼)か野中郷司(下毛郡)か城二候と、. 一こなり合候て、筑前如に可打出之由、申定て候間、その左右二付て、近B二これも 陳を肥前國符(佐嘉郡)二とりむかへ候へく候、これの一左右付二て、いそきハ\申 へく候、菊池もしこなた二むかひ候ハ∼、そのひまこそのへん二御うち出候て、やき ハらハるへく候、こなたの血腫御心やすく候へく候、 おおうちひろよ とある。「水島の役」後、窮地に立たされた今川了俊を、周防の大内在世は幕府の援軍命. 令を無視し、息子義弘と伸違いしても助けなかったのはなぜなのか。それは、今川了俊の 少弐冬資暗殺が、ひいては了俊の「九州統一」が、彼の「対外交渉権」拡大となることを 甘心が警戒したのではないかと筆者は考える(4}。このことは後年、九州探題として絶大 な力を誇り、対外交渉を独占した今川了俊の追い落としに、今度は息子の大内義弘が一役 買って出たことを見ても充分ありうることである(5}。. 前述の阿蘇家今川了俊書状篇(『阿蘇家文書』阿蘇文書篇第七)には、 松浦事由波多一人心替歯間、煩なく候、一そくとも一同二申子細候間、二三日中 二勢をつかハし候て、可封治候、やかていと・志ま邊(筑前國恰土郡・志摩郡) の事もさたし候へく候、子細候ましく候、 まだらじま とあり、また、次のような今川了俊書状爲(「肥前斑島文書窟」. 〈『南北朝遺文』九州編. ・五三六四〉)もある。. 新春吉事最前申籠候了、. 抑波多三郎(武)事、多分原形之由諸候、宮方(懐良親王)右体出入之画引及候、ま つ舟路事活路口々監事:、急々可有御沙汰候哉、とても又於地下、御一家人々皆以無二. 之御さたともにて候なる間、目出候、然者為公私候上者、御方深重の人々相共二、ま つ波多分所に被馳寄候て、此方の勢到来を御待候へく候、近日大将を可差遣候、郡内 躰、連々一家御方々可有注進候哉、相共に承溢者庫入候、恐々謹言、 (永和三年〉正月十六日 了俊(花押影). 一35一.
(5) 有浦(祝)殿 これによれば、水島の陣を契機に、肥前松浦党の暴雨銭が、従来の論う簿親との所領問題 から懐良親王方に寝返ったのである。この波多武・有浦祝の争いは、応永二年(1395)ま で続く。. 筆者はこの「水島の役」後の今川了俊の「九州統一」「対外交渉権掌握1問題をみるに あたって、次の史料に注目したい。『高麗史ゑ巻一三三・列伝巻四六、辛隅四年(永和四 ・天授四・1378)六月に、. 日本九州節度使源了俊。使僧信弘。率其軍六十九人來。捕倭賊。 とあり、同年十一一・月には、. 血忌壷倭心。寒寒蔚州。靴’舌 ”地 ・’・生 轟 ’給日。高麗月並汝。使翁 島蹄。(中略)信弘與倭賊。戦子圃城郡赤田浦。不克。遂還其國。(『高麗史』巻一 三三・列伝巻四六). とある。永和三年(天授三・辛再三・1377)九月に、高麗より鄭夢周が倭冠禁圧要求の為 に派遣されて来た後(6}、今川了俊は、積極的に倭冠禁圧策をとっている。しかし、蔚州 で信弘が、博多の「倭使」に自分の姿が見られることを警戒しているのは何故だろうか。 この使者は、派遣者の名前も記されず、「倭使」とだけ呼ばれていることから、恐らく正 式な使者ではなく、「王冠」にもなりうる人物の使いであろうと推測する。恐らく信弘は、 自分が感孚禁圧をおこなっている姿を彼等に見られ、それを帰国後、報告されることを恐 れたのであろう。また、信弘は「赤田浦」で倭冠と戦って勝てなかったから日本に帰国し たというが、本当にそうであろうか。この理由は、懐良親王に代わって、九州の水軍(倭 冠の母体)を支配下に容れていた今川了俊が、信弘を派遣して、自ら倭憲を禁圧している 姿を知られるのは、非常に都合が悪かったからではないか。「対外交渉権掌握」の為に、 「水島の役」で少弐冬資を暗殺し、また憂顔周には倭寵禁圧を約束したものの、頼みの大 内弘世は帰国したまま動かず、島津氏久を敵にし、肥前松浦党の波多武の離反にあった了 俊にとって、これ以上の水軍の離反は、最も避けたかったことに違いないと筆者は考える。 以上のことから、大宰府陥落後。懐良親王が大陸に派遣船を出すことは不可能ではない かと論じられた栗林氏や佐久問氏の説は誤りで、寝返った波多武等を利用して、少なくと. も(二)の洪武九年(1376)の「B本國王良懐」の使節は、懐良自身が派遣したものであ ると筆者は考える。. また、栗林氏は「筑後の矢部に引退していた懐良が、謝罪の遣明使を送る必要があった. 一36一.
(6) よしなり. のか」と疑問を呈しているが、懐良は征西将軍位を良成親王に譲った後も、一品親王とし て天授三年(永和三・1377)まで補任状・安堵状・感状を出しており(7》、その政治的活 動はまだ続いていたのであり、栗林氏の疑問は当を得ていない。 (註). (1)川添昭;氏は『今川了俊』(吉川弘文館・1964)で「史料上明証のあるところでは、 少弐冬資の所領拡大の動きを今川了俊が九州探題として抑iししている事実が見出さ れ、了俊の存在は冬資にとって所領拡大の前途に立ちふさがる一大脅威であった。. そして、少弐冬野が了俊から豊前・肥前の領地を削られ、そのため宮方に属して鎖 地の回復をはかろうとしたから謙されたのであるという在来の説明も、さほど当を 失したものとは思えない。少弐学資が時として南朝に通ぜざるを得なかったという のは、探題の存在そのものに、先ずその理由があったといえよう」と論じられてい. る(120∼123頁)c (2)藤田明氏は『征野将軍宮』(東京呪文館・1915)で「然れども、この挙たる、果断 たるを失わずと雛も、了俊未だ鎮西の形勢に迂なるものあり、その時期なほ早きに 失し、諸族の意向を探るの余裕を置かざりしは、蓋し大失敗なりき、されど宜五匹 と は ’一一の1疋 Aとかりこ 」と論じられた(416頁)。 (3)川添昭二・前掲書、162頁参照。 (4)『太平記』巻三十九には、. 数万貫ノ銭貨、新渡ノ唐物等、美ヲ尽シテ奉行・頭人・評定衆・傾城・田楽・ 猿楽・遁世者マデ是ヲ引与ヘケル間、此人二君ル御用人アルマジ、. とある。貞治三年に菊池町に大敗して上洛した大内阿世は、敗戦のことをおくびに も出さず、都で、上は将軍義詮から、下は傾城・田楽・猿楽・遁世者まで、大陸の 文物を惜しげもなくふんだんにまき散らした。このような舶来品を大内地子が入手 できたのは、貿易商人一倭冠からの献上品等であったと思われる。 その大内呼野は、再来臼し山口に舞い込んできた、特旨・克勤の前使である趙秩 ・朱門を利用して、独自の対聯交渉を持とうとしていたと考えられる(村井章介 『アジアの中の中世日本』校倉書房・1988、268頁参照)。. 趙秩・朱本の再来日に関しては、拙稿「洪武甲期・日中関係研究の動向と課題」 (『東洋県警』第2号・兵庫教:育大学東洋史研究会・1996)参照。. (5)大内弘世は先年、大宰府の征西将軍府が陥落し、懐良親王が高良山に退き、後一歩 というところで陣を引き払っている。毛利元春軍忠状案(「長門毛利家文書」 〈『南北朝遺文』中國四國編・四〇六五〉)には、. 一37一.
(7) 一 百八. ,一 z. ノ\ ’ 噛△. z. 諺. 日、城山御陣事、. 令申沙汰、自八月至慮安六年二月中、承一方、日夜致警固、随分抽忠節畢、 とある。村井章介氏は「今川了俊と一ヒ松浦一一揆」(『日本歴史』338・1976)で、. 「大内弘南は、安芸の毛利氏の…族の内紛に乗じて今川了俊と九州転戦中の毛利元 春の所領をその父親衡の要請で押領した。その大内弘世に対して元春は・『九州宮方 こうとう. 不断令内通、御敵ニテー期暮之条、無直隠』と非難しているが、厚東氏との争いの 過程で北朝側に寝返った大内弘法であるから当然自分の利益を優先させて時と場合 によっては再び南朝(懐良親王)と手を結ぶ用意があったのかも知れない」と論じ られている。 (6)『高麗史』一三三・i列伝巻第四六に、 (辛乖禺三・九月)遣前大司成鄭夢周。報聰干日本。且請禁賊。書日。宿念本國。. 北連大元。西接大明。常錬軍官。以充守禦。廼於海冠。只令沿海州郡。把戴防 禦。賊徒偵候。乗詰入山。焼殿民盧。奪掠人1二」。及観官軍。随即騎舩逃匿。為. 害不小。両三大将軍言及諄諄。又於弘長老。備諸厚意。其感温之。. とある。 かばやま (7)天授三年(永和三・1377)六月二十九日付征西将軍宮令旨(「日向樺山文書」. 〈『南北朝遺文』九州編・五四〇四〉)に、 抽軍忠之由被聞食了、尤神妙者、一ロ 王令巳 、悉之、回状、. とあり、これは琴知矯雛の日向侵入に際して活躍した、島津(樺山)美濃守音久の 戦功を賞した前壷親王の令旨である。. (三)「遣明使」派遣者の考察 佐久間氏が(イ)・(ホ)の「通事尤慶」に注目され、この人物は同・一一.・人物であり、. (ホ)の洪武十二年の「日本國法話懐」の使者は島津氏久の使者であるとするのが妥当で あると論じられたことについては、筆者は佐久間氏の論に立った上で、もう一つ(ホ)・ (へ)にある朝貢品の「硫黄」に注目したい。硫黄は鎌倉時代初期より大陸へ輸出され、. 日明貿易においては、刀剣・品等と共に最も重要な輸出物になった。その海外輸出の硫黄 を供給したのは豊後と薩摩であった。豊後は大友氏の領域であったが、九重山硫黄山がそ の名高い産地であった。大友親世は「水島の役」に対する不満は持っていたが、島津・大 友の連携を恐れる今川了俊が、親世に豊後国内の多くの地頭職を与えることで、一応その. 一38一.
(8) 慰撫には成功した。従って、大友親世が「日本國王良懐」の名をかたって大陸に使者を派 遣する可能性はないと考えられる。 一方、薩摩の島津はどうか。薩摩の硫黄の産地はもちろん硫黄島であ』る。日明貿易の時. 代には、硫黄の調達はほとんど薩摩の島津氏に依存していた(1}。このことから、筆者は (ホ)・(へ)の「日本自噴良懐」の使者は、島津氏久自身が派遣したものか、もしくは 「水島の役」を契機に南朝に味方した島津氏久が硫黄を征西将軍府の為に調達し、征西将 軍府が使者を派遣したと考える。. また筆者は、懐良親王自ら「日本霊感良心」として使者を派遣したのは(二)までであ ると考える。その根拠は、懐良の令旨が天授三年段階でぶつりと途絶えるからである。こ のことは、懐良親王が完全に征西将軍府の政務から引退したことを意味するものであろう。 筆者は、この天授三年以降の「日本國王良懐」に関係したのは、懐良を嗣いだ良成親王を 奉ずる征西将軍府であると考える。 こうりゃく. 次に(ト)の足利義満の使者派遣について考えてみる。この年の前年「康暦の政変」 しゅんおくみょうは. (2}によって、細川頼之は管領の座を追われ四困にド亡した。その翌日、春屋妙曲に帰. 京命令が出され、春屋は、頼之に懇願されても拒否していた南禅寺住持の職に就いた(3)。. 春屋妙萌は、臨済宗夢窓派の総帥で、室町幕府の外交問題にも深くかかわり合ってきた 人物である。即ち、貞治六年(正平二十二・1367>倭冠取り締まりを要望してきた高麗使 節に対して朝廷は禁圧不可能として返牒を送らず幕府に一任した。幕府はその返牒を天龍 寺庄毎春屋妙曲の書状という形式をとった。室町幕府としての最初の外交問題を処理し、 五山僧の最初の外交官として任務を果たしたのである(4)。. この並屋妙曲と細川頼之は、応安二年(!369>の「南禅寺楼門撤去問題」以来厳しい対 うんもんじ 立関係にあり、嘘寝四年(建徳二・1371)から藍屋妙繭は丹後の雲門寺に退隠していた。. 「康暦の政変」後、細川頼之のかわりに管領の座に就いたのは反細川頼富嶽の総帥である 斯波義将である。そして、春屋妙葡と斯波義将は非常に親しい関係にあった。この政変直 後に遣明使が派遣されているという事は、斯波義将・春屋妙麓が、明との国交をいかに重 要視していたかが推測される(5)。. (チ)については、この年、邸ち弘和元年(永徳元・1381)の六月に、今川了俊・仲秋 わいふ そめつち. によって菊池氏の本拠肥後隈部城、良成親王の居城染土城が陥落する。そして、使者如謡. は七月に明に到着している。この使者は従来、「胡惟庸の乱」との関係を問題にされてい るので、後述する(四〉胡直射・林賢事件の項で詳述したい。 (リ)については、前述した如く、佐久間・栗林氏が、この洪武・奪’九年(1386)の三年. 前の永徳三年・弘和三年(1383)の三月に懐良は筑後の矢部で死去しているのでこの使者 は懐良ではないとされているのは尤もなことである。ただ、弘和三年(永徳三・1383)四 月十四日付の征西将軍宮令旨(「肥後相良文書」〈r南北朝遺文』九州編・五七六四〉). 一39一.
(9) に、. 可馳参之由被三食了、尤以神妙、{乃玖摩郡内秤葦北庄之事、領掌不可有相違者、依征 西将軍二二執達二二。. とあり、また、元中二年(至徳二・1385)二月十七日付の征西将軍宮令旨(「肥後相良文 書」〈『南北朝遺文』九州編・五八九三〉)に、. 相良近江守前払参御方、依致忠節、被達御本二言條、御感不払、忌中終出痔、併被愚 二食二二、殊働神速計策、可絶勇力、高詠賞者、可有志沙汰者也。. とあり、隈部城・染土城陥落後、今川了俊の有力な味方であった肥後の絹食篇籟が寝返っ たのである。また、元中二年(至徳二・1385)二月十日付の征西将軍宮令旨(「大隅禰寝 文書」〈『南北朝遺文』九州編・五八八五〉)に、. 馳参之由被試食了、尤神妙、殊可抽忠節、尤宜被褒賞之由依征西将軍宮詣、執達山面、 同文書(『南北朝遺文』九州編・五八八六)に、同年二月十一日付で、. 御参御方之條目出品、傍令旨晶晶候、同道早々御参陣、就公私可為本三態、影向後者 無等閑可申承候者、尤悦入候、恐々謹言。. とあり、大隅の雛贈も醐に味方し、そオ、に対して菊池翻が感謝状を出して1、るの わしげふゆ な である(6)。この禰寝久清は、永徳元年(弘和元・1381)六月二十九日付の名和慈冬書状. (「大隅禰寝文書」〈『南北朝遺文』九州編・五六六三〉)に、. 尚々面々御一揆の御中ゑも、別二三度候へ、同御事候問、具申候、此御使を可富山候、. 気温壷少々拝領候者可然候、 とあり、名和慈冬に「唐糟小壷」を贈答品として送っている。名和慈冬は一貫して了俊の 南九州経略を助けた人物であるが、禰寝氏は、贈答品として大陸の「唐絶小鼠」を贈るほ どの水軍力を持った豪族であった(7)。. こうして一時的ではあるが、肥後の相良氏、大隅の禰寝氏の寝返りによって、征西将軍 府が了俊に反撃する体制が出来上がっていたのである。かかる情勢から筆者は、征西将軍 府としては明に使者を派遣できる能力は充分あり、この使者は征西将軍府(良成親王)が 出したものではないかと考える。. 一40一.
(10) (註). (1)この期の硫黄の外国貿易に関しては、小葉田淳「中世に於ける硫黄の外国貿易と 其産出」(『経済史研究』43・1933)に詳しい。 (2)この政変は、足利義満が斯波派の運動を利用して、細川頼之の後見を完全に脱却し、. 幕政の主導権を握ると共に、政局の安定を計ったという側面が看取される。したが って、この政変を機として将軍義満の権力と権威が急速に増大すると共に、政所の 機能充実、幕府の洛中支配強化など、室町幕府の政治体制が一層整備されることに なった(r國事大事典』第五巻・吉川弘文館・1985、「康暦の政変」の項参照)。 (3)小川信氏は『細川頼之』(吉川弘文館・1972)で、 「細川頼之が出京したのが、康 暦元年の閏四月十四日、春寒妙龍が丹後から入京したのが翌日の閏四月十五日置も ちろん春屋が丹後を発ったのは少なくとも政変の数日前の筈であり、この事から考 えてもこの政変に春立がいかに深く関わっていたかが察知される」と論じられてい る(195頁)。 (4)貞治六年(1367)六月七日御職乳量能充義詮書状(『鹿王院文書』所収)に、 先日、高麗消息上値、為外國披見、不足畳候、僧禄二字、可添給候也、恐々敬 白、. とある。. (5)春屋妙萌は、再来日した趙秩・朱本と連絡をとっていたことは『曇轡腔苗』に詳し い。また、祖聞・克勤との通訳の馨麗盤寿を通して接触しようとしていた。村井氏 も『アジアのなかの中世日本』(校倉書房・1988)で、「明使(祖聞・克勤)のあ つかいをめぐって、幕府部内には、頼之・今川了俊らの消極派と、義将・主衰績康 らくそして、表面には出ないが、陣屋一派)の積極派との対立が認められよう。頼 之を失脚させて義将が執事に任じ、春屋が南禅寺住持に返り咲いた康暦の政変後ま もなく、幕府からの二度目の使者が明に送られていることはこれをうらづける」と 論じられている(250頁)。 (6)今川了俊は、南九州平定のために、今川満範を派遣していたが、肥後の相良氏、大 隅の禰寝氏は共に守護の分国化に対する反発、自分たち土豪の領主権保持のために、 幕府側についたり、征西将軍府側についたりした。 (7)川添昭二氏は「今川了俊の対外交渉」(『九州史学』75・1982>において、「名和. 慈冬は今川了俊の代官として南九州経営に当たっていた人物である。禰寝氏は水軍 を有し王冠行為をなしうる(なしていた).大隅の雄臣である。唐絵小壷が明のもの. か高麗のものか分からないが、明のものである可能性は強いから、今川了俊が町明 交渉を行っていたという推測は立てうる」と論じられた。. 一41一.
(11) (四)胡惟庸・林賢事件. 洪武十九年(1386)、先の洪武十三年目胡惟庸謀反(1)の片棒を寧波衛指揮林賢がかつ ぎ、倭兵を招来しようとした事件が発覚したので、洪武帝は日本との通交を禁止した。 『明実録』には林賢事件そのものの記録はなく、『太祖実録蕊巻一二九に、 出使指揮林賢。由宇招倭軍。画期来会。. とのみ記されている。しかし、r明史藁』列伝第一九六・外面三には、 先高胡惟庸謀逆。心血日本為助。乃厚結晶衛指揮林賢。洋奏賢罪諦居日本。令交通其 君臣。尋奏復賢職。遣使召之。密訴書其払出兵助。詰論還。其晶晶僧如瑠率兵卒四百. 鯨人。詐稻入貢。且献巨燭。蛍火藥刀劔其中Q既至而長生巳敗計不行。隔心未知其歯 応也。越年年礼事始露。士族賢而悪日本特恩。決意絶代。虚血二品官務。 とある。即ち、虚血庸が林賢に日本との連絡を取らせ、洪益十四年の使者如謡等に従って、. 倭兵四百余恵が入貢し、如謡等は詐りて出血を献じて、火薬・刀剣をその中に隠した。し かし、胡惟庸の謀反は既に発覚した後だったので、計画は実行されず、洪消壷もその計画 は知らなかった。しかし、血忌十九年に林賢の加担が発覚し嘉言一族は諜せられ、日本と の国交が禁止された。その他、『御製大玉』第九条「指揮法論胡党」、嘉靖『寧波府志』 巻二十二・海防の条、『日本一鑑』窮密話血忌七・奉貢の条、『図書編』巻五十・日本国 の条、『皇明世法面3巻七十五・海防、本朝面訴・通貢案の条等にも同様の記事:があり、. 『明史藁』にはない記事として、「洪武帝は如謡等に従って入明した夷兵を、雲南に発し て防御させた」という(2)。そして、この史料から、画面が胡惟庸・林賢事件に関わった とする論もなされたが(3)、佐久間氏は、この『明史藁』以下の記述はこの事件に尾ひれ. を付けた後世の付会であろうが、しかし、この事件自体の持つ意味は大きく、中国沿海民 と三冠との結びつきに神経質であった洪塩冶にとっては、許しがたい事件であったと述べ られた(4)。. 前述通り、この「胡惟庸の乱」に関係したとされる使者如謡は、洪武十四年(弘和元・. 永徳元・1381)七月甲申(こ二十二二日)朔に明に到着したことが記されている。巡 一 量の↓ 一一ゴ に Al一 ・ ’によっ 桝 ・の一’ ノ 訟王 の ’』一・ 書 ゴ た この時間的関係から筆者は、隈部城・染土城の残党が明に渡っ. ていったのではないかと推測する。そうすると、「詐りて巨燭を献じて、火薬・刀剣をそ の中に隠した」というのは別にして、倭織四百余名という数字や、武器を携行していたこ とに対する説明がつくのではないだろうか。この如謡等については、『太祖実録』巻…三 八に、. ∼42一.
(12) 如謡之來。果食利者欺。 、、 ’モた. とある。この箇所は征夷将軍を諭する条で、「日本國王旧懐」の使者たる如瑠を引き合い に出すのは的がはずれているのだが、洪三二は彼等が本当の「日本三王旧懐」の使者かど うか疑っている。筆者は、そう思わせるものがこの使者にはあり、その理由が一1二序した、. 倭兵四百余名という数字や、武器の携行ではなかったかと考える。その際林山の手引きで、 如瑞江が胡二二の乱に加担しようとしたかどうかは不明である。しかし、武器を携行した 倭兵四百余習は洪武門を警戒させたことは間違いなく、洪武十九年(1386)の国交禁絶の 材料になったと考えられる。. また「洪武帝は門守等に従って入明した三兵を、雲南に発して防御させた」という記事 についてであるが、『太祖実録』巻一三九、洪武十四年・九月壬午朔に、. 上御子天門。命頴川侯傳友徳為征南将軍。永昌侯藍玉為左副将軍。西平侯沐英為右副 将軍。統率将士往征雲南Q友徳等既受命。. とあり、[{.譜てこ一 弦に .’徳・藍玉・’曹董源’て壷征素母 幽」この雲南征討によって、元朝の王族である二王・三二刺瓦爾密が派遣した司 徒平章達里麻を白石江で破り、梁王・把匝二階爾密は、洪武十四年十二月に自殺した。そ して、『太祖実録』巻一四〇、洪武十四年・十二月三酉に、. 征南将軍頴川六情三徳・左副将軍永昌侯藍玉・右副将軍西平侯沐二二至雲南之板橋。 元右丞観音二等出降。 『太祖実録』巻一四二、洪武十五年二月甲寅に、 以雲南平平天下。. とあり、雲南は洪武十五年二月に一応平定された。. しかしこの雲南平定は、冒太祖実録1巻一四一、洪武十五年・春正月甲午に、 丁丁諭征南将軍頴川侯傳友徳・左副将軍永昌侯藍玉・右副将軍西二二沐二日(中略) 下之買置雲南亦難守也。其従征軍士有疾病。疲弱者毎二二十人。百人可先遣還。 とあり、相当の兵力を犠牲にして行われた。また、『明史』巻一二六、列傳十四・四三に、 (洪武十五年)土酋楊宜等門下下冷二十鯨萬團雲南城。(沐)英馳救。蜜潰洲山谷中。. 一43一.
(13) 分兵捕滅之。斬級六萬。(中略)十七年。曲靖亦佐酋作説。討降之。因定普定。廣南 諸蟄。通田州糧道。二十年平浪窓蟹。奉詔自永寧至大理。六十里設一量。留軍屯田。 明年。百夷思倫獲叛。誘華蟹入冠摩沙勒暴。遣:都督矯正撃破之。二十土年。思倫襲復 論定邊。内幸三十萬。. とあり、平定後も雲南土着民の反乱が立て続けに起こり、鎮圧には相当の兵力が必要であ った。そこで筆者は、洪武帝が如露と明に渡ってきた壮重四百余名(隈部城・染土城の残 党)の処遇に困り、雲南征討の兵として派遣したのではないかと考える。. r明史藁』列伝第一九六・外予約には、如謡に従って倭兵四百余名が入貢したという記 事に続いて、. 然其時王コ 題者。収入國學。帝猶善待之。二十四年五月。特授観察使。留之京師。 とある。この「王子勝祐壽」とは一体何者だろうか。『太祖実録』にも、巻一九七、洪武 二十二年・冬十月丁酉の条に、. 賜國子監雲南生ヂ棟・日本生勝祐壽等。衣紗靴機。 とあり、雲南生まれのう}藻と、日本生まれの勝祐壽が、「衣紗靴機(日常用品)」を賜っ たという。 『太祖実録』巻二〇四、建武二十三年・秋九月戊午の条には、. 賜國子監讃日本王子勝祐壽。秤雲南土官子弟以作等。凡六十九人。挾衣絋被。 また、 『太祖実録』巻二〇八、洪武二十四年・夏五月乙巳の条には、. 以國子監勝祐壽。為観察使。祐壽口本國人。. とある。筆者はこの王子勝祐壽は、「日本國心良懐」の使者である如謡と幽幽四百余名 (即ち、隈部城・染七城の残党)と一緒に渡ってきたことから、南朝の血統をひく皇族で はないかと考える。いくら明で必死に学問したとはいえ、かなりの基礎が出来ていなけれ ば、「國子監生」や「観察使」にはなれるはずもなく、南朝の皇族ならばその可能性があ るのではないか。そして洪武帝は、隈部城・染土城の残党を雲南鎮圧・守旧に利用するた めに、彼等の旗印である「王子勝祐壽」を厚遇したのではないか。また、ここにも「國子 監雲南生山藻」「肝雲南土官子弟心柄等。凡六十九人。挾衣絋被」とあり、『明史藁』等 にある「夷兵は雲南に発して防御させた」という記:事が、佐久間氏の言う後世の付会説と は筆者には思えない。. 一44一.
(14) (註). (1)子分庸は定遠(安徽)の人で、至正十五年(1355)朱元璋の配下に加わり、明の建. 国後左丞相にまでのぼった。右丞相江広洋が左遷された後、一切の政務はことごと く彼の独断によって行われた。太祖の信頼も厚く、しだいに勢力を増大するとみず から異謀を抱き、倭と通じ元の遺族ともよしみを通ぜんとしたが、たまたまその子 の墜死事:件に車を引いた者を殺害したことから太祖の怒りに触れ、兵を挙げんとし たが、洪武十三年(1380)に事件が露顕して諌された。その反乱の状況は死後ぞく. ぞく明るみに出て、連座する者三万人におよんだといわれる。太祖は胡響町の専横 に懲り、以後丞相を廃し天子の独裁権を益々増大した(r新編東洋史辞典』京大東 洋史辞典編纂平編・東京創元社・1980>。 (2)r日本一鑑』窮河話海巻七奉貢の条には、 倭兵は陵西・四川等の処に発して守禦せしむ。 とある。『太祖実録』巻一五一、洪武十六年・春正月辛未に、. 先是烏黒等部諸蟹復叛。甲南将軍学友徳等率兵討之大敗三門。進軍捜捕鯨窯。 有潜匿者皆捕而殺之。諸学恨野相率來降。至是悉平。野選地近四川。故割隷下。. とあり、陳西については解らないが、もともと雲南の烏撒に送られた隈部城・置土 城の残党四百余響が、烏鳩が四川に属することになったので、このような記事にな つたのではないかと筆者は推測する。 (3)木宮泰彦『日華文化交流史』(富山房・1955)、528頁参照。 (4)佐久間重:男『日明関係史の研究』(吉川弘文館・1922)、81頁。. (五)「明史』洪武十四年の良懐の上書. 前述したように、洪武十四年十干良の使者、僧町彫が派遣されてくる。その朝貢は却け られ、忙裡は礼部尚書に「日本国王」と「征野将軍」宛の威嚇書状を出させた。・それに対 する懐良の返書は『明史』巻町二二に、 十四年.。復来貢。帝再却之。町回官。移書責其王。井責其征夷将軍。示以欲征之意。. 旧懐上言。臣聞。三皇立極。五帝警世。惟中華之有主。豊夷弓而無君。乾坤浩蕩。非 一帯時季灌。宇宙寛洪。作諸邦弓勢守。 ’一 ’ }… 一 一一 一 一 b 臣. 一45一.
(15) 居遠弱之倭。編小之國。城池不漏六十。封彊不足三チ。尚存知足之心。陛下作中華之 主。為萬乗之君。城池敷千鯨。封彊百萬里。猶有不足之心。常起滅絶之意。夫天獲殺 機。移星換宿。上襲殺鼠。二二二二。人二二機。天地反覆。昔発舜有徳。四海來賓。. 湯武施仁。八方奉貢。臣聞。 4 4.贈」^’ハ 爪一御 4回 論文有孔孟道徳之 文章。論武有孫呉輻略之兵法。又聞。 一’几己累 コ ’エ ヨ 」 」 ⊥こ一−. 出」は二」 、 「一⊥ τ. 」 =」、、 差二 ’ 一 一,、、. 回1諭 ’ μ‘。’ 君勝臣負。且漏上國之意。設臣勝君負。反作小邦 屠竜。口論講和為上。罷職為強。免雨霰之塗炭。拠黎庶之銀辛。特遣使臣g敬叩丹陛。 惟上國上之。. とある。「蓋し天下は乃ち天下の天下なり。一人の天下に非ざるなり」「天朝に興戦の策 あらば、小邦にもまた禦敵の圖あり」「これに順うも未だ必ずしも其れ生きられず、これ に逆らうも未だ必ずしも其れ死せざらん。賀蘭山前に相逢し、柳か以て博戯せん。臣、何 をか隔れんや」というような懐良親王の大国を恐れぬ態度は、戦前から顧威発揚の典型的 な例として賞賛されてきた。. この前年の洪武十三年十二月にも、洪武帝は日本の不誠意と君臣の非道をののしり、そ の隣邦を侵冠し、傲慢不恭の態度を非難する使者を日本国王に出したq)。この件につき、 栗林氏は太祖が日本国王と認めている恵良は矢部に隠居しており、今川了俊も全力で菊池 攻めをしている中、この使者がどこに到着したのであろうかと疑問を呈している(2)。. この『明史』巨鳥十四年の良懐の上書について藤田氏は、懐乱は当時矢部に籠居してい たにも拘わらず、意気の熾んなること天を衝くの慨があると述べられた(3)。辻善之助氏 ・秋山謙蔵氏も同様の見解を述べておられる(4)。戦後になっても石原氏は「太祖の瓦書. は両方とも懐良親王の許にもたらされて、返書は親王が送られたものである。当時南風競 わず、北九州さえ支配できなかったにも拘わらず、親王の堂々たるこの返書は太祖を圧し て征戦の意を断念せしめたという成功をおさめた。この特筆すべき自主外交の勝利は、当 時の日本人は誇りとした」と述べられた(5}。. r高麗史』巻六四・恭譲王三年(洪武二十四年・1391)十月甲乙条には、 道本謡言。中國嘗責B本。以不禰臣之故。我國i封1ヨ。工. 出__・. 工広口不禰臣。今乃稻臣於大國。乃慕義也。. とあり、日本の僧侶玄教が道本等四十余人を遣わして恭譲王に土物を献じた時、「天下者 天下之天下。豊…人之天下」という懐良の上表文を引用しており、かなり広く知れ渡って いたことは確かである。しかし、宮田俊彦氏は『明史』のもとになった史料である『躬勝 野文』の著者徐禎卿の錯誤であると論じられた(6}。. 一46一.
(16) この懐良の返書は、実は足利義満によって書かれたのではないかと論じられたのが佐久 間氏である。すなわち、洪武帝の移書は同時に将軍義満にも送られたと『太祖実録』には 記している。そして、当時の政治情勢や表文の内容から検討すると、義満の書と見る方が 自然ではないかと論及された(7)。これに対して、栗林氏は他の懐良の使節には疑いを挟. みながら、この移書は、自分の母の供養で一時八代に滞在中の比良の目にふれ、そこで返 書が作られたのではないかと論じられた(8}。. 筆者は、栗林氏の論に立って、この「日本國王」宛の洪武帝の移書を持ち帰ったのは如 揺であり、前述した如く「水島の役」を契機に、松浦党の波多武、島津氏久等が南朝につ いたことで、一時的ではあるが、征西将軍府が反撃する体制が出来上がっていたこと、そ れに『高麗史』の僧侶玄教の言を鑑み燕ば。懐良の手による返書であると考える。 (註). (1)1『、太祖実録』巻一三四、洪武七癖年・十二月丁巳朔、宝引の條。. (2う栗林宣夫ll日本国王良懐の遣使について」(『文教大学教育学部紀要』13・1979)。 ’(3)嘉事明r征西将軍宮』(東京宝文館・1915)、446頁参照。. (4)辻善之助『(増訂)海外交通史話』(内外書籍・士930)302頁参照。秋山謙蔵r日支 交渉史研究』(岩波書店・1939)453頁参照。. (5)石原道博「日明交渉の開始と不露国H本の成立」『茨城大学文理学部紀要(人文科 学〉』・1954。 (6)宮田俊彦「日明、琉明国交の開始(上)」(『日本歴史』201・1965)。 (7)佐久間重男『日明関係史の研究盈(吉川弘文館・1922)、75頁。 (8)栗林宣夫・前掲論文。栗林氏は、大正五年に熊本県八代の中宮社の地下から発掘さ れた宝儘印面の台石の銘文の西面に「天授第七辛酉の歳(永徳元年・1381)餓照院 禅定尼のために、生死を出離し仏果円満なり(後略)」、東面に「願主天心嬰、彫 秀比丘」と刻まれていることに注目して『菊池氏三代』(吉川弘文館・1966)を書 かれた杉本尚雄氏の論を引いて、天授七年は、懐良親王の母の三十回忌で、親王は 八代の中宮山護禅寺に参籠してこの塔をつくった。すなわち、筑後の矢部では太祖 の移書を見ることもできないが、八代なら可能ではないかと論じられた。. (六)国交禁止後の室町幕府の外交姿勢. 洪武十九年(1386・元中三・至徳三)、林賢事件をきっかけに、演武帝が国交の禁止を 行って以後、史料上でも『太祖実録』洪益十九年(1386)十・一一’月面酉に「日本國王良懐」 そ あ こいつみ の使者、僧宗嗣亮が明に虫けられて以来、足利義満が応永八年(1401)に、祖阿・肥富を. 一47一.
(17) 派遣するまで日本からの使者は見うけられない。この間に、 <1>1392年に南北朝の統一。 〈2>応永二年(1395)に今川了俊の九州探題罷免。 <3>応永六年(1399)には、「応永の乱」で大内義弘の敗死。. という国内事件があった。筆者はこの三つの事項が足利義満の外交権確立への三段階であ ったと考えている。即ち第一段階で、南北朝の統一によって「日本國王良懐」を消し去り、. 第二段階で、征西将軍府に替わって、対外交渉権を手にした今川了俊を追放し、そして第 三段階で、その今川了俊にとって替わろうとした大内義弘を葬り去り、最終的に義満が対 外交渉権を掌中に収めたのである。. この応永八年に何故、足利義満が使者を派遣し、明の珊封体制下に入ったのかという事 に関してはここではとりあげないが、さまざまな論考がなされている。ここでは、足利義 満が洪武十三年(1380)に、僧明悟・法助を派遣したが、洪武帝にそれを退けられて以来、 丸明外交をどの様に考えていたかを見てみたい。 『柳原家記録』十七・成恩寺關白記に、. 彼勘草今朝先内々. ’ =二 徳 冠百. 出 此字有大切子細、. 洪徳引文、早可撰獄云々、冊即退出宿所、引勘之虜、文選中爾所有相慮文、注四重持 参之間、早速神妙之由、被信仰者、此爾文中文選第一巻、皇恩洪徳施猶可然欺之間、 高文計可載勘文之温存之云々、抑洪字被執仰心々、定有議歎、所温温、出時異朝年忌 洪武也、為學彼風化、若自点点申出事由、. とある。この史料は「明徳年号」からの改元の際に、改元勘者の一人の蟹讐蟻饗簑に、 義満が元号案の一つ「興徳」の「興」の字を、明の「洪武」にちなんで「洪徳」と改めた いが、漢字の引証があるかどうか調べるように指示したというものである(1)。即ち、こ の「明徳年号」からの改元に「洪徳」案を示した義満の行動は、前述の外交権確立への三 段階に付随するものであったと筆者は考える。結局この義満の改元工作は失敗し、「応永. 年号」に決まったのである。即ち、r善隣国宝記』に述べられているように、応永の初年 に、筑紫の商客肥富が大明から帰国して、両国通信の利を述べ、義満は明に使者を送るこ とを決定したということではなく(2)、それ以前の段階で、既に義満の念頭には、明の朋 封体制下に入ることがあったのである。 また、『足利家鼠位記』には、. 鹿苑院殿義満 同(応永)四年八月五日置乱立遣唐使、. とあり、r績史愚抄』三十・後小松院中之上には、. 一48一.
(18) (応永四年)八月五日、甲申、為入道前太政大臣沙汰、立遣唐使、. とある。この遣使については明側には何の記載事項もなく、恐らく派遣は中止されたので はないかと考えられるが〔3)、この応永四年(1397)段階でも義満が明に使者を派遣しよ うとしていたことは確かである。即ち、洪武七年(1374)・十三年(1380)に使者を退け られながらもずっと雪明交渉は彼の脳裏にあり、その時期と実力を計っていたのであるが、 「明徳年号」からの改元の際や、応永四年段階では、まだ時期尚早で、前述したように、. 今川了俊を九州探題から追放し、「応永の乱」で大内義弘を打ち倒して初めて、義満の永 年の宿願が果たされることになったと筆者は考える。 (註). (1)今谷明智はr室町の王権』(中公新書・1990>で、「中納言坊城俊任が、湿雪の洪 までのこうしつぐふさ. 字は〈洪水〉に係るとして非難し、伝奏万里小路嗣房は、永徳・至徳・明徳・洪徳 と徳字年号が連綿することになり不吉であるとして反対した。義満は以後、改元を 政治的に利用することは断念したようで、その死に至る.まで応永の号が続く。康暦. の政変以降、二∼三年で六つの年号がつぎつぎ改変されてきた経過を見ると、明ら かに義満の改元政策が変更されたと見るべきであろう」と論じられた(103頁)。 ずいけいしゅうほう. (2)『善隣国宝記』は、五山僧の瑞渓必読によって書かれたもので、古代以来南北朝に. 至るまでの仏教徒の往来を中心とした通交史と室町時代の外交文書を収めたもので ある(田中健夫編r善隣国宝記』集英社・1995、参照)。その巻申の後記に、 磨永初、筑紫商客肥豆自大差止、国益國通信之利、於是大将軍源朝臣義満、便 血肥富為使者、始通信書、獄方物、. とある。 (3)今谷明氏は前掲書で「この使節の動静が、その後消えているのは、翌年、立面璋が 死去したためであるらしい」と述べておられる(116頁)。. 結 論. 本小稿によって、(1)「水島の役」を契機にする島津氏久、肥前松浦党の波多武の征 西将軍府への寝返り。そして、大内弘世の今川了俊への援軍拒否。(2)「日本二王良懐、 の洪一心への献上品の一つである硫黄。(3)優良親王艶去後の肥後由良前頼、大隅禰寝. 一49一.
(19) 久清が征西将軍府に寝返ったこと。(4)足利義満は、洪武七年く1374)・十三年(1380) に使者を退けられながらもずっと対明交渉を望んでいたこと。以上四点が明らかになった。 これを整理した結果、明使仲猷祖聞・無逸克勤帰国以後の「日本國王良懐」の使者は、 懐良親王自らか、征西将軍府、少なくてもその意向を受けた水軍を有する九州の豪族(波 多、島津、相良、禰寝氏等)が出したものであると考える。. また、波多氏、島津氏、相良氏、禰寝氏が一時的にせよ、衰退期の征西将軍府に寝返る のは、それぞれ事情があってのことであるが、その事情の…つとして、洪武帝の「海禁政 策」で、大陸との交易が困難になった彼等が、「日本國王良懐」の使者という名目を得ん がためであったことも大きな理由の一つではないか。そして、征西将軍府側も、そのこと はある程度解っていながら、九州諸豪族を味方に引き入れる手段として「日本國王良懐」 の名を利用し、自己の勢力挽回を計ろうとしたではないかと思われる。. 即ち、それだけ「日本國王」の名称は、水軍を有し、対明貿易を望む九州諸豪族には必 要なものであり、足利義満にとっては、九州統治のためにも「日本國王」の名称は必要な ものであったと考えられる。. 一50一.
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