證未來際を霊くじて、法華の版木を彫置かん、庶くは衆人瘤写 して広く諸国に流布し、互に興法利生し、自他共に威佛せん、 といふのですから、一山一寺の読諦の用にするととをいふやう な小さい目的や私ごとの開版ではなく、開放的な全国的普及を 目的として・誰にでもこの版木で法華経を摺ることができたと 恩はれる趣旨が心性版のどの版にも刻記してあります。しかも 一版で、二、三千部は鮮明に摺写できるのですから、一版三千 部として十五版で四十五万部の法華経が刊行されたととになり ます。心性は興源寺の塔頭四恩院にゐた人です。中世初頭に於 ける心性版法華軽の普及は、想像にあまりあるものであはあり ませんか。日蓮聖人はとの心性版の版経を入手せられたものと 見られます。現存の心性版の各版と註経の版経を比べますと、 文字面の高さや行間の寸法も全く同じであり、字劃、字体も共 一、祈薦経について 1、宗組御直筆の祈鴻経と転写本 宗祗が女永十年正月廿八日佐渡に於て最蓮房に御輿えにたつ
身延、中山の關係
l特に所祷経及所祷相伝書についてl
影山堯雄
I
通です。たぜ現存心性版に、寸分運ばずぴったり合致する版は 見当りません。とれは擬刻による微細な相遼です。弘長三年第 四度版はいくぶん文字が大目です。︵釜頭写虞参照︶ですから、 第三度版以前の心枠版の刊記を省いた摺写本がR蓮聖人書入木 註法華経の版経であらうと推定され、心性の第一度から第三度 蓑での中のどれかの版であると見て間蓮はないと恩はれます。 註経には法華経八巻のぼかに、開結二雀が具してゐます。開 結の版経で刊記の有る鎌倉時代のものは鴬て見聞したととがな いので、何版といふことば私には不明です。春日版々式の開結 版経は心性第四度版伝本にも一具の本として備はってをり、そ の他にも鎌倉時代と見られる版を度受見うけるととがあり主す が、その開版した人はわかりません。た壁開結も鎌倉時代の春 日版であるといふ概念的なことしかわかりません。 た事はその邊状によって知る頚が出來ろが、その直筆が未だに 見出されていない、た蟹甲州下山本国寺所藏の、天正三年七月 十三日身延日叙師が写された原本となったものが直筆であった ようにも思はれるけれども、それ以外には発見されないのは陸 だ残念である。 祈祷経の転写本は室町のものが各地に見られるが、その中で 今までに発見された最も古い写本は越後村上経王寺所職の、常 宣坊日臘師の所持本であろう、その奥書に上ると、嘉吉二年鰯 138月三円辰対書写雌ろとしてある。その他は態仁三年卯月十五日 京都抄満寺日通師韓写の卜総東金本漸寺職本、延徳二年三月十 八日画頓房日泰師が妙満寺で写された脂総浜野太行寺の藏本な どで、この頃のものには久遠親師のものもある。 2、祈禰経の相伝について 祈薦経は今では中山か身延かだけに伝えられたように思はれ るが、実際はどうであったろうか、祈祷経血脈によると宗祀か ら日向師へ伝えられ、それがまた平賀にも伝授されてをろ。 大覚大僧正から朗源師への書状によると、宗祀が御弟子の人 冬へ沢山に御書き與えになったから、時によって勘女も具略の 相違もあったろうとのととである。とれらによると所鱸経は佐 渡に諸弟子に御與えになり、各門流に伝えられたようである。 それがいるノ、の事情で或は伝承を失い或は重用せられた門流 もある事となったと察せれる。 二、祈露相伝醤について と坐で相伝書というのは祈薦経の解説書を始め修法上の事を 書いたものを一括した総称であるが、とれについてその身延と 中山との関係を見ようと思う。との相伝醤は中山が元で身延へ 伝えられたものか、身延から中山へ伝えたのか、今二三の文献 によって考えて見ろ。 身延所蔵の蔵書目録について見ると 御所溝謹之事三巻文朋十三年正月十二日日朝在御判
所禰経口決二雀文明十三年五月日朝在御到
祈艤経三頂口決文明十三年日妙
兇咀返守護女電元年六月日妙
所源肝要文勉三年七月日顯・
御符相伝二通承正元年砿月廿一日日妙
などが見られる、これによると朝師以後この方面に力が注がれ たととが知られる、 中山の祈禰法の相承について見ると、正和三年四月廿一日の 日高師から日裕師への譲縦に﹁於御祇祷者任先例可奉勤行者也 ﹂とあり、延丈六年三月六日の日裕師から日露師への譲炊にも 同嫌の文言が記されている。逹癖院文書によると天正十九年正 月二十日の日焼師が﹁門弟中江可申渡三條を﹄を出して祈薦に 対するいるノ、の注意を與へられてある、さらに奥藏抄の奥書 によれば ■ 叩 マ シ 叩 〆 日院聖人云自一輔師日常相承日常代々日綻迄相承來貫主一人 ﹄ シ 之相承餘法師縦及一身命一不し可レ伝但可し閏二口伝﹃也 と、今文献の上でば中山の祈醗相伝の様子が跡づけ易熈また 身延と中山とが別鐙に伝えられて來たように見受けられる。 それが室町の末ごろから次第に両者の間に交渉が始まったか に思はれる、即ち奥藏抄の奥雷にとの書の相伝を次の如く記し てをろ。へへへ
相伝之師從二中山本明院酌乘院伝眞戒伝泉乘坊伝積善坊伝大乘 139泌伝仙礁錘伝後仙應疑伝後亦積善坊日賦伝権大律師日東︵下 略 ︺ 穣善坊は身延であらうし、中山の本明院から身延の方へ伝はっ たようである、察するに天正から慶長ごろのととかと思はれる 更に堀丙妙法寺所蔵の祈禰相伝砂上雀の奥書に依てその伝承を 辿ると、 九州光勝寺修善院秀賢大進 日南1日妙l日耀IR讃1日眼1日叙 となり次に 永正十四年閏十月廿三日從日耀示日壼 天文廿二年癸丑四月一百日眼犯抑
示日叙
とあるから室町期の末に近い頃である。日耀師は下総松崎顯実 寺の常寂院日耀、日壷師は中山蓮行坊日嶺であろうし日眼は本 盆諭資料稚二、一五三頁によると東昌房という。日叙師は恐ら く身延久遠寺十五世宝蔵院の事であろう。これらによれぽ中山 から身延の方へ伝えられたととが知られる。 ところが甲州小室妙法寺所徽の心性遼師撰述の祈禰経瓶水紗 の奥書によると、寛永六年仲秋八日にどの書を紀州感應寺住持 眞如院日逮師に伝授してある。この日逮師はのち堺の妙国寺へ さらに中山法華経寺廿四世に輪番さが、その在番中の寛文六年 十月に祈禧禁制を厳守するととを追記されてをろ︵謹壽院文書 .、ととから見ると、日逮師を通じて身延の祈濤相伝書も或は 中山へ伝はったかも知れない。 蓑た身延の識爵目録達見ると、遼慧院日久師が元錐五年の五 月から十二月に亘って中山の修法相伝書を写して身延へ納めら れたものは十種以上である。即ち五、六を摘録すると.祈癖経言上元職五年五月十三日遼森院日久
遠雛税法同年七月十三日同
国鱈諦女二通同年七月十六日同
疫紳遠離教同年同月同日同
、法華肝心加持諭女同年十月二十日同
霊気教化同年十月廿二日同
疋中山十箇條相伝同年十月廿六日同
日久師はまた日逮師が省己日中師に、日中師は善迩日順師に 伝えた瓶水勢を、身延に於て転零伝受してをろ即ち 右之一軸者於身延七面山百日龍並七度参詣卿祈薦堂衆徒無碍 庵善邇日順依指南奉書写畢元職八乙亥五月二十日中山徒遠壽院日久判
とその艇重にして敬塵な像子が鏡はれよう。 また身延の方でも中山の斬繍伝書を相承した事が知られる、 同じ目録の亥に 御祈禰口決血脈抄上下二稚從山中淨光院相承 長壽院日彰 140一愈佛証覚の一法と能統一の法華経 法華経が最勝数たるととは経それ自体の構成上に現はれてゐ ねばならぬ。その原型である嘱累品までは、方便品を中心とす る一類と、澪鼓品を中心とする一類との相互関係に於て講成さ れている。前者は迩門で﹁法の開権顯実﹂であり、后者は本門 で﹁仏の開通顯本﹂である。斯く所乘の﹁法﹂と能乘の﹁仏﹂ との両面を具現した処に最勝教たる所以がある。更に仏教思想 史から見ると、仏成這証覚の一法から開展した全仏教が法華経 に統一されている。経には前者を﹁於一仏乘分別説一言といひ 后渚を﹁唯有一乘法無二亦無三﹂と表示されてある。斯く能統 疫瀞遠離秘法中山直抄也享保十五年孝東院日彰