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宗学的日蓮研究 : 近代以降の点描を中心に (特集 脱構築 日蓮・法華経研究(第58回日蓮宗教学研究発表大会特別部会))

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去る平成一七年一○月二一日に開催された第五八回日蓮宗教学研究発表大会の特別部会において、筆者は﹁日蓮研 究の方法をめぐる一試論l思想史研究との若干の対比をまじえつつl﹂と題して発表する機会を与えていただいた。 その際、筆者自身による日蓮把握の方法と対比しつつ、宗学における日蓮把握の特徴を﹁スタティック︵静的︶﹂と 表現したところ、表現が暖昧で、意味するところがよくわからない、とのお叱りを頂戴した。そこで、筆者自身が ﹁スタティック︵静的こという表現に込めた意図を確認しておきたいと思う。 筆者自身が日蓮にアプローチしようとする際の方法論を、ここで改めて詳述する暇はない焔その大略は次のよう なものである。 日蓮における﹁こころみ﹂とは、日蓮みずからの主体性と、仏みずからの主体性とが交差・融合する一点lその 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

宗学的日蓮研究

!近代以降の点描を中心にI

はじめに 間

宮啓

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一方、このような方法論と対比する形で、宗学における日蓮把握の特徴につき、次のような指摘を行った。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 一点において、日蓮の主体性は仏自身による裏づけという﹁客観性﹂を獲得し得るlを求め、表現しようとする 不断の営みであった、ということになろう。このように、日蓮の﹁こころみ﹂とは、それ自体、ダイナミックな 構造を孕んだ営みなのであり、そのダイナミズムの中に、日蓮の﹁宗教﹂は存立するのである。 筆者はまさに、日蓮自身によるこうした﹁こころみ﹂に定位して、日蓮の﹁宗教﹂、殊にその宗教的自覚と救 済論とをみようとするものである。したがって、筆者が描く日蓮の﹁宗教﹂は、スタティック︵静的︶なものと はなり得ないであろう。それは、右に記した二つの主体性の間を揺れ動くダイナミックなものとして描かれるこ はなり得ないであろう。 ︵2︶ とになるのである こうした方法によって日蓮をみようとする点において、筆者の志す研究はまた、宗学Iこの場合は、もちろん ﹁日蓮宗学﹂Iからも分かたれることになる。宗学も、端的にいってしまえば、日蓮を日蓮自身に即して把握し ようとする営みであるといってよかろう。その点、筆者の立場と大きな懸隔があるわけではない。ただ、宗学の 場合、少なくともその理念においては、日蓮の﹁宗教﹂から、完成され、かつ固定された真理の体系を抽出する ことに、より大きな力が注がれることは否めまい。それが宗学に課された使命である以上、当然といえば当然で はある。だが、その分、日蓮の﹁宗教﹂を、ダイナミックに把握する以上に、その究極においてはスタティック ︵静的︶に捉える視点が強くならざるを得ないことも、確かであろう。筆者が宗学と立場を異にするのは、この

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さて、本稿が目的とするところは、宗学のこうした特徴が、実際、近代の代表的宗学者たちの宗学論に共通して見 られることを指摘する点にある。筆は近世から起こされるが、近代の代表的な宗学者たちによって展開された宗学論 をみることに、より力点があることは断っておきたい。特別部会の際の質疑応答でご批判を頂戴したように、宗学者 たちはそれぞれ個性ある説を展開しているのであり、その個性はもとより無視されるべきではない。だが、それでも なお、彼らl殊に、浅井要麟・望月歓厚・茂田井教亨ら三師lの宗学論にみられる日蓮把握には、右に述べたような 意味での﹁スタティック︵静的こな性格が共通して認められるのである。本稿は確かに、ごくごく粗雑な点描に止 まるものではあるが、こうした指摘を確実に行っていくための、まずは第一歩としてお読みいただければ幸いである。 なお、その活躍が戦後にかからない人物については、その業績はすでに歴史的・古典的な評価を獲得しているもの とみなし、本稿では敬称を略したことを断っておく。 きなのである。 宗学が単なる学問ではなく、信仰の確固たる指針を提示することを目的とするものである以上、その信仰指針が揺

、、、、、、

れ動くものであってはならないはずである。だからこそ、宗学にあっては、﹁日蓮の﹁宗教﹂から、完成され、かつ 、、、、、、、、、、 固定された真理の体系を抽出することに、より大きな力が注がれること﹂になる。宗学における日蓮把握の目的が、 その根本において﹁スタティック︵静的︶﹂な場面にあることは、したがって、当然なのであり、むしろそうあるく 注 ︵1︶詳細については、拙稿﹁日蓮研究に関する方法論的試論と戦後日蓮研究史l﹁顕密体制論﹂までl﹂亀身延山大学仏教学部 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ ︵3︶ 点においてである。

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本稿の標題を﹁宗学的日蓮研究﹂と銘打ったが、そもそも﹁宗学﹂とはいかなる営みであろうか。 ここでいう﹁宗学﹂とは、もちろん﹁日蓮宗学﹂のことを指すのであるが、日蓮宗門において﹁宗学﹂という術語 が広く用いられ出したのは、決して古いことではない。後年、近世日蓮宗学の大成者、あるいは近代日蓮宗学の出発 点と位置づけられることになる優陀那院日輝︵一八○○’一八五九︶において、すでに﹁宗学﹂という用語はみられ る姥成語として広く用い始められるようになるのは、明治末から大正初年に至ってからのことであるという.加え て、日蓮宗門における﹁宗学﹂の定義をめぐっても、各人各様の感は免れ得ないものがあ篭つまり、﹁日蓮宗学﹂ は、明確な対象と方法を伴った一個の領域として確立されているとはいまだ言い難い現況下にあるといわねばならな いのである。とはいえ、以下で﹁宗学的日蓮研究﹂を取り上げる以上、ここでいう﹁宗学﹂の範囲を、ある程度は明 確にしておく必要があろう。したがって、あくまでも便宜的にではあるが、さしあたっては広狭両義にわたり、﹁宗 学﹂の枠づけを行っておきたいと思う。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 紀要﹄第五号、二○○四年︶の第一章﹁方法﹂をご覧いただきたい。 ︵2︶拙稿﹁日蓮研究に関する方法論的試論と戦後日蓮研究史l﹁顕密体制論﹂までl﹂、五頁。 ︵3︶拙稿﹁日蓮研究に関する方法論的試論と戦後日蓮研究史I﹁顕密体制論﹂までl﹂、六頁。

第一章広狭両義における﹁宗学﹂の便宜的定義

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まずは、広義における﹁宗学﹂であるが、これは、﹁宗祖日蓮自身の信仰と行動、および日蓮を開祖と仰ぐ人々・ 集団の信仰と行動を対象とする学的営為﹂と、ひとまずはみなし得よう。この場合、﹁日蓮を開祖と仰ぐ人々・集団﹂ とは、かかる営為の対象であると同時に担い手でもある。つまり、﹁宗学﹂はいわゆる﹁宗門人﹂によって担われる のである。もとより、﹁宗学﹂が﹁学﹂である以上、学的営為として耐え得る客観性を必須の条件とすることはいう までもない。しかし、各々信仰ある﹁宗門人﹂がその担い手である以上、自己の信仰の基盤と指針を求め、確立せん とする主体的意図を多かれ少なかれ孕む営みであることも看過してはなるまい。 このような広義における﹁宗学﹂は、さらにいくつかの分科に区切ることが可能である。あくまでも試論的なもの ではあるが、それを左に示しておきたい。 まず①の﹁教学﹂であるが、これは、宗祖たる日蓮自身の信仰のあり方を、日蓮遺文を媒介としつつ、一個の﹁教 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ ⑥布教学︵教化学︶ ⑤文献学 ④教団史 ③教学史

②祖伝

①教学

︵宗門史︶

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 義﹂として体系づけようとする営みである、といってよかろう。日蓮宗門という組織にとっても、また、それを構成 する個々人にとっても、みずからの信仰の基盤と指針は、なにをおいても宗祖たる日蓮に求められなければならない。 したがって、広義における﹁宗学﹂の根本は、あくまでもこの﹁教学﹂にこそ置かれる必要がある。しかも、それが 信仰の基盤・指針たり得るためには、その内に明らかな矛盾や、一点に定まり難い流動性を孕むものであってはなら ない。﹁教学﹂に確固たる体系性が求められる所以である。 とはいえ、それはあくまでも理念レベルでの話である。﹁教学﹂の淵源たる宗祖日蓮自身が単純ならざる思想と行 動の軌跡を有する上に、しかも、その日蓮に対して、個性ある信仰者たちが問いかけて、各々﹁教学﹂を構築しよう とするのである。実際に生み出されてきた﹁教学﹂は、こうして、それぞれに個性を帯びたもの、換言するならば、 各人の個性のもとで独自の体系性を備えたものとして、分立せざるを得ないことになる。同じく日蓮を開祖と仰ぎな がらも、歴史的にみれば、数多くの分派を生じざるを得なかった一要因を、ここに求めることができよう。あるいは、 分派を生じた以上、新たなる分派は新たなる﹁教学﹂を必然的に欲し、生み出してきた、という側面もあるかもしれ ない。歴史上のこうした分派とその継承・交渉を、各々の﹁教学﹂に焦点をあてて整理しようとするのが、③の﹁教 ︵4︶ 学史﹂であり、組織に力点をおいて跡づけようとするのが、④の﹁教団史︵宗門史︶﹂であるとみなし得よう。 ②の祖伝が後回しになってしまったが、宗祖・日蓮の伝記の謂いとして﹁祖伝﹂という伝統的な名称を用いる場合 は、歴史学的・思想史学的な方法に則って著された、近代以降の種々の日蓮伝とは、やはり区別しておかねばなるま い。したがって、ここでいう﹁祖伝﹂とは、宗祖・日蓮の事績を記録し、宗祖を讃仰する目的のもと、近代に入る以 前の宗門人により作成された各種の日蓮伝を指すことになる。かかる意味での﹁祖伝﹂の萌芽から、著名な﹁元祖化

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⑤の﹁文献学﹂に話題を移そう。﹁教学﹂を構築する上で根本素材となるものは、いうまでもなく、日蓮が遺した 様々な文書群、すなわち﹁日蓮遺文﹂である。日蓮亡き後、﹁教学﹂を探求しようとする者にとって、日蓮自身によ なま る生の信仰に接し得る場は、﹁日蓮遺文﹂をおいて他に存在しないからである。⑤に挙げた﹁文献学﹂とは、こうし た﹁日蓮遺文﹂を対象とする文献学の謂いである。その概要と成果については、稿を改めて論じることになるが、こ の分野における最重要課題が、﹁日蓮遺文﹂の真偽および系年の判定にあることは、言を待たないところであろう。 ところが、その真偽・系年の判定とも、十全に行われているとは、必ずしも言えない状況にある。﹁教学﹂の根本素 材たる﹁日蓮遺文﹂のこうした不確実性もまた、﹁教学﹂の多様性の一因となってきたことは否めないところである。 ﹁教学﹂のみではない。歴史学・思想史学の分野においても、かかる不確実性が多様な日蓮像を描出し得る契機の一 つとなっていることは認めなければなるまい。もとより、﹁日蓮遺文﹂のこうした不確実さを克服しようとする努力 は、従前よりなされてきたのではあるが、これについても、別稿を期したいと思う。 なお、⑥の﹁布教学︵教化学︶﹂は、以上みてきた﹁教学﹂等に比して、より実践的な動機を色濃く孕むものであ る。﹁教学﹂も、自己の信仰の基盤・指針を宗祖日蓮その人の信仰から照射しようとする動機のもと営まれるもので あるところからして、既に規範学としての色彩を免れることはできず、規範学としての側面を有する以上、実践へと 転ぜられる要因をそれ自体内包するものであるといえよう。しかし他方、伝統的にみれば、﹁教学﹂は、即座に実践 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ きたい。 導記﹄や﹃日蓮聖人註画讃﹄の成立、さらには、近世以降に出版された各種﹁祖伝﹂の特質や、これら各種﹁祖伝﹂ ︵6︶ に﹃日蓮聖人註画讃﹄が与えた影響等の問題については、すでに優れた業績が出ているので、そちらをご参照いだた

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ へと移される側面以上に、﹁学﹂としての体系性をより重んじる傾向性をおおむね貫いてきた、といわねばなるまい。 逆にいえば、﹁宗祖の信ずるところを、今この時代に即しつつ、具体的にはいかなる対象に向けて、いかなる内容の もと、いかなる方法によって布教・教化していけばよいのか﹂という極めて現代的かつ実践的な課題に対して、従来 の﹁教学﹂は必ずしも直接的な回答を用意してはこなかった、ということでもある。これに対して、﹁布教学︵教化 学とは、﹁教学﹂の伝統を踏まえながらも、まさにこうした課題に応えていくことを直接的な任務とするものなので 学︶﹂ ある。 ただ、この﹁布教学︵教化学︶﹂が一個の分野として認知せられるようになったのは、つい最近に属することであ るといってよい。また、その課題が現代的にして、かつ実践性に富むが故に、﹁教学を踏まえる﹂といいながらも、 ﹁教学﹂の伝統性・体系性との間に軋礫を生じかねない要素を常に、かつ多分に含んでいることも、否定はできない。 ﹁布教学︵教化学︶﹂が広義の﹁宗学﹂において確固たる地位を占めるためには、今後、﹁教学﹂との間に望ましい緊 張関係を築きつつ、布教︵教化︶の理論と実践において、なお一層の実績を積み重ねていくことが要請されるである ︵7︶ 遥句ノ○ 以上、広義における﹁宗学﹂について述べてきたが、その中で、すでに筆者は、広義の﹁宗学﹂の根本はあくまで も﹁教学﹂に置かれるべきである、と記しておいた。こうして必然的に、狭義における﹁宗学﹂の枠組みが措定され ることになる。﹁教学﹂とは、先にも述べたように、日蓮自身の信仰のあり方を、﹁日蓮遺文﹂を媒介としつつ、日蓮 自身に即して体系づけようとする学的営みである。と同時に、単に学的営為であるに止まらず、その営みを行う者自

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身の信仰の基盤・指針を、その営みを通して発見・獲得・確認していこうとする信仰的営為でもある。ここでは、か かる﹁教学﹂を以て、狭義の﹁宗学﹂とみなすことになる。当面の課題である﹁宗学的日蓮研究﹂の範囲も、かかる 狭義の﹁宗学﹂の枠組みにおいて顧みられることになる。 ただ、このように狭義の﹁宗学﹂を﹁教学﹂に限定したとしても、その積み重ねには畳重たるものがある。﹁教学﹂ の営みは、それが一定の体系性を有するか否かという観点を度外視するならば、日蓮滅後から直ちに始まった、といっ ても過言ではないからである。つまり、それ自体、既に七○○年以上の伝統と蓄積を有するのである。そうした蓄積 の中で、権実相対・本迩相対といった教判論や、教観論、本尊論、さらには摂受折伏・受不受といった実践論など、 ﹁教学﹂の基盤をなす種々の問題群が生み出されてきたが、ここで、それらすべてを視野に収めて研究史を描き出す 余裕はとてもないし、筆者の能力からいっても、遠く及ばない。近代以前の教学史の詳細については、幸い、望月歓 厚盲蓮宗学説星や執行海秀盲蓮宗教学壁といった重厚な研究書が既に公刊されているので、それに譲るとし て、ここでは、近世および近代、その中でも、殊に近代以降の﹁教学﹂を、代表的な幾人かの人物に即して点描す ることになる。しかも、各﹁教学﹂の個別的・具体的内容を逐一取り上げて、その紹介と検証を詳細に行うのではな く、各々の﹁教学﹂が有する理念や方法の素描と検討に止まらざるを得ないことを、あらかじめお許し願いたい。 注 ︵1︶渡辺宝陽﹁優陀那日輝の宗学論と課題﹂︵渡辺宝陽﹃日蓮宗信行論の研究﹂平楽寺書店、一九七六年︶、渡辺宝陽﹁宗学﹂ ︵日蓮宗事典刊行委員会編﹃日蓮宗事典﹄日蓮宗宗務院、一九八一年︶。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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︵2︶望月歓厚﹁宗学各論﹂︵立正大学仏教学会﹃大崎学報﹄第一二三号、一九六八年︶、四頁。 ︵3︶代表的な宗学者たちによる宗学論を概説的にとりまとめたものとして、渡辺宝陽﹁宗学論l宗学論の回顧と展望l﹂︵﹁現代 宗教研究所所報﹄第三号、日蓮宗宗務院、一九六九年︶。 ︵4︶﹁教学史﹂に関する業績の中で、日蓮滅後から近代に入るまでを通史的を扱ったものとしては、望月歓厚﹃日蓮宗学説史﹄ 平楽寺書店、一九六八年、執行海秀﹁日蓮宗教学史﹂平楽寺書店、一九五二年がある。また、明治以降、終戦に至る時期ま での通史を扱ったものとしては、執行海秀﹁近代日蓮教学の形成﹂︵望月歓厚編﹁近代日本の法華仏教﹄平楽寺書店、一九 ︵5︶﹁教団史︵宗門史︶﹂に関する業績としては、立正大学日蓮教学研究所編﹃日蓮教団全史﹄上、平楽寺書店、一九六四年、影 山堯雄﹁日蓮教団史概説﹄平楽寺書店、一九五九年、中尾堯﹃日蓮宗の成立と展開l中山法華経寺を中心にしてl﹄吉川弘 文館、一九七三年、糸久宝賢﹃京都日蓮教団門流史の研究﹄平楽寺書店、一九九○年、影山堯雄﹃日蓮宗不受不施派の研究﹄ 平楽寺書店、一九五六年、宮崎英修﹃不受不施派の源流と展開﹄平楽寺書店、一九六九年、日蓮宗現代宗教研究所編﹃日蓮 宗の近現代l他教団対応のあゆみI﹄日蓮宗宗務院、一九九六年などがある。 ︵6︶冠賢一﹁近世における日蓮伝記本の出版﹂︵冠賢一﹁近世日蓮宗出版史研究﹂平楽寺書店、一九八三年︶。 ︵7︶日蓮宗にあってかかる﹁布教学︵教化学︶﹂を担う機関として、一九六四年、宗門の中央統轄機関たる日蓮宗宗務院内に ﹁現代宗教研究所﹂が設立された。その機関誌である﹃現代宗教研究﹄は、一九六七年に創刊され︵創刊から第七号までの 誌名は﹁現代宗教研究所所報﹂︶、二○○六年三月の段階で、四○号を数えるに至っている。また、現代宗教研究所からは ﹁教化学論集﹄もあわせて出版され、同じく二○○六年三月の段階で、第五号まで出されている。 ︵8︶注の︵4︶をみよ。 六八年︶がある。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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江戸期の﹁教学﹂は、いわゆる﹁檀林教学﹂と称せられる。﹁檀林﹂とは、江戸期における僧侶の高等教育機関で ある。現在の包括宗教法人﹁日蓮宗﹂の直接の源流であるといってよい旧一致派においては、安土桃山期より江戸前 期にかけて、いわゆる﹁関東八檀林﹂︵飯高・小西・中村・西谷・三昧堂・南谷・松崎・玉造の各檀林︶や、﹁関西六 かいで 檀林﹂︵松ヶ崎・求法院・東山・鷹ヶ峰・山科・鶏冠井の各檀林︶が相次いで開講されており、また、同時期、旧勝 劣派にあっても、宮谷・細草・大沼田・三沢・大亀谷・大栗栖といった各檀林が設けられている。これら檀林は、僧 侶の教育機関であると同時に、教学研究の中心地でもあった。﹁檀林教学﹂の名はここに由来する。 檀林教学の特色は、著しい天台学偏重にあったとされる。ここでいう天台学とは、天台・妙楽両大師による﹁原始 天台﹂研究、および、﹁原始天台﹂研究のために重用された﹁趙宋天台﹂の研究を指す。しかも、檀林教学の多くは、 そうした天台学自体が目的となり、宗祖日蓮の教学研究はほとんど二の次になっていた観があるとされる。もとより、 日蓮自身、天台・妙楽両大師に多くを負っていることからして、教学者に天台学の素養が求められることはいうまで もない。したがって、既に室町期より、教学者による天台学研究はなされていたが、ただ、室町期の場合は、中国の ﹁原始天台﹂や﹁趙宋天台﹂ではなく、日本の﹁中古天台﹂研究が大勢を占めていたとされる。そうした傾向は、必 然的に、室町期の教学に、本覚論的・観心主義的傾向を刻み込むことになったといわれるが、一方では、あくまでも 日蓮教学のための天台学、といった綱格は守られていたという。だが、江戸期の檀林教学では、そうした綱格に対す ︵1︶ る自覚や自戒はほとんど失われ、天台学自体が目的と化していた、と評されるのである。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

第二章近世粗描

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ただ、こうした環境はP日蓮教学自体の不在に対する強烈な危機感を育む契機となったことも確かである。決して 多数とはいえないが、そうした危機感に駆り立てられた者は、当然、日蓮遺文自体の研究と、その研究成果に立脚し た教学体系の樹立へと赴くことになる。既に江戸前期において、不受不施派の安国院日講︵一六二六’一六九八︶が、 日蓮遺文の精綴な注釈書である﹃録内啓蒙﹂三六巻を書き上げていたが、注釈的研究を越えて、一個の教学体系を打 ち立てた人物としては、やはり江戸中期の一妙院日導︵一七二四’一七八九︶を挙げなければならないであろう。 当時の檀林教学が宗祖日蓮を傍らに置いたままで天台学一辺倒に傾いていることに危機感を募らせた日導は、勝劣 各派の教学動向も視野に収めつつ、独自の教学体系の樹立を志し、一七八五年、﹃祖書綱要﹄二三巻を脱稿した。﹃祖 書綱要﹄は、広範な論目を、しかも体系的に扱った教学書であるが、その体系を貫く一本の柱は﹁台当相対﹂にあつ ︵3︶ たと評せられる。この場合、﹁台﹂とは天台学を、﹁当﹂とは日蓮教学を指す。つまり、天台学と日蓮教学との区別・ 勝劣を明確に論じ、天台学とは異なった独自の教学体系の構築に意が傾けられたのである。これは、日導自身が抱懐 した危機感と志向からして、当然の帰結ではあった。しかし、檀林教学の主流を占めた原始天台や趙宋天台に対する 独自性・優位性を強調する一方で、日導は、日本の中古天台の本覚論的・観心主義的傾向lこれは、後述するように、 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ このような著しい天台学偏重は、当然のことながら、檀林の教育課程にもそのまま反映された。すなわち、課程そ のものが、天台学の修得と研究で占められ、日蓮遺文の研讃自体は、課程を終えた者の自習に任されがちだったので ︵2︶ ある。こうした環境が、日蓮自身を対象とする教学を生み出すに容易でないものであったことは、言を待たないであ る入ノ。

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一妙院日導のかかる教学を、本妙院日臨︵一七九三’一八二三︶の信行重視の姿勢を介して受け取りつつ、より時 代に即した教学・宗学の確立に意を注いだのが、江戸末の優陀那院日輝︵一八○○’一八五九︶である。 日輝もまた、自己当体を本仏とみなし、教相より観心を重視する点においては、明らかに日導の延長線上の位置す るものである。実際、三二才の若さで﹃祖書綱要正議﹂を著していることからみても、日輝自身、日導を尊敬し、そ 、、 の教学を敷術すべき先師とみなしていたことは間違いない。しかし、あえて﹃祖書綱要正議﹄と銘打っていることか らも窺えるように、日輝は、日導の単なる祖述を以てこととしたのではない。日輝は﹁観心﹂を、一途な信を基本に 置いた行と解し、かかる信と行のみが、自己Ⅱ本仏という本覚論的あり方を実際に顕現せしめ得るとした。つまり、 自己が本仏であることを顕わそうとする、信を基本に置いた人間の向上的努力にこそ、最高の価値を認めたのであり、 ﹁凡夫本仏論﹂的地点そのものに安住することを決して許そうとはしなかったのである。日輝によれば、かかる地点 に安住してしまうことが、取りも直さず、僧侶の腐敗・堕落を、ひいては世間に排仏論を生み出す温床となる。した がって、自己Ⅱ本仏という理論に安住するのではなく、むしろ本仏たる自己に還帰しようとする行者として、常に始 覚的・向上的努力がなされなければならないこととなる。この点について、もう少し詳しくみていこう。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 真偽未決の日蓮遺文に特に色濃くみられるものであるlを、みずからの教学体系に、むしろ自覚的に取り込んだとさ れる。実際、﹁凡夫本仏論﹂ともいうべき論調を基に置きつつ、信による即身成仏を説いている点や、﹃法華経﹄本門 の教相と、文底の観心との間に差異を設け、両者の不可分性よりも、むしろ文底の観心の本質的優位性を強調してい ︵4︶ る点などには、そうした傾向が顕著に見て取られるという。

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 日輝は、﹁理具の一念三千﹂にあっては、本有不変にして常住なる三千を理体とし、その三千が縁によって現象す る作用を事相とみなす。しかし、かかる三千は、事相より抽象されたいわば観念に過ぎない。これに対して、﹁事具 の一念三千﹂については、事相に現れたる三千、つまり森羅万象そのものを直ちに実体とみなし、しかも、かかる実 体がそのまま久遠の本仏の当体であるとする。日輝にあっては、こうした本仏縁起の世界の表象が曼茶羅本尊に他な らない。したがって、人間もまた、かかる本仏縁起の直中にあり、人間本来の姿は本仏に他ならない、ということに なる。しかし、前述のように、日輝はそこに安住することを許さない。執行海秀氏によれば、日輝にとっての曼茶羅 、、 本尊とは、﹁現実の有の儘の自己の当体や、不解の妙覚を指すのでない。自己のあるべき姿にして、それは実現せら 、、 るべき当体を指すのである。従ってそれは実現し得たる者にとっては、自己そのものであるも、未だその境地に至ら ざる者にとっては客観的存在に外ならない。されどその本仏は飽くまでも自己に依って顕現さるべきものであって、 ︵5︶ 自己を離れて客観的に実在するものではない﹂のである。 このように、あくまでも当為たる﹁べき﹂を強調するところに、日輝の本領がある。日輝によれば、かかる当為を 信を以て受け止めて、本仏を自己において顕現しようと努め行じ、さらには、こうした人間側の努力によって人間界 を仏国土化すること、それが観心Ⅱ﹁事観﹂に他ならないのである。 日輝によれば、このような向上的努力を人間に促す究極的根拠を諦めるのが仏教であり、日蓮の教えである。人間 をしてかかる向上的努力に赴かせるために、日輝は仏教を、そしてなによりも日蓮教学を自己の時代に活かそうとし た。日輝が生きた江戸後期から幕末にかけて、儒学・国学の進展は、厳しい排仏論を生み出し、平田篤胤による﹁出 定笑語﹄の付録﹁神敵二宗論﹂によって、日蓮の教えも厳しく批判されるに至った。西洋の科学思想や合理主義の流

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入は、そうした傾向にさらに拍車をかけるものとならざるを得なかった。仏教が、そして日蓮の教え自体が、このよ うに厳しい批判に晒される中、日輝は日蓮教学の時代化に努めるとともに、日蓮の教え自体を根拠に頭をもたげかね ない折伏主義を否定し、むしろ摂受主義を自覚的かつ積極的に主張した。排他的な独善性を前面に打ち出した挙げ句、 日蓮の教えが疎んじられ、ひいては仏教そのものが敬遠されてしまう愚だけは、なんとしても避けなければならなかっ たからである。僧侶自身、独善的な折伏主義を捨て、向上的努力の裾野となる知識を広く内外に求めなければならな い。それが、日輝の確固たる信念であった。近代以降、田中智学をはじめとする日蓮主義者から厳しい指弾を浴びる ことになる、日輝のいわゆる﹁豆正安国論壼甫詮も、そうした信念のもと、言表されたものである。 ︵7︶ 日輝によるこのような教学は、天保四年︵一八三三︶、日輝が住職を務める金沢立像寺内に設立された学舎﹁充洽 園﹂を舞台として形成、教授されていったものである。﹁充洽園﹂には、当時の檀林教学に満足し得ない僧侶が集っ た。彼らは信行を同じくするとともに、日輝によって紡ぎ出される教学・宗学を学び、独善を排して知識を広く求め る姿勢を身につけていったのである。 注 ︵1︶以上述べてきた檀林教学の概要と特色については、執行海秀﹃日蓮宗教学史﹄平楽寺書店、一九五二年、一五○’一六○頁 ︵第三篇﹁江戸前期﹂第一章﹁檀林教学の興隆とその展開﹂︶を参照にした。 ︵2︶檀林の教育組織および教育課程については、立正大学日蓮教学研究所編﹃日蓮宗読本︵改訂版︶﹄平楽寺書店、一九八五年、 二四八頁に要領よくまとめられているので、参照されたい。 ︵3︶﹁台当相対﹂の問題に力を注いだ人物として、本来ならば、慶林房日隆︵一三八四’一四六三︶を逸することはできまいが、 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 本稿は、近世以降、殊に近代に視野を限るものである故、ここでは省略することをお許し願いたい。 ︵4︶以上、日導の教学については、以下を参照した。執行海秀﹃日蓮宗教学史﹄、二九七’三○七頁︵第四篇﹁江戸後期﹂第三 章﹁一妙日導の宗学組織﹂︶、および、望月歓厚﹃日蓮宗学説史﹄、七五六’八○一頁︵第四篇﹁宗学形成時代﹂第六章. ︵5︶執行海秀﹃日蓮宗教学史﹄、三四四’三四五頁、傍点引用者、原旧漢字。ただ、執行氏は、日輝のこうした本尊論に伴わざ るを得なかった不十分さを次のように指摘してもいる。﹁かくして日輝はその所論の趣くところ、本尊の実体を個々の当体 に求め、宗教的客体としての本仏の常住と、その慈悲救済の客観性に就ては顧るところがない。従って日輝は久遠実成無作 の本仏本尊を強調しながらも、その本尊観は、一種の冷やかな哲理に帰し、それは客観的には一種の理神論となり、主観的 には自己本尊論に陥って帰依渇仰の本仏を確立するに充分ではなかったと云へよう﹂︵執行海秀﹃日蓮宗教学史﹄、三四五頁、 ︵6︶﹃庚戌雑答﹄における日輝の言、﹁立正安国論ハ当時既二其ノ用ヲ為サズ。況ヤ今世二至テ全ク其ノ立論ノ無実ヲ見ル﹂︵立 正大学日蓮教学研究所内充洽園全集刊行会編﹃優陀那院日輝和上充洽園全集﹄第四編、大東出版社、初版一九二四年、校 訂版一九七五年、三七二頁︶が、それである。 ︵7︶以上、日輝の教学については、以下を参照した。執行海秀﹃日蓮宗教学史﹄、三三五’三四七頁︵第四篇﹁江戸後期﹂第六 章﹁優陀那日輝の充洽園教学﹂︶、望月歓厚﹃日蓮宗学説史﹄、九二五’九八四頁︵第五篇﹁近世宗学の成立﹂第一章﹁優陀 那日輝﹂第二章﹁日輝の宗学序説﹂第三章﹁日輝の教判論﹂第四章﹁日輝の宗旨論﹂︶、望月歓厚﹃日蓮教学の研究﹄平楽寺 書店、一九五八年、四○六’四四○頁︵第二章﹁優陀那院日輝の宗学﹂︶、渡辺宝陽﹃日蓮宗信行論の研究﹄平楽寺書店、 一九七六年、三四一’四三一頁︵第五章﹁優陀那日輝の観心教学﹂︶、小野文晄﹁優陀那日輝﹂︵中濃教篤編﹁近代日蓮教団 の思想家I近代日蓮教団・教学史試論l﹄︹叢書・日本近代と宗教2︺国書刊行会、一九七七年︶、小野文晄﹁仏教日蓮派か、 日蓮教仏法派かl素描・近代日蓮宗の教学者②l﹂︵﹃福神﹄第二号、太田出版、一九九九年︶。 原旧漢字︶。 妙日導の宗学﹂︶。

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時代に対応した宗門刷新の動きは、当然、宗門僧侶の育成・教育体制にも及んだ。日薩は、明治五年︵一八七二︶、 東京の芝二本榎に﹁日蓮宗宗教院﹂を設けて宗門の教育体制の基礎を固め、明治八年︵一八七五︶には、それを﹁日 蓮宗大教院﹂に改称。教育体制のこうした改革機運の中で、従来の諸檀林は廃されていくことになる。この大教院 は、明治一八年︵一八八五︶の冒頭、﹁日蓮宗大檀林﹂と改められ、さらに明治三七年︵一九○四︶には、その所在 地を東京の大崎に移し、﹁日蓮宗大学林﹂と改称、三年後の明治四○年︵一九○七︶には、専門学校令に従って﹁日 蓮宗大学﹂となっている。現在、大崎の地にある﹁立正大学﹂は、この﹁日蓮宗大学﹂を直接の前身とするものであ 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 先駆けていち早く単称﹁日蓮一 住職となり、宗門の近代化の峠 同じく﹁充洽園﹂門下である。 日輝の没後、時代は開国、幕末の争乱から明治維新へと向かう。明治初年、仏教は、神仏分離令に端を発した廃仏 設釈の嵐に直面することになるが、日蓮宗門にあって、かかる困難な局面を乗り切るのに力を発揮したのは、他なら ぬ﹁充洽園﹂で学んだ日輝門下の僧たちであった。殊に、その一人である新居日薩︵一八一二○’一八八八︶は、かか る難局を仏教他宗派と連携して乗り切るとともに、明治九年︵一八七六︶、.致派﹂系教団を整理・統合し、他派に ︵1︶ 先駆けていち早く単称﹁日蓮宗﹂を政府に申請、許可されている。日薩の後を継いで﹁日蓮宗﹂管長、身延山久遠寺 住職となり、宗門の近代化の先頭に立った吉川日鑑︵一八二七’一八八六︶・三村日修︵一八二三’一八九二も、 第一節﹁充洽園教学﹂と﹁日蓮主義﹂

第三章近代の点描

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一方、身延の地にあっては、明治二六年︵一八九三︶、やはり﹁充洽園﹂門下である中田日阜により、﹁祖山大学院﹂ が設けられている。現在の﹁身延山大学﹂の近代における源は、この﹁祖山大学院﹂にあるといってよい。 明治期における宗門の教育体制のこうした近代化過程で採用された学風は、﹁充洽園﹂のそれであり、テキストも また、日輝の著述が広く採用されるに至った。これは、明治期の冒頭において宗門体制および教育制度改革の責任を 担った人材の多くが﹁充洽園﹂の門下らであったことの、当然の帰結であった。 だが、日輝によるいわゆる﹁充洽園教学﹂がいわば宗門公認の教学として採用されたことは、結果的にみれば、 ﹁充洽園教学﹂の新展開をむしろ阻む方向に作用した、といわれる。すなわち、日輝の著述がテキストとされ、﹁充洽 園教学﹂が教授されはしたものの、それを主体的に受け止めて、さらに新たな教学を展開しようとする動きlつまり、 宗門公認の教学をあえて更新しようとする試みIは、かえって停滞してしまった、とされるのである。 こうした動向に飽きたらず、むしろ反﹁充洽園﹂の旗色を鮮明にして教学の刷新を図ろうとしたのが、周知のよう に、田中智学︵一八六一’一九三九︶であり、彼の提唱になる﹁日蓮主義﹂である。﹁充洽園教学﹂の摂受主義や、 それを以て金科玉条とする宗門に反発した智学は、明治一二年︵一八七九︶、一九歳の折りに日蓮宗を脱して還俗し、 明治三四年︵一九○二、﹃宗門の維新﹂を刊行した。その中で、智学は、 ︵2︶ る。 ﹁制可随時﹂ノ約束ナレバ、制度二於テハ、宗義二背馳セザル限リニ於テ、日二新ニシテ又日二新ナルヲ要ス。 、、、、、、、、、、、、、 ﹁道不可変﹂ノ約束ナレバ、宗法二於テハ一点片塵ノ新義霞入ヲ許スベカラズ。然ルー今日ノ宗門ハ、ソノ新ナ 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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﹁日蓮主義﹂のこうした隆盛の中、もとより、宗門内の正統とされた﹁充洽園教学﹂の側もいつまでも沈黙を守っ ていたわけではない。確かに、﹁充洽園﹂にあって日輝より直接薫陶を受けた世代にあっては、﹁充洽園教学﹂は停滞 を余儀なくされたが、孫弟子の代に至って、﹁充洽園教学﹂の正統を守り通そうとし、その立場から、﹁日蓮主義﹂と 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ という厳しい批判を宗門に対して浴びせかけている。 しかし、その後の智学が実際に歩んだ道は、﹁宗門﹂のみの改革を目指すことでもなければ、日蓮自身の教えに定 ︵4︶ 位した不動の教学を確立することでもなかった。周知のように、彼は﹁日蓮主義﹂を標榛して、時代に即応した﹁本 ︵5︶ 化妙宗教学﹂を作り上げていく。その過程で、時代に即する必要性から、﹁日蓮主義﹂に国家主義的色彩を多分に取 り込み、いわゆる﹁王仏冥合論﹂を主張することになる。 宗門内で正統とされた﹁充洽園教学﹂の停滞をしり目に、こうした国家主義的﹁日蓮主義﹂は、当時、大きな影響 ︵6︶ 力を有していた。日蓮系の顕本法華宗の本多日生︵一八六七’一九三一︶、宗門内にあっては清水梁山︵一八六五’ 一九三三がその影響のもと、多彩な活躍をみせることになる。特に清水梁山は、田中智学の﹁王仏冥合論﹂がいま だ法主国従の綱格を保っていることに飽きたらず、ついには﹁王仏一乗論﹂,のもと﹁天皇本尊論﹂を唱えるに至るの である。 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、︵の。︶ ルベヵラザルモノヲ新ニシ、ソノ古ナルベカラザルモノヲ古ニス。豈二顛倒惑乱ノ至ニアラズヤ。 第二節清水龍山

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ は一線を画し続けた教学者があらわれた。清水龍山︵一八七○’一九四三︶がその人である。 ﹁充洽園﹂門下の上木日令を師として青年期に﹁充洽園教学﹂を叩き込まれた龍山は、すでに日令の足下にあった 頃から、いわゆる﹁台当相対﹂の問題をみずからに課したという。すなわち、中国天台や日本天台︵天台密教も含む︶ と日蓮教学との間の異同および優劣を、深く天台学を追求することによって明らかにし、それによって﹁充洽園教学﹂ の正統なる所以を改めて論証・宣布しようとしたのである。実際、龍山は、明治二六年︵一八九三︶より五年間、祖 山大学院より選抜された内地留学生として、比叡山で天台学の研鑛に没頭している。そうして磨かれた天台学の素養 をかわれ、留学後の明治三七年︵一九○四︶、龍山は、大崎の地に開設された日蓮宗大学林の教授に就任する。その 後、日蓮宗大学林は、先述の如く、日蓮宗大学、さらには立正大学へと組織を改編していくが、その中にあって、龍 山は、宗門の正統教学の担い手としての地位を固め、最終的には、立正大学の学長にまで登り詰めるのである。 大学にあって、龍山は﹁充洽園﹂の学風を体すべく、各宗の教義を知ってこその日蓮教学との信念のもと、各宗の 碩学の出講を要請したが、それに応じて出講した講師陣の中にあって、島地大等らは、日蓮の宗教は中古天台の亜流 であるとの説を講じた。これに対し、龍山は、かねてより研究してきた﹁台当相対﹂の問題をまとめることを以て応 じた。すなわち、大正八年︵一九一九︶、﹁天台日蓮対照論述法華経要義﹄を公刊、日輝の教学をベースに置きつつ、 中古天台の本覚法門と日蓮の宗教との差異を論じ、日蓮の宗教は、日蓮自身が言表するように、中国天台からの発展 ︵7︶ 系譜の上に求められなければならないと結論づけたのである。 一方、龍山は、時代を席巻する﹁日蓮主義﹂に対しても、日蓮教学にあまりにも時代迎合的な国家主義的要素を持 ち込み、教学の純粋と正統とを誤らせるもの、との批判的態度を貫いた。

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もとより、龍山とて時代の子であり、忠君愛国的な道徳思想を常に抱き、日蓮の名のもと、そうした道徳をむしろ 積極的に喧伝すること、一再ではなかったが、教学そのものを国家主義的色彩で飾ろうとする動きに対しては、常に 警戒感を示した。殊に、姓を同じくする清水梁山の﹁天皇本尊論﹂に対しては、﹃真日蓮義偽日蓮義﹄を著し、法華 ︵8︶ 神道ばりの﹁曲学阿世﹂と極めて厳しい批判を加えている。 確かにこの点においてこそ、みずからを﹁古愚﹂と称し、軽々しく時宜に便乗することを一徹に拒んだ龍山の真骨 頂を見出すことができよう。また、こうした一徹さは、日輝教学の祖述者を以てみずからを任ずることにより、正統 教学を守り通そうとした側面にも、よくあらわれている。 しかし、現今の視点からみるならば、それがまた、龍山の限界でもあったと指摘される点である。﹁日蓮の宗教Ⅱ 中古天台の亜流﹂説を、龍山は確かに退けはした。だが、その際、日輝を基に置いたために、日輝自身が抱える限界 を乗り越えることなく、むしろその限界をそのまま持ち来たってしまった、と評せられるのである。浅井円道氏によ る次の評をご覧いただきたい。 概して中国天台が迩門中心・理具中心であることを論証するときの典拠の引用は流石に的確であるが、日蓮教学 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 天台大師の迩面本裏に対して日蓮聖人の本面迩裏の教学の特色を論証するために、﹃御義口伝﹂を多引し、また ﹃当体義紗﹄・﹃灌頂抄﹄を引くところは、優陀那日輝を祖述したのであろうが、浅井要麟以後急速に発展した ︵9︶ ﹁祖書学﹂をまだ顧みない段階での論説であると評価せざるを得ない。

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龍山が抱えざるを得なかったかかる限界を突破すべく提唱されたのが、右の評言にもみえる浅井要麟の﹁祖書学﹂ である。すなわち、要麟は、中古天台の本覚思想を表明する諸文献と、本覚思想的色彩の濃い日蓮遺文とを、両者に 共通する﹁四重興廃判﹂﹁心性本覚思想﹂﹁無作三身思想﹂﹁五大思想﹂﹁数法相配釈﹂などといった諸要素に焦点をあ てて比較検討し、これら諸要素を含む日蓮遺文は﹁偽書﹂の疑いを免れ得ない、と結論づけたのである。要麟によれ すでに日輝自身、﹁本宗の妙観、正に一念三千常住不可思議を以て指南となすのみ。設ひ少しく五大常住・八葉九 ︵皿︶ 尊・無作三身・法界一念等と言ふも、今家︵Ⅱ日蓮︶の正意にあらず﹂と記して、密教的要素、あるいは中古天台の 本覚思想的要素は、日蓮の教義の本流とはなり得ないことを指摘していたのであり、龍山もそれを継承したのである。 だが、日輝はかかる指摘をなす一方で、本覚思想的色彩の濃い、現在では日蓮遺文として取り扱うことに異論もある 遺文も、疑うことなく日蓮のものとして援用している。龍山は、日輝のそうした姿勢をもそのまま受け継いだ。まさ にこの点が、龍山の限界として指摘されているのである。﹁日蓮教学を論ずる時は遺文の真偽・傍正の考証に不用意 であって、日輝をまだ脱しておらず﹂、﹁浅井要麟以後急速に発展した﹁祖書学﹂をまだ顧みない段階での論説である と評価せざるを得ない﹂とは、この謂いに他ならない。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ を論ずる時は遺文の真偽・傍正の考証に不用意であって、日輝をまだ脱しておらず、日本天台についてはこの頃 ︵皿︶ の清水龍山はまだ暗かったと云わざるを得ない。 第三節浅井要麟

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L﹂田守司ノ○ 遺文﹂として活用し得る環境が整うことになる。浅井要麟による﹁祖書学﹂は、このような基準を明示するとともに、 なく、しかも重要な思想を表明したと古来よりみなされてきた﹃観心本尊抄﹄や﹁開目抄﹄などを、いわゆる﹁標準 ば、こうした方法によって日蓮遺文中よりいわば來雑物を排除してはじめて、日蓮自身の手になるものとして間違い 、、 、、 かかる基準の採用を以て、中古天台的色彩を脱した、いわば﹁純粋﹂なる﹁根本宗学﹂を樹立しようと意図するもの であった。近代以前より既に長きにわたって懸案となってきた﹁台当相対﹂の問題は、これによって一つの結論に達 ︵吃︶ した、ということができるであろう。 それでは、こうした意図のもと、要麟はいかなる﹁根本宗学﹂を構想したのであろうか。 昭和一七年︵一九四一︶に急逝した彼の遺稿は、﹃日蓮聖人教学の研究﹂という大部の書物にまとめられ、昭和二 ○年︵一九四五︶に公刊された。本書の﹁前篇﹂は、﹁祖書学概論﹂の名のとおり、、王として﹁祖書学﹂の組織化に 論述があてられているが、﹁後篇﹂は﹁宗学の諸問題﹂と題され、そこに、立正大学での講義ノートを基に復元され た﹁宗学概論﹂という一篇が収められている。﹁前篇﹂中にも宗学の体系化に関する試論的記述がみられないわけで はない姥ここでは、主としてこの﹁宗学概論﹂によって、要麟の構想する﹁根本宗学﹂の一端を垣間見ておきたい ﹁宗学概論﹂の冒頭において、要麟はまず、﹁宗学﹂を次のように規定する。 宗学とは宗祖その人の宗教的体験、及びその余瀝を対象とする一家の特殊教学である。すなはち宗祖の宗教的体 験を全面的に、且つ正確に把握するを以て本質とする学である。然るに宗祖その人の宗教的体験も時と共に推移 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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ここでは、宗学は二つの側面において捉えられている。一つは、その本質的側面である。﹁宗祖の宗教的体験を全 面的に、且つ正確に把握するを以て本質とする学﹂といわれるものがそれに当たる。もう一つは、あくまでも﹁その 本質を害せざる限りに於て﹂、﹁時代性及び社会性を採り入れ﹂、その上に、その時代と社会に適合した指導精神を確 ︵媚︶ 立せんとする学I彼による別の表現を借りれば、﹁規範学﹂Iとしての﹁宗学﹂である。 このうち、まず前者についてであるが、要麟はそれを、その本質性に鑑み、﹁根本宗学﹂と名づけ詮要麟のいう ﹁祖書学﹂とは、この﹁根本宗学﹂のために必要とされ、かつ組織化されたものに他ならない。 ただ、﹁根本宗学﹂は、なにも今に始まったものではなく、さかのぼれば、源たる宗祖・日蓮に至りつくものであ 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ し、処に随って適応する必要がある。是に於てその本質を害せざる限りに於て、宗学に時代性及び社会性を採り 入れて時と処とに適応せしむる必要がある。かくて時代的生命を有し、社会的適応性を有する指導精神を確立す ︵M︶ る学を名けて宗学といふのである。 聖人の遺文と称するものが悉く真撰であるならばそれは絶対的であるが、今日遺文と称するものの中には必ずし も然らざるものが霞入して居るのであるから、その点に就ては真偽簡別の為めの文献批判的研究が必要である。 かくて選ばれた標準的遺文と、聖人の信解を通した法華経とに依って成立する宗学は根本的なものであり宗学の ︵叩︶ 規準である。

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とあるように、まずは、﹁根本宗学﹂と、時代・社会に応じた﹁規範学﹂としての宗学とのバランスの難しさが指摘 された上で、 い。したがって、次のようにいわれることになる。つまり、 試みられてきた、ということである。だが、要麟によれば、そうした試みの展開は常に﹁発展﹂であったとはいえな る。逆にいえば、宗祖以来、﹁根本宗学﹂は常に問われ、かつ、それを基本として、﹁規範学﹂としての宗学の樹立も 的であった。 ︵四︶ フ︵や○ 的であった。故にこれ等の宗学を一括して、発展宗学と呼ぶのは当らない。よろしく歴史宗学と呼ぶべきであ 間の宗学の歴史には時に隆夷消長があって或る時代は宗学上の暗黒時代であり、また或る人々の宗学は保守退嬰 環境に即したものであるべきである。然るに宗学の歴史は必ずしも生成発展の歴史のみではない。六百数十年 現代に至るまで六百数十年間に輩出せられたる諸師百家の宗学は、各々その時代に適応し、それぞれの社会的 ったり、社会状勢に迎合妥協するならば、その宗学は本質を離れて異端に堕する虞れがあ篭 宗学は洞渇してやがて時代及び社会と没交渉な固晒な宗学となり終るであらう。また余りに時代傾向に敏感であ ればならない。この場合本質に余りに忠にして時代思潮を無視したり、社会的傾向に無関心であるならば、その 時代及び社会に適応する所は宗学の発展であるがその発展たるや常に宗学の本質に顧みっ、正系的な発展でなけ 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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かかる﹁歴史宗学﹂は、もとよりそれが歴史的遺産である以上、それがそのままに現代社会の﹁規範学﹂となり得 るわけでは決してない。﹁根本宗学﹂に常に照らし合わせた上で、﹁歴史宗学﹂の達成点と限界点とを見極めつつ、宗 学の現代化が行われなければならないのである.こうして、﹁現代宗学﹂が求められることになるのである煽今も 述べたように、﹁現代宗学﹂といえども、﹁根本宗学﹂を看過して成り立つものではあり得ない。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ といわれることになるのである。 しかし、要麟によれば、﹁現代宗学﹂が確たるものとして成立しているとはいい難いのが現状である。そこで、﹁現 代宗学﹂成立のいわば基礎固めのために、﹁現代宗学の母胎ともなるべき根本宗学を回顧し、根本宗学の形式に於て ︵配︶ 吾が聖人の教義信仰修行安心の一斑を説明せん﹂として講ぜられたのが、﹁宗学概論﹂なのである。 要麟の﹁宗学概論﹂は、このように、彼自身のいう﹁根本宗学﹂を敷桁しようとするものであるが、その叙述は極 めて整然としており、体系的である。ここで、その体系性について詳述する暇はない姥要麟の急逝以来、ゆうに半 世紀以上を経た今でも、整然としたその体系性と、そこから必然的に帰結されるわかりやすさとにおいて、彼の﹁宗 学概論﹂の右に出るものはない、と評してよいと思う。だが、要麟の﹁宗学概論﹂に辛い評価を下し得るところが、 もしあるとならば、かかる体系性が、一方では、日蓮自身の宗教が孕むダイナミズムをあえて捨象することによって ︵現代宗学の︶発展たるや絶えず根本宗学に問ひ、根本宗学に討ねつ、、その発展が果して妥当なりや否やを顧 ︵割︶ る所の正統的発展でなければならない。

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得られたものである、という点に求め得るであろうか。 周知のように、日蓮自身はなによりも実践的な宗教者であったが故に、体系的な著作をほとんど残していない。日 蓮遺文の多くは、本来、生活状況や性格をそれぞれ異にする門弟やその集団に宛てて、時ないし処を変えてしたため られたものである。それらを﹁遺文集﹂に集成された形で通覧し得る後世の私たちが、そこに矛盾や齪嬬をきたすと 思われる表現を随所に見出したとしても、ある意味、仕方のないことであるともいえる。また、日蓮自身、平坦とい う表現とは対極にある生涯を送った人物であるだけに、樹立せんとしたその宗教に変遷がみられたとしても、むしろ 当然といわねばなるまい。しかし、要麟はlもとより、﹁概論﹂を叙すという制約もあったであろうがl、そうした 点をあえて整然たる体系性のもとにまとめ切ろうとするのである。もちろん、一見したところ矛盾や棚鶴とみえる点 や、ライフヒストリーに即した変遷を、いわば日蓮自身のダイナミズムとして積極的に捉え、その上でさらに体系性 の獲得を目指すという方法もあり得るのではあるが、要麟がとった方法はそうではない・彼の﹁宗学概論﹂において は、ライフヒストリーに即した思想的変遷が顧みられることはほとんどない。また、矛盾や棚酪とみられる表現の多 くも、日蓮のダイナミズムとしてではなく、そのまま矛盾や齪酪として一旦は受け止められる。その上で、それらを ﹁会通﹂するというやり方ではなく、むしろ矛盾や棚嬬を、彼のいう﹁標準遺文﹂によって解消しようとする方法が とられるのである。そうした例を、若干ではあるが、示しておきたい。 まず、日蓮の﹁仏身観﹂についてである。要麟は、日蓮遺文にあらわれる仏身観には二つの系統があるとして、次 のように記す。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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右の傍点を施した部分に、教学者としての浅井要麟の基本姿勢が明瞭に見て取られるであろう。彼は、﹁本尊観﹂ にも通じる﹁仏身観﹂に対して、﹁暖昧模糊﹂とした解釈を許さないのである。したがって、二種の仏身観の間をあ えて﹁会通﹂してまでも解決をはかろうとするやり方は、決してとられない。あくまでも、﹃観心本尊抄﹂や﹃開目 抄﹄といった、彼のいう﹁標準遺文﹂に解決の模範を求め、そこにあらわれた仏身観こそ日蓮本来のものである、と その上で、こうした二種の仏身観についての詳細な比較検討を行い、次のような論断を下している。 古今の宗学史上これを混同し、若くは種々の会通を加へて両立せしめんとする傾向がある。その結果それ等の仏 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 身観は暖昧模糊として、真の性格を把握し得ざる憾みがある。吾が宗の仏身観はやがて本尊観に通ずる重要問題 、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、、 であり、宗学上の中心となるべき問題であるから、その解釈は暖昧模糊であってはならない。そこで二種の仏身 観に於て首寅両端を持したり、牽強附会な会通に従ふくきではなく、﹁日蓮当身の大事﹂を開顕された本尊紗及 び﹁一期の大事﹂を明かにされた開目紗の指南に従ふくきであるが、両紗に顕はれたる仏身観は久遠実成の報身 としての釈尊であって、無作とか本有とかいふ本覚仏ではない。即ち寿量品に五百塵点とか、復倍上数とかいふ ︵霞︶ 有限な数量に託して、非数の無始を意味する古仏こそ吾が聖人の仏身観である。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 日蓮聖人の仏身観として伝へらる、思想に二つの系統があってその一は無始の古仏といふ思想であり、その二は ︵型︶ 無作三身の本覚如来といふ思想である。

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次に、﹁仏身観﹂を前提として論じられるべき﹁重要問題﹂とされる﹁本尊観﹂についての要麟の見解をみてみよ う。彼はまず、 結論づけるのである。 と問題提起を行う。そして、﹃観心本尊抄﹄を引いた上で、 と論断している。また、この問題について、要麟は別の見地から、次のようにも述べている。長文にわたるが、引い ておこう。 古来本尊の実体に就て或は仏といひ、或は法といひ、或は人法一如等と称して諸説紛々たる有様である。・・:: 両説とも御遣文中に典拠を有するが故にこれを止揚する方法に苦み、両者を会通して人法一如の本尊として解釈 するに至る。しかし三秘に於て人法を分解した上の本尊の実体に関する議論であるから、人法一体といふが如き ︵妬︶ 会通では意義をなさない。然らばその何れに従ふくきであらうか。 かくて本尊紗に於ける本尊観が仏本尊である限り、他のこれを規準として従ふくきである。況や報恩紗、開目紗 の如き、他の重要なる遺文が共に仏本尊であるから、本尊の人法に関する問題は決定的である。かくて本師釈尊 ︵”︶ こそ吾等衆生の帰依し奉るべき尊崇の対象であり、絶対の本尊である。 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶

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このように要麟は、﹁法本尊﹂対﹁仏本尊﹂という古来からの重要問題について、﹁人法一如﹂や、﹁教門の本尊﹂Ⅱ 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 本尊に就てその実体が客観的実在なりや、将た行者自身に内在する存在なりや、その点に就て古今の論議が今尚 決せざる現状である。大体に於て仏本尊論者は本尊の実体を本師釈尊として信解するのであるから、客観的な実 在として考へるのは妥当である。然るに法本尊論者は本尊の実体を法、即ち妙法五字の真理と考へ、そこに一念 三千の妙理が作用して本尊の実体は自己であり、己身であると思惟するに至った。従って本尊として勧請する大 曼茶羅は十界互具の自己の投影であり、己身の客観化に過ぎないと主張するのである。是に於て釈尊本尊論は客 観的実在論であり、法本尊論者は己身本尊論に一転して自己の客観化とするのである。而して古来前者を教門の 本尊といひ、後者を観門の本尊と称して居る。この二種の本尊観に於て論者各々その一を取って動かざるものも あるが、一部の論者はこれを会通して、教門の本尊は化他の本尊であり、観門の本尊は自行の本尊であるから、 二者その義分に随って一向にすべからずと主張するのである。 然るにこの会通論の如きは、単なる口頭論であって、未だ宗教の境地を窺ひ知らず、信仰の体験を経ざるもの の口耳三寸の論議に過ぎない。宗教の最も本質なるもの、信仰の対象たる本尊に対して一は化他の本尊、二は自 行の本尊といふが如き二箇の本尊観が両立し得る筈がない。信仰は思慮を絶し、義学を超越して単的に没入する ものであるから、本尊に対してもその義分に従ってこれを両種に意識するといふが如きものではない。故にその 実体は単一でなければならない。そこでその指南を開本両紗、報恩紗に求むるに、此等の標準遺文には何れも本 ︵認︶ 尊の実体を客観的実在とさる、ことに一致して居るのである。

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叙上のように、浅井要麟の﹁根本宗学﹂は、日蓮の宗教をそのダイナミズムにおいてではなく、純粋不変なる体系 性のもとに描き出そうとするものであったが、こうした﹁純粋不変なる体系性﹂の樹立には、信仰者たる自己の主体 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ ﹁化他の本尊﹂、﹁観門の本尊﹂Ⅱ﹁自行の本尊﹂といった﹁会通﹂を許さない。彼は、あくまでも﹁標準遺文﹂によっ て、日蓮における本尊は﹁仏本尊﹂であり、その実体は﹁客観的実在﹂である、と結論づけるのであ強3 以上の事例からして、すでに明らかであろう。﹁日蓮遺文﹂にみえる矛盾や剛嬬を積極的に日蓮のダイナミズムと して受け止めた上で、日蓮の宗教の全体像を描き出そうとする手法から、要麟は概して距離を置こうとするのであ ︵劃︶ る。そして、要麟のかかる姿勢こそが、彼の﹁根本宗学﹂にむしろスタティック︵静的︶な性格を付与している要因 である、と評することができよう。換言するならば、要麟がみずからの﹁根本宗学﹂において目指した﹁純粋﹂さは、 スタティックな体系性として結実した、ということである。 先にも記したように、筆者は、浅井要麟の﹁根本宗学﹂を高く評価するものである。彼の﹁根本宗学﹂が、教学者 として日蓮遺文に真筆に向きあうことによって確立された﹁祖書学﹂の結実であることの意義も、充分に弁えている つもりである。しかし、﹁祖書学﹂の成果として暗黙のうちに採用されている、﹁根本宗学﹂の方法論的前提1日蓮の 宗教におけるダイナミズムを基本的に捨象しようとするlには、筆者は与同し得ない。﹁こころみ﹂においてみずか らの宗教を構築しようとした日蓮自身の方法から必然的にもたらされるダイナミズムは、できるだけそのままに描き 出したい。筆者の志向は、あくまでもそうしたところにあるからである。 第四節望月歓厚

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 性においてなされる創造的な批判・反省が必要不可欠であることを強調したのが、望月歓厚氏である。以下、しばら く、氏の研究の集大成ともいうべき冒蓮教学の研垂と、講義草稿として遺された﹁宗学各論﹂とによって、望月 氏における﹁教学﹂と﹁宗学﹂の理念をみておこう。 望月氏にあっては、﹁教学﹂と﹁宗学﹂とは、その性格において区別されるべきものとしてそれぞれ位置づけられ る。 望月氏によれば、﹁教学﹂は、権威と不変性を伴った教義信条の体系である。﹁日蓮教学﹂の場合、﹁教学﹂の根本 が日蓮自身の教義信条に置かれることはいうまでもない。信仰者にとっては、日蓮自身の教義信条が絶大なる権威を 有するものであることもまた、言を待たないであろう。ただ、その﹁教義信条﹂なるものが、完成された一個の不変 なる体系として、信仰者の前に客観的に置かれているわけでは決してない。それを﹁不変なる体系﹂として整備する 仕事は、信仰者の主体性において不断になされるべき事柄に属するのである。しかも、かかる仕事は、日蓮自身とは 歴史的に隔たった後世の信仰者の手に委ねられていることを看過してはならない。厳然として存するこの歴史的隔た りを無視して、日蓮自身の教義信条に直ちに至り得るとする﹁復古的態度﹂に対し、望月氏が、 ﹃教学﹄は、その宗教における教義信条の体系で、一種の権威を伴い、不変性をもつものであるが、﹃宗学﹄は、 前者の基本的な線から出でて、﹁宗学する者﹂の主体性を通した、いわば、個性的な性格をもった学的体系であ ︵弧︶ る。

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という否定的評価を下す理由もここにある。 かくして、﹁日蓮教学﹂樹立の仕事には、今現在の信仰者がみずからの主体性において日蓮自身の教義信条を受け 止めるという不断の営みが必要になる。望月氏のいう﹁宗学﹂とは、﹁教学﹂の樹立に不可欠なこうした主体的営み に他ならない・氏にあって、﹁宗学﹂が﹁主体性を通した、いわば、個性的な性格をもった学的体系﹂といわれる所 以である。氏によれば、かかる﹁宗学﹂は、﹁時代精神に立脚し、学的な方法を駆使して、仏祖の全精神に根元的に ︵妬︶ 一如した自己の信仰を批判し、反省して﹂組み立てられるべきであり、このように﹁自己の信仰を対象とする学であ ︵師︶ るとすれば、自己が自己を宗学することで、創造の辞以外にはこれを表現することは能きない﹂ものなのである。 このように望月氏のいう﹁宗学﹂は、信仰者の主体性と、その主体性からもたらされる創造性を要求するものでは あるが、もちろん、その主体性と創造性とは﹁独断固晒に陥るの鐙を伴うものであってはならない。﹁宗学﹂が ︵調︶ ﹁学﹂である以上、そこには、﹁客観性・論理性を明かにすることが要求されるのである﹂。ただ、もとより氏にあっ ては、そうした主体性・創造性それ自体が目的なのではない。﹁宗学﹂の主体性と創造性は、あくまでも、不変なる 体系性と、それ故の権威性とを有する﹁教学﹂の樹立に結実するものでなければならないのである。望月氏が、みず 、、 、、 からの研究の集大成を﹁日蓮教学の研究﹄と銘打ち、その﹁緒言﹂において、﹁本研究は私の専攻する日蓮宗学の立 宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 史的に遡源して反って歴史の進展を無視する点に、根本的な欠陥があるのではあるまいか。我等が握み得るもの は過去の現在でなくて、現在の過去であることに気附くならば、根本は必しも根本ではなく、又、過去の真実が ︵弱︶ 必しも現在の真実であるかも疑わしい。

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宗学的日蓮研究︵間宮啓壬︶ 、、 ︵“︶ 場から日蓮聖人の教学の本質を究明する﹂ものであるとした所以である。 有するものであるといえよう。 実際、望月氏の仕事は、日蓮遺文を直接の素材とし、また、氏によって大きく開拓された﹁教学史﹂の成果を背景 としつつ、それらを主体的に解釈・消化し、自己自身の言葉と文体によって表現しようとする創造的自覚に溢れてい ると評しても、決して過言ではない。 だが、氏の目指す最終目標が、不変なる﹁教学﹂の樹立に置かれていることにも、重ねて意を留める必要がある。 望月氏にあって、みずからの主体性と創造性とは、氏自身の個性的﹁宗学﹂における重要な手段として活かされはし ても、それらは、あくまでも、日蓮自身の﹁教学﹂を不変性のもと描き出すという地点に落着しなければならないも のなのである。その故であろうか、﹁こころみ﹂によってみずからの宗教を構築しようとする日蓮自身のダイナミッ クな主体性と創造性とは、望月氏の描く﹁日蓮教学﹂からは、ややもすると捨象されているようにもみえるのである。 本来ならば、この点は逐一検証されるべきであろうが、その暇はない。ここでは、右にほんの一例を挙げるに止める ことをお許し願いたい。 望月氏のいう﹁宗学﹂とは、このように、みずからの主体性と、その主体性に基づいた不断の創造性とを孕みつつ、 しかも最終的には、不変にして権威ある﹁教学﹂を志向するという、緊張感に満ちた二面性をその理念的特色として 師なくして教自体の時間的歴史的発展はあり得ない。この教の内蔵する理的性格は、師の行動実践を媒介とする

参照

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