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19世紀後半アメリカ・マサチューセッツ州の講演会活動における日本に関する講演

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講演会活動における日本に関する講演

野 々 垣 明 子

1.問題の所在 本稿の目的は,19世紀後半のアメリカ・マサチューセッツ州で開催されてい た市民対象の講演会における,日本に関する講演の実施状況を明らかにするこ とである. 1854(嘉永 7 )年の日本の開国に伴い,アメリカには日本の文化・芸術に関 する情報や物品が数多くもたらされ,市民の間に日本に対する興味・関心が高 まっていた.赤堀によれば,こうした日本への関心の高まりを背景に,市民向 けに日本に関する講演が行われた1) 開国当時や明治期に日本を訪れたアメリカの旅行者や学者たちは,帰国時に 日本での体験を題材とした講演を実施し,日本の風土や風俗を市民に伝えた2) 本稿が研究の対象とする19世紀アメリカの地域社会における住民の学習運動, すなわちライシーアム運動(Lyceum Movement)でも,日本に関する講演が 実施されていたことが先行研究で指摘されている. 筆者はすでに複数の別稿において,ライシーアム運動に関する一連の研究を 進めてきた.以下では,筆者のこれまでの研究に関する最小限の要約に基づき, ライシーアム運動について説明を試みる.ライシーアム運動とは,1826年に鉱 物学者のホルブルック(Josiah Holbrook, 1788-1854)によって創始された地 域住民の学習施設「ライシーアム」(lyceum)の設置運動である.ライシーア ムは「実用知識」(useful knowledge)の普及と会員相互の向上を目的とした 施設であり,地域住民によって全米各地に設置された3).各地のライシーアム

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では,市民向けの講演会や討論会が開催されていた.筆者は,別稿においてマ サチューセッツ州のタウン,コンコードのライシーアムで実施されていた住民 相互の教え合い,学び合い活動である「相互教授」(mutual instruction)の実 践的,思想的特徴を検討した4).また,ライシーアムでは講演会や出版物によっ て,科学に関する知識や,家庭や学校における教育に関する情報が提供されて きたことも明らかにした5) ライト(Tom F. Wright)らの研究によれば,1850年代から70年代を中心に ライシーアム運動の講演会では市民に対し,海外の出来事や風土が紹介され た6).なかでも詩人のベイヤード・テイラー(Bayard Taylor, 1825-1878)によっ て,外国旅行講演が頻繁に実施された7).テイラーはアフリカ,アジア,ヨー ロッパ諸国を旅し,帰国後,旅行の体験を講演会の聴衆に伝えた.そのなかに は1850年代の開国時の日本の状況を伝えた講演も含まれる.周知の通り,ペ リー(Matthew Calbraith Perry, 1794-1858)は1853(嘉永 6 )年に日本を開 国させる目的を持って,艦隊を率いて浦賀に来航し,翌54年には江戸湾に再び 来航し,日米和親条約を結んだ.この時,テイラーはペリーに同行し日本を訪 れ,帰国後,その時の経験にもとづいて「日本と琉球」(Japan and Loo Choo) というタイトルの講演を行った8).テイラーは自らが立ち会った日本の開国と いう最新情報をライシーアムの講演会で聴衆に伝えたのである. このように,日本の開国の様子とアメリカとの関係について,テイラーがラ イシーアムで講演したことが先行研究で明らかになっている.とはいえ,ライ シーアムで日本に関する講演を実施したのはテイラーだけだったのだろうか. 明治初期にはアメリカから多くの学者が日本を訪れている.代表的な学者とし て,動物学者のエドワード・モース(Edward Sylvester Morse, 1838-1925), 天文学者のパーシヴァル・ローエル(Percival Lowell, 1855-1916)を挙げるこ とができる.モースやローエルは講演会や著書を通して日本の姿をアメリカの 市民に伝えたことで知られている9).アメリカ史研究者ローゼンストーンは モースが「ライシーアムの講演者」として「名声を築き上げていた」ことを指 摘している10).しかし,モースがいつ,どのような背景で,どのようなタイト ルで,ライシーアムにおいて日本に関する講演を実施していたのかは明確に示

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されていない. そこで本稿では,マサチューセッツ州のタウン,コンコードおよびセイラム におけるライシーアムの講演会活動に焦点をあて,日本に関する講演会の実施 状況を明らかにする.加えて,ライシーアム運動には含まれないが同時期のボ ストンにおいて,活発な講演会活動を実施していたローエル協会(the Lowell Institute)にも注目し,同協会の講座における日本に関する講演の実態を検討 する.本稿を通して,19世紀後半アメリカ・マサチューセッツ州において,市 民が日本に関する知識や情報をどのように得ていたのかを明らかにする. 以下では,アメリカ文学研究者キャメロン(Kenneth Cameron)によって 収集されたライシーアム運動の活動記録『アメリカ・ルネサンス期のマサチュー セッツ・ライシーアム』(The Massachusetts Lyceum during the American Renaissance, 1969,以下『マサチューセッツ・ライシーアム』)を用いて11) ライシーアムおよびローエル協会における日本に関する講演の実施状況を捉え る.さらに,ライシーアムで講演を実施したとされるモースの著作や,モース 研究者による評伝をもとに,モースが日本に関する講演を実施した背景とその 取り組み方の特徴を考察する. 2.コンコード・ライシーアムにおける日本を題材とした講演 コンコードはマサチューセッツ州のタウンであり,19世紀アメリカを代表す る思想家エマソン(Ralph Waldo Emerson, 1803-1882)やソロー(Henry David Thoreau, 1817-1862)らが居住していたことで有名である. キャメロンの『マサチューセッツ・ライシーアム』には,1829年から1881年 までの52年間にコンコード・ライシーアムで実施された講演会,討論会の記録 が掲載されている.記録には,講演会が実施された年月日,講演者氏名,講演 タイトルが含まれている.講演会で話された内容について言及されているケー スは少ない.アメリカ文学研究者の小野は,キャメロン収集の資料を分析し, コンコード・ライシーアムにおける講演会の実施状況を明らかにしている.小 野の分析によれば,コンコード・ライシーアムでは幅広い分野の講演が実施さ れたが,最も多い分野は「自然科学」であり,次に多いのは「社会学」であっ

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た.また,1850年代以降は,「地理」分野の講演が急増し,旅行者によって海 外の珍しい文化や習慣が紹介され,聴衆から歓迎されたという12).それでは, そうした海外に関する講演の中に日本を題材とした講演は存在したのだろう か.筆者はコンコード・ライシーアムの講演の全記録から,「日本」,「日本人」 あるいは日本文化に関わる単語が含まれている演題の抜粋を試みた.すると, 一例の講演の記録を発見することができた.それは,1878年 2 月13日に実施さ れた,モースによる「日本と日本人」(Japan and the Japanese)という講演 である13) 動物学者モースが日本を初めて訪れたのは1877(明治10)年 6 月である.当 初の来日目的は日本近海に生息する腕足類(シャミセンガイ)の研究であった. モースが横浜から東京へ移動中の汽車の車窓から大森貝塚を発見し,発掘に携 わったことが有名である.モースは来日時にいわゆる「お雇い外国人教師」と して東京大学理学部初代動物学教授に任命されている.このように,来日の当 初の目的は動物学研究であったが,モースは初来日を契機に,日本文化に強い 関心をもつようになった14).モースは著書『日本その日その日』(Japan Day by Day, 1917)において,日本の光景を初めて目にした時の感激を次のように 綴っている.「新しく珍しい景色を眺めた時,何という歓喜の世界が突然私の 前に展開されたことであろう」15),と.街の人びとの表情,服装,働きぶり, ニコニコしている子どもたち,珍しい建築や生活道具,等々.著書にはモース が観察した日本の光景が記されている.モースはその後,1878(明治11)年 4 月,1882(明治15)年 3 月と合計 3 回にわたり来日しているが,来日時には日 本各地をめぐり,日本の風景や日本人の生活ぶりを記録している. モースは1877(明治10)年 6 月に横浜港に上陸し約 4 ヶ月半の滞在の後,11 月下旬にアメリカに一時帰国している16).つまり,コンコード・ライシーアム における1878年 2 月13日の「日本と日本人」の講演は,帰国後それほど時間を おかずに実施されたということが分かる. 記録によると,もともとこの日には,「単細胞生物から人間へ」(From Monad to Man)という演題の講演が実施される予定であった.講演者はもち ろんモースである.しかし,モース自身の希望によって,「日本と日本人」の

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演題に変更されたのである.演題の変更に対する聴衆からの反対はなかったと いう17) この時の講演会で話された内容については記録されていない.したがって, モースが日本についてどのような話をしたのかは不明である.とはいえ,モー スが日本滞在時に実際に体験し記録した日本人の生活が,記憶と感動が新鮮な うちに聴衆に届けられていたことは確かであろう. なお,コンコード・ライシーアムにおいてモースは,来日以前にも「動物に おける成長の不思議」(the Wonders of Growth in Animals)18)という講演を

行った. 3.セイラム・ライシーアムにおける日本を題材とした講演 次に,マサチューセッツ州のタウンである,セイラムに設置されたライシー アムに焦点を当てる.セイラムは18世紀末から栄えた港町である.モースは 1866年以降,生活と活動の拠点をセイラムに置き,この町から各地への講演旅 行に出かけていた19).また,モースはセイラムのピーボディ科学アカデミーの 館長を務めていた.アカデミーは現在のピーボディ・エセックス博物館の前身 である.ピーボティ・エセックス博物館には,モースが来日時に収集した日本 の民具資料のコレクションが所蔵されている20).キャメロンの『マサチュー セッツ・ライシーアム』にはセイラム・ライシーアムの記録(“Historical Sketch of the Salem Lyceum, with a list of the Officer and Lectures Since Its Formation in 1830”,1879.)も収録されている.以下ではこの記録を主に使 用し,セイラム・ライシーアムにおける日本を題材とした講演の実態を検討する. セイラム・ライシーアムは1830年 1 月に創設された.筆者が2006年12月 5 日 にセイラムを訪れ,ライシーアム跡地で収集した資料によれば,設立されたの はセイラムの中心部のチャーチ街であった.劇場型の講堂を備えており,700 席を超える座席があったが,講演を聴こうとする住民で満員になり席が不足す ることもあったという21) 1830年 2 月24日には第 1 回の講演会が開催された.セイラム・ライシーアム の記録には,「講演会シラバス」として1830年から1879年の49年間にわたって

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実施された講演のタイトル,講演者の氏名が収録されている.記録によると講 演会は,49年間に795回実施されている.年度ごとの回数は異なるが,平均す ると毎年約16回の講演会が実施されている.初年度(1830年)には15回の講演 会が実施され,そのタイトルは以下の通りである22)

・「知識の役立ち」(Advantages of Knowledge)

・「古代の文書の信憑性」(Authenticity of Ancient Manuscripts) ・「蒸気機関」(Steam Engine) ・「生理学」(Physiology) ・「地質学」(Geology) ・「光学」(Optics) ・「神経系統」(Nervous System) ・「天文学」(Astronomy) ・「労働者の政党」(Workingmen’s Party)

・「公教育,セイラムにおける公立学校の起源」(Public Education, with a sketch of the origin of public schools in Salem)

・「人間の知性」(Human Mind) ・「呼吸」(Respiration)

・「血液循環」(Circulation of the Blood) ・「消化作用」(Digestion) このように,コンコード・ライシーアムと同様に,自然科学に関する講演が多 く実施されている.しかし,早くも翌年からは海外の諸地域に関する講演が 次々に実施されるようになった.それでは1830年代に実施された海外に関する 講演のうち,主なタイトルを以下に示す23) ・「ポーランドの歴史」(History of Poland) ・「ギリシャの現状」(Present state of Greece) ・「インドの歴史」(History of India)

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・「トルコの歴史」(History of Turkey) ・「中国」(China)

・「南太平洋の探検」(South Sea Expedition) ・「ロシア」(Russia)

このように,多様な国や地域に関する講演が実施されている.ライシーアム 研究者であるレイ(Angela Gail Ray)は,セイラム・ライシーアムで実施さ れた講演を例として,「ライシーアムでは,聴衆をとりこにする海外の歴史や 文化に関する豊富な話題が提供された」と述べている24) それでは,日本に関する講演はセイラム・ライシーアムにおいて実施された のだろうか.コンコード・ライシーアムの場合と同様に,「日本」,「日本人」, あるいは日本文化と関わる単語が含まれるタイトルの抜粋を試みた.「講演会 シラバス」には,第47期(1877-78)にモースによって「日本」(Japan)とい う演題の講演が実施されたことが記録されている25) 講演会が実施された日時,話された内容については記録がないため不明であ る.コンコード・ライシーアムと同様に,モースは第 1 回目の来日から帰国後, 時間をおかずにセイラム・ライシーアムでも講演を行っていることが分かる. ちなみに,モースはセイラムに移り住んだ1866年からほぼ毎年 1 回のペース でセイラム・ライシーアムにおいて講演を行っているが,それは動物学,生物 学に関する内容のものであった26) 4.モースによる日本に関する講演とその背景 以上,マサチューセッツ州のコンコードおよびセイラムのライシーアムにお ける日本を題材とした講演の実施状況を検討してきた.コンコード・ライシー アムでは1878年 2 月13日に「日本と日本人」という講演が,一方,セイラム・ ライシーアムでは1877-78年期に「日本」という講演がそれぞれモースによっ て 1 回実施された. このモースによる講演以外に,「日本」や「日本人」,あるいは日本文化と関 わる単語が含まれる講演を発見することはできなかった.コンコード,セイラ

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ムのライシーアムにおいて 1 回ずつという講演回数は非常に少ない印象を受け る.当時のライシーアムでは,多種多様なテーマの講演が実施されていた.数 回の単位の講座を設定してじっくりと一つの内容を学ぶことよりも,住民の興 味・関心を満たすことを優先して多くのテーマの講演が実施されていた.した がって,モースの講演のみならず,一人の講演者が一つのテーマの講演を単発 で実施することは,ライシーアムでは珍しいことではなかった27) それでは,モースは第 1 回目の来日から帰国後,どのような状況で日本に関 する講演を行っていたのだろうか.以下では,帰国時のモースの動向と日本に 関する講演への取り組み方をみていく. テレビやインターネットがない当時において,実際に諸国を旅した人物によ る講演や著作物は,海外の珍しい風土や風習を知り,理解を深める絶好の機会 である.中西によると,モースが第 1 回目の来日を終えて帰国した後に実施し た「日本の社会」という講演は聴衆から好評であったという28) 中西は著書『モースのスケッチブック』(2002年)において,モースによる 多数のスケッチ,書簡,著書に基づいて,その生涯を丹念に描き出している. 同書では,モースが1877年11月末にアメリカに帰国し,翌1787年 4 月中旬に再 び日本に向かうまでの 5 ヶ月間の動向が示されている. 中西によれば,モースは,1877年12月19日にボストン博物学協会で報告講演 を実施後,「前年から約束の講演会に飛び歩いた」29).おそらく,コンコード およびセイラムのライシーアムでの講演も事前に約束されていたものであろ う.さらに,中西の著書で紹介されているモースの手紙には,コンコード・ラ イシーアムで講演を行った同じ月(1878年 2 月)に,ペンシルヴァニア州フィ ラデルフィア,さらにはモースの故郷であるメイン州ポートランドでも日本に 関する講演を実施していたことが記されている.ちなみに,このモースの手紙 はニューヨークで投函されたものである30).モースは帰国後の短い期間に,さ まざまな土地をまわり,精力的に日本に関する講演を行っていたのである.コ ンコードおよびセイラムのライシーアムにおける講演は,その回数だけに注目 すると,非常に少ないのは確かである.とはいえ,同時期のモースの動向と照 らし合わせると,一回という講演回数であったことにも納得ができる.

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それでは,モースが各地で日本に関する講演を実施していた背景にせまって みたい.モースは著書『日本人の住まいとその周辺環境』(Japanese Homes and Their Surroundings, 1886)の冒頭において,日本を含む他国を研究する時, 他文化,他国民に対してとるべき態度について,つぎのような見解を示している. 「他国民を研究するにあたっては,可能ならば,無色の眼鏡をとおして観 察しなければならない.とはいえ,どうしても,この点での過ちを避けら れないなら,せめて眼鏡の色はバラ色であるべきだ.そのほうが,偏見と いう煤でよごれた眼鏡よりはましであろう.」31) モースが初めて来日する前年(1876年)にフィラデルフィアで万国博覧会(独 立記念博覧会)が開催された.この万博では,日本から多くの美術工芸品が送 り込まれ展示されたほか,会場内に「日本館」と呼ばれる和風建築も建設され た32).モースによれば,この万博を期に「日本ブーム」がわき起こり,日本や 日本の美術に関する書物が次々と出版された.「田舎」の雑貨店でも日本から 輸入された安価な工芸品が売られていたという.しかし,モースの目からする と,それらは実際の日本人による芸術や日本人の性質とはかけ離れているばか りか,誤って伝えられているものばかりであった33).また,ヘニングによれば, 日本の開国以降,アメリカ人の日本への関心が高まり,旅行者や学者によって 次々と日本人論が展開されていた.そのなかには,日本人や日本の文化・制度 を西洋文明と比較し「劣ったもの」として描写するもの,日本を「空想上の虚 構の世界」と捉え,好奇心をかきたてる「娯楽対象」として描くものが含まれ ていた34).モースの「偏見という煤で汚れた眼鏡」という言葉は,当時のアメ リカ人の日本に対する認識を表現していると考えられる. 後年,モースは日本に関する講演を実施するだけでなく,講演をもとに著書 を発表したが,斎藤はそうした行為の動機を次のように解釈している.「兎とに も角かくもありのままなる日本の生活文化を正しく観察=記述した科学的報告を提 出する義務に駆られないわけにはいかなかった,というふうに摘要できるかと 思う」35),と.

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このようにアメリカにおいて日本への関心が高まり,日本に関する様々な言 説があらわれるなかで,モースは日本文化を解釈する際に客観的なアプローチ を貫こうとした.コンコードおよびセイラムのライシーアムにおける日本を題 材とした講演は,こうした背景のもとで実施されていたのである. 5.ローエル協会における日本を題材とした講演 (1)1880年代から1890年代の講演 モースはその生涯で 3 回にわたり日本を訪れている.第 1 回目は1877年 6 月 から11月,第 2 回目は1878年 4 月から 9 月,第 3 回目は1882年 4 月から1883年 までである.すなわち,1878年のライシーアム講演は,モースによる日本研究 の初期に実施されたのである.それではその後,モースによる日本研究と講演 はどのように発展していったのであろうか. 第 2 回,第 3 回来日時,モースは東京を拠点に日本各地を旅行し,日本人の 生活を鋭く観察し記録に残したほか,多くの陶器や民具を収集した36).自らの 目で観察し,足で歩いて集めた日本に関する情報を,アメリカに帰国後,講演 や著書を通して発表した.モースの講演では黒板が用いられ,日本の光景が正 確なスケッチで表現され,好評であったという37) モースが行った代表的な講演として,ボストンのローエル協会で1881年から 82年の冬に実施した12回の連続講演をあげることができる.モースは日本人の 生活や日本の文化を12の題材にわけて講演した38).この講演は満員の聴衆の前 で行われ,その中にパーシヴァル・ローエルが含まれていた.ローエルはモー スの講演を聴いたことから日本に強い関心を持つことになり,後に日本を訪れ 日本人の精神文化や神道について研究することになった39).キャメロンの『マ サチューセッツ・ライシーアム』には,ライシーアムの他にローエル協会の講 演の記録も収録されており,モースによる12回連続講演は1881年から82年の冬 期の他,1883年から84年の冬期にも実施されたという記録が残されている40) なお,上述のローエルもローエル協会で,1893年から94年の冬期に「日本の精 神主義」(Japanese Occultism)と題した 6 回連続講演を行っている41) 中西によれば,モースの「日本」講演は「1877年の冬からそろそろ始まって

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おり,79年以降,動物学をさし置いた人気で,ボストンにいわばサロンを持つ 人びとにも大きな関心が持たれた」42)という.モースはローエル協会での講演 をもとに著書『日本人の住まいとその周辺環境』(1886年)を出版した43) このように,1880年代から90年代にかけてモースやローエルは,ローエル協 会での講演や著書を通して日本文化を積極的に紹介したのである. (2)日本人による講演 ― 動物学者・箕作佳吉の講演 これまで,ライシーアムおよびローエル協会における日本を題材とした講演 の実施状況を明らかにしてきた.明治初期に日本を訪れたモースやパーシヴァ ル・ローエルが,体験を通して得た情報を提供していた.それでは,同時期に 日本人による日本に関する講演は行われていたのだろうか.宮本は19世紀後半 のアメリカにおいて,「日本人留学生のなかにも,時間講師として日本に関す る講義をするものもあらわれた」44)と指摘している.そこで以下では,再びキャ メロン『マサチューセッツ・ライシーアム』収録の記録から,日本人によって 行われた講演が実施されていたのかどうかを探っていく. コンコード・ライシーアムおよびセイラム・ライシーアム,ローエル協会の 記録には,主に講演者の氏名,講演のタイトル,講演者の職業,居住地が記さ れている.講演者の国籍は明記されていないため,その人物の氏名によって日 本人によるものかどうかを判断した. コンコードおよびセイラムのライシーアムの記録では,日本人と推測される 人物の講演記録を探し出すことはできなかった.ローエル協会では1897-98年 期,箕作佳吉(prof. Kakichi Mitsukuri, Ph.D)が「日本の社会生活」(the Social Life of Japan)と題した 3 回連続講演を実施している.正確に言えば, 箕作は3回の連続講演を 2 度繰り返しているため,合計 6 回の講演を実施した ということになる45).箕作は「日本動物学の父」と呼ばれる動物学者である46) 以下では,玉木存による箕作の伝記(『動物学者箕作佳吉とその時代 ― 明治人 は何を考えたか ― 』)に基づいて箕作の生涯と業績について概説する. 1858(安政 4 )年に津山藩(岡山県)に生まれた箕作は,幼少期に緒方洪庵, 保田東偕のもとで漢学を学んだ.さらに父親である箕作秋坪の三叉学舎で洋学

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を学び,慶應義塾で英学を修めた.幼くして学問に志した箕作がアメリカに留 学したのは1873(明治 6 )年15歳のときである.アメリカに渡った箕作は,コ ネチカット州ハートフォードの高等学校,トロイのレンサラー工科大学を経て, エール大学に入学し動物学を専攻した.Ph.D の学位を取得後,ジョンズ・ホ プキンス大学に入学して,軟体動物の斧足類の研究に取り組んだ.その後, 1881(明治14)年にアメリカを離れ,ヨーロッパ諸国を巡った後帰国し,翌年 には,東京大学理学部動物学担当教授に就任した47).箕作の研究は海外の雑誌 にも掲載され,動物学者としての名声は国内外に広く知られていた.箕作は動 物学者としてモースと交流があり,モースの著書『日本人の住まいとその周辺 環境』の冒頭では箕作佳吉の研究が紹介されている48).なお,箕作は御木本幸 吉に対して真珠の養殖が可能であると助言したことでも知られている49) 箕作は1897(明治31)年,ワシントンで開催されたオットセイ保護会議に出 席するために渡米した.会議後ボストン市の求めにより「日本の社会生活」の 講演を実施した.玉木によれば,箕作はこの講演において天皇制について語り, 欧米諸国とは異なる日本の歴史と文明の特性についての理解を求めたとい う50).このように,ローエル協会はアメリカ人だけでなく,日本人の講演者に も開かれ,箕作によって日本人の立場から日本に関する講演が実施されたので ある. 6.結 以上,本稿では,19世紀後半のマサチューセッツ州のライシーアムおよびロー エル協会における日本を題材とした講演の実施状況を検討した.1870年代後半 から1890年代にかけて,モースやローエルは,自らが獲得した日本に関する情 報を講演を通して市民に紹介した.また,動物学者の箕作佳吉はローエル協会 での講演を通して,日本人の立場から日本の歴史や文明について解説し,日本 に対する理解の促進を目指した.このように,19世紀マサチューセッツ州にお ける講演活動は,市民が日本に関する情報を獲得し,日本という他文化につい て学び,理解を深める機会となっていたのである. しかしながら,本稿では,実際の講演で語られた内容について触れることが

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できなかった.また,日本に関する講演によって,市民たちの日本に対する認 識に何らかの変化がもたらされたのかどうかについても,検討することができ なかった.19世紀後半のマサチューセッツ州で実施された日本に関する講演の 内容とその影響については,今後の課題としたい. 1 )赤堀正宜『ボストン公共放送局と市民教育 ― マサチューセッツ州産業エ リートと大学の連携 ― 』東信堂,2001年,32,46頁参照. 2 )宮本又次「アメリカにおける日本研究の発展」宮本又次編『アメリカの日 本研究』東洋経済新報社,1970年,3 頁.

3 )Josiah Holbrook, “Association of Adults for Mutual Education,” in: American Journal of Education(1826), pp.595-596. ライシーアム設置の 構想については,古川明子「教育復興期マサチューセッツ州におけるタウ ン住民の学習運動 ― ライシーアムの設置と公教育制度化との接点 ― 」教 育史学会『日本の教育史学』第48集,2005年10月,3 頁を参照. 4 )古川明子「ライシーアム運動の再評価 ― 1830・40年代のコンコード・ラ イシーアムにおける『相互教授』の思想と実践を中心に―」日本教育学会 『教育学研究』第69巻第 3 号,2002年 9 月,59-68頁参照. 5 )古川明子「ライシーアム運動における科学的知識普及の意義 ― ジョサイ ア・ホルブルック編集『週間ファミリー・ライシーアム』を素材として ― 」 日本社会教育学会『日本社会教育学会紀要』No.39,2003年 6 月,97-106 頁参照.古川明子「ライシーアム運動における教授情報の普及とその理念 ― 1830年代前半のマサチューセッツ州のタウンにおいて ― 」筑波大学教 育学会『筑波教育学研究』第3号,2005年 3 月,85-100頁参照. 6 )ライシーアム運動における海外の情報を題材とした講演については,以下 の研究で詳細に検討されている.Tom F. Wright ed., The Cosmopolitan Lyceum; lecture culture and the globe in nineteenth-century America (Amherst & Boston: University of Massachusetts Press, 2013). 7 )Carl Bode, The American Lyceum, town meeting of the mind

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(Carbondale and Edwardsville, Southern Illinois University Press, 1968), pp,134-135.小野和人『ソローとライシーアム ― アメリカ・ルネサンス 期の講演文化 ― 』開文社出版,2000年,29頁.

Tom F. Wright, op.cit., p.12.

8 )Peter Gibian, “The Lyceum as Contact Zone; Bayard Taylor’s Lectures on Foreign Travel,” in: Tom F. Wright ed., The Cosmopolitan Lyceum; lecture culture and the globe in nineteenth-century America(Amherst & Boston: University of Massachusetts Press, 2013), p.174.

9 )ジョセフ・M・ヘニング(空井護訳)『アメリカ文化の日本経験 ― 人種・ 宗教・文明と形成期米日関係 ― 』みすず書房,2005年,113頁参照.赤堀, 前掲書,46-47頁. 10)ロバート・A・ローゼンストーン(杉田英明・吉田和久訳)『ハーン,モー ス,グリフィスの日本』平凡社,1999年,106頁参照. 11)同書においてキャメロンは,コンコード,セイラム,リンカーンの各タウ ンのライシーアム,及びローエル協会の講演会活動の記録を掲載している. 詳しくは,Kenneth Cameron ed., The Massachusetts Lyceum during the American Renaissance(Hartford: Transcendental Books, 1969).

日本のアメリカ文学研究者である小野和人はキャメロン収集の記録に基 づいて,コンコード・ライシーアムにおける1829年から81年の52年間の講 演活動の実態を詳細に分析している.とはいえ,小野の研究では「日本」 を題材とした講演について言及されていない.詳しくは,小野,前掲書参照. また,筆者もキャメロンの記録を元にコンコード・ライシーアムにおけ る「相互教授」の思想と実践を検討した.詳しくは,古川明子「ライシー アム運動の再評価 ― 1830・40年代のコンコード・ライシーアムにおける 『相互教授』の思想と実践を中心に ― 」参照. 12)小野,前掲書,25-29頁参照. 13)Kenneth Cameron, op.cit., p.185.

14)落合知子「モース,エドワード・S」青木豊・矢島國雄編『博物館学人物 史上』雄山閣,2010年,71-77頁参照.

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15)エドワード・S・モース(石川欣一訳)『日本その日その日 1 』平凡社,4 頁. 16)中西道子著/モース画『モースのスケッチブック』雄松堂出版,2002年,

287頁.

17)Kenneth Cameron, op.cit., p.185. 18)Ibid. 19)中西,前掲書,1,172,178頁. 20)中西,前掲書,382-383頁.落合,前掲論文,71,75頁. 21)セイラム・ライシーアムの跡地では,筆者が訪問当時,「ライシーアムバー &グリル」という名前のレストランが営業されていた.そこでは,セイラ ム・ライシーアムの沿革と歴史を記したリーフレット「ライシーアムホー ルの歴史」(The History of the Lyceum Hall)が配付されていた.本文中 のセイラム・ライシーアムの建築,講堂の形状の情報は,このリーフレッ トに基づくものである.

22)“Historical Sketch of the Salem Lyceum, with a list of the Officer and Lectures Since Its Formation In 1830” in: Kenneth Cameron ed., The Massachusetts Lyceum during the American Renaissance(Hartford: Transcendental Books, 1969), p.15.

23)Ibid., pp.15-17.

24)Angela G. Ray, “How Cosmopolitan was the Lyceum, Anyway?,” in: Tom F. Wright ed. The Cosmopolitan Lyceum; lecture culture and the globe in nineteenth-century America(Amherst & Boston: University of Massa-chusetts Press, 2013), p.34.

25)“Historical Sketch of the Salem Lyceum, with a list of the Officer and Lectures Since Its Formation In 1830” in: Kenneth Cameron ed., The Massachusetts Lyceum during the American Renaissance(Hartford: Transcendental Books, 1969), p.23.

26)モースがセイラム・ライシーアムで実施した講演は以下の通りである. 「動物の移動方法」(Modes of Locomotion in Animal).「人間の社会的 地位」(Social Status of Man).「図解説明の技術」(Art of Illustration).

(16)

「自然淘汰による進化」(Development by Natural Selection). 27)古川明子「教育復興期マサチューセッツ州におけるタウン住民の学習運動 ― ライシーアムの設置と公教育制度化との接点 ― 」参照. 28)中西,前掲書,284頁. 29)中西,前掲書,287頁. 30)中西,前掲書,290頁.

31)Edward S. Morse, Japanese Homes and Their Surroundings(New York: Dover Publications, Inc. 1961),p.xxxii.(斎藤正二・藤本周一訳『日本人の 住まい』八坂書房,2004年).

32)安高啓明『歴史のなかのミュージアム ― 驚異の部屋から大学博物館ま で ― 』昭和堂,2014年,50-51頁.

33)Morse, op.cit., p.xxix.

34)ヘニング,前掲書,6-7頁,39-40頁. 35)斎藤正二「解説 ― 『日本人の住まい』の “民俗学的思考” について ― 」 モース著(斎藤正二・藤本周一訳)『日本人の住まい』八坂書房,2004年, 367-368頁. 36)落合,前掲論文,74-75頁. 37)中西,前掲書,5,290,360頁. 38)モースの著書『日本その日その日』の緒言には,ローエル協会での12回連 続講演で語られた内容が次のように示されている.「(1)国土,国民,言語. (2)国民性.(3)家庭,食物,化粧.(4)家庭及びその周囲.(5)子供, 玩具,遊戯.(6)寺院,劇場,音楽.(7)都会生活と保健事項.(8)田舎 の生活と自然の景色.(9)教育と学生.(10)産業的職業.(11)陶器及び 絵画芸術.(12)古物.」(モース『日本その日その日 1 』,22頁). 39)宮崎正明『知られざるジャパノロジスト ― ローエルの生涯 ― 』丸善, 1995年,10頁.ヘニング,前掲書,113頁参照.

40)Kenneth Cameron, op.cit., pp.55-56.

41)Ibid., p.58. ローエルはこの講演をもとに,著書 Occult Japan,Or the Way of the Gods: an Esoteric Study of Japanese Personality and Possession を

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出版した.ローエルのこの著書は平岡厚と上村和也によって翻訳されてい る.詳しくは,パーシヴァル・ローエル(平岡厚・上村和也訳)『神々へ の道 ― 米国人天文学者の見た神秘の国・日本 ―』国書刊行会,2013年. 42)中西,前掲書,360-361頁.

43)Kenneth Cameron, op.cit., p.66. 44)宮本,前掲論文,3 頁. 45)Kenneth Cameron, op.cit., p.59.

46)下湯直樹「箕作佳吉」青木豊・矢島國雄編,前掲書,100頁.

47)玉木存『動物学者箕作佳吉とその時代 ― 明治人は何を考えたか ― 』三一 書房,1998年,16-19,23,36-38頁参照.

48)Morse, op.cit., p.viiii.(斎藤正二・藤本周一訳,前掲書,iii 頁.) 49)下湯,前掲論文,107頁.

50)玉木,前掲書,260頁参照.

〔謝辞〕

参照

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