ⓒ高知大学人文社会科学部 人文社会科学科 国際社会コース
ロ バ ー ト ・ ブ ラ ウ ニ ン グ
「 荒 野 の 死 」
吉 門 牧 雄
訳
〔アンテオケ人、パンフィラックスによるものと思われる。 それは羊皮紙写本で、私の巻物の五番目だが、三枚の皮が糊のり付づけされている。 全てはギリシャ語で書かれ、エプシロンの項からミューの項まで続き、 テレビン油で着色され、保存されて、「選ばれた櫃ひつ」 と称される箱の二番目に置かれている。 櫃は髪の布で覆われ、クシーという字が付いている。 この字は、今は天国で安らかに眠っている私の妻の叔父であるクサンサスから取ったものだ。 ミューとエプシロンとは私自身の名を表している。 それを書くことが出来ないが、主の来臨を他の者たちと共に待っていることを示すため、 十字架の印を書くことにして、ここで話を終えよう。 パンフィラックスはこう語り始める。〕 私は言った、 「彼の唇をブドウ酒で潤し、私たちが見つけた幅広のオオバコの葉か、 リネンの服のたれひだを水差しに浸し、きちんと敷いて、 目のすぐ上の所で額を冷やしたなら その間、一人の兄弟が側らに跪き、 彼の両手をさすり、暖めようとするならば 語ることが不可能な程、彼の意識は遠くに退いてはいない。 このことは洞窟の出口近くで起こったのでも、勅令が出てから六十日間、 彼を駱駝の皮に寝かせ、その間ずっと彼の死を待っていた、 岩の秘密の部屋で起こったことでもなかった。 それは洞窟の中央での出来事であった。 そこならば昼の光が少しは届くので、 彼の顔に起こるであろうことの最後を見逃すことはないだろう。 私は頭のところに、クサンサスは足のところに居て、 ヴァレンズや少年と共に彼を持ち上げ、奥まった部屋から彼を運んで、 顔が見えるように、光の射すところに横たえたのであった。 微笑が彼の口元に現れ始め、最期の前触れのように彼の唇が動いたからだ。 向こう側、洞穴の入り口へ続く坂道の途中の所では、
バクトリア人の改宗者が自ら志願して見張りをし、色々な草の切れ端や 岩陰で生き延びたオオバコやシバムギを、 乳を与えてくれる山羊に食べさせるふりをしていた。 盗賊や追手の兵士がやって来た時には、(迫害は警戒すべき状況であったので) 山羊を彼の生命と共に即座に与え、追手が戦利品に喜ぶあまり通りすぎ、 涼しい穴の中を見ようとも思わせないようにするためだ。 外は真昼で、燃えるような青空であった。 『ここにブドウ酒があります」とクサンサスが答え、一滴だけ落とした。 私は屈みこみ、布の重なりをきちんと直した。 それから、彼の右手を摩り、少年が左手を摩った。 しかし、ヴァレンズは思うところあって、ナルドの香油をビンに入れ、 それを打ち壊して芳香をたてた。 彼は目覚めたというのではなく、ただ寝返りを打って少しだけ微笑んだ。 ちょうど愛しい人が呼びかけ、その顔に触れたならば、 眠っている者でも微笑み返し、愛を示すが、かき乱されることもない様に。 それから、クサンサスは祈りを捧げたが、彼は眠ったままだった。 ローマに逃亡し、火で焼かれ、記録を書き留められなかったのは、 このクサンサスである。 少年は急に飛び上がって、突然の閃ひらめきに駆り立てられて走りだし、 秘密の部屋から文字を刻みつけた第七の鉛の板を持って来て、 ひとつの箇所を見つけ、指で他よりも深く掘られた窪みを押さえて、 あたかも彼の口が初めて言うかのように、 『我は復よみがえり活なり、生い の ち命なり』と唱えた。 すると、彼は即座に目を大きく開いて、自ら起きあがり、私たちを見つめた。 その時から、誰一人として声を発した者はなかった。 ただ、外ではバクトリア人が時折、私たちが安全である徴しるしとして、 首毛をまとう孤独な砂漠の鳥のような鳴き声をあげた。 最初にヨハネは言った、「一人の友が私に、 この私の息子ヴァレンズとこの私のもう一人の息子とが、 ヤコブとペテロであると言ったなら、いや、その上、 この青年がまさにヨハネだと言ったとしても、私は信じることができるだろう。 一瞬の間は、疑いなく信じることができよう。 それ程、私は自らの深みに引きこもっている。 魂は朽ちた頭脳から退却している。 その頭脳から、これらの鈍い器官を通して、魂は世界を感じ利用していたものだった。 それらもとっくの昔に用済みになっているが、何も失われたものはない。 しばらく、そのままにしておこう。 しかし、私自身はなおそのままであり、私は自分自身を感じる。」
〔これはヨハネがよく教えていた教え。 いかに多彩な人格が、一人ひとりの中で証しすることか。 三つの魂が一つの魂を作り上げている。 第一のものは身体の全ての部分よりなる魂である。 身体の中に宿って働きをなすもの、すなわち、成すところのものである。 それは地上のものを利用し、人間を墓に下らせるが、助言を求めて上に向かい、 次の魂へと成長し、また次の魂に成長を促される。 次の魂は頭脳の中に宿り、第一の魂を全体的に利用し、感じ、考え、 意志するところのもの、すなわち、知るところのものである。 それは、今度は正しく上に向かって進みつつ、 最後の魂へと成長し、また、成長させられる。 この魂は最初の二つを両方とも使い、 それらが助けようと助けまいと存在し、 人間の自己を構成するものであり、 在るところのものである。 そして、第二の魂が第一の魂を十分に働かせるように、 これは第二の魂に寄りかかって、それを働かせる。 この魂は上に進んで、神をとらえ、神に支えられて、 ついに人を、あの畏れおののく神との交わりへと引き上げる。 それは場所を必要としない。 この魂は神に帰るからである。 成すところのもの、知るところのもの、在るところのもの、 これら三つの魂が一人の人を創る。 私、パンフィラックスはセオティパスの注釈を与える。〕 ヨハネは続けた、「私は一つの小枝のように、 かつては端から端まで火で燃えていたが、 今となっては、一つの火花を保つ先端を除いては灰となっている! しかし、火花を吹いてご覧、それはまた燃え戻り、火があった所に少し広がる。 このように私は自分に仕えていた魂を駆り立てる。 ついに、魂は何とか形を保っていた頭脳のわずかばかりの灰に、もう一度仕事を課す。 そして、この灰は再び物事の真実を味わおうとして、 肉体の最後のものを使って努力するに至る。 (彼は微笑んだ。) 非常に表面的な真理だ。 あなたがたが私の息子であり、 ヤコブとペテロとが死によって開放されてから長い時間がたっていること、 また、私が全てを見、聞き、全てを思い出せる唯一人の人、 あなたの兄弟ヨハネであるといった真理は。
全てを思い出せる!そう言っても過言ではない。 かつてしばしば起こった様に、真理が天より私の上に突然に現れたとしたらどうか。 そのような事はまた起こるかも知れない。 疑いもなくキリストは、ここに臨在して立っておられるかも知れない。 かつて私が見たように、羊毛のように白い頭で、炎のような目で真鍮のような足をして。 私は今ただ打ち震えて、いかにあなたの兄弟であるこの私が、 そのような驚くべき光景を見てもなお、それに耐えて生きのびられたかを推察する。 私がなお生きているならば、それは善き事のためであった。 私を通して人々にもっと多くの愛が伝わるためであったのだ。 たとえ、かつてヨハネであったところの私の姿をしばらく保っている、 ここにある灰以外に何も無いとしても、それでもなお、その灰が散逸する時、 地上にはキリストを知っていた生き証人が一人も残らなくなる。 (このことを考えよ!) 初めからあったもの、すなわち生命の言をその目で見、その手で触れたものは、 誰もいなくなる。 『私は見た』と言う者が、もはやいなくなった時どうなるのだろうか。 このようなものが常に愛の法則であった。 すなわち、起き上がるために、愛は屈むのである。 キリストの口が教えられた私が教えることを命じられて以来、 私は長年にわたって世界中を歩き回り、 『それは、そうであった。そう私は聞き、見た』と語った。 事情が求めるままに語り、人々は信じた。 その後、パトモス島において神託が私自身に臨んだ。 私は教えることは命じられず、ただ耳を傾けて、紙をとり、書くこと、 しかも、私の判断で選び、変えることはせずに、 与えられた言葉だけを書くよう命じられた。 私は書いた、そして人々は信じた。 それから、私の人生の残りの時が短くなり、もはやそれ以上の神託もなく、 再び書くようにとの召命もないので、私は一つの道を見出して、 私の知識から推論して、ただ『人々は愛のために、 愛の力の中で信ずべきである』と教えた。 あるいは、私は友人に書簡を書き、友人としてそのことを薦めた。 それ以上でも、それ以下でもない。 友らは言った、私が正しく推論した、と。 そして信じた。 しかし、ついに、ああ、私はパトモスの岸辺に弱々しく、 クラゲのように生きて残された。 それは、乾いた海岸を見つめる人々に、そこに地中海があるのに、 私がどのようにして渡って来たかを、また大いなる事々を語るためだった。
『私は見た、聞いた、信じた』と繰り返すため、 そして、この世にはすでに反キリストがいたので、 もう一度なつかしい土地を隈なく歩くために残されたのだった。 すると、多くの反キリスト者たちは即座に答えた。 『お前自身がヨハネであると同じように、私はジャスパーではないのか。 いや、老年のためにお前は忘れてしまうかも知れぬが、私は若い。 だから説明してくれ。さもなければ、どうして信じられようか』と。 私は決して、そのような者たちに火を降そうとは考えなかった。 あるいは、奇跡に満ちた初めの日々のようにサソリを掴み、 黙って蛇を踏んだりせずに、忍耐強く、忘れられたり誤って伝えられた、 主の生涯の多くを語ったのである。 そして、それを働かせた。 最初、行為と言葉において、単純にではあるが、 十分に人の目にさらされた多くの出来事が成長して、 (あるいは、私の魂があのような光と親しみ、あのような年月を通して養われ、 常に見て語れるよう守られ導かれて、 それらに相応しい者に成長させられたのかも知れないが、) 新しい意義と新鮮な結果を帯びるようになった。 初めは点と思われたことが、今や星であるのを私は知った。 そして、私が書いた福音書の中にその名を記した。 というもの、『それは、はるか昔になりつつある』と人々は言い、 『主がやって来られる約束はどこにあるのか』と意気盛んな若者が、 あたかも待つのを厭いとうかのように、彼らの父祖が生まれた時、 すでに年老いていた私に尋ねたからだ。 私は彼らを愛していたので、喜んで答えた。 私がそこにおり、老年になって助けになったからだ。 そして、概おおむねそのような人々は信じたと思う。 最後に、このように努力しつつ、私は病気になったので、 あなたがたがここに私を連れて来た。 私は最期を予期し、一つの考えを抱いて眠りについた。 この世の全ては邪悪の中に横たわっているけれども、 私たちは真理を持っていたのであり、他のことは神に委ねよう。 しかし、今や私は、以前の自分の存在を越えて、 老衰の中にはるかに滑り落ちて目覚めた。 その間、突然変化する事実に拠り所を掴もうとしつつ、 ついに私は自身の世界から離れたところにあって、 空虚な深淵の中に足場を手探りしていた。 見知らぬ土地の、まだ生まれていない人々と共に、その者たちは語った。 私は彼らが語るのを聞いたか、あるいは、語っていると想像した。 『いったいヨハネという者がいたのか。
そして、彼は見たと言ったのか? 何を彼が見たかを私たちが尋ねる前に、私たちを確信させよ』と。 だが、どうやって私は彼らを確信させられようか。 彼らは肉体を持ち、魂の周りに若さと力のベールとを纏まとっているので、 彼らを確信させるためには、ベールの厚さを薄くし、 人に見る目を与える年月を助け手として、なおも生きつつ学んで、 好機を待たねばならないのに。 全く引き止められることもなく、打ち震えつつも霊肉の間にほとんど隔てとてなく、 宇宙の光線にむき出しとなっている私と、何かを共有することができるのだろうか。 私たちが、神が愛しておられる私たちが、老いて弱くなったのは無意味だったのか。 苦しみが終わる時、進歩もまた終わる。 私にとってあの話、そうだ、私が『それはあった』と書いたあの生涯と死とは、 私にとっては今あることなのだ。 ここに今ある。わたしは他の何ものをも知らない。 神は今も神の力が創られた世界におられるではないか。 神の愛は地上に悪が行われる時、 なおも目に見える様で罪と闘いつつあるではないか。 愛と悪と痛み、その他に私は何を見ようか。 しかり、復活と御座の右に上られたこと、その他に何があろうか。 このような真理が境を破って魂に溢れる時、 かつて私が罪と死とを見たように、 まさにその様に、今、私は両者の必要性とともに、その一時性を見る。 善と栄光とは罪と死を通して完成されるからだ。 私は力を見た。私はかつて弱かった愛が再び力を占めるのを見る。 そして、この『見る』という言葉の中に、見よ、人の魂の上を動いて、 目を開き、見ることを命じる力と愛の御霊が実感される。 これらが存在することを、私は見る。 しかし、あなたがた、子供たちよ、神が愛される者たちよ、 以前にはそんなものを作れる器用な細工人が、 この世のどこかに居るのだろうかと思った望遠鏡を私が使うべきであるように、 あなたがたにもそれが必要である。 余りにも近くに寄せられて混乱して、反抗して横たわっている対象に、 助けのない目が一度に見極めるために向ける望遠鏡が必要なのだ。 望遠鏡を通して見よ。 今や、それらは遠くにあり、簡潔となり、明らかになり、非常に小さく、 とてもはっきりとしている。 まさにその様に、あなたがたは、明らかな歴史的事実となり明瞭さへと縮小し、 彼方に一つの点と認められる、どんな真理を私が見ているかを、 どうしても悟らねばならない。
あなたがたは感覚を永遠から外に引き離し、 それを時間の上にしっかりと結び付け、 それから、あの事実、あの生涯と死との前に立ち、 そこに留まって凝視し続ければ、ついにそれは、 あたかも星が大きく開くように、全ての方向に分かれて広がり、 あなたがたの頭上にある世界を成長させる。 私の世界と同じように。 なぜなら、人生とは、それが喜びと悲しみ、希望と恐れより生じる全てをもって、 あなた方の老いた友を信ぜよ 愛を学ぶという賞与を得る機会であるから。 愛はいかにあり得たか、事実あったか、そして今いかにあるかを。 その時より、この世の妬みにも係わらず、そのような賞与を極みまで保ち、 真理を得て、真理を保つこと、それが全てである。 しかし、私たちが導かれている二重の道を見よ。 魂は肉体からいかに様々に学んでいるかを。 留まるべき、いと短い時間しか持たない、また、 魂の企てに対する単なる基部を与えるに過ぎない肉体については、 即座の教育を期待せよ! 千年昔も全ての人の肉体に対して、光は助けとなり、 暖かみは慈しみであり、食物は良き物であった。 それは、今の時代のあなたがたや私に対してと同じだ。 肉体は急に高みへと飛び上がり、そして留まった。 しかし、魂は違う。 今日の真昼、ローマやアテネで瞑想している賢者たちが、 昨夕、隠されていた永遠の力の点を彼方に発見するかも知れず、 それによって力の総量が拡大するように、 それだけ、その上を浮遊する霊気も拡大する。 つまり、力よりも優れた愛、神にあるキリストが拡大するのだ。 ついに地上の業わざが終息し、益のない時間が尽きるまでは、 新しい教えが力と愛の中で学ばれるのだから、 毎日、正しく、魂の勇気を可能にし続けるためには用意が必要である。 古い防壁が朽ちたなら、新しい防壁を築き、人生の試練を回避することなく、 『神は愛するか、そして、あなたがたはこの世に抗してその真理を保つか』と常に問いつつ。 地上の資源から私たちの肉体のために得られた良き物については、 二度目の吟味は必要無いことを、あなたがたは知っている。 火がなければ私たちは長い間、凍こおりついてしまうかも知れない。 私たちに火を与えよ。 その後、その十分な価値において火を判断し、 全ての機会を通してその価値を無事に保護するだけなのだ! プロメシウスと彼の盗みのあの寓話。
死すべき人間が、いかにジュピターの火花を得たかという話は、 (異教徒がそれを認めるのを聞くのが常であったが)古くなり、忘れられてしまった。 しかし、火はその誕生がどうであれ、ここにある。 アイスキュロスの神話を嘲り笑うソフィストにさえ、今、火は尊いものである。 劇中のサチュロスたちに対してと同じように。 彼らはその火を見て嬉しげに驚いて、それに触れた。 一方、魂についても同じことが言えるならば、 すなわち、真理のこの賜物がひとたび受け取られた以上は、 この魂の進歩が安寧で、肉体がいつもそうであるように確実に栄えるならば、 ああ、人の試練は終わってしまい、その地は崩れるだろう。 なぜなら、人間は推量と決定の両方を行なうからだ。 最初に重さを量り、それから選択するのだ。 ひとたび彼がその価値を知ったからといって、 黄金や帝位の代わりに火を諦めるだろうか。 キリストの価値が火の場合と同じように明白であるからといって、 彼はキリストを捨て去れるのか。 したがって、私は言う、『人を吟味するために、試練は変化する』と。 人は他の事実のように、その事実、キリストの生涯を把握することはできない。 そして、彼の人生において、火を得たという疑う余地の無い幸福を認めるようには、 それをすぐに認められない。 あなたがたは『かつては今よりも容易であっただろう』と溜息をつくだろうか。 あなたがたに答えを与えるために、私は生き残っている。 最初から居た私を見よ! 私がどんなことを見たか、あなたがたは知っている。 それから試練がやって来た。 そのように見てきた私に相応しい私の試練が。 『あなたがその変貌を見たキリスト、海を歩き、 死人を蘇らせたキリストを見捨てたのか。 何がキリストをあなたから引き離したのか』と、あなたは笑って尋ねる。 何がそれを引き離したのか。 一本の松たい明まつの灯り、騒音、突然のローマ人の顔、 乱暴な手、そして、ユダヤ人が何をするか分らないという恐れ! ただそれだけだった。そして、『私は見捨てて逃げ去った。』 そこに私の試練があった。そして、この様な結末に終わった。 そうだ、だが私の魂はその真理を得て、成長することができた。 もう一年か二年の間、私が見たものの一つも見ておらず、 辛うじてそれらが語られるのを聞いただけの、いと小さな子供や、 いとたおやかな婦人で、明るく微笑みつつ十字架を負い、 神に感謝しつつ燃える衣に身を包まなかった者があったであろうか。
ああ、それならば永遠に真理は安全であったのか。 いや、そうではなかった。 すでに音なき企てが始まり、それによって真理はその絶対の炎が消され、 広がった疑いを貫き通す愛の目が必要であるかも知れなかった。 教師たちは忙しく囁いた。 『全ては、年老いた者たちが報告するように、真実である。 しかし、衝動と緊張が弱まった老人が、ぼんやりと手探りして探すところに、 また、完全な教義が今日に至るまで眠っているところにも、 若者は手を伸ばすことができる』と。 このように真理に触れ、手でつらつら触った私にとって、 一つの障害となったローマ人の手に下げられた槍は、 今や、新しい抜け目のない舌を持った者のもっともらしい説明であると判明した。 このエビオン、このケリンサス、あるいは、彼らの仲間のことである。 ついに『我らのキリストを救え』という絶叫が迫って来ていた。 そこで私は忘れ去られ、誤解されて伝えられた主の生涯の多くを述べた。 そして、それを働かせた。 その仕事はなるべき姿に成されたが、次は何がやって来たか。 私は人々が話すのを聞いた、あるいは、話す姿を心に描いた。 『いったいヨハネは居たのか、彼は見たと言ったのか。 私たちが、彼が何を言ったかを尋ねる前に、私たちに確信させよ。』 これは確かに、後の日にとっての重荷ではないだろうか。 あなたがたの力となる私の弱さを使いつつ、 あなたがた全ての者と共に、重荷を担う手助けをしようか。 なぜなら、仮に一人の赤ん坊がこの洞穴の内側に生まれて、 ここで少年に成長し、私たちが太陽を讃美しているのを聞いたならば、 だが、光の代わりに、かなたの一筋の微かな煌きらめきしか持たないならば、 彼を愛しており、彼が学ぶことを望んでいる人は、 自分自身がまずここで月日を経るにつれて盲目になって行き、 暗がりに生まれた目がどのように捉えるのかを、 理解するようにさせられたことを大いに喜ぶであろう。 私はそのような子供に外には彼が捉えている輝きよりも、 もっと多くの光があることを説明できると思っている。 そうだ、また、『私はそれを見て、そう信じた』と強く主張する必要はなかった。 それはすぐに起こるに違いないことだが、私が居なくなってしまう後の日に、 新しい土地で、あるいは、変わり果てた古い土地で、 あなたがたはその重荷を担うだろう。 私の兄弟たちよ、疑いは何なのか。それを早く言ってくれ。 私には、お前たちが新しい顔と共に、野原で黄色い夏の夕べ、 海の真中にある、まだ名前の付いていない小島の上で、話しながら立っている様子、
あるいは、今、雲雀が孤独の中で囀っているある巨大な町に、 群集を避けて柱郎の下を、隠れ場を求めて歩く姿、 あるいは、漠然とエペソと推定される岩や砂の空虚な堆積の上で、 黙想する光景が見える。 もはや誰も、彼の仲間に『キリストの来臨の約束はどこにあるのか』 と問うことはなく、ただ、『彼は力として、愛として、影響を与える魂として、 彼の生涯の記述なる四福音書のどれかに顕わされたのか』と問うであろう。 時が迫っているので、早く、全ての心を語り出してくれ。 そして、私たちが尋ね、また答えて、救われるようにさせてくれ。 私の書物は過ぎ去ることはあり得ず、語り続けるのだ。 ある人は静かに耳を傾け嘲けらずに、ただ嘆願して言う、 『古き昔、為されたことの話が、ここにある。 どんな真理が第二日目に語られたのか。 かつて教義を証明した不思議は、今や水泡に帰した。 教義、すなわち、愛だけが残る。そうだ私たちは愛さねばならぬ。 私たちが最も愛すものは、力と愛が一つとなったものである。 キリストにおいてこれらを認めつつ、 ここにある記録に基づいて私たちに認めさせよ。 それなら、キリストはいなければならないのか。 彼は存在したのか。私たちが彼を創り出したのではないか。 私たちの心は、それが有しているものだけを受け止める。それ以上ではない。 それではまず、愛について語ろう。 私たちはキリストを認める。 それは私たちが彼の愛を把握した証拠、 私たちが自分の中に既にそのような愛を持っている証拠、 そうでなければ認め得ないものを、初めより知っていた証拠である。 それは、人の内奥の心からの単なる投射である。 人が愛するものは、このように反転して落ちてきて、 自分とは違う何かであると考えられるようになる。 彼がそれを大空に投げ上げると、それは落ちてきて地上のものとなる。 そして、人の古いやり方で、類型、名前、物語が与えられるのだ。 少なくともこの他にどうやってキリストが来たことを、あなたは証明するのか。 次に、力について考えてみよう。 キリストは世界を創り、支配している。 確かにかつて造られ、今、支配されている世界がある。 物事が昔からずっと、私たちの見ている姿のままだったということがない限りは、そうだ。 今、太陽は自然に昇ったり、沈んだりしているだけだが、 あたかも一つの手が、一つの意志がそれを促したかのように、 御者に軛を掛けられた馬が、太陽を東に昇らせ、
西に沈ませたのだと私たちの祖先は公言したものだ。 意志と手を持っていた彼らは、長い間、このように考えていた。 しかし、新しい疑問の囁きははっきりしたものだった。 それは、何故全ての力はあくまで私たち自身のようであらねばならないのか。 私たちは手と意志を持っている。 太陽を造り、突き動かしているものは力であり、法則であり、 名付けられてはいるが、知られてはいない。 一方、私たちは意志と愛とを知る。 これらの徴しるしを目撃者は証言する。そう書物は公言している。 例えば、人類を罰し、あるいは、報いるために、不適切な時に太陽が昇り、 沈み、さもなければ、じっと留まることもあったなどと言う。 人は何でも断言してしまうのだ。 しかし今は、地上の者が昔と同様うるさく報いや罰を要求しても、 誰も太陽が介入することを期待しない。 したがって、真理を変えたものは単純な熱情と誤解、 あるいは正義への誤った熱意であった。 遠く、さらに遠く、物事の誕生まで溯さかのぼれ! 常に意志と知性と愛とは人間のものであった。 人はそれらを発見しただけだと思っているが、実は付与しているのだ。 最近、自分の神々と呼んだあらゆる形の中で、これらのものを助けるため、 頭、体、手、足を、人が与えたように。 最初に、ジュピターの額とユノの瞳は一掃された。 しかし、ジュピターの怒りとユノの誇りとは長く続いた。 最後に、意志と力と愛とがこれらを捨て去ったように、 今度は法則が力、愛、意志を捨て去った。 神のみは少なくともこれとは違う別の形で存在すると、何が証明するのか。 他のもの全ては人の心からの投影であるのに!』と。 いや、ブドウ酒は結構だ。私はしっかりしている。 だが私の手を置く所に私の福音書を置いて欲しい。 私は言う、「人は成長するために造られたのであって、止まるためではない。 かつて人が必要としたが、今となっては必要としないあの助けは、 それによって1インチだけ成長したところで、片付けられた。 というのも、人は新しい必要を持ち、その必要に対する新しい助けを持つからだ。 これは単に、人は目に見える新しい頂上に登るべきだということを意味する。 登る時の助けと、その足が離れた梯子の横木は崩れるかも知れない。 真理なる神以外の全てのものは変化を被るので、人は地上の梯子が落ち、 その奉仕が終わったそれぞれの段階で新しく神を理解する。 そして、ひとたび証明したことを何者も二度証明しないだろう。
あなたは、内側にまだ生まれていない草の芽が植わっていることを示すために、 一定の間隔に庭地に小枝を刺していく。 それは、不注意な足がその芽生えを台無しにするのを防ぐためだ。 しかし、草が揺れる時、庭師の小枝はなくなっても良い。 たとえ、あなたがたが効能を疑い、種類を尋ねても、あなたがたが探しているものは、 もはや、かつて沢山の種類がその下にあったことを証している古い小枝ではなくて、 草自体であり、それがどんな光を誇っているか、 どんな果実の徴なのかを注目しているのだ。 この書物の果実は明らかである。 また、奇跡はそれをもはや証明する必要もない。 果実は見えているのか。 それなら、奇跡は初めに根と幹を注意せよと命じ、 根と幹の両方を今に至るまで、牛の踏みつけから、 荒々しい雄豚や跳ね回る山羊から救ってきたのだ。 何ということだ? 人は滑車仕掛けとして造られ、降ろされ、 また、新しくまたすぐに巻き上げられるように造られているのか。 否!ひとたび成長したら、彼の成長は続くのだ。 ひとたび教えられたら、彼は決して忘れない。 多くのことを学ぶのは良いが、同じことを学ぶ必要はない。 これは異教的な教えであるかも知れない。 今、私の教えを聞いてくれ。 私は言う、しばらく食物を与えている赤ん坊が少年になり、 自分で食するのに適したものになる様に、 心は最初、真理を匙で食べさせてもらわねばならぬ。 彼らが食べられるようになると、赤子の食物は引き下げられる。 私は、望むと望むまいと赤子に食べさせる。 私は少年には自分で食べるか、それとも、餓死するかのどちらかを命じる。 私はかつて叫んだ、『あなたがたがキリストを信じるようになるために、 この盲人が見えるようになるのを見よ!』と。 私は今叫ぶ、『自分は意地悪い性格で、 ヨハネの言葉が癒し得たという物語を冷笑しているが、 出来るものなら奇跡を繰り返して、私の信仰を勝ち取って見ろと、 お前は急せき立てるつもりなのか』と。 私は言う、あの奇跡は正しく働いた。 それ無しには、信仰が不可能であった時には。 この世の見かけに変化が生じたのか、神が彼の目的に対して意志しているのと同じだけ、 世の姿を見ている私たちの心に変化が生じるのか、私は知らない。 (私たちの周りに、あなたがたが岩を見るところに、今、私が何を見るか、考えてみよ。) そのようなものが効果であり、そのように信仰は成長し、多くありすぎるゆえに、
それ以上の奇跡を用の無いものにする。 それらは助けるのでなく、強いるだろう。 私は言う、『キリストのうちに神を認めることが、 あなたの理性によって受け入れられれば、 地上のこと、また、地上の外のことについて、 全ての問題をあなたのために解いてくれるのだ』と。 それは、これまであなたを前進させて賢くならせて来たのだ。 あなたは証明されたものを再証明するために、これを論駁するつもりなのか。 人生のありふれた瞬間において、その証明を使う力を持っているのに、 知識を手放して、いかにそれが発生したかに逆戻りする気なのか。 あなたはそれを持っている。 それを使え、しかもすぐに使うのだ、さもなければ死なねばならぬ! なぜなら、私は言う、『これは死である、唯一の死である』と。 人の損が彼の得より来ている時、暗闇が光より、知識より無知が、 そして、顕わにされた愛から愛の欠如が由来する時、それがランプの死である。 食物が一杯詰まって、飢えてしまった時、それは胃の死である。 無知については、癒しは確実である。 人は自然に驚き、最初に尋ねた、 『この力の背後に、一つの力が潜んでいるとしたらどうだろうか。』 彼は神が与えることのできる満足を必要とした、 そして、あなたがたがの持っている書かれた言葉にあるように、それを与えた。 しかし、力は今なお力を倍加することを彼が発見した時、 なお尋ねる、『全ては力であるので、意志の効用は何なのか』と。 意志、それは力の一つの源 人は人間の意志と力を持った者であるから、 この二つ、意志と力がいかに大きく結合しているかを少しでも教えるべき者なのに、 その人は振り向いて自分を見、立ち尽くす。 それは自然の営みの中では、死ぬことである。 そして、人が『意志と力とが現実的であるように、意志と力の背後に、 愛があるとしたらどうか』と質問した時に、 人は神が与えることが可能な満足を必要とし、 書かれた言葉が証しする様に、神はその満足を実際に与えられた。 しかし、その愛を至る所に見ながら、彼は推論する、 『そのような愛は至る所にあるので、また、私たち自身が愛することができ、 愛されもするので、私たち自身が愛を作り上げたのだ。 だから、キリストは存在しなかった』と。 彼が愛さねばならぬこと、また、愛されるだろうことを自ら知ってはいるが、 キリストを証明した自分自身の愛を認めつつも、
まさにキリストを必要としながらもキリストを拒否する者を、 あなたがたは、どうやって助けられようか。 ランプは油で溢れ、胃袋は食物の重荷で衰える。 そして、その人の魂は死んでしまう。 仮にその人が答えて、『しかし、これは初めからずっと策略である。 そもそも、欠点はヨハネの中にある。 場所、名前、日付、つまり、どこでいつ、 どのように究極の真理が発生したかについてのあなたの話の中にある。 あなたの第一の真理は、ついに何でもないものだと分った。 そのために今、第二の真理が損害を被るのだ。 もし与え方のために、その利益が失われるとすれば、 知識を与えるのは何の役にたつのか。 そして、統一された絶対的な真理の前では不可能な後世の疑いを 止めたであろうほんの少しの助けを、あなたはどうして拒否したのか。 何故、この点については思い当たり、 あの点については思い当たらないといったことが、なければいけないのか。 何故、自分が衰弱しているのか、強壮なのかを自己診断して区別するように、 事毎に事実であるかどうかを区別しなければならないのか。 何故、これはかつてあったのか、それは無かったのかと、 その時も今も、また永遠に明らかな真理をあなたに訊いて、 すぐに答えを貰もらってはいけないのか。 ヨハネの手続きは、まさしく異教徒の詩人のものではないか。 彼の有名な劇を再び問題としてみよう。 はかない人類のために、ジュピターの火がいかに盗まれたか。 そして、棒先に点けて運ばれ、地上に齎もたらされたかを考えてみよう。 「事実は寓話の中にある」と賢者たちは叫ぶ、 「火は霊気であり、地上で生み出されたが、死すべき人間が恩恵を得た。 それだけが事実である」と。 その巨人、プロメシウスの話も、今のあなたの話も同じことである。 何故、あなたは私たちの中に戸惑いと誤りとを醸成するのか。 何故、適切な言葉で完全な真理を語らないのか』と言うならば、 私は答える、「あなたがたはまさに原初の論題、最も明白な法則を、 つまり、人は神ではなく、仕えるべき神の目的、従うべき師、取るべき道程、 脱ぎ去るべき何か、成るべき何かを持っていることを、 この上、論じ尽くす必要があるのか。 このことを認めたならば、その時、人は古いものから新しいものに進まねばならぬ。 空しいものから本当のものに、誤りから事実へ、 かつては良いと思われたものから、今、最上と証明されたものへと進まねばならぬ。
そうでなければ、どのようにして人は進歩し得ようか。 『神とは何か』という点が議論される以前には、 いかなる野蛮人も『私自身は何か』とは尋ねなかった。 ましてや、『事物の中で、最初にして最後の最上のもの』とは答えなかった。 今、人が自然の法則と名付けているもの、つまり、神の場合には、 力は意志とも愛とも一緒に存在することは出来ないと、 もし人が信じていれば、神という称号を今使うべきは、人間の方だ。 一方、自分自身の中に彼は力や意志に劣らない愛を認識し、そして正しく身に付ける。 その度合いがどうであれ、また、力や意志や愛が弱くとも、それらがそこに発見され、 はっきり見えている、これらが合わさる唯一つの存在が人であると証明されれば、 人は愛も意志も持たない力よりも、確かに高い段階にある。 (微かな塵の点がすっと動く時、あなたがたはその羽を推量する) 最も卑しい虫の中にさえ明らかなように、 生命はより貴い虫なる人間に休息の場として与えられている、 アトラスの死骸である山脈以上に驚くべきものである。 こうして、人間は最善最高のもの、すなわち、神であると証明される。 だが、このようにして勝利はただ敗北へと、得は損へと、最善の上昇は最悪の落下へと至る。 彼の生命は不可能となる、それこそ死である。 仮に彼が、そこから訴えながら立ちすくみ、自分は単なる人間であるから、 神を知ることも、自分の身のほどを誤解することもあり得ないと、 謙虚に主張するならば、私は即座の結果を指摘して言う、 そのような告白によって、彼は知ることはできるが、それ以上ではないと知らされて、 すぐに彼は人間の持ち場、神でも獣でもないものへと落ち込む、と。 人は、全てを知り全てが可能な神よりは低く、 これまで、それぞれの獣の限界に応じて、知り、かつ行うことが可能で、 極みまで完成しているが、自らが知っていることを意識せず、 それ以上の憧れもない獣よりは高い。 一方、人は部分的に知っているだけだが、 それに加えて、心に描き、空想から事実へと這はい回り続ける、 そして、この奮闘において、この大気は固体に変化し、 それを彼は掴み、利用することができる。 そうして、人は進歩を発見する。 進歩、それは人間のみのはっきりとした特徴、神のものでなく、獣のものでない。 神はあり、獣はある。 人間は部分的にあり、全くなろうと希望している。 もし人の魂が得ようと苦闘している全てのものが、初めから発見され、 人が推量しているものが、絶対的な知識へと変わるならば、 そのような魂に進歩が伴い得ないことは明らかである。
それはちょうど、今、休息の合間に空間を通って動いていても、 人の身体以外の全てが、あらゆる側面で固い土に覆われるなら、 人の身体に動作が伴わないのと同じであろう。 それゆえ、人は、このように条件づけられているからには、 今、知っていることを、初めは知り得なかったと考えなければならない。 彼が今日知っていると思っていることでも、ただ明日になったら、 誤って知らされたものと分るだろう。 それが人間であるということだが、彼は生きている故に学ぶ者であるから、 知識を増やしながら、過去の自分によって自らを教えるようにさせられ、 最初は獣のように事実によって学ばされ、次に人間らしく、彼自身の心、 性癖、習慣、性質、法則となった知識によって学ばされる。 人が真理について心に描き、実際に事実に手が届くまでの中間的な助けとして、 誤りを掴つかみながらも、真理を得ようと憧れること、これこそが神の賜物なのだ。 人が一つの形を作り上げる前には、彫像もこれと同様の賜物、 すなわち、形の着想、次に、それを生み出そうとする憧れを、誇らしげに持つのである。 そうだ、土塊を取って、人はそこから形を呼び出し、 『今、私は見ているものを手に入れた』と常に叫ぶのだ。 しかし、始終、作られたものを変え続け、真理に似た偽りから、真理そのものへと至る。 仮に彼が『その無力な土つち塊くれには、顔も胸も足も見えない』と叫んだらどうであろうか。 むしろ、彼が手を打って笑って『それは私の姿で、再び生きている』と言い、 そのまがい物を楽しんで、それに触れて真理に近づけ、 ついには、未だ肉体を真似た土塊にすぎぬものの中に、 本当に出来上がった肉体を、あなたがた自身が見て賞賛するに至ったことで、 むしろ彼を褒めてあげなさい。 まさに、あなたがたの中でも、彼の中でも、そのようなやり方が人の道である。 神だけは一息に、生ける姿を形かたち造づくる。 あなたは被造物としての、この取り決めを放棄するのか。 シナイ山頂の雛型はもはや存続しない。 しばらくの間、存在するように思われたが、それから無に帰してしまった。 しかし、その雛型によってモーセが作ろうと奮闘した写しは、今なお役に立ち、 時代が要求するように入れ替わっている。 これらによって、最も新しい器を作り、原型に到達せよ! もし、あなたがたがこれに異議を申し立てるならば、この判断はあなたの頭の上に降り、 法則と生命と喜びと衝動とが一つであるところへ魂の全ての直覚を浸しながら、 究極の天使たちの法則に届くことは決してないであろう。 そのようなものが新しい時代の重荷である。 私は生き残って、それをこの耳で聞き、私の舌でそれに答えた。 これで十分なのか。 もし、そのようなものよりも、さらに進んだ苦悩があるなら、
その中で苦闘している兄弟たちが助けを必要とするならば、 脈拍が幾分でも私の体に残っている限り、 新しくもう百年も留まらないといけないけれども、 盲目の人々を疑いの淵から引き戻しながら、 私はさらにもっと長く地上に残っても良い。」 「しかし、ヨハネは死んだ。それは正午頃で太陽が幾分傾きかけた頃だった。 私たち五人はその夕べ、彼を葬り、それから、分かれて五人五様の道を辿った。 私、パンフィラックスは変装してエペソへ戻って行った。 この時までに洞窟の口は砂で一杯になっているに違いない。 ヴァレンズは失われた。私は彼の足跡を知らない。 バクトリア人は野性的で子供っぽい男に過ぎないので、 書くことも話すことも出来ず、ただ愛するだけだった。 そこで、この記憶がすっかり消え去ってしまわないように、 私は明日には獣と戦うことを考えて、私はそれをフィーバスに語る。 彼を信ぜよ! それは、多くの人たちが、私が仕えていた主に愛されたヨハネの顔を、 世界のどこかで生きているとして、また見たいと期待しているからだ。 彼らは間違っている。 ヨハネが言っているように、 彼の福音書の最後において不明瞭に語られたことを誤解したか、 私が想像するように、この話が口から口へと撒まき散らされて、 この話の一部を誤解したためであろう。 聖なる眼差しの彼を、この世の中ではもはや見ることはないであろうと信じなさい。 全ては私の言っている通りであったから。 今やその人、ヨハネは、かつてそうであったように、神の懐ふところに眠っている。」 〔ケリンサスが読んで、黙想した。ある人がこれを付け加えた。 「ケリンサスが主張するように、キリストが人間の間で単なる人間、 最初にして最善ではあるが、それ以上のものでないとすれば、 その人生の報いとしては、今も永遠に彼を全ての人の中で最も惨めな者と見なすが良い。 見よ!彼自身が人生を愛とみなし、愛というものは、 彼が愛しておられた一人ひとりの魂の中に入り、満たし、 一つとなるべきものと考えていた。 一人の喜びのために、このように多くのことが為されたように、 彼のため全ての人々が得る喜びも、大きなものであれ。 ああ、似つかわしい報いを受けて、彼は逝った、とあなたは言う。 この時までに多くの魂が死によって開放されたが、 非常に多くの者が今なお生きて残されている。
否、たとえ彼の来臨がしばらくの間、 例えば、もう十年(いや、ある者の算出では十二年)遅れたとしても、 両手の指の数だけの年月が経って、この世が終わるその日に、 花嫁一人ひとりに対する花婿のように、キリストが全ての人と、 また、パンフィラックスたる私と、ヨハネたる彼と、 一体となるであろうという、キリストの言葉を持ち続けている幾百もの魂が 見出されないかどうか、見て欲しい。 単なる人にこれが出来ようか。 しかし、キリストは言われる、このことをするために彼は生きかつ死んだ、と。 それゆえ、キリストを無限の神と呼べ、さもなければ、敗残の者と。」 しかし、敗北したのはケリンサスであった。〕 注 この翻訳は、ロバート・ブラウニング(Robert Browning)作「荒野の死」(‘A Death in the Desert’)の全訳である。 この作品は『登場人物(Dramatis Personae)』(1864年)に収められたもので、エペソで亡くなったと伝えられ る老使徒ヨハネの臨終の際の独白である。翻訳にあたっては、底本として Robert Browning: The Poems, Vol. Ⅰ, ed. John Pettigrew (Harmondsworth: Penguin Books, 1981) pp. 787‒804を使用した。