書評論文
国家と都市のあいだの不健全な緊張関係
『軍港都市史研究』Ⅰ~Ⅶ
稲 吉 晃
近年,軍隊と地域社会にかんする研究の進展 がめざましい。しかし,それらの研究の関心は 陸軍と地域社会との関係に偏重しており,海軍 と地域社会との関係は等閑に付されてきたので はないか。かかる問題意識による研究シリーズ 『軍港都市史研究』(全 ₇ 巻)が,このほど完結 した。各巻のタイトルと編者は,以下の通りで ある。 第Ⅰ巻 舞鶴編(坂根嘉弘編) 第Ⅱ巻 景観編(上杉和央編) 第Ⅲ巻 呉編(河西英通編) 第Ⅳ巻 横須賀編(上山和雄編) 第Ⅴ巻 佐世保編(北澤満編) 第Ⅵ巻 要港部編(坂根嘉弘編) 第Ⅶ巻 国内・海外軍港編(大豆生田稔編) 各巻のタイトルからも明らかなように,本シ リーズの主要な検討対象は,かつて海軍鎮守府 がおかれた日本の 4 都市(舞鶴・呉・横須賀・ 佐世保)である。これらに加えて,要港部がお かれたことがある諸都市(大湊・竹敷・旅順・ 鎮海・馬公),フランス・ドイツ・ロシアの事 例(ブレスト・トゥロン・キール・セヴァスト ポリなど)も視野に含んだ研究となっている。 また執筆者の専門領域も日本近代史・日本経済 史のみならず,地理学・建築学・地域経済論に までわたるなど,学際的である。 大規模かつ学際的な共同研究の成果にふさわ しく,本シリーズの意義のひとつは軍港都市の 多様性を明らかにした点にあるだろう。たとえ ば,最大規模の海軍工廠がおかれた呉と,二流 軍港であった舞鶴とでは,抱えている行政課題 は必然的に異なる。行政課題のみならず社会構 成や地理的要件など,軍港都市の特徴は様々で ある。それぞれの個性を引き出すことに本シ リーズの主眼があるように,評者には思える。 かように重厚で包括的な研究を,遺漏や過誤 なく紹介し,また研究史上に適切に位置付けて 評価することは,評者の能力を超える。評者に できることは,その多様性を念頭に置きつつ, あくまで評者の関心に沿って,軍港都市に共通 する性格を,本シリーズから読み解いていくこ とにすぎない。それとて不可能かもしれない が,蛮勇をふるってみる。 読み解いていくにあたって,視座をどのよう に設定すべきだろうか。編者によれば,「軍港 都市という近代都市・現代都市の一つの類型」 を浮き彫りにすることが,本シリーズの狙いで あるという(各巻,刊行の辞)。したがって, 軍港都市史研究は,都市研究の一類型として捉 えるのが妥当だろう。その場合,軍港都市の特 性を明らかにするための有効な方法は,隣接す る他の都市類型 たとえば港湾都市や軍都 との違いを際立たせることにあるように思 われる。 そして,港湾都市や軍都と,軍港都市との最 も大きな違いは,構成される要素が多いという ことであろう。港湾都市は「港」と「都市」, 軍都は「軍」と「都市」という二つの要素の単純な組合せにすぎない。他方で,「軍港都市」 の場合は,「軍」「港」「都市」という三つの要 素が複合的に組み合わさっている空間というこ とになる。この点に,軍港都市がもつ複雑性が 端的に示されているように思われる。そこで, 以下では「軍」「港」「都市」の三つの要素を, それぞれ組合せてみることで,軍港都市像に 迫っていきたい。 三つの要素のうち,もっとも親和性が高いの は,「港」と「都市」である。「みなと」の語源 は,河川の河口部 海の出入口を意味する 「水門」「水戸」であるといわれる(1)。河川舟運 と海運という二つの交通の結節点である「みな と」は,人や物資が集まることで,「都市」と して発展していく。「都市」を人や物資が往来 する結節点と捉えるならば,「みなと」はその ひとつの類型であるといってもよい。こうした 交通ネットワークの核としての商港機能の拡 充,および地域経済の拡大は,四つの軍港都市 に共通してみられる現象である。 ただし軍港は,一般の商港とは異なる。軍港 は,地理的条件 十分な水深と広い停泊水域 の有無,および戦略的必然性 に基づいてそ の立地が定められるために,「例外なくうら寂 しい寒村」(第Ⅰ巻,坂根嘉弘「軍港都市と地 域社会」 3 頁)におかれた。1884年に横須賀, 1886年に呉・佐世保,1889年に舞鶴が,それぞ れ鎮守府設置場所として定められたが,これら の諸港に共通する地理的な特徴は,地殻変動に より生じたリアス式海岸という点である(第Ⅱ 巻,花岡和聖「地形図と空中写真からみる横須 賀の景観変遷」15頁,村中亮夫「地形図と空中 写真からみる呉の景観変遷」47頁,山本理佳 「地形図と空中写真からみる佐世保の景観変 遷」87頁,山神達也「地形図と空中写真からみ る東舞鶴の景観変遷」133頁)。山が海岸線まで せまっているために風波を避けることができ, しかも水深が大きいために大型船の碇泊に有利 であることが,軍港に指定された要因であった といえよう。 同じことは,「鎮守府に次ぐ海軍の地方官 衙・地方根拠地」(第Ⅵ巻,坂根嘉弘「要港部 と地域社会」 5 頁)である,要港部にもいえ る。1896年に要港部がおかれた対馬の竹敷(第 Ⅵ巻,坂根嘉弘「竹敷要港部の展開と地域社 会」77頁),1901年に要港部がおかれた澎湖島 の馬公(第Ⅵ巻,井上敏孝「馬公における軍港 と商港」228頁),1904年に要港部がおかれた旅 順(第Ⅵ巻,風間秀人「政軍都市・旅順の成立 とその変遷」124頁),1916年に要港部がおかれ た朝鮮半島南部の鎮海(第Ⅵ巻,橋谷弘「要港 部都市・植民地都市としての鎮海」166頁)の 地図をみると,いずれも地形が入り組んでいる ことがみてとれる。1905年に要港部がおかれた 下北半島の大湊は,地形が入り組んでいるとは いえないが,切り立った山を背負っており,十 分風波を避けることができただろう(第Ⅵ巻, 河西英通「北方の海軍基地大湊」24頁)。 以上のような特徴は,「みなと」の語源であ る,河川と海の二つの交通の結節点という要素 とは合致しない。これらの軍港は,舞鶴を除い ては,いずれも河川舟運とは無縁であった。そ の舞鶴も,鎮守府がおかれたのは旧来からの舞 鶴町ではなく,山を隔てた新舞鶴町・余部町 (両町は,後に合併して東舞鶴市となる)であ る。近世以前の言葉を使うなら,交通の結節点 を意味する「みなと」ではなく,船を停泊させ る水域という意味の「浦」や「泊」という表現 の方が適切かもしれない。実際に,呉は,近世 には「呉浦」と呼ばれていたようである(第Ⅲ 巻,布川弘「呉海軍鎮守府と地域の医療・衛 生」117頁)。いずれにせよ,内陸部との交通が 不便という点が,軍港都市に共通するひとつの 特徴である。
それゆえ,各軍港都市では早期の鉄道建設が 目指された。参謀本部は,すでに1891年の段階 から,本州縦貫幹線鉄道と各鎮守府をつなぐ支 線建設を求めている(第Ⅰ巻,松下孝昭「軍事 拠点と鉄道ネットワーク」209頁)。陸軍が支線 建設を求めるのは,鎮守府所在地には要塞司令 部も置かれたからである(第Ⅰ巻,飯塚一幸 「日露戦後の舞鶴鎮守府と舞鶴港」121頁)。陸 海軍双方の要請もあって,紆余曲折はあったも のの,日露戦争までには 4 つの鎮守府所在地す べてに鉄道が開通した。また,海軍は大湊への 鉄道敷設を要請し続け,その結果,国鉄軽便線 として1921年に大湊線が開通した(前掲,松下 「軍事拠点と鉄道ネットワーク」238頁)。 鉄道がもたらした経済効果は,大きかった。 鎮守府・海軍工廠の設置により人口が急増した 各軍港都市では,食糧や資材を移入する必要が あった。当初は海運で移入されたそれらの貨物 は,次第に鉄道によって移入されるようになる (第Ⅰ巻,坂根嘉弘「舞鶴軍港と地域経済の変 容」165頁)(第Ⅴ巻,木庭俊彦「佐世保の「商 港」機能」32頁)。佐世保では,市当局が積極 的に魚市場の整備に乗り出したこともあって, 佐世保港は漁獲物の集散地となった。1920年代 には,佐世保から鉄道により魚介類が移出され るようになる(前掲,木庭「佐世保の「商港」 機能」45頁)。 このように,かつては「うら寂しい寒村」で あった各軍港都市は,鎮守府設置を契機とし て,交通ネットワークの結節点としての「みな と」に変容したといえよう。ただしそれは,人 や物資が集まって自生的に発展したわけではな く,あくまで国家あるいは軍によって人工的に 形作られた「みなと」であった(2)。 「港」と「都市」ほどではないにせよ,「軍」 と「都市」の相性も悪くはない。軍都ないしは 軍郷である。軍隊の駐屯は,居住人口の単純な 増加のみならず,鉄道・水道などの都市インフ ラ整備も加速させる。それゆえ1890年代半ば以 降,全国各地で陸軍の師団・連隊の誘致運動が 活発化した(3)。 軍港都市の場合も,このような経済効果は大 きい。たとえば横須賀町の場合,鎮守府がおか れた1884年当時の人口は7800人であった。それ が 5 年後の1889年には,人口 2 万4366人と,ほ ぼ三倍増となる(前掲,坂根「軍港都市と地域 社会」 9 頁)。海軍軍縮の影響で要港部へと格 下げとなった舞鶴を例外として,横須賀・呉・ 佐世保の三都市は,1940年にはいずれも人口が 20万人を超えた(前掲,坂根「軍港都市と地域 社会」10頁)。 人口が増加しただけではない。鎮守府の設置 は,地域住民の所得も上昇させた。陸軍が駐屯 した軍都・軍郷と,海軍鎮守府がおかれた軍港 の最も大きな違いは,海軍工廠が併設された点 にある(4)。フランスでは軍港といえば海軍工廠 (アリスナル)港のことを指したという(第Ⅶ 巻,ジェラール・ル・ブエデク(君塚弘恭訳) 「フランスの軍港」207頁)。「艦船と兵器の製 造・修理・艤装」などをつかさどった日本の各 鎮守府も,軍隊の駐屯地であると同時に,大規 模な軍需品の生産地であった(第Ⅳ巻,上山和 雄「軍港都市横須賀の成り立ち」11頁)。それ ゆえこれらの都市には,海軍軍人に加えて,海 軍工廠で働く職工も多く流入した。海軍工廠の 規模が最も大きかった呉では,1909年度にはお よそ 2 万人の職工が働いていた(第Ⅲ巻,坂根 嘉弘「鎮守府設置と資産家の成長」59頁)。 海軍工廠の存在は,民間の製造業の成長も促 した。消費都市である軍港都市に共通する産業 は,食品工業である。さらに,工廠の規模が相 対的に小さかった横須賀・佐世保では,民間企 業による機械生産も増えた(第Ⅴ巻,北澤満 「産業構造からみる軍港都市佐世保」 ₇ 頁)。工
廠への納入や飲食業を中心に地域経済は発展 し,これらの都市では鎮守府開庁以後,年間所 得300円以上の高額所得者が急増した(前掲, 坂根「鎮守府設置と資産家の成長」50頁)。 とりわけ海軍航空隊・海軍航空廠がおかれた 横須賀は,民間の関連工業が集積することで, 「海軍航空の〈メッカ〉」となる(第Ⅳ巻,栗田 尚弥「海軍航空の〈メッカ〉としての横須賀」 251頁)。こうした軍需工場の遺産(産業基盤や 人的遺産)は,戦後の重化学工業都市化への礎 となった(5)。 もっとも,軍隊に依存した都市発展には,副 作用や難点もある。 第一に,これらの軍港都市の財政は,いずれ も苦しかった。その最大の理由は,海軍工廠を 含む軍事施設には課税できなかった点にある。 しかも,軍港都市に暮らす軍人・軍属や海軍工 廠の職工は,資力が薄弱で担税力も弱かった。 それにもかかわらず,彼等の子弟は学齢期にあ るために,教育費・衛生費はかさんだ(前掲, 坂根「軍港都市と地域社会」30頁)。加えて, 海軍共済組合購買所の存在によって,地元小売 業の発展は阻まれた。このような軍港都市特有 の財政構造は,横須賀・呉・佐世保・舞鶴の 4 都市が連携して,海軍助成金を要求する背景と なった(第Ⅳ巻,吉良芳恵「海軍助成金の成立 とその展開」133頁)。 第二に,市政への軍の介入を許すことになっ た。以上のような,軍港都市に共通する財政状 況は,軍港都市の市長に対して,都市経営の手 腕はもとより,中央とのパイプ すなわち海 軍助成金を獲得できるような政治力を要求す る。土地が狭小な横須賀の場合には人口の増大 に応じて市域を拡張せねばならず,周辺町村と の調整力も必要となった(第Ⅳ巻,大西比呂志 「軍港都市の市政構造」119頁)。その際には, 海軍高官の肩書きが好都合であった。他方で, 海軍に限らず軍人は,司法官や外交官と異なっ て,現役を離れた後は有力な再就職先がなかっ たという。天下り先が必要な海軍軍人と政治力 を必要とする地域社会の双方の思惑が一致した 結果,横須賀では海軍出身市長が多くなった (第Ⅰ巻,坂根嘉弘「軍港都市には軍人市長が 多いか」194頁)。 第三に,軍隊は撤退する可能性がある。1920 年代における軍縮によって最も大きな打撃を受 けたのは,「二流軍港」舞鶴であった。そもそ も舞鶴に鎮守府が設置されたのは,他の三都市 よりも遅い1901年のことであり,また舞鶴鎮守 府長官にも,若干の例外を除いて,「二流の人 物」しか就任しなかった(前掲,坂根「軍港都 市と地域社会」41頁)。こうした背景もあっ て,1921年には舞鶴鎮守府は廃止となり,要港 部へと格下げになる。その他の軍港も,軍縮の 影響は避けられず,海軍工廠では職工の解雇も 実施された。ただし,教育機関が集中していた 横須賀では,軍縮が人口に与えた影響は相対的 に小さかったという(第Ⅳ巻,鈴木淳「横須賀 海軍の人的構成」213頁)。 軍隊が撤退・縮小するのは,軍縮の場合のみ ではない。敗戦の場合は,より深刻である。そ れは,日本に限らず,世界中でみられる普遍的 な現象であろう。ドイツの軍港キールは二度の 敗戦を経験し,そのたびに海軍への過度の依存 を克服しようと試みた(第Ⅶ巻,谷澤毅「ドイ ツの軍港都市キールの近現代」249~257頁)。 日本の 4 軍港都市も,第二次大戦後には,相互 に連携して平和産業都市への転換を目指した。 興味深いのは,その際に彼らが自らを「海軍の 生贄になった都市」(第Ⅴ巻,長志珠絵「せめ ぎあう「戦後復興」言説」168頁)と規定した 点である。副作用を伴いながらも,「うら寂し い寒村」が人口20万を超える都市へと成長した のは,ひとえに鎮守府・海軍工廠が置かれたか
らではなかったか。敗戦直後の特異な状況とは いえ,かように厳しい言葉を彼らが使った背景 には,どのような事情があったのだろうか。 この点を考えるうえで重要なのが,最後の組 合せである「軍」と「港」である。この二つの 要素は,「港」と「都市」あるいは「軍」と 「都市」に比べて,相性が悪い。「みなと」は, そもそもは交通の結節点をあらわす言葉であ り,それは多様な出自の人々が一時的に共存す る空間であることを意味する。港町が,閉鎖的 な農村部とは異なる「他者性」を,そのアイデ ンティティとする所以である(6)。他方で軍は, 機密情報を守るために,他者の往来を嫌う。 1911年に発行された『呉市街略図』では,海岸 にひろがる軍用地は一切消去されているとい う(7)。「軍」と「港」は,他者への開放性とい う点で,両極端に位置する要素なのである。 実際,軍港要港規則によって軍港区域内への 立ち入りには,鎮守府司令官の許可が必要と なった。鎮守府設置以前の軍港都市は漁業が主 要産業であったから,まず漁業に影響が及ぶ。 たとえば呉では,軍港区域内での漁撈には,入 漁申請が必要となった。ほとんどの場合入漁許 可は下りたというが,密漁も少なくなかった。 ただし,鎮守府による漁撈規制が,呉の漁業 を衰退に追いやったとはいえない。呉周辺で は,鎮守府設置以前から漁業の衰退傾向がみら れており,漁撈に制約があった軍港区域はか えって豊かな漁場になったともいうから,軍港 と漁業の関係は単純ではない(第Ⅲ巻,河西英 通「軍港と漁業」249頁)。 より単純なのは,軍港と貿易の関係である。 最も典型的なのは,舞鶴の事例であろう。日本 海に面する舞鶴では,対岸貿易によって地域振 興を図ろうとする構想が早くからもたれてお り,大阪財界や大蔵省もそれを支持していた。 商港としての舞鶴港(舞鶴西港)は,鎮守府の おかれた舞鶴東港とは山を隔てている。舞鶴西 港は旧田辺藩の城下町であり,舞鶴東港はひな びた寒村であった。両者は,別の港といっても よい。それでも陸海軍は,軍事機密保持を理由 に,舞鶴西港の国際貿易港化に反対した(前 掲,飯塚「日露戦後の舞鶴鎮守府と舞鶴港」 97~98頁)。 それゆえ,舞鶴鎮守府の要港部への格下げ は,舞鶴西港にとっては本格的な港湾都市とし ての発展の契機となった。外国航路の一部出入 りも認められ,1932年には一般外国貨物の輸出 入も認められた。同年には満洲国が成立してお り,日本海対岸の清津・雄基とのあいだで航路 が開設された。1936年には日出紡織の工場誘致 にも成功するなど,要港部格下げの「経済効 果」は明らかである(8)。 しかし,軍縮の時代は長くは続かなかった。 日中戦争以降,軍港都市は再び活動の自由を 失っていく。1939年12月には,舞鶴鎮守府が復 活した。海軍の地方政治への介入の度合いも強 まり,長年反目していた舞鶴市と東舞鶴市も, 海軍主導により1943年には合併することにな る。海軍の影響力が再び強まるのと反比例する かのように,舞鶴西港の貨物移出入量は激減す る。1943年 ₇ 月には,舞鶴港のすべての施設が 海軍に接収され,舞鶴港は商港としての機能を 失った(9)。 日中戦争以後,舞鶴以外の各軍港都市でも海 軍施設が拡充された。問題は,それに伴って人 口も急増した点にある。戦時下にあっても,人 口急増に対応して,教育・衛生・社会事業など を拡充させなければならない。国庫補助・海軍 助成金も拡充されたが,資材や労働力の不足か ら,それらの予算はほとんど執行されなかった という(前掲,吉良「海軍助成金の成立とその 展開」164頁)。しかも,戦時下にあって軍港地 域の管理は厳しくなったために,狭小な軍港都
市の海岸線のほとんどの使用が,制限されるこ ととなった(第Ⅳ巻,上山和雄「大海軍の策源 地から平和産業港湾都市へ」322頁)。 周囲を山で囲まれ,農業生産に適した平地も 持たない軍港都市にとって,唯一の資源は海岸 線あるいは海面である。その利用を制限される ことは,軍港都市にとって死活問題であった。 農業や工場誘致など軍隊誘致以外の手段でも地 域振興を図ることができる軍都(10)とは,切実 さの度合いにおいて,相当の隔たりがあったと いえよう。かくして,第二次世界大戦期を通じ て,軍港都市は海軍に対して反発を強めてい く。第二次世界大戦後,軍港都市はいずれも海 軍に依存しない平和産業都市を目指した。しか し,乏しい資源に比して過剰な人口を抱えるこ れらの都市は,結局のところ,米海軍や海上自 衛隊の根拠地として発展していく道を選ばざる を得なかったのである(第Ⅰ巻,筒井一伸「舞 鶴の財政・地域経済と海上自衛隊」383頁)(第 Ⅲ巻,林美和「呉市における戦後復興と旧軍港 都市転換法」331頁)(前掲,上山「大海軍の策 源地から平和産業港湾都市へ」355頁)(前掲, 長「せめぎあう「戦後復興」言説」217頁)。 かくして,軍港都市と国家とのあいだの不健 全な緊張関係が浮き彫りとなる。近代都市に は,国家の機能の幾分かを担っている側面があ る。経済や物流の中心として自然発生的に成立 した都市ですら,その宿命からは逃れられな い。「商都」を名乗る大都市は,一見国家から は相対的に独立しているようにみえるが,実際 には国家経済の成長エンジンとしての役割が期 待されているし,大都市からの税収は農村部へ と再分配される。国家あるいは特定の為政者に よって人為的に形成された都市の場合,国家の 機能をより多く担うことになるのは必然であろ う。 担っている国家的機能およびそのためのコス トと,そこからもたらされるベネフィットが均 衡している(と考えられている)あいだは,両 者の関係は良好である。その均衡が崩れれば, 両者の関係は緊張する。都市の発展に伴う住居 問題や貧困問題が顕在化した1920年代には,大 阪・東京などの六大都市は,その権限と財源を めぐって国家と対立した。その対立は,今なお 進行中である(11)。とはいえ,国家に対抗しう るだけの資源を備えた大都市と,それらの資源 をナショナルレベルで活用したい国家との緊張 関係は,むしろ健全な緊張関係ともいえるだろ う。両者の論争から,よりよい国家のグランド デザインが導き出されることを願うばかりであ る。 翻って,軍港都市のように,国家への依存度 が高いからこそ生じる緊張関係は,いびつなも のになるだろう。軍港都市は,国家的機能を果 たすために国家によって建設された都市であっ た。それゆえ都市が国家へ依存することの限界 に気づき,そこから抜け出そうと努力しても, それは容易ではない。時には,国家がその取り 組みを妨害することもある。国家が都市に対し て,そのコストに見合うだけのベネフィットを 十分に与えられない場合であっても,その関係 は変わらない。このような不健全な緊張関係 は,リゾート開発や原子力政策,米軍基地問題 など,多くの場面で,今まさにわれわれが直面 している課題でもある(12)。軍港都市は,こう したアポリアを象徴する題材であるといえるだ ろう。 注 ( 1 )小林照夫『日本の港の歴史:その現実と課 題』(成山堂書店,1999年), 1 頁。 ( 2 )もっとも,横浜や神戸など近代日本を代表す る「みなと」も,安政条約によって人工的に形 作られたのであって,自然発生的に発展したわ
けではない。人工的に形作られるという点が, 近代日本の「みなと」に共通する,ひとつの特 色といえる。この点については,稲吉晃『海港 の政治史:明治から戦後へ』(名古屋大学出版 会,2014年)を参照。 ( 3 ) 荒 川 章 二『 軍 隊 と 地 域 』( 青 木 書 店,2001 年),松下孝昭『軍隊を誘致せよ:陸海軍と都 市形成』(吉川弘文館,2013年)など。 ( 4 )ただし,陸軍の師団が駐屯した軍都にも,多 くの場合,造兵廠・被服廠などが併設された と,布川弘は指摘している。布川弘「書評 坂 根嘉弘編『軍港都市史研究Ⅰ 舞鶴編』」『歴史 と経済』210(2011年)。 ( 5 )坂根嘉弘「陸海軍と中国・四国・瀬戸内の経 済成長」坂根嘉弘編『地域のなかの軍隊 5 :西 の軍隊と軍港都市 中国四国』(吉川弘文館, 2014年),147頁。 ( ₆ )港の他者性については,深沢克己『海港と文 明:近世フランスの港町』(山川出版社,2002 年),同『マルセイユの都市空間:幻想と実存 のあいだで』(刀水書房,2017年)を参照。 ( ₇ )上杉和央「軍港都市〈呉〉から平和産業都市 〈呉〉へ」坂根嘉弘編『地域のなかの軍隊 5 : 西の軍隊と軍港都市 中国四国』(吉川弘文館, 2014年),109頁。 ( 8 )飯塚一幸「軍拡・軍縮と舞鶴鎮守府」原田敬 一編『地域のなかの軍隊 4 :古都・商都の軍隊 近畿』(吉川弘文館,2015年)126~127頁。 ( 9 )同上,133~134頁。 (10 )前掲,荒川『軍隊と地域』,170頁。1924年に は,第15師団の演習場がおかれた二川・高師・ 高豊の三ヵ町村が,射撃演習が農業に与えた損 害の賠償を陸軍に求めている。陸軍に依存しな くて済むだけの農業生産力が,これらの町村に あったからこそ可能であったといえよう。 (11 )砂原庸介『大阪:大都市は国家を超えるか』 (中央公論新社,2012年)。 (12 )山下祐介/金井利之『地方創生の正体:なぜ 地域政策は失敗するのか』(筑摩書房,2015 年)。リゾート開発や原子力立地などが問題と なる地域は,一般的には「都市」とはいえない かもしれない。しかし,これらの地域も「都市 化」を模索しているのであって,直面している 課題は同根であろう。 (清文堂出版/Ⅰ:2010年,418頁,7600円[税 別 ]/ Ⅱ:2012年,450頁,8800円[ 税 別 ]/ Ⅲ:2014年,358頁,7800円[ 税 別 ]/ Ⅳ: 2017年,388頁,8500円[税別]/Ⅴ:2018年, 356頁,8200円[税別]/Ⅵ:2016年,334頁, 7800円[ 税 別 ]/ Ⅶ:2017年,344頁,8200円 [税別]) いなよし・あきら 新潟大学