三とりあげてみた。 即ち、大唐西域記に見られるように、七世紀初頭に仏教の残っていた所は、ナーランダの仏教大学を除いては、西 北インドの、所謂ガンダーラ地方と、東南インド、所謂アマラ・ハティ、ナガールジュニコンダのあるクリシュナ、ゴ ダ・ハァリー河辺と西インドのボンベイ、ブローチ、カリカット方面である。これは後述の如く、ローマ、アラビヤを 主とする海外通商の栄えた所であることはいうまでもない。ガンダーラは陸のシルクロードの接点であり、あとの二 つは、私のいう海のシルクロードの寄港地である。これらの地に仏教が現存していたにも拘らず、中原地方はひしひ しとヒンズー化が進んでいたことが西域記からうかがわれる。要するに仏教は普遍を求めて成立し、従って、普遍の 仏教は通商路沿いに栄えた。これは大唐西域記や現存するインド西南部の窟院が、昔の通商路沿いに存在し、又そ こに残された寄附者の銘文からみて、商人長者の基盤に立っていたことが推量されよう。私は仏教学会報や棲神で再 基盤を求め行ったといえよう。 これは通商という普遍的世界が、仏教の普遍性の理念と一致するとも言えようし、逆に、M・ウエーバの言う﹁イ
海のシルクロードと仏教
︵仏教とその基盤︶高橋堯
昭
(43)私はこの普遍を求めて、広がり行く仏教が、更に東へのびて行く、その道程にあるスマトラのパレンバン即ちシユ リヴイジャヤのサィレンドラ王朝の仏教を、この通商路の上に於て考えて行きたい。然し、この時代の現存物はジャ ワ、ボロブドウールしかないから、これを主たる手がかりとして考えて行きたい。 ◇ 私の俗にいう海のシルクロード、即ち支那からギリシャ、ローマへの航路は相当古くから開発されていた。従って インド人も相当早くから東西の国々に関心をもっていた。 即ち、記録によると、プトレミーの﹁旨冨会①のは金の島で、非常に豊沃で多くの金を産す。﹂とあるから紀元前 後﹁ジャ・ハが平行で、豊沃楽土﹂であることをインド人は知っていた。そして、この航路にのって、﹁大奏即ちローマの するのである。 だから、仏教は先述の如く、通商路沿いの﹁線﹂としての世界にひろがって行き、﹁巾﹂としての世界には生き得ら れなかった。更に仏教の描い手は純粋のインド人というよりも、むしろま外人、所謂サヵ、・ハルタィ、バクトリヤ等の 商人長者に措われていたと言っても言いすぎでない。例えば、サンチーや西南海岸の洞窟寺院の銘文に、いかにヤバ ーナが多いか。又ナガールジュナコンダの仏教の隆盛に大きな寄与をなしたイクシュヴァーク朝は、実はウジャニー の仏教隆硴に寄与したサカ王朝と姻戚関係、即ちウジャニー王の妹がここに嫁して仏教の般大の寄与者となった一事 をもってしても、仏教の基盤がどこにあるかが分ろう。民族種族を超えた商人長者の普遍性が、仏教の普遍性と合一 あったろう。 だから、〃 ンドには農村はあるが都市がない﹂という﹁閉ざされた世界﹂のインドに於ては、仏教よりヒンズー教の方が適切で (“)
マルクス、アウレリュース、アントニュース皇帝の使者が支那に来ている﹂︵後漢書︶のである。 ◇ この通商の航路は、岐初は海岸沿いの航路であったろうが、その中、季節風を利用する方法を発見した。まづ、④ インドから紅海へ行く道は、冬季は水吹流がインド半島の先から、アフリカのケニヤの方へ向っている。やがて春か ら北に向うからペルシャ湾口に達する。従って、春のメッカの祭りに巡礼する団体はこれを利用してメッカに向うが
辛”
、、霊。
祭りの終る頃に、水吹流は逆になり、所謂モンスーン海流 にのってインドに帰る航路が利用されて来た。、ベンガル 湾もインド大陸北部が冬になると冷えて高気圧になり、南 の海が高温で低気圧になる為北東風が吹く。丁度セイロン の北部、アヌルダプラ等インド本土とは逆に、冬に雨期と なる理由である。夏は逆風となる。⑤この典型的なのが、 パレンバン即ちシユリヴィジャャと広州、今の広東との間 である。冬になると、支那大陸に強力な高気圧が出来る。 我々のいう西高東低の冬型笂圧配置だ。この高気圧からス マトラの気温の熱い低気圧に向って季節風が強く吹く、こ こで風待ちをしていた商船が一斉に南下する。十四世紀の イプンパトータの記録の﹁冬になると広州の港に一隻も居 (45)なくなる﹂理由である。夏は逆風が吹き、。ハレン・ハンから真直ぐ北上する。この一番の難所が風のないマラッカ海峡 なのだ。法顕の仏国記に。一百人乗りの大船で出発、その船は海難に応じる為に小船を引いている。東へ二日航行し て嵐に会い、船に水が入り出す。小船に避難しようとするが、沢山の人が来て沈没するのを恐れて、小船は引綱を切 って了う。商人は船荷を海中に捨て、沈没させぬようにする。法顕も一心に観音を念じ、嵐は十三昼夜続いて、やつ かげ と島の辺に来る。この辺は海賊多く、つかまれば必ず殺される.⋮・﹂と。又マルコポーロも五ヶ月の風待ちの間に、 城を作って警戒をした等、大きな危険をかけて航海したのである。 更に、その当時の船団規模を知る為、少し長いがマルコポーロや、イブン。ハトータのこれに関した部分を写してみ る。マルコポーロは﹁大汗の用意させた船は十四隻、いづれも四本マストで十二の帆を張ることが出来、この中には 二百五十人乃至二百六十人の水夫の乗り組める四五隻もあった。船には大汗の命で二年分の糧食が積みこまれた。一 行は海に出ると南ジャワという烏につくまで約三ヶ月の航海をつづけ、この島をはなれて目的地につくまで十八ヶ月 一行はインドの海を横切って進んだ。出帆した時、水夫を除いて六百人は確実に乗りこんだのに最後に生きのこった のは十八人であった。⋮⋮﹂又イブン。ハトータも次の記録を残している。﹁私達の滞在していたカリヵット︵インド 西側南端︶には十三隻のシナ船が来ていた。大船は一千名の乗員︵水夫六百人戦士四百人︶、各船は﹁半分﹂﹁三分 のこ﹁四分のこの三隻の小型船が従う⋮﹂と。このように見ると、イブン。ハトウータから千年前の法顕当時の様 子に似ているから、大体このような規模の船団が多くの難波船を出しながら航海したことが推測される。又このこと は義浄の大唐西域求法高僧伝からみても分ろう。 。 (46)
難溌蕊蕊繊 、曹寺篭識 ボロブドールの彫刻 …ゞーも、 ‐麺 '. ユ…厚 然らば、これらの船がどのようなものであったか、これを出 土した彫刻絵画から考えてみる。大体私の今まで見て来た彫刻 絵画の船としては、 1、サンチーのストウーパの浮彫の船︵前一世紀︶ 2、インド、コマンデル海岸発見のアンドラコインの船︵後 二 世 紀 ︶ 3、ジャワ、ボロブドウールの仏塔の船︵後八世紀︶ 4、アジャンターの壁画の船︵後五世紀︶ 5、アンコールワットの浮彫りの軍船︵十三世紀︶ 6、コナラックの浮彫り︵十二世紀︶ で、この中で遠洋に適し、前記法顕、マルコポーロ等の資料に 合うものは、このボロブドウールのものであろう。そしてこの ような船によって、インドの文化が移し植えられたのである。 そしてその基地は、スマトラのパレンバン、セイロン、インド のカリヵット、ブローチ等が有名であったが、その外股近の研 究ではルラー、アラマギルブール等の約百ケ所に前二世紀から 後七世紀にわたる海上交易に関する遺跡をインド考古局で発見 (47)
して.いるから、この海上交易の発達のさまが推鼓されよう。 。 更に仏典にも、海外交易を示したものが多いが、私はジャータヵに限って、この問題を考えてみたい。そもそもジ ャータカとは仏の前世物語で、もともとは印度の民話寓話であったのだが、仏の偉大さを表わすため仏教聖典として 奇蹟物語︵未曾有法︶、警験、因縁、過去と現在を結ぶ話の原因を説明する話が出来た。その経典としては・ハーリー 中部一二三、漢訳中阿含三十二、未曾有法経が出来た。この話の中、仏の前世物語に限定されたものがジャータヵと いう。この前世物語が一番早く彫刻に現れたのが・ハールフットの彫刻で大体アソヵ王の直後、前三世紀の終りから前 一世紀までに作られているから、経典としての成立はそれ以前のものといえよう。然もこのジャータヵの主題は﹁菩 薩が前世に○○であったとき⋮⋮﹂と、菩薩という言葉が使用されている。この菩薩という言葉について私は棲神四 十号にとりあげたように、鹿野園出土の釈迦菩薩像に諜かれている。即ち﹁ボディーサット・ハの像をカニシヵ王の三 年︵後一三○年︶に建立﹂とあるから、これを下限としてこれ以前のものと考えていい。又これは漢訳経史上からも 言えるから、このジャータカに入れられた物語りは大体後一世紀から前三世紀後半までの社会の反映とみてよいと思 う。故に、このジャータカに現れた海外交易を考えて見るのも興味あることと思う。南伝大蔵経小部経典からこれを う。故に、こ︵ 拾ってみると。 四十一、ローサカ長老本生 ﹁船は海上を一週間航行して、七日目に海の真中で難破⋮・・・竹の筏にのって海上の水昌宮で四天女に会う﹂ 一九○戒徳利益本生物語 (“)
三五三張枝本生物語
﹁海上で難破船に逢った人のように⋮.:﹂ 三六○スッソンディー妃本生物語 ﹁・ハルーカッチャの船にのって、スヴァンナブーミ︵金地国スマトラ︶に行った。﹂ ﹁摩喝魚が船をこわし、サガは枝の上に臥し風にまかせて行き、龍島なる金翅烏の棲所の尼拘律樹の側についた。﹂ 四六六海商本生物語 ろが、自然に生えた米、 五三九マハジャナカ本生 玉⋮⋮。﹂ 一九六雲唾 雲 馬 しはじめた。﹂ ろが、自然に生えた米、甘庶、芭蕉、巷羅、閻浄波羅蜜、椰子⋮⋮種々の果物があった。﹂ ﹁大きな船を組立てて、..⋮・大海にのり出し、風のまにまに漂いながら、大海の真中にある島に辿りついた。とこ その他、これらと同じような話の商主シンハ王本生、亀本生、ミッタヴインダ本生等があるが、ここにたまたま、 ってはなりません。﹂:。⋮﹁七日間、船は七百由旬を走ったが、余りひどくはしって、大海の真中で船は正に沈没 ﹁お母様、私はスヴアンナプーミ︵金地国︶へ行ってまいります。﹂﹁海は成功が少なく危険の多いものです、行 ﹁錫蘭島にシリサ・ハァトウという夜叉の町、夜叉女から五百の商人が天馬にのって救わる。﹂ ﹁仏弟子が一人の富裕なる理髪人と同乗、七日目大海の真中で難破した。⋮⋮船は七宝で満たされ、三本の櫛は青 本生物語、 (49)仙後漢書巻六帝紀巻二六、南蛮列伝︵西紀後一三一年︶に﹁後漢の順帝、永建六年、葉調︵ジャバ島西端︶なる王 、﹃ノ○ 蹟の生還とみてよい。 かくの如き危険をおかして、危険が多ければ多い程、その利益は莫大であった。このさまがジャータカににじみ出 ている。この通商にのって文化が西へ東へ交流されて行った。 更に私はこの各地に散在出土する支那の陶磁器の分布状況、又時代区分からも、その時代時代の通商の多寡を推測 しようと思うが、これはこの次に譲りたい。 。 然らば、古文沓的資料から、このジャバ、スマトラと特にバレン・ハンたるシユリヴィジャャと支那との関係を見よ これは大唐西域求法高僧伝の六十人の僧中多くが、航海の中に沈み、むしろ法顕、玄弊、義浄の如きはほとんど奇 ある。 このようなジャータヵ中の話も、ほとんど難破するのは如何に当時の航海がむづかしかったかを推測するに十分で これをもってしても、東西通商による文化交流の行なわれたことを物語っている。 聖書の冒頭に出て来るノアの箱船の中の有名な話で、西アジヤ的なものである。 る鴉を一羽捕えて船にのせ、倶に航海に出て行った⋮⋮。﹂このような方角を知らせる烏をのせて航海するのは旧約 興味深いのは、三八四、法憧本生︵ダンマッダジャージャータカ﹂に﹁迦源剛に住んでいた或る商人が方角を知らせ 金地国めざした活が二話あるから、この経典成立当時のスマトラ、ジャワとの交渉を物語っているといえる。又特に (”)
﹁後九七一年広州に交易の役所が設侭。﹂ ◎○○ 切宋史四九八巻真宗の成平六年︵後一○○三年︶、三仏斉の思離味蝿無尼仏麻調華王は二人の使節を支那に送る。正 使李加排、副使無陥李南悲は王の長寿を祈って一寺を建てた。その寺号と鐘を求めたので支那より、承天万寿の銘使李加排、副使鉦継 側宋史四八九巻 ﹁後九七一年 ﹁五日の行にして海峡に至る。蕃人は之を質︵海峡︶という。南北百里、北岸は即ち羅越国。︵ジョホール州の南 ○○. 端平城天王の笙一宝子真如親王蕊去の地︶南岸は即ち仏逝国なり。仏逝国の東は水行四、五日にして阿陵国に至 る。南中州の般大なるものである。又西は峡を出でて三日にして葛々僧祇国に至る。 艸義浄の南海寄帰内法伝の記事︵後述︶ ○。◎ 伽義浄の大唐西域求法高僧伝巻下、無行禅師の条、﹁広州より東風に船を浮べて一月にして仏逝国に至る。国王厚く 礼し、特に常倫と異る。後に王の船に乗じて十五日をへて、未羅燕州︵スマトラ中部ジャムビ地方︶に達し、又十 五日にして錫茶畑︵ケーダ、マライ半島西海岸赤土田︶に至る。冬末に至り、船を転じて西行して三十日を経て、 那迦鉢檀那に至る。ここより海に浮ぶこと二日にして師子国に至り仏牙を観礼す、と﹂当時の地図がうかがわれる。 側新唐書︵三三下地理誌︶ 側新唐書下、南蛮伝︵後一 ︵ 後 六 と鐘が与えられた。 綬をうぐ。 便なる者が師会という使臣を支那の朝廷へ貢献す。師会は漢に帰属する葉調王の邑君に任ぜらる。そして金印と紫 七○’六七三︶に来貢の記録あり。 (5I)
卿真宋の大中祥符元年︵後一○○八年︶思離麻曝皮王の使い来貢 側宋史四八九巻その他の文献から、シユリヴィジャャが 神宗の元豊年間︵後一○七八’八五年︶神宗の元豊年間 己破三仏斉、拠改笹 たことが示される。 哲宗の紹聖年間︵一○九四’九七︶
高宗紹興二十六年︵後二五六︶
孝宗乾道八年︵後二七二年︶に来貢したが、然し淳恕五年来貢を禁じた。 このように、ジュリヴイジャャを中心として、この地方から支那への交流が盛んであったが、やがて変化が出て来 る。それは、周去非の嶺外代答巻二︵後二七八年︶に来貢の諸国の名が出ているが、その中で、1、大食︵アラビ ヤ︶2、闇婆3、三仏斉と順位が変っていることが注意される。これはシユリヴィジャャよりジャ・ハの力が大きく なって来ていることを示す。更に特筆すべきは明誌巻三二四巻︵一三六八’一六四三︶に三仏斉について、﹁時爪畦 己破三仏斉、拠改其名日旧港、三仏斉遂亡﹂とあり、又十四世紀の旅行者の記録もなくなる。即ちここに通商がたえ ◇ 次にインドとの交渉の記録をたどってみる。 1、ラマャーナ︵後二世紀︶にャ・ハドウィ・ハをさがしたところ、七王国をもって飾られし金銀の島にして..⋮・﹂と記 元豊二年、 されている。 五年、六年 (”)8、ラィデス大板金 3、アールャ・ハタ︵後四九九年︶という印度の有名な天文学者はその著アル・ハーテイャムの中で﹁太陽がセイロンを のぼる時、祝福された島は日没で、ャ・ハの端では正午であり、ローマの境では真夜中﹂とあるから、ジャ・ハは般早 やインド人にとって自明のものとなっていた。 4,.ハタビャを貫流するチ、リウン川の支流、チ、アルタ川の上流デサ、チャンベアの河床に﹁西ジャワに後五世紀 ダルマ国というインド王がインド系の王国を作った﹂という彫文出土。 5、南ボルネオのクティ領サマリンダ附近から、五世紀の日附のあるサンスクリットの碑文が出土され﹁土地の支配 者がバラモン教に領地を与う﹂と記されていた。 6,.ハレン・ハン近郊のプキット、セグンタングより仏の胴体が出土し、クロム博士はアマラ・ハーティ派の影響でシユ リヴィジャャ以前と断定している。これと共にムシ河から等身の観音像が出土、その様式からみて、後七世紀のバ ラ・ハァ王国の芸術様式故、南インドとの深い関係が示されている。 7、インドナーランダ刻文︵後八五○’八六○︶ ﹁サィレンドラ王朝の.ハラプトラ・デーパの依頼でナーランダに仏教精舎が建てられ、・ハーラ王朝の三代デー・ハ・ハ ーラ王が精舎へ数村を寄附され、この刻文が建てられた。﹂ 2、梁高僧伝巻三、︵大正蔵五十巻三四○頁︶闘賓剛︵カシミール︶の求那敗摩︵三六七’四三こが闇婆王を教化 していたが、宋の文帝、元嘉元年︵後四二四年︶に使いを闇婆王婆多加に送り、招待す、求那敗摩竺難提の船で広 州へ行く。 (53)
廻、スマトラ国餌3m附近のF◎ず巨弓巨画からタミール語で書いた後一○八八年に当る日附のある碑文や。ハタンラワスの 精舎より南インド系の菩薩像出土 咽、その他、タンジョール刻文︵後一○三○’三一︶ マルー寺刻文︵後一○二四’二五︶ u、マゲラン碑文ムルチラン南方の旦画畠働]出土ふい紀鉦李至七︶に﹁南印から来てジャワを支配するに至った﹂ 皿、一○二五年にシユリヴィジャャに海軍の遠征隊を送り勝利を得たと記されているが、後一○七○’一二九年に ﹁マーラヴィジャョットウン、ガウルマン王によって建立された。王はサィレンドラ王統に屈し、シユリヴイジャ ャの支配者であるカターハを支配し、チューラマニヴィルマンの子で、この精舎の所在地は南インドの東岸、ネガ パタム︵z農凹目国日︶にして、マーラヴィジャョットウン、ガヴィルマン王が父のチューラマンヴィルマンの名 をとって名付け、アーナィマンガラム︵諺己凰日脚目的巴画日︶村をこれに寄附した。はじめ父王のラージャラージャ ー世の二十一年︵後一○○六年︶頃に建立がはじめられ一村を寄附、その死後子の王によって継承された。﹂ とインドの中に二ヶ所も精舎が建立され、然もインドの王がこれに村々を寄附する程インドとの関係は深く、又仏教 も盛んであったことが分ろう。然もインド以上に仏教が磯んであったことは 9、ナーランダの主僧アティーシャ︵十一世紀︶がこの地を学習のために訪れ、法称の下に学んでいる事実である。 両国が復交通商する。 ことが示されている。 その後、チョーラ国が (54)
以上によって推測されるように、南インドの文化がここに流出して行ったことが分る。特に干潟教授はこのように 南インドから多くのものが、スマトラジャバ方面に移ったのはカーチプランを中心とする.ハラヴア王国の興亡と深い 関係があると指摘しているが、いわばインドの延長として、これらの地域は密接の関係をもっていたことが分ろう。 この中心は勿論シユリヴイジャャである。 。 然らば、この地に仏教は如何なる形にあったのであろうか、又これは一体何年頃から何年頃までであろうか、 1、法顕が四一四年セイロンから支那へ帰る路に、耶婆提による、然し外道バラモン磯んにして仏法言うに足らずと いっているが、然しこれと矛盾する資料として 2、前述の求那敗摩がここにいて四二四年に支那から招待されて広州へ行ったことから仏教は最早や現存していたと も考えられる。即ち先述の南インドからの移住者によって最早や現存していたと考えられる。 3、宋諜巻九七、劉宋の元嘉十二年︵四三五年︶に支那に細責したその上表文に仏教用語が使われているから、すで に仏教がこの地に伝わっていたことが示される。 4、。ハレン・ハンの西北五粁、タラントウオ︵目巴画己瞬弓口君。︶出土の刻文で六八四年に相当する記録あり、﹁シュリ ークーシェートラという放生園を設け、王の他の子等と共に一切有情の利益に供えん⋮⋮。﹂これは明らかに大乗 仏教の思想である故、当時大乗仏教が入っていることを示している。 5、義浄がこれと同じ年六八三年にシユリヴィジャャに来ていたが︵義浄は六七一’二、六八五’七、六八九’九二 三回滞留︶ (55)
﹁南海諸州には十数国あり、純ら根本有部なり。正雄は時に欽ばる。近日己米、少しく余のことを兼ぬ、小州あり て⋮.:斯れ乃ち威仏法を遵び、多くはこれ小乗なり、末羅瀧に少し大乗あるのみ﹂と言っているのに比して大乗も 現存していたことが分る。特に大乗が大きな力をもってくるのは 6、密教の継承者不空三蔵が師金剛智三蔵に七一八年にここで会い、密教の勉学をして支那に伝えたことから分る。 7、又大乗としてリゴオ厚肩o周刻文Iマレー半島の・ハンドン湾の近くに一大寺院がありその彫文の七七五年に当る シャカ紀元あり、それに梵語の偶﹁三つの塔を建てる﹂とある。 8、中部ジャワ、カラサン碑文サカ紀元七○○年︵後七七八年︶に当る梵文二一ヶ、出土、即ちサィレンドラ王朝に 属するマハラージャ、・ハンチ・ハナ、ナムカラナ、ターラ女神に寺院を奉納す、これは明らかに大乗である。 9、ケルラク得堅固目ご出土、サカ紀元七○四︵AD七四二年︶﹁サィレンドラ王統、ダラニーンドラ王、クマー ラゴーシャという師僧のために文珠像を造立した。 、、前出ナーランダ刻文、仏教が盛んであったが故にインドに勉学の学生の為に精舎を作る必要にせまられた。又ラ イデン大板金の如く、南インドのネガ・ハタムにも精舎を作ったのもこれと同じ意図であった。 u、・ハレンバンから遠からぬ屍@日の凰口駒河から立派な釈迦、観音菩薩の像、又弥勒菩薩の像、これらは中央ジャ・ハの 皿、ブキット、セリンタンクの丘から花冠をつけた釈迦像が出土している。これはスマトラ独自の仏教のスマトラ化 が進んでいたことを示している。即ちこれはジャ・ハのサィレンドラ王朝崩壊後ひとりさかえたシユリヴィジャャ王 朝の仏教からいって興味あることである。 もの︵八’十世紀︶ (56)
喝、マディリングのシマナガム・ハットの練瓦作りの遺跡で浮彫りのある数ヶの石、カーラ︵冨旨︶の頭部は八、九世 紀の中央ジャバ様式、又。ハレン・ハン西方のラマタングPmg冒筒侭︶河附近で中央ジャ・ハ時代のシバの彫刻出土、 皿、パタン︵。且色目瞬固騨言四画︶州の︵のロョロ瞬弓冒鼠︶地方の国胃鼻でシャカ紀元九四六年︵他一○二四年︶の日 付である青銅の群像が一つ発見、﹁両側にゞ厨&、を従えた四本の腕の観音、これは世間天神PC冨己蟹冨︶を形 どったもの、それに、国樹彊という作者の名前と古いマライ語で香いた大乗的な回向文が発見された。これは全体 の様式と碑文はジャバ的であるが、スマトラで作られたことに間違いない。それは十一世紀頃、かかれたネパール 人の手記で、当時スマトラでローカナータが崇拝されていたことが記されているからである。 咽、パダンハリ州の。ハダンハリ河の左岸命ロ自彊一厚”ご碩晩四s附近で発見されたケルタナガラ王の不空羅索菩薩像、 その台座にジャワで用いたカワィ文字とマヒ語の綴が記されて居り、 ﹁シャヵ紀元一二○八︵後一二八六年︶にケルタナガラ王が四人の僧侶に命じて、不空頴索観音の像を王子ヴイ ス・ハル−。ハ︵ぐ置く昌号巴の賜物としてジャワからスマトラに将来し、パダンハリ:.⋮に建立せしめた﹂との勅願スバルーパ 文が出土した。 以上見ると最初は後述のメンドウーッの如くグプタ様式、更にナーランダや。ハーラ仏等が変った南インド的であっ た。然しシユリヴィジャャよりジャワの方が力をもって来るとジャワ化が進んだことはその出土の仏から分る。然し 更にアンコールワットまで、その勢力下に治めその影響下に成立させたサイレンドラ王朝も九世紀初頭マタラームの バリトウラ王の為に駆逐されシユリヴィジャャを主都とするスマトラだけの王朝になり、更に貿易に支えられて、猶 数百年隆盛を保つとこのジャ・ハ様式から段々スマトラ化が進んで行くのは当然である。これは上記の資料からうかが (57)
然して、そのシユリヴィジャヤの仏教の隆朧を示すものとして 趙汝造の﹁諸蕃誌﹂︵皿一一三五︶に﹁三仏斉は真臘︵カンボジヤ︶と闇婆の間にあり十五州を管し、泉州の正南 にあり.:⋮仏あり、金銀山と名付く、仏像は金を以て鋳し、国王立つ毎に先づ金型を鋳して以て躯に代う。金を用い て器皿と為す、仏に供するに甚だ厳なり、その金像器皿は各々誌を鋪みて、後人に殿っこと勿きを示す。国人のもし 病劇しきものあらば銀をもって、その身の重さの如くし、国の窮乏に施すもの亦、死を緩むべし﹂と仏教の盛んなこ とを示している。この仏教の朧んなさまも、このシユリヴィジャャの衰滅と共にほろびて了った。然し特兼すべきは このサイレンドラ王朝の勢力下にもう一つの重大な遺跡がある。勿論これがボロブドウールであることは論をまたな い。このボロブドウールの遺跡の分容を考えるとき、この時代の仏教の如何なるものであるかが分ろう。 ◇ ジャワ中部南海ジョクジャカルタ郊外、メピラの活火山の麓に西紀七百年代、約百年近く続いて建てられた大遺跡 が災総督ラッフル卿によって発見された。椰子の茂る平原からぬき出た小高い丘の上に黒い安山岩を積み上げた、一 辺百十米余の方形檀を五段に積み上げ、その上に円形檀を三段、全体をピラミッド状に積み上げ、その三段の円檀上 には七十二の髄目のように中にみえる珍しいストゥー・ハがあり、その中には仏像が外から見られる。最高檀の中央に は大きな鐘形をした大ストウーパが作られている。然しその後、この石積みの重圧にたえかねたか、その崩壊から防 ぐために、基檀の外に相当殿の石積みの檀が作られている。 まず東門の入口に立つ時、第一檀の外側や第二檀の外側その他に仏菩薩像が多く彫り込まれている。第二回廊にの われることである。 (”)
ぼると東門から右まわりにまわって、一まわり大方広荘厳経が彫られている。これは大乗の立場からの仏伝で、実に 丹念に経文の順序そのままに彫.われ、その下部は釈尊の前世物語、即ちヂャータカが、これはここだけに止らず、対 応壁、第三回廊対応壁にも彫られている。然して第三回廊主壁、第四回廊主壁及対応壁、第五回廊の対応壁には華厳 経の入法界品即ち普財童子が五十三人を尋ねて法を求める、そのさまを大体経文の順を追って彫りこまれている。更 に、この第五回廊の主壁面は華厳経入法界品の結末の普賢行願讃の普賢の徳をこまかに表わし、その徳をたたえてい る。然して、今は崩壊除けの土止め役の石積みの下になって、ほんの一部を残して壁画はうめられているが、ここに 普因善果、悪因悪果の地獄極楽の彫りもの、即ち﹁分別善悪報応経﹂が彫りこまれている。 これは要するに基檀に彫られた菩因善果、悪因悪果の物語によって、人の世の生のいとなみと、その業の強さ恐し さを痛感したボロブドゥールの信者は、はるかに高く仰ぐ仏菩薩の崇高な世界をおがみ、渇仰の心をおこす、そして 東門から上って第二回廊に天上界の菩薩が慈悲のために、やがて地上に降下して釈尊となり、いろいろの修業を重ね て、遂に悟りに至る、そして法輪を転じ人々の昔を除かんとする。その方広荘厳経の仏伝に目を輝かせ、第二周目に 下部の彫刻と、そして第三周目に対応壁のそれに釈尊となる前世の極々の普根功徳に自bの修業のきびしさを悟り、 或は王となり、或は動物となった時の善根が仏の僻りという結果を生むことを極々の因縁瞥嚥によって味わい、悟り への契機となるを知る。それから、この鹿野園の転法輪に続くものとして、仏が祇園精舎で文珠、普賢以下五百の菩 薩に説法する場から、華厳経の入法界品の第三回廊主壁の物語がはじまる。そして人々は善財童子と共に、同じ身と なって善知識を求めて求道の旅を続ける。この階を対応壁ともこ巡して、又第四回廊をも二巡して、肢後に弥勒、文 珠、普賢に法を求めて究極の境地に入り、第五回廊で普賢の徳をたたえる普賢行願讃を最後に悟りの道のひらかれた (”)
ことを讃歎する。そして干潟博士のいう﹁三層の円檀に見聞生、解行生、証人生の三生成仏を体現して、中央塔に至 るように設計されている。そして、中央の塔は自性法身、円檀上の三層は自受用法身、第五層は他受用法身、第四層 以下は変化法身、基檀は等流法身、これらは向上修証面のみでなく、本覚向下面を表わしている。﹂即ち、基檀から 一歩一歩自らを向上させると共に、法身自体が自らを松回させ、最底の所まで応身して、その境涯におり立ち、それ と共になやみ、手をとり合って救い出す。上求菩薩即下化衆生、住相即遠相の普賢行、仏教の究極をこれ自体示して いる。これは岐上檀の仏が降魔成道の仏で、次の三円檀上の七十二の仏が転法輪の仏なるが故に、単に向上面のみで なく悟った仏が逆に降下説法して行くさまを示していると言えよう。更に仏龍中の仏は夫々が方向によって印相を異 にし、東方宝憧如来、阿閤如来、南方宝生如来、西方阿弥陀如来、北方不空成就如来、東南隔普賢菩薩、西南隔文珠 菩薩、西北隔観音菩薩、東北隅弥勒菩薩で先述の三段の円檀上の七十二仏は転法輪仏、最頂の大覆蓋の中に降魔成道 の釈迦仏を中心とする大曼茶羅、仏教の仏身観、世界観を如実に現わした史上鮫大の仏跡であった。そして大乗仏教の 精華を燦としてここに現わしている。然もこのボロブドウールは単一なものでなく、メンドウーッのグプタの伝統を もつ立派な阿弥陀、観音、勢至の弥陀三尊と、。ハウンの守謹神堂を合せたより高度なものであった。これらを考え合 せるとサィレンドラ王朝期の仏教が如何に澗度なものであり、大乗の精華を如実に示しているといえよう。かくて法 顕期の小乗からすぐ大乗へ、特に南インドからの華厳更には密教へとその勢は一時はナーランダをしのぐものであっ 然しこの仏教も、やがて、仏教、ヒンズー教が流入したその同じコースを通って、同じように流入した回教によっ て遂に無に帰すのである。十四、五世紀以来の回教の破壊は物凄くあらゆるものを破壊し去った。然しこのボロブド た。 (“)
ウールのみ奥地であった為か、ねむりつづけて、今日に当時のさまを我々に示しているのはせめてものなぐさめであ このように、シユリヴィジャャを中心としたスマトラ、ジャワのインドと支那との交渉の歩みとそして仏教の遺物 を求めて来たが、結局通商のある時期だけ仏教が栄え、先述の周去非の嶺外代答巻二からみても三仏斉のシユリヴイ ジャャがおとろえはじめ、明法巻三二四で示されるように、これが滅亡し、他国と交渉をもたなくなると仏教は又滅 亡することがこれらの資料からうかがわれるのである。普遍を求めて成立した仏教が普遍を求める商人によってはこ ばれ栄え、その経済的消長と共に消えゆくは今まで私のインドからみてきた事実である。然らば何故であろうか。 ○ 仏教の基盤はインド以来商人であることは度々のべてきた。一方民衆はヒンズー教徒である。これはマックス、ウ エー・ハーのいう宗教の二元性、即ちインドでは社会の上部は仏教、下部ヒンズー、支那では上部は仏教、下部儒教、 日本では上部仏教、下部神道等の二元性に仏教の位侭特性が示されている。それ故に仏教は文化、哲学とか彫刻芸術 けんらん には絢燗たる華をさかせたが、インテリの弱さ、中産階級の流動性のために一瞬にふきとんで了う弱さを内蔵してい た。これはジャ・ハでも例外ではない。即ち、このボロブドウールとはさほど遠くない、ジョクジャカルタ郊外二十哩 にブランバナンという荘大なヒンズーの寺院がそれである。 ちんもく これは九世紀に仏教に対抗して、ディエン高原の文化以来サィレンドラ王朝時代に沈黙していた民衆の宗教である ヒンズー教がボロブドウール建設直後にここに復興されるのである。 そもそもサィレンドラ王朝がほろびる一つの原因は民衆が、この仏教寺院を作る重圧に反抗したことがあげられる ヂ ︵ ︾ 。 (61)
八貸料V ボロブドール刊行会闇婆仏跡ポロプドール が、恰もインドに回教侵入の中で依然これにたえながらヒンズーの信仰を失わなかったインド民衆のたくましさに比 すべきものがある。このヒンズーのたくましさは仏教にはない。回教来らば逃げ去り行く融通性が、又仏教の本質的 に内在する弱さなのかも知れない。かの中共軍のチベット侵入に、まつさきに逃げ出したのは商人、地主、仏教僧で あったことからも言えよう、商人によって栄え、支えられた仏教は又、その基盤の崩壊によって無となるのである。 これは又仏教の信仰、教儀の融通性にも言いうることである。インドで八世紀頃から出はじめた密教、特に十一、 二世紀の仏教般後のあがきとも言い得る.ハーラ仏教は、ほとんどヒンズー化していた事実。又ジャワでケルラクの 彫文に﹁西紀七八二年に当る年に、サィレンドラ王朝のタラニーンド王によって支配され、クマラゴージャという師 僧によって文珠師利菩薩を作る。この文珠師利菩薩は印度教の三位一体の神々との一致、仏教とシ・ハ教との融合を示 し、仏陀とシ・ハが最高実在の異る表現として同一神殿に祀られる。﹂ことを記していることからして、仏教は最早八 世紀ボロブドウールの仏教全朧時代にその袈で岐早ヒンズー教と融合する教儀を生み出している。だからこそその融 合の度合を深め千三百年代には融合・混合の極をきわめ、それがかえってヒンズーの中にとり入れられて行く原因と なる。そして一四四七’五一マジパィト王朝がみだれ、これにイスラムの侵入侵略が続くと仏教は無に帰し、一方ヒ ンズーは・ハリーにのがれて現代にまでその生命を長らえている。否ジャワ本土でも表面は回教というものの、その底 にはヒンズー的生活、文化が依然として支配していることは特筆されてよい。ここに仏教の本質と宿命をもう一度考 うぺき時が来ている。歴史を鑑として。 (62)