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いかにしてクライアンテリズムは個人支配体制の脆弱性を規定するのか: ニカラグアとパラグアイの比較から

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Abstract:

The purpose of this paper is to examine the vulnerability of personal rule. Both Nicaragua under the Somoza regime and Paraguay under the Stroessner regime were cases of the personal rule, however each regime collapsed in different ways in their processes. Regime collapse normally occurs where the vulnerability exists. In this study, two cases are analyzed by comparison focusing on the clientelism, which is the key concept of the personal rule. It is because personal rulers use patronage and pork-barrel to maintain their regimes. As a result of the analysis, in the case of Nicaragua, there seemed to be sufficient conciliation with the military, but it could not placate society through its ruling party enough. Thus, its system was collapsed from the bottom, taking the form of revolution. On the other hand, in the case of Paraguay that the regime collapsed from the top due to a coup d’etat by the military, its ruling party widely succeeded in conciliating the society, while patronage against the military was biased. This contrast in clientelism led to the differences in vulnerability between the two systems. In other words, rulers of the personal rule strengthen the system by using clientelism as well as weaken the system by using clientelism.

はじめに

個人支配体制とは、支配者によって構築された一元的なパトロン=クライアント

ネットワークによって体制が維持される政治体制である(Geddes 1999; Franz and

Ezrow 2011; 武田 2001)。それゆえに支配者が構築するパトロン=クライアントネッ トワークの機能不全は体制崩壊を惹起することとなる。本研究では、個人支配体制に おいて支配者が軍部と政党に対して構築したパトロン=クライアントネットワーク が、ニカラグアのソモサ体制では体制外の社会勢力が主導する革命、パラグアイのス 〈研究論文〉

いかにしてクライアンテリズムは個人支配体制の脆弱性を規定するのか

:ニカラグアとパラグアイの比較から

How Clientelism Affects the Vulnerability of Personal Rule?

: A Comparative Analysis of Nicaragua and Paraguay

駿河台大学 大澤 傑

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トロエスネル体制では軍部が主導するクーデタという体制崩壊の型式の違いをいか にして規定したのか事例比較することによって明らかにする1。ラテンアメリカでは、 これまでもキューバのバチスタやドミニカ共和国のトルヒーヨ、ハイチのデュバリエ などといった個人支配体制の支配者による統治が行われてきた。その中でも、ニカラ グアのソモサとパラグアイのストロエスネルは在職期間が最も長い部類に入る支配 者である2。本稿では、このような強靭な政治体制はどのようにして形成され、どの部 分にその脆弱性を抱え、崩壊したのかについて考察する。 本稿において軍部と政党に焦点を当てる理由は、軍部が体制を支え続け、社会勢力 が軍部と衝突した結果として体制が崩壊する型式と、軍部が体制からの離反を志向し て社会からの支持を受けて体制を崩壊させる型式に至る差異を明らかにするためで ある。軍部は体制の守護者であり、政党は社会の動員や支持を担う。つまり、軍部と 政党(を通じた社会)の行動の組み合わせが、体制崩壊の型式を確定するのである。 体制移行のゲームに参加するアクターは現体制に何らかの不満を持っている。ゆえ に、体制崩壊の型式は支配者がどのアクターに対して適切な懐柔を行えていなかった かという体制の脆弱性を示すのである。そしてその脆弱性は、支配者の後継問題や経 済危機などといった体制の危機に直面したときに体制崩壊と結び付くこととなる。 クライアンテリズムは、支配者が築く一元的なパトロン=クライアントネットワー クによって統治を行う個人支配体制にとり、体制維持のための鍵概念である。これは 個人間の「義理」に基づく関係性を指し、公的領域と私的領域との間での資源の再分 配が生じる体制変動期の局面に最も先鋭化する(横田 2008: 271)。それゆえに、本稿 では分析視角をクライエンテリズムに絞り込む。この概念にコンセンサスが得られて いる定義はないが(Stokes 2009)、パトロンとクライアントの交換に基づく関係性を 意味するがゆえに、懐柔資源(佐藤 2004)の変化を規定する経済状況や政治状況と いった外部環境に影響を受ける。外部環境の変化は、クライアントの要求に応えるた め、パトロンに公的資源を引き出す戦略を切り替え、新たなパイプを築くことを要請 する。それに伴い、「上部」におけるゲームのルールが変更され、体制側も外部環境 の変化に影響を受けるのである(中山 2008: 245)。 クライアンテリズムの概念は、特に地域研究において、地域の文化的側面や政党の 分配の様態を分析する際に用いられることが多い。なかでも近年の傾向としては、政 党政治研究の視点から有権者の投票行動分析に採用される。しかし、この概念が持つ 効果についてはいまだ未開拓な点が多い。例えば、経済成長がクライアンテリズム政 治を衰退させる点、民族の分断が大きいとクライアンテリズム政治が促進される点、 国営企業の存在がパトロン=クライアント関係の構築を促す点、政治が競争的になっ たとしても経済的に貧しい国家である場合、かえってクライアンテリズムが発展する 点などといった仮説が提示されているが(Kitschelt and Steven eds. 2013)、そのほと

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―31― んどが単一事例に基づいた実証にとどまるため、それらがあらゆる事例に適用できる かは明らかではない。 紙幅の都合上多くを論ずることはできないが、これまでの研究から推察できること は、クライアンテリズムがどのような効果を持つかは、当該国家が持つ政治、経済、 社会的環境に依存するということである。クライアンテリズムに関する古典的な論文

であるLemarchand and Legg1972)では、①政治システム内における階層システム、

②パトロネージの基盤、③パトロン=クライアントネットワークとフォーマルな政治 制度との関係性がクライアンテリズムの効果に影響を与えるとされる。つまり、クラ イアンテリズムの効果を読み解くためには、その行為のみならず、クライアンテリズ ムが存在する社会状況をも考慮に入れる必要があるのである。 それでは、いかにしてクライエンテリズムから体制の脆弱性を読み解くことがで きるのだろうか。個人支配体制における支配者は体制の安定化を志向し、一元的な パトロン=クライアントネットワークを構築する。その結果、パトロンとクライア ントの関係には本人代理人問題が介在するようになり、パトロンはエージェンシース ラックを予防するためにクライアントを監視するメカニズムの設計を望むようにな

る(Medina and Stokes 2013)。これは、パトロンたる支配者がクライアント全体を一

人で監視することによるコストが高すぎるためである。政治社会に属する軍部に対し ては支配者による直接的な監視が比較的容易であるため、このようなメカニズムが構 築されない場合がほとんどであるが、社会においては何らかのメカニズムが構築さ れ、それが制度化される。そして、このようなパトロン=クライアントネットワーク を担うのは政治社会と市民社会をつなぐ装置として存在する政党であることが多い。 それゆえ、本稿では社会におけるパトロン=クライアントネットワークを政党を通じ て分析する。確かに、パトロン=クライアントネットワークが政党を介さずに構築さ れる可能性もある。しかしながら、それらの分析は困難であるとともに分析手法も確 立されていない。また、政党は個人支配体制における支配者が構築し、社会に対する 統制を図るという点で彼らが築くパトロン=クライアントネットワークとして象徴 的な装置である。ゆえに、政党を分析することにより、当該国家のパトロン=クライ アントネットワークの様態を捉えることができるのである。独裁体制における政党は 民主主義体制のそれとは異なり、集票機能を第一義とするよりも社会における反体制 派の取り込みや監視といった国家と社会の媒介装置として機能する。このような社会 に根差した装置がどのように機能するかにより、社会における反体制派の運動の有無 や規模、様式が変化することとなる。支配者は政党を駆使し、社会から強硬な反体制 派が誕生することを予防し、体制の危機に伴う亀裂を緩和する(大澤 2019)。一方、 軍部に対しては、支配者はより直接的に懐柔資源を提供し、体制の守護者としての役 割を期待するのである。

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多くの研究では、クライアンテリズムの存在そのものが体制を持続させる要因とし ているが、必ずしも常にパトロン=クライアント関係の構築とそれを通じた懐柔戦略 が体制維持につながるとは限らない。例えば、特定の集団に対する懐柔を与え続けた 結果として、それに与ることができないものによる不満が蔓延することにより体制が 不安定化する可能性も否定できないのである。本研究ではラテンアメリカの二事例を 通じて、クライアンテリズムが持つ正負の効果を考察する。 ニカラグアにおいて、三代にわたって個人支配体制を築いたソモサ一族は、サン ディニスタ民族解放戦線(Frente Sandinista de Liberación Nacional; FSLN)を中心と した社会勢力による革命によって権力の座から退いた。他方、パラグアイにおいて個

人支配体制を築いたアルフレッド・ストロエスネル(Alfredo Stroessner)はクーデタ

によって権力を掌握した後、国家におけるあらゆる部門を私物化し、軍部、コロラド

党、個人をひとまとめにしたストロニズモ(Stronismo)と呼ばれる個人支配体制を

構築したが(Sondrol 1992a: 132; Gillespie 1990: 50)、軍事クーデタによって権力を失っ た。いわば、ニカラグアのソモサ体制は、社会における反体制勢力の手によって「下 から」、パラグアイのストロエスネル体制は政治エリートの反対派の手によって「上 から」崩壊した。それゆえに、両事例は異なる領域に体制の脆弱性を抱えていたこと になろう。これらの違いはどのようにもたらされたのだろうか。

Ⅰ.分析の視角

本節では、上述した個人支配体制の脆弱性がいかにしてクライアンテリズムによっ て規定されるかを分析するための視角を提示する。 支配者がパトロン=クライアントネットワークを通じてどのように便益を分配す るかを規定する「懐柔戦略」にはパトロネージとポークバレルの二種類が存在し、両 者では異なる効果がある(大澤 20183。パトロネージとは、主にパトロンが人事権を 用いて自らの権力行使や体制維持に都合の良い人材を登用する個別的便益の供与を 指す。一方、ポークバレルはパトロンが集合的便益をクライアントに提供すること であり、経済的便益と直結する(河田2008: -ⅱ)。どちらもパトロンが国家資源 を私的に利用する点に違いはないが、それらを行うための懐柔資源が異なる。パトロ ネージの懐柔資源は、人事ポストの数や配置である。これらは基本的に金がかからな い資源であるため、経済的な影響を受けにくく、パトロンの権力が続く限り操作可能 である。他方、ポークバレルは枯渇性の懐柔資源であり、経済の影響を受けやすい

Ezrow and Franz 2011: 60-61)。本研究では支配者による懐柔戦略におけるパトロネー

ジの偏りとポークバレルの程度に注目する。

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―33― ジが不偏的であり、支配者から提供される便益が偏らないよう配慮がなされていれ ば、組織内から反対勢力が生まれるとは考えにくい。逆に、それに偏りがあれば軍部 内に反対勢力が醸成されるはずである。とはいえ、そのような状況であってもポーク バレルが他のアクターや自組織の過去と比して高度に供給されていれば、パトロネー ジが不十分な勢力も体制が続く限りはその恩恵を受けることができるため、体制から 離反しようとはしないと考えられる。このようなポークバレルの高低は国内の他のア クターと比して軍部がどれぐらい特権的な地位にあるかによって判定できる。以上の 懐柔戦略は、支配者の後継問題や経済停滞などの体制の危機によって変化する圧力を 受ける。そして、それに伴ってパトロネージが偏りを見せたとき、組織内に反体制派 が醸成され、その勢力が体制から離反しようとすると考えられる。 他方、政党を通じて供給される社会への懐柔は必ずしも軍部と同一視することは できない。パトロネージの偏りについては、軍部と異なり、社会内の構成員は多様で あるがゆえに、常に一定の反対派が存在するため分析が難しい。そのため、社会にお いて重要なのは反体制派が存在したとしてもそれらを抑え込むことができるような パトロン=クライアントネットワークの深さである。このような政党を通じたパトロ ン=クライアントネットワークの浸透度を検討するときに重要なのは、政党と社会 のハブとなるブローカー(仲介者)の存在である(Stokes et.al 2013: 75)。ブローカー とは、懐柔資源を分配するための地域や組織に関する情報を上位者に提供するととも に、末端クライアントの行動の監視を行う者である。通常は地域や組織の有力者を指 すが、具体的にブローカーがどのような者かは当該社会の特性に規定される。ブロー カーは自身が属する地域や集団に精通している点で支配者よりも特定の領域に強い 影響力を持つため(ボワセベン1986: 199)、有効なブローカーが存在する体制では、 彼らが自集団における政権党への支持をまとめ上げ、それを政治社会に反映させるこ とによって体制維持に寄与する。ブローカーが社会の主要な勢力を代表していない場 合、社会に強力な反体制派が醸成される。いわばブローカーは社会に対するパトロ ン=クライアントネットワークの深さを規定する役割を担うのである(サンドブルッ 1991: 181)。それゆえに、適切にブローカーを包摂できなかった社会は不安定化し、 下からの突き上げが起きることとなる。 一方、社会に対するポークバレルは経済状況によって測ることができる。経済状況 が過去に比して安定していればポークバレルの程度は高いと捉えられるのである。こ れは、個人支配体制が一般に開発を掲げて誕生する点に基づく。ゆえに経済停滞は社 会全体に対するポークバレルが減少することを意味する4 以上から、経済停滞などによってポークバレルが減少し、体制の危機に直面した際 に支配者が社会を統制できるかはブローカーにかかっていると仮定できる。そして、 それを決めるのは支配者が実際に社会のどのような勢力を体制に取り込むことがで

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きたかである。 クライアンテリズムを構成するミクロな関係性を表すパトロン=クライアント関 係をマクロな政治へと援用する手法についてはいまだ確立されていない。確かにイン フォーマルな関係性であるパトロン=クライアントネットワークを明確に捉えるこ とには困難が伴う。しかしながら、Kaufman1970)はパトロン=クライアントの概 念から大規模なシステム(Large-scale system)を導出することにより、特定の国家に おける具体的な社会構造を描き出すことができるという。そしてそれは、フォーマル な制度や構造から読み解くことができる。なぜなら、フォーマルな制度や構造がパト ロン=クライアント関係を構築し維持する資源を提供するからである(Wolf 1966)。 そのため、本稿ではあえてこれまで地域の特殊性として退けられてきたクライエンテ リズムに注目し、ラテンアメリカの事例から抽象化した理論を抽出し、地域研究と比 較政治学の橋梁を築く視点を提示する。 支配者によるどのような懐柔戦略が体制の脆弱性をどのように規定するのか、ま た、その懐柔戦略はどのようなときに変化するのか、以下の事例比較において分析し てみよう。

Ⅱ.ニカラグア―ソモサ王朝とサンディニスタ革命―

ソモサ体制の初代であるアナスタシオ・ソモサ・ガルシア(Anastasio Somoza García:以下、ターチョ)は、アメリカ統治期、卓越した英語力と親米的な姿勢を 示すことによって国家警備隊の最高司令官にまでのぼりつめた(Kantor 1969: 166)。 それまで、ニカラグアでは自由党と保守党による競争的な二大政党制が採られてい たが、1936年の大統領選挙に際して、ターチョは軍部を利用して反対派を弾圧し、 107,201108という圧倒的な得票を得て大統領に就任した。このとき、保守党や伝 統自由党といった競争的な政党制を支持する勢力は選挙をボイコットした。 政権獲得後、彼は1939年、48年、50年、55年と立て続けに憲法を改正し、軍 部の統帥権、法律の制定権、司法の監視権、予算執行権、憲法停止権の大権を手に し、軍部の権限を拡大するとともに自身の任期を延長しながら政敵を除去した(Ibid: 178)。彼は「偽物の」立憲主義を掲げ、定期的な選挙を行ったが、これはアメリカ をはじめとする海外からの援助を受けるためであった(Booth 1998: 137)。そのため、 彼は大統領の三選が禁止されている憲法の規定を守り、1947年には腹心を大領領に 据え、大統領職を退き院政を敷いた。このとき、後に革命勢力として体制崩壊の中心 を担うニカラグア社会党(後の共産党)が禁止された。ターチョの死後は、長男のル

イス・ソモサ・デバイレ(Luis Somoza Debayle; 以下、ルイス)、ルイスの死後は次

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―35― が自らその座を引き継ぎ大統領に就任しつつ、時に腹心を大統領に据えながら、およ 40年にわたる個人支配体制が維持された。 ソモサ一族の個人支配体制を支えたのは国家財産の私物化とそれに伴う巨額の富 である。一族は国の全耕作地の23%を保有し、管理する企業はニカラグアの生産額 35%に上り、中米随一であったともいわれる圧倒的な資金力を武器にパトロン= クライアントネットワークを構築した(Kantor 1969: 167)。個人支配体制を維持する ためにはクライアンテリズムの維持が不可欠であり、その後ろ盾となるカネを集める ことが支配者にとって大きな関心事となる。そのため、ターチョは経済政策に尽力し、 就任時に危機的状態にあった経済を再建した。しかしながら、ソモサによる経済政策 は社会に亀裂を生み出した。そして、1972年に発生したマナグア地震を経て、ニカ ラグアは再度深刻な経済危機に直面することとなった。経済危機に伴う社会的格差は 反対勢力の抗議行動を結集させるきっかけを与えることとなった(Booth 1998: 137; 岡部 1986: 44)。 このような状況下で先鋭化したFSLNを中心とするゲリラ活動や学生組織、労働 組合からの抗議行動に対して、1967年から体制を継承していたタチートは戒厳令を 布告した。彼は憲法を改正し、大統領の再選を可能とするなど、ソモサ一族の中で最 も権力を乱用した支配者であった(Booth 1998: 109; Anderson 1970: 109)。タチート は反対派への弾圧と、自身への権力集中を通じて権力基盤の安定化を図った。 しかしながら、経済停滞によって高まる反ソモサの動き5に対し、1978110 日にはニカラグアで最大の発行部数を誇る「ラ・プレンサ」紙の社長兼主筆であり、 中間層を中心とした民主化を求める反ソモサ派の中心組織であった民主解放同盟の

創設者兼代表であるペドロ・ホアキン・チャモロ(Pedro Joaquín Chamorro Cardenal

の暗殺事件が発生し、このことが社会運動拡大のターニングポイントとなった(ヒー リー 1980: 63)。拡大するFSLNの武装闘争を国民の多くが支持した結果、1979年、 タチートは別荘を持つマイアミに亡命し、ニカラグアにおけるサンディニスタ革命は 達成された。 体制外のアクターによって崩壊したニカラグアの事例は、典型的な下からの体制 崩壊事例である。では、それに際してソモサが張り巡らせたパトロン=クライアント ネットワークはどのように機能し、どのようにして不具合を起こしたのだろうか。 1. ソモサと軍部 軍部出身の初代のターチョはいうまでもなく軍部を主たる権力基盤として利用し た。国内には、地域ごとの準軍事組織や各党の軍が存在したが、これらは第二次世界 大戦においてアメリカを支援する際に国家警備隊に組み込まれた(Walter 1993: 97)。 国内の暴力を独占し、ソモサの後ろ盾となった国家警備隊は、ニカラグア国民の

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広範な社会、経済、政治の媒介者であり、国家統一と反共の旗手とされ、特権的地 位を得ていた(Johnson and Paris 1970: 128; Bulmer-Thomas 1990: 334)。例えば、ソ モサの大統領就任後には空軍と海軍が創設され、政治行政分野においては租税徴収、 鉄道、郵便、電信、ラジオといったコミュニケーション手段の管理を担うと同時に、 出入国管理、税関業務、保健衛生を管轄下に置いた。武器の輸入は軍部の専管事項 となり、各省の大臣には将校が任命された(Walter 1993: 81; Andersen 1970: 121; 1986: 41)。経済利益としても給与はソモサ体制において兵卒で50%、将校で30 引き上げられるとともに、ギャンブルや売春などの経営の元締めとして非合法経済 を黙認されるなど、様々な特権が与えられた(Booth 1982: 52; Johnson and Paris 1970:

118)。ソモサ自身も軍人の私生活の問題に対応し、勤務地に関する親族との生活への 配慮や結婚の世話などを行ったという(Diederich 1989: 62)。軍人の多くが社会的地 位の低い貧農から採用されたため、軍部に参加することは自らの生活を飛躍的に改善 する手段であった(Weber 1981: 31)。職業軍人の親族も同様に社会経済的に優遇され、 基地の中で生活することを奨励されていた。そのため、軍部やその関係者は心理的に も社会的にも一般社会から隔絶された存在であった(Walker 1986: 26-27; Booth 1982: 57)。 装備についても第二次世界大戦時にアメリカ軍の支援を受けて近代化された Booth 1982: 55)。ターチョはアメリカの敵は自らの敵であると称し、朝鮮戦争への 派兵などを通じてアメリカへの忠誠心を示すことで、継続的な軍事援助を獲得した Walker 1986: 27-28)。このようなアメリカからの支援は、1953年から75年まで安 定して増加し、軍事支援だけでも1953年から61年までが毎年20万ドル、1967年か 75年までは毎年180万ドルに上った。また、軍人と警察官は1946年から73年ま での間に4,119名がアメリカで先進的な訓練を受けており、これにより国家警備隊は 反体制運動鎮圧においてもその能力を発揮した(Booth 1982: 75-76)。 この状況は、二代目たるルイスの時代である1958年に一時的に軍事費が縮小され ることによって変化するかに思われたが、それでも軍部がニカラグアにおいて特権階 級であることに変わりはなかった。ルイスが一時的に軍事費を縮小したのは、世襲に 対する社会からの批判をかわすための自由化政策の一環としてであったと考えられ るが(Andersen 1970: 116)、このような方針も限定的であった。実際、後述するよう にルイス時代の自由化政策もソモサ体制が揺るがない範囲内で行われた。 1972年に発生したマナグア地震以後、ニカラグアでは深刻な経済危機が発生する とともに、社会における反ソモサ運動が活発化するが、軍部はこれらを徹底的に弾圧 した。このとき、軍部は国際社会からの救援資金を私的利益のための不動産や商業活 動に投資していた(Morley 1994: 54)。1970年代からはFLSNの軍事攻勢が活発化す るが、それらはソモサに軍部を増強する口実を与え、軍部は体制崩壊まで対ゲリラ戦

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―37― において勝利をおさめ続けた(ヒーリー 1980: 67)。災害やそれに伴う経済危機にお いても、ソモサによる軍部への優遇は変わらず、図1からも分かるとおり、軍事費は 常に一定の割合を占め、体制末期に向かって増加傾向にさえあった(Biderman 1983: 26)。ソモサ体制期のニカラグアの軍事費は国家予算の10%を超え、中米最大規模で あった(Booth 1982: 91)。ゆえに、ソモサは軍部に対して一貫して高度のポークバレ ルを提供し続けたといえよう。 図1 ニカラグアにおける軍事費の推移6

(SIPRI Military Expenditure Database をもとに筆者作成)

軍部に対して潤沢なポークバレルを提供していたソモサ体制であるが、要職には自身の 側近を据えていた。特に、1955 年から 67 年までは国家警備隊の司令官職をタチートが担 っており、軍部内にも縁故主義が浸透していた。その後、タチートが大統領に就任すると、 国家警備隊の司令官はタチートの息子であるアナスタシオ・ソモサ・ポルトカレロ (Anastasio Somoza Portocarrero:通称、チグイン)が務めた。軍部内人事では自身への 忠誠を重視し、特段の偏ったパトロネージは行われていなかった。実際、ソモサは特定の 者に権力が集中しないよう昇進と左遷を繰り返す人事策を採っていた(Ibid: 92)。伝統 的な地域対立はあったものの民族および宗教的同質性が高く、国民が中央の政治社会にア クセスするためには地方の政治ボスであるカウディーリョの仲介を要するニカラグアに おいて、軍部に対するパトロネージに偏りはなく、このようなパトロネージ戦略は体制崩 壊まで続いた。 軍部は特権階級に位置し、社会と断絶していたため、社会に対して親和的ではなかった。 体制の危機に直面した際の社会における対立は、民族宗教的な対立よりも経済格差による ものであり、その点からいえば国家機構たる軍部は常に親体制的であった。ゆえに、軍部 は社会勢力による反体制運動に最後まで抵抗し続け、体制の守護者であり続けた。しかし ながら、国内外からの広い支援を受けた FSLN の猛攻に対し、体制を守り抜くことはでき なかった。 0.0% 0.5% 1.0% 1.5% 2.0% 2.5% 3.0% 3.5% 4.0% 4.5% 0.00 0.05 0.10 0.15 0.20 0.25 0.30 19681969197019711972197319741975197619771978197919801981 軍事費(左軸、実質100万ドル) GDPに占める割合(右軸、%) 図1 ニカラグアにおける軍事費の推移6

(SIPRI Military Expenditure Database をもとに筆者作成)

軍部に対して潤沢なポークバレルを提供していたソモサ体制であるが、要職には

自身の側近を据えていた。特に、1955年から67年までは国家警備隊の司令官職をタ

チートが担っており、軍部内にも縁故主義が浸透していた。その後、タチートが大統 領に就任すると、国家警備隊の司令官はタチートの息子であるアナスタシオ・ソモサ・

ポルトカレロ(Anastasio Somoza Portocarrero:通称、チグイン)が務めた。軍部内

人事では自身への忠誠を重視し、特段の偏ったパトロネージは行われていなかった。 実際、ソモサは特定の者に権力が集中しないよう昇進と左遷を繰り返す人事策を採っ ていた(Ibid: 92)。伝統的な地域対立はあったものの民族および宗教的同質性が高 く、国民が中央の政治社会にアクセスするためには地方の政治ボスであるカウディー リョの仲介を要するニカラグアにおいて、軍部に対するパトロネージに偏りはなく、 このようなパトロネージ戦略は体制崩壊まで続いた。 軍部は特権階級に位置し、社会と断絶していたため、社会に対して親和的ではな かった。体制の危機に直面した際の社会における対立は、民族宗教的な対立よりも経 済格差によるものであり、その点からいえば国家機構たる軍部は常に親体制的であっ

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た。ゆえに、軍部は社会勢力による反体制運動に最後まで抵抗し続け、体制の守護者 であり続けた。しかしながら、国内外からの広い支援を受けたFSLNの猛攻に対し、 体制を守り抜くことはできなかった。 2.ソモサと政党 ニカラグアでは、ソモサによる統治が行われる以前から、政治の中心であるグラナ ダにおける植民地時代からの有力者を中心とした保守党と、商業都市であるレオンの 経済エリートを中心とした自由党による競争的な二大政党制が採られていた。しかし ながら、個人支配体制が構築されるに伴い、次第にその競争性は失われていった。 1936年の大統領選挙と同時に行われた議会選挙においては、ターチョを擁立した 国家自由党(PLN)を政権党とし(Kantor 1969: 173)、それまで存在した保守党内で ターチョを支持した者はニカラグア保守党(PCN)を結成することによって連立政 権に参加した一方、選挙のボイコットを呼びかけた伝統保守党(PCT)の表立った活 動は弾圧の対象となった(岡部 1986: 42)。ただし、民主主義的な正統性を得るため PCTにも伝統的なパワーシェアリングとして野党議席が割り当てられ、1950年には 両党の党首間で協定(ソモサ=チャモロ協定)が結ばれて以降、保守党勢力のみに3 分の1議席が割り当てられた(Weber 1982: 32; Diederich 1989: 42)。これによって保 守党勢力を含む政治エリートは、ソモサ家と国家資源を取り分けることが可能となっ た(Bulmer-Thomas: 339)。このような反対派に対する柔軟な姿勢はターチョの政治 手法の特徴である(Walter 1993: 28)。 政権党たるPLNは社会へのパトロネージと下層階級のリクルートメントを担った Andersen 1970: 121-122)。公務員の党員には5%の税控除などの懐柔を提供し、社会 からの支持を得ようともしていた(Diederich 1989: 211)。しかしながら、地方におけ るカウディーリョの力が強く、中央政府の力が弱く、約6割の国民が地方で生活する ニカラグアにとり、PLNによるパトロン=クライアントネットワークは社会全体へ と浸透するものではなかった。それゆえ、政権党は強力なブローカーを包摂する体系 的なパトロン=クライアントネットワークを構築するには至らなかった。また、PCN は親体制的であったが、従来の利益表出機能は失っておらず、ソモサ体制の誕生後も 伝統的なパワーシェアリングの構造(政権党以外からの閣僚の登用、議席の割当等) が続いていたため、社会における反対勢力も政治空間において政策に一定の影響力を 発揮することができた(Walter 1993: 243)。 ターチョは自らの権力を維持するため1939年に憲法改正を行い、大統領任期を 4年から6年へと延長し、再選を可能とした。1943年には再々選が認められるよう 改正案を出すも、議会からの反発を招き、ターチョは大統領から退くこととなった。 1947年には自身の最初の大統領選挙の対抗馬であった保守党のレオナルド・アルグ

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エリョ(Leonardo Argüello Barreto)をPLNに鞍替えさせて大統領に就任させ、反対

派の取り込みを行おうとするも、アルグエリョが反ソモサの姿勢を見せたため、大統

領就任からわずか25日でクーデタによって放逐し、叔父のビクトル・ラモン・イ・

レイエス(Víctor Manuel Román y Reyes)を大統領に据え、叔父が死んだ1950年に は自ら大統領職に返り咲いた。 1956921日、反政府勢力の青年によってターチョは暗殺される。これをうけ て長男のルイスが大統領職を継承した。ルイスは軍部に偏りすぎた懐柔を文民に取り 戻そうとするとともに、反ソモサの声を静めようした。そのため、急進的な反体制派 を抑え込もうとし、1947年選挙において反ソモサ派勢力であった中心人物達が投獄 された。ただし、1958年から61年の3年間のうちに19回もの反政府運動が発生し たことからも明らかなように(岡部 1986: 50)、ルイス政権はとりわけ社会への統制 力を欠いていた。このような反政府運動を鎮めるとともに、その争点となるソモサ一 族による支配という印象を払拭するため、ルイスは報道の自由化や、1959年には大 統領再選禁止規定の復活、1963年にはニカラグア初の秘密選挙導入等、数々の自由 化政策を採った(Walker 1986: 29)。一方、1963年の大統領選挙では、野党が要求す

OASOrganization of American States;米州機構)による選挙監視を拒否し、側近

であるターチョの秘書であったルネ・シック(René Schick)を当選させた。その後、 側近のロレンソ・ゲレーロ(Lorenzo Guerrero)を挟んで、大統領に再登板したルイ スが心臓発作で死去すると1967年の大統領選挙においてタチートがその職を継承し た。以降、タチートは政党に移りかけていた政治権力を再び軍部に取り戻そうとした Walker 1986: 30)。 このような政権党による議会支配に対し、これまでボイコットを続けてきた反対 勢力は1967年の選挙においてUNOUnión Nacional Opositora;反対派国家連合)

を結成し、野党統一候補としてフェルナンド・アグエロ(Fernando Bernabé Agüero

Rocha)を出馬させるなど数々の取り組みを行ったが、すべて空振りに終わっている。 これは、議席を割り当てられたことで満足する勢力が自身の利益を優先させ、野党統 一候補の擁立に参加しなかったからである。政権党による議席の割り当てなどの懐柔 を受け入れた者の行動は社会からのみならずUNO内からの反発を招き、離党者を出 すなど(Booth 1982: 99)、野党が有効な政治勢力として団結することを困難にさせた。 そのため、反対勢力が政治空間を保持していたとしても、政治社会内において上か らソモサ体制を崩壊させるような取り組みは期待できない状況であった。その結果、 UNOも自身の凝集性の欠如に加え、軍部からの会議の妨害や、同年に成立した「ニュー スメディアによる政治的扇動」を鎮圧する法律のあおりを受けて解消させられ(Kantor 1969: 171-172)、1972年議会選挙には再びPCNの後継である保守党(PC)のみが選 挙に参加することとなった。ただし、タチートの大統領任期が切れる1971年には、

(12)

アメリカ大使の諮問により三人評議会(Three-man ruling junta)が創設され、この評 議会にはソモサが任命した2名に加えてアグエロが参加し、1974年の選挙まで国家 統治を行うこととなった(Bulmer-Thomas 1990: 345)。他にも、ニカラグアでは外形 上の競争的な選挙を演出するための機能として選挙管理委員会が存在したが、これら の機能も必ず多数派が親ソモサ派になるように仕組まれていた7。その後、タチートは 憲法を改正し、1974年に再び大統領に返り咲いた。このように反対勢力も政権に組 み込まれ、多くが政治参加を拒んだ結果、反体制勢力は議会外において活動を活発化 させることとなった。 ソモサが採用した経済政策は貿易を増やすことによる外貨獲得が中心であった。そ のため、体制誕生当初は過度に外貨の流入が増大し、高度なインフレが発生した。第 二次世界大戦においてニカラグアはアメリカに対する輸出を増加させ、1950年代に はじまる綿ブームと1960年に設立された中米共同市場が急速な工業化を促進した結 果として不況から脱したが、ソモサの経済政策によって潤ったのは貿易業者が中心 であり、国内向けの作物を作る農家はむしろインフレによって打撃を受けた(Walter 1993: 80; Bulmer-Thomas 1990: 336-337)。加えて、体制末期においても約半数の農民

が季節労働者であり、年間の8か月は失業状態であった(Deere and Marchetti 1981)。

そのため、ソモサの経済政策は国民の大半からの支持が得られないことに加え、資 本家層においても伝統的地主グループと近代化によって誕生したグループとの間で の対立を生み出し、資本家層の一部は体制に対し反対的な態度をとり、近隣諸国か ら武力侵攻によってソモサ体制を打倒しようと目論んでいた(ヒーリー 1980: 80; Anderson 1970: 110-111)。ソモサはインフレを抑制するために行った輸出制限や、貿 易産業からのリベートの徴収によって自らの富をより増大できるような仕組みを作 りだし、輸出商品に関する国内農地の5分の1を保有していた(Walker 1986: 65)。 カネのかかる体制である個人支配体制を構築した以上、ソモサが体制を保持する ために協力を仰がなければならないのは、ソモサ体制の受益者たる資本家層および中 間層であった。ニカラグアにおける政党は二大都市の資本家を中心として形成されて いたため、社会の多数派たる大衆は政治社会に影響力を行使することが難しかった (ヒーリー 1980: 81)。そのため、政治社会内における改革は大衆の社会経済状況を改 善するには至らず、社会における反ソモサ運動は1944年から継続的に存在した。ソ モサはこれらを弾圧によって封じ込めることもしばしばであったが、自らを庇護する アメリカからの監視もあり、その一部を容認する姿勢も採っていた。ただし、多くの ストライキは官製であり、ソモサの社会に対する寛容な姿勢を国内外にアピールする ためのものであった(Bulmer-Thomas: 337-3388。ソモサは中央集権を進め、地方自 治体のリーダーを勅選としたが、社会レヴェルでは中央政府よりも地方のカウディー リョの政治的影響力が大きかった。近代化を進めたソモサの経済政策の結果、PLN

(13)

―41― は社会の主要勢力であるカウディーリョを広く包摂できなかった。 政治エリートや富裕層の多数が親ソモサである状況において、政治社会に包摂され た反体制派はそれに代わる指針を社会に提示することができなかった。社会勢力も組 合、農民、大学等のあらゆる勢力が組織化されていなかった(Kantor 1969: 176)。また、 しばしば他の事例では社会における反体制派として活躍するカトリック教会も、教会 ごとに体制との距離が異なり、反体制運動を主導することができなかった(Johnson and Paris 1970: 126)。 195060年代におけるラテンアメリカでは革命勢力が伸長しており、ニカラグア でもFSLN1962年に誕生し、60年代末には革命的武装闘争を実現するための組織 として活動するようになっていた。FSLNの創設者であるカルロス・フォンセカ(Carlos Fonseca)は1960年に著した「ニカラグア変革のための闘争」の中で、合法的闘争に よる権力獲得が不可能であるため、武装闘争によって体制を倒すことを明確に主張し ていた(岡部 1986: 52)。FSLNによるゲリラ活動は、都市部の政治組織による支援 を受けながら体制が崩壊するまで続いていくこととなる。 1970年代に入ってからの石油価格高騰や1972年に発生したマナグア地震に伴う 経済危機による国内不安が高まる中(Walker 1986: 3191977年には各界の著名人に よって結成された「12人グループ」がFSLNを支持した。これにより、中間層と FSLNは結び付いていくこととなる(岸川 1987: 41)。1978年にはFSLNのゲリラ 活動を報じ、反政府のリーダーであった「ラ・プレンサ」紙のチャモロの暗殺を受 け、大衆はFSLNとの協働を模索していくこととなった10。同年、資本家層による反

ソモサ16団体によってFAOFrente Amplio Opositor;反政府拡大戦線)が結成さ

れ、FSLNFAOを首班とする臨時政府の樹立を提案した。元来、体制から恩恵を 受けていた資本家層は、復興税の導入やソモサの汚職に反発し、ソモサを排除しつつ も大衆へのFSLNの影響力を削ぎ、「ソモサなきソモサ体制」を築こうとし、FAO FSLNからの提案を受諾すると同時に、ソモサとの交渉を行った。しかしながら、ソ モサ体制の持続に不信感を抱くFSLNはこれを非難し、両者は決別する。その結果、 FAOは交渉によって独裁体制に終止符を打つことを断念し、自らもストを決起する こととなった。この一連の行動は、対ソモサ関係において、資本家層が社会勢力と して無力であったことを示しており(Booth 1982: 102; ヒーリー 1980: 67)、FAOは、 後にFAOから離脱した反帝・反独裁を謳うFPNFrente Patriotico Nacional;民族愛 国戦線)と合流することとなった。

FAOとの決別は、FSLNにとって反帝国主義を確認するとともに、FSLN内にお

ける派閥問題が解消されるきっかけとなった(ヒーリー 1980: 69)。ゲリラ戦を続け

ながらも一向に成果が見えない状況から、FSLNもまた1975年から継続人民戦争派

(14)

そのため、FSLN内の派閥対立は反体制運動の機能的弱体化を招いていたが、FAO の決別がそれらを解消する契機となり、FSLN三派は197812月に統一を宣言した。 高まる反体制運動に対し、タチートはOASからの辞任勧告を拒否し、人権侵害を 繰り返したため国際社会から孤立し、海外からの援助や訪問がキャンセルされるな ど、政治的苦境に立たされた(Booth 1982: 158)。FSLNはコスタリカやパナマ、ホ ンジュラス政府などからの軍事支援を受けながら、500人から1,000人ほどで構成さ れていたゲリラ部隊を34倍にまで拡大させた。また、共産主義の実現を掲げる FSLNの教義は農村や都市バリオ(スラム)など、ソモサの経済政策によって生まれ た貧しい人々を惹きつけ、彼らからの支援を受けることにより、武装闘争を有利に 進めた(Booth 1982: 147-154)。こうした事態に至って、カトリック教会もソモサ体 制に対する人権侵害を批判し、人々を結び付ける役割を果たすことになる(Walker

1986: 32-42; Deere and Marchetti 1981 ; Midlarsky and Roberts 1985: 179; 岸 川 1987:

41)。国内外から広い支持を受けたFSLN1979年に首都マナグアに侵攻し、ソモ サ体制は崩壊した。

Ⅲ.パラグアイ―ストロエスネルと軍事クーデタ―

パラグアイでは、1864年から1870年までウルグアイ、ブラジル、アルゼンチンと の間で行われたパラグアイ戦争での敗戦によって政府による社会保障が期待できな くなって以降、人々はパトロン=クライアント関係によるインフォーマルな社会保 障を望むようになり、社会において広くパトロン=クライアント関係が構築されてい た。そのため、職やカネにありつくためにはクライアンテリズムがものをいった(Roett and Sacks 1991: 114-115)。このような背景のもと、個人に権力が集中し、それを家産 化し、アメとムチの両立によって体制を維持しようとしたストロエスネルによるこの 時期のパラグアイの政治体制は、個人支配体制の典型である(Sondrol 1992a: 130)。 ストロエスネルが築いた個人支配体制は1954年から89年まで続き、単独での約35 年にわたる独裁体制は独裁国家が乱立していたラテンアメリカにおいて最長であっ た。 ストロエスネル体制でも軍部と政権党が体制維持に大きく寄与していた(Ibid; Valenzuela 1997: 45)。この体制において、政治エリートたちが体制からの利益を享受 するために最も重要な要素は支配者への忠誠であった(Sondrol 1992a: 130)。 20世紀のラテンアメリカでは輸入代替工業化による産業化を図ろうとする傾向が あったが、これが1960年代以降の官僚制的独裁を産み出すこととなった。パラグア イでも産業化がすすめられたが、同国では都市部に比して農村部の人口が大きく、そ れはうまく機能しなかった(Gillespie 1990: 50)。

(15)

―43― パラグアイでは、ストロエスネル以前にも3人の独裁者による統治が行われており Lewis 1980: 3-4)、国民の独裁に対する嫌悪感は他国に比べて低かったと考えられる。 また、ストロエスネルは「慈悲深い支配者(Benevolent Ruler)」と評されることもあ るように、度重なる恩赦を実施するとともに、政府支出をラテンアメリカ最小に抑え、 世界最大規模の水力発電所であるイタイプダムの建設を推進し、高度な経済成長や社 会環境の改善を成し遂げた(Kaufman 1984; Roett and Sacks 1991: 80)。他にも、スト ロエスネル自身が汚職に手を染めていなかったことも彼が現代においても支持され る要因かもしれない。しかしながら、ストロエスネル体制も軍部と政党に対して手厚 い懐柔が行われることによって維持されていた(Gillespie 1990: 52)。 軍部と社会に対する比較的制度化された懐柔を用いてラテンアメリカで最も安定 的な独裁体制の一つに数えられる権力基盤を築いたストロエスネルではあるが、この 体制は1980年代におけるいわゆる「失われた十年」による経済危機と自身の高齢化 に伴う後継問題を巡って、1989年にこれまで親体制派であった軍部によるクーデタに よって崩壊する(Valenzuela 1997: 45)。このクーデタによって民主化を誓うアンドレス・

ロドリゲス将軍(Andrés Rodríguez)が新たに権力を掌握することとなった(Gillespie

1990: 49)。このような上からの体制崩壊はどのようにして起きたのだろうか。 1.ストロエスネルと軍部 ラテンアメリカの大国であるブラジルとアルゼンチンに囲まれ、厳しい安全保障 環境を強いられるパラグアイでは、ラテンアメリカ最大規模の戦争であるパラグアイ 戦争、ボリビアとの間で行われたチャコ戦争という隣国との戦争を経験していた。そ の結果、パラグアイ軍は、隣国からの侵入から国家を守る救世主として伝統的に国民 から高い地位を得ていた。そのため、軍部の政治介入は常態化し、政治と軍務の境界 はあいまいであり、軍部は政治における主要なアクターと見なされていた(Sondrol 1992a: 129-130: Gillespie 1990: 51)。将校には、教師や建設業者、地理学者、医者、 学芸員として働く者もおり、軍部の存在が社会にも深く根差していた。それゆえ に、支配者が軍部の支持なくして権力を保持し続けることは不可能であった(Hadley 1970: 492)。 ストロエスネルは、軍部出身ではあるが、歴史的にクーデタが頻発してきたパラ グアイにおいて、全将校の人事権を握り、士官学校の同期や関係者を軍部の中枢に据 えつつも、特定の者に権力が集中しないようパトロネージを供与していた(Sondrol 1992b)。このような人事均衡策はストロエスネルの懐柔戦略の特徴であった一方 Sondrol 1992a: 130)、重装備を施した大統領警備隊を1,500人配置し、自らの安全を 守ろうともしていた。反体制派への弾圧が積極的に行われたが、その主体となる軍部 の存在を社会に許容させるため、ストロエスネルは軍部を正義と平和を構築するため

(16)

の機関として位置づけ、「安全保障ドクトリン」を提示した(Hadley 1970: 492; Lewis 1991: 255; 稲森 2000: 11)。また、士官学校や警察学校を卒業した者は強制的に政権 党であるコロラド党に入党させられたため(稲森 2000: 8)、軍部=政党間関係におい てもチェックアンドバランスが働いていた。 このときのパラグアイ軍は、ラテンアメリカ最大規模の将校を抱えており(Sondrol 1992a: 133)、ポークバレルとしては、軍部と警察に対する予算に国家予算の3 を割り当て、将校は医療費、年金、税金等での優遇を受けることができた(Lewis 1982: 64-65)。このような軍部への高度のポークバレルの背景にはアメリカからの援 助があり、アメリカは1942年から68年までの間に5,700万ドルの経済援助を与え るとともに、300万ドルの軍事援助を負担し、パラグアイ軍への演習をも行ってい る(Kantor 1969: 705)。また、軍部には牛肉産業や鉄鋼会社からの利益の享受や汚職、 麻薬の密売等が黙認されており、インフォーマルな形でも経済的特権が与えられてい た(Roett and Sacks 1991: 75, 78)。

しかしながら、軍部の安定は、ストロエスネルの高齢化と健康問題に伴い、統治 エリート内で軍部からストロエスネルの息子であるグスタボ(Gustavo)に跡を継が せようとするグループと、それに反発するロドリゲス将軍を支持するグループが対立 することによって失われた。自身の健康問題に直面して、ストロエスネルは息子を 後継者に指名しようとしたため、ロドリゲスを中心とするグループがクーデタを起 こし、ストロエスネルを権力の座から追いやった(Abente 1995: 312; Gillespie 1990: 53)。この危機においての派閥対立は、コロラド党の党内事情で説明されることが多 いが、将校の大半がコロラド党の幹部を占めるパラグアイにおいて、両者の地位は重 複していた(Lambert 1997: 7)。そのため、ストロエスネルの後継争いは、軍部内に おける権力争いと同義であった。支配者による明確な後継者指名は軍部内に反体制派 を発生させ、ポスト・ストロエスネル期の権力掌握を目論む彼らにとって不都合なパ トロン=クライアントネットワークが継続することを想起させた。グスタボへの世襲 は軍部の組織的刷新とそれに伴う強制退職が断行される不安を多くの将校に抱かせ、 これによって反体制派はグスタボの後継に反対し、クーデタを志向するようになった Bostrom 1994: 195)。いわば、パラグアイでは、後継問題に伴ってこれまで不偏的だっ たパトロネージに偏りが生まれたのである。 一方、ポークバレルについては、経済危機を迎えても大きな変化をもたらさなかっ た。以下、図2を見ると、ストロエスネル体制が誕生した1954年から59年までの 数値が欠損値となっているが、軍事費は体制が崩壊する1989年まで毎年増加傾向に あり、GDPに占める軍事費の割合も激減しているわけではない。そのため、経済危 機が起きても直接的なポークバレルについて大きな変化はなかったといえよう。無論、 これはストロエスネルによる軍部への配慮の一環であったと考えることができる11

(17)

―45― 失われた。自身の健康問題に直面して、ストロエスネルは息子を後継者に指名しようとし たため、ロドリゲスを中心とするグループがクーデタを起こし、ストロエスネルを権力の 座から追いやった(Abente 1995: 312; Gillespie 1990: 53)。この危機においての派閥 対立は、コロラド党の党内事情で説明されることが多いが、将校の大半がコロラド党の幹 部を占めるパラグアイにおいて、両者の地位は重複していた(Lambert 1997: 7)。そのた め、ストロエスネルの後継争いは、軍部内における権力争いと同義であった。支配者によ る明確な後継者指名は軍部内に反体制派を発生させ、ポスト・ストロエスネル期の権力掌 握を目論む彼らにとって不都合なパトロン=クライアントネットワークが継続すること を想起させた。グスタボへの世襲は軍部の組織的刷新とそれに伴う強制退職が断行される 不安を多くの将校に抱かせ、これによって反体制派はグスタボの後継に反対し、クーデタ を志向するようになった(Bostrom 1994: 195)。いわば、パラグアイでは、後継問題に伴 ってこれまで不偏的だったパトロネージに偏りが生まれたのである。 一方、ポークバレルについては、経済危機を迎えても大きな変化をもたらさなかった。 以下、図 2 を見ると、ストロエスネル体制が誕生した 1954 年から 59 年までの数値が欠損 値となっているが、軍事費は体制が崩壊する 1989 年まで毎年増加傾向にあり、GDP に占め る軍事費の割合も激減しているわけではない。そのため、経済危機が起きても直接的なポ ークバレルについて大きな変化はなかったといえよう。無論、これはストロエスネルによ る軍部への配慮の一環であったと考えることができる11 図 2 パラグアイにおける軍事費の推移

(SIPRI Military Expenditure Database をもとに筆者作成)

0.0% 0.5% 1.0% 1.5% 2.0% 2.5% 3.0% 3.5% 4.0% 4.5% 0 50 100 150 200 250 300 350 400 軍事費(左軸、実質100万ドル) GDPに占める割合(右軸、%) 図 2 パラグアイにおける軍事費の推移

(SIPRI Military Expenditure Database をもとに筆者作成)

ただし、オフバジェットによって利益を享受していたパラグアイ軍の将校にとり、 経済危機に伴う国家全体の経済規模の縮小は、利益享受の機会を減少させたことが予 測される。とはいえ、これは軍部のみならずパラグアイ社会全体が直面した問題であ り、軍部の社会的地位が高いパラグアイでは、このことが直接的に軍部に所属するこ との相対的なメリットを喪失させたとは言い難い。ゆえに、パラグアイでは、経済危 機と後継問題が同時に発生した結果、後継問題によって従来の不偏的なパトロネージ に偏りが生まれた一方、経済危機によってもポークバレルの高さは維持された。 その結果、ポスト・ストロエスネル体制における権限の縮小、あるいは拡大が見込 まれない可能性が高い反体制派は、ロドリゲス将軍を中心として198923日に クーデタを企図した。このクーデタにより、大統領警備隊との激しい戦闘が発生し、 反体制派が政治権力中枢を制圧した結果、体制移行が達成された。 2.ストロエスネルと政党  ストロエスネル体制以前のパラグアイは、コロラド党と自由党の二大政党制であっ 12。とはいえ、パラグアイでは与党が票計算の権限を握ることが一般的であり、選 挙では不正が横行していた(Kantor 1969: 707)。二大政党のイデオロギー的な相違は ほとんどなく、政党の動員力は低く、地域にパトロン=クライアント関係が分散し ているという点で、ニカラグアと似た社会構造が形成されていた。両党は、コロラド 党以外の政党が禁じられるまで、社会を広く包摂し、メンバーの構成や規模もおおむ ね同程度であった13。両党への加入は政治原理よりも血縁、地縁といったパトロンへ

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の忠誠を反映していた。地域社会では伝統的なパトロン=クライアント関係が構築さ れ、クライアントは自らの社会保障の一環としてパトロンとの関係を構築していた Hicks 1971: 96)。パラグアイ社会には小規模な資本家、地主、公務員などの中間層 と、政界、軍部、宗教界における上位者や資本家、大規模酪農家および知識人からな る富裕層は全体の1割にも満たない程度しか存在せず(Lott 1970: 432)、8割以上が 農村部に生活しており、農業従事者のうち7割がミニフンディオと呼ばれる010 ヘクタール以下の土地しか所有していない小作農であった(Lewis 1980: 9)。そのた め、都市部の経済規模は小さかった。また、1947年の内戦後から労働者組合は禁止 されており、共和国労働者組合(ORO)のみがその存在を認められていたが、この 組織はコロラド党の下部組織であった。共和国労働者組合は後にパラグアイ労働者同 盟(CPT)に改称され、政権の経済政策を批判しない範囲での異議申し立てが認めら

れた(Roett and Sacks 1991: 105)。

ストロエスネルは、政権に就いた当初、党内の権力を完全に掌握していたわけで はなかった。そのため、彼は出身母体たる軍部の権力を用い、反対派を徹底的に弾 圧するとともに、側近を党内の中枢に登用し自身の権力基盤を築いた(Deiner 1982: 571)。 その後、ストロエスネルは政権党によるパトロン=クライアントネットワークを 構築した。1889年に設立された農民を主な支持基盤とするコロラド党は1946年にモ リニゴ大統領(Higinio Morínigo)下で政権を握ると2008年まで約61年間にわたっ て与党であり続ける政党に成長した。この政党は、地域に多くの下部組織を抱えてい たため、地域社会に深く根差した懐柔装置として機能するとともに、社会における 監視装置としての役割も果たした(Sondrol 1992a: 131-132; Lewis 1980: 9-10)。実際、

1980年代後半までに、人口の約35%を党員として包摂していた(Abente 1995: 298;

Hanratty and Meditz 1988: 173)。

コロラド党は組織員のピラグエ(pyragüe14によって反体制派をスパイし、見つけ 次第、弾圧することによって地方を監視した(Gillespie 1990: 51)。パラグアイでは 地域コミュニティにコロラド党が侵食していたため、投票行動の監視は容易であっ た。コロラド党では地域をセクシオナーレス(seccionales)ごとに分け、週に1回の 会合の実施し、その単位ごとに動員を行っていた15。支配者と地方をつなぐセクシオ ナーレスのリーダーたるブローカーは地方に絶対的権力を持ち、パトロネージの分配 に関して権限を持っていた(Turner 1993: 77)。政治権力を掌握する軍部と政治エリー トに対しては国営企業による懐柔が行われ、同党はそれを受けて社会に対する懐柔資 源を分配し、社会を動員する役割を担った(Valenzuela 1997: 45)。コロラド党のセク シオナーレスは党員の福利厚生を保障し、法的優遇、教育、学校運営費の支援等を行 うなどして、地域へのポークバレルの仲介役をも担った(Hicks 1971: 105)。コロラ

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