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初期朱元璋集団の性格

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Academic year: 2021

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(1)初期朱元嘩集団の性格. on. Characters. the. of Chu. 郎. 錬. 口. 野. yii'a%-chan朱元埠and. Tetsur6. his Group. NoGUCI王Ⅰ*. SUMMARY Many f.11。wer. have of. discussed. the. problem. Po-lieu-chiao白蓮教, This. and. whether discnss vill. army・ paper revolutionary of his post-Ming明establishment・ Chu districts where toured The. or. whether or. these. not not. Chu. yiian-chan. his group. problem. was. a. was. a. farmers'. Ⅶith the exception. the inAuence of under Chu had This indicates the that contact po_lieu-chiao probability society. was Po_lieu-chiao in that scarecely thought that period, althoughit with because was Po-lieu-chiao,s one of Kuo chu,s of the socialstandings group be This and of his Arst 24men・ conjecture may tzu-hsing郭子興's group Haw Chu lin-erh林 by judging that utilized shan-tung韓山童and reinforced for its strategic necessities, that the ensign and of Red・cloth紅 児, his son, Po・lien-chiao's・ It be that from may was that considered different of as. a. bonze,. were. rf]. traditional education・ and old-structural 24 men, were Chu as as first the people the of well extended members as had a the His strong party group colour status. and such of landlords have, blood-relationship, and endeav・ would emphasized of fellow provincials was to And "Pu-sha不殺" the equal to slogan absorb confucianists. .ured us group These teachs that Chu's consisted of nothing things confucianism. Chu's to that It is di瓜cult therefore・ but landlord consider, and the like. a in its in from farmers into landlords certain character, group changed. chu・s. group. depend. upon. the. The. in his life・ of time by Han's one・ This Chu's was resulted Nevertheless, group controlled in Han's some Chu to have utility values from taken admitted the action Chu killed Haw less or disgraded, and Thus, finding the values group. when he be the It might anti・Yuanism raised considered that raised anti_Yぬnism. the radically・ to conciliate contradiction intended absorb national and in rearity, were within The characters of Chu yii・an-chan and his group, China・ dynastic of revolution of the traditional of the framevork point. *歴史学教室(°ept.. of History).

(2) 2. 野. は. 口. じ. 鏡. め. 郎. に. 明朝三百年の基礎を樹立した朱元嘩が,布衣より身をおこして政権の座についたことか ら,かれの集団の性格について,従来いくつかの論篇が発表され,議論されてきた。いま, それらに対して,些かの疑点をもつゆえに,先学の諸説を整理しつつ,卑見を述べて大方 の批判を得たいと思う。 論題に「初期」としたのは・朱元卸ミ1368年に南京によって大明朝を建立し,洪武と 建元する以前を指す。もっとも・明政権の確立の時期については,何をもってその指標と するかという点からの異論がないわけでほないが,いまほ,明政権成立のとしをもって一 応の目安として,それ以前における朱元嘩とかれを支えた集団を「初期朱元嘩集団」と呼 びたい。. 従来の研究の一斑によると・洪武建元とともに創り上げられた明執ま,明らかに地主階 級的利害に立つものとして形成され,洪武三十(1397)年に公布された律に示されるごと く,いわゆる伝統的教学を正統としてそれに反する主義・思想を弾圧する体制を整えた, とされるoしかし,また別の一斑によると,それ以前のある時点において,朱元嘩および かれを支持した集団は,かれ自身が貧農に出自したことをも加味して,革命的な農民勢力 の軍団であり,したがって農民的利害を代弁する反体制的教学に依拠していた,と説かれ る。このような諸論を併せ考えると,朱元嘩およびかれの支持集団は,その創始のときと 明朝政権形成のときとでほ,判然と全く対置されるべき立場に変化している,と理解され るoそして,最近では,朱元嘩集団にこうした変質を認めようという議論が目につくよう であるoかりに朱元嘩集団にこのような性格上の変質があったとすれ揺,それは,朱集団 がそれぞれの時点において依拠した社会的基盤が異なっていた,と考えねばならないこと はいうまでもなく,反体制的なものから体制的なものに変質した時点は,明朝政権の成立 以前に求められなければなるまい。 しかし,果して朱集団に,このような変質があったのであろうか。換言すれば,その儀 って立つ社会的基盤の変化が認められるであろうかo問題は,このあたりから始まる。. 1・諸説の整理と問題点 上に述べた点に論及した先学の業蹟のリストアップと整理とほ,かつて行なわれている が,その後さらに数篇が発表された1)o. いま,それらを私なりに整理することから作業を. すすめていこう。 まず,朱元嘩が白蓮教徒であったという立場にたち,したがってかれの集団ほ白蓮教徒 反乱軍の一翼であったことを積極的に説くもののうちに,次の諸氏の論がある.さきに和 田清氏がこの論をたて,朱が白蓮教に投じたのほ当然すぎる位当然であるとし,朱が北征 しなかったこともその-証左であると述べ,明初の史書ほ故意にこの事実を陰蔽Lている, としたo近く田村賓造氏も,朱が異国王を称したことは龍鳳政権紅巾軍との絶縁宣言であ り,これとともに思想的にも白蓮教から儒教へと脱皮した,として,それ以前の朱および.

(3) 初期朱元嘩集団の性格. 3. その集団が白蓮教に関わるものであることを前提とする論を述べる。また,山根幸夫氏ほ, 朱の渡江直後から義兵集団の吸収が相継いでいることを根拠にして,先の性質の変化を渡 江前に求めるが,これは,義兵集団イコール地主階級的利益集団ということから,渡江前 の朱に反地主的立場イコール白蓮教的立場があったことを前提においた論であるとみられ なくほない。三郎寸泰助氏ほ,朱集団に土豪集団的色彩があるとしながら,朱が紅巾の徒 であったことを,同じような土豪集団との対立抗争の事実を根拠として述べ,先のスロー ガンであった"不殺'_'に,かれが紅巾であった証拠をみる,とするoまた,白石義夫氏の 紹介による王守義民も,. 1363年以前の朱を紅巾として把挺し,農民革命軍である,とす. る。徐速達氏も,先の渡江前にその転化の時点を求める。 これらとは道に,鈴木中正氏は,朱元嘩ほほじめから白蓮教にほ関わらなかったとも考 えられる,といい,したがって,白蓮主義から儒教主義への転換ほ必ずしも考えなくても よい,と述べる。謝季氏も,朱が白蓮教集団に加担したのほ陰険な目的があったようであ る,と述べて,性格上の変化をとくに取り上げなくてもよいことをいうo こうした諸論をみると,朱元嘩が白蓮教会に所属し,その出身であったことを積極的に 否定しようという論は,ない。それを是認するか,ないしほ消極的にそうであったことを 前提とする議論が多い。たしかに,関係史料には,朱が白蓮教徒であったことを明示する ものほないものの,朱が白蓮教徒であったかも知れないことを伺わせることほあるoしか し. え. ク. ー. いて,. 朱が白蓮教徒であったとされる根拠を再検討するとき,記録抹消の痕跡があるとほい かなり否定的な考察を加えることも,可能でなくはないように思う。これらの点につ 2.で詳察してみたいo. 次に,朱元嘩集団の依拠した社会的基盤について論じたものをみると,愛宕松男氏ほ, 流動して大勢力を形成した流賊集団である紅巾軍に対して,郭子興に従属した朱集団ほ, 郭集団と同じく郷曲保全の意識をもつ土豪集団として出発し,やがてそれを脱皮して地方 政権化した,と述べ,三田村氏も,朱集団を土豪集団であると規定しながら,紅巾の党で あることを肯定する。山根氏ほ,朱集団が,勢力伸張の過程で反農民・反革命の郷党意識 に支えられた地縁連合体軍事組織である寡兵を吸収していったことを述べて,朱集団の変 質を説く。また,白石氏の紹介する呉瞭氏も,朱が掌握した軍事勢力は地主武装部隊であ った,というが,同じく白石氏の紹介による王氏は,朱集団は紅巾であって農民軍命軍で あり,それが1363年に封建国家の統一戦争を行なう主体に変質した,というo鈴木氏は・ 朱集団は保郷主義をとったとほ考えにくいといい,武力派に外ならない,と述べるo 貧農の第六子に生まれ,下積みの苦労をつぶさに嘗めた朱元嘩が,長じて元末の混乱に 乗じて起兵したとき,その拠ってたつ社会的基盤をどこに求めたか,を明らかにすること は,その事業に階級闘争としての色彩を伺おうとする現今の学界の動きにとって,極めて 重大な意義をもつものであろう.朱集団が拠りどころとした社会層に,その勢力伸束の過 程で変化があったかどうかは,前述の,かれが白蓮教徒であったか否か・という問題と絡 3・において詳論したいo み合う問題であり,まことに興味深い。これらの点についてほ, 朱元嘩は漢民族主義を誇号してモンゴル元を漠北に追った,と一般に説かれているが,.

(4) 4. 野. 口. 繊. 郎. 山根氏ほ,その傾向の存在を断定することほできない,と述べる。相田洋氏ほ,. 「元末の. 反乱」の前半にみられたような階級闘争としての側面ほ,後半になると全く影をひそめ, 全ての悪の根源が民族矛盾に帰され,民族解放が全面に押し出されてくるようになった, と述べる。これほ,とくに朱集団のみを当面の対象とした論でほないが,とりあげた根拠 が先の撒文であることから,. 「元末の反乱」の後半には,朱集団にも民族主義的傾向を前. 面に押し出す働きが顕著であったことを否定するものでほなかろう。朱と民族主義との関 係ほ,おそらくその国情をも反映して,日本よりも中国において多く研究され,かれの集 団の行動は民族闘争である,とした主束が強い。 朱元嘩集団ほ,現存の史料でほ,その当初から民族主義的行動を行なっていたとほたし かに言えない。その当初から反元主義を宣揚し,その故に勢力を拡大し得たきらいのある 韓山童・林児集団のそれと,朱集団がその政権成立のほぼ明確となった段階で打ち出した 反元民族主義とは,質的に同じでほないように思われる。また,朱がその時期になって反 元主義を鼓吹しほじめた背景や,当初からそれを標模しなかった事情など,考える問題は 多い。そして,これらの点については,. 4.で論及したい。. 2.朱元嘩集団と白蓮教 弥勤下生の信仰をもち,大小明王の出世による泰平天下の出現を説く,極めて濃い革命 的色彩2'をもっ白蓮教社の中国史上における出現は,元末の韓山童・林児の結社に始まる ことを,かつて述べたことがある急'.韓集団ほ, 14世紀半ば以前から河北を中心に勢力を 扶植し,河・准・裏・陳の地にそれを拡めていった4'.これらの地方は,元代にあっては, さきにみたごとく,むしろ弥勤数社系の勢力圏であった。その当時ほ中国中部・南部に活 動範囲をもっていた白蓮数社が,弥勤数社系の強い地方にも活動の地域を拡め,韓集団以 後,白蓮教といえば中国北方の河北・河南・山東にまず屈指するようになった理由は詳か でほないが,それに関わる推論もさきに試みたoそして,これ以後,白蓮教社と弥勤仏と の相互関係が当然のものとして伝統的に形成され,華北の地がその地理的基盤として伝統 的に認識されて,明・清時代に継承されていったo 〔I〕朱元嘩ほ,韓山童の祖父某が河北築城を中心として布教活動をしていたころに生 をうけ,山童が河南から江准の地に結社勢力を拡大しつつあった時期5'に皇覚寺を出て, 安徽・河南の各地を3年にわたって托鉢・流浪している。その流浪地域ほ次真の略地図に 見るごとく,至正十-. (1351)年五月に韓山童が劉福通とともに挙兵して,忽ちにして占 拠した地域をとりかこむ軌跡を措いている。このように,朱の流浪地域と韓集団の布教地 域とは全く重り合うのであって,したがって,流浪時代の朱元嘩が,何ほどかの白蓮教学 に接触しなかった,とはいえないし,逆に,朱がその教徒であったかも知れないことさえ 想定できる。しかし,それを断定することほ,できない。そしてこの白蓮教学とほ韓集団 のそれであって,決して茅子元系の弥陀信仰をこととする在俗修業のそれでほなく,弥勤 仏信仰をもち,現世改革的色彩の強い教学であった。 〔Ⅱ〕至正十二(1352)年二月辛丑,皇覚寺は兵火にあって炎上した。. 「国権」 1至正.

(5) 5. 初期朱元嘩集団の性格. 十二年二月辛丑条はこのときのことを記して 上,始めて戎に従うの志あり。 と述べている。 25才の朱元嘩ほ,同年春閏三月朔,二月に濠州に拠って挙兵したばかり の郭子興の軍に加わった。. 郭子興の先は,山東曹州の出であるo曹州の地は山東・河南・河北の交界の域で,註5) 「明実録」 にも記したごとく,多くの反体制的不平分子のあつまる伝統の地であった。. 「明. ・. 史」などに載せられた郭の伝を綜観すると,父郭公善日6'は,少にして星暦を好み,人の 禍福寿天を言って多験であり,この術を以て南渡して定遠に至り,富翁の信を得てその宿 となり,家賃大いに嬉んだという。郭公書目の行なった術ほ,後年の例をみると,白蓮数 社などの宗教結社が莱衆の途次でしばしばみせる輯のもが'であるoだからといって,郭 公書目が白蓮数社の導師的存在であった,とほきあっけ得ないが,かれは何らかの宗教的 雰囲気をもつものでほあったに違いないo 子興ほ,郭公善日の三男一女の中子として生をうけた。長ずるや兄・弟とともに殖産を よくし,ために郭家は里中の豪となった○かれと宗教的雰囲気との出会いは, 元末に,民間に造言する者ありo王,誤りて其の説に中り,之を信ずること甚だ篤しo 忽ちにして,作業を事とせずして妄りに家財を散じ,除かに賓客と結ぶo と,. 「国朝献徴録」. 3. に載せられた贈蘇陽王定遠郭公廟碑にあることがはじめであろう。. この「造言」についてほ,それが何であるかは明確にし得ないが, と,その至正十二年正月条に 定遠県の富民郭姓なる老,莱衆して焼香し-o. 「皇明記事録」による.

(6) 6. 野. 口. 域. 郎. とあって,それが宗教信仰的な何ものかであることを明らかに知り得る。しかし,三田村 泰助氏のごとく,この記事のみで,これを白蓮教であるとほ断じ難い。とほいえ,この地 定遠が,前述のごとく韓集団の勢力の広く分布する地方に含まれていることを考え合わせ ると,この宗教信仰的雰囲気が白蓮教である可能性は,多分に存在するのである。なお, 散財して交結するということほ,これも後年の宗教結社が,何らかの意味のJ<トロソを獲 得しようとするときに,しばしば行なうことE)であるo 前述の廟碑に「-・誤中共説,信之甚篤o」とある,元末の造言とそれに対する郭子興 の態度とに関して, 「明実録」乙未歳春粂にほ, 元末に,民間造靴の言,四方に流伝すo子輿,其の言を察し,天下必ず変あるを知る。 乃ち,家財を散じて,陰かに豪傑と結ぶ。 と記し,造靴の言を信じたのではない,という叙述をしている。後年に纂定された「明実 録」が,洪武十七年という明朝成立後まだ日浅くして著わされた廟碑に述べられた「誤中 共説」のことを改窺しただろうことは,明初の史書の改寛説を侯つまでもなく考え得ると ころであるoそして,ここにその片証が残されてあるような政敵ま,朱元嘩が白蓮教徒で あったことを陰蔽するために行なわれたものであることを考え併せると,朱から追封され その「恩徳,注在朕心9'」とまでいわれた郭の身辺に白蓮教的臭いを残すことは,まこと によろしくないことであった,といわねばなるまい。それにも拘らず,廟碑の文言と異な る叙述を「明実録」に記したことは,郭の誤り信じたという造言が,白蓮教的教学のそれ であったことの確率の,決して高いものでほないことを示すようである。かりにかれが白 蓮教徒であったとしても,郭自身ほ組織された教会をもたず,すなわちその地域の白蓮数 社の領袖ではなく,一介の教徒であったように思われる.このことは,かれとともに起軍 した孫徳崖・爵某・魯某・播某との力関係,およびかれらに宗教的雰囲気のみえないこと, などから推察し得るところである10)o こうした郭子興の魔下に,朱元嘩ほ参じたのである。朱が生まれ育ち,皇覚寺の存した 鳳陽鐘離県孤荘村に距離的に最も近い武装蜂起着であったから,というだけの理由で,朱 と郭との結びつきを説明してしまってよいだろうか。 伝えによると,濠の門下で兵卒に問牒と間違われて厳しくとがめられた朱元卸ミ,郭子 興に一旦まみえるや忽ちにして十夫の長となり,のみならず,郭の養女を妻として要わさ れるほどに厚遇された.他方,郭は,残された史料によると,共に謀議した孫徳崖ら4人 の着から疎外され,のち軒羊は元政府軍に放られて濠州に逃走してきた趨君用・彰早住11,な どの顔優に甘んずるほどの惰弱な部将であったにも拘らず,朱ほかれを見捨てなかった. こうした両者の関係を見ると,単なる距離的な近さのみで説明しきれないものが存在する ようであるo距離的なそれよりも,むしろ意識的な接近が両者の間にほ存在したように思 われるoこの間の事情を臆測することほやさしいが,いま直接にそれを物語る史料の類ほ, 何も残存していないo史料面に残り得なかった事情が存在したとすれば,それが,白蓮教 という反権力的宗教による繁りではなかった,とは断定しきれない。前述のように郭に白 蓮数的臭いがあるとすれば,また,朱・郭の結びつきを示す史料が現存していないことを.

(7) 初期朱元嘩集団の性格. 陰蔽・改歳説に沿って考えれば,両者の結びつきが白蓮教を紐帯としていたという推測ほ, あながち無理なものではなかろう。白蓮数社のような秘密結社ないし秘密社会にあっては, 任侠的・仲間意識的な強固な結合が要求されることほ,後年のそれについてもよく知られ ている。. 元兵,濠の囲みを解きて去るも,濠人,食に乏し.上,塩を以で匪遠の粟に易え,郭 子興の家を臆す。 という「国権」. 1至正十三年五月壬午粂の記事は,濃厚な任侠的仲間意識を伺わせるの. に充分な記述であろう。朱が郭を選んだことの背景に,距離的な近さ以外のものがあると すれば,まず,上述のごとく考えるのが妥当なように思われるoしかし,この点の考察を' もう少し進めてみよう。 かりに,朱元嘩が白蓮教徒であって,その故に都子興集団に接近したというのであれば, 郭のもつ宗教的雰囲気は白蓮教学のそれでなければならない。ところが郭と白蓮教との繁 りについてほ,かれが教徒であった可能性は,前述のように,決して高いものではない, というほどのものであり,またかれと韓山童・林児集団との関わり合いを示すものは,何 蘇陽王郭子興伝に 「罪惟録」伝5 も現存していない。さらに郭集団の興起は, 元の至正幸卯,妖言起るo韓山童,汝頴に乱し,徐寿輝,噺黄に揺すo芝麻李,亦た 其の党彰早住・遵均用等とともに徐州を陥る。子興の心動き,牛酒を推め,銭烏を散 じて士を結び,里中の豪の孫徳崖等四人とともに,共に衆を率いて濠州を襲いて之に 拠るo. と記されるごとく,諸方の乱勢,ことに芝麻李集団の動きに影響されてのことである,.と 理解される。こう考えてくると,郭集団の興起ほ,結果として白蓮教紅巾軍に連るかも知 れないとはいうものの,宗教的な繁りを契機としてでほなく,他の事情に依るところが大 きいと思われる。また,かりに朱が白蓮教徒であった,ないし白蓮教的教学に染まってい たとすれば,郭集団よりも,宗教的序列では上に位する韓林児集団に接近するほうが,白 蓮数社のもつ任侠的仲間意識という点からいっても,無理はない。それにも拘らず,朱が 郭集団を選んだことは,朱が白蓮教徒ではなかったこと,あるいほ,それに密着すること を敢えて避けていたことを示す証拠ではあるまいか。朱・郭の接近の背景は,両者が白蓮 教徒であったかなかったか,ということ以外に,もう一つ別の背景があると考えられ,そ のほうが,より決定的な田子になっていたと思われる。それについては後述に委ねるが, 先の郭集団への接近や,これ以後の先の言動について考察を進めるとき,郭子興が白蓮教 徒であったと否とに拘らず,朱元嘩が白蓮教徒であった可能性ほ,急速に薄らいでくる。 〔Ⅲ〕至正十三(1353)年夏,朱元嘩ほ,徐達・湯和ら24人を率いて南下し,定速攻 略をはかった。これ以後,朱の単独行動がはじまる。朱の自立である。いま,この24人 について考えてみようとするが,その前に,朱がこの場合になぜ北上しなかったか,とい う疑問を解いておかなければならない。 すなわち,既にこのころ,徐州に拠っていた強力な土豪勢力連合軍であり,かつ韓山童・ 林児集団に同調していた芝麻李の率いる集団を打ち破った元政府軍ほ,指揮者買魯の急病. 7.

(8) 8. 野. 口. 磯. 部. 死によって濠州包囲を解き,北帰していった○いわば一定の好機であったにも拘らず,栄 元嘩が北上せずして南下したのはなぜか。また,芝麻李集団が土豪的性格をもっていたこ とは,指導者の名の由来からも明らかであり,片や郭子興もまた同様の性格をもつ。そし て実際行動においては,前者がより優位であり,朱が李集団に加われば,郭と比肩し得る 可能性ももつoにも拘らず,朱が北上せずして南下したのはなぜか。さらに,かりに朱が 白蓮教徒であったとすれば,白蓮教徒韓集団の唱える反元主義に協調して,北上して然る べきである。にも拘らず,北上せずして南下したのはなぜか。 この疑問を解く解法の一つは,朱・韓の関係に求められよう。端的にいえば,朱ほ白蓮 教徒ではなかった・少くともそれに同調しない立場にいた反証といえよう.このことは, のちに詳述したい。解法の他の一つは,朱元嘩の遊僧時代に求められようo前述のごとく, 朱が托鉢僧として遊歴した地方ほ,故郷より北方でほなかった。西・南地方であったので あるoしたがって,かれが協力を要請したとき,それに応える確率の高いのほ,北方より も南方であった。 「明書」. 93. 常田侯郭英世家の冒頭に記載されていることは,こうした. ことを示すものであろう.. 郭熟濠州の人o父は山甫なりo太祖徽なる時,之を過ぐ.山甫,. -たび見ゆるや嵯 服し,便ち太祖に飲ましむo酒酎わなるや,人を併して進みて日く,僕,相人に非る. も,人を相ること多し。足下の天表,特に殊なれり。他日,富貴ならん。相い忘るる 母れ,とo既にして去るや,子若しくほ弟に語りて日く,吾れ,若が行輩を視るに, 皆,珪に乗るに,定むるに此の人を以てす可きなり,と。 「太祖徴時」とほ,朱が軍事行動に参加する以前であることはいうまでもない。ここに記 された「足下天表特殊」云云のことは暫く措くが,朱元嘩ほその遊行時代に,おそらくこ こに記されたような各地の指導的階層と連繋をもつことを試みたであろう.朱にとって協 力者をより獲得しやすい方向に・かれの方向がむけられたと考えることほ,むしろ妥当で あろうo. さて,当面問題としようとする24人にたち戻ろうo谷口規矩雄氏によれば,. 「朱元嘩. の手足となって働き,創業の労苦をよく担って建国の功臣となった人たち12,」と評されて いるように,かれらは明朝創業の中核であった。だからこそ,もし朱元嘩が白蓮教徒であ り,かれの行動がその理念に基づいてとられていたとするならば,かれの初期の部下のな かには,必ずその与党が存在するだろうし,存在しなければならないであろう。 〔表1〕中,全く不明の1人を除く23人ほ,いずれも武人であり,朱元嘩への協力の しかたほ軍事行動に限られる.うち,朱の創業前に戦死したもの2人,終りを全うしたも. の8人,明朝成立以後に罪を得て課せられたもの9人,同じく罪を得て降官・免官の罰を 得たもの4人となる18'oこれら諌・罰の罪を得たもの13人のうち,胡惟庸・藍玉の疑獄 に座したものほ10人にのぼるoまた,表中の9人は,先の自立以前から,すなわちかれ が郭子興幕下にあったときから朱に従っていた形跡があり,うち,郭英・胡海・張竜の3 人14'が終りを全うし,他の7人はすべて諌・罰の罪を得ているo終りを全うした8人のう ち,張竜1人を除いては,. 「明史」. ・. 「明書」. ・. 「国朝献徴録」などの史書に「世業農」. ・. 「至畷.

(9) 9. 初期朱元嘩集団の性格 〔表1〕. 則延儒生,講論経史」. ・. 「性孝友仁恕,菩読書」. ・. 「団義兵,以拝郷里」などと述べられる記. 載をもっていて15),土豪的性格,ないし体制的教学に存在の根拠をおいていたことを知り 得る。これに対して,罪せられたものは,これに撰する記事をみないo. こうした土豪的な 性格をもつもののうち,終りを全うしなかったものは,胡獄に連座して罰せられた陳徳・ 郭興の2人16)であって,したがって,明らかに土豪的であったと判断されるものは,. 24人. 中すべて9人となる。 土豪的性格を有するものは,洗窺的集団である白蓮教集団に対立する存在である,とほ 一概に規定できないことはいうまでもない。しかし,いわゆる紅巾の軍が各地におこった とき,その害を防過するために土豪層によって義兵軍団が結成された17)ことから,いま, かりに両者を対置するものとして考えを進めていこうo 史料上において,土豪的性格をもつと判断されるもの,あるいほ体制的教学に依拠して いると判断されるものがはとんどすべて終りを全うしていることほ,換言すれば白蓮教的 色彩を竜ももたないものこそ朱元嘩の最も忠実な手足であり,明朝政権成立のための文字.

(10) 10. 野. 口. 繊. 郎. 通りの中核であった,ということになろう.これを,明初の史書の事実陰蔽説と考え併せ ながら逆にいえば・諌罰の罪を得たものは,先の前身が白蓮教徒,もしくほそれと大いに 関わりをもつものであったことを知っていたものであって,その故に,他の名目によって 処罰された,ということになるo朱の自立以前からかれに帰属していたものの大部分が課 滅されていることは,上述のことを裏付けるものであろうかo一般に胡藍の獄の理由を, 太祖朱元嘩の並はずれた清疑心に偉することが多いが,そこにもう一つ,こうした事情を 考えることは,あながち無理でほあるまい。 しかし,この24人に関する史料操作は,朱元卸唱蓮教徒であったことを説明するの には説得力が小さいoそこにほ,朱と白蓮教との結びつきを伺わせる一片の明証がないば かりでなく,かえって反対に,かれが反白蓮教的社会との間に強い連繋があったことを伺 わせる傾向のほうが濃厚である。 〔Ⅳ〕次に,朱元嘩が,. 「青年時代に染まった白蓮教信仰の痕跡とでもいうべきであろ. うか18'」とされる・韓林児集団の竜鳳の年号を用い,その布令に「皇帝聖旨,呉王令旨」 と記したことについて,考えてみよう。 朱は至正十五(1355・竜鳳元)年三月,韓林児から左副元帥を授与されようとした。 「明実録」乙未歳四月丁丑粂は,このときのことについて, 上日く,大丈夫たるもの,寧んぞ能く制を人に受けんや,と。遂に受けず。 とのみ記しているoこのことが「明実録」の事実陰蔽であることほ,和田・重松両氏の考 証によって明らかであり,また「鴻猷録」が, 上・初め受けざらんと欲して日く,大丈夫たるもの,寧んぞ能く制を人に受けんや, とo後,諸将の議を以て,籍りて声援と為さんと欲して之に従い,紀年に竜鳳を称す。 というごとく,事実はこれを受仇竜鳳の元号を称するのである.朱が他人の制を受けず と言った真意ほ, 「明通鑑」前編1至正十五年三月粂に載せられた夏空の言によれば, 予謂う,太祖の副元帥を受けざるは,則ち子奥の子天叙を以て都元帥と為し,制を受 けて以て軍事の肘を撃せらるるを欲せざるのみ,と。 ということであって,この限りにおいてほ・朱と韓集団との関連を明確にし得ないo しかし,いま朱が左副元帥になったか否かより,それを受けたとしても,その受机、れ た事情のほうに,より問題があろう.もしかりに朱元卸泊蓮教徒であれば,それを拝受 して韓集団の風下に立つのほ当然なのであるが,そうであるとすると,後の至正二十六 (1366)年に,韓林児を瓜歩において沈死させることがあったであろうか19】.このことを 考え併せると・かれが左副元帥を受仇竜鳳の朔を奉じたのほ,かれが韓の白蓮教社に繁 る白蓮教徒であったからではなく,他の事情によるのであろう,と思われる.そしてその 事情とは, 「鴻献録」に記された「欲籍為声援」したことであり,また,夏禦が「明通鑑」 前編3. 至正二十六年十二月粂で論ずるように. 而して,徒らに其の年号を奉じて,以て軍中に令すo一旦之を改むれば,則ち無名と 為るoかこ困りて,則ち将に事を終えんとするなり。 ということであり,. 「国棒」 1が至正十五年三月条において.

(11) 初期朱元嘩集団の性格. ll. 諸将日く,明公,方に江を渡り,呉・楚を挙げて院・越を兼ねんと欲す。今,源・和 の間,己に我に属するに,宋命を受けぎれば,. -敵を生ずる也,と。 と述べることであったろう。起兵後数年のかれ朱元嘩に,何ほどの力があり,大事をなす 「陽奉其名,而陰収其利20)」の意があってのこととみ ことができたであろうか。まさに, たい。自己に対する,より多くの協力を期待し得る准・江の間に勢力を確立しようとして いるときにおいて,徒らに北方の河・准の間の勢力と事を構えることほ,不利である,と い5v戦略上の判断が,先に左副元帥を受けしめ,竜鳳の紀元を奉ぜしめたのであろうo 「竜鳳十二年」の紀年で 有名な張土蔵討伐の撒文ほ, 「皇帝聖旨,呉王令旨」で始まり, 終る。そして,既にこの時点では,韓林児を軽んずることの甚しかった劉基をほじめとす る多くの儒者が朱元嘩幕下に加わり,先学諸氏の論を供つまでもなく,また撤文そのもの に明らかなように,朱集団は伝統的体制を維持・推進することを鮮明にした集団であった0 それにも拘らず,竜鳳の年号をとったことは,それがまさしく戦略以外のなにものでもな いことを傍証するものであろう.朱元嘩ないしその集団にとって,韓集団は,いわば戦略 上利用し得る価値があったのであり,その故に,朱元嘩起兵のときに尺寸の力をも借りな かった韓集団に対して,以後十数年の間,対立括抗することがなかったのである,と考え られる21).. 竜鳳の年号を奉ずることが,朱集団にとっていかなる戦術上の価値をもつか,という点 については後に詳論するが,ここに,このことが戦略上に出るものであることを傍証する もう一つの例がある.全国政権を樹立し得る公算が大となるや,朱元嘩ほ地主的利害を表 面化し,弥劫教・白蓮教の禁圧を布令した,と説くのが一般的であるが,既に至正十八 (1358)年十二月に, 民間の女官氏,妄りに能く天文に通ずと言いて,禍福を侶談し,衆を惑わす。帝,以 て女妖なりと為し,市に致す。 という事件のあったことが, 「罪惟録」紀1同年月条に記録されている。この「女妖」の 妖たる所以は,朱が最初に帰属した郭子輿の父郭公善日が行なったことと同断であり,元 代における白蓮教社が行なっていたことと大差がない乏2)0 1358年にほ既に郭子興は没し ていたので,郭集団への配慮にわずらわされることがなくなったから,この「女妖」を致 することを行ない得た,ともいえる。しかし,他方,朱自身ほ白蓮教集団の竜鳳の年号を 称していたのであるから,朱がかりに真正の白蓮教徒であれば,自己に繁るこの「女妖」 の象ほ必ずしも必要なことではなかった,と考えられる.換言すれば,この「女妖」に対 する致は,朱とその集団の本質が反白蓮教的なものであったことを示すものであり,さら に進めて,朱集団が竜鳳の年号を称したことは,朱が白蓮教徒であり,その集団が白蓮教 軍であったからではなく,戦略上に関わるものであった,ということの妥当性を証するも のであろう。. このように考えてくると,さきに〔Ⅲ〕において考えた24人に関する場合と同様に, 朱元車が白蓮教社の韓集団と直接的に結びつく可能性,換言すると,白蓮教徒であったと いう可能性ほ,いっそう稀薄なものとなろう..

(12) 野. 12. 口. 繊. 郎. 〔Ⅴ〕上述の傾きをさらに推進するものとして,次の点がある。それは,. "紅巾"の二. 字に関することであるo 紅巾ほ白蓮教の旗職であって,それらはイコールの関係で結ばれる,とするのが従来の 大方の説であった。それは和田氏以来是認され,朱元嘩が白蓮教徒であったことを示す有 力な根拠とされて,何ら疑問とされていない。朱は自己が白蓮教徒であったことを極力陰 蔽し,それを示す諸記録をつとめて抹消した,というのであるから,この両者がイコール であるならば,自らの集団が紅巾であったことを排除して然るべきである。それにも拘ら ず, 「明太祖御製文集」 16 皇陵碑をみると,朱自身の筆で,至正十三(1353)年に濠州 を去って定遠にむかったことを述べて 予,族隊を脱し,馬を駁し,笹を控えて,出でて南土に遊ぶ。. --月を適えずして衆. 集る。赤職,野を蔽い,而して岡に盈つ。 と,朱集団が紅色を旗時としていたことを記している.また,三田村氏も引用するように, 「国権」. 1至正十五年六月丁巳条によると, 太平路を改めて日く,太平府と。李習,府事を知す。太平興国翼元帥府を置き,公子, 大元帥と為り,李善長,帥府都事と為り--,分成して城を繕うo旗職及び将士の戦 衣,皆赤を尚ぶ。. とあって皇8),朱集団は,渡江後においても紅色の旗職および衣服を用いていたo いわゆる東系・西系の紅巾軍が紅巾を職号としたことは,周知のことである。また,栄 元埠集団が紅巾を用いたことも,前記の2史料から明らかである。後年の白蓮数社が紅巾 を用いた例は,明・清時代の宗教結社を通観するとき,しばしば見当てることができるが, すべての白蓮教社がそうであったとほ限らない。これは,後年の白蓮教社が,必ずしも弥 勤仏を崇拝の対象としなかった事実と同類のものであろうo. したがって,白蓮教と紅巾と. のイコール関係は,原則として認めてもよいとしても,さきに述べたように,現世改革的. な白蓮教社の硬立は韓集団む羊よるのであるから,このイコ-ル関係は韓集団以後のことで なければならず,未がその政権確立をめざして活躍していたころにほ,まだそれほどに,. 明確にイコ-ルで結ばれるものではなかったであろう,と思われるo いま,. ■元末の時点において,史料にそれと明記されている紅巾の旗職をもった勢力をあ. げてみよう。 韓山童・韓林児・劉福通・杜遵道----(1) 芝麻李・彰大・彰早住・趨君用----(2) 郭子興・孫徳崖----(3). 朱元嘩----(4) 徐寿輝・陳友諒・明宝珍・--・-(5) この紅巾諸勢力のうち, あることが確認されている。. (1)-(4)は同一系統に属し,. (5)集団とほ互いに異なるもので. (5)集団について,鈴木氏は弥勤教系でほなく,茅子元系の. 白蓮教社であると考えているが,.いずれにしても(1)系統の諸集団とは異なり,最終的 にほ(1)系統の(4)集団と敵対関係をもつ。同じ(1)系統の内部も複離である。. (1)集.

(13) 13. 初期朱元嘩集団の性格. 団は,前述のごとく,明らかに弥勤仏下生を唱える白蓮数社で,後のそれの祖型となった と考えられるものであり, (3)集団は,うちに宗教的色彩をもつものがいるとほいえ,他 (2)集団に関する史料には・宗教的色彩を 方において,後述のように土豪的性格が強いo (4)集団が(3)集団 伺わせるものほ何もなく,むしろ土豪的性格が極めて濃厚である。 への従属から出発したものであることほ,いうまでもないo きに触れたごく,. (1)集. (1)系統の各集団間にほ,. (3)が(2)に蹟使される関係があるo. 団が上に立つ上下関係があったとはいうものの,. (2)と(3)との問には・さ. (1)と(2). ・. (3)との間にほ,その拠っ. てたつ社会的基盤の相違がかなり明瞭であって,とくに徐州党と呼ばれている(2)集団 は,終局的には(1)集団のごときものとほ対立するべきものであるといえるo このようにみてくると,紅巾の旗職ほ,必ずしも白蓮教徒固有のものほいえない。すな わち,白蓮教社と敵対関係をもつものも紅巾を掲げるし,明らかに非宗教集団であるもの ち,宗教集団と同盟関係にあるとはいえ,同じく紅巾を掲げているのであるから,紅巾ほ, 元末の時点において,特定宗教教団のしるしというよりは,反元政府行動の旗じるしであ った,といったほうがよいのでほなかろうか。それでは,何故に同じく反元政府行動を企 てて元政府軍と戦った張士誠集団・万国珍集団ほ,紅巾を掲げなかったのか,という疑問 が残るが,これについては別論に譲ることにしたい。ここでは,紅巾は必ずしもイコール 白蓮ではない,と断定し,紅巾の故をもって朱元嘩集団が白蓮教徒集団であったことの根 拠とする説得力は極めて薄い,と考えたい。 かつて,重松俊華氏はその「宋元時代の紅巾軍と元末の弥勤・白蓮教匪に就いて」の中 に「宋元時代の紅巾軍と紅巾の意義」なる一章を設け,その冒頭に 元末の弥勤・白蓮諸教匪がいずれも紅巾を以てその標号とした為めに紅巾軍を以て元 末大乱期の語数匪の別名とする一般債向があるが,それは以ての外の誤謬といはねば ならぬ。. と述べて,紅巾イコール白蓮と考えることの非をさとしているが,いま,卓見であると考. えられる。重松氏も触れるごとく,紅巾が特定集団の旗職として用いられた事例は,宋代 まで潮ることができ,しかも-・二に止まらない。なかに,建炎四(1130)年四月,長壷 崇福禅院の行者が郷党の強壮を募って守保隊を組織し,紅巾・紅職をもってそのしるしと した24,,というものも含まれるが,必ずしも宗教的なものに依拠した結社のみが紅巾を掲 げたとほ限らない。したがって,紅巾が白蓮教社に特定のものであった,とすることほ, 少くとも元末の問題としている時点に至るまでほ,考えられないことである。朱元嘩とそ の集団が紅巾を旗職としていたからといって,そのまま直ちに白蓮教軍団であった,とき めつけることは,必ずしもできないのである。. 至正十五(1355)午,糧食の不足から,郭子興が朱元嘩の策をいれて徐州を出て和陽を 占拠しようとしたときの戦術が, 「国樺」 1同年正月戊午朔条に記されているoそれによ ると精兵三千を選んで,これに「育衣椎髪左裾」せし軌「伴為彼兵」して和陽城内に入 らしめ,約十里余の距離をおいて緯衣の兵万人を経せしめ;城の内外呼応して陥落に導こ 郭嘉伝ほ,至正十九(1359)年正月のこととし 「元史」 194 うとした25),という.また,.

(14) 14. 野. 口. 繊. 郎. て,. 既にして遼陽陥つ。嘉,衆を将いて巡遷す。城を去ること十五里にして,青号隊五百 余人に遇う.胎きて官軍なりと言う.寡,其の詐を疑うo俄かにして,果して青衣を 脱して紅に変ず。嘉,馬を出して賊を射,兵を分かちて両隊とし,爽んで之を改む。 と紹介される戦術のとられたことを記録しているoこれらの事例26'をみると,紅巾を着し たことについては,元軍との識別,ないし反元の意図を明示するもの,ということを第一 義的に考えるべきであって,元末の諸集団が紅色をもって旗職としたのほ戦略上の必要か らであり,その故に紅巾と白蓮教社とのつながりを云云することほ,当を得ないことであ る,と考える。 ・至正十二(1352)午,紅巾の旗が各地にひるがえっていたころ,元朝皇帝ほ,丞相脱脱 を叱責した。脱脱は,ために自ら徐卿こ出兵した。このときのことを叙して, 「庚申外史」 至正十二年正月粂はいう, 未だ幾ばくならずして,自ら軍を督して徐州を下さんことを請う。兵の出ずるや,准 東の元帥遮音之なる者有りて,上言すらく,官軍,水土を習わず。宜しく場下の塩丁 を募りて城を攻めしむ可し,とo又,准東の蒙民王重なる著有り。亦,上言すらく, 塩丁ほ,本と野夫なり。城市の題勇慣捷なる老を募るに如かず。以て城を攻む可し, と。前後,各おの三万人を得たり。皆,黄衣薫帽し,号して日く,黄軍と・-・。遂に. 其の城を夷ぐ。芝麻李,連れ去る。 と。ここにみえる黄衣黄帽の黄軍は,反乱軍ではなく,元相脱脱に協力したいわゆる義軍 集団である抑。他の義兵集団には,このように衣帽の色を特定した記録をみないoいわば, 王童の集団は,元政府軍とも異なる,紅巾軍とも異なる,という意図を明瞭にするために, 黄色をそのしるしとしたのでほあるまいか28'.暴戻であったと概説される元政府と区別し, さりとて反体制的な色彩をとることもできない豪民の意識の腐現でもあろうか。それかあ らぬか, 「庚申外史」ほ,続けて「王宜--豊亦識時務者欺。」と論じている。. こうしたことをみると,まさしく,紅巾は白蓮教社の色峨であったとのみ規定すること はできない。したがって,紅巾を旗職としていた朱元嘩集団が,白蓮教徒軍であったとは, 必ずしも考えられないのであるo 〔Ⅵ〕さて,この節において,朱元嘩集団が白蓮教軍であったか否か,という点につい て考察を進めてきたoまず〔Ⅰ〕で,朱が軍門に参加する以前に遊歴した地方と,韓山童・ 林児の指導する白蓮数社の流布していた地方とが重なり合うことを明らかにし,この点か らすれば,朱元嘩とかれをとりまく集団ほ,白蓮教社に繁るものであった可能性がある, とみた。ついで〔Ⅱ〕で,朱が最初に従事した郭子興に,白蓮教を含む宗教的雰囲気があ り,郭集団と朱との接近には,そのような宗教的な契棟が介在したかも知れないとほいう ちのの,それ以外の事情によって両者の接近が行なわれた,とみるほうが信愚性が強いよ うに思われること,. 〔Ⅲ〕で,一定の好機に背を向けて南下した朱に,白蓮教社韓集団に 直接密着することを極力避けようとした傾きがみられなくほないこと,先の最初の部下で ある24人を分析してみると,それらが一般的にいわれる反白蓮数的社会基盤とより強く.

(15) 初期朱元嘩集団の性格. 結びついていること,. 15. 〔Ⅳ〕で,朱集団が韓集団の年号を奉じ,かつ対韓集団の闘争を行. なわなかったことは,戦略上からの必要であったこと,. 〔Ⅴ〕で,紅巾を旗織・衣帽とし. たことも,その故に朱集団を白蓮教集団と規定するのほ早計であって,戦略上の意味が強 いこと,を述べた。そして,これらの諸点からすると,朱とかれをとりまく集団が白蓮教 軍であった可能性ほ低し.、ものである,とみたo もちろん,それぞれの場合に,和田氏以来 いわれてき明初の史書の事実陰蔽のことも,十分に考慮した。 その結果,現存する史料でほ,朱元嘩集団が白蓮教軍団であったことを積極的に肯定す る記録ほなく,事実陰蔽説を考慮にいれても,朱集団が白蓮教軍団であったということを 立証することほ,必ずしもできなかったoそこで,朱集団は,おそらく戦略上などの理由 で,韓集団の白蓮教社勢力の利用Lうる点のみ利用した止まっていた,と判断したい。た だ,いまだに多くの疑問がつきまと5_ことほ払拭できないが,鈴木氏の白蓮主義から儒教 主義への転換は考えなくてもよいという説に賛意を表し,それをさらに一歩進めて,朱と かれをとりまく集団は,基本的には,体制的教学に近い立場にたっていた,といってよか ろうと考える。. 3.朱元嘩集団と土豪・地主 前節の議論をよりいっそう推し進めていくために,朱元嘩集団が依拠した社会的基礎に 日をむけてみよう。. 〔I〕朱元嘩は,郭子興集団に帰属する以前に江准の問に遊歴し,この間に,同地方に ひろまっていた白蓮教のことを知り,あるいほこれに染まった可能性をもつが,これとと もに,地方の土豪に寄寓し,後年かれが事をおこした場合に悼みうる勢力が何であるかを も見出していたことは前述した。そのために,やがて濠州を出て自立したかれほ,一定の 好機に背を向けて南下したのである。すなわち,既に蓬僧時代において,かれ自身ほその 階層の出身ではなくても,社会的指導性ないし主導性をもつものが,土豪・地主勢力であ ることを観破していた,といってよかろうo このような考えにたっ限りにおいて,朱が郭子興集団に接近し,そこに参加した地理 的・宗教的な事情以外の,もう一つの,そして最も本源的な必然性を強調する契機がある ように思う。前節2.の〔Ⅱ〕において,未と郭との関係をみたとき,後述に委ねる,と した点は,まさにこのことである。 郭子興集団については,和田氏・呉晴氏などはこれを紅巾の末将とし,この紅巾に白蓮 教勢力という意味あいをもたせる。これに対して,愛宕氏・三田村氏などは,これを郷曲 保全の意識をもつ土豪集団であるとみる。また,鈴木氏は,郭を宗教の力を利用した土豪 であり,地方的な武力派の頭目である,と捉える。私は,郭集団が土豪連合集団であった, という説に賛成したい。その根拠は,既に先学が示されているのでここに反覆しないが, 至正十二(1352)年二月,濠州に拠った郭とその共謀者のすべてに土豪的階層の反映があ るほか,次のことをも加えておきたい。すなわち,郭集団が徐州党と通称される芝麻李集 団と,上下関係で結ばれる集団であったことである。既に至正十-. (1351)年八月以来徐.

(16) 16. 野. 口. 鏡. 郎. 州を占拠し,濠州のあたりまで征圧していた李集団ほ,三田村氏も触れるごとく,任侠的 土豪集団であって,芝麻李自身が任侠的土豪であったばかりでなく,. 「庚申外史」至正十. 一年五月粂によれば,その協力者の1人趨君用も「越社長也」と記録されるように,土. 豪・地主層に属するものであったo郭は,かれ自身任侠的で奉ったことから,また李集団 がともに同種の社会層を基盤とし,したがって同様の意識をもっていただろうことから, 先に興起した芝麻李に従属し七のであろうし,郭集団は李集団の節制をうけることに甘ん じたのであろうoこのように,郭とかれの集団をとりまく環静ま,いずれも地主・土豪的 なものであって,僅かに郭子興ひとりにのみ,宗教的雰囲気をみることができるo 距離的に近いという事実があり,宗教的同質があったかも知れないという仮定ができる とはいうものの,朱元嘩が自ら選んで郭集団に帰属したことは,朱自身に地主・土豪的意 識,ないしは地主・土豪層のもつ抜き難い社会支配力への期待があった,とみたいのであ る。. 〔Ⅱ〕自立した朱元嘩は,. 24人の部下とともに定遠にむけて南下した。この24人の. 大半が地主・土豪的な社会層に出身するものであることは,前述した。このことも,先に はその興起の当初から,本質的にほ土豪的なものに依拠して行動する性格があったこと, 換言すると,朱集団の社会的性格が土豪・地主的なものであることの-証であろう。 〔Ⅲ〕これ以後,朱元嘩集団は,各地に成長していた義兵集団・寡兵集団を自軍中に包 括しつつ,長江周辺への進出から渡江へと,作戦を展開する。 紅巾軍の興起にともなって各地に形成された地縁連合体の軍事組織をもつ義兵軍集団は, 郷曲保全という目的をもったことから,地方の土豪・地主勢力によって結成されたもので ある.こうした点を考慮にいれながら,いま,. 「明史」・「明書」・「国朝献徴録」など29)に. みえる,明朝成立までの間に朱元嘩に協力したものについて,ある種の操作を加えてみた。 まず,朱に帰属した年代が明記され,もしくは飽から推して該年代を知り得るものごとに まとめ,そのなかを,儒学的素養によって従軍したもの(A),自ら義軍を編成したもの (B),自ら義軍を編成し ,かつ元政府から義軍元帥などに任ぜられたもの(B′),. A・B・B′. 以外のもので,土豪・地主層に出身階層をもつもの(C),その他不明のもの(D)のそれ ぞれの数を求めてみる帥)と, 〔表2〕のごとくなる。 Dに属するものの合計53人のうちにほ,李喜・劉福通・明玉珍・陳友諒に次々と従事 し,最後に朱元嘩に従った侍友徳のごときものをも,同様の経歴をもつ黄彬・菓昇などと ともに数のうちに算し,また,はじめ元将陳埜先に従ったが,やがて先に服属したという 張擢・花茂のごときものも含めている。これらほ,いわば節操なき,私兵集団の頭目であ って,土豪・地主的な存在といい得るかどうかは疑問である。 すべて134人中,明らかに土豪・地主層に属する出身階層をもつものほ,. 81名にのぼ. る.この81名のうち,自ら義兵集団を結成したものほ,註30)に記した章添のごときも のをも加えると,. 35名となる。この義兵集団は,前述のごとく,郷里保全のために各地. の富民,すなわち土豪・地主勢力によって結成されるのがふつうであって,郷里保全とい う限りにおいてほ,反白蓮とも反元ともいい切れない.いわば地主・土豪と佃戸とにLよっ.

(17) 初期朱元嘩集団の性格 〔表2〕 年. 代. L. A. 至正12 (1352). 6. 6. 12. 13 (1353). 5. 6. 13. 6. 16. 14 (1354). 3. 15 (1355). 3. 16 (1356) 17 (1357) 18. (1358). 19. (1359). 1. 1. *. 1. 7. 34. 2. 8. 1. 4. 7 2. 20 (1360) 21 (1361). 1. 4. 5 ウ〟. 22 23. (1362) (1363) 1. 24 (1364) 25. (1365). 26. (1366). 27. (1367). 2. 年代不明. *1うち2名は,朱元嘩の坊である。 ・2 そのほとんどは,巣湖において結菓自保していた同一集団に属するものであるo *3 うち2名は,朱元嘩の義子であるo. て構成された,郷里社会の安寧秩序の保障を期待する武力集団であり,軍事勢力であった・ という面が強い。この場合,義兵集団ほ,その頭目が土豪・地主であっても,軍兵は被抑 圧階級である佃戸層なのであるから,必ずしも土豪勢力を基盤としたとほいえないのでは ないか,という議論は成り立つまい。山根氏も触れるごとく,義兵の編成は,在地の地主 佃戸関係によったのであって,したがって,軍兵となった佃戸層にも,地主・土豪への依 存の意識が,いわば地主・土豪と同様に旧秩序の保守・維持の意識が濃厚であった,とみ たほうがよいからである。. このようにみてくると,朱元嘩集団ほ,まさしく土豪・地主的な集団を根幹として組 織・運営されており,朱集団が発展するにつれて膨れていった部分のほとんどほ・旧秩序 の維持を志向する集団であった,といえる○明初の諸記録の陰蔽・改窺説を考え併わせて も,前述のごとく,朱集団のなかに,白蓮教的・農民軍的な色彩は認め難いが,それらを 示す記録はすべて注意深く抹消されたというならば,例えば前記の停友徳・黄彬のような, あるいほ彰祖・金花小娘の妖徒であったと記録されている慶永安・爵通海一派のようなも のは,何故に抹消されずに残ったのであろうかo後者は・結実自保してかなりの力を巣湖. 一帯にふるった集団であって,これが朱塵下に属したことによって尭の渡江作戦が成功し.

(18) 18. 野. 域. 口. 郎. たのであるからともかくとしても,前者がいちいちに正伝をもって残されているのほ,何 故か。この疑問ほ暫く措くとしても,. 〔Ⅰ〕・〔Ⅱ〕・〔Ⅲ〕で述べてきたことほ,朱が早く. から土豪・地主的な,いわば体制内的な社会基盤に依拠Lて自己の勢力を固め,その伸張 をはかったことの,疑いのない根拠なのではあるまいか。朱元嘩集団は,決して農民革命 軍なのではなくて,当初から既存の体制勢力を背景としつつ,それを伸張・拡大した,土 豪連合軍としての色彩が極めて強いのであるo 〔Ⅳ〕前掲の〔表2〕ほ,. 134人の出身地別によって,次のように作製しなおすことが. できる81)o 〔表3〕 出. 身. 地. 出. 身. 地. 出. 身. 地. 寧海 新江. 計. 河南. 南陽 夏邑. 安徽. 徽州府. 小. 安散 小 安徽. 大平府. 広徳. 1. 休寧. 2. 河南. 計. 要源. 1. 河北. 開州. 計. 4. 河北. 計. 洛陽. 太平. 山東.. 計. 山東 計. 山西. 曹 計 陽曲 河中. 山西. 計. 湖南. 安仁. 湖南. 計. 湖北. 汚陽 江夏. 湖北. 計. 広東. 東莞. 広東. 計. 不. 明. 合. 計.

(19) 19. 初期朱元嘩集団の性格. 最初の朱元嘩集団は,朱と24人とによってその中枢を構成していたとみてよいが,そ れは〔表3〕によって明示されるように,鳳陽を中J亡♪とする全く純粋な同郷集団であったo この構成メソバー中に,前述のように土豪的なものの存在を認めることができるので,こ の集団に郷曲保全という意識がなかった,とはいえないo・張士誠を放ったあとの朱元嘩の ことばを「明実録」呉元年九月壬寅条は, 上,親しく戟門に朝し,漸西より来帰せる諸将を召し,之に諭して日く--,吾れ用 うる所の諸将ほ,多く濠・潤・汝頴・寿春・定遠の諸州の人なり--とo と記し,さらに同じく「明実録」呉元年十月乙巳条は,先の述懐を述べて, 上,観門に御し,給事中呉去疾等と政務を論ずo困りて之に謂いて日く・苦れ,布衣 を以て兵を起こす。今の李相国・徐相国・湯平章と,管,郷里の居る所,相近遠なる こと百里を過ぎず。君臣相い遇いて,遂に大功を成すほ,甚だ偶然なるに非ざるなり, --と。. と伝えている。これらのことばは,最初の朱集団が同郷集団として出発したものであるこ とを,朱自身のことばを以て証明するものであると同時に,とくに後者は,それがある程 24人とともに自立南 度意識されつつ構成されたものであることを物語っていよう補註)。 下した時点で構成された最初の朱集団は,前述釆の義兵集団のある面と共通した性格をも っ同郷集団であった,といって差支えなかろう.以後,各地の義兵集団を吸収しつつ朱集 団の拡充が続くが,それとても,郷里の安微鳳陽府に出身するものが134人中66人を. 占軌. これに隣する慮州府出身を含めると,じつに94名に達するのであるから,まさし く,同郷集団の拡充という形での朱集団の発展があった,ということであろうoしたがっ. て,ここにも,朱元嘩集団の土豪・地主的性格を明らかに看取することができるo郷曲保 全をほかる意識の掛、土豪層の連合集団への成長をめざす朱元嘩であったからこそ,その 当初の勢力は,江北の地を中心に形成されたのであるo なお,至正十五(1355)年六月,渡江を強行して采石鋲をとった未元嘩が,船のともづ なを切って江流中に放したことも,愛宕氏の述べるように,より豊かな経済力に依存し, 土豪・地主,すなわち伝統的な社会関係を最大の基盤とした,より大きな地方政権・全国 政権をめざす行動であった,と解釈してよい。 〔Ⅴ〕朱元嘩は,前後すべて20人余におよぶ義子をもち32',長ずるとともに軍事上の 要務を与えた。このことは,擬制的なものであるにせよ・血縁関係を利用して自己の勢力 の温存・発展を考える土豪・地主的な秩序,ないし気質を,朱自身も・またその集団も是 認していたことを物語っているo また,最初の朱元嘩集団である24人の中に,呉良・禎,儲興・其の2組の兄弟を含ん 24人と先の義子・甥とを除いたなかにも, でおり,さらに〔表2〕に示した134人中の, 次のような諸血縁関係の存在を知ることができるo 4組<. 父子関係・・-康茂才・鐸,桑世傑・敬,梅思祖父ヂ3),部順興34'・愈 ・兄弟関係--漏国用・勝,愈通海・通源・淵,超仲中$5'・庸,慶永忠・永安' 張徳勝・真義36). .. 5艇.

(20) 20. 野. 祖父孫関係--干厳徳37). 口. 鏡. 郎. 1組. ・光. 従兄弟関係--常遇春・栄 義父子関係--張徳勝・江輿祖38),葦徳成89). 1組. ・寧正,胡大海・徳済. 姻族の兄弟関係-・李善長・王津. 3組 1組. 134人の朱集団中に,朱一族を除いて17組の血縁関係者を含んでいることになるわけで あるが,ここに,強い仲間的・郷党的意識の集約された姿をみることはできないかo 朱元埠自身にも,またそれをとりまく集団の中にも,まさしく,土豪・地主的性格,な いし意識をみることができるのである。 〔Ⅵ〕前掲の〔表2〕によれば,儒学的素養によって朱元嘩集団に加ったものは,すべ て29人となる。うち最も有名なものは,至正十九(1359)午,朱の牽州占領とともに朱 軍に参加した劉基・宋凍・章海・菓深のいわゆる四先生であり,なかでも劉基・宋凍は, 朱元嘩自身の最高顧問であった。この至正十九年にほ,費州に郡学が設置されているが, このことは,朱集団がこの時点で体制教学,ないし旧い伝統的秩序による自己政権の維持 と社会一般の安定とを求めていたことを示す事例であろう。そして,この芽生えほ,さら に潮ることが可能である。 すなわち,至正十四(1354)午,源陽占領のとき,李善長が先の幕下に加わった. 書」. 93. 「明. 李善長伝によれば,李ほ元末に里中から推されて祭酒となっていたが,朱が温陽. をとるに及んで書生の服を着して朱に謁した。朱ほこれを里中の長たるものとみて礼し, その結果「遂収以為掌書記」らしめ,ついで間もなく,参謀として軍策に与らしめた,と いう。のち,李ほ太平興国巽元帥府都事となり,江南行中書省が置かれると,その参議か ら参知政事-と進み,明朝が成立するや,東宮官属として太子少師を兼ねた。かれは軍謀 に参加することが多かったが,本質的には儒者であったので,儒学的な素養によって朱に 従ったものの最初である,と判断Lてよい40)。 同じ至正十四年,朱の幕下に儒者花常が加わっている。そこで,この至正十四年という 時点で,朱集団にほ,すでに白蓮教的教学とはほっきり対置される体制的教学に依拠する 性格が具備されていた,といってよかろうし,さらに進めて,土豪・地主的旧秩序に依拠 する性格をもっていた,といってよい。したがって,これ以後,各地を征して拠点化する とともに,朱集団ほその地の儒者を召徹しては重用していったのである.儒者を敬して厚 遇し,行動の枢要部分に参与させるという,至正十四年段階にほ既に明瞭に朱集団がもっ ていた方策は,軍事行動上で必要な術策を得るためであったとともに,地方の土豪・知識 人に対する宣撫的効果をあげるためであったことほ,いうまでもない。そして,このこと. ほとりも直さず,朱集団が地主的・旧体制的な基盤にたっていたことの-証でもある. しかして,この憤向ほ,決して至正十四年以後に出現したことではない。濠州を出て自 立した朱元嘩に従属した24人のなかに,こうした傾向を示すものが存在することを,既 に指摘した.すなわち,至正十三i(1353)年に朱に従った呉良は, 「明史」 130・呉艮伝に, 良 仁恕倹約にして,声色貨利の好む所なし--。暇に至らば,則ち儒生を延きて 経・史を詩論せしむ。学宮を新たにし,社学を立て,大いに屯田を開き,格を均しく.

(21) 21. 初期朱元嘩集団の性格. し,賦を省く。 と述べられるように,体制的教学に十分に依存する姿勢の持主であったoまた,至正十二 「明書」 93 営国公郭世家に,註14)に引用し (1352)年に従軍したと思われる郭英ほ, たごとく記されていて,これもまた前述の呉良と同じ基盤,ないし意識に立つものである ことを知り得る。 呉良・郭英とともに最初の朱集団を構成した.24人のなかにほ,. 信国. 「国朝献散乱5. 公追誼嚢武封東院主湯和神道碑に 幼にして二親を喪うも,卓越して奇志ありo 「明史」 131陸仲享伝に と記された湯和や, 年十七にし乱兵の掠するところと為り,父母兄弟,供に亡うo一升の麦を持して草間 に伏し--.. と述べられた陸仲享のように,朱元嘩の生い立ちと同様の境遇をもったもの,つまり貧民 の出身であると判断されるものも,含まれてはいる.しかし,こうしたものも,例えば湯 和についていえば,同じ記録に, 賞賜を得れば,多く郷党の父老及び孤・貧にして告する無き者に恵むo貴きこと公宰 を棲むるも,田里に帰るに及びては,故交の逮民に見えて,意,頗如たりo と述べられるように,伝統的な倫理観・道徳観の枠内での生活態度を持しているのであっ て,この限りにおいて,真の出であるからといって反体制的であったとはいえず,むしろ 逆に貧の出であるにも拘らず・あるいほその故に,却って意識の上では土豪的なそれ,な いしそれに近いものをもっていた・といえる.すなわち,うちに貧民出身のものを含むと はいえ,朱元嘩が郭子興のもとを離れて自立・南下したころのかれの最初の集団は,既に 土豪・地主的,ないし伝統的体制に依拠する集団として存在していたのであるo 〔Ⅶ〕三田村氏ほ, "不殺"は紅巾軍の信念・党規であって,太祖がこれをスロ-ガン とし,折に触れて強調したことは,太祖が紅巾であった証拠である,ということを述べて 「仏祖統記」 55が いる。指摘されるまでもなく,茅子元系の白蓮教社ほ, 物命を殺さざるが故に,善を為すに近しo と述べているように,不殺生をこととする浄業団体であったoしかし,さきに論じたよう に,元末以後の白蓮教社の主流ほ,反体制的色彩の強い現世改革教団へと変容し・不栽ほ, その信念・党規とはいい得ぬものとなったoしたがって,不殺のスローガンをもって,栄 が紅巾イコール白蓮の徒であった・という根拠にほなし得ないようであるo 不殺については,次のように考えるのが妥当なのではあるまいかo史料上における朱元 埠と不殺との触れ合いは,李善長との出会いのなかに,はじめて見出し得るo朱が李と天 下を取るの計を語ったとき,李は漢の高祖が布衣よりおこって帝業を成したことを説き, その理由を挙げて「常連大慶,知人善任,不噂殺人41'」と述べ,さらに 首めに殺人を噂まざるの説を以て進めば,次を指すこと,大勢了了たり,とo いに喜び・-・4乏)o と論じたというoこれによると・朱が折に触れて強調した「不噂殺人」のことは,李に出. (上)大.

(22) 22. 野. 口. 鎖. 郎. るのであって,このことが是認されれば,このスローガンは儒教的倫理道徳に基くもので なければならない。既に白蓮教に接触していた可能性があるから,不殺は白蓮教説に関わ るものである,という議論に対しては,前述のごとく,元末の白蓮数社については,不殺 のことは考えられない,という回答を示せばよかろう。 すなわち,朱元嘩が不殺のスローガンを掲げたことは,決してかれが白蓮教徒であった からでほなくて;逆にかれとその集団の立場が,伝統的な社会観範の枠を一歩も出ようと 「明通鑑」前編3 するものでなかったことの証であろう. 至正二十六年八月辛亥条に記 された,張士誠討伐の際の朱元嘩の諭吉に 太祖,親しく観門に御して師に誓い,諸将佐に諭して日くi城下るの日,殺掠する恐 れ,鷹舎を穀つ憤れ,邸壌を伐る憤れo士誠の母,平江城外に葬らるるも,侵穀する 切れ,と.. とみえ考諸指示事項も,伝統儒教的な意識から出るものであった48).そして,このような 規範が,土豪・地主層に最も強い安堵感を与え,したがって,かれらの賛同と支持とをと りつける上に,多大の効果を発揮しただろうことほ,いうまでもない。こうしたことから ち,朱とその集団が,旧体制的伝統を基盤とする集団として在存していたことを,明らか に知り得よう。 〔Ⅷ〕さて,本節においては,朱元嘩集団のよって立つ社会基盤を考察し,朱集団ほ, 当初から本質的に土豪・地主的,伝統的,体制的な性格を有する軍団であり,その性格に 沿って軍事行動その他の運営を行なった,とみてきたo. 〔Ⅰ〕で,朱自身のうちに,かれ. が軍事行動を行なう以前から,すなわち遊僧時代から,既に土豪・地主的なものに期待す る面があり,したがって,同様の性格をもった郭子輿集団に接近Lたこと,を明らかにし, 〔Ⅱ〕で,郭集団から自立して最初の自己の集団をもったときも,その集団には土豪的な 性格があったことを述べ,. 〔Ⅲ〕.で,その後に拡充された朱集団にも同様の性格のあるこ. とを, 〔Ⅳ〕で,その集団にはまた,同郷集団としての色彩が濃厚なことを考察した。. 〔Ⅴ〕 〔Ⅵ〕でみた,儒者の朱集団への参加が,極め. で述べた,朱集団内の血縁関係者の多さ, て早い時期にみられること, 〔Ⅶ〕で考えた,不殺のスローガンが,儒教的な倫理貌範に 出るものであること,は,いずれも朱とその集団をとりまく環境が,地主的・伝統的な体 制の枠を出るものでないことを証明する論拠となりうるものであった。 このように考察を進めてくると,既に先学の何人かが述べているように,朱集団ほ,あ る時点で農民階級的なものから地主階級的なものに転化した,とほ考え難いように思われ るoそこに,何らかの農民的な立場を示すもののの存在を探ろうとすれば,■僅かに白蓮教 社の韓集団のもつ力を戦略的に利用したことにのみ止まるのである。朱集団ほ,意識の上 においても,行動の上においても,当初から土豪・地主的立場を堅持し,伝統的な社会秩 序の維持という,いわば郷里保全の義兵集団がもつ側面を顕著にしつつ44',全国征覇をな しとげていった。まさに,反白蓮教的立場に立っていた,といえるのである。もちろん, その裏にほ,白蓮教集団は,反土豪・地主的な性格・意識をもつ集団である,という前提 があるoこの前捷は,明・清時代の白蓮教社を含む民間の秘密宗教結社の構成を一瞥する.

(23) 初期朱元嘩集団の性格. 23. ことによって,原則的には認められて然るべきであろう畑o L元末の韓山童・林児集団につ 徐州盗韓山童教の条に 「草木子」克勤篇 いてのみいえば, ・-遂に相い驚貯6'を為して,而して謀乱す.是の時,天下の承平,己に久しく'、法 度寛鰍こして,人物の貧富,均しからず,多く楽しみて乱に従う.骨って旬月ならず して,之に従う者,殆んど数万人たり-・。此の説に託して以て天下を動揺せしむ。 時に当りて,費なる老の乱に従うこと,帰するが如し。 と記されてあることを挙げるに止めよう。. 4.朱元嘩集団と反元民族主義 朱元嘩集団は,反白蓮教的な意識をこたちながらも韓林児集団の制を受け,明確に体制教 学的・反白蓮数学的立場にたって韓林児その人を罵った劉基などの儒者が幕下に加わった 後でも,韓集団の竜鳳の年号の使用を止めなかった。このような朱と韓との直接の接触は' 史料上でほ,至正十五(1355. ・竜鳳元)午,郭子興の葬後,朱が韓から左副元帥を受けた ときにはじまるoこのとき朱が抵抗の姿勢を示したものの,遂にはこれを受けたことは, 前にみた。こののち,翌十六年枢密院同簾,ついで江南等勉行中書省平章,十九年儀同三 司江南等処行中書省左丞相,二十一年異国公と,韓集団宋国小明王の官職を歴授したのみ ならず,至正二十三(1363・竜鳳九)年には,朱の曾祖父母・祖父母・父母の3代にわた って,小明王から封贈を受けている47)。そして,先例の史料にも至正十五年以後の官職授 受のときに朱が抵抗した,などのことを載せない。いわば,朱ほ反白蓮教的立場を堅持し ながら,至正十五年以後は韓集団の一部将として活躍したのである.これほ,先のいかな る姿勢を示すものであろうか。このことについて,さきに戦略上の必要からと説いてきた が,それほ具体的にいかなる必要であったのか。それについて明らかにしよう。 〔Ⅰ〕端的にいえば;それだけ,朱元嘩にとっての利用価値を韓林児集団が持っていた ことを示しているのではあるまいか。 朱元嘩集団の軍事行動をみると,濠州を出たあと南下を続け,渡江後は長江の西・東に 軍勢を況して陳友諒・張士誠を伐ち,至正二十六(1366. ・竜鳳十二)年暮に至って韓林児 を幹州から迎える途中謀殺し,翌二十七年十二月になってはじめて,元政府軍攻伐の命を 発している。先の北方勢力との対立抗争は,まさに自己の独立政権への基礎が充分に固ま った至正二十六年末に,はじめて開始されたわけである。 これだけの事実をみて直ちにわかることは,韓集団は,朱集団と元政府軍との間にあっ て朱集団の後楯となり,先のために元軍を防禦する役割を果させられていた,というこ七 であるo朱集団としては,北方に直接する韓集団と同盟する,ことによって,より北方の元 政府軍との正面交戦の危機を廻避し得たし,後顧の憂いなく,より有力な陳集団・張集団 と対略し得たのである。したがって,韓・朱両集団の関係は,必ずしも上下関係で結ばれ る必要はなかったのであるが,韓一郭一朱と結ばれた上下のきづなの存在から,また 関係が生じた時点における朱の実力の低さの故から,郭子興が没したとほいえ,韓I釆 の上下関係を保持したほうが,南方に向かった朱集団の後方の安全確保のためにも,朱集. ,.

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