律蔵「不定法」と覓罪相
(
tassapāpiyyasikā
)
の関係
佐 々 木 閑
1.本稿の目的
「律蔵では,自ら罪を認めていない比丘・比丘尼を処罰することはできないと いう原則が守られている」という見解が妥当性を持つかどうかを,波羅提木 第 3番目の項目である不定法を調査対象として考察する.その過程で,7種サマタ 法(滅諍法)の1つである覓罪相(Pāli: tassapāpiyyasikā, Skt: tatsvabhāvaiṣīya)の実態も明 らかにする. 2.不定法第一学処の検討
従来の研究においては,律蔵全体に「本人の自白なくして処罰することはでき ない」という原則が貫かれていると考えられてきた.しかし最近発表されたJens Borglandの論文においてこの見解が批判され,本人の自白なくして処罰すること が認められる例として,波羅提木 中の「不定法」が取り上げられている (Borgland 2014a; Borgland 2016/17).Borglandによれば,波羅提木 「不定法」の学処そのものに,「自白していない 比丘でも処罰することができる」という規定が盛り込まれているが,パーリ律な どのいくつかの律蔵においては,その学処を注釈する経分別部分において解釈が 変更され,「本人の自白がない場合は処罰することができない」という形に変えら れたという.パーリ律不定法の第1条を例にとって,資料を提示する (Vin 3: 187). (因縁譚): ウダーイン比丘が,親しくしている女性の家を訪ねた時,その女性と一緒に, 隠れた場所にある, 欲行を為すのが可能な座席に腰を下ろした.その時ミガーラマー ターがたまたまその家にやって来て,この様子を見た.ミガーラマーターはウダーイン比 丘を叱責するが,ウダーイン比丘は耳を貸さない.そこでミガーラマーターは,比丘たち を通して事情を世尊に報告し,世尊はウダーイン比丘を叱責して,学処を制定する. (学処)(Vin 3: 188; Pruitt and Norman 2001, 24): yo pana bhikkhu mātugāmena saddhiṃ eko ekāya
raho paṭicchanne āsane alaṅkammaniye nissajjaṃ kappeyya, tam enaṃ saddheyyavacasā upāsikā disvā tiṇṇaṃ dhammānaṃ aññatarena vadeyya pārājikena vā saṅghādisesena vā pācittiyena vā. nisajjaṃ bhikkhu paṭijānamāno tiṇṇaṃ dhammānaṃ aññatarena kāretabbo pārājikena vā saṅghādisesena vā pācittiyena vā. yena vā sā saddheyyavacasā upāsikā vadeyya, tena so bhikkhu kāretabbo. ayaṃ dhammo aniyato. 比丘が,女性と共に,男一人女一人で,こっそりと,隠れた,[ 欲行を]為すのに十分 に相応しい座席に腰を下ろした状態となり,その彼を,発言を信頼できる優婆夷が見て, 3種の法のうちのどれか1つ[すなわち]波羅夷か僧残か波逸提のどれかによって語るなら, 腰を下ろしたことを自認している比丘は,3種の法のうちの1つ[すなわち]波羅夷か僧残 か波逸提のどれかによって処分されるべきであり,あるいは,[もし彼がそのことを自認 しない場合は],その,発言を信頼できる優婆夷が語ることに従って,その比丘は処分され るべきである.これは不定法である. 下線部の,「[もし彼がそのことを自認しない場合は]」という補いは,Pruitt and
Norman 2001の英訳に含まれているものであるが,Hornerの英訳にはない(Horner
1938, 331–332).したがって確定した読みではない.下線部がない場合とある場合 とでは条文の意味は大きく変わってくる. ・下線部の補いを入れない場合: (1) 優婆夷が比丘の様子を見て非難する. (2) 比丘が「女性と一緒に隠れた場所で腰を下ろしていた」と自ら認めたな ら,波羅夷か僧残か波逸提のどれかの罪になる. (3) あるいは,優婆夷の証言に応じて,波羅夷か僧残か波逸提のどれかの罪 になる. ここで(3)の部分に現れている「あるいは,その,発言を信頼できる優婆夷が 語ることに従って,その比丘は処分されるべきである」という文の意味が問題で ある.(2)は,比丘自身が,女性と二人だけで座るという行為(座るだけなら波逸 提)を認めた場合,その自白内容に応じて処罰されるというのであるから,そう でない場合とは,女性と二人だけで座るという行為を一旦自認した比丘が,その 後,罪を確定するための尋問に際して罪を自白せず,「なんの罪も犯していない」 と主張した場合の処置と考えるのが自然である.その場合には,優婆夷の証言が 採用されて罪が決まるということになる. 注目すべきは,この解釈においては,比丘が「女性と一緒に隠れた場所で腰を 下ろしていた」と自認していることが処分の大前提になっているということ. 「本人の自白なくして処罰することはできない」という原則は守られている.女
性と一緒に腰を下ろしていたことを自認しない場合は,始めから罪を問われない のである.あくまで処罰は本人の申告に沿って行われる.女性と二人だけで座っ たことを認めながら,あとで証言を翻して,「なんの罪も犯していない」と主張 した場合に限り,信頼できる優婆夷の証言にもとづく処分が為されるのである. ・下線部の補いがある場合: (1) 優婆夷が比丘の様子を見て非難する. (2)-i 比丘が「女性と一緒に隠れた場所で腰を下ろしていた」と自認するな ら,波羅夷か僧残か波逸提のどれかの罪になる. (2)-ii 比丘が,「女性と一緒に隠れた場所で腰を下ろしていた」と自認しない 場合には,優婆夷の証言に応じて,波羅夷か僧残か波逸提のどれかの 罪になる. この解釈を取るなら,(2)-iiは,比丘本人が犯罪行為を否認しているのに,優婆 夷の証言だけで処罰される,ということになる.Borglandは,上記2種の解釈の うちの第1解釈の可能性を考慮せず,はじめから下線部の補いがあるものとして 条文を読み,それによって無条件に第2解釈を採用する.当然ながら,「本人の 自白なくして処罰する場合がある」と主張することになる. パーリ律を例として見てきたが,不定法の学処は,『五分律』以外はすべてが ほぼ同じなので,上の2種類の解釈は『五分律』以外のすべての現存律蔵に関し て成り立つ1). 3
.不定法第一学処に対する経分別部分の検討
上で見た不定法第一学処を,経分別がどう解釈しているかを見ていく. パーリ律経分別の解説 (Vin 3: 189) 優婆夷が,「聖者さまが,坐って,女性に対して婬法をおこなっているのを見ました」と 指摘し,比丘自身がそれを認めたなら,犯罪として処分される.もし優婆夷が,「聖者さ まが,坐って,女性に対して婬法をおこなっているのを見ました」と指摘したのに対し て,その比丘が,「座ったのは事実ですが,婬法はおこなっていません」と言ったなら,彼 は腰を下ろしたことによって処分されねばならない(つまり最も軽い波逸提罪になる). もし優婆夷が,「聖者さまが,坐って,女性に対して婬法をおこなっているのを見ました」 と指摘したのに対して,その比丘が,「私は座ってはいない.ただし横にはなった」と言っ たなら,彼は横になったことによって処分されねばならない(おそらくこれも波逸提罪). もし優婆夷が,「聖者さまが,坐って,女性に対して婬法をおこなっているのを見ました」 と指摘したのに対して,その比丘が,「私は座ってはいない.ただし立っていた」と言ったなら,処分してはならない(立っていた場合は波逸提にもならないので無罪). 学処の中に「腰を下ろしたことを自認している比丘」とあったが,その箇所に関 する注釈である.下線部から分かるように,優婆夷に告発されたとしても,腰を 下ろしたことを自認しない場合は,はじめから無罪となる.これは上記の「下線 部の補いを入れない場合」の解釈に合致する. 『四分律』,『摩訶僧 律』,『十誦律』にもこれと同じ状況が現れている.いず れも経分別の記述内容は,「下線部の補いを入れない場合」の解釈に合致してい る2).したがって,「本人の自白なくして処罰することはできない」という条件 が保持されている. 一方,『根本説一切有部毘奈耶』だけは記述内容が異なっている(T23: 710b23; D cha 36a3). もし正信 波斯迦(優婆夷)が「私は,彼の苾芻が,女人と一緒に二人きりで行くのは見 ましたが,立っているのも座っているのも横になっているのも見ませんでした」と言った り,あるいは「私は,彼の苾芻が,女人と一緒に二人きりで行くのも立っているのも見ま したが,座っているのも横になっているのも見ませんでした」と言ったり,あるいは「私 は,彼の苾芻が,女人と一緒に二人きりで行くのも立っているのも坐っているのも見まし たが,横になっているのも見ませんでした」と言ったり,あるいは「私は,彼の苾芻が, 女人と一緒に二人きりで行くのも立っているのも座っているのも横になっているのも見ま した」と言ったなら,すべて, 波斯迦の言ったとおりに処分せよ.もし正信 波斯迦で, その苾芻が女人と一緒に行ったり立ったりする等の行為を行うのを見て,それを問いただ した時,苾芻がその事にしたがわない場合は,覓罪相羯磨を与えよ. ここでは,無条件で 波斯迦の証言のとおりに処分するよう定められており,苾 芻が 波斯迦の証言を否定した場合には,覓罪相羯磨という一種の懲罰羯磨が課 されるとされているので,「本人の自白なくして処罰する場合」が想定されてい る.『根本説一切有部毘奈耶』の経分別部分だけが独自の解釈として,「本人の自 白なくして処罰する場合がある」と言っているのである. 4
.不定法の経分別に現れる覓罪相
その不定法の経分別部分であるが,『摩訶僧 律』と『十誦律』と『根本説一 切有部毘奈耶』にだけ,覓罪相という手続きが登場する.パーリ律,『四分律』, 『五分律』には現れない3).覓罪相とはなにかというと,犍度部の1つである「サ マタ犍度」(律によって「滅諍法」「アディカラナ事」などとも呼ばれる)において示される7種のアディカラナサマタ法(滅諍法)の1つで,それは次のように規定され る.パーリ律を例として和訳を示す (Vin 2: 85.29). 尊者らよ,僧団は私の言葉をお聞きください.このウパヴァーラ比丘は,僧団の中で犯罪 について調査を受けていて,否認したあとで認め,認めたあとで否認し,いい加減な受け 答えではぐらかし,故意の妄語を語りました.もし僧団にとって時宜適切であるなら,僧 団は,ウパヴァーラ比丘に覓罪相羯磨をなしたいと思います.これが白であります. 覓罪相とは,自白内容をあとになって翻したり,言を左右にした比丘に対して, その,「自白内容を変えたこと」を理由に課される羯磨であることが分かる.覓 罪相を課された比丘は,僧団内での多くの権利が剥奪される.『四分律』,『五分 律』,『摩訶僧 律』,『十誦律』,「根本有部律」の各律における覓罪相の定義もす べて同じである4). このように覓罪相は,自白内容を途中で変更した比丘に課せられる懲罰的手続 きである.『摩訶僧 律』と『十誦律』の不定法経分別では,女性と坐ったと自 認した後,多少でも犯罪行為を認めた比丘には,本人の自白に応じた処分が課さ れるが,一切の犯罪行為を否定した場合には覓罪相が課されるという.一旦は 「坐りました」と自認しながら,あとでそれを否定することへの懲罰と考えれば 理が通る. 一方『根本説一切有部毘奈耶』では,上で示したように,比丘本人の自白がな くても 波斯迦(優婆夷)の証言に沿って処分が決まり,そして 波斯迦の証言 を比丘が全否定した場合には覓罪相が課されるという内容になっている.解釈に 違いはあるが,覓罪相を導入していることから,『摩訶僧 律』,『十誦律』,『根 本説一切有部毘奈耶』はいずれも,当該の比丘を「一旦自白した内容をあとで翻 した者」として扱っていることは確かである.しかし『根本説一切有部毘奈耶』 の場合は,状況が不自然である.もし『根本説一切有部毘奈耶』が言うように, 波斯迦の証言だけで処分が決まるとするなら,苾芻本人がなにを語るかは処分 内容に影響しない.したがって「苾芻が自白を翻す」という行為に意味がなくな るのである.すなわち『根本説一切有部毘奈耶』の経分別の場合は,「自白して いない比丘でも処罰することができる」という主張と,その処理方法に覓罪相が 含まれているという点が矛盾するのである. 以上の状況をまとめてみる. 1.不定法第一条の学処は,簡略化された『五分律』を除いた5本の律蔵ですべ
て同内容.解釈の仕方によって「本人の自白がない場合は処罰することがで きない」ともとれるし,「自白していない比丘でも処罰することができる」 ともとれる. 2.その経分別部分を見ると,『根本説一切有部毘奈耶』以外の4本の律は皆, 「本人の自白がない場合は処罰することができない」という立場をとる.『根 本説一切有部毘奈耶』だけが「自白していない比丘でも処罰することができ る」と言う. 3.『摩訶僧 律』,『十誦律』,『根本説一切有部毘奈耶』は処理方法として覓罪 相を導入しており,『摩訶僧 律』,『十誦律』の場合はそのことに合理性が あるが,「自白していない比丘でも処罰することができる」と主張する『根 本説一切有部毘奈耶』に覓罪相が含まれるのは矛盾である. 5
.結論
以上のことから次のように結論づけることができる.「自白していない比丘で も処罰することができる」という主張が,最初から不定法に含まれていたと考え ることはできない.それは『根本説一切有部毘奈耶』の経分別だけが示す特殊な 見解であり,おそらくは後になって新たに導入された見解であろう.Borglandの 見解は,「根本有部律」の特殊な状況を律蔵全体に一般化しようとする風潮に 沿ったものであるが,訂正すべきであろう. 1)『四分律』T 22: 600c6. 『摩訶僧 律』T22: 290b24; Tatia1975, 12. 『十誦律』T23: 28c3; von Simson (2000, 181–182). 『根本説一切有部毘奈耶』T23: 710b23; Banerjee (1977, 23); D cha 35a4. 『五分律』は,比丘が罪を否認する場合を想定していない.この律蔵特有の簡略化 の結果かと思われる.『五分律』の不定法第一条学処は以下のとおり(T22: 22c2).「『若 し比丘,一女人と共に独り屏所可婬処に坐し,可信優婆夷,見て三法の中の一々法に於 いて説かんに,若しは波羅夷,若しは僧伽婆尸沙,若しは波 提なり.若し比丘,優婆 夷の所説の如しと言はんに,まさに三法の中,所説の法に随うて治すべきなり.是を不 定法と名く』と」. 2)『四分律』T 22: 600c20. 『摩訶僧 律』T22: 290c19. 『十誦律』T23: 28c24. 『五分律』は上 述したように,比丘が罪を否認する場合が想定されていないので判定資料にならない. 3)『摩訶僧 律』T22: 290c21. 『十誦律』T23: 28c27. 『根本説一切有部毘奈耶』T23: 710c19; D cha 36a3. 4)『四分律』T22: 915b23,『五分律』T22: 155c21,『摩訶僧 律』T22: 333b27,『十誦律』 T23: 144a6.「根本有部律」Adhikaraṇavastu, Gilgit本(Borgland 2014b, 85).『根本説一切有部百一羯磨』T24: 494a7.ただし「根本有部律」の場合,Adhikaraṇavastuのチベット訳で
の系統に属する解釈であって,後の改変の結果であることを明らかにしている.覓罪相 を扱った研究として平川1953,Frauwallner 1956, 佐藤1963, Nolot 1996, 青野2012がある.
5)写本において,羯磨作法の白と羯磨文の一部が抜けている.書写者の視線がスキップ
したことによる. 〈略号〉
Vin The Vinaya-Piṭakaṃ. Ed. Hermann Oldenberg, London: Pali Text Society, 1969–1984.
〈一次文献〉
Pruitt, William and Norman, K. R. 2001. The Pātimokkha. Oxford: Pali Text Society.
Banerjee, Anukul Chandra. 1977. Two Buddhist Vinaya Texts in Sanskrit, Prātimokṣa Sūtra and Bhikṣukarmavākya. Calcutta: World Press.
Simson, Georg von. 2000. Prātimokṣasūtra der Sarvāstivādins II. Göttingen: Vandenhoeck & Rupt-echt.
Tatia, Nathmal. 1975. Prātimokṣasūtram. Patna: K. P. Jayaswal Research Institute. 〈二次文献〉
青野道彦 2012「Vinayasūtraに示されるtatsvabhāvaiṣīyaの罰則規定―根本説一切有部律及
び同系統の律典との相違―」『佛教研究』40: 337–362.
Borgland, Jens Wilhelm. 2014a. A Study of the Adhikaraṇavastu: Legal Settlement Procedures of the Mūlasarvāstivāda Vinaya. Dissertation submitted in partial fulfilment for the degree Philosophiae Doctor (PhD). Department of Culture Studies and Oriental Languages Faculty of Humanities. Uni-versity of Oslo.
̶. 2014b. Draft Diplomatic Edition of the Mūlasarvāstivāda Adhikaraṇavastu̶A New Read-ing of the Manuscript. Submitted as an appendix to the dissertation submitted in partial fulfioment for the degree Philosopiae Doctor (PhD), Department of Culture Studies and Oriental Languages Faculty of Humanities. University of Oslo.
̶. 2016/17. Undetermined Matters: On the Use of Lay Witnesses in Buddhist Monastic Proce-dural Law. Buddhism, Law & Society 2: 21–56.
Frauwallner, Erich. 1956. The Earliest Vinaya and the Beginnings of Buddhist Literature. Roma: Is. M. E. O.
平川彰 1953 「原始佛教教團における裁判組織」『古代学』2(1): 1–19.
Horner, I. B., trans. 1938. The Book of the Discipline. vol. I. Suttavibhaṅga. Oxford: Pali Text Society. Nolot, Édith. 1996. Studies in Vinaya technical terms I–III. Journal of the Pali Text Society 22: 73–
150.
佐藤密雄1963『原始仏教教団の研究』山喜房佛書林.
〈キーワード〉 不定法,覓罪相,tatsvabhāvaiṣīya, adhikaraṇa