ポール・ヴァレリー最晩年の肖像 : ドイツ占領下 時代から国葬に至るまで
著者 安永 愛
雑誌名 翻訳の文化/文化の翻訳
巻 9
ページ 33‑58
発行年 2014‑03‑31
出版者 静岡大学人文社会科学部翻訳文化研究会
URL http://doi.org/10.14945/00007946
ポール・ ヴ ァンリー最晩年の肖像
― ドイツ占領下時代か ら国葬 に至 るまで一
はじめに
2008年 7月 、 フランスのファイヤール社 よ り浩渤 なるポール・ ゾァレリー (1871‑196)の評伝が公刊された。B5版の各頁に50行近 くが並び、頁数は
1366頁に達 している。著者 は『文学 を前にしたプァレリー』(物の 滋″″ ″
姥 ″″れPresses uniでБitalrcs de Fra,ce,1991)等の著作で知 られ、ソルボン メ大学で教鞭を執っているミシェル・ ジャルティ(Michel」 arrety 1953‑)。 こ
れ ま で プ ァ レ リー の 評 伝 は ダ ニ エ ル・ オ ス テ ー ル のMの滋 ″ ′力 厖ッ(EdltiOn de Seuit 1981)や 、 ドニ・ベル トンの3α″′物 の (Plo■ 1995)な どが知 られて いるが、ジャルティによる評伝 は、その規模 において別格であ り、規模の差は、
評伝 の解析の次元 を変 えることにつ ながってい る。
そもそも、 ソルポ ンメ大学の文学部 と言えば、 ロラン=バル トを先鋒 とする ヌ ヴェル・ ク リティ ックの論者 たちが批判 の対象 とした外在批評、評伝 的文学 研究の牙城 であった。1963年 に上梓 されたバル トの Fラシーメ論』 をきっかけ として ソルボンメ大学教授 ピカール とバル トの間に起 こった批評 をめ ぐる論争 は、バル トの標榜 する新=批評のいわ ばス プ リングボー ドとな り、作品の生 ま れた背景 よ り作品内のメカニズ ムや隠 された構造 の解析が文学研究 の主流 とな る時代 が数十年 にわたって続 いた。人生上 の 「私」 と作品の書 き手 の素オトな同 一視 を禁 じ、作 品を「作者」 とい う同一 の 自我 か ら引 き離 し、徹頭徹尾言語の 振舞 いの帰結 である と見 な して 「作者 の死Jを宣告 した新=批評の方法 は、言 語学や精神分析学 な どの人文社会諸科学 のベース とも結 びつ き、作品の分析 の 精度 を高めたが、一方 で歴史や社会 とのダイナ ミズムの中に作品が位置づいて い る点 を閑却 しがちであった ことも否めない。バル ト=ピカール論争か ら数十 年経 ち、降路 に陥った文学研究 はむ しろ集合 的記憶 や歴史 の文脈 へ と開かれ る ようにな り、外在批評 と内在批評 をバ ラシス させ る方向へ と向か うようになっ
てきたと総括できるが、途方 も無い と映る規模の評伝 を物 したジャルティは、
勿論そうした文学研究の流れを重々承知 しているだろう。
ヴァレリー自身の著作、書簡、草稿は勿論のこと、交流のあった人物の文献 に可能な限 りあた り、プァレリーの人生を、週 ごと、日ごと言ってよい細やか さで (本評伝 においては、○月○ 日○曜日という記述が頻出する)再現 し、影 しい固有名詞の鍍められたジャルティによるこの『ゾァレリー伝Jは徹底 した 評伝であるとともに、さながらフランスフランス第二共和制の文化史的アルシー
プの観を呈 している。
本評伝については現在、共訳 プロジェク トが進行中であ り、筆者は編年体の この評伝の最後にあたる ドイツ占領下の1942年からパ リ解放の約一年後の1945 年のプァレリー死去までを描いた箇所 (第53章から第57章)を担当している。
評伝は文学理解にあたっては副次的なものでしかないとの観念からは逃れ難い が、圧倒的なl」l密さで描出されるプァレリーの生からは、人生もまた歴史や運 命の偶然により織 り成された一つの作品であ り、その「作品」の意味を考える ことも、文学固有の価値を考えることとそれほど隔たったものではないのでは ないかと考えさせ られる。
本稿においては、 ミシェル・ ジャルティによる1942年から死にいたるまでの ヴァレリーの人生の描写を踏 まえ、人生 という「作品」の姿が凝縮 した形で現 れる彼の最晩年 (1942年から1945年にかけて)について、 プァレリーが追い求 めていた価値がいかなるものであったかを常に念頭に置きつつ、またジャルティ が執筆の際に大切にしていた、人柄を映 し出す素朴な細部や逸話に目を配 りつ つ論 じてい くこととしたい。
1.ドイツ占領下フランスの知識人 として
1917年、長い沈黙の後、46歳にして詩集『若 きパルク』 を発表 し、その成功 により瞬 く間に文壇の寵児 となり、以後、第二共和制下の欽定詩人のごとき役 割をあてがわれることになったヴァレリーは、多少のアイロニーを交えつつも 従容 としてそれを引き受ける。1917年を境 としてヴァンリーは一介の無名サラ リーマンから代表的知識人に転身 したわけだが1、 ヴァレリーが一種の公人 と
1「若きパルクJの作品の価値をす ぐさま認め、無名だった著者に最大級の数意 と期待を寄せたフラ ンス第二共和制の文壇およびそれを取 り巻 く一種の社交界の性格を考察することは興味深い課題 であるが、他稿を期 したい。
して振舞 うことを期待 されていた ことを前提 に考 えなけれ ばヽ彼 の後半生 の意 味 を十分 に考 える ことはで きない。本 稿が対象 とす る ドイ ツ占領下時代 か ら死 去 にいたる時期 において、 プァレ リーは自らの言動 が一個人 を超 えた意味合 い を付与 され る ことを常 に意識 していた。
まず本節 では、
ドイ ツ占領下 におけるヴァレ リーの選択 (政治的であること を免れない)を分析 してい こう。
ドイツ占領下 に入 ることによって、 フランス の占領地 区の暮 らしは不如意 に8fHる が、 出版活動や紙 の配給 がナテス・ ドイツ の監督下 に置かれ ることにな り、フランスの作家 たちは困難 な選択 を迫 られる。
レジスタンスか対独協力か、 あるいは沈黙か。 しばしば掲 げ られる三つの選択 肢 だが、実際 には こうしたカテゴ リーにはま りきらない ものもあ り、例 えばレ
ジスタンスを掲 げなが ら、資金援助 を受 けるために対独協力 をする、 といった 現象 も見 られた。 ヴァンリーは ドイツ占領下時代 に 「沈黙 した」 と評 され るこ とが多いが、 その ように割 り切れ るものでない ことをジ ャルティは明 らかに し ている。
この困難 な時代 の中でのプァレ リーの政治的 なスタンス を最 も如実 に示 した のが、F新フランス評論JZクNttυ′/Ja″υ″ιノ%π おθ(NRF)をめ ぐる一件 であ る。「新 フランス評論』 は1908年にパ リの若い文学者 たちによって発刊 された文 芸雑誌 である。 当初 は同人雑誌 であった もの も、 ガ リマール社 の刊行 とな り、
フランスの文学活動 の前線 を形成 していった。 このフランス を代表 す る革新性 をも帯 びた良心的文学雑誌 も、ついにナチス・ ドイツの統制下 に置かれ ること になる。文学雑誌 の刊行 を存続 させ ることは、 いわばフランス にお ける全 うな 文学活動 が存続 していることの証 に等 しい と考 えられたのだが、雑誌刊行 を存 続 させ るために必要 な財政的基盤 を支 えるためには ドイ ツの認可が必要である
とい う困難 があったのである。
ヴァレリー111942年、 この雑誌 の編集委員就任 を打診 され る。 しか し、 ヴァ ンリーは委員就任 を受諾す るが、対独協力者である ドリュ・ ラ 。ロシェル2の編 集長留任 には激 し く反対 を貫いた。 ヴァンリーはジ ッ ドに以下の通 り書 き送 っ てい る。
NRFにつ いて はクロー デルの意見 に賛成 だ。一緒 に うま くや ろう。我 ら
2 Dieu La RochclL(1893‑1945)フランスの作家。 ファシズムを資本主意 と共産主義 に抗するも の として評価 し、 ドイツ占領下時代 には対独協力者 となる。
揃って。さもなければ自紙撤回だ。「我 ら」というのは、君 と僕、クローデル、
モー リアック、それからファルグのような人。何が しそれから最後に、有能 な人たち。他のメンバーを入れたら台無 しになると口を酸っぱくして説明し ておきました。。
つまリヴァレリーは表立って文章の形で「抵抗」はしなかったのだが、自ら が名を違ねる雑誌の編集委員から対独協力者 を排除することによって、レジス タンスを行つていたのである。ジャン・ ポーランはジャン・ グーノに宛てた書 簡の中で「プァンリーはそれについては完璧だ。 ドリュ、ジュアンド、モンテ ルランの拒否にも、何かをする決定にも妥協がない。期待以上だ4。」 と述べて いる。
ドイツ占領下時代にヴァンリーは「沈黙 した」 とされるが、そもそもヴァレ リーはナチス・ ドイツ当局 (ナチス宣伝部隊)から用紙配給を拒絶されている。
ナテスの愧儡政権のヴィシー内閣のペタン首相が1942年 4月 の勅令により用紙 配給の割当の対象外 とする作品を選出する役 目を担 う「出版検閲局」を設置 し、
ナチス宣伝部隊の「プロパガンダ・スタッフェル」力浩J当外作品の リス トを承 認 した り変更 した りすることになり、ヴァレリーの「邪念』 も用紙割当外作品 とされたのである。。ヴァレリーには『カイエ』 という公表 を前提 としない私 的な「作品」の場があったとは言え、著作 を公けに問えない という状況がいか に理不尽 に感 じられたか、想像するに余 りある。書き物による「抵抗」ではな く、自らの雑誌の同人から政治的方向性 を違える者を―徹に排斥する、 という 形での「抵抗」をヴァレリーは選んだのである。
書物での発表がままならない中で、プァレリーは各地に招かれ弁舌を振 るう。
七十歳を前にしたプァンリーは暗い時勢の中、知性の光を求めて足を運んだで あろう聴衆を前に、文学的回想を語る。 この一連の講演会についてヴァレリー は友人マルグリット・ フルニエに宛てた手紙の中で「この一連の「リサィタル」
は、 どこでも好評でした。打ち明けて言えば、世の惨状、フランスの断絶はむ しろ私の名声には有利に働いたのです。。」 と打ち明けている。
8192年4月28日付 け書簡。の
"響″″あたOC滋 ´″ひCallhard,1955,p527
4ポ̲ランか らゲーノに宛 てた1942年 4月 6日 付 けの書簡。 ② ο″″ ″ほ鍵,■2 GaLnard,1992, 5 MichelJare,ルp273 ′%″ひFayard,2008,p l131
6マルグ リッ ト・ フルニエに宛 てた1942年 5月16日付 けの書簡。ιι計鍵a π
̀″ι Ed,Marcelle Chirac,Fondaton de Loumarln,1988,p46
ヴァレ リーは優 れた書 き手であっただけで はな く、講演 の名手であ り、座談 において人 を魅 了す る存在 であった ことが伝 え られているが、お そらくは こう した講演 の成功体験 も与 り、 プァンリーはいささか無防備 にヴィシー・ ラジオ ヘの出演 を引 き受 けたのだ と思われる。ナチス宣伝部隊の監督下にあったこの ラジオ局 の番組 にヴァレリーはたびたび出演す るが、必ず しも本格 的な文学的 談話 を電波 に乗せ るわ けにもいかず、 その うちヴァレ リーは面倒 に感 じ始めラ ジオ出演 をやめた。 しか し、 その後 もヴィシー・ ラジオは無断でゾァンリーの 詩 の朗読 を三回 にわ たって放映 した とい う7。 出版 は差 し止 めるが、同 じ著者 の作品 といえ ども詩の朗読 は許可す る、 とい うヴィシー愧儡政権の選択は奇妙 に映 るが8、 こぅした ことのために ドイ ツ占領下時代 にお けるツァレリーのさ さやかな「抵抗」IS見落 とされ「沈黙」した作家 とい う像 が定着す ることになっ たのか も知 れない。
資料博捜の上 に書かれたジャルティによるヴァレリー評伝 か らは、プァレリー が占領下 において「沈黙 した」作家ではな く、「抵抗Jした作家であった ことが 浮か び上が って くる。 ヴァンリーは1942年、愛書家協会 の会長 であるル ディネ ス コよ リベルギ リウス 『牧歌Jの翻訳依頼 を受 けるが、黄色 の星 を身 につ ける ことを拒み、断固 としてアンチ・ ペタン政 権の姿勢 を持する (妻のジェニー・
ヴァイス、 そ して レジスタンスに加わ った妹 のルイーズ と同様)このユダヤ人 医師 との出会 い と会話 は、 ヴァンリー をヴィシー攻 権か ら一層遠 ざける役割 を 果 た した と、 ジ ャルティはルディネス コの書簡9を引 きつつ指摘 している。実 際 ヴ ァレ リーは、当時の出版人 か らレジスタンス陣営 である と見 なされていた のであ り、戦争末期 に ミニュイ出版社勤務の若 き詩人のルイ・パロは、プァレ
リーの態度 が確固 としたものであることに触 れ、次 の ように述べている。
ポール・ ヴァレ リーは、独仏 のマニ ュフェス トに参加 し、独仏の雑誌 に寄 稿 す るよう幾度 とな く頼 まれたが、 この著名作家 は1940年 6月 以降、いかな る素振 りも期待せ しめぬ如 き態度 を取 った。(中略)ヴァンリーはレジスタン スの葛藤の成 り行 きとその仕事 を熱心 に追 っていたЮ。
'1943年2月12日にはイブォンヌ・ デュコとロジェ グラール によ り、同年 4月 2日 にはマ リー・
マルタによ り、ついで1944年2月25日に詩 は朗読 された。
8ナテス宣伝局がなぜ その ような選択 をしたのかについて考 えることは、文学の政治性 について考 えることで もあ り重要 な課題 であるが、 この点 については稿 を改めたい。
9エリザベー ト・ ルディネスコの個人的証言。1941年5月 の未公刊書簡.
10 Louis ParrOt,ι
̀"″″を" α β ″ら19 ,BIbuOthoque Jacques Doucet VRY MS 83
ヴ ァレ リーは自我 とい うものを、存在論 的後退、事 実 を前 に一歩退 く能力、
拒絶す る力であるとみな していた。遠 目にはヴァン リーの抵抗 は見 えに くいも のであるが、彼 は ドイツ占領下時代 を拒絶 の相の下 に生 きた といえるのではな いだろ うか。
2ドイツ占領下 も続 く社交 の日々
ドイツ占領下の重苦 しく不如意 な時代 の中にあって、 ヴァレリーは旺盛 に社 交 を重ねてい る。 ジャルティの評伝 には、会食、パーティー、晩餐会、劇場や 音楽会 に赴 くヴァレリーの姿 が多々書 き込 まれてい る。 その頻繁 さは、書 き手 として思索家 として必要 な集 中力や孤独 の時間 を損 な うもので はないか との疑 念 を呼ぶ ほ どである。 ヴァレリーの交友範囲 は広 きに及ぶ。 ブァンリーはフラ ンス第二共和制の一種 の文化使節 として国内外 を盛 んに講演 し、各地 に知 己を 得てお り、 アカデ ミー・ フランセーズ会員 として、 またヨーロ ッパ知的協力委 員会 の一員 として、地中海大学セ ンター長 として仕事 に取 り組 む中で繋がった 縁 も多い。おのず と文学 の枠組み を超 えた様 々な分野 にヴ ァレ リーの知 己は見 出され る。
ヴァレリーはあ またの友情 を紡 いでい くが、一種 の公人 となった彼 の後半生 において独特 に感 じられ るのは、 自宅 を宿 として提供 した り、バカンスを過 ご してもらうべ く,U荘 に招 くといったメセナ的な存在 が見 られることである。ヴァ レリーを詩人・知識人 として尊敬 しつつ、物心両面で援助 しようとす る存在が 見 られ るのであ る。毎夏 「ポ リネジーJの別荘 をヴ ァレ リー に提供 したポ リ ニ ャック公爵夫人 は、 その代表例 であるといえよう。 ドイツ占領下の厳 しい時 代 にあって も、 ヴァレリーは幸やかさに包 まれてい る。
以下 に、 ジ ャル ティに よる二晩のパ ーティーの描 写 を挙 げてみ よ う。パー ティーに虚 しさを憶 えるプァレリーの胸 中が明かされ る件 であるが、幻滅 も含 めて ドイツ占領下でのパーティーの幸や ぎが感 じ取 られるであろう。ヴァンリー は最晩年 の愛人であるジャン・ ヴォフ リエ ことジ ャンメ・ ロツィ トン・ の 自邸 での年越 しパーティーに招 かれている。
H1903‑1996出版社経営者、弁護士。ツァレリーのコレージュ・ ド・ フランスでの講義 を聴講 した ことが きっかけとな り、1937年以降 ツァレリーと親密 な関係 にあった。 ゾァレリーの晩年の未 刊作品『わがファウス トJに登場する秘書ルス トのモデルである。ブァレリーはフォフ リエに『ナ ルシス交声 山Jや二冊の詩集 『コロナJ『コロニラJを捧 げている。二人 の間ヽ 千通 を越 える手 紙のや りとりがなされてい る。
大晦 日の年越 しはアソンプシ ョン街2で
過 ごし、ジャニーが付 き添 った。し か し、楽 しくはないタベだった。豪幸なビュッフェの夜会 に、ジャン・ ヴォ フ リエ は多 くの客 を招いてお り、中にはレオン=ポール・ ファル グ、 フラン シス・ プーランク、そして若 きクロー ド・ モー リヤ ックがお り、やがて居間 の隅 にいたクロー ドのそばにブァレリーが座 る。クロー ドはピアフのレコー ドとシャンパ ンで上機嫌 になってお り、 ビアフの歌 は最 も高貴 な芸術 に達 し ているのだ とい うことを、隣に座 った有名人 に納得 してもらお うと、友人 と ともに画策す る。「「終 わ りは どうなるかわか らない」 と「私の心が選んだの は彼Jは極上の詩情 に導いて くれ ます。Jとクロー ドはプァレリーに言 う。し か し、疲れたその偉人はいぶか しげにうなずいただけだった。クロー ド・モー リヤ ックは 「悲 しい気持 ちで私 はヴ ァレ リーを じっ と見 る。眩い顔 の中で、
狼狽 したような小 さな目が瞬いてい る。」 と記 している。それか ら他の招待客 たちが加わ り、 クロー ドが記すには、一瞬 「ヴァンリーが取 り乱 した哀れな 日で私 を眺めて きたので、 にわかに自分 の言 ったことが恥ずか しくなった。J
ヴァレ リーはついに 「や は り『ベ ンニス』のほうがいい。」 とクロー ドに言 い、最高齢の招待客 たちの多 くと共 に十時頃帰っていった。 しか し、年配の 招待客 が帰 る頃、若 く美 しい客 たちがや って きた。老人 にあのうろたえた眼 差 しを与 えたのは、 まさにこの若 さなのだった。ゾァレリーを傷つけたのは、
それ も最 も深 く傷 つ けたのは、 アソンプシ ョン街 に流通 している諸価値がも はや 自分 には無縁 なものになってい ることがわか って しまったことであ り、
帰宅す るとヴァレリーは『カイェ』 にパーティーが彼 に残 したものについて
「つ まらない喧騒 とい う印象Jと書 き付 ける。「皆、魂が欠 けていて、集 ま り の ごた まぜ か ら くる 「楽 しさ」 は卑 しい素材 をしか燃やさない。 ほとん ど価 値 がないB。
分野 を違 える者、世代 を違 える者が集 い出会いを楽 しむ。]1染みの人物 と連 なる初対面の人物 との思いがけない会話。上記の引用においてゾァレリーはパー ティーでの失望 を語 ってい るが、 それはもともとパーティーの場への期待 あっ て こその ものであると思われ る。 ブァンリーは基本的に会話を楽 しむ人間だっ たのであ り、上記 の引用 に現われてい るのは、それを楽 しめな くなったヴァレ リーの老いの痛烈 な自党 である。 ヴァレリーは年老 い、体力が衰 えてい く中で
2ジャン・ ツォフリエ自邸の住所。
9′,効,Michel Jarreリ カ ′レレ″′,pp l139‑1140
も、社交 の場へ出てい くことを控 え ようとは しない。生活 の一部 となって長年 続いて きた社交 を、一度 のパーテイーで幻滅 した程度 で断 ち切 ることはない。
ブァレリーの疲労 を気遣い、あまり外出 してほ しくない と思 った妻 のジャニー は、1943年2月21日、 ヴアレ リーが コンア邸での レセ プシ ョンのためジャン・
シャステルのもとに行 こうとするのに立腹す る。 しか し、 ヴァレ リーは 2日 後 の23日火曜 日には、夕食 のためモン ドールに再 び会 ってい る。 その ようなプァ
レリーを評 してジャル ティは 「会話 の楽 しみ を剥奪 され ることを承知 しない均 と書 き付 けてい る。
社交での会話 とは どのようなものだろ うか。一つの例 として、モー リヤ ック 宅での昼食会 の描写 を掲 げよう。
ヴ ァレリーはまさにモー リヤ ック宅で26日に昼食 を取 った。招待 されたの は、ただ、思いがけな く子牛の九焼 きが届いたか ら、 とい う理 由か らである。
とい うのもこの食糧難 の時代 には、 そうした ことが友情 をも司っていたか ら である。 この 日、モー リヤ ックがエマウスの弟子たちの福音書 を読み (その ことをブァレリーはR″″もに書 くのだが)パン とフイ ンが地 中海 を定義づ け ていることに非常 に驚いた様子 を見せ た。友人 たちの前で ヴァンリーはそこ か らささやかな理論 をう│き出す。 その理論 によれば、中国 もアメ リカ も聖 な る秘蹟 の素材 を与えることはで きないだろうし、 ビールの国である ドイツも 教会 か ら切 り離 された とい うわ けである。さらに驚いた ことにプァレ リーは、
キ リス ト教 の最 も道理 にかなった教理 は身体 の復活 である とい う。 その後、
モー リヤ ックがマ ラガールの葡萄畑 か ら得 たものであるフイ ンの瓶 を抱 えて 帰途に着いた15。
友人 たち との食卓 を囲み なが ら会話 を交わす愉悦 が伝わって くる。食卓での 会話 は思 いがけない発想が湧 く機会 ともなる。妻 の制上 を振 り切 って、体調が 十分でな くとも会食 の場 に赴 こうとす るプァレリーは、 そうした会食 の妙味 を 知 っていたのではないだろうか。
ナチスの支配下 にあって出版 に不如意が生 じた分、 それを埋 め合 わせ るかの ように占領下 のパ リでヴァレリーは演劇や音楽 との接触 を密 に してい る。演劇
14 fみiと,p l141 晰 ル2,p l146
の演 目に親 しむのみな らず、俳優や劇作家 たちとの縁 も深 めてい く。1942年11 月11日にフランセに『フェー ドル』を観 に行 ったか と思 うと同年12月 6日には、
ミコディン劇場 にてエ ドゥアール・ プルデの新作 『父』の初 日に足 を運 び、拍 手喝采 した。 また、 自らの作品である『 ナルシス交声 曲』の舞台化 を申 し出た 若 き演 出家 には稽古 の場 に行 くと約束 し実行 する。
また、ガ リマール社 の作家たちの集 う一種 の日実 としてガ リマール社社長 の ガス トン・ ガ リマールの意向でプライベー トな形 で開催 され始 めた「プレイヤー ドのコンサー ト」 は、回 を重ねて一般公開 され、サル・ ガポーやシ ャンゼ リゼ 劇場 といった堂 々たるホール にて開催 され るようにな り、 ブァレ リーは足繁 く 通 う。オー ソ ドックスな演 日に混 じり、新進 の作 曲家であったォ リブィエ・ メ
シアンの初演 も行われ た。 ブァレリーは、 このコンサー トで青年だったピエー ル・ プー レーズ とも顔 を合 わせ ている。
ヴァレリーは占領軍 が組織 す る文化的催 しを避 けていたが、
ドイ ツ文化や ド イツ人 その もの を避 けていたゎけではな く、作品 に興味があれば門戸 を閉 ざす ことはなかった。 この時期 ヴァレリーは1932年に自ら書いた『ゲーテを讃 えて』
の翻訳 を願 っていた。
ヴァレリーは戦前か ら知 り合 いだった人 々に対 しては、 レジスタンスの闘士 であろ うが対独協力者 であろ うが交流 を保 ち続 ける。例 えば、アカデ ミー・ フ ランセーズの同僚 であるグラン ト枢機卿 は、 ブィシー政権 に好意的 な態度 を示 していたが、プァレ リーは変わ りな く友人であ りつづ けた。グラン ト枢機卿 は、
時折 アカデ ミー・ フランセーズで、「帽子 に隠 して持って きたマン産の高価 なバ ターの塊6Jを
ヴァレ リーに渡 した りした とい う。職務上 で ブィシーや ドイ ッ 人 と時 に少々過剰 なほ ど相 当に緊密 な関係 のある人物 たちとも会 い続 けた。ジャ ル ティはその よ うな人物 の例 として、 コメディー・フランセーズを運営 し、 コ ルネイユの記念祭 にブラジ ャックをコメディー=フランセーズ に招 いてモー リ ヤ ックにシ ョックを与 えたジャン=ルイ・ ヴォ ドフイエ、オペ ラ座 のパ レエ団 を率いた リファール、
ドイ ツ占領軍お よびペタ ン映 権 との親密 な関係 を保つ こ とで個人的便宜 を図 って もらっていたサシャ・ ギ トリを挙 げている′。
ヴァレリーの文業 は遠 く南米 にも伝 わ り、 アルゼ ンチ ンのヴィク トリア・ オ カ ンポはヴ ァレ リーに敬愛 の念 を寄せ、
ドイ ッ占領下での物資 の不足 を案 じ、
'r lbid",p.77'z.
1? 1bid, p.lt53.
ブァレリーに、煙草や靴や食料 を送 った。
このように、 占領下時代のヴァレリーは、多分 に社交生活 に支え られていた のである。
3.ポス トヘの思い一 馳 中海大学センター到 「コ レージ ュ・ ド・ フランス教授」
占領下 も続いた華やか といって よいヴァンリーの社交生活 は、彼 の公的立場 の威光 も伴 って こそのことであった。F若きパルクJで成功 を収めた詩人 は、1925 年 にアカデ ミー・ フランセーズ会員 とな り、1932年にはニースの地中海大学セ ンター所長 に、1937年 にはコレージュ・ ド・ フランスの詩学講座 の教授 に就任 している。 その他 にも、国際連盟の下部組織 である国際知 的協力委員会 の議長 も務 めている。 ブィシー政権下 にあって、 プアレリーは地 中海大学セ ンター長 の職 を解 かれ、 またコンージュ・ ド・ フランス教授 の定年 も間近 に控 えていた。
公職 の中でもこの二つの役職 は、 プァレリーにとってかけがえのない拠 り所 と なるものであった と見 られ る。 プァレリーはニースの地 中海大学セ ンター長ヘ の再任 のチ ャンス をも どか しい思 いで何 っていたの は事実 であ る し、 コレー ジュ・ ド・ フランス教授 の定年 が戦時加算のために引 き伸 ばされたと知 ったヴァ レリーは喜 びを隠 していない。
プァレ リーが望みのポス トを得 るために、人事 を握 る人物 の書物 に序文 を寄 せ たので はないか といった憶測 も流れているが、 その真偽 は ともか くとして、
地 中海大学セ ンター長お よびコンージュ・ ド・ フランス教授 のポス トが占領期 において、政治的 な力学 に操 られていた ことは否 めない。事実 ヴァンリーはペ タン元帥 よ り、ポス トに絡 め、政治的スタ ンスを試す質問 を投 げかけられてい るのである。その際の応答 には、ヴァレリーの身の処 し方が如実 に表れている。
二人のや り取 りに関す るジャルティの記述 を以下に引用 しよう。
ペタンの最初 の質問は、政府 に対する思いに関するものであった。プァレリー は、特 に思 うところはない と答 えるにとどめた。第二の質問 は「ニースの地 中海大学セ ンターにおいてはナチスのために雇 っている要員 と緊密 な協力関 係 を築 く必要があるだろ う。ナテスの知 り合 いがいるか?」 とい うことであっ た。「知 り合いはお りません。」 とヴァレリーは返答 した。「あ りのままの彼等 を、 どうして私 が選ぶ とい うので しようか?18」
tt lbid, pp.1728 - 1129-
恵 まれた気候 と、地理的条件 によ り豊 かな文明が発達 し、 ヨーロ ッパの基礎 を形作 った地中海 とその沿岸地方 を格別 なもの として位置づけていたヴァレリー に とって、地 中海文化 の解 明 を任務 とす る地 中海大学セ ンターの長 を務 めるこ とは、国家の枠組み を超 えた文 明史的 な大 きな意義 を持つ もの と映 っていた。
しか し、ナチズムの力学 に巻 き込 まれつつ任務 を全 うす る とい うの は、不条理 であ り、冒涜的な ことであると思われたに違い ない。ペタンを前 にヴァレ リー は譲歩す ることはなかった。
コレージュ・ ド・ フランスの詩学教授 ポス トについて言 うならば、ブァレリー 自身 が「詩学」Po16Jqucと い う講座名 を創始 したのであ り、そのタイ トルのも とで、文学 を制作学 の一環 として、 さらには文 明・社会 の機能 の一環 として捉 える意欲的 な試みが続行 されて きた。 コンージュ・ ド・ フランス教授 は当代 の 第一線 の学者 が担 い、最上 の成果 が講義 に反 映 され るもの とされ、聴衆 の熱気 は並 々ならぬ ものがあった。大階段教室で行 われる講義 は、 フランスの教養人 士のスペクタクル と言 って よかった。 その熱気 を受 けなが らプアレ リーは自ら の制作学 をめ ぐる理論 を鋳直 していったのである。定年 を前 にゾァレリーは音 楽家のナディア・ プー ランジェに「何週間か後 には、私 はもうコ ンージュ・ ド・
フランス教授ではな くなるで しょう。年 ですか ら。お先 は真 っ暗ですЮ。」 と認 め、 コンージュ・ ド・ フランスでの最終講義では、少 しとぼけた調子で次 のよ うに述懐 してみせ ている。雑誌 『ガゼ ッ ト・ ド・ ローザ ンヌ』 に掲載 された記 事か ら引用 しよう。
年 を取 りましたので、五年前 に着座 したコ レージュ・ ド・ フランス教授の 椅 子か ら降 りな くて はな りませ ん。着任 当時 は、 こんなポス トに私 が、 と驚 きもしましたし、若い長友ジョゼフ・ベディェ とアレクサン ドル・ モン 〈二 人 とも一九一八年に死去 している)の計 らいに導かれ、老いばれ詩人が新米 教授になって話をした り、そんな自分の声を聴 くのに怖気づいた りしたもの です20。
"ナディア・ アーランジェ宛て1942年4月27日付 けの未公千」書簡。フランス国立図書館、音楽部門、
マイクロフイルム VM BOB 21218
η この最終講義「私の「詩学」」あるいはお らくはその レジュメが、1942年8月26日にrガゼ ッ ト・
ド・ tl―ザ ンヌJに掲 載 さ れ る こ と に な る。(Cl,Paul val̀ry・0%υtt z Gaulmarこ 1960, p1607)
ドイ ツ占領下 とい う閉塞感 と忍 び寄 る自らの老 いに苦 しめ られなが らもヴァ レ リーは、地中海セ ンター所長 とコンージュ・ ド・ フランス教授 という二つの ポス トに、残 された自らの生 を生かす可能性 を見据え続 けるのである。
4.内燃する生命、老 いとの間い
ドイ ツ占領下時代の1941年 にブァレリーは古希 を迎 える。思考力 に衰 えは見 られなかったが、体 の衰 えは留めようがなかった。1942年頃か らヴァンリーは、
不安のめまいによ リベ ッ ドの足元で、 そ して次 には廊下で倒れ、廊下で足 を引 きず り、 また倒 れ、入 り回のマ ッ トに根 が生 えたように居座 って しまう、 とい うような ことが起 きるようになる21。 ヴ ァレ リーは自らの老 いについて、30歳 近 く年下の愛人 ヴォフ リエに宛てた書簡の中で、以下のよ うに書いている。
私 の朝 は以前 とは異 な り、明敏 と豊 穣によ り時に殆 ど痛 ましくさえあったあ の水品のような朝ではあ りませ ん。 日ごとの 日没は、すなわち己れの転落で す。何 か硬質 で不動 の もの とい う耐 え難 い印象が しば しば頭 に浮かびます。
それに私 はかつてないほ どに仕事 しな くてはならないのです2。
また、 自らの私 的かつ精神 的な手記 である『カイエ』 にはこう記 している。
私 は脂 の塗 られた頂 にいるように感 じ、眠 りと夢 の中でそのたびごとに滑 りこけてい る。 それは、密 かな落下である。息切れのす る仕事 だ。三歩歩い て疲れて立 ち止 ま り、ベ ンチに倒 れ こむ人のように。 それが私の精神だ2。
私 は崩壊 し、荒廃 して しまった。 もはや虚無の重み しかない折れた丈高い 茎のイメージである24。
これが、華やかな社交 の場 に頻繁 に足を運んでいたヴァレリーの偽 らざる老 いの姿であった。老いによる喪失 を埋め合わせ るかの如 くに、ヴァレリーのプォ フ リエ に対 す る思いは烈 しさを増 してい く。死の影 がどこかで意識 されるから
aの ε″′mchd Jare,P″′%″ッp l135
22192年11月
3日 付 けのジャン・ ヴォフ リエ宛て未公TI書簡。セー ト美術館所蔵。
おPaui V証
̀り
α″ら CNRs C― ,1957‑1961,p705 2 あjこ,p714
であろ う、 プァン リーは自らの人生が到達す るべ き絶対 的な愛 とい う観念 を紡 ぎ続 ける。遺族 による長年 の禁 を解 かれて公開 され ることになったヴォフリエ 宛てのブァレリーの書簡 には、狂 お しい言葉 が書 き連ね られている。遠 ざか り 始 めたヴォフ リエ に対 し、二人の蜜月 を思 い起 こさん としてヴァレリーは必死 である。
43年 9月 6日 、 7日、 8日 の ことがわた しの手帳 に書いてあ ります。 それ は自分 の人生の中で平穏 な時で した。それは、生成する存在 の美 と簡素さと 優 しさ と陽気 さ とが交 じ り合 うポエジーを生 きるとい うことで した。 ここに あるものは、 まれ に しかそれ 自身 であることがな く、 それ 自身、 それ 自身以 外 の何 もので もない ものであることが難 しい。彼 はあなたの ことを覚 えてい るのですか?空のあの夜 を、透 き通 ったエメ ラル ドを ?自 由 と確信 と二人 の 信仰 の中でのかの歩み。 カ ソプソの洞窟25は ?そ して眠 りの前 のい とも貴重 な議論 は…?20
老いたる大詩人の恋文 に密かに冷笑 を浴 びせ かけ、 ヴォフ リエは冷静 なる計 算 に沿 い、出版 社社長 の ドノエル を自らのパー トナー とすべ く、事 を運 んでい く。 ヴォフ リエ はプァレリーの来訪 を拒 まない まま、
ドノエル との逢瀬 を重ね る。時 には、 ア ソンプシ ョン街 のジャンメの自宅 を訪れたゾァレリーが帰 るの を、
ドノエルが隣の部屋 にて無言で待 ってい る、 な どといった茶番 が出来す る ようになる。
ヴォフ リエ は、1945年 の復活祭 の 日曜 日に、
ドノエル との結婚 をヴァレリー に告 げる。 しか し、 それで ヴァレ リー と縁 を切 るとい うのではない。むしろ ド ノエル との結婚 を選 び出版 の仕事 を肩代わ りして もらうことで、以前 にも増 し て黙許の時間 をヴ ァレ リー と分 かち合い、特別 な友情 とい う未来 をつむ ぐのだ とヴォフ リエ は明 るい表情 で語 ったのである。 ヴォフ リエ は果 た して誠実なの か?ヴァレ リーは、突如 として彼女 にか らかわ られている との感情 に襲 われる。
考 いた身 にヴォフ リエ の婚約宣言 はあ ま りに過酷 だった。記憶 が飛ぶ ほ どの シ ョックを受 けたゾァレリーは、数 日後ヴォフリエに宛て以下の通 り手紙を認める。
25思い出のつ まったベデュエの階段 の待避所へのエロチ ックな暗示.ツァレツーはヴォフリエを「カ リプソJのあだ名で呼ぶ ことがあった (ジャル ティの注記 による)。 9ュ θ″Jarrc●.&"ン7り
p l150
26ジャン・ ヴォフ リエ宛ての 日付 けのない手紙 (1943年‑19 年初頭)、 セー ト美術館所蔵。
私 は君の うちに偉大 なる女性 を見 ていた。完璧 な女性 を。― ルネサ ンス期 に 存在 した ような創造主 としての女性、高尚なる恋人、豊かで 自由で、 あ らゆ る行動 の価値 と快楽 とを可能 にす る者。/少な くともこの非常 に麗 しい理想 を愛 しなさい。 この ような理想 を抱 いた者 が もはや存在せ ず、ある祝福 され た時代 に、呪われた存在 の前で、君 に とってそうであったような存在ではも うあ りえな くなった とす るならば。/でも私 は今や、君 自身 か ら発 し、私 を お そろ しく眩惑 した固有の光0ことを思わ ざるを得 ない。君 は欲望 の全 き凡 庸 さ、計画 の俗悪、や り回の不実 に囚われて しまっている27。
ヴォフ リエ とい う女性 に見 た夢、 ほ とん ど女神 の域 にまで高め られた美 しい 幻影、 そ してそれ を打 ち砕 かれたヴァレリーの悲哀 が刻 まれた書簡である。や るせ ない心 の うちを、 ヴ ァレリーはヴォフ リエ にぶつ けないで はい られない。
ドノエル との結婚への手筈 を粛 々 と進 めていたヴォフ リエは、一体 どの ような 思いでヴ ァレリーか らの手紙 を読んでいたのだろ うか。
生 き生 きとした過去が無 ければ、私 は未来 を想像 してみ ようとい う気 には らないで しょう。/未来 のイメージがなければ、過去 はそ こそこ耐 え うるも の となるで しょう。で も私 は、檻 に入れ られ鉄格子 に囲われた獣 の如 くうろ うろ としますが、出回はないのです28。
過去のイメージ と未来 のイメージに領 されて、現在 とい う時 を失 っているか の ごときゾァレリー。 ヴォフ リエの結婚決意 の報告 を「斧の一撃」 として受 け とめたヴァレリーは、 自らの存在基盤が揺 ら ぐように感 じる。 プォフ リエの翻 意 を前 に、 フランス第二共和制 を代表 す る文人 としての栄誉 は、傲慢 の罪 に転 化 し、ヴァレリーの落胆 を激 しいものにするもので しかな くなってしまう。ヴァ
レリーは次 のようにプォフ リエ宛ての書簡 に記 している。
何 を贖 え とい うのだろ う?おそら く何年 も詩人 としての権 力 と感受性、感 性 で高揚 し、不条理 の頂点へ と全力で駆 け上 った とい う罪 であ り、優 しさの モニュメ ン トが突然塊 となって、私 の人生 に落下 して きたのです。/ああ、
「ジャン・ フォフリエ関連文書」、オーステイン大勃所蔵、fl■
「ジャン・ ツォフリエ関連文書J、 オ‐スティン大学所蔵、 f46。
お願いだから助けてお くれ。私は喪失感を覚えている…"
つれない年下の女性に対 しプァレリーは、自らの立場や社会的地位など意味 を持たないかのように、無防備に弱さをさらけ出している。ヴォフリエ との交 歓は、プァレリー自身の抱いていた愛のイデアと結びつき、彼の文学的テーマ と結びつ きさえしていただけに、プォフリエの冷たさを前に、なりふ り構って いられなかったのではないだろうか。やがてプァレリーは文学史の中にブォフ
リエヘの愛の範型を見出し、プォフリエに次の如 く書き送 る。
打ち明けて言えば聖テレーズと十字架の聖ヨハネの結合 (神秘主義の意味 でのレベルにおいて)は深い ところで結び付いているものの一つであり、私 には相変わらず人生のシステムの本当の頂点―ゲーテ流などの栄光 よりもは るか高い一のひとつだと思われますm。
社会的な栄達を果たして後の、 この痛 ましい愛情の喪失感は、結局未完のも のとして遺されることになる「我がファウス ト』執筆に影 を落 とす。ファウス トが愛を貫 き、意識の透明な絶望へ と至 り、愛されない というもう一つの絶望 にリュス トを落 としいれ省みぬことになる場面 とするか、同一なるものと他な るものとが調和 し、現実的なものや人間的なものの彼方の一種の崇高な超越に 至るシーンとするか。ヴァンリーは己の傷心を抱えつつ、戯山の方向を探って い く。
七十歳を超えたヴァレリーは、このようにエロス的葛藤に翻弄されるが、ヴォ フリエヘの思いはゾァレリーの生命を痛ましさを伴って高揚させ、残されたヴァ ンリーの生命力を内側から食い破 るものでもあった。ヴァレリーにここまでの 痛手 を与えたヴォフリエについて、ジャルティはこの上な く手厳 しい調子で、
その悪女ぶ りを暴いてみせている。
ところでヴァレリーが遡って この運命的な日曜日 (ドノエル との結婚の決 意を告げた日)のことを思 う際、それ以後驚かされたのは、ジャンヌを導い た冷静かつ計算された戦略の見事な手綱さばきである。彼女は作家のキャリ
日付のない未公刊書簡。セー ト美術館所蔵
「ジャン・ ツォフ リエ関連文書」ォーステイン大学所蔵,f52。
アか ら編集者 のキ ャ リアヘ と移 り、別種 の支援 を必要 とす るようになるや、
もはや何者 で もな くなって しまった老人 を慇懃無礼 な茶番 を介 して 自らの舞 台か ら追 い出 したのだ。何 ヶ月 にもわたって、 そん な変身 がなされているの をヴァレリーは見ていた。彼女 は次第 に硬化 してい き、欲得尽 くの眼差 しを 人間に注 ぎ、各人 を己のグームの成功のためのカー ドをとして しか見な くなっ ていった。今や明 らか となったのは、かな り前か ら企 て られて きたゲニムに おいて、 プォフ リエ は装われた優 しさの名残 のもとに冷ややかさを秘 めてお り、 それがある日、感情 のか らむ余地 のない外科 的 な仕草 によ り舌L暴にヴァ ンリーをお払い箱 にす ることに繋がっていった とい うことであるa。
ブォフ リエの悪女ぶ りがいかばか りであったのか、本 当の ことはわか らない。
ともあれ、プォフ リエの冷淡 さに傷つついたヴァレ リーの老 いは加速 してい く。
1945年復活祭 のプォフ リエの結婚報告 はプァレ リーの老 いによる衰弱 に追い討
ちをかけ、死へ と向かわせ る引 き金 となったのではないか。 そのような推察 を よぶかの ように事 は推移 してい く。ヴァレリーは1945年 5月 にコレージュ・ ド・
フランスで聴衆 に別れの挨拶 をした後、 まもな く自宅のベ ッ ドを離れ ることが できな くなった。至高の愛 を求め内燃す る生命 も、やがては老 い と死 に飲み込 まれてい くことになるのである。
5.パ リ解放の歓喜の中で
前節 において、占領下時代か らパ リ解放後 にかけてのプォフ リエ をめ ぐるヴァ レリーの失意 の劇 について述 べたが、1944年 7月 のパ リ解放 の集 団的歓喜 を、
プァレリーもまた共有 していた。ヴォフ リエ との関係 で傷心 の状態 にあっても、
ヴァレリーはフランス第二共和制の代表的文人 としての顔 を維持 しヽ フランス の象徴的統合 を願 い ド・ ゴール 自身が開催 を希望 した戦勝パ レー ドを トロカデ ロ宮殿 のテ ラスか ら見物す る。 ヴァレリーはパ レー ドを見 ようとして集 って き た群衆 たちを見下 ろし、以下 のように記 している。
樹木の力強い緑 の幾多の塊の間 に間 に、群衆 の存在 が色 とりどりに粒立 ち、
一九 となった生命 が印象派 の絵画の ように見 られ る°。
31ρ′ θた,MiChel」arretンル ′力あヮp l190
叡Paul t/al̀,く On Hen d6v̀nement,,И″s Callllnard,194,p395
‑48‑
隷属状態 を脱 し、平和 を取 り戻 した安堵 と歓喜が、 この光景描写 には込 め ら れてい る。集 団的歓喜 に言葉 を与 えるのもフランス第二共和制 の代表的文人 た るヴァレリーに期待 された仕事であ り、 プァレ リーは 9月 2日付 けの フィガ ロ 誌 に寄稿 した記事 に以下 のように記 してい る。
これで息がつ けるのだ。我 々は自由であると思 うと、今 この瞬間の未来 が膨 らむ。 その思いは我 々の胸一杯 に広 がって、何 とは知れぬが内面 の翼 の奪 い 去 るような陶酔的 な力 が我 々を鼓舞す るのである。
くRespirer》 (息をつ く)と の動詞一 つの簡潔 な記事33のタイ トル には、 まさ に「息 を詰 めて」暮 らしていた占領下時代 の終焉 に安堵 し、歓喜す るフランス の国民 の思いが重 なってい る。パ リ解放後 にコ レージュ・ ド・ フランス教授 に 再任 され講義 を行 ったヴァレリーは、言論 が自由 となった喜 びを以下の ような 挿話 に重ね聴衆 に伝 えてい る。
私 は数 ヶ月前 に軍 の将校 に話 した ことを繰 り返す ことがで きます。 その将 校 は、コレージュ・ ド・フランスの鉄 格子の前で私 を呼 ぴ止め、 これは美術館 か、 と尋ねて きました。私 は彼 に答 えました。一 「これは学校です。」― 「そ れでは、 この学校 では何 を教 えてい るのですか?J―「それをご説明すると あま りに長 くなって しまうで しょう。 ただ これだけ言 い ましょう。 これは言 葉 が自由な館 なのです。Jそれを聞いて将校 は私 に敬礼 し、私 も彼 に敬 礼 しま
した34。
既 にコレージュ・ ド・ フランスでの講義の準備 が重荷 に感 じられていたヴァ レリーだったが、1944年12月 にはソルボ ンメ大学で開催 されたヴォル テール生 誕二百五十年記念式典でヴォルテールについて話 した。ヴァレリーはプォルテー ルにアンガージュマ ンの文学 の先駆者 の相貌 を見出 している。パ リ解放直後の 時期 にあって、「精神の自由」を称揚することが何 より大切だったのであ り、プォ ルテール はそ うしたメ ッセージを伝 えるにあたって この上 ないシンボルであっ
'しJと,pp 397‐399
初 コンージュ・ ド フランスの タァンリー関連文書。 ジャル テイのワ1用による。
(C19ρ θ″,Michel Jarre,ル ′レZ〃,p l181)
た。 そして、三度 の世界大戦 を経験 した者 として、 プァン リーは呼 びかけるよ うに講演で次の ように述べている。
ヴォルテールのような人 は どこにいるで しょうか。今 日、声が上がるで しょ うか?卑劣 な罪 に応 じた巨大 な地球規模 の大罪 を弾劾 し、呪い、制圧す るに は、劫火 と化 した世界 に見合 うだけの、 どれほ どの巨大 ヴォルテールが必要 とされ るのであ りましょうか35。
ブァレリーの最後の数 ヶ月 は、 ヴォル テールの著作 に親 しむ 日々だった。 ヴ ヴァレリーはゾォルテールの大胆不敵 な情熱 に愛着 を覚 えていたのである。15 年 にわた り国際連盟 の知的協力委員会 の一員 として「精神 の政治Jの実現 を願 いなが ら果 たせ なかった苦 さも重ね合わせ、「とりわけフランス的で、他の風土 の したでは決 して考 え られ ない36」 と彼 自身評 していたブォル テールの著作 を 枕頭 の書 としたのである。
パ リ解放後、政治の表舞台 に現れた ド・ ゴールに、ヴァレリーは共感 を覚え るようにな り、知人のエ レーメ・ ヴ ァカ レス コに 「ド・ ゴールの F神秘Jに私 は魅せ られています378Jと述べている。パ リ解放後間 もない 9月 4日に ド・ ゴー ルは、プァレリーを晩餐会 に招いた。その素早 さこそブァンリーヘのオマージュ であった とジャル ティは指摘 している38。 ブァレリーは晩餐会 での ド・ ゴール について Fカイェ』 に記 している。少 々長 くなるが、文人 と政治家の交流の記 録 として、以下 に引用 しよ う。
ド・ゴールが音 もな く入 って きた。 目を引 くは ど背 が高い。星の ごとき両 の 日。 がっしりとした鼻 っ柱。長頭 に栗色の髪 (プァシェ・ ド,ラ プージュ の回想)。 かな り強 く重 々 しい眼差 し。期待以上 に ド・ ゴール は好感 が持てる と映 った。
ド・ゴールは、お 日にかかれて嬉 しい と言 った。我 々よ り格段 に 事情 に通 じてい るとい う風 には思われなかった。 それに、政治的な質問 につ いては非常 に慎重 だった。先週 の作 については大 した関心 を持 ってもないよ うだった。 ノー トル=ダムでのテロについては、馬鹿 げた出来事 と見 なして
9ρ θ″,MiChel Jare,ル ′%′″″pl180 06勁2,p l180
37 H61ёne レZ ″ ω
"零st"′レタ″′′a濯%のp168 路の ぬ,MiCllCI Jare,2″ 力 ″りp l165
いた。(実はテロとは言い過 ぎで、 ド・ ゴールがパ レー ドのあと「テ・ デウム」
の ミサ に列席 した直後 に一斉射撃がなされた。)日下の逮捕 については、注意 を向 けるつ も りはないよ うだった。/戦争 に関 しては何度 も印象 を述べてい た。米軍侵攻 が容易であったのは、米軍 とドイツ軍 (おそ らく東 に移動 しよ うとは しないスター リンも)とのあいだに合意が成立 していたためであ り、
で きるだけ早 く平和 をもた らすために、 と トラー・ ヒムラーの連 中が軍 を粛 清 しようとしていた。(実際 には、侵攻 は言語道断 なほ ど素早かった。)私は ペタ ンについて語 る。/晩餐会 (美味 しかった)の後、
ド・ゴール は私 を隣 の ソファーに座 らせ、二人で語 り合 った。私 は彼 に出版報道等の作 について 語 った。/それか ら輪 になった。全体での会話である。私 は武器や発明、ウェ グラン (グラディエ、 ジュオー、ガムラン、 レイノお よびラ・ ロ ック大佐 と ともに拘留 された)について語 つた。マ ッシグ リは私 にレジェはワシン トン (開戦時か らそ こに行 き、反 ド・ゴール主義 を隠 しは しなかった)で全 く無能 だった と言 った。
ド・ゴールが残 るのかロン ドンに発 つのかマ ッシグ リが知 らない ことに驚 いた (マ ッシグ リはその後 ロン ドンに発 ち、十年 にわた り大 使 を務 める)。 /23時30分 に ド・ゴールは暇 を乞い、私 もそれに乗 じて帰 った。
かな り謎 めいた ド・ゴール について、私 はまだはっ き りとした見解 が もてな い。軍人であれ、政治家であれ、人間について化学的分析を行 うのは難 しい。
しか し、
ド・ ゴール は最 も複雑 な勝負 をす る人間の集 中力 を持 っているよう に思 われた。現在 の勝負 において、実 にた くさんのカー ドがある39。
プァレリーは偉人 とい うものは政党や政局的 なものを凌駕 しうるものだ との 見解 を持 していたが、
ド・ ゴールはそのイメージに合致 していた と言 えるだろ う。 ヴ ァレ リーは10月23日 に「若 きパルク』 を ド・ ゴール に送 り、30日の月曜 日には「我が親愛 なる師 よ、 ご高著、 そして全 てに、感謝 しますЮoJと帝王 の 簡潔 さで書 かれた ドゴールの返信 が届いた。10月27日に ド・ ゴール はレジスタ ンス詩の朗読会 にヴァレリーを招待 し、特別 ボ ックス席 に同席 させ4、 ド・ ゴー ル とヴァレ リーの親灸 を多 くの人 々が知 るところ となっていった。
パ リ解放後 のヴァレリーには、解決すべ き政治的課題 があった。一つはアカ
30 9ρ
ι″,Paul Val̀じ Caみた/s CNRS,C XXIX ppll‑12 401944年10月30日
付 け ド・ ゴール将軍の未公刊書簡。 フランス国立図書館所蔵。
・ の dl,MIChCi Jarre,′ し睦′レ″″″,11″