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愛知県公立高等学校における男女共学に関する考察

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はじめに

(1)愛知県の私立高等学校における男女共学に対する抵抗

昭和24年度、愛知県下の公立高等学校は、当時高校三原則といわれた学区制、男女共学制及び 総合制の編成原理に従い、再編された1)。公立高等学校は、後述する一部の例外を除き共学とな り、男子校、女子校の大半は公立では姿を消した。一方、旧制私立中等学校のほとんどは、男子 校、女子校のままで、新制高等学校に昇格した。そしてその後もしばらくの間、男女共学の私立 高等学校は増加しなかった。私立高等学校が男女別学を当時維持したことに関しては、別稿で述 べた2)

第二次世界大戦直後、愛知県においては高等学校の男女共学は、公立高等学校にほぼ限定され ていた。恐らくは、戦後の教育行政の再構築と民主化の流れの中で、男女共学を理想とする考え に基づき、同県の教育委員会が公立高等学校の男女共学化を実施したと考えられる。しかしなが ら私立学校の場合は、公共の精神だけではなく、各学校の建学の理念、学校経営(採算)という 観点を考慮して、学校の運営がなされる。特に日本経済が壊滅的に破壊された第二次世界大戦直 後の経済状況下において、授業料収入に頼る私立学校は、生徒の確保に迫られたはずである。そ れゆえ生徒や保護者が心から男女共学を歓迎していたならば、より多くの男女共学の私立高等学 校が誕生したに違いない。そう考えると私立高等学校が男女共学を導入しなかった理由は、ただ 単に私学の経営者の男女平等に対する関心が低かったとなどという意識の問題ではないであろ う。「男は仕事、女は家庭」という言葉に示されるように、社会における男女の役割が明確に区 別されている中で、男女別学の教育すなわち男子高等学校や女子高等学校に対する需要が、かな り強かったはずである。だから私立高等学校の大半が共学にはならなかった。

愛知県公立高等学校における男女共学に関する考察

家政科設置の「女子高校」の事例研究(その1)

Research on Co-Education in Local Senior High Schools in Aichi Prefecture Japan

Case Study No. 1 Four Technical Girls Schools with Courses for Dress, Cooking and Housing

佐 藤 実 芳 Miyoshi SATO

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(2)愛知県の公立高等学校における、例外的な「女子校」

もし男女別学の男子高等学校と女子高等学校への需要が高いとするなら、公立高等学校におい ても、男子校や女子校が復活した例があるかもしれない。従来の研究では、戦後の男女共学の導 入や、家庭科の男女共修化などの改革とその前後の学校事情に対する分析がほとんどである。し かし男女共学の普及には、政治的な改革だけでは不十分で、男女間の役割分担に対する国民の意 識の変化が必要である。第二次世界大戦後高度経済成長以前の農村部や山間部では、思春期の生 徒が男女共学で学ぶことに対する理解は、それほど高くはなかったと思われる。特に良妻賢母が 理想とされた地域では、女子高等学校に対する需要が高かったと思われる。

本稿ではそのような住民の意識を念頭に置き、共学から一転して女子校になった愛知県の公立 高等学校の事例を分析し、女子高等学校になった社会的な背景や理由を考察する。それにより男 女共学の普及の紆余曲折と当時の女子生徒が置かれていた教育状況を明らかにしたい。

1.愛知県下の公立高等学校における、例外的な「男子校」、「女子校」

(1)公立の男子高等学校

男女共学に新制高等学校がほぼ統一された昭和24年度、男女共学でない公立高等学校は愛知県 下にどの程度あったのであろうか。翌年度の状況を、『昭和25年度版 全国高等学校一覧』で調 べてみた。同一覧によると、男子生徒のみが在籍していた公立高等学校は、工業課程のみの6高 等学校(愛知県立愛知工業高等学校・愛知県立岡崎工業高等学校・愛知県立起工業高等学校・名 古屋市立工業高等学校・豊橋市立豊橋工業高等学校・豊川市立工業高等学校)と、愛知県立三谷 水産高等学校と愛知県立瀬戸窯業高等学校の、計8高等学校であった。これら事実上の男子高等 学校は、すべて男性の仕事とみなされる職業の教育を行う学校である。都市部の学校が多く、総 合制の高等学校とせず単独の実業高等学校としたのであろう。

(2)公立の女子高等学校

一方、女子生徒のみが在籍する公立高等学校は、同年度愛知県には存在しなかった3)。しかし その後、出生数の爆発的増加による子どもの人数の増加、高度経済成長に伴う高等学校進学率の 上昇などで、高等学校の新設・増設が全国で進められた。愛知県下でも公立高等学校の新設・増 設が行われた。注目すべきは、昭和24年度には皆無だった公立の女子高等学校が、続々と誕生し たことである。例えば『昭和40年度版 全国高等学校一覧』によると、愛知県で女子生徒のみが 在籍する公立高等学校が、独立校として5校(愛知県立岩津高等学校、愛知県立吉良等学高校、

愛知県立古知野高等学校、愛知県立佐屋高等学高校、愛知県立豊田東高等学校)、分校として5 校(愛知県立刈谷高等学校東浦分校、愛知県立時習館高等学校高豊分校 愛知県立新城高等学校 一宮分校、愛知県立成章高等学校赤羽分校、愛知県立半田高等学校武富分校)存在している。こ の10校のうち、旧制中等学校を前身とするのが、愛知県立豊田東高等学校と愛知県立岩津高等学 校の2校である。そして残りの8校は、昭和24年度以降に設けられた公立高等学校の分校、もし くはそのような分校から昇格した高等学校である。

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(3)専門(職業)高等学校と総合制

その後、教育の機会均等の実現と高等学校教育の普及を図るため、高校三原則といわれる学区 制、男女共学制及び総合制に基づく高等学校の統廃合が、全国的に実施された。愛知県でも、東 海北陸軍政部民間教育課長のジョンソン及び愛知県軍政部民間情報課長のバーディックらの強い 指導の下、新制高等学校再編成(第一次再編成・第二次再編成)が行われた。

その結果、小学区制が採用されて公立高等学校の通学区域を狭く設定するとともに、男女共学 が全公立高等学校で実施され、工業課程のみの高等学校7校と水産課程のみの高等学校1校以外 は、全て普通科・家政科・商業科・農業科・工業科(農業・家庭・商業が17校、普通・農業・商 業・家庭が14校、普通・家庭・商業・工業が3校、普通・家庭・工業が1校、普通・工業が1校)

を複数組み合わせた総合制の高等学校になった。

2.愛知県立挙母高等学校(現:愛知県立豊田東高等学校)

(1)地域の事情

現在の豊田市は、愛知県北部(西三河地方)に位置する中核市で、トヨタ自動車の本社及び工 場のある、企業城下町である。自動車関連の工場が多い。豊田市中心部の挙母(ころも)地区は、

江戸時代は城下町であった。挙母の周辺は第二次世界大戦直後まで、典型的な田園地域であった。

しかしトヨタ自動車が本社と自動車関連の工場を作ったため、急速に工業化と都市化が進み、1959 年に市名を挙母から豊田に変更した。

田園地帯から、高度経済成長期に日本有数の産業都市に成長したため、人口が増大し、一時期 高等学校の新設・増設が盛んであった。

(2)学校設立の経緯

それでは愛知県における公立女子高等学校の代表である、県立挙母(ころも)高等学校の設置 の経緯をみてみよう。大正13年に開校した愛知県挙母高等女学校4)が、挙母高等学校の前身であ る。昭和23年4月1日に新制高等学校が発足し、愛知県挙母高等女学校は新制の愛知県立挙母東 高等学校となった。引き続き同年10月には愛知県立高等学校の再配置により、同校と愛知県立挙 母西高等学校5)と愛知県立猿投農林高等学校6)の3校が統合されて、普通科、家庭科、商業科、

農業科の4課程及び別科を設置する、男女共学の愛知県立加茂高等学校となった。当時現在の豊 田市とその周囲は、加茂郡に属していた。統合された高等学校は、挙母と猿投の2町に分かれて 校舎が存在することになったため、校名に「加茂」という郡名を入れたのであった。

ただし同校では旧3校の校舎・敷地をすべて使用したため、複雑な学校運営を強いられた。し かし早くも昭和24年4月1日には、猿投校舎(旧猿投農林高等学校)が、愛知県立猿投農林高等 学校として分離独立した。その結果加茂高等学校は、校舎が挙母町内だけにあることになったの で、校名を愛知県立挙母高等学校と再度改めた。

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(3)東西2つの校舎

その挙母高等学校では、旧愛知県挙母中学校の校舎を東校舎と呼び、旧愛知県挙母高等女学校 の校舎を西校舎と呼んだ。そして東校舎と西校舎に生徒を分けた(表1参照)。本部機能を東校 舎に置き、1年生の教室は西校舎に、3年生の教室は東校舎に分けた。2年生は西校舎と東校舎 に分けて授業をした。しかし西校舎と東校舎が3㎞以上離れているため、10分間の休憩時間では 教員が両校舎の間を移動することができず、授業に支障をきたした。

昭和29年度に本部が西校舎に移ると、西校舎と東校舎でそれぞれ分離独立の機運が高まった。

独立に必要な施設の新築、改築拡張に力が注がれるようになった。そもそも旧挙母中学校には専 用の校舎も運動場もなく、挙母町立青年学校の木造平屋校舎2棟を借用して開校にこぎつけた。

その名残で挙母高等学校の西校舎には、青年学校時代の老朽化した木造平屋校舎が2棟しかな かった。そこで西校舎に、昭和29年10月に生物室、物理室、化学室のある理科特別教室を、続い て昭和32年8月にプレハブコンクリート造り2階建ての本館を、更には昭和34年2月に、体育館 兼用の講堂を建てて、高等学校らしい体裁を整えた。東校舎と西校舎を分離して2つの高等学校 にする理由は、校舎が現実に2つに分かれていることと、東西両校舎を一校に統合した場合、あ まりにも大規模な高等学校になるのを恐れたからである。

表1:愛知県立挙母高等学校の学級配置

西校舎 東校舎

昭和25年度 1年生全学級(A~G) 3年生全学級(A~G)

2年生普通科(A~D) 2年生普通科(E)商業科(G)家政科(F)

昭和26年度 1年生全学級(A~G) 3年生全学級(A~G)

2年生普通科(A~E) 2年生商業科(F)家政科(G)

昭和27年度 1年生全学級(A~H) 3年生全学級(A~G)

2年生普通科(A~E) 2年生商業科(F)家政科(G)

昭和28年度 1年生全学級(A~H) 3年生全学級(A~G)

2年生普通科(A~F) 2年生商業科(G)家政科(H)

1年生普通科(A~D) 1年生普通科(EF)商業科(G)家政科(H)

昭和29年度 2年生普通科(A~F) 2年生普通科(E) 商業科(G)家政科(H)

3年生普通科(A~D) 3年生普通科(E) 商業科(G)家政科(H)

普通科(ABCD) 商業科(G) 普通科(EF) 家庭(H)

昭和30年度

普通科(ABCD) 商業科(G) 普通科(EF) 家庭(H)

昭和31年度

昭和32年度 普通科(ABCD) 商業科(G) 普通科(EF) 家庭(H)

昭和33年度 普通科(ABCD) 商業科(G) 普通科(EF) 家庭(H)

愛知県立豊田東高等学校『50年史』150頁、151頁より作成

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(4)豊田東高等学校の誕生

昭和30年度に、西校舎には男女共学の普通科4クラスと商業科1クラスを置いた。ところが東 校舎では、女子のみの普通科2クラスと同じく家庭科1クラスが置かれた。その結果挙母高等学 校の東校舎では、生徒は女子のみとなった。その4年後の昭和34年3月31日に、挙母高等学校は 廃校になった。そして東西の両校舎が同年4月1日にそれぞれ独立した。西校舎は、愛知県立豊 田西高等学校(男女共学の普通科・商業科)となり、東校舎は、愛知県立豊田東高等学校(女子 のみの普通科・家政科)となった。

豊田東高等学校の学校史には、豊田東高等学校と豊田西高等学校の両校の分離の仕方につい て、以下のように書かれている。豊田東高等学校を女子校にして、共学の豊田西高等学校とは異 質の学校にしようという関係者の意図が感じられる。

1.同質のものを二つにした場合、これだけ近距離では悪い意味のライバルになる虞がある。

2.一方が優越感をもつと他方は劣等感をもつことになるから、異質のものにしなけれればな らない。

3.家庭科を中心としたもの、或いは家庭科を持つ普通科の女子を東にしよう。

4.商業科はやがて独立すべきであろうと考えながら、男女共学の普通科を西にする。7)

(5)愛知県の公立高等学校で最初の女子校

愛知県の公立高等学校で、最初の男女別学の高等学校教育は、事実上女子校となった愛知県立 挙母高等学校の東校舎で行われたといわれる。その後同校の後継校である女子校の豊田東高等学 校は、昭和42年4月に家政科の生徒募集を停止して普通科高等学校となった。普通科だけになっ たのだから、男女共学に転換しても良いだろうが、同校では、平成19年4月に普通科が総合学科 に改編されて男女共学になるまで、女子のみが入学した。同校の場合、前身の挙母高等女学校時 代に培われた、女子校としての誇りの意識が地域に残っていた。その女子校に対する地域のプラ イドが影響して、女子校の豊田東高等学校が誕生したとも思える。また同校は昭和42年度以降、

家政科、保育科、看護科などの女子向けの職業教育ではなく、男女共学が容易な普通科のみを設 置していた。しかし約40年間もの間女子校のままでいた。愛知県の公立高等学校では、極めて稀 な普通科女子校のケースである。

3.愛知県立岩津高等学校

(1)地域の事情

例外的な公立の女子校の事例として、続いて愛知県立岩津高等学校を挙げたい。旧岩津町は西 三河の中心地岡崎の北方にあった町で、1955年に岡崎市に合併された。戦前は私鉄の路線が2つ 通り、現在は名鉄三河線と第3セクターの愛知環状鉄道が通り、知立、岡崎、豊田の西三河の主 要都市と線路で結ばれている。

田園地帯であったが、主要道路が交差していることもあり、自動車工場等が操業して、一定の 人口を擁している。

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(2)学校設立の経緯

岩津高等学校の前身は、昭和10年4月に開校した愛知県岩津農学校8)である。同農学校は、戦 後の学制改革に伴い、昭和23年4月1日に新制の愛知県立岩津農業高等学校となった。新制高等 学校として発足した半年後の同年10月1日に、一旦愛知県立岡崎高等学校岩津分校となり、分校 に格下げされた。しかし翌昭和24年4月1日の新制公立高等学校の再編成(第二次再編成)で、

愛知県立岩津高等学校として岡崎高等学校から独立した。

(3)家政科設置の女子校

同校には、通常制課程9)の普通科・農業科・家庭科が設置され、さらに昼間定時制の農業科・

家庭科が併設されていた。しかし時代の変化に応じて、昭和35年4月1日より定時制課程の生徒 募集を停止した。さらに2年後の昭和37年4月1日に通常課程の普通科・農業科の生徒募集を停 止した。その結果同高等学校は、家庭科のみ生徒募集を続けることになり、入学者は女子のみと なった。昭和36年4月に入学した最後の男子生徒は、昭和39年の3月に普通科・農業科の最後の 生徒として卒業した。その結果昭和39年4月から、岩津高等学校は、家政科(昭和38年4月1日 より家庭科を家政科と改称)のみを設置する、女子校になった。このような経緯で、岩津高等学 校は、通常制課程と定時制課程を併せ持つ男女共学の総合制高等学校から、通常制課程家政科の みの女子校になった。戦後の学制改革で設置された総合制の高等学校が、高等学校数の増加に伴 い、それぞれの専門性に特化した専門高等学校(職業高等学校)に再編された中で、女子生徒の みが進学した家政科の高等学校が誕生し、結果として女子校になったものである。

(4)男女共学に

しかしながら女性の社会進出に伴い、家政科は次第に女子生徒からも敬遠されるようになっ た。そして岩津高等学校は、昭和61年4月1日、8学級あった家政科を3学級に減らし、普通科 4学級と食物調理科1学級を新たに設けて、再び男女共学となった。同校の場合、旧制の中等学 校を前身とするものの、学校統合により愛知県立岡崎高等学校岩津分校になった時期もあり、後 述する分校がもつ性格を併せ持っていたと言える。現在は普通科(4学級)、生活デザイン科(2 学級)、調理国際科(1学級)からなる総合制の高等学校である。生活デザイン科と調理国際科 は家政科から発展した学科であり、女子生徒の比率が高い。

4.分校

(1)分校

男女別学の公立高校特に女子校は、愛知県では分校に多かった。そこで愛知県における分校の 概要をまず述べたい。昭和24年2月に県立高等学校の統合が行われて、愛知県内の公立高等学校 に21分校が設置された。分校はすべてが定時制で、当時農業が主要産業であったことを反映して、

普通科は5校のみで、他の16校はすべて農業科を設置していた10)

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(2)定時制

定時制課程は、学校教育法第44条「高等学校には、通常課程の外、夜間に授業を行う課程、ま たは特別の時期に授業を行う課程を置くことができる」の規定に基づき、経済的事情等で全日制 高等学校に進めない青少年に、高等学校の教育の機会を与えるために設置された課程である。仕 事との両立がしやすいように開設時間を一定の時間に集中させるものである。旧制中等学校にも 夜間授業を行う第二部が存在し、働きながら学ぶことを可能にしてきた。戦後、以前第二部と呼 ばれた夜間の学習を行う課程は、夜間課程となり、昭和25年6月「愛知県立高等学校学則の改正」

により、定時制課程(夜間)と改められた。定時制課程の高等学校では、第二次世界大戦直後は 昼間に授業をする学校が多かった。働いている生徒が、特別の時期及び時間に学校に通って学ぶ よう工夫されたもので、愛知県内では特に農村部に多く設けられた。修業年限は4年であった。

(3)分析対象の女子校

分校の中には、開設当初から女子のみを対象としたものと、開設当初は男女共学でありながら 女子のみになっていったものがある。本稿ではまず開設当初から女子を対象とした分校の分析を 行う。具体的には、①愛知県立時習館高等学校高豊分校と、②愛知県立成章高等学校赤羽根分校、

以上2校の分析を行う。両校とも東三河地域にあり、豊橋市の郊外または経済圏に位置する。な お開設当初は男女共学であった分校の分析については、紙幅の関係上別の機会に譲りたい。

5.女子生徒のみを対象として設けられた分校

昭和24年度に設立された分校の大部分は、開設当時は男女共学であった。そのことについて は愛知県下の公立高等学校は原則男女共学にしようという、愛知県教育委員会の強い意思が感じ られる。しかし愛知県立時習館高等学校高豊分校と愛知県立成章高等学校赤羽根分校の2分校 は、開設当初から事実上「女子校」の状態で、女子生徒のみを入学させていた。

そこで次になぜこの2分校が、男女共学という方針をとらず女子校として設置されたのか、設 立前後の経緯を分析しよう。

尚、女子のみを対象とした分校には、昭和26年に女子生徒のみになった愛知県立岡崎高等学校 知立分校11)などもあるが、本稿では第二次世界大戦後の学制改革から昭和30年代の高度経済成長 期までの、愛知県の公立高等学校の男女共学の状況を分析する。そのこととの関係で、分析対象 の公立高等学校は、昭和40年度に女子生徒のみが在籍する高等学校(含む分校)に限定する。

(1)愛知県立時習館高等学校高豊分校(現:豊橋南高等学校)

①地域の事情

愛知県東部の中心都市は豊橋市である。豊橋は江戸時代には吉田と呼ばれた城下町で、東海道 の交通の要衝であり、渥美半島、奥三河への交通の分岐点でもあった。豊橋市の中心部からから 20㎞程度西側に、渥美半島の中心都市田原市があり、江戸時代は田原藩が治めていた。その田原 藩の藩校に由来するのが、愛知県立成章高等学校である。旧高豊村は、豊橋と田原のほぼ中間に

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位置した。高度経済成長期に豊橋市が発展して、旧高豊村は豊橋市の郊外の住宅地となり、昭和 30年に豊橋市に合併された。高豊分校がまず成章高等学校の分校として設立され、すぐに豊橋市 の時習館高等学校の分校に配置換えされて、その後昭和47年に独立して「豊橋南高等学校」とい う校名になったのは、旧高豊村のこのような事情によると思われる。

②学校設立の経緯

昭和24年2月旧高豊村に、愛知県立成章高等学校高豊分校(定時制課程)が設立された。同分 校が設立されるまでの旧高豊村の小学校卒業者を教育する機関について、『高豊分校のあゆみ』 は以下のように記されている。

「学校には高豊村立青年学校(男子)女子の方は公立青年学校高豊家政女学校がありました。

昭和19年8月31日高豊家政女学校は廃校になりました。

昭和23年3月31日青年学校は廃校になりました。高豊村の女子は塾の形式で、昭和24年2月 7日時習館高等学校高豊分校が創立されるまで続けられました様子。生徒には高女出も居り 和裁洋裁を中心に勉強して居た様子。12)

第二次世界大戦直後地元(旧高豊村)では、2年課程の女子の教育機関(女子校)の設立を望 む声が強かった。男子は豊橋市内の高等学校(時習館高等学校等)に通学させればよいという考 えが強かったようである。そこで当時の村長であった小野田益三が中心となって分校設置に邁進 して、高豊分校が創設された。前述のように地元で女子の教育機関が求められていたため、分校 に設置された課程は家庭科で、女子のみを対象とした。当時物資は今ほど豊富ではなく、分校の 施設・設備はかなり貧弱だったようである。例えば高豊分校では、昭和24年の創立当初は中学校 の校舎を教室として借用し、備品等の大部分も中学校のものを利用し、職員室は中学校の職員室 を使った。

高豊分校の開校初年度(昭和24年度)の入学者数は21名と少なく、学校の近隣の女子生徒だけ が入学したようである。「遠い町まで高い月謝を払って裁縫を習いに行かなくても済む村の分校」

という存在だったと、同分校の本校である時習館高等学校の学校史に記録が残っている13)。当時 高等学校を原則男女共学にするべく動いていた愛知県教育委員会が、高豊分校を「女子校」とし て例外的に認めた理由は分からない。恐らく、分校でかつ1学年1学級の小規模であることと、

農作業や家事などで忙しい当時の農家の娘達が通える学校の必要性と、女子教育機関を望む地元 の要望とを認識していたためであろう。

③一時的に男女共学に(男子定時制農業科の設置)

開校3年目の昭和26年に、独立した校舎が建設され、昭和27年4月には男子農業科が設けられ て、男子生徒も同校に入学するようになった。しかし、男子農業科は実質10年間も続かなかった。

しばらくの間、高豊分校は、他の愛知県立の高等学校と同様に、男女共学(課程が男女別々なの で、男女別々の教室で授業を受けている。このような男女の学習の様式を、男女が同じ教室で授

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業を受ける様式と区別するために「男女併習」という場合もある。しかし本稿では、教室が別で あっても、学校行事等で男女が一緒に行動すると考えて、男女共学という表記を用いる)となった。

尚、昭和24年5月26日、「愛知県立高等学校学則」を一部改正して、県内の分校の所属替えが 行われた。恐らく昭和24年度の新制高等学校の発足を急いだため、本校と分校の関係が地域の実 情に合わないケースが多く、分校の再配置の変更が急遽必要となったのであろう。旧高豊村は豊 橋市との関係が強かったため、高豊分校は豊橋市の時習館高等学校の分校に配置換えとなり、前 述の学則の改正により愛知県立豊橋時習館高等学校高豊分校14)となった。

④入学者数と卒業者数:定時制高校の厳しい実態

表2は、高豊分校の開校から昭和30年代までの、入学者数と卒業者数の一覧である。入学者数 は昭和24年度から増加し、小野田村長は昭和27年10月29日付の文書で「今や全日制高等学校に進 学、又は他郷に就職の止むなき者の他は、本村卒業生の殆ど全部がこの分校に進学するに至りま した」15)と記している。しかし日本の社会が経済的に安定するに従い、全日制高等学校への進学 率が上昇して、『定時制』の名前を敬遠する傾向さえあらわれた」という16)。定時制の中でも農

表2:高豊分校(定時制課程)の入学者数と4年後の卒業者数

(女子は家庭科、家政科、男子は農業科)

入学者数 女子入学者数 男子入学者数 卒業者数 女子卒業者数 男子卒業者数 昭和24年度 21人 21人

25年度 24人 24人 26年度 23人 23人

27年度 41人 28人 13人 4人 4人

28年度 33人 25人 8人 9人 9人

29年度 31人 25人 6人 8人 8人

30年度 29人 24人 5人 11人 11人

31年度 28人 24人 4人 7人 5人 2人

32年度 36人 36人 10人 9人 1人

33年度 26人 20人 6人 9人 9人

34年度 26人 26人 8人 8人

35年度 23人 23人 18人 18人

36年度 19人 19人 10人 10人

37年度 10人 14人

38年度 13人 13人

39年度 8人 8人

『高豊分校の歩み』 57頁

(10)

業科は、農業から工業への産業構造の移行に伴って、特に入学者が減少した。そして高豊分校で も昭和27年4月に設けられた男子農業科は、初年度は13人の入学者があったものの、その後の入 学者は10人を超えることがなかった。その結果男子の農業科は、昭和35年2月に生徒の募集を停 止した。この措置により高豊分校は、女子生徒だけの学校となっていった。

高豊分校の入学者と卒業者の人数をみてまず気付くことは、卒業者数が入学者数に比べて大変 少ないことである。特に昭和20年代は、入学者の約3分の1以下しか卒業していない。例えば昭 和24年度の入学者21名の内、規定の最短終了年限である4年後の昭和27年度に卒業した生徒は、

わずか4人に過ぎない。男子農業科の場合は特に卒業者が少ない。昭和27年から33年までに入学 した男子(つまり高豊分校に入学したすべての男子)42人の内、卒業したのはわずか3人である

(表2参照)

また『高豊分校の歩み』によると、例えば昭和27年度の入学者は41人(男子13人 女子28人)

であるが、それが2年生になると30人(男子8人、女子22人)に減り、3年生に進級すると女子 のみ15人になった。そして最終学年の4年生まで在籍したのは女子のみ12人で、卒業した者はさ らに1名減って11人である。

⑤全日制への転換(「女子校」として)

高豊分校の入学者数は、昭和33年度以降減少の一途をたどり、昭和36年度には20名を切った。

当時日本の高等学校の学級定員が最大50名で、狭い教室に大勢の生徒を詰め込んでいた。そのよ うな一般的な状況から考えると、少人数の高豊分校の運営は、非効率的であった。ただし高等学 校への進学者数自体は、当時急激に増大していた。しかし定時制への進学希望者だけが、逆に減っ ていたのである。それゆえ高豊分校を廃校にするのではなく、全日制の高等学校に転換すれば、

生徒を十分確保できると関係者は考えたようである。そこで同分校は昭和37年4月に定時制課程 の生徒募集を廃止し、代わりに全日制の家庭科を新たに設置した。定時制から全日制への転換は 成功して、全日制に移行後入学者数は増加し、中途退学者もほとんどいなくなった(表3参照) 高等学校進学率の上昇、団塊世代の高等学校進学、自動車産業の発展による地域の人口増など により、豊橋市とその周辺地域では、高等学校進学を希望する15歳人口が増大して、高等学校の 新設・増設が昭和40年代に入ると急務になった。そこで昭和44年4月、豊橋市の教育文化向上の ため、時習館高等学校の高豊及び二川両分校を母体とした高校を新設するという、愛知県の方針 が出された。そして昭和47年4月に愛知県立豊橋南高等学校(普通科・家政科)が設けられた。

同時に両分校の生徒募集が停止となった。昭和46年度の高豊分校の1年生の生徒は、新規開校し 表3:高豊分校の入学者数

昭和37年 38年 39年 40年 41年 42年 43年 44年 45年 46年 入学者数 52人 55人 46人 55人 52人 50人 47人 45人 45人 45人 卒業者数 48人 54人 47人 55人 51人 49人 47人 45人

『高豊分校の歩み』 57頁

(11)

たばかりの豊橋南高等学校の2年生に、昭和47年度に編入されて高豊分校を去った。その結果昭 和47年度、高豊分校には3年の生徒のみが残った。翌年昭和48年3月にその3年生が卒業して在 校生がいなくなり、高豊分校は閉鎖された。

⑥「女子校」としての高豊分校

第二次世界大戦後、一農村に過ぎなかった旧高豊村に、学年1学級の小さな分校が誕生した。

男子は近隣の豊橋市まで電車や自転車で通学したが、家事、農作業を手伝っている地元の女子に 限定して高等学校の教育を提供したのが、時習館高等学校高豊分校である。分校として23年間運 営されている間、男子が一時入学したが、入学者総数でみると男子は42名いて、その男子の卒業 者数はそのうちのわずか3名であった。そのような少数の、しかも学校にあまり来なかったであ ろうと卒業者数から推測される男子生徒の存在感は、同分校の敷地内では無きに等しかったであ ろう。実質的には、第二次世界大戦直後の学制改革から高度経済成長期にわたり、ほぼ一貫して 女子のみに教育を行っていたと考えても、大きな間違いではない。

同分校の設立や運営に携わった関係者は、男女別学に対する強い信念を持って、女子のみの教 育を追求したわけではないであろう。むしろ共学か別学かということには、あまり関心がなかっ たかもしれない。ある農村の特殊な事情による男女別学の高校運営の事例とみなすべきである。

そして旧高豊村の都市化の進展とともに、女子教育への地域のニーズも消えて、男女共学の高等 学校(愛知県立豊橋南高等学校)に発展的に生まれ変わったと考えることができる。

(2)愛知県立成章高等学校赤羽根分校

①地域の事情

旧赤羽根町(2006年に旧田原町と合併して、現在は田原市)は、愛知県南部の渥美半島の先端 部にあり、遠州灘に面している。農業がさかんで現在は主にキャベツ、メロンなどを栽培してい る。また漁業もさかんである。鉄道は隣町の旧田原町の中心の田原駅が最も近い。しかしそこか らは地方のローカル私鉄で東海道線の豊橋駅に出るので、公共交通は便利とはいえない。そこで 町内の高校生は、隣町の旧田原町にある愛知県立成章高等学校にバスで通うか、さらに豊橋鉄道 に乗り継いで豊橋市の高等学校に通う。豊橋市の高等学校に通うのはかなり時間がかかり、大変である。

②学校設立の経緯

鉄道がなく大都市(豊橋市)に出るのに時間がかかる地域である。それでも男子には無理して もバスや電車通学により、豊橋市内の高等学校(公立、私立)に通わせる家庭が多かった。しか し女子にはそこまでできない家庭が第二次世界大戦直後には多く、地域に女子校を作ることが地 元の念願であった。そこでそのような地元の要望に応える形で、昭和26年4月、愛知県立成章高 等学校等に通うことができない女子に、「教育特に家庭科の知識技能を修得させ農村家庭の主婦 の要請を目的として」17)赤羽根分校(昼間定時制課程普通科)が設けられた。当時の赤羽根分校 設立陳情書によれば、高等学校の進学を希望しても学費の負担の重さと交通の不便さから、多く

(12)

が進学を断念せざるをえない状況であったという。

③家庭科教育と女子校

分校が設立される以前の昭和24年4月に、旧赤羽根町の中学校を卒業した女子に2カ年の補習 教育を行う和敬女子専門学院が作られていた。この学校の教育の目標は、働く女性が、働きなが ら教養(特に洋裁・和裁・家庭科中心)を高めることであった。赤羽根分校は、和敬女子専門学 院の校舎が使われることになった。成章高等学校の学校史『成章八十年史』には、昭和26年7月 20日の「分校訪問記」に次のように記されている。農家の娘達に、農作業や家事との両立が可能 な定時制の高校に対するニーズがあったことがよく分かる。

「分校は定時制として農家にとって実に適している事と思います。農繁期の春秋の1か月ず つは休みとなることはこの学校の特殊性の一つであります。授業は裁縫を主におきそれに他 の社会、国、習、音等の必要科目があります。

分校のことについて、頭の程度が低いとか色々けなす悪口もしばしば聞く事があります。然 しそんな差別などあり得ないと思い皆さんに反省して頂きたいと思います。18)

④全日制そして普通科に

昭和28年4月に赤羽根分校では、普通科を家政科に改編した。娘達に家事を学ばすには家庭科 の学習が大切であり、家政科の高等学校教育へのニーズが高かった。しかしその後高度経済成長 を経て、旧赤羽根町の主要な産業である農業も、機械化・省力化が進んだ。そして定時制の家政 科で衣・食・住について学ぶより、大学・短大への進学に有利な普通科の高等学校に対するニー ズが高まった。

赤羽根分校は昭和37年4月に、定時制課程を全日制課程に変更した。そして昭和62年、入学希 望者が減少したため家政科を男女共学の普通科に改編した。前述の時習館高等学校高豊分校と同 じく、全日制への転換、さらに普通科への転換と、時の流れとともに歩むこととなった。普通科 へ転換してから男子生徒が入学して、一旦は生徒数が回復した。

⑤廃校

しかし赤羽根分校では平成2年をピークに、生徒数がまたも減少して、回復傾向をその後示す ことはなかった(表4参照)。そこで赤羽根分校は平成16年度から入学生の募集を停止して、平 成18年3月に閉校となった。

ただし廃校直前でもコンスタントに100名強の生徒が、赤羽根分校に毎年入学していた。けれ ども女子生徒の入学者数は、平成7年以降は常に40名以下であった。かつての「女子校」の面影 はなく、地域の女子生徒の受け入れ先としての機能は、平成に入り低下してきた。本稿で検討し た他の3校は、学校の近隣地域の都市化に伴い、男女共学の普通科高等学校になり今も存続して、

地域の少年少女に対する教育機能の役割を十分に担っている。それに対して、都市部から離れた 渥美半島の先端部に位置した赤羽根分校は、過疎化の波にのまれその役割を終えたと言える。

(13)

表4:赤羽根分校生徒数一覧

昭和56年 61年 62年 63年 平成元年 2年 3年 4年 5年 37人 63人 90人 84人 83人 82人 74人 127人 88人 76人 63人 48人 52人 52人 50人 46人 合計 127人 88人 113人 126人 138人 136人 135人 132人 120人 6年 7年 8年 9年 10年 11年 12年 13年 14年 15年

77人 84人 89人 80人 78人 74人 73人 72人 66人 70人 41人 32人 27人 30人 29人 32人 30人 28人 35人 40人 118人 116人 116人 110人 107人 106人 103人 100人 99人 110人

『全国高等学校一覧 昭和56年年度版・昭和61年度版~平成15年度版』より作成

⑥「女子校」としての赤羽根分校

高豊分校の事例と同様に、家政科の教育に対する地域のニーズに応える形で、農村部の分校と して「女子校」の赤羽根分校が誕生した。しかしそのような「女子校」対する地域のニーズは、

昭和の最後の頃にはなくなり、その結果赤羽根分校は男女共学に変わった。

おわりに

愛知県の公立高等学校の中で、例外的に女子だけを教育していた高等学校4校(内2校は分校)

について、設立の経緯とその後の学校の変遷をみながら、「女子校」としての役割を分析した。

4校ともすべて実質「女子校」になる際に、男女共学を別学(女子のみ)に変えることの是非に ついての議論がなされた様子は、本稿が依拠した「学校史」等の資料からはうかがわれなかった。

地域の実情つまり農村部の女子に対する家政科教育へのニーズに応えるために、「女子校」の形 を選んだだけのことであった。

しかしながら地域の都市化が進むにつれて、家政科を学ぶための形態としての「女子校」は、

平成の時代に入り必要性が低くなった。その最大の理由は、女性の社会進出であろう。女子に家 事だけを期待する時代は過ぎ去り、家政科の存在意義が揺らいできたのである。その結果、家政 科のみを設置している公立の女子校は、男女共学の普通科への転換を迫られることになった。現 在では本稿が検討した4校の内、3校が男女共学に変わって存続し、残り1校(赤羽根分校)は 廃校となった。

高等学校の男女共学は、第二次世界大戦直後の学制改革で、教育委員会により上からの政策と して実施された。しかし地域によっては、別学の高等学校、特に女子校に対する需要はしばらく の間根強く残っていた。その事例として、今回分析した4校の教育実践を理解したい。

まだ他にも愛知県立の高等学校で、事実上「女子校」となった分校はある。それらの学校の事 例の検討を別稿で行いたい。

(14)

【注】

1)昭和22年3月31日に学校教育法が公布され、新制の高等学校が昭和23年度から発足すること になった。愛知県では、旧制の中等学校をそのまま新制の高等学校(国立1校、公立92校、私 立36校 全129校)に移行させたため、全ての公立高等学校が男女別学で(男子校51校、女子 校33校)、課程別(普通科47校、農業科10校、工業科14校、商業科12校、水産科1校)に設置 されていた。その後、教育の機会均等の実現と高等学校教育の普及を図るため、高校三原則と いわれる学区制、男女共学制及び総合制に基づく高等学校の統廃合が、全国的に実施された。

愛知県でも、東海北陸軍政部民間教育課長のジョンソン及び愛知県軍政部民間情報課長の バーディックらの強い指導の下、新制高等学校再編成(第一次再編成・第二次再編成)が行わ れた。その結果、小学区制が採用されて公立高等学校の通学区域を狭く設定するとともに、男 女共学が全公立高等学校で実施され、工業課程のみの高等学校7校と水産課程のみの高等学校 1校以外は、全て普通科・家政科・商業科・農業科・工業科(農業・家庭・商業が17校、普通・

農業・商業・家庭が14校、普通・家庭・商業・工業が3校、普通・家庭・工業が1校、普通・

工業が1校)を複数組み合わせた総合制の高等学校になった。

2)拙稿「愛知県における男女共学の私立高等学校の発展 -その1- 第二次世界大戦後から 昭和30年代まで」 『愛知淑徳大学論集 -教育学研究科篇 第3号』 2013年、31頁―46頁。

3)『昭和25年度版 全国高等学校一覧』には分校に関する記載が一切ないため、分校が男女共 学校であるか男子校又は女子校であるかは把握することができない。

4)大正13年6月2日に挙母町立挙母高等女学校として開校した。同年10月1日 愛知県挙母高 等女学校と改称した。

5)昭和15年4月4日に愛知県挙母中学校として開校し、昭和23年4月1日に愛知県立挙母西高 等学校となった。

6)明治39年西加茂郡立農学校として開校し、大正12年には愛知県猿投農学校と改称。昭和23年 4月1日に愛知県立猿投農林高等学校となった。

7)創立50年史編集委員会、『50年史』、愛知県立豊田東高等学校、1973年、192頁。

8)昭和10年4月、愛知県岩津農商学校として開校。昭和19年3月1日に、愛知県岩津農学校と 改称した。男女共学の乙種実業学校。

9)通常制課程は、昭和38年より全日制課程と改められた。本稿では、昭和37年度までについて は通常制課程、それ以降を全日制課程と記載する。

10)愛知県教育委員会編、『愛知県教育史 資料編 現代一』、愛知県教育委員会、1997年、544 頁。

11)愛知県立岡崎高等学校知立分校は、昭和24年4月の高等学校再統合により愛知県立刈谷高等 学校知立分校となった。そして昭和33年4月1日に、愛知県立知立高等学校(普通科・家政科)

として独立した。

12)時習館高富分校記念誌編集委員会、『高富分校のあゆみ』愛知県立時習館高等学校高富分校、

1973年、8頁。

(15)

13)近藤恒次、『時習館史 その教育と伝統』、愛知県立時習館高等学校、1979年、1283頁。

14)昭和31年4月、分校設置規則の一部改正が行われ、愛知県立時習館高等学校高豊分校に改め られた。

15)『高豊分校の歩み』、7頁。

16)『時習館史 その教育と伝統』、1295頁。

17)成章八十年史編集員会、『成章八十年史』、創立八十周年記念事業実行委員会、1981年、629頁。

18)同上書、639頁。

【参考文献】

1.愛知県教育委員会編、『愛知県教育史 第四巻』、第一法規出版、1982年。

2.愛知県教育委員会編、『愛知県教育史 第五巻』、愛知県教育委員会、2006年。

3.愛知県教育委員会編、『愛知県教育史 資料編現代一』、愛知県教育委員会、1997年。

4.愛知県教育委員会編、『愛知県教育史 資料編現代二』、愛知県教育委員会、2004年。

5.愛知県教育委員会編、『愛知県高校教育30年』、愛知県公立高等学校長会、1978年。

6.愛知県立岩津高等学校60周年記念誌編集委員会、『創立六十周年記念誌』、愛知県立岩津高等 学校60周年記念誌編集委員会、1995年。

7.愛知県立岡崎高等学校、『愛知二中 岡崎中学 岡崎高校九十年史』、愛知県立岡崎高等学校 創立九十周年記念事業実行委員会、1987年。

8.愛知県立岡崎高等学校創立100周年記念事業実行委員会、『校旗翻る 岡高100周年 新しい 世紀を拓く』、愛知県立岡崎高等学校創立100周年記念事業実行委員会、1996年。

9.愛知県立豊田西高等学校創立50周年記念誌編集委員会、「豊田西高等学校 写真50年史 栄光と風雪の記録 1940-1990』、愛知県立豊田西高等学校、1990年。

10.創立50年史編集委員会、『50年史』、愛知県立豊田東高等学校、1973年。

11.愛知県立豊田東高等学校記念誌校誌編集委員会、『七十周年記念誌 わかきぬ11号』、愛知県 立豊田東高等学校、1993年。

12.愛知県立豊橋南高等学校創立二十周年記念誌編集委員会、『創立二十周年記念誌』、愛知県立 豊橋南高等学校創立二十周年記念事業実行委員会、1991年。

13.近藤恒次、『時習館史 その教育と伝統』、愛知県立時習館高等学校、1979年。

14.時習館高富分校記念誌編集委員会、『高富分校のあゆみ』、愛知県立時習館高等学校高富分校、

1973年。

15.全国高等学校長協会、『全国高等学校一覧』(昭和25年度~昭和50年度)、学事出版。

16.成章八十年史編集委員会、『成章八十年史』、創立八十周年記念事業実行委員会、1981年。

17.創立100周年記念事業実行委員会記念誌部、『創立100周年記念誌 新時代への道標』、愛知県 立成章高等学校 創立100周年記念事業実行委員会、2001年。

参照

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