戦前における地域組合電気事業の計画と挫折
――秋田県横手地方を事例として――
西 野 寿 章
Establishment Plan and Frustration of Electric Power Industry by the Local Government Union before World War Ⅱ :
A Case Study of Yokote Rregion in Akita Prefecture
Nishino Toshiaki
Ⅰ はじめに
戦前の発送電事業を行った電気事業者数は、電気事業統計が初めてまとめられた1907(明治40)
年では119事業者であったが、大正初期の動力革命1)を契機に電気の需要が急増し、電気事業者も 増加した。1921(大正10)年では699事業者、1933(昭和8)年にピークを迎えて818事業者を数 えた。その際、電気事業者には、大きく民営電気事業者と公営電気事業者に大別された。民営電気 事業者のほとんどは株式会社であったが、合名会社や合資会社も存在していた。一方、公営電気事 業者には、県営、市営、町営、村営、それに複数の自治体が組合を組織した組合営が存在し、電気 事業者数が最も多かった1933年では、120を数えた。
民営主導で電気事業が伸展する中、公営電気事業が存在したのには、大きく二つの動機があると 指摘されている。一つは財源主義、もう一つは公益主義である2)。財源主義とは、市町村の財源を 生み出す手段として電気事業の経営を目論むことであり、公益主義とは、高料金や営業の横暴ぶり、
辺鄙な場所への電線路の延長拒否など、地域独占ゆえの民営電気事業者の横暴から需要者を救うこ とだとされた。こうした動機は、同時に事業経営の目的でもあった。たとえば、新潟市では、市財 政の行き詰まりから、民間人が市営電気事業の経営を提唱し3)、群馬県前橋市においても、都市計 画臨時調査委員が金沢市や仙台市、福島県須賀川町(現須賀川市)などの公営電気事業の視察を行 い、電気料金の低減を図っても、経営により得られる利益は、一般会計への繰入、各種事業の財源
1)上林貞次郎(1953):『工業発達史』学生社。
2)広瀬先一(1929):『市町村と電気事業』オーム社。
3)新潟週報社(1927):『市財政の行詰りと電気事業市営の提唱』新潟週報社。
に充当できると結論づけている4)。新潟市の民間人の提言や前橋市の動きは、金融恐慌に見舞われ た昭和初頭にみられ、独自財源を得られる事業として、電気事業が注目されていたものと考えられ る。
筆者は、民営電気事業者が供給区域の全域への配電を拒絶したことを端緒として、主に山村地域 に展開した町村営電気事業の地域的成立条件について究明し、町村有林、部落有林の存在が電気事 業の成立と大きく関わっていることを明らかにしてきた5)。町村営電気事業は、民営電気事業者に 欠落していた電気事業の持つ公共性と公益性を発揮し、自治体の自主財源ともなった。自治体より もスケールの小さい集落レベルで経営が行われた電気利用組合は、住民出資によって電気の地産地 消が行われていた6)。
しかしながら、公営電気事業を計画した自治体全てが、計画通りに経営を行えたわけではなかっ た。たとえば、岐阜県国府町では大正初期に村営電気事業の経営を議会で決議したものの、飛騨電 灯の利権と衝突したことから、1916(大正5)年に国府町(現飛騨市)全域を飛騨電灯の供給区域 とすることなどを条件として、今後30年間は村営電気事業を行わないとの契約を結んでいる7)。 また福井県大野町(現大野市)では、度重なる石油ランプによる火災から行政は電灯を用いること を奨励するものの、電灯料金の高さから電気を導入できない住民に無料で電気を供給するため町営 電気事業を計画するが、福井県は大野町がすでに京都電灯の供給地域になっていることを理由に大 野町の計画に対応しなかった8)。さらに、静岡県御厨町(現御殿場市)では、1911(明治44)年 に「其目的ハ点灯料ヲ低減シテ需用者ノ経済ヲ助ケ、更ニ進ンデ町ノ財源ヲ得ントスルモノニシテ、
頗ル有望ノ事業ト思料スル点モアル」として、町営電気事業のための調査委員を選出しているが、
実現していない9)。このように町村営電気事業の計画を持ったものの実現しなかった例は、筆者が 把握しただけでも、北海道遠別村(現遠別町)10)、秋田県大曲町(現大仙市)11)、新潟県田沢村(現 十日町市)12)、福井県勝山市13)、大分県上井田村(現豊後大野市)14)でみられた。
町村営電気事業計画が実現するには、発電所の建設、電線路の建設等の建設に要する財源の確保 がまずは重要であった。筆者は、町村有林の有無とその町村有林の経済的価値の高さによって町村
4)前橋市(1928):『公営電気瓦斯事業視察報告』。
5)西野寿章(1988):国家管理以前における電気事業の性格と地域との対応−中部地方を事例として−、人文地理40-6、
pp.24-48.西野寿章(1989・90):戦前における村営事業の成立過程とその条件(1)(2)−長野県下伊那郡上郷村の場 合−、産業研究(高崎経済大学附属産業研究所紀要)25-1・26-1、pp.52-70、pp.61-85.西野寿章(1995):戦前の岐阜県に おける町村営電気の地域的展開、産業研究(高崎経済大学附属産業研究所紀要)31-1、pp.44-72.西野寿章(1996):戦前の 町村営電気事業の設立過程(1)(2)、高崎経済大学論集39-1・2、pp.175-194、pp.105-119.
6)西野寿章(2008):戦前における電気利用組合の展開とその地域的役割、高崎経済大学附属産業研究所編『サステイナブ ル社会とアメニティ』日本経済評論社、pp.65--89.西野寿章(2008・2009):戦前における電気利用組合の地域的展開(1)
(2)、産業研究(高崎経済大学附属産業研究所紀要)44-1・44-2、pp.63-76、pp.74-87.
7)国府町史刊行委員会(2009):『国府町史 史料編Ⅱ』、pp.280-281.
8)大野市史編さん委員会(2000):『大野市史 第10巻』、pp.312-313.
9)御殿場市史編さん委員会(1979):『御殿場市史6 近代史料編Ⅱ』、pp.596-599.
10)北海道天塩郡遠別村長(1929):電気事業計画の件(岐阜県旧宮村所蔵).
11)大曲市(1999):『大曲市市 第二巻通史編』、pp.725-726.
12)中里村史専門委員会(1989):『中里村史 通史編下巻』、p.373.
13)勝山市(1992):『勝山市史 第3巻』、p.357.
14)朝地町史刊行会(1968):『大分県朝地町史』、pp.593-595.
電気事業の開業時期に差があったことを究明しつつあるが15)、長野県中澤村(現駒ヶ根市)16)のよ うに一部には認められない例外もあったものの、基本的に起債が認められていた。それよりも、公 営電気事業計画の障害となったのは、先行した電灯会社の電気供給権であった。
戦前の電気事業は、電気事業保護助長政策の一つの目的が電気の普及を徹底することにあったた め、新設会社の許可に伴って、いわゆる供給区域の重複許可が与えられたが17)、管見によると、
これは大都市18)においてみられたものの、地方部において供給地域が重複していたケースはみら れず、前述の岐阜県国府町や福井県大野町のように、先行した電気事業者の既得権の主張、あるい は行政当局の先行会社の保護などによって、後発の計画が阻まれるケースが目立った。そのため、
幻の電気事業計画となったものも多数存在していたものと考えられる。
本稿で紹介する秋田県横手町外四ヶ村電気事業組合19)は、横手町を中心とした周辺自治体が電 気事業組合を結成して、電気供給を行うとしたものであるが、先行して電気供給権を取得していた 電灯会社と供給権の譲渡をめぐって訴訟にまで及ぶが敗訴し、実現に至らなかった幻の電気事業組 合である。しかし、秋田県の電気事業史研究において、横手町と周辺の村々によって電気事業が行 われようとした事実は全く知られていない。そこで、保存されていた資料に基づき、限られた範囲 ではあるが、電気事業組合の設立とその特性と、開業に至らなかった要因について考察する。
Ⅱ 横手地方における電気事業の展開
秋田県において最初に電灯が灯ったのは、1897(明治30)年の小坂鉱山における自家用発電で あった。1901(明治34)年には近江谷栄次によって、土崎港町の一般家庭に電気が供給されたが、
本格的に電気供給が行われるようになったのは、1907(明治40)年の秋田電気(秋田市)の開業 からであった20)。
本稿が対象とする秋田県南東部の横手地方における電気事業は、1910(明治43)年に許可され、
1911年に開業した増田水力電気を嚆矢とする。増田水力電気は、増田町の商人・松浦千代松によ
って設立された。松浦は、葉タバコや生糸の仲買業を行い、1899(明治32)年には羽後葉烟草合 資会社を設立していたが、たばこの製造が国営となったため、会社解散の補償金を資本金の一部と して電灯会社を設立した21)。『第7回電気事業要覧』によると、1914(大正3)年5月末現在の増
15)西野寿章(2011):国家管理以前における町村営電気事業の内発的展開とその地域的条件−岐阜県を事例として−、経済 地理学会中部支部10月例会発表。これについては、別稿にて詳述する。
16)西野寿章(2006):戦前の村営電気事業の成立過程と部落有林野−長野県上伊那郡中沢村を事例として−、地域政策研究
(高崎経済大学地域政策学会)8-3、pp.103-118.
17)三宅晴輝(1951):『日本の電気事業』春秋社、p.36.
18)東京市では玉川電鉄と東京電灯の間には重複地域に優先区域を設ける協定が取り交わされ、例えば世田谷町は玉川電鉄、
中目黒町は東京電灯の優先区域とされていた。渋谷町については、渋谷川以東は東京電灯、以西は玉川電鉄の優先区域とな っていた(東京急行電鉄(1943):『東京横浜電鉄沿革史』)。
19)本稿で用いる原資料は、秋田県立公文書館所蔵『大正十年八月十八日許可 横手町外四ヶ村電気事業組合 許可関係書類 庶務課』である。本文中に原文を用いる場合は「 」で括って明示するが、個別の資料名については省略する。
20)東北電力秋田支店(2001):秋田に電気が灯って100年(パンフレット)。
21)増田町史編纂委員会(1997):『増田町史』、pp.736-737.
田水力電気の供給区域は、増田町、横手町、湯沢町など、増田町周辺の地域と横手町以北にも供給 区域を伸ばしていた。電力の国家管理が開始された1938(昭和13)年末では、秋田県東南部地域 のほとんどを供給区域とし、秋田電気をはじめ、秋田県下の主要電灯会社が秋田県に勢力を伸ばし てきた北海道電灯に吸収されたが、増田水力電気のみが県内資本の大手電灯会社として、1942(昭 和17)年の電力統制による東北配電に出資して解散まで存続した22)。
1938年末現在、秋田県における電灯会社は、北海道電灯を改称した大日本電力が秋田市をはじ
めとして、秋田県内の大半の地域を供給区域としており、秋田資本の電灯会社は、増田水力電気と 小規模な船川電気、南鹿電気の民営3社と、仁賀保電気組合、大葛村、田代村、仙道村の4公営電 気となっていた。
仁賀保電気組合は、秋田県南西部、日本海に面した金浦町、平沢村と、両町村に接する小出村、
院内村の1町3村による公営電気事業である。1915(大正4)年に1町3村の町村長が、純然たる 家庭照明を目的として計画し、1918年に開業している23)。当初は、金浦町外一町二村水力電気組 合と称し、「組合町村ノ住民ニ対シ有料ニテ点灯及動力ノ供給ヲナシ并ニ電気器具ノ販売ヲナスコ ト」を目的とした24)。こうした電気事業のための組合は、戦前の市制・町村制において、その設 置が認められた町村組合の一形式であった25)。
一方、県北東部の大葛村は1931(昭和6)年に、三菱鉱業尾去沢鉱山の自家用発電所からの受 電により開業し、田代村と仙道村の村営電気事業は、電力管理法が公布される直前の1938(昭和 13)年3月に東北地方農村振興政策の一環として公布された農村共同作業場の電気設備助成金を活
用して村営電気としたものであった26)。村営電気としては、全国的にみて、後発グループであり、
田代村と仙道村については、電力管理法によって1943(昭和18)年2月に東北配電に出資したこ とから、わずか5年弱の経営期間であったが、「村に電気がほしい」という村民の要望に応えたも のであった27)。
ところで、本稿で対象とする横手町外四ヶ村電気事業組合の中心的役割を担った横手町では、再 三にわたって町営電気事業経営が話題となっていたという。筆者が資料調査によって得た最初の町 営電気事業に関する記録は、1919(大正8)年9月14日、町営電気問題で町民大会を横手劇場で 開いたとの記録である。それによると、「超満員の盛況で、大山順造、浅利勇吉氏や其の他の青年 が登壇して町営電気の実現を呼び、聴衆との間に大口論が起こり、大騒ぎになった」28)という。横 手市史によれば、後に秋田魁新報が「十余年前におきた横手町外数ヵ村の第一次公営電気問題は、
投石事件まで惹気し、相当の波紋を残して、横手町には金五万円の寄附、公営策士たちには「金一
22)東北電力(1988):『東北の電気物語』、p.316.
23)仁賀保町史編纂委員会(1972):『仁賀保町史』、p.691.
24)金浦町教育委員会(2000):『金浦町史 下巻』、pp.133-137.
25)藤田武夫(1943):『日本地方財政論』霞ヶ関書房、p.63.
26)東北電力(1960):『東北地方電気事業史』、p.145.
27)田代の歴史を探る会(2006):『田代の地域誌』羽後町教育委員会、p.76-77.
28)横手郷土史研究会(1968):『横手明治百年史 下巻』、p.19.
封」ということで納まった」29)と報じていることから、ここでいう町営電気事業経営とは、横手町 外四ヶ村による電気事業のことであろうか。なぜ大口論が起こり、投石事件まで発生したのか、そ の詳細はわからない。しかしながら、横手町における町営電気事業計画は、増田水力電気が電気供 給を開始した1910(明治43)年11月当時からあったとされ30)、その計画を止めるために、増田水 力電気は横手町へ年間5千円の寄附をしていたという記録もあり、前述の町民大会は、横手町単独 の町営電気事業のことを指すのか、横手町外数ヵ村による組合営電気事業のことを指すのかを判断 可能な資料は確認できていない。
1933(昭和8)年12月、横手町会は、懸案の町営電気事業を満場一致で決議し、町債により増
田水力電気の供給権、配電設備等を買収する計画を持っていた。横手町は、供給権をめぐって増田 水力電気を相手取り訴訟を起こすまで至ったが、「電気事業には法規上ないし行政上からも権益を 鞏固と擁護されていた」ことから敗訴となったと記録されている31)。この時の町営電気事業の目 的について、秋田魁新報は、「公営電気は町村財政の新財源として、又電気料金値下げや政派党略 の為にする呼びかけから、各地に公営化の気運がおきている」と報じている32)。
このようにして、横手町単独の町営電気事業計画は実現に至らなかったが、1919(大正8)年6 月に横手町外四ヶ村では、相次いで共同で電気事業を行うことを議決して、秋田県もこれを許可し ていた。しかし、実現には至らず、幻の電気事業となった。
Ⅲ 横手町外四ヶ村電気事業組合の設立
横手町外四ヶ村電気事業組合は、横手町と横手町に隣接する朝倉村、旭村、栄村、山内村(いず れも平鹿郡、現横手市)によって計画された(第1図)。横手町は横手盆地の中心地として発達し、
朝倉村、旭村、栄村は横手町に隣接する農村、山内村は岩手県境に接する農山村であった。電気事 業組合の設置申請が行われた1919(大正8)年度における戸数と人口規模は、横手町2,826戸 18,473人、山内村900戸7,820人、栄村407戸3,128人、旭村441戸3,255人、そして朝倉村は455戸
3,450戸となっており、5町村を合わせた戸数は5,029戸、人口は36,126人となっていた(第1表)。
また地域経済の動向を1920(大正9)年における産業別本業者の割合からみると、横手町では商 業が30.6%と最も多く、工業の割合も高く、農業は10.6%を占めるに過ぎないが、朝倉村において 農業の本業者割合がやや低いことを除けば、農業の割合が高く、盆地内の地域では農業が経済的基 盤の中心となっていた(第2表)。さらに横手町外四ヶ村電気事業組合を構成する町村の1919年に おける財政状況を第1表に示したが、人口規模の小さな村ほど附加税額が大きく、商工業の発達し た横手町とそれ以外では住民負担に大きな差があった。
29)横手市(2011)『横手市史 通史編近現代』、p.317-318.
30)前掲28)、p.51.
31)前掲28)、p.50.
32)前掲29)、p.317.
保存されていた資料からは、横手町外四ヶ村電気事業組合の設立が、いつ頃から議論され始めた かは判らない。横手町外四ヶ村は、1919(大正8)年6月11日、横手町長を筆頭申請者とし、関 係町村長の連名によって、「一部事務組合設置許可申請書」を秋田県知事に提出した。その申請書 には、「横手町山内村栄村旭村朝倉村ノ五個町村協議ノ上電気事業経営ノ目的ヲ以テ組合設置致度 町村会議決ヲ経候条御許可相成度別紙目録ノ通リ一件書類添付此段及申請候也」と述べられ、一部 事務組合設置許可申請書関係町村長連署一通ほか、横手町山内村栄村旭村朝倉村電気事業組合規約、
組合規約ヲ議決シタル決議書並ニ会議録ノ写、大正四年度ヨリ大正六年度ニ至ル歳入出予算及決算 表、大正八年度町村税課率調、大正八年度国税県税町村税負担調、町村有部落有財産調並ニ負債調、
第1表 1919(大正8)年度における関係町村の諸元
(秋田県立公文書館所蔵資料より作成)
第2表 1920年における関係町村の本業者数と産業別本業者割合
(1920年国勢調査結果より作成)
第1図 横手町外四ヶ村
大正七年度及大正八年度町村予算及大正六年度決算書、電気事業計画書及工事費概算書、電気事業 収支見込調、組合債償還方法並ニ償還年次表、関係町村協議ニ関スル往復書ノ写が添付された。
この設置許可申請に先立ち、横手町会では1919年6月3日に「横手町外四ヶ村電気事業組合規 約」を議決している。その理由について「曩キニ町営トシテ電気事業ヲ経営スベク町会議決ヲ経タ ルニ、今般現時ノ状勢ニ鑑ミ該事業拡大ノ必要ヲ認メ、当町ノ外近隣四ヶ村ヲ併セ組合ヲ組織シ、
以テ事業ノ完全ヲ期セントスル所以ナリ」と付記している33)。これを決議した町会において「町 経営ヲ組合組(ママ)営ト改メ事業拡大ニセシ理由ヲ今一応詳細ニ御説明アリタシ」との議員の質 問に対して、浅利和三郎横手町長は「従来ノ町営ヲ町村組合ト改ムベキ理由ハ種々アルガ第一ハ馬 力ニ充分余裕ヲ生スル見込ナルモ供給区域外ニハ仮令余裕アルモ供給出来サルヲ以テ近隣ノ村々ヲ 併セ供給区域トシ置クノ得策ナルヲ認メタレバナリ又町村五ヶ町村ヲ併セ組合トセバ信用程度ニ於 テ将又勢力ノ上ニ於テモ強大ナルベク殊ニ町村組合債ヲ仰クニハ最モ好都合ナルベシト信シタルカ 故ナリ而シテ将来ノ町ノ進歩発展ヲ期セントスルモノナリ」と回答している。また、「工費ハ幾何 位ヲ要スルモノナルヤ而シテ町債ニ依ルヤ」との議員の質問に対して「三十万円乃至四十万円ニシ テ無論町村債ニ財源ヲ需ムル積ナリ」と回答している。
議決された「横手町山内村栄村旭村朝倉村電気事業組合規約」によると、同組合は「組合町村ニ 於ケル住民其他ニ対スル有料電燈及動力ノ供給並ニ電気器具ノ販売」を目的とし、組合会議員の定 数を24人として、その配分は横手町12人、山内村、栄村、旭村、朝倉村は各3人とし、組合会議 員の内1名は各町村長を充て、組合会議員は町村制第51条に準じて被選挙権者による選挙によっ て選ばれ、任期は4年と定められたが、組合会議員は名誉職とされた。本組合の管理者は名誉職と して横手町長を充てた。また組合費用は、横手町6/10、山内村、栄村、旭村、朝倉村はそれぞれ 1/10を負担すると定められている。なお、山内村会では1919年6月6日に「横手町外四ヶ村電気 事業共同経営ノ件」を満場異議なしで議決し、旭村会では同年6月5日に満場一致にて「本村ハ横 手町外四ヶ村電気事業規約ヲ承認シ同組合ニ加盟シ凡テ電気事業共同経営スルモノトス」と議決し ている。また栄村では6月4日、朝倉村では6月7日に、いずれも満場一致で組合への参加を議決 している。
横手町外四ヶ村電気事業組合による電気事業計画を第3表にまとめた。それによると電源は、有 効落差49尺(14.847m)、最大出力290kwの水力発電所の建設が、横手町の東端を北流する旭川の 横手町市街地に近い地点に計画され、それによって得られる動力は311馬力(Horse power)、
17,012.6燭光(Candle power)と計算された。組合では、山間部などでは地理的関係から電気供給
に制限がかかるとして、各町村の需要見込み割合は、横手町0.9、栄村、朝倉村、旭村は0.8とした のに対して、山間部の多い山内村では0.5と想定して、5町村の見込み需要戸数を4,157戸とした
(第4表)。この前提で普及した場合の全燭光数は94,298燭光となり、計画された水力発電所の発電 能力では相当不足している。これは、徐々に普及させ、後に水力発電所を増設する計画であったか
33)横手市(2008):『横手市史 史料編近現代Ⅰ』、p.667.
どうかは不明である。工事費用は、水力発電所分が265,000円、配電に関わる費用については、横 手町が144,205円、ほか4村の工事費合計は51,997円、これら以外に送電線路費10,000円などが見積 もられた。
組合の電灯料金は、1919年11月現在の増田水力電気の横手町への16燭光の1ヵ月料金70銭、他 村への同料金75銭に対して16燭光72銭とし、これを組合収入算定に用いる料金としている。これ による組合の年間収支は収入94,707円に対して支出は49,102円と計算され、純利益45,605円、借入 金の金利と法定積立金を差し引いた残金は11,984円になると計算されている。その際、横手町と朝 倉村における増田水力電気による既設の変圧器や配電線などの工作物を流用し、その買収価格を新 規の場合の8割とみた場合の年間差引残金は13,982円になると計算している。こうした想定による 差引残金は、1919(大正8)年当時の横手町を除いた4村の村税収入を上回っている。ただし、横 手町と朝倉村の電気工作物を全て新設にした場合の差引残金は5,655円に留まるとした。これらの 計算から「本事業ハ組合ニ於テ経営スルモ相当ノ利益アルモノトス然リト雖モ的確ナル結果ハ既設 会社ニ対スル補償額ヲ決定シテ始(ママ)メテ得ラルヽモノトス」と結論し、増田水力電気が設置 した工作物の買収額が正味利益である残金の多寡に大きく関係していた。
なお、財源については、「横手町山内村栄村旭村朝倉村電気事業組ハ電気事業経営費ニ充当スル 為メ大正九年度ニ於テ政府又ハ銀行会社若クハ一個人ヨリ必要ニ応シ金三十六万円以内ヲ借入ルゝ モノトス」、「利子ノ定率ハ年五分トスルモ若シ其ノ利率ニテ借入ヲ為スコト能ハサルトキハ年一割
第3表 横手町外四ヶ村組合水力電気事業計画
(秋田県立公文書館所蔵資料より作成)
第4表 横手町外四ヶ村電気事業組合需要見込み
(秋田県立公文書館所蔵資料より作成)
以内ヲ以テ元金償還ヲ都度之ヲ支払フモノトス」、「公債元金ハ大正九年度ハ据置キ大正十年度ヨリ 大正二十年度ニ至ル拾弐ヶ年間ニ於テ(中略)本事業ノ利益金ヨリ支払償還スルモノトス」と計画 し、他の公営電気にみられたような寄附金は募らず、全て起債により調達するとした。なお、資料 には利益の使途や分配については触れていない。
許可申請後の同年7月31日に横手町長名で秋田県知事に対して、「地方ニ於ケル戦後ノ経営トシ テ殖産興業ノ進展生活ノ安定其他諸般ニ渡リ一日モ其事業ヲ緩ワスヘカラサルヲ自覚致居候」と電 気事業組合の意義を述べている。
Ⅳ 秋田県による許可と組合の解散
横手町外四ヶ村電気事業組合は、1921(大正10)年2月12日、秋田県知事に「申請書」を提出 している。申請書は「大正八年六月九日本号ヲ以テ横手町外四ヶ村水力電気事業組合認可申請ノ件 ニ関シ爾来精密調査中ノ処別紙概算書ノ通リニ有之配電線路費既設電気工作物買収予定額ヲ計上シ タル為総資金ノ増額ヲ見ルモ事業上ノ利益十分ニシテ組合町村事業トシテハ最モ確実有望ナルハ勿 論動力ヲ要求シテ之レニ応ズル能ハサル現状ニ鑑ミ地方ノ産業振興ト社会的施設トシテ速ニ之レカ 実現ヲ期スルノ必要アリト認メラレ候条御詮議相成候様致度此□重テ上申候也」と述べている。電 気事業組合の設立を申請して、1年と半年が過ぎており、認可の催促をしたものと思われる。この 間、秋田県と組合との間に、多様なやり取り、確認がなされたものと思われる。
1920(大正9)年4月8日付けの秋田県内務部庶務課が起案した平鹿郡長宛の文案によれば、秋
田県は郡長に15項目にわたって電気事業組合に再調査を行って、事業計画の適否を詳細に調査の 上、意見を付すように要請している。その15項目とは、供給区域の見取図の提出、各町村の大字 小字の戸数人口と事業開始年度における点灯と動力使用の見込み数、増田水力電灯による5町村に おける供給状況、点灯・動力使用料金、収支概算、増田水力電気より買収する工作物の種類、数量、
金額、各町村の財政状況などであった。これにより、電気事業経営や起債の償還可能性などを確認 したものと考えられる。
秋田県知事は、1921(大正10)年8月18日に横手町外四ヶ村電気事業組合の設置を許可した。
「許可ノ経過及理由」には、当初の工事費36万円は既設電気工作物を買収するための予定金を組み 込むことにより46万円となったこと、秋田県土木課長が電気事業組合による経営は可能で有利あ ると予想したこと、既設工作物に対する補償金を加えても1万8千円余りの利益が見込まれたこと、
町村の財政状況を確認したことなどが書き込まれており、「本件ハ町村法第百三十一条第一項第二 項ニ依リ許可スルモノトス」とされた。町村法第131条とは「町村組合ヲ設クルトキハ関係町村ノ 協議ニ依リ組合規約ヲ定メ府県知事ノ許可ヲ契リヘシ」というものであった。なお、保存文書によ れば、栄村は1921年8月12日付けで秋田県知事宛に電気事業組合の脱退報告書を進達したが、8 月17日付けで「都合ニ依リ御返戻相成候様致度候也」と連絡している。なぜ脱退しようとしたの
か理由は定かではない。
悲願の横手町外四ヶ村電気事業組合は、申請から2年2ヵ月後に許可されたものの、1923(大正
12)年4月26日に開催された旭村会において、「横手町、山内村、栄村、旭村、朝倉村電気事業組
合ヲ解散スルコトニ同意スルモノトス」34)と可決されている。なぜ解散に至ったのか、その理由を 明らかにする文書は残されていないが、電気事業要覧や東北地方の電気事業の記録に組合名が記載 されたことがないことから、町村法によって秋田県が電気事業組合の設置を認可したものの、電気 事業の許認可権を握っていた逓信省が不許可とした可能性が高いと考えられる。
地域の申請が認められなかった結果、これらの地域への配電時期が遅れた可能性がある。『電気 事業要覧』によると、1918(大正7)年末では横手町、朝倉村の一部に増田水力電気によって配電 され、翌1919年末、1921(大正10)年6月現在も、同様であった。1924(大正13)年末になると、
横手町外四ヶ村の全地域が増田水力電気の供給地域になっている。『電気事業要覧』の1923年版、
1924年版、1925年版は、各電灯会社の供給区域の詳細の記載が略されているため、1921年6月か
ら1924年末までの間に新たに供給区域に加わった地域の把握は困難となっている。山間部が多い 山内村に初めて電灯がついたのは1921(大正10)年のことであったとされており35)、平坦部にあ る他の村も同様の時期に供給区域となったものと考えられる。
Ⅴ 横手町外四ヶ村電気事業組合の特性と未開業要因の考察
本稿は、保存されていた資料を元にして、秋田県横手町と周辺の4村による電気事業組合の顛末 を述べてきた。横手町外四ヶ村電気事業組合は、幻の電気事業組合となったが、横手町と周辺の4 村は、なぜ電気事業組合を設立して、電気事業を経営しようとしたのであろうか。試算によれば、
電気事業組合による電気事業経営は十分な利益が見込めたことから、独自財源を得る手段として起 業されたと考えることができる。その大きな根拠は、電気の普及率を横手町では90%、栄村、朝 倉村、旭村ではそれぞれ80%と見込み、山内村では50%と見込んで収支計算をしているからであ る。
筆者のこれまでの研究によれば、戦前の自治体、とりわけ山村地域の自治体が電気事業を経営す る論拠は、民営電気事業者が経営効率を優先して、山村地域では採算性の劣る家屋密度が疎散な集 落への配電を行わないか、負担金などの条件を提示して配電しようとするのに対して、自治体営の 電気事業は住民平等に一斉点灯をめざす点にあり、長野県上郷村における長年にわたる民間電気事 業者と村落共同体の闘いや長野県中沢村における電気事業の経営の理由は正にこの点にあった36)。 電気事業法第六条には「主務大臣ハ公益上必要アリト認メタルトキハ電気事業者ニ対シ料金ノ制限 其ノ他電気供給ノ条件ニ関シ必要ナル命令ヲ為スコトヲ得」とあるが、管見では山村地域を供給地
34)横手市市史編さん室所蔵『旭村会々議録』。
35)山内村郷土史編纂委員会(1990)『山内村史 下巻』、p.282.
36)前掲5)参照。
域とした電灯会社は、経営上の効率性を優先し、地域全戸に漏れなく電気を供給するという使命感 を持っていたとはいえない。それはたとえば1925年における岐阜県の中小規模電灯会社の平均電 気普及率が74.1%であったのに対して、町村営電気の電気普及率は99.2%に達していたことからも 理解される37)。
横手町外四ヶ村電気事業組合設立の目的には、「組合町村事業トシテハ最モ確実有望ナルハ勿論 動力ヲ要求シテ之レニ応ズル能ハサル現状ニ鑑ミ地方ノ産業振興ト社会的施設トシテ速ニ之レカ実 現ヲ期スルノ必要アリト認メラレ候」と述べられているが、組合を構成する町村の全戸に電気を供 給するという目的は明記されず、山間集落の多い山内村の普及率が50%と見積もられていたのは、
最初から配電条件の悪い集落には配電しないことを前提に組合電気事業計画が組み立てられていた ことになる。言い換えれば、経営効率の良い地域だけに配電しようとしていたと理解される。この ことは、山村自治体が経営した町村営電気事業の大きな使命が地域一斉点灯にあったことと性格を 異にしており、横手町外四ヶ村電気事業組合は、電気を全地域へ普及させるということよりも、効 率の良い電気事業経営によって、独自財源を確保することに主眼があったものと判断してよい。
横手地方において電気事業組合が計画された大正前期の地方財政は、都市、町村をふくめ地方財 政が全体として借金に頼らざるをえないほど窮迫の度を強め、農村部では義務教育関係費が増大し ていた38)。横手町の歳出割合をみると歳出に占める教育費の割合は1911(明治44)年では44.3%、
1916(大正5)年では30.9%を占め、支出科目では最も高くなっており39)、主に学校の建築費のた
めに公債が用いられ、基本財産、積立金も主に教育のために貯蓄、積み立てられていた40)。一方、
歳入41)をみると、1911(明治44)年では56,533円余りの歳入の67.4%は町税が占めており、その 割合は1914(大正3)年74.7%、1916年68.0%となっており、横手町の歳入に占める町税の割合は、
1914年では全国平均の50%を上回っていた42)。そして、国と県からの補助金、交付金の占める割
合は1911年2.4%、1914年5%、1916年5.1%となっており、この当時の地方財政の歳入は地方税収 入が主体となっており、人口の多寡が財政規模を決定づけ、それゆえに人口の少ない自治体ほど、
住民負担が大きかった(第1表)。そのため、住民負担を軽減する場合や産業振興を図るには独自 財源を持つ必要があった。電気事業は、独自財源を生み出す有力な産業であった。こうした当時の 財政構造が、横手町の町営電気事業計画、横手町外四ヶ村電気事業組合計画の背景にあったものと 考えられる。
また、秋田県が電気事業組合を認可したにもかかわらず実現に至らなかったのは、なぜだったの だろうか。1911(明治44)年に制定された電気事業法においては、供給区域は市町村の行政区画
37)西野寿章(1996):町村営電気事業の地域的展開、高崎経済大学附属産業研究所編『開発の断面』日本経済評論社、
pp.22-23.
38)吉岡健次(1981):『日本地方財政史』東京大学出版会、p.123-124.
39)横手町史編纂会(1933):『続横手郷土史』東洋書院、p.96.
40)前掲39)、p.102.
41)横手町(1915):『横手町勢一班 第十回』ほか。
42)前掲38)、p.127.
によることを原則としたものの43)、電気事業保護助長政策の一つの目的が電気の普及を徹底化す ることにあったため、新設会社の許可に伴って、いわゆる供給区域の重複許可が与えられた44)。 たとえば1938(昭和13)年における東京市では、東京市営電気と東京電灯、東京電灯と王子電気 軌道、東京電灯と京王電気軌道において供給地域の重複がみられ、電灯会社間で優先区域を取り決 めていた45)。こうした重複許可は、電気需要が大きい大都市部にみられたものの、管見によれば 中小都市や農山村地域での事例は存在していない。
町村営電気事業を計画した自治体が、先行した電灯会社の供給区域に組み込まれていた場合は、
しばしば自治体と電灯会社間で問題が発生していた。たとえば、長野県赤穂村では、明治末期に、
当時の村長ら有力者が民営電気事業を計画するものの、すでに長野電灯の供給区域として許可され ていたため不許可となったものの、公共団体が電気事業を買収するときは電灯会社は拒めないとの
「付帯条件」が許可に際して付けられていたことを知った赤穂村長は、村会の議決を経て村営電気 事業計画の許可申請を行うものの、許可されなかった。赤穂村の各部落では長野電灯から電気供給 を受けない「長野電灯不点灯同盟」が結成され、村営電気事業の実現を図ろうとするが、一部住民 が長野電灯に切り崩され、このことが発端となって騒擾事件へと発展した46)。付帯事項があった にも関わらず、赤穂村営電気事業が不許可となったのは、長野電灯が政治的な働きかけを行ってい た形跡が認められている47)。また、広島県戸河内村の丁巳信用販売利用購買組合が広島電気と供 給地域の譲渡について交渉した際、仲介の役割を担うべき広島逓信局が会社寄りの姿勢を取り続け たことにあるように、当時政府は大手電灯会社の規模拡大を後ろ押ししていた様子も伺われ48)、 供給権の譲渡は容易ではなかった。
横手町外四ヶ村電気事業組合の場合は、秋田県が電気事業組合の設立を許可したものの、先行し た増田水力電気の供給権の譲渡が実現しなかったものと考えられ、自治体が公益的な立場から電気 事業を計画しても、先行して許可を得ていた電気事業者の権利が守られたと考えることができる。
それは、戦前の電気事業が民営主導で発展し、政府もまたそれに委ね続けたことに起因していると いってもよく、電気事業を管轄していた逓信省の政策的姿勢の表れと捉えることもできよう。
(にしの としあき・本学地域政策学部教授)
〔付記〕本稿を定年により退職される北條勇作先生に献呈させていただきます。北條先生には、同じ経済地理学 徒として、筆者が本学に赴任して以来、公私にわたって多大なるご指導をいただいてきた。2004年に北條先生 を大会委員長として、経済地理学会地域大会を本学で開催したことや、一時期、筆者の家族が北條先生宅の近 所に居住していたことから家族ぐるみでお世話になったことなど、色々な想い出がある。ご指導とご高配に対 して、ここに記して感謝申し上げたい。
43)電力政策研究会(1965):『電気事業法制史』電力新報社、p.88.
44)三宅晴輝(1951):『日本の電気事業』春秋社、p.36.
45)西野寿章(2013):東京の電気事業と電源開発、地学雑誌〔東京特集号〕(印刷中)。
46)駒ヶ根市史編さん委員会(1979):『駒ヶ根市誌 現代編上巻』、pp.528-534、pp.1037-39、pp.1229-1231.
47)長野県(1984):『長野県史 近代史料編第2巻(3)』、pp.466-478.
48)戸河内町(2001):『戸河内町史 通史編(下)』、p.642.
本研究には、平成17〜19年度日本学術振興会科学研究費基盤研究(C)「戦前のわが国における地域組合電 気事業の設立と展開に関する地理学的研究」(課題番号17520543、研究代表者・西野寿章)の一部を使用した。
資料の閲覧にあたっては、秋田県立公文書館ならびに横手市市史編さん室にたいへんお世話になった。あわせ て感謝申し上げたい。