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20世紀初頭のイギリスでの 国際マーケティング展開試論

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(1)

は じ め に

国際マーケティングの研究は,アメリカではもちろんのこと,わが国でも 角松(1983)や大石(2009)など多くのすぐれた業績がみられる。しかしな がら,この問題を歴史的な視点からしかも国際比較研究のなかで検討すると いう試みは意外と少ない。

しかしいわゆる

Pax Americana

の時代と呼ばれ,アメリカが世界経済の中 心となり,しかも第2次大戦後の急速な多国籍企業の展開がみられる100年 以上もまえに,

Pax Britanica

という時代が存在したという事実を想起する必 要がある。第2次大戦後の時代状況とは大きく異なるが,その当時のロンド ンを中心とした世界的な流通・金融・情報のネットワークの形成は顕著なも のがあった。しかもその時代は資本主義の独占段階への移行期でもある。本 稿はその点に着目して,そこに国際マーケティングの端緒的な形態を模索し てみようという試みである。

1.問題の提起

1−1 アメリカ・マーケティングにおける自国中心主義批判

近年,アメリカで台頭してきているマーケティング史研究の新しい動向は,

マーケティング論のこれまでの自国中心主義的な考え方を改めようとするも

20世紀初頭のイギリスでの 国際マーケティング展開試論

内 田 寛 樹

−207−

( 1 )

(2)

のであり,マーケティングがアメリカのみの存在とみる,これまでの研究の 潮流を根本的に見直そうとするものである。

薄井和夫(1997)は,これまでのマーケティング史研究のそのような傾向 と新しい動向を比較して,これからのマーケティング史研究の課題を明らか にする注目すべき論稿である。まず薄井は(p.17),北アメリカの環境と経 済的諸条件に裏打ちされたマーケティングの支配的パラダイムが普遍的で,

アメリカのシステムとは異なるマーケティングの構造とプロセスに対して,

後進的で非能率的であるとレッテルを貼ってきたというエドワン・クムジュ の主張を紹介(Kumcu, 1985, pp.99‐

100)する。そのうえで『マクロ・マー

ケティング誌』のマーケティング史特集号の「編集者宣言」が「マーケティ ング史家は,アメリカないし西洋のマーケティングの定義に合致するような システムだけを考察するのではあってならない」と述べているのを(Nevett

and Hollander, 1994, p.5

),アメリカ・マーケティングを相対化しようとする

思想に基づいてのことである,と書いている。このような動きは,次の2つ の大きな流れを背景として展開されているのであって,そのひとつがマーケ ティング史研究のあらたな台頭であり,いまひとつが「近代西洋マーケティ ング」という新しい概念の展開である。

まずマーケティング史研究の新展開についてみると,1980年代以降の新し い歴史研究の台頭はマーケティング史学会の発展に支えられていると薄井は 指摘している。その指導者の1人であるホランダーが,「マーケティング史 は過去10年から15年の間に驚くほどの関心の高まりと内容の発展を享受して きた」(Hollander and Raussli, 1993, p.xv)と述べているのを紹介している。

そしてこのようなあらたな歴史研究の台頭が,アメリカのマーケティングを より拡大された歴史のなかに位置づけることを可能にしたのである。

さきのクムジュの主張や「編集者宣言」がこのような潮流を背景に生み出 されたものであることはいうまでもないが,その根底にはマーケティング史

−208−

( 2 )

(3)

知覚的経験

仮説

調査の設計

データの収集

検証

理論の構築と解釈 現実世界の構造についてのイメージ

否定的フィードバック

肯定的フィードバック

研究の方法の明確化があり,従来からの支配的研究モデルであった「論理経 験主義」パラダイムから開放された,研究方法の多様化への動きが存在する。

そのひとつの展開として薄井は

Savitt

(1980)の論稿を紹介しているが,そ の方法的ダイアグラムは図1−1−1に示すとおりである。この図と関連し て,「歴史研究においては『実験』が不可能であるが,このことは歴史研究 の有効性が実験の可能な他の分野の研究よりも劣るということを意味してい るのではない。歴史の研究は科学的方法のもつ客観性(objectivity)を確保 しなければならない」(Savitt, p.54)と書いてその科学的方法の一端を提示

図1−1−1 マーケティング史研究の方法的ダイアグラム

出所,Savitt(1980),p55による。ただ邦訳は薄井(1997)のものを使用した。

20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −209−

( 3 )

(4)

しているのである。

Savitt

はその7段階モデルについて詳しく述べているが,

第5段階の「データの収集」に関しては従来型のマーケティング・リサーチ とは異なり,記録的資料(archival materials)や会社の記録・公文書などが 用いられると指摘している(Savitt, p.55)。本稿の今後の展開もこのような モデルに沿って進められることになる。

次に「近代西洋マーケティング」という主張について触れておくと,これ

Fullerton(1988)によるものであるが,彼はこの主張を「西ヨーロッパお

よび北アメリカの経済的に進んだ資本主義社会で発展し,近年,環太平洋地 域にも普及してきているマーケティングの特定のバリアントである」と書い ている(pp73‐

74)。薄井は,Fullerton

のこのような提案には,つぎのような 主張が内在している,とする。フラートンの主張は,アメリカ・マーケティ ングのオリジナリティを否定し,それが「近代西洋マーケティング」の一部 に過ぎないということを含意しており,アメリカ・マーケティングの先行者 として,とりわけ産業革命期のイギリスに着目すべきであるという内容を含 んでいる,という。すなわち,フラートンが着目しているのは,なによりも まず,バックルのボールトンや陶器のウェッジウッドといった製造業者で あったとする。薄井は,こうした産業革命期における「生産面での著名な先 駆者のなかのある人たちは,同時に近代マーケティングの先駆者でもあっ た」(p.20)というのである。

自国中心主義の反省から相対化されつつあるアメリカのマーケティング研 究の潮流から生まれた,「近代西洋マーケティング」は,マーケティングが イギリスにおいてその先駆的存在をもっていたとみる。本稿で展開するイギ リスにおける国際マーケティングが,アメリカに先行したものであったとい う主張は,このような研究潮流と無関係なものではない。

−210−

( 4 )

(5)

1−2 比較マーケティング論の展開

アメリカで比較流通研究(Comparative Marketing Studies)が本格化するの は,アメリカの多国籍企業が急速な海外展開のあとを受けた1960年代になっ てからである。その直接的な要因が,アメリカ国内のマーケティング技法は そのまま海外に利用できるのかという,企業経営面での実践的な要求であっ たことはいうまでもない(

Cox, p.143

)。

しかし多国籍企業のこのような実践的要求から生まれた比較マーケティン グ研究も,その後次第に「純粋に知的でアカデミックな関心」からの研究と して深められていく。それは前項で触れたアメリカ・マーケティングにおけ る自国中心主義批判の潮流へと結びついていくものであり,アメリカは自国 で生成し発展したマーケティングの理論や技術を,そのままのかたちで他国 や他民族に押し付けてはならないという思想に裏付けられたものであった。

しかしそれが,アメリカの自国中心的なマーケティングからさらに進んで,

「われわれの知るすべての社会に応用可能なマーケティングの一般化(gener-

alization)を追求する」(Cox, 1965, p.146)という理念的なものを越えて具

体化されるためには,

Bartels

(1968)の環境主義的アプローチの登場が必要 であった。

Bartels

の比較流通(マーケティング)研究の方法論については,わが国

でもかなりの紹介がなされているので(田村,1986,p.14および田島,1991,

p.

73),ここで詳しく述べる必要はないと思うが,それは要するに,2国間 の流通システムの比較をおこなうには,流通・マーケティングそれ自体の比 較をおこなうだけでなく,むしろそれを規定している経済的・社会的・文化 的環境要因との関連でそれをおこなうべきだというものである(

Bartels, 1968, p.59)。

図1−2−1は,その概念図を示したものであり,まず(A)のレベルに おける2国間の流通システムの直接的比較は,科学的分析の名に値しない記 20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −211−

( 5 )

(6)

国1の流通システムの 特定要素

国1の流通環境 国2の流通環境

関連(C) 関連(D)

国2の流通システムの 類似性と 特定要素

相違(A)

類似性と相違(E)

類似性と相違(B)

述的分析にすぎないという。これに対して(B)レベルの流通の環境条件の 比較は比較研究の前提を提出するものであり,重要なのはこれにとどまるだ けでなく,(E)レベルでの国際比較つまり2国間におけるそれぞれの環境 特性と流通(マーケティング)構造との相互規定と関連関係の分析をおこな うことである。

このような

Bartels

の見解にはそれを評価する意見とともに,それを批判 する主張も多くみられた(

Boddwyn, 1981, El-Ansary and Liebrenz, 1982

)。だ がここではわが国の田島(1990)と田村(1986)の見解を紹介しておこう。

田島と田村はともに上述の

Bartels

の環境主義のアプローチを評価するが,

しかしその実際的応用には多大の困難があり,両者とも「2段階接近」とか

「中範囲の理論」の構築によってこの困難を克服していくべきであると主張 する。

田村の批判的評価をやや詳しく紹介する。Bartelsの理論の実行性の第1 のものは比較をおこなうデータの収集可能性である。しかし第1の点から派 生するより大きな困難性は,まず流通・マーケティングを規制する環境的要 因は多岐にわたり,それらのすべてを網羅したデータも当然多岐にわたる。

さらに重要なのは,比較の対象となる流通・マーケティング・システムのど 図1−2−1 バーテルズの概念図式

注,Batels(1982)pp.59‐62による。ここでは,田村正紀(1986)p.14の翻訳図を用いた。

−212−

( 6 )

(7)

こを対象にして比較をおこなうかによって,それと環境条件との対応関係は 決して一様ではなく,環境条件とのかかわりで,流通システムの全体を把握 するには,実に膨大な仮説とその検証のためのデータが要求されることにな る。

しかし田村はこれらの困難を克服してその大著『日本型流通システム』を 完成するのであるが,そのために「部分比較分析」という方法がとられる。

それは比較分析の「焦点国」を日本に限定し,それと理論的に想定された先 進資本主義国との比較をおこなうのである。ただこの場合でも,諸変数間の 因果関係を数学モデルで厳密に定式化することは困難であり,比較分析は

「数学モデルとしてではなく,概念モデルとして用いる必要がある」(田村,

p

.26)と書いている。

本稿の1−1で,Savitt(1980)によるマーケティングにおける歴史研究 の方法論的ダイアグラムを紹介したが,そこでも仮説の設定とデータによる 検証という科学的方法が提示されていた。「歴史的な実験が不可能であると いう事実は,実験がおこなわれる状況下での研究にくらべて,歴史研究が理 論的根拠が薄弱であることを意味しない」(

p.54

)と

Savitt

は書いている。

本稿のこれからの記述は,そのような方法と視点に立って国際マーケティン グの歴史的な国際比較分析を行うのであるが,ここで今後の行論を先取りす るかたちで,さきの

Bartels

の比較流通の概念図式に対応するかたちでの国 際マーケティングの比較分析図を掲げておく。

本稿の課題は今後の行論で明らかにされるように,アメリカよりもかなり 早い時期に,イギリスにおいて国際マーケティングの展開がみられたという 事実を,その両国の歴史的環境条件の比較をおこないながら,それとの対比 のうえで,検証しようというものである。図1−2−2は,本稿の論旨の見 取り図を示したものとして受け取っていただけたらと思う。本稿では,アメ リカの国際マーケティングの展開について,詳しく述べるつもりはないが,

20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −213−

( 7 )

(8)

関連(C) 関連(D)

類似性と相違(A)

①世界の中心としてのロンドンを起点とする  商業・金融システム

②19世紀後半以降にみられる商業資本依存か  ら製造業主導型流通への変化

①国内市場を中心とするマーケティン  グの展開

②国際マーケティングの展開は第2次  大戦後

①Pax Americana への移行は第2次  大戦後②国内市場の未開拓と開発可能性

①Pax Britanica といわれるイギリスの国際  中心性②イギリスのアジアにおける流通環境の変化

イギリス アメリカ

類似性と相違(E)

類似性と相違(B)

(アジアへの直行航路や電信の発達)

広大な国内市場にめぐまれたアメリカの場合,海外市場の獲得に立ち遅れた という事実はよく知られている(森下,1993,

p

.119)。

2.イギリスでの国際マーケティング展開についての議論

実際に1900年前後のイギリスの状況を念頭において,国際マーケティング はどのように論じられていたのだろうか。ここでは2つの対立するかにみえ る主張を紹介するが,そのいずれにおいても論文のタイトルにみられるよう に

Marketing Performance

とか

Textile Marketing

という言葉が使われているの は注目に値する。イギリスにおける歴史研究の分野では,1900年前後の国際 的流通を論じるときにはほぼ当然のものとして

Marketing

という用語が用い られているのであって,まずこの点に留意して論文の内容を見ていくことに しよう。

2−1

S.T.Nicholas

の見解

Nicholas(1984)は,Kirby

Payne

Kindleberger(1964)などによって

一様に主張された見解,すなわち,後期ビクトリア時代と呼ばれる1800年代 後期のイギリスの低迷の原因として,「もっとも無視された重要な分野は海

図1−2−2 イギリスとアメリカにおける国際マーケティングの比較分析図

−214−

( 8 )

(9)

外マーケティングであった」とか,「販売と生産とを分離した商人組織への 依存」(Kindleberger, p.149)などと述べる見解に対して,強い反発と批判を 加えている。

まず最初に

Nicholas

は,上記のような世界市場におけるイギリスの輸出 シェアの低下と海外マーケティング活動の貧弱さ結びつける見解に対して,

その多くが現地の領事館報告に依存しているが,その報告書にみられる現地 企業のマーケティング活動に対する不満の多くが不正確で誤解を生むものだ と批判している(

p.495

)。

しかしイギリスの海外でのマーケティングに対するより重要な批判として は,不適切な交易制度が販売活動を妨げているという主張があると

Nicholas

は書いている(

p

.496以下)。それは「イギリスの企業が,顧客ニーズをあま りにも不適切にしか反映しない古くからの流通商業システムにあまりにも過 度に依存している」(

Aldcroft, 1964, p.125

)という主張に代表されるもので ある。この点は本稿の主張と結びつく重要な点なので,以下詳しく紹介する ことにしたい。

多くの製造企業や商社の代理店として活動する商業企業(

merchant house

) は,競合する商品ラインでの利害の衝突に巻き込まれる。彼等は技術的に専 門化された商品を取扱うわけではなく,その主要取引企業との結びつきも弱 いからである。その一例として

Lewis(1957, p.583)の主張を紹介しつつ,

商業企業は19世紀の前半に創設された輸出組織であるが,発展してきた鉄鋼 や機械の市場では不適切なものとなっていった。商業企業がその取引先の多 くの製造業間で競合する商品ラインを取扱っている場合には,親企業に対す る忠誠心(

Loyalty

)が弱められるのを防ぐために,製造企業は自分自身の 販売組織(own selling organization)を設立する必要に迫られたのである。

このように,商業企業はイギリスの交易の促進の障害として批判されてき たのであるが,しかしイギリスの海外取引に役立つさまざまな制度的改良も 20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −215−

( 9 )

(10)

なされてきた。巡回する販売員(

travelling salesman

),管理された代理店制 度,販売支店制度(branch sales office)や海外直接投資などがそれである。

イギリスの海外での商業活動が成功したのか失敗したのかを一般化するまえ に,これらの制度的変革のそれぞれについて厳密な検討がなされるべきであ る

Nicholas

は言う。

まず商業企業が長い期間にわたって,国内企業と海外市場との仲介業者の 役割をはたしてきたことについて

Nicholas

はつぎのように述べている。「綿 製品やウール・レース・紙製品などの標準化された商品は,イギリスにおい ても商業企業は今日の日本の総合商社のような仲介と調整の役割をはたして きた」(p.497)と言う。ただその場合の商業介入の条件として,「イギリス の製造業者が自分自身の海外での販売組織を創設するための資源を持たな かったとき」,「取引がブランド化されていない大量商品の場合」,「取引の数 が小規模であった場合」(

p.489

)が指摘されている。これだけの条件で独立 した商業企業の存続を説明するものとして充分なものかどうか検討の余地は 残されているが,さらにこれにつぎのような条件が付加されることによって,

海外販売の制度的条件のモードに大きな変化が生じてくる。

取引コストが増加すること,市場での競争圧力が強まること,ブランドロ イヤルティによる製品の差別化,特別の製品情報の顧客への提供,等々の条 件がそれであって,そこでは「イギリスの製造業者は商業企業との間に直接 的(direct)な代理店契約を結ぶようになった」(p.498)。商業企業との間に

直接的(

direct

)な代理店契約を結ぶことによって,排他的で独占的なマー

ケティング契約が可能となり,競合する製品ライン間の紛争も回避されるこ とになる。契約条項の具体的な内容は,排他的な販売地域の決定,活動成果 についての詳細の決定,販売努力や株式保有についての決定などである。

さらに代理店側が上記の契約条項の実行を確保するための規定としてつぎ のようなものがあった。①活動成果の貧弱な代理店を明らかにし,元気な代

−216−

( 10 )

(11)

理店を勇気付けるための手数料(

commission

)システムの導入,②代理店は 規則的に巡回者を提供し,販売地域での注文をとることを契約する,③代理 店が市場の詳細な情報を本社に送るように,各週ごと,各日ごと,さらには 半年に一度は顧客の情報を本社に届ける。④逆に本社は会社の巡回員を雇っ て海外の代理店を定期的に訪問し監督し指導する。

さらに時代が進んで20世紀の半ば近くになると,攻勢的な消費財メーカー はいわゆる多国籍企業としての展開を進め,代理店制度や巡回員制度を廃止 して販売支店の設立へと動くのである。イギリスの縫製メーカーは1900年ま でに,アメリカ,フランス,ドイツ,カナダで現地の工場生産を始めたとも 記している。

このような検討のあと,

Nicholas

はつぎのように結論づける。「未熟なマー ケティング技術と時代遅れの販売制度に依存しているという,イギリスの経 営者についての古くからの図式は誤っている。…制度的な革新と大規模な適 応が流通分野でも起こっており,とりわけそれは,垂直的に統合された流通 システムの開始ということになる。…1870年以降の海外での販売活動におけ る主要なイノベーションは,流通経路についての製造業者の管理であった」

(p.506)。

2−2 S. Sugiyama の見解

わが国の著名な流通史の研究者であり,とくに近代アジアの流通に詳しい 杉山伸也(

Sugiyama, 1988

)が,上述の

Nicholas

の見解についても触れなが ら,とくに日本のおかれた状況に視点を据えて,1860年−1914年の時代を念 頭におき,当時の代表的な輸出入品目であった繊維製品のマーケティングに ついて論文を書いている。

上述の

Nicholas

の見解は,この時代のイギリスの対外流通とマーケティ

ングの変遷について,包括的に論じたものであり,対西欧諸国やアメリカは 20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −217−

( 11 )

(12)

もちろんのこと,アフリカや東アジアなどその実証の範囲は多岐にわたり,

それなりの説得力をもつものであった。しかし日本という国を特定し,しか もその当時の重要な輸出入品目であった繊維品に限定した立ち入った検討に なると,Nicholasの一般的な主張の妥当性は当然あらためて検討の対象とな ろう。杉山の見解は,日本に対するイギリス産業資本のマーケティング活動 は必ずしも

Nicholas

の言うような洗練され成熟したものとはならなかった というものであるが,しかしそこには開港場システム(treaty port system)

という日本独特の制度的要因があったという主張であり,以下その点につい て若干の紹介とコメントをおこなうことにしたい。

杉山も,ウィクトリア朝後期から20世紀初頭のイギリス製造業の国際競争 力の低下の主要な原因が,イギリスの海外マーケティング技術の不効率と不 適切にあったと長く考えられてきたと,その論稿を書き始めている。しかし そのような認識が,イギリスの領事館報告やそれに類した刊行物によって作 り出された不幸な面があると述べて,Nicholasのさきに紹介した領事館報告 への批判を歓迎している。しかし杉山はこれまでのこの問題についての研究 者の多くが生産過程に目を向けてきたのに対して,むしろ販売や流通の分野 に光が向けられるべきであると書いて,繊維製品の国際的流通について考察 を進めるのである。

表2−2−1は,この時期の日本の繊維生産と繊維の輸出入の状況をみる ために杉山が提示した表の一部を掲げたものである。この表から杉山は以下 のように状況を説明する。まず糸と織物の全体について傾向をみると,生産 の急増と輸出の増大,これに対して輸入の低迷傾向が読み取れる。これにつ いて杉山は,「繊維産業での輸入代替の成功を意味する」(

p.291

)と書いて いる。しかしこの成功は「安いイギリス製品との激しい持続的な競争に打ち 勝ってなされたもの」(p.291)である。したがってイギリスの側からみれば 日本製品とのマーケティング競争に敗北したとの認識が生じてくることにな

−218−

( 12 )

(13)

表2−2−1 日本の繊維市場と織物取引(1815−1914)

単位:千円 糸(Yarn)と織物(Fabrics) 1875 1895 1914

綿糸

生産 1,106 58,260 203,772 輸入 4,053 7,082 215 輸出 1,034 78,554 シルク

生産 56 2,570 10,265

輸入

輸出 2,339

ウール

生産 53 9,626

輸入 1,137 14,784

輸出 235

合計(そのほかを含む)

生産 7,274 143,317 446,826 輸入 4,135 11,690 31,310 輸出 6,475 52,135 250,963 織物 綿製品

生産 11,185 62,301 150,386 輸入 5,406 6,894 5,260 輸出 10 2,316 34,841 シルク

生産 4,036 52,512 102,482

輸入 245 405 87

輸出 10,061 34,023 ウール

生産 20 3,226 38,064 輸入 5,777 9,104 10,225

輸出 1,153

合計(そのほかを含む)

生産 17,445 138,991 323,879 輸入 11,653 19,795 18,095 輸出 18 20,350 81,309 出所,Sugiyama (1998), p.290tabale 5をもとに筆者が作成。

20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −219−

( 13 )

(14)

る。しかし1895年までの状況をみると,綿製品の生産と輸出を増加させるた めには,その原料としての綿糸の生産と輸入が必要とされていたのも読み取 れるのであって,この日本での一定の需要増大に対して,イギリスの輸出業 者がどのようなかたちの販売努力を行ってきたかが問われることになる。

これに対する杉山の答は否定的であり,「西欧の企業は日本の消費者から 隔絶されていただけでなく,大都市に立地した卸売業者からも分断されてい た」(p.292)と書いている。これが開港場システム(treaty port system)と 呼ばれるその当時の日本に独特の輸入調整システムに由来するものであり,

欧米企業その中心はイギリスの輸出業者であったが,彼等は開港場(横浜や 神戸など)に立地した手数料収入(commission basis)で仕事をする輸入業 務に特化した日本商人とだけ直接的な取引が許されていたのである。日本国 内の消費者や商人からの隔絶はこの必然的結果であり,開港場のイギリス商 人はそこに立地した日本の輸入商人からの注文を待つだけであった。日本の 国内ではさきに

Nicholas

が紹介していたような,現地に立地した専属的な 代理店や支店を設置して,その国内の内部にあらたな販売チャネルを形成し たり巡回販売員を確保したりすることは不可能だったのである。これでは洗 練された高度なマーケティングが展開される余地は,日本の国内市場に関し ていえば存在しなかったのである。

この点からみるかぎり,イギリス綿製品のメーカーの日本の消費者ニーズ への適合の遅れというマーケティング政策の欠陥は,否定できないようで ある。しかし杉山はこのような検討を加えた上で,「より根底的な要因が 存在する」と書いたうえで,さきに触れた「開港場システム」の存在を指摘 し,「それは欧米とくにイギリス商人の国内への参入を阻止する非関税障壁

(non-tariff barrier)として作用した」(p.294)と断じている。

−220−

( 14 )

(15)

3.「マセソン商会」の実証分析が示唆するもの

これまで,Nicholasによって提示された19世紀後半から20世紀にかけての イギリスの国際マーケティング展開の実証分析をフォローしてきた。他方

Sugiyama

は,イギリスの日本に対する国際マーケティングの展開が,日本

における「開港場システム」によって大きな制約を受ける点を明らかにした。

しかしこのことは決してイギリス本国から日本に向けての国際マーケティン グ・チャネルの展開を否定することにはならない。

Nicholas

が指摘したよう なチャネル展開の一般的傾向は日本に向けての商品の流れのなかにも認めら れると思われるのであって,この点をその当時のイギリス製造業と日本とを 結ぶ流通ネットワークの中核をなしていた「マセソン商会」の実証分析を通 じて明らかにしておきたい。

3−1 「マセソン商会」と石井の研究

ジャーディン・マセソン商会は,東インド会社所属商船の医師であった

W

.ジャーディンと貿易業者

J

.マセソンが1832年に設立し,41年に本店を澳 門から香港へ移したパートナーシップ形態の商会である。東アジアとイギリ スの貿易を仲介し,アヘンや繊維製品,茶,生糸などを扱った。中国貿易で 十分に蓄えたあと,50,60年代から同商会は長崎そして横浜へと進出して いった。恐慌の影響もあって,60年代後半には多額の欠損を出すが,ロンド ンのマーチャント・バンカーであるマセソン商会からの強力な融資と販売シ ステムの改革で危機を乗り切る。

ここで紹介する石井(1984)の研究は,1850年代〜90年代に日本に進出し て,横浜にも支店を置いた同商会の記録文書(Jardine Matheson Archive,以 下

JMA

と略す)の分析である。石井はケンブリッジ大学の大学図書館にお いて,同商会の膨大な経営資料に接し,それを解読して自らの見解を示した 20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −221−

( 15 )

(16)

ものである。当時の極東における最強のイギリス商社であった同商会の文書 を紐解くことは,日本の近代史,特に権力的対応と民間的対応のちょうど中 間に位置する商人の動向を知るのに適していた。

3−2 恐慌と取引形態の変化

イギリス本国と日本との国際的取引を仲介したマセソン商会にとって,

1866年の恐慌から78年にかけての時期は,「たんに量的な縮小期であっただ けでなく,取引方法における重大な転換(自己勘定=買取方式から委託方式 へ)が進む過渡期であり,質的にみてきわめて重要な意味を持っていた」

(p.157)と石井は書いている。マセソン商会のライバルであったデント商会 やフレッチャー商会が恐慌の嵐のなかで破綻し姿を消してゆくなかで,マセ ソン商会が存続できたのは,取引方式の転換によって過渡期に対応したから と言っても過言ではない。その点についてここでやや詳しく述べておく。

1866年の恐慌は「綿花飢饉」による恐慌と呼ばれるように(メンデリソン,

1960,p.509),アメリカからの綿花供給に依存していたイギリスの綿工業が 南北戦争によって多大の影響を受け,とくに戦争の終結が見込まれた時点で 綿花暴落が始まり,アジア各地の貿易活動が恐慌状態に陥るのである。この 恐慌過程でマセソン商会は多大の経営的打撃を受けたのである。「買取方式 による取引は,1850年代に巨額の譲渡利潤を巨大商社にもたらしたのと逆に,

1860年代中葉には彼等に多額の欠損を強いたのであった」(石井,p.162)。

巨大商社が66年の恐慌に対応しきれなくなった大きな原因として,中小商 社の進出により,巨大商社の市場支配力がもはやかつてのごとき強大なもの ではなくなっていたからである,と石井は述べる。そして中小商社のアジア 進出を支えた条件として,第1に貿易金融を担当する銀行が増加したこと,

第2に汽船会社が航路を東アジアまで伸長させたこと,が決定的な重要性を 持っていると明らかにする。

−222−

( 16 )

(17)

第2の点について言えば,1869年のスエズ運河開通が汽船時代の到来を加 速し,イギリスとアジアの時間距離を急速に改善したことは周知の事柄であ る。さらに電信の普及と発展によって,ロンドン・横浜間の通信が10日あま りに短縮された。このような国際金融組織の整備や交通・通信技術の発展は 恐慌による市場状況の変化とあいまって,中小商社はもちろんのこと,マセ ソン商会のような大商社にとっても,従来からの取引方式の変更を迫ること になったのである。

つまり需要の不確実な変動に対して,高リスク・高リターンで立ち向かう 自己勘定の買取方式に変わって,より確実な情報と改善された配送システム に支えられた,安定的な取引システムが志向されるようになったのである。

もちろんこれは度重なる恐慌による欠損の増大を防ぐという直接的な利害を 考えた結果であるが,しかし基本的には,上述のような流通技術の革新を生 かすことによって,生産と流通および消費の過程をより安定的で協調的なも の変えていく動きが徐々に広がっていったとみてよいだろう。いわゆる垂直 的なチャネル間協調システムの展開が試行錯誤的に試みられてきているので ある。

今日的な表現でいえば,「投機的な取引」から「延期的な取引」への接近 といえると思うが,商業実務的な表現を使えば,危険をともなう買取方式か ら安定した手数料収入をめざす委託(買手の側からみれば注文)取引への移 行ということになろう。石井はこの取引過程の推移について詳しく紹介をお こなっており,まず1873年になると,イギリス本国とマセソン商会の横浜支 店との間で直接取引が開始されたと記されている。それ以前から打診のあっ たマンチェスターの繊維メーカー・メンデルとの取引がそれで,それ以外の イギリス商社であるターンブル商会などとの繊維品取引額合計の17.6%が委 託取引であった。横浜店ではこれらの取引に際して売上高の3〜4%を手数 料として入手しており,売上代金から関税・諸経費・火災保険料・手数料を 20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −223−

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差し引いた分を,オリエンタル銀行や香港上海銀行の手形を買ってロンドン に送金している。

表3−2−1は,このような取引状況の変化を石井の記述をもとに筆者が まとめたものであり,委託取引額の比率は年を追って高まっているのがわか る。マセソン商会の横浜店は本店に対する1876年の書簡で,「今後の綿糸仕 入れは,すべてマセソン商会(本店)との電信連絡によりつつ取引商(横浜 の日本人商人)の注文に応じて行う方針にした」(石井,p.385)と記してい る。

以上,本稿の第2章と第3章で,アメリカ型国際マーケティングが展開さ 表3−2−1 委託品売上高の比率(マセソン商会横浜店)

年度

取引先商会名(製造業者) 1874 1877 1882

メンデル 34,896ドル76

(綿糸・金巾・綾呉呂)

ターンブル 16,307ドル50(綿糸)

スチュアート=トムソン 14,822ドル40

(綿糸・天鵞絨)

ビース=スティンブンソン 6,000ドル(綿糸) 57,142ドル

(綿糸・織物)

ジルツアー 83,298ドル

(綿糸・織物)

サッスーン 34,150ドル

(ボンベー綿糸)

ジージン=シェーニンガー 111,397ドル

(モスリンなど)

エッシュ・リリアンタル 59,612ドル

(モスリンなど)

J.バートン=サンズ 18,486ドル(綿糸)

ホーマルジェ 11,530ドル(綿糸)

計(A) 72,026ドル66 179,043ドル 228,082ドル 繊維品総売上(B) 408,350ドル 520,910ドル 438,452ドル

割合A/B 17.6% 34.4% 52.0%

出所,石井寛治「近代日本とイギリス資本」の記述(pp.201〜202,p.386)から筆者が作成

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れた約100年以上もまえに,イギリスにおいてイギリス型のそれが姿を現し ていたということを示そうと試みた。2−1の

Nicholas

の見解は,主とし てイギリス本国の製造業者からのその展開状況を示そうとしたものであり,

2−2の

Sugiyama

の見解は,イギリス国際マーケティングの対象国である

日本の側からみた報告であるといえよう。最後に3−2では,その輸出入取 引の中間に位置する商業資本に焦点を絞って考察を加えた。いずれもイギリ ス型国際マーケティングという仮説的提言を傍証するためのささやかな資料 提供にすぎないが,それによって,本稿の最初で述べたマーケティングの歴 史研究と国際比較研究にすこしでも貢献できればと願ってのことである。

お わ り に

最後に2つだけ付言することをお許し願いたい。ひとつは,これまで紹介 してきた傍証的事例は,国際マーケティングのチャネル政策に限られたもの であり,市場調査や製品開発などマーケティング活動の全分野にわたる検討 がおこなわれていない。さらに第2に,19世紀後半から20世紀にかけての歴 史的研究でありながら,その時代の原資料による検討がなされていないとい う点である。

今日の歴史研究の分野では,イギリスの国際マーケティングという言葉は すでに市民権を得つつあると思われるが,いまから100年前のイギリスの事 業家や研究者たちが,どのような用語と発想でこの問題を考えていたのかと いうことが,立ち入って検証されねばならないだろう。しかしこれらは第1 章で触れた

Savitt

のダイアグラムの仮説と検証のくり返しのなかで深められ ていくべきものであり,残された課題として真摯に受け止めておかねばなら ないと思う。

20世紀初頭のイギリスでの国際マーケティング展開試論(内田) −225−

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参考文献

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参照

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