奈良教育大学学術リポジトリNEAR
エリート教育機関としてのパッブリック・スクール
著者 石井 正司
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 18
号 1
ページ 109‑130
発行年 1969‑11‑29
その他のタイトル ON THE ENGLISCH PUBLIC SCHOOL AS THE NURSERY OF THE ELITE
URL http://hdl.handle.net/10105/3112
109
エリート教育機関としてのバッブリック・スクール
石 井 正 司 (教 育 学 教 室)
丁 後期中等教育の一般化とパップリック・スクール
世界の工業国家では、第2次大戦後、前期中等教育(14′‑15才頃)までの義務教育化をおおむ
m
ね完成し、 1950年頃から後期中等教育(18‑19才頃まで)の一般化を問題にしてきたo イギリス においてもまた例外ではない。
イギリスでは今世紀初頭以来、労働党(1906、結党)と労働組合は「中等教育をすべての者に」
(Secondary education for all)をスローガンとしてきた。そして、それは1944年、第1次チ ャーチル内閣時代、 「教育法」 (Education Act,通称、バトラ一法)によって一応実現したか にみえたO しかし、それは勤労大衆を必ずしも満足せしめるものではなかったOなぜなら、この 珪律は、比較的早期に厳格な試験によって能力、適性を選別し、中等教育をきびしくコース別化 し、しかも、大部分の生徒(同一年令層の約70%)を正規の高等教育‑の道から締出してしまっ たからである。すなわち、 11才テストと内申書によって能力、適性を選別し、同一年令層の約70 蝣%をModern school (修業年限、 4‑5年)に、約20%をGrammer school (7‑8年)に、
‥約5%をTechnical school (5‑7年)に、という具合にコ‑ス別化してしまった。そして、
Modern school の生徒には正規の高等教育への道を閉ざしてしまったのであるO このような情 勢から労働党は「完全な中等教育をすべての者に」(Complete secondary education for all)と いうスローガンをかかげざるをえなくなってきたOすなわち、 18‑19才頃までの義務教育化、 ll 才テスト、 3コース制の撤廃、総合制中等学校(Comprehensive school)の確立を公約した.
ユ950年代、労働党はすでに比較的大きな勢力をもっている大都市、ロンドン、コンペントリ‑、
(2)
ブリストルなどで総合制中等学校を普及しはじめてきた1964年、 13年ぶりに政権に復帰した労 働党はこれを全国に拡大しようとしてきた。すなわち1965年1月22日、下院は総合制中等学校方 式で中等教育を再編成することを、賛成306、反対279で可決、同年7月12日、クロスランド教育
・科学相はこれを地方教育当局に通達したのである。
しかし、このような後期中等教育の一般化についての檀界的な、また基本的な動向にもかかわ らず、驚くべきことは、いわゆるパップリック・スク‑ル(以下、 P・Sと略記)を依然として
(3)
残存させてきたことである。いうまでもなく、歴史的にみて、 P・Sはイギリス中等教育の正系
(4)
である。それゆえに、 P ・ Sは身分的、階約的学校としての色彩を濃厚にまとい、複線型学校制 度の典型をなしている。したがって、平等主義を尊重する民主国家においてはとうに清算きるべ き性質のものといえよう。しかるに、イギリスにおいては、今日でも勤労大衆の学校制度(3コ ース制ないし縫合制中等学校)と整然と隔離されて残存し、しかも少数にもかかわらず依然とし て強大な勢力、威信をもっているのである。今日、 P ・ Sは同一年令層の青少年の約5%を収容
(5) β)
しており、それに子弟を送りうる家庭は約10%位であると推定されている。
110 エリ‑ト教育機関としてのパップT)ック・スクール(石井)
ところで、 P・ Sとは一体どのような性格をもった学校であるのか。その定義はイギリスの不 文憲法を定義するのと同様、しかく簡単ではない。パンズは「外国人のイギリス教育研究者にと
(7〕
ってはP ・ Sはつまづきの石(Stumbling block)である。」といっているし、ウエンハーグは
f8)
「P・Sと非p・Sを区別すること、 P・Sの数をきめることは非常にむづかしい」とさえいっ ているo しかし、ウエンハーグはかなり複雑な社会学的(いうまでもなく法律的ではない)クTJ テリアを用いてP ・ Sの性格をあきらかにし、その数を84校と推定している。彼の社会学的クリ テリアは以後の考察に便であるから簡略に記しておこう。 (1) P・Sは私立の予備校で初等教育 をすましてきた者の入る中等学校である(2)すべて男子の学校である(3)学校の最高政策は.
理事会(Board of Governors)によって決定される。学校長は理事会の員外メンバーであり、
教員人事、日常業務一切の権限をもつo 学校は寄宿寮(house)をもち、寄宿寮付教師(nous‑
master)がそれを管理する(4)生徒は13才で、 「普通入学試験」または各学校が独自に実施す る競争奨学生試験に合格して入学する16‑19才の間に、大学人学資格である「一般教育証(α C・E) 普通レベル、上級レベル」 (Ordinany and Advanced Level of the General Certificate of Education)をとって卒業する。学年は通常4学年制(第3、 4、 5、 6学年) である(5)一般に6学年生からえらばれたプリフエクト(組長、委員長)がおり、日常的な訓 育には責任をもっている。学校長はプリフエクトに大きな権威を委託しており、優等プリフエク
トは学校代表(the Captain or the Head boy of the school)である P蝣Sは営利を 目的としていないが、授業料(fee、寄宿費などまでふくめた料金)をとる(7) P・Sは国家、
地方自治体から独立している P・Sは地域的学校(Neighborhood school)ではなく、
全国的な学校であり、主として寄宿寮制である P・Sにはフォーマル、インフォーマルに も、なんとなく序列がある 9P・S (Charterhouse, Eton, Harrow, Rugby, Shrewsbury,.
Westminster, Winchester, Marchant Taylors', St. Pauls'をさす。以下、 「7 P・S」とい
31迂E:
うときは後2校、 Marchant Taylars', St. Pauls'を除いた前7校をさす。 )が主要な学校であ り、インフォ‑マルにはP・ S群の頂点をなしている。 (10)主として寄宿制とは少くとも生徒の
%i);寄宿していることである P・Sは一般に国教会、カトリックなど宗派宗教的基礎をも っている P・SはGrammer schoolであり、その教育内容は職業的、技術的なものでは なく、アカデミ ックであり、大学予備門的性格をもっている。
ウエンバ‑グ自身も云っているように、このクリテリアを個々にあてはめていくことにはかな りの難点がある。 (たとえば、 Marchant Taylors', St Pauls'は寄宿寮制ではなく、通学制で あるO )しかし、ここではクリテリアについて煩墳な議論をさけ、このクー]テリアに包括的に合 致する84校をP・Sとみなし、とりわけ、 9P蝣S、 7P・Sにアクセントをおいてみていくこ
とにする。
きて、まず1962年度における7P・Sについてみてみよう。
表Iから、寄宿制が支配的であること、 (4学年制であるから) 1学年あたりの生徒数が比較̲
的少いこと、そして、納入金が法外に高いこと、がただちにわかろう0̲これはたしかに清算さる べきはずの古い身分的、階級的学校、閉鎖的特権学校の性格を示している。 (それは家庭の血 統、財産、地位などに密接に関連している。 )しかし、同時に、ききにみたクリテリアをかえり
みるならば、 (特定の能力、知識、パーソナリティの機能、その形成を重視している)他面では またエリ‑トの教育機関であることを示しているといえよう.
このような特殊な教育機関のもつ功罪‑このことはイギリスにとって誠に重大なことではある・
エリ‑ト教育機関としてのパップ.)ック・スクール(石井) 111
が‑それはさておき、戦後日本の教育改革をかえりみるならば、度しがたきほどの保守性をもっ ているイギリス教育に驚かざるをえない。
表 1962年度、 7 P・Sの授業料、生徒表11) 13 才 〜 18 才
誉 \聖上l:⊥・・t畑I'f '.''二 )!f‑黒・葺・了
Eton Rugby
Harrow Winchester Westminster
Cha rterhouse Shrewsbury
50万8千円 50万4千円 49万8千円 49万8千円 49万8千円 49万2千円 44万1千円
( 6ヶ年問とすれば260‑300万円位はかかることになる)
Ⅲ エリートの選別、教育機関としてのP・S、その現実
まず例として政治エリ‑トをみてみよう。 1959年の総選挙において下院議員当選者630人申、
オックスフォード、ケンブリッジ大学(両者を併称してOxbridge という)出身者は431人、
m
(Ox, 262, bridge. 169)実に ¥A%を占めている1967年現在、日本の国会議員大学別輩出率
・は東大(24.6%) 、早大(8.9) 、京大(5.5%)の順であるが、東、早、京大を合せても39%、
(2)
東、早大なら33.5%、東、京大なら30.1%にすぎないO イギリスの政界においてOxbridge出身 者は日本では想像もできないほどの優位をもっていることがうかがえようo
つぎに官僚エリートについてみてみようoここでも事はまったく同じである。1952‑62年の間、
公開競争試験によって登用された高級官僚(Administrative Class)の出身大学は、 Oxbridge 343人、 (Ox, 194, [bridge, 149,) London 35人、 Durham, Manchester各3人、 Leeds,
(3)
Keele, Nottingham, Liverpool各2人、 Reading l人である。日本においては東大がエリー ト官僚養成所と目されるのは常識であるが、それでも1965年2月、国家公務員上級試験(甲)令
C4)
裾者の各省採用内定者数のうち、東大の占める割合は32.9< にすぎない。 (その他国公立大、
53.9%、全私大13.2%、計100%)
ところで、このような圧倒的な勢力、威信をもつ Oxbridge の入学者はどこから供給きれる のか、それは大部分、 P ・ Sから供給されているといってよいであろう。 1963年秋、ケンブリッ
(5)
デの男子学部学生の60%、オッスフォードの約40%はP・ S出身者である。 (残余o/Oは公立 蝣Grammer school 以下、 G・ Sか 出身者である.公立G・ Sのうち、 Manchester G・S,
(、6)
BirminghamのKing Edward G・Sは著名な進学校である Oxbridg三の男子学部学生のう
(7)
ち、 9P・S出身者は1955年現在で12‑13%である) p・Sが同一年分層の青少年の僅か5%
ー以下しか収容していないのに、 Oxbridgeにおいて40‑60%を占めていることは、 P I Sがェリ ー‑トの選別、教育機関としてきわめて重要な位置にあることを示しているといえようO
さらに、つぎの事実はP I SがOxbridge以前にエリートの選別、教育機関として決定的に重 要な位置をもっていることを示しているといえよう1951年、 「赤レンガの大学」 (Oxbridge以 外の近代大学の意味)の著者、 B・トレスコットは「イ‑トン、ハローの生徒は1,000人のうち
112 エ7]‑ト教育機関としてのパップリック・スク‑ル(石井)
(8)
1人だって、みすぼらしい近代大学に入学しようなどと考えてもいない」といっている。ま た、 1961年、 「英国の解剖」の著者A・サンプソンはこう書いている。 「P I Sの多くの生徒は、
直接実業、公務につくか、またはマックギル、ゲルノーブル、ハーバードなどの外国の大学へい く方が、 「赤レンガの大学」にいくよりはるかにマシだと思っている。彼らは「赤レンガの大学」・
の学士号なら、学士号などもたない方がはるかにマシだと思っている」 。また、 「新しい大学の・
(9)
学部学生のうち古いp・s OP'Sをさすと思われる‑筆者)出身者は10%以下である」とも 書いている。この記述は決して誇張ではないO資料はちょっと古いが1820‑1920年の間に生れ た、 (したがってはぽ1838‑1938年の間に) 、名門P ・ S、 Winchester を出て大学に進学した 者、 4,759人の進学先をみればあきらかである Oxbridge 94.2% (Ox,68.8%, bridge,25.4%>
ロンドン、 2.9%、スコットランドの大学、 0.7%、その他の大学、 1.3%、外国の大学、 0.8%で ある。このようなP・ Sの生徒(当然、父兄、社会)の意識はOxbridge以前に、 P・ Sがエリ ートの選別、教育機関として決定的に重要であるという事情を反映しているといえよう。そして
このような事情がこの国独特の企業風土(学歴よりも実務経験の重視、雇われマダム方式経営者 よりも親族相続的摩営者の重視などの傾向)とあいまって、日本とは典型的に異なるビジネス・
エリートを生みだしてきたと思われるO
左図が示すように、日本のビジネス・エリートの・
うち大学卒の占める比率はきわめて高い(約95%)<
これに対し、イギリスでは30‑36% (1956、アクシ ョン・ソサイエティ・トラストによる大企業管理者 学歴調査、 1952、ロンドン株式市場上場会社の取締
(1‑2)
役の学歴調査)ときわめて低いといえよう。
このような事情から、 1954‑62年をとっても、 p
・ S出身者でありながら(P・Sへ進学できるほど 経済的に富裕でありながら)大学に進学せず、直榛
ビジネスに入る者は37‑22%の高率になっているのI
I!蔓g
である P・S卒はすでにエリ‑トとしての十分の シンボルをあたえているのである。 (その歴史的変 化についてはのちにふれるであろう。 )
Ⅱ エリート教育機関としてのP ・ S、その歴史的生成
有名校(Great school) 、すなわち P・Sの創立時代は古い Winchester(1387), Eton.
(1441), St, Pauls'(1510), Shrewsbury (1552), Westminster (1560), Marchant Toylars' (1561), Rugby (1567), Harrow (1571), Charterhouse (1611)であり、 14‑17世紀の創立で ある。したがって常識的に、この時代からすでにこれらの学校はエリートの教育機関として機能 していたように考えられるかもしれないo しかし、実際に、これらのP・ Sをふくめて、一般に p・ Sがェリートの教育機関として認められ、量質ともに発展してくるのは、近々19世紀、それ
も1830‑40年頃からであるとみられるO
ェL)〜ト教育機関としてのパップリック・スク‑ル(石井)
m
園 I 1830年以降、寄宿制P ・ Sの新設校 (1962、 200人以上の寄宿生をもつもの)
図Ⅲは、 1962年現在、寄宿生を200人以 上もっているP ・ Sの、 1830年以降の設立 状況を示している。今日P・ Sと認められ るものを84校とすれば、その約半数41校が 1840年以降設立されたことを示している。
ウエンハーグは、 「19世紀に今日みるよう なP ・ Sが形成され、 1841‑^1900年の間に
(3)
p・ Sの約半数が設立された」とみてい る。 図Ⅲは、単に学校数だけでなく、
Rugby 一校をとっても、 1825年頃の例外 はあるにしても、 19世紀に入ってから入学 者が急増していることを示している。有名 な「トム・ブラウンの学校生活」の主人公、
トムーブラウンも1830年代、ア‑ノルド校
国 BE Rugby校入学者の変化
113
長時代の生徒急増期に入学した生徒の一人といえよう。このような生徒の増加傾向はRugbyに
WE
限らず、他の8つのP・ Sにおいても同様である。このようなP・S (学校数、生徒数)の量的 発展は、 P・ Sがェリートの教育機関として認識されてきたことを示しているといえよう。エl)
‑トの行動様式、ないしシンボルである、イギリス風のジェントルマン、パップ')ック・スク‑
ル風のアクセントなどは19位紀のP・ Sの所産である。ビショップは「イギリスの社会移動にと って有名な「アクセントのカべ」 (̀accent barrier')は19世紀のP ・ Sの所産である0 18世紀 の郷紳R, Walpole (Norfalkの郷紳の3男坊、 Eton, Kings Collge, Cambridge,卒、 1721‑
41、首相‑筆者)の万言は議会で通用しなくなってしまったo鉄道の開通(1825、 1830) 、ア‑
ノルド校長の改革(1828‑42)ののち上流、上流中層階級は息子を遠くの寄宿学校に送るように なったのであるo この頃から「パップリッグ・スク‑ル風のアクセント」がひろがってきたので
(5)
ある」といっている。
ところで、 1830‑40年代頃(イギリス産業革命完了直後)から、なぜP ・ Sは積極的にエリー ト教育の機関になってきたのか。しかし、これを考える前に19世紀以前のP ・ Sについて簡単な
iltf エ1)‑ト教育機関としてのパップリック.スク‑ル(石井)
展望を与えておこう Winchester (1387), Eton (1441)は創立も古く、最初から、それぞれ、
JNew Colleg, Oxford. King's College, Cambridge.と姉妹校になっているOそれらは一方で
「一般学生」 (Commoner 大抵、貴族の息子)を入学させるが、他方では「真因学生」
)3E
(Pauperes et indigentes大体、大学まで経済的援助を必要とする者)を「奨学生」 (Scholar) として入学させているo この点から、貧困学生も学校というパイプを通してエリート集団に形成 してゆこうという意図がみえないわけではない。しかし、ウエンハーグは、この点について創立 者の意図については議論があるところだとしながらも、 「P ・ Sになった申世の中等学校は、若
3由El
干の教会の指導者を除けばェリ‑トの教育をしたとは思われない」といっている 1560‑1640 年頃は、イギリスのルネッサンス、宗教改革、チュ一ドル王朝の絶対主義の時代であるO この時 代、 「G・ Sの設立は黄金時代」をむかえたといわれる Winchester, Eton を除いた、 P ・ S
はすべてこの時代に設立されている。この設立で注目されるのは、ルネッサンス、宗教改革の影 響下、教会の教育独占排除、教育の檀俗化の風潮によって、世俗人の手によって、 P ・ Sが設 立されてきたことである St Pauls'(1510)は俗人(layman)のトラストによって学校が経 営されたハシリである Shrewsbury (1552)は市営のG・S (town G・S)として発足する。
Marchant Taylors'(1561)はその名の示すごとく、 Marchant Taylor Campanyによって設 立された Rugby(1567)は乾物商L, Sheriffeによって、 Harrow (1571)はヨ‑マン、 J,
(9)
Lyonによって、 Charterhouse (1611)は平民、船長T, Suttonによって設立された.このよ うな動向は「宗教家のみが養成されたのではなく、下層中流階級の人々を入学させ、あらゆる職 業につき、あるいは国政にまで参与する人々が作られ=‑‑、バラ戦争以後おとらえた貴族階級の
GO)
ー人々とも対等の地位を獲得したことを示している。 =・‑・」とみることもできよう。しかし、 「ル
ID琶
ネッサンス、宗教改革後、 G・ Sに対するエリート教育の要請は誇張さるべきではないだろう」
ともいわれている。
バンズは, 「国民伝記辞典」 (Dictionary of National Biography)所載の、 1685‑1785年
・の100年間に生れた者5,500人から、フォーマルな学校教育をうけた者(したがって芸術家や船の
ォ嘩g
りなどは除かれる) 3,500人を調査している 3,500人の「大部分」 (the Great majority)は
「聖職者、教師(大学教師をふくむ) 、医師、法律家」である。 「残りが政治家、発明家、改良 家、著作家である。 」すなわち、政治、経済、官僚エリートではなく、聖職者を先頭とする主と して「知的エリート」であるといえよう。しかも3,500人のうち、 「家庭教師教育」をうけたも の、 967人、 (28.2%)に対して、 P蝣Sを出たもの787A (22.1%)である.そしてこういっ ている。 「これは必ずしも9P・Sの質的優秀性を示すものではない」と。したがって「18世紀
・においては貴族、ヂエントリーの大部分は息子を寄宿学校にやるのをきらっていた。まだ彼らは 管理すべき莫大な資産をもっていたし、したがって、家庭教師教育の慣習は19世紀までもつづい
I訂[
ていく. 」とみるウエンハーグの見解は妥当であるといえよう. 18世紀においては、まだ、家庭 教師教育の方がP ・ Sの教育より優越していたのである。
ちなみに、 18世紀(1734‑1832)の政治エ'] ‑トについてみておこう 1734‑ユ832年のほぼ100 年間、下院に議席をもった者は5,034人。このうち、 「7つのP ・ S」を出たものは約1,も、決して 低い数字ではない。しかし、反面、 「約60家族が下院のy3を占めていた」し、 「5,034人のうち、
1,715人、約1/3が貴族の子弟およびこれに準ずる特権的地位をしめ、議員をやめたのち貴族や従 男爵になった者を加えると半分以上がこのような高い地位をしめていた。 」 「祖先や親族に議員 を出している家系のものはきわめて多く、 10人以上最高21人の議員を出している家系が31家族も
エT]‑ト教育機関としてのパップリック・スクール(石井) 115
3il引g
あった」のである1830年頃まで、政治エリート集団への加入条件はP ・ Sの教育もさることな がら、まず、血統、財産が圧倒的に優勢であったとみてまちがいなかうう。
さて、では19世紀、とくに1830‑40年代頃から、エT)‑ト築団の加入条件はもちろん血統、財 産を基礎としているが、そのうえになぜP・ Sを必要としてきたのか。すなわち、なぜP・ Sは
エリートの教育機関になってきたのか。それは産業革命によってもたらされた広大な社会変化を 背景にしなければ考えることはできない。炭鉱業とともに近代イギリス資本主義の基礎となった 繊維工業、鉄工業についていえば, 1841年の原綿輸入高は1730年の317倍、鉄の生産高は1740‑
3il莞E
1839年に75倍に躍進し、イギリスは「世界の工場」になり、蔑業社会から工業社会に離陸してい った1876年、イギリス植民地の人口は2億5千2百万、他の帝国主義国全部の5倍、イギリス 本国人1人あたりにつき植民地人8人という割合に達し、 19世紀中葉のイギリスは世界最大の韓
n至固
国、植民帝国になっていたのである。このような背景はエリート集団の構成、加入条件に大きな 変化をもたらさずにはおかないであろう。
1832年の選挙法改正、いわゆる「10ポンド家屋占有選挙法」によって、有権者は1831年の約43
1ire
万5千人から1833年の65万3千人へと、 21万8千人、 49< もー挙に増大したo それは産業革命中 興降してきた中産階級(地主ジェントリーを中心とした、専門職など)の中層部までふくむよう になってきた。確固たる社会的地歩を占めてきた中産階級は、工業社会化、植民帝国の拡大にと もなう、専門職の増大に対し、学校教育(P ‑ S)というパイプを通して社会的移動、上昇をはじ めるようになってきたO たとえば、法律家、医師は1800‑1860年の60年間に2倍、 4万人に増大
U8.>
しているO聖職者も2倍、 1万6千人に増大しているO 「上流中産階級(upper middle class)
3il乱E
は家族的関係よりも教育水準、社会的マナーを重視するようになってきた」のであるO このよう な工業社会化、植民帝国の拡大にともなう専門職の増大、そのための学校教育の重視がェリート 襲団の構成、その加入条件を変えてきたとみることができよう。そして、その学校教育を担当し たものがP・ Sであるといえよう。
1841‑50年頃のP ・ S入学者の家庭的背景をみてみよう。そこには中産階級のめざましい進出 をみることができる。 1840‑9年の間に、 7校の国教会に属するP・ S、 Cheltenham, Marlborough, Rossall, Radley, Lancing, Brighton, Hurstpierpointが設立されている。こ れらの新設p ・ S入学者の家庭的背景は、 Eton, Harrowなどの古い有名校P ・ Sのそれとこと なっている.たとえば、 Cheltenhamについててみるならば、 1841年開校のとき、 145人の入学 者があったo その家庭的背景は、もちろん地主ジェントリーも入っているが、 3/左は陸海軍人、イ ンド植民地行政官などの専門職である。このように新設のP I Sは「新しい社会的圧力に対応し
遇冴XEl
て」創設されたものといえよう。
これに対し、古い有名校、 「7つの寄宿制P ・ S」 (Charterhouse, Eton, Harrow Rugby, Shrewsbury, Westminster)はどちらかといえば、地主ジェントr]‑の進出に対応しているO 表Ⅱであきらかなように、 Winchesterは聖職者、 ‑専門職を中核としてはいるが、 7P・Sを 全体としてみれば、地主ジェントリ‑の進出が圧倒的であるo このように、 19世紀、とくに1830
‑40年代頃からのP ・ Sの興隆は地主ジェントリー、専門職など中産階級の積極的な社会的進出 に対応したものであるといえよう。
ところで、これらのP・ Sで教育したものはなにか。 K・マンハイムは「20世紀半ばの今日で
3萱BiE
もイギリス風のジェントルマンとはどういう意味なのか正確に定義することはむづかしい」とい っているが、 P・ Sが教育したものは結局このようなジェントルマンシップであったといえよ
ユ16 エリート教育機関としてのパップ1]ック・スクール(石井) 表 n p・s生徒の家庭的背景
k8毒綜850
Sゥ笠毒針豊謂暮れ竃nches昌冒r 紘
地 主 ジ ェ ン 聖 職
計 l 者
りノト
有 爵 貴 族 軍 人 専 門 職 企 業 / 農 業 土地をもたないがジェントリ 二と密接な関係をもつ有産者
5,474 2,321 703 689 288 207 54
1,212
5,268 396 1,752 336 276 648 72
う。それは19世紀以前にはあまり知られていなかった社会的行動様式であり、 P ・ Sが比較的明 二確な諸徴棟をつくりだし、エリートの行動様式、ないしは無形のシンボルにしていったといえよ
招蔓)
う。
18坦結末頃まで、古い有名校P ・ Sでもその教育課程はルネサンス以来旧態依然たるものであ り、寄宿舎の設備も惑く、生徒の道徳的、宗教的訓育もけっして香ばしいものではなかった。 P
3揮F!g
I Sは「アルフレッド大王以釆1750‑1840年頃が最盛の時代だった」ともいわれている。功利主 義者、 J・ベンタム、 J・S ミルなどからだけではなく、宗教界からもはげしい批判をうけて
(25)
いるほどである。 (それゆえに、家庭教師教育が優位をもっていた)。このような沈滞を打破し、
清新な気風(Gentlemanship)を作興し、中産階級の教育要求にこたえたのは、とりわけShre‑
wsburyの校長、 S ・バトラ‑ (在任1798‑1839) 、 Rugbyの校長T・アーノルド(在任1828
‑42)であったo彼らは自校の改革に功績があるだけでなく、他のP ・ Sの質的発展の基礎をお いたといっても云いすぎではない。彼らはP ・ Sに伝統的な教科(ギリシャ、ラテンの古典語)
を一新したわけではないO しかし、古典語に歴史、政治、哲学的価値を見出し、 (アーノルド) ト古典語教育方法を改革した(バトラー、アーノルド) 。さらに数学(バトラ‑) 、歴史(アーノ ルド)などの教科が新しく加えられ、定期試験、成績進級制(バトラ‑) 、プリフェクト・シス テム、組織的ゲーム(バトラー、ア‑ノルド)などが導入されたo新式の古典語教育、数学、歴 史、定期試験、成績進級制などは高度の知的洗錬、教養をあたえた。プリフェクト・システムは
自治、統治能力、リーグ‑シップの能力を培養した.組織的ゲ‑ムはフェア・プレ‑の精神を培
き司3X
養した.校長の人格、校内チャペルを通して強烈な宗教的感化があたえられた。アーノルドの Rugbyにおける教育の状況は「トム・ブラウンの学校生活」が感銘深く書いている通りであるo
これらの諸特性はすべてイギリス風Gentlemanの内面的属性ということができよう。このよう にP ・ Sは19世紀、それも1830‑40年代頃からェT)‑トの教育機関として量質ともに発展しはじ めるのである。
Ⅳ 19世紀後半におけるP ・ S卒業生の進路傾向
イギリスは第1次、第2次世界大戦で勝ったとはいえ、植民地の喪失、高度工業社会、福祉国 家への転換によって、 19世紀前半における産業革命に匹敵するほどの社会的激動をこおむってい る。したがって、 19世紀のP ・ S卒業生の進路傾向と今坦紀のそれとはかなりの変化があるのは
ユ18 ェ1)‑ト教育機関としてのパップリック・スクール(石井)
表IV 1841‑1910、 Cheltenham 卒業生の進路(2)
職 業 別 l実 数 本 国 軍、 軍 人
イ ンド植民地軍、軍 人 聖 職 者 法 律 医 師(軍医をふくむ) 技術者(海外勤務をふくむ) 行政官 東インド大学‑(24)
インド行政官 81 インド、本国、
植民地行政官 18
2,301 595 449 EEE!
178 161
m
表 V 3校卒業生の進路
(2)
学 校 】年次
壌p・ S、また一般にP ・ S卒業生の進路傾向を大略推定することができようO
(11ごく大雑把にいって Rugby, Harrowの卒業生は、軍人、法律家、行政、政治家に魅 力を感じるが、医師、科学、技術者、学者は敬遠している。これは軍人、法律家、行政、政治家 に高い社会的威信を認めるイギリス社会にも原因があるが、他方、 P ・ Sの教育にも原因がある
ように推定される。寄宿制をとるP・ Sの集団主義的教育、またプリフェクト・システム、組織 的ゲーム(ラグビーはいうまでもなく Rugby校を発祥とする)は自治、統治能力、リーダーシ ップ、公正、などのパ‑ソナリティを形成し、それが上記の職業に比較的適合的なパーソナリチ ィをつくりだすと眉おれるからであるO
(2)軍人についてみていこう1854年クリミヤ戦争、 1857‑59年インド・セポイの反乱などの 瀞饗によって、 50‑60年代に特別の増加があるが、軍人は、 Rugby, Harrowなどだけでなく新 設の Cheltenham (1841設立)を考慮に入れても、 19世紀を通して、一般に人気があるといえ る。これは、 1815年から第1次大戦まで、南ア、エジプトを含むアフリカの植民地、保護国、保 護領獲得の戦い、中国、アフガニスタン、インド、ペルシャ、クリミヤその他多くの地点での戦 い、それゆえにどリトリア時代(1837‑1901)が「イギリス帝国」のもっとも栄光に輝いた時代 であったこと、をかえりみるならば当然の動向ともいえる。 (表Ⅲと数年はなれるが)、 1887年、
W・チャーチルは Harrowに入学し、在学中劣等児といわれたが、 1893年、サンドハ‑スト陸
(4)
士入学、 150人中8番で卒業、軍人になっている。
(31法律家、行政、政治家は軍人についで人気があり、ほぼ安定した成長をしているといえ る。
(4)聖職者は、 Rugby, Harrow,新設のClifton, Durham, Sedlerghをとっても、どこで も確実に人気を失なっている。
(5)海外植民地行政官、企業家(Businessman)は、 1860年代から急速に、着実に増加しはじ めているo イギリスの企業(会社、銀行、工場経営、株式売買、商人、船主など)が家父長的経 営であることをかえりみるならば、企業家の子弟の入学が増大したことを意味している1830' 40年代からのP ・ Sの興隆は地主ジェントリーの社会的進出に密接な関係のあることをききに指 摘したが、地主ジェントリ‑はまた企業家でもあるとみられる(1841‑47年の国会議員478人の
(5)
ユ4%は広い意味のジェントリーであるが、それは同時に企業家であることが指摘されている。 )
エi;‑ト教育機関としてのパップE)ック・スク‑ル(石井) UK
(6)医師、科学者、技術者はほとんど無視されているといってもよい。ギリシャ、ラテン語を 主要教科とし、集団主義的な寄宿制P ・ Sでは当然の結果ともいえよう。 C ・ダーウィン(1809
‑82)は1822年頃、 S ・バトラ‑校長の Shrewsburyに入学しているが、バトラー校長、古輿 語、 P ・ Sの教育を非難がましく日放伝に書いていることは周知のことである。しかし、 1860年 代頃からこれらの分野にも漸次関心、がもたれつつあること、 Durham, Sedlerghのような新設 校においてそうであることが認められよう。それにしても、 P I Sが医師、科学者、技術者の輩 出に努力をむけないことは、この国の科学、技術の進歩、人材の配置上問題であることは大略察 知することができよう。
Ⅴ 各界の成功率、戦後卒業生の動向
(1)軍人について。 さきに1830'釦年の間に Rugby, Harrowを出て軍人になる者が比較 的多く504例もあるのをみた。このうち将校にならなかったものは1例にすぎず、その他すべて 将校である。
陸、海軍の大佐級以上に達したものは、 65例、 12.9%である。学校別にみれば、 Rugby, 10%
Harrow 15%であるO 大佐級以上をェリ‑トとみるならば、その輩出率はかなり高率であると
(1)
いえよう。第2次大戦後になっても軍人希望は相変らず人気を持続しているようにみえる1891 年と1961年のサンドバースト陸士進学校トップ10をとってみるならば、 Wellington, Eton, Harleybury, Marlborough,は両時代ともトップ10に入っている Winchesterは1961年、再
びトップ10に入り、 Rugbyは1961年だけトップ10に入っている1947‑58年の間、陸士入学者 は6,171人、そのうち Wellington 399人、 Eton 302人、 Marlborough, Sherborne l14人、
Cheltenham lO5人、 Winchester 97人、 Harleybury 93人という具合であり、約%{まP ・ S卒
',宝〕
業者である,(1953‑63年の間、入学者4,728人、そのうち60%がP I S卒業生であるo )戦後、
労働党内閣時代、陸士の授業料は廃止になったが、戦前と入学者は変りはないといわれるのは事 実のようである1946年、航空士官学校(The Royol Air force college at Cranwell)、 1952 年、航空技術士官学校(R.A.F. Technical college at Harlow)を開設し、入学には、 「GC E」数学、物理のAレベルを要求したが、それでも、前者は、 1946‑‑63年の問全入学者の47%、
(3)
後者は、 1952‑63の間、全入学者の42%をP ・ S卒業者で占められている。
(2)政治エリートについてo政界は軍人についでP ・ S卒業生に人気のある分野であるO ここ では各校のパワ‑・エリート撃出率を正確には出しえないが、若干の手掛りをあたえておきた い。
1734‑1832年の間の国会議員5,034人のうち1,714人、約%は「7つのP ・ S」の卒業生であっ たが、この占有率は19世紀中における新設P ・ Sの出現で減少している (1951年、 9P・S卒
(4)
業生の全国会議員中の占有率は24%)。しかし、 P ・ S卒業生の政界進出は依然としてつよいとい える.表Ⅵが示すように、 1945年(総選挙で労働党大勝、アトリー内閣成立)を除いて、 50%以 上をしめており、保守党だけをとれば80%以上をしめているといえる。労働党においても漸次p
・S卒業生は進出しつつあるといえよう P・Sのうちでもパワー・エリート輩出率の最高は Eton,ついでHarrow, Rugby, Winchesterの順であるといえよう。 (1886‑1936、閣僚輩出
(6)
魔による Eton,50, Harrow, 23, Rugby, ll,Winchester, 6, ) Etonは1901‑1924年間の閣 僚の17左、 1945年、 1950年の総選挙においても当選者申与/10をしめている 1961年、マクミラン内
ユ20 工.)‑ト教育機関としてのパップ.)ック・スクール(石井)
表 Ⅵ 国 会 議 員 出 身 校 別
党 と 学 校 別 I 戦中平均 1945 1950 51
辛
計
閲の閣僚21人申、 p ・ S出身は17人、そのうちEtonは6人であるO
(3)実業界についてO 貴近のイギT]スのビジネス・エリ‑ト(推定、 1900年代前後頃、ビジ ネスに進出したと思われる)の学歴水準は意外に低く、大学卒は比較的少いこと(30‑36%)は 先に指摘した。これは、ある面では、 1860年代頃からP ・ S卒業生がビジネスに進出している が、それは大学を経ず直接にビジネスに進出したことを示しているといえよう (Oxfordの最 有力カレッデ、 Balliolの1832‑1914年間の出身者、 1,899人の分析によれば、官僚(本国、イ ンド植民地行政官、政治家、軍人など) 600人、学問的専門職(大学教授、教師、法律家、聖職 者、医師など) 1,237人、ジャーナリスト、 33人に対し、銀行家、 19人、不動産業者、 10人にす
3禰
ぎないことはこれを裏付けている。 )
1956年、アクション・ソサイエティ・トラストの調査によれば、イギリス大企業の400人以上 の経営者(ビジネス・エリ‑ト)の調査において、 1895年以前出生グループの経営者でP ・ S出 身者は7 %、 1925年以後出生グループでは38%に増加しているO 同様に、 1895年以前出生グルー
プには有力校p・S (9P・Sないし7P・Sと思われる‑筆者)出身者は1人もいないが、
1925年以後出生グループでは8%に増加しているo これは第1次大戦後、企業(とりわけ、製 造業)が「紳士的職業」 (Gentlemanly occupation)になってきたことを示しているといわれ
ている(1925年以前は、 P ・ S出身者でビジネスに入る者は主として金融、貿易、商業であり、
製造業(Manufacturing)にはあまり行かなかった。したがって、地域的にみれば、金融の中 心、ロンドン、貿易でも、ヨークシャーよりもケニヤとオーストラリヤ、に集中するという地域
(8)
的偏りがあった。製造業者、エンデニヤ‑はスコットランドから供給きれていたとみられるo P
(91
・ドラッカーのいう「製造業はけっして紳士的職業にはならなかった」という言葉はイギリス、
とくにP・S出身者によくあてはまるようである。 ) P・S卒業生がビジネスでもっとも活躍し ているのはロンドン金融界であり、 1959年の調査によれば、上位銀行家の繍まEton出身者によ
(10;
って占められている。
工.)‑ト教育機関としてのパップリック・スクール(石井) 121
最近のイギリスの企業は管理者、経営者(Manager)としての大学卒を求める傾向を強くして いるが、他方、大学卒は専門家すぎるとの理由から、 P ・ S卒業者を求める傾向は相変らず続い
ID
ているとみられているo表Ⅶは各業界のP ・ S卒業生求人の関心を示すものとみることができよ 表 P・S卒業者就職斡旋年次
(12)
会議のスボンサ‑
年 次 L 企 業
1950.‑.51 1951‑52 1952‑53
1954‑′55
1955‑‑56 1956‑57 1957‑58 1958‑‑59 1959‑60 1960‑‑61 1961‑62
ロイド銀行 スボンサ‑なし 電気技術者協会 鉄鋼連合 建設業協会 運輸業協会 民間技術者協会
プラスチック工業協会 陸、海、空軍 広告業協会 電気技術者協会
3ilのl
表 Ⅷ 短期職業訓練コ‑ス
年 巨‑スの数1出席者の数
1951‑52 1952‑.53 1953‑54 1954‑55
1955′‑56
1956‑57 1957‑58
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う。ここで注目されるのは、 1960‑61年度の広告業協会の関心である。従来、 p ・ S卒業生の企 業への進出はその統治的能力.リーダ‑シップが重視されていたからであるo これに対し、広告 業者の関心は、従来の性格もきることながら、 P・S卒業生のもっている、アクセント、ジェン
(.14)
トルマン的マナ‑、ホストマン・シップを商品として重視しているともみられる.
最近では、表Ⅷが示すように、 P ・ S卒業生は企業における「短期職業訓練コース」 (short work course)をへて企業に入る傾向が増大している。
VI Winchesterのエリート教育とその進路、成功率
今まで主としてP ・ S一般についてみてきたが、つぎにWinchesterに焦点をあてて、エリー ト教育の実際、その進路、成功率などを考察してみよう Winchester は有名校P ・ Sのうち最 古のものであり(創立、 1387)その特質、機能はある点ではかなり個性的であるが、大体はP ・ S一般と共通している。
Winchester は異常なまでにきびしい学問的水準、すなわち、主知主義と非知性的、伝統主義 の矛盾的統一体とみることができるo主知主義的傾向についてみれば、 「普通入試」よりもはる かにきびしい独自の入試を課しているし、学年進級も年令制ではなく、競争試験制である。奨学
(1)
生になった生徒のIQ (Maray house testによる)は125‑136に集中している Oxbridgeに おける奨学生獲得率も第1位である。教科目は19世紀末までにP ・ S一般と同じパターンをつく りだしているが、 1900年頃から、大体つぎのようである。下級学年では、ラテン語6、ギリシャ A.語4、数学、幾何4、フランス語2、神学2、イギリス史2、イギリス詩2、など、約24時間、
上級学年では、ラテン語4‑6、ギリシャ語5、歴史4‑6、数学、幾何4、フランス語3、
(2)
ヰ中学2、理科2、など約26時間であるo (教科目の古典性、狭陰性に注目さるべきであろう。 )
122 ェ.)‑ト教育機関としてのパップリック・スク‑ル(石井)
1959年度における教師対生徒の比率は、 G ・ Sが1 :18、 p・s一般が1 :14であるのに対し、
Winchesterは1 :12である。主知主義的傾向は、教室、教科目だけでなく、 「討論会」 (Deb Soc, the debating society) 「シェクスピァ館・朗読、合唱会」 (The Shakespeare House‑
Reading and Orpheus Glee Union Society) 、学校新聞「The Wykehamist」でも発揮され′
る。これらの活動で知的才能、知的表現をすることには高い評価が与えられている。
他方、現代では理解できないほどの伝統的慣習が保持きれている。修道院的な寄宿寮制(プテ ィバシーは全然ない Etonでは寄宿寮制であるがプライバシーは保証されているo )寄宿寮融 による集団主義、 Notionといわれる「学校の伝承、エチケット」などの不文律である。 (たと えば、コーモリは巻いてもつo戸外ではコートのボタンをはずす。椅子にかけて話すことができ るのは3才年長の場合だけである。朝チャペルに1人でいってはならない。軍事教練、組織的ゲ
3BE
ームには必ず参加する、など)学業優秀生は今でも残っている14世紀の学寮 Collegeに入るこ とができ、その他の普通学生(Commoner)はCollegeの周辺に分散しているhouseに入れら れる houseには学業優秀な最上級生がプリフェクトとして任命され、 (選挙ではなく、校長二 委嘱)自治制がとられるOそして、このhouse,プリフェクト・システムが伝統主義の牙城をな:
しているとみられる。
このような主知主義と伝統主義の二面性は、イギリス風ジュントルマンの内面的属性をつくり だし、それゆえにイギリス上流、中産階級の教育に投じたものとみることができる。在学生総数̲
IE
約500人であるが、 1900年以降をみると常時その25‑35%程度は同窓卒業生の子供である。この 二面性の主知主義の方向から、多くの学界人(The Royal Society, The British Academyな‑
どの会員、たとえば、 A・トインビ‑oその輩出率は前者は第2位、後者は第1位) 、労働党の・
指導者のような知的改革者(蔵相、 S ・クリップ卿、首相、 H・ゲイッケルなど Winchester‑
は労働党指導者の輩出で有名である)をだし、伝統主義の方向からは多くの凡傭人を生産したと みられる。
(A) Oxbridgeとの関係
Winchesterは 生徒数規模ではけっして大きくはないが(表I参照、 7P・S中6位) 、 0Ⅹ‑
bridge進学では最優秀校の1つである Winchester の生徒で1820‑1920年の間に出生し、し・
たがってほぼ1838‑1938の間に進学した者は4,759人、全生徒の58.1%である。この4,759人のう ち、 Oxbridge進学者は94.2% (OX, 68.8%, bridge 25.4%、前出)であるo他のP I Sと Oxbridgeへの進学率を比較するため、 1864‑67年と1955年の2時期をとってみるならば、 1864こ
〜67年の間は第2位、 (第1位、 Shrewsbury,第3位、 Rugby,第4位、 Harrow,第5 位、 Repton, Etonは第6位、 ) 1955年は第1位である。 (同じ第1位に、 Rugby,第3位、(51
Marlborough,第4位 Westminster,第5位 Clifton, Etonは第9位、 Harrowは第11位) OxfordのなかでもBalliol Collegeは、 1875年、 B. Jowett. (ギリシャ語学者)が学寮長 (Master)になって以来、 「国家的指導者の養成所」 (Nursery of national leader)になった といわれ、入試は最難関となった。このCollegeの学生の半数は大体Eton, Harrow, Rugby,.
Winchesterの出身者でしめられるが、 P ・ Sの生徒数規模からみればWinchesterが最優秀枚 である1875、 1880、 1885、 1890年の4つの年次をとってみると、 Winchesterは、 1875年第1 位、 1880年第1位、 1890年第2位をしめている1880年のWinchester出身の入学者にはE ・グ レイ卿(1905‑16、外相、文筆家としても有名The charm of birdsなどの名随筆がある)の
*]唱
名を見出すことができる。
エリ‑ト教育機関としてのパップJ]ック・スク‑ル(石井) 123
(B)卒業後の進路
Winchester を「卒業し、またはそれをへて大学専門学校を卒業し」ただちについた職業は表 1Xの通りであるQ その基本的動向はP・ S一般と同じであるとみることができようOすなわち、
軍人はRugby, Harrow,その他p ・ Sと同じようにもっとも人気があるが聖職者は漸次人気を 失なっている。ビジネスは1860年代から顕著に人気を博していく。行政官はほとんど一定の人気 を保持しつづけている Winchesterは専門職に強いP ・ Sといわれているが、法律が漸次減少 しているのを除けば、他のP・ Sとことなり、医師、大学教師、研究者、工学、その他の専門 職、芸術家が着実に増加していることを示している。農業、その他の職業、無職というのは、大 概大土地所有に結合した貴族有爵者に近いタイプであるが,それらはほとんど変化なく持続して いるのをみてとることができる。これはWinchesterが10%近く確実に上流階級出身の生徒をふ くんでいることを示しているとみることができる。
(7)
表 Ⅸ 卒業後の進路の状況
肘''聖o 1830 1840 1850 1860 1870 1880i1890 1900 1910 1920191紺920
‑. ‑91 ‑‑9 ‑9 ‑9 '‑9 9平均 教 会
法 律 医 師 大学教師、研究者
学 校 教 師 工 学 その他の専門職 実 業 軍 人 行 政 官 芸 術 農 業 そ の他の職業 頬 職
計
m 9.9 ll.9 3.5 3.3 4.2 3.2 3.9 16.4 45.1!23.8
7.3
r*!
3.9 0.7 sm.
100
(C)ェリートの輩出
ビショップは、イギリス社会における各職業分野を表Xのように格づけしている。ヒエラルキー Lの強固なものは、その社会的評価、格づけも容易であるが、もちろん、そうでないものもあるo
たとえば、ジャーナリスト、芸術家などである。それらはおおむね仕論にしたがって格づけして いるo そして、表Xのように、各職業分野ごとにエリートA、B、Cと格づけするO この尺度を用
・いると、 Winchester卒業生のエリート‑の進出率はどうなるか.それを示したものが表ⅩIであ る1820‑1920年の間に出生したWinchesterの卒業生6,210人のうち、エリ‑トAの段階に進 且ルたものは1,536人、 24.7%である (1910‑20年代出生者は現在40‑‑50代であるからその率 はさらに高まるものとみられる。 ) 1880年代の卒業生は6人に1人、 1890年代は4人に1人の割 で戦死者を出しているといわれるが、 1890年代を除いて、 1870‑1900年代出生者は30%以上、す
‑なわら大体3人に1人はエリートAに達したことになるo非常に高率だといえようO表X、表Ⅹl
・のなかには政治家の輩出率には格別注意をむけていないが、ちなみにいえば、 1820‑1920年出生
124 ェリ‑ト教育機関としてのパップリック・スクール(石井)
者、 Winchester卒業生のなかから106人の国会議員を出している。
(8)
表 Ⅹ エリ ‑ト の級階別
専 門 管 理 職
教 会 J 法 律 医 師 [ 教 師 軍 人 その他 の職業につい ては暗す0 エリ
ート A.
大聖堂首席司祭司教 大聖堂参事会員 副監督官 など
!壷監
圃 監制顧禦ど
教授/顧問医師王室学士院会員大佐級以上、
王室付医師 教授 将官 王室医科大学教授学長
王室医学会員
軍医大佐 などL など
B
聖堂参事会員 司教宗教法顧問 地方執事
など
鹿 謂 理 離 零墨会員 声学博士保持者
直萎芸鑑 幣 のフ
など
中佐〜少佐
C 教区牧師 牧師補 など
法廷弁護士 特殊弁護士
熟 l助講師 r尉官級
(9)
表 XI Winchester卒業生のエリート進出率 専 門・管 理 職
出生年lェリ‑トA
その他・管理l 非 管 理 計
人 ‑/。
1820‑9 61 19.3 1830‑9 48 14.8 1840‑9 71 20.2 1850‑9 136 21.2 1860‑9 196 25.1 1870へ.9 263 31.9 1880‑^‑9 249 31.3 1891‑9 219 26.9
人 %
87 27.5 91 28.0 143 40.7 246 38.3 326 41.8 294 35.7 290 36.4 225 27.6 286 38.6 216 37.6 17 38.8 2,221 35.8
A 166 52.5 183 56.3 132 37.6 254 39.5 253 32.5 264 32.0 252 31.7 368 45.2 224 30.2 270 46.9 27 60.0 2,393 38.5
^(oamサwo^蝣<*Tft‑HOLOOOi‑IOOOO0
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Winchesterのエリートの輩出の特色
p ・ Sはその期待に反せず各界のエリートを輩出しているが、しかし、輩出の分野は各p・旨 によって個性的であるといえよう。各P ・ Sの個性について十分の資料はないが、いくつかの資 料からWinchesterの個性をうきぼりしてみよう。
表ⅩlIは6分野における国家的指導者(National leader)の出身校別比較である(1955) こ れによれば高級官僚を除き、閣僚、イングランド銀行、市中銀行、ロンドン市庁、保険会社幹 部経営者は、 Etonが圧倒的に多い Winchesterはそれについでいるがはるかに引きはなされ ている。 Etonはとりわけ政界、実業界に強く、 Winchesterはこの分野では弱い。しかし、分・