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『ジューリアス・シーザー』の時間と空間

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『ジューリアス・シーザー』の時間と空間

鶴 田 学

は じ め に

『ジューリアス・シーザー』(The Tragedy of Julius Caesar)は、1599 年 の夏から秋にかけてのある日、ロンドンのテムズ川南岸に新設されて間もない地 球座(The Globe)で上演された。シェイクスピアの属する宮内大臣一座(The Chamberlain

s Men)は、借地権の切れたショアディッチにあった劇場座(The Theatre)を前年の 12 月に解体し、その木材を再利用して、テムズ川南岸のサ ザークに地球座を建設したのだった。劇場一つを構成するだけの木材をどのよう にして運搬したのか、特にテムズ川をいかにして渡ったのかは未だに謎である。

シーザーの暗殺を主題としたこの芝居は、その新劇場のこけら落としの演し物で あったと推測されている。言うまでもなく、どの芝居にも特定の歴史的な文脈 が付随しているわけだが、特にこの作品の場合、以上のような事情から、それが 生み出された時間と空間を無視することはできない。ところが、一方で、『ジュー

福岡大学人文学部准教授

地球座の建設と 『ジューリアス・シーザー』 の関係については、 Steve Sohmer,

Shakespeare’s

Mystery Play: The Opening of the Globe Theatre 1599(Manchester:

Manchester U.P., 1999).の第 1 章 Building Shakespeare

s Globe(pp.3-16)を参照。

Sohmer は占星術、暦、水文学(すいもんがく)、歴史の知識を総動員して夏至にあたる 6 月 12 日が初演の日であったとの仮説を提唱するが、その特定の日付が定説として受容さ れているわけではない。一般的には、バーゼルからの旅行者、トマス・プラッターによ る観劇記録のある 9 月とされる。

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リアス・シーザー』というテクストには、そうした特殊性からの脱却を試み、

「自由、解放(Liberty, freedom and enfranchisement)」(3.1.81)を声高に 叫ぶ、普遍性を志向する声が書き込まれている。ここにある種の曖昧さが生じる。

第 3 幕第 1 場、劇の半ばにして起こるアンチ・クライマックスとも言うべき シーザー暗殺の興奮も醒めやらぬなか、キャシアスが予言的な台詞をもって未 来への思いを馳せる。

How many ages hence Shall this our lofty scene be acted over

In states unborn and accents yet unknown?(3.1.111-3)

この頻繁に引用される 3 行は、単にキャシアスひとりの内心を吐露するもので はない。キャシアスは「芝居が嫌い(loves no plays)」(1.2.202)(シーザー 談)なはずなのだが、そのような人物の口から聞こえてくるとは到底思われな い熱っぽい台詞である。ここにはひとりの登場人物の枠を越えた芝居全体の精 神が表明されている。それは、『ジューリアス・シーザー』という芝居に仕掛 けられた、奇妙な時の感覚を物語っている。キャシアスの台詞は、普遍性を標 榜しているが、その声が属するのは、歴史的に特殊な、ある特別な瞬間であり、

特定のローカルな場所に限定されていた。『ジューリアス・シーザー』が最初 に演じられた 16 世紀末、ロンドン、テムズ川南岸という歴史的な文脈が、劇 場・作者・役者・観客を総動員して、言葉と想像力からなる「仮想の普遍性」

を舞台上に造りあげているのだ。だから、キャシアスの台詞は、それを発して いる当の役者に自己言及的に跳ね返ってくる。史実のシーザーの時代、まだブ

原文の引用と幕・場・行数は、アーデン第 3 版である William Shakespeare. David Daniell, ed.,

Julius Caesar(Thomas Nelson: Walton-on-Thames, 1998)による。他

の作品もそれぞれの最新のアーデン版より引用。

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リテン島がローマ帝国の勢力がかろうじて及ぶヨーロッパ北端の辺境の島に過 ぎ な か っ た と き 、 蛮 族 と み な さ れ て い た こ の 島 の 住 民 の 「 未 知 の 言 語

(accents yet unknown)」でシーザーの暗殺劇が堂々と上演されるなどと果た して誰が想像できただろうか。

普遍性を主張する、特殊な時間と空間。これが『ジューリアス・シーザー』

の包摂する最大のパラドックスである。本論の目的は、この劇を当時の歴史的 文脈のなかに位置づけ、普遍と特殊が交錯するところから生じる曖昧さがどの ように劇中で作用しているかを分析することにある。そこから、シェイクスピ アが最初に書いた本格的なローマ史劇であるこの劇の特質を見極め、地球座の 設立を境に英国史劇からローマ史劇を経て悲劇へと比重を移していく大詩人

(The Bard)の軌跡を辿ることもできるだろう。

1.民衆と英雄崇拝

第 1 幕第 1 場は、ローマの民衆が所狭しと舞台を席巻するところから始まる。

護民官であるフレヴィアスとマララスは、シーザーの凱旋行進を一目見ようと 集まった民衆をたしなめ、すぐさま大人しく帰宅するように促す。「さっさと 家へ帰れ、この怠け者ども、帰れ!今日は祭日か?(Hence! home, you idle creatures, get you home! / Is this a holiday?)」(1.1.1-2)。第一声が叱責か ら始まるという芝居も珍しい。やはりキー・ワードは「ここから(Hence)」

である。冒頭に引用したキャシアスの台詞では、時間の「これから(hence)」

(3.1.111)が用いられていたが、フレヴィアスの台詞では同じ言葉が空間に応 用されている。いまここを起点になにかが動き出そうとする予感こそが『ジュー リアス・シーザー』の原動力(prime mover)なのだ。

そして、その力は民衆にある。だが、その民衆が厳しく叱責される。シェイ

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クスピアの演劇では、言葉も曖昧であれば、演劇的状況も曖昧である。「怠け

(idle)者ども」、これこそが民衆に与えられた侮蔑的な呼称だ。当時のエリザ ベス朝の観衆は決して皆が上品で行儀が良いわけではなかったから、もしかす るとこの冒頭の台詞には、ざわめく土間の立ち見の観衆を沈黙させる目的もあっ たのかもしれない。観衆をいかにして芝居に集中させるか。そのような即物的 なことに劇場人シェイクスピアは苦慮していた。

それはともかくとして、活字を読むわたしたちにとっては、思わぬ躓きの石 がここにある。丹念に校訂されたテクストを目で辿り、固定された意味を読む こと、つまり読書という姿勢に慣らされた現代人には解りにくいところだが、

この「怠け(idle)」 には「偶像(idol)」の地口が重ねられている。民衆は単 に生産的な仕事に従事していない(idle)というだけではなく、積極的にシー ザーという英雄の偶像(idol)崇拝に参与しているのだ。民衆の怠惰は、それ が名指されたときから政治性を帯びてくる。フレヴィアスは民衆の潜在的な力 を警戒して次のように語る。

These growing feathers plucked from Caesar

s wing Will make him fly an ordinary pitch,

Who else would soar above the view of men, And keep us all in servile fearfulness.(1.1.73-6)

民衆という羽根なしにシーザーという鷹は飛翔できない。護民官が民衆のお祭 り騒ぎに対して過剰な反応を示す理由もそこにある。法制度上は民衆の代弁者 に起源を持つ護民官だが、この芝居においてはポンペイ派の残党として描かれ、

熱狂的にシーザーを崇拝する民衆を取り締まっている。だが、護民官が再び舞 台に登場することはない。第 1 幕第 2 場で噂話にあがるように、マララスとフ レヴィアスは 「シーザーの彫像から飾りを取りはずした科で口を封じられ

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(for pulling off scarves off / Caesar

s images, are put to silence)」(284-5)

てしまう。単に官職を追われたのか、あるいは処刑されたのか、真実は明かさ れないまま宙吊りにされる。

民衆の存在も両義的である。劇の冒頭のト書きにある「幾人かの平民が舞台 を横断する(certainCommoners

over the stage)」という指示が、観客に紛

れて土間に立っていた平民役の役者が「舞台によじ登る(over)」とも読め のであれば、ローマの民衆(を演じる役者)とエリザベス朝の観客の距離 は、現代人が想像するよりもずっと近かったのかもしれない。舞台と観客席の 境界線が物理的にも心理的にも明確な近代の額縁型の舞台構造とは異なり、当 時の大衆劇場は中央まで張り出した舞台を三方向から土間の立ち見客が取り囲 む造りだった。この特殊な劇場の構造から生じる臨場感、特別な参加意識は、

エリザベス朝・ジェイムズ朝の大衆演劇の伝統が失われて以来、長らく歴史の 彼方に忘却されていた。しかしながら、『シェイクスピアと共和制』(Shake-

speare and Republicanism) を 著 し た ア ン ド リ ュ ー ・ ハ ド フ ィ ー ル ド

(Andrew Hadfield)によれば、近年の地球座の再建と上演体験によって、劇 場の構造そのものが民主的であったことが実感されてきたという。同書の序 文でハドフィールドは次のように述べる。

The Globe experiment has shown that the common playgoers standing in front of the stage are more important in the dramatic process than most theatre historians had acknowledged. Their ability to move around freely, interject and participate in the

アーデン版の脚注を参照。

ただし、フランク・カーモードも言うように、エリザベス朝の観客は総じて君主制の優 位 を 信じ て お り 、 反 共和 主 義 で あ っ た こと を 銘 記 し て おく 必 要 が あ る 。 Frank Kermode,

Shakespeare’s

Language(Penguin: London, 2000), p.86 参照。ここでの Hadfield の論点は役者と観客の距離のことであり、直接に政治の話題ではない。

(6)

action, as well as show approval and disapproval, reveals the Elizabethan and Jacobean theatre to have been a relatively democratic public space, certainly when compared to a modern theatre.

この「相対的に見て民主的な公的空間(a relatively democratic public space) が、とりわけ『ジューリアス・シーザー』の第 1 幕第 1 場に関して当てはまる ことに疑いはないだろう。シーザーの凱旋行列に熱を上げた古代ローマの民衆 は、シェイクスピアの最新作、『ジューリアス・シーザー』を観劇するために 地球座に押し寄せたロンドンの観客の影でもある。ローマの民衆は「勝手に休 みの日を作って(cull out a holiday)」(1.1.50)凱旋のお祭りを企てている。

その姿は、平日の午後から一時の娯楽を求めてロンドン橋を渡り、テムズ川南 岸の自由地区に足を伸ばしたロンドンの住民に自然と重なる。もしそうだとす れば、冒頭のフレヴィアスの叱責の言葉は当時の観客にとっては耳の痛い苦言 に聞こえたのかもしれない。事実、劇団が平日の午後に芝居を催すことをロン ドン市当局は不愉快に思っていた。シェイクスピアの時代の大衆劇場がロンド ンの壁の外、北部ショアディッチやテムズ川南岸に集中して位置するのも、そ こに理由がある

シェイクスピアにとって生産的であり、ゆえに多忙であった 1599 年、テム ズ川南岸という劇場の位置は常に意識されていた。護民官の語りによって描写 される、凱旋将軍ポンペイを迎え入れるローマの民衆の姿には、エリザベス朝

Andrew Hadfield,

Shakespeare and Republicanism(Cambridge: Cambridge U.P.,

2005), p.3.

テムズ川南岸を比較的自由な祝祭空間と取るか、あるいはフーコー的近代の監視システ ムの先駆けと取るかは議論が分かれるところだろう。理論派の批評家、リチャード・ウィ ルソンは劇場の自由度について懐疑的であり、後者の立場を取る。Richard Wilson,

“‘

Is this a holiday?

: Shakespeare

s Roman Carnival,

” ELH, vol.54. No.1(Spring 1987),

pp.31-44.

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のロンドン市民が重ねられている。

Many a time and oft Have you climbed up to walls and battlements, To towers and windows, yea, to chimney-tops, Your infants in your arms, and there have sat The livelong day, with patient expectation, To see great Pompey pass the streets of Rome:

And when you saw his chariot but appear, Have you not made an universal shout, That Tiber trembled underneath her banks To hear the replication of your sounds Made in her concave shores?(1.1.38-48)

「煙突のてっぺん(chimney-top)」という合成語は、『オクスフォード英語大 辞典』によればシェイクスピアに初出が帰せられており、まさにこの台詞が引 用例文として傍証に使われている。いかにも、人が登れるような高い煙突は、

古代ローマというよりも、近代初期のロンドンにこそ似つかわしい。それだけ ではない。 民衆の騒音のために 「土手の下でティベル川の水面も震えた

(Tiber trembled underneath her banks)」という描写は、まさにテムズ川南 岸に建てられた地球座を念頭に置いているとしか考えられない。「おまえたち の騒音(your sounds)」という表現に、新しい場所での観客を意識した劇作 家の態度が表れている。「川岸(banks)」という単語を聞き取ったとき、芝居 を観ている自分たちの姿を重ね見た当時の観客からは一斉に歓声が上がったこ とだろう。それが「おまえたちの」騒音となり、テムズ川に響き渡ったのだ。

台詞と観客がこのように相互交渉する複雑さのなかに劇場人シェイクスピアら

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しい特徴がある。

観客はローマの民衆の鏡映しとなり、古代ローマとエリザベス朝の時間の隔 たりは急速に縮まる。このような歪んだ時間の感覚は、演劇という芸術表現手 段が得意とするところだった。シェイクスピアは、当時の英国に古代ローマを 投影させる技巧を以前にも活用していた。『ジューリアス・シーザー』の少し 前に書かれた英国歴史劇、『ヘンリー五世』(1599 年初演)におけるコーラス の語りからも容易に推測することができるように、観客は、同時代の軍人の華 やかな行進に古代ローマの将軍、シーザーの面影を見ていた。『ヘンリー五世』

はシェイクスピアが絵巻物風に描いた一連の英国歴史劇を締めくくる作品であ る。アジンコートの戦いで兵の数で上回るフランス軍を相手に奇跡的な勝利を 収めた国民的英雄、ヘンリー五世を迎えるロンドン市民を描写する第 5 幕のコー ラスは、「古代ローマ(th

antique Rome)」と「ヘンリー(Harry)」の時代 の英国、「エリザベス女王(our gracious Empress)」の君臨する英国を数珠 つなぎに結びあわせ、三つの異なる時空間の境界線はぼやける。

But now behold, In the quick forge and working-house of thought, How London doth pour out her citizens.

The Mayor and all his brethren in best sort, Like to the senators of th

antique Rome With the plebeians swarming at their heels, Go forth and fetch their conquering Caesar in;

As, by a lower but loving likelihood,

地球座のこけら落としは『ヘンリー五世』であった可能性も完全には否定できないが、

Sohmer は幾つかの状況証拠から『ヘンリー五世』の上演は古いカーテン座であったと 考えている。Sohmer, pp.8-9 を参照。本論もその前提に従った。

(9)

Were now the General of our gracious Empress, As in good time he may, from Ireland coming, Bringing rebellion broached on his sword, How many would the peaceful city quit

To welcome him! Much more, and much more cause,

Did they this Harry. Now in London place him.(5.Chorus.22-35)8

「後を追いかけ平民が群がり(With the plebeians swarming at their heels)」

(27)という言い回しを見ると、この行を書いている段階で既にシェイクスピ アが『ジューリアス・シーザー』の最初の場面をイメージしていたのではない かと思えてくる。この毅然としたコーラスの口調は、ローマ悲劇の登場人物に 通じる品格を備えているが、実は言語明瞭意味不明の典型でもある。「いま

(Now)」(35)という単純な言語ですら、ここでは曖昧だ。それはヘンリー五 世の時代なのか、あるいはエリザベス朝なのか、容易に判別がつかない。批評 的な性格の強い異色の伝記、『ウィリアム・シェイクスピアの生涯のある一年:

1599 年』(A Year in the Life of William Shakespeare: 1599)を著したジェ イムズ・シャピロ(James Shapiro)によれば、このコーラスの言葉は、シェ イクスピアが劇のなかで芝居の幻想を打ち壊して、観客の注意を直接現実に向 けさせる類い希な瞬間だという。いま「ここにいるヘンリー(this Harry)」

は、到底、歴史上のヘンリー五世ではあり得ない。なぜならば、エリザベス朝 の観客は、この台詞を聞けばエセックス伯を連想しただろうからだ。コーラス の 30-32 行には、「麗しき女帝に仕える将軍 (the General of our gracious Empress)」の、結局は失敗に終わったアイルランド遠征の残映が痛々しく残

T.W.Craik, ed.,

King Henry V

(Routledge: London, 1995).

James Shapiro.

A Year in the Life of William Shakespeare: 1599(Harper Collins:

New York, 2005), pp. 88-9.

(10)

された。劇の「現地時間」であるヘンリー五世の栄光は、古代ローマの過去と エリザベス朝の未来によって複合的に構成されているのだ。

もしかすると、過去・現在・未来といった時間の区分それ自体が無効なのか もしれない。劇場の時間は幾重にも多層であり、シェイクスピアの観客にとっ てシーザーは、過去の遺物ではなく、常に既にそこに在った。連作ものの英国 史劇は『ヘンリー五世』をもって完結したが、作者シェイクスピアにとってみ れば、それは『ジューリアス・シーザー』を経て『ハムレット』へと連なって いく悲劇の主題の序奏だったように思われる。歴史劇と悲劇に挟まれた中間の 劇として眺めるとき、『ジューリアス・シーザー』がシェイクスピアの劇作家 としての経歴上、重要な転換期に位置しているのが見えてくる。

2.関節の外れた時

ブルータスの意識も過去・現在・未来という多層構造の時間によって歪めら れている。ブルータスが時の感覚を失い、一日のなかの時間の流れ、月のなか の日を見失っているのは単なる偶然ではない。ブルータスは、「星の動きを見 て、夜明けまで後どのくらいか分からない(I cannot by the progress of the stars / Give guess how near to day)」(2.1.2-3)。あるいは、「明日は 3 月 1 日ではなかったか(Is not tomorrow, boy, the first of March?)」(2.1.40)

と小姓に尋ねる。

とりわけ引用した二つ目の台詞は興味深い。『ジューリアス・シーザー』は、

「四つ折り本(Quarto)」による作者存命中の出版がなく、信頼すべき初期の テクストといえば没後に出版された「第一・二つ折り本(The First Folio)」

(1623 年)の全集版しか存在しない。そのために、本文校訂上の問題は、四つ 折り本と二つ折り本が存在する他の劇と比べて比較的少ない。だが、このブルー

(11)

タスの台詞は唯一の底本である二つ折り本の読みが「1 日(the first)」となっ ているために歴代のテクスト編纂者を悩ませてきた。18 世紀のシェイクスピ ア全集編者、ティボルド(Lewis Theobald)が当該箇所を「誤り」と断定し

「15 日(the Ides)」と改訂して以来、ほとんどすべての後世の編者はティボル ドに倣ってきた。しかしながら、もしここで劇作家シェイクスピアが敢えて

「時間感覚を失ったブルータス」を演出したかったのだとすれば、どうだろう か。最新のアーデン版の編者は、二つ折り本の読みを尊重してそのまま「1 日」

としている10。もしも、ブルータスにとって現在という時間が不安定に揺らい でいるのであれば、ここは「本文の誤り」ではなく、「ブルータスの勘違い」

でなければならない。

実際に、そうした暦に関する混乱は、当時の英国人にとって日常の体験とし て直接に関心のあるものだった。教皇グレゴリウス 13 世による暦の改定によっ て、ヨーロッパ大陸では 1582 年以降、グレゴリオ暦が使われていたが、英国 はカトリック教会への反発から依然としてユリウス暦を使用していた。当然、

暦のずれは勘違いや行き違いを生む。だから、当時の英国の観客にとってはブ ルータスの思い違いは決して不条理なものではなかった11。ブルータスがもっ ともな間違いを犯すところに意味がある。この劇におけるブルータスの最初の 台詞が「占い師が 3 月 15 日に用心せよ、と申しております(A soothsayer bids you beware the Ides of March)」(1.2.19)であることを考え合わせると 劇的アイロニーは更に深まる。

もちろん、ブルータスにとって危ういのは現在だけではない。シーザーを暗 殺すべきか否か、自問自答する独白に耳を傾ければ解るように、ブルータスの

10アーデン版の編者、Daniell による Introduction, pp.19-21 を参照。ただし、当時の植 字工は意味も考えずに見たとおりに活字を組んでいたから、単なる植字上の見間違えと いう可能性も非常に高い。Sohmer は積極的に「1日(the first)」を推す。Sohmer, pp.77-87 参照。

11Shapiro, p.150 参照。大陸と英国の暦のずれについては Sohmer, pp.17-35 も参照。

(12)

苦悶の根源は先送りされた未来にある。

It must be by his death: and for my part I know no personal cause to spurn at him But for the general. He would be crowned:

How that might change his nature, there

s the question.(2.1.10-3)

現在のところ、ブルータスにはシーザーを討たねばならない理由がない。「問 題」は王冠を戴いたシーザーがいかに変わってしまうかにある。「謙虚さは傲 慢さの登る梯子だ(That lowliness is young ambition

s ladder)」(22)、と ブルータスは過去の「先例(a common proof)」(21)から推論する。「シー ザーもそうなるかもしれない(So Caesar may)」(27)という不確かな未来 こそが、ブルータスの行動を保証する怪しげな動機なのだ。

この「問題」というどこかで聞いた覚えのある言葉は、ハムレットの最も有 名な独白を連想させる。『ハムレット』の海賊版と言われる「第一・四つ折り 本」(1603 年)では問題の箇所は、やや崩れた印象を与える、

To be, or not to be - ay, there

s the point.(7.115)12

となっている。一説によれば「第一・四つ折り本」は端役を演じた役者のひとり が記憶に頼って再構成したテクストと考えられているから、もしかするとその役 者がブルータスとハムレットの台詞を混同したのかもしれない。作者の原稿に基 づいた上演台本により近いとされる「第二・四つ折り本」(1604-5 年)では、

12Ann Thompson and Neil Taylor, eds.,

Hamlet: The Texts of 1603 and 1623

(Thomson: London, 2006)より、1603 年の「第一・四つ折り本」のテクストから引用。

この版では幕割りはなく、通し番号の付いた「場」に分かれている。引用は 7 場 115 行。

(13)

To be, or not to be - that is the question;(3.1.55)13

という馴染みの形である。ブルータスの there

s the question が両者の中間型 になっているのが面白い。ブルータスからハムレットへと発展する悲劇の人物 造形はしばしば指摘されることだが、『ジューリアス・シーザー』と『ハムレッ ト』の創作時期が接近していることはもっと留意されてしかるべきだろう。実 際に、ブルータスの独白は、短いながらも充分にハムレットを予感させる域に 達している。

Between the acting of a dreadful thing And the first motion, all the interim is Like a phantasma or a hideous dream:

The genius and the mortal instruments Are then in council, and the state of man, Like to a little kingdom, suffers then The nature of an insurrection.(2.1.63-9)

ハムレットが「思考という青白い顔 (the pale cast of thought)」(Hamlet.

3.1.84)をして「行動という名前(the name of action)」(Hamlet. 3.1.87)を 失うように、ブルータスも「思弁(motion)」と「行動(acting)」の狭間で悪 夢を見ている。フランク・カーモードは、ここでブルータスが「殺し(killing)」

や「罪(crime)」といった言葉すら避けて、漠然と「恐ろしいこと(a dreadful thing)」と言っていることを絶賛している14。極度の抽象化は、歴史から離れ、

13A. Thompson and N. Taylor, eds.,

Hamlet

(Thomson : London, 2006)より「第二・

四つ折り本」のテクストから引用。アーデン第3版の『ハムレット』は2巻ある。

14Kermode, p.93.

(14)

悲劇へと進路を取るシェイクスピアの軌跡を物語っている。また、シェイクス ピアがここで「悪夢(phantasma)」という珍しい言葉を用いていることにも 注意しなければならない。『オクスフォード英語大辞典』 によれば、 この phantasma という形での用例は 1598 年が初出であり、当時は最新の語であっ た。観客に馴染みがないであろう単語を使うときには、シェイクスピアは、注 意深くかつさりげなく意味を説明するように書いているが、ここでも「つまり 恐ろしい夢(or a hideous dream)」と言い足している。

だが、ブルータスにとっては、もう一つの意味、「亡霊(phantasma)」も 同じように意味されていた。ブルータスにとって過去は過去ではない。ちょう ど、ハムレットが先王ハムレットと同じ名前を持ち、その亡霊の命令によって 束縛されているように、 ブルータスも 「シーザーの 亡霊 (The ghost of Caesar)」(5.5.17)に悩まされる以前に、もうひとりの「ブルータス」の亡霊 に取り憑かれている。そのきっかけを作るのは例によってキャシアスだ。シェ イクスピアは『ロミオとジュリエット』(Romeo & Juliet)で提示した「名前 のなかになにがある(What

s in a name)?」(2.2.43)という主題をより政治 的に展開する。若く思弁的だったジュリエットは、一筋縄ではいかない現実派 の狡猾なキャシアスに変身を遂げて登場する。

Brutus

and

Caesar

: what should be in that

Caesar

? Why should that name be sounded more than yours?

Write them together: yours is as fair a name:

Sound them, it doth become the mouth as well.

Weigh them, it is as heavy: conjure with

em,

Brutus

will start a spirit as soon as

Caesar

.

・ ・ O, you and I have heard our fathers say

(15)

There was a Brutus once that would have brooked Th

eternal devil to keep his state in Rome

As easily as a king.(1.2.141-6 & 157-60)

ここでも時間が二重構造になっていることに注目しなければならない。「ブルー タス(a Brutus)」という名前は、現在キャシアスの目の前に立つ男を指すの ではなく、古代共和制の設立者であるブルータスの祖先を指す。それは共和制 の理想を呼び覚まし、ゆえにその名前の後継者は暴君に対して立ち上がる責任 と義務を負う。キャシアスは、この台詞の前半では「シーザー」という名前の なかにはなにもないと主張しながらも、後半では翻って「ブルータス」という 名前にはなにかがあると仄めかしているのだ。「ブルータス」と「シーザー」、

この二つの名前が交換可能であるという皮肉は、シーザー暗殺の後、ブルータ スの演説を聴いた民衆が 「彼をシーザーにしよう (Let him be Caesar)」

(3.2.51)と騒ぎ出すところで頂点を極める。

「ブルータス」という名門の名前には不思議な力が秘められていた。不吉な 流星の光を灯りにブルータスは自宅に投げ込まれた匿名の手紙を読み上げる。

キャシアスらが偽造した懇願の手紙を読んだとき、ブルータスの心を動かすの は、言葉足らずの、断片的にしか読み上げられない手紙の文言ではなく、祖先 の名誉という過去だ。

Brutus, thou sleep

st; awake and see thyself.

Shall Rome, et cetera. Speak, strike, redress.

Brutus, thou sleep

st; awake.

Such instigations have been often dropped Where I have took them up.

Shall Rome, et cetera.

Thus must I piece it out:

(16)

Shall Rome stand under one man

s awe? What Rome?

My ancestors did from the streets of Rome The Tarquin drive, when he was called a king.

Speak, strike, redress.

Am I entreated

To speak and strike? O Rome, I make thee promise, If the redress will follow, thou receivest

Thy full petition at the hand of Brutus.(2.1.46-58)

ブルータスの頭のなかで膨らんだ「わたしの先祖(my ancestors)」の名誉と いう「亡霊(a phantasma)」(2.1.65)が彼を奮い立たせるのだ。シェイクス ピアがずっと以前に物語詩という形で書き上げた『ルークリースの凌辱』(The

Rape of Lucrece)に登場するジューニアス・ブルータス(Junius Brutus)

の名前が現在のブルータスの思考を縛る。このような名前の呪縛は、妻ポーシャ にも作用している。「並大抵の女ではないことを証明する(strong proof of my constancy)」(2.1.298) ために、 ポーシャは 「太股を (in the thigh)」

(300) 自ら傷つけるが、 それは彼女が 「カトーの娘 (Cato

s daughter)」

(294)に生まれ、ブルータスの妻になったがゆえに背負い込んだ重荷である。

共謀者たちがブルータスの自宅を訪問した夜の明け方、病床に伏していたリゲ リアスも立ち上がり、「あなた様(の名前)が悪魔払いのように、死に瀕してい たわたしの魂を呼び覚ました(Thou like an exorcist hast conjured up / My mortified spirit.)」(2.1.322-3)とブルータスに告げる。シェイクスピアが種本 として利用した材源であるプルタルコスでは、事情が異なる。T.J.B.スペンサー

(T.J.B.Spencer)の纏めた『シェイクスピアのプルタルコス』(Shakespeare’s

Plutarch)によれば、ブルータスが病床のリゲリアスを訪問し、仲間に誘っ

15とある。シェイクスピアは演劇的な効果を考慮してしばしば材源を自由に

15T.J.B.Spencer,

Shakespeare’s Plutarch

(Penguin: Harmondsworth, 1964), p.113.

(17)

書き換えるが、ここでは無用な場面(つまりブルータスによるリゲリアス訪問)

を省くという効果の他に、病身のリゲリアスを行動に駆り立てることによって ブルータスのカリスマ性を強調することに貢献している。キャシアスの言うよ うに、ブルータスの名前が「霊を呼び起こす(start a spirit)」(1.2.146)の だ。

3.演劇の場所

ここでいま一度、1599 年、テムズ川南岸の自由地区という限定された場所 に立ち返って『ジューリアス・シーザー』の特質について考察したい。シェイ クスピア全般に関して言えることだが、当時の演劇は近代的リアリズムからは 程遠いところにあった。特別な舞台装置や大道具があったわけでもなく、照明 や幕などの基本的な設備すら欠けていた。衣装も、たとえ場面設定がローマや アテネであっても、エリザベス朝の普段着のまま演技したと考えられている。

だから、『ジューリアス・シーザー』においても、人を呼び止めるときには

「袖を (by the sleeve)」 引き (1.2.178) 、 民衆は 「汗臭いナイトキャップ

(sweaty nightcap)」(244) を 被 っ て お り 、 シ ー ザ ー は 「 ダ ブ レ ッ ト

(doublet)」(264)を着ている。夜中に密談する共謀者たちは「時計の鐘を数 え(Count the clock)(2.1.191)、暗殺の後では「説教壇(pulpits)」(3.1.80)

から民衆に呼びかける。だが、そうした偶発的で些細な時代錯誤は無視すると しても、それ以外に作者が意図的に導入したとしか考えられない時代錯誤があ る。つまり、劇中のローマの世界に敢えてエリザベス朝のロンドンを重ね合わ せることによってなにか特別な意味を含ませていた例について考えてみたい。

劇場という場に直接言及する台詞はポーシャの口から発せられる。ひとり秘 密を抱えて鬱ぎ込み、夜もろくに眠れないブルータスに、妻ポーシャは隠し事

(18)

をせず胸の内を打ち明けてくれるように懇願する。この場面の台詞は、一部は 材源に存在するもので、一部はシェイクスピアによる創作である。口を閉ざし たブルータスに迫り、ポーシャは詰問する。「わたしはただあなた様の心の郊 外に住むだけの女でしょうか(Dwell I but in the suburbs / Of your good pleasure?)」(2.1.284-5)。この「郊外」という言い回しは材源であるプルタル コスには見あたらないからシェイクスピアによる発明だと考えられる。それが ロンドンの城壁の外、熊いじめの見せ物や売春宿、劇場などが立ち並ぶいかが わしいテムズ川南岸を指示していることは疑う余地もない。リアリズムを追求 する近代的な演劇であれば、このような台詞は御法度かもしれないが、比喩的 な表現とそこに暗に含まれた洒落の危ういバランスがシェイクスピアの英語に 活力を与えている。続けてポーシャは、「もしそれだけのことならば、ポーシャ はブルータスの娼婦であって妻とは言えません(If it be no more, / Portia is Brutus

harlot, not his wife)」(285-6)と発言するが、この部分は材源であ るプルタルコスの英訳に類似の語句がある。

I being, O Brutus,

said she,

the daughter of Cato, was married unto thee, not to be thy bedfellow and companion in bed and at board only, like a harlot, but to be partaker also with thee of thy good and evil fortune....

16

シェイクスピアが、英訳版プルタルコスに「娼婦」の文字を見つけてから、劇 場の置かれた自由地区を連想するまで、さほど時間はかからなかっただろう。

そこから「郊外」を導きだし、ポーシャによる抗議の台詞を思いついたところ にシェイクスピアの創意工夫がある。その工夫とは、常に劇場という場を意識 している思考から生まれてきたものだった。

16T.J.B.Spencer, p.118.

(19)

もう一つ興味深いことに、当時、新進気鋭の作家をシェイクスピアが横目に 見る視線が、この場面のポーシャの台詞に紛れ込んでいる。ポーシャはブルー タスの憂鬱を 「誰しも一時襲うことのある気の鬱ぎのせい (an effect of humour, / Which sometime hath his hour with every man)」(249-50)と 思い、いままで声をかけずに遠慮していたと告白するのだが、ここでシェイク スピアが念頭に置いているのは、ベン・ジョンソンの「ヒューモア喜劇」に他 ならない。総じて言えば、ジョンソンの方がシェイクスピアに対して敏感で、

劇作品を通じて先輩作家を揶揄していた形跡があるのだが17、ここでは珍しくシェ イクスピアの方がジョンソンの芝居のタイトル、『くせ者揃い』(Every Man In

His Humour)を台詞のなかに織り交ぜてみせている。『くせ者揃い』は 1598

年、カーテン座において「役者シェイクスピア」も参加して上演されていた18

『ジューリアス・シーザー』は、それが上演された大衆劇場という場を過剰 に意識している。民衆の反応がいかに大きな意味を持っていたか、それは、た とえば、シーザーを王に選出しようと民衆が騒いでいる様子を描写するキャス カの談話(1.2.214-93)にも表れている。アントニーが民衆の前でシーザーに 王冠を被せようとしたところ、シーザーは内心ではまんざらでもないと思いな がらも民衆の手前、辞退する素振りをした。この場面は実際に演じられること はなく、キャスカの口を借りて「語り」として提示される。キャスカは、その ときのローマの民衆とシーザーの関係を、劇場の観衆と役者のアナロジーで言 い表す。

I know not what you mean by that, but I am sure Caesar fell down. If the tag-rag people did not clap him

17J.Dover Wilson.

Ben Jonson and

Julius Caesar.’ Shakespeare Survey 2, (1949)

, pp.36-43.

18Ben Jonson.

Every Man In His Humour. Robert Watson, ed., (A&C Black: London,

1998). Introduction, xxi.

(20)

and hiss him, according as he pleased and displeased them, as they use to do the players in the theatre, I am no true man.(1.2.256-60)

役者が観客を満足させれば観客は拍手する、一方で不満であれば観客はブーイ ングを飛ばす。そのような劇場の現実をキャスカは簡潔な速度のある散文で言 い放つ。この砕けた口調をブルータスは、「なんとも冴えない大人になってし まったものだ(What a blunt fellow is this grown to be!)」(294)と嘆いて いる。キャスカの散文を、フランク・カーモードは、「ジョンソン風の散文

(Jonsonian prose)」19と呼んでいて、確かにカーモードが示唆するようにある 種の下品さを伴うのだが、独特のリズムと活きの良さは否定しようもない。シー ザーが民衆の反応を見て、受けを狙って大袈裟な芝居を打つ場面の描写も、キャ スカの口を通して聞けば極めて躍動的な光景が目に浮かぶ。

Marry, before he [Caesar] fell down, when he perceived the common herd was glad he refused the crown, he plucked me ope his doublet and offered them his throat to cut.(1.2.262-5)

「えいっと上着の胸をはだけ、喉を差し出し(plucked me ope his doublet and offered them his throat)」という動作の描写がいかにも演劇的で、「関 心の与格(ethical dative)」の me が効いている。もう少し若いときのシェイ クスピアであったならば、この逸話だけで一場面を描いたかもしれない。比較 的初期に属する英国歴史劇、『リチャード三世』(Richard III)では、グロス ター公リチャードが敵側の未亡人アンを口説く第 1 幕第 2 場で、同様の所作を

19Kermode, p.90.

(21)

してみせた。だが、今回、シェイクスピアはそのような「芝居じみた」場面を カットし、演劇的な描写の語りという技法を導入した。実を言えば、シーザー が胸をはだけて「刺してみろ!」と叫んだという逸話は、材源であるプルタル コスの英訳版に似通った語句と表現でそのまま存在する。

Thereupon also Caesar rising departed home to his house, and tearing open his doublet collar, making his neck bare, he cried out aloud to his friends that his throat was ready to offer to any man that would come and cut it.20

ここでは材源とシェイクスピアの共通点を指摘することよりも、むしろ差異に こそ意味がある。プルタルコスでは、シーザーは議事堂で元老院の長老に礼を 欠いた不作法を働いており、「中座して帰宅した(rising departed home to his house)」 後に、 取り乱した行動を取った―喉をさらけだして 「身内のもの

(friends)」に殺せと叫んだ―とある。これは屋敷のなかで起こった内々の出 来事だ。一方でシェイクスピアのシーザーは、同じ所作を民衆の前で演劇的に 再現している。民衆に政治を左右する力があること、ただしその力には実体が なく不確実であること、それを表現するために、シェイクスピアは「ジョンソ ンの気質」を模倣した。宮内大臣一座の座付脚本家であり、地球座の建設とと もに劇場の株主ともなったシェイクスピアが、異彩を放つこの「新人」を少な からず意識していたことは、ブルータスへの弔辞に「四元素(the elements)」

(5.5.73)という言葉が混入することからも察せられる。『ジューリアス・シー ザー』が、現場から生まれた、芝居についての芝居であるという感覚は、この ような細部にまで行き渡っている。

20T.J.B.Spencer, p.81.

(22)

むすび

本論の冒頭で引用したキャシアスの「まだ生まれぬ国々で、未知の言語で」

(3.1.113)という台詞は、古代ローマを基点に見れば、未来を見据えた予言的 な言葉であり、同時に、エリザベス朝の英国を基点に見れば、古代ローマを懐 古する言葉でもある。そこにはヤヌスの仮面のごとき双方性から生じる曖昧さ が秘められている。『ヘンリー五世』や『ハムレット』との関連を通じて見て きたように、『ジューリアス・シーザー』は、過去・現在・未来が融合した、

特別な劇場の時間感覚に支えられていた。そのような渾然とした時間は、観客 に眩暈を起こさせたのかもしれない。ブルータスを狂わせていたのかもしれな い。

だが、所詮、芝居は芝居。「これから何度、シーザーは演技で血を流すこと になるだろうか(How many times shall Caesar bleed in sport)」(3.1.114)。

シーザーの暗殺者を演じた役者たちは、そのようなシェイクスピア的瞬間を体 験した「幸福な少数の人々(happy few)」(Henry V. 4.3.60)だった。共謀 者 と の 密 談 が 終 わ り か け る と き 、 ブ ル ー タ ス は 唐 突 に 「 ロ ー マ の 俳 優

(Roman actors)」という言葉を口にする。

Good gentlemen, look fresh and merrily.

Let not our looks put on our purposes, But bear it as our Roman actors do,

With untired spirits and formal constancy.(2.1.223-6)

歴史上のローマの役者は仮面をつけて演技していたから、ブルータスが第一義 的に意味していることは、本心を仮面の下に隠して、と解釈できる。だが、アー

(23)

デン版の編者も指摘するように、同時に、ローマの名優たちに劣らず見事に演 じようという宮内大臣一座のプロ意識がそこに垣間見られる。シェイクスピア の英国は、古代ローマの文化的遺産を仰ぎ見つつも、台頭する自国の言語文化 に誇りと自信を持ち始めていた。本格的なローマ悲劇を標榜するこの芝居にあっ て、驚くべきことに、ラテン語の台詞といえば唯一「ブルータス、おまえもか

(Et tu, Brute?)」(3.1.77)しか存在しないのだ。「目は他のものに映してしか 自身を見ることができない(the eye sees not itself / But by reflection, by some other things)(1.2.52-3)とブルータスは言う。シェイクスピアが『ジュー リアス・シーザー』という演劇の鑑に映し見たものは、演劇人としての自身の 姿と同時代の風景に他ならなかった。

参照

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