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一. 9・10世紀における陰山地方の室韋=達靼人

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(1)

論 説

沙陀後唐・九姓タタル関係考

白 玉 冬

は じ め に

晩唐・五代において, 代北地方 (現中国山西省北部と河北省西北部) に本拠を置いた沙陀突厥集団は東ユーラシア史上重要な役目を果た していた。 その部族構造及び勃興の歴史について, 主に室永芳三 (1971・1975), 徐庭雲 (1987), 樊文礼 (2000・2002), 劉慧琴・陳海 涛 (2001), 森部豊 (2001;2004;2008), 西村陽子 (2008 12 16;

2009) が, それぞれ異なった視点から考察を与えている。 そのうち, 沙陀集団下のソグド人を中心にした森部の研究は, 学界から大いに 注目されており, 新出墓誌銘に関する分析を通しての西村の研究は, 沙陀の歴史を大きく補正するものである。

史料が語るように, 乾符五年 (878), 沙陀の首領李克用が代北水 陸発運使・雲州防御使の段文楚を殺して乱を起こす(1)。 唐軍に敗 れた李克用は, 父の李国昌と一族を挙げて達靼, 即ちタタルに亡命 する。 やがて, 朝廷の詔で李克用はタタル兵一万人を率いて, 中国 内地に進軍し, 黄巣の乱の鎮圧に尽力する。 この功績によって, 李 克用は後の後唐の建国に堅い基盤を齎す。 唐王朝が黄巣の乱を討滅 し得たのは, 沙陀・タタル間の緊密な連携によるところが大きいと 言っても, 過言ではない。

この沙陀突厥に協力して反乱鎮圧に参加したタタルに関して, 室 韋史研究の先がけとなった白鳥庫吉 (1919 459 460) は, 8〜9 世紀に陰山地方に移動してきた室韋部落の後裔, 即ち 「陰山達靼」

であると主張する(2)。 張久和 (1998 178 180;1999 1 9) も白 鳥と同様の見方を示す。 これに対して, 前田直典 (1948 247 248)

(2)

は, 当時漠北のオルホン河流域, 或はケルレン河流域を占有してい たタタルの部落が沙陀と連携したのだと考える。 他方, 室韋=達靼 部落の漠南地方への移住について, 亦鄰真(1979 578 579)・韓儒 林 (1986 11 12) が, まとまった研究を行っている。 両者いずれ も, 晩唐期において, 室韋=達靼人は陰山地方に住み着くようにな ると指摘するが, 黄巣の乱の鎮圧に参加したタタルについては, 両 者共に議論はしていない。 また, 中国歴史地図集 第5冊 「五代 十国時期全図」 は, 漠北のオルホン河流域の 「達旦」 のほか, 陰山 の北, ゴビ砂漠の南端にも 「達靼」 と両説を併記している。 因みに, 陰山山脈は東西千キロもあるが, 白鳥を含めた上掲先学の言う陰山, 並びに本稿で一般に取り扱う陰山は, どちらも現呼和浩特・包頭一 帯の中西部を指す。 またゴビ砂漠より以南・以北の地域を指す漠南・

漠北二語に関しては, 本稿の場合, 漠南はおよそ陰山山脈南北に跨 る草原と半草原地帯を指し, 漠北は大体ハンガイ山脈以東からケル レン河上流に至るまでの地域を指す。 なお, 本稿の漠南は, 後で言 及する松漠地方と部分的に重なる。

このように, 晩唐五代期において, 陰山地方にタタルの大集団 (即ち陰山達靼=陰山室韋) がいて, 彼らこそ黄巣の乱の鎮圧に関わっ ていたという見方は, 前田以外の先学によって強く信じられている。

しかし, 8〜9世紀における室韋の漠南地方への移住と分布につい て, 改めて検討を行った筆者からみれば (白2010), 当時陰山地方に タタルの大集団が存在していたとは考えられない。

そこで, 本稿において, 沙陀後唐と関係を保っていたタタルの本 拠地について卑見を表明し, 9世紀末から10世紀における中原王朝 とモンゴリアの遊牧民集団間の相互影響につき注意を促し, 東ユー ラシア史研究の上で不十分な部分を補正することを目指す。

一. 9・10世紀における陰山地方の室韋=達靼人

室韋=達靼人が最初に陰山地方に定着するのは, 早くても8世紀 以前に遡らない。 李吉甫撰 元和郡県図志 巻4・関内道4・豊州 天徳軍条 ( 114) に 「辺境の住民は, 常に室韋・党項の略奪に苦 沙

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・ 九 姓 タ タ ル 関 係 考

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しめられていた」 とあり(3), 冊府元亀 (明本) 巻429・将帥部・

守辺( 5112) に 「范希朝が振武節度使だった時, 振武地方に党項・

室韋が草原と山地に雑居していた」 とある(4)。 唐代において, 天 徳軍の治所は現陰山山中の烏梁素海に位置し (張郁1997 514 515), 振武軍の治所は, 現呼和浩特南の土城子遺跡 (齊藤2009 29 30) にあたる。 即ち, 8世紀末から9世紀初めには, 室韋人は陰山地方 に移住していたと言える。

さて, 武宗開成五年(840), 東ウイグル可汗国が崩壊した頃, 烏 介可汗を筆頭とするウイグル人集団が唐の北辺・陰山地方に亡命し ていたことは, よく知られている。 上記亡命ウイグル人集団とのや り取りを記録した一連の公文書は, 宰相李徳裕の文集 会昌一品集 に収められている。 その中に, 9世紀半ばごろ, 陰山地方の住民の 主体は室韋ではなく, 吐谷渾と党項だったことを示すものが存在す る。 しかも, これらの公文書に関する比較分析から, 当時室韋の大 集団は漠南におり, それも契丹に隣接し, 陰山の東北に位置する松 漠地方あたりにいた (白2010 93 95) と推察できる。 反対に, ウ イグル人に対する唐軍の討伐に関して, 旧唐書 巻18上・武宗紀 上・会昌二年 (841) 8月条 ( 593) では 「太原 (の河東節度使) に 詔して, 室韋・沙陀三部落・吐渾などもろもろの部を発動させ, 石 雄に前鋒を委ねた」 とある(5)。 つまり, ウイグル人を討伐するた めに徴集された唐の蕃兵の中に, 沙陀・吐谷渾と並んで, 室韋の部 落がおり, この室韋の部落は, 上の陰山地方に現れた室韋人に由来 すると見なしてよかろう。 では, これらの陰山にいた室韋人は, そ の後どういうふうに発展していったのであろうか。

咸通9年 (868) 7月, 唐内地に の乱が起こる。 11月, 懿宗 は詔を下して, 右金吾大将軍の康承訓等に反乱軍を征伐させる。

資治通鑑 巻251・唐紀67・咸通9年11月条 ( 8131) に 「(康) 承 訓は上奏して, 沙陀三部落使朱邪赤心, 及び吐谷渾・達靼・契 の 酋長がおのおのその兵士を率いて, 自随することを乞う。 詔を下し てこれを許す」 とある(6)。 後ほど紹介する史料Bにおいて, 宋初 の宋白は問題のタタルを首領の毎相温・于越相温に率いられた, 当

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時漠南にいたタタルの部族に当てている。 沙陀・吐谷渾・契 と並 んでいることから, その中にこれらの部族と共に先ほど言及した, 唐の統制下に置かれていた室韋人が含まれる可能性を完全に否定で きない。 しかしながら, 東ウイグル可汗国が崩壊した840年以降に 発生した, モンゴル高原におけるタタル部落の移住の動きを想像す ると, 彼らは漠北のタタルより出自した可能性も十分にある。

ところで, 新五代史 巻74・達靼伝 ( 911) 及び 冊府元亀 (宋本) 巻972・外臣部・朝貢5 ( 3858 3859) に, 党項人である 達靼都督の折文通が河西から来貢したとある。 吐蕃が河西道を占領 した後, 史料中の河西の概念はそれ以前と変わり, 北流・南流する 黄河に挟まれた地域を指す (栄1996 176 182) ことが多くなる。

折氏党項は, 晩唐から五代・宋末にかけて, 麟・府・豊三州, 即ち 現陝西省の府谷・神木及び内蒙古のジュンガル旗一帯の豪族であっ た(7)。 党項人の折文通は, 達靼都督であるから, やはり後唐統制 下のタタル人を率いていたリーダーだと考えるのが適切であろう。

また, 冊府元亀 (宋本) 巻972・外臣部・朝貢5の明宗天成四年 (929) に 「十月, 怛首領張十三朝」 と述べている。 張十三は達怛 人の姓と考えにくい張姓を名乗っているが, 折文通と同様にタタル 人を率いていたリーダーということであろう。

こうして, 10世紀初頭, 沙陀後唐の配下に一部のタタル人がいた ことは確かだと見られる。 彼らのルーツは, 上で紹介した の乱 の鎮圧に携わったタタルの部落, ないし会昌年間に唐の蕃兵だった 室韋人まで遡っても, おかしくないと筆者は考える。 他方, 契丹軍 に攻 されて敗れた漠北の九姓タタルが, 後唐に亡命していたこと が史料から知られる。 即ち, 冊府元亀 (宋本) 巻977・外臣部・

降附 ( 3896) の次の記事である。

(後唐荘宗同光二年) 六月, 雲州 度使李敬文奏, 靼首領 勞撒 于于越族帳, 先在磧北。 去年契丹攻破背陰, 靼因相掩 。 勞 撒于于越 領 (部)族羊馬三萬, 來降, 已到金月南界(8)。 同光2年 (924) 年6月, 雲州節度使李敬文が次のように上奏 した。 「達靼の首領 勞撒于于越の部族はもともとゴビ砂漠の北 沙

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にいた。 去年契丹が背陰 (国) を攻め破ったので, 達靼 (の部 族) は (契丹を) 不意打ちした。 勞撒于于越は部族民・羊・馬 三万を連れて来降し, 已に金月地方の南の界に来ている」 と。

先行研究(前田1948 250;長澤1957 310) の言うように, 上掲 史料の年次は正確には925年であることは, 旧五代史 巻25・荘宗 紀6の同光3年 (925) 6月癸亥の条 ( 448) にある同一事件を記 録した記事の検討から明らかである(9)。 また 旧五代史 巻61・

張敬詢伝 ( 821) では, 天成二年 (927) に大同節度使に就任した 張敬詢について, 「後に室韋萬餘帳を招撫す」 と述べている。 更に 冊府元亀 (宋本) 巻972・外臣部・朝貢5 ( 3860) によると, 廃 帝清泰元年 (934) 8月に, 達怛の首領没干

ママ

越等が入朝したと言う。

しかも, 新五代史 巻74・達靼伝 ( 911) に長興三年 (932), 達 靼の首領頡哥がその族四百余人を率いて来附すとある。 これらの室 韋或は達靼と記された人々の出身地は, 一言で断言し難い。 ただし, 遼史 巻1・太祖紀上の神冊元年 (916) 7月壬申の条 ( 11) に

「親征突厥・吐渾・党項・小蕃・沙陀, 皆 之」 とある。 契丹に攻 撃されたこれらの部族は当時陰山〜代北地方にいたと見られる (長 澤1957 305 306;樊2000 66 68 73 76)。 しかも, 太平興国六年 (981) に, 漠北の九姓タタルの地を経由して西ウイグル王国へ出使 した宋使王延徳の記録から, 陰山南北にタタルの大集団がいたと考 えられないことは, 前田 (1948 235 237 240 241 259 260注19) の 考察から明らかである。

このように, 9〜10世紀において, 室韋=達靼人は陰山地方にい たことは確かであるが, 彼らは大勢力に至るまで発展し得なかった と見られる。 漠北のタタルの部族が925年に後唐に亡命していたこ とに鑑みると, 後唐と連携関係を有していた達靼の由来を検討する 際, また漠北の九姓タタルの部落も視野に収めて考えるのは, 妥当 な判断ではなかろうか。

二. 新五代史 達靼伝について

沙陀・タタル間の関わりについては, 主に李克用父子のタタルへ 東

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の亡命を中心に記録が残されている(10)。 そのうち, 正史中唯一タ タルに関するまとまった記述である, 新五代史 巻74・四夷附録・

達靼 ( 911) は, 次のように伝えている。

A (1) 靼, 靺鞨之 種, 本在奚・契丹之東北, 後爲契丹 攻, 而部族分散, 或屬契丹, 或屬渤海, 別部散居陰山 , 自號

靼。 (2) 當唐末, 以名見中國。 有 相 ・于越相 , 咸 中, 從朱邪赤心討 。 (3) 其後李國昌・克用父子爲赫 鐸 等 敗, 嘗亡入 靼。 (4) 後從克用入關破 , (5) 由是居 雲・代之 [後略]。

(1) 達靼は靺鞨の生き残りであり, 元々奚と契丹の東北方面 にいたが, 後に契丹に攻められて, 部族がばらばらになり, 或 るものは契丹に付き従い, 或るものは渤海に付き従い, 陰山に 散居した別部は, 自ら達靼と名乗った。 (2) 唐末に当たり, (達靼の) 名で中国に現れる。 毎相温・于越相温という首領がい て, 咸通 (860〜874) 年間に, 朱邪赤心に従って を討った。

(3) その後李国昌・李克用父子は赫連鐸等に破れ, 亡命して 達靼に入った。 (4) 後に (達靼は) 李克用に従って中国内地に 入って黄巣を破り, (5) これより雲州と代州の間に住み着い た [後略]。

欧陽脩が監修した 新五代史 は, 宋の仁宗皇祐五年 (1053) に 完成する。 達靼に関する上の文は, 箭内亙 (1918 527 528) が言 うように, 宋初の宋白に由来すると見られる。 資治通鑑 巻253・

唐紀69・僖宗広明元年 (880) 7月戊辰 ( 8231) の, 「李國昌戰敗, 部衆皆潰, 獨與克用及宗族北入 靼」 の胡注に宋白の文が次のよう に引かれている。

B (1) 靼 , 本東北方之夷, 蓋靺鞨之部也。 貞元・元和之 後, 奚・契丹漸盛, 多爲攻劫, 部衆分散。 或投屬契丹, 或依于 勃海, 漸流徙于陰山。 其俗語訛, 因謂之 靼。 (2) 唐 咸 末, 有首領 相 ・于越相 部, 帳于漠南, 隨草畜牧。 (3) 李克 用爲吐渾 困, 嘗往依焉。 靼善待之。 (4) 及授鴈門 度使, 二相 帥族帳以從克用, 收復長安, 於河南, 皆從戰有功。

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(5) 由是俾牙于雲・代之 , 恣其畜牧。

(1) 達靼は, もともと東北方面の夷であり, 恐らく靺鞨の部 族である。 貞元 (785〜805), 元和 (806〜820) 年以後, 奚と契 丹が徐々に強くなると, (達靼は) 度々攻掠され, 部族がばらば らになった。 或るものは契丹に帰属し, 或るものは渤海に依り, 徐々に陰山に移った。 その俗の言葉は変化し, そこで達靼と呼 ぶようになった。 (2) 唐の咸通 (860〜874) 年末, 首領の毎相 温・于越相温の部族が漠南でテントを張り, 水草に従って放牧 していた。 (3) 李克用は吐谷渾に苦しめられて, 逃げて行っ て頼ったことがある。 達靼は李克用をよくもてなした。 (4) (李克用が唐から) 鴈門節度使を授けられると, 二人の首領は部 族民を率いて李克用に従って長安を回復し, 黄巣を河南に追い 払う戦さに従って功績があった。 (5) これより (達靼は) 雲州 と代州の間にテントを張り, 自由に放牧した。

上の史料A・Bを比較して見よう。 宋白 (史料B:1) は, タタ ルは奚・契丹に討たれた靺鞨の部落のうち, 陰山に住んだものであ ると言い, 欧陽脩 (史料A:1) はこれに同調する。 また, 宋白 (史 料B:2〜5) は咸通 (860〜874) 末, 漠南にいた毎相温・于越相温 部は, 李克用の亡命を受け入れ, 黄巣の乱の鎮圧に参加し, 黄巣の 乱が平定された後, 雲州・代州間に放牧するようになったと伝えて いる。 これに対し, 欧陽脩 (史料A:1) は達靼は陰山にいると伝え るが, 漠南にいたと明言しておらず, また毎相温・于越相温に関し ては, の乱の鎮圧に参加した (史料A:2) と言うが, 李克用 父子の亡命(史料A:3) や黄巣の乱の鎮圧(史料A:4) 及び雲州・

代州間での放牧 (史料A:5) との関連については, 明確には言っ ていない。 沙陀突厥と密接な関係にあった達靼を 「陰山達靼」 と見 なす見解は, 基本的に宋白説によるものと見られよう。 ただし, 欧 陽脩は完全には宋白の説を踏襲しておらず, の乱・黄巣の乱の 鎮圧に参加したタタルの居場所については明確な言明を避け, より 慎重な態度を示していると見られる。

ところで, 宋白・欧陽脩の説に従うと, 黄巣の乱後, 達靼は雲州・

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代州間に定着したことになる。 しかし, 軍に晋陽を攻められた際, 李克用の大将李存信は 「北蕃」 に入ろう ( 旧五代史 巻26・武皇紀下 天復二年 (902) 2月条 359) とし, 克用は雲州・匈奴に逃げよう ( 新五代史 巻4・荘宗紀上 38) とした。 上の 「北蕃」 も 「匈奴」

も, 沙陀支配下の雲州・代州を含めた代北地方の達靼ではなく, こ れより以北の部族を示しているように思われる。 これを嘗て李克用 の亡命を受け入れた達靼と見なしておよそ問題がない。 この記述は, 李克用に従って黄巣の乱を平定した後, 達靼の大集団が雲州・代州 間に長期に渡ってなお滞在し得なかったことを仄めかす(11)

三. 陰山の可能性

第二節の史料A・Bから, 欧陽脩と宋白は, 達靼が現れた陰山を 現内蒙古の陰山に当てていると想定できるが, 筆者はこの見方に反 対はしない。 ただ李克用の亡命を受け入れた達靼に限っては, 以下 に述べるように, 改めて考えなおす必要がある。

天復年中 (901〜904), 李克用は宿敵朱全忠に通好の書を送ったこ とがある。 本書は起草者の伝, 旧五代史 巻36・李襲吉伝 ( 803) に全文引用されている。 当該書では, 先に李・朱間の対立の経緯が 述べられ, 続いて李克用側の軍隊の強さと戦いの上手さが強調され る下りの中で, 次のように伝えられている。

C 況僕臨戎握兵, 粗有操斷, 屈伸 , 久貯心期。 勝則撫三・・・・

晉之民, 敗則徴五部之 , 長驅席捲, 反首提戈。 但慮 突中原,

・・・ ・・・・・・・

爲公後患, 四海群謗, 盡歸仁明, 終不能見僕一夫, 得僕一馬。

鋭師儻失, 則難整齊, 防後艱, 願存前好。 矧復陰山部落, 是・・・・・・ ・ 僕懿親;回 師徒, 累從外舍。 [後略]

・・・ ・・・・ ・・・・

まして私は戦いに臨んで軍隊を指揮する時, およそ判断があり, 前進と後退 (の策略) を, 長く心に貯えている。 勝てば三晋の・・・・・・

民を撫し, 負ければ五部の衆を徴集し, (勝てば) 遠くまで迅速

・・・・ ・・・・・・・・・・・・

に進軍して領土を攻め取り, (負ければ) 髪を振り乱して哀れな 姿で戈を投げ打つ。 ただ心配するのは中原を横行し, 公の後の 災いになり, 各地の人々が批判して尽く仁明 (即ち相手の朱全忠) 沙

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に帰順しても, ついに (貴方様は) 私の兵士一人に会うことも, 私の馬一匹を得ることもできなくなることである。 精鋭の軍隊 を失ったら整えるのは難しく, 後の困難を防ぐことを請い, 以 前の友好を保つことを願う。 いわんやまた陰山部落は私の懿親 であり, 回 の軍隊は重ねて (私の) 外戚に従っている。 [後 略]

引用文中, 三晋とは戦国時代に趙・韓・魏三国が元の晋国を三分 したことに由来する現中国山西省の別称である。 これに対応する五 部に関しては, 定説はないものの, 吐谷渾・契 ・沙陀三部落を指 すという見方は説得力が高い(12)

さて, 引用文の最後の 「矧復陰山部落, 是僕懿親;回・・・・・・ ・・・・ ・・・・師徒, 累・ 從外舍」 という文から, 李克用にとって, 「陰山部落」 はわざわざ

・・・

朱全忠に通報するほど重要な存在だったことが知られる。 張 (1998 178 193) と樊 (2000 95 98) は当時大集団たる 「陰山達靼」 が 存在するという先入観から, 「陰山部落」 を代北地方の 「五部之衆」

の一つと想定して陰山達靼であると見なしている。 しかし, 史料C のみに限って言うと, そこから陰山部落の正体が知られるわけでは なく, トルコ系の部族を指す可能性も存在する。 陰山部落を直ちに 陰山達靼と見なす上記主張に対し, 改めて唐代の史料に見える陰山 について考えてみよう。

陰山と言うと, 現内蒙古の陰山が先ず浮かぶ。 例えば, 旧唐書 巻194上・突厥伝上 ( 5158) に 「貞観元年 (627), 陰山已北の薛延 陀・回 ・抜也古等余部はみな相継ぎ背叛す」(13)とある。 今の陰山 を指す同様の例はほかに多くあり, ここではこれ以上提示しない。

次に, 歴史上の陰山は, またアルタイ山・天山を指すこともある。

例えば, 旧唐書 巻195・回 伝 ( 5197) に 「顕慶元年 (656), (阿史那) 賀魯がまた辺を犯せば, 詔して程知節・蘇定方・任雅相・

蕭嗣業に兵を領いさせて回 と共に賀魯を陰山に大いに破る」(14)と ある。 岑仲勉 (岑1958 709) の言うように, この陰山は現在の新 疆にあるはずである。

三つ目に, 唐代において陰山は狭義の陰山だけでなく, 広く中国 東

(10)

の北方地方を意味することもある。 例えば, 旧唐書 巻89・狄仁 傑伝 ( 2891)にある, 武周の神功元年 (697)の狄仁傑の上奏文で は, 突厥出自の阿史那斛瑟羅は 「陰山貴種, 代雄沙漠」 と記されて いる。 また 旧唐書 巻20・昭宗紀 ( 743) の大順元年 (890) 12 月条にある, 左僕射韋昭度等の上言では, 李克用は 「代漠 宗, 陰 山貴胤」 と称されている。

四つ目に, 突厥等北方出身人物の墓誌銘は, よくその出身地を陰 山で表す。 以下, そのうちの数例を挙げてみよう。

表の 1から, 陰山は漠北にもあるように見える。 また 2の陰 山はその兄弟の墓誌銘 ( 3) の 「漠北之烏 健山」, 即ち突厥の 沙

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表:唐代北方出身人物墓誌銘上の陰山

墓誌主 誌 文 出 典 備考

1 執失奉節 公諱奉 , 字履貞, 漠北陰山人也。

補遺 3 362 363;

輯考 275 276

東突厥出身

2 契 夫人 夫人諱□, 姓契 氏, 其先陰山人也。

補遺 7 350;

輯考 81

兄弟関係 3 契 嵩

公諱嵩, 字義 , 先 海女之子, 出於漠 北之烏 健山焉(15)

岑1958 825 827;

補遺 6 413 414; 輯考 81

4 熾俟弘福 公諱弘 , 字延慶, 陰山人也。

補遺 2 22;

輯考 351 35 2; 2004 452

邏禄出身

5 阿史那思摩 公諱思摩, 本姓阿史 那氏, 陰山人也。

補遺 3 338 339;

輯考 3 4 東突厥出身 で, 夫婦関 6 統 伽可賀 係

敦延陀

夫人姓延陀, 陰山人 也。

補遺 3 339 340;

輯考 351 352

7 李克用

曾 思 , 統國襲 , 霸有陰山。 執儀皇 任陰山府大 督。

森部・石見2003 21

四代祖が薛 延 国君

8 阿史那感徳 可汗諱感 , 字 山, 長城 陰山人也。

補遺 8 302 304;

輯考 19

帰義可汗

(11)

聖地オテュケン山 (現ハンガイ山脈南東部) に対応することが知られ る。 4が 邏祿

カ ル ル ク

出身, 5・6が東突厥可汗国出身, 7が薛延 国君という爵位を襲ったことからすると, 4 7の陰山は漠北 にあるように読み取れるが, 単に北方地方を意味している可能性も 完全には否定できない。 更に唐に下った突厥可汗の後裔だった 8 の出身は中原地方であるが, 原籍を 「長城陰山」 に求めている。

このように, 唐代の史料に見える陰山には, 時に中国の北方とい う意味合いが含まれ, それを検討する際, 現内蒙古の陰山に限らず, 漠北・新疆をも視野に入れる必要があるということが明らかになっ た。

確かに, 今言うところの陰山地方は中国本土の農耕政権とモンゴ リアの遊牧政権の中間地域に位置し, 南北二大勢力を繋ぎ合わせる 重要な働きをしていた。 特に, 東突厥可汗国末期において, 漠南地 方は突厥の牙庭が置かれた場所 (張2007 69 71) であり, 突厥の 復興時期において, 陰山地方は彼らの復興の地であった (岩佐1936

107 119)。 近年, 陰山北麓の達茂旗で発見された突厥ルーン文字 銘文に関する分析 (白・包2012 80 81;鈴木2013 73 75) から分 かるように, 陰山北麓は突厥第二可汗国の 「黒沙南庭」 のあった地 方であり, 陰山地方は突厥の活躍する地域であった。 因みに, この 黒沙南庭の出現する時期は, ほぼ突厥第二可汗国の最盛期と一致す る。 これに対し, 突厥の後をついだウイグルは, 現内蒙古の奚・契 丹に監使を派遣して賦税を徴収し, 自分の支配下に置いていたもの の(16), 陰山地方を直接自分の支配下に置いていたことを物語る史 料は確認できない。

時代を遡ってみると, 陰山地方を秦に奪われた匈奴はいち早く漠 北に移動し, 間もなく漠北で強大な遊牧帝国を築き上げ, 長年に渡っ て中華と対峙した。 その後, 匈奴帝国の崩壊後の混迷に乗じて, 陰 山地方の拓跋鮮卑の流れを引く柔然の社倫が漠北に侵入し, 高車を 初めとする諸遊牧集団を糾合して強力な遊牧帝国を作る。 柔然は遠 く西方の天山地方に至るまで勢力を拡大したものの, 冬季にだけ漠 南に移ることがある。

(12)

時代を下ると, 13世紀において, モンゴル帝国を生み出した誕生 地はいうまでもなく漠北である。 漠南の陰山地方の汪古

オングート

部は, 強大 化するどころか, モンゴルの勃興を察知すると, いち早くモンゴル の傘下に入る。

これらの事例から, あくまでも南北二大地域の中間点に位置する 陰山地方は, 遊牧国家においての重要性に関して言えば, 決してモ ンゴリア本土と同一視すべきものではないと見られる。

このように, 筆者は遊牧国家, 特に突厥国家においての陰山地方 の重要性を過小視しているわけではないが, 「農牧接壌地帯」 に属 するこの地域は, 遊牧国家においてはやはり副次的な位置にあった と考えてよい。 遊牧国家を現出させる原動力となる, 強力な遊牧大 集団を作り出す地域は, やはり漠北以外には考えにくい。

以上のことから, 李克用の言う陰山部落の陰山を, 直ちに現内蒙 古の陰山に比定するのは, 即断にすぎるとしか言えない。 しかしそ の一方で, 李克用の活躍はアルタイ山・天山と一切関係を有しない ことから, この陰山部落はやはり漠南・漠北のいずれかにあったと いうのが, 素直な史料の解釈になる。 いずれにせよ, 陰山部落はそ れ以前に李克用の亡命を受け入れ, 且つ黄巣の乱の鎮圧に参加した タタルの部落を指す可能性が極めて高い。

四. 李克用の懿親 「陰山部落」

前節において, 問題の陰山部落の所在について, 漠南・漠北とい う二つの可能性を指摘した。 本節で, この問題の最終決着に挑みた い。

翻って, 史料Cの陰山部落に目を向けよう。 仮にここの陰山を東 の集寧・張家口一帯の陰山山脈と見なす場合, 陰山部落は三晋の民 の枠に属さなくても, 地理的には五部の衆がいた代北地方に近いこ とになる。 陰山部落を陰山達靼と想定する張氏・樊氏の主張は, 幾 分このことに基づくと見られる。 しかし, 史料Cだけでは, 陰山部 落の正体は知られない。 そこで, 史料C中の 「陰山部落, 是僕懿親;

回 師徒, 累從外舍」 という表現, とりわけ, 「懿親」・「回 師徒」・

沙 陀 後 唐

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「外舎」 に注目しながら, 陰山部落の正体解明に尽力したい。

先ず懿親とは, 一般に親しい関係にあった親友を指す。 同時代の 例をあげると, 敦煌出土 3931文書群に収録された, 甘州ウイグ ルから後唐への表本の写しがその一つである。 この表本 (趙1995

232 233) では, 先に安史の乱の平定におけるウイグルの勲功, またその後のウイグルと唐が代々姻戚関係にあったことを顧み, 続 いて 「去る光化 (898〜901) 年の初めごろ……兼ねて引き続き公主 を降嫁し, 懿親 (関係) を中止しないことを許した」 と述べてい る(17)。 先行研究 (森安1980 312 313;土肥1988 418) が指摘する ように, これは光化の初めごろ, 唐は甘州ウイグルに公主を降嫁し, 前代からの姻戚関係を保っていたことを物語る。 注目に値するのは, ここで唐・ウイグル間の姻戚関係が, 「懿親」 と表わされているこ とである。

次の回 師徒はウイグル人の軍隊の意であり, 外舎は外戚の意で ある。 李克用の墓誌銘及びその他の編纂史料は, いずれも李克用は 劉氏・陳氏・曹氏という三人の妻を持つと伝える(18)。 しかし, そ の三人の内, ウイグル人の軍隊を何年も自分に従属させるほどの力 を持った豪族出自の者は, 誰一人として確認できない。

翻って本文を見ると, 「陰山部落, 是僕懿親」 と 「回 師徒, 累 從外舍」 は対句表現になっていることが分かる。 漢文の対句は内容 上, 反対・相対・同類・近似の意味を表すもの以外に, また承接・

累進・因果・逆接などの物事の相互関係を表現するものもある。 上 の文は, 相互関係を表現したものとみなすべきである。 即ち, 「回 師徒, 累從外舍」 は 「陰山部落, 是僕懿親」 を受け継いだ結果と 見られ, 回 師徒が従っていた外舎 (外戚) は陰山部落と密接な関 係にあったと考えられる。 更にいえば, 陰山部落は李克用の懿親 (親友ないし姻戚) だというのだから, それに対応する外舎 (外戚) は陰山部落の中に含まれていたという見方も可能であろう。

以上, 陰山部落を確定するための必要条件としては, ①沙陀突厥 と親しい関係 (場合によって姻戚関係) にあったこと, ②配下にウイ グル人の軍隊がいてもおかしくないこと, 以上二点が挙げられるこ

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ととなった。 代北地方〜陰山南北のトルコ系・モンゴル系ないしタ ングート系の部族について調べたところ, 唐末・五代, ないし契丹 宋代の史料から, 上のような条件を満たす候補は見つけられなかっ た。 そこで, 地域をかえて考察を試みたい。 即ち, 東ウイグル可汗 国が崩壊した840年の前後に起きた, タタル部族のモンゴル高原中 央部への移住に関わる史料を紹介・検討した上で, 改めて状況判断 をしてみたい。

王国維 (王1926 252) のいうように, 唐・賈耽の 「入四夷之路 與關戍走集」 の 「中受降城入回鶻 」 に記された, ウイグルの牙帳 の東南数百里のところにあった達旦泊という地名から, 当時タタル 人は既にウイグル国内にいたと考えてよいことが容易に浮上す る(19)。 劉迎勝 (劉1994 11) は, ラシードゥッディーン (

) が14世紀初頭にイランのモンゴル王朝イルハン朝で編纂した 集史 ( ) の, 「ジャライル人はウイグルの可汗の駱駝 の面倒を見ていた」 という記述に注目して, 上記王国維の見解を改 めて支持している。 更に, ウイグルのシネウス碑文 (759年直後に成 立) には, 九姓タタルが八姓オグズと連合して749年にウイグルに 対し反乱を起こしたことが詳細に記録されており(20), タリアト碑 文 (752年に成立) から九姓タタルはウイグルの左右翼支配システム の一部を構成していたことが知られる(21)。 これらの記事内容から, 当時の九姓タタルはウイグルと密接に関係していたことが推察でき る。 因みに, ウイグル時代の九姓タタルの住地について, セレンゲ 河下流か, その東方にあったという見方 (前田1948 245) があり, またケルレン河中下流〜フルンブユル地方にあったという見方 ( 2010 68 70) もある。 これに対し, 筆者 (白2011) はセ レンゲ河中下流にあったと考えている。

ところで, この九姓タタルを後世の克烈

ケレイト

に比定する見方がある。

前田 (前田1948 249 256) は, 遼史 に記されたモンゴル高原の 遊牧民集団阻卜を九姓タタルと関連付け, その部族名 「阿里覩」・

「阿 底」 を克烈の一部族アリアト ( ) に当てたが, 詳細な議 論に至らなかった。 続いて, 前田の論説に賛成を示した陳得芝 (陳 沙

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1986 210 211 217 218) は, 克烈の由来・社会発展などを考察す る中で, 改めてこれを九姓タタルと関係づけ, 且つその由来をキル ギスに求める櫻井 (櫻井1936 93 100) の見方に対し反論を行った。

実際, 8世紀中葉の内陸アジアの情勢を記録した, 敦煌出土チベッ ト語 1283文書には部族名として, が現れる(22)。 森安 ( 1980 178注22) とヴェンチューリ ( 2008 25注71) によると, バザン ( ) は森安に後世の克烈に比定できると提 案したという。 他方, 新唐書 巻43下・地理志7下に記された室 韋の部落中, ウイグルの牙帳の東北, セレンゲ河の北二百里, 即ち セレンゲ河中流にいた一部は(23), 地理的位置は と重なり, に比定できると同時に, 当時の九姓タタルの一部に比定 できる (白2011 87 90 98 100)。 セレンゲ河中流という位置は, 当時のタタル部族の居住地において, 最もモンゴル高原中央部に近 い。 840年代におけるウイグルの崩壊と移住, 続いてキルギスによ る短期支配の後, 遅くとも10世紀初頭に, モンゴル高原中央部が九 姓タタルによって占有されるようになったというのは, 一般的な見 方である。 ならば, 8世紀中葉にセレンゲ河中流にいた克烈が, お おむね9世紀後半に, いち早くモンゴル高原中央部へ移住したと考 えるのは, 適切な推論ではなかろうか。

克烈は12世紀から13世紀において, およそ現ハンガイ山脈南東部 からケルレン河上流に至るまでのモンゴル高原中央部を占有してい た。 現在学界において, 克烈については, 一般的に阻卜の一部とし て捉え, 10世紀から11世紀の住地は12世紀の住地と同様で, モンゴ ル高原中央部にあったという見方(24)が定着している。

他方, タタルとその南側の地域との往来を語る史料として, 約20 件の敦煌文書が存在する。 そのうち, 唯一タタル人の住地を明記し たのは, 924年 (赤木2010 247 248 262注28 33) か, 925年 (白2007

233注11) に年代比定すべきコータン語 2741文書である。 本文 書で粛州と蓼泉間の道路を閉鎖したと言われているタタル人の住地 を, 筆者は古トルコ語で と復元し, こ れを 遼史 に記録された 「卜古罕城」, 即ち漠北のオルホン河畔

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にあった東ウイグル可汗国の都だった , 現カラバルガス ン遺跡に比定している (白2007 235 238)。 筆者の上記比定が正し ければ, 漠北の九姓タタルが10世紀20年代に既に遠く河西地方まで 進出していたことになる。 その活動の広さ, 更に925年に後唐に降っ てきたタタルは明らかに漠北の九姓タタルだったことからすると, その直前の時期において, 九姓タタルと代北地方にいた沙陀との間 に人員ないし使節の往来があってもおかしくない。

以上のように, 東ウイグル可汗国が崩壊する前後における九姓タ タルの動きについての紹介から, 9世紀末から10世紀において, 九 姓タタル, 特に克烈が沙陀突厥と連携していたとしても, いささか も不思議ではないと筆者は考える。 この見方を念頭に, 同時代の史 料の欠乏を補うために, 後世の史料に目を配ると, 予想外の発見が あった。 ここでモンゴル時代の史料を引用して, 論を続ける。

元史 巻124・速哥伝 ( 3051) に 「 哥。 蒙古 怯烈氏, 世傳 李唐外族」 とある。 この怯烈は , 即ち克烈のことである。 亦 鄰真 (亦1979 578) が 「少なくとも一部の克烈人は李唐の末裔だ と自任する黠戛斯

キ ル ギ ス

人の後裔」, はては 「克烈人は実に黠戛斯の余部 である可能性はとても高い」 と考えたのは, 右の 「李唐」 を唐王朝 と解釈したからである。 しかしながら, 陳得芝 (陳1986 210 211) の言うように, 克烈は黠戛斯からの出自という見方は, 現時点では なお大きな疑問を抱えている。

李唐と言う時, 沙陀突厥が立てた五代の後唐を忘れてはいけない。

旧五代史 巻29・荘宗紀3の同光元年 (923) 閏四月条 ( 404) に あるように, 李克用の息子で, 後唐を建国した李存 は, 国号を唐 としたのみならず, 建国直後に都を洛陽に移し, 且つ自分の曽祖父・

祖父・父と並んで, 唐の高祖・太宗・懿宗・昭宗のために廟を立て ていた。 即ち, 李存 は唐王朝の正当な後継者を自任していたので ある。 しかも, 10世紀前半に年代づけられる敦煌出土 6551文書 (張・栄1989 218 225 226) において, 後唐は唐国と呼ばれている。

また, 上で紹介した敦煌出土 3931文書の, 甘州ウイグルから後 唐に当てた表本の内容 (趙1995 232 235) からも, 後唐は当時の 沙

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人々から唐王朝の正当な後継国家として認識されていたことが知ら れる。 つまり, 五代の後唐は, 当時内外から唐の正当な後継者とし て認められていた側面がある。 これに鑑みれば, 元史 速哥伝の 言う李唐の候補として, 後唐を挙げることもできる。

仮に上の 元史 速哥伝の李唐外族についての分析に従うと, か つてのタタルの部族中, 克烈部は後唐, 即ち沙陀突厥と関係を有し ていた可能性が最も高そうにみえる。 史料上確認できなかったが, 当時窮地に追い込まれていた李克用が, 亡命先のタタルの女性を妻 として迎えた可能性があろう。 何故なら, 史料Cの 「陰山部落, 是 僕懿親;回 師徒, 累從外舍」 の分析によって, 沙陀族とタタルと の姻戚・外戚関係が強く示唆されるからである。 つまり, 甘州ウイ グル・唐間の姻戚関係が 「懿親」 と呼ばれていたことに鑑みて, 九 姓タタル, 特にそのうちの克烈は李克用から懿親・外舎と呼ばれて いたのではないかと筆者は考えるものである。

確実な証拠は提出できなかったが, 以上の状況から判断すると, 李克用から懿親と呼ばれた陰山部落は, 漠北の九姓タタル, 特に克 烈を指すと考えてよい。 因みに 「回 師徒」 は, 840年代に陰山地 方に亡命していたウイグル人の残党の可能性は完全に排除できない が, 当時漠北に留まりつつ, 九姓タタルに従属していたものを指す と考えるのがより現実的であろう。 その有力な候補は, 遼史 巻 4・太宗紀下・会同二年 (939) 五月条 ( 46) の, 契丹に使者を派 遣して官職号を乞った回鶻単于と言う集団であろう。 また, 宋史 巻490・回鶻伝 ( 14114 14115) に 「(雍熙) 四年 (987), 合羅川 回 鶻第四族首領 使朝貢」 と記された 「合羅川回鶻」 も(25), これに 当てはまるであろう。

ここに至って, 880年ごろ李克用の亡命を受けいれ, 且つ彼に従っ て黄巣の乱を鎮圧したタタルは九姓タタルを指し, 少なくとも一部 に後世の克烈が含まれるという見方は, およそ成立する。 この見方 に立てば, 9世紀末から10世紀において, モンゴリア本土の遊牧民 は, 当時すでに中原王朝と直接関係を保っていたことになり, よっ て, 当時のモンゴリアの歴史は, 東ユーラシア史の一角を担い, 南

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側の中原王朝とも密接に連動していたという観点が得られたことに なろう。

お わ り に

黄巣の乱を平定した時の唐は, 李克用が率いる沙陀突厥の軍事力 を借りていた。 沙陀軍隊の主要な構成部分として, 李克用の亡命を 受け入れ, 且つその下に組み込まれることになったタタルの部族軍 が挙げられる。 9世紀から10世紀にかけての, 漠南地方における室 韋=達靼の活動からすると, 当時室韋=達靼人は陰山地方にはいた が, 大集団に至るまで発展し得なかったと見られる。 10世紀初頭に おける, 漠北のタタル部落と後唐との友好関係から, 李克用に従っ て黄巣の乱の鎮圧に参加したタタルの由来を考える際, 漠北の九姓 タタルをも視野に入れる必要がある。 李克用が宿敵朱全忠に与えた 書の中に, 陰山部落を懿親と呼んでいた。 この陰山部落は, 黄巣の 乱の鎮圧に参加したタタルの部落である可能性が極めて高い。 突厥 人の墓誌銘を中心とした, 唐代の史料に見える陰山についての分析 から, 当時の陰山は漠北のオテユケン山, 即ち現ハンガイ山脈を指 す可能性さえ存在する。 更に, 8〜9世紀において, 九姓タタルの 一部であった克烈部の住地の変化に鑑みると, 李克用の亡命を受け 入れ, 且つ黄巣の乱の鎮圧に参加したタタルの部落は, 漠北を中心 にした九姓タタルである可能性が浮かび上がる。 元史 速哥伝で は, 克烈部は李唐外族と記されているが, 李唐を自ら唐王朝の正当 な後継者と自任した五代の後唐と理解すれば, 克烈部は沙陀後唐の 外戚にあたることになる。 すると, 李克用から懿親と呼ばれていた 陰山部落は, 九姓タタルを指すと言う見方はおよそ成立する。 即ち, 李克用に従って黄巣の乱の鎮圧に参加したタタルの部落は, やはり 漠北にいた九姓タタルで, 少なくとも一部に後世の克烈が含まれる と言うのが, 筆者の今の考えである。

以上の考察から, 漠北の九姓タタルは, 沙陀突厥並びに後唐の建 国と関係を有していたと判断してよい。 こうした9世紀末から10世 紀初頭における九姓タタルと沙陀後唐の連携関係は, 当時のモンゴ 沙

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リアの歴史が中原王朝の歴史と緊密に連動し, 東ユーラシア史の不 可欠の一部であったことを物語るであろう。

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2008

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輯考 =呉玉貴 突厥第二汗国漢文史料編年輯考 全3冊, 北京, 中華書 局, 2009年

(1) 段文楚の殺害された年次は, 史料によって異なる。 西村 (2009 17 19) は唐の支謨墓誌を利用して, 資治通鑑 の乾符五年が正しいと考察 している。 本稿はこれに従う。

(2) 室韋とタタルの関係について, 白鳥の時代から, 前田・亦鄰真に至 るまで, 両者を同一視する見方が学界の主流であり, 筆者はこれに賛同 を示したことがある (白2011)。 本稿では室韋=タタルと言う前提で話を 進める。

(3) 邊居人, 常苦室韋・党項之 掠。

(4) 范希朝爲振武 度使, 振武有黨項・室韋交居川阜。 また 旧唐書 巻151・范希朝伝 ( 4058) にも同様の記述がある。

(5) 詔太原起室韋・沙陀三部落・吐渾 部, 委石雄爲前鋒。

(6) (康) 承訓奏乞沙陀三部落使朱邪赤心, 及吐谷渾・ 靼・契 長各 帥其衆以自隨, 詔許之。

(7) 新五代史 巻50・折従阮伝 569 570;戴1989 10 36, 特に 14.

(8) 明本 冊府元亀 も内容は同じだが, 「 靼」 を 「 勒」 に誤ってい る。

(9) 六月癸亥, 雲州上言, 去年契丹從磧北歸帳, 靼因相掩 , 其首領 于越族帳自磧北以部族羊馬三萬來降, 已到南界, 今差使人來赴闕奏事 (同光3年6月癸亥, 雲州 (節度使) は次のように報告した。 去年契丹が 漠北から本拠地に戻ったので, 達靼 (の部族) は (契丹を) 不意打ちし た。 達靼の首領于越の部族は漠北から部族民・羊・馬三万をもって降参 に来て, 已に南の界に来ており, 今使者を派遣してきて朝廷に赴かせて 事情を報告しようとしていると)。

(10) 関係史料は主に 旧唐書 巻19下・僖宗紀; 旧五代史 巻25 26・

武皇紀; 新唐書 巻143・沙陀伝; 新五代史 巻4・唐本紀; 資治通 鑑 巻253 254等に収められている。

(24)

(11) 11世紀には, 達靼の領域が陰山あたりに接するようになる。 続資治 通鑑長編 巻54・咸平六年 (1003) 正月丙午の条 ( 1178) に豊州管下 の党項族の龍移族・昧克族について, 「其地在 河北, 廣袤數千里。 族帳 東接契丹, 北鄰 靼, 南至河, 西 大梁, 小梁族 (その土地は黄河の北 にあって, 縦横が数千里ある。 部族は東で契丹に接し, 北で達靼に隣接 し, 南は黄河に至り, 西で大梁・小梁族に連なる)」 云々と述べている。

武経總要全集 巻22 ( 1116 1117) で契丹の懐州について 「西北至 靼國三百里」, 慶州について 「西至韃靼國界」 と記している。 上記達靼が 後の白達靼を指す可能性は完全に否定できないが, 漠北の達靼を指す可 能性は十分にある。

(12) 「五部之衆」 について, 従来室永 (1971 73 74)・樊 (2000 95 98 2002 60) の研究があった。 史料を網羅した西村 (2008 2 6) は 「五部」 の例を抽出して分析を行った上, 吐谷渾を筆頭に, 契 ・沙 陀三部落と指すという結論に至っている。

(13) 貞觀元年, 陰山已北薛延陀・回 ・拔也古等餘部皆相 背叛。

(14) 顯慶元年, (阿史那) 賀魯又犯邊, 詔程知 ・蘇定方・任雅相・蕭嗣 業領兵竝回 大破賀魯於陰山。

(15) 「之」 は筆者による復元である。 岑氏はこれを 「住」 と復元している が, 従い難い。

(16) 李徳裕の 会昌一品集 巻2 「幽州紀聖功碑銘並序奉敕撰」 ( 傅・

周2000 13) に 「先是奚・契丹皆有 使監護其國, 責以 , 且爲漢諜 (これより以前, 奚・契丹にみなウイグルの使節がいてその国を監視し, 毎年貢物を取り立て, しかも唐に対する諜報活動をさせていた)」 とある。

(17) 去光化年初…… 許續降公主, 不替懿親。

(18) 森部・石見2003 22 23 30; 五代会要 巻1・皇后・内職 ( 13 15); 旧五代史 巻49・後妃列伝1 671 674; 新五代史 巻14・唐 太祖家人伝2 141 143

(19) 王1926 252 関係史料は 新唐書 巻43下・地理志7下 1148を 見よ。

(20) 東面第1〜7行。 関係記事は最も充実した訳注の森安ほか2009 12 14 35 36を見よ。

沙 陀 後 唐

・ 九 姓 タ タ ル 関 係 考

白 玉 冬

(25)

(21) 北面第2・4行。 関係記事は最も充実した訳注である片山1999 170 173 174を見よ。 関連考察は白2009 162 164を見よ。

(22) 1283文書について, 最新の 2008を含めていくつかの専門 的研究がある。 そのうち, 最も充実しているのは森安1977 である。

(23) 関係史料は藝文印書館武英殿版本影印本, 1953 524を見よ。 なお, 百衲本 新唐書 及び中華書局版 新唐書 において, いずれも 「二百 里」 を 「二千里」 と書き換えているが, 乾隆四年の 欽定唐書 , 更に

景印文淵閣四庫全書 では 「二百里」 のままである。

(24) 村上1972 30 31;陳1986 215 217; 1987 96 ただ し, トガン ( 1998 62 63) は, 集史 部族誌のナイマンの条 では, 克烈は最初はキルギスの東南, イルティッシュ河とアルタイ山の間 にいたと言う記述から, 11世紀初めごろ, 克烈の住地はアルタイ地方に あって, 後に東・東北へ移動したと考えている。 筆者は手元の 集史 の該当部分 (拉施特1983 222 229) を調べたが, そのような記述は見 つからなかった。 恐らく版本の違いに由来する文字移動によるものであ ろうが, 課題として別の機会に検討したい。

(25) 合羅川は通常河西地方の黒河に比定されることが多い。 回鶻伝の合 羅川が, 嘗てウイグルが都を置いた漠北の合羅川を指すと考えられるこ とに関しては, 森安1977 110 111を見よ。

附記:本稿は第51回日本アルタイ学会 (2014年7月21日於長野県信濃町藤 屋旅館) での口頭発表 「沙陀後唐の建国と九姓タタル」 を書き直したもの である。 片山章雄氏・赤木崇敏氏・齊藤茂雄氏から貴重なアドバイスをい ただきました。 また匿名の査読者二人から修正の意見をいただきました。

合わせて感謝の意を表したい。

(遼寧師範大学特任教授) 東

(26)

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沙陀 達靼 李克

用 李存勗

(27)

朱全忠

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元史 速哥

参照

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