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鶴岡八幡宮の創建

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(1)

はじめに

  鶴 岡 八 幡 宮 (以 下 「鶴 岡」 ) は 源 頼 朝 に よ って 創 設 さ れ て 以 来、 鎌 倉幕府と密接に関係しながら発展を遂げていった

。 幕府創始者であ る 頼 朝 の 地 位 向 上 と 幕 府 の 権 力 拡 大 は 比 例 し て お り 、 そ れ は 「鶴 岡」 も 同 じ こ と が 言 え る 。「鶴 岡」 境 内 の 社 寺 殿 の 数 や 社 域 の 規 模 は 史 料 の 記 述 や 「目 論 見 絵 図

」 な ど に よ って お お よ そ 知 る こ と が で き る し 、 経 済 面 に 関 し て も 時 代 を 通 じ て 百 か 所 を 超 え る 所 領 が 知 ら れ て い る

。 このため鎌倉時代を対象にした研究史が厚く、 多岐にわたる

。先行 研究において「鶴岡」が源頼朝の先祖である頼義によって創建され たとの認識を前提とした論考は多く、その根拠は右掲史料の記述で ある(以下これを【基本史料】と呼ぶ) 。 『吾妻鏡』治承四(一一八〇)年十月十二日条

……本社者、後冷泉院御宇、伊予守源朝臣頼義奉勅定、征伐安 倍貞任之時、有丹祈之旨、康平六年秋八月、潜勧請石清水、建 瑞 籬 於 当 国 由 比 郷

今号之下若宮

、 永 保 元 年 二 月、 陸 奥 守 同 朝 臣 義 家 加 修 復、今又奉遷小林郷、致蘋蘩礼奠云々、

  同宮の興りについて、後代の文献史料はほぼこの記事によってい る と 考 え ら れ る 。【基 本 史 料】 に よ れ ば 、 源 頼 義 が 前 九 年 の 役 の 終 戦 後、康平六(一〇六三)年八月に石清水八幡の神を鎌倉由比郷に勧 請したという。だが、根拠となっている史料が『吾妻鏡』であるだ けに、 同宮の創建について鵜呑みにはできないところがある

。それ は『吾妻鏡』が編纂物であることで、特に【基本史料】の治承四年 条は創作されたであろう記述も多いからでる。このことを踏まえる と、第一の疑問点は、合戦後の頼義が鎌倉に立ち寄ったのかという ことで、第二に勧請された社は「鶴岡」だったのか、という二点で ある。

  義 江 彰 夫 氏

は 、 頼 信 の 代 ま で 遡って 河 内 源 氏

の 八 幡 信 仰 を 検 討 し 、 源氏の信仰における祖型の形成を論じた。しかし氏の論考でも、頼 義が勧請したとされる由比若宮については触れられていない。次い で野口実氏

は、 頼朝の祖先と鎌倉を主テーマに都市鎌倉以前を論じ ているが、その中心となった由比若宮については触れられない。こ 鶴岡八幡宮の創建     小   脇   拓   行 (史学専攻博士後期課程三年)

(2)

の よ う に 史 料 不 足 の た め か 、【基 本 史 料】 の 記 述 を 掘 り 下 げ た 研 究 は 見 ら れ ず 、「鶴 岡」 が も と も と ど の よ う な 社 で あ った の か は 十 分 検 討 されていない。そこで本稿では、頼義による八幡(若宮)勧請を軸 に由比若宮ならびに「鶴岡」創建の経緯を確認したい。そのことに よって、宗教的側面を踏まえた上での鎌倉幕府成立の一画期を新た に提示することができると考える。

(1)頼義の八幡(若宮)勧請

①   前九年の役終戦から京凱旋まで   源頼義は八幡(若宮)を各地に勧請したが、それらは前九年の役 前 後 の 時 期 に 集 中 し て い る 。【基 本 史 料】 に は 、 康 平 六 (一 〇 六 三) 年八月に頼義が由比郷に若宮八幡を勧請したとあるので、その前後 の頼義の活動を追ってみよう。

  康平五(一〇六二)年九月十七日、安倍貞任を厨川館において斬 首 し た こ と で、 十 二 年 に わ た っ て 続 い た 戦 乱 が 終 わ っ た( 『 陸 奥 話 記』 )。十月二十九日には、この戦闘に関する報告書が朝廷に奏され ている( 『定家朝臣記』 )。十一月三日には「朝家聞 ハ 食此由 ア 、有 イ 叡 感 ア 」とあるから天皇の耳にも達していたようだ( 『百練抄』 )。康平 六 (一 〇 六 三) 年 に 入って 二 月 十 六 日 に は 合 戦 の 首 謀 者 で あ る 貞 任

重任

・ 経清の三人の首が京に届けられ、西獄門に掛けられた。その

史料を左に掲げる。

図1 源頼義の各所における社建立

園城寺平安京壺井八幡宮 

康平六年四月三日

由比若宮 平泉

康平六年八月?日 康平七年五月十五日

(西暦 1062 年)

康平五年九月十七日終戦

   前九年の役

康平七年三月二十九日

(3)

『水左記』

(1

康平六(一〇六三)年二月十六日条 天 晴、 早 朝 参 イ 殿 下 ア 、 前 鎮 守 府 将 軍 源 頼 義 朝 臣 所 レ 進、 俘 囚 貞 任

任 ・ 重

イ 検 非 違 使 於 四 条 レ レ レ イ ア レ 徊、三首各挿 鋒植 之、余偸行見 之、漸及 晡刻 指 洛持入、 イ ア イ ア イ ア 也、各被 介冑 、殊耀 武威 、先於 粟田山大谷北丘上 踟蹰徘 レ

一人軍曹、

(中略)抑件俘囚首、 本所 隨騎兵二人、 歩 兵 二 十 餘 人 許

一人季俊、

レ ハ ア 清 等 首、 幷 降 人 交 名 解 文、 右 大 弁 令 進 覧 之 、 ・ 経 ア レ イ ア レ 使 鉾挿 之、 即以 着鈦 持 之、 先貞任、 次重任 ア イ ア イ 極 間 請 取、 其 儀、 抜 本 鋒 、 以 検 非 違 ・ 京

代鉾云者非也

・ 経清也、

但鉾 緋銘 イ 其姓名 ア 、又各傍看督長二人、免十余人相従、三絶相別渡 行、覩者或車、或馬、亦緇亦素、始 レ 自 イ 粟田之下 ア 、迄 イ 于華洛 之中 ア 、駱駅雑錯、人不 レ 得 レ 顧、奔車之声、晴空聞 レ 雷、飛塵之 色、春天払 レ 霧、希代之覩、何比之有乎、於戯、皇威之在 レ 今、 更不 レ 耻 イ 於古 ア 者歟、 但従 イ 四条 ア 西 ハ 行朱雀大路 ア 、 至 イ 于西獄 ア 枷梟 レ 之云々、

〈注記〉 ※   傔仗…律令制で、 辺境の国、 あるいは軍事的要地に赴任した官人に朝 廷から給された警衛の官。 (『日国』 ) ※   季 俊…新 庄 季 俊。 藤 原 秀 郷 流。 近 江 国 坂 田 郡 新 庄 を 本 拠 と す る 。 源 頼 義につかえ、 前九年の役で衣川

・ 厨川の戦いに功をたてる。康平六年

安倍貞任

・ 重任らの首級を京都にとどけ、

右馬允に任じられた。 (『尊 卑分脈』 ) ※   軍 曹 … 陸 奥 国 鎮 守 府 の 職 員。 は じ め、 将 曹 と 称 し た。 軍 監 の 次 位。 (『日国』 ) ※   鈦( 鉗 ) … 首 枷( く び か せ )。 刑 具。 (『 日 国 』) 「 着 鈦 」( ち ゃ く だ )。 囚人の意。 ※   枷…足枷(あしかせ) 。刑具。 (『日国』 )

  『陸

奥 話 記』 に よ れ ば 、 安 倍 貞 任

任 ・ 重

レ あ る 。「前 鎮 守 府 将 軍 源 頼 義 朝 臣 所 進、 俘 囚 貞 任 京していないことになる。そのことは『水左記』においても同じで たのは貞任の従者であった「降人」としているから、頼義はまだ帰 原 経 清 等 の 首 を 持 参 し ・ 藤

任 ・ 重

レ ハ ア レ 幷 降 人 交 名 解 文、 右 大 弁 令 進 覧 之 、」 と あ り 、「本 所 隨 騎 兵 二 人、 清 等 首、 ・ 経

一人 季俊、一人軍曹、

歩兵二十餘人許也、 」とあるから、 頼義に仕えていたと思わ れ る 新 庄 季 俊 以 下 の 者 た ち が 京 に 首 を 届 け た と 考 え ら れ る 。 つ ま り 、 頼義は帰京していない。同じく『水左記』に帰京の記事がある。 『水左記』康平七年三月二十八日条 天 晴、 今 日 有 イ 陣 定 ア 、 右 大 臣 承 レ 之、 陸 奥 俘 囚 頼 時 子 貞

・ 宗

・ 正任

・ 家任等幷

出羽前守源正頼所 レ 被 レ 進僧良 ン

等事 □

也カ

  (裏書)

廿八日、件事、頼義入京之後経 イ 数日 ア 被 レ 定、是依 レ 被 レ 過 イ 臨時 祭之間 ア 也、 『百練抄』は康平七(一〇六四)年三月二十九日の帰洛であったと

(4)

し て い る が 、 右 掲 史 料 の 裏 書 部 分 「頼 義 入 京 之 後 経 イ 数 日 ア 被 レ 定」 に よると、帰洛の日付は断定できないものの三月二十八日より 数日前

000

には帰洛していたようである。またここに名がある源正(斉)頼は 清和源氏満政流の一族で、康平元(一〇五八)年四月二十五日に頼 義 と と も に 陸 奥 へ 下 向 し 出 羽 守 に 任 じ ら れ た (『尊 卑 分 脈』 )。 安 倍 頼 良(時)の弟である僧良照の身柄は正頼から送られてきたこともわ かる。頼義は、合戦後すぐに京に引き上げたわけではなく、帰京す るまでに一年有余の時間があった。

②   八幡(若宮)社勧請の時系列 1   平安京の若宮八幡   前 九 年 の 役 後、 一 年 余 り の 間 に 頼 義 は 諸 国 を 巡って 社 を 建 立 し た 。 勧請された社を順に確認していく。

  六条左女牛に建つ若宮八幡は、天喜元(一〇五三)年に頼義が勧 請 し た と 伝 え ら れ る (「二 十 二 社 註 式

((

」) 。 図2 を 見 る と 、 若 宮 八 幡 と 頼義の館は一町の北南に隣接している。社と邸宅との関係について は後述するとして、両者の位置から、日常的な参拝が可能で崇敬の 度合いが篤かったことが感じられる。同年に頼義は陸奥守

・ 鎮守府 将軍に任じられて奥州へ下向することになる。その後、六条若宮は 京 に お い て 石 清 水 八 幡 宮 に 準 じ る 待 遇 を 朝 廷 か ら 受 け る よ う に な り 、 頼朝の時代になっても信仰される

(1

。 源氏が京内において基盤とした 場所から少し東に行くと六波羅に至る。平家も交通上の要衝にあた る 場 所 に 邸 宅 を 構 え た と い わ れ て お り

(1

、 そ れ は 源 氏 も 同 じ 理 由 が あ っ たことが言える。六条若宮八幡は交通上の要衝に勧請されたのであ る。 2   園城寺鳩尾新八幡宮 「寺門高僧記

(1

」 新

八幡 宮頼義勧請、覚義草創、後冷泉院御宇康平六年四月三日 予 州 大 守 幷 義 家 朝 臣 祭 礼 始 行 之、 家 僕 人 々 流 鏑 馬 勤 之、 門 徒

・ 馬長渡之、 「園城寺伝記   一之二

(1

」 一   鳩尾新八幡宮事 鎮守府将軍兼陸奥守源朝臣頼義勧請之、快誉阿闍梨之 ン

草創、康 平六年四月三日、将軍命 イ 家僕 ア 勤 イ 流鏑馬 ア 、課 イ 門徒 ア 渡 イ 馬長 ア 矣、 「寺門伝記補録   第五

(1

」 新八幡宮 尾蔵寺 新八幡宮、又名鴿尾八幡宮、後冷泉院御宇康平六年、伊豫守源 頼義朝臣、與 イ 西蓮房快誉阿闍梨 ア 謀、建 イ 一祠于尾蔵寺山内 ア 、 迎 ハ 請石清水八幡大神 ア 、 明年四月三日、 頼義

・ 義家父子来

ハ 詣神 前 ア 、 始 ハ 行 祭 礼 ア 、 即 命 イ 其 家 人 ア 、 進 ハ 奉 流 鏑 敵 馬 ア 、 於 イ 後 来 ア 者、寺大衆進 ハ 行馬長十番 ア 、又進 ハ 奏田楽 ア 、……

(5)

  右の史料によれば、頼義が園城寺に鳩尾新八幡宮を勧請したとい う。尾蔵寺は現在廃絶しているが、園城寺の別寺とされていた。頼 義はこの寺の僧西蓮房快誉阿闍梨と計り、石清水の神を同寺に勧請 し た と さ れ る 。「寺 門 高 僧 記」 に は 「覚 義 草 創」 と 書 か れ て い る 。 こ の 人 物 は 源 義 光 の 子 で あ る 。 ま た 、 快 誉 は 頼 義 の 子 で あ る (共 に 『尊 卑 分 脈』 に よ る

(1

)。 こ の 人 物 が 石 清 水 八 幡 宮 本 社 と の 関 係 を も って い て、彼の地に石清水神の勧請を許可されるほどの実力があったのか 疑

(1

問ではあるが、 園城寺側の史料による限り、 鳩尾新八幡宮勧請は 頼義

・ 快誉による計画的なものであった。また、同宮での祭礼も始

められたとあり、従者の人々が流鏑馬を行ったとする記事を読む限 り、勧請と神事には頼義が列席してのものであっただろうと思われ る。 神 事 は「 明 年 四 月 三 日、 頼 義

  3 鎌倉由比若宮 ないのではないか。 意味があったのか。頼義は由比若宮勧請に際しては現地に赴いてい まで引き返したのか。由比ヶ浜に若宮を勧請することにどれほどの で連れて行ったとは考えにくいし、不可解である。なぜ頼義は鎌倉 と「降人」である安倍宗任以下の身柄を連れていたはずで、鎌倉ま 城寺に八幡を勧請した後、東国へ引き返したことになる。だとする ことになる。由比若宮建立が四ヵ月後の八月であるので、頼義は園 と、役が終わった半年後に頼義はすでに京近くまで進んできていた た可能性もあるが、創建は康平六年四月三日で動かない。そうなる ア 礼 」 と も あ る の で 、 勧 請 よ り 一 年 が 経 過 し た 康 平 七 年 か ら 始 め ら れ ハ ア ハ 家 父 子 来 詣 神 前 、 始 行 祭 ・ 義   前項において、由比若宮勧請に頼義は現地に来ていない可能性を 指摘した。それは同社の成り立ちを考える上で、看過できないこと であるが、後述に回し、ここでは由比若宮の勧請を確認したい。そ のことに付き、頼義や義家の時代における史料はないので、頼朝期

図2 平安京六条概略図

※ 『国史大辞典』の「平安京図」を基に作成し、『拾芥抄』によって 若宮八幡と源氏邸の位置を書き入れた。

館臚 鴻東

町外 市東

市 東

町外 市東

東市外町 東市外町

西八条第

(平清盛第)

寺 東 羅生門

裏内 条六

院原 河

西 西

陶 化 坊

殿条 六小 淳 風 坊

安 衆 坊

崇 仁 坊 楊梅小路

六条小路 左女牛小路 七条坊門 北小路 七条大路 塩小路 八条坊門 梅小路 八条大路 針小路 九条坊門 多那井小路 九条大路

光 徳 坊

毓 財 坊 館臚 鴻西 町外 市西

嘉 坊 町将 大

殿御 女

苑 花 寺 西 開 建 坊

六条堀川邸 源義家邸 若宮八幡

(6)

の史料で推定するしかない。

  『吾妻鏡』治承四(一一八〇)年十月六日条に「着

ハ 御于相模国 ア 、 畠山次郎重忠為 イ 先陣 ア 、千葉介常胤候 イ 御後 ア 、凡扈従軍士不 レ 知 イ 幾 千万 ア 、 楚忽之間、 未 レ 及 イ 営作沙汰 ア 、 以 イ 民屋 ア 被 レ 定 イ 御宿舘 ア 云々」 とあり、鎌倉入り初日は民家を宿館にしている。頼朝が鎌倉に入っ たときすでにあった源氏の館といえば父義朝の亀ヶ谷の邸宅である が、この邸宅は由比若宮からは離れている。そこに新たに邸宅を建 てることは断念している( 『吾妻鏡』同年十月七日条) 。南北朝時代 に成立したとされる『保暦間記』には「同十月十五日頼朝相模国小 坂郡鎌倉ニ始テ舘ヲ構ヘタリ、 是ハ源頼義朝臣ノ屋敷、 彼ノ時奉 イ 祝 置 ア 鶴 岡 八 幡 ヲ 修 造 ス、

(1

」 と あ り 、『吾 妻 鏡』 同 日 条 を み る と 「武 衛 始 入 ハ 御鎌倉御亭 ア 、此間為 イ 景義奉行 ア 所 レ 令 イ 修理 ア 也、 」と記録されて いるが、頼義の邸宅であったとは書かれておらず、また両史料から どの場所にあったものかはわからない。ただし、新築された邸宅に 入ったのではないことはわかる

11

。同年十二月十二日「天晴風静、 亥 尅、前武衛将軍、新造御亭有 イ 御移徒之儀 ア 、為 イ 景義奉行 ア 、去十月 有 イ 事始 ア 、令 レ 営 ハ 作于大倉郷 ア 也、 」初めて大倉の地名が記される。 このとき大倉御所に移ったとして、平安京と河内国における社と邸 宅の位置取りから、鎌倉においても由比若宮のそばに邸宅を設けて いた可能性は考えられる。

図3 平安末期の鎌倉概略図

出典:高橋慎一朗『武家の古都、鎌倉』(山川出版社、2005年)より作図。

稲村ケ崎

川 瀬

稲 滑

川 由比ヶ浜

甘縄神明社 御霊社

由比若宮(元八幡)

郡衙

名越坂 海側東西道 山

側 東

西 道

窟堂 生源寺

荏柄天神社 大倉観音堂

● 源義朝居館●

(杉本寺)

N

旧源氏邸?

鶴岡 大倉御所

集団墓地

墓地

(7)

4   河内国における壺井八幡宮   先に挙げた義江氏も指摘しているが、河内国羽曳野には仁徳天皇 陵があり、その側に建つ誉田八幡宮に頼信は信仰を寄せていた。頼 義は帰京後の康平七(一〇六四)年五月十五日に羽曳野に向かい、 誉田八幡宮を羽曳野に勧請して壺井八幡宮を建立した

1(

  河内壺井における源氏の館と八幡の位置についてみていく。壺井 八 幡 宮 は 、『羽 曳 野 市 史』 に よ れ ば 康 平 七 (一 一 六 四) 年 五 月 十 五 日 に創建された。前九年の役が終わって、平安京に凱旋したのちの創 建となる。また同市史には、この時、通法寺も菩提寺として整備拡 充されたとされる。図3にしめしたとおり、源氏の私邸の東側に勧 請されたことをみると、平安京の邸宅

・ 社の位置取りと通じるもの が あ る 。『日 本 歴 史 地 名 大 系』 に よ る と 「古 代 に は 丘 陵 の 北 を 横 切っ て大津道が通り、丘陵上を難波と大和国を結ぶ丹比道、和泉国と大 和 国 を 結 ぶ 茅 渟 道 が 通った 。(中 略) 中 世 に は 丘 陵 近 辺 に 幾 つ か の 城 砦 が つ く ら れ た 。」 と あ る 。 羽 曳 野 の 源 氏 邸 も 先 祖 頼 信 と の 関 係 が 深 く

11

、また交通上の利便性を兼ね備えた地であったことがわかる。

(2)源氏にとっての八幡(若宮)勧請の意義

①   各所の邸宅と八幡宮の位置   頼 義 は 前 九 年 の 役 の 前 後 の 時 代 に 八 幡 (若 宮) を 各 地 に 建 立 し た 。 それは、確認しただけでも三件の八幡(若宮)勧請を行っている。

図4 左は河内国羽曳野周辺の概略図          右は源氏邸と壺井八幡宮の位置図を『羽曳野市史』より転写。

陵尊 武本 日 清寧天皇陵

誉田八幡宮

聖徳太子墓 敏達天皇陵 藤井寺 道明寺

応神天皇陵 仲哀天皇陵

壺井八幡宮 通法寺跡源頼義墓

用明天皇陵 敏達天皇陵

聖徳太子墓 陵尊

武本 日

石 川 仲哀天皇陵

応神天皇陵

陵皇 天賢 仁

清寧天皇陵

允恭天皇陵 藤井寺 仲津姫皇后陵

誉田八幡宮

飛 鳥

鉢伏山 軽墓 古市

西浦 蔵之内 野中寺

尺度     広瀬

須賀 大ヶ塚 新堂

中野 川面

円明 東山

東条 田辺 国分

大井

道明寺 沢田

邸氏 源

伽山

飛鳥 安閑天皇陵

安閑天皇陵

源義家墓 源頼信墓源義家墓 源頼信墓

(8)

時 系 列 順 に 書 き 留 め る と 園 城 寺 鴿 尾 新 八 幡 宮 (石 清 水 よ り 勧 請)

・ 相

模 国 鎌 倉 由 比ヶ浜 (石 清 水 よ り 勧 請 し 潜 か に 若 宮 を 建 立)

倉幕府が建てられたことを思うと可能性はある。 うか。後に頼朝が小林郷に鶴岡八幡宮として遷して、その東側に大 においては由比若宮と鎌倉の源氏邸は隣接していたのではないだろ ていたことがわかる。根拠薄弱で憶測の域をでないが、頼義の時代 井の場合は、自邸の東側に社があり、両者ともに自邸の真横に建て 平安京の自邸の場合、邸宅の北側に若宮八幡社を建立している。壺 若 宮 八 幡 を 建 立 し て い る 。 位 置 関 係 が 確 認 で き る 二 つ の 事 例 と し て 、 元(一〇五三)年には京都六条邸の北側に石清水八幡宮より勧請し 曳野(誉田八幡より勧請)となる。また、前九年の役開戦前、天喜 内 国 羽 ・ 河

  平安京

・ 壺井

・ 鎌倉の三か所は源氏の地盤ともいうべき場所で、

いずれも八幡(若宮)社は邸と併設して建立された。

②   由比若宮勧請の疑問点   先に、由比若宮勧請で頼義は現地に赴いていない可能性を指摘し た。 『 神 道 史 大 辞 典 』 に は、 「 勧 請 」 を「 神 仏、 こ と に 八 幡 大 菩 薩

熊野権現などのごとき垂迹神の神託を請い奉ることを勧請と称し、 ……本祀の社の祭神の分霊を迎えて、新たに設けた分祀の社殿に鎮 祭することをいう」と説明している。前九年の役後の康平六、七年 の間に源頼義は各地に(若宮)八幡を請い奉った。特に平安京

・ 相

模国

・ 河内国の三ヵ所における勧請には共通することがいくつかあ る。ひとつは、自邸の側近くに社を建立していること。また、先祖 との因縁浅からぬ場所であること。さらにもうひとつはそこが交通 上の要衝の地であること。頼義が闇雲に勧請を行っていたのではな いことは明白である。けれど、その八幡(若宮)勧請に際しては、 本社に対して許可のようなものを取り付ける必要はなかったのか疑 問に思うけれども、前掲の鳩尾新八幡宮建立の事例から、宗教者が 勧請を斡旋するような方法もみられ、一定の手続きのもと勧請が行 われたであろうことが想定できる。八幡(若宮)だけに特化して史 料を検出すると、頼義の時代より後であるが院宣によっておこなわ れている例がある。 「宮寺縁事抄

11

」 当宮御正体奉 イ 勧請 ア 例、建保四年十二月八日、依 イ 院宣 ア 、交野 白猪野 、 奉 レ 勧 ハ 請若宮御正体 ア 、 供奉人御殿司一人 侓暹 、 絹四丈軾 布一段、 以後給 レ 之、 俗官一人

検知兼親布三段

、 山上所司一人

乗寛同前

、 祢宜二人

布二

、 「当宮」は石清水八幡宮のことである。この事例が一般的な勧請で あったとは言い難いが、院宣(後鳥羽院)によって交野白猪野に八 幡(若宮)の御正体を勧請している。その勧請は、石清水八幡宮の 関係者、朝廷の官人などが加わり、勧請が院の意思のもとより公的 に行われている様子がみえる。この例のような勧請を頼義が行った

(9)

のか。少なくとも鎌倉の由比若宮における勧請は、石清水の関係者 や朝廷の官人を招いて行ったものとは思えないし、頼義が現地に赴 い て 行った も の で あ った か も 懐 疑 的 で あ る 。「 潜

0

勧 イ - 請 石 清 水 ア 」 と いう『吾妻鑑』の記述には、以上のような経緯が含まれていること を指摘しておきたい。

③   義家の由比若宮修造   頼 義 が 亡 く な って か ら の 河 内 源 氏 は 子 の 義 家 に 託 さ れ た 。【基 本 史 料】にある頼義が若宮八幡を勧請して数年後それを義家が修理した という記述は、鎌倉における氏神の継承を物語っている。義家が由 比 若 宮 を 修 理 し た 記 述 は【 基 本 史 料 】 の ほ か に『 社 務 職 次 第 』

から言って、ほぼ【基本史料】からの引用と考えられる。 十二社註式』の二点の記述のみであるが、これらの記述もその文章 二 ・ 『

  永 保 元 (一 〇 八 一) 年 二 月 は 、 後 三 年 合 戦 の 起 こ る 二 年 前 で あ り 、 義 家 は 主 に 京 都 と そ の 周 辺 国 で 活 動 し て い た 。 こ の 時 期 に 鎌 倉 に 行っ ていたのか。頼義の由比若宮建立と同じ疑問を覚える

11

  由比若宮修造の時期は、前下野守としての名が見られるし、永保 三(一〇八三)年九月に陸奥守兼鎮守府将軍となって現地に赴任し ていることを考えると、当該史料の「永保元年二月、 陸奥守

000

同朝臣 義家加 イ 修復 ア 」という記述は正確ではない。 ④   鶴岡遷座と再勧請の画期性

  鎌倉由比ヶ浜に建立された由比若宮は百年余り経過した治承四 (一一八〇)年、頼朝によって現在の地に移された。この鶴岡八幡 宮 (寺) の 名 称 に つ い て は 、『詞 林 采 葉 抄

11

』 に 「治 承 五 年 右 幕 下 征 夷 将軍 鶴岡に

000

奉 レ 崇 イ 八幡宮 ア 給 ン

……」とあり、鶴岡の旧名を「松岡

11

」 と称していたという。 『社務職次第』には「點 イ 小林郷北山麓 ア 構 イ 宮 廟 ア 奉 レ 遷 イ 鶴岡、

 若宮

故 以 イ 此 地 ア 号 イ 鶴 岡 ア 云々、 」 と あ り 、「鶴 岡」 と は小林郷に勧請されてからの名称であると解せる。

  治承四(一一八〇)年に頼朝が現在の地に遷宮したことで「由比 若宮」 から 「鶴岡八幡新宮若宮

11

」 となった。 遷座以降は頼朝によっ て整備拡充されていったが、とりわけ建久二(一一九一)年三月ま で若宮を本殿として栄えてきた当宮が火災によって焼失してしまっ たことを契機に、さらなる発展を遂げていく。特徴的なのが本殿を 上 宮 ( 八 幡 )

の神を新たに勧請し

11

宮 ( 若 宮 ) に 分 け た こ と で あ る 。 上 宮 に は 石 清 水 八 幡 ・ 下

、 下宮は若宮を再建したと思われる。頼朝は前 年の上洛時に石清水八幡宮へ幾度か参宮しており、その際に馬など を献じていることから、石清水の神を鎌倉に迎える手はずを整えて い た と 考 え ら れ る 。 上 宮

岡」のみならず、鎌倉や幕府にとっても一画期であったと考える。 を も って 「鶴 岡 八 幡 宮 (寺) 」 が 成 立 し た 。 こ の 日 の で き ご と は 「鶴 建久二(一一九一)年十一月二十一日に遷宮の儀式が行われ、これ 宮 の み な ら ず 、 境 内 の 整 備 が 行 わ れ た 。 ・ 下

(10)

おわりに

  最後に本稿での成果をまとめておきたい。①『吾妻鏡』で語られ ている「鶴岡」の由来は誤りがあり、頼義自身が鎌倉に赴いて勧請 を行なってはいない。②頼義は由比若宮以外にも同時期に三か所の 勧請を行っており、いずれも私邸の傍らに勧請された。③頼朝が鎌 倉を本拠地としたことで由比若宮が小林郷に遷され、発展を遂げ鶴 岡八幡宮が成立した。それは鎌倉

・ 幕府

・ 将軍頼朝にとっても一画

期であった。

  「鶴

岡」 は 鎌 倉 時 代 を 通 じ て 多 く の 所 領 を 集 積 し て い く 。 そ の こ と は頼朝が信仰した社であったからなのだが、一体どのような成り立 ちであったのか疑問に思い本稿作成に至った。今後本稿が、同宮に おける様々な問題に取り組んでいくときの一助になればと思う。

(1)   江 部 陽 子「 鶴 岡 八 幡 宮 発 展 の 三 楷 梯 と 源 頼 朝 の 信 仰 」( 『 神 道 学 』 六三号、一九六九年)は先祖供養の社→源氏氏神的社→幕府の守護 社という三段階説を示している。 (2)   「豊 臣 秀 吉 奉 行 等 加 判 造 営 指 図」 と い う 。 図 面 に 天 正 十 九 年 五 月 十 四 日 の 日 付 を 持 つ。 福 山 敏 男『 神 社 建 築 の 研 究 』( 中 央 公 論 美 術 出 版、一九八四年)のなかで「この社殿配置図は天正十九年当時とし ては、あまりに整い過ぎている」として、神社側の画策により多く の修理を申請したいがためになるべく整っている古図を持ち出した のだと論じ、図面に書かれた日付より古い状況を反映していること を指摘する。また、浪川幹夫「鶴岡八幡宮の諸堂について ― 創建期 から寛永造替までの諸相 ― 」( 『鎌倉』一〇四号、二〇〇七年)では 境内にあったと考えられる諸堂宇の変遷がまとめられている。 (3)   『国史大辞典』 「鶴岡八幡宮」の頁に載せる社領の一覧を参照。 (4)   概 説 的 な も の に 『鎌 倉 市 史 社 寺 編』 (吉 川 弘 文 館、 一 九 五 六 年) や 貫 達 人 『鶴 岡 八 幡 宮 寺 ― 鎌 倉 の 廃 寺 ― 』(有 隣 堂、 一 九 九 六 年) が あ る。最近の研究では、小野勝也「室町期鶴岡八幡宮寺における別当 と供僧」 (『史学雑誌』一二四号、二〇一五)が、今まで触れられて こなかった室町時代に切り込んで、同宮の組織運営が鎌倉幕府滅亡 以後どのように推移したかを論じた。 (5)   『新 訂 増 補 国 史 大 系』 本 を 使 用。 本 稿 の 『吾 妻 鏡』 は す べ て こ れ に よる。なお本稿所掲のすべての史料において旧字体を新字体に適宜 改めて掲げる。 (6)   五 味 文 彦『 増 補 吾 妻 鏡 の 方 法 』( 吉 川 弘 文 館、 二 〇 〇 〇 年 )。 三 八 ~一四六頁。 (7)   「源 氏 の 東 国 支 配 と 八 幡

(   (9) 「頼朝以前の鎌倉」 (『古代文化』九号、一九九三年) 。 参照した。本稿における「源氏」は河内源氏を指す。 内 源 氏 ― 頼 朝 を 生 ん だ 武 士 本 流 ― 』(中 央 公 論 新 社、 二 〇 一 一 年) を   (8) 頼 義 や 頼 朝 が 属 す る 源 氏 の 一 流 を 河 内 源 氏 と い う。 元 木 泰 雄『 河 九九五年) 。 神 信 仰」 (『日 本 史 研 究』 二 九 四 号、 一 ・ 天

( 頼通の甥にあたる。 による。源俊房は康平五年当時、権大納言従二位、二十九歳。関白 10       ) 『 増 補 史 料 大 成 八 』( 臨 川 書 店、 一 九 六 五 年 )。 『 水 左 記 』 は こ れ

( 11       ) 『群書類従 第二輯 神祇部』所収。

12   ) 海 老 名 尚

( 史民俗博物館研究報告』第四五集、一九九二年) 。 田 豊 彦 「「六 条 八 幡 宮 造 営 注 文」 に つ い て」 (『国 立 歴 ・ 福

13   ) 山 田 邦 和 『日 本 中 世 の 首 都 と 王 権 都 市 ― 京 都

峨 ・ 嵯

立された寺院」であったという。清盛の祖父平正盛がここに邸宅を 野に隣接する土地で、六波羅蜜寺は「死者の霊魂を慰めるために建 閣、二〇一二年)によると、六波羅は平安京の葬送地であった鳥辺 原』 (文 理 ・ 福

(11)

建てて死後はその邸内に葬られた。もとは葬送地であったというこ と、先祖とのかかわりがあること、交通上の要衝であったことは、 源氏にも共通する。 (

( られ、天台寺門宗僧侶の伝記集成を主な内容とする。 14       ) 『続 群 書 類 従 第 二 十 八 輯 上』 所 収。 全 十 巻。 鎌 倉 時 代 成 立 と 考 え 興 福 寺 叢 書 (一) と し て 「興 福 寺 流 記」 15     ) 『 大 日 本 仏 教 全 書 一 二 七 巻 』( 佛 書 刊 行 会、 一 九 一 五 年 )。 同 書 は

・ 「造

興 福 寺 記」

・ 「僧

綱 補 任」

「三 会 定 一 記」

・ 「一

身 阿 闍 梨 補 任 次 第」 な ど 興 福 寺 の 史 料 が 収 載 さ れ ている。 (

16   ) 注(

( 12 )に同じ。

( の関係が深かったことを物語っている。 郎義光やその子覚義、また快誉阿闍梨などの存在は園城寺と源氏と ているが、それが頼義の代に遡るものであることがわかる。新羅三 されている。鶴岡八幡宮の別當は寺門派の僧が多いことが指摘され 城寺伝法血脈」や「寺門伝記補録」にも頼義の子であることが記録 17   ) 『新 訂 増 補 国 史 大 系』 本 を 使 用。 快 誉 に つ い て は 、 こ の ほ か に 「園

( 参照。 18     ) 『全 国 寺 院 名 鑑 近 畿 篇』 (寺 院 名 鑑 刊 行 会、 昭 和 四 四 年) 三 十 五 頁

( 19       ) 『群書類従 第二十六輯 雑部』所収。

( 山内宅を移築してしばらくの御所としたようである。 20   ) 『吾 妻 鑑』 治 承 四 年 十 月 九 日 条 に よ れ ば 、 知 家 事 兼 道 が 住 ん で い た

( 幡及通法寺文書「記文」を参照。 21       ) 『 羽 曳 野 市 史 第 4 巻 史 料 編 2 』( 昭 和 五 六 年、 羽 曳 野 市 ) 壺 井 八

( を現わした。 22   ) 頼 信 は、 応 神 天 皇 陵 の 側 に 建 つ 誉 田 八 幡 宮 に 告 文 を さ さ げ て 信 仰

( 23     ) 『大日本史料 第四編之十四』建保四年十二月八日条。

年 九 月 十 四 日 に は 官 命 に よ り 園 城 寺 へ 悪 僧 逮 捕 に 向 か う (『水 左 記』 る た め に 若 狭 国 で 合 戦 に 向 か う (『為 房 卿 記』 )。 永 保 元 (一 一 八 一) 24   ) 承 暦 三( 一 〇 七 九 ) 年 八 月 十 七 日 に は 官 命 に よ り 源 重 宗 を 追 討 す

『 為 房 卿 記 』) 。 義 家 の 足 跡 を た ど る こ と が で き る 史 料 は 乏 し い が、 この頃は延暦寺や園城寺の抗争が激しく、嗷訴などが頻繁に起こっ ていたと考えられる。そんな中で、嗷訴を打ち払うことで一族の武 名を高めていた源氏の棟梁が京を離れて東国に行く暇があったのか 疑問に思う。 (

( 25     ) 『国文注釈全書 第十九巻』 (すみや書房、一九六九年) 。

( たという。 北方丸山に移し(現丸山稲荷) 、 其蹟に宮祠を建て、 八幡を勧請し」 の 鶴 岡 下 宮 の 地 に は 、 治 承 四 年 ま で 稲 荷 (松 岡 明 神 と 号 す) 社 あ り 、 26     ) 『 新 編 相 模 国 風 土 記 稿 第 四 巻 』( 雄 山 閣、 一 九 七 〇 年 ) に は、 「 今

( 宮文書)にこの名がある。 27   ) 寿 永 二 (一 一 八 三) 年 二 月 二 十 七 日 付 「源 頼 朝 寄 進 状」 (鶴 岡 八 幡

28   ) 『吾妻鏡』建久二年四月二十六日条。及び「鶴岡社務職次第」 。

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