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宇佐地方における八幡若宮の発生   ―鶴岡八幡若宮を検討するために―

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(1)

はじめに

  鶴岡八幡宮(「鶴岡」と略す)が創建当初「八幡若宮」であったことは、『吾妻鏡』や文書史料に見ることができる 。「若宮」はさまざまな辞書 で概ね、①本宮の祭神の子を祀った社、②本宮の祭神の分霊を新たに勧請した神社、と説明されており、創建当初の鶴岡にもこうした性格があったのではないかと推察する。しかし、この点を掘り下げた検討は行われてこなかった。

  かつて、宮地直一氏は寿永二年二月二十七日付「源頼朝寄進状」に記載されている「鶴岡八幡新宮若宮」という記述について「鶴岡の名に負ふ八幡の新宮たる若宮の謂で……由来を飾らふとして八幡新宮なる名辞を以てしたまで……」と述べている 。しかし、この後の文章では鶴岡における祭神の問題にぶつかり、鶴岡の若宮は仁徳天皇であると解釈するなど論旨の一貫性を欠く。近年では、山本幸司氏が「鶴岡八幡宮について史料の「若宮」という文言にもっとこだわるべき」と問題を提起し、具体的な事例として、大庭景能が若 宮の奉行となり度々鶴岡の若宮殿(下宮)の造営

・ 作事を担当して いることなどを取り上げている。この指摘は若宮と御家人(相模武士)の関係性に着目している点で鶴岡研究の展望を示している 。このように山本氏の指摘を除けば、「鶴岡八幡若宮」について明確な見解が示されていないのが現状である。

  従来の鶴岡に関する研究は、その論旨から同質と考えられる見解が多数ある 。そのなかでも鶴岡と鎌倉幕府をつなぐ研究は、『御成敗式目』の第一条に「神社を修理し、仏事を専らにすべきこと」にからは鎌倉幕府の政治理念を鶴岡が支えていることを彷彿とさせる。幕府による政祭一致の理念の象徴は、創建当初の同宮が「八幡若宮」であったのならば、その実態の究明は重要な課題といえよう。というのも、これまでの研究では、『吾妻鏡』に記されている「本社者、後冷泉院御宇、伊予守源朝臣頼義奉イ  勅定ア、征ハ伐安陪貞任ア之時、有イ丹祈之旨ア、康平六年秋八月、潜勧ハ請石清水ア、建イ瑞籬於当国由比郷ア、〈今号レ之下若宮〉永保元年二月、陸奥守同朝臣義家加イ修復ア 、今又奉レ 遷イ 小林郷ア 、致イ 蘋蘩礼奠ア 云々、 」という記事から、

宇佐地方における八幡若宮の発生     ― 鶴岡八幡若宮を検討するために ― 小   脇   拓   行

(史学専攻博士後期課程二年)

(2)

石清水八幡宮から勧請した国家的な神格をもつ「八幡神」を勧請した神社という認識で語られてきたきらいがある 。しかし、『吾妻鏡』は後の編纂物なので、治承四年の鶴岡の様子を正確に描写しているとは言えず、今日の研究水準においては根拠に乏しいと言わざるを得ない。

  以上のように創建当初(一一八〇~一一九一年)の鶴岡が「八幡若宮」であったのではないかという問題点を解消するためには、どのような方法を用いるべきなのであろうか。「鶴岡八幡若宮」をはっきりさせるための史料は見当たらないし、鶴岡のそれについてもさることながら「八幡若宮」自体についての知識が必要不可欠であるが、この神については未だ辞書的な一般的解釈を確認するのみである。そこで、本稿では一度鶴岡から離れ、「八幡若宮」に焦点を合わせて、この神の出現の経緯や性質などについて究明することを通して、「鶴岡八幡若宮」解明の一助としたいと思う。

  さて、「八幡若宮」は宇佐神宮に示現した神である。この神についての論考や指摘は、わずかに福地佳代子氏の論文をあげうるのみであるが、氏の論旨は中世における童形図像に主眼が置かれているため「八幡若宮」そのものを論じたものではない

  この他に八幡神研究の祖宮地直一氏は、宇佐八幡宮の祭神増加に着眼して、若宮を応神(八幡神)の子神とし、「八幡若宮」を仁徳天皇霊に当てている 。だが、史料上において八幡神=応神霊の位置づ けは、承和十一(八四四)年六月十七日「弥勒寺建立縁起 (1

」に初めて登場する概念であって、「八幡若宮」の発生はそれ以前の天長元(八二四)年であることから、本宮(八幡神)の子神(仁徳天皇)とする見解は整合性に欠けると言わざるを得ない。

  近年では、飯沼賢司氏が『八幡宇佐宮御託宣集』(以下『託宣集』と略記)の「若宮部」の記述を、八幡神の大菩薩化によって失われた軍神としての機能を「八幡若宮」が肩代わりしたと解釈し、それを根拠に宇佐神宮の譜代神官大神氏

・ 宇佐氏が朝廷の神社政策に対 しての政治的側面を論じた ((

  以上、「八幡若宮」についての研究をまとめると、一つ、宇佐神宮の拡大に伴って現れた神と位置付けられていること。二つ、昭和年代の研究では「八幡若宮」をどの神にあてるかについての見解が主流であること。三つ、近年の研究では、律令政府の神社統制の政策を背景として、それに対抗する宇佐神官団の政治作為のなかで生まれた神であるとの見解がみられること。これを踏まえて検討に移りたい。

一   「八幡若宮」発生の史料

  「八 幡若宮」発生に関する根本史料である「貞観十八年十一月大神蘊麻呂弟助雄等解文」(以下「貞観解文」と略記)には、管見の限り、(イ)『託宣集』若宮部 (1

(ロ)『宮寺縁事抄』第二所収「原題  八

(3)

幡大菩薩託宣記」(ハ)『宮寺縁事抄』第十一(ニ)『宮寺縁事抄』第十三「原題  宮寺遷座極楽寺縁起 (1

」以上の四本がある。このうち『宮寺縁事抄』所収の三本は誤脱が多い。なかでも(ロ)は文章の途中に致命的ともいえる脱落があり、(ハ)と(ニ)もそれぞれ誤写と考えられる箇所が多い。それに比して(イ)の『託宣集』に所載本は、読みにくい箇所はあるものの、誤字なども少なく、概ね文意は通っている。よって、本稿では、(イ)を底本に(ハ)(ニ)で校訂したものを基本史料として用いることにしたい (1

。左にその全文を掲げ、必要な部分に適宜傍線や註釈を施して「八幡若宮」発生についての検証を行うことにしたい。『託宣集』若宮部若宮社祝大 (注神朝臣蘊麻呂弟助雄等解申奉レ 顕若宮祝記文事、

    菱形小椋山宮西方隠坐神一所、右神、以イ去天長 (注元年ア、蘊麻呂母 (注酒井勝門主女、就レ神祭経イ七箇年ア 、而間父従八位下大神朝臣真守之宅、就イ 門主女ア 託宣、

  (注吾ン 菱形宮西方荒垣之外隠居神ン 、若不イ顕申ア 汝家入イ神気ア 、其時吾喩為土波可レ告」者、而思忘経レ年不レ顕、而後、神気入イ真守之家アン 、陰陽師 (注川辺勝真苗録申云、為イ託宣神向卜陰陽師ア、「吾ン 其命取ン 死ン 物ン 」者、未レ経イ幾年ア、陰陽師真苗頓死、然後、門主女依イ 神託宣ア 、告イ 蘊麻呂

・ 助雄等

ア 云、「神託 宣、陰陽師更不レ用、但汝能彼神奉治然間陰陽師不レ聞イ神教ア 、急死亡、汝不レ 見哉」者、蘊麻呂等申云、「己身命取給、何大神宮之辺禱神可イ顕申ア」、即託宣、「汝所レ申頗有レ道、但大菩薩、宮 (注大祭之後、以イ午日夜 (注亥時ア 、容 (注戸代出居、以後午日 (注丑時、吾霊気奉、勿レ令レ告イ他人ア、神吾三年之内霊気顕、不レ状可レ見」者、蘊麻呂等随イ神教命ア、以イ後彼期時ア戸代出居、即申レ禱云、「以イ何因縁ア、雖レ多イ他処ア、大菩薩宮辺顕給申」、即神託、「為レ打イ隼人兵アン 、大菩薩行幸給ン 時、吾御伴為イ将軍ア而奉仕、彼隼人等打還坐之時、大菩薩之等給イ 彼将軍 (注器杖ア 、皆授レ 吾ン 給了、因レ玆為レ戦レ彼竊吾身老労侍イ於外門ア、為レ立イ慰安願ア慕処也」者、随イ 神教命ア 、以イ 去仁寿 (1

(注二年十一月 ((

(注秋祭之後ア 、以イ 午日亥時ア 、竊戸代甕二口置レ之、時造宮使正六位上藤原朝臣 (1

(注藤主、主典正六位上香山 (1

(注宿祢永貞、以イ同年十二月ア造宮政所召レ人了、門主女等門之神木経イ 三日内忌慎ア 之間、神託宣、「覆間毎事淂レ 実ン 」者、因レ玆使藤主為造イ宮殿ア、作イ (1

(注支度帳ア、供ハ奉稲百束、檜皮百囲、傜丁三人ア、宮書生膳 (注

(注伴福雄令レ預之間、使藤主被レ任イ大隅守ア、未レ造イ宮殿ア、爰蘊麻呂并前擬少宮司大初位上宇佐 (注

(注公豊川共建立畢、廿二日宮殿一宇、亦蘊麻呂

・ 助雄等依 イ神教命ア毎年奉幣之間、大宮司正六位下大神朝臣佐雄在任之時、以イ 去 (注

(注貞観五年ア 、

(4)

奉幣朝使左中弁従五位下紀 (注

(注夏井朝臣、占部外従五位下占部平麻呂参坐之日、朝詔云、天皇不予大坐、而件神霊験示ハ 見禁中ア 、因レ玆召イ陰陽寮ア嘗申云、「大菩薩宮西方隠坐神未イ顕給ア、其名イ若宮神ア、今天皇不預大坐、時奉イ護守ア神也者、依イ勅詔ア乃占定」者、蘊麻呂申云、「菱形宮西方隠神未レ顕、若以神漸大者、朝占合既畢、仍載イ宮解文ア、言上已了、而前守従五位下藤原 (注

(注朝臣仲直、以イ去貞観 11

(注十一年京上之時ア、請イ若宮ア申上、京下之後供ハ奉絹六疋、綿六十長ア、建ハ立檜皮葺四間宮殿一宇ア、専当豊川

・ 蘊麻呂等、

而間以イ去貞観十一年二月七日符ア、以イ蘊麻呂ア任ハ 用祝ア 也、任イ 守従五位下藤原朝臣海雄ア 、供ハ 奉地子田一町玖段三百十六歩ア、其獲稲毎年二季神祭奉仕、然則神霊本尊不レ可イ顕申ア、方今若宮神名未レ顕時、放イ異恠ア祟ア国守有忠ア、今霊験顕後、其威光示イ 于 1(

(注禁掖ア 、任国守瞻仰貴敬奉レ 粧イ 神徳ア 、任中无レ恙者也、而今諸人等見イ霊験之顕ア、非レ氏之人競以任イ祝部ア、而 11

(注漆嶋有レ人、偁、「任イ若宮祝ア」、即申之間、同去年正月二日移符偁、蘊麻呂如レ 元定レ 祝、亦有イ 神人御田事ア 、別当者望請  国

・ 宮任イ公験記文ア、以イ蘊麻呂

・ 同弟助雄等 ア令レ任イ祝部ア、仍記イ事状ア、為イ後世ア注ハ顕記文ア申上謹解、

     貞観十八年十一月廿三日   祝大神朝臣蘊麻呂

   弟大神朝臣助雄  【註釈】(注1)宇佐宮の大神氏については、後の系図を参照されたい。(注2)淳和天皇  天長元(八二四)年。(注3)豊前国宇佐郡酒井郷に起こった。宿祢姓をもつ。大宮司公通の一族といわれる。(太田亮『姓氏家系大辞典』)(注4)神の託宣や引用部分には「  」を付した。(注5)川辺勝は豊前国「仲津郡丁里戸籍」に確認できる。真苗については不明。(注5)例大祭のこと。三月十八日に行われている宇佐宮の最重要神事。(注6)午後十時。(注7)御戸代(みとしろ)『日本国語大辞典』には、「神戸の意」とある。(注8)午前二時。(注9)古代将軍が出征の時に天皇より授かる節刀のこと。(注

(注 10  )文徳天皇仁寿二(八五二)年。

(注 11)仲秋祭のこと。毎年十月に行われ放生会の神事を伴う。

(注 した種継を祖父に持つ。(『尊卑分脈』) 12)藤原式家、太宰大貳従四位下藤原仲成の子。長岡京遷都を主導

(注 よりおこったとする。永貞については不明。 13)重松氏によれば、香山氏は百済系渡来人で、大和国十市郡香山

(注 14)帳簿のこと。

(注 雄については不明。 15)『姓氏家系大辞典』によれば、豊前から豊後に分布する一族。福

(注 16)宇佐宮神官。

(注 17  )清和天皇貞観五(八六三)年。

18)善峯の子。正五位、讃岐守

磨介 ・ 播

部少輔 ・ 式

(注 分脈』) 歴任し、五筆の一人であった。土佐国に配流されている。(『尊卑 中弁などを ・ 右

(注 19)藤原京家流豊並の子。太宰大貳。(『尊卑分脈』)

(注 20  )清和天皇貞観十一(八六九)年。

22)朝廷のこと。

(5)

(注 た。また、宇佐の駅館川に辛島井堰を築き辛島田圃を開発した。 る。赤蜂は延暦九(七九〇)年に下宮の地に卜居し、上宮を護っ か』によれば、漆島氏の代表的な人物として赤蜂(時守)を挙げ 23)漆嶋氏の出自については不明である。飯沼氏『八幡神とはなに   右掲の「貞観解文」は、宇佐での若宮神の発生を伝える唯一の史料である。神吽編著の『託宣集』には、筆者の若宮神に対する考え方の根拠となる史料として引用されている。こうした状況から、はじめに「貞観解文」の信憑性について検証する必要があると思う。『公式令』には「解式」として、また『雑筆要集』では三十二通の例が挙げられている。【史料一】『公式令』(解式条 (注

)式部省解 申事其事云々、謹解、

       年  月  日      (下略)【史料二】『雑筆要集』(解状 (注

  官位姓名解、  申進申文事、右謹検案内、ム申事極レ愁也、望請  鴻恩、早仁道理、将被イ裁許ア、仍勒仕状、以解、年號―        官位姓名上   「解」

は、公式令に規定された様式の文書である。佐藤進一『古文 書学入門』によれば、「解」は、管轄関係にある下級の被官から上級の所管へ提出する文書であり、これを拡張して個人からその所属官司や一般の上位者に提出する場合にも用いられた (注

。また、『雑筆要集』も参照すると、そこに収録された解文や解状の雛型にはさまざまな書き方があるが、【史料二】のように書きだしは「何某解……申何々事」として、書き止めに「以解」と記す点において両者は共通している (注

。次に以上の二様式と「貞観解文」を比較してみたい。書きだし部分の事書と書き止めの部分に注目すると、事書で若宮社祝の大神蘊麻呂と弟助雄が記文をあらわし、それを「解申」すとある。また、書き止めの部分で「謹解」とあり、それより前の傍線部⑦の文では後世に大神蘊麻呂以下の一族が若宮社祝としての正統性を主張するためこの記文を作成したことあらわし、その主張の根拠を読み取ることができる。蛇足だが、この解文においては「八幡若宮」の祭祀権をめぐる相論を想定していることからわかるように、訴訟文書の要素もみることができる。以上のように解文として必要な要件が本文中に盛り込まれており、すなわち本解文は様式上疑いないものと認めることができる。

二   創出時の「八幡若宮」の性質

  次に「貞観解文」の内容について考えたい。まず疑問に思うのは、先述のとおり、なぜ大神氏は若宮社祝の正統性を主張するかという

(6)

ことである。この解文が出された頃の宇佐宮では、天平勝宝六(七五四)年に薬師寺の僧行信と八幡宮の神職大神田麻呂等が厭魅事件と呼ばれる不祥事を起こしており (注

、事件によって大神氏は宇佐宮の大宮司から没落している。さらに神護景雲三(七六九)年の道鏡事件の結果、祢宜辛嶋勝与曽女、宮司宇佐公池守が解任され、祢宜大神朝臣小吉備売、祝辛島勝竜麻呂、大宮司大神朝臣田麻呂が後継者に挙げられたが、最終的には祢宜に辛嶋勝与曽女、忌子に大神朝臣小吉備売

・ 同女悲売

・ 辛島勝阿古女

・ 同豊比売、大宮司に大神朝臣 田麻呂、少宮司に宇佐公池守任じられて、事件は終結する 11

。道鏡事件後、八幡神の託宣の力は失墜し、八幡神は出家を遂げて大菩薩となる 1(

。一方で宇佐神官に復職し、宮司職に任じられた大神氏ではあったが、依るべき八幡神の権威は失墜してしまった。ここに八幡神に代わる新たな神の出現が必要だったとすれば、「八幡若宮」創出の動機が説明され得る。そして、この神の機能を「貞観解文」で確認することができる 11

  傍線部④に着目すると「大菩薩の等しく彼の将軍に器杖を給ふ」とあり、八幡神は大菩薩となったため殺生ができなくなってしまったので、隼人征伐に際し若宮に対して大菩薩と同等の権威を持つ器杖(節刀 11

)を授けた。つまり、若宮神は、その創出の当初においては八幡神の身代としての神格を有していたのである。

  『託

宣集』においては、神の託宣部分はほとんど宣命書きが用いら れている。これは、大王や天皇の命令が口頭で宣布され、これを宣命体の文章で書き記したものが宣命であるように、神の託宣部分に宣命体を用いたのであろう。  「貞

観解文」によると天長元(八二四)年には「八幡若宮」創出の動きがあったことがわかる。『託宣集』の作者はこの神を、若宮

・ 若

・ 宇礼

・ 久礼の四所(柱)と説明しているが、創出当初は「神一

所」であった。「貞観解文」以前の宇佐神宮における託宣は、主に

(大神氏関係系図)大神比義─春麻呂┬胤守─社女         │         └諸男┬田麻呂        │        └種麻呂─雄黒麻呂─家弘─┐       │         ┌───────────────┘        │         └家頼─宮次┬氏麻呂(下略)       │       └真守┬犬子        │        ├蘊麻呂        │        └助雄 女禰宜が行っていたが、平安時代以降はその数が減少するという 11

。酒井勝は豊前宇佐郡酒井郷より起こった氏族で宿祢姓を持つ 1注

。蘊麻呂の父真守の宅にいる、同母門主女に若宮神が憑き託宣をしていることは、宇佐の託宣において一つの画期であろう。右に示した「大

(7)

神氏関係系図 1注

」でわかるように、大神大宮司家嫡流は氏麻呂の子孫に相伝されていく。庶流の家系である真守の系統が、八幡神分身である「八幡若宮」を祀る社の祝になっていることは、若宮が大神氏内部での祭祀権をめぐる政治的争いのなかで創出された神であることを示している。

  傍線部②のでは、陰陽師川辺勝真苗が神の託宣を採用せずに頓死してしまったことを記している。真苗という人物について詳しいことがわからないが、陰陽師である真苗と「八幡若宮」の託宣が対立しており、真苗の頓死によって失墜した託宣の力を取り戻そうとする宇佐神宮側の意図がうかがえる。すなわち神社統制に乗り出した朝廷への抵抗であった。この真苗の頓死の記事からは、神の託宣を聞き入れない人間を祟り殺すという祟る神としての神格を読み取ることができる。

  傍線部⑥に「其を若宮神と名く、今天皇不預大坐、時に護守し奉る神なり」とある。清和天皇は「貞観解文」に記されている日付けより六日後の貞観十八(八七六)年十一月二十九日に皇太子貞明親王(陽成天皇)に譲位している。そして元慶三(八七九)年五月八日に崩御した。「今天皇不預大坐」の一文は、天皇の身が芳しくなかったことを伝えている。八幡大菩薩の分身であるからこそ「八幡若宮」が天皇を護る神としてあらわれているのではないだろうか。

三   若宮社殿の位置からみる特徴

  天長元(八二四)年にはじめて現れた「八幡若宮」は「一所」であった。この神はどこに出現し鎮座したのだろうか。傍線部⑤によると、若宮造営の次第は次のとおりであった。

  天長元(八二四)年に姿を現わした「八幡若宮」を奉斎する社殿の造営が約三十年後の仁寿二(八五二)年に始まった。そのときの費用や責任者などを「表1」にまとめた。

若宮造営の責任者と費用1

造宮使主典費用建立年月日

藤原藤主 正六位上香山宿祢永貞 稲100束桧皮100囲傜丁3人 膳伴福雄 大神蘊麻呂宇佐公豊川 仁寿二(八五二)年十二月二十二日   仁寿二年十一月、戸代(神に供する米を作る神田)を設定して、造宮使藤原藤主、主典香山宿祢永貞が任命された。永貞については不明だが、藤原藤主は仲成の子で種継の孫にあたる。長岡京遷都や薬子の変で一族の存亡が危ぶまれるなかで、藤主が新たに現れた若宮殿造営の長官に就任している。同年十二月に入ると神(若宮)の託宣を合図に、社殿の造営が着手されたかに見えたが、造宮使藤主が大隅守に任じられると造営料を宇佐宮書生膳伴福雄に預けてしまう。これを見かねてか大神蘊麻呂と宇佐公豊川が協力して社殿を造

(8)

営するに至った。

  以上の経緯より、若宮社殿の造営は中央の官人から在地の宇佐宮神官に委ねられた。「八幡若宮」の託宣と陰陽師の占いが対決して託宣の権威が復活したのと同様に、社殿の造営についても中央から任命された役人が造営を行わず、在地の神官でことがなされている。こうしたことから、八幡神が国家的な神となり中央に取り込まれていくなかで、「八幡若宮」という新たな神を創出することによって自己の利権を守ろうとする宇佐神官の意図をうかがうことができる。

  しかも造営された若宮社殿の位置は、「宇佐神宮境内トレース図」(本稿   これは傍線部①に「菱形宮西方荒垣の外に隠れ居る神 1注 41頁図参照)によると、本宮の西側、鳥居の前の近くである。

」とある場所に相当し、現在もこの位置に若宮殿がある。上宮の西、本殿鳥居の目の前に創建されたことから、宇佐宮境内における重要性を確認することができる。それは傍線部③の「何の因縁を以て、他処多しと雖も、大菩薩宮の辺りに顕し給ひ申すや」という一文にも明瞭である。

  宇佐宮を描いた最古の絵図に「応永古図」と呼ばれるものがあり、当該期における宇佐宮全体の状況を見渡すことができる(

1注 41頁参

)。これをみると上下宮の体裁が整えられており、神社建築と寺院建築がそれぞれ一群となり境内を構成している。一方で鶴岡を描いた最古の絵図に「豊臣秀吉奉行等加判造営指図」(

42頁参照)と呼ば 院建築が廻りに配置されて、境内を構成していることがわかる 1注 れるものがあり、社殿が上下宮に分かれ、本地堂や千躰堂などの寺

。二つの境内図を並べてみると、類似している点がみられる 11

。先に指摘したとおり、鶴岡は、建久二(一一九一)年十一月二十一日に石清水の神を勧請した。このときから上下宮となったためか、鶴岡は石清水の模倣のように考えがちだけれども、建物の配置を見るとむしろ宇佐宮に通ずると思われる。これは、宇佐に発生した「八幡若宮」が鎌倉に勧請されたことに結びつくと考えられる。

四   「八幡若宮」の伝播

  宇佐宮はじめて菱形宮西方に発生した「八幡若宮」が次に登場するのは、筥崎宮においてである。本稿では、その史料について『託宣集』所載のものを使用する。その理由は以下のとおりである。「石清水八幡宮記録」の「筥崎宮縁起」は『託宣集』のそれに比して、若干文章が長いく所々に脚色がみられる。しかも、宣命体の「テニヲハ」が神の託宣部分だけではなく地の文にも用いられて文章全体に渡っている。今回は「八幡若宮」の託宣や活動に力点を置いているので、託宣の原史料ともいうべき『託宣集』所載のものを使用することにしたい。右に掲げる。『託宣集』筥崎宮部一、醍醐天皇御宇、治三十三年、

(9)

大鳥居馬場殿 大塔

菱形池

①上宮    ⑦木屋     ⑬和間浮殿   ⑲田笛社

②下宮    ⑧能舞台    ⑭鷹居社    ⑳春日社

③弥勒寺   ⑨宮迫     ⑮百大夫    ㉑北辰社

④女祢宜社  ⑩大元山    ⑯薦社     ㉒住吉社    

⑤上宮仮殿  ⑪奈多宮    ⑰小山田社   ★若宮殿

⑥下宮仮殿  ⑫大尾社    ⑱妻垣社    ☆若宮仮殿

浅 瀬 川

  食

  川 ⑳

㉒ ㉑

  館 駅   川

国立歴史民俗博物館資料調査報告書情報資料研究部『社寺境内図資料集成1 東北 ・ 関東 ・ 中部 ・ 四国 ・ 九州』(国立歴史民俗博物館、2001年)の「宇佐神宮絵図」をトレースした。

また、境内の建築物名については真野和夫「宇佐神宮の古絵図」(中野幡能編『八幡信仰事典』戎光 祥出版、2002年203頁図解)を参照し、池と川の名称のみ図に書き入れた。

宇佐神宮境内トレース図

(10)

(とを)

とをいかき

● ●

①本殿(上宮) ④えびす社 ⑦経蔵 ⑩五大堂 ⑬桂社 ⑯源大夫

②若宮殿(下宮) ⑤御本地堂 ⑧鐘楼 ⑪熱田社 ⑭松童社

③白旗社 ⑥千躰堂 ⑨北斗堂 ⑫三島社 ⑮天神社

⑩ ⑪ ⑫ ⑬⑭ ⑮ ⑯

(しらはた)しや □ろ

ひかしの御門

くわひろうくわいろう

御かうし御しんでん

くわいろう

くわいろう

たけうしの御てん

くわいろう

にしの御門

ゑびす にしのとりい

ひらはし 大こくいしばし

くわいろう

二かいのろうもん

いがき いがき

いしばし いしばし

あか井くわいろう

五大だう北斗たう

二町つヽ四方八町也 くわいろう 二かいのろうもん 二かいのろう門 ひかしの御門

くわいろう

下のわかミや はいでん へいでん あつた ミしま かつら まつ  どう 天神 げん

  大夫

くわいろう

くわいろう

南大門

くわいろう

くわいろう

にしの御もん 八はし やふさめの馬場やふさめの馬場 内のとりいあかはし とをいかき

とをいかき

とをいかき 天正十九

   五月十四日

  増田右衛門尉 山中橘内   くきぬき□□いかき

から門 とをいかき

やなぎ原 

しゆろう 御ほぢどう

きやうざう 千躰どう とをいかき

御こうし 御しんでん

豊臣秀吉奉行等加判造営指図(トレース)

出典:『鎌倉市史社寺編』(吉川弘文館、1958年)のものを使用した。

(11)

第二十四年、延喜廿一年辛巳六月廿一日、於イ観世音寺西大門ア、若宮、一御子七歳女子橘滋子、去レ 地七尺而託宣、抑末代人力弱、公家勢衰之比、新羅国是我古敵也、可イ起来寇ア 、因レ茲筥崎新宮礎之面、敵国降伏之字書付、可レ立イ其柱ア、又吾座同件字可レ置、其宮殿可レ用レ栢也、如レ此

世波則新羅敵国自然降伏者、又云、吾将以イ戒定恵ア之力、霊鏡照イ於朝野之人ア 、神劔振イ隣国之敵ア 者、一、朱雀天皇御宇、治十六年、

元年、天慶元年戊戌十一月十三日壬寅、託イ 大分宮権大宮司藤原実元女子七歳ア宣、我為レ持イ日本国ア 示ハ現大明神ア 、本体ン 是ン 尺迦如来乃変身、自在王菩薩是也、名イ 法躰アン 、申イ 女躰ア 者、我母阿弥陀如来変身也、申イ俗体ア者、観世音菩薩変身我弟也、爰母大多羅志女者、為レ領イ此朝ア 時、従イ新羅ア 軍発来、為レ打ハ取此朝ア

時、大帯姫託レ 子月時満、産生期近、御腹病、当レ時、我子々孫々代々可レ領イ此朝ア者、過ハ経七日ア之後、生、取イ白石ア 指イ御裳腰ア 、若此石有レ験、過イ七日之間ア 、我祈レ神、云畢、合戦令レ勝給竟、各尋イ住所ア 居給之時、我累世舎弟穂浪山勤ハ修仏法ア 、祈イ天下国土ア 者   宇佐宮に発生した「八幡若宮」は、延喜二十一(九二一)年に観世音寺(現福岡県太宰府市)の西大門に顕れ、七歳の橘滋子に託宣を下した。先行研究においては、この最初の一文を「若宮一御子」と読んで、若宮四所のうちの一御子仁徳天皇と解している 1(

。しかし、この一文を「若宮、一御子七歳女子橘滋子に地を去ること七尺にして託宣」したと読むことで、応神信仰のなかの若宮四所の一御子ではなく、八幡神の分身として発生した「八幡若宮」であると解することができる。この史料の内容は、一つめに、筥崎新宮を造営し敵国降伏の字を書きつけて社殿を造営すれば敵国である新羅は自然に降伏するというもので、九〇七年に唐が滅び、九一八年に高麗が建国され、九三五年に新羅が滅んで高麗が朝鮮半島を統一する、という朝鮮半島情勢を反映していると思われる。それは、筥崎宮が北九州の海岸近くに造営されたことからも理解できる(

おりた。西の方角は仏教では浄土を指し、なによりも地理的に宇佐 割を果たしたことである。今回も西の方角に顕れて、女子に託宣が て「八幡若宮」が託宣をくだし、八幡大菩薩の意向を人に伝える役 宮の造営と遷座において一番重要なことは、八幡大菩薩の分身とし て、その意思を七歳の女子に伝えていることが確認できる。筥崎新 宣している。この内容から、「八幡若宮」が八幡大菩薩の分身とし であるとか、法躰であるとか、母は大帯姫(神功皇后)であると託 つめに、傍線部「八幡若宮」は託宣に注目すると、釈迦如来の変身 44頁図参照)。二

(12)

の地域からみれば北西の方角から敵が侵入してくるので、ここを守り固めることが重要だったのであろう。また、託宣が女性にくだされることで女祢宜の力を飾ろうとするものであった。

  筥崎新宮の造営遷座の史料にあらわれた「八幡若宮」は、前節で確認した武神としての側面と託宣の機能を兼ね備えた八幡神の分身であり、御子神ではないことが確認できたと思う。第一の託宣があった延喜二十一年のころには、応神信仰が普及されてくる。その一面をなす大帯姫すなわち神功皇后の腹から生まれたというエピソードからは、宇佐宮に祀られる神たちの家族化を垣間見ることができる。けれども、ここでの「八幡若宮」は、その信仰のなかの若宮四所=応神の御子神としての位置付けがあった一方で、それとは別に八幡大菩薩の分身としての活動を続けていたのである。筥崎宮への遷座は「八幡若宮」託宣がおりてその神が勧請されるというパターンを示している。

おわりに

  本稿では、鶴岡が「八幡若宮」であったことに着目し、その起源を確認して、その発生地域周辺へどのように伝播していったのかを考えた。検討の結果は次の二点にまとめられる。一つめは、「貞観解文」によって天長元(八二四)年に発生したことが確認される。「八幡若宮」は、八幡神が出家を遂げたことによって顕れた分身ともい

大 分 福  岡

佐  賀

熊  本 宮  崎

宇佐神宮

大分八幡宮

筥崎宮

国東半島

筥崎宮の位置概略図

(13)

うべき神であり、宇佐宮神官大神氏の政治的意図のなかから生み出されたという一面をもっていた。二つめに、応神信仰が広がりをみせる時代においても、応神の御子神ではなく、八幡大菩薩の分身として「八幡若宮」は活動していた。

  創建当初の鶴岡は、史料上「鶴岡八幡 00新宮若宮 00」とか「鶴岡八幡 00

若宮 00」と呼ばれており、「鶴岡若宮八幡」とは表記されない。このことから、いわゆる仁徳天皇や若宮四所を主祭神とする若宮八幡宮とは区別されるべきものであり、鶴岡の場合、八幡の若宮 00000として鎌倉に勧請されて発展していったと考えられる。今後の課題は、九州地方に発生した「八幡若宮」がどのように伝播して鎌倉に勧請されたのかを究明することである。

(1) 二通の寿永二年二月二十七日付「源頼朝寄進状」と嘉禄二年二月二十六日付「将軍藤原頼経下文案」には「鶴岡八幡新宮若宮」とある。『吾妻鏡』にも「若宮」を冠した記述が多数認められる。   また、「生島足島神社文書」所収、永禄十年八月七日付「望月信雅起請文」には、「関東守護二所

嶋 ・ 三

書院、一九二六年)一一三~一二五頁。  (3)宮地直一「鶴岡八幡宮寺の組織とその性質」(『神祇と国史』古今 辞典』(吉川弘文館、二〇〇四年)に同様の説明がなされている。 九二四年)、『日本神祇由来事典』(柏書房、一九九三年)、『神道史大 (2)国史大辞典や日本国語大辞典をはじめ、『神祇辞典』(平凡社、一 みえる。 宮八幡大菩薩」との記述が ・ 若 ( 一三九頁。  (9)宮地直一『八幡宮の研究』(蒼洋社、一九八五年)九〇~九二頁、 号、一九五二年)がある。 その他、民俗学の研究として堀一郎「若宮信仰」(『民間伝承』十六 像を通じて―」(『東北福祉大学研究紀要』三十二号、二〇〇八年)。  (8)福地佳代子「八幡若宮に対する一考察―石清水八幡宮所蔵の童形 上下宮の社殿を構えた新たな鶴岡八幡宮へと遷宮が行われた。 幷若宮及末社等遷宮也」とある。この日、現在もみることができる  (7)『吾妻鏡』建久二(一一九一)年十一月二十一日条に「鶴岡八幡宮 や『群書類従』の関係史料にも同様の記述がみられる。  (6)『吾妻鏡』治承四年十月十二日条。このほかにも『鶴岡社務記録』 質をあぶり出すことができると考え、この手法で議論していきたい。 挙げることはしないが、鶴岡から幕府を見ると幕府や中世社会の本  (5)鎌倉幕府と鶴岡八幡宮に関する研究は数多くある。それをここで 頁。  (4)山本幸司『頼朝の精神史』(講談社、一九九八年)二二二~二四二

( 10   )『神道大系神社編四十七宇佐』(神道大系編纂会、一九八九年)。

( 一三四頁。 11 )飯沼賢司『八幡神とはなにか』(角川書店、二〇〇四年)一二九~

( 観解文」の註釈においても参照した。 年)三七六~三九三頁。本稿では『託宣集』と略記する。また、「貞 12 )重松明久校注訓訳『八幡宇佐宮御託宣集』(現代思潮社、一九八六

( れている。本稿では『縁事抄』と略記する。   一九八八)、『大日本古文書家わけ四ノ五石清水文書五』に所収さ 13   )②~④の史料は『神道大系神社編七石清水』(神道大系編纂会、

( われる。 『託宣集』では「私曰」をもとにして写した可能性も指摘できると思 14 )『託宣集』と「宮寺縁事抄」に所載の「貞観解文」の検討から、

( 15   )『国史大系第二十二巻令義解』(吉川弘文館、一九六六年)。

( 16  )『続群書類従』公事部。

17 )佐藤進一氏『古文書学入門』(法政大学出版局、一九七一年)第三

(14)

章第四節参照。(

( (『明治大学人文科学研究所紀要』第五〇冊、二〇〇二年)。 18 )上杉和彦「『雑筆要集』を中心とする日本中世文例集史料の研究」

19 )八幡大神による奈良

年後 -749大寺大仏礼拝(天平勝宝元年)の5 ・ 東

平勝宝4(七五四)年、薬師寺の僧 ・ 天

信と八幡宮の神職 ・ 行

大神田麻呂らによって「厭魅(エンミ)事件」と呼ばれる不祥事が起こっている。『続日本紀』には「人を呪い殺そうとする呪法を行った……」とあるが、何のために、誰を呪詛したのかなど細かい内容は不明。説によれば、当時の朝廷での実力者

・ 藤原仲麻呂(恵美押

勝)を追い落とそうとする橘奈良麻呂に荷担した行信が、大神田麻呂を引き入れようとして発覚した事件ではないかともいう。中央勢力と結ぶことで勢力を広げてきた八幡大神(大神氏系神職団)が、逆に中央での勢力争いに巻き込まれて失脚したともいえ、これにより大仏造立時の立役者

・ 大神杜女

・ 大神田麻呂は流罪となり、大神

氏一族は宇佐八幡宮から退去している。(

( れたという。 神宮内では大神氏と宇佐氏との間に大宮司職争奪戦の火ぶたが切ら 研究』国書刊行会、一九九五年)。氏によると道鏡事件の結果、宇佐 20 )清輔道生「道鏡事件の謀略と史的背景」(中野幡能編『宇佐神宮の

( 王菩薩」と称したという。 自在王菩薩」、その二年後(七八三)には「護国霊験威力神通大自在 21 )飯沼賢司『八幡神とはなにか』九八頁。天応元(七八一)年に「大

( たように思う。 のであるが、大神氏内部においても神の祭祀権をめぐる争いがあっ ちの政治的策謀についての言及がなされている。氏の論旨に沿うも 22 )前註飯沼の書においても「八幡若宮」創出にかかわる宇佐神官た

( て「節刀」を授かることが規定されている。 ア刀、」遠征する将軍が、天皇の命令を受けて出征することの証とし 23 レイ)『律令』には以下のような規定がある。「凡大将出征、皆授節

( 24 )前掲注⒑飯沼賢司『八幡神とはなにか』一一〇~一一一頁。

25  )太田亮『姓氏家系大辞典第二巻』(角川書店、一九六三年)二四 ( 八三頁。

( 四四~七五三頁。 26   )『神道大系神社編四十七宇佐』(神道大系編纂会、一九八九年)七

( ように、玉垣よりも更に柱の間隔の疎らないもの」であるという。 氏の解説によれば、「透垣の一種で、粗垣と書かれることでもわかる 27 )前久夫『社殿のみかた図典』(東京美術、一九八一年)一七四頁。

( 祥出版、二〇〇二年)。 28 )真野和夫「宇佐神宮の古絵図」(中野幡能編『八幡信仰事典』戎光

( 相―」(『鎌倉』一〇四号、二〇〇七年)がある。 川幹夫「鶴岡八幡宮の諸堂について―創建期から寛永造替までの諸 物は絵図の位置にあったと思われる。他に関連する論文として、浪 をそのままの描いたものではないという。しかしながら、主要な建 よれば、鶴岡を描いたこの絵図は、設計図であり当時の境内の諸相 29 )福山敏男『神社建築の研究』(中央公論美術出版、一九八四年)に を表現したものである前註( 30 )当然二つの絵図は性質が異なる。宇佐神宮の絵図が曼荼羅の世界

( 家康によって作成された設計図のようなものである。 破損した社殿の修理を秀吉が行うことを約束し、それを引き継いだ 26)真野論文に対し、鶴岡のそれは、

31 )飯沼賢司『八幡神とはなにか』一四〇頁。

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