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オット・サロモンの手工教育と日本への影響(1) 永島利明*

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(1)

オット・サロモンの手工教育と日本への影響(1)

永島利明*

(1989年9月9日受理)

Otto Salomon s Handicraft Education and his Influence on Japan (Part 1)

      *

so曲iaki NAGAsHIMA

(Received September 9,1989)

Abstmct      「

Otto Salomon was the principal of Sloyd School at Naas in Sweden. He selected woodwork out of l2 handicrafts and was the first to systematize handicraft education.

1 His scbool opened an in−service training course in 1878. There were about 24,500 parti一 cipants from 1872 to 1942. Makita Goto and Seiichi Noliri were there in 1888.

Rokushiro Uehara transmitted Salomon s theory from a book written by a principal of a normal school in Brussels. Salomon s experience shows that a teacher cannot surpervise more than 20 pupils. Uehara maintained that a teacher cannot supervise more than lO.

pupils. Salomon s theory was a good guide to the study of Uehara s handicraft education.

Uehara s thought on class size was better than those of any other Japanese scholars.

は じ め に

わが国では外国より多くの教育思、想が導入されてきたが,明治時代より昭和初期まで技術教育や 工作教育においてはオット・サロモン(Otto Salomon,1849−1907)のスロイド教育の理論が大きな 影響をあたえている。このスロイドということばは英語のsloydという表現によって普及していった が,もともとはスウェーデン語.のslojdから派生したものであった。スロイドはスウェーデン体操と ともに,この国が世界的に貢献した偉大な教育実践であった。手仕事を重視する思想はルターやッ ウイングリ等のプロテスタントの教祖にみられた。さらに,工作を普通教育の一環として導入すべ きであるという思想はペスタロッチやフレーベルにみられたが,それを普通教育にとりいれる試み

*茨城大学教育学部技術科教育研究室(Laboratory for Technical Education, Faculty of Education, Iba一

raki University, Mito, Ibaraki 310 Japan).

(2)

はまずフィンランドで試みられ,続いて新教徒の国スウェーデンを通じて世界に大きな影響を与え

た。

本稿はオット・サロモンの教育的スロイドの全体像とそれがわが国にどのような影響をおよぼし たかを明らかにすることを目的としている。とくにそのなかで学級規模を中心とした教育条件につ いて考察したい。1980年代にはいってから「日本は外国に学ぶことはない」などという豪語がしばし ば聞かれるようになったが,技術教育の学級規模は先進国に遠くおよばない。サロモンの教育理論 がわが国にどのように導入されたかをみながらそのことを考察する。

外国の教育理論の導入のあり方は,単に技術教育のみにとどまらず,教育研究者がそれをわが国 に紹介する場合のあり方を示している。そのことが授業の遂行の難易を決定する場合があることに 留意しなければならない。

スロイド教員の養成

1868年のスウェーデン第2の都市イエテボリ(G6teborg)の近くのネース(Naas)に,アウグス ト・アブラハムソン(August Abrahamson)によって,附近の青少年を対象として,大工を教える 学校が設立された。1)これが世界の手工教育の中心地となったスロイド教員養成所の前身であった。

(ただし,この養成所は後にスロイド教員養成のみではなく,家庭科・体育・美術等の講習会を行 っている現職教員の研修機関であった。)

このネースのスロイド学校はアブラハムソンが協力者としてストックホルムから招いた甥のサロ モンによって,1872年に改組された。小学校卒業者を対象として木工,彫刻,旋盤,熱処理,かご 細工,馬具製造,石工,塗装等のスロイド技術と製図,機械,数学,物理などの教科を教えていた。

この学校は2年制で7時間がスロイドの技術,3時間が教科であった。この学校は16人で始まっ

た。2)

1874年には女子のために織物,裁縫,家政を教える同種の学校が作られた。同年にサロモンはイエ テボリ近郊のエルフスボリ(Elfsborg)の視学に任命された。各学校を巡回して指導しているうち に,スロイドの専科教師の養成の必要性を痛感した。そして彼はネースのスロイド学校に1年制の 教員養成課程を併設した。当時の養成の目的は「知的な職人を学校の教員として再教育し,独立の

スロイド学校または小学校のスロイドを教えることができるようにすること」であった。

その頃の彼のスロイド教育観は「労働者の子どもを労働を愛するように教育する」というもので,

一種の職業準備教育であり,そこには普通教育の1教科であるという見方はなかった。スロイドが 普通教育の一環であるべきであるとサロモンに教えたのは,隣i国フィンランドのウノ・シュグネー ウス(Uno Cygnaus)であった。彼はフィンランドの初等教育の父といわれ,小学校制度の創設に 尽力した。3)刈なかでも,シュグネーウスが世界最初に普通教育の1教科として手工を導入したこ

とは,技術教育史上,特筆されるべき功績であった。

1877年にサロモンはフィンランドにシュグネーウスをたずねて,スロイドは初等教育の一一環とな ること,経済的な必要からではなく教育的な根拠に立つべきこと,小学校ではスロイド教員は専科 教員ではなく全科担当の一般教師が当たるべきことを教えられた。

(3)

このことからサロモンは教育観を大きく転換させた。翌年,彼は職人を専科教師とするコースを 衣がえして,5週間の小学校教員を対象とする講習会コースを作った。5)1882年には職業教育コー スを廃止し,教員養成コースを集中して実施するようになった。この教員養成課程では6週間のス ロイド教育の講習会を年4回開いた。

すなわち,男女教員のための夏のふたつの講習会,春の女教師のための講習会,冬の男子教員の ための講習会であった。とくに夏の講習会は世界各国から教員を集めて,この国のスロイド教育を 世界的に有名なものとした。1875年から1917年の42年間,ネースに来て学んだものは6,441名であっ た。また,「ネース1872−1942年」の第2巻には詳細な受講者の名簿があるが,約24,500人にのぼっ ている。6)その後,1965年にネースよりリンシエピングに移転するまでの人数は不明である。日本       7)

ゥらも後藤牧太と野尻精一が受講している。

上記のふたりがネースの講習会に参加したのは,手島精一のすすめであった。手島が工業教育の 発展につくしたのは周知のことであるが,彼がネースのことについて知ったのは,1885年イギリス で開かれた万国博のときのことであったらしい。その後,手島はサロモンと文通していた。1888年        8)

ノ後藤と野尻のふたりがネースで講習会を受講したのは,手島の教示によるものであった。

技芸教育二係ル英国調査委員報告十七

これよりさきに政府は1886年に手工を小学校に加設することを決定していた。手工は農業,商業 とともに普通教育の1科目として高等小学校に加設された。ちなみに加設教科とは学校選択の教科 を意味していた。これと同時に師範学校においても手工と農業は必修となった。これらの加設の目 標は富国強兵・殖産興業のための職業準備教育であった。そして教師は子どもに苦しい労働と低賃 金に耐えるよう鍛練することに重点がおかれていた。

手工をはじめこれらの3教科が必修とならず,学校選択教科となったのは,いかなる理由による ものであろうか。とくに手工や農業は新しい教科であり,適当な教員が得られなかったこと,どれ 位の予算を必要とするのかわからず絶対主義国家とはえ,これを地方に強制することはできなかっ たのである。当時はまだ義務教育がはじまったばかりで民衆の学校教育に対する関心は乏しく,就 学率はひくかった。また,授業料の徴収が行われていたので,政府はそれ以上の負担を国民に課す と,義務教育が後退するのではないかと恐れたのである。9)この点につき当時の文相である森有礼 が1888年の第2回手工講習会で「其土地ノ情況二従テ之ヲ加へ置クコトヲ得ルトアリテ加へ置クへ シト命セサルハ則等ノ学科ハ全ク新規ニシテ未タ適当ノ教員ヲ得ス 未タ其費途ノ如何ヲ審カニセ ス 未タ彼ノ土地ノ情況ナルモノヲ詳カニセス 其他ニモ国勢尚得末タ命令二依リ之ヲ置クヲ許サ

ルモノアルニ帰ス」と訓示したことで明らかである。

とくに手工が設置されるようになったことには欧米諸国の大きな影響があった。その直接の動機 としてはイギリスの「王立技術教育委員会」(Royal Commission on Technical Instruction,1881〜

84)の報告書があった。この委員会はヴィクトリア女王によって任命された6名の委員から構成さ れ,自国および欧米諸国の技術教育を視察したり,資料を蒐集して2冊の報告書を刊行した。この 報告書は予備報告(1882年)と主報告(1884年)に分かれている。日本の文部省は直ちにこの報告

(4)

書の翻訳に着手し,前者を「技芸教育二係ル英国調査委員第一報告」,後者を「同第二報告」とし て20分冊にして出版した。(出版したといっても奥付には不発売と書かれているので,一部の人に しか読まれなかったであろう)。第一報告は1885年12月22日,第二報告はそれ以後1889年までに19 分冊にして刊行された。

この報告書は欧米諸国の技術教育や職業教育の制度や内容を集大成したものであった。スウェー デンおよびノルウェーの手工教育に関するものとしては「第二報告」に17分冊87ページに記載され ており,スロイド教育についてこれまで書かれたものとしては例がないほど,ページ数をさいてい

る。10)

つぎにその内容を概観しよう。教育実践では教育目標を重視すべきであろうが,報告者はスウェー       11)

fンを視察したが,一定の目標は示されなかったとしている。 このように内容には教育哲学的な ものよりも手工の学級規模,教員の研修,教授法,製品の販売,教員養成など,教育の実際面につ いて詳細な視察が行われている。

まず,学級規模であるが,手工の授業を行うとき,スウェーデン(原者では瑞典となっている)

のウプサラ県では教師1人につき,「経験のある教師」は生徒19名で1学級を構成するが,普通の 場合,「6〜12名」12)または「14〜16名」13)とふたつの異なった記述がみられる。この相違の生じ た理由は児童・生徒の年齢段階,教師の経験の有無,小学校・手工学校の校種の相違から生じたも のであろう。また,同県の手工学校の1例としてつぎの場合があげられている。毎週30時間のうち,

18時間を学業にあて12時間を手工に配当している。指物(木工)では1学級20名,12名,30名の3 組があり,卒業生が助手となっている。ユ4)

ストックホルムでは教師は毎週28時間授業をして「児童十二名ヲ以テー組トナス」15)という学級 編成であった。手工の学習内容は指物,旋盤であり,ある学校では粘土による模型製作,製本,製 靴および裁縫があった。クリスチャニヤの製作学校では指物,篭細工,図学のクラスがあり16名が

         16)

P学級となっていた。 また,イエテボリ(原文ではゴッテンブルグとなっている)では20〜25名 を1組として教授し,それ以上になると手すきになると説明している。すなわち,これ以上の人数 の限界をこえると,こどもは学習や作業をするというよりも遊んでしまう状態になるのである。イ エテボリの手工の教師は15名が1学級として望ましいと主張していたと報告している。17)

ノルウェー(原文では郡威となっている)の手工学校ではフレドリクスハルドの手工学校が掲載 されている。この学校は屋内小工業を勧奨し,勤勉の慣習を養うことを目的として,指物・製本・

製靴・裁縫の労働者を養成していた。1881年には177人の生徒がいて,1学級13名ずつ14組にわけて いた。18)教師は毎日平均6時間授業し,毎週6時間工具の修理等に従事するように定められていた。

上記のように当時のスウェーデンやノルウェーにおいては手工教育を実施する場合,1学級最高 30人,最低6人となっている。すでに1世紀以前にこのような学級編成であった。このことは注目

に価する。わが国の学級規模は「公立義務教育諸学校の学級編成及び教職員定数に関する法律」で きびしく規制されている。学級規模は1学級当り45名を標準としている。この法律によって小学校 の工作,中学校の技術科もすべて他教科と同一の学級規模で授業が行われている。これは先進国の       】9)

ネかで例をみないことである。

第二報告のなかの教員養成については,前述したものと同一であるので,省略する。とくに注目 されるのは,現職教員の研修であるが,夏休に5〜6週間の講習をし,出席者は40歳位が多く50歳

(5)

       烈))

ハのものもいた,と報告している。

手工の学習法としては模型の教示による模作法が紹介されている。後述するように模型を提示し て木工の教育をすることはサロモンが力を注いだのであったが,フレデリックスハルドの手工学校 ではネースより模型を借りたが,216品目もあるので多すぎるとして36品目に減少して教育していた。

216品目を全部製作すれば需要のないものを作るおそれがあると批判している。2Pここではネース のように木工だけではなく,旋盤加工も行われていた。

こどもの製作した作品はウプサラでは販売場で1〜2割の利益があがるように売っていた。スト ックホルムでは生徒は販売代金の2割をうけとっていた。22}イエテボリではクリスマスのときに販 売していた。23}これらの事例が示すように,作品は販売され,しかも,代金の一部しか生徒に還元

されなかった。ここにも手工の衰退の背景のひとつがあったのではなかろうか。

そのほか第二報告にはフレドリスクハリドの手工学校では婦人のための手工をするとき助手を雇 うことができるとか,24}ウプサラ手工学校では年長の生徒を助手に使い,生徒の手空きを少くして いるなど興味深い視察記録がある。25)このようななかでサロモンの教育が注目された。

オット・サロモンの教育的スロイド

オット・サロモンの教育理論はフィンランド,ノルウェーや自国の手工教育運動のなかで培われ た。19世紀にどうしてこうした手工教育運動が行われるようになったのであろうか。北欧では農民 は長い冬の農閑期に豊富な木材を利用して道具を使用して男子は斧やハンマーの柄,くま手,農具,

フォーク,スプーン,簡単な彫刻をほどこした家具などを作っていた。女子は織物,裁縫,編物を

していた。これをホーム・スロイドとよんでいた。特に,父親は息子が作業で失敗すると,不注意      26)

笊s器用さをなくすために厳しく躾をした。こうした封建社会にみられた男女分業が産業革命以前 の北欧の一般的な姿であり,家内制手工業が発達していた。

19世紀になると,資本主義が進行し,手工業で作られた製品は家庭から駆遂され,工業製品に代 えられていった。家庭ではホーム・スロイドにかわってブランデー作りが行われるようになった。

過度の飲酒によって健康を害するものや犯罪が増加した。1855年には酒類の製造販売の制限法が通 過するほどであった。

青少年をこうした退廃から救い,ものを作ることによって健全な人格を育成することを目的とし て,1840年代からスウェーデンやノルウェーでは多くのスロイド学校が設立された。しかし,これ らの学校は伝統的な家内制手工業の方法をなんら改善することなくとりいれたものであった。生徒 の作品の販売に重点をおき,教育的価値を軽視した。その指導者は教師というよりも職人の親方で あり,教育方法の体系はもっていなかった。こうした環境のなかで前述のネースのスロイド学校が 創立され,教育的スロイドの理論が樹立されたのである。

スロイドの教育的価値に注目しはじめた教員たちはしだいにネースに集まるようになり,講習会 に参加するようになった。サロモンはシュグネースのスロイド観にひかれるものがあったが,教育方 法の体系がないことに気付いた。フィンランドより帰国して後に教師たちとともにスロイドの製作過 程の分析をして,その体系化につとめた。サロモンは教育的スロイドの目的をつぎのようにまとめた。

(6)

形式的陶治の目的として,27)

1.労働一般にたいする趣味と愛を教えこむ。

2.単純で実直な肉体労働に対する尊敬の念をうえつける。

3.独立・自主の精神を発達させる。

4.整頓,正確,清潔の習慣を養う。

5.形態についての目と感覚を訓練すること。手の普通の器用さと触覚を訓練すること。

6.注意深さ,勤勉,忍耐の習慣をつける。

7.体力の発達を促進する。

功利的目的として28)

1.道具を直接用いて器用になる。

2.正確な作業を行う。

スロイド教育の方法として,一般的なものとして

1.教授はやさしいものからむずかしいものへと進まなければならない。

2.教授は単純なものから複雑なものへと進まなければならない。

3.教授は既知のものから未知のものへと進まなければならない。

4.教授は正しい基礎をもつものでなければならない。

5.教師は教育的力量を持たなくてはならない。

6.教授においては,生徒の人格に関心を持たなければならない。

スロイド教育の方法として,この教育に独特のものとして

7.教授は直観的に,すなわち,できるだけ感覚,特に触覚と視覚を通じておこなわなければなら

ない。

8.教授はその性質において個別的でなければならない。

9.教授者は教師であって,単なる職人であってはならない。

ネースの特徴は木工のみをスロイド教育の中心においたことであった。サロモンは当時スウェー デンで行われていたスロイドのうち,金工・熱処理・かご作り・わら編物・ブラシ作り・塗装・飾 り作り・製本・ボール紙加工・木工・旋盤・木彫りの12種類を子どもの能力,子どもの興味の持続,

製品の有益性,肉体労働への尊敬,整頓と正確さの訓練,形態感覚の向上,衛生,方法,手の器用 の修練という10の観点から検討して,その観点をすべて満たすものとして木工を選んだ。29)

最初のうちは木工の模型を数多く作り,それを子どもに示して同一の作品を模倣して作らせてい た。1881年のフレデリックハルド手工学校ではサロモンから216個の模型を借りたが,需要のないも のが多くあったので,36個に精選して教授したという。模型が多すぎるという批判を考慮してサロ モンは模型の数を50個にへらし,それを作るために88個の練習教材を作った。3°)

サロモンの教育理論のなかで注目すべきものは,スロイドの学級規模を明記したことである。1 人の教師が管理できる生徒の数は教師の能力や子どもの発達段階で変化する。スロイドを教えるこ とに慣れていない教師は最初は6〜8人以上になると,容易に管理できないし,初心者ならば12人 まで増やせるであろう。31)もっとも望ましい条件のもとでは15人から18人,最高では20人まで増や せると主張している。

この学級規模は世界に拡がった。筆者が北欧・西独・アメリカを調査したところ,西独はザール

(7)

ランド州が最高25人,アメリカのオクラホマが25名,テキサス州が30人であると答えたのを除いて,

教育当局の解答はほとんどがサロモンの主張したように20名以内になっている事実がある。32)

彼は,この学級規模にもとづきスロイドの実習室の適正条件を発表した。位置,面積,高さ,壁,

暖房などのあり方を示している。

サロモンは道具としてはナイフの使用を重視した。子どもの身近にあり,もっともよく知ってお り,使用しているから,手の器用さを養い,子どもの生活に役立つと考えたのである。しかし,こ れには異論があったようでありフレデリックハルド手工学校では従来通り鋸,かんななどの道具を 最初から使用して作業を行っていたという。33)

上原文四郎の手工観

わが国にオット・サロモンやスウェーデンのスロイド教育が実習を通じて師範学校の教師に紹介 されて,現場の教師に影響を与えたのは,文部省が1887年に行った手工講習会が最初であった。こ の講i習会は同年より1889年までの3ケ年にわたって行われた。上原の講…義は商業学校附属商工徒弟 講習所における手工科の実践と西洋の書物を参考にして行われている。彼は1869(明治2)年に開 成所に入学してフランス語を学んだので,フランス語の文献によって西洋の手工を知った。ここで は小池民次の記録した上原の第1回の文部省主催の講習会における手工教授法の講義をみよう。上 原はブラッセルの師範学校長スリウィーがサロモンのネースの講習会に出席して書きあらわした本

をもとにして講義を行った。このことはすでにほかが紹介しているので,重複している点は省略す る。34)方法について,錯乱を防ぐため,つぎの2つの方法を考察すべきことであるとしている。35)

(一)仏国パリノツールンホールノ小学校ニテハ総テ雛形ノミヲ製作セシム 其ノ手本ハ図画及雛 形ナリ 然レドモ此ノ方法ニヨレハ児童ハ単二雛形ヲ以テ実物ナリトシ 却テ実物二応用ス ルノ道ヲ解シ難ク 旦児童等其興味ヲ感スル事少シ 又製作ノ物品ハ積テ山ヲ為スニ至ルモ 之ヲ世間実際ノ要需(ママ)二供スル事能ハズ

(二)瑞典ノネース府ノ師範学校ニテハ総テ日用ノ器物ヲ製作セシムルカ故二 其製作ノ物品ハ 皆世間実際ノ要需二応スルヲ得ヘシ 又児童ハ頗ル之ヲ喜ブヲ以テ 其進歩ハ甚タ著ルシ 然レドモ莚ニーノ困難事アリ 即チ製作セシムヘキ物品ヲ選定スルコトト其順序ヲ定立スル コトナリ

(一)の雛形というのは実物の大きさではなく,実際の物の形どおりに小さく作った物をさしてい た。つまり,実物のミニチュアであったから,せっかく作ったものが実用性がなかったのである。

一方,ネースでは実物大の寸法のものを製作していたので,実用性があった。また,困難なことと して,製作順序を決めることがあるとのべているが,上原はまだサロモンがモデルシリーズを完成し ていないときのものを参考にしていたのである。サロモンは1896年に71陶丁加ory oプE伽cα∫ oη01

oy4を書いている。そのなかに製作順序が詳細に書かれていた。

上原は製作法について,つぎの11項目をあげている。

(一)製作ノ物品ハ漸次簡単ナルモノヨリ複雑ナルモノニ入リ近易ナルヨノヨリ難深ナルモノニ遷 ラサルヘカラズ

(8)

(二)総テノ工具ヲ悉ク使用セシメサルヘラズ

(三)総テノ工具ハ其使用法ノ難易二応シテ難キモノハ多ク使用セシメ易キモノハ少ク使用セシム ヘシ 例ヘハ 鉋ハ最モ難キカ 故二最モ多ク之ヲ使用セシメ 次二鋸ニノミノ如ク之二準 シテ其使用ノ多小ヲ制スヘシ

(四)器物ノ製作法ノー班ヲ会得セシムベシ

(五〉材料ノ難易二応シテ順序ヲ定ムベシ 而テ通常使用スル所ノ材料ハ悉ク之ヲ使用セシムルヲ 要ス

(六)製作セシムベキ器物ノ形体ハ努メテ美術ノ趣ヲ有スルモノヲ採ルヘシ

(七)塗抹料ヲ用イザル器物ヲ製作セシムヘシ 又ヤスリ,木賊等ヲ使用セシムヘカラズ塗抹料 若シクハヤスリ,木賊等ヲ使用セシメルトキハ 自己ノ不手際ヲオオフノ便アルカ放二随テ 手指ノ運用ヲ粗略ニスルノ憂アリ

(八)製作セシムヘキ器物ハ努メテ種類多キヲ要ス 旦一人ノ生徒ヲシテ同一ノ器物ヲニ個以上製 作セシメントセハ 多少形状ヲ変化スルカ或ハ他ノ器物ト交互二之ヲ製作セシムベシ

(九)玩弄物ヲ避クヘシ

(十)努メテ雛形二属スルモノヲ避ケテ日用必要ノ器物ヲ選フヘシ

(十一)努メテ形状ノ大ナルモノヲ選フヘシ 若シ極メテ小型ノモノヲ製作セシムルトキハ手指ノ修 練二不十分ナルノミナラス 身体ノ発育二関スル功能ヲ失フ

上記の11項目は上原の手工教育観でもっとも独自性の強いものであった。サロモンはナイフの使 用を重視したのに対して,上原はかんなの使用を多くすべきであるとしている。また,作品に「美 術ノ趣ヲ有スルモノヲ採ルヘシ」「文明二必要ナル美術ノ思想ヲ養成セザルベカラズ」というよう に美術の役割を強調している。このことは手工と図画を結合させて,図画・工作科になる遠因を作 ったのである。

上原は手工のうち鍛治,仕上,木工,鋳工,竹藤細工,ろくろ,鋳形(ママ),彫刻の8種類を あげて,教材としての適格性を比較している。手工のもつべき目的のすべてをみたすのは木工だけ であると評価している。しかし,上原はサロモンのように木工を教えれば,ほかの手工は省略して よいという考えを否定して,他の分野も評価している。お)

彫刻ハ脳力(ママ)ノ修練二宜シ 故二木工ノ傍二之ヲ課スルモ可ナラン 彫刻ハ別二数多ク道 具ヲ要スルニ非ス 又広キ場所ヲ要スルニ非ス 材料モ僅々タルノミ(中略)鋳形ハ彫刻ト木工 トニ附属セシムベシ 木工ト金工トニハ彫刻及ロクロヲ加ヘタルモノ多シ 其他藤細工ノ如キモ 可ナリ 是レ種々二形状ヲ変化セシムルヲ以テ形体二関スル思想ヲ綿密ニスヘシ 然レドモカヲ 要セザルガ故二幼年ノ児童ニハ適当ナレドモ長年ノ生徒ニハ梢々不十分ナルモノトス

学級規模については,ヨーロッパの例や帝国大学附属職工学校の所員の意見を参考にして,教員 1名につき10人以内が適当であるとのべている。サロモンが初心者は6〜8人,最高では20人がよ いとのべ,ケルシエンシュタイナーが実習室では16から20人がよいという説をもっていたが,上原 はこの2名の先覚者よりきびしい教育条件を考えていたのである。その理由はつぎの通りであった。

手工ヲ教フルニハ細工二着手セシムルニ先立ッテ其ノ工具ノ用法細工ノ方法等ヲ生徒一般二丁寧 二授クトイエドモ,兜角細二着手スルトキハ其授ケタル通リニ業ヲ撮ラザルヲ常トナスガ故二,

更二工場ヲ隈ナク巡回シ各生徒二付一々教授スルコトハ必要ナルカ故二若シ生徒ノ数之レヨリ多

(9)

キトキハ教師ノ監督不充分ニシテ為メニ工場ノ規律モ乱レ,又教授モ不親切勝ニテ好結果ヲ得難 カルベシ

生徒の人数が多ければ,教師の指導の目がとどかず,教育が保障されないことを上原は知ってい たのである。こうした認識は初期の手工指導者にはみられた。1889(明治22)年,大日本教育会は 師範学校小学校手工科取調委員会が設けられた。委員長は手島精一,委員は鳥山譲,岡村増太郎,

加藤清問,上原六四郎,野尻精一,松本貢,後藤牧太,宮川盛,千本福隆であった。この委員会は 高等師範学校の単級教場の生徒に手工科を実施し3ケ年間の実験したあとで適当な方法を提出しよ

うとしたが,費用の都合上果すことができず,結局各府県の実施状況を調査し,それに若干の意見 をつけた報告書を1893(明治26)年10月に会長あてに提出した。37)

学級規模について報告書は師範学校編では教師1人につき「其多キハ三十人迄ハ教授シ得ラルル ト云ヒ 少ナキハニ十人前後二限ルト云ヘド 平均スルニ 十五人ヨリニ十人迄ヲ以テ適度トナス モノ多キガ如シ 但シ右ハ木工科教授ノ場合ト知ルベシ」とのべている。小学校編では「木工科ハ 一人ニテニ十人内外ヲ度トシ竹細工紙細工等ハ三十人内外ヲ度スルノ説多数ナルガ如シ」と記述し

ている。

この報告書の木工科の学級規模は20人までというのは,サロモンの主張と一致しており,その影 響があったのは確実である。また,この報告書は金工についても木工と同じ学級規模がよいとして いる。この委員会のなかで手工についての論文や著書を残しているのは,手島精一,上原六四郎,

後藤牧太の3人である。そのなかで学級規模についてふれているのは,上原のみであり,彼以外は 学級規模についての重要性の認識が薄かった。

上原は実習室の広さについてはスリウィーの説を紹介し,面積は木工科では12人1組につき幅5 m2cm,長さ6mとしている。また,フランスのトレンは生徒1人に3平方米がよいということを 書いている。このように上原は実習室についてはサロモンの説ではなく,フランス系の説を紹介し ている。サロモンは実習室の面積につき20人1組で縦23ft(7mlcm),横50ft(15m24cm)が適 正規模であるとしていた。部屋の面積は106.8平方米で生徒1名につき5.34平方米であるから,これ では日本では広すぎると考えて,フランス系の説を採用し,講義したのであろう。

ま  と  め

この研究ではオット・サロモンの手工教育観とその成立期においてどのような手工観があったか を分析した。サロモンは技術教育を木工のみにしぼって普及させることに成功したが,日本で最初 に普及させることに貢献したのは,上原六四郎であった。

上原はほかのサロモンの紹介者と比較すると,自らの独自の発想を加えながら,手工授業法を再 構成している。この点ではどの紹介者よりも独創的であった。彼がオリジナリティを発揮できたの は,1883(明治16)年に文部属と東京職工学校を兼務し,同校の職工であった矢部善蔵について木 工の実技を練習し,手工が普通教育に有益であるということに自信をもっていたこと,さらに,フ ランス語を媒介として多様な見方ができたということであった。なお,今後は上原以外の紹介者を 研究する予定である。

(10)

1)松崎巌「教育的スロイドの成立と発展について」『青山学院女子短期大学紀要』18,1964,pp.1−23.

2)小林澄兄『労作教育思想史』 (丸善,1934)pp.254−264.

3) Charles A. Benett, H醜07y{ガMαπ即1αη41π4配∫〃如 E4ωc躍 oπ1870∫01917(Peoria:C. A. Benett

Co.,1937), pp.56−59.

4)松崎巌「Uno Cygnaeusとフィンランドの初等教育の成立過程」『青山学院女子短期大学紀要』24,1970,

pp.93−107.

5)Ibid.,P.64.

6)松崎(1),前掲,pp.4−5.

7) Naas 1872−1942, d.2,(G6tebog:Aktilbolaget,1942), s.62−218.

8)大日本工業学会『手島精一先生遺稿』(1935),pp.22−23.

9)永島利明「義務教育創設期における手工および農業教員」 『茨城大学教育学部紀要』25,1975,p.202.

10)文部省総務局『技芸教育二係ル英国調査委員第二報告』十七,明治21年10月15日,1−88丁.

11)同上,61.

12)同上,17.

13)同上,22.

14)同上,28.

15)同上,26.

16)同上,37.

17)同上,33−34.

18)同上,41−42.

19)永島利明「技術教育と学級規模(2)」 『日本産業技術教育学会誌』18,1976,p.164.

20)文部省総務局,前掲,pp.17−18.

21)同上,44−45.

22)同上,25.

23)同上,33.

24)同上,58.

25)同上,69.

26) Benett, op. cit. pp.53−54.

27)Otto Salomon,τ加η1εory oゾE伽cα∫ oηα 510y4(London George Philips&Son Limited,刊年不明).

28)Ibid.,P.10.

29)互bid.,P.118.

30)  Ibid.,pp.80−114.

31) Otto Salomon,τ肋7セαc舵r5 Hαη4わooκ∫oゾ510y4(Boston Silver Burdett and Co.,1904), p.18.

32)永島利明,19),前掲.

33)文部省総務局,前掲,p.45.

34)永島利明,9),前掲.

35)小池民次筆記「手工講習会講師上原六四郎講述 手工授業法(承前)『千葉教育会雑誌』109号,明治20年 9月,1−23,教育時論や教育報知にも同種のものがのせられている。

36)原正敏「初等教育における技術教育の萌芽と挫折」『日本科学技術史大系9,教育2』(第一法規1965),

P.71.

37) 「師範学校小学校手工科取調報告書」 『大日本教育会雑誌』137,明治26年,pp.1643−1661.

参照

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