古代中国人の宇宙観 : その無限性の認識について
その他のタイトル On the nature of the Chinese cosmologies in antiquity
著者 橋本 敬造
雑誌名 関西大学社会学部紀要
巻 12
号 1
ページ 171‑182
発行年 1980‑12‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/00022878
古 代 中 国 人 の 宇 宙 観
—その無限性の認識について一一
橋 本 敬 造
1. 古代中国の三つの宇宙説 2. 渾天説の起原と展開
3. 宇宙のサイズを測る試みと一寸千里の説 4. 宇宙の無限性の認識
5. 宜夜説における無限大の思想 6. 蓋天論者と無限宇宙
この小論においては,中国古代における宇宙論を検討して,主としてそこに見られる無限性の 思想について論じてみたい。中国世界における無限宇宙説氏とりわけ西方の文明における宇宙 観と比較してみるとき,きわめてユニークなものといわねばならない。
1. 古 代 中 国 の 三 つ の 宇 宙 説
『晋書』 「天文志」天体には,後漢の人,察菖 (133ー192)が鑑帝に上書した文章を引用して.
古くから天の形体を論じるものには三つの学派があったと書かれている。すなわち.蓋天説,渾 天説,宜夜説の三体系がそれである。その後.虞喜が宜夜説を発展させて論じた安天論,またそ の一族の聾が立てた弯天論,および挑信が説いた訴天論が生じた。しかし,後漠時代に出そろっ ていた三つの宇宙説が中国の宇宙論の本質を尽しているといえよう。
これら三大体系のうち,最古の蓋天説を除いた二つの体系の起源については必ずしも明確な解 答が与えられていないが,文献から考えて,この後漢時代から数世紀ばかり遡れることは確実で ある。
中国の最古の宇宙構造説は.いわゆる蓋天説である。この説が論じられている『周欝算経』か ら周膊説ともよぱれており,周代ないしそれ以前の時代から存在していたとされている。この蓋 天説の原初的なものが第一次蓋天説である。これほ, 「天円地方」 (天はまる<,大地は四角で ある)という天地の構造説である。それが進化して,第二次蓋天説が生まれたが,この過程に影 轡を与えたのが渾天説であったとされている"。 この渾天脱は,後で説朋するように.いわば球 面宇宙説であって,中国天文学の理論的発達に重要な天球の概念を確立させるものであった。
1) 第1次蓋天説および第2次蓋天説という蓋天脱の発達段隕に対する命名のしかたについては,鮨田忠 亮『周静算経の研究』,京都, 1933,参照。
瓢大学『社会学部紀要』第立巻第1号
『周牌算経』上巻には第一次蓋天説と,その観測上の基礎を提供した表(ノーモソ,周欝説で は普通,僻という)の使用法と理論上で重要な勾股法についての説明がなされている。この蓋天 説も次第に発達して,とくに太陽の見かけ上の運行と二十四節気などの時法との対応がつけられ るような精巧なものになっていった。この上巻に混入した「七衡図」およびその説明は,呂不章 の手になった『呂氏春秋』 (前 3世紀)の夏至や冬至のときの太陽の運行の道すじの記述と類似 しており, 『周膊算経』のこの部分の内容は戦国末以後に完成したものとされているのである 。 それでは,天も大地も球面状をしており,しかも平行的だとする第二次蓋天説が最終的に完成 したのはいつかという問題については,必ずしも明確な解答が与えられていないのである。ただ,
前漠時代末の揚雄(前53ー後18)の「蓋天を難ずるの八事」が『隋書』 「天文志」に収められて おり,本来は蓋天説を信じていたかれがその説の不都合なことを論じているのである。それに先 だち,揚雄と渾天家であった桓諏の論争が『晋書』 「天文志」および『太平御覧』に収められて いる。その論争によれば,揚雄が主張していたのは第1次蓋天説であったと断定できる。これ が一つの決め手になる。すなわち前漢時代の末葉,とくに紀元前1世紀の末がその下限であろう
という推察がなされているのである°。 この間の事情についての議論は 『法言』に収められて いて,その著者である揚雄がはじめは蓋天説を奉じていたのに,桓諏(前四一後50)との論争を 通じて渾天家に転じていったことが明らかにされている。
蓋天説については, 『周欝算経』上・下巻の本文,およびそれに付せられた注釈によって,必 要に応じて触れ,さらに蓋天説が変形した説についても紹介することにして,以下,主として中 国古代の第 2の宇宙構造論である渾天説と,古代文明史を比較するとき古代に生まれた宇宙説と しては,きわめてユニークであった無限性を説く第 3 の宇宙論—―—宜夜説について,それらの説 の起原,および構造的側面にかんして,いくらか論じてみることにする。
2. 渾天説の起原と発達
戦国時代の憐到(紀元前 4世紀)の言葉に, 「天の形体は弾丸のようにまる<.その形勢はよ りかかるように傾斜している」 (「天体如弾丸,其勢斜僑」 (『慎子』))とあるのが渾天思想にか かわる文献としては, もっとも古いところに帰属させることができるものである。明らかに,天 は球状をしているという主張とともに.天の回転軸は傾いているのだという中緯度地帯における 諷察を反映したものになっている。
天はまるいという認識ほ, 「天ほ円にして,地は方なり」 (「天円地方」)とした孔子の弟子の 曽参(前505年生まれ)の発言などに見られるが,これは天が平面状をしていて, しかもまるい とする蓋天脱(しかも第1次の蓋天説)を脱いたものに他ならない。また,九重の天蓋の考え方 を,楚の国の屈原(前343‑290)は『天間』という賦に詠み込んだが,同時に,天を支える八柱
2) たとえば,能田忠充訓掲書, 40ー65頁。
S) 同「漠代論天致J, 『東方学報』京都第4冊, 1984,所収論文。
古代中国人の宇宙饒(橋本)
の一つである不周山に伝説上の人物である共エが接触し,そのおかげで天が傾いたのだと詠んで いる。 (『淮南子』『天文訓」にもこの記事がある)後者の傾斜した天という考え方は,やはり蓋 天説の一つの変形と見ることができ,その体系の枠を超えるものではない。
他方, 『荘子』外篇の「天運篇」には,天の回転についての言及がある。 「天空は刻々に動い ているようであり,大地はじっと静止しているかのようである。太隕が東に昇れば月は西に沈み,
月が昇れば太陽は没して, 日月はあたかも場所の取りあいをしているかのようである。いったい 何ものがこの天地日月の運行を主宰し,それに秩序づけをしているのであろうか。何ものが己れ は安楽のところにいてこの運行を推し進めているのであろうか。なにか大きなからくり仕掛があ って止むを得ず動いているのであろうか。それともおのずから動き出して自分の力では止まるこ とができないのであろうか」(「天其運乎。地其処乎。日月其争2於所1乎。執主2張是1。執維2綱是lo
執犀無明。推而行』是。意者其有2機鍼1而不レ得v已邪。意者其運転而不堆能2自止1邪」)4)。 この天 の回転運動について記述のなかには,渾天説な考え方が隠されていると見るべきであろう。
大地の形体については,蓋天説の「地は方(しかく)である」という認識の他は,戦国時代に は明確な概念の規定はないが,紀元前4世紀の名家,恵施(前370年頃から310年頃の人物)は,
「天は地とともに卑し」(『荘子』雑篇「天下篇」所収)と述べている。 『荀子』 「不荀篇」には,
同じ主旨の命題があり,そこでは「山と淵は平かにして,天と地とは比す」とされている。この 句は,天と地とが並行的になっていて,天が周辺に向ってだんだんと低くなって行くにつれて,
地もまた低くなって行くと解釈することができよう。これだけなら,第二次蓋天説とは区別でき ず,第二次蓋天説の発生の上限を示唆するとも考えられよう。この文章で重要なのは, しかしな がら,地が天と並行的であるとされている点である。
恵施の言葉として,次のような議論が『荘子』の同じ篇に収録されている。 「我,天下の中央 を知る。燕の北,越の南,是なり」。 すなわち,燕の北にあたる天下の中央は北極であり,越の 南にあたるそれは南極であるというように理解できなくはない。こうした抽象概念としての天下 の中央の思想は,後代にほ, 「北極の下,天地の中となす」 (『晋書』 「天文志」)というような,
天文学的な北極の概念が明確になった文脈のなかでも現れる。さらに,同所にほ, 「南方は窮ま り無くして窮まり有り」とあって, この二つの文章を組みあわせて,大地は球形であると,戦国 時代の哲学者が考えたのだという主張も許されるのである丸
大地が球形であるという考え方が渾天説の要を形成するという前提にたてぱ, 『荘子』 「天下 篇」に収められたこれらの文章の意味を紀元前 4世紀の中国には「地球」という概念が存在して おり,それが中国の宇宙論の展開にとってきわめて重大なものであったと解釈することができよ う。しかし,恵施の大地についての論ほ,地理学的に見て当時の中国人の活動の範囲を超えると
4) この訳については,福永光司訳 11'$子』外篇,中国古典選,朝日新閥社, 1966;町2一Z78頁参照。
5) 鄭文光「中国古代的宇宙無限理論和現代宇宙学」,『科技史文集』第1輯,上海, 1978; 44‑58, およ び同, 『中国天文学源流』,北京, 1979,第7章「宇宙結栂体系」参照。
関西大学『社会学部紀要』第1吠§第1f}
ころから出ているとは言えないとすれば,思弁的なものにすぎず,あるいは渾天説発'I=.の前提と することはできなくなってこよう。
しかしながら,大地が球形であるという概念が揮天説の基本思想であるかどうかの問題とは別 に,最初にあげた慎到の言葉に見える明確な天球概念は,それを前提にして始めて,遅くとも前 漢時代の武帝の頃までに登場してくる,観測器械としての渾儀=渾天儀の組み立てが可能であっ たという点から重要な意味をもってくるのである。すなわち,渾天説の成立の問題は,観測器械 である渾儀との結びつきを無視できないのである代
漠の王朝では,はじめ秦の始皇帝が採用した四分暦の一つである顧項暦を踏襲していた 。 し かし,この王朝が安定してくると,王朝が改まるごとに暦法を改めるぺきだとする「受命改制」
の思想の確立をうけて,太初の改暦が実行された。紀元前104年のこの改暦に参加した天文学者 のなかで,落下聞と鮮子妄人の二人は,渾儀すなわち渾天儀を制作し,この改暦に不可欠であっ た天体観測を実施した。
揚雄の『法言』 「重黎」には, 「或ひと渾天を問う。日<,落下閲これを営み,鮮子妄人これ を度り,歌中丞これを象どる」と書かれている。ここにいう渾天とは,いうまでもなくアーミラ リー・スフェア(渾天儀)のことである。前2世紀の終り頃までに登場した観測器械の形体をモ デルにして,宜帝の時代(前73‑49)の大司農中丞であった耽寿昌が球面上に星座をちりばめた 渾象,つまり天球儀を作ったのである。
他方,恒星の位置については,歌寿昌が活躍した頃,前漢時代の前70年を前後とする数10年間 に,戦国時代からの伝統を受け継ぐ『石氏星経』という星表を中心にして,掃天的な観測が実行 されたという事実がある8)。 これが天球儀が製作されるための前提となったことは想像に難くな ぃ。後漢時代の張衡(後78‑139)が製作した青銅製の揮天儀に先だっ200年前に,その祖型が存 在していたことは文献が明らかにするところであり,さらに,それよりも早い戦国時代にはすで に渾儀に類する観測儀が存在していたであろうという推論も最近なされている9)。
さて,さきに述べた揚雄の「蓋天を難ずるの八事」は『隋書』 「天文志」に収められているが,
それと『晋書』 「天文志」に見えるかれの論点とを整理してみると,天文観測という観点から蓋 天説の難点を論じたものとすることができる。しかしながら,天の形体が蓋天説の説く通りだと した湯合に生じる不都合性にも触れられているから,前漠末には蓋天説にたいする有力な宇宙説 6) 渾天説の起原を戦国時代に求める試みについては,陳久金「渾天説的発展歴史新探」,『科技史文集』
第1輯,上海, 1978;59ー74,および鄭文光「試論渾天説」,『科学通報』 1976‑6(『中国天文学史文集L 北京, 1978;118ー142に再録)を参照。
7) たとえば,陳久金・陳美東「臨祈出士漢初古歴初探J, 『文物』 1974ー3(総214号), 59ー68,および 同「従元光暦譜及馬王堆吊書『五星占』的出土再探顔頚暦問題」, 『天文学史文集』,北京, 1978;48‑
65参照。
8) 藪内清『中国の天文暦法』東京, 1969,46ー75,あるいは, Y.Maeyama, " The Oldest Star Catalogue of China, Shih Shen's Hsing Ching ", TIPIX MAT A, Wiesbaden, 1977 ; 211‑245, 参照。
9) この I先秦渾儀」の存在の問題については,徐振鞘「徐吊害『五星占』看 II先秦渾儀 的創制」,『考 古』 1976ー2;89ー94参照。
古代中国人の宇宙諷(橋本)
として,渾天思想が定沿していたことを物語っていると解釈できるのである10)。後漠時代の張衡 の頃になっても,日常的な経験をもとにして断固として渾天説を排斥した王充(後切一, 80余歳 で死亡した)のような蓋天家がいた。この人物の経験的な知識とは,後述するように光のとどく 範囲が有限であるというものであった。勿論,蓋天説の基礎には,この光のとどく範囲の有限性 (167,000里,これは人問の観測の限界でもあった)という前提があったことはいうまでもない。
南北朝時代の梁の武帝 (464‑549)は,自ら長春殿に学者たちを集めて天の形体を測らせ,天 と地について論じさせたが11>,その場合,周碑に従って,渾天を排したと『隋書』 「天文志」に 記されている。すなわち,蓋天説は南北朝を通して生きていたことがわかるのであるが,この梁 朝には,信都芳 (5世紀の人物)や雀霊恩 (6世紀)のように,蓋天説と渾天説とを調和させて,
合ーさせようとする試みもなされた。雀霊恩の試みについては, 『梁書』のかれの伝に書かれて いる。すなわち, 「是れに先だち,儒者の天を論ずるほ,互に渾・蓋の二義を執り,蓋を論ずる ものは渾に合せず,渾を論ずるものほ蓋に合さず。霊恩は義を立て,渾・蓋を以ってーと為せり」
と。明末の万暦年間になって導入されたヨーロッパの宇宙論に刺激されて,周碑の説は西法の説 よりも古く,西法は周碑説から出たのだという主張も見られたが,清代初期の梅文鼎は,その著
『暦学疑問補』において「蓋天は即ち渾天なり」と述ぺた。続いて梅文鼎は,蓋天も渾天も元来,
区別のないものであるが,ただ精粗難易があるだけで二法無きものであると主張しているのは注 目に値しよう。
3. 宇 宙 の サ イ ズ を 測 る 試 み と 一 寸 千 里 の 説
ここで古代および中世の中国で行なわれた宇宙の大きさを測る努力について筒単に紹介してお
ゞ.~
..... ? 0
蓋天説においては,地中または土中とよばれた周代の王城の地,陽城で高さ 8尺 の ノ ー モ ン
(「表」という,『周碑算経』では「碑」という)を立てて,夏至のときの日中の太陽の影 (「日 暑」)として長さ1丈6寸という値を, また冬至のときには1丈3尺5寸という値を得ている。
これは,単純に計算すると,北緯35°.33,黄道傾斜角24°.02という結果を与える12)0
ところで『周牌算経』によれば,いわゆる地中より1,000里(周の1里は約 405m)南 の 地 点 では,冬至の日中のときの影の長さが1尺5寸(この値は『周礼』大司徒に与えられた値でもあ る)になり,また, 1,000里北の地点では, 1尺7寸という結果が与えられている。 こうして,
1寸の暑影の長さの差に対して, 地上の地理学的な南北の実際距離である1,000里が対応すると いう結論になっている。この一寸千里という率は,地上の距離だけではなくて,天空上の距離に 対しても適用された。この率が古代の中国人が天と地のサイズを測定する際の基本定数になった のである。
10) 注 (3)所載論文参照。
11) 山田慶児「梁武の蓋天説」,『東方学報』京都48, 1975, 99ー134,を見よ。
12) 能田忠亮『周開算経の研究』, 26ー28頁参照。
175‑
関西埓『社全学部紀要』第立巻第1号
たとえば,天空の高さは8万里であるという『周牌算経』の決定値などもこの率によって決め られたのである。この率は,渾天説が成立した後になっても用いられ続けた,いわば宇宙定数で あった。そして,この数値にたいする疑問ほ,南北朝時代の 5世紀中葉になるまでは明確な形で は提出されなかった。
南朝の劉宋の元嘉19年 (442),夏至の日の正午のノーモ ノの影の長さについて,いまのヴェト ナムの地にある林邑(漢の日南郡象林県)と交州(^ノイ)においては,いずれも影が南に倒れ,
長さは,それぞれ9寸1分, 3寸2分という結果が得られた。一方,陽城においては, ノーモン の影はもちろん北へ倒れ,長さは1尺5寸であった。陽城と交州について,影の長さの差違は 1.82尺なのに対して,南北の地理学的な距離の測定結果は, 1万1千里であった。このことから,
元嘉暦の制定者の何承天は,夏至における太陽の影の差1寸は600里にあたるはずだと考えた。
もう一つの観測は,梁代 (502‑557)になされた。金陵の地と洛陽の地において,同じく夏至の 正午のときに太陽がノーモンに投じる影の長さの測定がなされ,前者の地においては1.17尺,後 者の地においては1.58尺であった。両地の南北差は1,000里, それが影の長さの差の約4寸に対 応するという結果であった18)。
隋代の劉綽 (544‑610)は, 『周牌算経』において一寸千里となっているのは何らよるぺき根 拠がないとした(『隋書』「天文志」)。この『周牌算経』に注釈をほどこした唐代の李淳風 (602 ー670)は,「事実にあたって検証してみると,距離の南北差が500里に満たないのに, ノーモン の影の長さの差違が1寸になるということは明らかである。一寸千里という論は,正しくないこ
とはいうまでもない」(『周牌箕経』注)という結論に到達したのである。
ニーダム博士らの研究でよく知られている磨代の僧一行 (8世紀の数学者・天文学者)の子午 線観測はHl, こうした背景のもとに実施された。一行ほ蓋天説を否定し,渾天説の前提にたって,
この子午線観測を行なったことはいうまでもない。それによると,いまの値に換算すると, 1度 が 127.7kmにあたるという結果になる。正しい値からの差違は, 13.1km/degree, す な わ ち 11.8%である。かれよりも90年後の814年,アラビアでなされた実測によると, 111.815km/degree
となるが,この値は現在値の 110.55km/degreeに極めて接近してくる。しかし,一行の成果は,
それより 1世紀近くも早かったという事実は重I,ヽ。かれの事業は,劉綽や李淳風が楓測値にもと づいて推測していた仮脱に対して,長距離・大規模な測地事業によって得た事実によって,それ を実証するという作業であったという点も重要であろう。
一行は各地の北極の高度を測るために復矩という鏃器を用いた。河南省の地を中心にして,
北ほ,現在のウヲンバートルの西南にあたる北緯51度のカラコルム造跡の地点から,南は,北綽 17度余りにあたる林邑の地点までの13個所の地点を選んで, 測地線観測がなされた。 それぞれ
13) この個所の出典は,四部叢刊初編子部所収の『周碑算経』に見える李淳風の注による。
14) A. Beer, Ho Ping‑Yil, Lu Gwei‑Djen, J. Needham, E. G. Pulleyblank & G. L. Thompson,、An Eighth‑Century Meridian Line ; I丑 直 呵sChain of Gnomons and the Prehistory of the Metric System', Vistas in A.strc加 加y,1961, 4, 3.
‑176‑
古代中国人の宇宙観(橋本)
の地点において,冬至と夏至の正午の太陽の影の長さと,天の北極の高度の測定がなされた。そ の結論が「三五一里八十歩。極差一廊」(「度」は中国度であり, 1度=;:0.986°, この率が前述の 123.7 km/degreeを与える)であった。
4. 宇宙の無限性の認識
後漢の張衡が比喩によって説明した宇宙モデルは,よく知られているように,渾天は鶏卵のよ うな形をしており.天の形体はまるくて弾丸のようであり,地は鶏卵のなかの卵黄のようであっ て,ぽつんと内部に弧立して存在している,というものである。そして,天は大きく,地は小さ ぃ。天の表面には水が覆っている。天が地を包んでいる様子は,あたかも卵殻が卵黄を包んでい るのと同じである(『晋書』 「天文志」天体参照)という。
地球を中心とする渾天説の天球概念を明確に把握した張衡は,フィジカルな天地の構造とメク フィジカルな宇宙の概念をはっきりと区別していた。かれの『霊憲』に見られるように,天地の 中心がそのまま宇宙の中心になるというようなものではない。天地と宇宙とは,同じものを指す とはいえない。張衡が説いた「宇宙」は,空間的に無限の拡がりをもったものなのである。 『婁 湛』には,こう書く。 「ここ(すなわち渾天の範囲内)を過ぎて行ったところは,まだよくわか らない。これが宇宙という意味である」(「過此而往者,未之或知也。未之或知者,宇宙之謂也」)。
すなわち. 「宇の表面は極まるところがなく.宙の端は行きつくところがない」(「宇之表無極.
宙之端無窮」)のである。
「宇」や「宙」の概念については,戦国時代から論じられていた。墨猶や戸佼には.こうした 概念への論及が見られる。すなわち. 『戸子』には. 「四方上下を宇といい.往古来今を宙とい
いよ
う」とあり, 『墨経』には, 「宇とは.弥いよ所を異にするなり」とあり,また「久とは.弥い
ぅIt
よ時を異にするなり」と書かれている。 『経説』の説明によれば, 「宇とは.東西南北を蒙る」
こと, 「久とは,古今旦莫を合する」ことだと述べられている。ここに久とは宙のことであり,
また莫は暮と同じである。この戦国期の二つの文献では.宇および宙が空間的および時閾的な拡 がりを指していることがわかるのである。
前漠末の揚雄にも宇宙についての同じような解釈がある。張衡よりも後の時代にまとめられた
『列子』 「天瑞篇」にも,時間が復帰しない無限の流れであるという考え方が見られる。これは,
『荘子』などを自由に引用した『列子』という典籍の立場から,理解に難くない記述だと思われ る。しかも,この立場は後述する宜夜説に近いものとされている11)0
ともかく,前漢末から後漠時代にかけての澤天家たちの主張には空閻的次元だけではなくて,
時閻的次元にわたる宇宙論を意識していたことが読みとれるわけであり.それらが天地構造論と しての渾天説を超える概念のもとに把握されていたという事実は,見のがしてはならない。
15) 鄭文光は,宜夜脱の起原と発達について, 『荘子』一_宋手学派一一榔萌一ー『列子』という系列を想 定している。注(5)にあげた『科技史文集』第1輯所掲論文参照。
‑117一
晒 埒 『 社 会 学 鑽8要』第E螂 1号
5. 宜 夜 説 に お け る 無 限 大 の 思 想
渾天家の宇宙論にたいして,宣夜説における無限宇宙論は,空間そのもののほかにそのなかに 存在する天体についても言及したものであった。後漠末の察菖は, 「宜夜の説は,絶えて師法な
し」と述ぺて,紀元後2世紀末におけるこの無限宇宙論のむしろ孤立的な状況を伝えている。
しかし,中国古代の第3の宇宙説としての部朋の論を収めた『晋書』および『隋書』の「天文 志」以外にも,宜夜説と同じ内容について記述した文献があり,またこの無限宇宙説の祖型は,
後漢よりもっと早くから存在していたとされている。 『荘子』内篇の「逍蓬瀞篇」には,『晋書』
竃こと
「天文志」に見える議論の立て方と同じ一節がある。すなわち, 「天の蒼蒼たるは,其の正の色 なるか。其の遠くして至極まる所なきがためか」というのがそれである。
われわれの住む地上の世界の蓬かなる高みにひるがる果しなき天空のあの深くたたえた蒼さ.
それは天空それ自体の色なのであろうか。それとも天と地の限りない距りがそれを蒼く見せるの であろうか。恐らく極めることのできない無限の距離が蒼く見せるのであろうI&>。この「逍蓬滸 篇」には続いて,大鵬が9万里の空の高みから逆に地上の世界を見下したとき,この世界もまた 蓬かなる蒼一色としてその眼下にひろがるだろうと書く。
『荘子』の各篇には,こうした議論が多く,荘周の思想をよく伝えているとされる外篇の「秋 水篇」にほ,この地上の世界の四方の果てを取りまく大海である四海全体をあわせてみたとして も,天地の広大さに比べると物の数ではなく,果しない宇宙空間のなかでは,大きな沢のなかに 織塚があるようなものではなかろうかと書く。さらに,人びとの住む中国という地域だって,四
ひえつぷ
海のなかに存在していることを考えてみると,まるで稗米が巨大な倉庫のなかに,ぼつんと落ち ているようなものであろうと続けている(原文は,「計a四海之在g天地之間1也,不v似a暴空之在g
大沢乎。比中国之在灌げ内h 不,,似濯ぼ米之在d大倉1乎」)。
「逍蓬瀞篇」には,殷の湯王と賢臣の棘との問答が収められているが,この二人の人物の問答 ほ,詈代になってまとめられた『列子』の「揚問篇」にも見られる。 (こちらでは,棘ではなく,
夏革となっているが,同一の人物である)。 この「湯問篇」では, 『荘子』以後の後漠の部煎な どの議論をふまえて,発達した形での宜夜説が論じられていると考えることができる。
まず. 『荘子』 「則陽篇」に見える魏の恵王と戴晋の人との間答に, 「君,意をもってするに,
四方上下にありて,寓まりありや。君日わく,窮まりなし」とあるのを受けて. 『列子』には宇 宙の無賑性にかんする次のような湯王と夏革の間答が見られる。
殷揚日。鐵則上下八方有慕息乎。革日。不知也。湯固問。革日。無則無皐,有則有尽。朕 何以知,,之。然無塩之外,復無 v無,,極。無,,尽之中,復無v無"極。無,,極復無 v無潅〖。無,,尽復無 偏 項 し 脈 以
, , : J i
知4其錮"極錮"尽也,而不 v知鵞其有』眉有ぃ尽也。16) この旗文については,掴永光司釈Ir&=子』内篇,新訂中國古典遍7,硼日新闘社 1966, 4頁を参照 した。
古代中国人の宇宙観(橋本)
原文は以上の通りであるが,意味は次のようになる17)0
—だとすれば,この世界の上下八方という空間のひろがりには,際限があるのであろうか。
_わかりません。湯王が無理に答えをせがむと.夏革はいった。一ー無いといえば果てしがな いことになり,あるといえば限りがあることになります。ないのか,あるのか,わたしには知り ようがありません。しかしながら,果てしがないというからには.その上にさらに果てしがない とはいえないはずであり,限りがないというからには,その中でさらに限りがないとはいえない はずです。つまり.果てしがなければ.その上にまた果てしがないということはありえず,限り がなければ.その上にまた限りがないということもありえないわけです。そこでわたしti,この 世界の上下八方という空間のひろがりには果てしがなく,限りがないということが分かり,果て
しがあり.限りがあるということは分らないのです。
以上は,戦国時代の『荘子』から東晋時代にまとめられた『列子』までの,主として宇宙空間 の無限性にかんする議論を見てみた。宜夜説的な無限宇宙論の発展に関係する学派に,同じく戦 国時代の宋手学派がある。宋研と手文を中心とするこの学派の思想は, 『管子』に収められてい る。この学派の議論には,宇宙論における物質と運動にかかわる記述が見られる。つまり,それ は気の一元論のうえにたって展開されたものであった。
『管子』 「内業篇」によれば, 「気が地下にもぐれば五殻に変化し,天上にのぼれば列星にな り,天地の間にただよえば鬼神と 1, 、 I, ヽ,胸中にたくわえられると(その人を)聖人という••••••」
とある。すなわち.あらゆる事物の物質的な根元として「気」が想定されているのである。これ に近い考え方は, 『淮南子』 「天文訓」や『霊憲』などにも見える。
他方, 『晋書』 「天文志」に書かれた宣夜説においては, 「日・月・衆星は,自ら然りて虚空 のなかに浮生し,その行くと,その止るとは.皆,気を須つ」とあって,天体の運動をおこすも のとして気の作用を想定したものである。
三国時代においてほ,やはり宜夜論者だったとされる楊泉は, 『物理論』のなかで,天空とい う空間を充たすものほ気である,と述べている。すなわち, 「いったい天というものは,おおも との気(「元気」)であり,まっしろい状態をしている。 (気の)ほかの物は全くないのである」
と書く。また,天の形状にかんしては, 「いったい地には形があるのに,天は形体がない。たと えれば(地は)灰のようなものである。姻はのぼって上にあb(しかも形がないが), 灰はおち て下にあ(り形があるのであ)る」と書く。さらに,星の物質的な基睫は気であるとして,次の ように述べる。
「星は,元気すなわちおおもとの気の英(ニッセンス)である。摸(=天のJII)は, 水 の 精
(スピリット)である。気が蒸発して上昇し,その精華が上に浮かび,ゆるやかに変化しながら 流れる。これを名ずけて天河という。別の名を漠(河)というのである。もろもろの星はそこか
ら発生して生じるのである」と。
17) この訳については,橿永光司訳『列子
. u .
『中国古典文学大系』今東京,を参照した。関西大学『社会学郁紀要』第12巻第1号
紀元後2 3世紀の宜夜説の内容は,大たい上記のようなものであった。天空を満たすものは 気であり,天体もまた気のニッセンスから形成される。しかも,この気は,地上の万物の根元に もなっているものである。すなわち,気の一元的な物質観がうかがえるのである。そしてまた,
この気の作用が天体の運動の原因にもなっているのだというのである。
『列子』 「天瑞篇」に見える杞憂の話_天地は崩壊するかーは,こうした世界観を前提に して展開したものと理解されている。この話の概略をあげておこう18)0
記の国に,天地が崩れおちて,身のおきどころがなくなりはしないかと心配して,寝食ができ なくなった男がいた。さらに,その男が心配していることを心配している男がいて,出かけてい って,次のようにかれを説得した。一~天ほ気が集積したものにすぎない。気はいたるところに 存在する。したがって,人間の日常の動作は, 1日じゅう天のなかでおこなっていることになる。
どうして天が崩れおちるなどと心配するのだ, と。
すると,その男はたずねた。天は気が集積したものだとすれば,太陽や月や星は,必らずおち てこないといえるだろうか,と。説得にいった男はこう答えた。一一太陽や月や尾も,気が集積 したもののなかで輝きをもつものにすぎない。たとえおちてきても,人間に危害などは加えない のだ,と。さらに大地がこわれたらどうするのかと,最初の男はたずねた。説得にいった男は,
次のようにいう。一ー大地は土のかたまりにすぎず,世界の四方の果てまで充ちふさいでいて,
至るところ土のかたまりである。人間の動作は,大地の上でおこなわれている。どうして大地が こわれるなどと心配するのか。こうして,杞憂する男は,気が晴れて,すっかり喜こび,説得し た男も,さばさばした気持になって,すっかり喜こんだという。
さて,後漢時代の黄憲 (75ー122)は,太陽や月が出没し, 運行する境界の外側に, 「太虚」
というものを想定した。この太虚という概念は,かれの著書『天文』のなかで論じられたが,そ れは天体が存在するところの外側に無限に拡がる空間である。宋代の李石は, この太虚が天であ るとしたのである(『続博物志』)。 これほ, 『列子』 「天瑞篇」に, 「天は集積した気にすぎな い(天穂気耳)」 と記されている考え方と矛盾しない。宜夜説は,天殻という概念を否定したも のであった。これは,ヨーロッパのアリストテレス的な宇宙観ときわだった対照をなす点であ る。
東晋時代の虞喜(中国における歳差の発見者とされている天文学者, 4世紀の人物)の安天論 には,こうした宜夜論的な宇宙観との連続性が見られる。 『晋書』 「天文志」は,以上に触れた 蓋天・渾天・宜夜の三説以後に展開した,安天・弯天•町天の三つの宇宙観を紹介しているが,
とくにこの安天論についてほ,こう述べている。安天論は,天と地の形は, 「方であれば, どちしか(
らも方であり,円であれば, どちらも円である」と書き,少なくとも「天円地方」という蓋天説 とは明らかに考え方が異なるものである。さらに天と地の両者の有形性を説く点では,宜夜説と は異なるが,両者とも有形だが無限だとしている点は,渾天説とはあいいれず,むしろ宣夜説に
18) 訳については,前掲害を参照。
古代帽人の宇宙観(橋本)
近い。虞喜の主張を要約すると,次のようになる。
天は, しっかりと上にあって恒常的に安定した形をしていて,地は,かたまりとなって下にあ る。天の高さは無究に究まる,すなわち無限である。他方,地の深さもまた不測に測る,すなわ ち無限に深いのである。こうして,天地ともに無限性をもつのだというのである。天体の運行に ついては,海の潮汐現象の喩えによって,それぞれに固有の秩序ある運動によって惹されるとし ている点が注意をひくのである。
6. 蓋 天 論 者 と 無 限 宇 宙
5世紀前半の祖胆(大明暦を作った祖沖之の子)は, 『天文録』のなかで蓋天論には,三つの 類型があるとした。
かさ
第1次蓋天説は,天は張った蓋のようであり,地は碁盤のようだという,いわゆる天円地方を
か さ
説くものであった。それに対して,第 2次蓋天説は, 「天ほ蓋笠を象どり,地はふせた槃を法と った」ようなものであるとされ,天と地は, しかも平行的に球面状をしているというものであっ た。蓋天論の範疇にはいるものとして,この他に前漢の『淮南子』に収められた不周山の説話に 見られるように,南が高く,北が低くなっていて,天は傾斜しているのだとする,第 3番目の類 型のものもあった。祖暇は,このように蓋天説とその変形したものとを整理したのである。
かれはこう分類した。一つは, 「天は車の蓋のように,八極の中央において動くもの」であり,
一つは, 「天の形は笠のようであり,中央が高くて四方の周辺が下っているもの」である。そし てもう一つは, 「天は傾いた車の蓋のように,南は高く,北は下っているもの」だと。
こうした蓋天論者のなかで特に注目すべき人物は,後漢時代の王充であった。また,後代では,
唐の柳宗元 (773ー819年)が王充の議論をさらに発展させたと考えられている19)。王充の主張は,
『晋書』「天文志」にも見えるが,かれの場合は,天を平面として把握したと考えてよいという解 釈がなされている(平天説)。 そして,天と地は,ひじょうに大きな平行的な平面だと考えたと 思われる。天と地が地平線で接しているかのように見えるのは錯覚であると,かれは言う。
王充の『論衡』 「説日篇」によれば,
(1) (ほんとうのところ,天は地中の部分にはなく,太陽も天にしたがって隠れることはない。)
天は平らかなのであり,地と異なるところはまったくない(「天平正与"地無』異」)。
(ii) ひとが遠くを誂めると,十里を越えないところで,天と地は合してしまう。 (そして光は,
10里しかとどかないではないかということを,このすぐあとで王充は,夜に遠くへ去る松明の比 喩で示す。) しかし,それは遠いからであって, (ほんとうは)合するのではない(「人望不 過g十里1癸,天地合突,遠,非4合也」)。
(Ill) いったい天の高いと低いとは,ひとが泰山を見るようなものである。 (天は)平らかでまっ すぐなのであって,四方や中央の高低は,すべて同ーな(水準にあるべき)ものなのである。い
19) たとえば鄭文光注(6)所掲論文参照。
関 西 店 『 社 絆 鑽 要 』 第 叫9第1号
ま天の四方の際を誂めると下ってゆくようであるが, '(ほんとうは)そうではない。遠いからな のである。ただいたずらに下っているだけでなく, (地と)合しているよう(に見えるの)であ る(「夫天之高下,猶8人之察2太山1也。乎正, 四方中央高下皆同。今望2天之四辺1若v下者,非也.
遠也。非徒下,若v合突」)20)。
王充の議論は,平面状の天がどこまで拡っているのかについての言及がない。この問題につい ては, 『論衡』の「談天篇」と「変動篇」を一緒にして考えなくてはならない。これらの篇では,
天と地の間を充たしているものは気であって,その気は無限だとしているのである。前者には,
「天と地は,気を含んでいるのが本来のすがたである」と書かれ,後者には, 「天が人を去るこ と,高く遠く.その気はひろびろと拡がって青あおとしていて,端末はない」と渥かれている。
すなわち,世界の物質的な基礎である気についての考察から,王充は無限の天=宇宙を考えた ことを示唆しているのである。
柳宗元の『天対』は戦国時代の楚の国の屈原の『楚辞』 『天問』にたいする答えという形を とっている。そこでの柳宗元の論点の一つは 「天には質がない」としたことである。この質と は,物質的なものを指すと考えてよかろう。さらに,天には中心とか周辺とかの区別はないとし た。ただし,天の形状については.それがどのようなものかという点についての論及がない。
また, 「東・西・南・北,その極みに方なし」と続けて,やはり天のディメンジョンの無限性 を強調した。さらに,太陽が出没する地点は,大地には(属すること)なく,地下に没すること はないのだ.と詠じている。この最後の論点は,王充の主張に近く,無限大的な乎天説を想定し ていたということに外ならないという敷術が可能である21)0
以上のように,無限の宇宙の考え方は,単に宜夜説だけに見られたのではなく,その影響のも とに,ないしは気という物質の根元の無限性の想定のものに,蓋天説から派生した平天説におい ても見られた。それとともに,張衡の『霊憲』にうかがえるように,渾天家の場合にも,気とい う物質的側面からの論及によって,球面をした渾天の外に.別の渾天が存在しているという複数 の世界の存在が否定されていなかったのである。
中国人が宇宙を論じるときは.古代・中世の西洋文明におけるように閉じた球殻を想定したの では決してなかった。この近代以前における中国人の開いた宇宙観ほ,かれらの自然観の中枢を なす重要な部分を形成していた。その柔軟性がとくに古代・中世における中国の自然学,とりわ け天文学の連続的発展に対する一つの思想的な背景を形成したことは想像に難くない。
20) この訳については,大滝一雄訳『論衡』, 『中国古典文学大系』 7,東京, 1965,を参照した。
21) 鄭 文 光 注(6)所掲論文参照。