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反復と自己 「小さな永遠」と死

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(1)

39 

反復と自己 「小さな永遠」と死

中 村 英 男

ヘンリー ジェイムズの『ある婦人の肖像画

J

(以下『肖像画』と略す) はある意味で主人公イザベルが持ち込んだ自己構築の欲望を巡る物語として読 むことが出来る。小説の冒頭、深く濃い歴史の漂う美しい庭で三人の男性がお 茶を楽しむ時間をジェイムズは「小さな永遠

J(PL 59)

と表現した。自らの 故国アメリカに欠けていると嘆いたものすべてによってできあがったカント リーハウスの、丁寧に芝の刈り込まれた庭で経験される時聞を表現するのに作 家がこの言葉を選んだのは単に英国の夏の日の長さを表すためではない。長い 歴史の堆積を包含したと恩われる空間に立つ恐らくはその家屋敷と同等の長い 歴史を体現していると恩われるイギリスの貴族ウオーパートン。そして彼と同 等かそれ以上の富を所有するアメリカ人の銀行家ダニエル・タチエツト。さら にその財産を受け継ぐはずの息子ラル

70

この三人が集ったその場面は貴族 ウオーパートンにおいては長い年月に渡って受け継がれてきたものとして、ラ ル7とダニエ

j

レに関してはその中産階級的模倣としてこれから受け継がれ反復 されるべきものとしてそこにあり、生の継承が予期されるものであるが故に、

それぞれ個々の人間の不可避な死を幾分かは乗り越える可能性を感じさせるも のとしてそこにおかれている。このような意味でこの冒頭に描かれた瞬間は

「小さな永遠j と呼ばれたのだと考えることが可能である。

小説の冒頭にこのような「小さな永遠」カ守菌かれたのは、まさに上に述べた

ような繰り返しによって可能となる生の連続の感覚を否認するような志向を持

ち込む存在を描くためである。

I

過去を置き去りにしたい

J(PL 86)

と願う

主人公イザベルの自分で自分を構築することを求める志向がこの氷遠の庭に侵

入し、そのことによって作り上げられる「他の何ものによっても表現できな

(2)

J(PL253)

自己がその特殊性の故に反復として存在することを拒むために ガーデンコートの庭に具現された「小さな永遠」の感覚は揺らぐ。他のものと 裁然と隔てられた個別の存在が生み出されることによって、個々でありながら 同時に終わることのない全体の一部だという感覚によってなだめられていた死 に対する不安が再びかき立てられるのである。

イザベルの言う「他の何ものによっても表現できない

J(PL253)

自分に対 してマール夫人の言う「家」や「着物」や「読んでいる本やっきあっている仲 間

J

によって表現される「自分」とは自分と同等の財を有した者逮の視線に拘 束される階級という共同体による自己規定である。それは貴族が生み出してき た伝統的な反復と一部断絶し一部結託することによって生み出された想像の共 同体に所属しているという感覚によって成立する中産階級的な自己であり、伝 統的な共同体から切り離された個人が都市において同等の財産を獲得した者同 士同じ文脈に埋め込まれることによって得られる安心感をその基礎においてい る。マール夫人のように不倫の子供を産むという逸脱的な行為を行えば、それ が暴露されればその共同体から追放される危険もあるが、実際に彼女がそうす るように表面を糊塗することにだけ成功すれば、その内部に留まり自分をその 一部と感じることの出来る全体のなかでやがて訪れる死の不安をなだめること が出来る。マール夫人の反復の感覚をおびやかすものは実の娘が表面上別の女 性の娘として認知されているということだ。彼女は自分の生の反復を共同体に おいて奪われている存在である。

イザベルの言う自分とは根本的に伝統や共同体が保証してきた意味の枠組み を突き崩す種類の独立したものなのである。階級も、国籍も拠り所にせず、そ のような所属の与える安心!惑を拒んで自己だけを切り離すような志向がそこに はある。彼女がウオーパートンという貴族からの求婚を拒むというこの小説の 重要なエピソードにはイザベルの個人化を求める志向のそのような意味が込め られているということを確認しておきたい。ウオ}パートンは求婚の際にイザ ベJ レの精神が恐ろしいと言い、イザベル自身も自分の精神を恐ろしいと感じて いると相手に告白する場面を小説は記録する

(PL163)

直接的にはむろんウオーパートンの恐れるイザベルの精神とは求婚に先立つ

(3)

反復と自己

41 

会話の中で彼が冗談めかして言った言葉とつながるものである。この貴族はイ ザベルは彼女の精神をこれ以上良くすることは出来ない、それはすでに十分立 派な道具であって、我々イギリスの貴族を「侮蔑」し、古いという理由でそれ を魅力的と感じるような精神だと言う

(PL134)

。ウオーパートンの言わんと するのは、イザベルの精神は貴族という形で受け継がれてきた歴史の連続を拒 んだアメリカ人の見方、貴族的な存在を否認する見方だというものだろう。

しかしイザベルという精神が表現するのはそのような彼女の友人のジャーナ リスト、ヘンリエッタの姿に戯画的に描かれている過去をいわば切り捨てた元 の植民地の旧宗主国の歴史に対しての批判ばかりではない。むしろ、イザベル の精神の本質は、ウオーパートンが具現する伝統という反復によってはなだめ ることができず、自らが選択によって作り上げていかねばならないというあり 方であり、既に述べたような共同体に死をもたらす個人化の傾向を持ったもの

と理解するべきである。

イザベルの精神とは共同体や社会に優先して、自分自身に関心を向けるよう な精神なのである。ウオーパートンの理解を超えて、ウオーパートンが代表す る伝統とその伝統によってきさえられている安心を突き崩すような危険がイザ ベ

J

レの精神には宿っている。作家がウオーパートンに繰り返しイザベルの精神 を「恐ろしい」と表現させたのはそれがこの作品を理解するのに重要な鍵であ るからだと考えられる。イザベルは彼女にとっての自分という存在をこうも表 現している。

私は自分自身に没頭してしまっているの。私が人生を見る見方は、医者に

出された処方書留を見るのに似すぎているわ。病院のベッドに横たわる患者

みたいに何故、いつもいつも物事が自分にとって「良い

J

ことなのか、そ

れとも「悪い」ことなのかなんて考え続けるのかしら。何故正しい事をし

ないことをこんなにも恐れてしまうのかしら。まるで自分のすることが良

いか悪いかが世界にとって大事なことであるかみたいに。(中略)自分自

身よりも世界のことを気にかけたいのだけれど、いつでも最後には自分の

(4)

ことを考えてしまうのよ。

(PL274)

小説の題名の「肖像」とはイザベル自身が描くものなのである。問題は、こ れほと重視されているイザベルにとっての「何によっても表現され得ない」自 分を描くという行為がこの小説の中で結果的には具現されないで終わるという 事である。イザベルはほぼ同時期に書かれた「デイジー・ミラー」で実行され た性的逸脱のまねごと(というのはそれが事実釦根だったことが示唆されて物 語が終わるからだが)すら行わない。彼女は従兄弟のラル

7やその友人ウオ}

パートンとともに夜が更けるまで会話をするということすら伯母によって禁止 されるままにやめてしまう。ましてやウオーパートンとの(オズモンドとの婚 姻後の)不倫行為など全く彼女の考慮の外にある。伝統的な女性のあり方から の独立の可能性として、多くの小説で繰り返し描かれる性的逸脱の可能性はほ とんど存在しない。この小説の中で最もその可能性に近づくのは恐らくキヤス ノす}との口づけに至る最後の求婚の場面だろうが、これもまた完全に受け身の 行為であって彼女自身の強い逸脱の欲望は存在していない。

イザペルがこの小説で発揮し得た独自性は結局知り合いから反対された結婚 をしたという程度のものに過ぎない。ただしこの結末の媛小さはもともと予告 されていたものであった。彼女はそもそものはじめから、最初にウオーパート ンに対して言っていたように自分自身が望む「他の何によっても表現されな い」自分を描くというその行為に対して恐れを感じていたのである。次の引用 は従兄弟のラル

7に対する彼女の告白である。

そう私は恐れているの。莫大な財産は自由を意味するわ。それが怖い

の。自由は素晴らしいもので、それを良く使わなくてはならないわ。もし

そうできなければ耳

G

いることになって

L

まれそれに考え続けなくてはな

らない。それは不断の努力だから、そのような力を持たない方が幸せなの

ではと思わないでもないのよ。伊

L274)

(5)

反復と自己

43 

自己以外の何ものによっても表現できない自分、という伝統的な共同体が規 定したあり方からの逸脱を求めながら、同時にイサーベルはその自由、すなわち 自分を構築する責任の過重な負担を恐れている。イサーベルは友人のへンリエツ タに対し自身の理想の幸福を「暗い夜に馬車にのってよく見えない夜道を四頭 立てにのって飛ばす

(PL219) J

ことだと説明していた。この言葉には

I

ボ ヴァリ一夫人j との関連から性的な逸脱を連想させる部分もあるが、我々の見 方に沿って言えば、 「馬車にのって、よく見えない夜道を進む」というのは、

イサ拘ベJ レが実際にやったこと、すなわち自ら馬を御するのでなく、自身に与え られた自由を他者に委ね、その他者によって決定されるにまかせること、即ち 自分で作り上げるのではない、他者から与えられる意味を受け入れること、と いう風に理解することが出来る。

I

これから自分がどこへ進んでいくのか

J

は 自分が決定していくものではない方が好ましいとイザベルは感じている。これ は以前からあった状態、自分で決定し選びとらなくても良い伝統的な共同体内 での割り振られたものとしての自己への帰還ということになる。イサ"ベ

J

レ自身 がイザベルの中に目覚めた欲望、自分で構築していかねばならない課題として の自分というあり方にとまどいを覚えていると考えれば、ウオーパートンカ可皮 女の精神を恐れていると言ったのに答えてイザベル自身が自分もそうだと言っ た言葉を小説がわざわざ記録した理由が理解できる。

元々存在したイザベルの自由と独立の可能性はラル

7を通じて与えられた莫

大な遺産によって彼女の手に負えないほどに増大する。自由の増大は自分を構

築する責任の増犬でもある。自分で決め自分で実現せねばならないものとして

の生が彼女の前に立ち現れる。オズモンドとのイザベルの結婚は彼女自身がそ

の増大した自由を処理しきれなくなった結果と考えることが出来る。自分自身

で「不断の努力

J

をするのでなく、オズモンドが約束しているように見えたあ

り方に自分を埋め込もうとするのである。オズモンドの魅力の根源にあるの

は、結局彼がイザベル自身が重荷と感じている不断の努力が消滅する地点を目

指している人物だという点である。オズモンドは「古いもの、神聖なもの、伝

えられたもの

J

を好み

(PL480)貴族的生活を尊ぶ。彼は事実上、個人が生ま

れ希求される以前の伝統の世界を反復 Lょうとしている。彼が「人生を一個の

(6)

芸術作品にせよ

J (PL358)

という忠告を与えた際に考えていた理想としての 生とは「形式の問題、意識的な計算された態度の問題」であり、結局彼の周り の人々に承認されたものなのである。

彼は古いもの、神聖なもの、伝承されたものが大好きであった。彼女もそ うであったが、彼女はそれを自分の好きなように扱おうと努めた。彼は伝 統に対し非常な敬意を示していて一度彼女に伝統を持つことはなんと言っ ても一番いいことなのだが、もし不幸にして持っていない場合には、すぐ さまこれをつくりはじめなければならないと言ったことがあった。彼が彼 女には伝統がないが、自分にはあると言っているのが、彼女には分かって いた。

(PL480)

まさにそのような承認された反復としての伝統を繰り返すことによって、つ まり新しい何かを生み出し自分を特殊な存在として際だたせて個人になるとい うことをやめることによって、オズモンドは確固とした生に到達すると信じて いる。彼は自身を「因習それ自体

J

と呼ぶ

(PL362)

が、反復は彼にとっての迫

り来る死の不安に対しての心理的な防衛の身振りなのである。

そのようなオズモンドの論理に従えばイサ"ベルが自分の精神を持っているこ

とを彼が問題視する(

PL481)

のは当然の事である。通例この問題はオズモンド

が彼の肥大化した自我故にイザベルやパンジーの人格を認めることが出来ない

という彼自身の一種の邪悪さの現れとして考えられているように思われる。つ

まり絶対の専制君主的な存在として女性を閉じこめるオズモンドのゆがんだ志

向と性格の問題として考えられがちなのだが、オズモンドをウォーパートンに

なり損ねた存在と見れば、彼がイザベルの精神を問題にするのはそれが繰り返

しではない何かを生み出そう.とする、彼の反復のもたらす平安と生の可能性を

脅かすものに他ならないからだと考えることが出来る。オズモンド的な反復が

目指すものを乱すものとは、まさにイザベル的な円可によっても表現されるこ

(7)

反復と自己

45 

とのない

j

、それ故に特別で、それ故に代替も反復も出来ない、それ故に

1

回 限りの、従って必然的に死にさらされることになる自己なのである。

オズモンドの実現する死が不在になった世界とは、イザベル的な個人性が排 除されることによって達成される。ウオーハートンを羨み教皇を羨む様を見て イザベルからいつも誰かに嫉妬していると言われた彼はこう答える。

私の嫉妬は危険なものではないのです。ネズミ一匹傷つけやしません。私 は人を破壊じたいのではない。私は彼らになりたいんです。おわかりで しょう、それはただ私自身を破壊するだけなんですよ。

(PL352) 

オズモンドにとって自分にしか表現できない自分などというものは無価値な ものに過ぎない。繰り返されないものは l回限りのものでありその意味で死を 含み全能感をおびやかす。イザベル的精神を彼が容認しないのは、ウオーパー トンがそれを恐れるのと同じ理由である。イザベルの個人を求める心が度の反 復する世界の安全を脅かすからである。オズモンドの視線の中ではイザベル的 個人は無意味の肥大であり、不安の原因の増大である。否、彼自身を含む個人 性がすべて彼の不安の源なのあでる。

オズモンドとは誰なのだろうか。というのはそれほどまでに個人を滅却して 伝統という反復の中に生きょうとするオズモンド的欲望はどのように生じたも のなのだろうか。その答えは彼が仕事を失った、あるいは仕事の世界から追放 されたアメリカ人だというものである。ヴィーダーによるアメリカの社会に存 在すると考えられる図式の指摘は有効である。ジェイムズが自らの文化の中に 見ていたであろう二項対立を批評家はこう表現する。

I

仕 事 男 存在」対

「快楽一女性不在」と

(Veeder85)

。仕事の中に自らを埋没させることに よって死の不安から逃れるアメリカ人男性。仕事をすることができると言うこ とが男になり、存在者になるということなのだ。

オズモンドの創造者ジェイムズはその意味でアメリカ社会における局外者で

(8)

あった。第ーに彼は芸術に憧れていた。ジェイムズにとってそれは危険なもの だったとヴイーダーは言う

(Ve

er184

185)

。アメリカ社会に染み込んだプ ロテスタンテイズムの倫理が閑暇の産物である芸術を憎んだというだけではな い。仕事をせずに芸術に手をそめた彼の血縁が次々と死を迎えたからである。

ジェイムズにとって仕事をしない者は死に向かっていく存在だった。

二つめは彼自身と同名の父親が働くことから二重の意味で疎外された存在で あったという事情がある。莫大な遺産によって暮らす作家の父は、働く必要の ない存在であると当時に、片足を失うという象徴的な去勢をうけてビジネスの 出来ない身体でもあった。息子である作家のジェイムズには自分と父とを重ね て考えるもう一つの理由があった。彼自身もまた、消火作業中に受けた背中の 傷によって身体的不適格者という父と同じ刻印を押されたからである。彼は仕 事の世界の局外者として自らを受けとめざるを得ない存在だった。

マイラ・ジェーレンはアメリカのロマンスの主人公達が、一見社会から離れ 遠く荒野に出て行くように見えても結局最後には社会のもとへ戻ってくる点を 取り上げてアメリカの中産階級の論理がはらむ問題を明らかにしようとする。

ナツテイ・パンポーやヘスター・プリン、そしてエイハブ船長、ハック・

7イ

ン、さらにイザベル アーチャーも最後には自らの個人的な世界を創造し損ね てしまうと言う(J

ehlen125)

。ジェーレンはその理由としてアメリカの中産階級 が別の可能性のない絶対の前提として存在してる点をあげる。貴族階級を否認 しそれにとって代わったヨーロッパの場合と異なり、アメリカの場合には最初 から中産階級的な価値観しかなかった。アメリカにおいては中産階級が所与 の、当然なものとして存在し、他の可能性は思い描くことができなかったと彼 女は説明する。

もしここで中産階級とジェーレンが言うものが、グッドウッドや、ニューマ

ン、さらには『大使達』のニューサム夫人達の姿を指しているのであれば、ア

メリカが「自由というよりも自由主義に基づいて構想されている

(Jehlen127)J

という彼女の言葉を受け入れることが出来る。この場合の中産階級とはヨー

ロッパ的な貴族の価値観に対して、自ら働くことを中心にすえ自由に働くこと

を阻害する様々な昔ながらの取り決めを廃棄していくことが望ましいとする価

(9)

反復と自己

47 

値観に基づく階級だと考えることが出来る。そして貴族の存在を持たないアメ リカが「アテネやルネッサンス期のロンドンのように統合された社会だ

(Jlen 29)J

と彼女が言うとき、それはビジネスという価値観がすべてであるよう な、それ以外の可能性が排除された世界という意味で、既に述べたヴイーダー の見方にも重なるアメリカ社会の理解の仕方だと言える。働くという行為をな さなければ存在となることが認められない世界、それが

19

世紀のアメリカで あった。

ジェイムズにとって想像上の他者はそのような仕事をする人たち、ビジネス マンたちだった。典型的なキャスパ一回グッドウッド、そして回心してヨー ロッパに渡る以前のクリスファー・ニューマン、アメリカに帰って行くチャ ド。ジェイムズにとり働く人々は自己を失う人々であった。仕事という世俗化 した宗教の中に死の不安を紛らわせる人ぴと。仕事の反復の中に自らを溶解さ せていく人ぴと。ジェイムズにとってヴェーパーの論理は逆転しうるもので あった。プロテスタンンテイズムが資本主義を生み出したのではない。アメリ カ的資本主義は宗教的経験の世俗的延長なのだ。祈る代わりに人びとは働くこ とで死の不安を慰撫しようとする。

アメリカという仕事の世界を一つの共同体と考えれば、オズモンドはその共 同体からの追放者あるいは逃避者であるジェイムズの精神を反映する存在と考 えることが出来る。仕事しか存在し在い世界で仕事を拒めばその世界の一部と 自分を感じる事は出来ない。ラル

7もまた働くことの出来ない作家の具現であ

る。彼もまた、仕事をしない

l

あるいは仕事を免除されたアメリカ人である。ラ

J

7は無論、病と父からの遺産によって仕事を免除されているのだが、それは

小説が自ら定めた規定に過ぎない。仕事をしないアメリカ人はすべて死に運命 づけられている。ラル

7が死に運命づけられているのは彼が仕事の共同体を脱

出したからと考えるべきである。それはジェイムス自身が感じた不安の表現で あった。

イザベル自身も幾分かはラル

7

でありオズモンドでもある。彼女もまた仕事

の共同体からの離脱者なのだ。求婚者キャスパーはその仕事の共同体の代表者

であり、イザベJ レを呼び戻そうとする仕事の共同体の持つ魅力の具現でもあ

(10)

る。キャスパーの最後の目づけが甘美なのはそれがイザベル自身がうとましく 思い始めていた自己成型への不断の努力を封印してくれるものだからである。

キャスパーの妻になれば彼女はもう自分らしさを追求する義務を最終的に免除 される。

仕事の共同体アメリカから離反するのはラル

7やオズモンドばかりではな

い。彼らに先行する初期の長編『アメリカ人』のニューマンもまた仕事に厭い たが放にヨーロッパを目指す人物として描かれている。ニューマンがフランス 人の貴族の娘を自らの妻に求めるのは、オズモンドがウオーバ一トンを娘の婿 にしようと画策することと同様、ヨーロッパの貴族的な伝統につながることに よって仕事の共同体に代わる生の意味づけを求めようとする行為である。

仕事に厭いたアメリカ人がヨーロッパの伝統により真正な意味を見出すとい う枠組みは基本的には後期の小説『大使達

J

においてもまだ残っている。主人 公ストレザーは自身の自己を他律的に成立する何かと見ていた。

r

型に流し込 まれるプディング(AM132)J に彼は意識をたとえる。だがそれは彼のリトルピ ラムへの「生きたまえ」というよびかけと組みあわせて理解されるべきだろ う。そのような他律的な自己の成立しかあり得なかった自分の人生の後悔が若 者への生きろという呼びかけにつながっていく。

r

僕のように自由の幻想すら 持たない人間になるな」というストレザーの言葉が示すのは他律的に成立した 自己を生の感覚の不在の原因と見なす視線である。ストレザーもまたニューマ ン同様アメリカにはあり得なかった個人性を、あるいは仕事以外の源からの自 己定義の可能性をヨーロッパに求めていると言えるだろう。

ストレザーが自分が生き損ねたと感じているのは彼が若い日にフランスの貴 族の女性と交際をするというチャドがこの小説において成しえた経験をしそこ ねたからである。ストレザーの願望はニューマンの願望と同じである。伝統の 具現としての貴族の女性と結ぼれることによって伝統の中に身をおき、そのこ と死の不安から逃れ出ることを願ったのだ。ストレザーはニューマンが失敗す ることをあらかじめしそこねた存在である。彼らはいずれも伝統につながるこ とによって自己を確実にすることができなかったのである。

『大使達

J

のストレザーは

19

世紀の終わりに至ってもアメリカに依然

(11)

反復と自己

49 

残っているウレットという仕事の共同体の周辺で生きることを余儀なくされて きた。彼自身は売れない文芸誌の編集者である。その彼カ丸、まや初老にさしか かったときに伝統にふれた生の充実(と彼に見えたもの)を見せつけられる。

『大使達』の終わりにストレザーがあこがれたチャドはヨーロツパ的な伝統を 見限って仕事の世界に戻ろうとするのだが、その際彼をアメリカで待つ仕事の 世界によって彼が抱く死の不安古苛日らげるかのように唐突に死の問題を持ち出 す 。 r 考えないではいられないでしょう。死の入ってくる瞬間の事を

(A340)J

と。ジェイムズがこの小説にホルハインの絵と同じ題をつけたのは、その絵の 表面に奇妙に浮かぶ骸骨を思わせる物体によって表現された死という隠された 主題を持つ絵の構造とと自らの小説の基本的な構造が類似しているということ があったためではないか。表面上は青年をアメリカに連れ戻して仕事をさせる という話だが、それは死の不安をどう扱うのかということとつながっているの である。ヨーロッパという伝統が慰撫できなかった死の不安をチャドは今や帰 国して仕事に没頭することによって解消しようとする。

重要なことは「肖像画』という小説が『大使途』同様、死もしくは死に対す る不安をその表面上のテーマの裳に隠し持っていると言うことである。ここで 言う死とは、個人が自分というものを強〈希求することによって共同体から逸 脱し、その結果反復が乱されて生じる自分自身の死である。だからこそ、ラル

7が最後の臨終の場面で死について言及するのであり、またイザベルが最後の

グッドウッドの求愛の場面で彼との関係を死ぬことの次に良いと感じたという ことが記録されるのである。自己を構築する欲望の物語は同時に死の不安への 抵抗の物語でもある。

ここでたどっている論理に加えて歴史的な側面も看過できない要素である。

ジェイムズの置かれたアメリカの当時の社会では、同時代のイギリスをも超え

るほどの社会的流動化が起こっていた。悪名高い「金ぴか時代」、南北戦争後

のアメリカはイギリスが

18

世紀末に経験したような意味での産業構造と社会

構造の転換点にたっており、大きな変動の時期を経てこの大国は農業中心の世

界から大規模な工業社会へと大きく変貌を遂げていこうとしていた。働くもの

が富をなし、ジェイムズの一家のように遺産で暮らす一種の疑似貴族的階層は

(12)

打撃をうけざるを得なかった。さらに都市化の進行と農村的共同体の弱体化。

8

世紀末から

19

世紀にかけてイギリスで起こったことがさらに壮大なス ケールでアメリカに起ころうとしていた。

ジェイムズのような保守的な想像力の持ち主にとって、具現化された不変の 象徴を持たないアメリカのような社会がさらに流動化して

U

くことで味わった 不安は大きまものであったろうと推測できる。階級というヨーロツパには存在 する一種の緩衝装置をもたず、南北戦争後に生じた混乱と発展によってイギリ

スに由来するわずかな階級の感覚すら奪われていきかねない状況に置かれてい た働かないアメリカ人ジェイムズにとって「イ一トンやアスコット」、そして

「蔦の絡まる僧院」や「国の固有の名前」といったホーソーン論で列挙したイ ギリス観光案内のような伝統ですら、自分が何者かを規定する助けになるもの と感じられたということだろう。アメリカでは働くことの出来ない男性はアイ デンテイティを達成したとは見なされなかった。すべての男性はキャスパー・

グッドウッドになることを求められたのだ。ことは彼の、そして貴族制のない アメリカにおいて働くことが第一義でない人びとのアイデンテイティと死の不 安の克服に関わることだった。

階級とは結局、都市というどこでもない場所に追い立てられてきた人々が共 同体を感じることの出来る想像上の場なのだと考えれば、階級意識が結局人種 意識に取って代わられざるを得ないアメリカの状況はジェイムズにとって満足 のいくものではなかったことがわかる。人種意識は黒人と白人とを分けてくれ るかもしれない均九ジェイムズが分断線を引きたいと願ったのは、そして決定 的に違う存在だと感じざるを得なかったのは「大使達

J

のジム・ポコックヤ

『肖像画jのグッドウッドら仕事をする人びとであった。

ヨーロツノての伝統は働かない人びとに 7イデン Tィティを与え、仕事で紛ら

わせない彼らの死の不安を慰撫する手段を与える。ジェイムズにとってヨー

ロッパに渡るということは我々が思う以上に切実な問題だったのである。注意

すべきは、ジェイムズが恐らく既に

1881

年の段階で、仕事と混乱に代わり

選び取った伝統と静謡の危険についてかなり意識していたのではないかという

点である。ヨーロッパの伝統は通常ジェイムズ作品の論理が描いていると考え

(13)

反復と自己

51 

られていうようにその蓄積によって危険なのではない、反復であるということ 自体がその理由なのである。その事にジェイムズはオズモンドを描いた時点で 気づいていたのではないか。

『肖像画j

の冒頭に描かれた「小さな永遠」の感覚を味わうことのできるカ ントリーハウスはアメリカ的な仕事の共同体によって死の不安を慰撫すること が出来なかった作家自身を含む者逮への残された可能性として描き込まれてい る。オズモンドがラルフのように死なないのは彼がイザベル的な個人化を容認 しないからである。彼は伝統の中に無批判に自己を埋没させ溶かし込む。ジェ イムズがヨーロッパに追い求めた、仕事に代わって生を与えるもの、あるいは 少なくとも死の不安を和らげるもの。その一つの解答、あるいは誤った解答が オズモンド的な形式の反復としての伝統である。

問題は単純な反復としての伝統に身を委ねることの危険である。オズモンド は壮鹿な形式の遵守を第一義と見ている。つまり彼自身の存在は形式において 消し去られるべきものなのだ。彼自身は消える。個性は消える。伝統において 彼のアイデンテイテイが再定義されて活性化するのでなく、外にあったものが 彼を消し去るのだ。

「伝統があるのは良いことだが、伝統を持たない場合持つようにつとめるべ

きだ」というオズモンドの言葉を聞いて、伝統を持たない人間とは自分の事を

言っているのだとイザベルは考えるが、その言葉は実はより痛烈にオズモンド

自身にあてはまっている。オズモシドこそ真の意味では歴史を持たない、それ

故に教皇やス

1

レヂン、そして誰よりもウォーハートンに憧れざるを得ない存在

である。伝統に憧れるが故に彼は「伝統を持たないが故に持つように努めねば

ならない」ことが痛切に感じられる。彼の持つ歴史古守主意的であってイザベル

に共有されないことで実際には夫婦という最小単位の共同体の構築とその反復

と連続すら不可能にしている。彼は彼の自己意識において反復するに過ぎな

い。彼は彼の外に人生の意味があると信じている。与えられるもの、既にあっ

て再び繰り返されるものが重要なのであって、彼自身がその意味の構築に積極

的に関わることはない。伝統に触れても彼自身の個性は生じない。彼のアイデ

ンテイテイはその伝統によって規定されるわけではない。伝統は彼の個性を消

(14)

すのである。オズモンドの行為は自己を失うことを目標にしていると言う点で 噌癖的である。あるいは自己のアイデンテイティの構築に関わらない反復は噌 癖なのだと言っても良い。

晴癖はアンソニー ギデンズによれば逆説的に近代的なあり方の兆候であ る。アルコール噌癖という形で

19

世紀の半ばにはその存在がはじめて知られ るようになるまで繰り返すことはさほど問題祝されることはなかった。伝統的 社会においても飲んだくれと呼びうる人聞がいてもそれは噌癖とはみなされな かった。伝統的社会においては皆から認められた行為を繰り返すことがある意 味で当たり前のことだったからである。ギデンズは言う。

日書癖という観念は伝統文化ではほとんど意味をなさなかった。なぜなら伝 統文化では昨日した事を今日も行うのが普通であったからである。伝統が 存在し特定の社会生活の様式が正しく当を得ていると是認されてきただけ でなく、長い間に渡って確立されてきたものを踏襲していた場合、そうし た行動様式を噌癖と称することはほとんと

e

出来なかったし、そうした行動 様式はその人自身について何も言明していなかった。人々はえり好みをす ることは出来なかったが、同時に自分たちの行為や習慣の中に自分自身を 見出す義務もなかったのである

(Giddens75) 

ある決断をし、ある選択をすることの中に自分自身を見いだすことを求めら れる世界。それが近代世界なのだとしたら、イザベ

J

レが自分を表現することに 感じていた重圧を理解できたことになるかもしれない。共同体の義務の圧力か ら解放された時、個人は自らの振る舞いに意味を見いだすことを要請される。

それまでは自由のない代わりに反復によって感じることの出来ていた人生の意 味が空虚に感じられるようになる。自分で自分の選択や決断やスタイルを意義 付けなければならない、それが近代世界なのである。

伝統的文化という繰り返すことが当たり前であったあり方から繰り返さない

(15)

反復と自己

53 

ことが求められる世界が生まれる。伝統という反復が強いられていた世界が終 わって自分の好きなよう選択できる世界が始まったとき、奇妙なことにあまり 時日をおかずして人々は反復を開始したのである。

19

世紀の半ばにはアル

コール噌癖の存在が問題祝されていた。ジェイムズ自身の雇っていた執事夫婦 もその一個の症例であった

(EdellooI04)

習慣、強迫、噌癖と段階が進むにつれ人は自らのあり方を制御できなくな る。オズモンドは近代世界において伝統という意味の枠組みから排除されてし まった個人が、仕事というものに没頭することによって死の不安を慰慌できな い時、何に頼ることで自己の生の不安を慰撫するのかということの実例であ る。暗癖者は人生の意味が共同体において与えられていた世界においては存在 しなかった。自らの人生の意味を自ら作り出さねばならない圧力のない世界に おいて人は噌癖に逃げ込む必要がなかったのである。

仕事の共同体からの追放者となったオズモンドが死の不安を癒し得るのは繰 り返しを行うことによってであった。伝統の一部となり連続する流れの一部に なることで彼は彼の生の意味を達成できると考えていた。しかし本当にそう だったのだろうか。

r肖像画

j においてオズモンドの見せる反復は社会的な問 題としては提示されていなし、。少なくともオズモンドはその生活に破綻を見せ ておらず、正気を保ったまま合法的やり方で娘パンジーを自らの支配下におく

ことに成功している。しかし彼の行動には後の小説においてはっきりと症例と 描かれるものの兆候が存在するのである。

彼の反復を噌癖と結びつけるのは彼の、表面上の自己否認の背後にある絶対

者として振る舞おうとする尊大さである。オズモンドの事をラ

J

レフが「小さ

い」人間だと見なし結婚に反対する場面で、イザベ

J

レがオズモンドを「大き

J

存在だと反論する場面がある

(P

L3

96397)

が、この評価の矛盾の中にオ

ズモンドの本質がある。彼は「大きい」と同時に「小さい

J

のである。彼は個

性としての自己を否認しながら、同時にその否認において絶対者となろうとし

ている。すべての反復からの逸脱の否認、従兄弟の死に目に会いたいとラル

7

のもとへ向かおうとするイザベルにそれを禁止し、彼女のわずかな自由すらも

奪う態度はオズモンドの実の娘パンジーに対する態度の中に予兆されている。

(16)

父の禁止がその生活をあまねく冒しその骨身にしみこんでいるために、パン ジーは

16

歳も過ぎた年齢になっても、自分の判断で父によって定められた想 像上の禁止の線を越えて家の外へ足を踏み出すことが出来ない

(PL368)

。こ とほどきように彼女はその父によって自由と独立を奪いきられている。オズモ ンドは自分の個性によってイザベルやパンジーを支配するのではない。彼は個 性を消し去って伝統に一体化することで絶対者の権力を手に入れているのであ る。死の床についた従兄弟ラル7のもとへ向かおうとするイザベルを留めるた めオズモンドは自分たちの結婚の神聖さを犯すものだと批判する。彼は「神聖 で貴重なもの、すなわち壮麗な形式の遵守

J (PL583)

の名の下にイザベルを 従わせようとする。彼自身はいないが、彼の信奉する伝統が彼の中で肥大し周 辺に完全な従属を強いる。

精神分析医の Lサルズマンによれば尊大さこそ、噌癖性障害の重要な特徴の 一つである(ザルズ7 ン2

04} r

肖像画』を書いた段階でジェイムズがオズ モンドの反復をどこまで実際の病理として捉えていたかは疑問だが、結果とし てオズモンドの尊大きが十分にこの病の兆候を示している点に注目したい。彼 は個人的なものを抑圧するという点において自己を滅却するが、その抑圧する という行為において専制的とも言える態度をイザベルに対してとっている。そ して病理としての尊大さとは現実をどう制御するかという強迫による心理的防 衛という問題なのである。尊大さの背後にはすべてを統御できる存在でありた いという強烈な欲求が存在する。オズモンドの強烈な支配の欲望には計算不能 の何か新しい要素を排除し、繰り返したいという起源があったと考えることが 出来る。

反復が決定的問題をはらんでいることを決定的に示すのは後期の作品「鳩の

J

に描かれた父と娘の関係である。中心人物の一人ケイトの父、ライオネ

ル・クロイは何か社会的に認められないことを行った結果、事実上社会から追

放の憂き目にあう。問題は彼が物語の最後に恐らくは彼を過去において社会的

な不適格者とした何かを繰り返してしまうという点である。彼は少なくとも娘

がそれを誇りに思うような家柄を受け継ぐ存在であったのに、実際にはその何

か忌まわしい行為により不適格者とされ、娘に寄生していくことしかできな

(17)

反復と自己

55 

い。しかも自分の行為が自分の家名に傷を負わせてしまうと知りながら、それ をやめることの出来ず物語の終わりに再びその何かを繰り返してしまう。ライ オネルを暗癖者、繰り返さないではいられない人間と見ればオズモンドの抱え ていた問題の深刻さが理解できるかも知れない。

その本質に病的な反復か存在するという点でこのご人の父親は通底する。オ ズモンドに比ベライオネルの反復ははっきりと社会の不適格者と彼に焔印を押 されるまでに進行している。その意味でケイトはさらに深刻な、イギリス版の 成熟したパンジーであり彼女もまたオズモンドによってパンジーがそうされる のとは違った意味においてではあるが、父親の力によって閉じこめられている 存在と読むことが出来る。ケイトはこういう。

私の取り柄はそれだけ、ちっぽけな狭苦しい家族的感情だけなのです。私 には小さな愚かな忠誠心があるの。それをなんと呼んだらいいのかわかり ませんが。

(WD59)

ケイトカザロイ家の傷つけられた家名に愛着を持ち、その名誉を何とか自分

の力で取り戻したいという気持ちを抱いていたのだということを読み手は告げ

られる。イギリスの階級文化を知る読み手はその感情を彼女のこの小説での行

動の十分な動機と見なし違和感を抱くことはない。しかし彼女は階級感情とい

うよりは父親との関係においての自己規定から逃れられていない存在なのでは

ないか。噌癖という視点から見る時、彼女を過去の特別な関係である親との関

係から逃れられず、その関係が自分に害を与え自分の未来を狭めている事を知

りながらそれと同種の関係を結ぶことを繰り返してしまう人びとの一人と見る

ことが出来る。ジェイムズははっきりと説明はしていないが、読み手はケイト

が結局父ライオネルの望むような金銭的に恵まれた結婚をしようと倫理的に問

題をはらんだ行為をする態度に、パンジ}がオズモンドの決めた想像上の禁止

の線を超えて外に出ることが出来なかったあのエピソードとを結びつけて考え

るべきである。実際上彼女が父の望んだ通りに動いているということを確認し

(18)

ておきたい。

ケイトを意味づけたもの、それは父の過去の恥ずべき行為だった。彼女はそ の事実と自分とを切り離して見ることが出来ない。父の「不名誉」が自分の一 部分だと認めた後、ケイトはデンシャーに「そのようなことが人の人生の大き いことでないなどということがありうるでしょうか

(WD57)J

とその可能性 を反語的に否認する。過去に起こったことによって自分の人生の意味が決定さ れる事を許しているという点でケイトが自らの過去と噌癖的な関係を取り結ん でいると見なすことができる。過去が彼女の生を意味づけるものとして吃立す る。彼女は過去に圧倒され支配されている。

このようなケイトの姿は一面魅力的であり説得力を持つものだが、噌癖とい う観点から見れば彼女と父親の関係は共依存者のそれに近いのではないかとい う疑問がわき起こる。ギデンズによれば共依存者とは「自らの中核を成すアイ デンテイティが未発達か、それをまだ自覚できていないで外的存在に対する依 存的愛着をもとに築き上げた間違ったアイデンティティを守っている人間」

(Qiddens, 139)

である。ケイトは父と切り離した自分の生を思い描くことが 出来ない。それ故に彼女はデンシャーとの父抜きの新しい歴史をはじめること が出来ない。

目をこらしてみればケイト自身の姿の中にも噌癖者の、共依存者の兆候を見 ることが出来る。死の不安に苦しんでいるミリーに対して嘘でしかないものを 次々と与えるケイトのあり方は父ライオネルの態度の中にケイト自身が見出し た、嘘を「ベとついたカードを切るように

J(WD23)

、っき続けた父親のあり 方の反復である。同じ事は彼女と恋人のデンシャーとの関係においても繰り返

されている。ケイト自身と父との関係が、ケイトとミリーの簡で、そしてケイ

トとデンシャーの聞でいわば強制的に反復されているのである。ケイトが父に

対して感じるようなこの人に何を話しでも無駄だという感覚をデンシヤ}が時

おり彼女に対し味わっていると読み手が感じたとしてもそれは誤った印象では

ない。それは作家によって計算された効果なのだと思われる。家庭内での被虐

待者が成長の後に加害者としてあるいは(今度は配偶者を対象にして)被害者

として自分の子供時代に経験した関係を繰り返すという事実が知られている。

(19)

反復と自己 57 

その意味でケイトもまた自らの加えられた精神的虐待を反復する存在と見るこ とが可能である。

ライオネルのケイトの生におよぽす影響は表面上はねつけられているように 見えるために、オズモンドや「ワシントン広場

J

のスローパー博士の娘の生へ の干渉とは質的に異なっているようにも見えるが、ライオネ

j

レの行為を噌癖と みなし、そして実質的にケイトがライオネルの要望に応えるかのように貧しい ジャーナリストとただ一緒になるのでなくて、 (他人・の遺産を公明正大とは言 えない手段で狙い)莫大な富を手に入れようとしていることを考えると、ケイ

トが父親の影響下に存在していること、つまりこの物語が女性の自由への父の 干渉という繰り返されるジェイムズ的物語の一変奏曲であることがわかる。ラ イオネルはほとんど{固人性を失ってケイトに、自由と独立と自己の生成とを脅 かす力として事実上君臨するのである。

オズモンド、マーチャー、ライオネル、そしてケイトこれらの登場人物遣は いずれもが自らが能動的に「だれによっても表現されることのない自分

J

を作 り上げようとする努力を放棄している。

r

密林の野獣

I

のマーチャーとオズモ ンドの態度の問題点については鮮明になっているが、ケイトの行為については ジェイムズの作品がケイトの意識を内側から描くことを小説の冒頭においてし か行っていないためにわかりにくくなっている。マーチャーやオズモンド、そ してライオネルの噌癖的態度とを結びあわせて考えれば、ケイトにとって人生 の意味は外から与えられるものとして存在している。自らがそれを作り上げる ことは期待されていない。

オズモンド的な戦略の問題点は生の意味を自ら構築するのではなく他者の積 み上げたものに依存し寄生するという態度にある。彼は外から与えられる意味 を待つという点で後に描かれるマーチャーと基本的には同じ態度をとるのであ る。主人公マーチヤーは自分の身に何かが起こることを信じている。いわば他 動的に自分の人生地ず外から意味づけられることを彼は信じているのだ。そのい わば一種の幻想に他者を招き入れることで彼は自分の抱く幻想の強化を図る。

知り合った女性メイに自分の抱く秘密をうちあけ二人でそれを「待つ

J

という

生活をはじめる

o

(20)

マーチャーの姿勢の本質は外から意味が与えられるのを待つという点に集約 される。自分で自分の人生を能動的に描きそれを具体化させていくのではな く、誰かあるいは何かがそれを自分に与えてくれる日を待つのである。近代世 界において本質的に奪われている所与としての意味を彼が待つ姿はベケットの 劇の登場人物達が呆てしもなく失われた神の痕跡としてのゴドーを待つ姿を先 取りしていると言えるかも知れない。伝統的共同体の世界においては適切だっ た態度が彼の生きる世界においてはそぐわないものであることが浮き彫りにさ れていく。

マーチャーとオズモジドとの共通点は彼らが自己の外にあるものを絶対視し ているという点である。絶対的な何かが外から彼らに与えられるのであって、

彼らは外に何かを与えない。生きることは彼ら自身が作るものでなければなら ない世界に生きていながら彼らはそれを拒絶する。オズモンドの希求した自由

l

の不在とは自分で決定しなくても良いという近代前の伝統的な社会のあり方な のである。オズモンドが垂直の方向に意味としての過去を反復しようとするの にたいして、マ}チャーの意味を求める方向は暖昧だが、それカ'

j.j

からである ことは変わりがない。

マ}チャーが夢想し求めたような状態とは、自分の「不断の努力」によらな いで人生の意味が与えられるような状態、自分自身で自分を描き出す必要に迫 られないありかたであった。結局物語の最後に至って彼は自分の人生には何も 起こらないという事実を思い知らされる瞬間を経験することになるのだが、そ のことを彼がホモセクシュアルで在るが故に女性と深い関わりを持つことが出 来なかった為に生じた不毛と見る見方があるが、ホモセクシュアリティ自体が 彼の人生の不毛の決定的要因ではないということをここで確認しておきたい。

それは彼が自らの欲望に気づいていないという問題でもない。問題はまさに彼 が待っていることにあるのである。

彼は自分という存在の現実を基礎にして能動的に自分の人生を描こうとしな

かった。最後の瞬間に現れ彼を押し倒す幻想的な「野獣」は彼の待ち受けた意

味を与える存在としてではなく、彼が実際にはわかろうとしなかったこと、彼

が遠ざけることによってその存在を待ち続けるという態度をとることができ

(21)

反復と自己

59 

た、不断の努力なしには本来的に無意味でしかない近代における生のあり方の 宣告である。マーチャーは自分を「他の何ものによっても表現できない」自分 にするものが、外から与えられると信じていた。

待つという行為は「鳩の翼

J

のケイトにも見られる。小説の冒頭彼女はろく でなしの父親が現れるのを待つ。彼女は父がともに生きょうというのを期待す る。この態度は私にはマーチャーが自分の人生に決定的な何かが起こるのを待 つ態度に酷似しているように思われる。他者があるいは運命が訪れて自分の人 生を決定してくれるのを待つ。誰かが意味を与えてくれる。何かが自分に起こ るという期待。しかし何も起こらない。ケイトも父が姿を現したとたんに自分 の希望の不毛さを感じる。彼女の父親への意味の依存はマーチャーの何かが自 分に起こることを待つ態度と根本的に同じものだと言える。

ラル

7とオズモンドとの差異はそこにある。つまり同じく仕事の共同体か

ら自らを追放した二人だが、一方は個人を求めるが故に望んで離脱したのであ り、なによりイザベルの自由を増大させるために自らに与えられるはずだった 遺産を譲渡するという筋立てが示すのはラル

7

がたとえ代理的にではあっても 個人となることを求めている存在であるということである。イザベルの自由の 増大を望むラル

7のあり方は世界を反復としてでなく、変化するものとして経

験しようとしている。女性の自由の増大に投資するラル

7とそれを抑圧するオ

ズモンド。彼らは同じ問題を巡って別の解決をしめすのである。

女性こそジェイムズにとって個性と自由の象徴なのだと言えるかも知れな

い 。

I

デイジー・ミラー」の観察者ウインタ}ボーンと『ワシントン広場』の

厳格な父スロ}パー博士はそれぞれオズモンド同様女性の自由を監視し、逸脱

しようとする女性からその自由を奪う存在だと考えることが出来る。オズモン

ドの理不尽とも言える強圧さに比べてスローパ一博士の娘の男性関係への介在

は、娘の相手タウンゼンドがいかにもいかがわしい人物であることからある意

味で当然の事にも見えるが、ここではその関係のあり方が共通しているという

点に注目したい。逆に言えばオズモンドはいかにも悪漠然としているが、彼の

本質は悪というよりもパンジーやイザベルの反乱によって引き起こされる生の

意味の消失に対する不安と考えることが可能である。ウインヂーボーンの視線

(22)

はより中産階級的な性的逸脱という点に注目しており、相手は自分の娘ではな いが、女性の自由に対しての不安は同質と言えるのではないか。女性が自由に 振る舞うことこそ伝統的な世界からの決定的な逸脱を引き起こす。

もしジェイムズが女性を個性と自由の象徴と考えていたとしても、女性の自 己実現、あるいは伝統的な女性的役割からの決定的な逸脱を彼は十分に成功に つながっていくものとしては描くことが出来なかった。その意味でジェイムズ は事実上オズモンドのごとく自分の創造物である自らの印刷を自分の決めた 線の外に出そうとはしない。もしかしたらジェイムズは、イザベルの言葉に示 されているように、あらかじめ決められた線の向こうにあるすべての行動と選 択のなかに自分という存在が読み込まれる世界の一種の過酷さを予見していた のかも知れない。

デイジーの死が象徴的だが、 『肖像画

J

に続く『ボストンの人びと jの中で もレズピアン的な欲望によって逸脱の可能性が描かれながら、最終的には(当 時の常識から言えば)性的に逸脱する可能性のあった二人の女性のうち、片方 は伝統的男性の(恐らくは伝統的な女性らしい役割を果たすべく)伴侶とな り、いま一人はその逸脱的なパートナーを失い孤独な状態に残されていく。こ の小説の中で女性の性的自由、あるいは(伝統主義者の白から見れば)逸脱の 方向へ向かう女性オリーブ チャンセラーに対峠する南部出身の保守主義者ラ ンサムの姿をオズモンドの姿に重ねてみるべきである。つまり伝統を揺るがせ るもの、反復を乱すものは事実上女性の自由なのであり、女性が伝統的な生き 方を反復しないこと、新しい生き方を求めることが危険と感じられているとい うことである。ジェイムズの保守的岳志向は後の『厄介な時代

J

においても、

主人公ナンダが落ちいった苦境に表されている。彼女は母プルック夫人の教育 的責任の放棄により完全に当世風の性的知識を身につけた女性に育て上げられ てしまう。彼女は望まずして伝統的な存在から逸脱する。その結果彼女は愛し ている保守的な男性の愛をあきらめねばならない立場に立たされるのである。

ジェイムズの立場はこの小説に現れる老人ロングドンに限りなく近いのかも

知れない。彼は最初初恋の女性の再来とも見えるナンダに魅了されるが、彼女

の内面が限りなく時代によって汚されていると感じる。しかしやがてそれを時

(23)

反復と自己

61 

代の変化として受け入れるようになる。それに対しナンダの恋愛の対象である 青年ヴァンは決定的にオズモンド的であって、ナンダが保守的な女性の理想像 から決定的にずれてしまっていることを受け入れられずナンダを拒むことしか 出来ない。

オズモンドが(そしてジェイムズが)依然仕事=宗教という価値観に満たさ れた一個の共同体であったアメリカから抜け出し、伝統の世界だと見なしてい たヨーロツパにつながろうとした時、既にそこにはイザベJ レ的な個人を求める 傾向が存在し、その傾向あるいは圧力に屈した人びとが噌癖という形でゆがん だ形の反復を始めていた。つまりアイデンティティを与えてくれる伝統という 反復のある場所とジェイムズが想像していたであろう場所には無意味な反復と しての噌癖が拡がり始めていたという事である。保守的な想像力の持ち主だっ たジェイムズが伝統という仕事に代わって彼にアイデンテイティを与え得てく れるはずだった世界には病的な反復が待ち受けていた。

逆に言えば単純な反復が病理と見なされる世界が始まっていた。伝統的な役 割という与えられた意味の世界から個人が自らの行動や選択に意味を見いだ し、作り上げていかねばならない世界が既に展開されていた。イザベルの自由 はアメリカ人女性固有の自由ではなかった。既に女性はそれぞれ程度の差こそ あれ自由を手に入れ始めていた。オズモンドはそれを認めない、認められない 保守的な精神の具現であり、 『肖像画j という作品はそのようなあり方が、近 代世界において一種の病理としてしか存在できないことを描いている。

マイラ・ジェーレンはイザベルの自由をアメリカの中産階級の理想としての 自由主義と結びつけて考えている。さらにはジェイムズがアメリカの中産階級 の支配層の中に階級と歴史を克服する可能性を見ていたと述べている(J

ehl叩,

136)

が、この見方はジェイムズの想像力をあまりに単純化しすぎているよう

に私には思われる。ジェーレンは女性が自由を求めるという構図をアメリカの

他のロマンスの登場人物達、ハック フインヤナッテイ・パンポ一、さらには

エイハプ船長らの姿と重ね合わせすぎているのではないだろうか。イザベルは

このようなロマンスの笠場人物としてではなくジェイムズが小説を学んだ禄々な

ヨーロッパの小説の女性の主人公達の系譜につながる存在として見る必要があ

(24)

る。ジェイン オーステインの描いたロマンティックラブの実践者たる女性

11

、 ジョージ・エリオットの描いた様々な女性主人公達。彼女たちの自由を求める 歴史の中にイザベルをおくべきである。女性は解放されつつあった。ニュー ウ}マン小説と呼ばれる小説のあらわれるずっと以前から小説はそれまでの伝 統的な役割の中に閉じこめられていた女性達のあらかじめ決められていた生き 方からの逸脱と変容をたどり続けていたのである。

さらに言えばジェーレンが7ロ}ベールの『ポヴアリー夫人

i

のエン?との 比較でイザベJ レを理解しようとするのも適切とは思われない。イザベルは確か にエンマに比べて逢かに自由で自己決定権を持っているが、ジェインーオース ティンの主人公やジョージ・エリオットの主人公に比べてみればその差はそれ ほど決定的でも対照的でもないことは明らかである。エンマは貧しさと因習に 囚われた古い世界の女性であるが、イギリス小説の伝統はむしろより解放され た女性の運命に関心を払ってきたのでありジェイムズもそのような女性が直面 せねばならなかった解放後の世界、手にした自由が与える重荷がより中心的な 主題として前面に提示されている世界を描こうとしているということを理解し なくてはならない。

世界は女性の伝統的役割からの離脱を大きな一つのトピックとしながら反復 の世界、意味があらかじめ決められていた世界から、意味を個人が自分の行為 と習慣の中に見いだすことを求められる世界へと変貌を遂げようとしていた。

イザベルが担わされた重荷を多くの女性が、そして実はその変貌を通して男性 もまた担わざるを得ない世界が始まっていた。

イザベルの姿を読み手は伝統から解放されていく大西洋の両側でのアングロ

サクソン世界の文脈で理解すべきであって、不自由さに埋没するフローベー

J

のエンマの問題はカトリック系のヨーロッパの女性がアングロサクソンの世界

の女性に比べて不自由をかこっていたという比較的歴史上の些事についての問

題でしかないように思われる。より大きな問題はある程度不可避的に増大して

いく自由なのである。人は自分の習慣や振る舞いに自分自身を見いださねばな

らなくなる世界に生きることになる。

参照

関連したドキュメント

1970 年には「米の生産調整政策(=減反政策) 」が始まった。

る、というのが、この時期のアマルフィ交易の基本的な枠組みになっていた(8)。

 基本的人権ないし人権とは、それなくしては 人間らしさ (人間の尊厳) が保てないような人間 の基本的ニーズ

我々は何故、このようなタイプの行き方をする 人を高貴な人とみなさないのだろうか。利害得

「社会人基礎力」とは、 「職場や地域社会で多様な人々と仕事をしていくために必要な基礎的な 力」として、経済産業省が 2006

・この1年で「信仰に基づいた伝統的な祭り(A)」または「地域に根付いた行事としての祭り(B)」に行った方で

長期入院されている方など、病院という枠組みにいること自体が適切な治療とはいえないと思う。福祉サービスが整備されていれば

2) ‘disorder’が「ordinary ではない / 不調 」を意味するのに対して、‘disability’には「able ではない」すなわち