「特別の教科 道徳」導入をめぐる 現今の問題
雨 田 英 一
はじめに
かつて、戦後の民主的教育改革に携わった勝田守一は、「特設道徳」をめ ぐる論議において、「世の中で、道徳とそして教育というこの二つのことば を結びつけたものほど、重荷を感じさせるものがあるかどうか」と、道徳教 育を語り担うことの責任のあまりの重大さに、謙虚で慎重な姿勢が常に求め られることを強調していた。勝田は、個々の徳目を説き伝えさえすれば道徳 性が養われるとする徳目主義を批判し、その不道徳さを指摘していた(1)。
学習指導要領が2015年3月、一部改訂され、「特別の教科 道徳」が新 設された。これまで教科外活動とされてきた「道徳の時間」が教科として位 置づいたことになり、他の教科と同様に、検定教科書を使用し、評価するこ とになる。学校教育法施行規則も一部改訂され、小学校、中学校の教育課程 に「特別の教科である道徳」と明記され、小学校では2018(平成30)年4月 1日から、中学校では2019(平成31)年4月1日から施行となったが、それ を待たずに、2015(平成27)年4月1日からの実施が可能となっている。教 科書は、当面は、文部科学省が現在発行している『私たちの道徳』(『心の ノート』の全面改訂版)を使用することとなる。
これは道徳の時間の特設、副教材(文科省発行のを含め)の使用の奨励、
評価なし、というこれまでの道徳教育の在り方からの大転換である。「最上 位の教科として学校教育の中核を担うことになる」(2)と、敗戦後の民主化過 程で廃止された筆頭教科「修身」の復活だとの指摘もある。この政策動向に 対して、「多くの人が気付かぬうちに思想教育が始まり、戦前のようになる
のではないか。そんな心配や不安が現実味をおび、恐ろしく思います」と
「驚愕」した市民が新聞に投稿している(3)。
こうした、思想教育だとの批判に対して反批判を呼びかける動きも報じら れた(3)。
「修身」は、天皇制国家の下、「教育勅語」を中核とする国民道徳の涵養の 上で、操行査定や軍事教練や様々な学校での儀式や行事などと結びついて中 心的な役割を期待された(5)。敗戦後、「修身」は占領軍によって停止され、
日本国憲法・教育基本法体制が成立する過程で社会科が誕生した。しかし、
1958年の学校教育法施行規則改正で「道徳の時間」が特設されて以降、道 徳教育の強化と社会科の解体が進められ、今回の改訂は、その延長線上に位 置づく。本稿はこの道徳の教科化に潜む問題を考察したものである。
1. 学習指導要領改定までの経緯
道徳の教科化は第一次安倍晋三政権でも目指され、文部科学省内の抵抗や 中央教育審議会での、検定教科書使用の不適切や評価の困難などの指摘を受 け答申見送りとなった。この政権下で教育基本法が改訂され(2006年)、教 育目標に「国と郷土を愛する」と愛国心教育が盛り込まれた。そして中学生 いじめ自殺事件を契機に、教育再生実行会議が教科化を提言(2013年2 月)、中央教育審議会が再度取り上げ、現文部科学大臣に道徳の教科化を答 申するにいたった。ちなみに、この審議会は首長の関与権限を強化する方向 での教育委員会制度の抜本的な見直しも課題としていた。
道徳の教科化は、宗教主義を掲げる私立学校も、また高等学校も無関係で はいられないだろう。愛国心教育の一環としての国旗掲揚、国歌斉唱は、強 制はしないはずだったが、すでに小・中・高等学校では学習指導要領と文書 等によって現場に浸透している。現文部科学大臣は、さらに独立行政法人化 した国立大学に対して強制ではないが要求するという。
雑誌『道徳教育』は、今日、現場の教師が意見を交換する場ともなってい る月刊誌であるが、その誌上で、押谷由夫氏は「「特別の教科 道徳」の設
置は、学校を本来の人格形成の場にしていく切り札
4 4 4」である、「いよいよス タートが切られ」たと賞賛・歓迎し、それに「教師の夢を託そう4 4 4 4 4 4 4 4―」と呼 びかけ「夢を形にするロードマップ」を提唱している(6)(下点は雨田。以下 同じ。)。押谷氏は、今回の「特別の教科 道徳」の設置の意義について、
「よりよく生きるための基盤となる道徳性を養うため、道徳的諸価値につい ての理解を基に、自己を見つめ、物事を広い視野から多面的・多角的に考4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 え4、人間としての生き方についての考えを深める学習を通して、道徳的な判 断力、心情、実践意欲と態度を育てる」ものだとし、また目標は「教育基本 法及び学校教育法に定められた教育の根本精神に基づき,人間としての生き 方を考え,主体的な判断の下に行動し,自立した人間として他者と共により4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 よく生きるための基盤となる道徳性を養う
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4こと」であり、方法として『学習 指導要領』より「人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭,学校,そ の他社会における具体的な生活の中に生かし
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4…」を引用して、「様々な状況
4 4 4 4 4
下で主体的に対応できる力となる道徳的判断力、道徳的心情、道徳的実践意4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 欲と態度を養うこと」「生きて働く道徳性」「生徒の日常生活に生かされるよ
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
うにすること
4 4 4 4 4 4」だと強調している。つまり、様々な事情を背景にもつ一人ひ とりが、生活の場面で直面するさまざまな問題を正面に据えて、自ら多面的 多角的に状況を分析し事態を深く広く捉え、さまざまな矛盾を含んだ現実の 生活をより人間らしく生きてゆくために粘り強く「考え
4 4」、より賢明な判断 を自主的に下すことができるという、「生きて働く力」を養成することが、
今回の改訂の最大の眼目だと強調しているのである。(『学習指導要領』から の引用は雨田が補った。)
新聞紙上でも、改定案が公に示された時点で、上のような積極的な意義を 有するものとして、賞賛され期待されていた。たとえば次の様にである。
「産経ニュース」では、「考え、議論する道徳」を見出しに、そのことを強 調していた。現行では「読み物中心の形式的な授業が広がっていることを踏 まえ、「考え
4 4、議論する
4 4 4 4道徳授業」への転換を求めた。(中略)授業で児童生 徒が課題を自ら見つけ、自力で解決する問題解決型学習の導入4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4など、より実
践的な教育を行うよう強調した。」と。使用される検定教科書も、「特定の見 方や考え方に偏った」ものでないこと、さらに、文科省自身が「“ 読み物道 徳 ”とも揶揄される現行授業から、子供たちが考え、議論する道徳への質の 転換を進めたい」としていると紹介、強調している。
また、戦前の修身科の過ちを繰り返さないためにも、「子どもに「常識
4 4」を
4
疑う力を身につけさせる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4こと」、「国や社会はもちろん、先生や教科書がいつ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 も正しいとは限らないと批判的に見て
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、考える力
4 4 4 4」が求められるとしていた。
また、「学校や家庭、地域での生の体験や情報から課題に気づき、考えを磨 く営みが欠かせない。グローバル時代だ。既成の権威や価値観にとらわれな い徳性が問われる。道徳科は「国を愛する態度4 4 4 4 4 4 4」をも4 4、子どもに求める。多 様な個性を育み、主体性を伸ばすというのであれば、さまざまな議論があっ
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
てしかるべき
4 4 4 4 4 4だろう。」と、具体的生活そのものの重視と愛国心のあり方に ついても多事争論が必要だとしている。「今の日本は愛しているが、戦争を
4 4 4
するなら嫌いになる」「原発や米軍基地が愛する日本を悩ませている4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」―。
そうした愛国心も未来を築く行動力を培うはずだ
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」(7)と。
ここでも強調され重視されているように、具体的な日常的な事象を「批判 的に見」る、「考える力」を育てることが道徳教育の重要な課題であり、方 法であると受け止められ、その意味で改訂は大きく期待されているのであ る。
しかし、これまでのように、担当するのは学級の担任教諭であり、現行の 週一回、年間三十五コマ(小一は三十四コマ)の枠内でこのことが可能であ るだろうか。さらに、検定教科書と評価の導入という、日常生活の問題を自 由に取り上げ考えることを拘束するような要因も強く作用することが予想さ れ懸念される。実際、検定教科書や評価の導入に対して、ある中学生が「道 徳は正解のない教科で評価するのは変だと思います。道徳の教科書通りの考
4 4 4 4 4 4 4
え方に強制させられてしまう不安4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4も感じます」と不安を隠せないでいる(8)。 もし「考える」ことが特定の枠内でのことに限定されたり、敷かれたレール にうまく乗るにはどのように思案したらよいか、という「考える」に誘導さ
れるなら、文科省も課題とする徳目主義の弊害を乗り越えることにはならな いだろう。
そこで本稿では、子どもの具体的な生活のなかで「考える」授業とはどう いう授業なのか、具体的な素材で私なりに拙いが考えてみたい。とくに、上 述のように今回の改訂で期待されている、具体的な日常生活の問題をとりあ げ問題解決法によって解決してゆく、ということに焦点を当ててみたい。
2. 修身科の徳目主義の問題
まず、戦後の教育改革、日本国憲法と教育基本法の体制下で、克服すべき とされた戦前の修身教育の問題点を具体的に考えておこう。
戦前の修身の授業は一口で言えば、国定教科書と教師用書によって枠付け られた教師の訓話(物語と解釈)、それが授業内容の全てを規定していた。
学習者はその敷かれたレールにのるためにはどのように自分の感性や思考を 整えればよいのか、このことを考えるよう求められた。通信簿の評価欄では 他の教科の最上位に置かれ、まさに筆頭教科であった。生徒がその訓話に疑 問を持ち、多面的多角的に考え、さまざまなアイデアを出し合って議論し、
もっとも懸命な道徳的な判断に基づいて、とるべき行動の選択を自主的に決 断するという中味の「考える」ことは、励まされなかった。
たとえばそれが明らかな形で現れているひとつに「靖国神社」がある(9)。 学習者も教師もその存在理由や意義についてもはや疑問を挟む余地はない。
そこに体現されているとされる道徳的価値・道徳性をひたすら身につけるこ とが求められた。官製の日本人の死生観を受け入れ、それに即して感じ、考 え、行動しなければならない。国定・官製の愛国心や愛国的行動のパターン が刻み込まれたのである。
他の扱われ方はどうか。『教師用書』を手がかりにみてみよう。ここでは
「第三 勉強せよ」『尋常小学修身書 巻一教師用』を手がかりに考える(10)。 そこでは、児童の教科書には挿絵のみで、話は書かれていない。したがっ て、教師用書での目的、説話要領がすべてとなっている。
目的は「勉強の大切なることを知らしむるを以て本課の目的とす。」とさ れ、「説話要領」が以下のように記されている。
「或日兎は亀に向ひて、その脚の短くして歩行の遅きを嘲りければ、亀は「さら ば競走を試みん。」とて、共に狐のもとに行きて、距離・目標などを相談せり。
競走の日は至れり。兎も亀も定めの場所に来りて、用意ははや整ひたり。やがて狐 の合図に斉しく駆け出せり。亀は足遅けれども「目的の地に行き着かんまでは少し も休まじ。」と固く心を決して、真直に急ぎ向ひぬ。兎は出発の初、亀を駆け抜け て疾く進みしが、半途にて彼の方をふり返り見るに亀の影も形も見えず。兎心にゆ るみを生じ、路傍に憩ひていつしかまどろみたり。
程経て兎目を覚して駆け行きしが、遥か向ふを見れば、亀は早くも目標の場所にあ りて、こなたに向ひて手招しゐたり。」
ここまでが、事態の推移の説明である。児童はこの情報から兎と亀の感情 や思考や行動について、道徳的な意味をとることになるが、教師は次のよう に解釈した上で、その意味と意義を説く。
「諸子よ、亀のよく兎に勝ちしは何故なりと思ふか。これ兎は途中にて怠り、亀は 少しも怠らずして勉強せしがためなり。
諸子も学校に来りてよく勉強すべし。勉強して怠らぎれば、遂によき人となるを得 るなり。諸子よ、雨の日も雪の朝も勇んで学校に来るべし。故なくして学校を休む ほ甚だ悪しきことなり。一度にても学校を休まば、友だちの学びたるところを我は 学ばざることになりて、課業におくれ、そのため出席を厭ひ、遂には怠惰者となる に至るべし。されば諸子は幼き時よりよく勉強して、よき人とならんと心掛くべ し。」
このあとに、「注意」が目的を繰り返す形で示され、そして、次の「主要 なる設問」が続いている。
「一。亀が兎とかけっこをするとき、どんな心で急ぎましたか。 二。鬼は途中で どんなことをしましたか。 三。兎が目を覚して駆けて行つたとき、亀はどうして ゐましたか。 四。亀が兎に勝つたのはなぜですか。 五。皆さんが学校に来るの は、なんのためですか。 六。皆さんほどんなにして勉強しなければなりませんか。」
そして「備考」に「この例話はイソップ物語に拠る。」とある。
このように、授業は、「主要なる設問」をみても教師の解釈を児童にその まま受け入れさせるために、追認させる形の確認作業となっている。教師が 敷いた解釈のレールにのることを求められ、そのレール上での感情や思考の 調整が求められているのである。自由な質問や教師の解釈の正当性の検証は 保障されず、特定の解釈・価値観が強要されている。
ここで児童から自然に出てくると思われる質問や疑問について考えてみた い。そこで浮かぶのは、たとえば、亀はなぜ勝てない勝負を挑んだのか、無 謀ではないか。はじめから、兎が教師の説話にあるように自分の才にうぬぼ れ、怠けると踏んでいたのか。だとしたらこういう競走はまっとうな競争で はないのではないか。また、なぜ亀は兎を起こそうとしなかったのか、具合 が悪いため横になっていたのかも知れない。この同じ教科書には「トモダチ ハ タスケアエ」と諭し、また「オモイヤリ」を、教えるべき徳目としてあ げていることから、その感はいっそう強まる。競走で勝つためには手段を選 ばない、抜け駆け、をよしとして教えることにならないか。
しかし、そもそも、亀が兎の横になっている姿に接することができたかど うか。説話から発せられるメッセージは、もはや確かめる必要性はないとい うことであるかのごとくであり、その論点が抜けて落ちてしまう。
競走に勝つために一生懸命努力したから勝てた、だが、兎同様亀もまたそ の一生懸命のプロセスにおいて道徳性が問われなければならないのであるか ら、明確な情報提供が必要ではないか。兎が怠惰で眠りこけてしまっている のだということを亀に知らせる何かが必要だとも言えるだろう。
また、接することがなかった、気付くことがなかったとしても、事故など がない限り先に到着しているはずの兎がいないという事態を前に、亀は兎の 身の上に途中で何かが起こったのではないかと、心配するのも、きわめて自 然な感情であり、大切な道徳教育の論点でもあろう。そのような学習者の疑 問にどのように答えるか。侮辱されたことの怨念で知らん振りをし、勝った ことを無邪気に喜んでいる、そういう姿に映ったのなら、兎を範とするのは
道徳教育と言えるのだろうか。もちろん反面教師という学び方もあるが、そ の場合でも、そこは学習者と教師のやり取りを通して考えることを保証する 必要があろう。
「きんべん」が大事なのは誰しも了解するだろう。問題は勤勉さの具体的 あり方とその意味である。何のためにどのような仕方で勤勉であるか、とい うことであろう。一年生だからそこまで問題にするのは行き過ぎだという意 見があるなら、幼稚園の運動会で転んだ友達を助けるために引き返して手助 けする子どもがいるということをどう考えるかが問われよう。子どもたちの 現実の生活において力となるためには、上のようなことを問い、ねばり強く 考えることを教師が励まさねばならない。そして、このように考えてくる と、この授業の主題の、学校に通うという勤勉さを教える内容として相応し くないという側面が見えてくる。学習者の批判的な自由な思考を封じ、教師 の解釈がそのまま学習者に受け入れてもらえないとこの授業は成立しない性 格のものなのである。
そもそも、この寓話は、油断大敵の方、兎の行動に主眼がおかれたもので はなかったか。以上、徳目主義の問題性が浮き彫りになっている例である。
3. 「手品師」の「誠実」
つぎに、戦後の道徳教育について、教材『手品師』を素材に考えてみた い。
「手品師」は、1976年発行の『小学校 道徳の指導資料とその利用』(文 部省)に収録・掲載されてから、学校での道徳教育におけるテキスト的価値 や授業実践に対する批判的検討が何度となく繰り返されてきた。松下行則氏 は「今日まで四〇年ほどのロングランを続けてきた二〇世紀型の定番資料の 一つ」だと指摘している(11)。定番資料としては他に『泣いた赤鬼』がある が、取り上げられる頻度は群を抜いているという。その理由として、「近代 のスケールでは捉えきれない」「道徳観の基調として脈々と私たちの心に生 き続けている「惻隠の情」(中略)と相通じる何かであろう」としているが、
私はこの「惻隠の情」との指摘との関連も含めて、後に述べるように日本人 の「誠実」観という論点で扱う必要があると考える。
ここでの考察では、『手品師』が特設道徳で単なる副教材として使用され てきたこれまでの形態ではなく、検定教科書上の作品であり、改訂学習指導 要領の「誠実」という徳目を学ばせるために使用され、そして評価される、
と仮定して、考えてみたい。ねらいは、多くの授業でなされているように
「常に誠実に行動し、明るい生活をしようとする態度を育てる。」とする(12)。 そして、ここで提示されている「誠実」さがわが国の伝統となって深いとこ ろから我々日本人の思考や行動様式を規定している「誠実」観であり、我々 の今後の思考のあり方、道徳のあり方を考える際に清算しなければならない 問題を含んでいることに言及したい。そのために、『手品師』テキストその ものに加え、これまで充分に扱われてこなかったとみられる作者の意図が示 された二つの資料を用いる。
まず江橋照雄『手品師』を全文、引用しよう。
「あるところに、うではいいのですが、あまりうれない手品師がいました。もちろ ん、くらしむきは楽ではなく、その日のパンを買うのも、やっとというありさまで した。
「大きな劇場で、はなやかに手品をやりたいなあ。」
いつも、そう思うのですが、今のかれにとっては、それは、ゆめでしかありませ ん。それでも、手品師は、いつかは大劇場のステージに立てる日の来るのを願っ て、うでをみがいていました。
ある日のこと、手品師が町を歩いていますと、小さな男の子が、しょんぼりと道 にしゃがみこんでいるのに出合いました。
「どうしたんだい。」
手品師は、思わず声をかけました。男の子は、さびしそうな顔で、おとうさんが 死んだあと、おかあさんが働きに出て、ずっと帰って来ないのだと答えました。
「そうかい。それはかわいそうに。それじゃおじさんが、おもしろいものを見せて あげよう。だから元気を出すんだよ。」
と、言って、手品師は、ぼうしの中から色とりどりの美しい花を取り出したり、さ らに、ハンカチの中から白いハトを飛び立たせたりしました。男の子の顔は、明る さをとりもどし、すっかり元気になりました。
「おじさん、あしたも来てくれる?」
男の子は、大きな目を輝かせて言いました。
「ああ、来るともさ。」
手品師が答えました。
「きっとだね。きっと来てくれるね。」
「きっとさ。きっと来るよ。」
どうせ、ひまなからだ、あしたも来てやろう。手品師は、そんを気持ちでした。
その日の夜、少しはなれた大きな町に住む仲のよい友人から、手品師に電話がか かってきました。
「おい、いい話があるんだ。今夜すぐ、そっちをたって、ぼくの家に来い。」
「いったい、急に、どうしたと言うんだ。」
「どうしたも、こうしたもない。大劇場に出られるチャンスだぞ。」
「えつ、大劇場に?」
「そうとも、二度とないチャンスだ。これをのがしたら、もうチャンスは来ないか もしれないぞ。」
「もうすこし、くわしく話してくれないか。」
友人の話によると、今、ひょうばんのマジック・ショウに出演している手品師が 急病でたおれ、手術をしなければならなくなったため、その人のかわりをさがして いるのだというのです。
「そこで、ぼくは、きみをすいせんしたというわけさ。」
「あのう、一日のばすわけにはいかないのかい。」
「それはだめだ。手術は今夜なんだ。あしたのステージに、あなをあけるわけには いかない。」
「そうか………。」
手品師の頭の中では、大劇場のはなやかなステージに、スポットライトを浴びて
立つ自分のすがたと、さっき会った男の子の顔が、かわるがわる、うかんでは消 え、消えてはうかんでいました。
(このチャンスをのがしたら、もう二度と大劇場のステージには立てないかもしれ ない。しかし、あしたは、あの男の子が、ぼくを待っている。)
手品師は、まよいに、まよっていました。
「いいね、そっちを今夜たてば、あしたの朝には、こつちに着く。待ってるよ。」
友人は、もう、すっかり決めこんでいるようです。手品師は、受話器を持ちかえ ると、きっぱりと言いました。
「せっかくだけど、あしたは行けない。」
「えっ、どうしてだ。きみが、ずっと待ち望んでいた大劇場に出られるというのだ。
これをきっかけに、きみの力が認められれば、手品師として、売れっ子になれるん だぞ。」
「ぼくには、あした約束したことがあるんだ。」
「そんなに、たいせつな約束なのか。」
「そうだ。ぼくにとっては、たいせつな約束なんだ。せっかくの、きみの友情に対 して、すまないと思うが……。」
「きみが、そんなに言うなら、きっとたいせつな約束なんだろう。じや、残念だ が……。また、会おう。」
よく日、小さな町のかたすみで、たったひとりのお客さまを前にして、あまりう れない手品師が、つぎつぎとすばらしい手品を演じていました。
さて、読み終えた学習者の心にどのような動きが起こるのだろうか。
このことを考えるに際して、子どもの学習の姿勢が、いかに非意図的な教 師や環境などから発せられる種々のメッセージに左右されているか、たとえ ば、「私が正しいことを知っているのです、私があなた方に正しい知織を教 えてあげます、というような権威主義的教育をしている教師が人権について 教える場合、子どもたちは何を学ぶのか。」と問い、解明する必要性を強調 する汐見氏の論説には多くの示唆を得られることを記しておきたい(13)。
学習者はどのように考え向き合うのだろうか。手品師のとった行動は検定 道徳教科書に載る程だから模範として学ぼうということなのだろう。教師も 手品師は道徳的に高潔な人だから模範にしなければならないと我々に説くは ずだ。このような姿勢でこの作品に向き合うことが予想される。だとすれ ば、果たして手品師のとった行動は「誠実」として道徳的に評価され得るも のだろうか、というような問いを立て探求する態勢にはならないだろう。手 品師に、ことの重大さを認識していない、軽薄で、独りよがりな、主観的誠 実さ、自己の心情に酔いしれている姿を見てとっているかも知れないが、表 には出て来にくいだろう。面従腹背の構えに入るかも知れない。いずれにし ても、それでは、自分の問題として正面にすえ、探求することに結びつかな い。たとえば、選んだのには手品師なりの事情があったのではないか、幸せ そうな子どもでもそうしたのか、子どもが事情を知ればどのように手品師に 対応したか、友達との関係はこれでよいのか、等々の問いを立てひとつひと つ探求するという道へはつながらないだろう。
こうした問題をうまく授業で取り扱うためには、様々なメッセージを発し ている教師の側から探求する道を開かねばならない。しかし、教師の問いへ 応えるその内容やあるいは表情自体が、自分の道徳性に対する教師の評価に 係ってくると学習者が感じたり考えたりすれば、学習者の応えは教師の意図 に沿ったものを手探る文脈でなされることになるだろう。顔色を伺うという 不道徳的な態度を引き起こしかねない。他の教科と違い、こと道徳性とくに その人間の信頼性に係る問いと応えであるだけに、問題はより強く現れるの ではないだろうか。したがって、個々人の意見をストレートに応えさせるの ではなくて、特定の演技・役回りとしてなかば強制的に応えさせる工夫も必 要になろう。
では探求する姿勢をとる、換言すれば手品師は「誠実」だという命題を自 ら検証しようとする姿勢をとる学習者は、どのように考えるだろうか。自分 が手品師の立場にあったらどうするか、そういう問いを正面に据えることが 予想される。その場合、日ごろ、すでに約束した時刻に別の用件があとに舞
い込んできたらどうしてきたか。舞台に子どもを連れてゆく可能性もまった くないとは言えないが、両方とも無視し得ないものであったら、どちらかを ずらして結果として両立させることを考えるだろう。ともに両方大切だと考 えれば、自己の生活経験からこう考えるのではないだろうか。考えるとは、
自己の既得の「知」を自己の内外の新たな世界に開き、新たなものとの関係 性において統一して行くことだろうからである(上田薫)。たとえ延期でき ない場合でも、後でケアすることで許されないのか。事情を分かってもらえ るのではないか。その時点で分かってもらえなくとも、手品師のこのときの 事情を知ったことでこの子の重荷にならないためにも、許しを請うて改めて 機会を作ることを約束しよう。いつか分かってもらえるように信頼関係を築 く努力をしよう、等々。また、生涯、連絡が取れなかったとしても、それは 人間の限界として諦めるしかない、できるだけの手は打った、そのことを正 面から受け止め、ある種の悔いを背負って生きてゆくしかない、等々、考え ることが予想される。だとすると、まずは、時間をずらすことができれば両 方のことが可能になるわけであるから、我々が日常しているように、動かす ことの可能な子どもとの約束の方を延期できないかどうか、その手がかりを 一生懸命この作品の中に読み取ろうとするだろう。会えなかったら、張り紙 などで書置きをしておくことも考えよう。だがその子は字が読める年齢なの か。読めないかも知れないから、この子を知っている者に伝言を頼むことは できないか。だが、時間的制約がある中で、知っている人は探し出せるか。
こんなふうに考えるのではないだろうか。したがって、連絡が取れるかどう かの状況分析にまずは向かうことになるだろう。
「考える」ことを重視するなら、この過程を重視し、充分に保証しなけれ ばならない。しかし、この作品には、手品師が子どもとの連絡が取れるかど うかに係る確実な情報は一切載せられていない。だとすれば、学習者のとる 対応は、教師に尋ねるか、自分で想定するか、考えることを止めるか、とな るのではないだろうか。
教師は、このような事態を予想し、予め準備しておかなければならない。
ここで、教師が作者の意図とは別に、自由に状況を作る役割を担うことがで きるなら、上述のような問いに対する応答を準備できる。しかし、こと検定 教科書の内容解釈と教授方法、そして評価の仕方に係る重大事との仮定で考 えているこの論考では、修身の教師用に位置する作者の意図を参酌すること になる。その必要がなかったら検定の縛りをはずせばよいだけの話である が。
しかし、後に述べるように、そのことを試みても確かな情報は得られな い。実はこの作品はそういう問いに対してしっかり誠実に応答しなければな らないということをまったく視野に入れていない作品なのである。問題解決 的手法による検証はここで断ち切られ、この方法で『手品師』から学べるも のはなくなる。
しかし、学習者は手品師の行動の意味を納得しようとすれば、換言すれば 手品師に即して内在的に理解しようとすれば、手品師が選択し決断した道 は、彼自身にとってどのような事情によったどのような必然性や意味があっ たのか、これらのことを問いつづけることになるだろう。
ところで、たしかに、このように考えを進めるまでもなく、小さい貧しい 恵まれないさびい子どもへの手品師の止むに止まれぬ同情と親切心、思いや り、憐れみ、惻隠の情がきわめて強く彼を動かしたという読み方は可能であ る。そう決断したことが彼を晴れ晴れしいものにした、という表現である程 度理解はできよう。しかし、いろいろ推測し、批評はできるが、どれも手品 師のとった意味を根拠のある説得性をもったものとはならない。そこで、手 品師とはそもそもどのような人物なのか、どういう人生を歩んできたのか、
どのような人生観、道徳観をはぐくんできていたのかを探ることに関心を向 けざるを得ないだろう。これはわれわれが他者の行動とその意味を理解する 手立てとして日常普通にとっている態度である。実は、作者自身がその必要 を感じてのことだろう、手品師のとった行動を理解するために、『手品師の 履歴書』を書いているのである。本来、作品『手品師』と同時に提供されて しかるべき資料だと私は考えるが、たんに資料集に収められなかっただけな
のかも知れないが、どのように扱われているかよく分からない資料である。
作品に係わる判断の条件となる情報は初めから学習者と教師とに同等に提供 されていなければならないだろう。でないと教師の都合や言うままに学習者 が操られてしまう。学習者は追従せざるを得なくなる。「考える」能力を伸 ばすことが大きな目的ならば、こういう問題状況は早急に改善しなければな らない。
さて、江橋照雄氏『手品師の履歴書 ―手品師のこれまでの人生を知る手 掛かりとして―』(14)を読むと手品師のとった行動には、ある必然性があっ たことが分かる。手品師は、親の遺言、即ち「ひとを信じ、ひとの気持ちを 考え、そして、自分に正直に生きて行けよ」をしっかり守ること、その、心 から敬愛した両親への孝行は、芸の腕を磨き、大勢の人々を楽しませるこ と、そして、少しでも苦しみや、悲しみを和らげてあげることだと確信し、
いわば自己の戒律とし、それを実践しようとしていた人物であった。そして それも強制的権威主義的に外から押し付けられたものではなく、日常普通の 両親の行動をとおして尊敬と共感とをもって理解していたものであった。つ まり、弱いもの恵まれないものへの慈悲、哀れみの情を、何よりも大事にし た両親の生活の心情と信条とその実践をいわば心身ともに受け入れ、それを 基盤とした信念・心情に基づいたものであったことが分かる。手品師があの ような夢の実現、職業獲得につながるチャンスをとらなかった、その意味で 自己を犠牲にするような決断をしたのには、手品師固有の何か深い事情が あってのことだろうとは誰しも想像したことだろう。私は手品師はわが子を 失くしたとか、幼き弟か妹を失ったことがあるのでは、と想像したりしてい た。理屈と膏薬はどこへでもつく、という故事があるが、不確かな情報のも とでは、心もとない判断を下すしかなかったが。
しかしさらに、『手品師の履歴書』によると、手品師にとって子どもとは、
あの特定の子どもではなく、また、たんに、いわば憐憫の情を向ける対象と してだけではなく、手品師が客に罵倒されたり、売れなかったりして落ち込 んでいたときの彼を、「来るのを心待ちにしてい」てくれた子どもであり、
「彼を支えてくれた恩人」であった。そのため手品師が報いる義理を深く強 く感じていた存在であった。彼は「お金にはならないが、あの小さな子ども たちが待っている」と強く支えられて生きて来ていたのである。したがって あの選択は恩返しの行動選択でもあったのだ。それは遺言にも含まれていた ものでもあった。子どもはただ単に哀れみをかける対象であるばかりではな かったのである。少なくともその点で手品師は自分自身の心情に誠実であり 裏切るものではなかった。このように解釈できるなら、彼のとった行動には 腑に落ちるところがあろう。
だが、そこで検証は終わるのだろうか。上のような解釈に立てば「まよい にまよった」のはなぜか。強い信念を内にしていたはずなのだから、迷う事 態ではなかったのではないか。しかしそれでも迷ったのだから、大きな力が かかっていたと考えるのが普通だろう。それはなにか、何と格闘して手品師 はあのように決断したのか。想像されるのは以下のところだろうか。
手品師の置かれた状況は、それまでにあったような子どもとの関係とは異 なった新たな状況である。履歴書の最後にある、かけがえのない友人との関 係も新たに加わっている。「チャンスがあったら、きっと、君に声を掛ける よ。」この友達との約束・友情は軽んじられまい。舞台への道は、両親への 孝行と考えた、芸の腕を磨き大勢の人々を楽しませること、そして、少しで も苦しみや悲しみを和らげることに繋がるものでもある。一人前の大人とし て生計も立てなければならない、その先に職業としてより有利な条件が整う かもしれないのである。つまり状況はこの時点での彼の固有の選択と決断を 迫るものである。「ひとを信じ、ひとの気持ちを考え、そして、自分に正直 に生きて行けよ。」という遺言を、その状況でどのような仕方で実現するこ とがより望ましいものになるのか、このことを考えることが「考える」に不 可欠なのではないか。小さな子どもとの約束を守る必要がないということで はない。両方を実現する手立てをこの状況でどのように作り出すか、状況へ の操作的かかわりに可能な限り努力すること、それには子どもを信じ、友達 も信じ、人間関係を信じて、関係を新たに構築する必要がある、このことは
父親の遺言にも含まれていたはずである。
実は、すでに触れたが、この作者はこの作品を通して、上述したように考 えることは、人間にとって、初めからあってはならないこと、あるはずのな いことだとしているのである。江橋氏は『「手品師」に熱き思いを寄せて 江橋照雄』(15)で、まず、なによりも、私のような授業構想を非難する形で、
作者の真の意図を次のように語っている。江橋氏は、私がこれまで探ってき た、両立させようとする問題解決方法は「自分の都合」を優先する「自分勝 手」なそれであり、手品師自身と「小さな男の子」(「少年」と整合性が作者 にあるかはここでは問わないでおく)に対する「二重の不誠実な生き方」だ と糾弾しているのである。手品師は、そのような不誠実な生き方を拒否した
「誠実」な判断と決断をした人であり、ましてや、彼の行動を自己犠牲など ととらえることは、手品師に対するだけでなく「人間を冒とく」することだ とさえ断じているのである。作者はこの作品を通して手品師のとった行動は 人間普遍の価値を体現した「誠実」な行動であるととらえねばならないのだ としているのである。つまり具体的な事情をもった人間がとった行動を問題 にしているのではなく、作者の人間の普遍・理念だとする「誠実」観を説き 伝えるために手品師を借りただけなのである。固有の履歴書はその意味では 必要ではなかったとさえ言える。手品師は作品の中で作者と相対的に独立し た意味を持つが、ここでは「誠実」を盛る器として手品師が固定的に使用さ れているのである。
ところで、作者が、「あなたの生き方を考えるとき、現実的な解決の方法
4 4 4 4 4 4 4 4 4
があったにもかかわらず
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4、それを採らなかったあなたの気持ちを感じ取るこ とが大切だと思うのです。」と明確に述べているように、私がこれまで探求 してきた現実的な解決策はあったのである。そしてそれでもなお、子どもと の約束を、そしてそれと不可分の小さき弱き者への哀れみを持つ自分の心情 を、何をおいても優先し、全うすべきだと説いているのである。
作者が何よりも重視しているのは、「それを採らなかったあなたの気持ち
4 4 4
を感じ取ること4 4 4 4 4 4 4」である。それは何だろう。それは人間なら誰しもが持って
いるとされる「曇り」のない清澄な状態、あるいは、であろうとする心の働 きである。
このような「誠実」観では、作者のいう手品師のとった行動は「誠実」で ある、という判断を具体的に検証してみるという思考はそもそも不要であ り、テキスト上でそれを保障する条件を整える配慮は無用なのである。まさ に特定の価値・規範が盛り込まれた徳目を教え込む、徳目主義の観念性、抽 象性を帯びた作品なのである。インカルケーションの問題性が浮き彫りにさ れている作品でもあろう。
このような「誠実」観では、舞台を選ぶことは「自己本位」「自分勝手」
で、「誠実」な行為とはそもそも言えないのである。また、より望ましい
「誠実」でありたいなら、両立へという思考はあってはならないものなので ある。ここに貫かれているのは、自己の自然な欲求との調整をはかること は、自己の立場を基準に考える利己主義であり、否定されるべきであるとす る主張である。それを超越することが自己を誇らしく思えるはずとする道徳 観である。置かれた時々の状況分析・思索を介した道徳的な判断ではなく、
心情主義的な道徳観であり、そうした心情の自己に酔いしれる、自己満足的 な道徳観でさえあるように私には思われる。自己の都合が頭をもたげてくる 心のあり方が問題とすべきすべてであり、それとどのように格闘するかとい うことが支配的な道徳観である。心に利己という一点の曇りのない心の状態 を現にあるとみなし、全面的にそれに依拠しようとしているのである。利己 的と自己の都合優先と自己本位は区別されない。そのことで誰がどのような 利益を得るかも問題とされない。
この「誠実」は、目的と仕方、そして結果への責任という一連の文脈のな かでのものではなく、どのような文脈からも離れた「曇りのない、爽やかな 気持ち」なのである。とすると、手品師の選択はそのような「誠実」な自己 を本当に生かすためにしたことであって、その意味では自己犠牲ではなく、
自己本位そのものとも言えるかも知れない。また、手品師は現実的な選択肢 があったにもかかわらず自主的にあのように判断したということなら、彼の
選択は彼独自の問題解決法によった解決の仕方だったということにもなろ う。
松下氏は「友人」に対して誠実でなかったことを問題にし、「狭い」「閉ざ された」「誠実」さ、つまり「社会の狭い範囲の中で「自分一人で解決しょう」
と思う心性に囚われている」「偏狭自律型の個性」だとし、「私たち現代人の 心性」の問題でもあるとしている。そして、「矛盾や葛藤を解消し、あらた な価値を生み出す解決策や「第三の案」である「統合的思考」(価値の両立 を図る思考)を、子どもたちとともに創出する必要があろう」としている。
こうした提言には、次のような子どもたちに対する信頼が前提となってい る。すなわち、子どもは「問題解決場面に立たされると、自生的に統合的思 考を使い、問題場面を解決していこうとする」「有能」な存在であると。そ して、それゆえに「あくまで参考資料」として扱うべきだろう(16)、と。
今日、これが検定教科書、評価導入、という新たな事態に直面した場合の ことを考えなくてはならなくなっているのであるが、それにしても参考資料 というにはあまりにも大きな問題を投げかけているのでは、というのが本稿 の問題意識である。
以上みたように、作者の「誠実」観は自己優先が頭をもたげそれが他のも のを支配するという心の動きに左右されない、それを排除したすっきりした 心の状態、そのものへの絶対的忠誠を内容とするものであり、人間存在普遍 の道徳的原点であるとする道徳観なのである。そこには自己のそうした心情 にあくまでも忠実であろうとする姿勢はあっても、これまでみたように、他
4
者を他者として関係を構築していく4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4という道徳ではない。私は「偏狭自律型 の個性」ではなく「主観的誠実さへの埋没型」であると問題にしたい。他者 理解は民主主義社会を担うにおいて欠くことのできない力である。
おわりに
日本には「誠実」「至誠」を、ひたすら自己を犠牲にして献身奉仕する心情 として賞賛してきた歴史がある。「修身」教科書を見れば、そこでの「誠実」
の内容は、天皇や主君に対する絶対的な忠誠心であったことが明らかであ る。
日本人の倫理思想史研究者の相良亨氏は「誠実たれというとき、それは
「心情の誠4 4 4 4」であり、「自己の心情への誠実さ4 4 4 4 4 4 4 4 4 4」であり」「他者性4 4 4」の無自覚4 4 4 4、 自己と他者との断絶面に対する自覚の希薄さ
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4がある。自己性と他者性、そし て関係性を解明する哲学が必要である、としている。「誠実を求める姿勢は、
上の他者だけでなく組織や制度について考察する視点に欠ける
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。内部に行動
4 4 4 4 4
を歯止めするものをもっていない4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。その意味で方向性をもたない。」としてい る(17)。相良氏の指摘を参照しながら中村雄二郎氏も同じ見解を述べている(18)。 両氏とも、「日本人の伝統的な生き方」の「根本にかかわる4 4 4 4 4 4 4」問題として
「誠実」を挙げ、その批判的吟味が日本人の生き方を変革する上で「核心に
4 4 4
かかわる4 4 4 4」位置4 4にあるとみているのである。
私は手品師の作者の「誠実」観に共通する問題をここに見ている。その問 題点として、機能として、その型に閉じ込める、そこに盛り込まれた規範や 価値に適応させ、その秩序に適応させる。また問題発生の原因を自分の心の あり方だと見る、心持主義、個人帰責の態度を強化し、組織や制度のあり方 への関心をそぐ、などが挙げられよう。
制作者の道徳観と一体となっている『手品師』の作品は、「考える」道徳 という道徳ではない道徳(人間である限りみな共振できる核なるもの)に共 感させるための、すでにある道徳的心情への同一化、感得を迫る作品だと私 は考える。その鍵は「誠実」観にあった。このような「誠実」観に立った教 師から「あなたの心に偽りはありませんか」と問われることに対する学習者 の抵抗は難しいだろう。
私は「誠実」とは真空状態にあるのではなく、誰が何に対して何のために いつ、どこで、どのように行動することか、という具体的なあり方に係って いるという立場で考えてきた。置かれた状況に対して「誠実」に対応したか を含んで。状況に対する分析と必要な状況への操作を考え、トータルな意味 で行動の選択をしたのかどうか、が問われなければならないと考える。この
立場から、教育再生実行会議の有識者委員八木秀次氏の監修による『明治・
大正・昭和……親子で読みたい精撰「尋常小学校修身書」』の構成を見ると、
「素直な心を持つ(正直・誠実・良心)」(19)Honestyとして、真っ先に、正 直・良心と並んで「誠実」が取り上げられていることに注目させられる。
「特別の教科 道徳」の導入については、昨今の青少年の社会規範の希薄 化や欠落を憂える市民からの賛同の声もあがっているが(たとえば東京新聞 の「発言」欄)、『日本国憲法』の第十九条に「思想及び良心の自由は、これ を侵してはならない。」とある。その意味するところは、「内心の思想の表明4 4 4 4 4 4 4 4 を要求することは許されない
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。沈黙の自由をも保障しており、内心の思想を 推知しようとすることは本条に違反する。」とされる。そしてこれを踏まえ て、「ただし
4 4 4、教育の過程では
4 4 4 4 4 4 4、生徒の人格教育
4 4 4 4 4 4 4・指導の観点から本人の思
4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4
想に関する質問が必要となる場合がありうる4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4。」(20)ときわめて慎重な姿勢が 求められている。学校での道徳教育は、最高法規『日本国憲法』で基本的 人権の重要な位置を占める思想・良心の自由を、教育と監護の権利を有する 親権者(市民)に委託された学校で保証するという、きわめて重大な課題を 含んでいることを改めて確認する必要があると考える。 2015.5.7
註
(1)『勝田守一著作集4』(国士社、1972年)548頁。同所収の「道徳と教育」篇に 収められた一連の論考や、上田薫「道徳教育の基礎理論」(『道徳教育』河出書 房、1957年)や宇田川宏『道徳の教育と道徳の授業』(同時代社、1989年)な どの道徳教育関連の論考に学ぶところ大であった。
(2) 社説「道徳の指導案」『東京新聞』2015年2月6日、朝刊。
(3)「道徳の特別化 不安が現実に パート沼倉早紀 45(埼玉県川口市)」「発言」
欄『東京新聞』2015年3月9日、朝刊。
(4)「解説価値観強制 懸念拭えず 沢田敦」では、「日本教育再生機構」や「日本 会議」などの動向を報道している。『東京新聞』2015年2月5日、朝刊。
(5) 旧制中学については、拙稿「旧制中学校における訓育」〜自伝や回想による〜」
『千葉工業大学研究報告 人文篇 代32号(1995)』で検討した。
(6) 押谷由夫「「特別の教科 道徳」へのロードマップ―準備と提言」『道徳教育』
明治図書、2015年4月号、68〜70頁。
(7)「「考え、議論する道徳」に、教科化へ指導要領改定案 文科省」『産経ニュー ス』2015年4月6日付。また「難しい心の評価」(『東京新聞』2015年2月5 日、朝刊)でも、文科省も「教材を読むだけの読み物道徳から、考え、議論す
る道徳への転換を目指す」と説明している、と紹介している。
(8)「正解ない道徳評価おかしい 中学生 松元恵荊 13 (東京都 立川市)」『東 京新聞』2015年3月4日、朝刊。
親の立場からの疑問と不安。「道徳心の評価 困惑するだけ 会社員 清水夏 海 41 (東京都江戸川区)」同『新聞』2015年3月14日、朝刊。
(9) たとえば、『尋常小学修身書 巻一教師用』の尋常小学校4年修身。
(10)「第三 勉強せよ」『尋常小学修身書 巻一教師用』165〜166頁。
(11) 松下行則「どのような資料か」『道徳教育』明治図書、2013年2月号所収。「徹 底研究!資料「手品師」」と題して特集が組まれている。
「手品師」の授業については、主な先行研究として、松下良平『道徳教育はホ ントに道徳的か?』(日本図書センター、2011年)、宇佐美寛(『「道徳」授業 に何が出来るか』(明治図書、1989年)、藤田昌士『道徳教育の研究』(エイデ ル研究所、1985年)があり、とくに後者の二点からは多くの示唆を得た。
(12) 授業のねらいは、青木孝頼・瀬戸真編『道徳授業の基本発想 高学年』(明治 図書、1984年)に収められたものでは、「常に誠実に行動し、明るい生活をし ようとする態度を育てる。」(藤田昌士前掲書213頁)など。『道徳教育 徹底 研究!資料「手品師」』(明治図書、2013年2月号)所収の論考などでは、「誠 実」を徳目としてあげている。中学で使用されている教材でもある。
(13) 汐見稔幸「「学び」の独自性と「教え」―新しい「教え」研究のために―」『教 育』国土社、1997年9月。
(14) 江橋照雄「手品師の履歴書 ―手品師のこれまでの人生を知る手掛かりとして―」
『道徳教育』(明治図書、2013年2月号)6頁。
(15) 江橋照雄「「手品師」に熱き思いを寄せて」『道徳教育』(明治図書、2013年2 月号)7頁。
(16) 前掲松下行則「どのような資料か」『道徳教育』8〜10頁。
(17) 相良亨『誠実と日本人』(新書館、1980年11月)4〜17頁。中村雄二郎『日本 文化における悪と罪』(新潮社、1998年)128〜141頁。
(18) 八木秀次監修『尋常小学校修身書』小学館文庫、2002年6月。
(19)『教育小六法2015年度版』(三省堂、2015年3月)24頁。『子どもの権利条約』
の「第十四条 思想・良心・宗教の自由」も当然、踏まえなくてはならない。
付記: 本稿は、2014年度『道徳教育の理論と方法』で講義した一部を、この度の改訂 の趣旨に合わせて
4 4 4 4 4 4 4再構成し、大幅に加筆した内容となっている。
キーワード
学習指導要領、特別の教科 道徳、修身、徳目主義、誠実