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堀 辰 雄 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 小 論

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はじめに     堀 辰 雄 の 最 初 の 歴 史 小 説 で あ る「 か げ ろ ふ の 日 記 」( 『 改 造 』 昭和十二年十二月号)は、王朝日記文学である『蜻蛉日記』上 巻 と 中 巻 を 素 材 と し て い る。 『 蜻 蛉 日 記 』 下 巻 を も と に 創 作 さ れ た「 ほ と と ぎ す 」 は、 『 文 藝 春 秋 』 昭 和 十 四 年 二 月 号 に 掲 載 さ れ、 同 年 六 月、 こ の 二 作 に「 序 」 と「 あ と が き 」 を 加 え て、 単行本『かげろふの日記』が創元社から刊行された。

  堀といえば、西欧文学に精通した作家というイメージが強い が、 「かげろふの日記」 「ほととぎす」 「姥捨」 「曠野」など、王 朝文学をもとにした作品も少なくない。堀は数ある王朝文学の 中でなぜ『蜻蛉日記』を作品の素材として最初に選んだのだろ うか。また、 王朝日記文学をどのように小説化したのだろうか。   本研究では、まず『蜻蛉日記』が素材として最初に選ばれた 事情をたどり、 次に 『蜻蛉日記』 と読み比べて、 「かげろふの日記」 で 堀 が 描 こ う と し た 作 品 世 界 に つ い て 考 察 す る。 テ キ ス ト は、 『堀辰雄全集』全十巻(角川書店、昭和三十八年) 、『土佐日記 ・ 蜻蛉日記』 (新編日本古典文学全集

13、小学館、平成七年十月)

を用いることにする。

  1   堀が『蜻蛉日記』を選択した事情   本章では、堀の『蜻蛉日記』選択の理由について検証する。   堀が『蜻蛉日記』を入手した時期を、 池内は「昭和九年夏頃」 と 推 測 す る( 1) 。 そ れ は、 「『 蜻 蛉 日 記 』 未 だ 送 ら な か つ た ら 送るに及ばず。丸岡君の方から来たから」という立原道造に宛 てた書簡(昭和九年八月二十三日付け)が根拠となっている。   昭 和 十 一 年「 問 に 答 へ て 」( 『 文 藝 懇 話 会 』 五 月 号 ) の 中 で、 堀は「影響を受けたやうなものはまだ日本の古典の中にはあり さ う も あ り ま せ ん 」 と す る 一 方 で、 「 ラ ジ イ ゲ が『 舞 踏 会 』 を マダム・ド・ラファイエットの『クレエヴ公夫人』の影響下に 書 い た や う に、 僕 も 古 雅 な 味 は ひ の あ る 小 説 を 書 い て み た い 」 と 述 べ て い る。 そ し て、 『 源 氏 物 語 』 な ど が「 す ら す ら 読 め る やうになったら、或ひは大いに僕など影響を受けるやうになる か も 知 れ ま せ ん 」 と、 歴 史 小 説 へ の 意 欲 を 見 せ て い る。 「 か げ ろふの日記」の執筆がこのエッセイの翌年であることを考える と、堀の王朝文学を素材とする作品創作への準備は着々と進行 していたと思われる。では、堀を王朝文学に導いたものはなん だったのだろうか。

  それは、執筆活動の行き詰まりに関係すると思われる。昭和 堀辰雄「かげろふの日記」小論

鈴    木    裕    子

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十一年十二月から発表が始まった『風立ちぬ』は、前年に亡く なった婚約者との愛とその死を描き、 「序曲」 「春」 「風立ちぬ」 「冬」 「死のかげの谷」の五章から成っている。 「序曲」 「風立ち ぬ」 (ともに『改造』昭和十一年十二月号) 、次いで「冬」 (『文 藝春秋』 昭和十二年一月号) と 「婚約」 (のち 「春」 に改名、 『新 女苑』同年四月号)が相次いで発表され、同年六月にはそれら をまとめた単行本『風立ちぬ』 (新潮社《新選純文学叢書》 )が 刊行される。しかし、この単行本『風立ちぬ』には、終章「死 のかげの谷」は含まれていない。堀は終章の執筆に苦しんでい た。そこから脱出するために王朝文学受容が必要だったのでは ないだろうか。

  その根拠を、当時の堀の創作状況を記した『風立ちぬ』あと が き( 『 堀 辰 雄 作 品 集 第 三 』 角 川 書 店、 昭 和 二 十 一 年 十 一 月 ) に見ることができる。 不毛な一年の後、一九三六年の夏、信濃追分に仕事をしに い つ た 私 が、 そ こ で ま づ 考 え た も の は、 や は り「 物 語 の 女」の続編を書くことであつた。が、このときも構想なか ばにして止んだ。さうして秋になつてから引きつづき 「冬」 を 書 い た。 さ う し て さ ら に、 そ の 最 後 の 章 と し て 一 篇 の

Requiem

を 書 き た い と お も つ て、 そ の 儘、 山 の な か で 冬 を越したが、その冬はただ「雉子日記」など小品を得たの みであつた。

  「不毛な一年」とは婚約者を失った昭和十年であり、この年、

堀は小説を書けなかった。年譜によると、翌一九三六年(昭和 十一年)の夏、 堀は信濃追分に滞在し、 「物語の女」 (『文藝春秋』 昭 和 九 年 十 月 号 ) の 続 編 執 筆 を 試 み る が 書 け ず、 「 急 に 思 い 立 つ て 」( 角 川 書 店 版 作 品 集『 風 立 ち ぬ 』 あ と が き )『 風 立 ち ぬ 』 を 書 き 始 め る。 そ し て、 「 そ の 最 後 の 章 と し て 一 篇 の

Requiem

を 書 き た い 」 と 考 え る が、 こ れ も こ の 年 に は 完 成 し な か っ た。 この 「一篇の

Requiem

」 が、 後に完成する 『風立ちぬ』 終章 「死 のかげの谷」である。 『風立ちぬ』あとがきは、こう続く。 さうして翌年の春になり、それまで張りつめてゐた自分の 気もちが急に弛むと、私は何かいひしれぬ空虚な気もちに 襲はれ、それから脱れるために、ひたすら心を日本の古い 美しさに向けだした。 さうしておもに王朝文学に親しんだ。 六月には、生まれてはじめて京都へも往つて、そこの古い 寺の一室でひと月ばかり暮らしたりした。

で、 「いひしれぬ空虚な気もち」 から脱出しようとしたのである。 いを求めようとした。そこから創作エネルギーを吸収すること 舞 台 と な っ た 京 都 に も 初 め て 赴 き、 「 日 本 の 古 い 美 し さ 」 に 救 作 活 動 に も 行 き 詰 っ て い た 堀 は、 王 朝 文 学 に 親 し む と と も に、   「 翌 年 の 春 」 つ ま り 昭 和 十 二 年、 空 虚 な 気 も ち に 襲 わ れ、 創

  また、 小谷恒を介して折口信夫に会ったのもこのころである。 小 谷 は、 堀 が『 蜻 蛉 日 記 』 に つ い て、 「 折 口 さ ん の 考 え は ど う だ ろ う か。 」( 2) と 込 み 入 っ た 質 問 を し て き た と 述 べ て い る。 小谷は堀から『宇津保物語』や『落窪物語』について折口の話 を聞きたいと言われ、国学院で折口が行っていた後期王朝(平 安 朝 ) 文 学 史 の 講 義 に 堀 を 案 内 し て い る。 翌 十 三 年 の 冬 に は、 堀は慶応大学で行われていた折口の 「源氏物語全講義」 にも通っ たと小谷は回想している。このように旺盛な王朝文学摂取を背

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景に、 『かげろふの日記』は執筆されたのである。

  で は、 『 蜻 蛉 日 記 』 が 小 説 の 素 材 と し て 最 初 に 選 ば れ た の は なぜだろうか。次の三つの理由を検討してみたい。

  一つは、堀が昔から好んで読んでいた西欧文学に登場する女 性たちと同じ資質を日本の王朝文学の中の女たちにも認めたか らではないかと考えられる。その根拠を昭和十二年の書簡の中 に見ることができる。 (八月三十日付け佐藤恒子宛)   僕はこんどは日本の古い女の生涯が書いて見たい   蜻蛉 日記だとか更級日記だとかいくつもいい日記を残していつ てくれた古い女たち

そんな女たちの一人を僕の物語の なかに引き入れて虔ましく生かせてやりたいのです(3) (八月三十一日付け加藤多恵宛) 草の中に寝ころびながら、アベラアルとエロイーズの手紙   ( 4) を 読 ん だ。 妻 た ら ん よ り は 恋 人 た ら ん こ と を 欲 し て ( す で に ア ベ ラ ア ル の 胤 を 宿 し な が ら ) ア ベ ラ ア ル の 求 婚 をも斥けたエロイーズの気持など、それも一時ですぐ男の 言 ふ な り に な つ て ゆ く 気 持 も 面 白 い。 ( 略 )

そ ん な 殊 勝 なエロイーズだとか、いつか君にも読ませた「ぽるとがる 文 」( 5) の は げ し い 気 持 の 作 者 だ と か、 さ う い つ た 僕 の 快心の女性にちかい女のひとを、古い日本の時代に架空し て、そんな女性の残した日記みたいなものを、今度僕は発 奮して書いてみたいんだ。

  ここから、 リルケの愛したといわれる 「アベラアルとエロイー ズの書簡」や「ぽるとがる文」に登場する女を日本の王朝文学 に置き換えようという堀の構想が読み取れる。当初は「古い日 本の時代に架空して」創作するつもりだったことが伺える。九 月に入ると作品が『蜻蛉日記』に絞られてくる。 (九月十二日付け佐藤恒子宛) 一週間ばかり閉じ籠もつて「蜻蛉日記」といふ古い日本の 女 の ひ と の 書 い た 日 記 を 読 み 続 け て ゐ ま し た   ち よ つ と 「ぽるとがる文」 にも共通する   女性のきびしい気持ち (男 に対する) がとてもいい

さういふものを今度ねらつて、 書きたいと思つてゐます (九月十五日付け神西清宛) ジョーヂ ・ ムアの「エロイーズとアベラール」といふ小説、 ああいつた行き方で、今度は僕「蜻蛉日記」を自分のもの にして書き直さうと企ててゐる (九月二十一日付け佐藤恒子宛) 内容は前に「物語の女」でやつたやうな中年の貴婦人の日 記

しかし今度は所謂矜高き女性なるものを出来るだけ 不幸な不幸な目に遇はせてやりたいものです   しかもその 原因といふのが移り気の多いつれない夫に真面目な深い愛 を求めたがためなのです   日本の女の書いた一番最初の古 い日記である「蜻蛉日記」といふのがさういふ主題を自ら もつてゐるのです     書簡からは、堀が西欧文学の中の恋する女の姿に通じるもの を、 『 蜻 蛉 日 記 』 の 女 に 見 出 し て い た こ と が わ か る。 佐 藤 恒 子 に は「 そ ん な 古 い も の を 出 来 る だ け

operation

な ど を 加 へ ず に そ の ま ま 使 用 し て 」( 九 月 二 十 一 日 付 け 書 簡 ) 現 代 に 蘇 ら せ た

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いという堀の意図も語っている。これらの書簡の内容は、のち に「七つの手紙   或女友達に」 (『新潮』昭和十三年八月、原題 は「 山 村 雑 記 」) と し て 整 理 さ れ、 単 行 本『 か げ ろ ふ の 日 記 』 の序として所収される。 こんどの仕事には、 (アベラールとエロイーズのような) (引 用者注)さういふ手紙や日記を残していつた昔の不幸な恋 人たちの一人を取り上げて見たいのです。さう、まあ王朝 時代のものなら申分ありませんが(略)それを私がちょっ と換骨奪胎しただけでそのまま私の好みの物語になつて呉 れ る や う な も の が あ り は し な い か 知 ら ん?( 「 七 つ の 手 紙 〈一〉 」)

『蜻蛉日記』といふのは、 あの「ぽるとがる文」などで我々 を打つものに似たものさへ持つてゐる所の、

いはば、そ れが恋する女たちの永遠の姿でもあるかのやうに

愛せら れることは出来ても自ら愛することを知らない男に執拗な ほど愛を求めつづけ、その求むべからざるを身にしみて知 るに及んではせめて自分がそのためにこれほど苦しめられ たといふ事だけでも男に分からせやうとし、それにも遂に 絶望して、自らの苦しみそのものの中に一種の慰藉を求め るに至る不幸な女の日記です。 (「七つの手紙〈二〉 」)   堀 は、 王 朝 時 代 の 日 記 や 家 集 の 中 に、 「 換 骨 奪 胎 」 し て「 私 の 好 み の 物 語 に な つ て 呉 れ る や う な も の 」 を 探 し、 「 女 と し て 苦しい思ひのありつたけをした」 「不幸な女の日記」 である 『蜻 蛉 日 記 』 に た ど り 着 い た の で あ る。 そ し て、 『 蜻 蛉 日 記 』 の 女 の 苦 悩 す る 姿 に、 「 エ ロ イ ー ズ 」 の 純 粋 に 愛 す る 姿 や、 愛 の 苦 悩を訴える「ぽるとがる文」の作者の激しい気性に通じるもの があることを感じ取っている。数ある王朝文学の中で、愛に生 きる純粋さ 〈エロイィズ的愛〉 と、 愛の苦悩を訴える激しさ 〈「ぽ るとがる文」の作者的愛〉を併せ持つ女性が『蜻蛉日記』の女 主人公藤原道綱母だったと考えられる。これが『蜻蛉日記』を 素材に選んだ一つ目の理由である。   二 つ 目 の 理 由 は、 『 蜻 蛉 日 記 』 下 巻 に あ る 右 馬 頭 遠 度 の 養 女 へ の 求 婚 譚 に、 「 物 語 の 女 」 の 母 と 娘 と 森 於 兎 彦 の モ チ ー フ に 通じるものを感じとったからではないかと考える。前述したよ うに、 「風立ちぬ」や「かげろふの日記」を執筆していた時期、 堀 は「 物 語 の 女 」 の 続 編 の 創 作 を 模 索 し て い た。 『 蜻 蛉 日 記 』 の女主人公の複雑な心理を読み解くことによって、堀は「物語 の女」続編への助走としたかったのではないだろうか。このこ とについては「ほととぎす」論を新たに起こして考察したい。   三 つ め の 理 由 は、 「 姥 捨 記 」( 『 文 学 界 』 昭 和 十 六 年 八 月 号 ) の次の文から推測できる。 決して世間並みに仕合せではなかつたその淋しさうな (『更 級 日 記 』 の )( 引 用 者 注 ) 作 者 す ら も 何 ん と な く 仕 合 せ に 見え、本当にかはいさうなのは矢つ張「かげろふ」の作者 であるやうな気がした。さうしてそのとき私が一つの試練 でもあるかのやうに自分をその前に立ち続けさせてゐたの は、その何処までも詮め切れずにゐるやうな、一番かはい さうな女であつたのだ。

  堀にとって『更級日記』の女は「何んとなく仕合せ」で、 「本

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当にかはいさう」なのは、永遠の愛を求めてもがき苦しむ『蜻 蛉日記』の女だった。その女に寄り添うことが、創作に行き詰 まっていた堀が最初に取り組むべき課題だった。こうして『蜻 蛉日記』が小説の素材として最初に選ばれたのではないかと考 える。

  で は、 『 蜻 蛉 日 記 』 を ど の よ う に「 換 骨 奪 胎 」 さ せ た の か 次 章で述べてみたい。

2   『蜻蛉日記』上巻との比較

  

  「かげろふの日記」は、

(その一)から(その八)まで計八章 か ら な る 中 編 小 説 で、 『 蜻 蛉 日 記 』 上 巻 と 中 巻 の 内 容 を 素 材 と している。本章では『蜻蛉日記』上巻の内容と「かげろふの日 記」を比較する。

  『蜻蛉日記』は、

天暦八年(九五四年)から天延二年(九七四 年) までの二十一年間に及ぶ道綱母と藤原兼家との結婚生活や、 身辺の出来事を描いている。兼家からの求婚、 結婚、 道綱出産、 多情な夫への不信や不満、そして破婚を迎えるまでの女主人公 の 苦 悩 を 克 明 に 記 し た 王 朝 女 流 日 記 文 学 の 最 初 の 作 品 で あ る。 平安時代の女性が自分の人生と向き合い、自我を封印せず、逆 に、それを世間に問おうとした強い意志が感じられる。

  上巻は、天暦八年から安和元年(九六八年)までの十五年間 の 日 記 で あ り、 「 か く あ り し 時 過 ぎ て、 世 の 中 に い と も の は か なく、とにもかくにもつかで、世に経る人ありけり」という序 文 に 始 ま り、 「 な ほ も の は か な き を 思 へ ば、 あ る か な き か の こ こちするかげろふの日記というべし」 という結文で閉じられる。 相 聞 歌 や 周 辺 の 人 々 と の 贈 答 歌 が 時 の 流 れ に 沿 っ て 配 列 さ れ、 歌物語的な構成となっている。不安に暮れる兼家との結婚生活 を語る道綱母の「身の上」の記録であり、序文と結文に共通す る「 も の は か な し 」( ど こ と な く 頼 り な い、 は か な い ) と い う 一言で枠組みされた日記と言える。堀は上巻の結文を「かげろ ふの日記」のエピグラフに据え、題名もここから取っている。   ここで、伊牟田経久の『蜻蛉日記』上巻の構成表(6)を参 考に、八段落に分けて上巻の内容を概観してみたい。 〈1〉序文、兼家との結婚 兼家の求婚から結婚、父倫寧の陸奥への旅立ち、道綱出 産などを描く。 〈2〉町の小路の女 町の小路の女の出現と出産に悩む道綱母の姿や、桃の節 句 を 過 ぎ て 姉 が 夫 に 付 い て 転 居 し て い く 寂 し さ を 描 く。 兼家妻の時姫を見舞い、贈答歌を交わす。町の小路の女 が兼家の寵愛を失うことを喜ぶ道綱母。兼家との贈答歌 (長歌)などで待つ身の辛さを訴える。 〈3〉兵部卿の宮 兵部卿の宮と贈答歌を交換。宮より薄を賜り語り合う。 〈4〉母の死 母の死で極度の失意に陥る。一周忌祓を兼家が執り行っ てくれるか不安に陥る。叔母と悲しみを共有する。 〈5〉兼家発病 兼家は道綱母の家で発病し自宅へ戻る。兼家に乞われて 道綱母は兼家邸を訪れ、夫と一夜を過ごす。祭り見物や

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五月の節会など季節の風物が記される。 〈6〉はかなき身を嘆く 泔

ゆするぎ

坏 の水がそのままになっているのを見て、兼家の訪れ が遠のいていることを嘆く。稲荷詣で、賀茂詣でなど神 仏に祈念して心を慰めようとする。 〈7〉村上帝崩御、登子を見舞う 村上帝崩御後、佐理の出家を思い、登子に歌を贈る。 〈8〉初瀬詣で 初瀬詣でに出かける。 宇治で兼家一行が道綱母を出迎え、 忘れがたい思い出となる。御祓、大嘗会などを行い、年 の暮れを迎える。結び

えた人生を模索する」 (8)女という見方もある。 う立場で制度に従い、受け身に生きるしかない中で、制度を越 地等々の自画像」 (7)という評価があてはまる一方、 「妻とい 利 か な か っ た り、 黙 っ て 参 籠 し た り す る。 「 憎 悪 嫉 妬 昂 奮 依 怙 の女に対する嫉妬を露わにする。また、夫が訪ねてきても口も   『 蜻 蛉 日 記 』 上 巻 の 道 綱 母 は、 不 実 な 夫 に 苦 し み、 町 の 小 路

  『蜻蛉日記』

上巻の内容は 「かげろふの日記」 の(その一) と(そ の二)の章に生かされている。 (その一)では、序文に始まり、 兼家との結婚、道綱出産などの出来事が『蜻蛉日記』上巻の構 成 に し た が い、 殆 ど 原 作 ど お り に 再 現 さ れ て い る。 ( そ の 二 ) には、 「泔坏の水」の挿話と、 「町の小路の女」の男子出産、そ の女が兼家の寵愛を失う出来事が描かれている。

  堀の取捨選択はどの視点から行われたのだろうか。そのキー ワ ー ド が、 『 蜻 蛉 日 記 』 上 巻 を 枠 組 み す る「 も の は か な し 」 と いう言葉ではないかと推測する。結婚生活に安住できない女主 人公の「ものはかなさ」を強調することが、堀の創作のポイン トとなっているのではないだろうか。   こ の「 も の は か な さ 」 を 念 頭 に 置 き、 『 蜻 蛉 日 記 』 上 巻 か ら 削除された部分と、そのまま生かされた部分、堀による創作部 分 の 三 つ の 部 分 か ら、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 に お け る 堀 の「 換 骨 奪胎」について考察してみたい。   まず、 『蜻蛉日記』にある多くの和歌は削除された。 「かげろ ふの日記」 が小説であることを考えればやむを得ない。しかし、 「 わ が 頼 も し き 人 」 と 道 綱 母 が 上 巻 で 述 べ て い る 父 親 倫 寧 が、 陸奥守として東北へ出立するエピソードと、父が兼家に宛てた 「 君 を の み た の む 旅 な る 心 に は 行 末 と ほ く 思 ほ ゆ る か な 」 と い う和歌は採用された。これを読んだ兼家が道綱母を力づけよう としたことも『蜻蛉日記』の内容に準じて表現している。最も 頼りにしていた父との別れは、結婚からまだ日が浅く、夫に頼 りきれない状態にある道綱母を不安にさせる出来事だった。   ま た、 「 町 の 小 路 の 女 」 の 出 現 に よ っ て 夫 の 夜 離 れ が 進 み、 苦悩を募らせる道綱母が詠んだ「歎きつつひとりぬる夜の明く るまはいかにひさしきものとかは知る」という和歌も小説に挿 入されている。百人一首にも採用されたこの一首は、不幸な生 活とそれに起因する不満や苦悩を印象づける効果があり、王朝 文学の雰囲気を漂わせている。   母 の 死 に 嘆 き 悲 し む 道 綱 母 の 姿 は、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 で は 省かれるが、道綱母の姉が、通ってくる男に導かれて屋敷から 去っていく出来事は書かれている。道綱母は頼りにしていた姉

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も失い、悲しみを深めていく。

  つづく「兼家発病」と「兼家邸訪問」 、「初瀬詣で」と「兼家 の迎え」の場面は「かげろふの日記」にはない。この二つのエ ピソードは、道綱母が兼家とともに過ごし、妻としての喜びや プライドが保たれる場面である。堀は、女主人公が夫や周囲か ら妻として認められ、 プライドを回復する場面は削除している。

  つまり、 『蜻蛉日記』 にある道綱母の苦悩する姿を生かして 「か げろふの日記」は再構成されたといえるだろう。   では、堀はどのような創作を施しているのだろうか。女主人 公の心理を表現している(その一)の、 次の一文を見てみよう。 かうしてお離れになればなるほど、あの方についぞいまま で 覚 え の な か つ た 位 に お 慕 わ し さ の つ の つ て 来 る 自 分 を ば、どうしやうもなくてゐた。

耳を側立ててゐるのだつた。 往かれるのを、何処までも追ふやうにして、私は我知らず りすぎになつたあの方が、だんだんその咳と共に遠のいて 一方では、いましがた私の家の前を咳をなさりながらお通 う一方で、思いとは裏腹に女主人公は耳をそばだてる。 あ る。 「 な ん と か し て あ れ だ け は 聞 か ず に ゐ た い も の だ 」 と 思 彼女の家の前を素通りしていく場面でも、彼女の思いは複雑で に矛盾する切ない思いが彼女の内面にある。兼家の乗った車が る一方で、今まで以上に夫を慕わしく思ってしまう。このよう   「 か げ ろ ふ の 日 記 」 の 女 主 人 公 は、 訪 れ の な い 夫 を 恨 ん で い

  夫を乗せた車の音を聞きたくない思いは、家の前を素通りさ れる悔しさと惨めさを味わうからである。 それにもかかわらず、 女主人公は車が遠のいていく音を 「何処までも追」 ってしまう。 ここにも苦悩の原因である夫を慕い続けてしまう道綱母の切な い女心を見ることができる。堀は『蜻蛉日記』に書かれていな い女主人公の心理を「かげろふの日記」に書き加え、他者に頼 らないではいられない女主人公の「ものはなかさ」を前景化さ せているのである。   女主人公と関係性の弱い人々との交流や、女主人公のプライ ドが保たれる場面は省かれ、彼女の不安や苦悩の原因となる不 幸 な 出 来 事 は、 『 蜻 蛉 日 記 』 の 内 容 が 生 か さ れ た。 さ ら に、 頼 りにならない不実な夫を慕い続けてしまう女主人公の切ない女 心を新たに書き加えることによって、彼女の苦悩する姿が一層 強 調 さ れ る こ と に な っ た。 堀 は、 『 蜻 蛉 日 記 』 上 巻 を 枠 組 み す る「ものはなかし」をモチーフに、 「かげろふの日記」 (その一) と(その二)を創作したと考えられるのである。 3

  『蜻蛉日記』中巻との比較   で は、 『 蜻 蛉 日 記 』 中 巻 は「 か げ ろ ふ の 日 記 」 に ど の よ う に 反映しているのだろうか。 「かげろふの日記」 (その二)から最 終 章( そ の 八 ) と、 『 蜻 蛉 日 記 』 中 巻 は、 一 見 ほ と ん ど 違 い が な い よ う に 見 え る。 船 橋 は、 「 成 功 と は 申 し が た い( 略 ) も っ と原文をはなれて、堀君の創作にして欲しかつた。 」(9)と述 べている。このように、 「かげろふの日記」は発表当時から『蜻 蛉日記』の原文に忠実すぎるという評価が下されていた。

  しかし、 「かげろふの日記」には、 『蜻蛉日記』の内容を越え て、苦悩から自立していく女性を描いた堀のオリジナリティが

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感 じ ら れ る。 な ぜ な ら、 『 蜻 蛉 日 記 』 の 作 者 道 綱 母 は 人 生 を 諦 観するに至るが、不幸な結婚に対する苦悩からは逃れられない のに対し、 「かげろふの日記」の女主人公は、 「自分を苦しめた 男をいまは反つて見下ろしてゐられるやうな、高揚した心の状 態」 (

10)をもつ女性へと成長していくからである。

げろふの日記」を創作したのではないだろうか。 がっていく女の物語として、 『蜻蛉日記』を「換骨奪胎」し、 「か 日記文学に認めた堀は、苦悩と孤独の底からしたたかに這い上 獲得していく。西欧文学にある「恋する女の永遠の姿」を王朝 によって、苦しみさえも命の糧として受け入れていく生き方を   「 あ る か な き か 」 の 心 細 い 心 境 で 生 き て き た 女 主 人 公 は、 堀

ら三十六歳までの三年間の生活や身辺雑記が記されている。 元旦から天禄二年(九七一年)の年末まで、道綱母三十四歳か   『 蜻 蛉 日 記 』 中 巻 に は、 上 巻 に 続 く、 安 和 二 年( 九 六 九 年 )

  ここで、小学館『新編日本古典文学全集

13』の段落構成と小

見出しを参考に、 『蜻蛉日記』中巻の内容を概観してみたい。 〈一〉新年にあたり、 「三十日三十夜はわがもとに」という年賀 の寿歌を詠むが、夫兼家の訪れはない。 〈 二 〉 三 月 三 日 桃 の 節 句 に、 道 綱 母 の 侍 女 と 兼 家 の 侍 と が た わ むれに歌を交わす。 〈三〉安和の変による左大臣藤原高明の流謫に同情する。 〈 四 〉 病 と な っ た 心 細 さ か ら 息 子 の 行 く 末 を 案 じ、 兼 家 に 宛 て て遺書をしたためる。 〈五〉愛宮(前左大臣高明室)に長歌を贈り慰める。 〈六〉小一条の左大臣五十の賀の屏風歌二首採用される。 〈七〉内裏の賭弓での息子道綱の活躍に安堵と喜びを感じる。 〈 八 〉 兼 家 の 来 ぬ 夜 が 三 十 余 日、 昼 が 四 十 余 日 と な り、 夫 の 急 変に、対処するすべもなく苦悩する。 〈 九 〉 心 の 置 き 所 な い ま ま、 唐 崎( 琵 琶 湖 の 西 浜 に あ る 崎 ) に 祓いに行き、自然の風景に心が解放される。 〈十〉   貞観殿の御方(兼家の妹・登子)との和歌の交流に慰め ら れ る が、 夫 へ の 不 満 が 募 り、 尼 に な っ て 執 着 を 断 ち 切 ろうと道綱に告げる。すると、 「私も法師になる」と言っ て道綱は飼っていた鷹を放ってしまう。 〈十一〉近江という女の存在を知り、決心して石山詣でに出る。 自然や風物に慰藉を受ける。 〈 十 二 〉 道 綱 の 元 服 を め ぐ る 夫 婦 の 交 流 や、 権 勢 を 誇 る 夫 へ の 憧 憬 と 同 時 に、 夫 と の 隔 た り を 悲 し む。 身 辺 の 雑 事 を 見つめ、自己を振り返る。 〈十三〉兼家と近江の関係が進み、門前を素通りされる。 〈十四〉人からもらった呉竹を庭に植える。有終の極みに達し、 道綱を伴い父の家で長精進を行う。 〈十五〉兼家の前渡りせぬ世にと、鳴滝へ立つ。 〈 十 六 〉 鳴 滝 般 若 寺 に 到 着 後、 兼 家 が 追 っ て く る。 道 綱 が 取 り つぎ役をするが、道綱母の決意は固い。 〈 十 七 〉 閑 静 な 山 寺 で 心 穏 や か に 精 進 し な が ら 尼 に で も な ろ う と道綱にこぼす。叔母や妹が慰めに訪れる。 〈十八〉兼家の使者が下山を勧めに来る。 〈 十 九 〉 京 に 帰 し た 道 綱 が、 雨 中、 夫 か ら の 文 を 持 っ て 戻 っ て くる。

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〈二十〉親族たちが見舞いに来る。 〈二十一〉兼家の長男道隆が来訪し、下山を勧める。 〈 二 十 二 〉 父 倫 寧 か ら も 下 山 を 勧 め る 文 が 届 く。 兼 家 に よ っ て 強引に京へ連れ戻される。 〈二十三〉帰宅後、磊落な兼家の冗談を聞き流す。方角が悪く、 夜 分 に 帰 っ て 行 く 兼 家 を 見 送 る。 結 局、 夫 婦 間 の 溝 は埋まらない。 〈二十四〉またも兼家の訪れが途絶えがちな生活 〈 二 十 五 〉 父 倫 寧 に 伴 っ て 再 度 初 瀬 詣 で に 出 か け、 兼 家 が 迎 え に来てくれた昔を懐かしむ。 〈二十六〉しめやかな人生観照   以 上 の よ う に、 『 蜻 蛉 日 記 』 中 巻 に は、 上 巻 の 不 安 定 な 夫 婦 関 係 が 進 行 し、 夜 離 れ の 続 く 夫 を 待 つ 身 の 辛 さ を 耐 え し の び、 病によっていっそう心細さを増す女主人公の姿が描かれる。上 巻と異なるのは、道綱母が唐崎祓い、石山詣で、鳴滝般若寺へ の山籠もり、初瀬詣でなど、慰藉を求めてたびたび参詣に出か けることである。その道中で出会う人々や自然の情景に心を動 かされて、一時、執着から解放される。この参詣に伴う情景描 写が中巻では多くなる一方、上巻に比べて和歌の数は少なくな る。自然描写が増えていき、散文が多くなるのが中巻の特徴と 言える。   では、堀の「かげろふの日記」は『蜻蛉日記』中巻をどのよ うに反映させているのだろうか。まず、中巻から削除された部 分について見てみたい。

  『蜻蛉日記』

にある章で削除されたのは、 見出し 〈一〉 〈二〉 〈三〉 〈五〉 〈六〉 〈十一〉 〈十八〉 〈二十五〉 〈二十六〉である。

  削除部分の内容をまとめると次の二点に絞られる。 ①   道綱母との関係性が強くない人物が描かれている部分 ②   唐崎祓え、石山詣で、父の家での長精進、再度の初瀬詣 で

  ①は、 『蜻蛉日記』上巻を反映させた「かげろふの日記」 (そ の一) (その二)にも見られたように、作中人物を絞ることで、 女主人公である道綱母と夫兼家、子道綱との関係をより凝縮さ せる効果があると考えられる。

  ②は、女主人公が苦悩から逃れるために参詣を繰り返す部分 である。堀はこの大部分を削除し、鳴滝山籠りの部分だけを残 した。鳴滝から下山したあと、女主人公の心情は、苦悩から諦 観へと変化する。多くの精進の中で、女主人公に与えた影響が もっとも大きかったのが鳴滝山籠りだと考えられる。 そのため、 鳴滝山籠りだけが「かげろふの日記」に選ばれ、この場面をも とにして、堀は『蜻蛉日記』の道綱母とは別の生き方をつかん だ「かげろふの日記」の女主人公を創作したと筆者は考える。

  鳴滝山籠りは「かげろふの日記」の女主人公の生き方をどの ように変化させたのだろうか。   堀は、 「かげろふの日記」 (その四)後半から(その六)まで を こ の 鳴 滝 山 籠 り に あ て た。 ( そ の 四 ) で、 女 主 人 公 は「 こ ん な私なんぞは、いつその事これつきり何処かへひそかに身を引 い て し ま つ た 方 が い い の で は な い か し ら。 」 と、 尼 に な る 覚 悟 を持って西山の鳴滝般若寺に籠る決心をする。夫や夫の使者な どが次々とやって来ては道綱母に下山を勧める。道綱母は頑と

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して帰らない。この様子は『蜻蛉日記』中巻に準じて描かれて いる。頑なに山籠りを続けていた女主人公が、突然雷に見舞わ れるシーンを『蜻蛉日記』の表現と比べてみよう。 時しもあれ、雨いたく降り、神いといたく鳴るを、胸塞が りて嘆く。 (『蜻蛉日記』中巻)

  『蜻蛉日記』

の道綱母は、 雷の恐怖におびえる弱い存在である。 し か し、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 で は、 女 主 人 公 の 心 理 が こ の 場 面 を境に変化していく。その変化を(その五)にある次の文章で 確認してみたい。 ①   いつそこの儘、かうして自分が死にでもしたら、せめ てはそんな痛ましい最後がをりをりあの方に自分の事を思 ひ出させ、そのお心を充たしてくれるかも知れない。 ②   この間と丁度同じやうな時刻になると、突然夕立が来 た。 ( 略 ) し か し、 私 は 今 度 は 簾 も 下 ろ さ ず に 横 な ぐ り の 雨に打たれながら大木が苦しみもだえるやうな身ぶりをし てゐるのを、ときどき顔をもたげては、こはごはぢつと見 入つてゐた。さうして私は自分が本当に苦しむことを好ん でゐるのだつたら、こんなに何もこはがりはしないだらう にと思ひかへしながら、だんだん長いことそれを見つめだ してゐた。 ③   いつか知らず識らずの裡に自分自身をその稲光りがさ つと浴びせるがままに任せ出してゐた。恰もさうやつて我 慢をしてゐる事だけが自分のもう唯一の生き甲斐でもある かのやうに。

  女主人公は、初めは①にあるように、自分が死んだらその最 後を夫が思い出してくれるだろうかと慎ましく考えている。し かし、②では、もし自分が苦しむことを好んでいるのならなに も 怖 が る こ と は な い と 敢 え て 雷 を 見 つ め 出 す よ う に 挑 戦 的 に なっていく。さらに③では、稲光を怖がりもせず、かえって我 慢することが生き甲斐だと考えるようになる。恐怖や苦悩を自 らの喜びとし、我慢することさえ生き甲斐として受け止めよう とする態度を 「かげろふの日記」 の女主人公は獲得しつつある。

  この出来事のあと、女主人公は山籠もりから夫によって強引 に連れ戻される。豪放磊落な兼家は冗談など言いながら道綱母 を 連 れ て 帰 っ て 来 る が、 方 角 が ふ さ が っ て い る こ と を 知 る と、 「 方 あ き な ば こ そ ま ゐ り 来 べ か な れ 」 な ど と 言 っ て 帰 っ て し ま う。堀はこの場面の道綱母の心情を(その六)で次のように表 現した。 生憎な物忌のために、しばらく私からお遠のきになつて入 らつしやる間に、又昔のやうにつれなくおなりになられさ うな事ぐらゐは、 私にもよく分かつてゐた。 しかし、 私には、 それをそのままに任せて置くよりしかたがないのだつた。

  鳴滝山籠りが「心境的には一つの転機」になったとする国文 学研究の立場からの指摘がある(

11)。一方、

「かげろふの日記」 研究の立場から、村橋が「下山後の女主人公の心には大きな変 化 」 が 生 じ、 「 そ の 変 化 を 彼 女 は 自 覚 し て い る。 」(

ている。その根拠となるのが以下に示す 「かげろふの日記」 (そ 公は、そういう変化が自分の内面に起こっていることに気づい 蛉 日 記 』 と 変 わ ら な い。 し か し、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 の 女 主 人 ているのは興味深い。道綱母が人生に諦めを感じる点では、 『蜻 12) と 述 べ

(11)

の七)の文章である。

  矢つ張自分の思つたとほり、少しはお心が変られるのか な と 考 へ た の は あ の 時 の 私 の 考 へ 過 し で、 あ の 方 は 相 変 ら ず 以 前 の あ の 方 だ け だ つ た の ら し い。 さ う し て 私 だ け が

さう、 私は少くとも、 あの山から帰つて来てからは、 もう昔のやうな私ではなくなりかけてゐるのだ。

  この変化を、兼家の異母妹である登子への文の中で、女主人 公は自ら次のように分析する。 苦しい思ひも、みんなあの方が私にお與へ下さるものとお もへば反つていとしくて、或時などは自分から好んでそれ を 求 め た ほ ど で ご ざ い ま し た。 ( 略 ) そ ん な 苦 し み が 無 け ればないで、反つて一層はかなく、殆どわが身があるかな いかになつてしまひはせぬかと思はれる程なのでございま すから。

  彼女は、 「苦しみ」があることによって、 「わが身があるかな いか」 の状態から救出されていると自覚しているのである。 『蜻 蛉日記』の道綱母が、山から下りても嘆き悲しむ状態から脱し き れ な い の に 対 し、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 の 女 主 人 公 は、 明 ら か に前向きな人生へ向かおうとしている。 私にとつては命の糧にも等しいほどな、その苦しみのお値 打ちにも、それを私にお與へ下さつてゐるご当人は少しも お 気 づ き に な つ て 入 ら つ し ゃ い ま せ ん や う な の で す も の。 私はそれをば此頃あの方のために何だかお気の毒に思つて をります位。

  このように苦しみさえも生きる糧とし、逆にその苦しみを与 えてくれる夫がそれに気づかないのを気の毒に思っているので ある。そして、女主人公は次の結論に至る。 私はもう昔みたいにあの方のためになんぞ苦しむまいとは 思はないが好いのだ。 いくらあの方からお離れしようとも、 もう自分がお離れできない事はよく私にも分かつてゐる筈 だらうから。

  夫から離れられない自分を自覚した女主人公は、苦しみから 逃れない生き方を選んでいく。   さ ら に、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 終 章( そ の 八 ) に は、 夫 へ の 執 着を乗り越えた女主人公の態度がより明確に描かれている。 あの方のお心の中がすつかり見え透いてでもゐるかのやう に、あんまり言ひわけがましく仰やるのを反つてをかしい 位に思ひながら、あの方をいかにも何気なさうにおもてな しをしてゐた。そんな自分を自分でもずゐぶん昔とは変っ たなと思つてゐたが、流石にあの方もさう云つた今の私が まるで別人のやうにお見えになるらしく、それが何時も屈 託なささうにして入らつしゃるあの方までを、いくらか不 安におさせしてゐるらしかつた。

  突 然 来 訪 し た 夫 を、 女 主 人 公 は 落 ち 着 い た 態 度 で 出 迎 え る。 す べ て を 受 け 入 れ る そ の 態 度 に、 反 っ て 夫 が 不 安 が る 場 面 だ。 ここで夫婦の立場は逆転する。   こ の 後、 兼 家 が 父 倫 寧 の 家 に 移 り 住 ん で い た 道 綱 母 を 訪 ね、 そばにあった香や数珠を投げ散らかして苛立ちを露わにする場 面 が あ る。 「 身 じ ろ ぎ も せ ず に、 ど ん な 事 を な さ れ や う と も ぢ つとこらへながらあの方のなさるがままにさせて」いたとある

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よ う に、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 の 女 主 人 公 は、 狼 狽 す る こ と な く 夫 の 狼 藉 を 傍 観 し て い る。 そ ん な 彼 女 の 目 に は、 「 乱 暴 な 事 を なさりながら、反つてあの方が私にお苦しめられてゐる」よう に映る。そして、兼家がそれには「一向お気づきなされやうと もせずに入らつしやる」のが「私には分かつて来た」と、夫を 冷 静 に 分 析 す る。 そ し て、 「 私 の た め に お 苦 し め に な つ た な ん ぞと云ふ事をあの方にはお分かりにならせぬのが、せめてもの 私の思ひやりでもある」と無理解な夫をそのまま受け入れ、情 けまでかけている。以前の女主人公なら、夫に苦しめられてい ることを夫に分からせようとしたり、自分が死んだら夫は思い 出 し て く れ る だ ろ う か と 気 弱 に 考 え た り し て い た に ち が い な い。

  結婚生活に不満や不安を抱き、苦しんだ末に「かげろふの日 記」の女主人公がたどり着いたのは、苦しみから逃れようとす るのではなく、苦しみをあるがままに受け止め、それを「命の 糧」 として生きる生き方であったと考えられる。 堀は諦観に至っ た女主人公を諦観に留めず、相手より優位に立たせ、すべてを 受け入れる積極的な生き方を彼女に獲得させたのである。

ま せ う 」( 事は、この作品を私のものとして世に問ふ唯一の口実ともなり 態を、私がその苦しい女主人公のために最後に見つけてやつた 男をいまは反つて見下ろしてゐられるやうな、高揚した心の状   「   七 つ の 手 紙 或 女 友 達 に 」 の 中 で、 堀 は「 自 分 を 苦 し め た

堀 は、 「 か げ ろ ふ の 日 記 」 で、 苦 し み も 悲 し み も あ る が ま ま に るとがる文」的な激しさの両面を『蜻蛉日記』の女に見出した 13) と 述 べ て い る。 「 エ ロ イ ー ズ 」 的 純 粋 さ と、 「 ぽ   「かげろふの日記」 日記」において達成されていると思われる。 造したいという堀の創作意図は、このような形で「かげろふの 完成したのである。日本の古典を「換骨奪胎」させて小説を創 ら立ち上がって運命に立ち向かっていく新たな女の物語として 送る女主人公が、自我の在り方を問い続け、苦悩の末に孤独か としてスタートした「かげろふの日記」は、不幸な結婚生活を に 寄 り 添 っ て 現 代 に 再 現 し た。 「 も の は か な し 」 を キ ー ワ ー ド 夫を慕ってしまう女の悲しい宿命を読み取り、その内面の心理 『 蜻 蛉 日 記 』 の 女 主 人 公 の 不 安 や 悲 し み、 そ し て 恨 ん で も な お 諦観の中に生きることになる。堀は、他者からは理解されない との結婚から逃れようともがくが、 結局どうすることもできず、 じょうに困難だったと思われる。その中で、道綱母は不実な夫   王 朝 時 代 の 女 性 た ち が 主 体 的 に 生 き る よ う と す る こ と は ひ おわりに く女の物語に作り変えたのである。 受け止め、それを命の糧として苦悩から立ち上がって生きてい

執筆後ほどなく、 堀は書きあぐねていた 『風 立ちぬ』 終章 「死のかげの谷」 を完成させる。 「かげろふの日記」 は、 堀の創作意欲を再燃させた作品ということもできるだろう。

  堀 の 王 朝 文 学 へ の 関 心 は こ の 後 も 続 き、 『 蜻 蛉 日 記 』 下 巻 を もとにした「ほととぎす」を昭和十四年『文藝春秋』二月号に 発表する。今後は「ほととぎす」に見られる『蜻蛉日記』下巻 の影響について検証していきたい。

(13)

注 (1)池内輝雄編『堀辰雄』 《鑑賞日本現代文学第

18巻》角川書

店   昭和五十六年十一月、一七五頁) ( 2) 小 谷 恒「 堀 辰 雄 と 折 口 信 夫

私 記 風 に 見 た 堀 辰 雄 の 一 面

」( 『 堀 辰 雄 』 日 本 文 学 研 究 資 料 叢 書   有 精 堂   昭 和 四 十 六 年 八 月、 二 七 七 頁 ) 小 谷 は「 大 森 の 室 生 犀 星 先 生 の 家 で 私 が 初 め て 堀 さ ん に 会 っ た の は 昭 和 十 一 年 」 で、 このころ「かげろふの日記(前篇) 」の準備に入っていた と書いている。 ( 3) 引 用 し た 佐 藤 恒 子、 神 西 清 に 宛 て た 書 簡 に は 句 点 が 付 さ れていない。 ( 4) 十 二 世 紀 ご ろ の フ ラ ン ス の 論 理 学 者 で あ り、 キ リ ス ト 教 神 学 者 の ア ベ ラ ー ル と、 そ の 愛 人 で 修 道 女 の エ ロ イ ー ズ と の 間 に 交 わ さ れ た 書 簡 集。 リ ル ケ の 愛 読 書 だ っ た と 言 わ れ る。 エ ロ イ ー ズ に は 愛 の 純 粋 化 を 願 う「 殊 勝 な エ ロ イーズ」のイメージがある。 ( 5) 十 七 世 紀、 ポ ル ト ガ ル の 修 道 女 マ リ ア ン ナ・ ア ル コ フ ォ ラ ー ド が、 自 分 を 捨 て て フ ラ ン ス に 帰 国 し た シ ャ シ リ ィ 侯 爵 に あ て た 書 簡 集。 現 在 で は フ ラ ン ス の ギ ュ ラ ー グ 伯 に よ る 創 作 と 考 え ら れ て い る。 リ ル ケ に よ る 独 訳 で 知 ら れ る。 作 者 マ リ ア ン ナ に は、 自 分 を 捨 て た 不 実 な 男 に 愛 の 苦 悩 を 訴 え る 激 し い 気 持 ち の 持 ち 主 と い う イ メ ー ジ が ある。 ( 6) 「『 蜻 蛉 日 記 』 上 巻 の 表 現 と 構 成 」( 『 平 安 朝 日 記 Ⅰ 』 日 本 文 学 研 究 資 料 叢 書   有 精 堂   昭 和 四 十 六 年 三 月、 二 三 四 頁) (7)

今井源衛

「右大将道綱の母」 (河出書房 『日本文学講座Ⅱ』 、 野村精一 「かげろの終焉」 注6書所収、 二二一頁より引用) (8)木村正中( 『土佐日記・蜻蛉日記』新編日本古典文学全集

( 九九頁より引用) 村橋春洋 「かげろふの日記」 論『解釈と鑑賞』 平成八年九月、 (9)船橋聖一「文芸時評」 (『解釈と鑑賞』昭和十三年一月号、 13     小学館 平成七年十月、四二五頁)

( 5巻、一八七頁) 10)   「 七 つ の 手 紙 或 女 友 達 に 」( 角 川 出 版『 堀 辰 雄 全 集 』 第

11)木村正中『蜻蛉日記』解説(注8書、四一三頁)

12)村橋春洋「かげろふの日記」論(注9書所収、一〇二頁)

13)(注 10と同じ)

       (平成元年度修了生)

参照

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本稿は徐訏の短編小説「春」 ( 1948 )を取り上げ、

ると︑上手から士人の娘︽腕に圧縮した小さい人間の首を下げて ペ贋︲ロ

『いくさと愛と』(監修,東京新聞出版局, 1997 年),『木更津の女たち』(共

5日平均 10日平均 14日平均 15日平均 20日平均 30日平均 4/8〜5/12 0.152 0.163 0.089 0.055 0.005 0.096. 

凛々さん 小3 ・大槌子ども オーケストラ / バイオリン.

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日本への輸入 作成日から 12 か月 作成日から 12 か月 英国への輸出 作成日から2年 作成日から 12 か月.

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