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地域の歴史や伝統文化に根ざした新しい地域活動の創造 −博多部を中心に− [ PDF

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Academic year: 2021

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(1)地域の歴史や伝統文化に根ざした新しい地域活動の創造 ー博多部を中心にー キーワード: 博多町割. コミュニティ形成の拠点. 開かれた学校. 総合的な学習. 子ども文化づくり. 発達・ 社会システム専攻 土井. 加寿子. 【目次】. し、これからの新しい地域活動のあり方について究明. はじめに. する。. 第1章. 研究の視点と方法. 第1節. 研究の目的と主題設定の理由. 第2節. 研究の視点と内容・方法. 第2章. 博多の歴史や伝統文化. 【主題設定の理由】 1. 博多の街は、古代から大陸との交流が行われそ. の重要な拠点として開かれていった歴史があり、中世 以来から貿易を通して繁栄してきたことが、この地に. 第1節. 大陸との交流の夜明け. 多くの寺院や神社が集中して創建されたことによって. 第2節. 中世の博多の歴史と文化. も図り知ることができる。この大陸との交易を通して. 第3節. 博多豪商の時代. その文化が僧や交易に携わった人々によってもたらさ. 第4節. 黒田藩の治世と博多. れ、創建された寺を中心に次第に博多の町の商人や庶. 第5節. 江戸期の博多の町人の暮らしと文化. 民に伝搬し広められていったのである。これらの歴史. 第3章. 公民館を中心とした地域活動. を背景に、博多の人々によって受け継がれ現代まで守. 第1節. 公民館の役割. り続けられている伝統文化が、博多部を中心とした地. 第2節. 校区公民館に課せられた課題. 域には存在し人々の暮らしの中に息づき守り続けられ. 第3節. 校区公民館を拠点とした地域活動の実際. ている。しかし、急激な都市開発と住民の人口減少な. 地域と連携し開かれた学校づくりの推進と. どの時代の激しい変化の波が博多の町にも次第に変化. 第4章. 第1節. 地域活動. をもたらしている。この様な状況の中で博多の歴史や. 開かれた学校づくりの地域住民の拠点づく. 伝統文化に根ざした地域活動は、どのような状況にあ. りとしての機能化 第2節. 地域の生涯学習の活性化やコミュニティ形 成のための学校・地域の協働化. 第3節. 住吉子ども文化づくりの活動. 第4節. 地域とともに博多っ子を育てる「はかた学 習」の創造. 第5章. 研究のまとめ. おわりに. るのかを探り、それらを継承し守り発展させるには地 域活動としてどの様に対処していけばよいかという課 題が浮かび上がってくるのである。 2. 次に博多の伝統を守り受け継ぐ世代の育成が課. 題である。ところが1で述べたような理由によって、 地域にその機能が薄れかけていっている。然からばそ の機能を担う拠点が学校と公民館の重要な任務となっ てくる。そのことは 、「変化の激しい社会であればあ るほど、自らのよって立つ基盤を国や郷土の文化や伝. 【研究の目的】. 統の価値を深く理解し尊重し、さらに継承・発展させ. 博多部を中心に、博多の歴史や伝統文化が地域の中. る態度の育成を図ることが極めて重要です 。」と提言. で活動として継承され生かされているかを明らかに. され、また 、「文化や伝統は地域に根ざしたものが多.

(2) く、地域の人々の思いや願いがが脈々と受け継がれて. 【本研究の概要】. きたものである。子どもたちが文化や伝統との関わり を深め、自分の生まれ育ったところを誇りに思い感動. 第2章. 博多の歴史や伝統文化. する心をもつことによって 、『生きる力』の根底を支. 「博多」という町が幾多の歴史的変遷を経て形成さ. える云々」とも提言している。さらに 、「文化や伝統. れ、博多に継承され現在までも守り続けられている数. を大切にする心を育てる教育は、地域社会の教育力の. 々の伝統文化は、いつ頃どの様にして形成されていっ. 再生を図り、学校・家庭・地域社会が連携を深めるた. たのだろうかという問いが根底に常に存在していた。. めの大きな役割を果たすものである。」と示し、これ. 1. 博多という呼び名が文献上初めて出てくるの. から学校ではどのように地域の歴史や伝統・文化を取. は、 759 年の「続日本記」で、『博多大津、壱岐、対. り込んで、子どもたちの中に再構成し新たな意義を創. 馬の防備を』という文言で中央朝廷から太宰府にださ. 造し、地域へ発信していくことが出来るかを探究して. れた命令にある。古代より海に開けた土地条件を生か. いく必要がある。同様に校区公民館も変貌していく中. し、太宰府政庁の外港として外交・貿易を担当し、 「鴻. に、校区住民との交流の拠点として地域活動を創造し. 臚館」と共にその任を果たしてきた。8 世紀から 9 世. 参画してもらえる「場」と機能を継承・発展していけ. 紀前半にかけて新羅や唐の商人たちが来航し商取引が. るか問われている。学校と公民館は、地域への「架け. 盛んになり、それと共に文化の受け入れ口として湊「冷. 橋」としての機能を新たに創造していく課題に迫られ. 泉津」は賑わい文化の華が咲き誇る国際的な都市とな. ていると考える。. っていった。. 3. 地域の歴史や伝統文化に関する意識調査を3小. 2. 中世の博多. 学校 690 世帯で実施した。その結果、知名度の高い行. 平清盛が太宰大弐に任命され日宋貿易を政権の財源. 事については意識度も参加度も高いが、地域の行事や. とし、冷泉津を整備し神埼から「櫛田神社」を勧請し. 活動については余り知られておらず( 10 %)参加も. た。また、「袖の湊」を築いたとされている。. 少ない。中には地域活動についてもっと知りたいし、. 鎌倉期以降の博多の都市的発展、つまり対外関係、. 活動にも参加していきたいという思いもある。よって. 物の流通、文化的なことに果たした禅宗と禅寺のもつ. 地域活動への認知と参加度を高め活性化していく方策. 意味が大きいと言える。その代表が「栄西」と聖福寺、. の必要性を感じた。. 「円爾」と承天寺である。宋・元など中国文物の日本 への移入役として禅宗を位置づけられるし、博多の日. 【研究の視点と研究方法】 ○. 本文化史に占める意義は大きいとも言える。. 地域(校区)における歴史や伝統文化には、ど. 平安時代後期になると官貿易は衰え、宋の商人によ. のようなものが守り継承されているかを、公民館を中. る私貿易が盛んになった。彼らは次第に博多に貿易の. 心とした地域活動と小学校を中心にした地域との連携. 拠点を移していった。この中国人貿易商を「博多綱首」. による活動から探り、それらを通して地域における新. と呼び、11 世紀半ば頃から博多に居住し始め 13 世紀. しい活動のあり方を究明する。. 後半まで続いた。博多綱首の果たした役割は、博多の. ○. 博多部の校区公民館へのエスノグラフィの手法. 国際都市としての地位を確立させ博多の文化水準の向. を用いてインタビューを行い記録していく。インタビ. 上に貢献した。その顕著な人物が「謝国明」である。. ューの対象は、公民館長、主事、地域団体役員を充て. 彼は承天寺を建立し 、「博多祇園山笠」の起りと関. る。小学校は同じ手法で、対象は、学校長、教頭、研. 係の深い「聖一国師」を招き、没後も「大楠様」とし. 究主任を充てる。さらに、研究発表会への参加、授業. て現在も祭られ 、「博多千灯明祭」が行われている。. 研究への参加をし記録を取り分析。. 博多は聖福寺・承天寺の建立を中核として、貿易都市. 次に地域主催事業へ参加体験を通しての研究調査 参加事業として、大浜流灌頂・博多千灯明祭・住吉名. 兼宗教都市として一つの時代を作り上げたのである。 3. その後文永・弘安の役を経て幕府は 1293 年博. 越祭・「はかたのもんフェスタ」などである。. 多に鎮西探題を置いて対外関係の中心が、太宰府から. 公民館の主催講座の受講・校区の歴史「明治の住吉」. 博多に移った。また、博多沖に妙楽寺を建て対外交流. 「博多ごりょんさん・女性の会」のインタビュー. の拠点とした。この時日朝貿易の正式な貿易権を与え. 地域の歴史や伝統文化に関する意識調査(博多小学校. られた博多商人に「宗金」がいた。中国(明)との外. ・美野島小学校・住吉小学校の保護者対象). 交・貿易を一手に引き受け活躍した。.

(3) 博多商人がますます繁栄するようになったのが、大. 校区公民館の制度が維持・発展してこられたのは、地. 内氏が博多を支配し博多を拠点とする日明貿易を独占. 域性の特性と地域課題解決の取り組みの基盤に違いを. したことからだった。博多商人の繁栄が「博多三傑」. 認めながら目標へ模索する地域の共同性の基盤が形成. と呼ばれた嶋井宗室・神屋宗湛・大賀宗九の出現で頂. されていたからである。. 点に達した。彼等は信長、秀吉の時代に朝鮮・琉球貿. そして、地域生涯学習の地域づくりの拠点としての. 易で財をなした。特に秀吉が九州征伐を果たし博多に. 公民館の役割を地域経済・生活・文化・教育・環境な. 入った際、焼土と化していた博多復興をさせるため「博. ど安定的地域社会を創出する館として位置づけられる. 多町割」を推進させた。また、茶の湯の文化や政治全. ことが重要となるのである。. 般に渡り秀吉の相談役を果たした 。「博多町割」は山. 今 21 世紀の国と自治体運営の激しい変化の中で、. 笠の「流れ」の土台となったものである。その後の大. 校区公民館への新しい期待として「公民館を地域コミ. 名たちの博多をめぐる激しい争乱の中で、博多町人が. ュニティの核に」した動きが始まった。公民館の基本. 力を結集して自治を守ったことは、貿易によって得た. 的役割の柱は「学習の場の提供」である。その活用状. 富を蓄積した活力あふれる博多町人の気概と、国際貿. 況の変化は、学習重点の活用から総合的な活動の場と. 易都市としての伝統があったからであると言える。. してますます地域性を深くしてきた状況にある。. 博多の港が次第に力を無くしていくのは、江戸幕府. 福岡市では、 1992 年『公民館見直しの提言』が出. が鎖国令を完了させ貿易の中心が直轄港の長崎に移っ. され、その観点として生涯学習時代への対応とコミュ. てからである。黒田藩の治世は長政が指揮をとり城下. ニティ形成への支援の二つである。 2004 年には区役. 町福岡の建設に藩の総力をあげて取り組んだ。この博. 所に移管されて市公民館の新たな段階が到来し、新た. 多の流通機能を黒田藩政向きに組み立て直すことを、. な校区公民館像を構築することが今問われている今. 重要課題とした。博多の町人を藩の傘下に抱え込むこ. 後、公民館を中心とした校区の社会教育とコミュニテ. とをもくろんでみたが、藩の苦労は続き商人の都市博. ィ活動をどのように作り上げていくのかが重要な課題. 多と、武士の町福岡のせりあいは明治時代までもつれ. となっている。. 込んだ。黒田藩のもとでは、博多人形・博多にわか等. 2. 博多を中心に様々な町人文化が花開いていった。. 博多部最大の課題は、博多の歴史・文化を継承する. 博多部校区公民館の地域活動の実際. 人間が減少しいなくなることであり、そのことが地域 第3章. 公民館を中心とした地域活動の実際. の崩壊を招くことに繋がるということである。住民不. 1 今や地方分権の時代、日本各地で内発的な地域. 在の都市開発は、地域の歴史・伝統文化を断絶する空. づくりが追求されている。地域づくりには、その担い. 間をつくり、人間排除がなされ関係不全の街に変貌さ. 手の形成が不可欠であり、その学習活動を育て援助し. せる。このような構図を身をもって経験した大浜の人. 組織化するような教育実践が必要であり、それはどの. 々をはじめ博多部の人々は、この危機を「人を取り戻. ようなかたちで展開されるのであろうか。その内実に. す」方策として、街を再生させるために人を結ぶこと. ついては、十分に明らかにされてきたとは言えない。. に努めたのである。長い歴史も文化も地域を担うのも. 校区公民館は、各々の地域の特性を捉えた住民自治. 人であり、地域にとって後継者を育てることが地域の. の学習や社会教育の質的向上を創り出す実践が行われ. 存続と継承・発展にとっていかに重要であるかを、大. てきた。その成果は、教育・文化、消費生活、歴史と. 浜の地域再生の取り組みが示しているのである。. 伝統文化、障害者福祉、高齢者福祉・ボランティア、. (1)大浜公民館を中心とした地域活動. サークルによる社会参加活動など、地域に社会教育活. ○. 大浜流灌頂. 動を広げてきた。それは、地域の社会サービスの基盤. 大浜独自の伝統行事である「大浜流灌頂」の活性化. づくりとなり、祭りや伝統文化の継承となり、人間ら. も「子どもたちに宝として伝えていきたい」という願. しく生きるための存在と役割を認識し、生活・文化継. いのもとに、 1994 年校区あげて祭りの再生へと取り. 承・発展を担う地域の共同性の構築の成果として積み. 組みが始まった。この祭りには、大浜町内に伝わる有. 重ねられてきたのである。. 形民族文化財の「武者絵」が修復されて飾られる。さ. 現在、公民館と地域の再編を企図する「自律的地域. らに、 1995 年ユニバーシアード大会でブラジルのホ. 経営」をめざす自治協議会の設立による地域の再編が. スト地域となり、これを機に留学生が参加するように. 進められている。. なり、一層華やかになっていったのである。.

(4) 大浜校区における地域再生の活動に果たした公民館. 2. 住吉子ども文化づくりの活動. の役割は大きい。学習活動の拠点として、また、各種. 住吉の地域性に基づきその自然や歴史や伝統文化に. 団体間のネットワーク化を図りまちづくりの拠点とし. 関わり、課題を見出し追究しその価値やよさを実感し. ても人々を結びつける役割を果たした。. て再構成し、自らの生きる力に資することや、地域へ. (2) ○. 博多部諸公民館の地域活動の実際. 御供所公民館. の情報発信ができることを目指して実践に取り組んだ 住吉は住吉神社のもと、その文化財として「能楽殿」. 「聖福寺の開山忌」ー千灯明を灯し住民参加. や音曲、伝統の祭りが伝わり、また伝統文化に携わる. 「聖福寺の大施餓鬼祭」ー物故者の弔い、老人クラブ. 地域の方々も多く、学校にも協力的な地域である。. 「謝国明遺徳顕彰慰霊祭」ー大楠様千灯明祭、承天寺 ○. 冷泉公民館. そこで 、「能楽殿」と狂言、住吉神社に伝わる笛楽 曲と子ども囃子、博多にわかと公民館活動、博多人形. 「博多を学ぶ」ー博多の史跡や文化財の探訪. 師白水八仙さんと博多おはじきづくり、 「人参畑塾跡」. 「千灯明祭」ー趣向をこらした手作り灯明で祭る。. と「高場. ○. 美野島公民館. 乱」の生涯などの総合的な学習を創造した。. また、住吉の伝統文化施設や伝統工芸を調べ 、「住吉. 「わがまち美野島」ー美野島の史跡や文化財の地図. じまんブック」にまとめ、種子島と石巻の住吉小学校. 「のびのび美野島」ー青少年の健全育成の諸活動組織. とテレビ中継して、情報交換する「住吉ネットワーク」. 「美野島灯明納涼祭」ー新旧住民交流会. の実践も試みた。(詳細は省略). ○. 住吉公民館. 「校区の歴史講座」ー明治の住吉 ○「はかたのもんフェスタ」ー四公民館合同 ○「博多ごりょんさん・女性の会」の活動. この実践をして何よりこどもたちが地域を知り、地 域の素晴らしさを発見し、地域に誇りを持つことがで きたのが成果であった。 3. 地域とともに博多っ子を育てる「はかた学習」. 博多小学校は、冷泉・御供所・奈良屋・大浜の四校 第4章. 地域と連携し開かれた学校づくりの推進と地域 活動. 1. 区が統合され、平成 13 年に新校舎に移転した最新の 学校である。各校区は博多部の中でも歴史と伝統のあ. 開かれた学校は、学校の地域における存在や機. る町である。博多小学校が目指している「博多の心」. 能の新しい視座の転換を示す端的な発想であり、第15. とは 、「相互扶助の心 」「年輪を尊ぶ心 」「進取気鋭の. 期中教審答申で生きる力の育成を主眼に家庭・学校・. 心」である 。「はかた学習」とは、博多の心に繋がる. 地域社会の連携のもとに提言された。その力は体験に. ものやことやひとに積極的に関わり、自分との関係に. 基づく学習を通して培われる。特に地域の歴史や伝統. ついて考え、この博多の町でどう行動し生きていくの. 文化は、地域の中で継承されており地域の「こころ」. かを体験的に学ぶ学習である。基本的な学習過程を設. を育むため、子どもたちの能動的な課題性をもって体. 定し、気づきと思考を活発にさせ多面的に追究をして. 験的に学んでいくのであり、また、それらを保持し継. いく活動を組織している 。「博多の心」に迫る学習は. 承している人々との交流活動を通して体得していくも. 高学年で実践されている。. のである。学校が地域のコミュニティ形成拠点として 地域の教育力育成のため、連携・融合を果たしていく. 【主要引用文献】. 「双方向性」をもって地域と協働が図られる必要があ. はかた学1∼5・朝日新聞福岡本部編・葦書房 1995. る。この学校と地域を結ぶ「架け橋」として総合的な. 博多ー町人が育てた国際都市ー武野要子・岩波新書. 学習の時間が設定されたのである。総合的な学習では、. 校区公民館の再構築・南里悦史・松田武雄編・北樹出. その課題性において地域性に根ざすものであり、また、 体験的な学習活動を展開し、課題解決的学習の方法を 取って学習が進められることを基本とする。 総合的な学習では、その課題や視点として、現代社. 版 2005 学校と地域とを結ぶ総合的な学習・中留武昭・教育開 発研究所 2002 文化や伝統を大切にする心を育てる・文部省. 会の課題・自己の生き方の確立・生活の場としての地. 中世はかた絵模様・博多の歴史・文化を掘り起こす会. 域や学校の特色の三つの複合的関係の中で創られ、発. 【主要参考文献】. 展していくものとしている。この実践を通して特色あ. 住吉小学校研究要録. る学校づくりの特色がより鮮明となってくるのである. 博多小学校の教育.

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