存
在
と
行
矯
業の意味とその問題点
田
中
典
彦
日
次 一 、 は し が き 二、輪廻思想と業論 三、業論の変容と仏教 四、仏教思想における業について 五、アショ l カ王における業意識一
、
はしがき
仏教思想を理解する上において特に重要な意味を持つものが二つあるように思う。それらほ法S
F
R
B
S
︵ 同 号 自 ω︶である。従来法に関しては仏教思想の中心をなすものとして多くの研究がなされてきている。一方、業 に関しては、それが滅せられるべきものとして考えられていることによるのか、あるいは他の理由によるかは定か と 業 存在と行為 一 九 五一 九 六 なものではないが、われわれの関心から遠ざけられているようである。初期の仏教思想のみならず、それ以後の仏 教が全て何等かの形で論及してきた業の問題に対して、現在、仏教を研究しようとするわれわれが無関心であって いいはずがないであろう。元来、気付江︵為す︶を原意として展開した業の思想はその意味で一応﹁行為﹂という訳 語をもっているが、仏教、あるいは他のインド思想がこれに与えている意義はさらに深く重要なものなのである。 そこでは業は存在あるいは存在するものの在り方に密接な関係を持っている。おおよそ宗教と言われるものは、知 的な教理に加えて、必ずと言っていい程行為的側面を持っていて、しかもそれぞれにおいてこの行為が容在にかか わるものとして重視されていると言いうるであろう D インドの諸思想あるいは諸宗教では、それは﹁行﹂として表 現されるところのものである。われわれが普通一般に言う行為は、仏教的表現をかりれば身表業ということとなる のであるが、それではわれわれが行為をただ単に表面的な行動としての意味としてしか認めていないか、と言えば そうではない。現実社会において、行為が何らかの形で自己に対して影響をおよぼしているという意識は、不明確 なものではあっても暗に認められていると思う。業によって自己が転じているのであり、社会が転じてゆくのであ る。したがってまた自己や社会が業によって変佑しうるという社会的な意味を持つものとなるのである。行為がそ のような意味で容在と関係していることが意識されていながら、実はそのことを明確にしたものはほとんどない。 特にインドの思想にあっては、それが業思想として存在しているにもかかわらず、業思想が輪廻思想や他の概念と 複雑な関係を有しているが故に難解とされ、時には誤解をも招いているとさえ思われる程である。 この小論はインド思想における﹁容在と行為﹂として、法と業を理解しようという大きな意図の中の一としての 誌論であって司ここでは業の意味どその問題点を明確にしようとしたのである。なお寄在としては σ F P ︿”に理解 の照準を置きたいと願うものである D この詩論を基盤として、さらに思索を豊かなものとし推論を重ねてゆきたい。
二、輪廻思想と業論
初期仏教の業の考察に入るに先立って輪廻説と業論について一考しておく必要があろう。何故ならば、業論は常 に輪廻説と結びつけられて理解されてきているからである。現にわれわれのもっている輪廻の概念は、輪廻とは流 れ廻る︵8
5
1
戸\耳目︶の意味から由来して、死後霊魂あるいはそれに代るものが生前の所行に応じて、それと相応す る境界に生を受け、その果報が尽きれば再び他に転生して永久に止むことのない一つの円環的連続である、という こどになるかど思われる。このような輪廻説の起原に関しては学者の見解は種々であるが、輪廻説が前述のような ものとしてかなり明確なものとして現われるのがブラ l フマナ時代であるとされる見解は一応認められるべきであ ろう。しかし、輪廻説そのものの意味するところが死後に霊魂が何らかの形で存在し、そしてそれがある契機によ ゆて他の存在者として顕現してくることを説くにあることを考えれば、それは元来霊魂の不滅なることを中心点と して説くものであることが理解できる。霊魂の不滅なることを一の説たらしめることは、不死を願望するギ街に通 ずるものである。その意味か=りすれば、輪廻説に関する限りその起原はさらにさかのぼって考えられるこどになる。 ヴェーダの思想において、宇宙原理として統一的なものが追求され始め、種々の原理や神格がそれとして現出せ られていったことは周知のことである D 統一的原理として求められたものの具している本質は決定して不死であり、 不変であらねばならなかったむそのことは逆に、生十一する具体的容在者が応死であるとの認識があったことをも意 味するものである。したがって人間の願いは不死なるものと一体となることによづて自身も不死なるものとなるこ とであり、霊魂そのものの不死性が具体的生害者と統一的神格との間を継ぐものとして考えられてくるのである。 容在と行為 九 七一 九 八 不死なること代の願いが霊魂の不滅思想を産出してくるわけであるが、ここに注意しなければならないことは、この 霊魂不滅思想が後世業と結びつき、解脱なり浬撲などと関係して超克されるべきものと解されるものとは性格的に 異っているということである。どこまでも、ただ単純に不死への願望が案出せしめたものであることが認められる べきであろう。それでは一体生容が死したる後、不滅であるべき霊魂は何処に行くのであろうか、という疑問が起 ってくるのはこれまた当然のことなのであって、リグ・ヴェーダでは死後の霊魂を呼ぴ返そうとしてその趣いたと ① 考えられる場所を数多く挙げてそのことを追求している。しかしこれらのヴェーダの記述が内容的に未だ霊魂の他 リグ・ヴェーダの時代には輪廻思想がなかった、とする学者もあ るようである。恐らくは輪廻ということの概念において、霊魂が他へ転生するという霊魂の移行にその中心的な意 味があると考えたからであろうと思われるが、もちろん、人聞の霊魂がその死後、馬や犬に移行することを説くの が輪廻思想の中心であるとするならば、それは肯定されるであろう。しかし、それはあまりにも外面的に過ぎるの ではなかろうか。しかも輪廻思想の起原が問題である以上、形態的なことがらにとどまらず、そのような形態とし への転生を考えるに至っていないという理由で、 て出現してくるに基底となっている精神、あるいは思想までを考慮に入れる必要があるであろう。霊魂不滅への信 念がここの文章によって示されるように、不死なる霊魂が何処へ趣き、如何なる形態をもって存在するかを追究せ しめるのである。したがって他への転生はこの追究以後に現われるところのものなのである。 やがて人間の主体に関する考察がなされ始めると同時に人格もまた問題となり、 それに関連しながら死後の運命 が追究されるようになる。リグ・ヴェーダは神 ︵ ロ ω ︿ 釦 ︶ と祖父︵巴仲ろとの区別を認めてはいるが、 不死なるも のと応死なるものとを区別したのであって、ブラ
i
フマナに見られる天道︵ロ2
ミ
g m
︶ と 祖 道 ︵ 虫 同1
3
5
︶との区 ② 別のように道︵35
︶として明確なものとしていない。シャタパタ・ブラ l フマナではさらに﹁善人は死後に一大国③ に至って妙楽を受けるが、悪人は那落に至って諸の苦患を受ける﹂などと論じていて、善人、悪人という人格めい たものとの関係を示すに至り、ウパニシャツドにおいて明確に業論との結びつきを見ることができるのである。 さて、次に業論についてその大要を述べるこどどする。一般的には業に関する先駆的な考え方を表わすものとし てアタルヴァ・ヴェーダ中の以下の文が指摘されている。 ④ ﹁罪よ、若し汝にして我を捨てないのならば、私は汝を十字街上に捨てよう。願くば他人に随従せよ﹂ ﹁若し私が醒めながら、あるいは眠りながら、罪を犯したのであるならば、己生未生のものよ、木柱︵の縛︶ ③ り脱するが如くに私を許せ L 確かにこの二文は罪悪ということによって行為とその余勢を予測せしめるものである。しかしこの文よりもさら に理解し難いものではあるけれども、行為の罪悪とその余勢が人聞にとって如何なるものとして受け取られていた かということは、リグ・ヴェーダにおける人間行為の監視神であり、人倫の秩序を保持するどいうヴァルナに与え られた讃歌の中にも読みとることができると思う。すなわち、 よ ⑤ ﹁われより上方の縄索を解きあげよ。中央のものを取り除け。下方のものを解き下げよ。われ生きんがために。﹂ これは罪を犯した者が、罪ある者を戒しめるために縛られた縄索を解き除いてくれるようにヴァルナに対して願 っているものである。さらに ﹁しかしてわが作りし負債を免除せよ。王 ⑦ と な か れ : : : 。 ﹂ ︵ ヴ ァ ル ナ ︶ よ 、 他人の作りし負債のためにわれをして償わしむるこ と述べられている。罪悪がそれを作した人間を何らかの形で苦しめるものであり、 しかもそれが絶対的なる者か らの許しを、自覚でもって乞わねばならないものであると考えていたことが知られるのである。いずれにしても業 存在と行為 一 九 九
二 00 に関係すると思われるこれらの記述からすれば、業について次のような考えがあったことが認められよう。すなわ ち
ω
、業の余勢が何らかの形で行為者の上に残ること。ω
、その余勢が人間︵行為者︶を縛して相当の刑罰を与え である。罪とか刑罰とはいっても、具体的に何を示すものであったかは明確なものとして知り得ないが、 る こ と 、 これら二つの要素は、業が行為者たる人間の生容にかかわっているものである、ということを示していると思う。 ところで人聞における業の主体がどこに求められたのであるかというと、それは人間生存の根本である霊魂にお いてであるから、人格とは霊魂そのものに後天的に加えられた性格的なものとして理解されたものであろう。した がって、元来不死であるところの霊魂が業によって性格ずけられるということになり、業がそのようなものと考え られたことから輪廻説との関係が生み出されてくることとなる。業論は、輪廻説が﹁不滅である霊魂が如何なる形 として存在するか﹂という自らの疑問に対して、他への転生ということを見出した時、主として他への転生に原因 となる霊魂の後天的性格が業によって形成されることを説明するものとして採用されることとなる。このことは、 輪廻説からすれば、現実の生存との関連を見い出したこととなり、業によって死後の霊魂の行方が決定されるとい ろ思想の構成となるのである。 ぶ﹂は業を物質的な表現でもってしているが、このことをよく示しているものである。業は善悪と深い関係をもっ ﹁ 死 後 、 霊魂は天秤に懸けられて、 善悪の業を量られ、それに応じて賞罰せられ て考えられてきている。 したがって、当然それは現実の社会的行為の善悪と関連するものと解しなければならない D 業こそ具体的生存を、その社会にあって善なるものとし、て、あるいはまた悪なるものとして形成してくるところの も の で あ り 、 しかもその生存を性格ずけるものなのである。人間がその業によって、その業に相応したものになる の で あ る 。 このように、古い時代に見られる輪廻説と業論とは一応別個な観念の上に成立していたのである。輪廻説がどちらかと言えば信仰的要素の強いものであったに対し、業論は現実社会における人間形成を目指していたものである といえよう。業論はこの意味で倫理道徳的に取扱うことも可能なわけである。倫理や道徳は現実社会での人間形成 に関することだからである。輪廻説は霊魂の不滅なることを認めない限り成立し得ない D むしろ霊魂が不滅である か、滅するものであるかは人間の経験を超えたものであるが故に﹁信じたい﹂ ﹁不滅であって欲しい﹂という人間 の根本的欲求にかかわるものである。輪廻説が業によって転生を説明するようになって以後、業の観念を包含した 輪廻転生の思想、いわゆる輪廻思想が形成されてゆくのであるが、問題は業を中心に展開される D それは業を中心 とする限り、現世における人閣の行為とそれによる人間存在を重視しなければならず、またそのことが宗教的な輪 廻説には必要なことでもあったのである。 ウパニシャツドでは業論そのものが問題の中心となっているように思われるのもそのためであって、それは業輪 廻思想として、輪廻の観念を含んだ業論ということになるであろう。輪廻説に関しては、ウパニシャツドはそれ程 の進展を示していない。それは不滅なる霊魂が統一神としてのブラフマンやア l トマンとして決定的なものとされ たからであろう。事実、ブラフマンやア l トマンが人間の本質であり、人間生存の根本たる霊魂に相当するものであ る以上、霊魂の不滅であることは保証されたものとなり、そこでは輪廻説のもつ意味が転生ということのみを内容 としてもつものとならざるを得ない。中心的概念を確実な信仰の中に形成した時、輪廻説は転生という観念として 業論の説明的部分として残されるのである。それは観念的思考から現実的思考への移行を物語るものである。不死 への願望が自己の自覚、 つまり個人の完成へ向けられたと言うべきであろう。人間の本質を追究しようとするウ パニシャツドの説の中にも、ただ単に輪廻説を業によって説明したに過ぎないと考えられる箇所も多く見受けられ る。ともかく確実に言い得ることは、人間の本質がア
1
トマンを分有することによるそれぞれのア l ト マ ン で あ り 、 存在と行為 二 Oニ
O 二 霊魂的なものなのであって、輪廻転生がこのアl
トマンの行うところであると考えられることである。したがって その場合にも業はどこまでもア l トマシに附随する性格的なものということになるのであろうが、アートマンその ものは絶対的なものであり、常一不変なものであるから他のものによって内容ずけられたり、性格ずけられ得るも のではないと考えねばならないから、ここに輪廻説と業論との結合の矛盾が見られるように思う口以下この点に注 目しながら、業論をやや哲学的に解釈していると思われるヤl
ジュニヤ・パルキヤの説を検討してみる。 ブリハッド・ウパニシャツドに従えば、アールタ・パ l ガから﹁人の死する時、語は火に、呼吸は風に、眼は太 陽に、意は月に、耳は方に、身は地に、心︵ア l トマン︶は空に、手は草に、髪は木に、血と液とは水に行く、然ら ぼ人はいずこに残存するか﹂と問われたのに対し、この問題はこのような席で公論すべき性質のものではないとし、 二人のみで話し合った。二人の論議の内容は業についてであり、その賞讃したところも業であったと伝え、さらに ① ﹁誠に善は善業により、悪は悪業による﹂と記している。この記述をこのまま理解しようとすれば、何故に公論でき なかったのであるかに疑問が残る。そして、それ以上に、秘密に語られた内容が提起された問題の答えとならなけれ ばならないであろうし、またそれが業への賞讃ということにも関係していなければならないであろう。そこで先ず 問題の意味から吟味しなければならない。人聞が死んで、その個体の構成要素がそれぞれに宇宙的なものに還元し 去った時、人はどこに残帯するのか、 というのが聞いの取意である。ここに言う人間という語がともに Uロ
2
一 宮 で 示されているのであるが、内容的には異ったものであると思う。すなわち、前者が個体全体としてのいわゆる人間 で あ る 、 つまり肉体を倶した人間であると考えられるに対して、後者の人は人間の本質なり人格と思われる内容を 示していると考えられる。しかも﹁人間はどこに残容するのか﹂であるが故に、人聞が何らかの形で残り存すると いうことが認められていたわけであろう D そしてそれは輪廻説の内容とするところであるから、当然人間存在の基底たるア
i
トマンに帰せられねばならないはずであるにもかかわらず、彼等の論議の内容が業であったとされるの である。ここに公開の論議としない理由が潜んでいたと推測されるわけであるが、これだけからは明らかなことは 知り得ない。しかし、もし業が﹁人はどこに残存するか﹂の直接の解答であったとすれば、業自体が輪廻の主体と アートマン思想と全く矛盾するものとなるであろうし、またそうではなく、輪廻の主体はア l ト い う こ と に な り 、 マンに帰せられるのであり、業がその残害するのに何らかの形で関与するものであると考えたとしても、絶対的な ものとしてのア1
トマンの性質上、他からの関与ほ許されるべくもないど思われるから、やはり矛盾すると言わね ばならないのである。このような業の解釈は次の所説にもまた見られる。 ﹁︵死時に於いて︶心臓の尖端が輝く。その光によって我は或は脳天を通し、或は身中の他の部分を通して脱し去 る。彼が去る時、生命が続いて去り、これに従ってすべての生命機関もまた去る。彼は意識的である。だから意 識的なるものも彼に従って去る。その時我は智と業と前生智とによって捕えられる。あたかも尺蟻が一つの葉の 端に達して、更に他の葉の端を捕えてそれに渉るように、そのように我も身体を振い落して、無智を脱して他の 端を捕えてそれに渉る。:::︵中略︶:::人は言動するに従って種々の地位を得るが如く、そのように言動によ って未来の生を得る。誠に善業の人は善どなり、悪業の人は悪人となり、浄行によって浄となり、悪業によって 異となる。故に言う、人は欲より成る。欲に従って意向があり、意向に従って業があり、業に従って果があるの ⑮ で あ る 。 この文によれば、後半、業に対して極めて事実に即した考えを述べているにもかかわらず、やはり他の生へ渉っ て行くのは我であることが読みとれる。業は智や前生智とともにこのア1
トマンを捕えて他の生へ移行させるもの として解されていて、前述の如くア l トマンに与えられた性格と矛盾するものである。業論と輪廻説との結合を認 存在と行為ニ
O 三二 O 四 めようとするならば、このような矛盾が解釈されねばならない。しかしそれは困難なことであって、むしろ純粋に 論理的立場から理解しようとすれば、輪廻説の中心となる霊魂が人閣の本質として絶対であり常一不変であるかぎ り、それは業論どは相容れないものであろう。それではこれらの所説が全く矛盾を矛盾として説いているのである かど言えば、そうではない。当時の人間の間では恐らくこれは矛盾することなく受け入れられていたものであろう。 このことの解明は輪廻説と業論の結合にかかわる問題である。先の例において後者のプルシャの意味が人そのも の、つまり人間の本質なり人格と考えられるものを示唆していたことが窺われ、それに対する解答が業によって ﹁善は善業により、悪は悪業による﹂と与えられていた。さらに後の例は﹁人は言動するに従って種々の地位を得 る如く、その如く言動によりて未来の生を得る﹂と主張している。ここに二つの論点がある。すなわち一つは﹁善 は善業により、悪は悪業による﹂あるいは﹁人は言動に従って種々の地位を得る﹂が示している現実的な知覚から くるものである。人は現実の社会においてその言動に従って種々の地位を得、人絡が形成せられているというよう なことはわれわれもまた感知するところであろう。これが業の最も主張さるべき側面であったはずである。その意 味でさらに現実に即した思考によって業を内面にまで追究し﹁人は欲から成る。欲に従って意向があり、意向に従 って業があり、業に従って果がある。﹂としていることはヤ
1
ジュニヤ・パルキャの業論の中心なのであり、彼の 卓越している点であろう。もっとも彼の場合、ウパニシャツドの主意説の方面を顕著にしたものであるという批判 があるとしてもである D 他の点は﹁言動によりて未来の生を得く﹂に示される輪廻説的部分である。この点の理解 ⑬ には﹁ J の如く、その如く﹂という接続語が非常に重要な意味を有する。現実の世界において業がそれぞれの果を 招いている如く、その如く:::の意味であるから、恐らくは推量知として﹁J
の如く、その如くJ
であろう﹂とい うことになると考えられる。このことは人間の倫理的要請と輪廻説に対する強い信仰的態度からきているものと考アートマンが絶対的なものとして考えられていた思想内にあっても、当然輪廻 説は確かなものとして受けとられていたとしても不思議ではなかろう。したがって彼等の確信か h りすれば、未来の 生を得るのは自明のことであったわけである。﹁
J
の如く、その如く﹂は現実的な知覚に基、すいていて、業の作用が 未来の生に対しても当然その作用を示すはずであるという意味を含んでいる。また未来世における生に関心の深か えられよう。このことからすれば、 った人々にとっては、この世の業の未来世への影響は倫理的にも大きな意味を持つものとなると言わねばならない。 このように解すれば、それらが矛盾したものとしてではなく、業輪廻思想が考えられていたことも理解せられる。 ただヤ!?ュニヤ・パルキヤの論点の中心は、たとえ彼が輪廻説を現実の生活に関係ずけようという意図で説いて いるとしても、その結論的部分である﹁人は欲より成る、欲に従って意向があり、意向に従って業があり、業に従 って果がある﹂というところにあったであろう。これは業が現実の人聞において見られた分析的結果であり、業の 真意に迫るものと高く評価することができる。 以上の考察のみから業論や輪廻説を規定ずけるのは早計であろう口特に業は後世多義にわたっている。しかし大 体を要約すれば、輪廻説は不滅なる霊魂を積極的に認めようとする立場からの信仰的思想であって、不滅の霊魂が 何らかの形で生物の死後も残存するということを説くところにその中心がある。一方業は善悪に関係した行為とそ の結果を包含したものであって、常に現実の人間の生活面においてとらえられ、認められる性格のものである、と いうことになるであろう。一
二
、
業
論
の
変
容
と
仏
教
一つの宗教的世界観ども考えられる輪廻思想が現実解釈として経験的な思考からもた h わされた業論を採用してき ム 仔 在 と 行 為ニ
O 五二 O 六 たこどについては既に述べてきたところである。初期の業論を含む輪廻思想においてはその信仰的側面が中心なの であり、後の輪廻転生の観念を含む業論では現実的側面が論の中心である。ヤ
i
ジュニヤ・パルキヤの所説に見ら れる業における意の霊視は、正に現実の人間の内面にまで業論を展開したものであると言わねばならないであろう。 このように結合された業と輪廻の思想は以後その区別を明確なものとすることなく業論として発展し来ったもの と思う。それがわれわれが一般に考えている業思想ででもある。元来、その根本的動機が人間性の自由に対する欲 求と自信とに根ざしていた業ではあったけれども、輪廻思想と深く結びつくことによって、それは過去、現在、未来に わたる人間存在を決定ずけるものという意味を持つものとなったのである。現実解釈からの倫理的要請が、来世で の自由を願う人閣の行為を保証ずけようとすると同時に、その同じ現実解釈が現在の人間の在り方を規定してきて いるものとしての過去の業を見出してきたところに、業の業力としての決定論的要素があると言えるであろう。月 のイメージによって表わされる業輪廻の説は、天上界での生活が仮に一時的なものであって、現世での善行の作用 力、つまりカルマの存続する間だけの脊在であるといゆっ意味を示し、完全な解脱という意識とも関連しながら次の ような備と呼応する。﹁現世において如何なる行為をなしても、 その業の尽きる期が至れば、その得たところの世界 一時的な仮の生活である天上の生活での行為 より、再ぴ還り来る。此の世において後にも業を為さんがために﹂。 したがって次に此世に生じてくる脊在の規定因とはなり得ないのであるから、必然的に地 ⑫ 上における前生の業を現世の脊在の決定因として持ち出さねばならなかったのである。しかし業に対する決定論的 は何ら業因とはならず、 解釈がさらに徹底されたものとなるのは経書時代と呼ばれている時代であろうと推察される。経書時代と呼ばれる 時代的風潮が如何なるものであったかについては残念ながら今ここで論ずるだけの充分な資料を持たない D がって先学の研究によるほかないのであるが、法経S
F
2
B
2
2
5
︶ 、 天 啓 経 ︵ω
5
5
m
g
可と、家庭経3
1
5
2
日E
︶ たし等か hりすれば、内容的に法経は四姓の義務や社会的法規などの日常生活に関する規定を示し、天啓書は祭式の説明 ⑬ であり、家庭経もまた祭式を述べたものであって、祭式中心の時代であったことが知られる。このような時代の風 潮の中にあって業の意味だけが影響を免れるということはないと思われる。輪廻の思想が祭式重視の中に取り入れ られることは、祭式の意義にかかわることであるから用易に認め得る。むしろこの場合には輪廻思想が祭式を重視 せしめたものであろう。もっとも宗教的意義を帯ぴた義務や行事の意味としてのカルマンの用法はリグ・ヴェーダ においても見られるところであるし、来世にかかわる行為では祭式に関する行為が最も重要なものであるとされる ことは婆羅門教世界では当然の如く認められていたと言えよう。﹁祭式は天に向って航行する船の如し、もしその ⑭ 中に一人の罪あるバラモンがあれば、彼一人の為にその船は沈没せり﹂。祭式行為、つまり業が来世の決定因とな り、しかも善なる決定因として考えられたのは、その背景にいかにも婆羅門教らしい輪廻思想に対する強い信仰が な あ ら る な か い ら で で あ あ ろ る
つ 。
。 し し た か が し っ一て
~こ り の に ァ決 ど
f与 か 再開 h襲
i
露軍桑
方\ f乙を対
語 す
炭 る せ 油 1=1~
ダ〉さ~号
車
は 涙
四 す
姓 け 制 は 度 極 で め7
て 'A. 刀ミド 教
) 制 の 度 確 的 立 な と も \,ユ (/) う ど 現 言 実 わ 生 ね 活 ば における規定であろう。業が人間の意に基ずくどされ、その業によってそれぞれの地位が得られるという業論?とは 全く正反対に、現実社会における人間の地位その他は一一種それが決定的なものとして当初から定まったものである かの如き制度によって規定されていたのである。厳格に過ぎるほどの四姓制度に関連して、法経等においてはそれ ぞれの職業の規定を行い、さらに行為としての義務を定めているのである。このような行為の決定は、、言わば業の 自由性を失わしめるものである。その上、四姓の起原が、人々が最も権威あるものとして認めるべきリグ・ヴェー ダの﹁原人歌切に由来していて、四姓の聞に先天的相違があるかのような信仰があることをも考え合わせれば、業 が一定論的あるいは宿作図的に理解されるに至ったとしても不自然なことではないであろう。 存在ど行為 二O
七二 O 八 霊魂の不滅なることへの願望がその要請に答えようとして案出せしめた輪廻思想は、天上界において楽を享受し ようとする要求を満たそうとするものでもあった口しかし決定論的となった業の与える観念は繰り返し繰り返し苦 的生存を強いるものとなった。このような業輪廻の思想が除々に普遍的真理と見なされてゆくに従って、その休み なく繰り返される輪廻を厭う心が、やがて深刻な厭世思想となって現われたのである。輪廻こそが以後のインド思 想あるいは宗教が共通に追求する解脱の前提となるものである。実に仏陀の出家の動機も、またジャイナの求道の 目的もこの解脱を得、苦を離れることにあったと言い得るであろう。 仏陀の教えである仏教が輪廻苦を如何に脱しようとするものであるかはしばらく置き、このような業輪廻の思想 が仏陀の時代にどのようなものであったかを一考してみる必要があろう。それは六師外道と呼ばれる人達の業説で あるが、それぞれの思想に関しては宇井博士により﹁印度哲学研究﹂第二巻において詳細に研究され、また雲井教 ⑫ 授の労作もある。一さらに、特に﹁六師外道の業説﹂として赤沼教授の研究があるから、ここでは要約してそれらを 述べるこどどする。 一般化された業論が宿命的な色彩をもって全体を覆い、厭世的風潮をもたらして来たことは既に述べてきた通り であり、また社会全体が宿命的に考えられた業論に自由を奪われ、その抑圧下にあったことが反映して、六師外道 や仏教においても、それらが業論を肯定するにせよ否定するにせよ重要な課題としていたことは事実であろう。六 師に代表される業論は内容的に次の三種とすることができる。
ω
唯物論の立場から業論を否定するもの、O
アマタ・ケ l サカンパリ l ・・::肉体の外に霊魂を認めない。したがって業および業報を否定する。 。パクダ・カッチャl
ヤナ:::霊魂をも含めた七要素説を主張するが、それぞれの要素が石柱の如く不動無転変であって、そこに業の作用性を認めない。
ω
業を徹底的宿命論と考えるため、かえって無業論となったもの、O
マッカリ・ゴ l サ l ラ:::業を宿命的に考えたが故に、人の努力、精進、善悪業に関係なく自然の定まりによ って輪廻するのであるから、人聞は定められた運命の下にあらねばならないとする。O
プl
ラナ・カッサパ:::人闘が如何なる行為をしても、それによって善にも悪にもならない。有情が煩悩に汚 されるのも、また清浄となるのもそこに因や縁があるのではない。無因無縁なのであるとする。ω
業を宿命論的に見るが、業論を説くもの、O
ニガンタ・ナ l タプッタ:::﹁人が経験する一切のものは宿作図である﹂どすることか﹀わすれば宿命論的業論 であるが、古業が苦行によって霊魂から分離させることができることをも説くから、 と が 知 ら れ る 。 一応業論を認めていたこ サンヲャヤ・ベ l ラティプッタに関しては判断中止の立場をとっていたことや、彼の業についての論が資料的に 与えられていないことから明確ではない。なおこれらは阿合経中に、人所為一切皆無因無縁、人所為一切皆因宿命 ⑬ 造、人所為一切皆因尊祐造として記述されているものである。これらを通観してみると、さらに異った観点から二 種に分けて考えられると思う。それは業論に対する否定であると言われても、主として輪廻思想の否定を主張する ものと人間の行為としての努力、精進を含んだ業そのものを否定しているものとである。かくして六師の所説によ ってわれわれは業に関係する問題点の大半を縮図的に知ることができるであろう。唯物論的立場からの主張によっ て霊魂が不滅であるとすることが輪廻思想の中心であったことが明らかにされ、また永遠不変な霊魂的なものが認 められる場合においては、それが他からの何等の影響をも受けないものとなり、業とは相容れないものであると考 存在と行為 二 O 九二 一
O
えられていたことも知り得る。輪廻が徹底して宿命的に考えられていた立場にあっては人間の努力、精進、善悪業 られていたことを示していて、 が全く否定されるが、そのことが当時の業論もやはりこ面︵すなわち輪廻説と業論のこと︶を持ったものとして受けと。 かえって輪廻思想の側面以外の業の意味が、努力や精進として表わされる人間の行 為であったことを知らしめるのである。 仏教において業が如何なるものとして理解されるのが主流であったかは、これら六師の業に関する所説への批判 によって検討される。六師に対する批判を通して仏教の立場を示していると思われる経は諸種上げることができる が、先ず総論的にその立場を表明して﹁比丘等よ、凡そ過去世において応供、正等覚者であったところの世尊は、すべ ⑬ て業論者︵︵同R
E
S
l
乱 含 ︶ 業 果 論 者 ︵ 百 円 山 富l
a
E
︶精進論者︵己ユヨl
a
含︶であった 0 ・ : ﹂ と し 、 未 来 世 、 現 在 世についても同様に説いているのである。これら業論者、業果論者として用いられているところの業が具体的にど のような内容のものであるかということは、六師に対する個々の批判に中に立入ることによって知られるであろう。 すなわち業に対する所説を、 ﹁比丘等よ、ある諸の沙問・婆羅門があって、彼等は次のように説き、次のように見る。 楽、あるいは苦、あるいは不苦不楽を感受しようとも、その一切は前において作られたるものを因とする﹄と。 ﹃この人間が如何なる 比丘等よ.またある諸の沙問・婆羅門があって.彼等は次のように説き、次のように見る。 ﹃この人聞が如何な る楽、あるいは昔、あるいは不苦不楽を感受しようとも、その一切は自在天の化作を因とする﹄と。比丘等よ、 またある諸の沙門・婆羅門があ勺て、彼等は次のよろに説き、次のように見る。 ﹃この人聞が如何なる楽、ある いは昔、あるいは不苦不楽を感受しようとも、その一切は無因無縁よりしてである﹄と。﹂ と紹介し、次にそれらを非難して、﹁一切が前において作られたるものを因とするならば、前において作られたるものを因として殺生者、倫盗者、 : : : 邪 見 者 ︵ す な わ ち 十 悪 を 造 れ る 者 ︶ と な る で あ ろ う 。 前 に 作 ら れ た る も の を 堅 実 な り と 執 しかるに比丘等よ、 する者には﹃これは作さるべきことである。これは作さるべきことではない﹄という意欲︵
S
g
E
︶も、あるい は努力︵︿ミ訓話。︶もない。しかるに、このように作さるべきことど作さるべきでないこととが、真実に確実に 認得せられざる時に、失念して護られずして住する者には、自ら沙門と称するこどの道理がない。比丘等よ、こ れがこのように説き、このように見る所の彼等沙門・婆羅門に対する第一の道理にかなった私の非難であるゆ﹂ としているのである。自在天の化作を因とするならば、それによって十悪をおかす者となるであろうし、﹁これ は作さるべきである。これは作さるべきでない﹂という意欲も、あるいは努力もないのであり、無因無縁であると することもまた同様に非難されているのである。非難の理由は、 一貫してそのような説に従えば﹁これは作さるべ きことであり、これは作さるべきことではない﹂という意欲もなく努力・精進がなくなる、 } ま げ 日 M m D 円 四 州 代 切 で あ る か ら ﹁ 意 向 ﹂ で あ り という点にある。意欲 ﹁意楽﹂の意味とも解され、内容的には積極的に善を作し、不善を作さ ないようにしようという意向の起ることがないことを表わそうとしている。それは当然一切が前生の因によるから であり、自在天の化作を因とするからであり、無図無縁によるとするからである。 おおよそ、他説を批判するということにおいては、それが単に非難にとどまらず、逆にかえって自説の最も重要 な立場を浮き彫りにすることででもあるど考えられるこE
からすれば、この場合も意欲・努力に表わされているも のが、仏教の業論の最も重視するどころであると理解することができるであろう。努力論あるいは精進論の立場を ピるというこどを、仏教が敢えて業論に加えて主張している意図がそこにあったであろうと思われるが、そのこと はしばらく置くとして、先ず批判の対象を考えてみなければならない。それは明らかに業を宿命的に考えることに 存在と行為一
一
一
一
一
対してであって、ここでは前生図説であり、尊祐造説、無因無縁説である。尊祐造説は神の化作によるとすること から輪廻が宿命的なものであるとするのであり、無因無縁説も輪廻がむしろ自然の定まりであると主張するのであ るから、これら三説にほ共通して輪廻への強い信仰が見られる。これらの説はその信仰の上に成り立っているもの である。したがって、仏教がこれらの説に反対の立場を表明していることは、直接的には輪廻思想への非難であっ たと解される。われわれは前に、輪廻思想の成立根拠が不滅なる霊魂を何らかの形で積極的に認めようとするとこ ろにあることを論じた。しかし仏教は無我を主張するのであるから、当然、輪廻思想の中核である不滅な霊魂の 如きは認められないはずである。そこで輪廻転生の問題の排除を経典内に求めるならば、中阿含ニO
一経、隣帝経 を見ることができる。この経の内容は直接的には縁起説に関係するものであるが、その中に縁起説が輪廻に対して どのような立場をとったものであるかが明らかにされている。 ﹁私唯尊によって、このように法が説かれたと知 っている。この同一の識が転生し、輪廻するのである、異とならずに﹂と主張した瞬帝比丘は、世尊からその識と ⑫ ﹁世尊よ、ここでまた彼処で善悪業の果を受けるところの彼のものを言う﹂ は何であるかと問われたのに対して、 と答えるのである D 世尊はそれを苛責して、識もまた縁によって起こるものであることを説き、さらに縁起の詳細 な説明に入って行く。その後再び際帝比丘達に以下の如く問う、﹁このように知り、このように理解しながら、な お比丘たちょ、汝等は初めを回顧するか。われわれは過ぎ去った遠い時に脊在したか、あるいは帯在しなかったか、 われわれは過ぎ去った遠い時に何であったか、如何にあったか、何であり何になったか、などと﹂、またさらに、 ﹁あるいは比丘たちょ.このように知り.このように理解しながら、なお比丘たちょ、汝等は未来を思うか。われ われは未だ来たらない遠い時に容在するであろうか、存在しないであろうか、われわれは未だ来たらない遠い時に 何であるであろうか、如何にあるであろうか、何であり何になるであろうか、などと﹂と。比丘達の答えは﹁否、@ 世尊よであることは当然である。輪廻転生の問題をこのように排除している経に加えて、さらにわれわれは死後の 存在の有無等に関して無記であったことも知っているのである。もっとも今見てきた経の内容にも過去、未来に対 する無記を読取することができるのであるが D この経の内容が与えることがらはそれだけにはとどまらず、仏教の 業論を解釈するに関係する視点をも与えている。すなわちそれは、われわれが過ぎ去った遠い過去に存在したか、 何であったか、何であり何になったかということを問うのは無意味なことであり、また、われわれが未だ来たらな い遠い未︻来に存在するであろうか、何であるだろうか、如何にあるであろうか、何であり何になるであろうかと思 案するのも無意味なことなのであって、正にわれわれの問題とすべきことは﹁現に今、如何に存在し、何であり、 伺になるか﹂ということなのである、ということを言外に示していることである。 仏教において、輪廻説がこのように縁起説とは相容れないものとして考えられ、しかも﹁現に今、如何に存在し ・:﹂こそ重要であることが主張されていると解せられる時、本来的意義にあって単純に行為に関するものであった 業︵ただしそれは輪廻転生を含まない︶ヒ、仏教の言う﹁業論をとる﹂ということの意味とのかかわりが新たな観点か らとらえなおされねばならないであろう c 業論を認め、精進論を主張する仏教が、このように現実の生存を極めて 重視していたという事実から、仏教の言う業の意味もある程度明らかなものとなる。精進や努力は当然現実生存た る人聞に対して重要視されたものであり、ひいては仏教の行体系の中心的なものとなると考えても決して考え過ぎ ではないであろう。 ﹁業論者であり、精進論者である﹂との主張ほ仏教の業論の中心的な考えを示していて、 したがってここでは精 進論は仏教の業論の方向をも表わしているのである。このことから先に述べたように、六師の業理解に対する﹁こ れは作さるべきことであり、これは作さるべきことではない、という意欲もなく努力がない﹂という批判は仏教の 脊在と行為
一
一
一
一
一
一
二 一 四 @ 業論の主要なる立場でもってなされていたことになるのである。 以上の考察から、仏教は輪廻説に対しては否定の立場をとり、業論そのものに対しては、精進ということを中心 に肯定の立場をどっていたという一応の結論を得ることができる。しかし、われわれが経典中に最もしばしば繰り 返して見るところの業に関係する記述が、悪業の故に人は死後地獄に生じ、あるいは畜生と生まれ、あるいは人間 として生まれる場合にも、一短命、下賎、醜悪などの応報を受け、善業をつめば死後天に生じ、あるいは人間として 生まれる場合にも、長命、高貴、美妙などの応報を受ける、という思想であり、それが業による輪廻説であるよう に理解されることが、如何なる立場から説かれ、如何なる意味を持ったものであるかという問題が残される。これ らのことがらは仏教思想全体との関連から考えられ得べき性格のものであるから、以下に仏教思想における業を論 ずることとする。
四、仏教思想における業について
われわれはこれまで、主として六師外道と呼ばれる人達の業論に対する主張とそれへの批判を通じて、仏教の業 を考えてきたのである。そこでは仏教は業において精進を中心的に表明していたのであった。しかし精進そのもの は業に含まれるものであるとされても業そのものなのではなく、 したがってこれらの関係は、業を認めることの上 に精進論が成り立っているということになる。何故ならば、精進は﹁これは作されるべきであり、これは作される べきでないとの意欲と努力﹂に関係するのであって、常に向上的な一面を示そう乞するものであり、それは仏教の 百指す行体系への姿勢であり指針であると解されるが故に、それ自体がさらに業を基盤とするものであるからである。仏教にとっそのような業とは何であるか。それは業と業果として表わされるものであるが、業に対する基本的 観念としての、業の余勢が何等かの形で行為者の上に残ること、そしてその余勢が何等かの形で行為者の上に、好 ましいあるいは好ましくない影響を与えることということである。業と業果の問題は経典に次の如く説かれている の を 見 る 。 ﹁愚かな人は己が身に、敵の如く振舞う。苦しき果を結ぷ悪業をなせばなり。その業もし善くなされずば、成し 終って悩み暗き咽ぴてその果を受く。もしその業善くなされれば、成し終って喜び、心好くその果を受し。﹂と この文は極めて現実経験に基ずいて、善業に楽団木があり、悪業に苦果のあることを説いている。仏教の業はこの ような現実経験からくる単純な業観念に由来すると考えられるのであるが、いわゆる業論として形成されてくる時、 それは仏教の思想と関係ずけられ複雑で理解困難なものとなってくるのである。このような初期の業と業果の問題 も、人間生存の主観的側面から外に出たものではなく、況んや業を存在そのものを規定、すけようとするような他の 力とすることはなかったであろう。しかし一つの思想的立場をもったものが、その思想なり立場を徹底してゆこう とする時、それが如何に現実的なものとして通用するものであったとしても単なる観念として放置しておけない思 想としての必然性がある。実はこのことはその思想にとって極めて危険なことなのでもあるが、そしてこのことは 仏教の業論においても見られることである。 業が常にその主体との関連において論じられてきた世界にあっては、仏教とてもその問題を回避することができ 、ず、ここに業と事在との関係が考察されざるを得ないものとして登場するのである D 無我であることを思想的根本 としている仏教にとって、業の問題はその意味で重要なものとなるのであり、一つの思想的誌練でもある口事実、 以後の仏教の長い歴史において、常に問題とされてきていることがらは業をめぐる主体論争であると言っても過言 存在ど行為
ニ 一
五
一 一 一 六 でほないひそしてまた精進を主張する仏教が当然に論じなければならないものでもあった。以下経典によってそれ らの問題を整理してみる。 先ず苦楽の自作、他作等に関して、 ﹁ 苦 楽 は 自 作 ︵
8
3
H
Y
i
E
Z
︶でもなく、他作︵R
S
I
Z
Z
︶ で も な く 、 自他作︵ω
3
2
3
2
3
2
M
W
3
ご と
でもなく、また非自非他無因生︵g
ミ
ω
吾I
E
2
5
3
ミ
ω
岳1
5
5
5
包E
r
g
s
s
c
u
H
E
S
E
︸ ︶ で も な い ﹂ と説いている。そして如来は自作であるとする辺と他作であるとする辺の両辺を離れて、中によって法を説くので あるとし、十二縁起説に論を持ち込んでいる。一言うまでもなくここにいう自作とは肉体即霊魂的考えからくるもの であり、全ては前生の因によるとする宿作図説である。また他作とは尊桔造説の如き神の化作を因とするものであ @ る D これをさらに補うものとして次のような経も考慮に入れることができる。 ﹁ い か に ゴ l タマよ、彼行ないて彼受くるのであるか。﹂ ﹁彼行ないて彼受くるとは、バラモンよ、こは一の極端である。﹂ ﹁しからばいかにゴl
タマよ、他のもの行ないて他のもの受くるのであるか。﹂ ﹁他のもの行ないて他のもの受くと言わば、こは他の極端である。これら両端を避けつつ、バラモンよ、中によ @ りて如来は法を説く。無明を縁として行あり、行を縁として識あり云々。﹂ ﹂こでは業を作る者と果を受ける者が同一人 ︵ 自 作 自 受 ︶ であると考えるのも、また業を作る者と果を受ける者と が別人︵他作他受︶であると考えるのも、 ともに極端なのであり、 如来はこれら両極端を離れて中によって法を説 くとし、十二縁起説に論を進めている。 これは無我の説明において、我見︵常見︶ど断見の二辺を離れ縁起を説く のと全く基を一にするものである。しかるにわれわれは同じ性格の問題に対して、次のような内容の経を見るのでゑ 山 甲 h v
。
﹁この汝の悪業は、汝の母によってなされたのではない。汝の父、汝の兄弟、汝の姉妹、汝の友人、汝の親族、 禁欲行者、バラモン、神々などによってなされたのでもない。汝自身によってこの悪業はなされた、汝自身その ⑮ 果を受けねばならない。﹂ ﹁それ人は蒔きたる種子と同じ果をとる。善行者は善果を、悪行者ほ悪果を D 汝が種子を蒔きて、汝がこれを享 ⑮ 受するのである。﹂ これらは縁起ピ関係ずけられない。同様に業と業果を問題としてはいるが、前引の経とこれらを同一の立場から理 解するとすれば、論理的には明らかに矛盾するものと言わねばならない。しかしこの矛盾とも思えるものが、本来、 その調和の困難である無我思想と輪廻思想との聞の矛盾とは質的に異ったものであり、しかも精進を主張する仏教 の業論にとってはより霊要なものなのであるむ 苦楽の自作、他作云々の問題は主として業を司る、あるいは業の背後にあるさらに超越した主体が予想せられ、 その上で論じられていると考えられるから、仏教もまたそれに対して縁起説によって答えているのである。つまり このことは、業そのものを離れて業の主体があることを前提としているものに対して、業そのものを離れてそこに 業の主体となるものがないことを明確にするものである。それが縁起説をここに用いる意味である c そしてそのこ とを現実に即して説いているのが、その後に引用した経の内容である。﹁汝自身によって悪業がなされ、汝自身そ の果を受けねばならない﹂や﹁汝が種子を蒔きて、汝がこれを享受するのである﹂ほ現実的には当然とも言い得る ことなのであって、それまでも否定することはかえって不自然なことと言わねばならない。このように業論を経典 の中に求めようとする時にも、経の内容が縁起に論及しているものであるかそうでないかが一応区別されて考えら 存在と行為 二 一 七二 一 八 れねばならないようである。 ﹁彼行ないて彼受くるとは:::﹂の前引の経は縁起思想と業を論ずる最も代表的文章であり、われわれは他にも 同種の経を見ることができよう。これらは反面、業が縁起思想と抵触しないこと、つまり縁起思想においても業が 成立し得ることを示すものでもある。業が仏教思想と抵触するように思われるのは業の主体をどのように考えるか ということにおいてであり、この面だけが業と縁起思想を不調和なものであるかのように思わしめているのである。 ところでわれわれは、仏教が無我思想によって縁起思想を説き、縁起思想によって無我思想を証明していること を知っている。その意味で無我思想ど縁起思想は不離一体なものであり、究極的には同じ思想である。しかし実際 には縁起思想は現実の存在が﹁如何にあるか﹂という現象面に向けられており、無我思想は本質的な形而上学的な 面に向けられていると思う。有情と呼ばれる現実の存在が縁起生存在とされるのも縁起思想のこの点を示している。 このような縁起思想と無我思想の関係から、多くの場合縁起思想によって無我なることが意味せられ、また逆に無 我思想によって縁起を示しているとも理解できる D しかしその場合にもそれらの用いられ方によって、さらにその 意図するところが洞察されねばならないのである。今の場合においても、漢訳が明らかに第一の極端を常見として @ おり、第二の極端を断見としていることから、性格的には業の主体をめぐる問題であると思われるにもかかわらず、 それに対して縁起説を用いて論じている。そこにどのような意味があるかが関われねばならないのである。業を認 め精進論を主張する仏教が、それらを自らの思想と抵触することなく説き得るのは縁起思想においてであることを この経が示しているのである。そのために、自作自受、他作他受の主張に’対してわざわざ無我思想を述べてから縁 起説へ論を進めるというのではなしに、直接に縁起説によって説くという形式をとったものと思われる D 現実の存在が﹁如何にあるか﹂に出発する縁起そのものには容在に対する価値意識はない。しかし無明を根底と
する縁起説は既に存在に仏教的価値意識を含めたものであるひこの価値意識は一切皆苦からくるところのものであ したがって、業が縁起説において認められるものであるとすることは、仏教が、いわゆる 無明を根底とする縁起生存在に業を認めたということに他ならない。十二因縁と言われる縁起説は、有情と呼ばれ る生容が如何なる存在としてあるかということを示しているのであり、それが無明’という根拠によってある限りに おいて業にかかわるものである。このことの逆が解脱と言われるものであり、業を脱することであるとされること からも以上のことが理解されよう。無明の立場にあっては、たとえそれが解脱の立場か、りすれば無我であるとされ るとしても、現実には﹁自己の主体﹂つまり自己として受けとれるわけである D 無我の立場においては主体とせら れるもののないことは、無我を説く経に﹁このように色受想行識が無我であると言われるならば、無我の作せる業 @ はいかなる我によって触れられるか﹂との一比丘の質問に、﹁色︵受想行識︶は常であるか、無常であるか﹂﹁無 常である﹂﹁無常ならば苦か楽か﹂﹁苦である﹂﹁無常、昔、変易の法はこれは我所、これは我、これは自我と見 るべきであるか﹂﹁無我である﹂と説かれる。これは無我への理解を正しているのであって、無我とは非因縁生の 我の否定であり、ここに我と言われているものが縁起生のものであることを明確にしようとするものなのである。 ることは言をまたない。 そしてこの文は後に、 ﹁このように観ずるものは解脱して真実智を生ずる D いわく、生はすでに尽きた、発行は完 成せられた、なさるべきことはなされた。もはやこれ以上この存在はないと知ると﹂ど記している。 ﹁ 無 我 の 作 せ る業﹂という、無我の中にもさらに我という意識を持ち込もうとすることを愚痴無明であるとするのであって、無 我解脱したところではもはや業どその主体などは問題とはならないことを説いているのである口以上のことから仏 教の業の範臆をかなり明確に見出すことができるであろう。業が認められるのは縁起生存在においてであり、した がってその主体に関しても、それが縁起生容在であるわれわれが一般に認識しているところの﹁われ︵自己︶﹂と呼 存 在 と 行 為
ニ
一
九
二 二 O ぶところのものであるどいうこととなるであろう。輪廻思想を含まない業も、仏教ではこのような範障にあってのみ 認められるものなのである。そのことは業が解脱に際して減せられるべきものであるとされることど関連している。 つまり﹁無明﹂が﹁明﹂に、したがって我と思われていたものが真実相としての無我に転換されるのと同じ意味に おいて有業が無業となるのが解脱なのである。われわれが追究し得る仏教の業の意味は、無業なるところにおいて ではなく、有業なるところにおいてであるから、もっぱら有情に業の意味を求めねばならない。ただ業の範障が有 情にあてはまるのであり、しかも業の主体がそこでは縁起生存在における一般的認識上の自己であるとされたから といって、そのことが仏教の思想の完全性を傷つけるものではない。むしろ正反対なのであって、以後にも触れる こ と で あ る 。 業が解脱の世界に持ち込まれないのであり、輪廻思想とも関係しないのであるから、仏教の業は極めて現実的な ものとして解していってもさしっかえないのである。そこで有情が業縛であるとされることに視点を向けてみるこ ととする。業縛の有情とは無明を根底とする縁起生害在のことである。さらに無明を根底とする縁起生存在とは、 無明なることによって常識的に﹁われ在り﹂と考えているわれわれ一般的人間である口 ﹁ニ法常に相随う。謂く、業と寿とである。業あれば亦寿あり。業なければ寿も亦なし。業寿未だ消滅せざれば @ 有 情 遂 に 死 せ ず 。 : : : ﹂ ﹁世間は業に依りて転じ、有情は業に依りて転、ず。有情の業に依りて転ぜられるこど猶し車の軸に依りて行くが @ 如 し 。 ﹂ ﹁:::如何なる因縁ありて人の生容の聞には優劣の性ありや、諸の短寿なるあり、長寿なるあり、多病なるあり、 無病なるあり、醜随なるあり、容一麗なるあり、権勢あるあり、権勢なきあり、貧しきあり、富めるあり、卑しき
あり、尊きあり、愚かなるあり、賢なるあり、何の因縁ありて、人の生子の間には諸のかくの如き優劣ありや。 儒童よ、諸の有情には各の業あり、︵諸の有情は︶業の相続者なり、業を胎蔵として有し、業に縛せられ、業を所 @ 依とす。業が諸の有情を分別し、即ち優劣の性あらしむる。:::﹂ これらはすべて有情が業に縛られてあることを説く経である。有情にあっては業と業果が認められるのである。そ の意味ではここでも業の意味は行為とーその余勢ということであり、行為が作用を持っているということである口わ れわれの人格が過去から現在、さらに未来へと連続的につながっていると考えられる時、実は自己自身が過去の自 己、未来の自己とは全同でないにもかかわらず、その行為の結果を次々と受けねばならないのである。これが﹁有 情ほ業によって転ずる﹂ことの意味であって、そこでは﹁汝自身によって悪業がなされ、汝自身がその果を受けね ばならない﹂と説かれたことが全く自然なものとして解することができるわけである。したがって業論は、行為が その余勢をもって、時間的に継続していると考えている縁起生存在にとって、その人格の形成に作用することを認 めるところに成り立っていると言い得るであろう。とすれば、一見宿命論的な感があるが、人閣の自由性が失われ てしまうかと言えばそうではなく、ここに精進や努力が業論に加えられている意味がある。﹁これは作さるべきこ とであり、これは作さるべきことではない﹂という意欲、そして努力、精進に自由な選択のあることが示されてい るのである。業としてはただ上述の如く、行為とその余勢の作用力 ︵ 後 に は 多 く 業 力 と 言 わ れ る ︶ を意味するのみで あ っ て 、 善悪を決定ずけるものではない。 この業のもつ自由性が仏教の行体系の根本なのである。 人聞は本来こ の自由性をもつものであり、 可能性をもつものである。 しかし仏教が一つの人間形成に関与する思想であり、 に王プ 刀t 教である以上、この自由性を自由性として認めた上で、さらに自己の目指す方向へ自由性を聞こうとするのは当然 なことでもある。自己の自的に拘って、思想あるいは宗教が道を定めようとするこヒは自由に対する規定ずげであ 存在ど行為
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
一
るこどは言うまでもないが、 およそ一つの行為がなされる時、それがなされる以前にもっていた自由性は ﹁ な さ れる﹂ということによって決定ずけられるものである。つまり行為そのものは、それ自身﹁かたより﹂を有するこ とによって成立し、また意味を有するものとなるのである。そしてその行為が社会的に意味を有するものであれば ある程その﹁かたより﹂こそ霊要なものとされねばならないであろう。その意味からも、﹁これは作さるべきであ り、これは作さるべきでない﹂という意欲は重要なものとして取り扱われねばならないのである。初期の仏教経典 では業を業として説くよりも、それらを善悪ヒ密着させた形で善業、悪業として説いている方がはるかに多い。こ のことは仏教の業論がその内容として如何に社会的な行為と密着していたかを示すものとしてよいであろう。つま り、このような意味での業論が成立しないとするならば、いわゆる﹁世間の事が成就しない﹂という意識が﹁世間 は業によりて転じ﹂の背後にあるように思える。そしてもちろん、社会と全く隔絶したものは思想としての、ある いは宗教としての生命を失うものである。 世間の業観念どはどのようなものであったか。単的に言えば、それは悪業によって悪果を招き、善業によって善 果を受けるという内容のものである。この場合にはむしろ悪行によりて、あるいは善行によりてとする万がより適 当であるように思う。いずれにしてもやはり善悪をともなった意識である。善悪に関しては、仏教では善︵E
U
E
︶ に対して不善︵ m w 忌 巴 ω ︶を、悪︵℃凶宮︶に対して福︵吉恒三︶を、という対概念で表わされているようである。不善 ど悪とが内容的に如何に相違するかは理解し難いが、ただこの対概念を組み変えて、善に対して悪を、不善に対し て福を考えてみるならば、不善と福とは積極的な善悪どは区別されて考えられているようにも思える。悪行とされ る内容が殺昼、倫盗、邪姪、妄語、飲酒であることから、飲酒は別としても、それらは世間的悪行から何ら切り離 されたものでないことが知られるであろう。表面的に行為を考えるにとどまらず、その内面的なものまでも考慮すると、表面的にほ如何にその行為自体が善行であっても、その、心に貧槙療のようなものがある限り、そこから出発 した行為は全くの善行であるとは言い得ない。例えば布施と?っ行為は、行為自体が善行であっても、その行為者 の心に自己の利益を求めるような汚れがある限り、その行為は決して善行とはなり難い。不善ということの意味が ここにあるのではなかろうか。しかし不善は前の五悪行には当てはまらないのであろう。殺生という行為は、逆に その心にかりに善的なものがあってなされたとしても悪なのであったと思われる。以上のように解することが妥当 であるとすれば善悪への価値意識は悪、不善、福、善の流れの中に受けとめられているとも言い得るわけで岬ある。 もちろん仏教の行体系の意識から善悪に幾分かの意味を持たせることもあり得たであろう D いずれにしてもここで は、仏教の用いる善悪も世間的な善悪の意味にその根本をもっているのであり、さらに業論もまた世間的な業の観 念と関係するものであることを知ることで十分であろう。 有情どして業に深く関係する人間にとって、仏教的な意味での業論が如何なる意味をもつものとなるかは、仏教 の実践の道である八聖道を考察することによって理解できる。そこで八聖道と業との関係を論じることとしよう。 縁起の体系は現実の存在が如何にあるかという問いかけの中に立てられた。そして仏教が業を認めるのもまた縁起 生存在、つまり現実の存在を根拠どしていたのである。ところで初期仏教の思想的根幹はいうまでもなく四聖諦と してまとめられているものである。八聖道という仏教の実践体系はこの四聖諦の内、苦滅道諦のより具体的な実践 内容を示したものである。四聖諦がそれぞれ、苦諦は無常・苦・無我を説く一連の現実分析において明確にされ、 苦集諦と苦滅諦は縁起説において思考され、苦滅道諦がこの八聖道ということになるわけであるが、結論的に述べ るならば道諦は業論によって根拠ずけられていると思う。元来、滅道は縁起の逆観たる還滅縁起に従うものであろ うと思われるが、縁起説の内容そのものは生老死の無常昔、人間営が如何にして生起してくるかを次第によって追 存在ど行為