• 検索結果がありません。

佛教大學大學院研究紀要 11号(19830314) 025稲岡誓純「牟子理惑論の研究」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "佛教大學大學院研究紀要 11号(19830314) 025稲岡誓純「牟子理惑論の研究」"

Copied!
24
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

﹁ 牟 子 理 惑 T論﹂は、インドで生まれた悌数思想が中園に惇来してまもなく、その教法の流布を目的としてつくら れたものである。いうまでも芯く、備敬一が中閣に停来した年時については、周代にすでに中国人が備教を知ってい たとか、後漢の明帝︵在位五七!七五年︶ の時代であるともいわれたが、いずれも説話の域を脱していない。しか し、比較的に信葱性の高い史料のなか、まず﹁三闘士山﹂ーの﹁貌士山﹄西戒惇に引くところの魚奈の﹁貌略﹄によると、 前漢末、哀帝の元春元︵

B

C

.ご︶年、博士弟子景慮が大月氏王の使者伊存から浮屠経︵悌経︶を口授されたと停 えている。さらに﹁後漢書﹄巻四十二の楚王英停によると、明帝が永平八︵六五︶年、皇帝に封して異心ありと疑 われたとき、明帝から楚王英に賜わった勅書の中に、楚王英が平常、悌教を尊敬し、沙門・優婆塞に供養している ことを述べ、さらにその時に、楚王英が献上した財物を返して奉備のことを助けさせたと停えている J 乙 れ ら よ り 、 崩御教は前漢の末期ウまり西暦紀元の始まる前後頃には、中国人の耳目広 t 触れ、西暦一世紀頃には、長安・洛陽より、 楚王英の封地の彰城︵江蘇省︶あたりまで行なわれ、しかも後漢の王族たちの騎依を v つけていたことが知られるの で あ る 。 牟子理惑論の研究 二 五

(2)

悌 教 大 皐 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 一 一 蹴 ニ ム ハ 乙の時代すでに中闘においては、高次の停統的な固有の文化が築き上げられていた。儒教が漢人官僚社会 の教養・道徳・倫理として、すなわち園家の撃として確立していた時期であり、こうした道教以外に、老子を祖と して隠逸の生活を尊しとする道家があり、庶民の聞には不老長生・神仙方術の信仰に源を委する道教をも行なわれ さ て 、 ていた。しかも王朝の混凱期には、庶民はむしろ大平道、五斗米道にひきつけられた。こうした俗的、迷信的なも のも流行して、黄帝・老子が神仙家され、呪術の方士が庶民の信仰を集めていたのである。このような中国に、そ れらとはまったく異質のインド思想である悌教が停来して流布・受容されるには、まず中国人の思想・信仰と共通 する面を媒介としてゆかなければならないことは明らかである。 よって以下、中園に偶数が停来し、流布するのに、在来の固有思想である儒教・道教の二教との葛藤が如何にな され、漢民族の社舎に受容されていったかを研究するにあたり、高史料である梁の借祐︵四四五|五一八︶の撰し た﹁弘明集﹄巻第一に所収している﹁牟子理惑論﹄を研究していくものである。さらに、この﹃牟子理惑論﹄につ いて、古来より問題視されている著者の問題、一編纂年代の問題についてもみていくことにする。 ﹃牟子理惑論﹄は本来﹁治惑論﹂と稽したが、唐の高宗︵在位六四九|六八三年︶の誇である﹁治﹂の字を避け ① ﹁理﹂の字を用いて﹁理惑論﹂と稽したとされる。乙の﹁牟子理惑論﹄の書名がはじめて世にあらわれたのは、 て 、 宋の明帝の治世︵在位四四五 l 四七二年︶に陸澄が勅命を受けて編集した﹁法論﹄十六映一

O

三巻においてである。 この﹁法論﹄は現存していないが、梁の借鮎︵四四五ーー五一八︶が撰した﹃出三蔵記集﹄に所載されている﹁宋明 帝勅中書侍郎陸澄法論目録﹂の第十六軟に、 ② 牟子一云蒼梧太守 牟子博停 と﹁牟子理惑論﹄の書名がみえている。また、 乙の﹁山山三蔵記集﹂の撰者である借舶は、例数・儒教・道教の三教

(3)

問題に関する論議を集めた﹁弘明集﹄十四巻を撰している。その﹁弘明集﹂の巻第一の巻頭に﹁牟子理惑論﹄を収 録しているのである。 次に﹁牟子理惑論﹂の書名についてであるが、﹁牟子﹂﹁牟子理惑論﹂﹁理惑﹂﹁理惑論﹂などと一定していない。 しかしこれらは同一の書を指しているととは間違いないようである。これらの書名を大別すると、中国の正史・文 翠類は﹁牟子﹂となっており、悌教史籍類は﹁牟子理惑﹂あるいは﹁牟子理惑論﹂となっているのである。﹁牟子﹂ とは著者の名をとって書名とする一方、 れる。よって﹁牟子理惑﹂あるいは﹁牟子理惑論﹂という書名は、その両者を総合したものであるということがで ﹁理惑﹂あるいは﹁理惑論﹂とは、論の趣旨よりとった書名であると思わ きる。そこで本論においては、 ﹁牟子理惑論﹂と一定して論を進めることにする。 まず著者の問題について、梁の借枯撰の﹁弘明集﹄十四巻の巻第一の﹁牟子理惑論﹂の題下に、 @ ︷云蒼梧太守牟子博惇 の十字が附記されている。このことから、﹁牟子理惑論﹂の撰者は、蒼梧︵贋西省蒼橋勝︶の太守︵郡の長官︶と いう地位のある牟子博ということができる。しかし、この蒼梧の太守牟子博の名は何処にも見い出すことが出来な い。ただ﹃牟子理惑論﹄の三十七篇の問答形式の本論の前に、序とみられる牟子の惇記がある。 先是時牟子将母避世交世。年二十六錦蒼梧要妻。太守問主︵守望。謁請署吏。時年方盛。志精於事。又見世乱。 @ 無仕官意。完遂不就。 とあるように、後漢の霊帝︵在位二ハ八

l

一八九年︶が崩御した後、天下はさわぎ乱れたので、牟子は母をつれて 牟 子 理 惑 論 の 研 究 二 七

(4)

悌教大事大皐院研究紀要第十一説 二 八 交世︵庚西省安南付近︶に避けたのである。そして二十六歳になって蒼梧に蹄り妻を要った。蒼梧の太守は、牟子 が撃間のある乙とを聞いて、牟子を訪ねて役人につけようと思った。しかし牟子は時まさに年も若く血気さかんで、 態 一 d間に精進したいという志があって、また世の中の乱れているのをみては、仕官の志も生まれなかった。結局仕官 しなかったのである。また、同じく序停に、 ⑤ 太守以其博墜多識。使致敬荊州。牟子以潟栄爵易譲。使命難詩。途巌嘗行。命日被州牧優文慮士蹄之。復稽疾不起。 とあるように、蒼梧の太守は牟子が博皐多識なのをみて、使節として適任であるとして、荊州︵湖北省裏陽牒︶に 致敬の使者として行かしめようとした。そこで牟子は栄爵を譲ることは容易ではあるが、使者たることの命令を辞 退するのは困難であるとして、ついに旅装をととのえて出禁しようとした。たまたまこの時、州牧が牟子を文章に すぐれた慮士ととして畔しだそうとしたので、また病気を理由に断ったのである。さらに同じく序停に、 牟子日。被株服極見遇日久。列士忘身期必鴨致、途巌嘗議。曾其母卒亡。途不果行。久之退念。以鶏達之故弧 @ 見使命。方世援擾非額之秋也。 とある。乙の文は州牧が騎都尉劉彦を珠章︵江西省南昌牒﹀に行かしめるがために、牟子に零陵︵虞西省北三十里︶ と桂陽︵湖南省榊豚︶ヘ行き、その領内を通行するための許可を受けてもらいたいと頼んだことに封しての牟子の 答えの文である。馴養の馬が秩を与えられて馬屋に服しているように、わたし︵牟子︶はあなた︵州牧︶の御恩厚 を長い間受けております。烈士はこういった、 いざという時には、身を忘れて必ず名を世に鴨せることを期とする ものであります。そしてついに身仕度をととのえてまさに出禁しようとした。たまたま牟子の母が亡くなったので、 これまたついに行を果すことが出来なかった。それから久しくひとり静かに考えてみると、口婦に達者であるばか りに、たやすく使者の命を受けるが、 いまは世の中も乱れていて、自分の名を瀬すときではないと言っているので

(5)

あ る 。 乙のように序惇より引用した三箇所を総合してみると、牟子は蒼梧の太守ではない。さらに三度も官吏になる機 舎があったが、その度辞退しているのである。このように牟子が蒼梧の太守ばかりか官吏でないということは、題 下のご云蒼梧太守牟子博停﹂の十字と序停の内容とに矛盾が生じてくるのである。 乙の矛盾した問題について、まず第一に考えられる乙とは、牟子が﹁牟子理惑論﹂を撰述した後に、官人となり、 蒼梧の太守となった。第二に牟子自身、あるいは﹁牟子理惑論﹄に威巌をもたせるために後人が附加した。第三に ﹁蒼梧太守﹂の下に一五来、従事とか操吏等の文字が附記されていたが ι 後人がそれを脱したとも考えられる。 このことについて、私見を述べると、まず第一に、‘序停は牟子の全生涯を述べていないところに注目する。牟子 が﹁牟子理惑論﹂を撰述した後に、世の乱れが治り、おのれの名を穎すときがやってきたならば、官職につき、さ らに蒼梧の太守となったと考えられる。しかし、﹁三闘志﹂の果志巻四の士獲得には、 朱符死後、後漢遣張津、局交州刺史、: j i −−:而荊州牧劉表、遣零陵頼恭代津、是時蒼梧太守史環死表、又遣 ⑦ 臭巨代之、輿恭倶至漢 ρ 。 とあるように、牟子が存在していたと思われる後漢末から果にかけての蒼梧の太守は史瑛とその後を縫いた央巨で ある。このように蒼梧の太守が牟子であった確詮は、今のと乙ろまったくないのである。 第二に考えられることは、題下の十字は梁の借枯撰の﹁出三蔵記集﹄の﹁宋明帝勅中書侍郎陸澄撰法論目録﹂か 半の頃、しかも交州の地で撰述されたとする私の立場では、 ら見えていることに注自する。後から述べるが﹁牟子理惑論﹄の編纂年時を後漢末から英の初、すなわち三世紀前 いたって南の地方で撰述されたものが、中央の翠界に 認められ、梁の借結の時代には、牟子が蒼梧の大守であったとも考えられる。だから借結は﹁一云﹂と附加したの 牟子理惑論の研究 こ 九

(6)

悌教大事大事院研究紀要第十一競

ではないかと思われる。しかし、 この考えも確たる論嬢がないゆえに想像の域を脱し得ない。 このように、同じ﹁弘明集﹂にあって、題下の十字とその後につづく序停の内容との矛盾した問題は、このこと をもって序停を信用し難いことの一つの論援として、さらに本書の編纂年時の問題にまで、影響を及ぼしているの で あ る 。 次にこれに謝して、﹁惰書﹂巻三十四の経籍志の儒家類は、 @ 牟子二巻輸融駄尉 とあり、﹃奮唐書﹄巻二十九の経籍志の道家類には、 ⑨ 牟子二巻酔融 とあり、さらに﹁新唐書﹂巻五十九の義文志の道家類には、 ⑬ 牟子二巻酔 とある。このように﹁牟子理惑論﹂の著者は牟融となって、 ﹁弘明集﹄所停の牟子となっていないのである。 ここで問題となる牟融の簿記を﹁後漢書﹄巻第十六の伏湛停に見てみると、 牟融。字子優。北海安丘人也。少博皐 1 以大夏侯尚書教授。門徒数百人。名稿州里以司徒茂才矯讐令。. 永 平 五 年 。 入 代 飽 呈 司 隷 校 尉 。 : : ・ : : 八 年 。 代 包 戚 潟 大 鴻 臆 。 − 十 一 年 。 代 鮭 陽 鴻 潟 大 司 農 。 : ・ 1 : : 明 年 。 代 伏 恭 潟大司空。奉動方重。甚得大臣節。粛宗即位。以融先朝名臣。代趣意潟大尉。輿憲参録尚書事。建初四年蓑。車 @ 駕 親 臨 其 喪 。 . とある。この﹃後漢書﹂の牟融と先に述べた﹁弘明集﹄、の牟子とを比較してみると、 第一に、牟融の字は子優であり、子博ではない。

(7)

第二に、牟融は北海安丘︵山東省安丘豚東南︶ の I Aであるが、牟子は蒼梧︵広西省西江北岸︶ の人であって、両 地はまったく異なっている。 第三に、牟融は次々と官途の道を歩み、最後には太尉となっているが、牟子は先に述べたように太守どころか宮 人にさえなっていない。 第四に、牟融が亡くなったのは建初四︵七九︶年であるが、牟子はその序停に ⑫ 霊帝崩後。天下擾説。 とあり、霊帝は一八九年に崩じているから、両者の間には百余年の差が生ずる。 このように、まったくの別人である牟融を﹁牟子理惑論﹂の著者としたことは、まったくの誤解より生じたもの と 岡 山 わ れ る 。 乙うじた﹁弘明集﹂所停の牟子と、﹁惰書﹂﹁奮唐書﹄ ﹁新唐書﹂所停の牟融との矛盾した問題を投げかけている ものに、宋の志磐撰の﹁悌租統紀﹂、元の念常集の﹁悌租歴代通載﹂、明の覚岸編の﹁稗氏稽古略﹄がある。 ﹁悌組統紀﹄巻第三十五には ︵初平︶二年。蒼梧儒生牟子因世乱。無仕官意鋭志例道。市世多非之。乃製理惑論以矯動。其辞有云。併者魔 者。猶三皇五神五帝聖也。一蹴駄蔵 述目。牟子不得其名。嘗悌道未大行之目。市能潟論。援三家之事義比決優劣。以技世惑。以禦外侮。是殆大士 ⑬ 示 述 。 如 来 之 使 也 。 とある。また﹁悌組歴代通載﹂巻第五の十において 十 突 酉 ⑭ 帝初平中。牟子未詳名字。世稽牟子。既修経停諸子。書無大小扉不好之。雄不柴兵法。:: 牟 子 理 惑 論 の 研 究

(8)

悌教大事大皐院研究紀要第十一説 とあり、その後に﹃牟子理惑論﹄の序停をそのまま惇え、さらに本論三十七篇のうち、二十篇を柳取している。さ らに﹃韓民稽古略﹂巻第一において、 興平二年。牟子者未詳名字。世稽牟子。避世隠居。著理惑。設問答凡三十七篇。見梁借一脂律師弘明集。 理 :⑮惑 と あ り 、 i その後に﹁牟子理惑論﹂本論三十七篇のうち八篇を略出している。 このように、﹃悌租統紀﹄﹃悌租歴代通載﹂﹁稗氏稽古略﹂のいずれの書も、 ﹁牟子理惑論﹂の著者は﹁牟子﹂と しているのである。乙れは志磐、念常、覚岸の三者は﹁牟子理惑論﹄の著者は﹁陪書﹂﹁奮唐書﹂﹁新唐書﹂のいう ところの牟融ではなく、﹁弘明集﹂のいうところの牟子としているのである。 ζ の乙とは、志磐、念常、質岸それ ﹁弘明集﹂の牟子と﹁陪書﹄﹁奮唐書﹂﹃新唐書﹂の牟融との矛盾した問題に接した結果であ ﹁牟子不得其名﹂とか﹁牟子者未詳名字﹂となっているのであ ぞ れ の 時 代 に あ っ て 、 る。そしてさらに、この三者とも牟子については、 る ο 乙れらの三者の書にはその理由は述べられていないが、同じ﹁弘明集﹄の﹃牟子理惑論﹂において題下の﹁一 云蒼梧太守牟子博惇﹂の十字と、そのすぐ後の序停との矛盾した大問題に接した結論であろうと思われる。なぜな ﹁悌組統紀﹄の撰者である志磐は、﹁蒼梧儒生牟子﹂として、題下の十字から考えられる牟子 ら は 、 三 者 の う ち 、 は蒼梧の太守であったことに謝した結果であると思われる。 さ て 、 ﹁牟子理惑論﹄の内容についてであるが、 いうまでもなく、悌教の流停・受容を目的に撰述されたもので あるから、三十七篇全篇にわたって、悌教思想が平易に述べられている。その悌教思想は歴史的なもの、数理的な

(9)

もの、倫理的なもの、風俗的なものにわけることが出来る。また僻教が外来の思想であるがゆえに、在来の儒教・ 道教という固有思想に対して調和的に、さらに僻教思想が優位性のある思想であるととをも全篇 K わたって述べら れ て い る 。 まず歴史的関係のものについて、第一篇の悌停と第二十一篇の後漢の明帝の感夢・悌数将来説という椀教の初停 の説がある。第一篇は悌停すなわち緯尊停を述べているが、乙れが﹁牟子理惑論﹄の本論の一番最初に位置してい ることはまさに賞然のことと思われる。また、本論が撰述された嘗時の倒教界に行なわれていた悌惇類を背景に成 立したことはいうまでもない。 この備停の内容は、韓迦はその形を自浄王の夫人の子として v その胎に仮りにあらわれたのであり、夫人が書一寝 をしているときに、身に六本の牙をもった白象にまたがった夢を見て、夫人は欣然として悦んで︶ついに精を感じ て字むにいたったという託夢降生である。このような托夢降生を持った併停はこの﹁牟子理惑論﹂のほか、後漢竺 ⑮ ⑬ 大力・唐孟詳共誇の﹁修行本起経﹂の菩薩降身品、果支謙語の﹁太子瑞臆本起経﹂、西晋佐一法護課の﹁普曜経﹂の ⑬ ⑮ @ 所現象品、宋求那政陀羅詳の﹁過去現在因果経﹂、宋賓雲詳の﹁悌本行経﹂の降胎品などがある。 そこで英文謙譲の﹁太子瑞臆本起経﹂と比較封照してみると、 牟 子 理 惑 菩 初 下薩 、 . 象莱化白 太 子 瑞 磨 、 大 正 本 三 母重寝因 起 手直 四 七 二

t

二 刀荒夢而ミ 1. 俵形於白浄王主人、霊寝、夢乗 欣然悦之、途感而字、 ︵ 大 牟 子 理 惑 論 の 研 究

(10)

悌 教 大 皐 大 事 院 研 究 紀 要 第 十 一 強 2. 以四月八日、従母右脇化生、堕地行七歩、奉右 手 日 ・

. . . . . . .

3. 時 天 地 大 動 宮 中 皆 明 、 ︵ 大 正 五 二 ・ 一

c

︶ ︵ 大 正 五 二 ・ 一

c

︶ ︵ 大 正 五 二 ・ 一

c

︶ ︵ 大 正 五 二 ・ 一

c

︶ 其日王家青衣復産一児、厩中馬亦乳白駒、奴字 車匿、馬日擬捗、王常使随太子! ︵ 大 正 五 二 ・ 一

c

︶ 8. 王知其禰竪、途起而還 4. 5. 年十七王潟納妃 円九年十九四月八日夜半呼車匿勅提捗跨之、鬼神扶 奉飛而出宮 円 払 途 懐 一 男 六 年 乃 生 、 ︵ 大 正 五 二 ・ 一 c ︶ 四 到四月八日夜明星出時、化従右脇生、堕地行七歩、 奉 右 手 住 市 言 、 : ・ : : : 王 知 其 志 園 、 − j i − − 便 自 還 宮 ︵ 大 正 五 二 ・ 一

c

︶ へ 大 正 一 一 了 四 七 五

b

︶ ︵ 大 正 三 ・ 四 七 三

c

︶ 是時天地大動、宮中壷明、 ︵ 大 正 三 ・ 四 七 三

c

︶ 太子生日王家青衣亦生蒼頭、厩生白駒及黄羊子、奴 名 車 医 、 馬 名 健 一 捗 、 王 後 常 使 車 匿 待 従 、 ︵ 大 正 三 ・ 四 七 四

b

︶ 太子至年十七、王矯納妃、 ︵ 大 正 コ 了 四 七 五

a

︶ 却 後 六 年 、 爾 嘗 生 男 、 ︵ 大 正 三 ・ 四 七 五

a

︶ 至 年 十 九 、 四 月 八 日 夜 、 : : : : ・ 夜 其 過 半 : ・ : : : 即 呼 車 匿 、 除 令 被 馬 、 寒 裳 跨 之 、 : : : ・ : 輸 出 宮 城 。 ︵ 大 正 三 ・ 四 七 五

b

(11)

こ の よ v つ に 、 ﹁牟子理惑論﹂は﹁太子瑞臆本起経﹂と比較して、文章は短かく、簡潔なものである。しかしその 内容は、歳や月日まで合致しており、その意とするところは同じものである。だから、﹁牟子理惑論﹄の悌停は﹁太 子瑞臆本起経﹄のそれと深い関係をもったものであると思われる。 第二十一篇は、中園で初めて悌道を聞いた由来はどのようなものであったか問に封して、牟子は中園における悌 教の初惇説を次のように述べている。 昔、後漢の孝明皇帝は夢の中で神人を見た。その神人は身に日光をおびており、宮殿の前に飛んできたので、 帝は欣然として喜んだ。あくる日、帝はひろく群臣に、これはどういう神かと聞いた。博識の撃者である倖毅が こたえていった。わたくしが聞いているところでは、天竺に道を得たものがあって、それは備といい、虚空を自 由自在に飛行し、身には日光を帯びているとい∼つが、、殿下が夢に見られたというのは、おそらくその神のことで じようと。ここにおいて明帝ははたとさとり、中郎の察情、羽林郎中の秦景、博士弟士の王遵ら十入人を使節と して遣わして、大月支閣において悌経四十二章を寓させ、 これを都である洛陽の蘭牽の石室の第十四室に秘蔵し たのである。またこのときに、洛陽城西の擢門のはずれに悌寺を建立し、その寺の壁に、千乗寓騎が塔を三回繰 っているさまを重き、また南宮の清涼喜一と開陽城門の上に悌像を作ったのである。明帝はまだ生きているときに、 あらかじめ霊陵を修造して穎節陵といったが、またここにも悌園の像を作ったのである。あたかもこのとき、園 はゆたかで民は安寧、遠方の夷狭たちが中園の道義を慕ったのである。これによって悌教を島一ぶものも次第に多 @ くなってきたのである。 このように牟子が述べている悌教初惇説は、後漢明帝︵後漢第二代の皇帝、在位五七 l 七 五 年 ︶ の感夢・悌数将 来 説 で あ る 。 牟 子 理 惑 論 の 研 究 五

(12)

傍 教 大 事 大 串 院 研 究 紀 要 第 十 一 説 -'-/', 乙 の 悌 教 初 停 の 説 は 、 ﹁牟子理惑論﹄三十七篇のうちで、もっとも留意しなければならない。なぜならば﹁出三 蔵記集﹂において梁の借結は、 ﹁宋明帝勅中書侍郎陸澄撰法論目録﹂の第十四般の縁序 集︵歴史的事責書︶に収録されているが、陸澄はこの書の内容は、むしろ教門集︵教義書︶におさめるべきである ﹁ 牟 子 理 惑 論 ﹂ の 内 容 は 、 が 、 そ れ で も 縁 序 集 に ’ 収 録 し た の は 、 @ 牟子不入数円、而入縁序以持載、漢明之時、像法︵悌教︶初停故也。 といっているからである。 ζ のような、後漢の明帝が夢を見て、悌一教を求める使節を派遣レたという悌教初停説は説話の域を出ていないが、 @ このほか、撰人未詳の﹁四十二章経序﹂︵﹃出三蔵記集﹄巻第七所収︶、東青蓑宏の﹁後漢紀﹄巻第一

O

、宋苦障の @ ﹁後漢書﹄巻第一一八、梁慧佼一の﹁高僧惇﹂巻第一の掻摩騰・佐一法蘭停、北鶏楊街之の﹁洛陽伽藍記﹄、南斉王淡 @ の﹃冥祥記﹄︵﹁法苑珠林﹂巻第二一所引 ν 、一梁陶弘景のコ県詰﹄巻第九、﹃老子化胡経﹄︵北周覇驚の﹃笑道論﹂所 貌収の﹁貌書﹂稗老志などにおいても述べられている。 このような悌教初停の説話は、西菅時代にはすでに成立しており、東音時代から南北朝時代にかけて、悌教初停 の史賓として一層普及して、悌数以外の翠界・宗教界にまで一般に広く認められるようになったのである。事賞、 梁劉孝標の﹁世説新語註﹄巻上之下、唐李善の﹁文選註﹄巻五十九などに、この﹁牟子理惑論﹄の悌教初停の説話 が引用されているのである。この﹁牟子理惑論﹂の後漢の明帝の感夢・例数将来説は、現存する史料のなかにおい て、相嘗初期のものであり、信葱すべきものである。そして中国の悌教の初期史をさぐる上において、貴重な出禁 貼とされ、典援とされるべきものである。 次に教理的関係のものについて、まず第二・第三・第四篇において述べられている、悌とは費者であり、道とは

(13)

導くということを意味しており、人を導いて無潟・浬繋に入らしめるものが、悌および悌道であるとしている。ま た第五・第六篇では併の教である悌経は虞大なものであるとし、第七・第八篇では、備の相好は三十二相・八十種 好という常人と異った相好をしていることを述べている。そして、第十二篇では、神は更生︵輪廻轄生︶して、鬼 神︵霊魂︶は不滅である乙とを説き、さらに道を体得すれば死んでも神は福堂︵極楽︶に踊るが、悪を行なったな ら神ば死後においてその残を受けるのであるという、善因善果・悪因悪果の臆報の思想をも説いている。第十八篇 においては、数経の警輸はその道の要であると説いている。 \ さ

6

に、第二十四篇では、悌教の大道は無潟・浬繋を目的とすると説き、第二十五・第二十六・第二十七・第二 十八・第二十九の五篇において、悌道は無潟・浬繋を目的 4とすることにもとづいて、椀道を専ら守り、その梯徳の 震大なことを述べている。そしてさらに第三十一ニ・第三十四・第三千五・第三十六篇において、無矯・浬繋を目的 とする悌道、またその悌徳の虞大なことを具体的に説明している。そして最後の第三十七篇に一おいて、人はみな死 ぬという悌教思想の根本的な諸行無常の考え方を説き、さらに後序では、偶数の根本は三十七道品であるといって 、 ・ ’ 3o ’L v ・ 4 ’ q こ の よ ・ つ に 、 ﹃ 牟 子 理 惑 論 1︸ に 述 べ ら れ て い る 悌 一 数 の 数 理 的 な 思 想 は 、 いたって概論的な、初歩的な思想ばかり である。しかし、概論的なものであるが故に、悌教思想の本質そのものであるということができる。 次に日常生活における悌教的な倫理関係、さらに風俗関係のものを列奉してみると、第九篇で沙門の剃頭につい て述べ、第十篇で妻子を棄て財貨をも指てるという沙門の出家生活を述べている。そして第十一篇では沙門の剃頭、 赤い布を身にまとうという容貌・服飾について説明している。また第十五篇では須大翠太子の布施を利用して、布 施は大道を成就するための第一歩であるといい、第十七篇では、そうした布施は福として報われる因果慮報の思想 牟子理惑論の研究 七

(14)

悌教大事大撃院研究紀要第十一旗 }\ の具体的なものとして説明じている。さらに第二十二・第二十三篇では、よく行ない、よく言うこと︵能行能言︶ は闘の賓であると説いているのである。 このような倫理的なものが護展して、風俗的なものになったものについて、第十四篇において、夷と夏︵夷夏論︶ について述べられており、第十九篇では、悌家は富貴と貧賎はまったく目的としないといい、また第三十一篇にお いては、蹄穀と長生は不可能であるといい、第三十二篇では悌家と病について述べている。 次に﹁牟子理惑論﹄がインド思想である悌教を中園に流停・受容させるために、在来の固有思想である儒数。道 教との接触する上においての問題貼について列奉してみると、 第一に、孔子は易経・書経・詩経・春秋・薩記の五経をもって人の根本の道を説いた教えであるとし、乙の五経 はうやうやしく扶手して護請し、その上に積極的な賓践を行なうべきものである。乙れに謝して悌道は虚無光惚な ものであり、その意義も明かでなく、具体的な貫践の事柄をも示していない。 ︵ 第 四 篇 ︶ 第二に、中園の聖人は七経の根本を制定げされたが、その語は三寓言たらずですべての事柄が備っている。これに 謝して悌経は巻教は蔦巻にも及び、言葉は数億というほど数多くあって煩雑で要をつくしていない。 ︵ 第 五 篇 ︶ 第三に、悌は三十二相・八十種好という相好があるが、その相好は常人とまったく異なった相好すぎる。︿第八篇︶ 第四に、沙問が剃頭するのは、孝経にいうところの﹁弊髄髪膚、乙れを父母に受く、あえて致傷せず﹂という聖 人の語とちがっており、孝子の道に合しない。 ︵ 第 九 篇 ︶ 第五に、人間生活において、福は縫嗣を得ることにまさるものはなく、不幸は縫嗣の絶えるほどはなはだしいの で あ る 0 ・しかし沙門は妻子を棄て財貨をも掲て、あるいは終身、妻を妥らないでいることはまったく福幸のおこな いにそむいた Tも の で あ る 。 ︵ 第 十 篇 ︶

(15)

第六に沙門は頭髪を剃り、赤い布を身にまとい、人にまみえても胞坐・起立の躍儀を行なわない。さらに進退・ 周旋の瞳にかなったふるまいもしない。このことは聖人の定めた容貌・服飾の制にたがい、搭紳の服飾にもそむく も の で あ る 。 ︵ 第 十 一 篇 ︶ 第七に、ー人間は死んでも必ずまた生まれかわるということ、すなわち神︵霊魂︶は更生︵輪廻轄生︶することや、 悌道を韓得すれば、死んでも神は福堂︵極楽︶に踊る︵因果応報︶の思想はまったく理解できない。 ︵ 第 二 ・ 第 十 一 一 位 扇 ︶ 第八に、中夏の聖人の道によって夷放の風俗を愛えることは聞くが、夷狭の教によって中夏の道を縫えるという ことは知らない。だから夷狭の教である悌教の思想によって、中夏の道を愛えるということはむだなことである。 ︵ 第 十 四 篇 ︶ 第九に、悌家は太子須大撃の布施を春め尊んでいるが、自分の親を敬わないで、他人を敬う ζ と を 惇 撞 と い い 、 自分の親を愛さないで、他人を一愛することを惇徳であるというように、悌家のいう布施は不孝・不二の行為である。 ︵ 第 十 五 ・ 第 十 六 篇 ︶ 第十に、老子は華飾の辞をしりぞけて、質朴の語を崇んだのに、悌経はいたずらに警職が多い。警職というもの は、もともと道理の根本ではなくて、ちがったものをとりあわせて一つのものを表現するので事物のすぐれた説明 と は な ら な い 。 ︵ 第 十 八 篇 ︶ 第十一に、人間は富貴を好み、貧践をにくむのであり、黄帝は性を養うのに五肴をもって最上とし、孔子は食は 精なるを厭わないで、槍は細きを厭わないという。これに封して沙門は日に一食で六情を閉じて、自ら世を終って ゆ く の で あ る 。 ︵ 第 十 九 篇 ︶ 牟 子 理 惑 論 の 研 究 一 ︷ 九

(16)

梯 教 大 串 大 皐 院 研 究 紀 要 第 十 一 一 蹴 四

第十二に道をおさむるもののなかには、五穀を避けて食べないが、酒を飲み肉を食べものがあるのに射して、併 道では酒肉を飲肉するこみは重い戒めとされながら、どうして五穀を食べるのか。 ︵ 第 三 十 篇 ︶ 第十三に、道家においては道をおさめた人は、疾をしりぞけて病気にもならず、針療もしない。薬も服用しない で平癒するといっているのに封して、悌家では疾にかかると針や薬を用いる。 第十四に、道家では不老長幸町を説くのに封して、 t 悌家では人聞はみな必ず死んでしまうのであり、だれも死を免 ︵ 第 三 十 七 篇 ﹀ ﹁牟子理惑論﹄はこれらの根本的な問題貼に封して非常な困難が伴なうにもかかわらず、比較的 簡明な答えをしている乙とはまことに注目すべきことである。このように牟子は惇来して間もない悌数思想を在来 の固有思想である儒教・道教の思想と調和させて、中園入社会に流停・受容させているのである。 さらに第二十九篇においては、悌教と仙書について述べているが、等く偉大な教えとなれば悌道に及ぶものはな いといい、第二十五篇においては、五経は五味・併道は五穀というように、働経を主食としての五穀に轍えている れることはできないと説くのである D 以 上 の よ う に 、 乙とや、第三十五・一ニ十六篇において、神仙の術は悌道に及ばないと説いている。このととは、併殺思想を儒教・ 道教の思想の上に位置づけているのである。このように悌教の優位的な立場を説くから乙そ、併教の大道は無痛・ 浬擦であり、神は更生するという輪廻轄生の思想、善事は福に蹄し悪事は狭をうけるという因果慮報の思想、人は 皆死すという諸行無常の思想等、僻教の根本的な思想を説き、また併教の倫理生活的な沙門の剃頭のこと、布施の 乙とや持戒のことまで説くことができるのである。 このような悌教と儒数・道教二教との問題は、中園悌教史を通していつの時代にも問題視され、論議されたもの で、極めて重要なものである。中園例数史の序幕ともいうべき時代に、 ﹁ 牟 子 理 論 惑 論 ﹄ が 、 ー こ の よ う に 極 め て 霊

(17)

要な問題を提起し、そして比較的簡明な答えをしていることは、まさしく留意しなければならない。そしてまた、 停来して間もない梯教の思想を流樽 i ・受容させていくうえにおいて、中国の国有の思想である儒教と道教の思想と ﹁牟子理惑論﹂の一大特徴であるとと を調和させ、さらに悌教を儒・道二教の上に位置づけている牟子の立場は、 もに、格義偽教の先駆的な存在である。

@ ﹁牟子理惑論﹄の編纂年代についてであるが、この問題については古来より多くの研究がなされている。 それらを大別すると﹁後漢末成立説﹂、﹁耳目宋以後成立説﹂、﹁折衷説﹂の三つに分けるととが出来る。 まず﹁後漢末成立説﹂を説く論者は、ペリオ、胡適、周叔迦、山内耳目卿、余嘉錫等の各氏である。その論援としては、 最 後 に 、 第一に、序停の内容に史貫性がある D 第二に、第十一・第十九篇の寸沙門被ニ赤布一﹂は﹁貌書﹄緯老志に﹁漠代沙問皆衣ニ赤布↓後乃以ニ雑色一﹂とある。 第三に、第十七篇に﹁刺巌公之刻濫﹂とあるが、後漢の明帝の詳である﹁荘﹂を避けて﹁巌﹂に代えている。 第四に、後序に寸老子道経三十七篇﹂とあるが、現行本は八十一章であるが、山口回時の﹁前漢書﹂喜文志に﹁老子 惇子経説三十七篇﹂とあることと合致することなどが奉げられている。 次に﹁東音以後の成立説﹂を説く論者は、梁啓超、常盤大定、マスペロ、松本文三郎等の各氏である。その論披

l

ま 第一にべ第十一篇の沙門が脆坐・起立の躍をしないことは、東音の沙問不敬王者についての論議そのままである。 第二に、第十三篇の神は更生するといっていることは、宋の羅君童の﹁更生論﹄があるように、慧遠嘗時に盛ん 牟 子 理 惑 論 の 研 究 四

(18)

悌教大事大皐院研究紀要第十一蹴 四 に行なわれた思想である。 第三に、第一篇の僻停は呉の支謙語の﹁太子瑞臆本起経﹂によっている。 第四に、第十六篇の沙門の非行を述べているが、乙れは罷什門下を指していることなどが奉げられている。 そして﹁後漢末成立説﹂と﹁東音以後の成立説﹂の中間的な成立年時を設定されている﹁哀中説﹂の論者は、周 一良、久保田量遠、福井康順、塚本善隆等の各氏である。このうち前二者は後漢未成立の成分と東膏以後の成立の 成分の両方を認めた説と、後の二者は序停の史貫性の高いところから考えられた折衷説である。 以下、私ながら、本書の編纂年時を推定してみると、後業時代は二世紀後半になると世情は騒然となり、社会不 安が急速に進行していったのである。そのなか霊帝︵在位二ハ七

l

一八九年︶は十二歳の幼令で桓帝の後、第十二 代皇帝として擁立された。そして一八四年の春には寅巾の大反乱が起こり、漢帝国の支配体制は完全に崩壊してい っ た の で あ る 。 霊帝の崩後、群雄の一人董卓︵?ー一九二︶が洛陽の全権をにぎり、強暴かつ残忍なことをくりかえし、興平年 間︵一九四ー一九五︶から建安年間︵一九六|二二

O

︶にかけては、ー海内は荒れて流浪奔流する者も多く、また白 骨は野に盈ちたというほどである。 このように洛陽・長安地方の戦乱下の社会にあって、武力のない知識人、宗教者一般庶民たちは、 ﹃ 三 闘 志 ﹄ 貌 書 の 巻 十 萄 或 停 に 、 @ 自京師遭董卓之乱。人民流移東出、多依彰城間、 とあるように、東方の徐州地方に難を逃れた。そして、乙の流出者を受け入れた徐州地方には、 ﹁ 牟 子 理 惑 論 ﹂ の 序停にも出でぐる窄融という奉椀者がいた。窄融の停記は﹁三園士山﹄果志の巻第四劉鯨停にあるが、彼は徐州の牧

(19)

の陶謙の部下となり、虞陵・下郊・彰城の三郡の食糧の運漕を監督する一方、綿の美衣を着し黄金を塗った備像を 有する荘厳虞大な僻寺を建立している。庶民のなか奉備を志すものをその寺に住まわせ経を讃ましめたり、盛大な 浴悌の法舎に多くの庶民を周辺の地方から集め、席を道にまで布いで、その費用が巨億というほど酒飯の供養をし た 奉 悌 者 で あ る 。 ﹃ 一 ニ 園 士 山 ﹄ 貌 書 の 巻 第 十 荷 或 停 に よ る と 、 遇太租至。抗殺男女教寓口於澗水。水矯不流。陶謙帥其衆。軍武原。太租不得進。引軍従沼南攻。取慮唯陵夏 @ 丘諸問称。皆屠之。鶏犬亦輩。境色無復行人。 とあるように、初年四︵一九三︶年には曹操の軍が彰城地方を攻撃し、陶謙を破ったのである。男女教高人が殺さ れ、鶏や犬まで殺されたので澗水の水が流れないほどであったといわれるくらい悲惨きわまる朕態になり、徐州地 方の平安も長つづきしなかったのである。こうしたなか窄融は男女高人、馬三千匹を率いて虞陵に南したのである。 このような後漢末の戦乱に洛陽・長安の人々が建業・舎稽・荊州などの揚子江流域のみならず、さらに南遷して、 虞州や交州地方にまで南したのである。こうした南遷者のなかに、併殺者や儒士や道家翠者たちのような知識人や 宗教者もいたと考えられる。また窄融の奉悌事業、さらに彼の江南への敗走によって悌教も江南に流停したと思わ れ る 。 その嘗時の間子術思想は、元来儒教経典を権威とした政治・倫理によって園家秩序としていた儒教は、民族的な迷 信に結びつき、神仙方術などの信仰に依存した。無潟を尊び自然に立脚し、陰陽− k 鬼神・識詳の説を排除する道家 思想も、黄帝・老子を神仙家し、不老長士宮時を祈願する神として祭記される道教となって発達した。 世一口同の阿合経典や説一切有部系の経典などの小乗僻教経典の翻誇や、支婁迦識の大乗初期経典が翻課された。さら 一方、悌教は安 牟子理惑論の研究 四

(20)

悌教大皐大事院研究紀要第十一説 四 四 に楚王英のように悌陀を神仙を得た中閣の古聖たちとあわせて祭記したり、沙門・優婆塞らを通して、焼香祈願し、 除災招福を祈ることをもしていたのである。 さらにその交州の地を問題視すると、交州は南海・蒼梧・欝林・合浦・交祉・九員・日南の七郡五十六蘇よりな り、現在の贋東からベトナムにわたる南の地方で、 @ 為 漢 之 極 界 也 。 ﹁後漢書﹄巻第二十四馬援停に とあるように後漢の時代は極界の地であった。しかし、極界の地であるということは、戦乱下の中原地方にくらべ て安泰な地であるということになり?交州に避難する人も多かったと思われる。 そして乙の交州には士愛という交州の交祉の太守がいたのである。 @ 士愛。鱒器寛厚。謙虚下士。中国土人。往依避難者以百数。 ﹁三闘志﹄の央志の巻第四士愛停に とあるように、宝嬰は在郡四十余年の間この地を統治しており、彼は既に皐間優博といわれるほどの皐者であると 共に、人格は趨器寛厚で謙虚下士といわれている人物であるが故に、地位や教養のある人が百をもって数えるほど 集まったと思われる。このように交州が極界の地であり、安泰な地でありブさらに士獲の存在もまた戦下の中原か ら避難するのに最もたる地方ともいうことができる。 さらにこの交州は、現在の虞東からベトナムにわたる地方であるという地域性を重視してみると、南方諸国から @ 来献の通る路でもあり、早く桓帝の世から胡人文化の流行するところでもあった。元来、インドから敦煙へという シルクロード経由の悌教がこの時代考えられているが、それとは別に南方の海路・陸路によって停来した梯教をも 考えられる。よって交州地方の傍教は、北方の悌教の南下と南方の悌教の混合した僻教が考えられ、儒教・道教と の接燭交渉が相嘗行なわれていたと思われる。

(21)

以上のような乙とか=りして、私は﹁牟子理惑論﹄は後漢の末期から、果の時代の初一期、すなわち三世紀の前半の 頃に、交州において編纂されたものではないかと推定する。しかし、極界の地である交州で編纂されたという乙と は、それがさらに悌教が熱心に宣教せられつつある揚子江流域の荊州や建康地方に行なわれるため、︸北上していく 間に、嘗時問題となっていた思想や漢語悌典にふれたりして改変や附加がなされたと思われる。そのうち特に悌教 者に関心ある僻惇’︵第一篇︶や悌敬初停説︵第二十一篇︶などはしかりと思われるのである。

以上述べたように、中国に悌教が停来した初期の時代に、漢人の手によった代表的な書物であるこの﹃牟子理惑 論﹄は、悌教が中閣にどのように受容されたか、すなわち漢人の悌教理解の程度を示すものである。そこにはもち ろん悌教と儒教と道教との三教の接鰯・交渉した事賓があり、悌教の流惇・受容を目的としているところから、悌 教思想を儒教・道教の思想と調和的に、さらに優位的に論ぜられている。よって﹁牟子理惑論﹄は、中園の上代の 併殺史、特に悌教と儒教・道教の三教交渉史上、もっとも重要視しなければならない。 ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 註 陳 垣 ﹃ 中 園 悌 教 史 籍 概 論 ﹄ に 指 摘 ﹃ 出 三 蔵 記 集 ﹄ 巻 第 十 二 ︵ 大 正 五 五 ・ 八 二 ・ c ﹀ ﹃ 弘 明 集 ﹄ 巻 第 一 ︵ 大 正 五 二 ・ 一 c ︶ ﹃ 弘 明 集 ﹄ 巻 第 一 ハ 大 正 五 二 ・ 一 c ︶ 4 ﹃ 弘 明 集 ﹄ 巻 第 一 ︿ 大 正 五 二 ・ 一 c ﹀ ﹃ 弘 明 集 ﹄ 巻 第 一 ︵ 大 正 五 二 ・ 一 c ︶ 牟 子 理 惑 論 の 研 究 ⑫ ⑬ ⑬ ⑨ ③ ⑦ ﹃ 一 ニ 園 士 山 ﹄ 呉 志 巻 第 四 士 費 停 ﹃ 惰 書 ﹄ 巻 三 十 四 経 籍 志 儒 家 類 ﹃ 奮 唐 書 ﹄ 巻 二 十 丸 経 籍 道 家 類 ﹃ 新 唐 書 ﹄ 巻 五 十 九 義 文 志 道 家 類 ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 十 六 伏 湛 惇 ﹃ 弘 明 集 ﹄ 巻 第 一 ︵ 大 正 五 二 ・ 一 c ﹀ 四 五

(22)

悌教大皐大事院研究紀要第十一説 ⑬﹃悌租統紀﹄巻第三五︵大正四九・三一三 a ︶ ⑬﹃悌組歴代通載﹄巻五の十ハ大正四九・五一

Ob

︶ ⑮﹃耀氏稽古略﹄巻第一︵大正四九・七六九 a ︶ ⑮﹃修行本起経﹄巻上菩薩降身品︵大正三・四六一ニ b 以 下 ﹀ ’ ⑪﹃太子瑞臆本起経﹄︵大正三・四七一一 c 以 下 ︶ ⑬﹃普曜経﹄所現象品ハ大正三・四八三 b ︶ ⑬﹃過去現在因果経﹄︵大正三・六二

O

C

︶ ⑫﹃悌本行経﹄降胎品︵大正四・五七 a ︶ @﹃弘明集﹄巻第一︵大正五二・四

c

l

五 a ﹀ @﹃出三蔵記集﹄巻第十二︿大正五五・八二 c ﹀ @﹃出三蔵記集﹄巻第六・四十二章経序︵大正五五・四 一 一 ・ c ︶ @ ﹃ 一 口 同 借 惇 ﹄ 巻 第 一 一 時 塾 騰 ・ 佐 一 法 護 停 ︵ 大 正 五

0

・ 三 二 一 一 c ︶ @﹃洛陽伽藍記い︵大五五一・九九九 c ﹀ @﹃法苑珠林﹄巻一一一︵大正五三・三八三 b ︶ @﹃老子化胡経﹄︵大正五四・一二六六 a ︶ @﹃牟子理惑論﹄の研究は左記のように数多くなされて い る 。 ①明の胡臆麟﹃少室山房筆叢﹄巻三十三・巻四十七 ②孫星術﹃平叢館叢書﹄本の序︵洪願燈﹀ ③梁啓超﹃牟子理惑論耕疑﹄ハ梁任公近著第一所収︶ 四 六 ④常盤大定﹃牟子の理惑論﹄ 教 道 教 所 収 山 ⑤周叔迦﹁牟子叢残﹄︵尼園十九年十二月序刊本所収︶ ⑥可− M v o

− − 笠

υ 冨

g

己 2 2 2 H O ∞ 仏 。 ロ E H 0 4 r ・ ︵ − 可 。

g m

v

g

e

H

S

S

なお、北京聞書館刊巻邸競の漏 一 本 釣 の ﹃ 牟 子 考 ﹄ は そ の 序 論 を 除 い て の 研 究 で あ る 。 ⑦ 同 ・ 冨

g

宮 BHF28 ロ m O 2 F B E a m 骨 H W O B 匂 055E 宮 m u b Z 仏 O R x z c o r 印 由 。 5 8 白 ︵ 回 ロ ロ ︻ 目 。 円 台 。 ︼ O 同 H m 自 の 包 括 円 肘 M 円R O B O E C 巳 oE55 ︶特に第 一 一 章 ・ ③胡適﹃輿周叔迦論牟子書﹄︵北平園書館刊五の四︶ @余嘉錫﹃牟子理惑論検討﹄︵燕京皐報二

O

︶ ⑬山内晋卿﹃牟子の研究﹄︵支那仏教史の研究﹀ ⑪ 周 一 良 ﹃ 牟 子 理 惑 論 時 代 考 ﹄ ︵ 燕 京 皐 報 一 ニ ム ハ ﹀ ⑫胡適﹃胡適先生討論函﹄︵牟子理惑論時代考所収﹀ ⑬久保田量遠﹃後漢牟子理惑論﹄︵支那儒道悌三教交 渉 史 論 ︶ ⑭松本文三郎﹃牟子理惑論述作年代考﹄︵梯教史雑考︶ ⑮福井康順﹃牟子の研究﹄︵道教の基礎的研究︶ ⑮塚本善隆﹃中園仏教通史﹄第一巻第二章・第五章 ⑬京都大翠人文科学研究所﹃弘明集研究﹄ @﹃三園士山﹄説書巻十宥或停 @﹃三園士山﹄説書巻十有或停 ︵ 支 那 に お け る 悌 教 と 儒

(23)

@ @ @ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 第 二 十 四 馬 援 侍 ﹃ 一 ニ 園 士 山 ﹄ 英 志 巻 第 四 士 愛 停 。 桓 帝 延 喜 二 ︵ 一 五 九 ︶ 年 、 四 ︵ 一 六 一 ﹀ 年 、 頻 従 日 南 徴 外 来 献 ︵ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 七 八 西 域 惇 天 竺 園 。土出象犀珪沼金銀銅銭鉛錫、西輿大秦通、有大秦珍 物 ︵ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 七 八 西 域 停 天 竺 園 ︶ 。 至 桓 帝 延 喜 九 ︵ 一 六 六 ﹀ 年 、 大 秦 王 安 敦 、 遣 使 白 日 南 牟子理惑論の研究 徴 外 、 献 象 牙 犀 角 薄 唱 、 始 乃 一 通 湾 ︵ ﹃ 後 漢 書 ﹄ 巻 七 十 八 西 域 惇 大 秦 園 ︶ 。 海 南 諸 園 、 大 抵 在 交 州 、 南 及 西 南 大 海 州 上 : : : 其 西 輿 西 域 諸 国 接 、 : : : 漢 桓 帝 世 、 大 秦 ・ 天 竺 、 皆 由 此 道 遣 使 、 ︵ ﹃ 梁 書 ﹄ 巻 五 十 四 諸 夷 ︶ ︵ 梯 教 文 佑 研 究 所 助 手 ︶ 四 七

(24)

参照

関連したドキュメント

2)医用画像診断及び臨床事例担当 松井 修 大学院医学系研究科教授 利波 紀久 大学院医学系研究科教授 分校 久志 医学部附属病院助教授 小島 一彦 医学部教授.

 21世紀に推進すべき重要な研究教育を行う横断的組織「フ

雑誌名 金沢大学日本史学研究室紀要: Bulletin of the Department of Japanese History Faculty of Letters Kanazawa University.

金沢大学学際科学実験センター アイソトープ総合研究施設 千葉大学大学院医学研究院

東北大学大学院医学系研究科の運動学分野門間陽樹講師、早稲田大学の川上

【 大学共 同研究 】 【個人特 別研究 】 【受託 研究】 【学 外共同 研究】 【寄 付研究 】.

話題提供者: 河﨑佳子 神戸大学大学院 人間発達環境学研究科 話題提供者: 酒井邦嘉# 東京大学大学院 総合文化研究科 話題提供者: 武居渡 金沢大学

向井 康夫 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 牧野 渡 : 東北大学大学院 生命科学研究科 助教 占部 城太郎 :