建中寺経蔵の建立縁起と大戴経
序
このたび建中寺に伝わる大識経と経裁についての研究を依頼 され、改めて自坊の経裁の建立に遡って歴史的に顧みる機会を 与えられ、わずかではあるが今まで不明であったことを明らか にすることが出来たと思う。この緋究に対して、 学の河田克博氏により、数々の建築・伝記に関する資料を紹介 され新たな分野に対して研究が進んだ。また、保教大学のん寸堀 太逸氏には十日文書の解読にご協力いただいき、松永知海氏には、 建中寺一所蔵の大薮経の刊行年次を確定していただいた。各伎に は感謝申し上げる。以下これらの資料に基づき経識の歴史的 建築学的考察、収蔵されている大識経の刊行年次に関わる考察、 経 政 市 内 に 安 寵 さ れ て い る 十 一 一 一 宗 祖 師 の 製 作 年 次 の 考 察 、 そ し て 、キ
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紳 開 放 火 ペ ア ι総合研究所紀姿別叫山﹁切経の隆史的研究 ﹃ 十 μ q m m 堂詩文紗﹄に残る建中土すと知思院との関係についての考 察等進めたいと思う。
第
建中寺経蔵建立の経緯について
ま ず 、 の建立を発駁した中審請主上人について考察し、 経蔵建立の経緯について同調査してみたい。当山に伝わる過去帳 にはあまり多くの事跡は かれていない。そこで♂信者競市 史﹄社寺一端を調べたところによると次のように記されている。 以下は諮問先の清浄寺に伝わる豆町市念術開山市警上人的問﹄であ る 。 師 、 詳 誹 議 稽 金 蓮 社 中 品 開 M J 同 時 抗 議 家 本 州 熱 田 人 也 、 局 見 時 、 某 冒 鏡 子 登 笠 通 山 途 中 見 市 陸 招 牌 、 字 三 智 大 、 人 皆 悶 以 内 之 、 我 締 到 問 時 向 上 人 、 試 授 経 一 習 使 一 部 、 上 人 撫 掌 陵 ヨ 、 今 幸 得 市 山 下 馨 見 遂 許 入 室 、 議 染 端 的 長 、 備 異 議 慧 滋 比 一 T 関 東 籍 一 十 増 上 寺 宗 門 章 疏 加 熱 不 研 究 、 又 随 民 間 中 ⋮ 長 泉 律 院 諮 門 和 上 聴 禁 最 天 台 之 幽 旨 、 臨 ハ 門 前 秀 海 河 室 読 書 屡 談 其 法 要 、 議 此 磁 士 者 、 博 向 学 宏才、民僧中之麟鳳也、締年二十四、登壇受具、後適子京 師、拝受天章、亦官三四年、後節子郷、居無幾何、天間的戊 中歳、依官選住本州津島口出西方十子、寛政戊午歳、楽図命移 城東古前院、文化甲子歳、再命線相態寺、文化半己歳、一一一 命 擢 建 中 寺 、 蓋 比 キ 一 リ 特 賜 紫 抱 之 包 利 、 間 留 中 一 宗 之 魁 首 由 、 締整名於是愈盛、難然師、心不好啓利毎有課倒鈴暇、関室該 一日慶之、又有好詩及没日主癖、梅山春郷東渓東亭 等、深慕締高尚、時々来向洋、 夜 間 変 心 、 加 熱 一水粥之設、不自知膝之前席、是入キ玄米科、忘資、玉、三味 潟 食 故 也 、 寄 自 謂 我 愛 栄 一 回 輩 、 堆 観 古 人 高 情 逸 韻 、 養 我 法 ム 日 恵命而巳、死刑徒潟他有、 M W 執 其 物 耶 、 手T
僧嘗訪師料室、侍者黙茶館、潟道山梨裂、床上桂宗旦令官、僧 数賞嘆不己、終乞佳之、師不允、莞爾笑日、我非待使者也、 若其買之附則子之力何及、他日託侍者日、吾憶死別輿此於 彼、々後来勿護用此、没後遂胎之、或人日、反昔人技剣於 家 樹 、 山 蕊 非 風 流 中 北 冗 談 乎 、 師 年 六 十 二 、 文 政 辛 巳 秋 、 乞 滋 一 寺職、弗諮再乞、遂賜清涼寺第臨楼之地、又給務供及黄金 若干、先是邦君一役立師事該内外寺務不様、今複賛閑語之地、 関恩特渥、人皆築之、於是移住此寺、大印刷ハ土水之事、亡幾 丈 室 、 常 一 国 務 、 庫 器 等 、 殆 設 造 観 、 師 閑 居 之 説 、 有 品 川 克 、 夜 窺 其 寝 室 、 時 是 仲 一 夏 、 師 在 蚊 陽 之 中 、 儲 完 按 創 装 組 問 而 支 日 、 財何夜、財何在、締自若一不日、此開室無人之地、潟議財之 潟、児去、鳴呼何以、電光朝露身、植阿倍祇部長時苦種乎、 諮問時移、夜巳鶏鳴、倫児骸去、他日締諸人日、昔者郎子 尊者、得車問ボ後、潟外道所害、宿業所招、又何免、我一小怖死、意在子此也、鳴呼自非道心堅詔之人、蒋能主此哉、姉 性衰退、無阿世之心、戯一言司、我親教部、名吾以山株主、我 簿戒綿、競吾川以金市中、字々皆無背面、以表我心、論所謁名 詮自性者、其此之謂乎、子持今抵乙間春、師臥数日、軍法 一 お 之 州 知 、 遺 鵠 弟 子 含 城 日 、 夫 徳 飽 ハ 山 者 邦 君 香 火 之 地 、 而 添 " "ァ 万三 方之名産也、我観天下、如此虎必有議案、排出部無之、 山 一 息 非 精 舎 隣 地 ︵ 乎 、 我 多 歳 雄 有 前 建 之 志 、 資 財 未 鏡 時 循 至 此 、 顎数年間貸僅足、汝等間同官排之、舘我得報国家大思高分一、 則 死 加 盟 ⋮ 憾 突 、 又 臼 宮 寺 難 市 井 、 閑 静 而 一 小 限 、 於 修 般 舟 三 味 、 不 亦 善 乎 、 汝 等 技 ︵ 問 問 之 、 、 必 勿 山 地 ︵ 徐 財 於 弟 子 以 鶏 禍 梯 、 其 他 滅 後 修 善 件 々 、 不 可 区 一 ︵ 載 、 ニ 一 日 ー 党 令 看 護 人 焚 香 修 日 諜 百 寓 選 問向、端坐念仰部寂、享齢六十七、震文化八乙酉正月二十 八日也、治子徳輿山杏師也、匿諒寂光、密修密行、額功減 後、不亦偉哉、至如其富資財、以信敬排才天故也、是以素 願闘成、意是尊天冥謄之賜乎、終日疋専修念仰不求自得之巨 益乎、不可得測也、越了卒突日、弟子含城、使楳山第其民 請純撰其道蹟也、余不十づ不事文菜、附例措掠見開二一、紀以 代 香 火 云 雨 、 官文政八年歳在乙閏夏五 建 中 ぐ 「 隠
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建 中 寺 村 山 叫 誤 判 の 建 支 縁 起 と 大 時 総 経 ︹ 現 代 語 訳 ︺ 締の誇は排露、金蓮社申零と構し自らは端棄と呼んでいた。う まれ育った土地は熱聞の人である、子供の時、或る人が手を携 え て 、 に登った c その途中町の店に掛かる看板を見て、 という字をすべて読み尽くし、人は皆凡人ではないと怒った。 我が師読の到響上人︵建中寺第十九陛神蓮社説単位務及喚問方選 光 ︶ は 、 試 に ⋮ 殺 を 授 け た と こ ろ 、 度 習 え ば た ち ま ち 培 一 翻 し た 。 上 人 は 掌 を 撫 で て 感 嘆 し て 、 人 ︵ 7 幸に幼少よりすぐれている子供 を得ることができた ぃ、遂に入室を許された。髪を拠って しばしの間を経ると、 ひときわ高く目だち他と異なり、賢く智 慧ある僚となった。認東に浜町内干し増上寺に籍なおき、浄土宗の 宗義を説く経典研究者籍は研究しつくした。又、自黒の長泉律 誌の徳内和上に師事して華蔵、天台の奥深い奥義を聴講し、州地︵ お一英会仰と部屋を同じくして書を諒みしばしば係法の根本につい て討議した。おもうにこの陣氏は、祭広く才能豊かな者として、 僧の中のめったにないすぐれた人物である。締、年二十四才に して戒壇に登り具足戒を受ける。後に京都に行き天子の暴跡を 拝 受 し た 。 一 一 一 、 四 年 京 都 に 留 ま り 、 後 に 判 的 響 上 人 ︵ 建 中 寺 第 十 九 世 一 神 蓮 社 封 m M M 緋及喚阿方遍光︶ の も と へ 蹄 っ た 、 ることわ ずかにして、天明、戊申の歳︵一七八八︶に、公に選ばれて尾 張の津島、西方寺の住職となった。寛政、戊午の歳︵一七九お ね ん 人 A 、 , だ l ’P L A N I 正 日 付 匂 し 4 ず 3 1 r ︼ f 一“り江 U M 汐まイノ寺必ずノ μ I γ 担 ず 一 月 ’ ” 冷 望 号 n p 切 山 山 町 の 阪 は 史 的 研 究 一 }\ '--./ 尾張の留の命を受けて名古屋城の束、 に 移 っ た 。 文化、甲子の歳︵一人
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出 ︶ 、 び 命 に よ り 相 陸 上 寸 に 線 住 し た 。x
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と の h 成 ︵ 一 八 三たび命を受けて建中寺の住職 '--.、
/ として世にぬきんでた。おもうに此の寺は特別に将軍より紫衣 を賜った大寺であり、尾張の閣の涼土宗における筆頭寺院であ る。師の名声はここに至っていよいよ礎んになった。然りとい えども師の心は名利を好まず法要の暇があるごとに、室を閉じ 舎を謹むこと、未だかつて一日としてやめることはなかった。 又詩と書面を好む趣味があった。梅山春郷、東渓東平等は、深 く締の高尚なる趣味を慕った。時々来て学問をおさめるための 方法をたずねる傍ら番街の造詣を深くした。夜も半ば過ぎて心 し く し て 、 一杯の水や粥のもてなしもなかったが、 おのずか ら膝が席の前に乗り出していくのが解った。者一日阪の禅定に入る とはこの事である。客人を忘れ、書面三味を食とするという訳 で あ る 。 かつて自ら、私が書阪を愛するのは、唯だ古人の気高 い 心 世 俗 止 を 離 れ て 雅 や か な 様 を ’ 鋭 て 、 私 の 自 ら ム 叩 を 慈 し む 法 を 養うのみである。死んでしまえば無駄に他人の物となる。 ど してその書画そのものに執着するだろうか、 いやしない。今試 に そ の 証 明 と な る 事 象 を 一 一 一 一 口 う と 、 あ る 僧 が か つ て 師 の 蒋 室 を 訪 ねた。侍者が茶碗を選び出した。深い趣向品であった。床の上 には宗日一の書が掛かっていた。僧は数えて感心して、 ま 、 っ こ ニtu
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凶 ︵ ︶ えるだけであった。終にこれらの売値を聞いた。姉は聞き入れ ず、まろやかに笑つ った、私はよい売値を待って売ろうと している訳ではない。若しあなたがこれを買おうとするならば、 あなたの力がどうして及ぶだろうか。 いや及ばない。地日侍者 にゆだねて言った。私がもし死ねばこれらを彼に与えよう。被 は設に一得び来たが二度とこれらを鈍うことはなかった。亡くな った後、遂にこれらを彼に贈った c ある人はこの事を、昔の人 が家の樹に斜を掛けたという故事に反して、 どうして嵐流中の でないといえようか、 いやまさに風流山市の美談であると言 っ た c 締の年六十二才、文政、 ︵ 一 八 二 一 ︶ の秋、建中寺 の住織を退きたいと願ったが賠き入れられなかった。再び乞う たところ遂に清浄寺を賜り役俗を離れ静かに暮らす場所とした。 又清らかな供え物といくらかの黄金を給わった。これに先立つ て尾張徳川家は、師の皐問が内外にわたって十分に備わってい ることと、寺の勤務に怠りがないことを褒賞した c ん 7 復た静か に暮らすことの出来る土地を賜った。尾張の白からの恩は特に あっく、人は皆この事をとても栄誉な事とした。そこでこの寺 に移り住み、大いに木材・石・土などを捜つての工事を行った。 ほとんど滅ぶ寸前の方丈室、 路 加 問 伯 母 、 殆 ん ど 一 冗 の 形 に 復 した。師が静かな場所に住みだした後、泥棒がやってきて夜 帥の寝室をうかがっていた。ちょうど真夏のことで、郎は蚊帳の中にいた c 泥棒は鮮の栴に手を添えながら蚊帳をあげて厳し く要求し は ど こ に あ る か 。 はどこにあるか
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っ た 。 と 師は臼ら次のように示していった。 ﹁この諮居は無人の地 であるひどうして宝を縮めてあることがあろうか。 い や な い 。 帰りなさい。ああどうして、電光や朝露のようにすぐに消えて しまう身に、数え切れないほど長い時間苦しみを受ける種を植 えるのだろうか O L と、話している間に時は移り、 夜はすでに 潟の鳴く時刻になっていた。泥俸は驚いて逃げ去った。他日、 師 は 人 に 話 し て 一 一 一 一 口 う に は 、 師 子 尊 者 は 、 修行をして覚り を得た後、異端邪説を語る人によって殺された。過去に行った 行為の潜在力は又どうして免れることが出来よう。 いや免れる ことは出来ない。私は死を怖れることなく窓はここにあるJ
と、ああ、求道心患部な人でなければ、 どうしてこの境地に至 る こ と が 出 来 よ う 、 ることは出来ない。師の性格は、 し、 性が激しくて才知がすぐれ、昨一関の説子にあわせてへつらう心 は無かった。冗談に次のよう っ た c ﹁ 我 が 親 は 教 訴 で あ る 。 私を排砂一認と名付けた。我は傍戒師である。私は自ら金中︹金蓮 と名付けている。字それぞれ皆背阪がない。そのよう に 我 が 心 は 表 面 で あ る 。 論 に 一 一 一 一 口 う と こ ろ の 名 は 間 有 の 性 一 貨 を 備 え る と は こ の 事 を ⋮ 一 一 一 口 う の で あ ろ う か O L と、時に今ここに 化八年︵一八 乙 臨 の 春 、 締は数日病で績になったが、 建 中 学 問 什 絞 の 連 立 は 係 怒 と 大 読 料 以 日 たちまちにして死期が訪れた。弟子の含域に死後の事をたのん で次のように った。﹁徳奥山建中寺は尾張徳川家の に 釆 闘 を 供え灯明をあげて供養するところである。そして、浄土宗の尾 張藩における有名な寺院である c 私が世の中を見るに、この様 な場所には必ず経蔵があるものである。 しかしながら今の建中 にはそれがない。どうして、寺院の原則に反しているいる点 ではないということが出来ようか。 いや間違いなく寺読の原則 に反している。私は多く年をとってしまい、 たとえ経蔵を部建 する志があったとしても、資金がまだ充分ゆとりがないままは っきりさせないでここまで来てしまった。この頃数年の問問に財 貨はほんの少しではあるが足りてきた。 おまえ達は、尾張藩の 役人にこの事を説明し、開いてもらいなさい。私は、尾張の国 からいただいた大患の寓分一でも報いさせてもらえるなら、死 んでも残念に思うことはないJ
と、又言った。﹁建中寺は、た とい町中にあるとはいっても、閑静であって騒がしくはない。 般舟三味を修行するのに、こんな良い場所はない。 お ま え 湾 局 は 、 これを計磁して必ず徐財を弟子に与えて、 それによって災いの 原簡をつくってはならない その他死んだ後の追善法要 と のことなどいろいろ述べたが詳しく載せることは出来ない。 い終えた後、看護人に香を焚かせ日諜として否認遍念仰の同向 をさせた。正坐して念備し亡くなった c 享年六十七才。まさに [JJ:j係数大学総合研究所紀裂剛山櫛寸 切 殺 の M M 史的研究 文化八年の乙臨正月二十八日であった。徳刷出ハ山建中寺に卒塔婆 を建て師の遷化をなげいた。︹締は︺認を隠し光を納めて、 密に修し秘密に行じた。その功徳は遷化の後に顕れ出でる。な んたる偉業であろう。その資金が豊かであったことについては、 鉾才平八を信じ敬っていたという理由による。このようにして、 日頃の願いが完全に成就した。そのわけは、知らないうちに天 から与えられるおかげを尊んでいたたまものである。まったく 専ら念仰を修すれば求めずしても、 おのずから与えられるとい う巨大な利益であるといえよう。その理由を推 ることはと うてい出来ない。ここに遷化の命日にあたって、弟子合城は、 梅山に師の真影を描かせ、誤りのないことを心から願って部の 生涯の履歴を撰述させた。私は才能無く、 しい文章を得意と しないものである。わずかながら見聞きしたことの 一 を 拾 い 取ったものである。この行状を紀すことにより、香を焚き、灯 明をともすことに代える。 時に文政八年、乙酉の歳、夏五月 建中寺住職・紫衣賜りし沙 勺 持 港 、
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んで記す c と 記 さ れ る よ う に 、 は若い頃から鮪学を志し﹁僧や の麟鳳﹂といわれたと記されるように大変優秀な成績を残した 人である。逆算して生まれは、 七 五 八 ︵ 宝 一 時 八 ︶ 年 で あ り 、 建 中 寺 第 ム i 九 府 一 神 蓮 社 到 胤 時 間 排 及 喚 問 方 遍 光 上 人 に つ い て 出 家 し 1 1日 ている。この部容上人は、建中寺毘代上人過去帳の記述による 干 必 と 寛政五発丑 第 十 九 好 一 神 蓮 社 到 山 谷 川 抑 及 喚 阿 方 一 溢 光 大 和 尚 五月十六日 山富山住職トナツテ入院ノ年月日不相知 天明五乙巳年正月 サ 一 一 一 日 祝 融 火 災 ヒテ建中寺会出焼キ失ヘトモ其ノ後幾 モ無ク天明了未 年間関口拾五防奥行拾間関ノ本堂ヲ再建 シ本尊ハ鳥仰師作ト傍ヘル坐像阿弥陀如来ヲ安置ス此功 ︵ 2 ︶ 七十九歳ニテ選化 ヲ以テ中興続授奥サル年月不明 と記されるように到啓上人は、天明五年︵ 七 八 五 ︶ コ く , 、 tu z
リ ノ 日 プ の後建中寺を再建した中興上人である c 第 十 八 世 最 胤 時 向 上 人 が 天 明五年四月十三臼に遷化しているところから、天間的五年四月以 降は実一史的に住織となっていたと考えられる。ぷ山念側関山中 響上人傍﹄において鉾護上人は幼くして到啓上人の弟子になっ たとされているところから、天明五年以蔀から到啓上人は建中 に 入 山 し 役 を 行 っ て い た と 思 わ れ る 。 到 品 開 問 排 及 と 記 さ れ る と ころからゆ例案上人の師匠であることは関違いないと思われる。 後、排霊上人は天明八年︵一七八八︶津島商方寺、寛政十年 ︵ 一 七 九 八 ︶ 高 岳 院 、 文化元年︵一八O
回︶相磨寺 文化八年 f戸、\ )¥ 一︶建中寺、文政四年︵一八二一︶清浄寺と転住し、文 政 八 年 ︵ 一 八 二 五 ︶ にて選化されている。転住した 順番から当時の寺格り順位を知ることができる。又法一言止を弟子 に託すことによって、経識を建立したいという強い意志は、清 へ詣遁してからも続き弟子にその気持ちが伝わり建立に至 ったと忠われる。 以下は建中寺土蔵内に納められた在文書のマイクロフィルム をもとに名古屋工業大学助教授、河悶克博氏が解読された資料に よるものであり、書き下しの読みは仰教大学史学科教授今期太 逸氏にご指導頂いたものである。 ♂山間浄寺より建中寺経議建立のため池型築寄進したきにつき 城下へ戸懸かりを願う覚﹂ 党 当一仰向寺隠賠申響上人儀存命之内、弟子清浄寺江市置ニ而当 御山内ニ経歳建立被致茂志願一一付、先般清浄土守泰願候上選 人ゑを以右経蔵地型築ニ取懸り申候処、日雇人数一一而ハ中々 竪リ兼出叩候旨、大工棟梁弁旦原頭共申関候出付限ハ、仰向城 下町くミ翠志有之面々江地取築寄進一一預り中皮宕清浄寺よ り中出候鴎、何卒 御城下町中江御声怒り致成下度乍候 ハ、早行ニ池塑築出来可申候、尤御場所柄之御儀一一付、締 り方等之犠ハ御寺よりも精々入念為相守可申絞剤、清涼寺 より綴之趣御関済成下候捺仕度、上存候閥御達中上候、巳 伎 一 山 中 山 ナ 絞 出 況 の 建 立 縁 起 と 大 市 総 経 上 ︵ 文 政 九 ︶ 成 六 月 建中寺 手 J T十 ム 同 叩 い 広 三 T r 庁 ゴ マ シ t 持制伊学会ノイ i 一 門 円 ︵ 3 ︶ 、 区 ヂ 自 ハ ー し ど ニ 畑 山 山 U K ︹ 書 き 下 し ︼ 役者 ︵ 文 政 九 ︶ い ね 切 っ p r 、 η つ 戊 六 月 ! 明
係数火以京総合併究所紀姿別清三州出絞の隆史的研究﹂ と 一 一 小 さ れ る よ う に 申 間 後 緋 護 上 人 の 名 称 入 り の 文 書 が 滅 後 弟 子 に よって、時居先の清浄寺より建中寺経蔵建立のため池取築寄進 したきにつき城下へ戸懸かりを願っている。これに対して﹁城 下町衆の地型築寄進への志願対する承諾書﹂が以下のように出 て い る 。 達之趣、町奉行な及引合候処、町々之内志有之地型築寄進 ニ罷出震存候者ハ御場所柄ニ侯得共罷出候部も不苦旨、町 代庄屋等罷出俊節々軽く柏合置候様可致旨、惣町代、氏申渡 候旨中間侠条得其意、右寄進ニ罷出候ハ、清浄土寸中相狼受 締 六(り 月三方 火 之 フ乙 IlJ 人 足ト
候
門 書 き 下 し ︺ ﹁城下町衆の地問点築寄進への志願対する承諾書﹂ た っ し の お も む 号 、 ま ち ぷ 5 ょ う ひ さ め い お よ び そ 一 つ ろ う と こ ろ ま ち ま ら の う ち こ こ ろ ざ ご 守 れ 達 之 趣 、 町 泰 行 へ 引 合 に 及 候 処 、 跨 々 之 内 志 之 と か た き つ 与 さ し ん ま か り い て た く を ん じ そ う ろ う も の お ん は し ょ が ら そ う よ 有 、 地 型 築 寄 進 に 、 龍 出 度 存 候 者 は 御 場 所 柄 に 候 得 ど も ま か り い て そ 1 0 へ て く る し か 与 さ る む ね 支 ろ だ い し よ う や と う ま か り い て を つ ろ っ ぶ ∼ ぷ v 品犬、罷出候雨も苦不旨、町代庄露等罷山山候節々、 t h v はなしあいおきそ令つろうよついたすべ主とねそうまちたいも︸︸わた巳そっろノとね 軽く相ム口置候様致可旨、惣何代へ中波紋旨、 そ y ろ 勺 じ ょ っ そ い え み さ 主 し ん ま か り い て そ ? っ 侯 条 、 其 の 意 を 得 、 右 寄 進 に 龍 出 候 は ば 、 も う し あ い な お う け し ま り が た ひ の も と ね ん い べ を つ ろ ツ 出叩相猶受締り方火之元念を入る可く候、 ろくがつ d 、 、 ・ 4 4 E J 一 ノ f ノ 日 ヨ 四 以上遷化の後も弟子達が遺言に基づいて経蹴建立に氏、力してい る様子が理解できる。特に火の元止を注意するように書き添えら れているところを見れば、天明五年の火災で本堂等が消失した 時の影響であると考えることができる。 さて、当山に伝えられる﹃当山歴代上人過去帳﹄によると 文政八乙際年 第 け 拐 役 人 泣 蓮 社 申 幾 向 上 人 白 阿 瑞 華 緋 砕 一 正 大 和 尚 月刊
}\ 日 砂田山住職械トナリ後清浄寺に認器時不棺知文政八乙笥一月 ︵ 5 ︶ 村人日間寺にて遷化 と記され次のニ十五世については 文政八乙酉年 第什五社醍蓮社丈替上人唯阿履信排純大和尚 六月籾七日ァ首
選(山イヒ旦ニ
住
ノ 年 月 不 相 知 文政八乙語年六月け七日吉山 と記されている。二十五世排純上人は前述の﹃常念偽陪出中則被 上人傍﹄を文政八年の五月に書いた人であるが、次月の六月二 十七日に進化されている。務室一上人の没年と同年である。 以上の記述から考えて、経蔵を完成させた住職は建中寺第 十六世であると一言わねばならない。過去帳によると天保二辛卯年 第 け 六 世 良 蓮 社 宗 零 上 人 鉾 成 業 阿 古 学 一 一 以 足 大 和 尚 一 一 一 月 十 八 日 建 中 本 寸 ニ 特 住 ノ 年 月 不 相 知 天領二辛卯年三月十八日蛍山ニテ遷化 ︵ 7 ︶ 七十二歳 と記される。没年が天保二年︵一人三一︶ であるから、過去帳 では住織となった年月は不明であるとしているが、前住職が文 政 八 年 ︵ 一 八 二 五 ︶ に遷化されているので、経載が上撮した文 政 十 一 一 年 ︵ )¥ j\、 \、,J には建中寺の住職であったと思われる。 ま た 、 戒 名 を 見 る と 排 成 と 一 一 一 日 う 文 字 が 見 い だ さ れ る と こ ろ か ら 、 緋 時 一 皿 上 人 の 弟 子 に 当 た る と 考 え ら れ る 。 以上のことは、経蔵内に安置されている機札を保存修理工事 に際し下ろしたところその記述によって確認することができた。 〔 jよj、
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裁 の 枝し記 札立述 〕 を 議 友jl し た も の で あ る ︹ 表 面 ︺ 十~t+L表 写真2 丈政十 h 斗 ‘ 崎 山 中 寺 経 後 の 枠 組 立 縁 起 と 大 裁 経 手 置 桃 色 ︵ 命 彦 挟 知 ム 叩 戊子九月十一日上棟 守 護 新 造 一 山 総 裁 安 全 炊 奉安鎮 は棟札を八段に分けて記入されているので上から翻 刻することとする Jg m m
設 ︶ 文政八年乙商六月十一日新初 同十一年戊子九月十⋮日上棟 一 総 裁 査 基 文政十 年戊子九月廿七日入議供養 六 千 九 百 一 一 一 十 巻 切経全部 二子九十撚 武百七十五軟 願主 省出廿匝世 金運社中替上人白阿端華緋重大和尚 文政八年乙酒正月サ八日遷化 ︵ 第 二 段 ︶ 山 主 ←IJ 五i
せ 二 四 五 十束キL表 写会主is係 数 大 学 総 合 研 究 所 円 札 附 決 別 冊 院蓮社文春上人続純大和尚
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可 ル u L ハ ー ル u一
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j 民蓮社宗春上人排成大和尚 御用人寺社御奉行議 水野蒜兵衛源忠築 ヒ 子 + ム 訓 中 主 ニ 了 二%ま I f u e ゴ 為 4 4 5 小山法兵衛藤原政好 二 段 ︶ 役者 光 一 議 院 文 雅 商 堂 | 苛 全 般 院 訴 ん 俗 図 堂 寺社御奉行一所吟味役頭取 速水甚之原源氏興 同吟味役 由 一 川 底 武 太 夫 平 正 忠 ︵ 第 四 段 ︶ 普請中宿坊 宗心院排信四党 寺 社 御 奉 行 一 例 制 万 組 一 洲 一 竹中九兵衛源長潟 S M w h 栓 の 佳 史 的 研 究 −i
可 可 、 いi
’ 永井左兵衛 松下古ヱ門 多賀代助 浅野半平 ︵ 第 五 段 ︶ 泰郎命以遺金浮財造立之 ︵ 第 六 段 ︶近 郊
十 部 門 懸 念 域 山 W 巾 向 精 μ 石 川 泣 ム ロ 沙弥瑞玄 ︵ 第 七 段 ︶ 大工棟梁佐々木善兵衛源茂高 間 同脇棟梁佐々木善在館内持宣三 一 一
3 v な 国 号 J − L L 争 え よ 一 一 サ , R, A 持 n i − − J Z J d イ 後 見 者詩 魚住 勘古 吉右衛門 御城下棟梁役近藤三良平 二 q d L \ 一 ⋮ 日 一 ノ︵ 第 八 段 ︶ 木 投
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支 }¥. 日 一 躍 頭 , 皆、 }\ 同 忠右エ門 この綴札の表面の記述からは、備教寺院建設にもかかわらず、 働政ハからの引用ではなく神道の神の名が記されている。 ・彦狭知ム叩は上様式で記られる工匠の神々であり、神社で の上棟式の際には必ず記られ、棟札にも、必ず来日かれるものであ る。なぜ建中寺経蔵の後札が神道の形式をとったのであるのか 理解しがたい部分である。 次にこの棟札の表面の記述からは 一一人の住機名を確認する ﹂とができる。先ず願主が 一十回世金蓮社中容上人吉阿瑞禁排 霊大和尚で文政八年︵一八二五︶ 一月二十八日に遵化されてい る。続いて、山主二十五世として翫蓮社丈啓上人排純大和尚の 名が出ている。この住職は、前述の清浄寺 Z w m 念 仰 閉 山 市 終 日 上 人傍﹄を書いた人である。しかし、過去帳にも書かれているよ うに、文政八年︵一八 一五︶六月二十七日に選化されているの で、経蔵の完成を克ることはできず、次の同二十六位として、 伎 一 山 中 寺 経 絞 の 建 立 縁 起 と 大 紫 綬 真蓮社宗響上人辞成大和尚の名が出て来るのである。過去較の 記述のように排成上人は天保 人 一︶三月十八日選化 とされているので、経蔵を完成させた時の住職であると確認す ることができる。 よ っ て 、 の建立を発願した排霊上人は、前述の清浄寺の 可常念俄際山中響上人係﹄によっても、 また住職過去帳並びに 位牌及び棟札の記述によっても文政八年︵一八 一 五 ︶ 月 八日に選化されている。 ♂巾念俄関山中審上人体﹄ を書 ま た 、 いた第二十五社排純上人も河年六月二十七日に遷化されている。 そ し て 、 その三年法文政十一年︵一八一 八︶第二十六世焼成上 人によって建立されたことになる。また、棟札によると、丈政 八年六月十一日に銑初、丈政八年九月十 日上棟、文政十一年 九月二十七日入駿供養とい しい完成に至るまでの日殺も確 認することができる。 また、棟札には出入の弟子の名、が出ている。すなわち、 合 城 、 義 卵 管 室 内 、 沙 弥 前 一 柵 玄 の四人であるが、この 中の究部初日会械とは、前述の清浄寺3
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念仰開出府警上人傍﹄に お い て 、 たびたび名称が出ているところの、排霊上人より遺訓 を受けた弟子含城であることも確認することができる c したが ザ コ の弟子達が協力して建中寺の経蔵建立に尽力した 様子を伺い知ることができる c l明 七州 問 教 大 学 総 合 研 究 所 紀 前 古 別 府 ﹁ 一 切 絞 の 一 校 史 的 研 究 一 なお、経裁活関上層ゅの陪には﹁弊法輪栽﹂の額が掲げられ ているが、知恩説尊超法親王︵有楢川宮織親王第八の によるものである。尊超法親王の在世期間 一 年 一 入 。 一J 嘉永五年一八五二︶ から考察するならば、⋮総裁成立年次と 合致していることから、 の建立を記念して額の染筆を知恩 院の尊超法親王に対して依頼していたことが理解される G 仕 弟
建中寺経蔵内に納めらる大戴経の
刊行年次
次に経蔵内に納められている大議経について考察するならば、 立 闘 ︵ 築 抜 大 薮 経 刊 記 集 ﹄ 解 題 に よ る と 、 一 口 に 質 問 架 版 大 識 経 と いっても初刻持期には和刻の流布本を底本としていた物を蔦屠 版によって覆刻したり、寓暦版にはない議外典籍を加えたりし て、制った時代により少しずつ内容が異なり 六七八 ︵ 延 宝 六︶年︵滋賀操日野正明寺蔵本︶・二ハ八八1
︵ 一 五 徐 ︶ 期︵櫛谷法然院所蔵本︶・一八一八i
一八二九︵文政︶揚 越教育大学所蔵本︶・昭和期︵黄葉宝蔵説版木刷本︶ ︵ 9 ︶ 分けて考えられるとされている c の間期に 建中寺経蔵に所蔵されている黄葉版大蔵経がどのようなルl トから購入され、馴られた年代はいつ頃かを調査して、明治初 r r日 }\ 期に多数の大蔵経が盗難に遭い、古本屋に売却され、川瀬商店 の の厚意により、もう二皮建中止寸に川瀬高店からの寄進によって 一決されている挙が解った。その時に紛失して行方のわからなく なった大蔵経については、他の寺院から売却された吉本などに よって川瀬商宿により補填されている事実も判明した c 従って 他寺院の蔵書印と間瀬商店の蔵書印が押された大識経が多数存 在している。その中で日を引いたもので、表には﹁間資﹂と印 が押してあるものがある。それらの経典の H 仮設につ端雲堂﹂ ﹁ 説 室 一 之 章 L ﹁ 施 、 玉 川 瀬 代 劫 ﹂ と い う 一 一 一 種 の 印 が 押 し て あ る こ とからこの経典こそが歴史を伝えている物である。すなわち、 建中寺に経蔵を建立するという篤い思いをもっていた排霊上人 は、経蔵が完成する前に遷化されているが、すでに黄葉版大蔵 経は自分の私費で購入していたのである。それは続出品︵の最後に ﹁ 山 一 初 日 一 ℃ ν 一Z M E 笠 コ A一
﹂
の押印があることによって明らかであ る。﹁瑞雲堂 L と は 、 排霊上人の私設書俸の名称ではないか推 測 で き る 。 ﹁ 排 霊 之 虫 学 ﹂ はまさに株主上人の蔵書を示す印鑑で ある。従って松永知海氏によると、黄柴山の大蔵経間以売目銭に 建中寺に販売した証拠がないとされるのは、 が私費を もって書店等から購入されたためであると結論づけられる。 そ の 後 、 二代の住職の努力によって経蔵が完成したとき、時抑 議上人の遺志により私費で購入された大蔵経が建中寺の緩議にj法:jli'f'.[J 「様B~fJ ?~:~t~ 4 写真5液i耳石[!「
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;之f;IJ 「Iifii;?t堂J'施主 Ill溺 ftl!JJ」 おさめられたものと思われる。そこで、この大蔵経は尾張の国 の宝とすべきものであるということで、経典に表には﹁国賓 L という印を押したのであろうかと推測するところである。 時 崎 市 ヤ 寺 川 総 裁 の 建 立 縁 起 と 大 総 村 山 叫建中寺経蔵の建築物としての
次に経蔵の建築的特般を考察してみたい。経載は、二一間四方、 宝 形 造 、 の和殺を基調とし、方一関に裳皆がつい た当時では典型的な建築様式であり、本山知恵院と向型式を一 回り小さくした規模である。経裁の調査が名古屋市の教育委員 会によって平成十年︵一九九八︶三月二十四日に行われ、屋根 表に入り棟札を撮影したところによると、文政十一年︵一八 八︶九月十一日上棟と書かれている。当初より外観に変化がな いことは、天保十二年︵ 入 部 一 ︶ の♂尾張名所図絵﹄に記載 されている留と現状が同 であることから確認することが出来 る。以下の説明は建築の専門家である名古屋工業大学助教授河 ︵ 印 ︶ 田克博氏の説に基づくものでゐる。 全体に薄く漆喰を塗ってある。これは天明の火災によって被 害を受けた教訓から強い防火意識の下に施された税問別であると 考えられる c 土議作りの絞殺は他にもあるが、建中寺の経裁の ように木造の上に全面漆喰塗りとした倒は他にあまり存在しな ぃ。その意味からも建中寺の経裁は希少価値のある文化財であ るということが出来る。 次に経蔵内の総裁について考察すると、輪裁はいわゆる入額 総裁である。江戸期の雛形によると、概して二種類ある。 イ コ 在 日 )L係数大学総合研究所紀嬰別附 4 州 出 川 沿 の 綬 史 的 研 究 ﹂ i絞 稔 写真 6 は、入側八角形を構成する柱がそのまま足下の地夜まで来る形 式であり、後の一つは、 八角形が縁部分で留まり、足下には輪 戴紬が露出する形式である。建中寺経蔵は前者の形式に属する。 近役以前の輪裁選構は現在三十余棟確認されるが、後者の形式 の方が多いと思われ、 その意味でも貴重な文化財ということが 出 来 る また、当翰識は、戦部・組物様態など唐様を基本として、虹 梁・蕃股・長押に和様の要素を取り入れている。全体に彩色は 11; r、 ないが、良質の機材を主材として水島・慕股などに精散な縮工 ・彫刻を施している。特に側姐り八百の暮段に彫刻されている は、縁起の良い福徳を将来するとされる独特の J ー で す く し 丈﹂である。すなわち岳部面 ー 七 rムー, ヨL 了 子 事南西面 @南部 宝鍵に宝珠 ③南京市 @ 東 関 軍記団扇 ー 口 二 子 関 向 耳 ト ノ フ 必 主 隠れ蓑 ③北関 ヨ レ ー ら ん 一 こ 4 こ
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⑤北東国 − i 一 ︷ ﹁ n u 打出の小槌に俵 以上八荷の誌肢には独特な彫刻意匠が施 されている。輪競を回すことにより、福誌が招来されることを 願つての彫刻であるとも考えられる。以上は河悶克博氏の説に 基づいた解説である。第関章
建中寺大蔵経の散侠経典
大蔵経の散侠状況を確認するために、昭和六十 月 一 ト 五日発行の吋上越教育大学所蔵黄葉銭限版一切経日銀﹄を用い て、目録織に整現した。 昭和五十五年十二月八日に仰教大学浄土宗文献センタi
の浄 土宗の収蔵政︵籍調査の一環として、当時課長三輪晴雄氏、松、水 知海氏などにより調査が完了した。その結果技蔵されている大 に何部かの欠本があることが判判明したが、 その時の整理で 欠本となっていたものが発見されたりして、思いの外欠本が少建 小 中 立 総 裁 の 慾 立 縁 起 と 火 ホ 給 付 日 写l!Dl 耳
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ヒjll百I訂が立ごしい)岬 附 教 大 栄 一 松 本 口 研 究 所 紀 制 女 別 附 ご 切 経 の 一 段 史 約 研 究 ﹂ ないことが解った。これは、最新の黄紫版の目録が上越教脊大 によってまとめられたことによる患恵が大きいものである。 この目録は、新潟県中頚減郡一一一和村上回の宮崎市ゑに伝わる経 蔵に八路翰識が安霞されそこに黄葉版大蔵経が先担代々門外不 出で守られたことにより完全な形で保存されていたものを、上 越教育大学が中心となって目録をとったものである。興味深い のはこの経蔵の棟札に文政五年︵一八二二︶新始、文政六年上 棟と舎かれている点で、建中寺経蔵が丈政十一年︵一八二八︶ 九月十一日上様であるから、五年前にできた経蔵で、大変に近 い時代のものであったことである。 それは、今回この吋上越教育大学所蔵黄葉銭眼版一切経呂 により整理していて、経典の並び願が、建中寺にあるもの と合致していて大変整理しやすかったことから同時代の目録の 利便さを感じた。もう つ気づいたことは、建中寺の大蔵経は 何茂も散逸してその都度補填していることである。新しそうな 般におさめられたものは、刊記に﹁黄葉版其他諸経印刷制発貫一冗 京都市上京区木屋町通二候下ル
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Y.≪< il'.J二 印 一 涜 武 兵 衛 ﹂ と し て京都市の区政が始まった明治以降の印制であることや、 ま た 川瀬代助氏の蔵書印のあるものは、名古屋市開区本町三丁目五 番 地 書房川瀬代助として、これも名古屋市の区政が始まって 以後の明治時代以降の補壌であることが解った。それらの本にE
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は、建中寺ではない他寺院の蔵書印︵海本土寸一切経・張州龍華 出常徳寺蔵玄関など︶が押されたものも数多くあることから、川 瀬代助氏が古本屋を経営されていて、他寺院から持ち込まれた 黄緊版によって建中寺経蔵から散逸した経典を補填したもので あることも解った。それ以外にも、新しい装丁で印刷されたも のには、施主名︵名言産市石町 施主 市 問 一 日 一 千 ナ 冷Bg 中 ふ+
弥 助 −名古屋市 片 聖 子 鉾兇︶や戒名などが書き込玉
j室 町 施主 まれ、戒名 かれている命日の一番新しいもので﹁明治三十 一 年 一 一 一 月 十 三 日 ﹂ の 霊 位 が 見 い だ さ れ る こ と か ら 、 明 治 一 一 一 十 一 年以後に新たに印刷した大蔵経であり、寄付を募って補填した ものもあることも解った。以上平成十五年︵二CC
閥︶十月十 一日から十三日まで三日かけて整理したところ多くの新しい発 見があり先輩方の様々な苦労を垣間見ることができた。以上の 年代を考慮すると、経裁の整理をして新たに欠本を補損した住 職は、三十二祉の杉山設典上人の時代であろうと思われる。 以下今関明らかになった欠本の一覧を付記する。番号は上越 教育大学目録に準じている。校 設 パ サ 一 総 数 分 一 四 六 一 一 O 九 一 大 般 淫 般 市 経 忠 一 二 一 一 一 九 一 無 口 一 間 労 務 総 耳 四 一 一 昭 三 維 康 一 議 所 説 経 五 五 一 一 妾 一 方 附 明 大 荘 厳 総 菜 一 一 五 土 地 日 曜 経 七 O 一 四 口 五 一 力 夜 殿 三 味 経
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一号六一例説八部側名経 ぎ 一 問 。 三 十 日 偽 名 一 絞 七 O 一 息 七 一 例 説 不 思 議 功 総 務 側 一 防 護 人 中 山 経 七 C 一 四 ︵ ︶ 九 一 金 剛 三 味 本 性 清 浮 不 壊 不 滅 経 き 一 四 一 O 一 一 側 一 説 郎 子 月 俄 本 生 経 七 O 一 四 一 二 一 一 決 道 俗 業 経 七 O 一 阻 一 一 二 仰 説 長 者 法 十 以 実 経 七 O 一 四 一 一 一 二 俄 説 薩 疑 問 綬 七 三 回 一 四 一 俄 説 十 吉 祥 経 七三四一三俄説長者女落提遮締子札了義経 ぎ 一 四 一 ∼ ︵ 一 係 説 一 切 智 光 明 他 人 慈 心 因 縁 不 肉 食 綬 七 三 回 一 七 一 大 方 等 陀 緩 尼 経 七 三 回 一 ︵ 口 一 点 祭 善 怒 業 報 経 芸一四六二例説蓮華函経 七 五 一 段 ︵ 三 保 税 一 一 一 日 間 弟 子 経 韮 一 呉 一 一 二 俄 説 四 紫 綬 七 五 一 四 六 四 一 仰 説 常 来 愛 絞 友 一 空 ︵ 諒 一 過 去 崩 御 分 僚 経 七 五 一 四 六 六 一 保 説 法 滅 議 経 芸 一 四 六 七 一 保 説 義 深 大 廻 向 山 総 芸 一 四 六 八 一 本 八 王 太 子 僻 緩 経 一 一 一 六 二 一 七 三 大 衆 五 議 論 M nit 名 山 崎 市 ヤ 寺 経 裁 の 建 立 縁 起 と 大 山 純 綬 十 一 l 十 一一
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経蔵内釈尊像及び日本十三宗祖師像
について
次に、経戴内戦識を中心として釈尊像及び臼本十三宗祖師像 が安置されているが、 それらについて調査してみたい。建市王子 一一十四佐慰瑞師から産接聞いた話によると、比叡山延暦寺より の福部木製備像の制作を依頼されたが、正副二体部んで あったので二体の内一体は延暦寺へ 一体は建中寺へ納められ たということである。ただし延暦寺にそのような祖師像がある かどうか確認は出来ない。最初は本堂の脇壇に安寵されていた が、輪議内の大戴経を中心に各宗が関京されたことに因んで一巡 畿内に安置する方が理にかなっているので、一二十回世慰瑞師が、 Ji係 数 大 学 総 合 研 究 所 ’ 記 出 火 別 冊 切 内 山 引 の 怪 史 的 研 究 it;然上人木像 写
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15 の修繕を期として像を本堂から移動させたと伝え開いてい る。陪和三十五年︵一九六C
︶十月の期日入りの紅白幕、及び 根輔の安置壇の下方の板戸表面に同じ期日に一総裁修理が完成と の書き付けがあることから、 の修繕中に伊勢湾台風が来襲 し被害を受け、再び修繕したようである。祖師援の安誼壇を増 設した期日が昭和三十五年︵一九六O
︶十月であることから、 釈尊像及び祖師像を移動したのはその時間別である。 さて、この像については、 それぞれに尊名を書き入れた板が あり、又尊像の廃している高座等の文字止を入れることが出来る 空間に施主や回向対象者の戒名俗名などが刻んである。そこで 釈 尊 像 及 び 日 本 十 一 一 の祖締後についてその記述から像の制作 一 φ 1 h 勾 叫 二 壬v
い 年代を考察してみたい。 かれている内容 c 告尊名板 十三宗担師尊名板及び台座 施主 ②尊名板 ③尊名板 ④尊名板 3 L m E H H 之 、 組 制 刊 組 合 引 u p ヰ ペ , H K 芸 h r什 H E ﹁E
a r r 1 4 n M A P − ヰ − y g t b 曹 諦 ︷ 一 不 開 祖 道一冗禅師御尊像 中 灰 ⋮ 東 橘 町 f 巾 中 内 μ h u ド 岡田天孝 J A 今 宇 a e − + 八 有 利 川 A H 施主 小 J I I 善三郎 中i
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!HT ム 口 座 盛屋院正出探念居士 福寺院正宗妙法尼上鹿 十年十二月二十七日 融通念俄宗想師 良忍上人御尊像 中区東宿町 ー へ Ji3
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r u 宇 中 γ い い い E JI ノ本チ h F l 間出天孝 施主 東区赤塚町 土 井 ム 口 座 名言屋市東橘町 7し ド 伊 γ ト ド レ a j j £ J r − f l 大仏師 岡田天孝 住宅~llij-u
和 }\ 年 一 卜 J=I 施主名古屋市東区赤塚町二ノ一 専心佐穂教道 正行院碍尼妙教 真行院襟道意 尼妙麗 日蓮宗祖師 日 蓮 御 前 時 帰 依 や 一 三 来 語 汀 i I ! と l ’ 玄 1 U H r 岡田天孝 ’ し 王 ヤ 一 戸 い い − JI ノ 毛 ブ ゎ v l 施主 東 区 大 曽 絞 脚 内 国 バ ? ム 口 問 中 A A V く 、 4 4・戸 仁 h v ム 口 座 名寄崖市東橘町 間 剖 一 犬 孝 r u 王 γ 一 E e J J 4 d f p i ミ ム 市 イ ノ Ji ’ n h ド 施主 名 古 屋 市 東 一 見 大 曽 根 即 時 外 治 郎 水田 大仏 大正 四 土 井 視 香 院 調 停 L ヘ ム 市 ∼ ノ イ ! ” れ大修院行祭日詣信士 女 誠締庵日光信士 修行説妙来日唱信女 ⑤尊名板 浄土宗開祖 法然上人御前寸像 4 1 j − β h H 閥的天孝 −L 5 γ j C い ・ 4 ノ 壬 7 H V i 施主 戸支1
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奇 西区和泉町 正彦 ム 口 座 名古鷹市東橘町 大仏師 施主 高橋 正彦 昭和七年一月二十八日 大間後憶本道念毘土 次 郎一
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d 1 u ふ J J ノ イ ー ノ よ 一 ノ f 寸 斗 ノ ベ イ 能間後教願貞正大姉 ゑい 時 法 山 中 七 す い 対 棋 倒 の 建 立 縁 起 と 大 裁 判 松 岡田天孝 弘法大締水ffi( 勺1
ミ16 妙貞庵日周信 中区東揺町 rUF む 6 1 C ﹂ r J ノ 本 t r p i { 谷 名 一 \ i、
一 ノ イ ト 高橋彦 ⑥尊名板 ⑦尊名板 ⑧尊名板 施主 永田貫一 真言宗開祖 弘法大師御尊像 市 叩 B L ド午 斗 / 壬 7 2 q t 向田天孝 一 一 一 輪 秋 吉 舟 橋 弥 士 口 弥 士 口l
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す 者 永 田 貫 一 ム 口 座 端 、 王 遠州演名町 ム ロ 康 施主 先祖代々 施主 律宗問視 鑑真大和上御尊像 ︸出川叩 A H h H 問問天孝 I u − − r : に い 4 4 ノ午デ ρ l 桑 原 民 日 静開綜漬名町積志村西ヶ崎 妙童詩玉室貞顔大姉 天台宗開祖 傍教大姉御尊像 ヤ 巾 叩 ︽ μ h u p ’ し 石 γ ヒ し ﹁ す ノ 本 チ グ s 岡田天孝 出 T 註 下 堀 川 川 町 向田天孝 ヲ プ 人 w h μ 白 、 − げ ハ げ 印 刷 立 口 , パ パ d f−
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名古屋市東橘町 ム 口 座 先担代々 雲呑伊晴信士 夏屋婿雲信女 泊 側 提 唱 バ 玄 庵 、 五 諜空諦玄大姉 活 空 可 笑 底 、 王 大仏師 安永七年二月一 明和周年五月六日 弘化三年九月二日 安政四年八月二十三日 明治三十一年七月二十日 中区東掲町 一 一 一 輪 曲 一 主 口 一 一 輪 秋 吉 中区東播町 桑原 中区東議町 r u 五 十 戸 い い 51
竿 J r ρ l 日 二 一 ム 五 大 仏 HJ -犠一 、
l H 一 ノ イ ト 小 良|: 大仏⑤尊名板 @尊名板 ⑬尊名板 助削教大学総合研究所紀委別冊二切経の燈史的研究︸ 来空警松法尼 大正二年 月五日 仙空支樹居士 明治四十四年四月八日 仁空義道庵主 明治六年 月二十七日 瑞岳段円空良笑居士 大正六年十二月二十五日 法相宗関山 玄肪僧正御尊像 中 反 一 東 橘 町 お υ − A μ n ド r u z 名 ・ い い い a , ↓ j z チ b j 関田天孝 施主 中
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安藤 f j ? 、 ァ 、 d M l 叫ヅ向同 ム 口 座 大仏締 L 主 B 沿 い a JJ ノ 午 ブ J 1 調出天孝 施主 名古屋市中毘小林町々
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’ 日 以 得隠妙順 務 証 涼 昭 和 八 年 五 月 二 十 五 日 亡 俗 名 大 正 一 一 一 年 六 月 四 日 亡 4 4、
L v e t j i J ノて J 黄葉宗閉山 A U 3 一 応 謀 総 郎 事 象: :
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六七番地 昭和八年十一月 先担代々霊位 臨済宗開祖 栄 間 禅 師 御 拾 得 像 市 山 叩 占 μ h u v 間部天孝 九詩作 二 五 六 中区東横町 俗 名 五 j ふ 寸 J14
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− E f L 一 武 田 俗名 イ コ る 禅心即成居士 武 信 鉄出玄舟大姉 途 中 寺 山 山 肉 料 の 廷 す ⋮ 縁 起 と ふ 八 十 総 絞 安 Iド王寺鉾;J
よ1二人木f象 写JT17 L 手 γ ト ド イ ノ 竿 J r ρ i 武 田 安 以上は釈尊及び日本十 の張部俊に刻まれる内容である。経 蔵内には願主の鉾霊上人の木橡と位牌も安置されているのでそ ﹂に刻まれている内容も考察したい。 ⑬御経裁建立之願主 建中寺二十四世 中 間 後 上 人 木 像 文政八乙酉歳 正月二十八日 ⑬位牌 金蓮社申ー啓上人白阿瑞撃練霊大和尚 建中寺二十回世賜紫沙門 文政八年 正月二十八日 乙器 遷 化 遣 い 弟 問 問 響 陸 奥 和 南 以上調査したところによると、戒名に刻まれた没年が昭和八年 ︵一九一二三︶以待のものがないことと、③の良忍上人橡の台程 には昭和八年十一月と@の弘法大師像の台座には昭和八年一一一月 と刻まれていることから、その他の釈尊銭及び十三宗祖師役の 制作年代も昭和八年前後であると理解することが可能であろう c ま た 、 同 貯 金 店 上 人 の 位 牌 の 施 、 支 は 遺 弟 開 審 経 典 と さ れ て い る が 、 この施主は建中寺の二十五社繰純上人・二十六役排成上人・又 棟札に記名されている四人の弟子でもないことから鈴霊上人の 二 五 七紳仰教大学総合研究所紀袋則的叫州ご切経の歴史的研究 加の弟子が存在したことも判明した。 信 用 ム ハ 者 十
知恩院第七十五世徹定上人と
建中ヰ?との関係について
次に、大議経に関して知思涜第七十五位服警徹定上人と建中 との関係について大変興味深い記事を見いだすことができた ので付け加えたいと思う。浄土宗総本山知思院第七十五社の法 燈をついで、明治七年︵一八七回︶から明治二十年︵一八八 七︶まで十三年にわたって浄土宗の代表的な指導者としてその 任を来たした養鶴徹定上人は、明治維新という一大変革期に知 思院住職・浄土宗管長として、宗門徒弟の養成と教育機関の 立、溌備投釈によって荒れ来てた救出の陪拓、布教伝道師の養 成と布教の会開的実施、幕議体制下の一宗・糾度の見直し、相畑⋮ 級化した知思誌の、水続維持と寺門の経営尉新とに、寝食を忘れ その実現に献身した。現在の知恵 て快刀乱麻の手腕をふるい、 院や海土宗の興隆はひとえに養鶴徹定上人の愛宗説法の精神と、 その偉大な業績にある っても過言ではないと思う。 さて、この徹定上人の著作である﹃古経堂詩文紗﹄記類一一 から三十二の中に建中寺に関すること かれている c 明葉大識経記 ↓ − L t、
1 / 慶長十五年来照公令海内牧伯矯尾張敬公大域子名護麗居駕 城之四隅設楼檎々上最黄金柏崎尾故佐称臼金城其良位之櫓上 説明製大識経七千三百絵巻蓋以鎖鬼門霊符云明治紀元戊辰 秋援藩置牒時鴻段城檎乃徒桝其経巻於城東建中寺々高於敬 公香火院今忍庚辰秋寺主呑澄和尚諮徳川氏額約諾吾筆頭山 向学校於是余焚香激手詰諮問之巻絞殺撃字査鮮明頗矯完本此 議本明高腎中達離密議諸禅師易党策潟方冊伝来人山首喜怒使 省捜索労是遁諮鵡師之賜山昔話国延資中黄葉鉄阿部禅師覆刻此 議本布子陛然則明議潟嬰議之原本量可不安乎在昔吾鼻担問問 裁経及五反其刻苦節強可以想見也然至今時東諸高閣如弁毛 偶有検問者亦不通語文耳良夫弗探治海則不能獲明殊加熱登山日比 山間安求連城有欲入昆虚裁者不依子此終持依耶甲成以遠 γ札 口 向 学 校 一 円 相 書 長 自 除 去 虚 文 語 就 官 践 従 今 後 来 的 学 者 捜 三 蔵 之 玄 呉 究五来之妙頚如龍樹菩薩啓竜関之秘鈴若玄史法師諮紋若之 大山内開慧限拙党悉以報答大檀那附託之厚意是余所延頚而望 ︵ 刊 日 ︶ 也 ︹ 現 代 語 訳 ︼ 間 的 版 大 裁 経 記 事 慶長十五年︵一六一O
︶ に徳川家康公は天下の諸伎に号令し て罵張の藩主源敬公︵義直公︶ のために大城を名古屋につくら せた。源敬公がここに住するにつき域の間隅にやぐらを設け、そのやぐらの上に黄金の鵠尾を置いた。そのような理由から叶一 に金城と呼ばれるようになった。その東北の方伎のやぐらの上 に明版大説経七千三百絵巻を収議した。忠うに東北の鬼門を鎖 めるために神仏のお札がわりに大蔵経を置いたのであろう c さ て、明治紀元戊辰︵一八六八︶ の 秋 に い 段 落 置 綜 が 行 わ れ た 持 、 ちょうど名古屋城を壊そうとしたものがいた。 やぐらをまもる 人々は、この明版の大識経を城の東にある建中寺内にある源敬 公の霊をまつるお堂︵御霊屋のことか︶ におさめた oA7 こ こ に 庶民︵明治十三年・一八八
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︶ の秋、建中寺住職呑澄和尚は、 徳川氏にお願いして、華民山知恵読の皐校に寄贈した。そこで 早速私︵識定上人︶は香をたき手をきれいに洗って、この大蔵 経の巻軟をひもといて読み調べた。すべての字や絵は整ってい て鮮明でありすばらしく完全なものであった。この議本は中国 明時代の 五七一一了一六一九︵高官︶年前、達観禅師、密蔵禅 締がインドのタ l ラの葉に書かれた﹁ばいよう﹂に説かれた経 をもとにして方情版の として出版した。それ以来人々は 皆簡単に呂的の経論を探すことができ、捜索する苦労を省くこ とができることを喜んだ。これらはすべて諸禅鯖方の功績であ る。日本国の一六七三 j 六 人C
︵延賓年間︶ゅに黄葉山の鉄 阪禅師は、この間的絞の大蔵経を覆離して世に広めた。 し た が っ て、明裁は黄緊張の原本である。 ど う し て 胤 只 く な い こ と が あ ろ 作 法 小 寺 経 磁 の 建 立 縁 起 と 大 村 総 経 加 コ カ い や こ ん な 切 ハ い も の は な い 。 かつて私の尊敬する元祖大 締法然上人がおられたっ大識経を読み返すこと五思にも及んだ。 その刻苦勉強する姿を目のあたりに思い浮かべるべきである。 ところが残念なことに、今の時代になると、経典を高い榔の上 にあげて束ね置いていることまるで髪の毛を編んでゆわいてい るようなものである。 たまたま経文を見るものがいたと思えば、 経文を説諭するために開聞いているに過まない。夫れ青海原を探 さ な け れ ば 輝 き 光 る 玉 を 獲 る こ と は で き な い 。 山 込 山 以 間 山 に 登 る こ とが無ければどうして十五の城と交換しても価値のあるような を求ることができようか、 いやできない c かりにも昆盛会 那仰の悟りの祉問介に入ろうと志すものであれば、この大礎控に よらずして仰によるものがあろうか、何もない。甲戊︵明治七 {j三 八 七 回 ︶ 私 は 恭 一 民 的 学 校 を ふ り か え っ て 、 古 い 習 慣 一 を す べ て 変 え 、 しく価値のない文を読むことをやめて、本来の仰 実践である大蔵経の研究に就かせることにした。今より後の 者よ、経律論の三蔵の奥読を担りて、 五乗の妙なるやしないを 究めるべきである c 龍樹菩薩は龍宮城の秘密の鍵を開き、ある いは玄禁法師が般若粧の大経典を諜し の根を開くが如く にさとりをおさめ、すべて報恩の心をもって大捜部である建中 寺の呑澄和尚、尾張徳川家にこたえ、この厚い志を頼みとすべ きである。これこそが、私が、首をのばしてまちわび、希望すハ
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九崩御教大学総合研究所内記姿別冊ご切経の庭史的研究﹂ る と こ ろ で あ る 。 と説かれている。この記事から、明治維新の世の中が混乱し ている様子が手にとるようにわかる。名古屋城もある時には壊 されようとして、東北の隅やぐらに鬼門を鎮めるために安置し であった明版の大裁経止を建中寺へ移したということがあったの である。そして その大識経を当時の建中寺住職呑澄和尚は徳 川家の許しを得て明治十三年︵一八八
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︶京都知恵院の華頂学 校へ寄贈したのである。このことは、すでに建中寺には経裁内 に黄葉版大識経が納められていたためであろうと推察すること ができる。その時の知思院住職徹定上人は、その厚い 亡 、 い 一 丁 l d i たれて、この記事を書いたのである。また、明治七年︵一八七 関︶は徹定上人が知恩院の住職となった年であるから、明治十 コ 一 年 は 就 任 六 年 後 で あ る 。 知 恵 説 及 び 浄 土 宗 の 別 刷 新 改 革 を 進 め 、 江戸時代の因習を打ち破り原典研究の重要性を認めていた徹定 上人が明版大識経の寄進を心から歓迎している様子が現れてい る。法体以上人は大薮経を五回も読破されたことを始めとして、 龍樹菩薩や玄英三蔵に習い崩御教を学ぶものに対して大識経を研 究して成果をあげ、寄附加した建中寺や尾張認川家に対して報い るように励ましている。 では、この持知恵院へ大識経右寄贈した建中寺住職呑澄和尚 について、建中寺の吋当山歴代上人過去帳﹄によると、 二 六 ︵ ︶ 明治 二己丑年 第三十一世 得 蓮 社 清 刷 協 口 上 人 即 阿 鉾 道 呑 澄 大 和 尚 守 、 、 3 1 ・ し コ コ i ノ g J , ヴ ノ I l 阿弥陀寺ヨリ転住 年月不相知 明治二十二己丑年八月九日選化 五十四歳 と 一 不 さ れ 建 中 寺 の 第 一 一 一 十 一 世 で あ り 、 年 代 は 不 明 で あ る が 白 、 将 の阿弥陀寺より転住し明治二十 ︵一八八九︶八月九日 の選化であることが解る。 の 北 開 口 に は 、 ﹁ 刊 品 中 頂 前 門 、 主 義 鴎 大 教 正 清 警 官 官 周 忌 抱 一 薦 之 詩 ﹂ また、建中寺の什物の中に徹定上人の戦が一一阻ある。この柏戦 と 金 問 き入れられている。清警とは先に示した、得蓮社清品開向上人郎阿 排道呑澄大和尚のことであるから、明治こ十二年遷化の呑澄上 人一周忌にあたり徹定上人から追善の詩が贈られたものである。 していただいたので、ここに紹介したい。 ﹂の追善の詩の内容について、側教大学教授今堀太逸氏に解読 ﹁ 官 苧 々 有 仙 胤 名亦敬香 高 僧 多 田 疋 得 謹 鈴 音 容 努 限 的 蓮 謹 友矯設般舟三味経 写真18 i!1f務上人壱周 忌j)~jJ雪之詩薦 溶 間 後 上 人 L J −弓h 京 Z 耳 徹 定 之 竪 ﹂ j手 ゴ 二
門
玉 門現代語訳︺︵清春上人の歩いてきた︶道のあらゆる所に人並 みでない他人のような風格がある。またそれは敬うべき芳しい 香りとも一首うことができる。多くの高僧は長寿を得ることがで きる。︵清春上人の︶ と姿からは ︵極楽浄土から来迎する阿 弥詑仰の︶蓮のうてなを努諮させるものがある。友︵清琴上 入︶のために万般舟二一味経﹄を読み︵一周忌の追善供養を勤め ょ う 。 ︶ ︵ 清 春 上 人 の ︶ のために 松翁︵撤定上人の号︶ ﹁ 泊 所 土 門 主 徹定之璽 L この一轄の軸によって、設定上人と建中寺の呑浸上人との親 交の様子がよく理解できる c 徹定上人は明治七年︵一八七四︶ から二十年︵ 八八七︶ま でが知恩院の伎戦在任期間であったことから、明治二十二年 ︵一八八九︶選化した呑澄上人の建中寺住職在任期間と合致す る。また徹定上人から呑澄上人への の詩が建中寺に所蔵さ れていることから、撤定上人と建中寺の呑澄上人との親交も何 える。したがって、徹定上人の﹃古経堂詩文紗﹄の の 内 容 の真実性がはっきりと建中寺の資料からも証明することができ る G よって、知恩院と建中寺と双方の資料から明治十三年に明 版大裁経が建中寺呑澄上人から知恵院徹定上人へん奇賭されたこ 建 中 寺 綬 毅 の 建 立 縁 起 と 大 総 絞 とが証明できるのである。 。全 耳 :a
以上建中寺の経蔵及び大識経について、部建年次と大裁経の 刊行年次、経蔵の建築物としての意義、 に つ い て 添 削 じ て 身 、 た が、今まで経裁について不明な点が数々明らかになった。ちょ うど乎成十開年から三年計爾で、名言屋市からの補助金も交付 され、建中寺経議保存修理も完成を見た。良い時期を得てこの 論をまとめることが出来たと思う。この機会を与えていただい た 関 係 各 位 、 また諾資料の紹介、学術的判定方法等ご救援いた だいた各位には心から感謝申し上げる。 宇 土 − 一 三 闘 ︵ l ︶ 吋 名 古 箆 市 山 人 ﹄ 社 寺 ⋮ 潟 七 剖 六 資 ! 七 凶 八 万 ︵ ︵ 2 ︶ 建 小 寺 山 総2
日 山 回 収 代 太 人 過 去 帳 ﹄ よ り ︵3 ︶ ︵ 4 ︶建中寺土蔵内古文書のマイクロフィルム ︵5 ︶ ︵ 6 ︶ ︵ 7 ︶建中守磁吋当山辰代上人過去板﹄より ︵8 ︶ 開 地 中 寺 続 減 内 安 置 の 槻 札 の 翻 刻 ︵9 ︶ 之 町 一 球 版 大 紫 綬 刊 誌 集 ﹄ 大 槻 幹 郎 ・ 松 、 水 知 滋 共 著 三 七 ハ ハ ︶ 頁 ︵ω
︶平成十凶年十月二十七日建中寺大波合での議淡﹁建中寺の 経裁について﹂の記録による。但し、この講淡の後、建築染者 が 総 裁 の 芯 柱 宮 間 資 し た と こ ろ 、 東 西 南 北 の 方 品 川 が ふ っ て あ り 、 ム"
刷 仰 糾 仏 大 学 総 合 研 究 所 紀 袋 則 的 情 一 切 経 の 箆 史 的 研 究 ﹂ ~ ノ\ 今までの位置が一八