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Title 血脇守之助伝

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Posted at the Institutional Resources for Unique Collection and Academic Archives at Tokyo Dental College, Available from http://ir.tdc.ac.jp/

Title 血脇守之助伝

Journal , (): ‑394

URL http://hdl.handle.net/10130/917

Right

(2)

第 十 七 草 医 療 制 度 の 確 立 を 目 指 し て

その移り変わり

一八七五年(明治八年)十月二日小幡英之助は、東京医学校で医術開業試験をうけて合格し'歯科医師としては初

めて正式の免許をうけた。これは'当時'内務省令にょって産科、眼科へ整骨科'口中科は局所の生理'病理および

手術の試験をうけて免許がとれる制度となっていたからであって'その後は、この制度にょって免許をとるものが増

えていった。

1万、医師の側では着々と教育の制度が整備され'すでに第九葦で述べたように1八九七年(明治三十年)医師

(会)法案を起草し、医師についての身分を法的に確立しょうという気運が蘇‑なってきた。この医師法の立案は、

歯科医師を除外して考える立場へと傾斜していったため、歯科医師の側では独自の法案の準備の必要性に迫られた。

そして'明治三十六年十1月二十七日大日本歯科医師会が設立されるやへ血脇は最若年の理事として、幅広い交友関

係を利用し東奔西走'同憂の士と共に遂にその目的を達したOすなわちtI九

六年(明治三十九年)医師法、歯科

医師法は共に帝国議会で可決へその年の十月一日から施行されへ医師、歯科医師の身分が初めて法的に認知されたの

であった.そしてその三年後の明治四十二年第1次の歯科医師法改正にょって、診療録の保存期間を十年とし、広告

271

(3)

についての規制が行なわれることになったが'この改正は小改正にとどまった。ところで、現在の感覚からすればま

ことに不可解に思われるかも知れないが'当時においては眼科'耳鼻科と同じ‑医師が自由に歯科診療を行なえる制

度となったので'歯科医側ではこれを不満とLt身分の確立に伴う当然の権益として固有の業務範囲を確保しょうと

しへ再び改善の努力を続けることになった。

日本連合歯科医会臨時総会が大正三年四月二日午後五時から借楽園で開催された。この席で愛媛県歯科医師会会長

西田福十郎から提出された医師対歯科医師の業務範囲についての紛争に関する件が議題として取り上げられ'内務

省、文部省に対して陳情書を差出すことに決定した。その後六月十七日、榎本積二血脇守之助は石塚三郎とともに

内務大臣大隈重信を訪問し、次のような陳情書を提出した。

「医師法と歯科医師法とは相対立する以上'医師が歯科医業を行なうのは法律に違反していると確信する。しかる

に行政官庁の解釈が異なっているため医師で歯科医業を行なうものが増加している。閣下の明断によってへ医師の歯

科医業を禁じ、医師で歯科医菜を行ないたいものに対しては特例を設けて'受験資格と受験課目を定めてもらいたい」

という内容のものであった。大隈内務大臣は、その趣旨を了解し'内務省衛生局長中川望を紹介し'三人揃ってその

内容を詳述したが'衛生局は全くこの趣旨と相反する通達を地方長官に発令した。それは'

「医師は口腔並びに歯科の治療をしても差し支えないが'免許を受けないで歯科医師と称することは不当である。

また医師が歯科医院'歯科医と紛らわしい標札をかけることも好まし‑ない。

歯科の料金は'歯科医師会のそれに準じるようにLt歯科医との間に紛争を起こさないように」

という内容であったからへ日本連合歯科医会側は奥村鶴苦常務委員を再び衛生局に出頭させて'抗議に当たらせ

‑ 272‑

(4)

た。しかしその後も一向に要領を得ず、医師で歯科医療を行なうものが依然としてあとをたたず、一種の既得権にな

ってしまっていた。

このような状況に対処するには'行政指導によって改めるか、あるいは訴訟によって争うか、法律改正によって改

めるかのいずれかであったが'日本連合歯科医会は、当初第二の方法'すなわち現行歯科医師法第1条に定める歯科

医師の資格を根拠として、具体的事実をあげて訴訟を行なう予定にしていた。

ところがへ日本連合歯科医会とは別に一部の歯科医師を中心とする歯科医師法改正期成同盟が第三の方法によって

この懸案に対処する方針を打ち出し'大正三年十二月八日帝国議会に議員清水市太郎'根本正二を通じて改正案を提

出した。この突然の議案提出に驚いた日本連合歯科医会は、十二月十二日在京役員会を開き'対策を協議し'1

修正案をまとめあげ'これを以て期成同盟会側と交渉し議案の変更を求めたが果たさず'結局連合歯科医会側は別案

として議員綾部総兵衛を通じて提出することになった。しかし同盟会の案は、十二月十九日の議会特別委員会で政府

委員および丸尾委員の反対にあい流産Lt日本連合歯科医会の案が協議されることになったが、二十六日議会が解散

したため、衆議院で審議未了となった。

その後'約1年はそのままになっていたが、大正五年一月二十五日'第三十七回帝国議会に「歯科医師法中改正法

律案」が再度衆議院に上程された。

歯科医師側は是非とも法律改正を実現させたいと張り切っていたが'医師が歯科医業に属する行為をすること及び

歯科専門を標梯することを制限する案文であったため医師会側を強く刺激した。大正四年の十二月十五日現在におい

て、医術開業歯科試験に合格していた老二千六十六名、歯科医学専門学校卒業者は八百八十一名、死亡者百五十四名、

差引計二千七百九十三名であったがへこれに対して、医師で歯科医業を行なっていたものは百四十九名(一年以上歯

273‑

(5)

歯 科 医 師 数

(6)

科学を専攻したもの十四名'歯科口中科の免状と医師免許を持つもの七名)であった。

注ここに示した数字は歯科学報二十1巻二号七十九頁にょる。厚生省医務局医制八十年史'八百十〜八百十l貢とは若干興っ

ているので参考のため'右に厚生省医務局にょる当時の歯科医師数を掲げる。

したがってこの改正案が成立しても医師の存立をおびやかすような重大な影響はほとんどない筈であったが、医師

の既得権が少しでも縮小されることに対する反発は根強く'この法律改正案が上程されるやいなや、一月二十八日お

よび二十九日に東京で開催された全国連合医師会の大会では、「目下議会に提出中の歯科医師法中改正法律案は不当

なり」という反対決議を満場一致で可決した。このとき日本連合歯科医会は、この件についての説明を行ないたい旨

申し入れたが、拒否にあっている。

この反対運動は激烈を極め、各府県から上京した医師会代表者および在京実行委員数十名は'大挙して関係官庁、

貴、衆両院を訪問し、また各地選挙区の医師団体からは'地区選出の議員に対し、電報を送るなど'1時はその影響

によって法律改正が審議未了となるのではないかと思われるほどであった。

1月二十九日に議案提出者綾部総兵衛、守屋此助'戸井嘉作'金子元三郎'横山金太郎、根本正三'清水市太郎'

柏原文太郎によって提出された改正案は次のようであった。

第1条歯科医師タラソースル老ハ左ノ資格ヲ有シ内務大臣ノ免許ヲ受クルコトヲ要ス

一㌧文部大臣ノ指定シタル歯科医学専門学校ヲ卒業シタルモノ(現行'歯科医学校)

二、歯科医師試験二合格シタル者

三、外国歯科医学校ヲ卒業シ又ハ外国二於テ歯科医師免許ヲ得タル老ニシテ命令ノ規定二該当スル者

四'医師ニシテ歯科医師試験科目中歯科治術学歯科技工学及実地試験二合格シクル老

‑ 275

(7)

五、医師ニシテ歯科学講座ヲ有スル帝国大学医科大学又ハ文部大臣ノ指定シタル歯科医学専門学校二於テニケ

年間歯科学を専攻シタル証明ヲ有スル者

第十一条免許ヲ受ケズシテ歯科医業ヲ為シタル者へ停止中歯科医業ヲ為ツタル老又ハ第五条第六条若クハ第七粂

二違背シタル老ハ参百円以下ノ罰金二処ス

医師ニシテ歯科医業中技工二属スル行為ヲナシ又ハ歯科専門ヲ標傍ツタル老前項二同ジ

附則

本法ハ大正六年一月一日ヨ‑施行ス

この草案は特別委員会に附託され'難行したが'一部修正を受け、二月十日貴族院に送付され、さらにそこでの委

員会で修正を受けて現行第一粂第一項中の「歯科医学校」を「歯科医学専門学校」に改めること。

第十1条に、次の1項

「医師ニシテ特二内務大臣ノ許可ヲ受ケズシテ歯科専門ヲ標傍シ又ハ歯科医業中金属充塀、塵候'義歯、歯冠継

続及架工'歯列矯正'並二口蓋補綴ノ技術二属スル行為ヲ為シタル老亦前項二同ジ」を追加すること'

附則

法ハ公布ノ日ヨリ之ヲ施行ス

本法公布前一年以上歯科専門ヲ標傍シ引続キ歯科医業ヲ為ス医師二対シテハ第十一条第二項ノ規定ヲ適用セズ」と

することで'二月二十六日貴族院を通過、二十七日衆議院もこれに賛成可決した。このように最初の草案に比べると

医師会側と医系議員の活躍で後退を余儀な‑されたがへ歯科医師多年の宿願が達成されたので、東京在住の歯科医有

志が発起して、三月十一日、日本連合歯科医会常務委員榎本積一、血脇守之助'奥村鶴書、三輪義幸'門石長秋の五

276‑

(8)

よ り榎本穣一,血脇守之助,工藤鉄男,石塚三郎,奥村

鶴書,門石長秋 歯科医師法第2次改正記念 (大正5

3月) よ り血脇守之助,奥村梅吉,石塚三郎,榎本箭‑,門石長秋

(9)

名を尾張町松本核に招待し、祝賀会を開催した。

ところでこの件について表向きには守之助はさほど活躍していなかったかのようであるが、このような難問が陳情

だけで片付く管はなかった。改正草案を日本連合歯科医会総会が可決したのは大正四年二月のことであったがへ議案

が山積Ltそのうえ'会期との関係があって'三十七議会に議案上程の可能性は薄かった。また'たとえ法案が上程

されても、それが審議未了となるおそれが極めて大きかった。

第三十七議会で衆議院を通過した法案は三十二案件であったが'貴族院で可決されたものは僅か六法案にすぎず、

二十六案は否決または審議未了となっている。医師会側の反対の嵐の中で、改正法案が無事可決された陰に守之助の

政界に対する隠然たる影響力が作用していたことは疑いない事実であった。

そして、一九1六年(大正五年)九月八日法律第四十四号によって歯科医師法の第二次改正が公布され'以後'医

師の身分で歯科専門を標楳したり'充項へ補綴'矯正などの診療行為を行なう場合には内務大臣の許可を要すること

になった.この法改正は歯科医にとって必ずしも満足のいくものやほなかったが、この改正によってはじめて歯科医

業と医業とが法的に別個のものとして砺り扱われる時代に到達したのであった。

盟友との惜別

守之助の周囲には多数の後輩'盟友が人垣を造って彼を扶けていたが'歯科界における相談役として、時には盟友

として'行を共にした最良の友は日本連合歯科医会会長をしていた榎本枝一その人であったo

榎本積lは慶応二年1月七日、東京府北多摩郡砂川村三百五十八番地で沢簡徳(後に貴族院議員従四位)の三男と

278

(10)

して生まれ'明治元年二月榎本軍次郎の養嗣子となり榎本姓を名乗った。明治十二年西砂川小学校を卒業してから西

多摩那新町小学校で助教師をしていたが'1時大阪、大に寄寓して漢籍の勉強をLt明治十七年、十九歳のとき帰

京して沢良換方で食客をしながら英学を修め'同十九年九月歯科医鈴藤文郎の書生として修業Lt明治二十二年十

月開業試験に合格した。その後も養母が病弱であったので看護に当たり、明治二十九年三十歳まで独身で通したと

いう。

しかし'ただ孝行息子であたというだけではな‑物事を面目に考える性の人であたから、診療'研究にも大

いに努力するという工合であった。生時代から勉強家であたから、当時唯の研究会であった歯科交誼会に入会

を希望したが、ここの会員は小幡門下に限られていたので入会を拒否された。そこで自ら企画して歯科談話会を始め

た.ときに明治1年八月九日のことであるO後に高山紀斎の教えを乞うとともに明治二十年十一月二十三日歯

科談話会を歯科研究会とLt自ら会長になった。そして開の傍ら明治二十四年月からは高山歯科医学院の講師と

なって歯科器材学を教えることになった。明治十六年四月には歯科医会創立委員に推薦された。この時余程嬉し

かったものとみえて、「さきに各派の合同を計画し'歯科談話会を創立して以来ここに五星霜その期に達したるの歓

喜比する物なし」とき残している。そして先輩伊沢道盛を説き伏せて主唱者とLt小幡英之助、高山紀斎'渡辺艮

斎の四者同盟による歯科団体組織化の気運を促進することができた。そして同二十六年六月十四日には遂に歯科医会

の結成に成功し理事となった。守之助が高山歯科医学院に入学してきたのは明治二十六年四月八日のことであるか

ら、研究歴からいっても医政の実績からいっても榎本は守之助の先輩であった。もっとも守之助は入学後カ月で高

山歯科医学院の幹事に抜擢されることにな‑、学院内では若年ながら榎本稀からも敬愛されて序列は上となった0

この頃から守之助は榎本に英語を教えたりして'お互いに目を置き'長短相補の関係が成立したのであろう。性格

ー 279

(11)

的には'守之助を動とすれば'榎本は静であったから'うまが合うというか'その後三十年近い交友の期間、二人が

仲違いをするようなことは1度もなかった。

榎本積1は、高山紀嘉にそれほど魅力を感じなかったためか'明治二十九年十1月には、l旦高山歯科医学院の講

師を辞任している。明治三十一年七月、守之助が渡清を決行するにあたって、物・心両面から守之助を援助したのは

榎本であった01年後の明治三十二年七月十日守之助が帰国してみると高山歯科医学院は寂れてしまっていたので'

再び榎本に学院の講師として勤務するよう要請した。榎本はこれを承諾したらしいが、高山歯科医学院は翌明治三十

三年二月から東京歯科医学院に継承され、これを機会に学院の講師を去った。その理由は多分、榎本の開業地が麻布

市兵衛町二の六十六番地で'神田地区とは離れすぎていたこと'それに西多摩郡八王寺に分院を出し、そのほか歯科

学会'歯科医師会関係の用務が山積していたからであろうと思われる。ただし、榎本は正式の教員には名前を連ねな

くとも'明治三十九年五月一日から東京歯科医学院で学生の臨床実習が開始されると'その臨床実習の指導医として

学生の尊敬を集めていたと伝えられているから'一時期は東京歯科医学院で寸暇をさいて教育指導にあたったものと

思われる。

明治三十五年歯科医学会が成立するやその副会長となり'三十六年十一月二十七日には大日本歯科医会の副会長、

明治四十年四月七日目本連合歯科医会常務委員長'後に連合歯科医会長(大正八年四月まで)、同四十五年三月二十

七日東京市歯科医師会長等の要職を歴任Lt歯科医師法の制定および改正運動、歯科医師会の設立などに守之助らと

東奔西走の大活躍を続けた。しかも'その間'青年時代の学究心はいささかの衰えもみせず、同四十二年四月には榎

本式圧迫鋳造器を発明し、日米英仏独の特許を得ている。

榎本が自己の全精力を傾けた最後の事業は'日本歯科沿革史の調査である。彼は大正六年五月その調査委員長に就

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任し、事業を推進しょうとしたが、天は彼に時を与えなかった。大正五年三月東京市歯科医師会長を辞任したのは'

狭心症発作に見舞われて、自己の健康に不安を感じたからであるが'それにもめげず'口中科の歴史や西洋歯科医学

導入の創世記を後世に正しく伝えようとしていたのであった。

榎本がな‑なる数カ月前から守之助の身辺は多忙を極めていた。週に一度は会う予定が'数ヵ月間ものびのびにな

っていた。守之助の方は'例の財団法人への切り換え作業や基金募集で多忙を極めていたのである。大正八年十一月

二十八日午前十1時三十一分頃'所用を足して帰宅途中、自宅前の歩道で突如、心臓発作に襲われた榎本は、阿礼子

夫人が現場にかけつけたときすでに臨終直前で、同三十五分こときれた。急報は直ちに守之助に伝わり'守之助はあおわはんごくわてふためいて駆せ参じたが、「事既怨み綿々として尽きることと相なった鳴呼悲し」と嘆息する

のみであった。ことにその夜'親族と供に遺言状の開封に立ち会ったとき'守之助に対する感謝の辞が綴られている

のを見てへ守之助は流れ落ちる涙をどうすることもできなかった。十二月1日'午後二時から染井斎場で基督数式の

葬儀がいとも厳粛に行なわれた。歯科医界の偉人の遺徳をしたってへ斯界の元老'名士、後輩の会葬者は数百に及ん

だという。当日の模様を伝える記録には'

「司会開会を宣するや歌手まず起ちて沈める声にて讃美歌を唱え'次いで祈帝の声終わるや'血脇先生の長身力な

‑枢前に進み、弔詞を朗読し給う。苦楽二十年'相携へしその友の枢の前に今独り立ち給う事の悲しきよ。先生の胸

中馳せ廻る思いは、二十年の昔か、はたまた十年の昔か'読み上げの声音さえ'いと打ち使え'涙にむせて言の菓定

かならざりき'場内声なく人なきが如し‑‑」

﹃凡ソ歯科界ノ問題ニシテ君ノ頭脳ヲ煩ハセザルモノナク其功績甚ダ大ナリト謂フべシ君事二当ル堅忍不抜括据精

励殆ソド寧日ナク本年四月新二郊外二居ヲ移シ静養之レ事トセラレクルモ胸中尚ホ本邦歯科界上二往来シテ其間敢テ

‑ 281‑

(13)

死生ヲ期セザルモノノ如シ‑‑﹄

日本連合歯科医師会の会長として守之助が述べた弔詞の1節である.榎本は享年五十三歳で惜しまれつつ幽明境を

異にしたが、その家督は養嗣子市楕美彦(後榎本姓となる)と養女大日方利根子によって継承された。

日本連合歯科医師会会長となる

大正七年十二月七日'会長榎本積一はへ久しい間の過労が重なったためか'健康を害し、辞表を提出した為へ血脇

副会長が会長職を当分の間代行することになった。そして翌大正八年四月十四日'大日本私立衛生会会堂において開

かれた日本連合歯科医師会総会では守之助を会長に選出し、堀内徹'山本茂三郎'小林勝之の三名が副会長に就任す

ることになった。守之助の実力者としての地位からいって'連合歯科医師会の会長就任に反対するものはな‑'当然

のこととして受け取られた。以前日本連合歯科医会と称していた本会は'大正七年四月一日から日本連合歯科医師会

と改名し、大正八年当時にはほぼ全国組織に発展し加入団体数は五十七㌧内歯科医師会五十五、歯科医会二(島根'

但馬)の規模に成長していた。当時にあって、日本連合歯科医師会長に就任することは'現在の日本歯科医師会長に

なることに匹敵Ltしかもわが国が在外領土や植民地を保有していたからへ今よりも広大な版図を有していたことに

なる。また東京歯科医学専門学校は、それまで学術の府としての存在に重きを置いていたが'校長が歯科医政の総覧

者の立場に立ったた9'以前に増して医政の運営に大きな影響力を行使する中心的存在となり'この状態は以後約三

十年間にわたり持続した。

例えば校長の会長就任後間もなくの四月十七日、佐賀県歯科医師会長で連合歯科医師会評議員中の元老石井清一が

282‑

(14)

本校を訪問したが'これに応えて校長は教授団と共に四谷の料亭三河屋で歓迎の宴を催した。いままでは校長や奥村

学監に専らその方面のことはおまかせというムードが強かった学校内にも、医政への関心と協力の態勢が動き始めた

ことを知ることができる。

ところで守之助が連合歯科医会の常務、同歯科医師会の副会長'会長代行、会長となっていった大正六年から八年

にかけての日本連合歯科医師会の活動の大きなウェイ‑は'金地金払い下げ、ならびに配給に関する件と口腔衛生の

普及活動とに置かれていた。

歴史は繰り返すの例えの通り、世界情勢が大きく変動する時代には、常に金問題が発生する。そのときの金地金の

払底は'第一次世界大戦に伴う社会変動'金融不安が端緒となって発生した。大正六年九月十二日わが国は欧米諸国

にならって金輸出禁止令を発令'一部地金商が思惑買いに走ったため'金相場が高騰しただけではな‑、品ガスレと

なり'歯科医の金入手は極めてむずかしくなった。そこで'連合歯科医会は大蔵省と横浜正金銀行に対して金地金の

払い下げを請願し、連合歯科医会が配給券を発行し'一時需給が緩和された。しかし、大正七年七月になって、当局

側が払い下げ量を三分の一に切り下げたため再び混乱し、やっとのことで一カ年十八貫匁の払い下げを受けることに

なった。連合歯科医師会の調査では、歯科医の年間金使用量は五百貫匁を越えており'これに対して大蔵省側は年間

百五十貫を調査結果としていたため'数量の開きが大き過ぎて調整が困難となった。しかもその対策として、歯科医

師会は繰り上げ払い下げを策し、これを実行に移したため、やがて行き詰まり状態になり'歯科界はパニック状態と

なった。この状態を経て、当局側が年間四百五十貫匁の払い下げ量を決め、これを直ちに実行に移したため、需給の

バラソスはかなり改善され、大正八年六月二十二日に金払い下げ制限が撤廃されるに及んで、さしもの難問題も解決

に向かった。このように日本連合歯科医師会は異常事態が全国的規模で発生した場合には'かなり有効な機能を発揮

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(15)

することが証明され'会存立の基盤強化に役立った。

なお当時の金地金配給は'現物支給ではな‑'購入票を歯科医に配布し、この票によって販売店から購入するシス

テムになっていた.大正八年七月の金地金相場は卸売1匁五円九銭'小売1匁五円十二銭であった.

また口腔衛生の普及活動は'この会の大きな継続的事業活動であった。

大正元年'日本連合歯科医会が「歯の衛生」と題する小冊子を発行したのが始まりであり'次いで大正二年赤坂の

三会堂で歯科衛生の講演会を行なったところ'聴衆わずか十一人というあまり芳しくない成績を得た。しかしこのよ

うな出発点での不名誉はやがて取り返し'現在においてさえ驚‑ような大衆動員が可能となっていった。特に大正三

年四月総会において、この種の活動に小林富次郎が寄附を申し出たことが動機となって'それを利用する講演会'展

覧会が全国各地で開催されるようになった.寄附額は'その後の五年間に講師嘱託料を含み一万二千五百十二円に逮

し'普及活動用の模型'掛図'スライド、映写故、フィルム等が整備されていった。

大正七年から八年にかけての活動状況をみると'パンフレッ‑が四十七万一千九百八十部も発行され'展覧会、博

覧会での参観者は1年間百万人余、講演会は東京へ山梨において年間二十九カ所、聴衆1万七千余人に達した。

また'連合歯科医師会内部では、ここ数年の具体的活動の進展に呼応Lt大正八年四月総会で、口腔衛生調査会の

発足が正式に承認され、五月二十三日から委員会活動を開始することになった。そしてその後一年間大正九年四月ま

でに口腔診査蓑の印刷'口腔検査法の確立'統計法のまとめ'小学校掛図の編纂等を大馬力をかけて行なった。掛図

の起案は向井善男、牧謙治'榎本美彦によってなされ'連合歯科医師会が出版、三枚1組で一円五十銭であった.勿

論'博覧会'展覧会への出品展示、講演会の開催等も引き続いて行なわれた。

ー 284

(16)

守之助が会長に就任して一年を経た大正九年三月末には'加入団体数はさらに増えて六十一となったが法制面で歯

科医師会を強化するため'大正八年十月五日に意見書を内務省に提出し'九年四月一日に内務省令第七号により歯科

医師会新規則が発令され'これに伴い明治三十九年十1月十七日の内務省令第三十四号は廃止された。

しかしながらこの歯科医師会新規則は'当時の歯科界の識者にとって極めて不満足なものに過ぎなかった。連合歯

科医師会の理事奥村鶴吉も、

「元来'連合歯科医師会としては'各地の歯科医師会に法人格を与えたいとの希望をもっていたが'今回の新規則

でもその点には全く触れていない'公認の歯科医師会とはいえ、地方長官に届け出をしてその認可をうける私的団体

に過ぎない。

また、新規則でも依然として歯科医師会を道府県歯科医師会および郡市歯科医師会と規定Ltより大きな地域を包

含する統一的歯科医師会乃至全国的歯科医師会を公認する姿勢が欠如している。

さらに多年の懸案である歯科専門を標揺する医師または歯科医療をなす医師に対して歯科医師会の会員になること

を得るとだけ規定し、医師側の任意に委ねている。

勿論その他の点'例えば歯科医師会の組織機構'運営機構の規定では改善が認められるが、前項の基本的問題の改

善については'歯科医師法の改正が必要である」と述べている。

そして'翌大正十年の総会において歯科医制調査会の設立を決議Lへ法制上の諸問題と本格的に取り組むための検

討を開始し'この調査会の委員長には血脇会長白から乗り出すことを決めた。

その審議項目は多岐にわたるが'列記すれば次の通りである。

一、歯科医師法に関する件

‑ 285‑

(17)

1、一般法規中における歯科医師に関する件

一㌧歯科か口腔科か

一'医師及び歯科医師試験規則に関する件

1、歯科医師の分布'需給に関する件

二日本連合歯科医師会を法人とするの件

1、歯科助手に関するの件

一、日本連合歯科医師会議事規則に関する件

なお'十年四月総会では'その他'

1、歯科医師を嘱託学校医ならしめること

一、小学校教科書および師範教育の教科書中に口腔衛生の記載事項を増加させること

一、歯科軍医の制度を定めること

一、工場法中の職業疾患に口腔疾患も挿入すること

一'監獄歯科医を設けること

などを関係当局に建議することを決議Lt会長名血協守之助を以てそれぞれ関係大臣に上申した。

第三次歯科医師法の改正と日本歯科医師会の設立

大正五年九月八日の法改正にょって歯科医業と医業とが法的に別個のものとして取り扱われる時代が到来したこと

286

(18)

は既に述べたが、その後も歯科専門標傍医師と歯科医との間にトラブルが絶えなかったため'歯科医側ではこの種の

医師を歯科医師会に加入させる方向で問題の解決を図ろうとし、日本連合歯科医師会々長血脇守之助から内務大臣に

建議したが、法規上できない相談として一蹴された。

一方、医師会側では大正八年医師法の改正に成功し'医師会を公法人とし会員に加入を強制できる形に改め統制力

を強化したので、歯科医師会側もこれにならおうとしたが果たさず'第三次歯科医師法改正を目指して再び努力を続

けることになった。

このようにして'大正十四年二月七日、衆議員本会議に第三次の法律改正案が歯科界出身唯一の代議士石塚三郎に

ょって提案説明された。その演説の要旨は二月十九日発行官報号外第十四号に記載されているが、慎重にしかもでき

るだけ同情を引くよう苦心しながら説明した。勿論'共同提案者には工藤鉄男'松井郡治、木下謙次郎、西村丹治郎へ

増田義1がひかえtLかもすでに圧倒的多数'都合三百二名の議員に対し事前工作を行ない'二百五十名の賛成署名

を得ていたという。また'ある代議士の如きは一人で四十六通の激励電報をうけていたというから、まさに歯科界背

水の布陣ともいうべき状態であった。

この提案趣旨の説明が終るや井上常作代議士が議長指名の委員に本案を附託されんことを希望する旨の動議を提出

し'議長は九名の特別委員'すなわち中原徳太郎、工藤鉄男'石塚三郎、飯村五郎'宮島幹之助、書津広、西方利

馬、木下謙次郎'清水市太郎を指名した。

特別委員会は'二月十六、十七、二十日の三日間にわたり'これを審議し原案一部修正のうえ三月三日満場一致を

以って衆議院を通過し'貴族院へ回付された。貴族院では'特別委員会鍋島直映'中川久任'吉田清風、今園国貞'

金杉英五郎'高木喜寛へ三宅秀'岡田文次'阿部秀逸で審議され、衆院案に一部修正が加えられ、再び衆議院に法案

287

(19)

が回付された。衆議院ではこの修正をのむことになりtか‑て大正十四年三月二十日午後一時五十分、公法人として

の歯科医師会を認めた画期的内容の歯科医師法が成立し'四月十三日公布'ここに日本歯科医師会誕生のレールが敷

かれることになった。

この第三次改正案では第1条歯科医師の資格について政府委員と提案者側とで攻防戦が展開された。提案者側では

大学令による大学において歯科医学を修めた者を歯科医になる資格として条文化しょうと迫った。これは歯科大学設

立の伏線として是非とも挿入したい条項であったが'河上政府委員は強硬に反対して譲らなかったが、将来において

は'この趣意に反かぬよう配慮したい意向を表明したので提案者側も1応引き下がった形となった。また提案者側は

歯科医師に非ざるものが歯科診療所または技工所を開設し'管理することを原則として禁止する法文を挿入したい意

向であったが'片岡直温内務次官から同意しがたいとの政府見解が出され'内務省令の規定にょってその制限を行な

うことに落着した。

そのほか、歯科医師会を強制設置とLt公法人とすることは、歯科医師会側が早‑から望んでいたことであった

が'この点については政府側も賛成であったので'今後の歯科医師会(日本歯科医師会へ道府県歯科医師会、郡市歯

科医師会)は勅令による強制設置となり、法人格を附与され、歯科医師会側の朗報として、歯科専門を標傍する医師

は歯科医師とみなすとの条項が規定され、これによってこの種の医師は歯科医師会に加入しなければならなくなっ

た。

なお'衆議院特別委員会および本会議の席上'医系議員土星清三郎代議士が歯科医が死亡診断書を作成することの

不都合な点を指摘したが、大連茂雄内務書記官へ片岡直温内務次官は共に差し支えないと答弁したのでへこの問題が

かえって明確となった。

‑ 288

(20)

四月十一日へ日本連合歯科医師会は'日本工業倶楽部で第三十三回総会を開き'大いに意気盛んであった。

内務大臣若槻礼次郎(後に首相)、米国大使EdgerAI

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から祝辞をうけ'多数の議事を快速調で消化し

大正十五年十1月三日'東京市麹町区有楽町一丁目l番地帝国鉄道協会において日本歯科医師会の設立総会が開か

一'日本歯科医師会設立の件

l'日本歯科医師会々則案を審議し、これらを可決したのち'仮会長および仮役員を選考した.

仮会長血脇守之助

仮副会長

藤源太郎

仮理事

永田斎、住井雄煮'木村幸蔵、武藤登善次郎'石原金作、海老源堅'大村1男'田村口'佐野実、広瀬武rZbJ良

翌四日、日本歯科医師会設立委員長富安晋外九名から設立認可申請書を内務大臣浜口雄幸宛に提出したところ、会

則案の1部修正を命じられたが'十1月十日認可が下りた。

そこで'大正十五年十二月十l、十二の両日麹町区有楽町1丁目一番地生命保険会社協会において第一回総会を開

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(21)

催、議長席にさっそうと登壇した守之助は、

「日本連合歯科医師会は過去二十四年間継続しましたが'それは1つの私的団体に過ぎなかったのであります。し

かるに今回法律改正の結果として新し‑法定の団体たることを許された訳であります.我々は之より1同心を一にし

て斯道のために尽力致すことを深‑誓う横りであります」と挨拶した。

総理大臣若槻礼次

内務大臣浜

文部大臣岡田良平

の祝辞を全員起立して受けたのち'第一日目は日本歯科医師会の議事へ運営'会計に関する諸件案の審議を行ない、

第二日目には健康保険契約に関連する諸件案を可決した。

、日本歯科医師健康保険部の役員として'

部長血脇守之助

主事広瀬武郎

理事二田村1

事野村大助へ荒木盛英直村善五郎

任した。

このように日本歯科医師会は守之助が第一回総会の席で挨拶したように'法人格を持つことになり'それにょって

過去の歯科医師会とは格段に異なる法的責任能力'内部統制力を発揮する団体に生まれ変わった。したがって日本歯

科医師会の成立は'多年にわたる運動の成果として歯科界の歴史の中でもまさに特筆に値する重大事件であったので

‑ 290

(22)

ある。そして、この会の設立については守之助や議会工作に関係したロビーストの大活躍を見逃すことはできない

が'反面'この時期、会の設立を必要としていた底流に社会情勢の急激な変化が進行していたことに目を閉ざすことは

できない。すなわち'第一次世界大戦から戦後にかけて起こった物価騰貴、普選要求、無産運動の高まりは社会不安

に拍車をかけ、その対応策に迫られた政府当局は'社会政策の1巽に医療補償をとりあげざるを得ない状況に追い込

まれていたのである。従って歯科医師会に対する法人格の附与も'この大きな流れの中でみると健康保険制度の契約

の当事者能力を高めることに置かれていたと解釈することができよう。歯科医師会の第1回総会の議案の半ばが保険

契約に関する問題で占められていたのほこのような理由に基づいている。

ところでこの設立総会の開かれたその時'守之助の四男道夫十二歳は'前額部に外傷をうけ敗血症を併発して十二

月九日午後四時永眠した。守之助は折しも日本歯科医師会長として第1回総会を目前にひかえ多忙を極めていたか

ら'告別式を総会の終了するまで延期した。登壇する守之助の勇姿の心底に秘めた悲しみを看破る人はいなかった

が'その故に事情を知った人々は同情の念を禁じ得なかった.十二日夜'総会を終えて帰宅した守之助は我子の霊前

に額づき、深々と頭を下げた。翌十三日自宅での告別式を終え'出棺した。

歯科医師法規改正の使徒満鮮行

昭和二年十二月二十五日夜、木下謙次郎は守之助とともに近衛公爵邸の賓客とな「ノた「食事をしながら木下君の

壮途を祝おうではないか」という趣旨であった。木下謙次郎は関東州の長官に親任されたのである。日露戦争の結

果'日本が獲得した大連'旅順は'満州'中国進出の拠点であり、この地の長官は大臣に匹敵する要職であった。帰

ー 291

(23)

途'木下は守之助に'

「歯科医師法の改正'日本歯科医師会の設立と忙しかったからへここらで満州旅行をして骨休みをしたらどうです

持ちかけた。

「昔を思い出して、もう一度という気もありますが'少々身体の方ち‑たびれてきましたからね‑」

「五月頃なら暖か‑てよいでしょうに」

「考えておきますよ'骨休めでは能がないから歯科医師法規の制定促進方を計る目的で満鮮へ出張しますかな」

翌日、水道橋校舎第二教室で、木下理事送別兼忘年会が開かれた。席上工藤鉄男講師(代議士)は、

「本校理事出張所が大連にできたと思えばよい」

といって皆を笑わせた。守之助は、

「工藤君もそのうち関東長官になるさ。桃粟三年柿八年'急場の間に合わそうとしても無理、関東長官になってか

らへ専門学校の役員になって下さいといっても、そんな天下りは誰もしないよ。普段のつきあいがかんじんかんじ

なみいる教職員に訓すように言った。木下は十二月三十一日東京を発ち郷里大分に立ち寄り'任地に向かった。

守之助はわざわざ大分まで同行して別れを惜しんだ。

昭和三年五月十二日'日本歯科医師会書記長高津式を伴い東京を出発、十三日神戸からバイカル丸に乗船した。木

下も一時帰国していたので同行することになった。木下と守之助はデッキゴルフを楽しんでご気嫌であった。

十六日朝の大連埠頭は長官閣下の出迎えでゴッタ返していた。木下の命で民政署から自動車が廻されていた。

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(24)

「どうもお世話様」

「いやいやご苦労さまでした」

二人は軽く会釈して別れた。

その日の午後'満鉄大連病院の招きで院内見学、当時満鉄大連病院は東洋一の規模を誇り'看護婦数三千といわれ

ていた。田中医長の案内で近代的設備を参観したが'さすがにと驚嘆の面持ちであった。

翌十七日、大連から旅順の長官邸へドライブ、家族総出の歓迎をうけ'すっかりくつろいだ様子であった。

十八日午前八時'長官邸に関東庁の川合衛生課長、黒井技師が出向し、緊張した面持ちで待機していた。滅多に長

官邸を訪れることはなかったからである。

「お早う」

といって長官と守之助が姿を現わした。

「昨日頼んでおいたことは整理されているね」

「はい資料は揃えてございます」

関東州における歯科医師法規の草案の検討が行なわれたのである。二階の居室に戻った守之助は'高津を顧みて'

「ここの眺めは実にすはらしい」

といった。バルコニーからは旅順港が一望の下に見渡せた。前庭には藤の白房が咲き'噴水が勢いよ‑興味をそえ

ていた。

やがてこの地にも改正歯科医師法規が公布される。守之助は満足気であった。

旅順'大連'奉天、撫順、安東等'廻蓬の地の歯科医師は、こぞって守之助を迎え'その労苦に戻して感謝した。

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(25)

満鉄大連病院社宅訪問の血脇守之助(昭和三

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守之助は、

「出身校'生家を異にするとはいえ、互いに扶け相親しみ業に励まれるよう.老人の言葉として、‑れぐれも心に

留めていただきたい」と述べ、同業者の1致団結をうたうことを忘れなかったo

安東から南下した守之助は平壌を経て五月二十八日早朝京城に安着した。そして'その足で朝鮮新聞、朝鮮日報社

を訪れ'記者会見をして、今回の訪問の目的が歯科医師法規の制定促進の側面運動であると説明した。

そして関東州の場合と同じく'翌二十九日午前八時に山梨半造総督を総督府に訪ね'池上政務総監および輩下の局

長立会いの下に法規の制定促進方を要望した。

そして翌三十日には'朝鮮軍金谷範三総司令官を訪問し'旧交を温めた。六月一日、大郷を経て釜山に到着した守

之助は'東菜温泉鳴門旅館に投宿した。二日朝、出発を前に旅館の庭を散策していると'杉村楚人冠(朝日新聞の当

時有名な記者)と下村海南にバッタリ出会った。お互いにびっくりした様子であったが、そこは旧知の間柄、

「やあ、やあ

「いつお着き

「昨夜です。判っていれば押しかけるところだ」

「下村氏と朝鮮全土の視察旅行に出掛けるところで‑‑」

「私の方は満州から下ってきたところです」

「お気に召しましたか」

「いや今度の旅行は、木下君にさそわれてきたのですが、外地の歯科医師法規の制定促進方を計るためのヤボ用で

すよ」

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「先生直々の談判でははおっておけないでしょうね」

「いやいや'今後ともご支援を願いますよ」

「先生へ出港の時間が迫っています」

高津は話に水をさすようで悪いとは思いながら、守之助に注意すると荷物を持って歩き出した。

大連の同窓久保田謙次郎は'その手記に'

「日本全土の歯科界を統1Lt功成り名遂げた恩師血脇先生が全力を割いて満鮮業界の福利のために老躯を駆って

遠征せられたるは豊太閤外征の抱負に似たり」と述べている。

白髪三千丈的表現ではあるが、それも全‑当たっていないとはいえない。やがて'歯科界にも満鮮進出の国家的要

請を受ける時代が来るはずであった。

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