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年基地問題と再編計画の始動
-E E Eノ名
三匹目史
は じ め に
1968年は日本の基地政治の一つの転換点であった(1)0 1月に原子力空母 エンタープライズが佐世保に入港し基地反対運動が激化, 5月には同じく 佐世保に入港した原子力潜水艦、ノード・フィッシュが放射能漏れ事故を起 こした。6
月にはF-4
戦闘機ファントムが九州大学構内に墜落し,時を 同じくして日本国内ではベトナム反戦運動,反米・反安保闘争が激化,そ れらはNIMBYから派生した基地反対運動と合流していった。 一方,米国では1月にリンドン ・ジョンソン CLyndonB.Johnson)大 統領がドル防衛に関する特別教書を発表し(ドル危機),ベトナム戦争へ の関与縮小への布石を打った。 2月には,ニコラス・カッツエンバック CNicholasKatzenbach)国務次官を中心とした海外基地調査グループが発 足,世界的な米軍基地システムの見直しに着手した(九日米間では 9月 (1) 1968年は国際政治にとっても大きな意味を持つとされてきた。例えば,ウォー ラスティン(ImmanuelWallerstein)は11968年は世界システムの内容と本質 にかかわる革命であった」としているO イマニュエル・ウォーラスティン,丸 山勝 (訳)r
ポスト ・アメリカ」藤原書庖, 1991年, 114頁。また,菅も 168年 は冷戦の終罵を促すことになる様々な流れが合流した一大転換点であったJ(4 頁)としているO菅英輝「冷戦の終罵と60年代性一国際政治史の文脈において」 「国際政治」第126号, 2001年2月, 1-22頁。に行われた第5回日米安全保障高級事務レベル協議 (SSC)の場で初めて 「基地問題」が議題として扱われ, 12月に開催された第9回日米安全保障 協議委員会 (SCC)では,米国側から計54ヶ所に及ぶ大規模な基地の整理・ 統合計画が示された(3)。 本稿はとの
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年に生じた日本の本土基地をめぐる政治過程を日本側の 視点から考察するものであるO 具体的には,基地をめぐる国内闘争がし1か にして日本政府の認識と基地政策に作用したのか,そしてそれが最終的な 整理・統合計画にどのように繋がっていったのかを明らかにするO なお,従来の日本外交史研究において60年代後半は,沖縄返還交渉やニ クソン・ドクトリン,或いは日米防衛協力の進展といった比較的大きな事 象群によって彩られてきた但)。 そのような文脈において6
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年の日本の基地 政治はこれまでほとんど等閑視されてきたと言ってよ~'
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しかしながら, 同時期に生じた圏内の織烈な基地闘争と米国に対する基地返還要求,そし てその一つの終着点としての12月のs
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は,それ以後70年代中葉まで続 く一連の基地の整理・統合プロセス,とりわけ首都圏の基地の大規模な再 編を謡った 「関東計画J
(73年 1月)に大きく影響した可能性がある(5)。 本稿はそこでみられた基地の整理・統合プロセスを,国内の 「基地闘争」、
TheWashington Post, July29, 1968, p.5. (3) 日米両政府間での最高位の安全保障協議チャネルは, 1960年の安保条約調印 と同時に設置されたs
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である。68年当時は日本から外務大臣と防衛庁長官, 米国から駐日大使と米太平洋総司令官(1990年12月からは米国から国務長官と 国防長官が出席)で構成されていた。このs
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を支える下部組織として, 60年 代後半以降, 日米両政府の官僚レベルのチャネルが設置されていくが,そのな かで、も次官級が参加する協議体として設置されたのがs
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である。 (4) 例えば,佐道明広 『戦後日本の防衛と政治』吉川弘文館, 2003年。中島琢磨 『沖縄返還と日米安保体制』有斐閣, 2012年。 (5) 60年代後半から70年代前半にかけての基地の整理・統合プロセスを整理した ものとして,小山高司r
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関東計画』の成り立ちについてJr
戦史研究年報』第 11号, 2008年3月, 1-20頁。とそれに対する日本政府の反応の相互作用過程として捉えようとする(6)。 なお, 日本における基地闘争とよばれる事象の発生は,朝鮮戦争が勃発し た
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年にまで遡って理解されるものであるO もっとも,それ以前の米軍 占領下でも「基地問題」とよぶべき多くの事象が確認されたが,それらは 何れも経済闘争にとどまるものであった(組織的な政治闘争に発展した事 例は見当たらなl'1)。占領期から朝鮮戦争までの5年間,数多くの基地問 題が存在しながら基地闘争が生じなかったことは,この両者が同一事象で はなく,区分して捉える必要があることを示しているO 仮に,基地問題を 「軍事用の諸施設の設置とその使用によって周辺にもたらされる社会的諸 問題(7)Jと定義するならば,およそ軍事施設の所在する地域には NIMBY に駆動される何らかの紛争が存在する(8)。しかしながら, そのような基地 問題がそのまま政治闘争としての基地闘争に移行するわけではない。基地 問題は基地闘争の一つの原因ではあるが,そこに直線的な因果関係は存在 しないのであるO そこで本稿は,基地闘争が組織されるのは複数の基地問題の発生を契機 (6) 従来,国家間レベルでの安全保障問題における圏内下位アクターの影響力は 限定的なものと捉えられる傾向にあった。例えば, Stephen D. Krasner, Dφ
nding the National Interest: Raw Materials Investments and the U. S. Foreign Policy, Princeton: N. J.: Princeton University Press, 1978; Lawrence Jacobs and Benjamin Page, “Who InfluencesU.S. Foreign Policy?"American Political Science Review, Vo1.99, No.1,2005, pp.107-23. それとは逆に,国内下位アクターの影響力を重視するものとして, Doug McAdam,“Political Opportunities: Conceptual Origins,
Current Problems, Future Directions,"in Doug McAdam, John D. McCarthy,
and Mayer N. Zald, eds., Comparative Perspectives on Social Movements: Political Opportunities, Mobilizing Structures, and Cultural Framings, Cambridge: Cambridge University Press, 1996.
(7) 時事問題研究所編「米軍基地 誰のためのものか』時事問題研究所, 1968年,
227頁。
(8) 朝井志歩「基地騒音一厚木基地騒音問題の解決策と環境的公正』法政大学出 版局, 2009年。
にそれを政治闘争化しようとする外部からの圧力が加えられるときと考え るO すなわち基地闘争を,基地をめぐる諸問題を政治・イデオロギー闘争 のモメントに回収することでもたらされる紛争として位置づけようとする のであるO この点,アンドリュー・ヨウ CAndrew
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eo)は多くの基地反 対運動は当初地域レベルで開始されるが,運動が継続されるにしたがい当 該運動に関する広域連合が形成される傾向にあると指摘する(9;。そしてそ の 際 , 異 な る レ ベ ル の ア ク タ ー を 結 合 す る の に 重 要 な 役 割 を 果 た す の が 「ブローカー」であるO ここでいうブローカーとは例えば,平和団体,労 働組合,環境団体,学生団体, 宗教団体,人権団体等が該当するが,それ らは基地の反対勢力として緩やかな連合体を形成しようとするO ブロー カーは単なるNIMBYをより抽象度の高い政治問題やイデオロギーのレベ ルに引き上げる際,新たな枠組み(例えば,主権, 自立性,平和,国家の 尊厳)を導入するか,より多くの参加者を獲得するために既存の枠組みを 修正しようとするO 例えば,平和団体であれば基地を戦争の手段,或いは 帝国主義の象徴として位置づけようとするかもしれな L、。或いは,環境団 体であれば基地による環境汚染,或いは基地撤退後の環境浄化問題を前面 に押し出すことで,環境主義者たちを基地反対勢力に回収しようとするO NIMBYは外部のブローカーの介在によって,基地反対運動へ,そして基 地闘争へと昇華されていく傾向にあるのであるω
。 本稿の議論を先取りすれば次のようになる, 1968年の日本国内における 基地闘争は,主に基地の存在根拠である日米安保条約 (とその延長)に反 対し,それを有名無実化しようとする紛争であった。そしてそのような紛 争は日米安保の重要性と継続性を重視する日本政府の認識に深刻な影響を(9) Andrew Yeo, Activists, Alliances, and Anti-U. S. Base Protests, New York:Ca m-bridge University Press, 2011, p.19.
与え,やがて彼らをして基地闘争を沈静化する方途としての都市部基地の 削減に注力せしめた。さらにそのような認識は
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や日米外相会談を通じ て米国側に伝達され,最終的には都市部を中心とした54施設にも及ぶ基地 の整理・統合が合意された。 以下,第1節では,戦後日本の基地問題と基地闘争の歴史を素描した上 で,本稿が扱う68年の基地をめぐる圏内状況を整理するO 第2節では,国 内の基地闘争を背景にした日本政府の反応を米国に対する基地再編要求に 焦点を当てることで考察するO 第3節では,基地再編に関する日米外相会 談と,公明党が公表した基地の調査報告書を概観し,第4節では12月に開 催されたs
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とそこで合意された基地の整理・統合計画を考察するO 第1
節 基 地 を め ぐ る 紛 争
1 )戦後初期の基地問題と基地闘争 戦後における基地問題は1945年9月,米軍の本土進駐と同時に発生した。 GHQが置かれた横浜市では市の中心部の大半が接収され, 9月下旬までに 立ち退きを命ぜられた壕舎は1
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戸に及んだ。また,とりわけ進駐当 初にみられた風紀問題は,土地や宿舎の接収と並んで基地問題を形成した。 また,占領軍の基地使用によって,演習場周辺では農地林野の接収,入会 地の立入禁止,農業用水権の侵害,保安防風林の伐採などの様々な問題を 引き起こした。さらに,演習海面に関係する漁民たちは操業制限・禁止と いう直接的被害のみならず,漁場の荒廃,操業の危険,防潜網による漁獲 の低下など,生活に直接影響を与える問題に直面したuo。このような戦後 初期の基地問題は占領下における日本人のナショナリズムを刺激した。まω
潮見俊隆 『日本の基地」東京大学出版会, 1965年。た朝鮮戦争の勃発によって基地が強化され,演習場や飛行場が拡張され, 周辺自治体との摩擦を増大させてし1く過程で, 日本人の反米感情は高まり をみせていった。 しかしながら, このような基地問題は基地闘争へと発展することがな かった。当時の基地問題は,あくまでも基地が存在することで生じる被害 の回復を求める経済闘争(補償要求)として位置づけられた。例えば, 日 本共産党は当初,占領軍を「解放軍」と規定しそれを支持する姿勢をみせ ていた。彼らが組織的な基地闘争を開始したのは,コミンフォルム批判直 後の 50年 2月のことである
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。2月21日に聞かれた最初の「反植民地デー」 において「軍事基地反対,外国軍隊帰れ」のスローガンが掲げられ,同日, 千葉県九十九里浜の米軍射撃演習場周辺では,基地反対のビラが貼りださ れた。また同年3月,横田飛行場周辺の瑞穂町に米軍が高射砲陣地設置の ための接収を通告するや,共産党は接収反対同盟を結成し署名運動を展開, 結果として接収地は隣村の西多摩村の山林に変更されることとなったω。 他方,社会党も 51年 1月の第 7回党大会において,再軍備反対,全面講和・ 中立維持・軍事基地反対の「平和4原則」を発表,基地への反対姿勢を鮮 明にするとともに,基地闘争化への政治的母体を形成したω
。 52年4月の行政協定調印後,本土の基地の数はそれまでの半数以下に減 少し,さらに 57年6月21日の岸・アイク声明に伴う陸上部隊の撤退によっ て,本土基地は後方支援基地としての性格を強めかっその数も減少して Q2) 五十嵐仁 (編)~I戦後革新勢力」の奔流」 大月書庖, 2011年。小山弘健 『戦 後日本共産党史』こぶし文庫, 2008年,第2章。 Q3) 日本共産党『日本共産党の65年』新日本出版社, 1989年。神山茂夫編著 『日 本共産党戦後重要資料集」第2巻,三一書房, 1971年。斎藤一郎「戦後労働運 動史』社会評論社,1974年。ω
岡田一郎 「日本社会党 その組織と衰亡の歴史』新時代社, 2005年, 20-26 頁。広川禎秀, 山田敬男 (編)~戦後社会運動史論」大月書庖, 2012年,第2 章。いったω。その一方で,共産党は52年5月1日の「血のメーデー」事件に 代表される反米闘争を激化させ 6月24日から25日にかけては最初の武装 闘争である「吹田事件」を先導したU6)。この事件を機に, 日本における基 地問題は,共産党・社会党・労農党といった政治組織の介在と動員によっ て先鋭化の道を辿り,内灘闘争,砂川闘争,新島闘争に代表される全国的 な基地闘争に発展していった仰。 2) 68年基地問題 では,本稿が扱う1968年とは日本の基地政治の中でどのように位置づけ られるのか。まず,同時期の基地の配置状況と主要な問題を整理しておこ
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O 防衛施設庁の資料によると, 68年7月の段階で米国に提供していた施設 は141件, 一時使用陸上施設は7件,海上演習場は23件であったω。そのう ち,東京・埼玉・神奈川の一都二県に,全体の45%を占める64件が集中し ていた。陸上施設を用途別でみると(表1),兵舎6件,住宅16件,飛行 場7件,港湾9件,事務所15件,演習場16件,工場4件,倉庫24件,医療 2件,通信37件,その他12件であった。また日米が共同使用している基地 は自衛隊の使用が23件,自衛隊以外の一般の使用が54件であったω
。 日 日 明田川融「日米行政協定の政治史」法政大学出版会, 1999年。中島信吾 『戦 後日本の防衛政策』慶慮義塾大学出版会, 2006年。 帥 これは「伊丹基地粉砕反戦独立の夕べ」に参加した民戦・祖防等の組織が, 集会後に吹田操車場にむけてデモ行進し,米軍の朝鮮向け軍事輸送の阻止を呼 号して,警官隊と衝突した事件である。(脇田憲一『朝鮮戦争と吹田・枚方事 件』明石書店, 2004年。) 仰 もっとも,基地の存在を(主として経済的理由から)肯定的に捉える組織や 自治体も多く存在した。この点,榎本信行 『軍隊と住民』日本評論社, 1993年, 95-8頁。西田稔 『基地の女』河出書房, 1953年。ω
時事問題研究所, 1968年, 178-9頁。 帥 前 掲。表1 68年7月時点、での用途別主要施設および区域 兵 舎 キャンプ朝震,キャンプ淵野辺,山王ホテル士官宿舎,横須賀海軍施設, 岸根兵舎地区,富士営舎地区 住 宅 グランドハイツ,武蔵野,横浜海浜,山手,根岸,相模原,長井,春日 原,昭島,名切谷住宅地区,関東村住宅地区および補助飛行場 飛行場 三沢,立川,横田,木更津,厚木海軍,岩国,板付 港 湾 横浜ノースドック,佐世保ドライドック地内,立神地区,呉第六突堤, 神戸第六突堤 事務所 府中空軍施設,キャンプ座間,佐世保海軍施設 演習場 北富士演習場, 日出生台十文字原演習場,水戸,三沢,芦屋,鳥島,イ ナンパ島対地射爆場,長浜,早岐小銃射撃場 工 場 相模総合補給廠,神奈川ミルクプラント,横浜ランドリー 倉 庫 多摩,池子,川上,山田弾薬庫,針尾島弾薬集積所,所沢補給廠新倉, 富岡倉庫地区,小柴,鶴見貯油施設,庵崎,赤崎貯油所,横浜冷蔵倉庫 医 療 米陸軍医療センタ一,キャンプ王子 キャンプ千歳,稚内,上瀬谷通信施設,十勝太,柏,大和田,深谷,依 通 信 佐美,沖永良部島通信所,雁ノ巣空軍施設,硫黄島通信所,南鳥島通信 所 その他 八戸貯油施設,海軍兵員クラブ(横須賀),羽村学校地区,新宮水道施 設,観音崎艦船監視所 (出典:時事問題研究所1968年, 178-9頁。より筆者作成) これらの中で,主要な基地問題として位置づけられていたのが次の問題群 であるO 弾薬輸送問題 米軍弾薬の輸送方法に関する安全措置については,既に60年12月の日米 合同委員会において車両の標識,積載量,地元警察への連絡等についての 取り決めが合意されていた。ところが,広島県の広弾薬庫を中心に弾薬輸 送が開始されると,その危険性を理由に住民の間で反対運動が生起したO そしてそれに呼応するかのように,福岡県の山田弾薬庫においても笠石岸
壁への弾薬荷揚・輸送反対運動が勃興したω。広地区の反対運動は,広, 川上弾薬庫の使用再開への反発が土台となっていた。一方,山田弾薬庫の 反対運動は,後述する同じ福岡県下で発生したF-4ファントム九大墜落 事件が大きく影響したものであったω。 王子病院問題 王子病院が所在していた東京都北区は,旧陸軍造兵廠跡であったが,戦 後は米軍が主に地図局として使用していた
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。その後,6
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年に地図局が閉 鎖となり,米側から陸軍病院を開設するとの通知がなされた。王子は住宅 の密集地帯であるうえ,キャンプの近くには中学校,女子高校,大学など の学園地区があったO そのため,社会党,共産党,区労連などの革新団体 のみならず,保守系区議,町内会, PTA,商店連合会などから防疫風紀等 の不安と反対の声が上がった。そのような地元の返還要求に乗じて,反 代々木系全学連を中心に過激な反対運動が展開されていたω
。 板付飛行場問題 板付飛行場は福岡市内に近接しており,騒音と事故の危険性の高い基地 であった。6
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戦闘機の横田移駐以降,米軍機の使用頻度が激減 し,地元では九州基幹空港整備5ヶ年計画を用意し,国際民間空港への使 用転換を要望していたω。ところが, 68年1月に生じたプエブロ号事件以 降, ファントムF-4が常駐するようになり,米軍機の使用回数が増加し 側 公 明 党 (編)r
在日米軍基地の総点検 資料その1実態調査』公明党, 1968年 12月, 333頁。。
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朝日新聞J1968年6月12日,朝刊。ω
公明党 『実態調査J,127頁。ω
『朝日新聞J1968年5月31日,朝刊。ω
公明党『実態調査J,321-6頁。た。その矢先の 6月2日,板付に向かっていたファントムF-4が九州大 学の構内に墜落する事故が発生,全国的な基地反対運動の象徴として位置 づけられるとともに,板付の返還運動が展開,高揚していた。 佐世保問題 68年1月19日,米海軍の原子力空母エンタープライズが佐世保港に入港 し , これに反対する三派系全学連と,それを阻止しようとする警官隊との 間で衝突が起きた。同年, 5月 2日には,原子力潜水艦ソード・フイツ シュが入港したが,科学技術庁は潜水艦の周囲の海水から通常ではない放 射能を測定したと発表したO なお, 68年の佐世保への空母の入港は次のよ うなものであった
ω
。エ ン タ ー プ ラ イ ズ (1月19日-23日),ケアサージ ( 2月23日 3月1日), コ ー ラ ル シ ー (2月26日 3月14日), ヨークタ ウ ン (3
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日 出港日不明), レンジャー(3
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日),ケアサー ジ (3月22日-24日),ボノム・リチヤード (4月24日-5月4日),ベニ ン ト ン (6月10日-21日),イントレピッド(8月初日-9月l日 入 ハ ン コック 02月5日-11日),ホーネット 02月23日-69年1月2日)。 上記のような基地闘争は,その何れもが日米安保に反対する政治グルー プの働きかけによるもの,すなわち70年安保反対闘争の前哨戦として位置 づけられたものであった倒。 例えば, 日本平和委員会は66年11月に「ベト ナム侵略戦争反対・軍事基地撤去・自衛隊反対日本平和大会」を開催, 61 年の舞鶴大会以来の「基地闘争」を行うとともに,ベトナム反戦と基地闘 師 長尾秀美 『日本要塞化のシナリオ』酎燈社, 2004年, 45頁。。
。
油井大三郎 11960年代研究の国際比較J,油井大三郎(編)r
越境する1960年 代』彩流杜, 2012年, 12-31頁。争強化を強調していた旬。 また, 67年6月の定期全国大会では, いわゆる 70年安保問題に対する平和委員会の本格的取り組みと対決の態勢をっくり あげることを目指し,基地闘争強化の方向性を示した。さらに68年6月の 大会では,安保破棄闘争をさらに組織的に展開すべく,基地・自衛隊の調 査活動・撤去闘争・軍需生産・輸送反対・教育・文化・思想・マスコミな どの各分野における「反動化」暴露闘争などその活動領域を拡大した。 一方,社会党系の全国実行委の幹事団体であった全国基地連も, 65年の 日韓闘争以後停滞していた活動の立て直しを行い,全国各ブロックの闘争 体制の強化を図っていた
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。66年4月には,米軍病院設置が問題となって いた東京・神奈川・埼玉の反対運動を推進するため 「米軍野戦病院反対連 絡会議」を結成したω。さらに水戸射爆場の新島移転案に強硬に反対し, 同年11月に本格化したホーク・ミサイル基地設置反対闘争に対しても積極 的に拡大・推進を図っていた側。66年秋から再燃していた砂川闘争に対し ては,反対同盟を支援, 67年6月にはかつての「砂川基地拡張反対支援労 組協議会」を再建した。その間,共産党系の中央実行委の 15・28砂川大 集会」に対して社会党系の全国実行委と地元反対同盟は共闘を拒否したが, 反対同盟と砂川支援労協の申し入れた 17・9基地拡張阻止集会」が両実 行委協賛で開催されるなど,共産党との微妙な関係を維持しつつ,独自行 動と共闘とを反復したω
。 両者の関係は68年以降,反代々木全学連の過激化という事態のなかで変 化をみせるo68年1月の佐世保エンタープライズ寄港阻止, 2月の成田国 ( 初 日本平和委員会 (編)rこの安保条約」平和書房, 1968年。日本平和委員会 (編)r平和運動20年資料集』大月書庖,1969年。 ω 渡辺洋三・岡倉古志郎編『日米安保条約」旬報社, 1968年, 322頁。 ω 潮見俊隆・山田昭・林茂夫編『安保黒書」旬報社, 1969年, 62頁。 帥 前 掲 , 56頁。 ω 経秀実 n968年』筑摩書房, 2006年,第2章。際空港反対運動 3月から 4月にかけての王子米軍病院反対運動でみられ た反代々木全学連の過激な行動は従来の現地闘争中心主義の限界(すなわ ち,闘争が局地化し全国的闘争に発展しにくいという課題)を打ち破る契 機となったω。反代々木全学連の展開する先々で,彼らの暴力的行動がメ ディアの関心を集め基地闘争をエスカレートさせた。社会党・総評系の反 戦青年委員会は,この反代々木全学連と相呼応して,その戦闘的行動を70 年安保闘争昂揚の契機と位置づけた。反代々木系全学連は, 68年 5月の ソード・フィッシュ放射能漏れ事件, 6月のF-4ファントム九大墜落事 件を契機に,山田弾薬庫や広弾薬庫,同県の川上弾薬庫などに対する 「ゲ バルト」をエスカレートさせ,さらに
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国際反戦デー」では,東京・ 新宿駅を占拠, 16年ぶりの騒乱罪が適用される事態に発展していた。第
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節目本による再編要求
では, 日本政府はこのような基地闘争をどのように捉え,また反応した のであろうか。F-4ファントムの九大墜落事件の翌日, 山上信重防衛施 設庁長官は 「直ちに基地の撤去ということは,これはまたむずかしい問題 ではな~iかと思いまするが,これらにつきましては政府の部内でも大きな 方針として十分に協議してまいらなければならないω
」と答弁した。また 8月5日,臨時国会の代表質問に答えた佐藤栄作首相は 「米軍基地が大都 市周辺に多くあるため, とかく基地周辺住民に生活上の不安や危慎を与え ていることを考え,政府としては,その不安や危慎を取り除くよう最善の (3)2 時事問題研究所, 1968年, 248-9頁。日本共産党中央委員会 (編)~中央委員 会出版局民主集中制と近代政党j(増補新版)日本共産党中央委員会出版局, 1991年。ω
「第58同国会集議員社会労働委員会議事録第29号J1968年6月 3日, 2頁。努力を払ってまいりますω」との見解を示した。また, それに先立つ7月 には,日本政府が在日米軍基地整理統合の基本方針を定めることを決定し た闘。 これは基地を抱える自治体の知事で構成される「渉外関係主要都道 府県知事連絡協議会」が政府に対し「在日米軍基地のうち,不要なものは できるだけ整理統合するとともに,基地周辺の民生安定施策を改善してほ しLリと要望したことへの回答であった倒。 1 )三木ージョンソン会談 そのような中
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日には日本側のイニシアティブにより,三木武夫 外相とアレクシス・ジョンソン (AlexisJ ohnson)駐日大使の会談が聞か れた。会談ではベトナム情勢や核拡散防止条約 (NPT)問題とならんで, 日本本土の基地問題が話し合われた。ジョンソンは「大使としてというよ りも一人の米国国民として」の意見であると前置きした上で,r
長期的に みて米国国民は接受国の国民に切望され,かっ地域の人々による支援が得 られなければ, とりわけ日本においては大規模な軍事的プレゼンスを維持 し続けるつもりはない」と述べた的。 さらに「そうであるが故に, 日本は どのような種類の米軍プレゼンスが国益に照らして求められるのか,そし てそのようなプレゼンスを可能にするために何をするつもりで,またそれ を支援するために何ができるのかを決定することが重要だω」と伝えた。 さらにジョンソンは今後1
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年間を見据えた場合,我々は本土および沖縄に おける基地の問題に悩まされ続けるであろうこと,そして米国はそれに持ω
「第59回国会衆議院会議録第4号J1968年8月5日, 20頁。 悶 「朝日新聞J1968年7月15日,朝刊。 ~~ 前掲。 的 “Meetingbetween Ambassador Johnson and Foreign Minister Miki," August 21, 1968, Digital National Security Archive(DNSA) C38l Ibid.ちこたえられなくなるかもしれないとの懸念を伝えた。 対する三木は
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月に起きた佐世保と福岡での事故に触れつつ「日本人 は単なる安全保障関係上の価値としてだけでなく,基地構造そのものの必 要性について認識し,受容している」と述べるとともに,I
日本における 米軍基地の構造は合理化されるべきであるし,両国の間でこれまでよりも, より理解を深めるべきであるJ
(傍 点 筆 者)と基地再編の必要性を示唆し た。そしてそれとの関連で日本政府はさらなる 「責 任(
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を 引き受ける必要がある」との認識も示した。ジョンソンはそれに対して 「当然ながら, いかなる主要な基地の整理統合に関しても日本側に大きな 財政的コストが発生するであろう」と述べ, 三木はそれを 「理解している」 と答えたω
。 なお,三木はこのとき在日米軍基地の重要性を在韓米軍基地との関連で も捉えていた。彼は「日本国民は北朝鮮に対する抑止の観点から在韓米軍 の駐留を継続してほしいと願っている」とした上で,I
そのために担って いる日本と沖縄の基地の役割を十分に認識している」と述べた帥。 さらに 「日本国民は韓国の安全保障と日本のそれが直接的な関係にあることを認 識」しており,I
北朝鮮が韓国に侵攻した場合, 日本は基地から行われる 米軍の行動に十分な支援(
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を行う用意がある」と伝えたの であるω
。 2 ) 第5回s
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一再編要求 三 木ージョンソン会談から間もない9
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日から1
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が東京で聞かれ,s
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の議題としては初めて基地問題が選定された。 ( 3 I)9 bid 側 Ibid. ( 1u
Ibid.会議の冒頭,ジョンソンは日米聞に横たわる問題の理解を促進するために, 本土と沖縄の基地問題を検討していくことの重要性を指摘したω。そして, 日本を含めた米国の海外基地ネットワークは 「鎖のように連接」している と語り,
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仮に一つの連接が崩れれば,全体の能力が弱体化するか失われ ることになる」と述べたω
。この点,ローレンス・リン (LawrenceLynn) 国防次官補代理も「基地は相互依存関係にあることを強調したい。もし一 つの基地がなくなれば,全体の関係性を変化させる必要が生じることにな るω」との見方を示した。そして,牛場信彦外務事務次官から世界中で生 じている米軍基地の問題について問われたモ一トン・ハルペリン (Morton Halperin) 国防次官補代理は,次のように答えた。 いくつかのケースでは彼ら (接受国政府)は我々の行為に反対しているが,特 定の国は基地を撤収してほしくないと考えている。政治的問題を抱えている国 は,我々が安全保障条約を締結していない国,例えば, リビア, パキスタンと いった国である。我々はそのような問題を扱うに際しては,政治的取引を行っ ているω。 (括弧内筆者) 続いて,外務省と防衛庁はそれぞれ事前に準備したペーパーに基づいて在 日米軍基地についての立場と問題点を報告したω。 外務省はまず在日米軍基地の機能を「日本の領域に対する軍事的攻撃,ωAirgram, From American Embassy to Department of State,“Security Sub-Committee Meeting 11-12 September, 1968,"October 29, 1968, p.14, DNSA. ωIbid., p.15.
ωIbid. 回 Ibid.,pp.15-6.
或いは朝鮮半島における戦争が再発した際の軍事作戦のために,主に後方 支援と通信の役割を果たす的」ものと捉えた上で,現下の在日米軍基地は 様々な問題を抱えていると指摘した。外務省によれば 「基地問題」はこれ までも度々繰り返されてきたものではあるが,昨今その性格が変化してき ていることを次のように述べた。 過去において「基地問題」は多かれ少なかれ,特定の地域の問題として個別に 扱われてきた。つまり,そこでは基地の全面撤退,或いは反安保といった一般 的な闘争と結び付けられてこなかったのである。しかしながら,近年それらの 地域的な 「基地紛争 (basedispute)Jは一般的な闘争と直接に関連する傾向が 5虫まってきている
ω
。 その上で外務省は,基地問題を構成している 5つの要因を指摘したω
。 ① 地理的要因:日本の国土は極めて小さく,かっ人口過密で、あるo30 万人以上が居住する都市が全国に点在しているO 軍事施設に適した地 域は平坦であることが条件であるが,そこには同時に市街地と工業地 帯が存在することになるO かような状況は,米国のような国とは決定 的に異なるO 基地が政治的摩擦を生じさせる一つの理由は,施設が都 市と工業地帯に集中していることにあるO 日本の経済成長は結果とし て急速な都市化と,地方から都市への人口流入をもたらした。このこ とが基地問題,特に航空機の騒音問題を加速させているO ② 外国軍隊の駐留に反対する国民感情:不幸なことに,在日米軍は占的 Airgramfrom American Embassy to Department of State,“Discussion of Bases at Security Sub-Committee Meeting,"October 1, 1968, Enclosure 1,“
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.
S. Military Bases in Japan," p.1, DNSA.側 Ibid.,p.4. ωIbid., pp.2-3.
領の継続と解釈されることがあり,そのことが国民の反発を生んでい るO それと同時に,国民は対外的な脅威に対する認識,そして国家防 衛に対する認識を欠いていることも事実であるO そうであるが故に, 集団的安全保障の必要性についての認識も欠いているO ③ ベトナム戦争と朝鮮半島情勢:ベトナム戦争との関連でいえば,在 日米軍基地は後方支援とそれに関連する活動のために使用されているO しかしながら 「ベトナム戦争のための米軍基地は受け入れられない」 との感情が世論に受けているO 朝鮮戦争が再発した場合,基地は戦闘 作戦のための基地として使用されることになろうO しかしながら,一 般の国民は韓国の安全保障と平和が日本の安全保障と不可分であると の認識を有していな L、。これらの問題は危機に対する認識,或いは安 全保障問題についての関心の欠如と関連しているO ④ 軍事技術の変化:通信技術の発展はそれに関する施設の拡大を必要 とするO またそれによって電波干渉を防ぐための措置の必要性も高 まっているO また,古いタイプの航空機から新しいタイプのそれへと 変更が行われることで,いくつかの飛行場は拡張が必要になっているO このことは衝撃波の増大をもたらしているO 軍事技術に関するこれら の変化は様々な問題を引き起こす追加的な要因となっているO ⑤ 基地反対運動:現政権の立場に反対する勢力は,基地所在地域にお ける既存の関心を政治的に利用しようとしているO すなわち,基地は 彼らに何の利益ももたらさない一方で,いわゆる「公害」だけをもた らすとの印象を強めようとしているO 全学連や社会党,或いは日本共 産党は即座にそれに反応し,近年の一連の基地反対運動を先導してい るO しかし,いくつかの事例では,地域の住民は基地には関心がなく, また一般の学生は特定のイデオロギーを持っていないこともみてとれ るO
外務省は,このような認識を前提に問題解決の方途として, 1)基地周辺 自治体,住民への対策強化のための予算の増大, 2) 都市部基地及び都市 部周辺の特定基地の再編に関する研究を実施することを米国側に伝えた
ω
。 また,基地再編に関する長期的な検討課題として次の 3つを指摘した制。 ① 米軍との共同使用のための必要な協定を結んだうえで,米軍基地の 自衛隊への移管の実現可能性を検討するO ② 土地の制限,そして人口過密の観点から,使用頻度の低い米軍基地 の統合と再編の可能性を模索するO ③ 補助的な施設,例えば家族の宿舎, レクリエーション施設,または そのような施設を可能な限り削減し,高層ビルに集約するO 次いで,防衛庁は外務省と同様,とりわけ都市部の基地が地元住民との 間で摩擦を生じさせていることを認めたうえで,その原因を「反安保勢力 による地元住民の動員と政治的紛争の創出」に見出すとともに 「政府は地 元民の感情を理解するよう一層努め,反安保勢力に有利な状況にならない よう適切な対抗措置を講じていかなければならなLリとの認識を示した回。 山上防衛施設庁長官はこの点「この問題の取り扱い,そして見直しについ ては,私は現時点では軍事的な視点のみならず,国民感情と福祉の観点を 含めた政治的側面からも行われることが適切と考える」と伝えたω
。 さらに防衛庁は外務省よりさらに踏み込んで,基地の再編に関する具体 的な検討案とその課題を提示した倒。再編が可能と思われる基地は3つの 制~ Ibid., p.5 (51) Ibid.(5~ Airgram from American Embassy to Department of State,“Discussion
of Basesat Security Sub-Committee Meeting,"October1, 1968, Enclosure
2, "Policyin Reviewing U.S.MilitaryBase Ploblems in Japan,"p.1, DNSA.
(5:t Ibid.
カテゴリーに分類された。第一は 「使用頻度が低い施設と区域」であり, これは, ①自衛隊への移管および必要時に米軍が使用するものとして再編 する,そして, ②将来の米軍にとって必要性の低い一部または全ての施設 と区域を徐々に返還し,かつ自衛隊が排他的に使用する,或いは非軍事目 的のための使用を検討するもの, とされた。第二は 「国民感情と福祉の観 点から特に配慮、が必要な施設と区域」であり, これは実行可能な範囲で米 軍の活動を制限することを検討するか,或いは再編するもの, とされた。 しかしながら,このなかの「再編」については米国側の要求が日本にとっ て負担の軽いものでない限り,米国側の要請と日本国内の反応との間で衝 突が起きるであろうとの懸念も示された。最後は「非軍事的施設」であり, これは日本における深刻な住宅事情と土地利用の非効率性の観点から削減 するか集約する努力を行うものとされた。 さらに防衛庁は具体的な施設名を挙げて対策の必要性を強調した倒。 そ れが以下の施設であるO ω Ibid., p.3-4.
① 自衛隊への移管 Cconversion)あるいは返還 Crelease)が望まれる 施設及び区域 根津地域,キャンプ朝霞 陸自へ 木更津飛行場・陸自へ 移管が求められる 三 沢 空 対 地 射 爆 場 空 白 へ 施設および区域 芦 屋 空 対 地 射 爆 場 空 白 へ 長崎ライフル試射場:陸自へ サウスキャンプ区域,キャンプドレイクの一部.陸自へ 自衛隊への返還を 多摩弾薬庫の一部・陸自へ 求める施設および 所沢兵器廠の一部 陸自へ 区域 富岡倉庫地区の一部:陸自へ 追浜海軍航空施設の一部 陸自へ ② 完全に,或いは部分的に返還されることを望む施設および区域 広弾薬庫の一部,関東村住宅地区および飛行場の一部,池子弾薬庫の一部 Momote Village住宅地区,キャンプ朝震の一部,新倉倉庫地区,所沢補給 倉庫 CTokorozawaDepot)の一部,横浜ノースドックの一部,太田小泉訓 練施設 ③ 米軍の運用上の制限および配慮、が求められる施設及び区域 横田航空基地(飛行機の騒音),厚木航空基地(飛行機の騒音),板付航空基 地 (飛行機の騒音),立川航空基地(飛行機の騒音),朝霞プレスセンター (ヘリ コプターの騒音),グラントハイツ住宅地区(汚水処理問題) ④ 政治的理由から再編が求められる施設および区域 キャンプ王子,板付航空基地,横浜ビーチ住宅地区および山手住宅地区,水 戸空対地射爆場 ⑤ 非軍事的利用に供する施設および区域とその返還 根岸競馬場地区(ゴルフ場),大島通信所(レクリエーション施設)
米国側の反応 これら日本側の提案をジョンソンは「公平なもの」と評価した。そして 米国側の従前の基地政策が単に 「米国側の要求という観点からのみ」形成 される傾向にあったことを認めた倒。 また,基地の存在を「工場」にたと え,それが持つ 「公害」の側面を認めると同時に,それが近代的な生活の ための「必要悪」であるとの認識を示した。ジョンソンは本土基地再編に 向けた日米協議の進展を歓迎し,そのために必要となる日本側の予算措置 と国内世論に対する説得の強化を求めた的。 次いで,ジョンソンは日本側が示した再編案にある移管(∞nve吋ed)と 返還 Creleased)の違いを問うた。移管とは基地に 「米国旗ではなく日の 丸を掲げる」ということかと尋ね, これまでの防衛庁はそれに否定的で あったはず, とも指摘したω。それに対し,小幡久男防衛事務次官は「近 年の自衛隊は日本国民に受け入れられつつある」とし,とりわけ米軍の使 用頻度の低い基地については防衛庁の管轄に移した方が基地の安定化に寄 与するとの見方を示した倒。 一方,太平洋軍司令官のウォルター・カーティス CWalterL. Curtis)
海軍少将は防衛庁が示した九obe used by U. S. forces when required"
の意味を問い,対する小幡はそれを「共同使用だ」と明確に答えた
ω
。そ れについてジョンソンは「緊急事態の使用に関して,我々が合同委員会で 議論しなくてはならないのは,米軍が必要な際に必ず使用できるという十ffl Airgram, From American Embassy to Department of State,“Security
Sub-Committee Meeting 11-12 September, 1968," October 29, 1968, p.20, DNSA.
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この点,ジョンソンは基地が 「占領の名残」として,或いは 「米国が欲する から存在するもの」として捉えられていることを問題視した。(Ibid.) (])8) Ibid. (59) またそのようにして移管された基地については,米軍よりも自衛隊がより多 く使用することになるとも述べた。(Ibid.,p.21.) 側 I bid.,p.22.分な保障が担保されるかどうかであるω」と述べ,さらに国務省のリチヤー ド・スナイダー
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東アジア・太平洋局日本部長も「行政 協定の改定交渉において我々は再入場C
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の問題を議論したが, その定義については何も解決しなかったω
」と述べた。さらに, ジョンソ ンは 「共同使用」のカテゴリーが現行の地位協定上,どこに根拠を持つの かを尋ね,東郷はその可能性を第4条に見出していると答えたω
。 航空機の騒音問題についても米国側から反論があった。ジョンソンは, 米軍は財政的な理由から過剰な航空機の発着陸を行っていないこと,そし て夜間の飛行を制限する等の対策を講じてきたことへの理解を求めたω
。 山上防衛施設庁長官は,米側の従前の努力を評価しているとしたうえで, 人口過密地域である首都圏,特に横田基地における騒音問題の解決の必要 性を主張した(旬。 ジョンソンは関東平野の過密性を認めつつ「理想的な基 地の場所は砂漠であるが, 日本にはそれがない側」と否定的な態度を示し た。また彼は板付を例に挙げて,次のように述べた。 (板付)飛行場にある航空機の75%が民間機である。従って, 軍用機を撤収し たところで騒音問題の解決にはならなし、。軍用機はダメだが,民間機の騒音に は抗議しないとの国民感情があるのではないか。……そうであれば,我々がで きることは多くなL、。一つ覚えておいてもらいたいのは,ベトナム戦争が終わ れば横田は今よりずっと静かになろうということである例。(括弧内筆者〉 (6]) Ibid. (6~ Ibid. 側 Ibid.,pp.23-4. 帥 Ibid.,p.21. 伺 Ibid. (6~ Ibid. (6カ Ibid.このように同会議において日米双方は都市部における基地問題の解決が両 国の関係にとって喫緊の課題であることを確認すると共に,その具体的な 方途と道筋についての実務レベル協議を促進していくことに合意したので あるO 第
3
節 再 編 に 向 け た 圏 内 基 盤 と そ の 強 化 1 )三木ーラスク会談s
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から 1カ月後の10月5日,三木外相は訪米しラスク国務長官と会談 をもった倒。三木はまず,核時代において日米安保を継続していくことの 重要性を指摘し,そのうえで基地の再編についてはいくつかの圏内問題が 存在していると伝えた。それと同時に, 三木は日本では大半の国民が安保 条約を支持し,それを継続していく必要性を認識しているとも述べた。こ のことを前提に,彼は L、くつかの基地は絶対に必要である一方で,他の基 地は必ずしもそうではないとの見解を示し「防衛上の観点から必要とされ る絶対的に重要な基地だけを残して,それ以外の基地の数を削減していく ことが将来の検討課題になるω」と伝えた。 重要だったのは,三木が基地の再編については米国側の命令C
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ではなく,あくまでも日本側から自発的に提案されたものであるとの印象 を日本国民が持つことの重要性を指摘したことであるO そしてそのことは 日本が国際的な責任から逃げているとの印象を米国民から抱かれないため にも重要だとの認識を示した。ラスク長官はそれを理解しているとしたう えで,次期政権はそれらの問題について引き続き考慮するであろうと述べ側 Teregram,From Dean Rusk toU. S. Department of State,“Secretary's Meet -ing with Japanese Fonmin Miki Oct 5," Oct 6, 1968, DNSA.
るとともに,本土基地の再編が現下の日米関係にとって重要かつ既定の テーマであることを確認した。
2
)公明党による調査 日米の事務レベルそして閣僚レベルの協議が進展する中, 12月には公明 党が本土基地に関する詳細な「実態調査」と「意識調査」の結果を公表し 7こO 実は,公明党は遡ること 4月11日に行われた第6回党大会において「日 米安保体制の段階的解消の方途」と題した安保改定に関する党の指針を示 していた倒。 その後, 6月7日には,竹入義勝党委員長が遊説後の記者会 見で,党内に「米軍基地問題特別委員会」を設置することを発表, 18日に は矢野絢也書記長を同委員会の委員長に選定するとともに,その具体的活 動方針を示した問。 同委員会の活動は,参院選終了直後の7
月9
日から開 始され,基地の 「実態調査」と周辺住民の「意識調査」という戦後初の大 規模調査が行われた問。 その結果,I
実態調査」は10月30日に,I
意識調査」 は11月18日に終了した。その内容は次のようなものであるO ① 実態調査 12月5日,公明党は実態調査の結果を発表した。これは日本国内にある 145ケ所 (硫黄島,南鳥島両通信所を除く)の全ての基地について,規模, 使用状況,基地公害等を調査したものであるO 同調査によると,米軍接収 地は軍事施設のほか,住宅,厚生施設,無人の通信塔までを含めた145ケ。
。
公明党『実態調査J,1頁00
)1 それは 「来る1970年における基地撤去という目的のために, 68年度中に全国 の在日米軍基地の総点検を行う」という趣旨のものであった。(前掲 2頁) 仰 首都圏に限って言えば, これ以前にも同様の調査が行われている。例えば, 東京平和委員会宣教部 (編)r
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首都圏」軍事基地群』東京平和委員会, 1967年。所
2
3
都道府県にわたり,総面積は3
億6
千12
4
万4
,0
0
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平方メートルにのぼっ た問。 使用状況別にみると, a)使用されていない遊休施設が7
ケ所,6
,0
7
1
万平方メートル, b)ほ と ん ど 使 わ れ て い な い も の が6ケ所,2
9
3
万 平 方 メートル, c)一部 し か 使 わ れ て い な い も の が5ケ所,2
9
0
万平方メート ルであった。またゴルフ場として使用されたり,実際にはほとんど自衛隊 の基地として使われていて,米軍が接収している意味が喪失している「目 的外使用」が2
8
ケ所,1
億3
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9
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8
万平方メートルであった代 こうした状況 から,r
全 面 返 還 が 可 能」または 「縮 小 可 能 」 と 判 断 で き る も の が , 下 に 示した4
7
ケ所,2
,4
2
9
万平方メートルであった何。 また,基地公害の発生状 況については,1
4
5
ケ所のうち3
5
.
2
%
の5
1
ケ所で騒音,電波障害,風紀の乱 れなどの苦情が訴えられていた。地元から返還要請が出ている施設は9
0
ケ 所あったが,その多くは既に返還後の土地利用計画が立てられていたω
。 全 面 返 還 が 可 能 と 思 わ れ る 施 設09
施設) 十勝太通信所,百石通信所,四川日通信所,仙台国見通信所,大島通信所,白 木通信所,大観山通信施設,依佐美通信所,輪島連絡所,六甲通信所,灰ヶ峰 通信施設,愛宕通信所,祖生通信所,仲原通信中継所,平尾通信中継所,対島 通信所,知覧通信所,オキノボルダック施設,観音崎艦船監視所 縮 小 可 能 な 施 設(
2
8
施設) 相模原住宅地区,長井住宅地区,グランドハイツ住宅地区,山手住宅地区,根 岸住宅地区,横浜海浜住宅地区,春日原住宅地区,キャンプ千歳,稚内通信施 設,稚内通信所,八戸貯油施設,柏通信所,羽村学校地区,キャンプ淵野辺, 相模原総合補給所,深谷通信所,小柴貯油施設,鶴見貯油施設,鶴見野積場, 横浜貯油施設,大和田通信所,沼津海浜訓練所,新宮水道施設,横浜貯油所, 庵崎貯油所,針尾島弾薬集積所,佐世保弾薬補給所,沖永良部通信所0
3) 公明党 『実態調査j,36-9頁。もっとも,この数字は先に示した防衛施設庁の データとは算出の仕方が異なるものである。0
4) 前掲,2
4
頁。O
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前掲, 29-31頁。。
。
前掲, 17-20頁。なお,返還後の土地利用計画としては,公園,住宅,工場, 文教施設用地への転用が最も多かった。② 意識調査 12月24日,公明党は「実態調査」に続いて「在日米軍基地周辺住民の意 識調査」の結果を公表した問。 これは全国の基地・施設のうち,無人島な どを除く145ヶ所について,周辺住民13,424人からアンケート調査を行った ものであった。米軍基地の存在については,賛成が8.4%に対して反対が 82.9%であり,賛成の理由としては「日本の安全を確保するためにかかせ な ~'J というものが49.1% と全体の約半数であった~。 次いで,
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日米安保 条約上の義務である」とする意見が28.1%を占めた。このことから, 賛成 と回答した者の77.2%が日米安保体制によって日本の平和が守られている と認識していたことが窺えた (ただし,それは全体の6.5%に過ぎない数字 である)。 一方,反対の理由としては「日本が関係のない戦争に巻き込まれたりす る危険がある」が49.4%を占め,次いで 「基地公害のために国民生活が脅 かされる」が21.6%であった冊。 また,反対の割合については,危険や公害 の少ない事務所,通信施設周辺ではやや低く,逆に飛行場,医療施設,港 湾などでは高かった。さらに同じ飛行場でも,墜落事故を経験した板付で は93.2%が反対し, 主要な飛行場7ケ所 (横田,立川,厚木,木更津,板 付, 三沢,岩国)の中で最も高かった側。 対照的に, 三沢は反対が51.2%で,他の飛行場と比べて少なく, さらに 賛成の意思表示については他の飛行場がいずれも10%未満であるのに対し て, 31.0%となっていたω
。これは三沢の経済状態と発展が基地と密接な関 間 公 明 党 (編)r
基地周辺住民の意識調査一在日米軍基地の総点検 資料その 2 J公明党, 1968年。 (78) 前掲, 7頁0 (79) 前掲。 側前掲, 26頁。ω
前掲。係にあることを住民が理解していたことに起因すると考えられる倒。 政府の反応 上記の調査結果に政府は即座に反応した。 「実態調査」が公表されるや いなや,防衛施設庁は「敬意を表するO 大いに参考になる」と述べた倒。 翌週の13日には,愛知外相が「在日米軍基地問題解決のため,これまでの 事務レベル会議から,一段上げた日米閣僚レベルにより, 日米安保協議委 員会の開催を早期に行う」旨を発表したω。また,佐藤首相は 「公明党さ んがたいへん総点検をされまして,衆議院でも申したんですが,私は熱意 と努力に敬意を表しております
ω
」と述べ,基地問題への対応を次のよう に語った。 今日,不用な土地,使われておらないもの,これは全部が全部返れると,私は かように思いませんけれども,できるだけわが国に返すように,基地のあり方 についてもうすでに交渉が始まっておりますので,こういう意味では,公明党 さんの総点検,それがーそうただいまの米軍との交渉を促進しておる,かよう に思いまして,感謝の意を込めて,今後の扱い方として,一ぺんには解決はしω
また,基地公害について74.2%が 「迷惑や被害を受けたことはない」と答え た港湾施設 (9ケ所)の周辺住民の80%以上が,その「撤去JI移転」を望んで いる。これは 「原潜寄港」に92.6%という圧倒的多数が反対していることに起 因した可能性がある。(前掲, 20頁)同様に60.1%が 「とくに基地公害を感じて いなL、」米軍住宅施設(17ケ所)で, 95%の人々がその返還・縮小を求めてい るのは, 自分たちの厳しい住宅事情に比べて米軍の住宅施設が広すぎるという 感情に起因した反発であっただろうOさらに「政府の基地対策は大いに不満だ」 と答えたのが全体の60.6%であり,補償についても48.6%の人々が不満だとして いた。(前掲, 80頁) 側 『朝日新聞J
1968年12月6日,朝刊。 倒 『朝日新聞J1968年12月13日,夕刊。 紛 「第60回国会参議院予算委員会会議 録 第l号J1968年12月16日。ないと思いますが, 引き続いてこの問題を解決するように努力してまいるつも りであります。ことに都市周辺におきましては,その不安あるいは不便はたい へんなことでございますので, この都市周辺の問題は十分に実情に即した解決 をしたい,かように私考えております紛。 続けて有田長官は次のように述べた。 政府としましては,去る九月にアメリカのほうに要請をいたしまして,その後 の状況の変化によって,そうして返還できるものは返還してほしい。また, と きと場合によっては日本の自衛隊に移管してもらったほうがいいものもあるの じゃないか。また,たまには自衛隊に移管されてそれを米軍に使用してもらう 場合もある。いろいろな場合もあるので,ひとつアメリカ側としても基地に対 して深い理解を持って検討していただきたい, こういう要請をいたしまして, アメリカ側におきましでもその問題を真剣にいま検討されているO また,わが ほうの施設庁におきましても検討を続けております。・・・・・・また公明党さんの総 点検された資料も十分検討いたしまして, そうしていま申したような考え方の 上に立ちまして,最高のレベルで一応話してみたい的。
第
4
節 再 編 計 画 の 伝 達 一 第
9
回
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実は公明党による 2つの調査結果が公表されたそのとき,米国は外務省 に対して既に大規模な基地再編案を提示していた。11月11日,ジ ョ ン ソ ン は東郷に対して米国側が作成したペーパーを手渡した。それは, 日本側か 側 前 掲。 納 前 掲。 290ら発せられた基地再編要求(第
5
回S
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に対する米国側の回答として位 置づけられるものであった。そしてこの米国側の回答に基づいて用意され たのが,1
2
月2
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日に東京で開催された第9
回SCC
であるω。SCC
には日本側から愛知外相,有国防衛庁長官,米側からジョンソン駐 日大使, マッケーン太平洋軍司令官らが出席した倒。ジョンソンは,今回 の計画の目的として「日本政府が進んで積極的な支援を行うことのできる 基地システムを構築していくこと側」とし, 日本に引き続き武器・弾薬, 給油,その他の補給に関する後方支援能力を保持する必要性,そして港湾, 飛行場,演習場を使用する作戦能力を持つことの重要性を指摘した。日本 国内で生じている基地問題については「人口過密国における米軍基地およ び施設が不可避的に引き起こす諸問題についてよく理解している」と述べ, それを解決するために「不要な基地と過剰な活動を除去することが望まし い」とした自J)。今回の計画はそのような認識に基づいたものであり,そこ から導かれる今回の結論(基地の整理・統合〉は, 日米安保に基づく米国 のコミットメントと日本側の義務が継続されるという前提に基づいている とした。 計画は9
月のSSC
で日本側から示された基地削減要求を踏まえてJCS
, 国防総省,国務省が検討を重ねた結果であった。米側の提案は大きくわけ で2つのカテゴリーに分けられた倒。 第ーが,特定の施設を完全に, ある いはその一部を日本政府に返還する用意のある3
2
施設であり,その中には (瑚 FromCINCPAC to General Wheeler,“Security Consultative Committee Meeting, 23 December 1968 in Tokyo",December 24, 1968, DNSA.
側 Airgramfrom American Embassy Tokyo to Department of State,“Ninth Meeting of Security Consultative Committee,"January 17, 1969, DNSA. 側 Enclosure1,“Remarks by Ambassador Johnson,"ibid, p.1.
(
9)1 Ibid. (9~ Ibid., p.2.
返還の条件,及び必要時の使用権に関する交渉が必要なものが多く含まれ るとされた。第二が,米国側が引き続き必要とする施設であるが,条件に よっては日本側の費用負担で, 日本国内の他の場所に移転し得る 22施設で あったω。すなわち,米国は計54施設を返還もしくは移転可能性のある施 設と位置付けたのであるO これは当時,沖縄を除く日本本土に所在した米 軍施設の約3分の lにあたるものであり,そこには 9月の
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で日本側が 求めた24施設のうち16施設が含まれていた。 ジョンソンは日本で生じている基地問題について「我々は良いゲストと して振る舞いたいと考えているし, 日本には友好的かっ親切な接受国とし て行動してもらいたt,。我々は米軍施設がもたらす危険,騒音,そしてそ の他の障害を最小化するために最善を尽くすつもりであるω
」と述べた。 具体的に,彼は首都圏における航空機の騒音問題に触れ,夜間の飛行制限, 横田から相模原への飛行ルートの変更,赤坂プレスセンターの使用制限, 市ヶ谷のへリパッドの使用中止について検討しているとした。そして,と りわけ板付については1
6
9
年6
月中旬までに,板付の現在のレベルでの活 動を大幅に縮小するO 板付基地は最低限の補給・通信施設に紛J
,すなわち 前年1
月のプエブロ号事件以前の状態に戻すと約束した的。 これら米国側の提案に対して,有国長官は歓迎の意を表すと同時に戸惑 側 ジョンソンの説明においてこの数字は21とされているが, 日本側に手渡され たリストでは22となっている。なお,代替施設の建設にかかる費用については, 日米地位協定第24条l項が基地内の施設建設費用は米軍の負担と定めていたた め, 日本側が負担する場合には, 日本側の同意が不可欠であった。 ( 94) Ibid., p.3. ( 95) Ibid., pp.3-4. 側 なお,有田長官はs
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後の記者会見で 「この米側の措置は板付基地の移転問 題とは無関係であるが, これによって板付基地の使用度は少なくなり,住民感 情も変わってくると思うので,心象としては板付基地の移転は必要なくなるの ではないか J と述べた。(~朝日新聞Jl 1968年12月23日,夕刊)いもみせた。彼は「米側の計画は大規模すぎる」とし,
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これが最終的な 計画でないことを願う」と述べた例。また,移転を実現させるには「時間, 費用,代替地の問題が存在する」と指摘し,I
もしこの提案がすべて国民 の知るところになれば,混乱と困惑を引き起こすことになる」との危倶も 表したへそのため,彼はリストから移転検討対象となっている施設を削 除して公表すること,そして移転に関する提案は今後の検討課題として秘 密裏に扱い,準備が完全に整ってから公表することを提案した。そしてそ のような準備については, 日米合同委員会が担当することに同意し,同委 員会は半年後に報告書を提出するよう準備すべきと提案した倒。 それについてジョンソンは,まずリストの問題については全ての施設を 公表する必要はないことに同意した。その一方で「基地が返還されること が明らかになることによって, 日本政府は再編に関する予算を獲得するの が容易になるのではな L可かとの期待を持っている伽」 とも付け加えた。次 いで,計画が大規模すぎるとの懸念については,I
この計画が不変のもの とは位置づけていない」とした上で,I
我々が住む世界は常に変化するも のであり,我々の要求も変わるかもしれない」と述べるにとどめた(lmo なお,s
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後に公表された再編リストが次であるが,対象となった54施 設のうち, 16施設が非公表とされた(下線部分)ω。また,懸案となってい 側 “NinthMeeting ofSecurity ConsultativeCommittee,"p.3. (9~ Ibid. (99) Ibid. Q()It Ibid. (WO Ibid.(lO~ Airgram from American Embassy Tokyo toDepartment of State,“Ninth Meeting of Security Consultative Committee,"January 17, 1969, Enclosure
3,“List of Projected US Facilityand Area Adjustments" (石井修,我部政 明,宮里政玄監修「アメリカ合衆国対日政策文書集成第13期第7巻』柏書房,
2003年, 133-7頁。)公表されたリストについては『朝日新聞J1968年12月23日,
たキャンプ王子,水戸対地射爆場,板付飛行場の3施設については「既存 施設または新規提供施設への移転が計画されているもの」に分類されてい たにもかかわらず,公開されたリストでは,単に「移転を検討中」とされ た。これは代替地問題に揺れる地元の反発を考慮、してのことと考えられるO 防衛施設庁は公表した41ヶ所のうち, 一部または全部が地元へ返還される ことが確実な基地として10ヶ所を挙げたω。例えば,太田小泉飛行場は69 年3月までに返還され,広弾薬庫の一部は69年秋までに返還が実現する可 能性があるとされた。また,調布飛行場,大島通信所,観音崎艦船監視所 の一部,そして横浜兵員クラブ,向後崎艦船監視所の一部,支第湖水上訓 練場,根岸競馬場地区,多摩弾薬庫の一部の8ケ所も「受け入れ体制が整 い次第,順次地元に返す」とされた。 全面または部分返還 1)(自衛隊への返還も含む)名寄演習場(北海道),2 krn)太田小泉飛行場(群 馬),3 krn)座間小銃射撃場 (神奈川),4 km)桜谷小銃射撃場(福岡),5 krn) 大島通信所(東京),6 km)観音崎幹線監視所(神奈川),7 km)イナンバ島対 地射爆撃場(東京),8 km)横浜兵員クラブ (神奈川),9 km)横須賀海軍埠頭 (神奈川,) 10)向後崎艦船監視所 (長崎),11)広弾薬庫(広島)=一部返還, 12)キャンプ千歳補助施設 (北海道)=一地区の一部は即時返還,残りは通信施 設の移転後返還。二地区の自衛隊使用区域は即時返還,残りは3年後までに返還。 13)支努湖水上訓練場 (北海道),14)長浜小銃射撃場 (広島)=共同使用, 15) 多摩弾薬庫 (東京)=一部返還, 16)早岐小銃射撃場 (長崎),17)日出生台・十 文字原演習場 (大分),18)鳥島対地射爆場 (長 崎),19)キャンプ朝霞南地区 (埼玉・東京)=一部または全部返還, 20)調布飛行場 (東京),21)根岸競馬場 地区 (神奈川)=海軍住宅管理事務所の移転が条件, 22)下北試験場 (青森) 米軍の継続使用権または他の適当な施設についての取り決めを条件として日本政 府に返還 23)呉はしけ停泊地区 (広島)二本施設あるいは代わりの施設の常時使用が条 件, 24)神戸第六突堤 (兵庫)二本施設あるいは代わりの施設を無償で使用する のが条件, 25)呉第六突堤(広島) =本施設あるいは呉地区の代わりの施設の継 続的使用が条件, 26)木更津飛行場=米側の不可欠な任務のための継続使用が条 側 「朝日新聞J1968年12月24日,朝刊。 294