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「経済学と未練なく一生のお別れ」をした河上肇と

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「経済学と未練なく一生のお別れ」をした河上肇と

『国富論』の行方 : 関西学院への「寄贈」をめぐ って (2)

著者 井上 ?智

雑誌名 経済学論究

巻 75

号 4

ページ 69‑103

発行年 2022‑03‑10

URL http://hdl.handle.net/10236/00030098

(2)

「経済学と未練なく一生のお別れ」  

をした河上肇と『国富論』の行方

関西学院への「寄贈」をめぐって (2)

Kawakami Hajime’s Sale of a First-Edition Copy of Wealth of Nations to Kwansei Gakuin University

Economist, Communist and a man of letters

井 上 琢 智  

KAWAKAMI Hajime (1879-1946), an avid reader of literature as a young man, studied at Tokyo Imperial University from 1896 to 1902, specializing in political science in the faculty of law and economics in graduate school. He was appointed to the faculty of Kyoto Imperial University in 1908, where at first his research theme was the modern economics of Irving Fisher and others. He gradually came to focus on classical political economy as represented by Adam Smith’s Wealth of Nations. Kawakami also studied Karl Marx’s Das Kapital and other works of Marxism political economy. Unsatisfied by academic research, however, he retired from Kyoto Imperial University in 1928 and became more seriously involved in political activism (as seen in his change of political affiliation from the Labor-Farmer Party to the Communist Party). When he was arrested in 1933, he declared he would leave the political movement. Although expressing his hope to engage in purely theoretical research on economics including a complete Japanese translation of Das Kapital, after release from prison in 1937 he made a “no-regrets farewell to economics forever” in 1939. He presented 670 books and other publications on Marxism, Das Kapital included, to the Probation Office of the Ministry of Justice in 1941, and he also sold off his other economics documents. At that time (1942) he sold a first-edition copy of the Wealth of Nations to Kwansei Gakuin University. He purchased books on classical Chinese poetry (kanshi) and other publications with his own funds and led the life of a man of letters, composing kanshi and practicing calligraphy. JUGAKU Bunsh¯o (1900-1992), scholar of English literature, respected Kawakami as mentor

(3)

in his own life and mediated the sale of the Wealth of Nations to the university on his behalf. Jugaku said that this change in Kawakami’s life was not an abandonment of communism (tenko) but what could be called “eko,” or “conversion” — as Jugaku put in English — to the way of life pursued by a seeker of Truth.

Takutoshi Inoue

   JEL : B19, B31, N00

キーワード:河上肇、寿岳文章、関西学院大学、『資本論』、『国富論』(初版)

Keywords:Hajime Kawakami, Bunsh¯o Jugaku, Kwansei Gakuin University, Das Kapital (Kautsky’s edition),Wealth of Nations (1th edi- tion)

目次

Ⅰ . はじめに

Ⅱ . 河上と『資本論』と『国富論』(初版)

  1. 『資本論』について   2. 『国富論』 (初版)について

Ⅲ . 新たなる旅 ─マルクス学者から実際運動家へ─

Ⅳ . 河上肇 ─経済学者から文人へ─

Ⅴ . 『国富論』の関西学院大学への「寄附」(以下、本誌第 4 号掲載)

Ⅵ . おわりに

V. 『国富論』の関西学院大学への「寄附」

1939 年 7 月 5 日、寿岳文章は「有栖川記念学術奨励金

29)

の高松宮邸御前 講義を終え、翌 6 日に氷川町の河上肇を訪ね獄中の話などを聞き、人間『河上 博士』に深い感銘を受けている」

30)

。このときのことを河上は「晩年の日記」

29)「有栖川宮奨学資金申請書類写」(重山文庫<新村出記念財団>所蔵)によれば、1937年4月 に申請され、「本州・四国・九州ニ現存スル手漉紙業ノ地理的調査」を、調査者寿岳文章として、

帝国学士院会員新村出の名で申請している(寿岳文章 人と仕事展 実行委員会編『寿岳文章 人 と仕事 展』2021年3月、33頁)。

30) 高木博志「戦争前夜の寿岳文章」(寿岳文章 人と仕事展 実行委員会編前掲書、26-27頁)。なお、

(4)

に書いている。「京都市外向日村の寿岳文章氏来る。同氏は以前亡児政男が英 語の家庭教師をお頼みしたる人なり。政男との関聯にて時折思ひ出しゐたる 人なれば、なつかしき気持ちにて会ふ」 (㉓ 154 ) 。これを契機に、河上と寿岳 は、交流を再開する。 7 月 19 日、 「寿岳文章君より自著『書物』など送り来た る」 (㉓ 156 ) 。寿岳は 7 月 26 日、岡墨光堂で唐物の紙( 3 円を 15 枚)を購入 し、出獄した河上肇に送る

31)

。それを受け取った 7 月 28 日、 「京都寿岳文章 氏より古唐紙十五枚送り来たる。京都石田憲次

32)

氏より久振りに細書来たる。

· · · 」(㉓ 158 )。

文人への道を歩んでいた河上ではあるが、 8 月 1 日、 『資本主義経済学の史 的発展』への櫛田民蔵の批判を読んで「マルクス主義者として自己を完成せ んと欲せし発奮の跡、顧みて感少なからず」 (㉓ 158-59 )と回顧している。 8

月 17 日、 「 · · · 寿岳文章氏 · · · 等に宛て昨日の書〔「墨を磨り紙を展べて書を

この引用文は「紙漉き日記2」(「寿岳文庫資料」兵庫県多可町<和紙博物館 寿岳文庫>所蔵資 料)に記されており、戦後、「氷川時代の河上先生」は「よき人を語る」(『寿岳文章・しづ著作集 3』春秋社。1970、257-68頁)に再録されている。その内容は「日記の内容をほとんどそのま

· · ·書き移す」ものであり、「人間としての先生を伝へてゐるふしが無いでもあるまい」(258

頁)と記している。

31) これは「寿岳文章日記」(向日庵資料)同日の記述による(高木博志「寿岳文章と向日庵本の時 代」「寿岳文章 人と仕事 展」<2021年1月23日〜3月21日、向日市文化資料館開催>の 最終日に行われた講演会で配布されたレジメ11頁による)。

 なお、この「日記」については1914年、1921年から28年(至誠堂、建設社刊行縦書き日 記帳)、1930・32年、1935年から43年まで(研究社刊横書き日記帳)の存在が確認されてお り、寿岳の数多くの執筆活動の基となっている(寿岳文章 人と仕事展 実行委員会編前掲書、6 頁)。また、この「日記」に加えて「紙漉き日記」(全二冊)と題された調査日記があり(寿岳文 庫資料所蔵)、それを「整理し、199枚の写真と134種類の紙見本を貼り込んだ寿岳文章・静子

『紙漉村日記』(1943年9月造、京都向日版:向日庵資料)がある(寿岳文章 人と仕事展 実行 委員会編前掲書、35頁)。

32) 石田憲次(1890-1979)は、1908年、東京外国語学校英語科へ進学し、卒業後、佐世保中学校 で一年余教員生活をおくったのち、1913年9月に京都帝国大学文科大学選科(英文学専攻)に 入学し、15年9月、高等学校学力試験に合格し、選科から正式に京都帝国大学文科大学へ入学 した。京都帝国大学では、上田敏、E. B.クラークについて英文学を学んだ。「石田先生の推挙

で、· · ·その〔同郷の大先輩河上肇〕長男正男君(京一中では桑原武夫氏などと同級)の家庭教

師」となった寿岳文章によれば、「どう生きればよいかに思い悩んで」いた在学中の石田は「学業 を廃し、これから放浪の旅」に出るといって河上肇に相談をもちかけ、河上は翻意につとめたと いう(『全集』には、石田関係書簡が21通収録されている<別巻「書簡集人名索引」55頁>)。

(5)

試む」〕を発送」 (㉓ 161 )し、 10 19 日、 「寿岳文章君より来信あり。書中 に ○百四十日胸と頭に氷あて秋を待ちわびて逝きしにわが子 の歌を書き入 れあり、これ亡児政男の永眠せし当座氏〔寿岳文章〕の画帖に書き誌したるも のならむ」

33)

(㉓ 171 ) 。 10 月 20 日、 「京都寿岳氏及び作田〔荘一〕氏より前 後して松茸送り来たる」 (㉓ 172 )、 12 月 23 日、 「京都寿岳文章氏より菜の花 の漬物「黄金漬」といふを送り来たる。甚だ美味なり」 (㉓ 182 )と旧友との 親交を温めた。

1940 (昭和 15 )年 1 月 28 日、 「京大の谷口〔吉彦〕君来訪。ラスキン文庫

34)

に関する用件なり、御木本隆三氏に一書を発す。 」 (㉓ 192 ) 、 2 月 7 日、 「昨夜 ロシア革命史を読み続けて興に入る」 (㉓ 194 )。 2 19 日、河上は「ロンド ン土産の指輪など買上運動のため持ち出す」 (㉓ 197 )などする一方、 10 月 23

33) この歌は、『仙人掌帖』では「百四十日胸と頭に氷おき秋を待ちわびて逝きにし我子」となってい る。この『仙人掌帖』は京都の鳩居堂で求めた折帖である。河上肇の子息政男を通じて染筆を求 めたものから始まり、1926年から54年までの間に、京大の恩師新村出、狩野直喜(向日町在 住)、石田憲次、英文学者市河三喜、精神科医・美術評論家式場隆三郎、民芸の柳宗悦、河井寛 次郎など日本人12名、手漉き和紙研究家ダード・ハンター、詩人で“A Song for Kwansei”

の作詞者エドマンド・ブランデン、外交官で駐日英国大使ジョン・ピルチャー、陶芸家バーナー ド・リーチなど外国人11名の書画が画かれている(寿岳文章 人と仕事展 実行委員会編前掲書、

40頁)。

34) 御木本隆三(1893-1971)は真珠王として知られる御木本幸吉の長男として生まれ、第一高等学 校の時にラスキンの思想にふれ、当時、ヒューマニズムの立場から経済思想の探求に情熱を燃や し、ラスキンにも深い関心を持つようになった。東京帝国大学文科に学ぶも、1914年に、青年 学徒に大きな影響を与えていた河上肇教授を師とすべく、京都帝国大学に入学。師の奨めもあっ て、ラスキン研究に没入していった。1920年に渡英し、ケンブリッジ大学、オックスフォード 大学に学ぶ。1924年、ロンドンのリージェントストリートに御木本真珠の小売店が開設され、

店長を務める。1925年、帰朝する。その間、ロンドンやコニストン湖畔など、ラスキンの故地 を訪れ、ラスキンの親戚、友人とも会い、関係書籍の蒐集にも努めた。この時以降29年までの 10年間に、しばしば渡英し、ラスキン遺墨・遺稿などの入手に努めもした。隆三は1931年に ラスキン協会を設立、ラスキン協会雑誌を刊行し、34年には東京銀座に「ラスキン文庫」を開 設した(http://jruskin.la.coocan.jp/foundation.html)。

 なお、河上は「明治神宮へ野球〔河上は野球の大のフアンであった<《資料紹介》「河上肇野 球観戦の資料二点」「月報」26㉖、野口務「“野球狂”河上肇先生と職業野球<上・下>」「月 報」30続⑤、31続③〕を見にいつて、一番安い大衆的にゐたところを偶然御木本隆三君に見つ

けられ· · · 同君がそれ以来切符を送つてくれる」と言ったという(寿岳文章前掲再録書「氷川

時代の河上先生」264-65頁)。

(6)

日、河上を気遣うかのように「松茸を買い受〔け〕 · · · 石田憲次、寿岳文章氏

· · · 到来 · · · (㉓ 242 )。

1941 (昭和 16 )年に入ってもこのような友人・旧友などとの私的な交流はさ らに続く。 3 月 15 日、 「石田憲次君よりカーライル『過去及現在』の訳本(岩 波文庫新刊)を送り来たる」 (㉓ 271 ) 、 5 月 11 日、 「寿岳文章君より黄金漬を 送り来たる」 (㉓ 277 ) 。そのなかで、 10 月 12 日の寿岳宛書簡で河上は「これ まで預かつてゐた孫〔長女芳子の孫<別巻 261 >〕が間もなく上海の方へ参り ますので、跡は老人夫婦二人になり、さぞ寂しくなるだろうと、京都の娘〔長 女シヅ〕が心配してくれ、京都の方へ引越せと頻りに勧めますので、私達もそ の気になつて居ますが、さて京都の方も中々家がないらしく、恐らく年内に然 るべき借家を見付ける事も困難かと存じ居りますが、万に一つ、大兄の処でお 心当たりでも出来ました際には、吉田二本松町五七、羽村二喜男まで電話でな りとお知らして頂きたく御願申上げます」 (㉗ 90-91 )と京都への転居の意志 を河上は寿岳に漏らし、転居先を探すように依頼した。 10 月 12 日、「京都の 寿岳氏より茶漬うなぎ来る」 (㉓ 283 ) 。寿岳が自からの訳本を河上に贈ったと ころ 11 月 1 日付け寿岳文章宛書簡で「御近業『トルストイ』御恵贈被下難有 拝受いたしました。私も青年時代に宗教論の感化を受けた一人であり、貴訳は 興味をもつて拝読致し得ることと楽み居ります」(㉗ 102 )。

このような京都への引越を前に、河上は 11 月 20 日に「不用書を売り払ふ べく図書を整理」 (㉓ 286 )し、 22 日にも「古本売る、売上百円、鴎外全集 · · · など」 (㉓ 287 ) 。 12 月 5 日には寿岳が贈った邦訳を「芳子へ寿岳文章氏訳『ト ルストイ』」 (㉓ 289 )送った。このような準備を終えて、 「 12 月 20 日 · · · 後一時東京駅発のかもめ号」に乗り、 「夜 8 時 40 分京都駅に着」 (㉓ 292 )き、

長女宅(吉田二本松町 57 、羽村二喜男)方に身を寄せ(㉗ 110 ) 、 12 月 26 日 には「左京区聖護院中町八番地の借家」に入った(別巻、 262 ) 。 12 月 29 日の 寿岳文章宛書簡で「今回表記の処へト居いましたから、御通知申し上げます。

· · · 御恵投のトルストイは在京中拝読相了え、上海の娘〔芳子、大崎署に検挙

< 1933 年 9 月 10 日、釈放は同年 11 月 30 日、別巻 254-55 >〕の方へ送つて

やりました。大変おもしろく拝見した次第であります」(㉗ 114

(7)

1942 (昭和 17 )年に入っても、 1 13 日、 「寿岳文章君、菓子及び近刊の 自著(日本紙に関する著述〔 『和紙風土記』 〕 )を持ちて来訪さる」 (㉓ 301 ) 、 1 月 26 日、 「福井〔孝治〕君、菓子一箱をさげて来訪さる。記念のため旧蔵書二 部四冊を呈す」 (㉓ 303 ) 。謹呈されたこの蔵書の一冊が『資本論』の「ボロボ ロになるまで使つた」カウツキー版であった。 1 月 28 日、 「寿岳君の新著『和 紙風土記』を読む。之はなかなかの好著なり」 (㉓ 303 ) 。翌 29 日付け寿岳宛 書簡で「頂戴 · · · 御著作〔『和紙風土記』 1941 年 11 月 20 日付けの題言は新 村出〕は僅か一頁の御記述にも少からぬ時間と労力をお費しになつて居られる ものと拝察いたし · · · 近来こんなに興味ゆたかな新書に接したことはありませ

ん。 · · · 巻頭にある新村博士の一文ならびに貴序も、ものしづかに、ゆかしく

拝読するを得、洵に心地よろしく存じました。 · · · 蔵書を売りたくと、ついう つかりお話いたしたため、少からず御配慮を煩はし、恐縮に存じました。もし 関西大学〔関西学院の誤記: 『全集』編者注〕にてお買ひ取り下さるならば、も とより価の大小を問ふこゝろはござりませぬゆゑ、どうにでもよろしき様にお 願ひ致し度存じますが、一応は古本店などへお問合せの労をおとり下さること と存じますゆゑ、委細の事は 只今手許にありませぬため 追て御報申上 げます。スミスもヒュームも初版本だつたと記憶いたしますが、一応実物につ いて調べた上で、御通知申上げますゆゑ、それまで御放念願ひ上げます」 (㉗ 129

35)

。この書面にある「蔵書を売るたくと、ついうつかりお話しした」時期 は、おそらく「 1 月 13 日」の寿岳の河上邸への訪問のときであろう。その「蔵 書を売りたく」との意思があって、福井孝治への「ボロボロになるまで使つ」

て、もはや売れないカウツキー版の献呈となったのであろう。 『資本論』を手 放し、さらには『国富論』をも手放しての「経済学者から文人」河上の誕生で あった。

35) 関西学院のこの頃の図書予算については、その第28回図書館評議員会(1941年12月11 日)の記録を見ると、文学系の教員に関しては、法文学部の志賀勝教授は、「Mencken, H, L., Prejudices First Series他16冊」を95.65円で、同学部の竹友藻風教授は、「Carlyles, A.,New Letters of Thomas Carlyle他4冊」を95.00円で、〔専門学校〕文学部の大月 直治教授は、「Dewey,Reconstruction in Philosophy 他2冊」を23.70円希望図書とし て購入を決めている(『関西学院大学図書館史1889年〜2012年』2014、516頁)。

(8)

この河上の『国富論』売却の意思を聞いた寿岳は、当時大阪商科大学にい た堀経夫

36)

を訪ね、その研究会に参加し、 「昭和 10 年頃」からスミス研究を 開始していた大道安次郎にこのことを話した。その事情を大道は以下のように 語っている。「河上肇博士所蔵のスミスの『国富論』の初版本を図書館で購入 してもらったことである。河上さんと親しかった寿岳さんから、当時スミス研 究に打ち込んでいた私に、その蔵書を購入してはどうかとのお話があった。当 時としてはかなりの額ではあったが、多少無理をすればなんとかなったであろ うが、私すべきでないと考えて図書館に購入してもらった。図書館所蔵の超貴 重書のひとつに、私なりの役割を演じたとひそかに思っている」

37)

1942 年 2 月 1 日、 「寿岳氏の『和紙風土記』を読み了る。これは中々よき 著作なり」 (㉓ 305 )と書いた後の 2 月 6 日、河上は丁寧に寿岳宛の書簡で寄

36) 堀経夫(1896-1981)は、1917年7月京都帝国大学法科大学政治経済学科に入学し、19年新 設された経済学部に編入し、河上肇の影響で経済学史に興味を感じ、翌年大学院に進学し、田 島錦治、とりわけ河上の指導のもとでリカードを研究した。留学後、東北帝国大学教授となり、

『リカアドウの価値論及び其の批判史』(1929)で京大から同年経済学博士となった。1932年、

大阪商科大学教授となり、1934年新設の関西学院大学商経学部、法文学部講師をつとめ、1936 年には商経学部教授を兼任した。堀所蔵の手帳、遺稿などが関西学院史編纂室に寄贈されてい る。なお、御影高等師範学校校長であった父堀卓次郎は、1927年に関西学院高等商業学部の財 政学講師を務めている。卓次郎・経夫の共著に『経済学綱要』(1936)がある(「年譜」および

「著作目録」堀経夫博士喜寿記念事業委員会編前掲書『経済学の研究と教育の五十年』1973、非 売品、709-39頁)。

37) 大道安次郎「図書館と私−その思い出−」『時計台』no.1、1971年5月、4頁)。大道は、大阪 商科大学で持たれていた堀の主催する「経済古典研究会」で最初の報告をしたのは、1940年1 月23日であり、その報告のタイトルは「スミスに於ける経済学の生成発展」であり、戦後、関 西学院大学で持たれた「堀研究会」でも「スミス学説の独逸への移入」(1947年1月19日)、

「マルクスとスミス」(1947年4月20日)などを報告している(前掲書『経済学の研究と教 育の五十年』745-47頁)。なお、大道には『スミス経済学の生成と發展』(日本評論社、1940、

1948)、『スミス経済学の系譜』(実業之日本社、1947、早稲田大学学位論文)、アダム・スミス 著、大道安次郎訳『国富論の草稿:その他』(創元社、1948)らがある。大道については、倉田 和四生「大道安次郎博士の人と業績」(『関西学院社会学部紀要』第55号、1982年7月)、同誌

「関西学院における社会学の歩み(その2)─大正15年から昭和23年頃まで─」(第59号、

1989年3月)がある。大道は、関西学院就職の経緯について、当時関西学院に勤務(1921-26)

していた新明正道が神崎驥一高商部長に東北帝大への赴任挨拶に行ったとき、神崎が関西学院高 商部での「教え子」の中から関西学院高商教員の推薦を求めたところ大道を推薦したと語ってい る(「生き学び、そして教える探求者の声 大道安次郎『時代を先取りして、社会学の立場から学 問うることを続けています』」『クレセント』第18号<第9巻第1号、1985、101-06頁>)。

(9)

贈した『和紙風土記』にある誤植等を指摘したのち、 「尚お話し申上げた古本 を調べて見ましたが、一は Essays & Treatise on Several Subjects, by David Hume, New Ed. MDCCXCIII. で  Dr. A. Weyl のやすつぽい蔵本印があ り、私はそれへ『櫛田民蔵君洋行の土産の一、一九二三年七月 河上肇』と書 入れてゐます。古本屋へうるなら、この文字を削るつもりですが、大学で買つ て下さるなら、そのまゝにしておきたいと思ひます。三冊本です。スミスのは この倍大で、皮の表紙、二冊本、 An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations, by Adam Smith, MDCCLXXVI. の初版本で、 John Somers, Lord Some

38)

の名のある蔵書票が貼つてあり、私は「河上肇蔵」と書 き入れて居ります。先便〔 1942 1 29 日〕にも申上ました通り、大学の蔵 本となるのなら私は価を問ひませぬゆゑ、どうぞよろしきやう御取計被下度、

只お手数のみ恐縮に存じ居ります。先は右まで 不具」 (㉗ 130-31 )と書いた。

1942 年 2 月 8 日、 「午後寿岳文章君夫妻来訪さる。スミス国富論を 関西〔学

マ マ

院〕大学で買うてやると持ちかへらる」

39)

(㉓ 307 )と書いた。 2 月 10 日付寿 岳宛葉書で「老生蔵書の件に関しては思ひ掛けもなく、種々御高配を辱ういた し、是亦難有御礼申上げます。ところでヒュームの方は持ち出すほどの本でも ないことが分かりましたから、大学の方にはスミスだけの話にして頂きたく、

38) この河上肇旧蔵の『国富論』初版(1776)に貼付された蔵書票にある“John Somers, Lord

Some”を特定化することは困難である。もしも、彼がイギリスの弁護士・政治家で、名誉革命

に際して庶民院に入り、ホイッグの指導者となり「権利章典」の起草委員長、法務長官、大法官 を務めて男爵となり、イングランドとスコットランドの合同に尽力し、王立協会会長(第11代、

後任がニュートン)を務めた初代サマーズ男爵であるとすると彼の死去が1716年(1651年生 れ)であるため、通常はこの初代サマーズとは考えにくい(『岩波 西洋人名大辞典』1098-99 頁)。また、彼は独身で子どもがないためサマーズ男爵位は彼一代で消滅したが、姉妹メアリー はチャールズ・コックスと結婚、1784年に2人の孫である大甥のチャールズ・コックス(John Somers Cocks, 2nd Baron Somers (1760-1841) (created Earl Somers in 1821)が新 設の形でサマーズ男爵に叙せられた(友清理士『スペイン継承戦争 マールバラ公戦記とイギリ ス・ハノーヴァー朝誕生史』彩流社、2007、286-88頁、385-90頁。ただし筆者未読である)。 この第二代サマーズの可能性は否定できない。このご指摘は、甲南大学名誉教授中島俊郎氏より 頂戴した。記して謝意を表します。

39) 寿岳文章の「日記」(1942年2月8日)には、「Smithの富国論、Humeの論集、あづかつて かへる」と書いている(向日庵資料)。なお、これら「向日庵資料」の利用をお認めいただいた 現所有者田中弘氏、それら資料を整理されている向日市文化資料館に記して謝意を表します。

(10)

ヒュームは大兄もし御笑納下さらば、 · · · 生前の形見のつもりで大兄に拝呈致 度、これは故人〔櫛田民蔵〕から貰つたものですから、知らぬ他人の手にわた るより、さうお願出来れば洵に本懐に存じます。もし大兄が只で御取り下さら ぬなら、この機会に私は 関大〔関西学院〕の方へ『寄附』といふことに致度」

マ マ 40)

(㉗ 132 )と書いた。

195

2

3 (昭和 17 )年 2 月 18 日夜、 『国富論』を手放した、自分の蔵書とそ の処分について、河上は以下のように回顧した。 「私の蔵書は、多年放浪の間 に、大半すでに散逸してしまつた。

〔わずか〕

纔 に残つてゐたものも、価値あるもの は左翼文献に属する故を以て、昨年その筋の命により大小取りまぜ七百冊に近 いものを、官庫に納めてしまひ、今では言はば焼け残り本がいくらか残つてゐ るだけだが、嘗て一命を懸けた学問も完全に抛棄してしまはねばならなくなつ た今の身にとつては、それも最早や用なきものゆゑ、昨年末、満十二年目に再 び京都に帰つた私は、之を売りて漢詩本にかへ、聊か残年に餞せんことを思ひ 立つたところ、偶々寿岳兄の配慮を煩はすことありし因に、取り出だせし此の 書のみは、之を学兄〔寿岳文章〕の恵存に浴せしむることとなした。私は自分 の著書ですら、古いものは最早や手許に残して居らず、新聞雑誌に公にしたも のは、大半記憶にも存して居ないほど、保存力に乏しい性分であるから、この 本も友人の温き手に渡つた方が遙にその仕合わせであることを信じつつ、別れ に臨み、

〔しばら〕

姑 く以上のことを書き誌して、この余白に貼り付ける。 河上肇 識」

41)

(㉑ 533-34 )。

40) 寿岳文章の「日記」(1942年2月11日)には、「河上先生からの便りで、Humeの論集を小 生に下さる由。」とある。同じく「日記」(2月24日)には「きのふ野田君がおくりこせし酒の かすと共々河上先生に届ける。そのときHumeの論集を余にゆづる変更· · ·」とある。

41) 河上が京都へ転居してから頻繁に往来・書簡の遣り取りをしていた寿岳はこれらの事情を以下の ように書いている。「手元に残る唯一の稀覯書ともいふ『国富論』初版─博士の学問的生涯には、

恐らく『資本論』に次いで思ひ出の深いその書物を売つて、詩書に換へようと思ひたたれた。京 都移住早々の事とである。相談をうけた私は、勤めている学校に事情を話して、図書館に寄附し ていただき、代金に相当するものを感謝の微意としてさしあげる形式を踏んだ· · · スミスを手放 された時、後に残る今一つの古書、1793年版の、『ヒューム論集』3冊を記念にとて私に贈られ た〔他に1冊を添えて:㉑534。なお、『全集』では「識語」として分類されており、その全文 が532-534頁にも掲載されている〕。各ママ版 の見返しに、『櫛田民蔵君洋行の土産の一、1923年 7月末受』と書かれてあり· · ·」(寿岳文章『河上肇博士のこと』アテネ文庫2<弘文堂、1948

>40-46頁。なお、「よき人を語る」『寿岳文章・しづ著作集3』、春秋社、1970、235-40頁)。

(11)

このような経緯を踏まえ、関西学院大学図書館は河上肇蔵の『国富論』の 受入について正式に検討を開始した。 1942 年 2 月 23 日開催の第 29 回図書館 評議会の記録によれば、専門部「文学部寿岳教授の斡旋により、河上肇旧蔵の Smith, Adams 〔 sic. 〕 Wealth of Nations 1776 (初版)入手なし得る見込みに つき右代金 700 円を商経学部及高商の教授割当費中より関係教授の了解を得 て支出を乞い、図書館に於て残余を負担して調達する案について武藤司書

42)

より提案あり。購入の方針については異議なく可決し代金負担の方法に就きて は更に関係部長と協議の上決定することとなす」 。翌日、 24 日、この決定を踏 まえてか、「午後、寿岳君、洋菓子及び酒かすを持ちて来訪さる。夕食にかす 汁を作つて貰う、味頗る美」(㉓ 312 )。

さらに、その分担支弁については「商経学部 150 円、高等商業学校 150 円、

予科 30 円、消費組合

43)

寄付金 170 円、 〔図書館預かり金〕森本文庫寄付金 200 円より支弁せること」と報告したように、河上肇旧蔵の『国富論』の購入は学 生を含む社会科学系の関連学部の協力の成果であった

44)

1942 年 3 月 1 日付、寿岳宛書簡で河上は「 · · · 御礼相怠り居るうち、お手 紙拝受、御来示の次第一々拝承、種々御高配を辱ういたし、之亦感謝の至に存

42) 武藤誠(1907-95)は、兵庫県立第一神戸中学校、松山高等学校を経て、1930年、京都帝国大学 文学部史学科(国史専攻)を卒業、大学院に進み、32年、関西学院大学予科教授(日本史・東 洋史)となった。39年4月から43年3月まで予科教授が第四代司書を兼務した(前掲書『関 西学院大学図書館史1889年〜2012年』580頁)。その間、関西学院専門学校政経科、高等商 業学部、短期大学の教授を歴任し、57年、文学部教授(史学科)に就任。76年3月、定年で 退職、黒川古文化研究所所長に就任した。『誠の人 武藤誠先生追悼録』(黒川古文化研究所、平 成8年4月)がある。

43) 1912年6月、高等学部商科の教員として赴任(1912年3月着任)した「木村〔禎橘〕の熱心 な勧めで、商業実務も兼ねて商科会(後の学生会)の分会の活動として〔学用品や簡単な生活用 品を扱う〕『消費組合』が「〔高等学部〕開校翌年1913(大正2)年6月8日に学院総務会ス クール・カウンシルの承認を受けて学生による自主運営で始まり、1917(大正6)年6月学院 に譲渡された」(『関西学院百年史』通史編Ⅰ、1997、358頁)。当初の資本金は100円であっ たが、1914年末には資本金780円、積立金200円に達していた(『関西学院 高等商業学部 二十年史』1931、20頁)。

44) 6月18日開催の第30回の記録(前掲書『関西学院大学図書館史1889年〜2012年』33、518 頁)。なお、同書の「図書館運営会議」記録(1941年2月23日)によれば、1941年度図書全 予算・決算は4,000円(支出4,016.5円)で、古本予算500.00円(支出477.10円)、特別 図書予算500.00円(支出499.85円)であった(518頁)。

(12)

じます。かねがね申上げました通り、大学から御来示のような大金を頂くのは 心苦しく存じ、そのまゝ頂いてよいものかと暫く迷ひましたが、之は皆さんの 御厚意と存じますゆゑ、有がたく頂戴致すことに決心いたしました。只金額が 多きに過ぎるので、私の気ずましのため、何かもつと『寄附』するものがない かと探して見ましたが、十数年放置した旧蔵書のこととて、どんなものがどこ にあるやらよくは分からず、それに元来珍本を寄せなかつた小生のこととて、

お目にかけるやうなものも見付かりませんが、纔に左記の数本を取出して見 ました。 1. W. Godwin, 〔 An 〕 Enquiry concerning Political Justice, 2nd ed. 1796, 2 vols. · · · 2. Lockhart, Notes on the Life 〔 times 〕 and Relics of Adam Smith. これは私が筆者したもので · · · 公刊されたものではないので、

大学にお納め願つても差支あるまいかご存じ、スミスに関係あるので選びま した

45)

。 3. F. List, Das nationale System der politishen Oekonomie, 7te Aufl. 1883. · · · 私はそんなに偉い人とは思つて居ませんが、 · · · スミスに因 んでこれをも選んで見ました。 4. Annie Besant, Marriage, as it was, as it is, and it should be, 1882. 之は私が旧友故人滝本誠一博士から貰つたもので

す。 · · · 私にとり故人の記念であるので、大学で保存して頂ければ結構だと考

へまする上に、 · · · 。以上の四冊を更に寄附致度、京大などでは寄附にも願書 を出し、評議会の議を経ることになつて居りますので、関西学院大学の方はど うなつて居るやらと存じますが、もし此等をも序に御保存の恵に浴することを 得ば、私としては本懐 · · · 御面会の際武藤〔誠〕さんにもあらかじめお話下さ れ、然るべく御諒解願つておかるれば仕合わせです。以上書きましたやうなこ とは、いつそのこと扉にでも書き入れやうかと思ひましたが、業々しい感じも 致しますので見合わせておきました」(㉗ 141-42 )。

45) 河上は、『資本主義経済学の史的発展』第二章(第一)「アダム・スミスの生涯」の執筆にあたっ て参照した文献として、このロックハルトの河上による転写本を使っており、「スミスの母の肖 像はカニンガム教授の珍蔵に係る」と書いている。また、この転写の原典が長崎高等商業学校教 授の武藤長蔵氏所蔵本であると書いている(⑬48頁)。また、武藤は「ロックハルトという人 の講演原稿· · ·〔を〕武藤長ママ平 氏が彼地にて転写して持ち帰られたもの」であり。河上が「あ だむ・すみす伝拾遺」として『経済論叢』(京都帝国大学)第五巻第三号〔⑨373-78頁〕に載 せしものである」(⑬68頁)。この写本が蔵書されているか長崎大学へ調査依頼中である。

(13)

3 3 日、 「午後寿岳氏、アダム・スミス国富論初版本を関西学院大学へ寄 附の件につき、同大学司書、文学士武藤誠(文学士)と同道にて来訪の約なり しところ、武藤氏差支あり、ひとりにて右断りに立寄らる。引留めて雑談久う して分かる。寿岳氏より梅の漬物を貰ひ、三宅周太郎氏『文楽の研究』及び鴻 池幸武氏の『吉田栄三自伝』を借り受く」 (㉓ 316 )。さらに、 3 月 9 日、 「夕 刻、寿岳君、武藤誠(関西学院大学予科教授兼同大学図書館司書、兵庫県武庫 郡甲東村)同道にて来訪。アダム・スミス国富論初版を、同大学へ寄附の名義 にして、謝金として七百円を受く

46)

。ゴドヰンの『政治的正義』

47)

二冊(再版 本) 、ロックハルトの『スミスの伝記及び遺物に関するノート』 (予が自筆の写

46) 2月11日、「須磨伯父上〔謹一〕より金二千円送りくれられたる由、感謝すべきこと也」(㉓ 308頁)と書き、河上謹一の肇への金銭・物品の援助は、このように晩年にも続いている。

47) 『政治的正義』に付された「識語」は以下のものである。「今から約五年前の昭和十二年六月、

· · ·解放されたが、その時私は、短文の覚書を新聞に発表して、· · ·『微力の私は、今や暮年漸

く追まるに臨みて、もはや荊棘を歩むに堪へ得ない。私はもう之で一学究としての自分の義務を 終へたものと諦め、今後は刑余老残の此の痩体を抱いて市井に隠れ、独り白雲の徂徠を看て暮ら すの外なろうと思ふ。云々。』これを見た一人の友人は· · ·『先生が以前書かれたゴドヰン(注1)

を思ひ出した』と言つた」(全文は㉑534-35頁に所収)。

 これに応えて河上は「なるほど今日になつて考へて見ると· · ·私もゴドヰンに似たところがあ る。今日の私は、生理的にこそまだ生きてゐるが、社会的には全く死んでしまつてゐる。· · ·幸 いにして此の書が関西学院大学の蔵書の中に加へられ、後の好事家をして、昭和十七年頃にも河 上はまだ生きてゐて、その旧蔵の図書が自分の手で処分してゐたのだ、と云ふことの発見をなさ しめるやうな機会があり得たならば、私にとつては、それこそ望外の幸福であると謂はねばなぬ。

昭和十七年三月九日 河上肇 識」(寿岳文章『河上肇のこと』弘文堂、1948、41-43頁)(注2)

(注1)河上は『資本主義経済学の史的発展』(1923、⑬147頁)で、ゴドウィンは「既に 死んだものと信じ· · ·彼の名は世間から忘れられてゐた」と書き、1944年の夏、ゴドウィ ンを連想して、河上自ら「まだ生きてゐたかと言はれ死ぬる春」との辞世を書いた(寿岳文 章前掲書、43頁)。なお、河上は「ゴドヰン著(岩城忠一訳)『財産論』への序」(1923年 5月)を書いて、ゴドウィンの理想社会をユートピアと書き、若き頃河上が身を投じた伊藤 証信の「無我苑」もユートピアと評している(⑬485-86)。

(注2)なお、現時点での各図書の蔵書番号と図書館によるメモは以下の通りである。

    1. A. Smith:上ケ原1F貴重図書。この貸出スリットに「原簿番号50001」と あり

(ママ)川上博士旧蔵書で、寿岳文章教授の(ママ)註解で1924年入手由来有のもの)とある。【写 真①】

    2. W. Godwin:上ケ原1F貴重図書。表紙左に“H. Kawakami. 1913,”同右に「河 上 肇蔵」)と署名されている。また、全2巻本とも、その裏表紙左頁には「河上博士 寄贈図書の中4点 未整理本〔S〕48.6.5(貴重本)」と書かれている。【写真②】

(14)

本) 、ベザントの『結婚の過去・現在及び未来』

48)

· · · 、リストの『経済学』を、

過分の謝金に対し、更に添へて『寄附』する。寿岳君、風呂敷に一杯、蔬菜を 持参し下さる」(㉓ 318 ) 。

このように「寄附」に際して、寿岳は「学校側は喜び、折角の寄贈であるか ら何か博士に感想を録していただきたいと言ふ。事情が事情ゆゑ、学校のこの 申出に私は少し当惑したが、寛大な博士は、私の立場に同情して、快く二篇の

     写真① 『国富論』     写真②W. Godwin

        

    3. Lockhart:上ケ原1F貴重図書。 表紙に「Notes on The Life Times and Relies of Adam Smith by John Lochart」「河上肇写本」とあり、次頁で、河上の手で、

“Notes on The Life Times and Relies of Adam Smith, LL. D. by John Y.

Lochart. Read to the Kirkcaldy Nationalists’ Society on the occasion of the opening of the Society’s New Room in Prof. Marjorie’s House, 180 High Street, on the 11th Manday, 1913. 長崎高等商業学校教授 武藤長蔵君英国留学 中にtype writerニテ写サレタルモノヨリ抄録ス 大正六年三月二十三日 写了 河上 肇”なお、河上は「あだむ・すみす伝拾遺」としてこの内容を紹介している(『経済論 叢』第5巻第3号、423-27頁)。また、同書の裏表紙左頁に「未整理本〔S〕48.6.5

(貴重本)」と書かれているが、他の寄贈本にある「河上博士寄贈図書の中 ○点」という 記述はないが、他の本と同様の「未整理本· · ·」という記述により、これが「河上博士 寄贈図書の中1点」にあたるであろう。【写真③】

    4. F. List:上ケ原準貴重図書。本書は事務用資料(日付けは昭和48年9月14日)に よれば、「亡失」(原簿番号361244)扱いになっているが、同資料によれば、日付けは 不明であるが「発見受入」(原簿番号587689)されている。

 なお、本書裏扉の左頁に「河上博士寄贈図書の中3点 未整理本〔S〕48.6.5(貴重 本)」と書かれている。また、同書の「J. G. Cotta’scher Verlag, 1841」版も所蔵さ れている(準貴重書)。【写真④】

(15)

  写真③ ロックハルト           写真④ リスト

       

    5. A. Besant:上ケ原1F貴重図書。この本に糊付けされた「識語」には、「H. Kawakamy

(sic.)大正五年二月十三日京都大学構内ニ於テまるさす誕生百五十年記念図書展覧会ヲ

開催セシ(ママ)折り滝本誠一君の出品セラレシ書籍の一ニシテ会後借用ヲ願ヒニシソノママ贈与 セセラレシモノ也」(㉑537頁)とある。滝本は当時同志社大学教授で日本経済思想史研 究者である。本書裏扉の左頁に「河上博士寄贈図書の中2点 未整理本〔S〕48.6.5(貴重 本)」と書かれている。なお、本書の書名はEssays Political and Social, London, 1882<㉑537>であり、パンフレット集である。その冒頭に納められているパンフ レットのタイトルがこれである。このパンフレットなかに、The social aspects of Malthusianism(Malthusian tracts, no. 10, 8p.)が納められていることからも

「まるさす誕生百五十年記念図書展覧会」に展示されたのであろう。【写真⑤】

 ところで、この誕生記念の模様は『大阪毎日新聞』(1916年2月14日)掲載されてい る(神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 人口<1-050>)。そのヘッドラインは「マル サス記念講演会 会するもの無慮二千」とあり「『人口論』著者として有名なる英人マルサ スの誕生百五十年記念祭は予定の如く十三日午前九時より京都大学本部楼上に於てその展 覧会を午後一時より法科第四教室に於てその記念講演会を開く、朝来遠く東京大阪地方より 参観するもの頗る多く展覧会場の如きは人の山を築きて身動きもならず定刻前既に広き講 演会場は鮨詰めとなり立錐の余地なく無慮二千と註せられ近来稀にみる盛会なりき、定刻午 後一時田島法学博士司会の下に講演会開催、開会の辞として『学問としての人口論』を述ぶ る筈なりし戸田法学博士病気の故を以て跡部法科学長開会の辞を述べ、南満洲鉄道経済調査 会、日本社会学会、花房統計局長、社会政策学会、東京法科大学、経済学講究会、阪谷統計 協会会長、国家学会よりの祝電祝辞を朗読し順次所定の題目についてその研究を発表す」。  講演者とタイトルは以下の通りである(その記事内容は省略)。「開会の辞 法学博士 跡部定次 郎氏」、「マルサス伝 文学博士 内田銀蔵氏」、「人口論梗概 法学博士 河上肇氏」(『経済論叢』第 2巻第3号、⑧335-40頁<『太陽』第22巻第4号、1916。この時期の『太陽』主筆は、関 西学院普通学部中途退学の浅田彦一である。この「浅田彦一(空花、江村)」については「関西 学院の人びと」四<『関西学院史紀要』第8号、2002年3月、177-89頁>を参照のこと)、

「人口論出版当時の反対論者 法学博士 福田徳三氏」(井上琢智編集『経済学史』『福田徳三著作

(16)

手記を寄せられた」

49)

。それゆえこの二篇は、ゴドウィンの『政治的正義』と スミスの『国富論』に添えられた。

集』<第7巻、信山社>所収予定である)、「馬の人口受胎を論じて『人口論』に及ぶ 医学博士 石川日出鶴丸氏」、「支那日本の人口論 同志社教授 滝本誠一氏」である。

 ゴッドウインおよびスミスに付された河上の「識語」は、別置され図書館に貴重資料として保 存されている。なお現物のコピーは最終頁〔資料1〕〔資料2〕を参照のこと。その内容は、注 47と注48を参照のこと。なお、関西学院大学図書館に寄贈された図書等(3冊)および寿岳 文章へ寄贈された本(2冊)への「識語」は㉑532-37頁。この調査には関西学院大学図書館の 井戸田史子氏の多大なるお世話になった。記して謝意を表します。

      写真⑤ ベサント

          

48)『国富論』への「識語」(全文は㉑536-37頁に収録)は以下のものである。京大在職中に開催 されたマルサス(京都法学会主催:生誕150年、1916年)、スミス(京大経済学会主催:生誕 200年、1923年)、マルクス(京大社会科学研究会主催:「マルクス誕生記念展覧会および講演 会、1926年5月6日)(注1の展示・講演会を回想し、「私は、かうした展示会や講演会は、若 い人達の学問への興味を刺戟する上に、若干の効果があるものであると云ふことを、今でも信じ てゐる。そればかりか、それは専門家のためにも、全く無意味なものではない。私がここに寄 附しようと思ふ本書〔『政治的正義』〕並びに別冊の写本〔ロックハルトの原本で武藤長蔵所蔵〕

· · ·は、偶々その一端を証明するものではない。前者はマルサス記念の展覧会に、後者の〔内

の〕原本〔『国富論』〕はスミス記念の展覧会に出品されたものであり、当時私はこうした展覧会 のおかげで此等の文献に初めて接しうることが出来たのである。· · ·本書の旧蔵書たる滝本誠

一君· · ·」と書いている。河上は滝本との交流〔田中は「交渉」〕を回顧してのち、「折角故人

〔滝本誠一〕が私に恵まれたものである。心なき者の手に渡るより、此の書がもし関西学院大学 の蔵書の一つに加へられ、永く故人の記念を保存することともならば、洵に私の本懐とするとこ ろである」(注2)と結んでいる。

  (注1)細川元雄「京大時代の河上肇(河上肇生誕100年記念号)」(『経済論叢』第124巻、5-6 号、1979年11月、147(369)頁)。なお、マルクス生誕記念について、河上肇の講演要旨

(17)

3 23 日付寿岳文章宛書簡で、河上は「 『国富論』の儀 · · · 前後を通じ容易 ならざる御配慮 · · · 難有存じました。 · · · 本日頂いたお金の一部を以て、臨川 書店に行き、若干の支那書を買つて参り、頻りに喜び乍ら、まだお礼のお手紙 を怠り居りしことを思ひつき、ひそかに赤面致した末、不取敢筆を執りました」

(㉗ 151-52 )と書き、寿岳の要請に応えた河上は、 3 月 30 日、 「関西学院大学 へ寄附せしゴドヰン外一冊の書籍に貼付すべき感想二章を清書して、寿岳氏ま で送る」

50)

(㉓ 325 ) 。早速、 4 月 8 日、そのお礼として筍の生産地向日町に住 む「寿岳君、筍を持参さる」 (㉓ 328 ) 。 4 月 16 日、河上は、 「寿岳君の恵まれ し筍、極めて美味なりしかば、遂に一詩を作りて送」り、曰く「家貧身初健 /

「一学究の公けの日誌」(『我等』第8巻第6号)がある(⑭279-84)。そこで河上は「二三 の陳列品について」話し、大原社会問題研究所蔵品の『資本論』第1巻初版を説明し、それが クーゲルマンへのマルクス献本であり、その献本に日付けを確定した話をして「そこに陳列し てあるその本」と言及している(⑭ 284)。本論文(1)の38頁参照のこと。なお、1928年 8月の「マルクス著(大原社会問題研究所編)『原文対訳 資本論初版首章及付録』の例言」の

なかで、「· · ·私の知る限りでは、京阪地方で本書を蔵するものは、今日では大原社会問題研

究所、京都帝国大学経済学部のほか、大原社会問題研究所の高野岩三郎氏および森戸辰男氏、

大阪商科大学の河田嗣郎氏を算へることができるが、二三年前までは、私はそれがたゞ大原社 会問題研究所に蔵されてゐることを知つてゐるのみであつた」と語っているが、その「二三年 前」とは1926年開催の「マルクス誕生記念展覧会」のことである。河上はこのとき初めて

『資本論』初版を初めて見たということになる。

  (注2)田中敏弘「『国富論』初版本と河上肇博士の感想二章」(田中敏弘前掲書『アダム・スミス の周辺―経済思想史研究余滴―』29-33頁)。同書31頁にはこの河上の「感想」(『全集』では

「識語」として分類されている)が、ベサントの書への「感想」として印刷されているが、不 鮮明で読むことは困難である(㉑536-37頁)だけでなく、その識語はベサントへのものでは なく、『国富論』への識語である。というのは、すでに上記(注48)で明らかにしたように、

「ここに寄付しようと思ふ本書並びに別冊の写本」の「本書」とは『政治的正義』のことであ り、ベサントの『結婚の過去・現在及び未来』とともに誕生150年記念図書展覧会へ出品され た。それを示すのはその識語である。すなわち「大正五年二月十三日京都大学構内二於テまる さす誕生百五十年記念図書展覧会ヲ開催セシ折滝本誠一君ノ出品セラレシ書籍ノ一ニシテ会 後借用ヲ願ヒシニソノママ贈与セラレシモノ也」と書かれている(㉑547頁)。このように、

『国富論』と『結婚の過去・現在及び未来』とが、滝本誠一より河上に贈与されたものである。

49) 寿岳岳文章前掲書『河上肇博士のこと』41頁。

50) 河上から寿岳へ送られた「識語」の内、ゴドウィンの著に添えられたものを『河上博士のこと』

(41-43頁)に全文引用しているが、おそらくこの際に転写したものであろう。他の「識語」も おそらく転写したであろうが、この転写は「当時の博士を偲ぶに格好の文字である」との寿岳の 判断により、全文を引用なされたのであろう。

(18)

偏愛野蔬春 / 嫰筍如黄犢 / 旨甘抵八珍」 (㉓ 329-30 :読み下し文あり)。

5 月 26 日、 「蔵書 5 万冊

51)

並びにアダム・スミス国富論初版入手と予て学 院に寄贈せられありし柴田文庫

52)

が本館の管理に帰したることを記念するた

· · · 下記の如き講演会を催し成功を収めたること」と書いている。講演者と

タイトルは以下の通りである。

専門部文学部教授寿岳文章「 18 世紀の英国出版会」

53)

、高等商業学校教授 大 道 安 次 郎「 ス ミ ス 経 済 学 の 国 民 性 」

54)

、東 亜 同 文 書 院 大 学 教 授 北 野 大

51) 1942年3月9日〔『国富論』初版1776年3月9日刊行〕700円で購入〔原簿3月10日登 録<第1巻の原簿番号は「50001」、第2巻のそれは「50002」である>、金額700円と記述。

また、「寿岳文章氏好意ニヨリ河上博士ヨリ寄贈シ右代価ハ謝礼ナリ」と記述がある〕。田中は

「三月九日付けの二つの手記をしたため」たと書いているが、その月日は『国富論』初版の刊行 日であるととともに、河上への代金支払日でもあった(田中前掲書、26頁)。

 なお、講演会当日の5月26日(火)、非常勤であった堀経夫はこの講演会開催の情報を得て いた可能性は否定できないが、本務校である大阪商科大学で「演習Ⅱ」と「経済史」の授業をし ている(関西学院史編纂室所蔵、堀経夫「手帳1942」を参照のこと)。

52)「柴田文庫−イギリス社会思想史関係文献−」は、関西学院中学部を卒業した北野大吉は、東京 商科大学を経て、1923年に関西学院高等商業学部教授となり、経済史、社会政策などを担当し た(井上琢智「北野大吉」<「関西学院の人びと」>『関西学院史紀要』7号、2001年3月、

205-11頁)。1927年のイギリス留学中に同窓の柴田享一(1892-1952、1916年関西学院高等 商業学部を卒業、1941年関西学院営繕課長、1951年関西学院大学学生課嘱託)の経済援助を 受けて貴重な文献を収集した。これらの文献は1949年に柴田享一の了承のもと、本学図書館 に寄贈された。本文庫は、ロバート・オウエンの著作をはじめ、メアリ・ウォルストンクラフ ト、ウイリアム・モリスなど、イギリス産業革命期以後の社会思想・社会運動関係を中心に構成

(全318冊)されている(関西学院大学図書館Web、「経済思想家の手稿と自筆書簡」に掲載さ れている。なお、このデジタル資料は、同館「特別文庫一覧」を参照のこと)。

53) 第27回図書館評議委員会(昭和16年5月29日(木))報告(ハ)によれば、「法文学部志 賀教授が、Rudyard Kipling’s Verse Inclusive ed.を20.00円、Poetical Works of W.

Woodsworth 6vols. を25.00円、Eliot, Works 8 vols. を24.00円で購入し、〔専門部〕

文学部寿岳教授は、Cambridge Bibliography of English Literature 3 vols.を162.50円 で購入」したとある。この報告はこの本をも使ったと推測できる(前掲書『関西学院大学図書館 百年史1889年〜2012年』515頁。なお、講演会の内容については、同書518頁を参照のこ と)。

54) 河上肇はその著『資本主義経済学の史的発展』(1923)では『国富論』ではなく、『諸国民の富』

と書いている(⑬61等)。『本邦アダム・スミス文献─目録および解題─』(1979、東京大学出版 会)によれば、河上の上記書ののち、『諸国民の富』と書いている文献には以下のものがある。①

「当所所蔵アダム・スミス著書竝に『諸国民の富』引用図書」(『大原社会問題研究所雑誌』1913 年8月(一の一)82頁)、②大内兵衛訳『国富論(1)〜(5)』(1940〜44,岩波文庫:松川七郎

(19)

55)

「関西学院大学とオーウェン研究」であった

56)

VI. 文人河上肇と和紙研究家寿岳文章との交流

1942 (昭和 17 )年 2 月 8 日、 「午後寿岳文章君夫妻来訪さる。スミス国富論 を関西〔学院〕大学で買うてやると持ちかへらる」と書いて手許に残る経済書 を手放なすことに決まった河上は、その 2 月 18 日夜に「故櫛田民蔵君より受 けしヒュームの著書を寿岳文章君に贈るに際して」を清書した(㉓ 309 )。こ の中で、河上と「政治的立場を異にするようになった櫛田」との関係を書いた 後に、すでに引用したように「昨年末、満十二年目に再び京都に帰つた私は、

との共訳の改訂版では『諸国民の富』<1956〜66>と改題、164頁。その理由を「われわれ と書店との間でいろいろ議論をして見たが、いまは日本の学界ではあとの方が通用力をもってい るであろう」と書いている<「訳者はしがき」4頁)。③矢内原忠雄「『国富論』について─大内 君新訳に寄すー」(復刻版『帝国大学新聞』1940年11月11日。2頁)、④大内兵衛「『国民の 富』か『諸国民の富』か─矢内原君に答へる─」(同新聞、1940年11月25日。2頁)。しか し、その後の邦訳では、『諸国民の富』ではなく、大河内一男監訳(中公文庫)、水田洋監訳・杉 山忠平訳(岩波文庫)、高哲男訳(講談社学術文庫)に到るまで『国富論』が定着している(大河 内一男「『国富論』邦訳小史」第三巻、435-69頁)。

55) 北野大吉は1942年5月、東京商科大学経済学博士授与され、1943年4月『英国自由貿易運動 史:反穀物法運動を中心として』(日本評論社)を公刊した。注52もあわせて参照のこと。ま た、「北野大吉」(前掲書『増補改定版 関西学院事典』95頁)も参照のこと。なお、北野は41 年に関西学院を退職、上海東亜同文書院教授となっている。井上琢智「フエミニズム研究と関西 学院─北野大吉のウルストンクラーフト研究─」(『クレセント』〈関西学院〉第12巻第1号、

1988年。また、大吉会編集・発行『北野大吉先生を偲ぶ』<1992年3月>に再録)。また、

『関西学院新聞』(1942年6月20日186号)には「蛍雪の功なり 北野氏経博に(元本学教 授)」の記事が出ているが、『国富論』購入やこの講演会そのものの記事は、この186号、187〜

198号には掲載されていない(関西学院大学図書館、「デジタルライブラリー」を参照のこと)。 56) 6月18日開催の第30回の報告(『関西学院大学図書館史1889年〜2012年』2014、518頁)。 また、このことを寿岳文章は1942年5月22日の日記に「学院図書館蔵書5万冊〔41年度 末所蔵数は47,980冊〕記念講演会 〔寿岳〕十八世紀の英国出版会」(注53の購入文献を利 用した可能性がある)について話す 他に大道〔安次郎〕君のスミスの国家思想と北野大吉君

(こんど■経済学博士になった)の「オーエンについて」の話とあり 了つてベー■ツ館で院長 の祝宴/河上博士旧蔵の富国論初版も出品される」〔■は寿岳が修正のために塗りつぶしている ことを示す〕と書いている。なお、この日の同委員会の協議事項(ハ)の「基本図書として」、

法文志賀教授推薦の「Lowell全集11冊」を51.85円で、法文竹友教授推薦の「文芸誌“The Dome” 2巻-7巻」を35.00円、申請者の名は記入されていないものの「Hawthorne全集、

15冊」を95.00円で購入することを決定している(前掲書『関西学院大学図書館史1889年〜

2012年』518頁)。

(20)

之を売りて漢詩本にかへ、聊か残年に餞せんことを思ひ立つたところ、偶々寿 岳学兄の配慮を煩はすことありし因に、取り出だせし此の書のみは、之を学兄 の恵存に浴せしむることとなした。私は自分の著書ですら、古いものは最早や 手許に残して居らず、新聞雑誌に公にしたものは、大半記憶にも存して居ない ほど、保存力に乏しい性分であるから、この本も友人の温き手に渡つた方が遙 にその仕合わせであることを信じつつ、別れに臨み、

しばら

姑 く以上のことを書き 誌して、この余白に貼り付ける。 · · · 河上肇識」(㉑ 532-34 ) 。

『国富論』の関西学院大学図書館への「寄附」との名目による売却に尽力し た寿岳へのお礼として贈った一冊目は、 「櫛田民蔵君洋行の土産の一、一九二 三年七月 河上肇」と書入れている Essays & Treatise on Several Subjects, by David Hume, New Ed. MDCCXCIII. である。この本も当初「古本屋へ うるなら、この文字を削るつもりですが、大学で買つて下さるなら、そのまゝ にしておきたいと思ひます」と考えていた河上ではあるが、最終的には「取り 出だせし此の書のみは、之を学兄〔寿岳文章〕の恵存に浴せしむることとなし た」と寿岳への恵贈を決めたものである。

二冊目は、 M. Agostino Ferentilli, Discorso Vniversalesic. 〕 , 1570. で あり、「寿岳学兄恵存  194

2

3 年 2 月 河上肇 この本は、第一次世界大戦当 時ロンドンに放浪してゐた私が、場末の古本屋で見付け、ただ古いと云ふだけ で、塵を払つて、持ちかへつたものである。何の価値もなきものながら、此の 度ヒュームの著書を拝呈する因に、之をも添へて恵存の恩に浴せんことを希 ふ」(㉑ 534 )

57)

57) これら寿岳に恵贈した図書への河上肇のメモは㉑532-34頁に収録されている。ただし、ヒュー ムの諸作へのメモは3巻とも異なる箇所がある。識語の最後の日付けと署名について、第一巻

(ⅵ+290 p.)には「七月受」とあり、同行に「河上肇」とあるが、第二巻(ⅳ+320 p.)には

「七月末受」とあり(全集版)、改行して「河上肇」とあり、第三巻(ⅵ+460 p.)には「七月末 受け」とあり、同じ行に「河上肇」とある。また、「識語」本文は、第三巻の裏表紙の左に「巻 紙」風の長い一枚に書かれてあり、「識語」の最後に「この余白に貼り付ける」と書いているよ うに貼付されている。また、他の一書の「識語」は、白表紙に直接書かれている。

 ところで、この櫛田民藏から「洋行の土産」として河上に送られ、河上から寿岳に贈呈し た1793の Basil版(印刷・販売が、J. J. Tourneisen)は、本来4巻本であるが、寄贈 され、京都府立京都学・歴彩館に所蔵されているのは第一巻から第三巻までである。この4

(21)

巻本の第一巻と第二巻が“Essays, moral, political, and literary” で、第三巻が “An inquiry concerning human understanding”である。これら第一巻から第三巻は、京都 学・歴彩館に保存されている。しかし、本来全4巻本として刊行されており、第四巻は“The natural history of religion”を所収している。この第四巻は、河上が寿岳に贈呈した段階 から欠けており(櫛田が河上に恵贈した段階から欠けていた可能性が高い)、全3巻本とし て贈呈されたと思われる。なお、関西学院大学図書館には、同版の全4巻本が所蔵されてい る(貴重図書:192:184:196-1/2および192:184:196-3/4)である。なお、発行地“Basil”

は、“Basel”(独: Basel、仏: Bˆale、伊: Basilea、ロマンス語:Basilea)であるが、当 時のイギリスでは“Basil”と表記していた。また、印刷・販売の“J. J. Tourneisen” は、

“Jean-Jacques Tourneisen” で、バーゼルの著名な出版社で、多くの本を出版している

(http://onlinebooks.library.upenn.edu/webbin/book/lookupname?key=Tourneisen

%2C%20Jean%2DJacques%2C%20imp%2E%20%28Basilea%29)。これによれば、例 えば、Edward GibbonのThe history of the decline and fall of the Roman Empire

(1787)では、“Basil”と表記されている。また、同社が刊行した『国富論』(Printed for J.

J. Tourneisen; and J. Legrand, 1791)は、海外で英語出版された最初のもので、その内容 はイギリス国内版の第4版と同一で、第3版において追加された「重商主義の帰結」などの章 が含まれている。本書出版以前にも翻訳版が数種出版されているが、この英語版の出版はスミス の経済思想の普及に少なからず貢献し。なお、この書誌上の記述については、丸善雄松堂京都支 店長の黒田茂氏のお世話になりました。記してお礼を申し上げます。

 「壽岳文章蔵書図書原簿」の第一冊目の日付欄に昭和17年2月4日を示す「17/2/4」と記 入、蔵書番号欄に3行に渡り「3868」から「3870」に“David Hume , Essays & Treatise on Several Subjects 1793”「(Ⅰ)、(Ⅱ)、(Ⅲ)」と書入れた。また、同日、蔵書番号の3871 に“M. A. Ferentilli, Discorso Vniversale〔sic.〕1570”(6+8+244 p.)と記入した。こ れら4冊の価格欄にそれぞれ「河上博士」(二冊目以下は、記号「〃」)と記入している。なお、

1975年10月15日にこれら4冊は、現在の京都学・歴彩館、当時の「京都府立総合資料館へ 寄贈」と記入されている。なお、これらは現在も同館に所蔵されており、整理番号は以下の通り である。前者の請求番号は「河||093.1||H93」であり、後者のそれは「河||093.1||F21」で ある。なお、ヒュームの図書には何ら書き込みはなされていない。また、同館の「河上文庫」に は「陸詩鑑賞 其の一(五言律詩)」および「陸詩鑑賞 其の一〜三(七言律詩)」、「放翁鑑賞  其の一七」、「孟浩然詩抄鈔」の原稿が寿岳文章より1974年11月に寄贈されている。また、

「社会主義と個人主義的自由」(『社会問題研究』35冊<1922年7月号>の原稿があり、原稿 用紙の左下に朱色印刷で「社会問題研究」明示している)の原稿が購入され、所蔵されている。

同原稿は、のち「社会主義制と個人主義的自由」と改題され、『社会組織と社会革命に関する若 干の考察』(弘文堂、1922/12/5:⑫1-296<185-207>頁)に再録されている。なお、後者 は前者を追加等編集が加えられており、その相違の詳細な検討は今後の課題である。

 興味深いのは、堀経夫は、1922年9月、京大大学院(河上に学部から師事していた)を退学 し、経済学部講師を委嘱されたが、辞退して、東北帝国大学に新設された法文学部の助教授に 9月27日に就任し、留学を経て教授となった(1925)。堀は『経済論叢』(第15巻第4号、

1922年11月)に「経済と自由」を掲載した。この論文について、河上は、上記論文末で「こ の論文は拙稿よりも後れて発表されたが、その〔堀の〕脱稿は拙稿に先だてるものだといふこと

参照

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