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二種類の行為の知識

はじめに

 アンスコムは、意図的行為は観察によらずに知られると主張した。彼女によれば、自分が 何をしているか、観察によらずに知っていることが、意図的行為の特徴なのである。本稿で は、こうした彼女の主張にたいする二つの反応を取り上げたい。一つは批判的なもので、観 察によらずに知られるのは意図のみであり、意図的行為は観察によって知られるほかはない と指摘する。もう一つは肯定的なものである。近年ハドックは、アンスコムの言う観察によ らない知識が実践的推論の産物であると示すことによって彼女の主張を擁護している。ハドッ クによれば、我々がみずからの意図的行為についてもつ知識は、観察ではなく推論を通じて 得られるのである。私のみるところ、アンスコムにたいする批判的な反応が正しいと言える のは、「知識」という語を、それが通常理解されている意味において解釈した場合のみであ る。他方、「知識」という語をそれとは異なる仕方で、すなわち実践的に解釈するならば、ハ ドックの立場は大体において妥当である。ただし、彼の議論には修正すべき点があるため、 その点を指摘する。あわせて、実践的知識の概念がどのようなものであるかを明らかにした い。

1 観察によらない知識にかんするアンスコムの主張

 アンスコムはその著書『インテンション』において、我々は自らの意図的行為について、 観察によらずに知っていると主張している。彼女は、観察すること「も」自らの意図的行為 についての知識の源泉となりうるということは認めるものの、観察によらない知識こそ、意 図的行為を特徴づけるものであると主張するのである。  意図的行為のクラスは、観察によらずに知られるクラスの下位クラスに属している   (Anscombe 2000: 14)  直感的には、彼女の主張は正しいように思われる。というのも、なんであれ自分がそれを

二種類の行為の知識

竹 内 聖 一

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しているのを観察して初めて知ったということは、我々がそれをその記述の下で意図的にな したということを強く否定するからである。たとえば、「なぜホースを踏んでいるのか」と聞 かれて、「私は自分がそのホースを踏んでいるのを観察して初めて知った」と答えるとすれ ば、それは「そのホースを踏む」という記述の下では私のしていることは意図的ではなかっ たことを意味する(1)。もちろんアンスコムは、我々が意図的に行為する際に自分の行為を観察 しているということを否定するわけではない。しかし、それは我々が自分のしていることを 首尾よくやり遂げるのを助けるだけで、自分が何をしているのかを知る上では、いかなる役 割も果たしていないというのである(Anscombe 2000: 53)。たとえば、目を閉じたまま字を 書くとすれば、私の筆跡は判読不可能なものとなるかもしれない。しかし、その場合にも、 自分が何を書こうとしているのかということ自体は、観察によらずに知られる、というので ある。  だが、よくよく考えてみると今度は彼女の主張は著しく我々の常識に反しているように思 われてくる。というのも、「自分の名前を書いている」という私の発言が真であるためには、 やはり私の書いた文字が私の名前として読めるようになっていなければならないと思われる からだ。すなわち、私が「自分の名前を書いている」と語ったとして、それが知識とみなさ れるためには、まさに首尾よく名前の筆記をやり遂げていなければならないように思われる のである。  ここで問題になっているのは、「自らが意図的にしていることについて知っている」という 表現が一体何を意味しているのかということである。ここで「知っている」という表現を通 常の知識の枠組みの中で理解しようとすると、彼女の主張はきわめて謎めいたもののように 思われてくる。この点を明らかにするために、私はアンスコムの議論の評価について、好対 照をなす二つの議論を取り上げることにしたい。なぜなら、両者はまったく異なる知識観を 背景にしているからである。

2 アンスコムの主張にたいする批判的反応

 アンスコムの主張にたいする典型的な反応は以下のようなものである。自分の意図はたし かに観察によらずに我々に知られる。しかし、自分の意図的行為は観察によってはじめて知 られる。ファルヴィーはこうした主張が、意図的行為を二つの要素に分けるという点を捉え て、二要素説と呼ぶ(Falvey 2000: 21)。この主張を支持していると思われる議論をいくつか 引用しておこう。  ……我々の意図的行為にかんする知識は複合的なものである……意図的行為の構成要

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二種類の行為の知識 素の一つは意図であり、これは観察によって知られるのではない。誤りや修正の必要性 が生じるのは、それとはまったく異なったところからである(Donnellan 1963: 407)  行為は観察可能な世界を変化させることを含んでおり、それは否応なく、観察可能な 出来事の起こる舞台上に位置している。そして行為について語るいかなる主張も、それ を観察していた人からの挑戦を受けることになるし、観察によってのみその正しさが示 されるのである(Jones 1961: 136)  これら二つの引用は以下の前提を共有している。 1)「知っている」とは、私が語ったことが「真」だということである 2) 「観察可能な世界で生じる変化」にかんする主張を覆したり支持したりできるのは観察の みである  もし我々が前提1)を採用するならば、我々は自分が何をしているか知っていると主張す るために、我々が語っていることが真であると保証するものを示さなければならないことに なる。そして前提2)を採用することによって、我々はそのような保証を与えるものは観察 以外にないと認めざるをえなくなる。それゆえ、これら二つの前提を受け入れる限り、アン スコムの主張にたいする反論を完全に退けることはできないのである。  アンスコムの主張を擁護する者たちは、これら二つの前提を受け入れた上で上述の反論へ の応答を試みてきた(2)。しかし私のみるところ、そうした応答は彼女の主張の利点を奪うもの に他ならない。と言うのも、彼女が観察によらない知識の可能性を主張する眼目は、こうし た知識が伝統的な知識の枠組みには収まりきらないことを示すことにあったからだ。それゆ え、上記二つの前提を受け入れつつ、彼女の主張を擁護しようとする者たちは、彼女の主張 を反論から救おうとして、その主張のまさに核心部分を否定しているのである。  アンスコムによれば、伝統的な枠組みにおいて「知識は事実と一致することによってまさ に知識と判定されるものでなければならない。つまり事実(実在)が先行し、あるものが知 識であるためには何が語られるべきかを指定するのである」(Anscombe  2000:  57)。アンス コムは、このような枠組みの中にある知識を「理論的知識」と呼び、我々が自分の意図的行 為についてもつ観察によらない知識と対比させている。そして、後者の知識を実践的知識と 呼ぶのである。彼女によれば、実践的知識とは「それが理解しているものの原因」である (Anscombe 2000: 87)。  まとめておこう。伝統的な知識の枠組みの下で考える限り、二要素説に反論することは容

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易ではない。しかし、実践的知識にかんする彼女の議論は、その枠組みの外側で展開されて いる。それゆえ、彼女の主張を適切に評価するには、まず伝統的な枠組みに代わる新たな知 識の枠組みがどのようなものであるかを理解しなくてはならないのである。

3 ハドックのアンスコム解釈(1)

 近年、ハドックはアンスコムの議論にたいする新たな解釈を提示している。アンスコムは 「「実践的知識」という概念は、我々が「実践的推理」を理解する場合にはじめて理解するこ とができる」と指摘している(Anscombe 2000: 57-58)。これは一体何を意味しているのだろ うか。この問いにたいするハドックの答えは以下のようなものである。実践的推論とは、行 為者が望んでいるものを手にするのに何をすべきかを明らかにすべく行われる計算である。 そして、我々はその推論から実践的知識を導く(Haddock 2011: 163-65)。こうした考えに従 うならば、実践的知識を述べる言明は、自分が何をしているかについて報告しているのでは なく、自分の目標を達成するのに適した手段が何であるかを表明している。そして、この意 味での「知識」が得られるのは観察ではなく、推論を通じてなのである。 図1 私はあの家の住人たちを毒殺するために腕を上下させている(3) 大前提(目的):あの家の住人を毒殺する 小前提(1) : もし私があの家のタンクに毒入りの水を供給すれば、私は住人たち を毒殺する 小前提(2) : もし私がポンプを操作すれば、私はあの家のタンクに毒入りの水を 供給する 小前提(3) :もし私が腕を上下させれば、私はポンプを操作する 結論      :私は腕を上下させる(実践的知識)  こうした実践的推論を経て得られた知識が、観察によらないものであるというのは一体ど ういうことなのだろうか。図1に示したような実践的推論の前提の中には、観察によって知 られる事実によって支持されるものが多数あるだろう。たとえば、「住人は留守にしていな い」とか、「ポンプは故障していない」といった事柄は観察によって知られる事柄であり、こ れらの事柄が真でなければ、図1の推論の前提も真ではありえないだろう。しかしそれらは、 二要素説が指摘しているような、現在自分が実際に何をなしつつあるかにかんする観察では ない。そうした観察は、私がなしていること(腕を上下させること)が私の目的(住人の毒

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二種類の行為の知識 殺)を実現するのに適した手段であるということを正当化するのに用いられているのだ(Had-dock 2011: 165-66)。  これがアンスコムの主張にたいするハドックの解釈の概略である。ハドックは明示的に述 べていないが、以上のような解釈を踏まえるならば、実践的知識というものが、「自分の行為 についての知識」という表現で我々が普通に思い浮かべるような知識、すなわち行為につい ての理論的な知識(報告や予測)とはずいぶん異なった性格のものであるということは押さ えておくべきだろう。実践的知識は、現在自分が実際にしていることの報告でもなければ、 将来自分が何をするかという予測でもない(4)。それが述べているのは、目的という観点から理 解される限りでの、現在行われている行為の意味とでも言うべきものである。周知のごとく、 行為は様々に記述されるが、実践的知識の対象となるのは、行為者の目的の実現にとって有 意味なもののみである。より具体的には、上の実践的推論の各前提に登場するような行為記 述―すなわち行為者の目的と行為者の現在していることの関連性を示す記述のみが実践的 知識の対象となっているのだ(5)。それゆえ、これを「知識」と呼ぶのはあまり適切とは言えな い。より適切な名は「自分の行為の構造にたいする理解」であろう。  だが、こうした解釈は少なくともそれだけでは、あまり魅力的なものに映らないように思 われる。というのも、「何をしているのか」と問われて我々が答えることはまさに、現在自分 が実際になしていることの報告ないし予測であるという強い直観が存在するからである。そ して、だからこそ、二要素説を支持する者たちは、その報告の根拠は観察ではないというア ンスコムの主張は信じがたいと考えているのである。  これに対し、実践的知識を実践的推論の産物と考え、それは行為の意味について語るに過 ぎないと応答すれば、たしかにアンスコムの議論を批判から救うことはできるだろう。だが それは上に述べた直観を放棄することになるのではないか。そこでハドックは、実践的知識 の表明が、行為者が実際になしていることにかんする知識の表明でもあるための条件を探求 し始めるのである。  たとえ私が窓を開けていると語ったとしても、窓が開かなかったために、私が窓を開 けていないということは可能である。それゆえ、私が自分が何をしているか知っている のだとしたら、私はこうした可能性を排除してくれるような何らかの理論的理由―それ は私が窓を開けているという事実以外のものでなくてはならない―を必要とするのであ る(Haddock 2011: 166)  彼によれば、実践的知識を表明する言明が実践的理由によって正当化されることと、その

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同じ言明が理論的理由によって正当化されることは決して矛盾するものではない(Haddock  2011: 165)。たしかにこの主張自体に問題はない。もし「私は窓を開けている」という言明が 実践的知識と理論的知識の二つの知識を表明しているとするならば、この言明がそれら二つ の知識に応じて二つの正当化を受けていると考えることも矛盾ではないだろう。  だが、行為者の言明に二つの役割を負わせれば、この言明において表現されている理論的 知識にたいする正当化とは一体どのようなものかという問いに答えざるをえなくなる。そし てこの問いに対して「観察によらずに」と答えても、「観察によって」と答えても我々は苦境 に追い込まれるのである。もし「観察によらない」と答えれば、「観察可能な世界で起きてい ることについて語られたことが「真」であるという保証を、観察によらずにいかに与えるの か」という問いに直面する。他方「観察によって」と答えれば、「我々は自分が実際になして いることについて、観察によってはじめて知るのだ」という二要素説の主張に屈することに なるのである。

4 アンスコム自身の議論のあいまいさ

 困ったことに、ハドックがこうした解釈へと引き寄せられていく原因はアンスコム自身に ある。というのも、彼女は以下のように書いているからである。  そのような言明[「私は窓を開けているのだ」]を私は今まで知識と呼んできた。とい うのも、その場合、私の言うことは真だからである―私は実際に窓を開けている   (Anscombe 2000: 51)  この箇所は、アンスコム自身が、実践的知識は私が現になしていることにかんする報告で もあると考えていたことを示唆している。しかし、もし彼女が―ハドックが指摘したよう に―実践的知識は実践的推論から導かれると考えていたのであれば、すなわち目的を実現 するために適した手段を特定するものだと考えていたのであれば、実践的知識は、少なくと もそれ自体としては、現実に起きていることがらの報告ではない。実践的な意味での「真偽」 はあくまでも、言明に登場する行為の記述が、行為者の目的の実現に適しているかどうかに よって測られなければならないはずなのである。  もちろん、実践的知識の報告は、もし私が自らの意図の実現に成功した場合には、「真」と なるだろう。それは正しい。だがそのとき、単に私が現になしていることとの一致をもって、 私の言明は「知識」を述べていると主張するならば、それは実践的知識を、通常の知識の枠 組みに押し込めることに等しいのではないか。というのも、その場合、言明が「真」となる

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二種類の行為の知識 のは、あくまでも理論的な意味においてのことだからである(アンスコムが、理論的知識に ついて、「事実(実在)が先行し、あるものが知識であるためには何が語られるべきかを指定 する」と論じていたことを思い出そう)。  すでに指摘したように、アンスコムは理論的知識と実践的知識の間にはっきりとした区別 を設けていた。上の引用箇所では、彼女自身がその区別を曖昧なものにしていると私には思 われる。この区別をより明確なものにするために、次節では実践的知識が何であるのかさら に論じることにしたい。

5 実践的知識とは何か

 アンスコムが、「行為者は自分のしていることについて観察によらずに知っている」と主張 するとき、我々はその主張を行為者は自分が実際になしていることを観察によらずに知って いる―すなわち理論的知識を手にしていると解釈しがちである。前の説で指摘したように、 この解釈は適切ではない。というのも、行為者が自分の行為について語ったことが実践的知 識の表明であるとしたら、その発言が述べているのは、現在起きている事態ではなく、行為 者が実現しようと意図している未来の事態だからである(6)。たとえば、図1に示した、ある家 の住人を毒殺しようとしている者は、「何をしているのか」と問われれば「私は腕を上下させ ているのだ」とか「私は飲み水を供給しているのだ」とか語ることであろう。そしてこれら の行為記述が理論的に「真」であるかどうかは、実際に私の腕が上下するとか、飲み水が供 給されるという事態が起きた後に、それを観察することでしか確かめることができない。他 方、実践的推論を通じて目的実現へと通じる一連の事態が何であるかを導き出した者、すな わち行為者は、それらの事態を「これから起きるべき事態」として語ることができる。  すなわち、「何をしているのか」と問われた行為者が実際に語っているのは、「自分の目的 を実現するのに適した事態はこれだ」ということなのである。そしてこの未来の事態は、未 来の事態である以上、今はまだ存在していない。したがって、行為者はその事態が何である か、観察を通じて知ることはできないのである。あるいはむしろこう言ったほうがいいかも しれない。行為者は観察を通じて自分がどのような事態を引き起こしているのかを理論的に 知るのに先立って、どのような事態が起きるべきかを観察によらずに知っている―すなわ ち実践的に知っているのである。  とはいえ、予言(天気予報、株価予想……)―すなわち未来にかんする理論的知識もま た、未来の事態について語るのであり、こうした場合にも未来の事態は、未来の事態である 以上、存在せず、それを観察によって知ることはできないのではないかという人もいるだろ う。そこで以下では予言と実践的知識の表明の違いがどこにあるかをさらに論じることにし

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たい。  ハドックが実践的推論と実践的知識との結びつきを強調していたこと、そしてその理由を、 実践的推論が行為者の目的を達成するために適した手段を計算することであるという点に求 めていたことを思い出してほしい。これは重要な点である。実践的知識において我々は目的、 すなわち自分が将来真にしたい事態から出発して、その目的が真となるためには現在どのよ うな事態が真になるべきかを知ろうとしている。他方、理論的知識において我々は、現在真 であることから出発して、それを踏まえると将来何が真になるかを知ろうとしているのであ る。つまり、予言においては未来の事態が知るべきものとされるのに対して、実践的知識に おいては現在の事態こそ知るべきものとされているのである。  さらに次のような点も指摘することができる。実践的知識の場合、事実が実践的知識と一 致しない場合には、事実のほうが修正されるべきであるのに対し、理論的知識の場合、事実 が予言と一致しない場合には、予言のほうが修正されるべきとされるのである(7)。予言と実践 的知識の違いはこれらの点に存していると言えるだろう。  何らかの計算に基づいて行為している行為者は、彼が現在なしていることを、彼が行った 計算から導かれた記述の下で捉えている。このことは、なぜ我々が自分のしていることを観 察によってはじめて知った場合に、それが意図的であったことが否定されるのかということ も説明してくれる。観察によってはじめて知ったということは、行為者の推論に、その行為 が―少なくともその記述の下ではという条件つきではあるが―登場していなかったとい うことが意味されるからである(Moran 2000: 125-27)。ここにおいて意図と実践的推論との 関係も明らかとなる。行為者が意図していたことは、行為者の実践的推論に余すところなく 現れている―逆に言えば、実践的推論に登場しなかった行為記述の下で、行為者のしてい ることが意図的であるということはありえないのである。  したがって、実践的知識は以下の二つの意味で観察によらずに得られる知識であるという ことができる。まず第一に、実践的知識において述べられている事態は、それが未来の事態 であるがゆえにまだ存在せず、観察の対象とはならない。第二に、行為者がある記述の下で その行為を捉えているということは、自分がその記述を受ける行為をしているという事実を 観察によってはじめて知るという可能性を排除しているからである。  以上述べられたことから、両者のさらなる違いを導くことができる。実践的知識とは、自 らの目的を達成するのに適した手段を示すものであった。そしてこの知識は実践的理由、す なわち目的と手段の間の関連性を示す推論によって正当化される。この点は非常に重要であ る。なぜなら、ある行為にたいする実践的理由をもつということは、この手段が目的を達成 するうえで、自分の置かれている状況のうち、どのような点がそれに関連しており、どのよ

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二種類の行為の知識 うな点が関連していないのかを区別する能力を有しているということだからである(8)。  すると、予言と実践的知識とは状況の変化に対して異なる感受性をもつことになるだろう。 住人を毒殺するという事例を再び取り上げることにしよう。私は来週その家の住人たちを毒 殺しようと意図している。ここで、彼らが来週旅行するということを示す証拠を手に入れた ものとしよう。すると私は彼らに旅行を中止させる手段は何かないか探すか、あるいは毒殺 を1、2週間遅らせるだろう。他方、もし私が住人たちの行動を予測しようとしているだけ ならば、証拠を手に入れた私はただ、来週彼らは家にいるだろうという予測を撤回し、彼ら は来週家にはいないという新しい予測を立てるだけだろう。つまり、実践的知識の持ち主は、 さまざまな状況の変化を通じて、自らの目的の実現を追求するのに対して、理論的知識の持 ち主は、さまざまな状況の変化を通じて、真理を手にすることを追求するのである。  まとめておこう。実践的知識は以下の点において予言と異なっている。まず第一に、言明 と事実の不一致がどのようにして解消されるのか。そして第二に、状況の変化を通じて何を 追求するのかという点である。  したがって、実践的知識は、行為者が実際になしていることにかんする理論的な知識では ない。それは、行為者が実際になしていることにかんする実践的な知識、すなわちその記述 を持つ行為がどのような意味で自らの目的に適しているのかにかんする知識なのである。た しかに実践的知識の表明は多くの場合、行為者が実際になしていることと一致し、それゆえ に理論的に真なる言明(あるいは予言)となる。しかし我々はこの事実との一致をもって、 実践的知識が知識たるゆえんを説明することはできないのである。

6 ハドックのアンスコム解釈(2)

 以上で、理論的知識と実践的知識の違いは明らかになった。ここでふたたび、アンスコム の主張をどう解釈すべきかという問題に戻ることにしよう。  ハドックが自らの解釈(行為者の語ることは自分がなしていることにかんする理論的知識 の表明でもある)の拠り所としているのは以下の箇所である。少し長くなるが重要な箇所な ので全文引用しておく。  私が目を閉じて「私は馬鹿である」と黒板に書いているとして、自分が何を書いてい るかを述べる場合、私は「これが私の書いているものだ」と単に述べないで、「私の意図 が実現されているとすれば、これが私の書いているものだ」というべきであろうか。  しかしながら、命令は背かれることがあり、意図は実現されないことがある。例えば、 チョークや黒板の表面に不都合が生じ、言葉がそこに現れないということもある。そし

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て、(A)このようなことが生じたとしても、私の知識は同じであったろう。もし(B) 私の知識が現実に生じているものから独立だとすれば、それがどうして起こったことの 知識になりうるのであろうか。その知識の対象が事実ではなかったとしてもやはり知識 であるとしたら、それは奇妙な種類の知識ではないか、と言われるであろう。しかし、 他方、テオフラストスの言葉が正しいとすれば、「間違いは行為にあって判断にはない」 のである(Anscombe 2000: 82)*傍線 ・ ゴシック体への変更は筆者による  まずハドックは、上の引用箇所のうち、傍線部は仮想の対話者の発言であり、その前後を アンスコム自身の発言と解釈する。ハドックによれば、この箇所からわかるのは、アンスコ ムが「実践的知識は事実がどうであるかとは無関係に知識でありうる」という立場はとって いなかった、ということである。彼の見るところ、この立場はまず、すでに引用した「その ような言明を私は今まで知識と呼んできた。というのも、その場合、私の言うことは真だか らである」という箇所―すなわち、事実との一致をもって知識の条件とみなすと宣言して いる箇所―と整合しない。さらに、ハドックは上の引用箇所に登場する「その知識の対象 が生じていないとしてもやはり知識であるとするならば、それは奇妙な種類の知識ではない か」という指摘をアンスコムは受け入れているとする。彼によればこの箇所におけるアンス コムの意図は、下線を施した対話者の発言のうち、ゴシック体で示した(A)からは、(B) が導かれないことを示すことにあるという。そしてその目的のために、彼女はテオフラスト スの言葉を引用しているのである(Haddock 2011: 166-68)。つまり、アンスコムは(A)は 受け入れるが、(B)は受け入れていない、というのが彼の解釈である。  明示的に述べていないが、彼は、(B)を認めてしまえば、行為者の発言が現実に起こった ことについての知識の表明であることを否定することになり、ひいては行為者の発言が理論 的知識の表明でもあることを否定することになると考えているようである。だがもし実際に 彼がそう考えているのだとしたら、(A)は実践的知識について語り、(B)は理論的知識に ついて語っていることになる。つまり、「もし」の前後で「知識」の意味するものが異なって いることになる。私にはアンスコムがそのような不用意な書き方をするとは思えないのだが、 仮にそうだとしておこう(9)。  さて、「間違いは行為にあって判断にはない」というテオフラストスの言葉は、何を意味し ているのだろうか。アンスコムは別の箇所でこの台詞を引用して、「私が語ったことが偽にな るということは、必ずしも私が語ったことを非難することにはならない。ある場合には、事 実のほうが言わば言葉と一致しないがゆえに非難されるのであってその逆ではない」と指摘 している(Anscombe 2000: 4-5)。ハドックのみるところ、この指摘が、(A)から(B)が

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二種類の行為の知識 導かれるのをブロックする。テオフラストスの言葉が正しいとすれば、私が自分の発言― これは実践的知識の表明とされる―の通りに行為できないとしても非難されるとは限らな い、すなわちそれが実践的知識の身分を失うとは限らない。そして、この同じ発言が理論的 知識を表明していないということにもならない。なぜなら私は自分の発言ではなく、行為の 方をやり直すことで、私の発言を―今度は、それは理論的知識の表明とみなされている― 事実に一致させる(真にする)ことができるからだ。(Haddock 2011: 168-69)

7 ハドックの解釈の問題点

 私はこの解釈には納得できない。理由ははっきりしている。ハドックの説明が正しいとし よう。するとどうなるか。我々が自分の行為について語ることが理論的に偽となることは金 輪際ありえない、ということになるのではないか。というのも、行為者は自分がやっている と言ったことが失敗しつつあると気づいたときには、いつでも、元々の発言が真になるよう、 行為をやり直したらいい、ということになるからだ。  多少戯画化すればこうである。チョークが折れてしまった。問題ない。新しいチョークを 探して改めて書けばよい。誰かが黒板に特殊なコーティングをしていたので字が書けなかっ た。問題ない。そのコーティングを剥がしてから改めて書き直せばよい。だが、我々の日常 においてそんな言い分は通らないだろう。それは自分の語ったことが真になることを保証す るやり方ではあるかもしれないが、自分の語ったことが理論的知識であることを保証するや り方ではないからだ。自ら予言を真にすることで予言を的中させている占い師が、なんら未 来について知っているとは言えないのと同じである。その占い師の言うことはよく当たるだ ろうが、真相を知らされてもなお、その占い師に未来の知識があると考える者はいないだろ う。同様に、もし実際に黒板に字が書けていないのなら、やはり私は自分がしていることを 知らなかったのである。  アンスコムは、理論的知識においては「事実(実在)が先行し、あるものが知識であるた めには何が語られるべきかを指定する」と指摘していた。ハドックの議論は、理論的知識に 課せられたこの条件を破っている。自分の語ったことが真になるようにやり直すことを行為 者に認めるならば、ここではむしろ「語られたことが先行し、何がなされるべきかを指定し ている」ことになるからである。やり直しによって発言と事実を一致させることを発言の正 当化として認めるのならば、たとえその発言が知識の表明と言えるかどうかの基準を「事実 との一致」においたところで、行為者の発言を理論的知識の表明であると主張することは難 しい。ハドック言うところの理論的知識とは、実のところ、理論的知識と実践的知識とが合 体したキメラ的な存在なのである。

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 とはいえ、我々が、実践的知識に基づいて行為者が語ることを、その人が実際になすこと、 あるいはなすであろうことについての理論的知識と「見なしている」ことは事実である。ハ ドックのやり方がうまくいかないとして、我々はこうした事実をどのように理解すべきなの だろうか。

8 行為者が自分の行為について語ることはなぜ信用されるのか

 アンスコム解釈のことはいったん脇へ置き、もう一度ただ事実を眺めてみよう。なぜ我々 は自分のしていることについて当人が語ることを信用しているのだろうか。当人の方が、自 分の行為を観察する際に我々よりも有利な立場にいるからだろうか。明らかにそうではない。 行為は観察可能な世界で起きることであり、それを観察する上で第三者が当人よりも劣った 地位にあるわけではないのである。では、当人は自らの意図を知る上で我々より有利な立場 にあるからなのだろうか。つまり、二要素説が指摘するように、あくまでも意図にかんする 報告としてそれを信用しているのだろうか。私はそれも違うと思う。なぜなら、我々がある 人について「あの人は自分の意図を語っているに過ぎない」と語るのは、ごくまれなことで あるように思うからだ。  そのまれな場合とは、行為者が自分の行為について語ることが極めてひんぱんに偽になる 場合である。例えば、茶碗蒸しの作り方を習ったばかりの人のことを考えてみればよい。そ の人の作る茶碗蒸しは、初めのうち失敗の連続だろう。固まらなかったり、す4 が入ってしまっ たりして、とても茶碗蒸しとよべるような代物にはならないのである。この場合、我々は行 為者が「茶碗蒸しを作っているのだ」と語っても、それをそのまま鵜呑みにはしないだろう。 むしろこういうときにこそ、「君は自分の意図について語っているにすぎない」と言うのでは ないか。  だが、その人がある程度習熟して滅多に失敗しなくなったとすればどうか。そのとき我々 は特段の理由がない限り、もはやその人の発言を疑いはしないだろう。そしてこのとき我々 はその発言を当人の意図についてのみ語るものと考えてはいない。その発言は意図を超えて、 その人の行為について真なることを語っているものと考えているのである。  もう私の言いたいことはお分かりだろう。我々が行為者の発言を信用するのは、行為者が たいていの場合、自分がなしていると言ったことを実際になしているからである。この場合、 当人が語ることはたいていの場合に真になる。しかしそれは、事実を知る上でその人が我々 よりも有利な立場にあるからではない。その人が自分の言ったことを実際にやり遂げる能力 を持っているからなのである。我々は相手の能力を信用するがゆえに、相手が語ることを真 として信用するようになるのだ。

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二種類の行為の知識  ここまで読んできて、私の議論はハドックのそれとどう違うのかといぶかしく思う人もい るかもしれない。というのも、ハドックもまた、当人の語ることが理論的に真であると言え る理由を、行為をやり直す当人の能力に求めているようにみえるからだ。  違いは二点ある。まず第一に、ハドックは行為者に行為にかんする真正の理論的知識を帰 属させることができると主張するのに対して、私はあくまで擬似的に帰属させることができ るに過ぎないと考えているという点、そして第二に、ハドックの説明では行為者が何らかの 仕方で行為をやり直すことさえできれば理論的知識を帰属させられることになるが、私の説 明では、あまりに行為者がやり直すようであれば、むしろ我々は行為者にたいする信用を撤 回するということである。なぜなら、ひんぱんなやり直しは能力の不在をむしろ示唆するか らである(10)。  二要素説の支持者も、彼らの議論に対抗してアンスコムを擁護しようとする人々も、行為 者が自分の行為について観察によらない理論的知識をもっているのでなければ、彼女の主張 は正しいとはいえない、という前提のもと、論争を繰り広げてきた。二要素説を唱える者は そのような奇妙な知識は存在しないと指摘する。その指摘は正しいと思う。実際、ハドック の言う理論的知識は、多分に実践的知識の要素を備えたキメラ的なものであった。  この前提を捨てねばならない。我々はたしかに行為者に自分の行為にかんする理論的知識 を帰属させているように見える。しかしそれは実情とは異なる。我々は、行為者の能力にた いする信頼を根拠として、いわば擬似的に行為者に理論的知識を帰属させているに過ぎない のである。

9 実践的知識と外界との関係

 だがこういう反論が待っているかもしれない。結局のところ、私は二要素説の主張をその まま受けいれているに過ぎないのではないか。私がこれまでに論じてきたことは、要するに こういうことである―「何をしているのか」と問われた行為者は実践的推論に基づいて、 目的を達成するために自らのなすべき行為の記述を答える。そして、たいていの場合、行為 者は自らのなすことをその記述に合致させられるだけの能力を有している。ゆえに行為者の 語ることはいわば擬似的に理論的知識の表明とみなされる。  だが実際に何らかの事情で意図した通りに行為できなかったとすれば、やはり私の語るこ とは偽となる。すると、行為者の語ることは結局のところ「私の意図が実現されたとすれば、 私のなしているはずのことはこれだ」という留保つきのものでしかありえないのではないか。  もちろん私としてはそのような留保は無用のものだと主張したい。すでに述べたように、 我々が行為者の語ることを信用する根拠は、行為者の能力にたいする信頼であった。これは

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行為者自身についても当てはまる。行為者自身が自分の発言にほとんど常に確信を抱いてい るのは、自らの能力に信頼を置いているからである。それゆえ、行為者自身を含めて誰も、 問題の発言に「私の意図が実現されたとすれば」というような留保をつける必要はないと私 は考える。  だが、反論はさらに続く。二要素説が「意図は観察によらずに知られ、意図的行為は観察 によって知られる」と主張するとき、そこで暗黙のうちに前提されているのは「意図につい て知ることと行為について知ることとは全く別のことである」ということである。すでに引 用した箇所における「もし私の知識が現実に生じているものから独立だとすれば、それがど うして起こったことの知識になりうるのであろうか」という発言も、こうした思いを反映し たものと言えるだろう。そして、その背後には「自らの意図内容について知っても、外界に ついて知ったことにはならない」という主張が見え隠れしている。  だがここで、「自分の意図内容について知っている」ということで一体どのようなことが意 味されているのだろうか。私がこれまで述べてきたことが正しければ、行為者が意図してい るのは、実践的推論によって示された目的実現へと至る行為の手順の全体である。すなわち、 意図内容について知っているということは、自分が意図している行為がどのようなものかを 理解していることにほかならない。つまり、意図について知っていることは、そこで意図さ れている行為について知っている(理解している)ことでもあるのだ。  すでに5節で指摘したことであるが、もう一度確認しておきたいことがある。それは、実 践的推論が妥当なものであるためには、推論の前提はいずれも真でなければならないという 点である。たとえば、「住人は留守にしていない」とか「ポンプは故障していない」といった 事柄が真でなければならない。さらに、「ポンプを操作すればタンクに水を供給できる」とか 「腕を上下させればポンプを操作できる」といったことも真でなければならない。これらはみ な、私の心の中ではなく、外の世界にかんする理論的知識である。忘れてはならないのは、 これら一連の理論的知識が私の実践的推論の妥当性やその産物である実践的知識の正しさを 支えているということだ。すなわち、もし実践的知識が正しいものであるならば、それは外 界についての真なる理論的知識に支えられている。そして私の見るところ、単なる夢想と意 図とを区別するのは、その内容が正しい実践的知識に裏付けられているかどうか、という点 なのである(11)。  この点を踏まえるなら、意図内容を知っているということは単に自分の心の内容を知って いるに過ぎないとは主張できないはずだ。なぜなら、もし私が語っているのがたしかに意図 と認定されるようなものであるとしたら、それはかならず外界にかんする真なる理論的知識 に支えられているはずだからである。たしかにそれは今目の前で起きている事実からは独立

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二種類の行為の知識 かもしれない。しかし、それはこの世界において成り立っている事実(すなわち、行為者の 理解している手段―目的関係を支えている事実)からも独立なものではありえないのである。

10 まとめ

 本稿では「意図的行為は観察によらずに知られる」というアンスコムの主張の妥当性をハ ドックの解釈を参照しつつ検討した。ハドックの解釈によれば、行為者が観察によらずに自 分の行為について語ることは、第一義的には実践的知識、すなわち実践的推論が描き出す行 為の構造の理解に基づいている。こうした解釈に基づくならば、行為者が自分の行為につい て観察によらずに語ることは、その行為の意味を与えるものであって、実際の行為にかんす る報告や予測とみなされるべきではない。ただし、行為者が自らの行為について語ることは、 第三者から報告や予測として信頼されていることもまた事実である。ハドックはこうした信 頼の根拠は、自分の発言通りに行為をやり直せる行為者の能力にあると論じた。他方、本稿 では、信頼の根拠は、大体において自分の発言通りに行為できる行為者の能力にあるという 見方を提案した。

(1)ここで「その記述の下で」という注意書きをわざわざ付け加えるのは、私がしていることは 別の記述の下では意図的でありうるからだ。例えば私は人だかりの中心にあるものを見ようと して、人ごみをかき分け、身を乗り出すうちにホースを踏んでしまっているのかもしれない。 その場合、私のしていることは「人だかりの中心にあるものを見ようとする」という記述の下 では意図的なのである。 (2)たとえばファルヴィーは、たとえ、私が首尾よくφしたかどうか確認していないとしても「私 はφしている」と主張できるという事実に訴えて、アンスコムの主張を擁護しようと試みてい る(Falvey 2000)。また、ピーコックはφしようと意図している行為者が、たいていの場合φす ることに成功するという信頼性に訴えて、やはりアンスコムの主張を擁護しようとしている (Peacocke 2003)。のちに見るように、本稿における私の解釈はピーコックの路線に沿ったもの である。ただし、彼がアンスコムの言う「実践的知識」を、単に一定の確実性をもって自分の 行為について語る能力と同一視している点には同意できない。 (3)この図はアンスコムが『インテンション』であげている事例に基づいている。ただし、元々 の事例では、家の水槽に飲み水を供給する仕事をしている人物と、その家の住人の毒殺を企て ている人物は別人であった。ここでは、議論を単純にするために、両者は同一人物であるとい うことにしている。 (4)こうした解釈は我々の直観とは異なるという指摘があるかもしれない。その点については7 節以降で詳しく論じる。 (5)ただし、このことは行為者が語る実践的推論に登場しなかった行為記述が実践的知識の対象 にならないということではない。アンスコムがある箇所で指摘しているように(Anscombe 2000:  47)、たとえ当人が自覚していなかった行為記述であっても、それが行為者の目的に貢献してい

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るならば、それは実践的知識の対象となる。彼女が挙げているのは、「パイプに沿って水を流す」 という記述である。もし毒殺を試みている行為者に「なぜあなたはパイプに沿って水を流して いるのか」と問えば、その人は「毒入りの水をタンクに流し込むためだ」と答えることだろう。 (6)これに対して、私の主張は結局のところ、二要素説に与するものでしかないという反論があ るかもしれない。たしかにいまのところ、私の主張は「行為者はあることを意図しているので、 自分がそれを意図していることを観察によらずに知っている」という趣旨のものである。私は それを否定するつもりはない。しかし私が明らかにしたいのは意図にかんする知識が、「意図」 にかんする知識であるためには、それは単に私の心の中の出来事についての知識ではありえな いという点である。この問題については8節で再び論じる。 (7)これはアンスコムの論点である(Anscombe 2000: 56-57) (8)これはアナスの論点である。(Annas 2011: 109) (9)私自身は、(A)(B)に登場する「知識」のいずれも実践的知識を意味していると解釈する。 詳しくは9節をみよ。 (10)「ひんぱんに」としたのは、仮に行為者が行為をやり直すことがあったとしても、能力にたい する信頼が失われるとは限らないからである。行為が失敗する原因の中には、行為者自身の能 力にたいする我々の信頼を損なわないものもある。たとえばチョークが折れてしまったので新 しいチョークを使って書き直すという場合がそうである。しかしこうした原因によるやり直し が毎回続くとしたら、我々は信頼を撤回せざるをえない。その人はチョークをうまく扱うこと ができないのかもしれないからである。 (11)それゆえ、私は行為者が自分の行為について語ることが実践的知識の裏付けをもたない場合 には、そもそも行為者は意図を持ってはいないのだと言いたい。

文 献

Annas, Julia, “Practical Expertise,” in J. Bengson, M. A. Moffet(eds.), Knowing How, Oxford U.P.,  2011 Anscombe, G. E. M., Intention, 2nd ed., Cornell U. P., 2000. Donnellan, K. S., “Knowing What I Am Doing,” Journal of Philosophy 60, 1963, 401-409. Falvey, K., “Knowledge in Intention,” Philosophical Studies 99, 2000, 21-44.

Jones, O. R., “Things Known without Observation,” Proceedings of Aristotelian Society 61, 1961,  129-150.

Haddock, A., ““The Knowledge That a Man Has of His Intentional Actions”” in A. Ford, J. Horn-sby, F. Stoutland(eds.), Essays on Anscombe’s Intention, Harvard U.P., 2014, 147-69.

Moran, R., Authority and Estrangement, Princeton U.P., 2001.

Peacocke, C., “Action: Awarenss, Ownership, and Knowledge,” in J.Roessler and N. Eilan(eds.),  Agency and Self-Awareness: Issues in Philosophy and Psychology, Oxford U.P., 2003, 94-110.

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二種類の行為の知識

Two Kinds of Agent’s Knowledge

Seiichi TAKEUCHI

 Anscombe insisted that we know our intentional action without observing it in Intention.  She held that “the knowledge without observation” is the mark of intentional action. I con- sider two responses to this thesis. One is the objection that insists we just know our inten-tion without observation and the observation is necessary to know our intentional action.  The  other  is  the  sympathetic  view.  Haddock  advocates  Anscombe  by  showing  that  the  knowledge  in  question  is  the  production  of  practical  reasoning.  According  to  him,  the  knowledge comes from not an observation but a reasoning. I propose some modification to  Haddock’s interpretation. Then I articulate the notion of practical knowledge further.

参照

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