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明 治 八 年 の 司 法 改 革

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(1)じ. め. に. 明治八年の司法改革. は. 山. 正. 明. 明治八年の司法改革. 一. 代書人・代言人制度の新設︑審級制度の採用︑行政裁判制度の創設︑裁判事務に関する太政官正院と司法省との間の. 第二に︑裁判システムを近代化することである︒司法行政と裁判権の分離の原則の確立︑検事制度の導入︑証書人・. る︶︑区裁判所︵府県裁判所の下に地方の便宜により設置する︶の五種類の裁判所を組織的忙配置することにした︒. 判所︑出張裁判所︵司法省裁判所の出張裁判所であり︑数県単位に一ヵ所設置する︶︑府県裁判所︵各府県に設置す. るために裁判機構を整備することである︒司法省は全国的司法権を確立するために︑司法省臨時裁判所︑司法省裁. は司法職務定制を策定し︑司法制度改革として次の三点を打ち出した︒第一に︑司法省による全国的司法権を確立す. ︵1︶. 留守政府のもとで︑明治五年四月二十五目︑司法卿に就任した江藤新平は急進的な司法制度改革を推進した︒江藤. 菊.

(2) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 二. ︵2︶ 権限の明確化がその内容である︒第三に︑法典起草権と法律審査権を司法省の権限とすることである︒司法省は以上. のような内容をもつ司法制度改革を推進したのであるが︑明治六年五月二日制定の太政官制のもとでの司法制度は︑ 未だに次のような問題点を有していたのである︒. 第一に︑裁判機構として五種類の裁判所が設置されることになっていたが︑司法行政を相当する司法省と裁判権を. 行使する裁判所との関係については︑司法職務定制は﹁司法省ハ全国法憲ヲ司リ各裁判所ヲ統括ス﹂と定めて︑行政. 庁である司法省が全国の司法権を掌握することを明らかにするとともに︑裁判機関である裁判所を管轄下に置くとし. ており︑組織上︑裁判所は司法省内の一機関として位置づけられていた︒このため︑裁判事務においても司法行政の. 優位が依然として残されているのである︒すなわち︑勅奏官︑華族の犯罪の断刑案︵審理は司法省裁判所で行う︶は. 司法省で作成され︑また国事犯︑死罪および審理の困難な事件等は各裁判所から司法省に伺を提出することが義務づ. けられており︑司法省の裁判事務に対する関与が認められていた︒さらに︑裁判官の人事は司法卿の権限となってい. た︒裁判官︵判事と解部からなる︶のうち︑勅奏官である判事については任免権は正院にあるが︑薦馳は司法卿の権. 限であり︑解部の任免権は司法卿の権限となっており︑司法卿は裁判官の人事を掌握していたのであり︑裁判官の身 分保障は確立されていなかったのである︒. 第二に︑司法職務定制は全国に司法省臨時裁判所︑司法省裁判所︑出張裁判所︑府県裁判所︑区裁判所の五種類の. 裁判所を設置することにしていたが︑これらの裁判所のうち︑司法省が最も重視したのは府県裁判所である︒しか. し︑府県裁判所の設置は地方官から司法権を剥奪することを意味したから︑大蔵省︑地方官の反発を受け︑江藤新平.

(3) が司法卿在任中に設置された府県裁判所は二府十三県にとどまった︵明治四年十二月に設置された東京府を入れると. 三府十三県になる︶︒この結果︑全国三府五十五県中︵明治六年五月末現在︶︑府県裁判所が設置されている府県は三. 府十三県にすぎなかったのであり︑府県裁判所が設置されていない県の裁判は従来通り地方官によって行われていた のである︒. 第三に︑明治四年七月二十九日制定の太政官制では︑国家機構上︑正院は立法︑行政︑司法の三権の最終決定権を. 持つことになっていたが︑司法職務定制によれば︑裁判事務に関する正院と司法省との間の権限の範囲は︑国事犯︑. 死罪︑勅奏官の犯罪および華族の犯罪は︑司法省から正院に断刑伺を提出して許可を受けるが︑それ以外の犯罪につ. いては司法省で専決することができることになっており︑正院の権限は司法省から提出された断刑伺に対して許可を ︵3︶. 与えるだけの受動的なものであった︒しかし︑裁判事務における正院の役割に例外規定が設けられた︒明治六年五月. 二日制定の太政官制は︑﹁凡裁判上重大ノ訟獄アレハ内閣議官其事ヲ審議シ︑或ハ臨時裁判所二出席シテ之ヲ監視ス. ル事アルヘシ﹂︵太政官正院事務章程︶と定めて︑参議︵内閣議官︶は重大な訟︵民事事件︶と獄︵刑事事件︶につ. いて直接審理に参加するものとしており︑また︑国事犯と裁判官の犯罪を審理する機能をもつ臨時裁判所に出席して. 裁判を監視することができるものとしている︒この参議の裁判関与の権限は司法職務定制と矛盾するものであり︑江. 藤司法卿の司法制度改革が目指した裁判システムの近代化の否定であり︑また︑裁判の場に政治が持ち込まれること を制度的に容認するものであった︒. 三. 第四に︑司法省は国家機構上︑司法権を所管とする国家機関として位置づけられているが︑管下に裁判所以外に明 明治八年の司法改革.

(4) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 四. 法寮︑警保寮︑検事局を置いていた︒明法寮は司法官養成︑法典編纂︑法律解釈に関して府県・裁判所から出される. 伺の指令案作成を任務としていた︒また︑警保寮は全国警察の中央機関として設置され︑司法省は訴追機関としての. 検事局のほかに捜査機関までも管下に持ち︑国家機構上︑巨大な権限を有していたのである︒. 小稿では︑江藤新平主導の司法制度改革によっても依然として残されたこれらの問題点が︑それ以後の国家機構改. 革と司法制度改革でどのようにして解決されてゆくのかということについて︑明治八年五月の大審院の設置を中心に. 一〇六ー一三四頁︒. して︑明治六年十月の政変後の時期から明治九年九月の地方官の判事兼任制の廃止の時期までを対象として考察して ゆきたい︒ ︵1︶ 内閣記録局編﹃法規分類大全﹄官職門㈲︑昭和五三年︑原書房︑覆刻版︑. ︵2︶ 司法卿江藤新平が推進した司法翻度改革については︑拙稿﹁江藤新平の司法改革﹂︵﹃法制史研究﹄三九︑平成二年︶を参 照されたい︒. ︵3︶ 内閣記録局編﹃法規分類大全﹄官職門ω︑昭和五三年︑原書房︑覆刻版︑一五九ー一六四頁︒. 一︑明治六年十月の政変と司法制度. 留守政府のもとで改革された司法制度は︑明治六年十月の政変後︑新しい展開を見ることになった︒ここでは大久. 保利通を指導者とする政府の司法制度に対する取り組み︑すなわち︑司法制度改革構想の提示︑司法省首脳の更迭︑. 警保寮の内務省移管問題について考察してゆぎたい︒第一に︑明治六年十月の政変後における政府の司法制度改革構.

(5) 想について述べてゆぎたい︒明治六年十月の政変後︑政府は国家機構の改革に取り組むことになるが︑まず最初に︑. ﹁征韓派﹂参議の下野直後︑国家意思の形成・決定のシステムの改革を行うことにし︑太政官における従来の参議省. 卿分離制を廃し参議省卿兼任制を採用することにした︒参議省卿兼任制は廃藩置県前の明治四年四月の国家機構改革 ︵1︶ 案の中でも盛り込まていたのであるが︑木戸孝允の反対で見送られた経緯があり︑また︑六年五月の太政官制の改革 ︵2︶ の際︑大隈重信が主張していたものであった︒板垣退助︑副島種臣︑江藤新平︑後藤象二郎の四参議の辞表提出以前 ︵3︶. の十月二十二目に︑既に参議大久保利通と右大臣岩倉具視との間に参議省卿兼任制の採用と政府の首脳人事の更迭に. ついて話し合われており︑大久保が主張していた参議省卿兼任制を一気に採用しようとしたのである︒十月二十五. 日︑板垣ら四参議の辞表が受理されるとともに︑参議兼大蔵省事務総裁大隈重信の参議兼大蔵卿︑参議大木喬任の参. 議兼司法卿︑工部大輔伊藤博文の参議兼工部卿︑海軍大輔勝安芳の参議兼海軍卿が発令され︑二十八日には特命全権 ︵4︶ 大使寺島宗則の参議兼外務卿︑さらに十一月二十九日には参議大久保利通の内務卿兼任が決定した︒ここに参議省卿. 兼任制が確立することになり︑国家最高意思を形成・決定する参議が実務諸省から遊離し︑また︑実力ある卿の出現. によって参議が空位になるといった官制上の矛盾は克服されることになった︒この参議省卿兼任制は︑明治十三年に ︵5︶ いったん分離されるほかは︑明治十八年十二月の太政官制の廃止︑内閣制の創設まで続くことになるのである︒ ︵7︶. 参議省卿兼任制の採用を決定した後︑政府は国家機構の改革を行うことにし︑まず︑十一月二日︑内務省の設置を ︵6︶. 五. 内定し︑十一月十目︑太政官布告第三七五号により内務省の創設を発表した︒次いで︑十一月十九日︑伊藤博文︑寺 ︵8︶ 島宗則の両参議が政体取調御用掛を兼任することが決定し︑正院内の制度局において内務省の機構を含めた国家機構 明治八年の 司 法 改 革.

(6) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 六. 改革案の策定が開始されることになった︒ここに国家機構改革案の策定の一環として︑司法改革構想が提言されるこ. とになったのである︒制度局の国家機構改革案の策定作業に参画したのは︑伊藤博文︑寺島宗則の両参議の他に︑左 ︵9︶ 院副議長伊地知正治︑同二等議官松岡時敏︑正院七等出仕尾崎︵戸田︶三良の三名であった︒大久保は制度局の委員 ︵10︶ として福沢諭吉等の洋学者の起用を伊藤に伝えたが︑伊藤︑木戸は反論し実現しなかった︒. ︵11︶. 制度局における国家機構改革案の立案作業にあたって︑参議一同に対して︑国家機構改革に関す意見書の提出が求. められ︑木戸と大久保は求めに応じて意見書を提出した︒ここで木戸と大久保の意見書を司法制度に関連して検討し ︵12︶. ておきたい︒木戸は十一月二十日と二十目の伊藤宛書簡の中で︑国家機構改革に対する自らの基本的な考えと改革案 を提出している︒木戸は政変後の国家機構の改革に対して次のように考えていた︒. ﹁たとへ御改正相成候とも︑今日之有様を格別御変換と申事は所詮六つヶ敷次第に可有之︑僕も洋行中諸氏之政. 談等も聞かぢり︑屹度本邦之政府体裁上も一変不致而はと書綴り見侯処︑帰朝之上実際を推考仕見候へは︑今日. 之品位に而は幾度体裁而已美麗に変換相成候とも︑人智と懸隔有之候ときは其益も有之間敷︑就而は今日之儘を. 纏かに御取捨有之︑可成丈け軽挙卒行之弊を防事々着実に帰し︑有司之責を厚くし︵実に如僕等ものは時勢も鎮. 定候得へは︑要路へは必不被差置が却而為公と虚心に而思申候︶無用之官員を省き候が専要歎と愚考いたし申 候﹂. 木戸は︑現在︑大幅な国家機構改革を行うような情勢でないことを理由に︑今回は国家機構を若干手直しするぐら. いの改革にとどめること︑国家機構の改革は漸進主義で行うべきであること︑当面の課題は有司の責任体制の確立と.

(7) 冗官削減であると考えていたのである︒しかし︑木戸は当面は大幅な国家機構改革を断行する情勢ではないとしなが. らも︑﹁所詮建国之大法確定不致而は︑大政府也地方也全備之良法を立候と申事は甚無覚束存申候︑依而一二之愚案. 丈け左に相認申候﹂と述べ︑将来は根本的な国家機構改革を行うべきであるとして︑自らの国家機構改革案を提示し. ている︒すなわち︑木戸は国家機構の改革として︑e︑会計検査機関の設置︑⇔︑国議院の設置︑㊧︑司法省と裁判. 所の分離︑㊨︑教部省を廃止し︑その事務を内務省に移管すること︑㊨︑太政官中に元老院︑下院を設置すること︑. の︑待紹院の設置︑等をあげているが︑司法制度に関しては国家機構改革の一環として︑司法省と裁判所の分離︑国. 議院の設置を提言している︒国議院について︑木戸は﹁国之字或は準とも有之候︑コンセーター之如き也︑左院を改 ︵13︶ 正するもよし﹂と説明を加えているが︑木戸の言うコンセーターはコンセーユ・デターと考えられる︒司法省と裁判. 所の分離︑国議院の設置は︑これまでの司法制度改革において立案されたこともなく︑木戸によって初めて主張され. たものである︒明治六年五月二日制定の太政官制のもとでの司法制度は︑行政庁である司法省が裁判所を統轄し︑ま. た行政裁判も裁判所で審理されることになっていたが︑木戸は司法制度改革として司法省と裁判所の分離︑行政裁判. を扱う機関として国議院の新設を打ち出したのである︒木戸が国家機構改革案の中で司法制度改革を重視しているこ. とは︑第一に木戸の国家構想と関係がある︒木戸の具体的な国家構想は明らかではないが︑木戸は︑明治六年七月︑ ︵14︶. 欧米諸国から帰国後︑直ちに﹁憲法制定の建言書﹂を提出していること︑また︑今回の国家機構改革案で太政官中に. 元老院︑下院の設置を提言していることから︑三権分立制の国家構想を抱いていたと思われる︒木戸は三権分立制の. 七. 国家構想の視点から国家機構改革案の中で︑司法重視の姿勢を打ち出したものと思われる︒木戸が司法制度改革を重 明治八年の司法改革.

(8) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 八. 視したことは︑第二に︑後述するような木戸派に絡む裁判事件と関係があると考えられる︒木戸は事件の審理中︑司. 法省批判と裁判批判を繰り返しており︑司法制度それ自体も改革すべきであるとの思いを強く持ったものと推定され るのである︒. ︵15︶ 次に︑大久保は国家機構改革案として﹁立憲政体に関する意見書﹂を提出している︒大久保意見書は︑その内容か. ら分けると︑大体三部から構成されている︒まず︑第一は国家体制についてである︒大久保は政体を立君独裁︑君民. 共治︑共和政治︵人民共治︶の三つに分類し︑日本の場合︑﹁此三者ヲ斜酌折衷スルモノ﹂としている︒第二に︑国. 家機構の改革についての提言である︒その内容は次のとおりである︒e︑太政官は正院︑左院︑右院︑式部寮の三院. 一寮によって構成されるものとする︒⇔︑正院は﹁天皇陛下臨御シテ万機ヲ総判シ︑太政大臣左右大臣之ヲ輔弼シテ. 庶政ヲ奨励スル所巨ナリ﹂とされ︑正院が立法︑行政︑司法の三権の最終決定権を持つことは従来と変わらない︒し. かし︑諸省使寮司局の廃立分合︑勅奏任官の任免︑一般の奏事は必ず右院の審議を経ることとなっている︒㊧︑司法 に関しては次のように規定している︒. ﹁凡重大ノ訟獄二付︑其事情二差誤ヲ生シ︑裁判上過マッテ断決スルモノアリトスルトキハ︑司法官其情曲ヲ具. 状シ︑右院ノ商議ヲ経テ太政大臣之ヲ上奏シ︑允裁ヲ得テ其罪科ヲ宥ムルコトアルヘシ﹂. 大久保案では︑重大な民事・刑事事件の裁判において誤審があった場合︑裁判官からその事情を具申させ︑右院の審. 議を経た上で︑正院で赦免するとしている︒六年五月二日制定の太政官制においては︑内閣議官たる参議は﹁凡裁判. 上重大ノ訟獄アレハ︑内閣議官其事ヲ審議シ︑或ハ臨時裁判所二出席シテ之ヲ監視スル事アルヘシ﹂と定められ︑参.

(9) 議は重大な裁判に直接参加することができ︑また臨時裁判所に出席して裁判を監視することがでぎるとされていたの. であるが︑大久保案では︑参議のこのような権限は削除されており︑裁判については誤審についてのみ正院で審議す. るとしている︒画︑左院は﹁諸立法ノ事ヲ議スル所ナリ﹂︑﹁本院ノ議論ヲ経本院ノ鈴印有ル者二非サレハ︑直チニ右. 院二於テ議判シ太政大臣二呈シ︑仮令之力允裁ヲ受クルト難モ決シテ奉行スルコト能ハサル者トス﹂とされ︑左院の. 太政官に占める地位は六年五月制定の太政官制よりも上昇している︒また︑司法省管轄の明法寮は左院に移管するこ ︵16︶. とになっている︒明法寮は司法官養成のほかに法典編纂︑法律の解釈に関して府県・裁判所から出された伺に対する. 司法省指令案の作成を職務としていた︒司法省から明法寮を分離することは司法省の権限の縮小に繋がる︒㊨︑右院. は﹁天皇陛下太政大臣左右大臣参議及諸省ノ卿ニシテ参議タル者二特任シテ諸法案及事務ノ当否ヲ商議シ︑定論ヲ立. テシメ太政大臣ヨリ之ヲ奏上セシムル所ナリ︑若シ最重大ナル事件ヲ商議スルニ当リテハ︑時機二依テ天皇陛下親臨. スルコトアルヘシ﹂︑﹁諸奏事及諸般ノ布令等皆ナ已二右院ノ判決ヲ経ルニ非サレハ︑太政大臣ト難モ決シテ直チニ奏. 上允裁ヲ受ケ奉行スルコト能ハス﹂とされ︑太政官中における右院の地位も左院と同様に上昇している︒ 第三に︑大久保 意 見 書 は 将 来 の 展 望 と し て ︑. ﹁欧州各国多年ノ実験ヲ経テ久シク政学二壷セシ所ノ国二於テハ︑此三大権︵立法︑行政︑司法の三権−引用者︶. ヲ区別シテ︑各其職掌ヲ制限シ︑法規ヲ立テ・以テ各自ノ権限ヲ定メ︑互二相守り毫モ干犯セシムルコトナキヲ. 要ス︑是レ其政務ノ本原二基キ︑其機軸ヲ定立セル者ニシテ︑蓋政体上二於テ其法ヲ得タリト謂フ可シ﹂. 九. として︑国家権力を立法︑行政︑司法の三権に分立することの必要性を述べている︒その上で︑立法機関として華 明治八年の司法改革.

(10) 早法六六巻 一 号 ︵ 一 九 九 〇 ︶. 族︑特命選挙で選ばれた議員︑諸省の卿によって構成される議政院の創設を予定しているのである︒. 一〇. 以上のように︑国家機構改革案の策定作業の参考として提出された木戸孝允と大久保利通の意見書の中に︑司法制. 度に関して重大な提言が含まれていた︒すなわち︑司法省と裁判所の分離︑国議院の設置︑明法寮を司法省から左院. に移管すること︑参議の裁判関与権の削除である︒木戸︑大久保のこれらの司法制度改革についての提言は︑明治八. 年の大阪会議の後の司法制度改革において考慮され︑具体化してゆくことになるのである︒. 次に︑司法省首脳の更迭について述べてゆくことにする︒政府は﹁征韓派﹂参議の下野後︑司法省首脳の更迭を図. った︒明治五年八月から開始された司法制度改革において︑司法省は正院・大蔵省と対立・抗争して改革を推進し. たが︑六年一月には︑予算問題で司法卿江藤新平︑司法大輔福岡孝弟が辞表を提出した際︑司法大丞兼明法権頭大検 ︵17︶. 事楠田英世︑司法大丞兼大検事警保頭島本仲道︑司法少丞渡辺駿︑同丹羽賢の四名も連署して辞表を提出するという. ように︑司法省幹部は司法制度改革のために奔走していた︒まず︑政府は江藤新平の参議転出以来︵六年四月十九. 目︶空席となっていた司法卿の人選を急いだ︒板垣ら四参議が辞表を提出した十月二十四目には︑大久保利通︑大隈. 重信︑伊藤博文の三者会談で政府の首脳人事が話し合われたが︑司法卿の人選について︑大久保利通は岩倉具視宛書 簡︵明治六年十月二十四日付︶の中で次のように述べている︒. ﹁今朝承知仕候諸省云々之事︑大隈伊藤両子へ内談仕候処︑各同意にて諸省折合之為にも大二可然与之事二御坐. 候︑就而ハ過日も申上候通︑先以大蔵外務海軍司法工部五省の処丈を速に御運有之候様希望仕候︑︵中略︶司法卿. 人撰之処には大久保大木佐々木何れへも決定致兼候付︑此上は御見込も可有御坐与申談候︑大木佐々木ハ格別之.

(11) 得失も有御坐ましく奉存候︑大久保を吹挙申上候趣意には︑司法省一旦之紛雑を治ルニハ︑凡而公平二出テ大に ︵娼︶ 可然歎与存候迄二御坐候︑しかし同人御請之有無ハ何とも難申上候﹂. 大久保書簡は司法卿の人選にあたって︑候補として東京府知事大久保一翁︑参議大木喬任︑前司法大輔佐佐木高行. の名前が取り沙汰されたこと︑その際︑司法省の紛議が考慮されたことを伝えている︒司法省の紛議と言うのは︑後. 述の京都府参事槙村正直が関係した小野組転籍事件をめぐる軋礫を指している︒大久保︑大木︑佐佐木の三名の中か ︵19︶. ら︑岩倉の決断によって参議大木喬任が司法卿に就任することになったのである︒空席であった司法卿に参議大木喬. 任が任命された後︑司法大輔以下の更迭が行われた︒司法省臨時裁判所で審理中であった京都府参事槙村正直が特命 ︵20︶. を以て釈放されたことに対して︑十一月五目︑司法大輔福岡孝弟︑司法省三等出仕兼大検事警保頭島本仲道︑同三等 ︵21︶. 出仕兼大検事樺山資綱が辞表を提出して抗議したため︑政府は︑十一月十日︑福岡等三名の辞表を受理し︑警保頭に. は司法大丞兼大検事河野敏鎌を兼任させ︑次いで十三日には︑大判事として佐佐木高行を司法省に復帰させた︒岩倉 ︵22︶. 使節団の理事官として欧米諸国に派遣された佐佐木は︑明治六年三月十日帰国し︑四月十七日︑司法大輔を免官とな ︵23︶. っていた︒さらに翌明治七年一月十五日︑空席だった司法大輔に大判事佐佐木高行が移り︑司法大丞に中判事青山. 貞︑権大判事に司法大丞河野敏鎌︑中判事には松本暢が任命された︒この一連の人事で︑司法卿江藤新平の下で司法. 制度改革を推進してきた司法省首脳の大輔福岡孝弟︑大丞兼明法権頭大検事楠田英世︑大丞兼大検事樺山資綱︑大丞 ︵24︶. 兼大検事警保頭島本仲道のうち︑楠田を除いてすべて司法省から去り︑代って参議兼司法卿大木喬任の下に︑岩倉使. 一一. 節団の理事官であった佐佐木高行︑司法省視察団に加わって欧米諸国の司法制度を調査・研究してぎた河野敏鎌の洋 明治八年の司法改革.

(12) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 行煽りが司法省の首脳に登用されたのである︒. 二一. 政府が江藤新平のもとで司法制度改革を推進してきた司法省首脳を更迭した理由は︑木戸孝允の司法省批判と関係. がある︒明治六年七月︑木戸は欧米諸国から帰国したが︑当時木戸派に関わる事件が続出し︑政治問題化していた︒ ︵25︶. すなわち︑山城屋和助事件︑三谷三九郎事件︑尾去沢銅山事件︑小野組転籍事件であり︑木戸派の山県有朋︑井上 ︵26︶. 馨︑槙村正直が事件に関係していた︒なかでも︑小野組転籍事件では京都府参事槙村正直が司法省臨時裁判所に出頭. を命ぜられ︑木戸は司法省に対する批判と裁判批判を繰り返していた︒木戸は伊藤博文宛に書簡を送り︑次のように 述べて裁判批判をしている︵九月二十一日付︶︑. ︵28︶. ﹁已に昨日司法より追而槙村捕縛するの伺正院へ差出し申候︑定而明日はまた何と欺暴論を起し可申候︑裁判処 ︵2 7︶ に暴威を振ふ︑其国之品位無是非事とは乍申︑国之不幸人民之不幸無此上事と嘆息仕候﹂. 木戸の大隈重信︑江藤新平︑土方久元等への工作にもかかわらず︑十月十四日︑臨時裁判所が開かれ︑槙村京都府. 参事は裁判の場に立たされることになった︒木戸は日記︵十月十七日条︶に﹁槙村正直を臨時裁判所へ拘留せしよ ︵29︶ し︑依て参坐土方と参議江藤へ一書を投す︑司法の所致法外の事不少実可歎﹂と記し︑また︑宍戸磯あて書簡︵十月 ︵30︶. 十八日付︶に﹁近来司法之暴虐驚入候次第に而終に今日之成行に而︑乍恐天皇陛下之御威権も属消無候様立至り可申. 実に悲嘆之至に御座候﹂と述べ︑司法省批判を鮮明にしている︒木戸にとっては︑司法省から江藤前司法卿のもとで ︵31︶ 司法制度改革を推進した人物を一掃することこそが︑木戸派が関係する事件の解決に繋がると考えられたのである︒. このため︑参議に転出後も司法省に影響力を行使していた江藤新平が下野するや︑福岡司法大輔以下の司法省首脳の.

(13) 更迭を図ったのである︒. 江藤司法卿のもとで司法制度改革を推進した福岡司法大輔以下の首脳が更迭されたが︑槙村京都府参事が関係した. 小野粗転籍事件は木戸の思惑どおりには進展しなかった︒十二月十日︑政変で中断していた小野組転籍事件の裁判が ︵32︶. 司法省臨時裁判所で再開され︑十二月三十一日︑京都府知事長谷信篤︑同参事槙村正直は有罪と決定した︵それぞ. れ︑贋罪金四十円︑三十円︶︒槙村の有罪により木戸は司法改革の念を一展強く感じたようである︒木戸は佐佐木高 行宛に次のような書簡を送っている︵明治七年一月十四日付︶︒. ﹁先達て槙村一条に付いても︑必寛裁判の公正に帰し︑天下彌政府に信頼候様有之度之〜心にて︑愚存も建言仕. 候処︑却て司法省中より嫌疑を受け候事も不少︑為天下為人民不堪浩歎候処︑其後老台にも御出勤相成︑篇に為. 人民にも欣躍仕居候︑然る処︑司法省中にも一朝成らざる弊にて︑兎角天下へ公布の御次第と齪齢候事も不少︑. 官員一時の威権を以て︑公布に反し人民を抑圧候様にては︑人民も不知所信︑真以可憐の至︑如此次第にては前. 途を想像候ても︑不堪涕泣︑乍恐︑末小の処は所詮不達御聞事も不少と奉存候得共︑於人民は末小の所に明白公. 正︑兼て人民へ公布相成候御規則を以︑御扱無之ては︑人民の難難いかばかりかと奉存候︑已に此度三谷一条に. 付候ても︑可憐の至と奉存候︑何卒速に此弊一洗有之候様︑大木とも被仰合︑御着手有之候様︑為天下奉万祈 候﹂. ︵33︶. 木戸は槙村の裁判に関して司法省へ建言書を提出したが︑かえって嫌疑を受けることになったこと︑司法省は法規. コニ. に反して権力で人民を抑圧しているため人民の苦悩は計り知れないこと︑司法省の権力行使は法規にもとづいて行わ 明治八年の司法改革.

(14) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 一四. なければならないこと等を挙げ︑司法省の裁判に不満を表明し︑大木司法卿ともども司法省のこのような弊害を除去. することに努めてもらいたいと述べている︒さらに︑木戸は七年一月十五日の司法省人事︵司法大輔佐佐木高行︑司. 法大丞青山貞︑権大判事河野敏鎌︑中判事松本暢の人事︶に満足せず︑河野敏鎌の司法少輔任命と陸奥宗光︵七年一. 月十五日に大蔵省三等出仕兼租税寮頭を辞任して下野︶の司法省登用を大久保︑伊藤︑大木に強力に働きかけたが︑ ︵鍵︶ 河野の司法少輔と陸奥の司法省登用は実現しなかった︒. 次に︑警保寮の内務省への移管問題について述べることにする︒明治七年一月九日︑内務省の創設が公布された︒. 内務省職制及事務章程によると︑内務省には勧業・警保︵以上一等寮︶︑戸籍・駅逓・土木・地理︵以上二等寮︶︑測. 量︵一等司︶が置かれることになっている︒内務省の設置によって︑警保寮は司法省から内務省に移管されることに. なった︒江藤新平の主導した司法制度改革により︑従来︑地方官に委任されていた捕亡事務︵司法警察事務︶は司法. 省の権限となり︑全国警察の中央機関として司法省内に警保寮︑また︑各府県には大警部︑小区には小警部・巡査・. 番人が置かれ︑集権的警察組織が形成されることになっていた︒しかし︑この警察組織は︑明治五年八月二十三日︑. 警保寮が設置され︑兵部省に属していた濯卒千人が警保寮に移されたこと︑六年五月二十二日︑府県裁判所の設置さ ︵35︶ れた府県捕亡吏の身分が司法省所属となったこと以外は︑なお︑プランの段階にとどまっていたのである︒司法省が. 警保寮以下の警察組織を掌握していることは︑捜査機関︑訴追機関︑裁判機関が一体化した徳川時代の刑事手続きか. ら︑司法制度改革により三者が分離の方向を示しながらも︑依然として分離が不徹底のまま残されていることを示し. ている︒警保寮の内務省への移管は︑司法省視察団の一員として欧米諸国の警察制度を調査・研究して︑明治六年九.

(15) ︵36︶. 月に帰国した川路利良の建議の影響が大ぎく︑また︑左院お雇い外国人ジ・ブスヶおよび司法省お雇い外国人ジヨル ︵37︶. ジエ・ブスケのフランス警察制度の調査も多大の参考となった︒さらに司法省の権限縮小と警保寮内に根強く存在し. た﹁征韓派﹂の排除という政治上の問題もあったのである︒新設の内務省に警保寮が移管されたが︑司法省から警保. 寮を分離するという点では︑政府首脳の間では合意があったが︑警保寮を内務省に移管するかどうかについては内. 務省設置日ぎりぎりまで議論された︒大久保利通は岩倉具視宛書簡︵明治七年一月六日付︶の中で次のように述べて いる︒. ﹁差向警保寮之一件︑少々未決二而章程も相調居不申︑伊藤へ相咄合︑同人所存ハ陸軍江附属相成候方︑可然与. 申居候二付︑如何様共︑速二御評決有之様にと申置たる次第二御坐候︑傍而︑尚明朝大木江相咄合可申候間︑是. 非早目御治定可成下候︑十日迄には内務省御開キ之運二いたし度奉存候︑警保寮之事︑当時よほと内情モ有之︑ ︵38︶. 川路も心配中二付︑少々機ヲ誤候而ハ︑別而不都合二可有之候付︑如何二成候共︑川路江御内諭之上処分可然与 愚考仕候﹂. 警保寮を司法省から分離した後の措置について︑伊藤博文は警保寮を陸軍省に附属させる案を持っていたことが窺. われる︒また︑大久保は伊藤案について別段︑否定的ではなく︑早急に決定することを望んでいるのである︒なお︑ ︵39︶ 内務省職制及事務章程は十月八日の閣議で最終決定され︑翌九日公布されたのであるが︑警保寮の取り扱いは最後ま で持ち越されたものと考えられる︒. 一五. 内務省に警保寮が設置されることにより︑これまでプランの段階にとどまっていたとはいえ︑司法省の権限であっ 明治八年の司法改革.

(16) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 一六. た全国の警察権は内務省に移管された︒このことは︑従来︑司法省が警保寮︑検事局︑裁判所を管下に置いていたた. め︑刑事手続き上︑捜査機関︑訴追機関︑裁判機関の分離が不徹底のままであったことから︑捜査機関と訴追機関︑. 裁判機関が分離され︑司法省は訴追機関と裁判機関の機能を果たすことになり︑裁判権の独立の観点から見れば前進 ︵如︶. と言えるだろう︒しかし︑警保寮の司法省から内務省への移管は︑司法警察に重点を置く警察から安寧秩序の維持に 重点を置く行政警察への移行をも意味していたのである︒. ︵1︶ 廃藩置県前の明治四年四月︑江藤新平が策定して正院に提出した国家機構改革案︵官制艸案︶は参議省卿兼任制を採って いた︒官制艸案は正院で内定し︑大久保は即時実施を要求したが︑七月︑木戸孝允の反対で修正され︑従来通り参議省卿分 離制が存続した︒拙稿﹁江藤新平の司法改革構想と司法省の創設﹂︵﹃早稲田法学﹄第六三巻四号︑昭和六三年︶参照︒ ︵2︶ 明治六年五月の太政官制の改正前︑大隈は政府内の混乱の原因は参議省卿分離制にあると指摘し︑参議省卿兼任制の採用 を考えていた︒円城寺清﹃大隈伯昔日諌﹄明治文献︑昭和四七年︑覆刻版︑六二七i六二八頁︒ 大久保利通は岩倉具視宛書簡で次のように述べている︵明治六年十月二十二日付︶︒﹁世上人心動揺も有之︑速に夫々人撰 御登用云々御尤奉存候︑別紙一覧仕候人撰之儀には実二容易二無之︑昨夜も申上候通︑諸省卿参議兼帯二而候得者︑子細も. ︵3︶. 書﹄五︑東京大学出版会︑昭和五八年︑覆刻版︑八七頁︒. 無御坐候得共︑従前之通参議三四名抜擢之事候得ハ︑公平至当諸省も安心いたし候様無之而ハ︑亦々物議を起候而ハ︑実二 相済不申候︑伽而愚考ニハ寧ロ諸省卿参議兼帯になして仕舞候方︑可然欺之旨趣二御坐候﹂日本史籍協会編﹃大久保利通文. 大久保は岩倉宛書簡で次のように述べている︵明治六年十↓月三日付︶︒﹁内省省創設云々之享︑昨日参議中内評仕︑伊藤. 三頁︒. 吉井蒼生夫﹁中央権力機構の形成﹂︵福島正夫編著﹃日本近代法体制の形成﹄上巻︑日本評論社︑昭和五六年︶九二ー九. ︵4︶ 翌明治七年一月二十五目︑参議木戸孝允が文部卿を兼任することになり︑同年八月二日には陸軍卿山県有朋︑左院議長伊 地知正治が参議兼任となり︑開拓次官黒田清隆が参議兼開拓長官に任命された︒ ︵5︶. ︵6︶.

(17) 内閣官報局﹃法令全書﹄第六巻ノ一︵明治六年︶︑原書房︑昭和四九年︑覆刻版︑五七三頁︒. より如何相考侯や︑此一省御立之否二依大に其則二相係り可申と之事候二付︑何れ此事ハ得と評議相成候方可然﹂前掲﹃大 久保利通文書﹄五︑ 二二二頁︒大久保利謙﹃明治国家の形成﹄吉川弘文館︑昭和六一年︑二二六ー二二七頁︒ ︵7︶. ︵8︶ 日本史籍協会編﹃大久保利通日記﹄二︑﹁明治六年十一月十九日条﹂︑東京大学出版会︑昭和五八年︑覆刻版︑一二四頁︒ 伊地知正治・松岡時敏が制度局の委員に任命されたことについては︑宮島誠一郎の﹁国憲編纂起源﹂の六年十一月二十五 目の条に﹁伊地知副議長松岡議官更二正院制度御用掛被仰付︒是ヨリ追々内務職制取調左院職制章程等モ改定ノ評議︑制度 ︵9︶. 局二於テ始ル︑正院ヨリ寺島伊藤ノ新参議︑両人兼勤セラレ候事﹂とある︵﹃明治文化全集﹄第一巻︹憲政編︺︑ 日本評論 社︑昭和四二年︑覆刻版︑三五七ー三五八頁︶︒また︑尾崎三良が委員に任命されたことについて︑尾崎は次のように述べ ている︒﹁予は直ちに太政官へ出仕し︑式部寮の云ふままに請書を差出したる所︑今度は更に制度取調御用掛被仰付候事と云 ふ辞令書を受けた︒此辞令書は寺島︑伊藤両参議の受けたると同じものである︒是が即ち予の就官したる初めで︑即ち明治. 一月二十九日が正しい︒尾崎は慶応四年三月イギリスに留学し法律学を修め︑明治六年十月帰国した︒帰国後︑六年十一月. 六年十一月二十八日と記憶して居る︒其翌日も亦例の通り午前九時頃より羽織袴で太政官へ出掛けた︒官内に制度取調局と 云ふ大札を掲げた一室へ通された﹂︒なお︑尾崎は辞令交付の日付を十一月二十八日としているが︑太政官日誌によれば十. 九九!一〇七頁︒ 一三七頁︒ 一五六ー一五七頁︒石井良助編﹃太政官日誌﹄第六巻︑東京堂出版︑昭和五六年︑五二九頁︒. 二十九日︑正院七等出仕︑七年二月︑左院四等議官︑同年四月正院六等出仕となり︑六年十一月と八年四月の二度にわたり 伊藤・寺島両参議の下で国家機構改革案の策定作業に従事した︒尾崎三良﹃尾崎三良自叙略伝﹄中央公論社︑昭和五一年︑. 坂野潤治﹁明治六年の政変とその余波﹂︵大久保利謙ほか編﹃日本歴史体系﹄近代1︑山川出版社︑昭和六二年三二五−. 一〇三i一〇四頁︒. 一〇六頁︒. 明治六年十一月二十日付木戸孝允宛伊藤博文書簡︵春畝公追頒会﹃伊藤博文伝﹄上巻︑春畝公追頬会︑昭和一五年︑七九. 三二六頁︶︒. 目本史籍協会編﹃木戸孝允文書﹄五︑東京大学出版会︑昭和六一年︑覆刻版︑. 六頁︶︒. 一七. 井上毅は﹁仏蘭西国政覚書﹂の中で︑コンセーユ・デターを﹁国議院﹂あるいは﹁参議院﹂と訳している︒井上毅伝記編. 明治八年の司法改革. 纂委員会﹃井上毅伝﹄史料篇第三︑国学院大学図書館︑昭和四四年︑一一二ー四四頁︒. ︵13︶. ︵12︶. ︵11︶. ( 10 ).

(18) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 一八. ︵14︶ 日本史籍協会編﹃木戸孝允文書﹄八︑東京大学出版会︑昭和六一年︑覆刻版︑ 一一八i一二七頁︒ ︵15︶ 前掲﹃大久保利通文書﹄五︑ 一八二!二〇三頁︒なお︑大久保利通の国家機構改革に関する意見書については︑田村貞雄 ﹁大久保政権の﹃政体﹄構想﹂︵﹃釧路論集﹄第二号︑昭和四六年︶︑田中彰﹁大久保政権論﹂︵遠山茂樹編著﹃近代天皇制の. 成立﹄岩波書店︑昭和六二年︶参照︒. 明法寮については︑手塚豊﹃明治法学教育史の研究﹄慶応通信︑昭和六三年︑七頁以下︑沼正也﹃財産法の原理と家族法 的野半介﹃江藤南白﹄下︑原書房︑昭和四三年︑覆刻版︑五−二六頁︒. の原理﹄三和書房︑昭和三五年︑第三・四章︑参照︒. ︵16︶. 前掲﹃ 大 久 保 利 通 文 書 ﹄ 五 ︑. 一一〇1一一一頁︒. ︵18︶. ︵17︶. ︵19︶ 岩倉具視は木戸孝允宛書簡︵十月二十六日付︶の中で次のように述べている︒﹁御登用人選の事︑一昨朝始て大久保と申 談し︑同人見込も承り︑少々異同有之︑何分伊藤申談し返答有之度申置候処︑同日夕伊藤入来︑大久保示談の上にて返答云 々承り︑只司法卿の所三人見込相異︑小生決を取候様との事に付︑小生大木に決申候﹂前褐﹃伊藤博文伝﹄上巻︑七七四. 前掲﹃ 太 政 官 目 誌 ﹄ 第 六 巻 ︑ 五 一 五 頁 ︒. 尾佐竹猛﹃明治秘史疑獄難獄﹄実業之日本社︑昭和二三年︑九二頁︒. 頁︒なお︑十二月に至り︑木戸は日記︵明治六年十二月二十七日条︶に︑﹁余亦時勢如此不得止行きかかりにて︑含垢柱志 暫文部卿を奉命せんことを答へり︑大藤卿︑陸軍卿︑司法卿云々あり︑皆固辞せり﹂と記し︑司法卿の候補にあげられた が︑拒絶したと述べている︒日本史籍協会編﹃木戸孝允日記﹄二︑東京大学出版会︑昭和六〇年︑覆刻版︑四七〇頁︒ ︵21︶. ︵20︶. 石井良助編﹃太政官日誌﹄第七巻︑東京堂出版︑昭和五六年︑. 一五頁︒. ︵22︶ 同前︑五一七頁︒東京大学史料編纂所編﹃保古飛呂比−佐佐木高行日記1﹄五︑東京大学出版会︑昭和四九年︑三七四 頁︒三八三頁 ︒ ︵23︶. ︵24︶ 明治五年九月︑西欧諸国の司法制度の調査・研究のために派遣された司法省視察団のメンバーは︑河野敏鎌・鶴田皓・岸 良兼養・井上毅・増田克徳・沼間守一・名村泰蔵・川路利良の八名である︒搬稿︑前掲﹁江藤新平の司法改革﹂参照︒. め︑陸軍大輔山県有朋が責任を追及され︑また︑明治五年十一月︑山城屋も自殺した事件である︒江藤司法卿は大検事島本. ︵25︶ 山城屋和助事件は︑陸軍省御用商人山城屋和助が陸軍省から融資された巨額の公金を生糸相場に注ぎ込み︑失敗したた.

(19) 仲道に捜査を命じたとされている︵毛利敏彦﹃江藤新平﹄中央公論社︑昭和六二年︑ 一六八ー一七一頁︒的野︑前掲﹃江藤 南白﹄下︑三七ー四四頁︶︒三谷三九郎事件は︑長州藩の御用達であった三谷が維新後︑陸軍省の御用達となったが︑陸軍. 省から預かった巨額の公金を他に流用したことが発覚したため︑公金弁償の名目で土地を取り上げられ︑三谷が没落した事 件で︑山県有朋が関係を疑われた︵毛利敏彦﹃明治六年政変の研究﹄有斐閣︑昭和五三年︑ 一八四頁︒的野︑前掲﹃江藤南 尾去沢銅山事件は木戸派の井上馨が関係したもので次のような事件である︒尾去沢銅山を領内に もった盛岡藩︵旧南部藩︶は︑白石から盛岡に復帰する条件として七十万両の献金を命ぜられ︑盛岡藩御用達の村井茂兵衛. 白﹄下︑四 五 − 四 七 頁 ︶ ︒. の名義で外債を以て調達した︒廃藩置県後︑外務省は外債を支払うとともに︑大蔵省は村井に対して外債相当金額の返済を 命じた︒村井は年賦で返済することを願い出たが聞ぎ入れられず︑大蔵省は村井が経営を請け負っていた尾去沢銅山を没収 し︑井上馨と懇意の岡田平蔵に払い下げた事件である︒井上は岡田と協同経営する約束をしていたといわれている︒この事 件について︑江藤新平が銅山が村井から岡田に移った経緯の調査を島本仲道に命じたとされている︵小田中聡樹﹁羅去沢銅. 小野組転籍事件は︑明治六年四月︑小野組が神戸および東京へ転籍を願い出たが︑京都府庁が転籍手続きを進めないた. 山事件−司法権独立への陣痛ー﹂︹我妻︑前掲﹃日本政治裁判史録﹄明治・前︑三二二−三二二頁︺︶︒. め︑小野組が司法省達第四六号︵明治五年十一月二十八日の行政裁判を認めた達︶にもとづぎ︑五月二十日︑京都府を相手. ︵26︶. 取り京都裁判所に訴訟を提起した事件である︒審理の結果︑六月十五日︑京都府に送籍すべぎことが判決された︒しかし︑. 京都府は請書を提出せず︑また上告もしなかったため︑京都裁判所から報告を受けた司法省は︑京都府の態度は︑﹁違式罪﹂. これに対して︑京都府は請書の提出を拒否したため︑司法省は正院. ︵いわゆる法廷侮辱罪︶に相当すると判断し︑事件は一転して中央政界に移ることになるとともに︑裁判も行政裁判より刑 事裁判となったのである︒七月二十九日︑京都裁判所は府知事長谷信篤︑参事槙村正直を違式罪に問い︑それぞれ購罪金 八円︑六円を言い渡した︵槙村に対しては八月五日︶︒. 一方︑京都府と京都裁判所は裁判権をめぐって対立しており︑. に京都府の拒刑に対する処罰を上申した︒八月下旬には正院は臨時裁判所の設置を検討し︑九月十四日︑司法省は陪審制の. 司法省は京都府による裁判権の侵害についても臨時裁判所で尋問したい旨上申し︑小野組転籍事件のために設置された参. 導入を上申している︒十月九日︑参座制の導入が決定した︒. 座で︑京都府の裁判権侵害事件も審理されることになり︑十月十四日︑臨時裁判所で第一回目の審理が開始された︒十月十. 一九. 七日の第二回目の審理で槙村の拘留が決定し︑政変直後の十月二十五日︑槙村は特命を以て拘留を解かれた︒十二月十目︑ 明治八年の司法改革.

(20) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 二〇. 政変で中断されていた臨時裁判所の裁判が再開され︑十二月三十︐一目︑槙村の有罪が決定した︒笠原英彦﹁明治六年・小野 組転籍事件の一考察﹂︵﹃法学研究﹄第五八巻第二号︑昭和六〇年︶一ー二五頁︒尾佐竹︑前掲﹃明治秘史疑獄獄難﹄五七− 一〇〇頁︒なお︑京都府の裁判権侵害事件については︑藤原明久﹁明治六年における京都府と京都裁判所との裁判権限争議 ︵上︶︑ ︵下︶﹂︵﹃神戸法学雑誌﹄第三四巻第三号︑四号︑昭和五九︑六〇年︶参照︒. 前掲﹃木戸孝允文書﹄五︑四二頁︒. ︵30︶. 手利敏彦氏は木戸派に関係する事件を重視し︑明治六年十月の政変の真の対立点は︑西郷隆盛の遣韓大使問題ではなく︑. 前掲﹃木戸 孝 允 文 書 ﹄ 五 ︑ 五 六 頁 ︒. 明治七年一月十六日付大久保宛木戸書簡︵前掲﹃木戸孝允文書﹄五︑. 前掲﹃木戸孝允文書﹄五︑. ︵32︶ ︵33︶. (. ( ). ). 39. 大久保︑前掲﹃明治国家の形成﹄二一五−二二六頁︒ 横山︑前掲﹁刑罰・治安機構の整備﹂三二二頁︒ 前掲﹃大久保利通文書﹄五︑二八○頁︒. 横山︑前掲﹁刑罰・治安機構の整備﹂三二二頁︒. 大久保︑前掲﹃明治国家の形成﹄二四〇頁︒. ). ). ( ). ( ( ). 40. 一八二頁︶︑同年一月十八日付伊藤宛木戸書簡︵同. 横山晃一郎﹁刑罰・治安機構の整備﹂︵福島︑前掲﹃日本近代法体制の形成﹄上巻︶三一二ー三一四頁︒. 簡︵同書︑ 一九五頁︶︒. 書︑一八三−一八四頁︶︑同年一月十九日付伊藤宛木戸書簡︵同書︑一八四ー一八五頁︶︑同年一月二十日付大久保宛木戸書. ︵4 3︶. 一七七ー一七八頁︒. 木戸派と司法省の対立であったと指摘されている︒毛利︑前掲﹃明治六年政変の研究﹄一九三ー二〇一頁︒ 藤原︑前掲﹁明治六年における京都府と京都裁判所との裁判権限争議︵下︶﹂九二八ー九三二頁︒. ︵31︶. ︵29︶. 文書﹄五︑四〇ー四二頁︒五一ー五四頁︒五五頁︒前掲﹃木戸孝允目記﹄二︑四二四頁︒四二六頁︒四三三ー四三六頁︒ 前掲﹃木戸孝允目記﹄二︑四三三頁︒. 木戸は参議大隈重信に直接あるいは伊藤を通して︑また︑土方︑江藤へも槙村の為に工作を続けている︒前掲﹃木戸孝允. (( 2827 )) 38373635. (.

(21) 二︑八年改革の前提. 明治七年一月九日︑内務省の創設に伴い警保寮が司法省から内務省に移管されたが︑警保寮の移管問題は専ら政府. 首脳の協議で決定され︑司法省は意見を具申することもでぎなかった︒ここでは司法省による司法制度改革を中心に. 考察してゆきたい︒明治七年一月から七月までの時期︑司法省による司法制度改革は参議兼司法卿大木喬任と司法大. 輔佐佐木高行によって主導された︒佐佐木は四年七月九日の司法省創設の際︑司法大輔に任命され司法省の最高責任. 者の地位についたが︵司法脚は欠員︶︑司法制度改革に対しては漸進主義をもって臨んでいた︒佐佐木は岩倉使節団. の理事官として欧米諸国を視察して帰国後︑欧米諸国歴訪の感想として次のように述べている︒. ﹁全体欧米各国ハ目新ト洋学生常二相唱へ候ヨリ︑自然心得違ニテ︑唯改革トテ百事新規ヲ主張スルヲ︑智識有. ル様二思ヒタルハ大ナル間違ニテ︑各国ニテハ中々古式古例ヲ狼リニ改メズ︑十分議論ヲ蓋シタル上︑始メテ施. 行スルコト・見ニタリ︑日新トハ各智識ヲ研究シ︑百事発明シテ人民ノ幸福ニナルコト便利ナルコトヲ工夫仕出. シ︑昨目ヨリハ今目ト進ムコトナレ共︑政府上ニテハ能々認メ附カヌ中ニハ︑猶軽忽ニハ改革セヌ事也︑其昧ハ. 実二感スル処アリ︑吾輩平素ヨリ頑固ヲ主張シタレ共︑欧米国ノ形勢二疎ナルヨリ︑十分ノ腹モナカリシニ︑今 ︵1︶ 般実地ヲ経歴シテ︑彌吾ガ平素ノ見ル処ヲ信ジタリ﹂. 保守派を自認していた佐佐木は︑欧米諸国を自ら体験することにょって︑我国の近代化に向けての改革は漸進主義. 二一. で行うべきだと改めて確信したのである︒明治七年一月︑佐佐木司法大輔は司法制度改革に関する二つの意見書を大 明治八年の司法改革.

(22) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 二二. 木司法卿宛に提出している︒第一の意見書は︑司法省が早急に行うことが必要なものとして︑訴訟法の制定︑官員の. 削減︑経費の削減︑省内には外国人よりも国内の人材を採用すること等を挙げている︒この意見書の内容には漸進主 ︵2︶ 義者らしく司法制度を抜本的に改革するということは含まれていない︒第二の意見書は裁判の現状について見解を示 したものであり︑次のように述べている︒. ﹁毎府県二行政・司法ノ権務ヲ兼掌スルノ制ハ︑其ノ体裁ヲ得ザルヲ以テ︑既二府県裁判所ヲ設置セラレタルノ. 所アリト難モ︑未ダ之ヲ設置セラレザルモノ多シ︑即チ某地方ハ司法派出ノ裁判所ノ聴断ヲ受ケ︑又某ノ地方ハ. 其ノ派出ノ裁判所ナキガ故二︑其県庁ノ聴断ヲ仰ガザルヲ得ズ︑愛ヲ以テ其規則一定ナラザルナリ︑今遽二之ヲ. 一定センガ為メ︑新二毎地方二裁判所ヲ置カントスルトキハ︑只其冗費ヲ増スノ︑・・ニシテ︑顧テ其ノ成蹟ナカル. ベシ︑蓋シ今新二数十ノ県裁判所ヲ置クト難モ︑其裁判官ハ即チ各県審理所掌ノモノヲ擢用シテ︑之レヲ其ノ官. 二補セザルベカラズ︑若シ否ラズシテ別二他ノ士民ノ内ヨリ人才ヲ撰︑・・︑以テ其ノ官二任ズルモ︑或ハ審判ノ事. 務二至リテハ︑其ノ地方二於テ︑従前之レニ慣熟セザルノ官吏二及バザルコト必セリ︑. ︑是二由テ之ヲ観とハ︑従前ノ如ク重罪疑獄ノモノモ︑或ハ皆之レヲ其ノ地方二委托シテ之ヲ審判セシメ︑或ハ唯. 一紙ノ伺書二由り︑以テ至重ノ訟獄ヲ判決スル事アリ︑是レ人民ヲ保護スルノ良法ト謂フベカラズ︑劉テ之ヲ妨 ︵3︶ 障スルノ器具ト云フベシ﹂. 佐佐木は︑地方における裁判の現状は府県裁判所が設置されている地方は司法省・裁判所系列の裁判を受け︑府県. 裁判所が未設置の地方は内務省・地方官系列の裁判を受けることになり︑制度的にはまったく異なるものとなってい.

(23) る︒地方官の裁判は重罪も含まれており︑このような裁判の現状は人民統治のための妨害物となると指摘しており︑. また︑財政負担増と裁判官の不足が府県裁判所の設置にとって障害となっているとしている︒江藤新平の司法制度改 ︵4︶. 革を批判していた佐佐木もまた︑全国に府県裁判所の設置が必要であるという点では︑江藤と同様に認識していたの. である︒江藤司法卿は︑財政負担の問題については大蔵省・正院と抗争して予算を獲得し︑裁判官の不足については. 府県の裁判担当の官員を司法省官員に配置換えすることによって解決しようと図ったが︑佐佐木司法大輔はこれにつ. いて具体的な指針を示していない︒ゆっくり時聞をかけ漸進的に解決しようと考えていたものと思う︒. 大木喬任︑佐佐木高行主導下の司法省の司法制度改革の具体的な作業は︑江藤新平の司法制度改革が第一に掲げて. いた裁判機構を整備する方針を踏襲することから始まった︒明治六年十二月二十日︑司法省は正院宛﹁長崎函館へ裁 判所被置度義二付伺﹂を提出している︒. ﹁先般中︑大坂長崎へ出張裁判所被置度旨相伺︑追テ御指令相成可ク旨御達相成居処︑元来各開港場二於テハ︑. 内外国民幅湊シ互市売買之業二服シ︑狡好射利ノ輩多ク其間二出没スルヲ以テ︑訟獄事務二於テ一般地方ト違. ヒ︑多端紛擾ヲ極メ候ノミナラス︑右事務万一齊整至当内外関渉之裁判一様二出サル時ハ︑独リ我力人民ノ不幸. ノミナラス︑各国人民ノ不服ヲ生シ︑遂ニハ御国威二関係ノ恐レ無キニシモ非ス侯︑左モ横浜其他ハ既二裁判所 ︵5︶ 被置候得共︑未タ裁判所之レナキ各開港場ノ内︑先ッ本邦ノ首尾タル長崎函館両港へ裁判所被置候様致度﹂. 右の司法省上申は司法省の司法制度改革の推進の様子を窺わせるのに十分である︒司法省上申から︑司法省が正院. 二三. あて大阪︑長崎に出張裁判所の設置を上申したが︑回答が留保されたこと︑また改めて司法省が長崎︑函館に府県裁 明治八年の司法改革.

(24) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 二四. 判所設置を上申したことがわかる︒司法省は未だ一ヵ所も設置されていない出張裁判所の設置と︑明治五年十月二十. 目の大阪裁判所以来︑設置が見送られていた府県裁判所の設置を正院に要請したのである︒ここで司法省が推進して. いる改革の基礎となったのは︑江藤司法卿時代に制定された司法職務定制である︒司法職務定制は裁判所の組織につ. いては︑司法省臨時裁判所︑司法省裁判所︑出張裁判所︑府県裁判所︑区裁判所の五種類の裁判所と定めており︑こ. れらの裁判所を全国に組織的に配置することにしていた︒出張裁判所は司法省裁判所の出張裁判所であり︑その権限. は司法省裁判所と同じであり︑府県裁判所の設置後︑数県単位に一ヵ所設置することになっていた︒また︑府県裁判. 所は江藤司法卿が最も重視していたものであり︑各府県に設置するものとされていたが︑江藤司法脚時代に三府十三. 県に設置された以後は正院・大蔵省の反対で設置が見送られていたものである︵大阪裁判所が最後に設置された︶︒. 司法省は司法職務定制に定められている裁判所を整備する方針を引き続き推進することにしたのである︒府県裁判所. の設置については︑六年十二月二十八目︑司法省上申どおり設置が許可され︑翌七年一月八日︑長崎︑函館に府県裁 ︵6︶ 判所を設置することが長崎県︑開拓使に達せられたのである︒. 一方︑司法省は裁判所未設置の県に対する当面の方策として︑七年二月二十七目︑各県の裁判相当の官員に対して ︵7︶ 裁判事務についての知識向上のため︑司法省において事務見習いをさせることにしている︵司法省達第三号︶︒これ. は裁判所未設置の県から司法省に対して︑裁判事務に熟練の者を譲り受けて任用したい旨の要請が頻繁に提出されて. いたが︑司法省においても予備の官員がないために取られた措置である︒司法省達第三号は︑この時期いかに司法省 ・各県ともに裁判官の不足に悩まされていたかを物語っている︒.

(25) 司法省自身による司法制度改革がようやく開始された時︑改革を中断せざるを得ない政治情勢が発生した︒佐賀の. 乱の勃発である︒明治七年二月四日︑佐賀県士族が租税や国庫金を扱っていた小野組の佐賀出張所を襲撃したこと ︵8︶. が︑電信で政府に伝えられた︒このため︑二月十日に至り︑参議兼内務卿大久保利通に行政・司法・軍事の権限が委 ︵9︶. 任され︑また司法省からは権大判事河野敏鎌︑大検事岸良兼養が大久保内務晦に随行し同人の指揮を受けることが命 ︵10︶. ぜられた︒事件の処理後︑民生安定という名目で府県裁判所の設置が大久保内務卿から上申され︑四月五日︑佐賀裁. 判所の設置が決定し︑四月十三日︑新設の佐賀裁判所は佐賀の乱関係者の裁判を終了したのである︒この事件の裁判. によって︑明治二年十一月七目︑太政官中弁に任命されて以来︑国家機構改革案の策定に取り組み︑その中で司法重. 視の姿勢を打ち出し︑また四年七月九目創設の司法省創設案を策定し︑さらに五年四月二十五日︑初代司法卿に就任. し︑急進的な司法制度改革を断行した江藤新平は極刑に処せられたのである︒﹃自由党史﹄は次のように述べている︒. ﹁江藤の獄を治るに当り︑内務卿大久保利通特に佐賀に至り︑之を処分するに苛察を極む︑是を以て当時我邦に ︵U︶. 駐劃したる外国使臣並に居留民等︑頗る我が司法権の独立を疑ひ︑延いて為めに条約改正の事業に障碍を與ふる に至れりと云ふ﹂. 佐賀の乱の鎮定の後︑司法省の司法制度改革が再開された︒明治七年七月三日︑司法省は控訴裁判所設置について の上申書を正院宛に提出している︒. ﹁明治五年十一月民事裁判之控訴ヲ許サレ︑人民萄モ府県裁判所等ノ裁判二服セサル者ハ︑之ヲ司法裁判所二控. 二五. 訴スルコトヲ得セシム︑本年一月又刑事裁判上告ノ事ヲ建議ス︑控訴ノ法稽備ハルニ幾シ︑然レトモ八道ノ広キ. 明治八年の司法改革.

(26) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 二六. 人民ノ多キ︑之ヲ一ノ司法裁判所二控訴セハ︑菅事件ノ多端ナルノ︑・・ナラス︑遠方ノ人民資産二乏キ者等ハ︑許. 多ノ月日ヲ膿シ︑費用ノ莫大ナルニ恐レ︑不服ヲ抱クト難トモ︑控訴スルコト非ハサル者︑或ハ之レナシトス可. カラメ︑是控告ヲ許サルルノ意二副ハス︑因テ今般土地ノ便宜戸ロノ多寡ヲ斜酌シ︑三府六十県ヲ分テ九大区ト. シ︑一区ゴトニ控訴裁判所一ケ所ヲ設ケ︑各府県ヲ統へ裁判官ヲ派出シ︑控訴ノ事件ヲ受理仕度︑別紙区画ノ見. 込書相添奉伺候間︑至急御評決有之様仕度候也︑但控訴裁判所構成方法ハ︑即今評議中二付︑追テ具申可仕候 也﹂. ︵12︶. 江藤司法卿の司法改革の際︑府県裁判所の裁判に不服の場合は︑民事事件に限り︑司法省裁判所に控訴することが. 認められていたが︑司法省の計画では︑これを改正して刑事事件についても上告を認める建議書を提出したので︑こ ︵13︶. れにともない控訴裁判所を全国の九地区に設置することにしているのである︒これは︑明治六年に大阪︑長崎に出張. 裁判所を設置することを上申したが︑正院は﹁追テ御指令相成可ク旨﹂回答し︑その後も正院は回答を留保してい. た︒そこで司法省は改めて出張裁判所と権限が同じである控訴裁判所の設置を要求したのである︒司法省の計画によ. ると︑九大区の控訴裁判所は︑東京︵第一区︑司法省裁判所をこれに充てる︶︑名古屋︵第二区︶︑大阪︵第三区︶︑ ︵14︶. 広島︵第四区︶︑高知︵第五区︶︑熊本︵第六区︶︑新潟︵第七区︶︑福島︵第八区︶︑盛岡︵第九区︶にそれぞれ置か. れることになっている︒七月十七日︑司法省はさらに正院宛に﹁控訴裁判所管轄地之儀二付上申書﹂を提出し︑﹁右ハ ︵15︶ 即今緊要之節二有之︑労急速御裁可相成候﹂と控訴裁判所の設置を強く要求している︒この結果︑控訴裁判所設置は 七月二十五目に至って許可されることになったのである︒.

(27) 控訴裁判所の設置は正院の決定にもかかわらず実現しなかった︒その理由は佐賀の乱と台湾出兵による国家財政の. 逼迫である︒台湾出兵をめぐる目清両国の交渉を打開するため︑内務卿大久保利通が特命全権弁理大臣として北京に. 向けて出発したのは八月六日のことである︒清国との外交交渉は難航を極め︑こうした対外危機を反映した厳しい政 ︵16︶. 治情勢の中で︑政府は八月十二日︑院省使府県に対し国家危急の際につき︑経費節減︑不急の事業の中止︑前年度予. 算の残余の大蔵省への納入を命じた︒このため︑控訴裁判所の設置は不急の事業と見なされ︑一旦は正院によって許 可されながらも中止に追い込まれたのである︒. 明治七年七月五日︑佐佐木高行は司法大輔から左院副議長に転出し︑後任の司法大輔として山田顕義が任命され ︵17︶. た︒山田は陸軍省から岩倉使節団の理事官として参加し︑帰国後︑東京鎮台司令長官︵六年七月七日︶︑特命全権公 ︵18︶. 使・清国在勤︵同年十一月二十四日︶等の経歴を有しており︑また翌年の大阪会議の際には︑木戸孝允に対して法に. よる政治の確立を訴えている︒山田の司法制度改革についての見解は判らないが︑洋行帰りの一人であり︑木戸に近. い人物であることから︑ともかく改革の必要性は認識していたものと思われる︒佐佐木の左院転出後︑司法省の司法. 制度改革は参議兼司法卿大木喬任︑司法大輔山田顕義によって主導されることになったのである︒台湾出兵に関する. 日清両国の北京会議が妥結し︑全権弁理大臣大久保利通が帰国した目の十一月二十七日︑山田司法大輔の就任以来の. 最初の大きな改革案として︑陪審の設置が上申された︒陪審制度は明治六年十月九目︑司法省臨時裁判所で小野組転. 二七. 籍事件を審理するために制定された参座規則に始まる︒この参座規則は最初の陪審規則であるが︑この参座制度は小 ︵19︶ 野組事件を審理するために設置されたもので︑一般の事件には適用されないものであった︒司法省の正院あて﹁陪審 明治八年の司法改革.

(28) 早法六六巻一号︵一九九〇︶ ︵20︶. 設置ノ法御設相成度儀伺﹂は次のように述べている︒. 二八. ﹁糺獄ノ拷訊ヲ用ユルハ︑素ヨリ苛二渉リ冤柱二陥ルノ恐不少︑況ンヤ世ノ進歩二従ヒ世上ノ鴛々ヲ生シ︑又外. 国人二誹議ヲ来シ︑治罪方法二於テ決シテ公平ヲ得ルモノト為ス可カラス︑伽テ当省本年第十九号ヲ以テ︑凡獄. ヲ鞠スル努テ拷訊ヲ用ユ可カラサル旨ヲ布達二及ヒシト難トモ︑未タ全ク廃止スルコトヲ得サル所以ノモノハ︑. 其罪ヲ断スルハロ供結案二依ルノ律アルヲ以テナリ︑然ラハ則試二口供結案ヲ廃セシ乎︑之二換ルノ法無ル可カ. ラス︑若シ之レニ換ルノ法ナクンハ︑其ノ弊亦恐ラクハ杜撰歯妄ヲ以テ人罪ヲ決スルニ至ラン︑欧州各国多クハ. 陪審ヲ置テ以テ其罪ヲ決ス︑陪審固ヨリ百中スヘキト認スルニ非スト難トモ︑之ヲ国権二掲ヶ之ヲ国法二示シ以. テ国民一般二認承セシモノ也︑今ヤ御国二於テモ拷訊ヲ廃止セント欲セハ︑口供結案ヲ廃止セサル可カラス︑口. 供結案ヲ廃セント欲セハ︑陪審亦設ケサル可カラス︑陪審ヲ設ル事ハ御国憲ト御国法トニ関係ス︑宜シク御詮議. 被為在︑追々陪審設置ノ法御設相成候ハ・拷訊等ノ儀モ全ク廃止二至リ︑人民多少ノ幸福ヲ可受ト存候︑傍テ此 段致上申候条︑可然御指令有之度候也︑. 追テ司法省裁判所二於テハ︑判事及ヒ其他ノ人員ヲ撰ミ仮リニ陪審二充テ︑罪ヲ決ス可キ議モ有之候二付︑此旨 御允可相成候ハ・同裁判所ノミ先以施行可然ト存候間︑此段モ添テ相伺候也﹂. この時期︑刑法として新律綱領︵明治三年十二月二十日制定︶と改定律例︵明治六年六月十三日制定︶が並び施行. されていた︒拷間は新律綱領に定められた公許の制度であり︑改定律例第三一八条は﹁凡罪ヲ断スルハロ供結案二依. ル﹂と定めて︑白白によらなければ︑罪を断じえないものとして︑自白を法定証拠とする主義を明かにしている︒し.

(29) ︵22︶. ︵21︶. たがって拷問は広く行われていた︒このため司法省は各裁判所︑各府県に対して拷問禁止を命じたが︵司法省達第一. 九号︶︑但書に﹁尤モ推問上差支ヲ生シ候様之儀有之候節ハ当分相用不苦候﹂として︑拷問すべてを禁止しなかった︒. 司法省上申は︑拷問が国内にあっては冤罪を招くことで非難を浴び︑外国からは誹諺されており︑刑事訴訟としても. 公平な審理が行われるとは言えないと指摘して︑拷問を廃止するには︑自白法定証拠主義を廃止しなければならな. い︒自白法定証拠主義を廃止するには︑欧米諸国のように陪審を設置しなければならないと主張するのである︒ここ. では拷問廃止が陪審制度と結び付けられて考えられているのである︒さらに司法省は司法省裁判所については︑直ち. に判事その他の人員で構成する陪審の設置を許可することを要求している︒司法省上申に対して︑正院は﹁上申ノ趣. ハ尤之次第二候得トモ︑其省建論ノ如ク陪審ヲ以テ人罪ヲ決スルハ国憲二関係候儀二付︑追テ被定候迄ハ従前之通相. 可心得候︑且判事ヲ以テ仮リニ陪審二充テ候ハ︑陪審ヲ設ル原旨三戻リ候二付︑豫シメ難聞届候﹂として︑陪審の設 ︵23︶. 置は司法権を含む国家意思決定のシステムの変更に関わるものであるとして回答を留保し︑司法省に判事とその他の. 人員で陪審を構成することについては拒否している︒従来の我国には存在しなかった陪審制度を人権保障との関連で ︵24︶ 設置するという司法省の計画は画期的改革となるものであったが︑実現するに至らなかったのである︒. 司法省は陪審制度の創設のほかに裁判機構の抜本的な改革を考えていた︒裁判機構の抜本的な改革を取り入れた司 ︵25︶. 法省の司法制度改革草案が︑翌明治八年一月七日︑司法卿大木喬任から太政大臣三条実美あてに提出された﹁司法省. 定則並職制﹂である︵以下︑司法省案と略記する︶︒参議大木喬任が司法卿を兼任して以降の司法制度の改革は︑陪. 二九. 審制度の創設を除けば江藤司法卿の改革の際に制定された司法職務定制に沿って行われてきた︒司法省案は司法職務 明治八年の司法改革.

(30) 早法六六巻一号︵一九九〇︶. 三〇. 定制のうち︑裁判所の緯織に関する部分を改定しようとするものであるが︑司法省案は大阪会議の後の八年五月の司. 法制度改革において修正されて取り入れられてゆく極めて重要なものである︒司法省案の内容を整理すると次のよう になる︒. まず第一に︑司法省は﹁全国ノ法憲ヲ司トリ局及裁判所ヲ統括ス﹂と定められており︑司法権を掌握する国家機関. として位置づけられ︑大審局以下の裁判機関を管轄するとしている︒第二に︑裁判所の種類は︑大審局︑一等裁判. 所︑二等裁判所︑三等裁判所の四種類の裁判所である︒大審局の権限は︑e︑民事刑事の上告を受け︑また各裁判所. 終審裁判の誤審を破穀して︑これを覆審し法律の統一を図る︑⇔︑裁判官の犯罪を裁判する︑㊧︑法律の疑問を解明 ︵26︶ する︑となっている︒第三に︑大審局の職制については局長は司法卿が兼任し︑審理を担当するのは正権大中少法官. である︒第四に︑正院と司法省との権限の範囲については︑司法卿が上奏して制可を請う必要があるものは︑e︑死. 罪︑国事犯︑内外関渉の重大犯罪︑⇔︑刑法の改正︑㊧︑勅奏官および華族の犯罪︑四︑省内の奏任官の馳防︑㈲︑. 裁判管轄の画定および二等裁判所の廃置︑の︑予算外の費用︑となっている︒このうち裁判事務に関しては︑国事犯. 罪︑内外関渉の重大犯罪︑奏任官および華族の犯罪については︑司法省から正院に断刑伺を提出し︑勅裁を得なけれ. ぽならないことになっている︒第五に︑司法省の職制は︑卿︑大少輔︑大少丞︑正権大中少録である︒第六に︑大審. 局を除く裁判所の裁判官は︑一等裁判所は正権大中少判事︑下調係判事︑正権大中少解部によって構成され︑二等裁. 判所は判事︑下調係判事︑三等裁判所は解部によってそれぞれ構成されることになっている︒司法省案は以上のよう. な内容を持っているのであるが︑司法職務定制と比較して最も異なるのは司法省臨時裁判所の廃止である︒司法省案.

(31) は︑司法職務定制により司法省臨時裁判所の権限とされていた国事犯と裁判官の犯罪は大審局の権限とされている︒. 司法省案は裁判機構の抜本的改革を意図していたのであるが︑司法権の独立の観点からすると次のような問題点が. 依然として残されている︒第一に︑司法省が大審局以下の裁判所を統括し︑司法卿が大審局の長官である局長を兼任. するなど司法行政と裁判権の分離が従来と同様になされていない︒第二に︑裁判事務についての司法省と正院との権. 限の範囲は︑国事犯︑内外関渉の重大犯罪︑奏任官および華族の犯罪については︑司法省から正院へ断刑伺を提出す. る必要があるとされている︒司法職務定制においては︑司法省が正院に断刑伺を提出することになっていた犯罪は︑. 国事犯︑死罪︑勅奏官および華族の犯罪となっていたから︑若干︑犯罪の範囲が縮小されているが︑裁判事務の最終. 決定権が正院にあることには変わりはない︒これは︑次の第三にも関係しているが︑正院が立法︑行政︑司法の三権. の最終決定権を持っているシステムにおいては︑このシステムそのものを改正しなければ解決し難い問題なのであ. る︒第三に︑明治六年五月二日に制定された太政官制では︑参議が重大な刑事・民事裁判の審理に参加し︑また︑臨. 時裁判所の審理を監視することがでぎるとされていたが︑司法省案はこの参議の裁判関与についての条項を欠いてい. るが︑参議の裁判関与の問題は太政官正院事務章程を改定しなければ解決しない問題であるから︑司法省案でも依然. ︵28︶. として参議の裁判関与が残されることになっていたと考えられる︒ ︵27︶ 司法省から正院に上申された司法省案は︑八年二月三日から左院の審議に付されることになった︒左院での審議の. 結果︑正院に提出されたものが﹁司法省職制並二事務章程﹂である︵以下︑左院意見書と略記する︶︒ここで左院意. 三一. 見書の内容を検討しておきたい︒まず︑左院意見書は司法省案の全体を批判して次のように述べている︒ 明治八年の司法改革.

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