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真宗研究44号全

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(1)

ISBN 0288191

慎宗連合學會研究紀要

第四十四輯

1 12:ri=1

虞 宋 連 合 學 會

(2)
(3)

直 ︵

宗 研 究

第 四 十 四 輯 真

宗 連 合

(4)
(5)

本 願 成 就 文 に つ い て ⁝

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⁝ ・ 大

視鸞における時の問題

﹁ 信 巻 ﹂ 菩 提 心 釈 の 考 察 ⁝

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⁝ ・

・ 大 法然と親鸞の三経観について………••本願寺派

一二心釈を中心に

本 師 釈 迦

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⁝ ⁝ 高

真慧上人の教学的特徴⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝龍谷大学

悲願の一乗………••大谷大学

むなしく生死にとどまることなし

蓮 如 の 機 法 一 体 観 に つ い て

⁝ ⁝

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⁝ : 京 都 女 子 大 学 親 鸞 の 教 化 観

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⁝ ・

・ 大 谷 大 学

その主体性の思想史的考察

l

真 宗 研 究

第四十四輯

田 谷

派 派

目 次

江 上 琢

徳 永 道

藤 嶽 明 信

︵ 七 六

賢 保 之

︵ 六

0 )

佐 波

中 臣

平 原 晃

谷 派 武 田

未来雄(‑)

至 ( ‑ ︱

0)

雄︵

九一

(‑0

真︵

四四

宗︵

一六

(6)

会 員 異

会 彙

こだわりと浄土真宗………•本願寺派

真 宗 と 森 田 療 法 ⁝

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: 真 宗 佛 光 寺 派

法然における機教相応について………••本願寺派

真 宗 寺 院 に お け る 開 基 伝 承 の 変 化 神 奈 川 県 立 湘 南 養 護 学 校

﹁法系﹂から﹁教団内身分﹂へ

無量寿経の﹁五悪段﹂と在家者の布薩⁝⁝⁝龍谷大学

A 記念講演 V

難思議往生を遂げんと欲う………••

卑 :

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J I

  I 

龍 口 明

塩 谷 菊

11 

靭 津

祐 圭 B "   "

信 ( ‑ ︱

︱ ︱ ‑ ︶

介 ︵

一 四

四 ︶

彰︵

一発

美 ︵ 一 七

︱ ︱ ‑ ︶

生︵

天四

昭︵

一究

︵ 三 ︶

( 一 ︶

 

(7)

本願

成就

文に

つい

では

ない

か︒

親鸞は︑本願の成就をどのように了解したのであろうか︒本願成就文は︑しばしば指摘されているように︑親鸞に おける時の問題として読まれている︒本願は︑第十八願文に﹁若不生者不取正覚﹂と誓われ︑その成就すなわち阿弥 陀仏の成仏とは︑衆生の救いの成就を表すのである︒本願の成就は︑自己の往生︑救いの成就を抜きにしては考えら れない︒確かに︑往生浄土とは︑今生の苦悩を解決するために此土を超えた彼方の世界に救いを求めるものである︒

しかし︑親鸞は︑むしろ積極的に現在において救いの道を見出していったのではないか︒すなわちそれが︑親鸞にお ける時の問題である︒我々は︑生死無常に於て︑過去に後悔の念を抱き︑未来に対して不安を抱くが如く︑常に時に 執着し時に束縛されている︒親鸞は︑そのような時間において︑現在安住を見出すのが︑本願の成就であると見たの 諸有衆生︑其の名号を聞きて︑信心歓喜せんこと︑乃至一念せん︒至心に回向せしめたまえり︒彼の国に生ぜん

問 題 提

起 親鸞における時の問題ー

i│

本願成就文について

大 谷 派 注

i

(8)

夫れ真実の信楽を按ずるに信楽に一念有り︒ と︑本願成就が行信の回向成就と了解されることになるのである︒このように﹁回向成就﹂とは︑本願成就の現在することを示すのではないか︒その回向成就の信心について︑

夫れ以みれば︑信楽を獲得することは如来選択の願心より発起す︒

と︑﹁獲得信楽﹂と言われ︑またそれは如来選択の願心より発起すると︑﹁発起﹂と表されている︒﹁発起﹂とは︑正

しく回向成就が︑信心の獲得という体験として︑自己の今の時に起こった事を示していると言えよう︒それは︑

と︑﹁信楽に一念有り﹂︑その一念とは﹁侶楽の開発する時剋の極促を顕わす﹂と︑願成就文の﹁一念﹂について解釈

されている︒本願の成就が︑正しく信一念の﹁時﹂として開発することが表されているのである︒﹁発起﹂や﹁開発﹂

とは︑本願の回向成就が具体的に現在の時に起こることを示しているのではないか︒﹁回向成就﹂という事は︑願成

就が自己に現在するということではないか︒このような本願成就文について︑親鸞における時の問題として考察して

し ︒ 爾れば︑若しは行︑若しは信︑ と願ぜば︑即ち往生を得︑不退転に住せん︒唯︑五逆と誹謗正法とをば除く︑と︒

と︑親鸞は︑本願成就文を自己の信仰体験に基づいて確認し︑独特の読み方をしている︒この文は︑﹁乃至一念﹂で

区切られ︑﹁至心回向﹂は﹁至心に回向せしめたまえり﹂と読まれている︒﹁回向﹂とは︑如来の回向であると聞き取

られたのである︒親鸞は︑よき人法然に出遇い︑自己にも念仏申さんと思い立つ心が起るという体験を持ち︑それを

(2 ) 

﹁雑行を棄てて本願に帰す﹂と表白している︒そのような自己の信仰体験を通して︑本願成就文が了解されたのであ

る︒故に︑それは︑

本願

成就

文に

つい

︵﹃

定親

全﹄

一.

︱‑

︱‑

六ー

七頁

︵﹃ 定親 全﹂ 一・ 九八 頁︶

一事として阿弥陀如来の清浄願心の回向成就したまう所に非ざることあることな

︵﹃ 定親 全﹂ 一.

︱‑ 五頁

︵﹃ 定親 全﹂ 一・ 九五 頁︶

一念は斯れ信楽開発の時剋の極促を顕し︑広大難思の慶心を彰す也︒

(9)

本願

成就

文に

つい

但の盲冥をてらすなり いまに十劫をへたまへり 弥陀成佛のこのかたは

本願成就と弥陀成仏 衆生の往生のほかに弥陀成仏はない︒故に本顧の成就は︑自己の救いの成就として︑見出されるのではないか︒親 鸞は︑その事を︑行侶の回向成就として了解していると言えよう︒しかし︑﹃無贔寿経﹄には︑

成佛より已来︑凡そ十劫を歴たまへり と説かれている︒それは︑本願成就の時を︑回向成就として信心獲得の﹁今﹂とすることと矛盾するのではないか︒

本顧成就文を見る視点は︑この﹁弥陀の正覚﹂をどう了解するかで大きく変わる︒そこで︑まず︑親鸞が﹁十劫正 覚﹂をどう頷いているのかを確かめ︑そこから本願成就文をどのような視点から了解すべきか︑考察してみる︒

親鸞は︑阿弥陀の成仏について︑﹃浄土和讃﹄において次のように讃歌している︒

法身の光輪きわもなく

︵﹃

真聖

全﹄

・一

五頁

︵﹃ 定親 全﹄ ニ・ 和讃 篇八 頁︶ と︑﹁いまに十劫をへたまえり﹂という﹁今﹂において弥陀の成仏が頷かれている︒この﹁今﹂は︑弥陀が成仏し︑

世の盲冥を照らす﹁法身の光輪﹂が現にはたらいている時を表している︒これは︑親鸞の課題が︑弥陀の成仏・不成 仏を問うというのではなく︑現に闇を照らす光明の働く﹁今﹂という時を見出すということにあったことを︑示すの

ではないか︒故に親鸞は︑﹁いまに十劫をへたまえり﹂と言いつつも︑ い

こう

と思

う︒

(10)

ひさしき佛とみえたまふ

と︑弥陀仏は﹁塵点久遠劫よりも久しき佛とみえたまふ﹂と謳われている︒この﹁久遠仏﹂ということは︑﹃無量寿

経﹂には法蔵菩薩が滅度を取ると説かれつつも︑阿弥陀仏が︑単に法蔵菩薩が仏となった有限の仏ではないことを示

法身はいろもなし︑かたちもましまさず︒しかればこ︑ろもおよばれずことばもたへたり︒この一如よりかたち

をあらわして︑方法身とまふす御すかたをしめして︑︑ー比となのりたまひて︑不可思議の大誓願をおこし

てあらわれたまふ御かたちおば︑世親菩薩は尽十方元碍光如来となづけたてまつりたまへり︒

いる

(『定親全」―――•和文篇一七一頁.傍線筆者)

と︑阿弥陀仏の因位法蔵比丘は︑﹁一如より形を表して法蔵比丘と名のりたまう﹂と︑一如から表れたと述べられて

一如・法性法身より形を表すとは︑そこに衆生救済の大悲本願の精神を読み取ることが出来るのではないか︒

親鸞は︑弥陀仏を﹁成仏して十劫をへたまえり﹂と言いつつも︑﹁塵点久遠劫よりも久しき仏﹂とも言う︒﹁久遠仏﹂

とは不生不滅の常住なる仏身であり無因無果であるが︑﹁十劫正覚﹂には︑因位法蔵の誓願が報いた結果であり︑因

と果がある︒﹁十劫正覚﹂は﹁今﹂の時に頷かれている︒阿弥陀仏が﹁久遠仏﹂であり︑同時に︑因位法蔵の誓願が

報いた﹁十劫正覚﹂でもあるのは︑自己の﹁今﹂の時において衆生救済の本願が見出されるためではないか︒そこに︑

﹁久遠仏﹂のままでは本願を見出すことの出来ない自己の問題を見るべきではないか︒

このように﹁久遠﹂と﹁十劫﹂について様々な議論があるが︑それを本願中心に主体的に見ていくべきであると述 している︒親鸞は︑﹃唯信紗文意﹂に︑ 塵点久遠劫よりも いまに十劫とときたれど 弥陀成佛のこのかたは

本願

成就

文に

つい

︵﹃ 定親 全﹂ ニ・ 和讃 篇三 六頁

(11)

本願

成就

文に

つい

(

3)  

べたのは︑曽我量深である︒

︵﹃ 曽我 量深 選集 二巻

﹂三 七二 頁︶

即ち如来の本願を中心とする信念起こる時︑久遠実成はその基礎となり︑十劫正覚はその結果となる︒吾人は唯

本願を信ずる︱つの上に久遠と十劫とを併せ味ふことが出来る︒

と︑久遠と十劫の問題を︑本願を信ずる信念の上に於て了解すると言われる︒弥陀の成仏とは︑曽我量深が示してい

るように︑本願を中心にして見ていくべきである︒何故ならば︑

かく超世の大誓願を深く味ふ時︑法蔵比丘は久遠実成の如来の顕現とせねばならぬ︒然らば久遠の如来は何故に

久遠のままの御姿を以てその救済の御本志を一切衆生に顕示し給ふことが出来なかったのであるか︑何故に人間

比丘として和光同塵し給ひたのであるか︒⁝中略⁝かくて如来はその誓願を我々衆生に示さん為に忽然として久

遠の光明を和らげ︑人間の煩悩の塵に同じて法蔵比丘と降誕して︑その久遠の大誓願を表明し給ひた︒

︵同

上三

七二

頁︶

と︑如来は久遠のままで本願を発したのではない︑と言う︒すなわち本願とは︑如来が人間の煩悩の塵に同じて法蔵

比丘として降誕し︑発されたのである︒﹁法蔵比丘﹂と名のり表れたのは︑正に衆生に本願を顕示するためであった︒

ここでは︑弥陀成仏の問題が︑主体的に本願を中心にして了解されている︒それは︑本願の正機としての凡夫の自覚

を通しての見方である︒弥陀の正覚が﹁十劫をへたまえり﹂と言われつつも︑久遠劫来の久しき仏と言われる︒曽我

量深は︑そこに︑法蔵比丘の降誕︑煩悩成就の凡夫を救わんと煩悩の場に立って発された本願を見ている︒弥陀の正

覚とは︑﹁今﹂の時に生きる自己を救わんとする本願のはたらきを見出してこそ︑明らかになるのではないか︒

弥陀成仏は主体的に今を生きる自己を通して理解すべきである︒それは︑善導の弥陀の酬因身であることの論証か

らも了解される︒

又﹃無量寿経﹂に云く︒法蔵比丘︑世饒王佛の所に在して菩薩の道を行じたまいし時︑四十八願を発して︱一の

(12)

願に言わく︒若し我れ佛を得んに︑十方の衆生︑我が名号を称して我が国に生れんと願ぜん︑下十念に至るまで 若し生れずば正覚を取らじと︒今既に成佛したまえり︒即ち是れ酬因之身なり︒

-•四五七頁)

善導は︑阿弥陀仏が報仏であることの教証を﹃無量寿経﹂の教説によって証すが︑その引用し証明する方法は実に主 体的であると言える︒すなわち善導は︑四十八願が︑

一々の願に念仏往生の願が誓われたと言うのである︒念仏往生 の願は︑阿弥陀仏が因位法蔵菩薩の時に平等の慈悲によって︑普く一切衆生を救おうと起こされた願である︒その念 仏往生の願によって︑善導は︑﹁今既に酬因の身なり﹂ということを証明している︒弥陀の四十八願は︑罪悪深重煩 悩熾盛の衆生をたすけんが為に誓われた念仏往生の願である︒善導が︑﹁今既に成仏せり︑即ち酬因の身なり﹂と︑

﹁今﹂と言うのは︑正しく念仏申さんと思い立つ心が起こる時に立ち︑弥陀成仏の時を明らかにしているのである︒

この論証は︑正しく主体的に弥陀の本願を自覚し︑阿弥陀仏が報仏であることを証明しているのである︒

阿弥陀は久遠のままでは︑自己の﹁今﹂に明らかにならない︒衆生の煩悩の塵に同じて法蔵菩薩として降誕し︑そ の煩悩成就の衆生を救おうという本願が顕現される︒阿弥陀の成仏とは︑本願を過去のものとするのではなく︑むし ろ本願が虚しくなく必ず自己の救いを成就することを明かすものではないだろうか︒

若し我れ成佛せんに︑十方の衆生我が名号を称せん︑下十声に至るまで︑若し生れずば正覚を取らじと︒彼の佛 今現に在して成佛したまえり︒当に知るべし︑本誓重願虚しからず︒衆生称念すれば必ず往生を得と︒

•四五頁)

と︑﹁彼仏今現在成仏﹂の確倍によって︑仏の本願は虚しくなく﹁衆生称念すれば必ず往生を得る﹂ということが明 らかになる︒この﹁今現在﹂において本願のはたらきが明らかになるのである︒親鸞は︑経典に説かれた﹁十劫正 覚﹂を︑﹁いまに十劫をへたまえり﹂と頷いた︒それは︑弥陀の正呂見において本願が成就する︑その本願は虚ではな い︑今現に本顧のはたらきが自己において明らかとなった︑すなわち本願が現在することを示しているのである︒弥

本顧

成就

文に

つい

(13)

本願

成就

文に

つい

陀の成仏即ち本願成就は︑自己の﹁今﹂を抜きにしては明らかにならないであろう︒

回向成就の行信

弥陀の成仏とは︑罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんという本願の主体的な自覚を通してこそ︑自己に顕現する

と言えよう︒親鸞は︑本願の成就が回向成就する行信において現在することを明らかにした︒それは︑

十方群生海︑斯の行信に帰命すれば︑摂取して捨てたまわず︑かるがゆえに阿弥陀佛と名づけたてまつると

と︑行信の帰命において︑摂取不捨の働きがあり︑そこに阿弥陀仏と名づけられると︑阿弥陀仏の存在が︑この文か

ら了解される︒行信とは︑第十七諸仏称名の願が成就して表れた名号と︑第十八至心信楽の願が成就して獲得される

信心とである︒親鸞は︑﹁名号﹂を聞いて信心歓喜する﹁一念﹂を信の一念とし︑﹁一念﹂とは信心が開発する時であ

ると︑示している︒特に信一念が﹁時﹂と釈されるのは︑信心が自己の﹁今﹂の時に開発することを意味するのであ

︵﹃ 定親 全﹂ 一・ 一八 頁︶

十方恒砂の諸佛如来︑皆共に元量寿佛の威神功徳不可思議なるを讃嘆したまう

と︑十方恒砂の諸仏如来によって讃嘆された名号である︒信の一念は︑第十七諸仏称名の願が成就する大行と共に開

(5 ) 

かれる大信である︒真実信心は︑﹁必ず名号を具す﹂と︑示されている︒故に︑信一念の時は︑名号が現在する﹁今﹂

の時として︑自己に開示されると言える︒この﹁今﹂は︑時間を超えた働きが時間の中において現在することを示し

ているのではないか︒回向成就の行信とは︑そのような内実があると考えられる︒そして︑この信一念の時は︑名号

に於て開示する﹁今﹂であるために︑単なる経過する時間の一時点に終わるのではないことを︑表すのではないか︒ ろう︒信の一念は名号を聞いて開かれる︒其の名号とは︑

︵﹁ 定親 全﹄ 一・ 六八 頁︶

(14)

は固定的ではなく︑働きを表すのである︒ と︑大海の水に喩えられるように にたとへたまへるなり︒ と真実功徳である名号とは︑ 真実功徳とまふすは︑名号なり︑ か

では︑そのような信の一念の開発に必ず具わり︑その背景となって働いている大行とは︑どのようなものであるの 謹んで往相の廻向を按ずるに大行有り︑大侶有り︒大行は則ち元碍光如来の名を称するなり︒斯の行は即ち是れ

諸の善法を摂し諸の徳本を具せり︒極速円満す︑真如一実の功徳宝海なり︒故に大行と名く︒然るに斯の行は大

悲の願より出たり︒

︵﹃

定親

全﹂

•一七頁)

と︑往相の廻向について大行と大信があり︑大行とは無碍光如来の名を称することと言われている︒﹁斯の行は大悲 の願より出たり﹂と言われるように︑第十七願の回向成就の行である︒そのように大行と名づけられるのは︑﹁極速 円満﹂し﹁真如一実の功徳宝海﹂であるからと言われている︒この﹁真如一実・功徳宝海﹂とは︑大行が永遠なる働 きであることを表していると言えよう︒それは﹃一念多念文意﹄に︑

一実真如の妙理円満せるがゆへに︑大宝海にたとえたまふなり︒

ふすは︑元上大涅槃なり︑涅槃すなわち法性なり︑法性すなわち如来なり︒

一実真如を円満し︑それは無上涅槃︑法性︑如来であると言われている︒﹁大行﹂とは︑

そのような一実真如を円満する名号の働きを表しているのではないか︒その働きとは︑

宝海とまふすは︑よろづの衆生をきらはず︑さわりなくへだてず︑

︵﹃

定親

全﹂

三・

和文

篇一

四五

頁︶

みちびきたまふを︑大海のみづのへだてなき

一切の衆生を︑平等にさわりなく隔てなく︑大涅槃に導く︒名号は︑真実功徳で ある故に大海の水の如く働く︒大行とは︑そのような名号の働きをさして大行と言われたことが了解される︒名号と 号は佛になりたまふてのちの御なをまふす︑名はいまだ佛になりたまはぬときの御なをまふすなり︒この如来の

本願

成就

文に

つい

︵ 同 上 ︶

一実真如とま

(15)

本願

成就

文に

つい

ある︒このように本願の名号は一切衆生をして無上涅槃に至らしめる働きをする︒先の文では︑名号に無上涅槃や真 如が円満していると言われていたが︑この文では因位と果位の意味があると言われている︒名号は︑単に法性真如の 果位のみではなく︑因位の大悲本顧の意味も持ち︑煩悩成就・火宅無常の世界において︑衆生を救う働きを表すので ある︒名号に因と果の位があるのは︑時間において働く在り方を示しているのではないか︒名号の働きを意味する大

一如法性より形を表して︑時間の中で生きる衆生において働き︑衆生をして時間を超越する無上涅槃に至ら

しめるのである︒

そのような大行によって︑大行と共に開き発こるのが信心である︒大行が大行として衆生をして無上涅槃に至らし める行を決定するのは︑信心であることが︑﹃論註﹄の﹁如実修行相応﹂において明らかにされている︒

如彼名義欲如実修行相応は︑彼の尤碍光如来の名号は︑能<衆生の一切の尤明を破す︑能<衆生の一切の志願を

満てたまふ︒

一切の志顧を満たす働きをするのが︑﹁名義の如く実の如く修行し相応する﹂ことであると言われ ている︒それは︑如実修行相応が︑淳・一・相続の三信相応によって決定する行であるからである︒曇鸞は︑如実修 行に対して︑不如実修行ということがあり︑それの原因に三種の不相応があると述べている︒

又︑三種の不相応あり︒

一には信心淳からず︑存せるが如し︑亡ぜるが如きの故に︒二には侶心一ならず︑決定 なきが故に︒三には信心相続せず︑余念間つるが故に︒此の三句展転して相い成ず︒侶心淳からざるを以ての故 に決定なし︒決定なきが故に念相続せず︒亦︑念相続せざるが故に決定の信を得ず︑決定の信を得ざるが故に心

と︑無明を破し︑ 行

とは

と︑名号は︑果位の号と因位の名という意義を持ち︑

一切衆生をして無上涅槃に至らしめる大慈大悲の誓いの御名で

I

 

0

0頁 ︶

かひの御ななり︒

尊号は不可称・不可説・不可思議にましまして

一切衆生をして元上大般涅槃にいたらしめたまふ大慈大悲のち

(16)

淳からざるべし︒此れと相違せるを如実修行相応と名く︒是の故に論主︑建めに我一心と言えり︒

と︑信心が不淳・不一・不相続であるが故に不如実修行となる︒如実・不如実を決定するのは信心である︒親鸞が

(6 ) 

﹁如実修行相応は︑信心︱つにさだめたり﹂と謳うように︑淳信・決定信・相続信の相応の信心こそが如実修行を決

定するのである︒聞名によって自己に発起する信心は︑如実修行相応を決定する三信相応の信心であると言える︒信

心とは︑大行と共に回向成就する大信である︒すなわち三信相応の信心とは︑余念へだてること無く純粋に相続する

﹁一心﹂である︒信心は︑純粋に相続する故に︑常に自己の上に現在する︒信心が開発した一念の時は︑淳・一・相

続の信心の故に﹁永遠の今﹂であると言えよう︒それは永遠に働く如実修行を決定する信心であるからである︒

ここにおいて親鸞が︑願成就の一念を信の一念と読み︑信楽開発の時と表した︑信心の課題を見ることが出来る︒

﹁開発﹂とは︑煩悩の泥中に正覚の華が咲くが如くに︑煩悩成就の凡夫に信心が開き起こることを表す︒すなわち信

一念の時とは︑永遠なる働きの大行・大信を︑時間において開示されることではないか︒正しく﹁現在一刹那の信を

(7 ) 

以て久遠にして永遠なる大行を開く﹂のである︒しかし︑この信一念の時は︑単に客観的に経過する時ではない︒こ

の信の一念が開発する﹁今﹂は︑如実修行相応を決定する三信相応の信心として︑常に今の時として主体に現在する

ので

ある

本願成就は︑回向成就の行信として︑時間に生きる自己において現在する︒この本願成就の現在は︑自己の﹁今﹂

の時として起こるが︑それはこの﹁今﹂が主体的な自覚の時であることを意味するのである︒

成就と転入時間の転換

l

本願の成就は正しく回向成就の行信として現在する︒そのような行信の回向成就する現在は︑

本願

成就

文に

つい

一切衆生をして無上 1

︵同

上︶

(17)

本願

成就

文に

つい

<願海に入りて深く仏恩を知れり︒ ﹁

化身

土巻

こよ

~1,

涅槃に至らしめる名号の働きを開示する信一念の﹁時﹂である︒信一念の時は信楽が自己の身に於て開発したことを 表す︒その﹁時﹂は︑常に自己に現在する永遠の今の時であると言える︒しかし︑我々の計らう時間においては︑そ のような﹁永遠の今﹂というような時は成り立ない︒我々は︑時に執着し時に流される︒このような時間に如何にし て行倍の回向成就の時が開顕されるのであろうか︒時間には︑現に流れつつある時︑流れ去った時︑未だ流れ来たら ない時と︑現在・過去・未来という︱︱一時がある︒このような現在・過去・未来という時間は︑無常なるものに対して 執着するが故に︑形成される︒むしろ執着が無ければ流れる時間は無くなるであろう︒しかし︑煩悩成就の凡夫は︑

今現にあるもの︑過ぎ去ったもの︑未だ来ないもの︑に対して執着し︑常に時は現在・過去・未来という流れる時間 の中に在る︒信一念の時は︑そのような流れ経過する時を離れて在るのではなく︑正しく我々の日常の時間に開発し てこそ︑信心の意義が在るのではないか︒では︑如何にして信一念の時は成立するのであろうか︒

0九

頁︶

是を以て愚禿釈の鸞︑論主の解義を仰ぎ宗師の勧化に依りて久しく万行諸善の仮門を出て永く双樹林下の往生を 離る︒善本徳本の真門に回入してひとえに難思往生の心を発しき︒然るに今特に方便の真門を出でて選択の願海 に転入せり︒速やかに難思往生の心を離れて難思議往生を遂げんと欲う︒果遂の誓い良に由あるかな︒妥に久し

と︑三願転入の文と言われている表白文がある︒親鸞は︑正しく選択の願海に転人する﹁今﹂に立ち︑その﹁今﹂の 時に立って﹁妥久入顧海﹂と︑久しく本願海に入る自身の相を見出している︒すなわち転入の﹁今﹂とは︑そこに本 願の働く時を見出すことである︒正しく三願転入は時間の転換を示しているのではないか︒三願転入の文に述べられ ている万行諸善の仮門や善本徳本の真門は︑現在・過去・未来という時間を内実とし︑流れる時間において往生が求 められている︒その﹁万行諸善の仮門﹂とは︑第十九至心発願の願に相当し︑その往生の在り方は回向発願心釈の引

(18)

と言われるように︑罪福を信ずる心によって善本である念仏を修する︑あるいは本願力を願求するのである︒罪福信 とは︑善因善果︑悪因悪果という次第で果を求める在り方である︒万行諸善の仮門及び善本徳本の真門は︑自力で善 業を修して未来の往生浄土を願う︑現在・過去・未来の時間である︒それに対して﹁選択の願海﹂は︑

明らかに知りぬ︑是れ凡聖自力の行に非ず︒故に不回向の行と名くるなり︒大小聖人・重軽悪人︑皆同じく斉し と︑聖人も極璽の悪人もみな同じく斉しく念仏成仏する在り方である︒自力のはからいによって未来の果を求める自

力回向に対しては︑﹁不回向﹂であると言われている︒﹁選択の願海﹂とは︑回向成就の行侶によって開示される︒こ

一切衆生をして無上涅槃に至らしめる名号の働きの時へと転換する︑﹁時間 の転換﹂ということを見ることが出来る︒転入の﹁今﹂とは︑時に執着し︱︱一時を形成する時間から︑純粋に相続し常

に現在する信一念の時に立つことを︑表していると言えよう︒ のように﹁選択の願海﹂

への

転入

とは

く選択の大宝海に帰して念佛成佛すべし︒ 罪福を信ずる心を以て本願力を顧求す

と言

い︑

また

︑ 然るになお罪福を信じて︑善本を修習して︑其の国に生ぜんと願ぜん︒

心回向の願に相当し︑それは︑ 彼の国に生ぜんと願ず︒ 回向発願心と言うは︑過去および今生の身口意業に修する所の世・出世の菩根︑および他の一切の凡聖の身口意業に修する所の軋・出世の善根を随喜して︑此の自他所修の善根を以て︑悉く皆真実の深信の心の中に回向して︑

と︑﹁過去及び今生﹂の善根を回向して浄土に生まれんと願うと言われている︒また善本・徳本の直︵門は︑第二十至 用によって示されている︒

本願

成就

文に

つい

︵﹃

定親

全﹂

︵﹃

定親

全﹂

︵﹃

定親

全﹂

六七

頁︶

一・

ニ八

二頁

︵﹃

定親

全﹂

・ニ

九五

頁︶

二九

六頁

(19)

本願

成就

文に

つい

このような転入の﹁時﹂が本願成就の時である︒成就とは︑時間を離れて起こるのではない︒大悲本願は︑日常の

時間において︑時間にとらわれる自己を救おうとする働きとして︑開顕する︒本願成就の時とは︑時間の中に生きる

自己を救おうという大悲本願が現に働いていることの自覚である︒それは︑現在過去の行為によって未来の結果を求

めるようなはからいの時間が破れたところに開かれるのである︒﹃愚禿紗﹂に︑

﹁すなわち正定緊の数に入る︒﹂文﹁即の時必定に入る﹂文﹁また必定の菩薩と名づくるなり﹂文

と言われている。この文は、「信受本顧•前念命終」とは、自力のはからいによって形成される時間が破られること

を表し︑﹁即得往生・後念即生﹂とは︑その破られたところに開かれる﹁時﹂を表し︑

しめる永遠なる働きの開顕を表すのである︒そこに﹁入正定緊之数﹂︑﹁即時入必定﹂という主休の誕生がある︒即ち 時間の転換とは主体の転換であるのではないか︒その﹁信受本願﹂とは︑信一念の﹁時﹂である︒﹁一念﹂とは︑﹁侶

(8 ) 

楽開発の時剋の極促﹂と言われ︑また﹁信心を得る時のきわまり﹂と言われる︒﹁時剋の極促﹂や﹁時のきわまり﹂は、現在・過去・未来という直線的な時間の否定を意味する。「信受本願•前念命終」とは、自力のはからいによっ

て未来を求めるような時間が破れて︑信の一念に立つことを表している︒

このように本願成就は︑自力のはからいの時間の否定の徹底において︑開らかれる﹁即得往生

内実を持つ︒﹁前念命終﹂という︑自力のはからいの時間が破られるということは︑すなわち︑主体の転換という深

き内実を持つのではないか︒そのことを最もよく示しているのが︑本願成就文における﹁唯除五逆誹謗正法﹂という

唯除の文である︒願成就は﹁唯除﹂の悲心によって成就する︒それは︑﹁果たし遂げん﹂という果遂の誓いの現行で 即得往生は︑後念即生なり︒ 本願を信受するは︑前念命終なり︒

住不退転﹂という 一切衆生をして大涅槃に至ら ︵

﹃定

親全

﹂ニ

・漢

文篇

ニニ

頁︶

(20)

本願

成就

文に

つい

(9 ) 

あると言える︒なぜ﹁唯除﹂のような︑一切衆生を救うと誓われながら︑唯除される衆生が居るのか︒﹁唯除﹂とは

救うことの出来ない衆生が見出されたことである︒それは︑

︵﹃

定親

全﹂

一・

︱︱

10

九頁

一切善人︑本願の嘉号を以て己が善根とするが故に信を生ずること能わず︒仏智を了らず︑彼の

因を建立せることを了知すること能わざる故に︑報土に入ることなきなり︒

と︑本願の嘉号を己が善根とする我執の在り方がある︒どこまでも︑自我は︑自己を中心として︑自らの行為によっ

て未来の果を現在に引こうとする︒そしてその存在は︑一切衆生を救おうとする本願の嘉号までも己が善根とし︑仏

智を疑惑する︒そこには一切衆生を救う本願までも己が善根とするような我執がある︒そのような者は﹁報土に人る

ことなきなり﹂と︑真実報士への往生が否定される︒唯除とは︑自力によってはからわれ︑時間に執着して︑本願の

嘉号までも己が善根としては︑真実報士の往生することは永久に不可能であることを︑表しているのである︒しかし︑

本願成就文に﹁唯除﹂があるのは︑単に衆生を除外するということを表すのではなく︑むしろ︑そくばくの業を持ち︑

善悪業感の中で生死する衆生を救おうという︑本願の徹底性を表すのではないか︒本願成就とは︑衆生の煩悩の塵に

知はからいの時間に於て働き︑その成就は︑その時の在り方を破り︑ 同じ︑宿業の大地に建立せられた本願の虚しからざる事実を示すのである︒本願は︑我執を中心として形成される理

一切衆生をみな斉しく救おうという永遠の働き

の開示である︒そこに︑本願の嘉号を己が善根とするような我執の者が︑﹁住正定緊﹂という主体となる︒転入とは︑

そのような時間の転換であると同時に︑主体の転換であるのである︒

我々は︑常に時間の中に存在している︒だからこそ︑本願成就文は︑そのような時間の中にあって︑﹁信一念の時﹂

の﹁今﹂︑それははからいの時間を破る﹁今﹂として︑常に現在することを示す︒三願転人は︑そのような願成就文

の内実である主体の転換を表す︒故に︑この﹁今﹂は︑単に経過する客観的な時ではなく︑常に現在する本願成就の

自覚の﹁時﹂となるのである︒

凡そ

大小

聖人

一四

(21)

本願成就文について

一五

註・出典は次のように略記する︒

﹃定親全﹂⁝﹃定本親鸞聖人全集﹂︵法蔵館︶

『吉〖聖全』…『真宗聖教全書」(大八木興文堂)

尚︑引用に当り︑漢文は書き下した︒

(1

) 曽我量深﹃曽我量深講義集一四巻﹄一六九頁・小野蓮明﹃願と信﹄二四一1三四六頁.侶楽峻麿﹁親鸞における信と

時」(『親鸞と浄t教」一^~ー四二頁)

(2

)

﹁化 身土 巻﹂

︵﹃ 定親 全﹂ 一・ て八 一頁

(3

) 三明智彰﹁曽我量深における法蔵菩薩論の形成過程とその原理﹂︵﹃大谷大学真宗総合研究所研究紀要十二﹄二八頁︶参

B 召 "

"

 

(4

)

廣瀬果﹃観経四帖疏講義・玄義分﹂︵五

︱‑0 1

1六頁︶参照

(5

)

﹁信 巻﹂

︵﹃ 定親 全﹂ 一・ 一三 二頁

(6

)

﹃高 僧和 讃﹂

︵﹃ 定親

全﹂

ニ・ 和讃 篇一

0二

頁︶

(7)

曽我量深「行信一体の実践原理としての本願の内観」(『内観の法蔵』•四五五頁)

(8

)

﹃一念多念文意﹄︵﹃定親全﹂三・︱二七頁︶

(9

) この唯除の機と二十願の機とが関係のあることは曽我量深の指摘による︵﹃曽我量深選集八巻﹂︱二八頁︶︒また廣瀬果 氏も︑﹁︿唯除﹀の悲心の現行するところ︑そこに︿果遂の誓い﹀と呼ばれる第二十願の枇界が知られるであろう﹂と述べ︑

唯除の悲心と果遂の誓いの関係について表している︵﹃真宗救済論﹂一︱]︱

10

1八

頁︶

(22)

親鸞が﹃教行信証﹄﹁信巻﹂の三心一心問答で明らかにしようとした事柄は︑単に如来の願心の論理的な解釈では

なく︑煩悩具足の我が身に発起した︑

一心帰命の信心の内面構造を︑窺かに推求したことにある︒その結果親鸞は︑

侶心が決して衆生の自力心から生じるものではなく︑如来の願心が現行した事実であり︑如来の三心が衆生の一心と なって成就することを確認する︒これは衆生に信心を獲得させんがために︑衆生の迷いの世界に自らを没して用き続 ける法蔵菩薩の願いの結実を示すものともいえよう︒そして︑親鸞は三心一心問答を結釈して︑三心は疑蓋無雑の一 心であり︑その真実の一心を金剛の信心と捉え︑

親鸞の菩提心論は︑

二雙四重の教判として展開される︒その二雙四璽の教判を通し︑阿弥陀仏の選択本願によって 回向成就された﹁願力回向の信楽﹂こそが菩提心であることを︑親鸞は菩提心釈において解明していくのである︒こ の菩提心釈では自釈が述べられた後に︑﹃浄土論註﹂﹃阿弥陀経義疏﹂﹁用欽の文﹂﹃聞持記﹄﹃楽邦文類﹄の五文が引 用されている︒中でも﹃浄土論註﹂以降の四文は﹁難信﹂に関する論釈が挙げられている︒菩提心釈において菩提心

は じ め に

﹁ 信

巻 ﹂

さらに菩提心として論を展開していくのである︒

菩提心釈の考察

大 谷 派 平

原 晃

(23)

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

と言い︑念仏利益章では に在り︒而るに本願の中に更に余行無し︒ 法然は れ

る︒

心根を表現したものであろう︒

を明らかにする証文として︑何故﹁難信﹂に関する論釈が引用されているのか︒このことを念頭に置き︑﹁伯巻﹂に

(2 ) 

菩提心とは︑仏果に至り︑さとりの智慧を得ようとする心であり︑仏果を求めて真摯に仏道を歩む︑修道的人間の

つまり仏教においては︑無上菩提を成ずる願いを本質とする菩提心の獲得が強調され︑

また菩提心を発すことが︑仏道実践の為の必要条件として要請されるのである︒当然︑親鸞においても比叡山時代に おける仏道実践の前提として︑菩提心の獲得が必要とされたのであるが︑親鸞が二十年間体験した修道生活では︑菩 提心獲得ということが如何に困難であるかが明らかになってきた︒龍樹が﹁発願して仏道を求むるは三千大千世界を 挙ぐるよりも重し﹂と言い︑﹁伸弱怯劣﹂と衆生の実相を捉えるように︑親鸞も法然との出遇いを通して自己存在を 問い︑そこに自己の自力無効の凡夫性が露呈され︑自己の存在を深々と知ったのである︒こうした自覚の中で︑これ までの仏道修行において前提とされてきた菩提心そのものが問い直されたのである︒ここに菩提心が仏道の前提とし て自明化されていたことを押さえ︑親鸞は菩提心論を展開していくが︑その思想背景に法然の菩提心論があると思わ

﹃選

択集

﹄の

輩三

章で

︑ 上輩の中に菩提心等の余行を説くと雖も︑上の本願の意に望むるに︑唯衆生をして専ら弥陀仏の名を称せしむる

ある菩提心釈の意図を考察していきたい︒

・九

四九

頁︶

(24)

に当りて時を得たり︒感応岩唐捐なれば︒

一・

九八

ニー

一一

百頁

最後

では

︑ り。 然れば則ち菩提心等の諸行を以て而も小利と為し︑乃至一念を以て而も大利と為すなり︒

と述べている︒ここで法然は発菩提心を諸行として廃捨していくことを示し︑発菩提心無用を主張していることが読

み取

れる

︒ つまり仏教そのものを根底から否定するような表明を意味しており︑この発言の内容は当時の仏教界の常 識を逸脱しているといえよう︒それは浄土︱︱一部経の︱つである﹃大経﹄上巻の第十九願︑下巻の三輩段にある﹁発菩

(6 ) 

提心﹂の必要性をも否定していることとなり︑また後に︑明恵が﹃推邪輪﹄で﹁菩提心を撥去せる過失﹂と疑義を量 ることに繋がるのである︒しかし︑法然は菩提心そのものを否定しているのではない︒念仏付属章では︑各宗の菩提 発菩提心︑其の言一なりと雖も︑各々其の宗に随ひて其の義不同なり︒然れば則ち菩提心の一句︑広く諸経に亘

り︑遍<顕密を該ぬ︒意気博遠にして︑詮測沖逮なり︒願はくは諸の行者︑

︵﹃

真聖

全﹂

一を執りて万を遮すること莫れ︒諸

の往生を求むる人︑各々須く自宗の菩提心を発すべし︒縦ひ余行無しと雖も︑菩提心を以て往生の業と為むるな

︵﹃

真聖

n

と述べている︒この文を見る限りでは︑菩提心そのものを否定していると断定することはできない︒そしてこの章の 応に知るべし︑釈尊諸行を付属したまはざる所以は︑即ち是弥陀の本願に非ざるがの故なり︒亦念仏を付属した

まう所以は︑即ち是弥陀の本願なるがの故なり︒今又善導和尚︑諸行を廃して念仏に帰せしむる所以は︑即ち弥 陀の本願なる上に︑亦是釈尊付属の行なればなり︒故に知りぬ︑諸行は機に非ずして時を失へり︒念仏往生は機

︵﹃

真聖

全﹂

と言う︒﹁諸行は機に非ずして時を失へり﹂とあるが︑ここで発菩提心を諸行と廃捨した理由が窺える︒教相章の冒 心を列挙した上で︑

﹁倍

巻﹂

菩提

心釈

の考

・九

五三

頁︶

一・ 九七 七頁

(25)

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

あるかと言えば︑それは行者における予測であり︑思い込みに過ぎず︑

一九

頭に﹃安楽集﹄が引用されていることからも了解できるように︑法然は末法という時において︑﹁去大聖遥遠﹂﹁理深 解微﹂という時機の自覚があったと窺知できる︒末法という無仏の世で諸行により仏道を実現させようとする﹁理深 解微﹂なる衆生が︑無上菩提を成ずるという課題を荷い︑理想の証果を追い求める︒しかし発心修道において証果が

いかに菩提心という自己超克的な心を発そう

とも︑自己によって自己を超克することは不可能である︒そのことがむしろ仏道を阻害し︑﹁諸の往生を求むる人︑

各々須く自宗の菩提心を発すべし﹂といわれるように︑時機の自凸見を通して︑発菩提心を仏道修行の前提としている 聖道門仏教との決別が看取できるのである︒そこには︑聖道門の菩提心と法然の述べる菩提心の質の違いが見られる︒

菩提心は諸宗おのおの心えたりといふ︒浄土宗の心は︑浄土にむまれんとねがふを菩提心といふ︒念仏これ大乗 と教示する︒菩提心は願生心として内面化され︑念仏の一門における菩提心の発起を要請したのである︒仏道を成立

させる根拠となる菩提心の質を内省した法然は菩提心を︑自力で発す聖道の菩提心ではなく︑顧生心として捉え︑そ の根源を選択本願の念仏に見出し︑念仏一行の浄土宗が開顕されるに至るのである︒

以上のような法然の菩提心の了解を踏まえ︑親鸞は阿弥陀仏の選択本願によって回向成就された侶心こそが菩提心 であることを菩提心釈で解明していくのである︒親鸞は菩提心を﹁竪超﹂﹁竪出﹂﹁横超﹂﹁横出﹂の四種に決判し︑

横竪菩提心その言︱つにしてその心異なりといえども︑入真を正要とす︑真心を根本とす︒邪雑を錯とす︑疑情 の行なり︑無上功徳なり︒ 法然は﹁三部経釈﹂において︑

︵﹃

真聖

全﹄

四・

五六

一二

頁︶

(26)

とす

(9 ) 

と念仏一行の浄土門に帰しながらも︑念仏を﹁己が善根﹂とする法然門下内部への批判も指摘する︒これは︑親鸞が

深心

とは

いわく深信の心なり︒まさに知るべし︑生死の家には疑を以て所止とし︑涅槃の城には信を以て能入 ﹁信巻﹂を開顕した課題とも関係してくると思われる︒親鸞は﹃選択集﹂三心章にある︑ 正雑・定散•他力の中の自力の菩提心なり。 を失とするなり︒

と述べている︒これは仏道における︑真に見定めるべき正要が横超の菩提心であり︑この一点を明かすために︑その

他一二種の菩提心が説かれるのである︒つまり︑菩提心は四種という相違があっても︑仏道を成就しようとする志願は

(8 ) 

︱つであり︑﹁横超の金剛心﹂が︑普遍的な真の菩提心であることを対比することによって明らかにしているのであ

る︒親鸞は二雙四重の教判において︑単に横超が最高位であることを示すために優劣を表わしたり︑教法の分類化・

組織化を目的としているのではなく︑親鸞の身の上に明らかになった仏道を︑横超の菩提心として確認しているので

ある︒あくまでもそれは︑竪超・竪出・横出の菩提心を否定しているのではなく︑人間が仏道を求めていく上で露出

してくる自力の執心を語るものであり︑このように菩提心の性格を明確化しているのである︒

権実・顕密・大小の教に明かせり︒歴劫迂回の菩提心︑自力の金剛心︑菩薩の大心なり︒

と両者区別することなく︑同質のものとして理想主義に陥る聖道門仏教に対する指摘をしている︒これは︑法然が教

示した聖道門仏教の菩提心の質を明確に示しているとも考えられる︒そして親鸞は聖道門仏教に対する批判だけでは

なく﹁横出﹂として︑ まず︑﹁竪超﹂と﹁竪出﹂であるが︑

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

︵﹃

定親

全﹄

︵﹃

定親

全﹂

︵﹃

定親

全﹂

︵﹃

真聖

全﹂

二0

九六 頁七

一 芝︱ ‑

. 頁︶

三言頁︶ ︱ ︱

︱ ︱ ︱ 二

頁 ︶

(27)

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

考の

しかるに係念我国の人、不可思議の仏力を疑惑して信受せず、善本•徳本の尊号を、

と言う︒﹁不可思議の仏力を疑惑して信受﹂しないということは︑如来の願心への深い疑いを自身に留めていること

であり︑それ故に善本・徳本の尊号を己が善根として私有化していくことになる︒その内実は︑名号を自らの功徳の

本と固執して念仏する︑自力の執心から離れ得ない念仏行者の心根を意味しているのである︒このような自力執心は︑ また︑親鸞は﹃浄土三経往生文類﹂において︑

( 10 )  

という指南の元に﹁信巻﹂を開顕していると考えられる︒ここでは﹁疑﹂によって生死流転し︑信心こそが涅槃の城

に能入する因であることを確認している︒親鸞はこの法然の教言を課題とし︑﹁信巻﹂開顕により信疑を問うのであ

る︒ここで注意しなければならないのは曽我量深が﹁別序﹂を見ていく上で︑

法然上人では﹁自性唯心に沈んで浄土の真証を貶する﹂人にたいしては︑

六四五頁︶

はっきりした教えがあるけれども︑

﹁定散の自心に迷うて金剛の真信に昏い﹂ということに関しては︑法然上人の教えはなおかつ徹底を欠いている︒

︵﹃

信巻

聴記

と指摘することである︒法然門下にとって重要な問題となった一念・多念の問題の根源を念仏の信の不徹底として決

着していくことが︑﹁信巻﹂の課題であることをこの指摘から看取できるであろう︒つまり︑法然が一二心章で決判し

た﹁疑情﹂の問題を通して︑親鸞は念仏の信をより根源的に解明していると了解できるのである︒

﹁信巻﹂では﹁疑蓋無雑﹂と様々な箇所で述べられているが︑これは﹁疑﹂によって衆生が生死の迷いに常没流転

していることを︑親鸞自身の問題として顕らかにしたものである︒清浄願心の回向成就の信心を﹁疑蓋無雑﹂と表わ

すことにより︑真実信心が﹁疑﹂の雑わらない﹁明信仏智﹂であることを浮き彫りにしている︒それは︑衆生にとっ

て獲侶することが本来的に困難であるのは︑﹁疑﹂によるということを示唆しているともいえる︒

おのれが善根とす︒

︵﹃ 浄士 三経 往生 文類

︿略 本﹀

﹂﹃ 定親 全﹄

︱‑

. .  

十三

頁︶

(28)

おいて回向の意義を︑ 願念仏の信に生きる親鸞の志願があるといえる︒そして親鸞は﹁化身土巻﹂において︑ 二雙四重の教判であると考えられる︒そこには当時の法然門下の状況を見据えた上で︑法然の課題を明らかにし︑本 るのである︒このような﹁疑﹂の問題を通して明らかになったものが︑横超の菩提心を明確にすることを目的とした す︑疑情を失とするなり﹂と端的に指摘し︑本願を信受せず︑自らの雑行に固執した心情を﹁疑﹂として表わしてい 誰よりも念仏に励んでいるという︑念仏行者の懸命な歩みの底に潜んでいるといえよう︒その問題性を﹁邪雑を錯と 横超は︑本願を憶念して自力の心を離るる︑これを横超他力と名づけるなり︒これすなわち専の中の専︑頓の中

の頓︑真の中の真︑乗の中の一乗なり︑これすなわち真宗なり︒

欲う︒果遂の誓い︑良に由あるかな︒ここに久しく願海に入りて︑深く仏恩を知れり︒

る︑如来大悲の饗願の最も現実的な用きを顕示しているのである︒

と述べる︒横超とは自力の執心を離れしめす力用として捉えられている︒これは親鸞自身が自力の執心から離れるこ とのできない我が身を信知したことに対する確かめである︒この自覚が端的に示されるものとして︑

いま特に方便の真門を出でて︑選択の願海に転入せり︑速やかに難思往生の心を離れて︑難思議往生を遂げんと

(

・ニ

0頁 ︶

の文が挙げられる︒この文では︑自力執心の離れ難いことを悲傷し︑選択の願海へと転入せしめる仏事を果たし遂げ

いずれにせよ︑このような﹁横超﹂の確かめをも

って三心一心問答以降の展開を考えるならば︑清浄願心の同向成就として発起する信心が横超の菩提心であるという こと︒そして﹁疑菟雑わる﹂というように︑人間が仏道を求める上で真実の一心の成就し難きことを﹁難信﹂の内実 として明らかにしなければならなかったことが了解できる︒

つまり清浄願心の回向成就であるが故に︑信心が甚だ難

いのであり︑人間が自力に執心する︑その内実が﹁疑﹂であることを知ることができるのである︒それは﹃論註﹄に

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

0九

頁︶

(29)

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

一切衆生に施与したまいて︑共に仏道に向えしめたまうなり︒

︵﹃

定親

全﹂

と如来願心の回向成就であることが確かめられ︑それ以降に引用される論釈が﹁難信﹂という課題をもっていること

から確認できるのである︒それでは﹃論註﹄以降に引用される論釈について考察を進めていきたい︒

まず始めに﹃阿弥陀経義疏﹂が︑三文引用されているが︑中でも第二文の引用文では﹁世間甚難信﹂について説か

念仏法門は愚智・豪賤を簡ばず︑久近・善悪を論ぜず︒ただ決誓猛信を取れば︑臨終悪相なれども十念に往生す︒

これすなわち具縛の凡愚.屠油の下類︑刹那に超越する成仏の法なり︒﹁世間甚難信﹂と謂うべきなり︒

︵﹃

定親

全﹄

•一二四五頁)

念仏の法門は﹁愚智・豪賤を簡﹂ばず︑﹁久近・善悪を論﹂じないため︑﹁悪世﹂に生きる﹁諸の衆生﹂

つまり﹁具縛

の凡愚.屠泊の下類﹂にとって﹁刹那に超越する成仏の法﹂は難信となることを示している︒﹁悪世﹂に生きる﹁諸

の衆生﹂は﹁愚智・豪賤﹂という資格・条件︑﹁久近・善悪﹂という人間の行為を価値基準として固執する︒このよ

うな価値基準に固執する﹁浅き衆生﹂にとって﹁具縛の凡愚.屠泊の下類﹂が﹁刹那に超越する成仏の法﹂は︑﹁多

くの疑惑﹂を生ずるだけで侶じ難いのである︒つまり︑ここで﹁難信﹂が述べられることは︑価値基準に固執する衆

生の事実を通して︑仏法が人間のいかなる価値をも問わないことを意味しているともいえる︒それは︑ れ

てい

る︒

己が所集の一切の功徳をもって︑

︱一

雙四

重の

判で︑竪超・竪出・横出が仏道を求める上で出てくる自力の執心を語るものであり︑横超が如来願心の普遍性を明示

︱二

四頁

(30)

易者如来願力回向之心也

とある︒﹁難﹂は﹁疑情﹂を内実とした自己の能力に固執し︑修道実践によって埋めようとする自力執心の故に﹁不

真実之心﹂であり︑﹁易﹂は如来願力の回向であるが故に真実侶心であることを示している︒この﹁易﹂を﹁用欽の

文﹂でいうならば︑

法難を説く中に︑良にこの法をもって凡を転じて聖と成すこと︑掌を反すがごとくなるをや︒

と述べられることである︒掌を反す様に︑凡夫を転じて﹁聖﹂︑

( 13 )  

﹁転成﹂とは︑﹁つみをけしうしなはずして善になす﹂と語られるように︑無明煩悩を断滅するのではなく︑煩悩具

足の身のままに衆生を救済する如来願力の用きを表わすものである︒その内実は煩悩具足の我が身を自覚した伯心の

性格を示しているともいえる︒このことを踏まえるならば﹁如来願力回向之心﹂とは︑自力の執心が無くなることを

意味するのではなく﹁不直︵実之心﹂という自力執心︑そのものの正体が虚妄顛倒であることの自覚である︒自己存在

に無知である衆生にとって自己を明らかにするのは不可能であり︑あくまでも如来願力回向の用きによって自己存在 難易対難者一二業修善︑不真実之心也 とあり︑下巻には︑

難易

に一

一と

一に難は疑情なり

︱一

に易

は侶

心な

巻に

おい

て︑

︶こで﹁易往﹂といわれることであるが︑﹁易﹂は﹃愚禿紗﹂

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

つまり仏者に成すという﹁転成﹂の用きを意とする︒ していることの明証となることから了解できるであろう︒この両面構造は︑第二文にある﹁用欽の文﹂

﹃大経﹂の﹁易往而無人﹂が挙げられていることを通して了解することができる︒

﹃︵

定親

全﹂

・ I

1 0

︱ 頁 ︶

︵﹃

定親

全﹂

︵﹃

定親

全﹂

ニ・

0頁 ︶

で﹁難﹂を通して以下のように述べられる︒まず上

ニ四

︱ ︱ ‑ .

五 頁 ︶

の最

後に

(31)

﹁信

巻﹂

菩提

心釈

の考

るな

り︒

と関係すると思われる︒この関係は大信釈で︑ と阿弥陀を讃嘆している︒この讃嘆は

は明らかにされるのである︒それが﹁易﹂の具体的な用きであるといえよう︒それにもかかわらず︑易往の道に至る ことが﹁無人﹂と表わされるのは︑﹁如来願力回向﹂が信じ難いという︑人間の自力執心の深さを改めて問うている のである︒これらのことから﹁易往而無人﹂を通して︑仏道を求める上で出てくる自力の執心と︑横超が如来の頻心

であることを表わしていることが了解できるのである︒

そして︑第三文には﹃聞持記﹄が引用される︒﹃聞持記﹄では最後に︑

阿弥陀如来は︑真実明・平等覚・難思議・畢党依・大応供・大安慰・無等等・不可思議光と号したてまつるなり︒

﹃聞

持記

︵﹃

定親

全﹄

﹃聞特記﹄の原文にはなく︑術文であると論議されているが︑何故このように 親鸞は︑阿弥陀を讃嘆しなければなかったかを考えねばならないであろう︒

( 16 )  

それは︑この讃嘆の前に﹁世間甚難信﹂﹁ただ十念に由ってすなわち超往を得︑あに難信にあらずや﹂とあること しかるに常没の凡愚・流転の群生︑無上妙果の成じがたきにあらず︑真実の信楽実に獲ること難し︒何をもって

のゆえに︒いまし如来の加威力に由るがゆえなり︒博く大悲広慧の力に因るがゆえなり︒たまたま浄信を獲ば︑

この心顛倒せず︑この心虚偽ならず︒ここをもって極悪深重の衆生︑大慶喜心を得︑もろもろの聖尊の重愛を獲

︵﹃

定親

全﹄

と押さえられていることと同じである︒大信釈では︑真実の侶楽は﹁如来の加威力に由﹂り︑﹁大悲広慧の力に因る﹂

ことから︑自力に固執する限り︑﹁獲信﹂することが難になることを示している︒またそれに続き︑﹁浄信を獲﹂﹁大 慶喜心を得﹂たことを難信の克服として﹁極悪深重の衆生﹂と身の自覚が表現されている︒

の﹁難信﹂とは︑﹃阿弥陀経義疏﹂の所で述べたように︑﹁愚智・豪賤を簡﹂び︑﹁久近・善悪﹂を価値

(32)

は ることを阿弥陀の讃嘆として表わしていると考えられる︒そのため大信釈の構造と同様に︑﹁あに難信にあらずや﹂ 自党できないことを表わしている︒そしてこの克服︑﹁超往を得﹂ることが不可思議なる如来の願力において得られ 甚準として固執する衆生にとって︑﹁刹那に超越する成仏の法﹂は信じ難いのであり︑﹁具縛の凡愚﹂である我が身の 以上のように﹃阿弥陀経義疏﹄﹁用欽の文﹂﹃聞持記﹄の三文で﹁難侶﹂を押さえ︑最後に﹃楽邦文類﹄の文が引用

される︒まず︑この文では﹁自障﹂の原因が貪愛であり︑﹁自蔽﹂の原因が疑情であることを述べている︒そして︑

ただ疑愛の二心︑了に障碍なからしむるは︑すなわち浄土の一門なり︒未だ始めて間隔せず︒弥陀の洪願︑常に と示されている︒浄土の法門︑すなわち念仏の教えが無碍なるものであり︑法然によって開顕された念仏一行の浄土

門こそが︑﹁悪世﹂において仏道として成立することを︑親鸞は示唆しているといえる︒そして︑

の洪

願﹂

とし

︑ さらに﹁常に自ずから摂持したまう必然の理なり﹂と押さえている︒この文を曽我量深は﹁願力自 然﹂を表わす文と指摘している︒この指摘により︑親鸞が﹁自然﹂について解釈していることに注意できる︒﹁自然﹂

﹃尊

号真

像銘

文﹂

で︑

自はおのづからといふ︑おのづからといふは衆生のはからいにあらず︑しからしめて不退のくらゐにいたらしむ

となり︑自然といふことば也︒致といふは︑

自然に不退のくらゐにいたらしむるをむねとすべしとおもへと也︒ 自ずから摂持したまう必然の理なり︒

︵﹃

定親

全﹂

︱︱

‑.

七六

ー七

頁︶

︵﹃

定親

全﹄

その根拠を﹁弥陀

いたるといふ︑むねとすといふ︑如来の本願のみなを倍ずる人は︑

と述べられる︒﹁自然に不退のくらゐにいたらしむ﹂ということは︑横超という自力執心を離れしめす本願の力用と して捉らえることができ︑横超の菩提心が清浄願心の回向成就として発起することの明証となるのである︒﹃楽邦文

一三

六頁

︶れ

に続

き︑

と述べられることに続き︑阿弥陀の讃嘆がなされるのである︒

﹁信巻﹂菩提心釈の考察

参照

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