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《 史 料 紹 介 》 岩 崎 金 一 郎 「 日 記 を 辿 っ て の わ が 専 修 時 代 」

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はじめに   二〇一九年は新制大学七〇年という節目の年であり、各大学でも様々な催し物が開催された。それと同様に、本学においても二〇一九年一一月七日から一二月七日にかけて企画展「新制専修大学の出発」を開催するとともに、二〇二〇年三月には『専修大学史資料集

  第九巻  新制専修大学の出発』と題する資料集を刊行した。   しかしながら、資料集については紙幅の関係上、多くの資料を割愛せざるを得なかった。さらに言えば、内容をご覧いただければお分かりになると思うが、記憶の部分についてはその多くを割愛した結果、教員側の記憶がほとんどない。

  そこで今回は、その割愛した資料のうち、戦前から戦後にかけて本学で教鞭を執った岩崎金一郎の記憶「日記を辿ってのわが専修時代」をここに収録することとした。詳細は後述するが、この記録は岩崎が、自身がつけていた日記を基に当時を振り返った前後二篇から成るものである。戦前・戦中を扱った前篇については、平成二七 年(二〇一五)に刊行した『専修大学史資料集  第七巻  専修大学と学徒出陣』に既に収録しているが、史料の連続性を考慮し、今回はその全篇を収録している。以下、ここでは、著者・岩崎金一郎および史料の書誌情報などについて、簡単な解説を付しておく。

岩崎金一郎について

  作者である岩崎金一郎は、明治三五年(一九〇二)八月一〇日東京市に生まれた。史料中にも記載があるが、遠戚には東京帝国大学教授で専修大学の理事や教授も兼務していた河津暹がいる。その河津の勧めもあり、当時から教育界では著名であった杉浦重剛が校長を務める日本中学校へ進学。卒業後、新設まもない旧制松江高等学校を経て、大正一

翻刻・解説   石   綿   豊   大

(大学史資料室)

《史料紹介》岩崎金一郎「日記を辿ってのわが専修時代」

岩崎金一郎

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四年(一九一五)東京帝国大学経済学部に入学する。昭和三年(一九二八)に同大を卒業後は一時、朝日新聞社に勤めていた。

  しかし、教員への望み断ちがたく、岩崎は在職三年で朝日新聞社を退職。その後は教員になるべく奔走する。その結果、昭和六年一二月、専修大学教授であった松生幸雄の紹介によって経済地理の講師として専修大学に入職することとなった。また、そのかたわらでは、昭和第一商業学校(現・昭和第一高等学校)でも教鞭を執っている。松生幸雄についても簡単に触れておくと、昭和三年に京都帝国大学経済学部を卒業後、同五年より専修大学予科の講師として英文商業、欧文経済の授業を担当し、翌六年には本科の教授となった人物である。

  そして、昭和一三年、岩崎は専修大学教授に就任、同一六年には専修大学の専任となった。その後は専門部主任、専門部長に就任。経済史、経済原論などの講義を担当するとともに、昭和二二年からは理事も兼務するなど大学の経営面にも携わっている。また、専任教授となってからは、学生主事として学生 生活の監督にもあたっていた。戦前・戦後の専修大学をよく知る人物の一人である。

  昭和二七年に専修大学を退職した後は、日本大学経済学部に勤務し、同三一年には経済学部教授に就任。同大短期大学部の教授も務め日本経済史などの講義を担当した。その後は経済学部学監、学部次長を歴任し、学生運動が盛んな時期には短期大学部の学部長代理として対応にあたっている。そして昭和六一年、八三歳にて逝去。なお、岩崎の経歴については、『昭和六〇年度  専修大学年報』(学校法人専修大学、一九八六)、『日本大学経済学部七十年史』(日本大学経済学部、一九七九)、『読売新聞』(一九六八年一一月二五日夕刊)、また晩年に書かれた本人の自叙伝『古竹余情』(非売品、一九八五)を参考にした。

「日記を辿ってのわが専修時代」について

  次に史料についての説明に移りたい。史料前篇に掲げられた序文によると、本史料が作成された目的は、かつての教え子からの依頼により、専修大学百年史編纂に供するためであった。また、日記の原文をそのまま掲載したわけではなく、日記から専修大学に関する記事を抽出したうえで、それを基に岩崎が新たに書き起こした記録である。つまり、当時の日記そのものではない。しかし、岩崎も言っている通り、戦前・戦後の専修大学の一教員の生活ぶりを知る記録として、また当時の一教員の視点から見た専修大学の記録とし

岩崎の自叙伝『古竹余情』

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て貴重な史料であるといえよう。   原本の書誌情報について触れておくと、前述の通り、記録は前篇・後篇の二篇から成っている。前篇は岩崎が後年教授を務めた日本大学経済学部のB5判罫紙一〇四枚に書き起こされ、後篇は同じくB5判の福島大学経済学部罫紙三枚と日本大学経済学部の罫紙九六枚が使用され、最後のページには「後記」一枚が貼付されている。そして、判読が困難だったためと思われるが、専修大学罫紙二八二枚にわたる翻刻文を加えたうえで、「日記を辿ってのわが専修時代  岩崎金一郎(元本学専門部長) 昭和六年から昭和二十七年頃までの在職記録」とタイトルを付して合冊製本されている。

  それぞれの対象は、前篇は岩崎が専修大学へ入職する昭和六年(一九三一)から昭和二〇年八月一五日の終戦まで、後篇は終戦後から昭和二七年の専修大学退職までの期間である。なお、前篇にあたる昭和一〇年四月七日から昭和一七年三月二〇日まで、また後篇にあたる終戦直後の半年間は日記の記載がないようで、その期間の記述は岩崎の追想録となっている。

  内容は、前篇・後篇ともに学内で起きた日々の出来事に、それに対する自身の感想を述べたものである。ただ、ここで書かれている感想の中には、日記が書かれた当時に記されたものか、あるいは百年史編纂用の資料として書き起こされた当時のものかが判別できない箇所もある。

  前篇は、講師としての多忙な日々や後に総長となる道家斉一郎と の交流など、自身の生活状況を中心に記されている。そして、専修大学の専任となった以降は、学内に組織された特設防護団の班長や報国隊の部隊長のみならず、学生部長にも就任して勤労奉仕の監督などもしており、徐々に戦時色が強まってくる学内の様子を感じ取ることができる。

  なお、昭和二〇年六月一〇日、専修大学は戦局の悪化に伴い大学を長野県軽井沢に疎開させる措置を取り、以後、敗戦まで授業と勤労指導は軽井沢にあった学寮にて行っていた。この時、岩崎も軽井沢に疎開しており、敗戦の報を聞いたのはここ軽井沢であった。本史料上では、昭和二〇年の記述はほぼ省略されているが、この間の出来事については、当時軽井沢学寮の寮長を務めていた相馬勝夫(後に専修大学長、総長)の日記を前掲『専修大学史資料集  第七巻』に収録しているのでそちらをご覧いただきたい。

  後篇は終戦後から新制大学移行後の昭和二七年までを扱っているが、その大半は昭和二一年から二二年にかけての総長排斥運動、学園再建運動を中心とした内容で占められている。その理由としては、こうした一連の運動に岩崎が当事者として深く関わっていたからであろう。しかしそうしたなかにあって、総長排斥運動に関連して、岩崎自身が追放対象者となりながらも、専門部長として戦後の専門部の再建、とくに専門部各科の教授陣の招聘に尽力していることは興味深い。なお、この教員の強化については「何分学生数少く、財政貧弱の大学であるので、この方面から教員採用には可成り

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の制約を受けた」とかなり苦労をしたものの「専門部の陣容につき、他の大学人からも好評の声」を聞くほど充実した陣容となったと語っている。

  以上、簡単ではあるがこれで本稿を終えることとするが、今回の史料紹介にあたっては、前述した翻刻文を参考としつつも、改めて翻刻した次第である。

【凡例】・翻刻に際しては、仮名づかいは清濁、振り仮名もふくめ、原則として原本の通りとし、適宜句読点、並列点を補った。・翻刻に際して漢字は常用漢字を用いた。・躍り字は原本どおりとし、漢字は「々」、平仮名は「ゝ」、片仮名は「ヽ」、二字以上は「〳〵」に統一した。・誤字などについては、正しい文字が明らかな場合(  )、推定の場合は(〇ヵ)、推定できないものや意味が不明な場合には(ママ)として、初出時のみ注記した。・原本において抹消されていた箇所は省略した。・一部の人名については、個人情報保護の観点から「○」によって表記した。・なお、史料中に、差別用語などの不適切な表現が含まれている場合があるが、歴史的な観点からそのまま掲載した。

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日記を辿ってのわが専修時代序   経営の才などはトンと無かった私は自分が教職に適性があるのを自覚し、早くより将来は教員として世に立とうという志を固めていた。私の保護者で育ての親であった義兄は恰も日本計器K・Kと云う会社を営んでいたので私をその後継者に育てようと考えたのか、盛んにその方面に関係の勉学を強要していたので、旧高校時代から家ではいつも私の将来の職について義兄と対立していた。当時は上長の命令は絶対服従の習慣もあったので私も最後には折れて実業界に入ることを余儀なくされた。併し全くの銀行会社の類でなく、朝日新聞社と云う多少学問文筆の香りのする会社に入るようになったのである。

  しかし、そこも矢張り結局は営利会社であり、私の性格には合わず在職三年で退職し、それからは自分の意思で教員になるよう色々奔走した。昭和六年の末、この望みが達せられて始 (初)めて大学の教壇に立った、その学校が専修大学である。昭和六年の末から昭和二十七年の春まで二十余年間、二十九歳から五十歳迄一生の中で最も元気な時をここで働いた。もっとも始めの十年間は名は教授となっても大学の財政上の都合もあって、純粋の専任ではなく他に生活の為の兼職も持った。

  まぐろで云えばさしみになるような人生の部分を過したので専修に対する愛着の念は深くその思い出はつきない。貧乏な学校だったので手当支給は頗る低かったが、その代り学内に派閥もなく接する先生方も清廉温良の人が多く教員生活にはたのしいものがあった。尤も時に小人あり侒人あり奇人あり、喧嘩もし随分熱湯ものまされ血涙をしぼったこともあったが、今となってはそれらは一場の夢と消え去って、たゞ心おだやかな学究生活の思い出ばかりが残る。   今、私は永年書き続けた日誌やアルバム等をたどってこの間の思い出に耽って見ようと思う。尤もこうしたことの動機は、現在専修百年史編纂の仕事をしている曽ての教え子の依頼にもよるものである。故に文中あまり私個人のことにわたることについては筆を省いた。しかし私個人の言動を通して当時の大学がどんなものであったか、私と云うより当時の大学の一教員がどんな生活をしていたかをそのまま述べることは、専修百年の歴史の上に多少の意味があると思ったので敢て筆にした部分もある。題して「日誌 (ママ)を辿ってのわが専修時代」と云う。前篇戦前、後篇戦後の二つに分つ。

   昭和五十三年二月元専修大学専門部長  岩崎金一郎 昭和六年の日記十一月二十四日  母校の帝大に立寄り、帰途友人の大西君の家を訪ね専大教授松生幸雄君に始めて会う、教職を依頼す。十一月二十六日  専修大学に松生氏を訪ねたが不在だった。十二月三日  松生氏の手紙を受取る。十二月四日  松生氏を専大に訪ねたが道家氏不在とて別る。その時保険学担当の相馬勝夫氏に紹介さる。教授中最年少の教授なりしと、その専修大に就職の件大体実れる由。十二月五日  一時頃松生氏の紹介にて道家先生に会い、地理科講師就任の件決定、年来の希望達成せられ喜びに堪えず。十二月十二日  夜松生氏を訪問して書籍をいただく。帰宅すれば専大よりの辞令が届く。

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昭和七年一月七日  佐伯好郎先生、松生子兄、河津暹先生へ年賀、何れも不在、河津夫人と暫く話して退く。一月八日  正午昭和第一商業学校の斉藤教頭に会い、専大兼任の件をいい一応校長の諒承を求む。一月十日  大橋図書館に行き世界政治経済年鑑などを見て、始めて大学講義のプランを立つ。一月十三日  東京堂に行き黒正巌氏の経済地理を求む。専修の講義のためで、先輩学者はいかなる講義をなしたるかの参考とてなり。一月十五日  明日の土曜より愈々専修大学に於いて経済地理の講義をすることとなり緊張す。当座プレブスリーグの経済地理などを話の種とせん。一月十六日  本日より専修大学の講義。朝六時前に起床し八時迄に登校、朝食をとらず、八時半より講義に入る。始めてのこととて大いにあがる。次回はかゝることなかるまじ。その時の学生は二十名位であったが何れも私より大きく見えた連中ばかりである。後理事の方々に会い又事務室の職員に紹介された。又図書館を参観後、始めて朝飯をとる。一月二十日  専大図書館より佐藤弘氏の世界経済地理を借りる。又先輩の講義の如何なるかを知らんためなり。一月二十二日  昨今の力を入れる仕事は専大講義のノート作りだが、他に雑用(昭和第一の仕事など)多く仲々余暇が見付けられず閉口する。学校ではとても右のノートが作れないので帰宅後七時から十一時頃まで書き続ける。一月二十三日  今日の講義はわれながらよく出来た。専大より始めて報 酬を得、金四円なり。これは講義一回分(当時講師は時間給であった)。二月十三日  朝六時に起床、早速今日の専修講義の準備にかかったが落付かず閉口、果して本日の講義はうまく行かず。われながら甚だ不快を覚ゆ。もっともっと勉強せねばならぬと思う。昨今カフエーの酒を覚えて遊びすぎか。二月二十日  朝三時に起床、専大のノートを作る。十時講義を了る。二月二十二日  月曜なるも午后一時間専大で補講す。土曜の講義が何かでつぶれた時は、時間給の関係もありその補講が求められたのである。今日は割合にうまく出来た。二月二十三日  今日の講義も補講、一時間余り。相当骨を折る。本月分の報酬として金十六円を得。二月二十七日  専大、今学年の講義を閉づ。期間短く数回の講義をしたのみで十分の話は体系の立てられぬまゝ出来なかった。まア〳〵大学講義の稽古をしたようなものである。三月五日  専修大学の試験に臨む。今から見ればおかしなことだがモーニングを着て監督した、私が大学在学中に試験中にある教官が黒紋付を着て臨みしことなど思出してのことなるが、当時はそれ程試験を神聖視したものらしい。三月十四日  試験の答案を見ることはいつもながら面倒なものである。今日もたゞ気にかゝりながら答案の表紙をながめたばかり。三月二十三日  神田に富国論の翻訳を求む。原書では仲々早く読めないのでとりあえず。三月二十七日  専修大学卒業式に始めて出席した。式は極めて質素に行われた。今まで中学や高校等で行われた卒業式と異り、人も少く仰々

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しさもなく極めて小ぢんまりとして家族的であった。殆んど全部が講師であった為か出席の強要なく、従って何れも欠席し、出席教員も若いのは私たち数名で何れも白頭の老人理事、部長、老教授のみなりし。坂 (阪)谷総長が黒紋付袴姿で壇上に上って無言、にこやかに坐す。そのわきに道家学監が立って卒業証書の授与や告辞を行った。当時、講堂はなく、一階の広い教室二つをぶちぬき教壇に花など飾って式場とした(序ながら後の話、ある卒業式で学監の道家先生が時間におくれて来て、恰度須賀法学部長がやむを得ず勅語を奉読しようとした際、道家氏が馳せ参じて須賀先生を押しのけて奉読したことがあったが、それ程当時道家氏の専大に於ける勢力は強くワンマンぶりを発揮した一例)。

  当時総長は坂谷先生、経済学部長は河津暹先生、法学部長は須賀先生、計理学部長で学監が道家先生であった。道家先生はその後、短い間に学監から学長となりやがて総長となって大いに独裁振りを発揮した。思うに坂谷先生の信任を得られたためと思う。その後、全学道家氏に帰依して反共精神を基調としたドーケイズムが全学に流れた。

  先生の自己顕示の手段はおかしい位で、いつも馬車に乗り自身で馬を御しつゝ登校された。共産主義者は教員学生を問わず学外に追払って了う。入学試験のときの誓約書にも決して共産主義を持たぬことをちかわされた。一面自分の部下に対する愛情は強く、これが全学の信頼を得たためと思う。

  昭和七年、八年、九年の日誌は何れも三月以後には専修に関する記録なく、夫々の始めに一寸記されたるものから総合して思うに、この間はたゞひたすら一週に一回或は二回に行われる講義の草案作りに専念し、講義の了った日にはその巧拙を自ら批判して更によきものをと心掛けた ようだ。たゞ本業であった商業学校のための雑務や授業時間の異状に多かったことに災されて、大学講義の為の準備や研究について十分な時間がなかったため、思い切った勉強が出来なかったことがうかがわれる。

昭和八年一月十八日  今年に入り専大第一回の講義。近来は学生とも親しくなり講義中にも雑談するような余裕を生ずるようになった。一月二十五日  午前中何かとせわし、余暇を見ては専大のためのノートを作る。午后専大の講義。一月二十七日  世界地理大系を買うことにする。到底全額を支払う余力がないので本屋と相談して月譜 (賦)で支払うこととし、本日第一回分金六円を支払う。二月一日  今までの専大の講義、この頃は昼の他に夜もあるので、午后家にてその為の原稿を認め、夜専大に赴く。二月十五日  夜専大の講義。本学年最後のもの。二月十六日  専修の試験問題を作り専大へ届ける。松生氏・小泉氏両氏に会う。二月二十日  科学につき何かと煩悶する。一生をかけてやるべき学科について何かと迷う。とにかく現在やってる地理学を研究することに落付く。

昭和九年一月十五日  夜専修の講義始め。一月十九日(金)専修講義。一月二十日(土)専修講義。

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二月二日(金)講義。十分の材料なく心中何かと煩らい多し。草稿もでっちあげの感あり。二月三日(土)今日も講義があったが、勉強不足を覚えて心中おたやかならず。二月九日(金)講義。二月十日(土)午前講義。二月十一日(日)本日の紀元節、明治神宮の参拝を了え、帰途新宿の道家先生を訪ね、未だ起床せざる由にて会わずして退く。二月十二日  専大夜間部の講義、本日を以って打切。二月十七日  専大ひるの講義の日。たゞ学生の質疑に答えて止む。二月二十三日  専大の講義。二月二十四日  専大の講義、本日を以って切り。二月分の報酬金二十八円也。三月五日  専大夜間部の試験監督をする。三月六日  子供たちの騒ぎのため又家の内の乱雑さの為心なかなか落付かず。わずかに寸暇を選ひ専修大学来学年度の教案を作る。本年の第一計画である人文地理通論のプランを作る。心身を労すること甚し。研究室のようなものがあればと思う。三月十日  昨日より愈々来学年の講義プランを立てゝ研究を始める。三月十二日  専修試験。三月十四日  専修の試験答案を採点して大学へ。四月以後日誌はブランクなり。

昭和十年の日記一月一日  道家先生に年賀に行く。立派な学者になりたいと志す。 一月二日  今年の目標、経済地理学の本質及課題に関する研究と定む。一月十四日  夜七時半より専大初講義―欧州政局の展望について。一月十六日  一ヶ月の生計費は少くとも一四円はほしい。一月十八日  昼の専大の初講義。時間に間に合うようすべり込んで行ったため、心は落付かなかったが面白いくらい快調。一月二十日  産業分類表を作る。専大講義の資料とす。一月二十一日  今日の講義―人と環境。一月分の報酬四円を受取る。一月二十五日  専大講義。一月二十六日  仝右。一月二十八日  夜間専大講義。家庭の煩いやひるの過労の為今日の夜の講義に疲れを覚ゆ。睡眠を十分にとることを痛感す。一月三十一日  帰宅後専大の為のノート整理。「米」の解説一通り了る。二月一日  専修の一時間の講義の後、水野勝邦君に会って喫茶へ。道家氏への依頼の件を話す。二月二日  河津暹先生先頃士官学校で講義中脳溢血でたをる。見舞金として金拾円也を出すこととする。但し五ヶ月月譜にて。二月四日  夜専大講義。二月八日  朝専修講義。二月九日  専修、風邪をおして講義す。二月十三日  夜専大により試験問題提出。後道家先生に会い、持時間増加のことをたのむ。二月十四日  専修に立寄り、今週に限り用務の為時間のくりかえを板垣氏にたのむ。家計費は本業より出すとしてもせめて専修の報酬を以て予の身辺の事、書籍代や洋服代は出したきものなり。二月十八日  講義の日であったが学生の望みに任せて休講す。私ものん

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びり神保町辺をぶらつく。当時の学生はのんびりしたもので、時々教師に休講をねだった。二月二十二日  専大講義。二月二十三日  専大講義、本日ヲ以テ今学年を了る。専大に於いて商業教員会ありて道家先生の講演を聞く。専大より二月分の報酬二十四円送金あり。三月四日  専大試験監督。三月九日  仝右。三月十七日(日)十時より専大卒業式あり。卒業式の日時は年々定っていなかった。三月二十七日  専大に行き来学年の時間を尋ねた。四月六日  地理学の教案を作る。今年度の専修大学の講義はハンチントンの学説を基本とする。昭和十年四月七日以後の記録なし。

昭和十一年

月給は二百円なりし。同時に昭和の方を辞職する。   昭和十六年十二月学生監に命ぜられた。   昭和十三年四月専修大学の教授となり、 この間の出来事を追想するに、 −十六年の日誌なし。

  道家先生は親分肌の人であってよく私の希望を容れて下さった。例えば受持時間数の増加をたのめば直ぐに次の学年より増加したし、又専修以外の学校の勤務について了解を求めば「私の方では十分に待遇が出来ないので寧ろそうして欲しい」と快諾されたし、最後に思い切って専修への専任を依頼したところ、間もなく呼び出されて専修教授の辞令を渡 されたりした。とにかく返事を殆んど即決でなされるところ洵に気持ちよく、されば毎日午后は先生は数十名の客に応接せられて疲れるところなく、大小の用事をさばくこと快刀乱麻の観があった。

  先生はよく「今でこそ早大慶大の下風に立つが、あと十年の努力を以てすれば必ず並んで見せる」などと云わた (れ脱ヵ)が、先生は漸く学内陳容の立て直しを考えられていたようで、先づ学生監制度を拡充して学生の訓育に力めようとした。

  当時世間の大学は公私を問わず学生と学校との接触は殆んど野ばなしの形であった。今日云われる学校と学生のコムニケーションについては、先生は既に意中に存していたようで、私の学生監任命もその一環であったようだ。既に滝本学生監を始めとして井手学生監補、三井学生監補、後に岡田と云う人たちが学生監になった。当時予科長としては小泉嘉章先生が居られた。師弟の接触がこまやかになる要件は学生数の少いことである。この点専修大学の少数主義は大いにこの方面に効果があった。

  この頃、即ち昭和十七年頃の学生数はどの位あったのであろうか。次の表によると昼間部は二二九三名と一応学籍簿にのってはいるが、授業料不納その他の理由で整理さるべきものが三六六名あるので実質的には一九二七名であり、夜間部の方は三〇七六名そのうち実質的学生は右同様の五三〇名を差引いた二五四六名で、昼夜合せて四四七三名であった。夜間部は当時大いに賑わった。今その内訳を見るに次の如くである。

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昭和十七年度  昼間部

期間・区分一年二年三年計三年・第一予科五六九五四〇一九一二年・第二予科一六二三一五四七七経済学部一三四九九五三二八六法学部四〇一九一二七一専門部経済科一六二二九一一一一五六四専門部法科四〇八一三五一五六専門部商科六一二〇四一三〇三九五専門部計理科七九四九二五一五三計七三四一一五三四〇六二二九三

夜間部

区分一年二年三年計第一予科八〇六九二一一七〇第二予科二五七一五二四〇九経済学部二四〇一四四六八四五二法学部七〇四七三一一四八専門部経済科三三七二九三一九七八二七専門部法科一一二一六四八五三六一専門部商科一五八二〇四一〇三四六五専門部計理科九四一〇四四六二四四計一三四八一一七七五五一三〇七六

  前述私の始めて講師として出講した昭和六、七年頃の学生数は恐らく数百名であったろう。しかも実際に常に出席したものは数十名で、私の講義も大体十数名を前にしてやった。雨の降った時など二、三名しか出 席せず、それらを前に話した記憶がある。それが次第に増加して(当時、大学卒は軍隊等に於いて色々有利な特典があったことも理由の一つである)、とにかくこの頃には五千名になったが、常に学生数が少いと云う印象を始めより持っていた。私がある時、旧の代々木練兵場に於ける各大学の閲兵式が行われた際、数千の専修大学の学生がグリーン色の専修の隊旗を先頭にして、威風堂々分列行進をやったのを目のあたりに見て、この学生の増加振りに今更ながらびっくりしたことがある。と同時に曽て学生数のあまりにも少いのをかこって居られた道家総長の得意も察せられて、洵に欣快の情に堪えぬものがあった。

  私の日記は昭和十年の四月七日以後は書いてない。これが昭和十七年の彼岸の中日、即ち仝年三月二十一日より書き始めている。この数年の間を前後の日記の記事なり体裁なりより察して見ると、この間は私も授業や雑用のため、加えて家計のやりくり等の為、中央大学などにもかけ持ち講義をしたりしたので極めて多忙で、手帖に当座の用を書き入れる程度で日誌などを書く余裕もなかったように思われる。しかもこの間にわが国の戦雲次第に濃厚となり、学校教育も形式、内容共に従来のようなものとは大分趣を異にするものとなった。

  この間は私の記憶に残っていることは、昭和十六年十一月、中央大学に講師として経済史を担当して間もなく、当時東大の経済学部長をやって居られた森総 (荘)三郎先生より呼出しがあり、「私大ではあまり勉強も出来まい。関西のある大学で経済史の欠員があるので行っては如何だ、待遇等は現在の年令、経歴をそのまゝ考慮に入れて貰うから」と云うありがたい話があった。色々考えたが今急に知らぬ地方に家族を伴って行くことや、それ以上にこれまで色々信頼と愛顧をいただいた道家先生の許を去ることは到底しのびないと思って、そちらを御辞退することにした

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ことなどがある。   この頃大学には報国隊と云うものが出来た。学生に軍隊組織がとられ、道家先生が隊長となり、専修の教授や職員が夫々その分隊長となった。私も十六年九月には専門部第二大隊商計第三中隊長等々の辞令を貰っている。隊は色々と分れたが当時大学には専任も少いのでいくつかの隊長を兼任したりしている。私が他の学校を退いて、名実共に大学の専任になったのは昭和十六年十二月一日である。小泉学監に呼ばれて、この要請があり快諾した。職名は教授の他に学生監と云うことで手当は百二十円であった。

  右の報国隊について少し語ろう。その中核をなすものは統制隊で、学生のうちより優秀なものを選んで隊員となした。これらの人たちはその後社会に出て活躍し三十六年を経た今日でも第一線で頑張っている人も多い。今その人たちを列記して見るに、学部三年  熊井忠雄、塩塚公二、森田睦造、坪坂豊吉、軽部延秋学部二年  平田栄太郎(専大常務理事)、村上倉造、植草茂、小林慶寿学部一年  福地守、畑熙太郎、森卓郎、幸田梧郎専門部三年  杉浦明(経)、儀間清武(法)、渡辺寛(商)、紺野靖彦(商)専門部二年  竹内一夫(経)、渡辺治(法)、住吉春男(商)、大槻要一(計)予科  斉藤博、斉木茂士の名が思い出される。右のうち斉藤博は後学部在学中、大学騒動の際、反対学生の中心人物となり学校当局に対しても随分と立ち向った者である。張本人であった教授の鈴木良 (義)雄にまきこまれ、一面学生にも押し上げられて、心にもなく随分世話になった師匠にも反旗をひるがえしたも のと推察される。その後どうなっているか知らん。

  予科は一つの大隊をなした。大隊長は前記斉藤博、中隊長は佐藤、門川、斉木、小隊長は河西、指旗、井上、須田、大孝、岩口、大塚、内海、木下、坂田、新間であった。別に大隊指揮班として海外、小西、野村、劉、後閑、恵沢、中隊指揮班として小林、寺谷、斉藤、田村、新木の諸君がいた。

  報国隊には色々の隊があった。例をあげれば経済研究隊、法学研究隊、計理研究隊、南洋研究隊、語学研究隊、弁論研究隊、新聞研究隊、撮影研究隊、音楽研究隊、映画研究隊、吟詠研究隊等である。

  音楽研究隊の中で竹友会と云うものが出来、尺八の練習をやったが講師は斯界ノ第一人者広門伶風氏が当った。吟詠隊も詩吟の大家玉杵三岳氏が指導された。玉杵氏は道家先生に見込まれて招かれた方でその吟風は実に素晴しいものであり、音吐朗々として藤田東湖の正気歌を吟ぜられた声は今なお耳に残っている。

  当時の教授陣は学部に服部文四郎、小野武夫、高木友三郎、楢崎敏雄等錚々たる経済学者が居られたが、予科の陣容も亦すばらしいもので、学問だけでなく立派な人物がそろっていた。その一、二をあげると民芸の柳宗悦、国語の田中保隆、国文で高野正巳、哲学の高山峻、又独学の人で学歴こそないが真の語学の実力者として世間周知の小山桂一郎、また横井春野の諸先生が居られた。何れも坂谷先生の遺徳をしたい、道家先生の意気に感じて集まったのである。

  こゝで特に記して置きたいのは、これらの方々の間には世の大学に見るような何の派閥もなく、世俗に対する野心もなく本当に薄い手当に満足されて、たゞ教育に専念せられたと云うことである。せまい十数坪の教員室に古色滄然たる卓を前に、或は鉄の火鉢に足をかけて大いに談笑

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せられていた。本当に専修の本領たる家族主義はこうしたところにもあらわれていた。「岩崎さん、専修は随分貧乏で手当もわずかだが、このように皆たのしくやって行けるのは愉快だネ」―昨昭和五十二 (一)年○ (一二)月○ (二二)

日九十○ (三)才を以て逝去せられた小山氏談―   前記の如く昭和十七年の日誌は私が比叡山で行われた海洋研究会の講習を了って、朝名古屋を立って夜帰京した彼岸の中日より筆を起している。この講習会は軍部の要請により文部省が主催して各大学によびかけたもので、専修に於いても私に出張を命じた。今まで専修では学校の用事でまとまった旅ひを支給して、教員を地方に出張させるようなことは殆んどなかったようである(道家先生が東京市の市会議員のときなど二、三の人がその用務で地方を歩いたことなどは仄聞していたが)。

  右の講習会は文部省の主催で役人が何かと指揮をした。位階勲等生徒の方が上であったせいか随分やりにくかったようだ。気をつけっと号令をかけられても生徒はニヤニヤしているし、右向けっと云っても左を向いたりして随分手こづらせたと思う。大倉高商の英語の先生で後立派な英文学者になられたO氏は私の悪友で、ある時エスケープして比叡山の麓にしるこを食いに行ったことなど覚えている。但し金ピカの将校たちの海洋についての講演などは一見真面目に聞いた。結局当時はサーベルが大変こわかった。

昭和十七年三月二十四日  この日より数日入学試験あり。筆記と口頭試問が行われた。三月廿八日  道家先生危篤の報あり。同日夜逝去なり。三月三十日  午前先生の追悼文草稿を書く。夕刻より校葬打合会を小泉 学監室に開く。三月三十一日  学校職員と同道にて先生の御通夜。一同霊前に泣き崩れた。四月一日  先生の大学葬あり。式了って身心虚脱す。知己を失うことの悲嘆かくの如きか。四月六日  九時より正午昼間部始業式あり。六時より九時、夜間部始業式あり。四月七日  十時―正午、経済地理を開講す。一時―二時三〇分、経済史開講。四月十二日  終日報国隊の班組織について仕事する。教練科の南雲教官と打合せ、その意見に従う。小隊を五十名とし四個分隊に分つ等々。夜地理の講義。四月十三日  宝亭に緑川、三井、岡田等集合。席上小泉氏より今後自分が専修の中心たらんとの自薦あり。四月十八日  帝都空襲の報あり。学校に馳せ参じ防毒班配置につく。後小泉氏に随行して外部視察。本学学生の弟、空襲で倒れしを弔問す。警報中は学生監日を定めて宿直することになる。四月十九日  午前二時半空襲警報あり。警報発せられれば何時にても学校に馳せ参ずる定めなるも夜中電車なし、断念する。間もなく解除。午后再び警報あり。自転車にのり大崎の家より神田の大学迄馳走す。車になれぬ私には一時間半を要し大いに疲る。今後かゝること廔々ありし。四月二十三日  新入生歓迎会。三時、岡田氏野営より帰る。四月二十八日  野営の一行、約三三〇名を引率して品川駅を発す。御殿場より駒門廠舎に向う。この間六粁、雨中びしょぬれの行軍であっ

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た。四月二十九日  昨日の強行軍のため病を発せしもの、事故者八名を帰京させた。午后専門部学生の攻防演習あり。古沢中尉指揮をとる。この野営は五月二日まで続いた。野営中小泉氏は学長に、須賀先生は総長に就任せられたとの報知があった。五月六日(水) 三時より教授会あり。学則変更の件(在学年限、授業短縮に関する件など)時局的国策的の学科挿入の件等々。須賀先生、専門部長を兼任す。法制上当然なるも小泉先生は学長兼経済学部長兼予科長となる。何でもかでもかき込むこと幼児のお菓子を独占するに似たり。五月十六日  玉杵三岳氏と詩吟の慰問行をなす。氏と車中で詩を中心に歓談す。本日快晴。一時―三時、慰問大会を茨城県土浦の海軍病院に催し、相当の感銘を与えたる如し。私の挨拶に次いで隊員交互詩を朗詠す。一行何れも礼儀正しく洵に爽快であった。土浦を発し内原訓練所に向う。夜は内原で詩の指導をす。私も亦先生より正気の歌を習う。五月十七日  朝五時起床、訓練所を視察す。一同の訓練のはげしきことむしろ悲壮の感を抱く。八時三十分、吟詠大会並に指導を広場に行う。聴衆約五百名を数う。正午訓練所を辞し水戸で用務の為一行と別れ、夜八時帰宅す。一行の隊員、都築、小柳、加藤、石沢、金丸、加藤、高井、斉木、安田の諸君であった。五月三十一日、九時文化部隊の学生たちと駒場に柳宗悦氏の民芸館見学。衛藤、田中、三輪の各先生も仝行す。後柳先生の自宅を訪問す。六月八日より仝十二日まで教練見学と監督の為習志野に出張す。旅費四 五円三〇銭なり。六月十五日  六時四十分、須賀総長逝去さる。六月十九日  校葬。六月二十日  予科の学生勤労奉仕に行く。緑川氏、研究所の規定や中堅教授の結成等大学の改革案につきしきりにしゃべる。右の研究所の件についてはその後緑川氏の独走甚しく、そのため私と小泉、緑川の確執を招いた。小泉氏の小心なる、結局予の意見を容れて事はおさまった。六月二十五日  小泉氏に呼ばれ、専修大学経済研究室主幹の辞令を貰う。小泉氏と喧嘩のあととて少々くすぐったき事であった。七月一日  賞与、特別賞与合せて二百五十円也。七月五日には総長個人よりの中元あり六十円也。七月二十日  本月の月給三四三円をもらう。因に当時の月給の一部分は時間給の部分があるので時により増減があった。大体この頃で三百円前後で、休暇など授業のない時は三百円を割った。九月十日  専門部の進学試験を行う。九月十一日  入試の口頭試験あり。九月二十日  十時より大学卒業式。九月二十一日  正午予科主任の辞令を貰う。片岡氏、緑川氏幹事となり、片岡氏予科長となる。洵に意外、片岡氏は今まで講師であったのが小泉氏との縁により突如予科長となる。教員室唖然なり。別に本多、水野参事となる。十月四日  外苑に各大学の拳闘試合あり。専修の拳闘は諸学に冠たり。指導は当代の第一人者中村金雄君であった。十月五日  十時と六時より夫々昼夜の入学式あり。

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十月廿四日  報国隊結成式、二時過まで。十一月廿四日  竹友会の顔合せ会に出席。広門冷風氏と知合となる。十一月二十九日  愛弟子を伴い池袋より東上線に添うて秋山口

(学経三)、河野、宮川良雄、斉藤、神崎と予なり。 ハイキングをたのしむ。同行八人。内貴徳蔵、牧野(専経二)、栗山 −寄居と   顧みて昭和十七年は私にとっても又大学にとっても大きな転換の年であった。私も前記、大学の専任となり生活もやゝ落つき腰をすえて勉強と書きたいところだが、右に述べたように当時は学問は半分であとは軍隊のまねごとのようなことに時間をうばわれた。又この年は学校にとっても大変不幸な年とも云える。即ち大学中興の祖とも云える道家先生が突然に逝去され、その後をつがれて総長となられた須賀喜三郎先生も間もなくなくなられ、当時予科長だった小泉嘉章氏が学長となりやがて総長となられた。

  道家先生は前にも書いたように云はゞ親分肌の人で多くの部下を愛せられたので、その死は全学の悲しみをさそった。地方講演より帰京されて間もなく発熱、病名は腸チブスであったのが医師の誤診で肺炎として処置されて急死を招いたと云われる。逝去の日時、三月廿八日午后十一時四十五分。

  須賀先生は法学部長であられたが道家先生のあとを継いで総長となられた。真に温厚の君子人であったが○ (六)月○ (一五)日病を得てなくなられた。

  小泉先生は温良凡庸の予科長であった。道家先生の学習院時代の同窓であった関係から専修に招かれて麾下にあって先生を助けられたようである。幸運にもトン〳〵調子に格上げとなり、始めこそ部下を招いて会食したり一同の協力方を依頼せられ極めて謙虚の風があったが、時の移るにつれ次第に総大将を意識し、殊に悪いことに柄にもなく道家先生を 真似るようになり独裁的となって行き、その後全学の不評判を招いた。又身辺には佞人の部下もありその巧言にあやつられることもあって、後に述べるようにあげくのはて学生間に排斥運動が起り、学校を追われるようになったのはかえす〴〵残念であった。何故先生本来のものを保たなかったと思う。これは一つには時代のせいでもあった。即ち当時は上位絶対の世相で大将は大声叱咤して配下に臨まねばならなかったのであろう。

  ここでもう一度この頃の私の辞令を見よう。   十七年四月一日生活部長と云うものになった。これは学生隊員の保健と共済とにつき指導・監督・斡旋をなす役である。例えば学生のためノート、洋服、靴の配給券等を世話したりした。

  十七年六月には経済研究所主幹、道家経済研究所々員に委嘱せられた。小泉先生の時代となって緑川敬氏等が中心となって色々の改革案が提起せられての結果で、経済学の研究や道家先生の名をいつまでも残したいと云う趣旨よりなされたと思うが、大した業績はあげられなかったように思う。

  仝年七月には特設防護団救護班長や報国隊鍛錬部隊庭球隊長、国防訓練部隊拳闘隊長を委嘱せられている。特設防護団と云うのは漸く盛んとなった空襲に備えて設けられたもので、山田政太郎氏を長として家付きの諸公が夫々を担当した。即ち、本部員板垣、警護岡田、防火三井、防毒岩崎、救護三ツ木、避難南雲、配給今福、外部動員井手、庶務後藤の諸君であった。

  庭球や拳闘は従来は体育部の一部と考えられていたが、当時の軍隊色の強かったことは前記の如く、かくてその名称等にも全ての行動はみなお国の為と云う思想がうかがわれる。

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  この頃の専属の人たちは小泉先生を中心として、顧問として水野、本田と云う華族が居り、緑川氏が小泉氏の腹心となり、井手、三井、岡田、今福の諸氏と私が学生監(これは十七年八月職制改正により学生主事となった)として活動した。

  他に配属将校に田中大佐、古沢中尉、南雲下士官がおられた。これらの人は時には意思の相違でけんかをしたり、小ぜり合をした事もあったが当時の風潮で屢々会議を開き協力して学生の訓育に献身した。井手浪雄氏は本学の学部を卒業した生えぬきの家の子で学生の信望もあり、三井勲氏も昭和八年の専門部経済科の出身で学生の面倒をよく見られた。岡田氏は他校の出身であるが道家先生に心酔し、武道にも勝れ又記憶力実に旺盛の奇人であった。その特異の性格の為よく周囲とトラブルを起したが学生の為にはよく働いた人。田中教官は頑固であったが仕事の企画処理は実にうまかった。古沢氏は茶目、南雲氏は温厚な下士官であった。緑川氏はあまりに才人であってその才にのりすぎる観もあり、後年小泉氏と共に学校を追われる羽目になった。

  小泉氏が悪いのか緑川氏が悪いかは分らぬが、小泉氏にこびて先輩諸教授を斥けて経済学部長になったことが後の大学紛争の遠因をなしたように思う。

  仝年九月、私は予科主任に命ぜられ予科学生の指導に当った。当時の科目には学科の他に練成と云うものがあった。勿論軍の命令によるものである、当時の学校は神保町だけで三階建の校舎の前庭が唯一のキヤンパスで他に大した運動設備はなかった。従って練成の時間はたゞ学生を連れて不忍池をまわったり宮城のまわりを濠に添うてかけ足をやったり、後には数十台の自転車に乗ってかけめぐったりしてお茶をにごした。   出席の点検は実にきびしく、学生もそれが各自の成績に強くひびくところから勉めて出席した。学生のうち出席不良の怠け者は常に呼び出されて、担当の学生主事あたりから大目玉をくわされた。

  尤も十七年頃は学問の教授も先づ〳〵順調に行ったようで、私も日に一、二回は教壇に立って学部専門部には経済史、予科には経済地理などを話すことが出来た。

  昭和十八年は正月元日十時よりの大学新年会より始る。会後靖国神社を参拝す。昨年ゴタ〳〵した問題の研究室も年末にはすっかり整い、各自の部屋もうまく割られて書籍も移し、花、絵画等の飾りも加えられて粗末な部屋だったが落付いて勉強することも出来るようになる。八日は陸軍の観兵式があり拝観。午后一時半より会議。大学の体操制定の件、報国隊の予算の件、橿原神宮に於ける講習会報告の件を議す。本年度の入学試験は三月十五日より四月九日にわたり行わる。筆記、体格、人物考査の各方面を予科(昼)、仝(夜)専門部各科の順で行うことに定む。一月十一日より講義始る。この頃より学生の出征者多くなり、この日も法科出征者に訓辞す。十二日より二十三日迄、毎日の行事として寒中早朝七時より馳走練成をすることとなる。十五日  寒稽古始る。拳闘部道場を掃除す。十六日の学生主事会は国民貯蓄組合の件。二十二日朝  報国隊予算修正の件、練成本日を以て了る。修了式を講堂に行い、後しるこの接待あり。二十九日  朝早く錦糸町駅へ。亀戸被服廠の集団勤労奉仕監督。前にも一言したが練成等の出欠は極めてきびしくその点検は学生主事の大き

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な仕事ともなり、出欠不良の組の担当者は総長よりひどく小言を云われた。二月十三日  専門部授業打切。十五日  専門部試験監督。十八日  第一回の研究所々員会議を開く。所員は小泉、片岡、緑川、岩崎の四人なり。

  一、年報発行の件  一、学術雑誌発行の件   従来専修には経済法律論叢と云うような学術雑誌も発行されたのであるが、中心となる者もなくあまり活発な動きを見せなかったので、今度は緑川氏あたりが中心となり研究所が出来たのを機にこの方面にも大き (いヵ)

に力を入れようとしたのである。二月二十日  三時より特設防禦団結成式。二十一日  日曜だったが早朝防空訓練を行う。   この頃の中大の講座料(週一回)は三十二円であった。二十四日  午前中予科講義ノ時、試験の注意を与え、出席数少き為の失格者を決定す。

  三月六日より仝十二日の七日間、各大学の主事を集めて錬成を受けることとなり、専大からは当時私が選ばれて行くこととなる。場所は北多摩郡の小金井町にあった国民練成所であった。所長は松岡と云う先生、指導は文理大の木下一雄先生で学生に直接接して訓育に当る各大学ノ学生主事を鍛え直すと云う趣旨で行れたもの。講習の内容は極寒の朝暗いうち五時から起きてみそぎ、剣道の木刀のからぶり数百回から始り、作法実習、夜九時の就床時迄盛り沢山の行事があった。みそぎは早暁冷水をあびるのだがつめたいなんぞはおろかにて板で背中をたたかれた感であった。この為講習中肺炎を起して帰校した九州あたりの老教授外二名 が居た。講習生の中には高等官一等の道場の先生よりえらい教授も居たが、この会期中はあくまで講習生として扱われ、終日国民服で身をかため常に端座、禁煙で終始した。煙草好きの私などなまじっか鞄の中に煙草を仕入れていたため何とかして一服やろうとしたが仲々そのスキがなく、この一週間苦しい禁煙をやった。解散後練成所の門前で早速一服やったらくら〳〵と目がまわって了った。幸に剣道の担当教官は私の中学の後輩であったので、こっそりたのんで一握位の火を自分たちの部屋の火鉢に入れてもらったりした。一同の一番つらかったのは端座で、時々こっそり足をくずすがそんなことで足のしびれは治らなかった。学修は松岡所長の錬成の本義についてとか、宮内省の木下道雄氏の御聖徳を語るとか、当時大蔵省の総ム局長だった迫水久常の大東亜戦局の将来とかと云ったものであった。陸軍航空士官学校等色々と軍施設を見学したりした。この学校からの帰りは徒歩で午后一時学校を出発、三十二粁の行軍をした。豊岡

−箱根崎

−奈良橋 あった。 三月十五日は予科の入試第一日。筆記試験、科目は国語、作文、英語で 己と云う念も可成り植え付けられたように思う。 の作法実習はそれより三十年後の私の舞踊への執着となった。滅私・克 ぜられるようになった。禁煙はついに出来なかった。その時の木下先生 うになり、今までの寒がりが、冬でも戸、障子をあけわたす方が快く感 大でズッと後年まで続いた。この時以来私はいつまでも端座が出来るよ なかった。随分つらかったがこの一週間の講習の効果は私にとっては甚 は激しく次々と盛沢山の行事があり、足もしびれてとても思索など出来 た。反省会なども行われたようだったが、火鉢もなく煙草ものめず寒気 帰った。一同ヘト〳〵。娯楽としてはハワイ海戦等の映画を見せられ −青梅街道から練成所に八時半に

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三月三十日  河津先生逝去の報に驚く。三月三十一日  先生宅に弔問。正午より河津先生の葬儀参列す。この時も小泉氏は自分だけが専修の唯一の人だと云う態度言行動が見られて甚だ不快を覚えた。四月七日  入試、身体検査を行う。全員二千八百余名であった。午前九時ヨリ始メ午后七時半に至る。警戒警報中ナリシモ検査は円滑に運んだ。明日の入学式の学生主事としての訓辞につき井手、三井両氏と打合す。四月八日  本学年度入学式。四月十二日  静岡県板妻私設廠舎に於ける野営に出張す。四月十五日  夜間部入学式。四月十七日  予の講義始る。本年は予科に経済原論と地理、専門部に経済地理、学部に経済史を講義することとなる。この頃政府より発せられる度々の通達等にも漸く戦時色濃厚となる。高校令第一条等問題となる。経済原論などは経国科と云う呼び名となり、外観の呼び名など大いに異るが如きも内容は従来の経済原論であった。四月十九日  朝は専門部一年の開講。夜は講義の他学生幹部を集めて種々議論の後靖国神社の交通整理の打合せを行う。今夜は日直で居残る。四月二十七日  専大新聞の座談会を会議室に行う。後報国隊の会議あり。この日予は文化部隊長、学術研究隊長となる。四月二十八日  今月より従来の時間給の部分は廃せられ全部固定給となる。私は学生主事のトップであったが屢々の旅費等を加えて三百円位となる。五月十四日  予科練成了ル。文化部隊の指導員を内貴、斉藤と詮衝した が、統制部隊の平田、村上とも打合せを行う。当時大隊長は指簱、仝副官松岡、中隊長は田中・内田、仝副官は広岡の諸君で何れも統制隊員なり。

  七月五日より予科試験。七月十一日より八月十五日迄休暇。五月十八日  南方研究隊の坂本、石沢、瀬下、奥山、木村等来り。文化部隊につき談論風発。五月二十日  道家研究所初会式あり。

  中山伊知郎、黒沢清、大河内一男の諸氏来会。   昭和十八年の前年を顧るに、戦時下何かとあわただしかったが一応講義も順調に行われ、又訓育の方面に於いても野営あり、教練査閲あり、防空演習あり、練成等もその催ほしも多彩であった。学生も統制隊幹部を中心に軍隊組織の下一致協力して行動した。会議を屢々開いて常に親しく相接し議論もし喧嘩等もしたこともあって、各自の親しみ、上下のコムニケーシヨン等十分に行れたことは、今日の各大学のマンモス教育に比し遙かに教育上の効果があったことと思われる。

  十八年の後半も前年に引続いて毎日同じような生活の繰かえしであった。学校の方も入営するものも多くなり出席の学生数も次第に減ずるようになって行った。

  私個人の生活について見るに朝五時半起床。洗面、神拝、朝食、仕度して学校へ。学校では一同を集めて朝礼を行い、事局の認識と学徒の心がまえと云ったやうなことをしやべり、帰宅して入浴休息するまでの間は、研究室等で読書したり講義の為のノート作りをしたり、又学生指導のための準備をしたり又多くの学生に話かけたりしたが、他の学生主事も大体仝じような過し方であった。未だ空襲もさして激しくならず、被害も少くとにかく住む家もあり、魚肉野菜果物等々容易に得られ(お金

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があればですよ)衣類は国民服で通した(いつか黒の背広としやれて登校し、小泉さんからひどくしかられたことがある)。娯楽も映画もあり寄席もあった。私のこの年の収入は約四千五百円位だったから月平均三八〇円位だった。とにかく月給日の翌日は子供三名を連れて遊びに出かけることが出来て当時最大のたのしみとなった。

  例により後年の日誌を書きぬいて見る。七月一日  本日より七月二十日迄志村に於いて勤労奉仕を行うこととなる。七月二日  野沢菊次氏の防空救護に関する講演会が催ほされ、救護班傍聴す。賞与三五〇円を受く、そのうち百円は戦時手当というものであった。七月六日  三時より五時防毒演習あり。マスクの着用法、石灰散布法等を習う。七月十一日  暑中休暇に入る。七月十三日  本日向四日間沼津に於ける水泳訓練に出張す。七月十七日  研究所の雑誌の出版につき厳松堂や栗田書店に交渉したが効なし。七月二十日  今日より七月末迄、東京陸軍兵器補給廠に集団勤労に行くこととなる。A組予科一年

  予科の講義。十一月八日朝礼を今週より二回とする。月曜は私、金曜は片岡予科長    八月廿六日立川航空廠に於ける学部予科の勤労奉仕の監督の後、夜は十月三十一日魚市場見学を以て経営学会閉会。    十月三十日午前研究報告を行う。夜商工経済会の招待晩餐会あり。八月十五日休暇了ル。   八月十二日本日より六日間、予科生は深川の市川鉄工所に勤労奉仕。開く。 りし。午后より私が司会をつとめる。夜は総長招待の晩餐会を帝国ホテルに    八月四日帝国ホテルに招宴あり。興亜同盟の発展的解消に伴う挨拶な十月二十九日今日より経営学会総会を本学に開く。午前中は理事会、

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  名。十月二十一日文部省主催学徒壮行会に何れも出席して校内人けなし。 軍の学生本校を出発す。   十月十五日十時より学徒出陣の壮行式を講堂に行うと同時に、徹宵行 た。 とて、学校当局は落付きを失い学生もそれにひかれて動揺が激しかっ 二十二日の国内態勢強化方策の発表以来学校はなくなるのではないか   十月十日日曜でもあり雨天でもあるので終日静養、色々と考う。九月 上席を与う。武田氏大いに憤慨す。当時軍人の大いに威張った一例。 す。私思うに大学は学問の府なり、文人を先きにすべしとて吉村氏に の為私が代って挨拶す。早大の吉村正氏、陸軍報道部の武田中佐来校   十月八日八時より軍人援護学会の講演会、講堂に催ほさる。総長不在   十月四日入学式を行わず直ちに講義となる。 き心配す。 なる。昨今学内外の空気何となく寂然なり、何れも皆学校の今后につ   十月二日本学会議室に国防学会を催ほしたるも会するもの少く流会と に戻った感あり。 の強化方策や勤労奉仕のため学生の出席もまばらにて往年の専修大学   十月一日常ならば新学年のスタートにて頗る活気に富むべきも、前出   九月二十二日国内態勢強化方策の発表あり。

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が担当。十一月廿七日  全都の防空演習始る。終日訓練に従う。小使室に一泊。十一月廿八日、日曜、朝四時頃起床。五時より訓練に入り八時了る。十二月八日  大詔奉戴式並に残留学徒の奮起大会を講堂に開く。又銃剣道大会を校庭に行う。夜は又夜学部の奮起大会あり。十二月十五日  予科の試験始まる。十二月十六日  総長より専修今后のことにつき話あり。「専修大学」と云う名は残るとのこと、予科生と夜間生の募集は行わぬこと等。十二月十七日  明治大学に各大学の学生主事会議あり。三時より七時迄時局の要請による。十二月二十日  専門部講義を了る。十二月二十一日  学部の講義を了る。予科試験了る。日独文化協会、独乙大使館提供の映画会を開く。

  昭和十九年、新しい年を迎えたが戦争の進むにつれ町々の様子極めて荒涼たるものあり。

  四日、軍人勅諭奉読式あり。五日、本学の教官古沢中尉の出征あり。六日、わが愛弟子なりし石井蟇子蔵の入隊あり。十一日より十七日迄品川検車区に於ける予科五十名の勤労奉仕あり。次いで下旬には専門部の勤労奉仕あり。われら学生主事力めてその場に行きて監督す。その間をぬすんで時局の書を読み教養の書に親しむ。二十七日には緑川氏の依頼にて東亜同文書院の機関誌「支那」に投稿を約す。後二回程これを果す。学校の授業もなお行われていたので勤労奉仕の監督の間を縫って講義も行い、専修新聞などにも寄稿す。

  二月に入る。朝夕の食事も次第に窮屈を覚えるようになる。親戚や田 舎の知人にたのんで米など融通して貰うこの頃なり。落花生は一升十円であった。よく宮城屋と云う食堂で外食券をつかって食事をした。喫茶はきやんどる、白樺によく行った。友人との会食は学士会館を利用した。この頃緑川氏は小泉氏とコソコソ通じて道研の講習会のことなどにつき随分身勝手な振舞もあった。専大学生の河合君の田舎の知人より何回か野菜を買って貰ったことがある。二十七日には大根四本、沢庵十本、ごぼう二束。二月二十八日  新学年編成につき片岡氏と共に専門部主任となる。私は政経科、片岡氏は経営科担当。俸給二百円。講義料は時間給にて一回三円。担当科目は産業経済、経済史、経国科、時間数十五時間。三月一日  試験の監督と専門部生の出席調べ。試験には不正者がよく出たが、その軽重により試験停止、退学等が行われた。八日、入試始る。志願者実数二六一名。

  この頃旅行も出来ぬようになり、仲々切符は買えなかった。一枚の切符を求めるのに深夜雨中を子供と交代で長き列を作り、あけ方に至り漸くこれを得たことあり。本屋の店頭にも良書かくれてくだらぬ本ばかり。食事も貧弱となる。従って金もさしてほしくなくなる。幸に一家何れも健康にして団らんの楽しみありし。三月下旬には又勤労奉仕あり。板橋の第二陸軍造兵廠他板橋補給廠、王子の堀船倉庫等。

  四月、新学年になったが戦局益々緊迫の度を加え、それにつれ学校の姿も次第に変って行った。四月二日  兵務局長山口信一少将が学校の教練を見に来た。大学の職制も変った。今迄学生の訓育については主として学生主事が当ったが、この方面をもっとキメ細く行う為には人員不足を覚え教学陣からも協力をたのむこととなり、予科専門部等学年別に分けて夫々に主任を置

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くこととなった。英語の衛藤教授、経営学の大塚光教授、哲学の高山教授等之れに当った。四月八日  昼夜の入学式あり。十日新学年開講。総長は毎日出校せず火水に出て用事をすることになった。四月十九日  国民貯蓄組合につき会計の海野氏と談。私については講義とその準備の他、朝より夜に至る迄学生指導にかかり毎日疲労して帰宅した。この為か毎夜寝汗を非常にかき、二十一日校医勝又氏の診察を受け右気管支がおかされているよし云われ、翌日血液沈降速度の検査を受けたが病状歴然たるものあり。更に専門医の診察を受けるようすすめてくれたが、当時仕事多忙を極め仲々そうした余裕なくそのまま打捨てざるを得なかった(この病状は後記の栃木県小川町に学生を伴い十数日稲刈りをやっているうちにすっかり治って了ったのはアラ不思議、本当に病は気力如何によるものと今以て話の種となっている。転地療養の効があったのかも知れない)。四月二十九日  八時より天長節の式を挙ぐ。四月下旬  追試験あり。五月十日  予科生一五九名野営に出発す。五月二十二日  九時文部省に勤労動員実施協議会あり。当局の説明後質疑に入る。予も専修の為発言す。五月二十三日  昼夜報国隊編成式あり。授業なし。日々の食料益々窮屈となり、地方に赴き米・味噌等買出しに行ったこともあり。地方在住の学生等より食料の仕送りもあってこれは大いに助かった。日々の訓練きびしく学生中より卒倒する者があった。よく会議しよく学生の名簿を作った。学生の出席を求むること甚し。 六月六日  予と岡田氏は宇都宮県庁へ、三井氏は農商務省に出張す。何れも勤労奉仕の打合せなり。六月十五日  本日より仝二十八日迄、専門部一年一九五名を引率し栃木県小川町方面に於ける勤労動員に向うこととなる。勤労の内容は農家のための稲刈りなり。事前色々関係者と打合せたる上のことなり。

  十五日七時学校に集合。総長の訓辞を受け赤羽を出発。宝積寺を経て鳥山へ。そこらよりバスで小川町へ。小学校にて請入式あり。各学生夫々の農家に分宿す。予の宿舎としては土地の有力者高杉政庸氏宅に定まる。翌日より自分の受持区域を徒歩・バス・自転車等で巡視、又各請入農家に挨拶す。同行の岡田氏、板垣氏又同様のことをなす。期間中小泉総長来る。村役場等で招宴あり。総長宿舎は越後屋と云う宿屋であった。滞在中教職員夫々経過を報告す。

  勤労中訓戒を与えしもの一、二出たるも大部分の学生皆よく勤労し可成りの成果を与えたるも、よく又食料も十分支給されたる為一同極めて元気なりし、学生の幹部米田、宗広、岡野等の諸君よく連絡の任に当る。六月二十九日  朝出校して総長に動員無事終了を報告す。後わが研究室にあった日本経済史の文献数十冊の盗難を発見し心胆冷ゆる思いがした。何れも私にとっては価値あるもののみなれば犯人も目に一丁字ある者なるべし、小使の証言によれば数名が車につんで持ち行きしようなりと。当時空襲中は部屋を開放すべきことが定められていた。屢々の空襲中部屋を開放し最後にかぎをかけるのを忘れたため部屋の出入極めて自由なりしためか。この日賞与五百円出でたるも、以上の事のみ心にかゝり終日茫然とした。動員の講評をわずかに書き上げたのが精一杯であった。後七月七日、神田警察に右の件を届出でたが刑事の

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曰く「近頃は国宝でもぬすまれる時代ですからね」と極めて冷淡にてとりつくひまもなかった。七月二日  先頃の小川町に於ける勤労動員の際、大変世話になった高杉家、薄井家、森島町長、森村長に礼状を書く。七月上旬  学期試験も行われその監督をする。警戒警報も屢々なり。終日心の落付かぬ時もあった。警戒警報発令の時は在所の如何にかかわらず学校に馳せ参ずる定めは依然あり。七月七日  蒲田にあるダイカスト工場、国産金属K・Kに勤労動員を行うこととなり、夕方先方側と打合す。山田政太郎氏他立合って話合をしたが先方の要求強く、学校側の主張甚だ不利なりし。何せ軍部を背後にしているので従来は単なる一工場に過ぎなかったが仲々の強腰なり。子供たちを妻の故郷に疎開させることなど真剣に考えるやうになったこの頃なり。八日  動員壮行式を行い、又先方と動員について打合せを行う。家に於いては防空濠の修繕強化を行う。十一日  高山教授、既に行われていた栃木県太田の中島飛行機工場より帰京す。色々話を聞く。後私も一度そこに出張したが教官室は四角な箱の中に居るような甚だ無味乾燥な部屋にて、四面板壁の中に机一脚のみ。たゞその上に世話人の好意で盆栽一鉢が置かれていた。緑色が実に心にしみ入る思いであった、予が後年盆栽に対して愛着の念をいだくようになったのはこの時の影響であった。七月十二日  国産金属の動員始る。先づ入所式あり、専門部学生は従来のような短期間の勤労でなく、このたびは長期間にわたってここに働くようになった。すべて時局の要求による。即ち翌二十年四月十六日に工場が空襲によって全焼したが直ちに工場がつくられて仕事を再 会 (開)、後閉鎖に至るまでの長い間であった。私の出張監督も亦仝じ。たゞ学校に授業あるときは学校に行き講義をしたが、この頃は勤労が主で講義の方はつけたりで、たゞ学生に資格を与えるためのものであり、時間割の如きも従来のものと変り、時に集中講義とて集約的の講義をしたように思う。

  ここの社長さんは和田さんと云った好人物であり、それをとりかこむ会社の人たちも学生たちに丁寧であった。たゞ製品は軍需品であったので背後の軍部の力が加わったためかすっかりえらくさせられてしまった。仄聞するにもとは鍛冶屋のおやぢさんだったが、やがて中小企業経営者となり時局の力で勤労動員の聯隊長格にのし上った。当局の命で受入会社の社長は学生統制の権を持った。重役たちはその副官である。毎日八時には学生を集めて社長が訓辞をして仕事が始められた。そんなわけでインテリの学生たちには少なからぬ不満があり、時には仕事をなまけたり仕事の計画等につき工場側と学生間に色々のトラブルを起したりしたこともある。その間の折衝が私の一つの役でもあった。

  一面仕事になれぬところから機械に手をはさまれるような負傷者を出すこともあった。就業後十日程たつと一同も仕事も馴れ、会社の人たちの気心もわかったせいか一応の落付きが出来て大多数の学生はよく働いた。時局の重大を感じたせいか随分注文以外の作業もやってのけ会社側を感激させたこともあった。時には会社から酒や物など与えられ成績のよいものには芝居の切符なども与えられた。勤務時間による月々の報償金は勿論出された。休養日は会社がないので皆休養した。空襲が屢々ありあちらに爆弾が落ちこちらに火災が起り、一方都会の在住が危険となって学童の疎開、一般の疎開が次々に行われるよ

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