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Traductions japonaises des oeuvres de MichelTroper, tome 7, « Le titulaire de lasouveraineté »

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

Traductions japonaises des oeuvres de Michel Troper, tome 7, « Le titulaire de la

souveraineté »

南野, 森

九州大学大学院法学研究院

https://doi.org/10.15017/10730

出版情報:法政研究. 73 (4), pp.127-145, 2007-03-20. Hosei Gakkai (Institute for Law and Politics) Kyushu University

バージョン:

権利関係:

(2)

ミシェル・トロペール論文撰7

   ︿主権の所持者﹀

南 野森︵訳︶

︵訳者注︶ 本稿は︑ζ一9Φ一↓幻○田押︽いΦ蜂巳巴おαΦ一介

ω〇二くΦ鑓冒①融︾鴇ヨ﹈≦一〇げ巴↓勾○田押卜匙ミ駄ミ暗織ミ駄こ母貯

亀こ鼻N肉ミ斜﹁d国bOOザ9鋤豆嘗Φ×<日もPN︒︒ω曲り・︒︵◎

勺d国︑初出は沁題譜尉ミS註食bdΦ旨Φ沖嵩一りΦざbP一ω刈

−H器︶を翻訳するものである︒

一 権力組織と主権の一般理論

二 権力組織と主権の部分理論 認められるものであった︒このことはなにも不思議なことではなく︑たんに﹁主権﹂という語がそこでは異なった意味において用いられているという事実に起因する︒ カレ・ド・マルベールは主権という語の意味を三つに区別したが︑その分析をもう少し押し進め︑﹁主権﹂・﹁主権者﹂という語の意味を五つ考えることが有用であると思われる︒カレ・ド・マルベールによれば︑

 ﹁原初的な意味においては︑主権の語は︑国家権力

の最高であるという性質を意味する︒第二の意味では︑

国家権力に含まれる諸権限の総体を意味し︑それゆえ

それは国家権力の同義語となる︒第三に︑国家権力の

最高の所持者が国家において占める地位を特徴づける

ために用いられる場合がある︒この場合主権の語は︑       ユ 機関の権力と同一化する︒﹂

   ﹁誰が主権者であるのか﹂という問いには︑実に異なつ

  た様々な答えがありうる︒たとえば︑フランス第四共和政

  下にあっては︑﹁人民が主権者である﹂とか︑﹁議会が主権

料 者である﹂︑またあるいは﹁国家が主権者である﹂といっ

資 た答えが表明されえたであろうし︑そしてそのいずれもが  ドイツ語にはこれら三種の観念に対応する術語があること︑すなわち第一のものには⑦oミ鳴ミS軌ミ殊︑第二のものには⑦ミ蟄露Qミミ艦︑そして第三のものには津ミ周覧\がそれぞれ対応するということを行論の過程で強調したうえで︑カレ・ド・マルベールは︑これらの区別が主権の﹁真の性 助4

(3)

      ︵2︶質﹂を理解することを可能にするとする︒しかしながらこ

れらの区別は︑なぜいくつかの主権に関する命題が︑一見

互いに両立不可能であるように見えるにもかかわらず︑同

一の法的議論においてすべて受け入れることができるのか

を理解することを可能にするという︑より直裁な利点を

持っている︒

 まず︑主権の不可分性という性質に関する命題について

の場合がそうである︒もし﹁不可分性﹂という語によって︑

その性質ゆえに主権を破壊することが禁止される  ある

いはたんに勧められない  という︑そのような性質を理

解するのではなく︑あらゆる分割を現実に不可能にするよ

うな性質であると理解するのであれば︑主権は常に不可分

のものであるわけではないことになる︒たとえば︑﹁国家

権力に含まれる諸権限の総体﹂に関して言えば︑これを分

割しないことが望ましい︑と主張することは可能であるが︑

しかしそれが不可能であると言うことはできない︒権力分

立は︑まさにこのような権力をさまざまな区別された⁝機関

に配分することである︒この意味で理解された主権は︑つ

まり︑決して不可分ではない︒カレ・ド・マルベールによっ

て抽出された第三の観念について言えば︑ことはもう少し

不明確であり︑補充的な区別を導入する必要がある︒最高 機関の性質は︑非常に異なった二通りの方法で理解することができるのである︒つまり︑それに優位するものが存在しないという事実に関するものとして︑そしてまた︑それが他の全ての機関の上位に存在するという性質に関するものとして︑である︒前者のように理解すれば︑複数のものが同時に︑つまり対等にそのような主権を有することが可能であるから︑主権はまさしく共有されうるものとなる︒反対に後者のように理解するならば︑主権はたしかに分割不可能なものとなる︒というのは︑複数のものに他の全ての上位に存在するという性質を与えようとするならば︑如何なるものもそのような性質をもつことはできないからである︒ 同様にして︑カレ・ド・マルベールの区別によって︑主権の所持者に関する様々な命題が異なった対象を有しており︑完全に互いに両立可能なものであることを理解することが可能となる︒たとえば︑国家が主権者であるということと︑議会が主権者であるということとを同時に言うことができる︒というのは︑国家に関しては︑それは国家が国際関係のなかで占めている地位を念頭において言われていたり︑あるいは非国家的権力との関係において存在しうる

ような法的関係について言われていたりする  国家の中

44紹

(4)

動楠

嬢 備 牛 陣

いコ

︑︑︑ には国家は存在しえない︑と言われる場合に表明されているのがこのことである一し︑他方で︑議会の主権という言い方は︑ある機関の最高性を意味しているからである︒ 反対に︑カレ・ド・マルベールの分析によっては理解することのできない命題も存在する︒それが人民主権に関するものである︒人民は︑独立国家でもなければ︑最高機関でもないし︑また国家権力に含まれる諸権限を行使する存在でもないからである︒そこで︑議会が主権者であると述べ︑同時にまた人民も主権者であると述べるために︑あらたな主権概念を導入することが望ましいというわけである︒すなわち︑ある権力を所持し︑自己に優位する者が存在しない機関の権力を正当化する存在の性質︑という概念である︒この性質こそが︑十八世紀の政治的法的用語法において︑たとえば主権の﹁源泉︵ΦωωΦ昌︒Φ︶﹂とか﹁淵源︵b目一﹈PO一づΦ︶﹂といった語において示されていたところのものである︒たとえば一七八九年人権宣言第三条が︑﹁あらゆる主権の淵源は本質的にナシオンに存する﹂としていた如くである︒つまり︑この主権の源泉は︑その﹁行使

︵ΦM︵Φ同O一〇Φ︶﹂に対立するものであり︑﹁行使﹂とは︑主と

して立法権の中にあり︑代表者もしくは機関に委ねられう

るものであったのである︒  それゆえカレ・ド・マルベールの区別は︑主権の不可分性もしくは人民主権についての一定の命題の妥当性を説明しうるように補われなければならない︒こうして︑五つの主権概念が導出される︒

ω他のあらゆる対外的・対内的な権力から独立して

 いるという国家の性質︒

② 国家権力︑すなわち︑国家がなしうることすべて

 の総体︒

③ それがもっとも上位の権力︑すなわち立法権を行

 給するから︑あるいはその行使に参加するから︑と

 いう理由により︑より上位のものを持たない機関の

 性質︒㈹ あらゆるものの上位にあるという機関の性質︒

⑤ その名によって主権的機関︵⑧あるいはωの意味

 での︶がその権力を行使するような者の性質︒

 以下で扱おうとする問題は︑主として︑⑤の意味での主

権の所持者を決定することに関わるものである︒しかしそ

れに先だって︑いかなる観点からこの問題が提起されてい

るのかを明らかにしておくことが望ましいであろう︒国家 鋤4偽

(5)

の一般理論に属するあらゆる問題と同様に︑主権に関する

問題もまた︑命令的観点から扱うことができるし︑記述的

観点から扱うこともできる︒一つの実証主義認識論からす

ると︑記述的観点が選択されなければならない︒とはいえ︑

記述的観点という選択は︑実証主義認識論の専有物ではな

い︒ 自然法学説が時として国家には一人の主権者の存在が必

要であると言うとき︑それはしばしば﹁あらゆる国家には︑

一人の主権者が存在する﹂という言い方で表現され︑その

ことによって自然法学説はこの場合の主権の属性や性質を

記述することができるのだと︑しばしば指摘されてきた︒

しかしながら︑語の何らかの意味において主権的であると

される性質は︑経験的な性質ではないのであって︑ベンサ

ム以来︑﹁あらゆる国家には︑一人の主権者が存在する﹂

といったタイプの主権についての記述的理論が分析に耐え

うるものではなく︑有効性を立証されうるものでもないと       ヨ いうことは明らかである︒さらに︑国家が主権によって定

義されるのであれば︑これらの命題を分析命題として理解

することはできなくなる︒なぜなら︑この場合に︑循環に

陥ることなしに︑主権をあらゆる国家に存在する権力とし       て定義することはできなくなるからである︒  他方で︑伝統的な法実証主義もまた︑それが実定法を記述することを任務としているとした場合︑国家の一般理論にとっての有用な観点を提供することはない︒それは︑﹁Pという国家の実定法によれば︑主権の究極的所持者は人民である﹂といったタイプの命題を提示することになるが︑このような記述は︑それとして捉えた場合︑かかる言明に用いられている語の意味について何事をも明らかにしないからである︒憲法が﹁主権は人民に属する﹂と述べているとしても︑そのことは必ずしも︑民主政や普通選挙の存在を意味するわけではない︒さらに同じ憲法が普通選挙や命令委任の制度を定めていたとしても︑これらの制度と人民主権の宣言との問に論理的関連が存在すると言うことはできない︒より一般的に言うならば︑伝統的理論がそうしてきたように︑これらの命題が法規範を表明しており︑また︑法規範として記述されうるとの前提をとることはできないのである︒時として実証主義の論者は︑憲法制定権力は︑主権や代表︑また権力分立といったものについての非常に一般的な原則をまず定め︑そこから様々な機関の地位や権限についての規範を引き出すのだと考えている︒この意味においては︑実証主義の論者は自然法論者に近いと

言える︒自然法論者もまた︑憲法規範が諸原理から演繹さ 珊4辺偽

(6)

動楠

︑︑︑ れるものであると考えているからである︒唯一の違いは︑これらの諸原理に与えられる性質が異なるという点のみである︒一方はそれを記述として捉えるが︑他方はそれを一般的な規範として捉えるのである︒ 実際には︑これらの主張がいかにナイーヴなものであるかは︑どれであれ憲法制定議会の討論を読むことで充分に理解される︒憲法制定権力は幾何学的な方法で︵§o蕊題◎§鳴ミ亀︶作動するのではなく︑また︑原理を制定したうえでそこからルールを演繹しているのではをい︒実を言うと︑原理は時としてルールより後に表明されており︑さらに︑たとえ原理が初めに表明されたとしても︑それは常に討論の過程で解釈され直している︒原理の役割は大前提としてのそれではなく︑実際的な問題解決のための価値論的根拠を提供するための論拠としてのそれなのであって︑時宜性に基づいて採択されるものなのである︒ そうすると︑国家の一般理論に属する諸原理は︑それが定式化された議論の文脈においてしか︑記述的観点から扱われえないものとなる︒こうして︑主権の理論は別な意味において記述的なものとなりうることになるのである︒時として︑国家の理論は  そしてそのなかでも主権の理論は最も重要なものであるが  国家を構成するものである と言われる︒真に実証主義的な国家の︼般理論は︑メタ理論でしかありえず︑それは国家に関する諸原理および諸理論を︑それらが実定法を基礎づけ構成するものであるとき︑       ら 記述し説明することを目的とするものである︒ 主権の諸理論が国家を構成するものであるという考え方は︑近代国家がボダンとともに現れたという主張が前提としているものである︒当然のことながらこの主張は︑ボダン自身が国家を構成したということをも︑また︑彼が一定の方法で国家が構成されることを勧め︑その勧めが現に実行されたということをも︑意味するわけではない︒さらに︑国家が非物質的なものであり︑ただ理論のみによって構成されているということを意味するわけでもない︒この主張は︑国家は︑それを正当化する諸理論によって︑その他のあらゆる政治形態から区別されるということと︑これらの諸理論が権力の行使のために必要であるということとを︑意味するのである︒︑﹁必要である﹂という言い方によって︑これらの諸理論が民衆を従順へと向かわせるから有用である  統治者によって決定された政策は良い政策であるとか︑統治者たちは賢明であるとか有徳であるとかといった考え方がたとえば有用であると判断されうるように  ということのみが 鋤44二

(7)

意味されるわけではない︒ある理論は︑権力を組織するこ

とと︑統治者たちがその言説においてこの理論を用いるこ

ととの間に関連性を作りだしうるときに︑必要であると言

うことができる︒このような関連性が存在しなければ︑権

力の行使はまさに不可能となるからである︒この意味にお

いてのみ︑そして分析命題としてではなく︑主権概念は国

家概念に含まれているという考え方を理解することができ

る︒ このようなタイプの関連性は︑主権一般について作りだ

すこともできるが︑特定の主権理論についてもぞうするこ

とができる︒

 前者については︑簡潔に述べることとしよう︒

一 権力組織と主権の一般理論

 ︵○お簿巳ω①鉱05α二bo幽く︒一﹁ Φ什9伽︒ユ①

ひq ¥騨巴①α①一鋤ω〇能く興巴戦Φ厳︶

 他のあらゆる政治権力と比較したときの国家の特殊性は︑

その法形式との関係に存する︒このことは︑ハンス・ケル

ゼンが︑国家と法の同一性というその有名なテーゼにおい て見事に表明していたことでもある︒このテーゼを真面目に受け止めるならば︑国家とは︑政治権力が︑特定の正当化の方法によって特徴づけられた法形式において行動するときに︑この政治権力に対して与えられた名称であると理      解できる︒ところで︑法形式を特徴づけるのは︑それぞれの決定が︑より上位の機関によって授権された機関によってなされるものであって︑かつ︑より上位の⁝機関によって発せられた︑より一般的な性格を有する決定の適用においてなされるものであるときに︑妥当するものとされるということ︑すなわち正当化されるということである︒つまり正当化のプロセスは法システムの構造そのものに連結しているのであって︑すなわち︑ケルゼンが後期の著作のなかで採った立場とは異なり︑静態的および動態的な階統性の       存在に連結しているのである︒ 法システムを︑静態的であると同時に動態的でもある構造を伴った規範的システムとして定義するなら︑当然のことながら︑たんに静態的またはたんに動態的な階統構造を含むだけの規範的システムを﹁法﹂と呼ぶことは拒否しなければならなくなる︒逆に︑このように定義することで︑法と国家の同一性というケルゼン理論のもたらす主たる困

難の一つを退けることができる︒かかる困難は︑﹁法﹂と ㎜

(8)

勤楠

︑︑︑ いう語を︑このような二重の階統性をもたない規範的システム  たとえば文字を持たない社会のそれ  を意味するために用いると同時に︑﹁国家﹂という語を近代の政治システムに限定して用いようとする︑伝統的な用語法に連なっていたからである︒ケルゼンの主張はかかる用語法に明らかに反するものであったのであり︑文字のない社会の法を国家と同一視することになるのであれば︑法と国家を同一と捉えるのはばかげているとさえ思われる︒ そうではなく︑法の語を静態的かつ動態的なシステムに限定するのであれば︑同一性のテーゼはその正しい意味を明らかにするものとなる︒すなわち︑近代法のみが国家となる︒たしかに︑まさに一七世紀頃︑近代法がその構造を獲得し︑つまり先にこの語に与えた意味における法が存在するようになり︑したがってケルゼンの意味における国家が存在するようになったこの時期に︑歴史家は近代国家の誕生を認めている︒そしてまたこの時期に︑国家の理論や主権の理論が現れるようになり︑そしてそういった術語が用いられるようになるのである︒ 以上のことから︑国家の理論が構成的であるという考え方は二つのことを意味する︒すなわち︑国家理論は法システムの構造そのものの産物であるということと︑国家理論 は法システムの⁝機能のために必要であるということとである︒ まず︑極端に単純化された動態的でのみあるシステムを考えてみよう︒そこでの決定は︑その内容がどうであれ︑それが権力を託された機関によって下されたという事実のみによって正当化される︒最高機関︑たとえば国王は︑権力を誰に託すかという指名の決定以外の決定は行わない︒そしてこれらの指名に関する決定は︑国王を他の者と区別せしめる個人的資質  国王は超人である一によってのみ正当化されるか︑あるいは︑個人的資質とは関係なく︑神による授権によって正当化される︒後者の場合︑受託者の決定が正当化されるプロセスは︑国王の決定に関するのと同様に適用されていることになる︒ ここで主権について語ることは︑この語の特定の意味においてのみでしか可能でないということは明らかである︒国王は︑自らが他のあらゆる対外的・対内的権力から︑教皇からも皇帝からも︑独立していることを主張できる︒つまり彼には優位する者はいないと言える︒しかし︑彼は権力受託者たちの決定の内容を決定するわけではないi彼が介入するのは局部的にでしかない  以上︑また︑下位規範は国王の決定から演繹されるものとして現れるのでは 謝4q紹

(9)

ない  そし.てその結果︑国王は下位規範の間接的制定者

ですら決してないことになる1以上︑国王が全ての者の

上位に在るとか︑国家権力を所有しているとか言うことは︑

ばかげたこととなる︒

 反対に︑もしシステムがたんに動態的であるのみならず︑

また静態的でもあるならば︑すなわち下位機関の決定が国

王の︑より一般的な決定から演繹されるものとして現れる

のであれば︑国王が主権者であるという考え方は絶対的に

必要なものとなる︒たんに動態的であるだけのシステムに

おいては︑国王は自らの決定を︑臣下と同様のやり方で正

当化することができる︒つまり権限の受託によってである︒

しかし静態的正統性が伴うならば︑言うまでもなくそれは

不可能となる︒国王は一般的規範を︑それよりもさらに上

位にありさらに一般的である規範から演繹されたものとし

て示すことができないからである︒唯一可能な正当化は︑

それゆえ︑国王は︑それ自身の権利として︵的ミO︑ミミ︶︑

ある特別な権力を有しているとすることであり︑そしてそ

のような権力が︑全ての者を拘束し︑それ自体は誰にも従

属せず︑したがって︑制限のないものとなる︑とすること

である︒これが︑主権である︒

 ここで用いられている正当化の方法は︑このように︑下 位の決定を正当化するための方法とは根本的に異なっている︒下位の決定が妥当するものとされるのは︑それが権限ある機関によって下されたものであるからであり︑また︑それがより一般的な決定から演繹されるものであるからであるのに対し︑国王の決定は︑それが権限ある機関によって下されたものであるからということのみによって︑妥当するものとされるのである︒ つまり立法権というものが現れたときに︑それと同時に近代的意味における主権の理論が現れたのである︒主権は      たんに法律を作る権力として定義されたものの︑そこにそのような権力とは区別された性質︑そのような権力を含みあるいは正当化する性質が観念されていたのである︒そしてその結果︑法律は︑循環的に︑主権によって定義されることとなるのである︒ボダンは言う︑法律とは︑﹁主権を      有する者の命令である﹂と︒ こうして︑主権の近代的概念がすべて揃ったことになる︒国王は主権者である︒なぜなら︑︵1︶彼はあらゆる外部・内部の権力から独立である︑︵2︶いかなる問題についても彼は法律を制定することができる︑コ般的には全ての者に︑個別的にはそれぞれの者に﹂対してそうすることがで

きる︑つまり彼は国家権力を有している︑︵3︶および︵4︶ 捌44儒

(10)

動楠

蝦 備 塵 陣

い副

︑︑︑ 国王が権限を何らかの機関に委ねるとき︑国王は受託機関よりも上位に在り︑しかも国王自身にはより上位の機関は無い︑︵5︶国王は︑彼自身が所持者である権力を行使している︒ しかしながら︑国王がすべての意味において主権者であるとしても︑他の法システムにおいては︑様々な実体が︑それぞれ異なる意味で主権者であると宣言されることがありうる︒そこで次のような仮説を検討してみることができる︒すなわち︑既にみたように︑統一された一つの主権理論が法システムの構造そのものに連結しているのであれば︑主権の所持者に関する様々な理論もまた︑これらの理論が正当化の機能を果たすところの︑ある権力の組織化に連結しているはずである︑という仮説である︒ 二 権力組織と主権の部分理論 ︵○お鋤巳ω追口8匹=づ8<o一同冨a巴①ω創①一鋤ω8<興国ヨ①絃︶ ①叶 叶げひOユΦω

 法秩序の構造に関する理論は︑規範に関する理論である︒

しかしこれらの規範を作りだす諸機関の関係をも合わせて

考慮に入れることが望ましい︒規範の階統性が機関の階統

性を決定するのかあるいはその逆であるのかについての論      争に立ち入ることなく︑ここでは︑二種類の動態的階統性

と二種類の静態的階統性とを区別しておこう︒

 次のような関係を動態的階統性その一︵UH︶と呼ぼう︒

すなわち︑法規範が妥当するものとされるのは︑それが上

位規範によって授権された機関によって定められたときで

あって︑また︑最上位の規範はそれ自身は授権されていな

い⁝機関︑すなわちより上位の⁝機関をもたない⁝機関︑つまり

第三の意味における主権者である機関によって定められて

いるという関係である︒しかしこの機関は第四の意味にお

ける主権者ではない︒他の機関にとって代わってその⁝機能

を果たすことはできないという意味において︑この⁝機関は

他の全ての機関より上位に在るとは言えないからである︒

フランス第三共和政期における議会がこのタイプの主権的 三q偽

(11)

機関である︒

 次のような関係は︑これを動態的階統性その二︵UN︶

と呼ぶこととしよう︒よく似た規範間の関係ではあるが︑

この関係においては︑より上位の⁝機関をもたない⁝機関は︑

同時に他の全ての機関より上位に在る最高機関でもある︒

つまり︑第四の意味における主権者でもあることになる︒

 ∪一とUNとの違いは︑前者では最高機関は法律を用い

て統治を行うものの︑執行作用をも果たすことはできない

という点にある︒つまりこの場合の最高⁝機関はそれより上

位の機関をもたないという意味においてそうではあるもの

の︑他の⁝機関を支配しているわけではない︒他の機関を指

名するわけでもないし︑また︑他の機関に対してそれら自

身の権限を如何に行使するかについて指令を与えることも

できないのである︒ところが後者においては︑最高機関は︑

それ自身で必ずしも執行作用を果たすわけではないにせよ︑

執行機関を指名し︑執行という任務の遂行方法についての

指示を与える︒       ひょっとすると︑カレ・ド・マルベールのように︑立法

という機能こそが最高の機能であるから︑職能の階統性が

機関の階統性をもたらすと考えられるかも知れない︒立法

作用を与えられた機関は第三の意味における主権者であっ て︑ゆえに他の全ての⁝機関を支配することができ︑したがって第四の意味における主権者ともなる︑と︒このような行論は否定しうべくもないものであるが︑しかしそれは︑権力配分のもたらす実際の効果と︑諸権限が行使される際にこの配分に対して生じうる修正とに関するものである︒おそらく立法機関は執行⁝機関を支配しているし︑このような支配関係をカレ・ド・マルベールは機関の階統性と呼んでいる︒しかし︑これはもちろん事実上の階統性なのであって︑厳密な意味における階統性とは実に異なったものなのである︒厳密な意味における階統性とは︑下位のものによる決定の内容を決定し︑またそれを変更する権力や︑みずから下位の機関に代わったり︑また下位の機関に対して懲戒処分を科すといった権力を含んでいるのである︒すなわちここでは現実のあるいは潜在的な権力配分を想定しているのではなく︑それとして採択されまた正当化される必要のある︑法的権限の配分ルールを問題としているのである︒ 動態的階統性同様に︑静態的階統性もまた二種に理解することができる︒そしてそれは︑権力分立が存在するかしないかによって区別される︒第一の場合︵ω﹀︶には︑法

律を制定する機関はそれを執行することもでき︑第二の轡 型

4

(12)

勤楠

爆 備 亭 固

い副

︑ミ 合︵ωじU︶には︑そうすることができない︒

UNのシステムが必然的にω﹀と結びつく一なぜなら

他の全ての機関の上位に在る機関はより下位の規範を創設

することができるから  ︑と考えられるかも知れない︒

実際には︑U一とUNの差に関してそうであったのと同様

に︑正当化されるべき配分︑すなわち︑紙の上に書かれた︑

つまり理論上の配分のみがここでの考察の対象であるとい

うことが忘れられてはならない︒理論上は︑ある機関が︑

たとえば指名の権限とか懲戒の権限までも有しているから

という理由で︑他のあらゆる⁝機関よりも上位にあるという

ことを定めることができる︒しかしまた︑執行行為は︑第

四の意味における主権者によって制定された法律に従って︑

下位の機関が形式的に行うということを定めることも可能

なのである︒すなわち︑UHは権力分立︵ωしd︶とのみ両立

しうるのに対して︑∪卜︒は権力分立の存在する関係とも存

在しない関係とも両立しうるのである︒

これらのカテゴリーを組み合わせることで︑第五の意味

における主権者の性質決定の理解を可能にする三類型が得

られることになる︵表を参照︶︒

表の四区画のうち一区画は空白であるが︑それは︑一つ

の法秩序において︑U一のシステムは権力の分立を伴って  遺り  統あB階立S的分 態力 静権

  ⁝行泉︑ルシ鵬欝姻 ⁝家 一 国姻都ツ 一 持イ⁝所   のド 一 一二

 序し 統な論壇 底力 静権旧藩

  ⁝  一例  一  一 ⁝⁝  者  持  所一   の一  権  主 ⁝ ⁝ ⁝例 一 ⁝ ⁝ ⁝

者勘所の権外

 機で全在の関 一関のにも機 単機他占いの巴欝吐盤い簾竺鯉趨 るでれのわ ︑も あ関あてるのを てる 全在 のに 他護照吐 機関 る機 あの

4qGB

(13)

しか存在することができないからである︒こうして三類型

が残るのみとなる︒

 ② U甲ω﹀のモデルは︑ルイ一四世の権力およびイン

グランド議会の権力の正当化を記述するものである︒いず

れの場合においても︑ある一⁝機関があらゆることをなす権

力を与えられている︒この機関はより上位の機関をもたず︑

かつ︑他の全ての機関を支配しているのである︒この機関

が行使する権力は無制限かつ絶対的であり︑そしてこの権

力はあらゆる形式において行使され︑権力の分立は存在し

な堕このシステムにおいては・最高機関は言うまでもな

く個別的決定を︑それが一般的ルールから演繹されたもの

であると示す必要なしに下すことができ︑この機関の決定

のそれぞれは︑個別的なものであれ一般的なものであれ︑

その制定者の意思を表明したものとして確立される︒同様

に︑従属する諸機関の決定もまた︑何らかの一般的ルール

からの演繹としてではなく︑主権者の明示的もしくは黙示

的な同意を得てなされたものとして下される︒それらは︑

ある種の法システムにおけるがごとく︑過去の意思への合

致とかそれが一般的抽象的な対象に関するものであるから

という理由によって正当化されるのではなく︑現在の意思      お に合致するという理由によって正当化される︒﹁ルイ一四 世またはイングランド議会によって行使されている主権の所持者は誰か﹂という問いに対する答えは︑それゆえ︑彼自身が所持者である︑ということになる︒この主権は︑彼に対して神によって委任されたとか︑あるいは彼自身の性質から生じたものであるとすることができ︑重要なのは︑彼がいつでも自らの意思の内容を変更することができるということである︒ ω U一−ωしdという第二のモデルは︑フランス革命のモデルであるが︑アメリカ革命を特徴づけるものでもある︒ここにおいては︑立法機関の優越性は︑法律が他の決定に対して有する優越性のみに関連している︒そして立法者は原則として執行に容請することはできない︒ 執行それ自身について言うと︑それは個別的決定から構成されており︑そのそれぞれは︑一般的かつ抽象的かつ事前のルールに合致していなければ正当化されないものである︒つまり下位の機関はその固有の意思を表明すべく授権されているのではない︒彼らの決定は︑法律からの演繹でしかないのである︒少なくともヨーロッパにおけるこのモデルの理想型は︑司法の判断が三段論法の結論でしかなく︑それゆえ自働的性質をもつものであるということに求められる︒しかし︑たとえ判決が法律の適用であるとしても︑

44紹

(14)

囲楠

︑ミ それは立法者の意思の適用ではない︒もしそうなのであれば︑ルイ一四世やイングランド議会にとってそうであるのと同様に︑立法機関は︑自己の恣意を表明しているのだと言うこともできようし︑とりわけ︑執行の段階になって︑状況次第であるいは自己の気変わりのゆえに︑以前に表明した意思を変更することもできるであろう︒ところが権力分立のゆえに︑立法⁝機関はそのようなことをなしえないのである︒このシステムにおいて︑立法者の意思と呼ばれるところのものは︑つまりその現在の意思なのではなく︑ましてやその実際の意思なのでもない︒それゆえ法律が人間の意思によって定立されるということを︑神の授権とかあるいは立法者の特別な性質によって正当化することは不適切となる︒立法者によって表明された意思は︑立法者自身のものではないのである︵もしそうなのであれば︑立法者はそれを変更することができるはずである︶︒それは他者のもの︑主権の真の所持者のものなのであって︑立法者は主権を行使しているに過ぎないのである︒この意味において︑それは一般意思なのである︒このことは︑また別の言い方で次のように言い表されることでもある︒すなわち︑かように制限された立法権の所持者は︑代表者でしかない︑と︒  こうして︑立法者が第四の意味における主権者ではないシステムは︑主権の源泉と行使とを区別せしめる︒それでは︑誰が主権の源泉の所持者であるのか︒立法権によって表明されるこの一般意思の主体は誰なのか︒適切な正当化を提供するためには︑所持者を示す場合に充たさなければならない条件が二つある︒すなわち︑一方で︑所持者は生心的に主権を所有していることを確認しうべきこと︑そして他方で︑所持者と主権の行使を委ねられた者との間に必然的なつながりがあることを示しうべきこと︑である︒ 第二の点の方が︑より慎重な考慮を要する︒言うまでもなく︑立法機関は主権の所持者からその名において行動しうるよう委任を受けたのだと主張することがもっとも簡単である︒このような委任が現実のものである必要はなく︑それは当然にその存在を推定されればそれでよい︒そうすると︑主権者は人民であるという主張は︑君主政とも︑貴族政とも︑また代表民主政とも簡単に両立可能なものとなる︒両立のためには︑人民が人民自身で自己の主権を行使することが不可能であって︑その結果その行使を国王あるいは自分たちよりも優れた者に委ねるのだということを主張すれば十分である︒しかも︑これらの者は選挙された者でも選挙されていない者でもよい︒反対に︑もし民主政と 鋤4

(15)

いう語によって︑人民が主権の源泉を所有しているにとど

まらず︑その行使までをも自身でなすというシステムを理

解するのであれば︑先の主張は民主政とは両立しないこと

となる︒ 人民主権の考え方は︑混合政体  立法権が国王︑貴族

階級︑人民もしくはその選出者の三者によって共同して行

使される政体  を正当化することにも役立たない︒人民

は立法権の行使に参与するのだから︑人民が立法権を授権

したと言うことはできないし︑また︑人民は立法権の一部

分を授権しているのだから︑人民が自ら立法権を行使して

いると言うこともできないからである︒たしかに人民は立

法権の行使を国王および貴族階級と共有しているというこ

とは言えるかも知れないが︑しかしそのことは︑人民が主

権者ではないということを意味する︒つまり︑このような

立法権の構造を前にすると︑一八世紀イングランドのよう

に立法者が主権者人民の代表者であるという考えを放棄す

るか︑あるいは︑他に主権の所持者を捜すほかない︑とい

うことになる︒

 フランス革命の最初の制憲議会が一七九一年に発明した

定式が︑このことを説明する︒一七八九年人権宣言におい

て法律は一般意思の表明であると宣言した後に︑制憲議会 は︑﹁フランス憲法は代表制である﹂と言うことによって︑この考え方を憲法曲ハの中に表現したのである︒そしてその結果︑立法権を行使するものはすべて︑つまり︑議会と国王は︑代表者とされたのである︒それゆえ︑国王と選挙された議会とが︑両者ともにその代表者であると宣言しうるところの一般意思の主体たる一つの存在を構想することが必要となった︒こうして﹁ナシオン﹂という一つの実体が︑人民と国王という二つの要素から成り立つものとして構成       ね されたのである︒このような構造  これは立法機関についての構造と同形のものである一が︑こうして国王の立法権への参与を正当化するとともに︑二者の権力のいずれもが︑それぞれに対応する要素を代表するのではなしに︑ナシオンの不可分の主権を代表すると主張することを可能にしたのである︒以上のことの裏返しの例が一七九三年憲法によって与えられている︒同憲法は︑立法権を単一の議会に与え︑かつ︑法律が一般意思の表明であるという考え方を維持した︒つまりこの場合には主権の所持者が人民であると言うために︑いかなる困難も存在しないということになる︒そして現に同憲法は︑﹁主権は人民に存する﹂と         あ 宣言したのであった︒

 ㈲ 第三のモデル︵UNIωしd︶は︑ドイツ帝国のそれで ㎜4

(16)

甥楠

︑︑︑ ある︒そこでは︑一八世紀イングランドに似たやり方で︑法律は皇帝と二つの議院によって作られる︒しかし︑イングランド議会とは異なり︑この複合的な立法⁝機関はあらゆることをなしうるのではなく︑ただ一般的な法律のみを制定することができるという意味において︑ドイツ帝国には権力分立が存在するのである︒ただし︑革命期のフランス憲法の定める権力分配とは︑重要な二点において異なっている︒ 第一の相違点は︑皇帝に関するものである︒皇帝は︑単独では法律を制定することができず︑したがって︑国家権力の全体を保有していたわけではない︒しかしながら彼は階統構造の頂点に位置していたのであり︑すべての行政機関を拘束する権力を行使していた︒ 第二の相違点は︑まさに行政と法律との関係に関わるものである︒フランスの制度においては︑行政機関は法律の厳格な執行に留まった︒いかなる裁量権限の余地も有していなかったのであり︑意思を表明するものではなかった︒これに対して︑ドイツの警察国家のシステムにおいては︑行政は︑状況に応じて︑自ら提示した目的を実現するため︑目的達成にとって適切な手段を用い︑法律を超えて行為す       むることができたのである︒法治国家においても︑市民の権 利に関するときは︑⇔§§§§誌Q§︵法律に従って︶でありさえずれば︑行政は意思を表明し行為することができた︒これに対して︑﹁その本性上﹂行政の性質をもつと考えられた行為類型が存在し︑それらはなんらの法律上の根       レ 拠がなくともなされうるものであった︒行政機関が意思することができるとしても︑それが表明するのはその固有の意思ではありえない︒そしてこの意思は皇帝の統制の下において表明されるとしても︑それを推定によって皇帝に帰属せしめることもまたできない︒皇帝は物理的存在であるからである︒それゆえ︑この意思は︑行政機関自身とも区別され︑また国王や立法者とも区別された実体の意思であ      ると考えられた︒つまり︑国家の意思である︑と︒ それゆえ主権の所持者であるのは国家であり︑なんらかの行為を行う機関のそれぞれは国家の名においてそうすることとなる︒機関は国家の器官なのである︒両議院がそうであり︑また皇帝も︑行政部も︑そして人民も国家の名において選挙人の任務を果たすときには︑そうなのであった︒ 要するに︑主権の所持者に関する諸理論は︑この所持者を記述するものではない︒これらの理論が明らかに正当化 ω44GB

(17)

の性質を有するとしても︑そのいずれの理論に訴えるかは︑

当該システムの構造そのものによって決定されている︒シ

ステムの構造がこれらの理論を作りだすよう仕向けている

とさえ言える︒法秩序の構造が国家の構造であるならば︑

国家についての諸理論は国家を説明せず︑ただ国家によっ

て説明されるのみであるということになる︒

 これまで述べてきたシェーマはつまるところ記述的メタ

理論に属するものである︒このメタ理論は国家の諸理論の

形成に関するものであって︑これらの国家の諸理論は規範

的なものである︒またこのメタ理論は︑それが主権に関す

る言説の内容とその出現とを決定づける制約を明らかにす

る限りにおいて︑弱い意味における﹁説明的﹂なものとも

言えるものである︒ある政治機関が第三あるいは第四の意

味における主権者の状況に置かれれば︑その機関が行使し

ている主権の所持者はその⁝機関そのものであると言うこと

を禁じるなんらかの制約が存在するのだろうか︒メタ理論

がかかる制約は存在しないということを明らかにするなら

ば︑それは︑ルイ一四世やイングランド議会の場合のごと

く︑このような政治機関が自らを主権者と言うことができ

るということを﹁説明﹂したことになる︒反対に︑メタ理

論がかかる制約の存在を  とりわけ権力分立を理由とし て  示したとすると︑それは他の者を主権者としなければならないこと︑言いかえれば︑主権の行使とその淵源とを区別しなければならないことを︑﹁説明﹂したことになる︒同様に︑メタ理論は︑それが立法権の構造と主権の淵源の所持者に関する理論の内容との間に関係が存在することを明らかにするとき︑説明的なものとなるのである︒ おそらく以上のことを現代国家についても当てはめることができるだろう︒㈲と㈲のモデルは二元的な正当化によって特徴づけられるものであった︒下位機関の決定は︑動態的な方法︑すなわち決定者が授権された権限によって正当化され︑かつ︑静態的な方法︑すなわちその決定がより一般的な性質をもつ別の決定に厳密に適合していることによって正当化される︒その反面︑最高機関の決定は︑動態的な方法︑すなわち︑決定の内容がどうであれ義務的なものとなるべく︑決定者は神から︑人民から︑あるいはナシオンから︑神秘的権限を授権されたのだということによってのみ正当化される︒ 現代のシステムにおいては︑最上位の決定︑つまり法律は︑静態的方法によっても正当化されるべきであると考えられることが多い︒すなわち︑その内容がより上位の規範

の内容に適合していることによって︒つまり︑憲法の内容 ㎜

(18)

謝楠

爆 備 亭 陣

レ副

︑ミ に対する適合性である︒これが違憲審査制の意味である︒すなわち︑違憲審査制は︑立法者が主権の究極的所持者によって委任された権力をその意向通りに行使するに留まらず︑既存の何らかの原理を適用することをも行っているかどうかを確認することを任務とするのである︒ここでは憲法は諸原理の総体として理解されることになる︒そしてこれらの原理はそれ自身では意思を表明するわけではなく︑客観的な存在を有するものであると想定されている︒このような正当化のあり方は︑実に重要な二種の帰結をもたらす︒まず第一に︑主権者︑つまりその名において最高立法機関が行動し意思するとされるところの存在は︑もはや必要ないということ︒それゆえ今日の憲法裁判に関する言説においで︑人民主権あるいはナシオン主権への言及が消滅しつつあることは︑何らの驚きにも値しない︒時として﹁憲法主権﹂なる考え方を見出すこともあるが︑これは人民主権とは極めて異なる意味をもつものである︒憲法主権の理論は︑それによって憲法なり憲法制定権力なりが実在するものであって︑その意思を立法者が表明するのであると信じさせようとしているわけではない︒ただ単に︑立法者が尊重すべき規範が存在するということを述べるに過ぎず︑これらの規範が誰のものとされるべきであるかについ       ヨては語らないのである︒また︑憲法の制定者は人民であって︑人民はいつでもそれを変更することができるとすらもはや言えない︒人民でさえも変更することのできない一定の原理が存在することを認める憲法裁判所の数は増えているのである︒つまり主権の所持者に関するテーゼは無用となっているのであり︑もはや主権者は存在しないと言える︒ ところが︑もはや主権者が存在しないのであれば︑憲法裁判と民主政を両立させることは困難になる︒民主政を︑人民が主権者とされる統治の一形態と理解する限りはそうなのであって︑いかにして次のジレンマから逃れうるのか︑ほとんど理解できなくなる︒すなわち︑違憲審査制は憲法の尊重を確保するものであるが︑憲法とは︑誰の意思にも同一化されえないものであり︑そのようなシステムを民主政  代表民主政であっても  と言うことを諦めるか︑あるいは︑代表民主政という考え方を否定することは拒否し︑憲法︑憲法が含む諸原理︑そしてとりわけそれについて与えられる解釈が︑全体として主権者人民︑つまり人民の意思を表明するものであると示すか︑である︒しかし︑後者の選択肢を採るために支払うべき代償は大きい︒すなわち︑主権者人民は現実の人民ではありえず︑﹁永遠の人民﹂︑﹁超越する人民﹂でしかなく︑超越する人民の意思を 姻4q偽

(19)

料 表明する者は︑憲法を解釈するのであるから︑選挙された

資 議会に代わって︑﹁代表者﹂と呼ばれるべきことになるの

    ︵20︶  である︒

︵1︶ 菊四く目︒昌伍Op︒﹃みα①冨巴σΦ﹃σq堵○§ミミ§§時ミミ§−

 適鳴偽§噺ミN鳴§︑肉ミき℃餌ユω博ωぼ亀L露ρ什﹈噂b●謬

︵2︶きミ・も・︒︒①●

︵3︶bU①ヨ鋤a9凶6ぎ︽ωo<①鼠σq簿団︾博厳ミ討ミミ皆§N寒曼一

 ミ愚ミ駄ミミミ鳴の8ミ曽帖§聴Fけ5H㊤①︒︒娼・刈①①けω引

 冨おヨ︽じu窪魯鋤ヨ堕ぽミ§妹のミ鳩N鳴題ミ鳴§鳴§§︑︑

 さ§ミN譜︒︒⑦愚ミのミ8辱︒ミ賊心ミ9寓︒匹・曾嶺仙貯8山Φ▽℃●

 Ω轡P℃鴛凶ρいOOトおΦ⑰.

︵4︶ とりわけ○=≦興bdΦp&が次のように書くときにそう

 しているように︒すなわち︑﹁国家を考える者は︑主権を

考えなければならず︑また逆も真なりである﹂と︒

︵5︶9匿9巴⇒8Φおきミ§鳴ミS§冒ミ§ミ§

 N寒卦℃9ユω匂℃d男H8企勺﹁陳碧Φ・

︵6︶寓8ゲ野津8①び§鉢

︵7︶護9巴岸8Φお賊いミ.も・にω9ω.

︵8︶ ○嵩≦巽し口$二ρ卜匙博ミ蹄器§ミ魯︑肉ミさ℃9ユρ℃q押

 一りリト℃・ざ岡﹁主権は︹ボダンによって︺︼般的には全ての

 者に︑個別的にはそれぞれの者に︑法律︵一畠︶を与える

権力として定義された﹂︒ ︵9︶Ω融冨同9︷≦臼bu8⊆9愚.ら帖味・も・芦︵10︶ 切p︒団ヨ︒づ住○費み住Φζ巴び興αq噛Goミざ§ミ畿︒§§ミ ミ◎識恥譜ミ誉鵠§ミざ§§鉱こ糠魅無験駄飛蒜辞ミミN禽軌ミ8 ミ駐§︒︒ミ袋職︒蕊8蕊自ら誌禽腎ミ慰織こ糠曾し・蹄縣誉ミ略ミ︒・ 蕊ミ職竃§鳴ミ新恕誉鳩§ミ&ミ導℃胃貫ω︷おざH㊤ω○︒.

︵11︶ 即O舘み鎚①﹈≦p・子臼αq60ミミミ§ミ⁝鴇特題下§.

︵12︶ このことは︑モンテスキューがイングランドの憲法に

 ついてなした記述と矛盾するものではない︒イングラ.ンド

 議会は複合⁝機関なのである︒すなわち︑庶民院と虫貝族院と

 国王から構成されているのであり︑この三者のうちのいず

 れも単独では全権力を併有することはできないが︑三者が

 揃ってであればあらゆることをなすことができる︒

︵13︶ オースティンによる︑裁判所の判例を主権者の黙示的

 委任とする正当化を参照︒

︵14︶ これらの考え方の全体が︑一七九一年憲法第三編の冒

 頭におかれた三条に要約されている︒﹁第一条u主権は単

 一︑不可分︑不可譲であり︑かつ時効にかからない︒主権

 はナシオンに属する︵後略︶︒第二条Uすべての権力が由

 来するナシオンは︑委任によってしかそれを行使すること

 ができない︒フランス憲法は代表制である︒代表者は立法

 府と国王である︒第三条立法権は単一の国民議会に委任

 される︒国民議会は︑人民によって自由に選挙された任期

 を有する代表者によって構成され︑国王の裁可を得て︑以

 下に定める方式に従い︑立法権を行使する︒﹂4q㏄

(20)

囲楠

轍 ↓

こ\ ︵15︶ 一七九三年人権宣言第二五条︒︵16︶ 即O費み紆ζ巴びΦお匂9謡ミ餅ミざ蕊⁝渥﹂匂℃卜︒︒○︒簿ω.︵17︶きミ・も・巴H.また︑匂・・ζ.国①号がb鳴N寒︑膏N斜 エ 〜肉ミ︑§§鋒卜︑魯ミミ皆ミ§8ミら愚§蕊魯ミ§らミミ鳴

辱§Nミ的鷺\§ミミ鴇 ︵NQQN℃IN℃Nへ︶勺霞β国88巳一〇ρ

 一8bO.

︵18︶ Ω﹂色一一器ぎb8肉§ミ§§q§ミ§要§討鉾<o一・押

 ﹀=ひqΦB①言Φωけ鎚邑Φ胃①瞑しuΦ島P卜︒Φ蝕G嘗9α●坤きゆ博

 卜薗ミ味§o§ミ鳴ミ8§織こ純一89P鵠①①けω齢

︵19V O⊆ω邸くoN餌αq話げ9跨ざ鵠ミ蔑蛛智§譜M日亡者田づ雲臼鴇

 H㊤㊤卜︒●

︵20︶ これらの用語法は︑言母︒①一Ω壁︒げ簿が憲法裁判所の

 正当化において用いるものである︒彼は﹁永遠の人民︑つ

 まり世代の交代を超えて自己自身との同一性を永続させる

 人民︑そして主権の真の所持者となる人民﹂と言う︵卜貸

 肉§ミ職ミ§偽博ミ§駐●卜亀亀ミQミ軌ミ慰隷慧§貯ミミ

 §愚の§ミ§§嵩○︒㊤山お㊤v℃鋤ユρO巴一一目霞9H㊤㊤α匂づ・島Φ叶

 埼︶︒また︑参照︑H≦・↓吋︒需が冒ωけ冒①08ω鼻二江︒目亀①Φ叶

 念ヨoo冨甑ρおゆρぢζ・日H8Φ斜ぎミ自ミ導職︒註鴨冒蕊駄馳

 餐Q§へ感ミ斜℃霞凶ρ℃d男H㊤漣︒ ︵訳者注︶なお︑前者の

 邦訳として︑富永茂樹一北垣徹11前川真行訳﹃代表制の政

 治哲学﹄ ︵みすず圭旦房︑二〇〇〇年︶があるが︑本稿では

 その訳文には従っていない︒後者の邦訳として︑長谷部恭

 男訳﹁違憲審査と民主制﹂︵日仏法学一九号︑一九九五年︑ 一1二三頁︶がある︒

︵参考︶ミシェル・トロペール論文撰

12

3

45

6 ︵南野 森 訳︶

︿リアリズムの解釈理論﹀︵付・訳者はしがき︶

   ︵法政研究七〇二三号一六七頁︑二〇〇三年︶

︿慣習の根拠から根拠としての慣習へ﹀

   ︵法政研究七一巻二号一九五頁︑二〇〇四年︶

︿必要は法を作る一1憲法慣習についての考察﹀

    ︵法政研究七二巻一号八三頁︑二〇〇五年︶

︿憲法裁判官の解釈の自由﹀

    ︵法政研究七二巻二号六三頁︑二〇〇五年︶

︿法治国の概念V

   ︵法政研究七三巻二号一六三頁︑二〇〇六年︶

︿持続的民主政と憲法裁判﹀

   ︵法政研究七三巻三号二二五頁︑二〇〇六年︶

44二

参照

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