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1 ベルクソン哲学における運動と停止

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001

査読論文

ベルクソンにおける視覚芸術と知覚

—シネマトグラフ、マジック・ランタン、

ディゾルヴィング・ヴューズ Visual Art and Perception in Bergson

—a Cinematograph, Magic Lantern, Dissolving Views

平賀 裕貴

Hirotaka HIRAGA

Abstract

In L’évolution créatrice, Henri Bergson referred to the cinematograph in discussing movement and stoppage. The cinematograph was used as an analogy to discuss this issue.

In this paper, we study what the visual arts brought to Bergson’s thinking. First, we will address the problem of movement and stoppage, which is constantly questioned in Bergson’s philosophy. Next we explore the meaning of the cinematograph in L’évolution créatrice, and the meaning of the magic lantern in the lecture of 1902. We also explore the position of dissolving views in the theory of perception, as mentioned in his 1911 lecture “Perception du changement.” In doing so, we would like to focus on the effects of “attention” and “distraction”

produced by visual art. By doing so, we would like to show the function of dissolving views in Bergson’s theory of the extension of perception.

Keywords: Henri Bergson, magic lantern, dissolving views, perception

ひらが ひろたか 立教大学 現代心理学部兼任講師 映像身体学・哲学

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はじめに

本稿ではアンリ・ベルクソンが用いる視覚芸術のアナロジーに焦点を当て、こ の視覚芸術がベルクソンの知覚論の推移のなかで、いかなる契機を担っているの かを論じる。じつのところベルクソンによる視覚芸術への言及は、わずかな頻度 に過ぎない。しかし、それは重要性を欠くことを意味しない。本稿の議論を通じ て、視覚芸術が知覚をめぐる議論のひとつの鍵となることを示したい。

本稿では視覚芸術としてシネマトグラフ、マジック・ランタン、ディゾルヴィ ング・ヴューズを扱うが、視覚芸術とベルクソン哲学とのあいだには一筋縄で はいかない関係がある。後述のようにシネマトグラフについては著作『創造的進 化』で考察が加えられるが、その際もベルクソンは芸術表現の内容よりもむしろ 上映時の構造について語ることに終始している。そしてシネマトグラフには運動 に対する「錯覚」が含まれると指摘されている(Bergson 1907: 307)。こうした非 難にみられるようにベルクソン哲学を解釈するうえで視覚芸術は、ある種の居心 地の悪さをつねに抱えたテーマだと言える。ディゾルヴィング・ヴューズに至っ ては、いままでそれほど注目を集めてこなかった1。その一方で、シネマトグラ フをめぐってなされたベルクソンへのインタヴューが2016年にプルースト研究 誌のシネマトグラフ特集に再録されるなど、視覚芸術へと向けられたベルクソン の視線はいまだに磁場を放ってひとを引きつけている2

本稿においても各視覚芸術へと放たれた視線を起点にしつつ、これらの芸術と ベルクソン哲学における知覚との関係をめぐる記述を読解したい。まず、ベルク ソンがシネマトグラフを語るうえで前提としている、運動についての思考に触れ ておきたい。これは、運動は分割できず空間へと還元されないとみなすベルクソ ン哲学に通底する思考である。次に、『創造的進化』でどのような文脈でシネマト

1 ディディ=ユベルマンがわずかに触れた箇所は確認できたが、管見の限りではベルクソンにおけるディゾルヴィン グ・ヴューズを論じた研究は極めて少ないと考えられる(Didi-Huberman 2004: 18)。

2 ミシェル・ジョルジュ=ミシェルによるインタビューは1914年に「アンリ・ベルクソンが映画について語る」という新 聞記事(Georges-Michel 1914)と、1926年に『ベルクソンと庭いじりしながら』というインタビュー集の冒頭に収め られたものがある。前者のインタビューがRevue d’études proustiennesの第4巻に再録された(Carrier-Lafleur and Sirois-Trahan 2016: 285-287)。両インタビューでは一見すると驚くべきことに、シネマトグラフが極めて肯定 的に語られているように見える。だが、インタビューという性質上、はたしてどこまでベルクソンの真意とみなせる のかという問題が付きまとう。これらのインタビューについては大石和久の「映画を語るベルクソン:「アンリ・ベル クソンが映画について語る」翻訳と注釈」や「ベルクソン自身が映画について語ったこと:「アンリ・ベルクソンと庭 いじりしながら」翻訳と解説」、岩城覚久の「ベルクソンとシネマトグラフィック・イメージ」に詳しい(大石 2016; 大 石 2019; 岩城 2011)。

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003 グラフが論じられるのかを確認する。続けて1902年のコレージュ・ド・フラン

スの講義でマジック・ランタンのアナロジーが使用された箇所の議論を追う。さ らに1911年の講演「変化の知覚」には、知覚の作用を論じるなかでマジック・ラ ンタンの一種であるディゾルヴィング・ヴューズへの記述がある。この記述をさ まざまな角度から読み解き、「注意」および「注意散逸」がこの視覚芸術とどう関 わるのかを検討し、とりわけベルクソンの知覚論においてどのような意義を含む のかを明らかにしたい。これらの手順を踏むことで、ディゾルヴィング・ヴュー ズのアナロジーが「知覚の拡張」においてどのように機能しているのかを明示し たい。

1 ベルクソン哲学における運動と停止

シネマトグラフへの言及は、『創造的進化』の運動をめぐる議論のなかに現れ る。マジック・ランタンも別の仕方でこの問いに深く関わる。ゆえに遠回りでは あるがベルクソンにおける運動という主題について確認しておきたい。

運動はその生涯を通じてベルクソン哲学の中心をなすテーマである。初の著書 である『意識に直接与えられたものについての試論』(以下『試論』と略記)では、

運動は数量的に測定可能か、という問題が扱われる。ベルクソンの回答は、それ は不可能だというものだ。この哲学者にとって運動の数量的計測は、運動そのも のを運動が通過する点の連続に変え、運動を空間へと還元することを意味する。

なぜこうした還元が誤りなのか。それは、一続きの運動をおこなう人間が抱く質 的感覚を、均質的な諸空間へと分割してしまうからだ。運動が還元された空間内 の諸点や運動が経過した諸位置をあらためて並置して連続させても運動の再構成 にはならない、というのがベルクソンの主張だ(Bergson 1889: 82)。運動だけで なく、持続と呼ばれる時間感覚についても同様である。時間を数量的に表すこと はできる。あるタイミングの1時間を別の1時間と比較しても数量的には同等で ある。しかし、実際の人間の内的感覚は、ある1時間と別の1時間では異なる。

別々の時間で感じる質は同一視できないのだ(Bergson 1889: 79)。

ベルクソンにおいて、一方には内的感覚を伴う運動や持続があり、他方には運 動を代理する空間や測定するための数量がある。ベルクソンにとって、運動や持 続の内的感覚は、数量や言語や記号の外的表象で代替することができない。むし

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ろ、ひとは日常的に内的感覚を外的表象によって表現してしまう傾向をもつがゆ えに、あらためて置き換えが誤りだと指摘する必要があるのだ。『試論』の序文に はこれに関して重要な指摘がある。

だが、いくつかの哲学的問題が引き起こす乗り越えがたい困難は、空間の なかに空間をまったく占めない現象を並置することに固執するがゆえに生 じるのではないかと自問することができるだろう。[……]延長をもたない ものを延長へと、質を量へと不当に言い換えることが、提起された問いの まさに中心に矛盾を導き入れるならば、その問いへの解答から矛盾が見つ かるのが驚くべきこととはたして言えるだろうか。(Bergson 1889: VII)

なぜ「延長をもたないものを延長へと、質を量へと」不当に置き換えるのか。そ れは日常生活において有益だからだ、とベルクソンは説明する(Bergson 1889:

VII)。要するに、ひとは数量や言語や記号といった円滑に営むための適当な道具 を駆使して日々を暮らす。代替は日常的作業であり、むしろ避けて通れないとい うのがベルクソンの見方だ。数量や言語や記号は、不安定な質を安定させた事物 へと変え、内的感覚よりも外的生活を人間に優先させるものだと言える。だから といって、数や記号で運動や持続を言い表すことはできない。『試論』は、エルン スト・ウェーバーやグスタフ・ヘェヒナーらの実験心理学の成果を批判的に扱う。

たとえば、ヘェヒナーは刺激の増大による感覚の変化を研究し、ヘェヒナーの法 則と呼ばれる方程式を完成させた。これに対してベルクソンは、そもそも個々の 感覚を数的に比較することは感覚の質の理解へはつながらない、と反論する。む しろ、数や記号によって不当に翻訳される運動や持続を本来の姿に立ち返らせる ことこそが哲学の本意だとベルクソンは考えており、『試論』もこの視座のもとに 展開される。

この姿勢は『創造的進化』でも同じである。『創造的進化』では、生物の物質的 側面から生命は説明できないと述べられる。つまり器官や細胞を総合的に分析し ても生命を把握できないとベルクソンは語る。なぜなら、各々異なった性質の細 胞の構成である人間の眼球とホタテガイの眼球とが、なぜ同種の視覚機能を獲得 したのかが細胞を根拠とする学説では説明できないからだ(Bergson 1907: 90)。

諸器官や細胞は生成の結果であって、それを出発点に生命を考察すべきではな く、むしろそれらの器官や細胞が生物に与える機能を重視する必要がある、とベ

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005 ルクソンは考える。

ここにも内的感覚と外的表象との対比の変奏曲がある。ひとは外的に観察可能 な細胞などに注目する。だが、器官や細胞には還元されない生命を生み出してい く力こそが生命の本質である。そうした生命進化のプロセスで、生物は生命が生 み出されたことの痕跡である。生物の物質的側面を熟視するのは、運動を見よう として運動が経過した諸点を熟視するのと同じである。こうした運動と不動との 対照関係は、内的感覚と外的表象との置換不可能性だけを意味するのではなく、

運動が生命の本質に関わることを意味する。

生命全般は、運動性そのものである。そして生命の個々の出現は、しぶし ぶこの運動性を受け入れるが、絶えずこの運動性に遅れをとる。生命全般 は絶えず前進するが、生命の個々の出現はその場で足踏みをしようとす る。進化全般は可能な限り直進しようとするが、各々の独自の進化は旋回 する過程となる。(Bergson 1907: 128-129)

ベルクソンにとって、生命および生命進化はつねに「前進」する力として映る。

しかし、進化過程で出現する個々の生物種は、その進化の動きをその場で停止さ せることになる。なぜなら、出現した生物種は個体として完結したものであるが ゆえに、それ以上の進化は望めず、その場で「旋回」してしまうからだ。これは 生命進化をひとつの運動とみなし、個々の生物種を停止とみなすベルクソンの生 命論である。

このように運動と停止の二元論は、内的感覚や運動の不可分性だけでなく、生 命の本性を明らかにするためにも用いられる。ベルクソン哲学のなかで運動と数 量、運動と記号、運動と停止の対比のみを抽出してしまうと、いささか彼の哲学 を単純化させる危険性はある。しかし、さまざまな主題のなかでこの対比構造が 浮き彫りとなることもまた事実と言える。

そして運動に着目しつつ生命の姿が問われるなかで、ベルクソンはシネマトグ ラフというアナロジーを用いて生物の生成を説明しようと試みる。では、ベルク ソンはシネマトグラフのどのような構造を重視したのかを見てみたい。

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2 シネマトグラフと運動の再構成

シネマトグラフは、エジソンのキネトスコープをもとにリュミエール兄弟に よって発明された装置である。キネトスコープが機械を内蔵した木製の箱を覗き 込み個人で鑑賞するのに対して、シネマトグラフは映像をスクリーンに投影し複 数人で同時に鑑賞でき、現在の映画の形式により近い視覚芸術となっている。

『創造的進化』でのシネマトグラフへの言及を見てみよう。ベルクソンはまず 自然界に存在する生成を論じる。動植物にみられる色彩の変化、幼虫からサナギ への変化、摂食や争いなどの行動としての変化等、各種の変化は無限のニュアン スに満ちた生成である。しかし、日常的な枠組みのなかで変化よりも不動を好む 人間は、生成をそのまま捉えることができない。それゆえ生成を「状態」へと還 元し、ある「状態」と別の「状態」の差異として変化を捉え、その無限のニュアン スを取りこぼしてしまう(Bergson 1907: 303-304)。そして生成としての変化は、

変化一般の「表象」となる。ここでも生成としての運動が問題となっているが、

この文脈でシネマトグラフが触れられる。

スクリーン上に動きのある場面、たとえば連隊の行進を再現したいと仮定 してみよう。[……]通り過ぎる連隊を連続して瞬間写真で撮影して、それ ぞれが素早く入れ替わるようにこれらの写真をスクリーン上に投影する。

シネマトグラフはこのようにおこなっている。シネマトグラフは不動の姿 勢によって各々が連隊を表す写真によって、通り過ぎる連隊の動きを再構 成する。たしかに、われわれが写真のみを扱うならば、いくら写真を眺め てもそれが動くのを見ることはないだろう。不動性をいくら際限なく並べ ても、それでは運動を得ることは決してないだろう。イメージが動くため には、どこかに運動がなければならない。もちろん運動はそこに存在して いる。それは映写機のなかだ。[……]以上が映画の技法である。そしてわ れわれの認識の技法でもある。(Bergson 1907: 304-305)3

3 「瞬間写真」とは、ゼラチン乾板製フィルムの発明によりそれまで数秒を要した露光時間が25分の1秒まで短縮され た写真を指す。こうして生まれた「瞬間写真」により、それまで直立や着席し肖像画のように取られていた写真に変 わり、人物の運動の瞬間も撮影可能になった。

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007 停止に執着して停止から運動を再構成する「われわれの認識の技法」が、まさに

シネマトグラフ的だと説明される。シネマトグラフは、ベルクソンが抱く運動を めぐる思考をまさに十全に表すものとしてここで用いられる。同時にシネマトグ ラフの本質的構造をベルクソンはここで言い当てている。ベルクソンにとって はフィルムにはあくまでも「不動の姿勢」しか写されておらず、それが映写機の もたらす運動により「再構成」され、あたかも運動がそこにあるかのようにスク リーン上に照らされる。これはシネマトグラフ以前/以後の撮影機や映写機で あっても、フィルムで撮影し映写する機械であれば基本的構造は変わらない。

ベルクソンは運動と停止の問題をその初期から考察し、『創造的進化』に至っ てこの問題がシネマトグラフと邂逅した。だが、シネマトグラフは運動を語るう えでのアナロジーである。したがってシネマトグラフそのものが主題ではなく、

ベルクソンによる視覚芸術の解釈をここに求めることは難しいかもしれない。だ が、ベルクソン哲学では喩えるものと喩えられるものが絶えず役割を交代する、

と石井敏夫は指摘する。喩えるものと喩えられるものとが何度も役割を交代しつ つ、それぞれの領域において光の当てられていなかった部分を明らかにし、新た な思考を生み出していくと石井は語る(石井 2001: 71-72)。シネマトグラフは運 動を説明する喩えとなって運動と停止の関係を露呈させ、翻って今度は運動をめ ぐる思考がシネマトグラフの構造を暴く。ゆえに、ベルクソン哲学には比喩やア ナロジーも不可欠な要素として組み込まれ、それらを紐解くことはベルクソン哲 学を解釈するうえでの重要な鍵となる。

シネマトグラフの言及がある『創造的進化』第4章は、運動と停止をめぐる哲 学史が展開される。章のタイトルは「思考のシネマトグラフ的メカニズムと機械 論的錯覚」と記され、運動と停止をめぐる認識とシネマトグラフとがベルクソン のなかで強く結びついていることが解る。そしてシネマトグラフに続いて、ゼノ ンのパラドックスが論じられる。ベルクソンはエレア派の哲学者ゼノンの「飛ん でいる矢は止まっている」という命題を、運動と停止の関係を解明するために批 判的に論じる。

飛んでいる矢を考えてみよう。ゼノン曰く、各瞬間に矢は動いていない。

なぜなら矢が動く時間をもつのは、つまり少なくとも連続する2つの位 置を占める時間をもつのは、2つの瞬間が与えられた場合のみである。し たがって、ある瞬間にはあるひとつの地点にとどまっている。矢の軌道

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008

の各点において不動である矢は、動いている全時間のあいだ不動である。

(Bergson 1907: 308)

ゼノンのパラドックスにベルクソンの批判が当てはまることが解る。ゼノンは矢 の飛ぶ運動を「各瞬間」に分解して、矢が「各瞬間」に動いていないと判断し、矢 は「各瞬間」を総合した「全時間のあいだ不動である」と語る。ベルクソンの各主 著でゼノンは取り上げられ、その度に批判が加えられる4。『創造的進化』第4章で はシネマトグラフのあとにゼノンが論じられ、プラトンから近代科学に至るまで ゼノン的思考法に侵されていることが検証される。要するに、哲学から科学を含 めたあらゆる思考の形態において、「思考のシネマトグラフ的メカニズム」が埋め 込まれていると指摘される。

そしてベルクソンは、「思考のシネマトグラフ的メカニズム」を別の場所でさら に突き詰めて考察したと告白する。『創造的進化』第4章のタイトルには以下のよ うに注記が付されている。

諸体系の歴史、とりわけギリシア哲学を扱ったこの章の箇所は、1900年 から1904年の長期間に渡ったコレージュ・ド・フランスの授業、なかでも 1902年から1903年におこなった「時間観念の歴史」講義で詳説した見解に ついての簡潔な要約にすぎない。われわれは講義内で概念的思考のメカニ ズムと「シネマトグラフ」のメカニズムを比較した。この比較をここで再 度取り上げるとしよう。(Bergson 1907: 272 note 1)

「時間観念の歴史」講義は現在刊行されている5。だが、注記を頼りに概念的思考 とシネマトグラフとの比較を追おうと講義に当たると、肩透かしを食うことに なる。講義内にシネマトグラフへの言及がないのである。ゼノンの逆説が論じ られ、プラトンから近代科学へと向かう軌道は、たしかに『創造的進化』第4章

4 山川偉也によれば、ベルクソンのゼノン解釈には誤解が含まれる。もっとも重要な指摘は、運動は空間のなかで分割 可能だというのはゼノンの主張ではないというものだ。あくまでもゼノンのパラドックスは論敵の主張を崩すために 用いられたもので、ゼノン自身の真意ではないと指摘される。むしろベルクソンはゼノンの敵ではなく「戦友」だと 山川は語る。とはいえ、本稿ではベルクソンのゼノン解釈を前提として論を進める(山川 2017: 228-229)。

5 『時間観念の歴史』は2002年に2つの授業が『ベルクソン年鑑』第1巻に収録され、2016年に講義全体が刊行された。

講義録も「オーソライズ」されていないという点でインタビューと同等だと言えるかもしれない。だが、この講義録 は速記者によって講義内容が書き取られたもので、ベルクソンの発言をある程度忠実に記録したものと考えられてい る。詳しくは邦訳の平井靖史による「訳者解説」と藤田尚志の「訳者あとがき」を参照(ベルクソン 2019: 410-444)。

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009 と類似する。だが、その入口にあったシネマトグラフのアナロジーが講義にはな

い。その代わり読者の前には「マジック・ランタン lanterne magique」が置かれる。

3 マジック・ランタンとイデア

マジック・ランタンにはさまざまな形態があるが基本的構造は以下の通りであ る。複数のガラス板をスライドさせたり回転させたりしながら、ガラス板に描か れた絵をランプなどの光源を使用して順番にスクリーン等に投影するというもの だ。マジック・ランタンが文献において確認されたのは、イエズス会神父アタナ シウス・キルヒャーによる1646年の著作『光と影の偉大な技芸』が初めてだと言 われる。さらに18世紀には見世物師たちが宗教的題材を上演するために町々を 興行して周っていた(サドゥール 1993: 15 note 5)。19世紀になるとガラス板の代 わりに写真を使用することが可能になった。

講義内のマジック・ランタンの記述をみてみよう。そこでは、存在しているの は「変化」ではなく「概念」であって、「変化」も「概念」によって説明されるとい うプラトンの学説が挙げられている。「概念」こそが「自然な仕方で」形成される と語られる。それを説明するために以下のアナロジーが用いられる。

これはすでに取り上げた比喩であり、そもそもプラトンの教説の精神、お よび有名な洞窟の比喩のなかにあったものです。マジック・ランタンとさ まざまな色を帯びたガラス板を思い浮かべましょう。たとえば青いガラス 板と赤いガラス板、そしてスクリーンがあるとします。ランタンはこのス クリーン上に順番に赤と青を投射します。つまりスクリーンはまず青に、

それから赤になります。おそらく赤が青になった、あるいは赤いスクリー ンが青いスクリーンになったと語るのは不合理でしょうが、赤と青がスク リーン上で継起すると言えば不合理ではないでしょう。その場合、赤は不 変で赤のままで、青は青のままで、スクリーンはスクリーンのままです。

したがって、赤、青、スクリーンという3つの不変のものがあります。し かしながら、変化や生成、あるいはすくなくとも変化の見かけを与えてく れる一切のものをわれわれは手にしています。(Bergson 2016: 106=2019:

110-111)

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010

なぜ不変な「概念」により「変化」が説明可能なのかがマジック・ランタンによっ て示される。もし仮に『創造的進化』の注記の「講義内で概念的思考のメカニズム と「シネマトグラフ」のメカニズムを比較した」という記述がマジック・ランタ ンの箇所を指すのであれば、マジック・ランタンとシネマトグラフが人間の認識 を表す同種のアナロジーであり、ともに光の投射を用いた視覚芸術であるがゆえ に、ベルクソンが取り違えたと考えることもできる。シネマトグラフはフィルム を回転させることで、マジック・ランタンはガラス板をスライドさせることで、

スクリーン上に運動を生み出す。双方ともにベルクソンには看過できない思考を 体現している。前者は実在しているはずの運動を停止の連続として認識させ、後 者は概念がまず存在すると規定したうえで、あらためて概念という不動から変化 をつくりだす仕組みを考えざるを得ない事態となる。両者とも結局はどちらも運 動の再構成という思考に陥っている。だからこそ、ベルクソンの取り違えが生じ てしまったと考えることもできる。

しかしながら双方のあいだに構造上の差異、そしてベルクソンの解釈において もいくつかの差異が見られる。『創造的進化』では、なぜ人間は運動ではなく停止 を認識するのかという問いが提出されている。理由として挙げられるのが、行為 をおこなうために安定を求めて運動も不動に還元して認識する人間の知性がもつ 傾向である。それに対して講義で提出されるのは、不動の概念によってなぜ変化 が存在するのかという問いである。ベルクソンは、これについてさまざまな不動 の概念が「同一の場所において」継起し、出会い、入れ替わっているとプラトン が主張していると記す(Bergson 2016: 106=2019: 110-111)。

こうした差異を看過することなく、あらためてマジック・ランタンの記述に戻 ろう。マジック・ランタンの仕組みによって人間の認識に変化が与えられると述 べられるが、ベルクソンはさらに領域を限定してこの変化が惹起されるのは人間 の「知覚」においてだと講じる。

[……]これらすべての色が混じり合わさって、われわれの生きる世界、

われわれが目の当たりにする変化する各事象を生み出しています。これが われわれの知覚に与えられるものです。(Bergson 2016: 108=2019: 112)

『創造的進化』ではシネマトグラフはわれわれの「認識 connaissance」の方法だと 言われている。ベルクソンにとって「認識」は経験にもとづいて未知のものを含

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011 めて諸事物を秩序立てる能力を指す(Bergson 1907: 150)。それに対して「知覚

perception」は自らの身体が働きかけることが可能な特定の対象を周囲から浮き

立たせる能力である(Bergson 1896: 16-17)。もちろん認識も行動の前段階ではあ

るが(Bergson 1907: 306)、知覚はもはや純粋な認識ではなく行動へと向かうもの

である(Bergson 1896: 27)。むしろ生きるための行動を牽引する知覚によって認

識が下支えされていると考えるべきだろう。『創造的進化』では認識に与えられる 運動がじつは再構成された「表象」にすぎないことが問題であった。ベルクソン は観念であるところの「表象」と、知覚の作用とを明確に区別している(Bergson

1896: 1)。したがって、『創造的進化』と比較して、講義においてはこの知覚こそ

が問題となっている。

知覚は自らの身体が働きかけ可能な特定の対象に作用する一方で、身体が働き かけることができない対象は知覚から抜け落ちてしまうという特性をもつ。実在 する対象から身体が働きかけできない部分を取り除いたものが、知覚に与えられ る。つまり知覚に与えられる「変化」は、真に実在するものから知覚が働きかけ られないものが除去されたものである。ここで実在するものは色のついたガラス 板ではなく、その背後にあるものだ。

しかし、学問を作り上げたいのであれば、実在そのものに達したいのであ れば、これらの彩色されたガラス板へ向かって、とりわけガラス板を超え て背後にある光源へ向かって遡らなければならない。さて、これらのガラ ス板がプラトンのいう諸イデアであり、光は諸イデアのイデア、第一のイ デア、プラトン自身が光ないし叡智世界の太陽と呼ぶものである。つま り、善のイデアである。(Bergson 2016: 108=2019: 112)

「実在そのもの」はイデアである。そして光源へと遡ること、つまりイデアその ものへの回帰がここで触れられている。スクリーン上に像を映すガラス板だけで なく、さらにその根源にある光にまで遡ることをプラトンは求める。講義では、

こうした遡行こそがプラトンの目指したものだと述べられる。

ここにシネマトグラフとマジック・ランタンとの違いを読み取ってみよう。シ ネマトグラフでは、こうした遡行は扱われなかった。なぜなら、シネマトグラフ にとって実在するものとは撮影前の運動であり、光を放つ映写機に遡行してもそ こには実在するものではなく個々のフィルムに裁断された「運動一般」しかない

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からだ(Bergson 1907: 305)。「運動一般」はベルクソンがマジック・ランタンに

おける遡行で説明した、知覚されるまえの実在とは性質が異なる。シネマトグラ フにおいては遡行が求められず、マジック・ランタンにおいては遡行が実在に至 る手段として提示されている。これが実在に達することを説明する際に、マジッ ク・ランタンがアナロジーとして選択される理由と言えるだろう。

マジック・ランタンにはその構造のなかに探求すべき光源=イデアが組み込ま れている。そしてイデアへの遡行はプラトンだけの問題ではなく、また別のかた ちでベルクソン自身にも不可避のものとなっていく。『創造的進化』の4年後の 1911年の講演「変化の知覚」でマジック・ランタンのうちの一形態と共に、ベル クソンはこの問いへと立ち返ることになる。

4 ディゾルヴィング・ヴューズと「注意」

講演「変化の知覚」では、講演タイトル通りまさに知覚が軸となる。再度プラ トンのイデア論とともに知覚の限界が語られ、「というのも、普段われわれは 変化を目にしながらも、変化を知覚していないのです」と述べられる(Bergson 1934: 144)。そうした場合「概念 conception」は知覚を代理して実在する「真理」

を捉えようとするが、これも不充分な結果をもたらす。「概念を形成する能力」は 知覚の代理をしようとしながらも、「現実から無数の質的差異を消去し、知覚を 部分的に弱め、世界についてのわれわれの実際の視覚を貧しくする」とベルクソ ンは記す(Bergson 1934: 148)。では「概念」に頼らず、どのように知覚の限界を 超えて、知覚を実在まで届けることができるのだろうか。ベルクソンは知覚の精 度を向上させることでは、知覚の限界を超えることはできないと説く。

こうした拡張は不可能だと言われるでしょう。一体どうやって肉体の眼や 精神の眼に今以上によく見ることを求めることができるでしょうか。注意 は知覚を正確にし、明晰にし、強めることはできるかもしれない。だが、

知覚の領域に最初になかったものを出現させることはできない、という 反論はあるでしょう。この反論は経験によって覆されると私は思います。

(Bergson 1934: 149)

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「こうした拡張」とは知覚の「拡張」を指す。ここでは、知覚を「正確」にし「明晰」

にする「注意 attention」が知覚の「拡張」に資することはないとまず述べられる。

そして「最初になかったものを出現させることはできない」とする指摘も反駁可 能だと語られる。要するに「注意」の強化では知覚の「拡張」はできないが、「注 意」以外の手段ならば新たなものの出現は可能となるのだ。心理学者ピエール・

ジャネの研究などから影響をうけ、ベルクソンは「注意」についての独自の解釈 を構築するが、ベルクソンに倣えば、「注意」はわれわれに現実そのものを見せる のではない。なぜならこの哲学者にとって「注意」は、現実の生活において行為 を遂行するために心身のバランスが保たれ、生活を淀みなくおこなうために目前 の対象を入念に知覚し、寸分違わず行為をなす状態を意味するからだ(Bergson

1896: 193)。いわば、注意は知覚を更に堅固に作用させるためのものだ。「注意」

では新たなものを獲得することが難しいという点を、シネマトグラフをめぐって もベルクソンは述べていた。映し出されるフィルムの推移にいくら「全身で集中 して」、2つの瞬間写真のあいだに起こることを探っても、別の第三の写真がそ こに見つかるだけであり、「際限なく写真に写真を並置して」も、他のものは手に 入れられないとベルクソンは語る(Bergson 1907: 307)。

視覚芸術を鑑賞する際にまず発揮されるのは「注意」である。視覚芸術と人間 の「注意」の向け方に関しては、これまで多くの指摘がなされている。小説家 ゴーリキーは1896年の論考のなかで、映画は人間の神経を興奮させると同時に 麻痺させるきわめて強い影響を与えると記す(Banda and Moure 2008: 55)。アン ドリュー・テューダーは、スクリーン上の人物への観客からの同一化によって

「注意」が喚起され、観客は映画に没入すると主張する(テューダー 1982: 147)。

これらの指摘がなくとも、鑑賞の経験があれば、視覚芸術と「注意」の関係は難 なく理解されるだろう。映画やマジック・ランタンのように暗闇でスクリーンを 照らす芸術は、スクリーンに観客のすべての「注意」が釘付けになる。観客の眼 には必ずしもスクリーンだけではなく、闇に染まった劇場の壁や並んだ客席も おそらく存在している。それでも視覚芸術ではスクリーン以外の要素がほとん ど排除されるかたちで鑑賞が成立する場合が多い。ベルクソンの観点で考えれ ば、それは「[……]知覚は現実全体のなかから、われわれの関心を引くものを 引き抜く」からだ(Bergson 1934: 152)。さらに初期映画がもっていた「注意喚起

attractions」の特性について論じたトム・ガニングの分析を援用しよう。シネマト

グラフ誕生からの約十年のあいだの初期映画は、観客を「物語のアクションや登

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場人物の心理への感情移入」に巻き込むよりも、「見るという行為および好奇心と その満足の興奮」によって惹きつけたと語られる(Gunning 1995: 108-109=1998:

121-122)。初期映画にみられる列車映画が見せるような「近代的なスリルの娯楽

形態」を観客に与えることが「注意喚起の美学」だとガニングは言う。

映画研究家らが語る「注意」の性質とベルクソンの思考における「注意」とを直 接的に関連付けずとも、視覚芸術が喚起する「注意」はベルクソンにとっても行 為の前提となる知覚の作用と深く結びついていることは確認できる。つまりシネ マトグラフを鑑賞しつつ「集中」を高めることは知覚の強化を起こし、よりいっ そう運動を細かく断片化することにつながる。ではどうすれば知覚の強化ではな く、知覚の「拡張」を果たすことができるのか。ベルクソンは特定の人間によっ て成し遂げられると語る。それが「芸術家たち」である。

実際何世紀も前から、ありのままには知覚できないものを見て、わたした ちにこれを見させることをまさに仕事にしている人間がいます。それは芸 術家たちです。(Bergson 1934: 149)

「芸術家」のなかでも「拡張」を達成するのは「画家」だと続け、ベルクソンは例と してコローやターナーを挙げる。こうした「偉大な画家」こそが「あらゆる人の 視覚」の「源泉」になる可能性が示唆される(Bergson 1934: 150)。なぜ画家の視 覚をわれわれは獲得できないのか。ベルクソンは「ディゾルヴィング・ヴューズ

dissolving views」のアナロジーを使用し以下のように述べる。

しかし、われわれは見ながらも、知覚していなかったのです。それはわれ われにとって輝きつつ消えていく光景で、この光景は同じように輝き消え ていく無数の光景のなかに失われていきます。無数の光景はわれわれの日 常経験のなかで「ディゾルヴィング・ヴューズ」のように重なり合い、それ ら相互の干渉によって、われわれが習慣的に事物に対してもつ精彩なく色 あせた光景を構成しています。画家はそれを抜き出し、カンバスにうまく 固定したのです。それゆえわれわれは、それ以後画家が見たものを現実の なかに知覚しないわけにはいかなくなります。(Bergson 1934: 150)

「ディゾルヴィング・ヴューズ」はマジック・ランタンの一種と言える視覚芸術

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015 である。同じように光源を用いて複数のガラス板に描かれた絵や写真などをスク

リーンに投影する装置である。とりわけ、ガラス板や写真の移行にディゾルヴを 用いることで、画像を重ね合わせながら移行させる(ツェーラム 1977: 60)。これ により同一場面の異なる状況をディゾルブでつなぐことが可能になる。例えば、

昼のエッフェル塔がディゾルヴによって徐々に夜のエッフェル塔に変わっていく という効果が得られる。ベルクソンが問題にするのは「われわれは見ながらも、

知覚していなかった」という点だ。われわれもじつのところ「輝きつつ消えてい く光景」を見ている。しかし、それが「同じように輝き消えていく無数の光景」と ディゾルヴのように浸透し合うことで、その特徴を失って凡庸なものと化してし まうのだ。画家は、「輝きつつ消えていく光景」を掴まえ、消え去るのを押し留 め、カンバスに固定することに成功する。なぜここでディゾルヴィング・ヴュー ズのアナロジーが用いられたのか。ベルクソンによるディゾルヴィング・ヴュー ズへの言及はこの箇所のみでこれ以上の説明はない。したがって、いくつかの補 助線を引いてこの視覚芸術の位置づけを見ていきたい。

5 ディゾルヴィング・ヴューズと「注意散逸」

まず知覚が「拡張」されている芸術家とはどのような特性をもつのか見てみよ う。芸術家にとっての優位な点とはなにか。芸術家は「イデアリスト」である、

とベルクソンは言う。1902年の講義でプラトンの教説がマジック・ランタンの アナロジーによって説明されていた際も、スクリーン上で移り変わる色彩ではな く、それを超えた場所にあるイデアを探求することが要請されていた。それに対 して講演「変化の知覚」では、スクリーンを超えた場所というよりは、スクリー ン上の図像の重なりのなかに隠されてしまった光景を把捉することが求められて いた。これらを踏まえたうえで、ベルクソンにとっての「イデアリスト」である 芸術家とはなにかを見てみよう。

それは言葉本来の意味において「注意散逸なひと」です。なぜ現実からよ りいっそう解き放たれていながら、彼はより多くのものを見ることができ るのでしょうか。もし万が一普段われわれが外的な事物やわれわれ自身に 対してもっている視覚が、現実への執着や、生きて行動する欲求がわれわ

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れを狭めて空虚に陥れる視覚でないならば、こうしたことは理解できない でしょう。実際、生きることに専念すればするほど、熟視することは少な くなり、行為の必要性が視野を狭めるようになることを示すのは簡単で しょう。(Bergson 1934: 151)

ベルクソンは逆説的な構図を描く。芸術家は「現実からよりいっそう解き放たれ て」いながらも、「より多くのものを見る」。その一方でひとびとは「現実へ執着」

することで、知覚を「狭めて空虚に陥れる視覚」に囚われる。こうした事態はベ ルクソンの知覚論によって説明されるだろう。知覚はその能力を発揮すればする ほど、現実から有用な部分のみを取り出し、現実の豊かさを骨抜きにしてしま う。現実をそのままの姿で捉えるためには、「注意」を用いて現実に対峙するので はなく、反対に「注意散逸 distraction6」にならなければならない。たしかに芸術 家も現実を眺めるのに知覚を用いるが、それは自分の利益のためでも行動のため でもないとベルクソンは語る(Bergson 1934: 152)。

「注意散逸」という側面から芸術を考察した場合、ベルクソンがコローやター ナーをここで挙げているのは象徴的である。というのもベルクソンの知覚論と ターナーの手法とはある側面において接近をみせるからだ。ベルクソンは知覚作 用を説明するために、光線の喩えを用いることがある(Bergson 1896: 34)。光線 が選ばれたのは、ベルクソンの知覚モデルがもっぱら視覚を中心とするからだ。

ベルクソンは対象から発せられた光は主体によって反射され、今度は行為をおこ なうための対象の輪郭を書き出すと説明する。この輪郭が周囲から対象を浮かび 上がらせる役割を果たす。だが、行為という条件を外された知覚、つまり「注意 散漫」な状態で知覚はどう作用するのか。人間は行為のために知覚する以上、行 為から引き離された知覚は存在しない。しかし、仮説的には存在するとベルクソ ンは語る。行為から引き離された知覚は「無限定」なものとなり、あらゆるもの から受け取った光を輪郭の限定を受けることなくそのまま全反射する(Bergson

1896: 38)。いわば、対象の姿が周囲から浮かび上がることなく、全てがそのま

ま知覚される状態である。

6 「distraction」はベルクソンの邦訳では「放心」と訳出される場合が多い。本稿では議論の性質上「注意散逸」と訳 す。ベルクソンにおいて「distraction」はある種の創造とむすびついていると考えることができる。講義では、自 然は「観想」しつつ「放心状態」において「産出」する、というプロティノスの言葉が引かれている(Bergson 2016:

190=2019: 188)。

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017 ではこうした知覚論を踏まえて、ターナーの作品をみてみよう。ジョナサン・

クレーリーはターナーの絵画のなかの溢れる太陽光の表現に着目した。とりわけ 1843年頃の作品《光と色彩(ゲーテの理論―洪水のあとの朝)》には「眼と太陽 の融合像」が描かれていると指摘される(Crary 1990: 139=2005: 206)。ノアの洪 水を題材とするこの絵は、中央に描かれたモーセの周囲を過剰なまでに光が満た している。モーセも画面下方に描かれる人々も溢れる光のなかで身体の輪郭が崩 れ、画面にかろうじて浮かび上がる。クレーリーは、そうした光は網膜に映る残 像であり、まさに光によって太陽と眼球が結ばれる状態が描かれていると指摘す る。いわばターナーの作品に彼の視覚経験がそのままのかたちで刻印されている ことになる。クレーリーの解釈をベルクソンの知覚論とそのまま接合することは 早計であるとしても、行動のための知覚によって対象が判然と描かれるのではな く、行為を前提としない知覚によって限定がなされない諸対象が渾然一体となっ た風景がまさにターナーの作品には描かれているとみなすこともできる。要する に、単に画家の例としてターナーが引き合いに出されたのはなく、そこにはっき りと知覚経験が描かれているからこそベルクソンはその名を挙げたのだ。

芸術家によって把捉される光景も、芸術家以外にはディゾルヴィング・ヴュー ズのなかに紛れ込んでしまう一枚のガラス板と同じである。いくら知覚が洗練さ せてもそこに至ることは難しい。では、芸術家の世界は他のひとびととは無関係 なままなのだろうか。ベルクソンはそうではないと言う。

ここでの哲学の役割は、注意の転位によって現実をめぐるさらに完全な知 覚へとわれわれを導くことではないでしょうか。この注意を世界の実際に 関心を引く側面から逸らせて0 0 0 0、実際には少しも役立たないものへと向ける0 0 0 ことが重要となるでしょう。こうした注意の転換が哲学そのものと言える でしょう。(Bergson 1934: 152)

「注意の転換」は、ベルクソンにとって最重要の哲学的課題とみなされている。

ベルクソンは芸術家よりも「哲学者」によってこの「注意の転換」が成就されると 考える。行動へと向けられていた「注意」はどこに向け直されるべきなのか。ベ ルクソンはきわめてシンプルで、かつ本質的な方法を提案する。それは自分の

「内的生の領域」に注目する方法である(Bergson 1934: 165)。外部からみた運動 や変化は、停止の連続を統合したものとして認識されてしまう。しかし自らの内

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面に「注意」を向けた場合、そこには分割できない、媒体を必要としない運動と 変化が見てとれると述べられる。それは自らの運動を、人格の絶えざる変化を内 側から捉えることであるとベルクソンは説く。『試論』で見たとおり、われわれの 内的感覚はつねに変化するがゆえに把捉し難いものである一方、あらゆる停止を 含まないと言える。

こうした感覚を獲得してから、「もう一度視覚へ戻りましょう」とベルクソン は語る。すると、視覚においても「[……]普通の意味で運動が乗り物を必要とせ ず、変化が実体を必要としない」ことが解る(Bergson 1934: 165)。自らの内面を 眺めることで、外部に存在するものも同じように運動であり変化であることが実 感できるとベルクソンは言う。物理学的事実としても事物を構成する電子や微粒 子は運動である、と彼は主張する。外部に向けていた「注意」を一旦散逸させ、

内面へと向けることで凝り固まっていた知覚が「拡張」されるとベルクソンは指 摘しているのだ。ベルクソンは『創造的進化』で、動物が行為にのみに「注意」を 向ける脳のメカニズムをもつのに対して、人間は「注意」することと同時に「注意 を逸らすse distraire」メカニズムをもつと述べる(Bergson 1907: 183)。人間が「注 意を逸らす」ことがなぜ可能かというと、動物の身体は決まった目的のために構 築されているのに対して、人間は道具や機械の発明によって人間の身体におこ なうことができない目的を達成するように構成されているからだと説明される。

「注意を逸らす」ことは人間に秘められた可能性のひとつであると言える。

視覚芸術は「注意喚起」とともに、こうした「注意を逸らす」という点につい てひとつの転換点となりえるだろう。興味深いことに、「注意喚起」には「注意

散逸 distraction」の可能性が含まれているとガニングは指摘している。ガニング

は連続的に展開されるスリル等による過度な「注意喚起」は、最終的には受容者 による刺激の遮断をもたらすと語る(Gunning 1995: 128=1998: 114)。そして「注 意喚起」は、必ずしも列車映画のように大掛かりな装置だけによるものではな い。ガニングはリュミエールの初のシネマトグラフ有料上映の試写に出席したメ リエスの証言を引く。メリエスは、映し出された静止した写真が次の瞬間に動 き出したことに「茫然自失し、言葉にならないほど驚き、呆気に取られた」と語 る(Gunning 1995: 114=1998: 128)。静止画がただ動いただけで、驚嘆が生まれた のである。これはシネマトグラフを初めて目撃したという新奇性を含む驚きであ るのはもちろんだが、それでも「ほとんど目新しさのない映写された写真」がわ ずかに動いただけで「注意」を喚起する刺激が生まれたのである。ディゾルヴィ

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019 ング・ヴューズも決して大規模な動きを見せる視覚芸術ではない。それでもそ

こには驚嘆の可能性が秘められていると言えるだろう。ではディゾルヴィング・

ヴューズは、過度な「注意喚起」によって、いわば「注意喚起」の状態の飽和に よって刺激の遮断をもたらされ、反対に「注意散逸」に至る過程をどのように説 明しているのだろうか。ベルクソンの記述に戻ろう。

ひとまず「われわれ」も「画家」同様に「輝きつつ消えていく光景」を目にして いる。「画家」はそれをカンバスに固定するが、「われわれ」には不可能だ。この

「輝きつつ消えていく光景」が「われわれ」の「注意」を引くものだと仮定しよう。

なぜならそれは「画家」も写し取ることを望む「輝きつつ brillante」ある光景だか らだ。にもかかわらず、「われわれ」が把捉できないのは、他の同じく輝かしい光 景も「無数」にあるからだ。「画家」が拡張した知覚によって唯ひとつの光景を充 実したかたちで把握するのに対して、「われわれ」は限定された知覚によって生活 のなかで「無数の光景」に対処せねばならない。「われわれ」は何よりもまず生活 しなければならないからだ(Bergson 1934: 152)。すると諸々の光景の「相互の干 渉」によって、それらは「習慣的に事物に対してもつ精彩なく色あせた光景」へと 変貌してしまう。ひとは「無数」の光景に絶えず注意を払い生きている。知覚を 駆使したわれわれの生活は、じつのところ不安定なバランスのうえで成り立って いるとベルクソンは語る。

生活と社会がわれわれ各人に要求するのは、現在の状況の輪郭を識別する つねに目覚めている注意力であり、同様にわれわれをその状況に適応でき るようにする身体と精神の柔軟性である。緊張0 0と柔軟性0 0 0、これこそが生命 が機能させる相補的な2つの力である。これらが身体にまったく欠けると どうなるのか。あらゆる種類の事故や障害や病気が生じる。精神に欠けた 場合はどうか。あらゆる度合いの心理的貧困、あらゆる種類の狂気が発生 する。(Bergson 1900: 14)

「つねに目覚めている注意力」は「緊張0 0と柔軟性0 0 0」を伴わなければならない。つま り「注意力」が過剰な場合でも、まったく作用しない場合でも危機が訪れること になる。ときには「狂気」にまで至るとベルクソンは明かす。講演「変化の知覚」

のディゾルヴィング・ヴューズにおいては、まさにその過剰となりえる点が提示 されている。次々にディゾルヴによって移り変わるスライド=光景は、まさに途

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切れず「つねに目覚めている注意力」を要請する。しかもそれがベルクソンの記 すように「無数」であるのならば、精神的にも肉体的にも負担となり「狂気」へ と近づくだろう。ベルクソンは「狂気」を「夢」の状態とも言い換える(Bergson

1900: 149)。「夢」に浸るひとは、「生活に対して払うべき注意から自分を解放す

る。多少なりとも注意散逸したひとに似ている」のである(Bergson 1900: 149)。

以上の点を踏まえれば、ディゾルヴィング・ヴューズは「注意」を喚起する状態の 飽和から、「注意散逸」までの流れを示すアナロジーとして機能していることが解 かる。

「注意散逸」も「画家」であれば問題はないだろう。知覚の制限によらない、実 在そのものを描くのが彼らの創造行為である。しかし、「われわれ」の生活にお いては困難が伴う。だからこそ、ベルクソンは「哲学者」によって、ひとびとが 運動そのものである実在の世界を垣間見ることを希求していると言える。過剰 な知覚経験によって「注意散逸」が発生するのではなく、「哲学者」が示す「注意 の転位」によって、実在するものが運動に他ならないことを看取する必要がある のだ。

おわりに

本論では、まずシネマトグラフへの言及の前提となる運動と停止について問題 を確認し、シネマトグラフがどのようにこの問題を解きほぐすためにアナロジー として用いられたのかを探った。続けて1902年の講義で、マジック・ランタン がどのような論理展開を導いたのかを追った。これら2つのアナロジーは、運動 と停止の問題においては重なり合うが、異なる面もある。マジック・ランタンに ついてはプラトンのイデア論との連関においてイデアへの遡行が問われていた。

時系列では講義の後になる『創造的進化』においては、シネマトグラフの構造に 準じた遡行は問われていない。なぜなら求める運動は映写機のなかにはないから だ。むしろ、『創造的進化』ではあらためて運動と停止の問題はあらゆる生命活動 との関係のなかで検討されている。こうした思考を経て、講演「変化の知覚」で は、立ち戻る先はイデアではなく、生命そのものである人間の内なる変化である ことが告げられる。その契機となる「注意の転位」がディゾルヴィング・ヴューズ のアナロジーによって表されていた。

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021 本論を通じて、各視覚芸術がアナロジーとして用いられるときに、どのような

差異があるのかを分析した。投影という共通点はありながらも、各々の特性にも とづいてアナロジーが使用されている。換言すれば、ベルクソンはそれらの差異 を熟知したうえで、自身の哲学のなかに組み込んでいることが解かる。例えばシ ネマトグラフは運動の再構成という錯覚を引き起こすとベルクソン自身考える が、これもこの視覚芸術について熟考して得た知識に裏付けされた判断である。

視覚芸術は彼にとっても不可避なものであり、ただ単に批判したというだけにと どまるのではなく、ベルクソンが理論を展開するうえでの重要な要素となってい ると言える。

凡例:

1. 引用については、既訳があるものは適宜参照し、筆者自身が訳出した。

2. 引用における強調は原文によるものである。

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文献

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参照

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