(毎月1回25日発行)ISSN 0919 4制3
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2005
こべる刊行会NO. 150
ひろば⑩学校教育「うらお
もて」史の
今日的意義
一一佐藤秀夫著 『教育の文化史』を読む 四方利明 最近読んだ本から⑦出あいなおしの訪ずれ
虫賀宗博 尼崎だより⑩ 介護現場は常に薄氷を踏むが知し (後編) 中村大蔵 四日市から⑨ 時間の過ごし方に学ぶ 一一「めだかの学校」のことなど 坂倉加代子水 平 社 の 頃 な ら 、 い や そ れ 以 前 の 時 代 で あ っ て も 政 治 的 社 会 的 道 義 的 責 任 を 追 及 す る 声 が あ が っ た で あ ろ う 、 現 職 閣 僚 や 政 府 高 官 に よ る 度 し 難 い 差 別 発 言 が 、 何 事 も な か っ た か の よ う に 放i泣きれる 今 年 は 、 同 対 審 答 申 が 出 さ れ て40年 と い う の に 、 こ れ も ま た 、 部 落問題をめぐる今日の状況のー断而なのでしょうか。 「法」が失効して3年余り。交流会で続けられてきた議論は、 2002年 の 第19凶 で は 各 地 の実態調査をもとにした法後の「部落のいま」を、 20回においては「部落の内・外に生き る」をテーマに部落問題をめぐる個々人の生き方/人生への態度を、そして21固において は『破戒』の主題であり、かつ今日なお部落問題の中心課題としてある「隠すと名乗る」 をめぐる諸問題でした。 そ し て 今 年 は 、 あ ら た め て 「 部 落 の い ま 」 を 議 論 し た い と 思 い ま す 。 多 様 な 生 き 方 ・ 部 落問題との向き合い方が増えてきた(議論の場に上るようになった)一方、「法」後の 3 年間においても各地の部務で人口の流出と高齢化、そして貧困化が著しいと言われていま す。具体例を話題提供いただきながら、〈人間と差別〉をめぐる議論をすすめていきたい と思います。 テーマ:部落のいまを考える 同対審答申40年 話 題 提 供 者 : 石 元 消 英 日程/10月22日出 141時 開 会 18時 夕 食 19時 再 開 21時 懇 親 会 10月23日(El) 9 I時 再 開 12時 解 散
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一人間と差別をめぐって−
日 時 /10月22日 出 午 後2時∼23日(日)正午 場 所 / 大 谷 婦 人 会 館 [ 大 谷 ホ ー ル ] ( 京 都 ・ 東 本 願 寺 の 北 側 ) 京都市下京区諏訪町通り六条下ル上柳町215 TEL (075) 371-6181 交 通 /JR京 都 駅 か ら 徒 歩8分 、 地 下 鉄J烏 丸 線 五 条 駅 か ら 徒 歩2分 、 市 バ ス 烏 丸 六 条 か ら 徒 歩 2分 費 用 / A 8,000円(夕食・宿泊・朝食・参加費込み) B 4,000円(夕食・参加費込み) ご注意/※会場にはなるべく公共の交通機関をご利用のうえ、お越しください。 ※参加費は当日受付にてお支払いください。 申込み/ハガキ・FAXまたはメールで、住所・氏名(ふりがな)・宿泊の方は性別・ 電 話 番 号 ・ 参 加 形 式 (A・Bの い ず れ か ) を 書 い て 下 記 あ て に お 申 込 み く だ さい。 阿H牛社 干6020017 京都市上京区上水ノF町73-9 RlTEL ( 075) 414-8951 FAX ( 075) 414-8952 E-mail: [email protected] 五条通
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七条通 京都ヲワー0ーーー巨週一ーーー
九条通 締 切 り /10月17日目) .第1日日の夜には恒例の懇親 会を開きます。各地の名産・ 特産の持ち込み大歓迎ですの で、よろしく。ひろば⑩
学校教育﹁うらおもて﹂
||佐藤秀夫著﹁教育の文化史﹂を読む 四方利明︵立命館大学︶ 教 育 や 学 校 に 関 し て は 、 と は た く さ ん あ る 。 まずは、そもそもなぜすべての人が学校に行くことに なっており、またそのことが良いこととされているのか、 という根源的な聞いがある。あるいは、学校では﹁努 力﹂や﹁根性﹂が好まれるのに、予備校はそうでないの か︵そういう予備校もあるだろうが︶。あるいは、小中 学校には、いかにも子ども好きな、いかにも学校の先生 という感じの教員が多いのに、高等学校、大学と進むに したがって、そういったタイプの教員が減るのか、とり わけ大学教員になぜ教育的でない教員が多いのか︵これ は良い意味である︶。なぜ学校では背の順に並んだり、 男女別にグルーピングされたり、男女一対一のベアを作 らせたりするのだろうか。なぜ給食の後に、食べるのが 知 り た い こ と 、 疑問に思うこ史の今日的意義
遅い者への嫌がらせのように掃除をするのだろうか。あ るいは、遠景からでもなぜ学校の建物はすぐに学校と分 かってしまうのか。なぜ日本全国、いや世界的にみても、 ほとんどの学校の教室には、前方に黒板があり、なぜ机 と椅子が一斉にその方向を向いているのか、などなど。 学校、だけではない。うちは自由にのびのび育てている 家庭だ、という親に限って、なぜテレビは夜九時までと 制限したり、無果汁の炭酸飲料ゃ、祇めたら舌が紫色に なるようなアイスクリームから我が子を遠ざける努力を 怠 ら な い の か 、 な ど 。 私が、学部時代の専攻を変え、大学院に進学して教育 学を勉強してみたいと思ったのは、まさにこのような今 までの被教育体験のなかで疑問に思ってきたことを、考 え直してみたい、そうした聞いに真正面から応えてくれ るのが教育学だ、と思ったからである。 教育学のことなどよく分かっていなかった私は、上記 の聞いに一番端的に応えてくれそうな、イヴアン・イリ こベる 1イ チ の ﹁ 脱 学 校 論 ﹂ を 修 士 論 文 の 一 ア
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マに選んだ。高校 の時に感じた学校教育への違和感、そもそも学校の授業 はなんてくだらないのだろう、こういうくだらん授業を 黙って聞くことに一体何の意味があるのだろう︵忍耐や 服従を覚えること以外に︶、と考え始めていた私に対し て、イリイチは、それは問うに値する問いだ、そしてそ のような学校での苦行こそ、人々の自律的な力を奪う諸 悪の根元なのだと言い切ってくれた。しかも、こうした 苦行によって社会の矛盾が正当化され維持されていると いうふうに、学校にかかわる考察を、学校や教育の内部 に閉塞することなく、社会のありょうそのものとかかわ らせて展開したのであった。学校のありょうが分かれば、 社会のありょうも分かるという視角は、私には非常に新 鮮であった。これぞ、諸学の知を結集した教育学のおも し ろ み だ と 。 しかし、彼の議論をまともに引き受ける土壌が、教育 学にはなかったのである。彼の議論が教育学の土俵に乗 るには、あまりに彼は自由すぎたのだ。一つには、教育 学が、基本的には学校 H 善、教育 H 善という図式を所与 の前提としているということ、二つ目に、この前提を共 有しながら、教育学内の諸分野間︵たとえば教育心理学 と教育行政学と教育哲学︶が完全に縦割りになっており、 それぞれが自問しているということである。イリイチの 提起した議論は、一つ目の所与の前提に抵触し、さらに は、教育学内の諸分野はおろか、教育学という枠を超え ていく問題設定であったのである。 そのようなことであったから、私はこれまで、教育学 の中の教育史というジャンルを、あまり積極的には勉強 してこなかった。前記したような聞いに、とても、﹁七、 八十年前のどこそこにおける何とかに関する一考察﹂で は応えてくれそうもないと思ったからである。 そして佐藤秀夫氏は、その教育史のなかでは言わずと しれた第一人者である。しかも、実証ということに極め て厳しいということは聞き及んでいた。だから、前記し たような聞いはアカデミズムになじまないと切り捨てら れ、問題関心を限定した固い研究をされておられるので はないか、などと勝手に思っていたのである。 ところが、佐藤氏の﹃教育の文化史﹄のシリーズ第一 巻の冒頭に、イリイチの視角と微妙に親和性をもっ、次 のようなことばが出てくる。 私は、日本近現代教育史の研究に着手した当初より、 教育の史的性格を明らかにするためには、従来﹁教 育﹂固有とされてきた事象にのみとらわれることな く、広い視野のもとに教育をとらえなければならな いのではないかと、考え続けてきた。教育そのものが、人間の社会と文化との持続と展開に関わる実に 広範な諸機能と一体化していることに、気づかされ た か ら で あ る 。 ︵ ﹃ 教 育 の 文 化 史 1 ﹂ 一 日 頁 ︶ そして、佐藤氏の論考を読み進めていくうちに、この ことぱ通りの仕事をされてこられたのだということが分 かってくる。つまり佐藤氏の遺された数々の仕事は、教 育史というジャンルに確固たる足場をおきながら、しか しその議論の射程は学校や教育、歴史というそれぞれの 領域に閉じておらず、学校や教育を広く社会のありよう とかかわるものとしてとらえつつ、歴史という方法論を 遵守しながらも他のアプローチとも対話しうる余地を残 し、そうして、誰もが思い至る学校や教育の日常レベル の聞いに応えるものとなっているのである。
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佐藤氏が、﹁その後の自分の研究の出発点をマークし ており、私にとっては、とくに個人的な﹁想い入れ﹄の 強い論文﹂だと述べている、﹁小学校における祝日大祭 日儀式の形成過程﹂という論文は、戦前の国家祝祭日儀 式が、いかなる経緯で学校に導入されたのかを明らかに した論文である。徹底した実証の精神でこの論文は書か れており、非常に細かく丹念に史実が積み重ねられてい る。しかし、この論文のすごさは、そうした史実から、 理論、思想が立ち現れてくる、というところにある。 一 八 八0
年代後半から九0
年代にかけて国家から学校 に強制された祝祭日儀式の形成にとって、小学校への ﹁ 御 真 影 の 下 賜 ﹂ が 重 要 な 役 割 を 果 た し た わ け で あ る が 、 その手続きには以下の二つの特徴があったという。 その第一は、地方官を介した願い出をまってはじめ てそれが当該学校へ﹁下賜﹂されるという手順を必 須にしていることである。これは、それが権力側か ら一方的に下付されるのではなく、教育関係者の自 発的な上申に対する天皇の思賜であるとする性格を、 ﹁御真影﹂に与えようとしたものであった。第二に は、﹁他ノ模範トモナルヘキ優等ノ学校﹂に限りこ の恩賜に浴しうるとしたことである。それは﹁優 等﹂と判断された学校に対する顕彰ないし激励であ り、同時に他の学校に対して、権力側の示す﹁優 等﹂基準への自律的な同調化を促すことが期待され ていた。︿恩典﹀は、一方的に押しつけられたり、 あるいは一律均等であったりしては、その享受者に 強い︿感銘﹀を与えることはできない。権力は明ら かにそれを見越して、当該学校が﹁聖恩優渥ナル﹂ こぺる 3長 C ト ﹂ 今 今 一 J
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に﹁恐憧感激﹂して、いよいよ﹁聖旨﹂に沿い奉 らんことを﹁銘肝﹂する効果を最大限に発揮し得る ような仕組みをもって、﹁御真影﹂を﹁下賜﹂した のであった。︵﹃教育の文化史1﹄一八八頁︶ こ こ に は 、 ﹁ 規 律 訓 練 ﹂ ﹁ 一 望 監 視 装 置 ﹂ な ど と い う 概 念は全く出てこないが、史実でもってミシェル・フー コl
の権力論が雄弁に語られているといってよいだろう。 近代の権力が、単なる強制ではなく、自律的な主体を立 ち上げ﹁自発的服従﹂を調達する支配形態をとるという、 ま さ に そ の こ と が よ く 分 か る 記 述 で あ る 。 そして、併せて記述されていることで興味深いことは、 それまで主要な官立学校に限られていた﹁御真影﹂の学 校への下付が、一八八七年以降府県立の尋常師範学校・ 中学校等へも下付されるようになったが、その最初の事 例が沖縄県尋常師範学校であったということ︵一八五 頁︶。それから、学校祝祭日﹁儀式がまさに明治﹃公教 育﹄の所産であって、かつての天神講や七夕あるいは同 時期に発生しつつあった学芸会などのごとき、学校自身 が生み出した教育行事とは、本来的に異質なものであっ た : : : ま た そ れ は 同 時 に 、 民 衆 の ﹃ マ ツ リ ﹄ そ の も の と も、本質的には異なる祭式であった﹂ということである ︵ 二OO
頁 ︶ 。 明治国家の中心から地理的にも社会的、文化的にも周 縁に位置づけられた沖縄にこそ、まっ先に﹁御真影﹂が 下付されている。そして、祝祭日儀式が当初は上から与 えられた異質な儀式として民衆にとらえられていたはず が、いつの間にかそうした儀式への自発的なコミットメ ントが調達されている。ここには、異質な他者との出会 い と い う 近 代 に 特 有 の 経 験 に 近 代 国 家 が 立 ち 会 う と き 、 他者を周縁に位置づけつつ中心への同化を図るというこ と、そしてその際には、伝統なるものが創出され、われ われ︵ H 国民︶意識を各自が自らもつように仕向けられ る と い う こ と 、 こ う し た 近 代 国 家 の あ り ょ う が み え て く る 。 このように、佐藤氏の論考は、極めて歴史実証的であ りながら、読み手に文字通り﹁論﹂なり﹁考﹂なりを立 ち上げさせ、まさに、史実のなかから理論、思想が立ち 現 れ て く る よ う な 感 じ な の で あ る 。3
﹁ ﹃ 先 輩 ﹄ 支 配 の 歴 史 と 構 造 ﹂ と い う 論 文 で は 、 前 近 代 的と思われがちな﹁先輩・後輩﹂関係が、実は極めて近 代的であることを明らかにしながら、日本の近代学校に おける﹁先輩・後輩﹂関係の成立と変遷が跡づけられて いる。﹁先輩・後輩﹂というのは、何らかの共通性を共有していることを前提にした仲間内の関係であり、それ ゆえ、近代以前の身分制のもとではこの関係は成立しえ ず、身分・階層を問わない近代学校制度が成立し、その 制度のもとで学歴を取得してから職場へ出るというルー トが確立されることによって学問意識が形成される、そ のことと﹁先輩・後輩﹂関係の成立は軌を一にしている と い 、 っ 。 明治前半期の能力主義的等級制のもとでは年齢と等級 に関連がないがゆえに年功序列の﹁先輩・後輩﹂関係も 存在しえなかったが、その後同年齢同学年制が定着して いくなかで、旧制中等学校において﹁先輩・後輩﹂関係 が成立する。その条件として、佐藤氏がもっとも基本的 だと指摘するのが、﹁学校管理をスムーズに運ぶために は、教師が直接に生徒に対峠することをなるべく避けて、 生徒に生徒を管理させることが有効だとする学校管理の 立場が、上学年支配を必要としていたことである﹂︵﹁教 育の丈化史
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﹄一四三頁︶。なぜならば、一八八0
年代 以降戦前期を通して中等学校において学校紛擾が発生し 続けており、学校側がこの対処を迫られていたからであ る。そこで編み出された対処法が、生徒﹁自治﹂という 名のもとでの、上学年支配だったというのである。 こ こ に も 、 徹 頭 徹 尾 − 力 ず く で 強 制 し て 従 わ せ よ う と い うむき出しの権力による支配ではなく、リーダーシップ をとる上学年生には一定程度のフリl
ハ ン ド を 与 え 、 ﹁自治﹂の名のもとに自発的、自主的に管理を行わさせ る、つまり被支配者の側の﹁自発的服従﹂を調達すると いう、ソフトで合理的な支配形態が看取される。このこ とによって、上学年生の不満の矛先をいくばくかでも学 校当局からそらすことができる。そして、学校紛援を生 徒間同士の問題だと自覚させ、いわば自己責任として自 主的に解決させるという、実に巧妙なからくりがみてと れ る の で あ る 。 このことは、何も戦前のはなしに限らない。何せ、戦 後の新制高校発足にともなって﹁先輩・後輩﹂関係が姿 を消した際に、しかしながら、﹁上学年生支配を必要と した学校管理の体質や、そこでの教員の役割などの基本 的な問題性は、今や﹃労働者﹄に変貌した教員たちの ﹁民主運動﹂の幻想の下に、不問に付される結果になっ てしまった﹂のだから︵﹃教育の文化史2
﹂ 一 四 七 頁 ︶ 。 だからたとえば、学校運営への生徒の参/加をめぐる昨今 の議論も、一見生徒の自治や自主性を尊重するという見 せかけを取りつつ、実は巧妙な管理の一形態として、そ のような自治や自主性が学校システムに回収されてしま うというあやうさを秘めているのである。 実際、一九八0
年代に校内暴力が問題にされた際、そ の対処として最初に打ち出されたのが、校則によって髪 こベる 5の毛の長さから靴下の色に至るまで、生徒をがんじがら めに拘束する管理教育なるものであった。ここでは、学 校当局が生徒に対して、ニ疋のふるまいを直接強制した のであった。それが九
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年代に入ると、管理教育の残浮 を引きづりつつも、体罰をともなう管理教育への批判が 世論レベルでわき上がるとともに、生徒参加なり生徒の 自己決定なり自ら考える力などということが言われるよ う に な っ た の で あ る 。 そしてこのことは、実は戦前の学校紛擾への対処と微 妙 に パ ラ レ ル な の で あ る 。 ﹁ ﹃ 先 輩 ﹄ 支 配 の 歴 史 と 構 造 ﹂ と同じく﹁教育の文化史2
﹄に収録されている﹁学校紛 擾の史的考察﹂という論文によれば、﹁一八八0
年代に 入ると小学校では府県規模の、師範学校・中学校では各 学校単位での、生徒罰則を含む校則・生徒、右往守が数多 く制定されるようになり、それらの規則中に学校紛擾へ の対処策とみられる条項が数多くみられるようになっ た﹂という︵一一三七頁︶。そしてその後、学校紛擾を引 き起こし放校処分を受けた生徒の復学を認めないなど、 学校紛擾への厳しい対処が次々と打ち出された。一九八0
年代の管理教育とは異なって、厳しい対処を取れば取 るほど、そのことがまた学校紛擾の引き金となっていっ たのではあるが、それでも、学校紛擾への対処として当 初は学校当局が直接に生徒に対峠する対処法を取ったと いうこと、その後﹁先輩・後輩﹂関係による﹁自治﹂と いう対処が打ち出されたということ、この点については、 一 九 八0
年代の管理教育とその後の動向をみる際に、十 分示唆的であるといってよいだろう。 以上にみてきたように、佐藤氏の論考は、歴史的なア プローチに立脚しながら、決して過去のはなしとして閉 じておらず、現在の学校や教育を考える際にも、有益な 視点を提供してくれる。読む側にとって、過去を現在に つなげて考えることができる切り口となっているといえ よう。他にもたとえば、世間では校内暴力があたかも一 九 八0
年代以降に突知出現したかのごとく語られている が、﹁学校紛擾の史的考察﹂によれば、そのような言説 が全くの誤りであることが分かる。一九八0
年代以降矢 継ぎ早に提起され続けている教育改革の議論が、校内暴 力を初めとする種々の﹁教育問題﹂をその必要性の根拠 としているだけに、それらを相対化する視点は極めて重 要 で あ る 。4
さて、これまで、佐藤氏の論考が、歴史実証主義の精 神に根ざしながらも、理論や思想的アプローチとも、あ るいは現在の学校や教育をめぐる状況とも、切り結んで対話しうるということをみてきた。さらに、佐藤氏の論 考で重要だと思われるのは、学校や教育を、その内部に 閉じて論じるのではなく、広く社会のありようとかかわ らせて論じているということではないだろうか。しかも、 その際には、学校や教育の日常のいとなみにかかわる問 いが出発点となっている。制度史や思想史とは異なる、 佐藤氏自らが教育の慣行史とよぶ一連の仕事は、社会や 国家の動向と教育や学校の日常レベルの慣行を切り結ぶ 地点に位置し、両者のかかわりのダイナミズムをとらえ ようとした意欲的な仕事である。 ﹁学習史における文具﹂という論文は、戦前の日本社 会において、読み書きに使用する紙、鉛筆、ベンと万年 筆、謄写版がいかなる経緯で普及していったのかを明ら かにしようとした論文である。丈具はふ?っ、学校教育 を支えるモノとして考えられている。つまり、重要なの は、何をどう教えるか、学ぶかという学校教育の中身な のであって、文具はあくまでそれらを補助するモノにす ぎない、ということである。ところが佐藤論文は、この 主従関係をひっくり返してみせる。 一 九 一
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年代後半から二0
年代にかけて、小学生の 学習の世界は、毛筆・ワラ半紙︵習字科では使われ 続けるのだが︶、石筆・石盤から、鉛筆・ノl
ト へ と急激に移行した。それは、子どもの学習の過程や 成果を簡単に記録させうるから、ドリルや宿題が容 易に課せられることを意味した。学習の深まりを保 証するとともに、﹁詰め込み﹂をも可能にさせた。 そればかりではなかった。子どもがたやすく自己 表現する道具を手にしえた結果、その表現を﹁教 材﹂化することによって、固定教科書を超える学習 を導き出すことも可能になった。一九二0
年代後半 か ら 三0
年代にかけて東北や山陰の農村部で花聞い た日本近代の独創的な教育﹁生活綴方﹂は、この国 産鉛筆と国産用紙︵それに加えて謄写版も︶との普 及を前提とすることなしに、現実化されえなかった と み る べ き で あ ろ う 。 ︵ ﹁ 教 育 の 文 化 史2
﹄ 一 八 二 頁 ︶ ではなぜ、鉛筆・ノl
トが普及したのであろうか。佐 藤氏によれば、第一次大戦が日本の鉛筆産業にとっての 転機であったという。すなわち、鉛筆生産の主要国であ ったドイツ、アメリカ、イギリスなどがこぞって第一次 大戦に参戦したため、国際的に鉛筆不足が生じ、それに 乗じて日本製の鉛筆が大量に生産され、国内の鉛筆産業 が急成長をとげる。しかし、戦争終結と同時に欧米製の 鉛筆が市場に復帰するや、低品質の日本製鉛筆は市場か ら駆逐される。こうして過剰生産となってしまった日本 こぺる 7製鉛筆が、次に活路を見出したのが、学校であった。低 品質ではあるが安価であるため、子ども用として学校で 使ってもらうのに都合が良く、そのことで在庫が一掃で きるだけでなく、将来的にも安定的な需要が見込めると いう利点があり、しかも、鉛筆書きが想定されていた ノ
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ト用の国産洋紙も出回り始めていたがゆえに、ノー トと鉛筆がワンセットで学校に定着したのである。 以上のように、佐藤氏は、学校で日常的に営まれる教 育が、普段はその脇役だと考えられがちな、学校にある 様々なモノによって規定されていることを、歴史的に明 らかにする。しかもそうした学校のモノは、学校外の社 会から流入してくるのであって、まさに学校の内部と外 部の結節点にそれらが存在することにも気づかせてくれ る。つまり、学校は社会から独立しては存在しえないし、 それゆえそこでの教育も社会状況に規定されているとい わねばならないのである。さらには、学校が学校外の社 会における種々のいとなみを支えていたりもする。要す るに、学校、教育と社会は、相互にかかわりあい規定し あっているのであって、佐藤氏の論考は、そのことを史 実によって明らかにしてゆくのである。 社会とのかかわりで学校をみていく、ということは、 ﹁運動会の考現学﹂﹁校舎と教室の歴史﹂などの論文でも 徹 底 さ れ て い る 。 前者の論文では、日清戦争の経験をふまえて﹁体操﹂一 を充実するために全小学校に﹁体操場﹂を設置しようと一 した国家の意図が貫徹されることによって、それまでの一 複数の学校が一つの場所に集まって行う﹁連合運動会﹂一 に代わって、白校の﹁体操場﹂で個別学校単位の運動会一 を行うことが可能となり、そのことによって運動会が地一 域的行事となっていったという﹁意図せざる結果﹂が生一 まれた過程について明らかにされている。﹁就学率の向一 上で学校は全町村民にかかわりあるものとなったし、校一 舎や校地はすべて町村公共の努力で作られたものである。一 加えて、日露戦争後に進行する国家神道体制の確立をめ一 ざす神社統廃合による﹃村のまつり﹄の変質も見逃せな− い。﹁村の鎮守﹄廃止のうえにつくられたよそよそしい− 行政町村社のまつりを補完するものとして、学校の運動一 会が脚光を浴びるようになった。さらに、小学校に実業一 補習学校や青年訓練所が付設されて、青年たちもこれに一 加わるようになり、また、学校自体も政府の督励する・ ﹃学校中心自治民育﹄のお先棒をかっ、ぎ出したから、運− 動会の疑似的﹃まつり﹄化の条件は整えられた﹂。こう− して運動会は、学校行事としてはめずらしく地域の行事一 と化していくことになるのだが、たとえば万国旗にみら一 れるように、運動会には﹁国家的機関としての学校の影一 はつきまとい続ける﹂のである︵﹁教育の文化史2
﹄ 一 一二五!一二六頁︶。今日の運動会は、参加︵というより 参観︶する大人が親か祖父母に限られるなど、地域の祭 りではなく純粋に学校教育行事となりつつあるが、地域 によってはつい最近︵一九八
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年代、ないしそれ以降も という可能性も︶まで、運動会に屋台が出店し、親や祖 父母以外の地域の大人たちが、時には飲酒をともなって 参加し見物事前ではなく︶していたようである。こう したさまざまな運動会のありょうは、国家・地域社会・ 学校のかかわりあいの歴史の中からそれぞれに生成して き た も の な の で あ る 。 後者の論文においても、国家、地域社会との関係の中 に学校施設の変選が位置づけられている。近代学校制度 が発足した当初の学校施設の特徴として、佐藤氏が指摘 するのは、﹁単なる教育施設としてばかりでなく戸長役 場や村寄合の会場としての機能をも併せもたされる場合 が少なくなかったこと﹂である。﹁二階に役場をおいた り、畳敷の大部屋を設けて会合場に使ったりする事例は かなり多くの地域でみられた。すべて地元負担で建てら れた以上は地元民の公共の場に供するのは当然だとする ﹁権利﹄感覚や、学校を地域センターに利用しようとす る上からの﹃啓蒙﹄意識などがないまぜになっていたと はいえ、学校と地域との関係は、まださほどよそよそし いものにはなっていなかったといえる﹂。ところが、国 家による学校施設の標準化、規格化が進むと、地域住民 による﹁教育外﹂目的での学校施設の利用が禁止される ようになる︵﹃教育の文化史2
﹄一五回頁、一六O
頁 ︶ 。 地域社会の負担によって建てられた学校施設を、国家が 収奪しようとする動きであるともいえるだろう。ただ、 地域によっては、地域の祭りやイベント等に学校施設が 使われてきた地域も存在するし、さらには最近では、学 校施設の複合化が進み、学校施設が他の公共施設と一体 で計画されたり、学校の空き教室が他の公共施設に転用 されたりしている。国家、地域社会との関係において学 校施設の変遺を考えれば、学校施設を子どもの教育機関 に特化しようとする国家の意向と︵最近では国家の意向 ではなく、親の意向というべきであるが︶、子どもの教 育機関ということにとどまらない地域社会の寄り合い所 としての学校施設の姿とのせめぎ合いが浮かび上がって く る の で あ る 。5
﹁ ﹁ 先 輩 ﹂ 支 配 の 歴 史 と 構 造 ﹂ の 末 尾 に 、 次 の よ う な 一 節 が あ る 。 こぺる 歴史の検討からいえることは、不合理な上学年生支 9配というものは、愚かな﹁先輩﹂たちが自分でつく り、だしたものでは決してないこと、その﹁先輩﹂た ち自体が、学校の管理体制によって利用されている ピエロにすぎないということである。﹁先輩・後輩﹂ の行きすぎた関係を生徒相互の問題としてのみ処理 しようとする学校管理者やそれにつき従う教員たち こそが、実は、その関係の最大のスポンサーで、か つ肝心のプロデューサーなのだということである。 ︵ ﹁ 教 育 の 文 化 史
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﹂ 一 四 八 百 九 ︶ 私はこの一節を、学校や教育をみる際に、その表面的 な事象にとらわれではならない、それらを規定する構造 に日を向けよというメッセージであると受け取った。歴 史実証主義に根ざしつつ、読者には、過去のはなしとし てだけでなく現在につなげて考えることを可能にし、学 校や教育の表面的な事象の基底に存在する思想を立ち上 げさせ、さらには国家・地域社会を含めた社会のありよ うとの関連のなかで学校のありょうを考えさせてくれる、 このような佐藤氏の論考を通して、私たちは学校や教育 の﹁表﹂だけでなく、その﹁裏﹂とあわせた﹁うらおも て﹂の構造として学校や教育をとらえることができる。 ここに至ってようやく、佐藤氏がなぜ自らの著作の一つ に﹃学校教育うらおもて事典﹂︵小学館︶というタイト ルを付したのかが分かったような気がする。 そして、そのような佐藤氏の論考を読むと、読み手が 自身の問題関心から自由に﹁論﹂や﹁考﹂を組み立てる ことができる。その結果として読者は、既成の学問枠組 みを越境しての対話へと誘われるのである。しかも佐藤 氏自身は、あくまで歴史実証ということに自らを限定し ているところがおもしろい。一分野のプロを自称しその 分野に自問する人は山ほどいるのに、一分野のプロであ るからこそ自由という希有な研究者であったのだと思う。 本稿は、﹃教育の文化史﹄の第一巻、第一一巻を読んで 作成したものである。本稿の作成途上で刊行された第三 巻、未刊行の第四巻を読むのが、今から楽しみである。 付 記 佐 藤 先 生 は 、 日 本 教 育 史 の 大 家 で あ り 、 容 赦 な く 辛 錬 な コ メ ン ト を さ れ る こ と で も 有 名 で あ り 、 近 寄 り が た い 存 在 の は ず で あ っ た が 、 教 育 解 放 研 究 会 ︵ 現 教 育 の 境 界 研 究 会 ︶ 合 宿 で の 先 生 は 終 始 お だ や か で 、 会 員 の 質 問 に 、 温 泉 に つ か り な が ら の ぼ せ る ま で 丁 寧 に 応 え て お ら れ た の が 印 象 的 で あ っ た 。 今 回 こ の 原 稿 を 書 く こ と に よ っ て 、 ﹃ 学 校 の モ ノ 語 り ﹄ や ﹃ 学 校 の 境 界 ﹂ の 出 版 に 取 り 組 ん で き た 一 見 畑 違 い の 我 々 に 、 な ぜ 先 生 が お 付 き 合 い い た だ い た の か が 分 か っ た よ う な 気 が し て い る 。 佐 藤 秀 夫 ︵ 一 九 三 四 l 二 OO 二 ︶ 、 国 立 教 育 研 究 所 研 究 員 ︵ 二 十 六 年 八 ヶ 月 ︶ を 経 て 、 日 本 大 学 教 授 在 職 中 に 逝 去 。 ︵ ﹃ 教 育 の 文 化 史 ﹂ 全 4 巻 、 113 巻 既 刊 、 4 巻 九 月 発 刊 予 定 、 阿 昨 社 ︶最近読んだ本から⑦
出あいなおしの訪ずれ
む し が む ね ひ ろ メ : 虫賀宗博︵論栄社共同代表︶ 人生、出会いがある。出会いそこないがある。出会い そこねたあと、ふと出会いなおしの時が訪ずれることが ある。縁あって、出会いなおすことができた本を二冊、 い ま 、 幸 一 回 き た い 。 まず一冊目は、﹁小さくされた人々のための福音﹄︵新 世 社 、 二OO
一年︶である。マタイ、マルコ、ルカ、ヨ ハネの四福音書と使徒言行録である。 ちなみに私はキリスト者ではない。ブツダや二遍、法 然、親鷲が歩いた道に心引かれる者である。 イエスが歩いた道にも私は心強く引かれる。でも、教 会、宗門に深い反発心を持っている。仏教の本山や大寺 院に強い違和感をもつのと同じように。福音量百を何度か 通読しようとしたけど、いろいろな所でつまずいて、私 は読みおえることはできなかった。 ﹃小さくされた人々:・﹄に出会って、つるりんと読み とおすことができた。四九歳にして、初めてである。 ひとえに、訳者の本田哲郎さんのおかげである。本田 さんは、大阪の釜ケ崎で暮らすフランシスコ会のカトリ ック司祭。釜ヶ崎反失業連絡会共同代表。 どうちがうか。たとえば、イエスの山上の説教。いま までの新共同訳だと、﹁貧しい人々は、幸いである﹂。こ れだと、︿幸せになりたかったら、貧しくなりましょうて すると、必死に貧乏なフリをキリスト者はしなければな らなくなる。もっとも貧しいひとがいちばん幸福である ことになる。明らかな誤訳である。 本田訳だと、﹁心底貧しい人たちは、神からの力があ る﹂。すなわち、︽貧しいあなたたちの側に立って神は働 かれるのだから、勇気をもって立ちあがりなさい﹀。こ れ こ そ 、 ﹁ 慰 め に 満 ち た 励 ま し の こ と ば ︵ 福 音 ︶ ﹂ で あ る 。 本来、六O
億のひとびとがぜいたくはできないにしても、 飢えない程度以上の恵みを地球は与えていてくれている。 なのに、きょうのメシすらないひとが現存しているのは、 だれかが取って、盗んでいるからだ。だから、痛みを共 感しながら、社会のしくみを変えていこうと促しを、イ エスはしているのだ。そんな理にも情にもかなった日本 こぺる 11語が、本田訳からは湧きあがっている。 ナザレのイエスは、けがれにみちた罪の子として家畜 小屋で生まれ、罪人の仲間とさげすまれ、﹁石切り﹂︵大 工、ではなく︶を職業とするしかなく、極貧の生活をせ ざるをえなかった。同じように貧しく小さくされた人々 との痛みを共感し共有する行動ゆえ、処刑された。 へりくだる余地がない最底辺を生きたイエスが発した 声。この世に居場所のないひとこそ、その苛酷さの中か ら仲間を助けて、痛みを解き放つ力がそなわっているの だ。その力はいのちの底から湧きあがるものだ。その声 ならば、いま聞こえてくる気がする。 ﹃ パ ウ 口 の ﹁ 獄 中 書 簡 ﹂ ﹄ ︵ 新 世 社 、 二
OO
四年︶の本 田さんの解説文を引用してみる。教会やそのメンバーだ けが﹁救い﹂﹁正義﹂を独占所有しているーーなんて、 幻想であり、イエスが解除しようとしたことそのもので あることがわかってくる。﹁イエスが示したのは、世の 低みに立つ仲間たちをひたすら励まし、低みから共に立 ち上がり、共に解放されることを、つながされる神の姿で した。﹂﹁しかも、この救済の働きは﹃すべてのもの﹄に 及ぶものです。ユダヤ教とかユダヤ教キリスト派︵教 会︶とかに限定されるものではなく、普遍的です。﹂ 次に鶴見俊輔さんの 年 ︶ 0 は に や ゆ た か 埴谷雄高︵一九一o
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九七︶の未完の﹃死霊﹄をめぐ った鶴見さんの論文、座談会、詩が集成。未読のものが 多くて、きわめておもしろかった。そのおもしろさは、 ふだんは見えない根っこの深大さを見るようなものかも しれない。鶴見さんという樹木の深い根が埴谷雄高、夢 野久作というチャートの岩盤をつつんで、立ちあがって いるのを初めて知った気がする。その根を体感し、心底、 鶴見さんが好きになった。出会いなおすことができたの だ ﹁ 埴 品 ︿ 口 雄 高 ﹄ ︵ 講 談 社 、 二OO
五 ﹃埴谷雄官同﹄を三度読みかえした日の朝がた、夢を見 た。ある城跡の荒地に埴火口雄高、高橋和巳、私が立って いて、私が高橋和巳に﹁あなたはだいじようぶ。まちが っていない。あなたは解体していない﹂と語りかけてい るのだ︵笑︶。ふしぎな思いで、二五年ぶりに﹃邪宗門﹄ ﹁悲の器﹄に出会いなおしている。二五年間、私は師匠 を見捨てていたことに気づく。 存在の根っこをとらえなおしつづける精神の運動が、 ﹁革命﹂という言葉の意味であることに、いま、気づく。尼崎だより⑬
介護現場は常に薄氷を
踏むが如し︵後編︶中
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l ム 岡 田 苑 ︶ 前号に記載したグループホl
ムでの熱風による殺傷事 件後、園田苑の入居者の家族から﹁園田苑であんなこと が起こるとは思わないが心配だ﹂との声が聞かれた。し かも複数の家族からである。 私は家族にはその親など入居者の近況をつとめて伝え るようにしている。﹁心配だ﹂との声を家族から聞くに 及んで、私は入居者のある一面だけをことさら強調して 伝えていたのではないかと気づかされた。 入居者の日々の生活の豊かなあれこれを伝えようとす るよりも、介護する職員の側からやっかいだったことを 拾い集め、今後起こるかもしれない事への対策を計って、 あるいは施設︵職員︶防衛のため報告していた我が身を 見てしまうことになった。 職員との関係だけではなく入居者どうしのトラブルに 関してもそうである。五O
名もおればトラブルもしじゅ うある。口論のたぐいのみならず直接手をかけることだ って起こる。他人の物を強引に取ることもあれば車イス を操作し、自分の進行方向を転換するため他者の身体を 掴み引き寄せ、あるいはそれを押して支えにする。こん な時、皮膚剥離を起こすこともある。 私は、家族がやって来ることを﹁待ちかまえていたよ うに﹂して、これは告げ口ではないと自分に言い聞かせ ながらも、結局は﹁あんたの親は危険分子だ﹂と伝えて いたに過ぎない。このような場合家族から発せられる言 葉はいつも﹁すみません﹂である。この一例をとっても 介護者と入居者、家族との関係は契約を旨とする介護保 険下でも対等にはなり得ない。 いつの時も︵どんな施設でも︶新人職員泣かせの入居 者はいる。その老人の洗礼を受けてはじめてその施設で は一人前になると言われるほどである。そんな老人の一 人から介助の際手をかけられた職員が、その人の左腕を つねってしまった。その老人は右マヒであるから利き手 をつねったのである。夜勤準備に入ろうとする時間帯で あった。職員は複数おり、その時点で﹁事件﹂に気付い た者もいた。しかし、私がそのことを知ったのは翌朝の 夜勤者による申し送りの時である。 こベる 13早速その老人に謝りに行ったところ、左腕にはくっき りとあざが残り、押さえると﹁痛い!﹂と訴えるも、 ﹁どっちもどっちゃ﹂と言い、つねった職員をののしる 訳でもない。最初のこの一声には正直驚いた。いつもい つも職員を大きな声で呼びつけ、ヘタな介護や気付きの ない所作には、直ぐさま職員の腕を引っ掻いたり髪の毛 を引っ張ったりする行為からして、怒鳴りつけられると ば か り に 思 っ て い た 。 その日娘さんの勤め先に電話を入れ、帰宅時間を教え てもらった。自宅に伺いことの成り行きを伝え謝罪した が、﹁︵電話をもらった時より︶うちの母がまた何かをや ったのかとばかり思っていた﹂と言われ、またまた恐縮 の至りであった。このように娘さんから言われたことに 内心ホッとしなかったと言えば嘘になる。それでもプロ の介護職が仕事中に与えたキズである。世間一般の常識 からすれば何の言い訳も出来ないことであり、訴えられ でも致し方ない事態である。 なぜ職員はこのようなことをやってしまったのか。グ ル ー プ ホ
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ムの例のように一人夜勤という逃れることの できぬ孤独の中での事件ではない。つねられたことへの 明らかな仕返しである。ただこの職員の資質とともに老 人との相性の問題もあり、双方の人間関係は一方通行だ った。にもかかわらずその夜の夜勤者がやるべき業務を 自ら買って出た中でこの事件は起こった。 介護の現場では相手を物のごとくに扱う危険性が常に つきまとっている。﹁児童虐待と老人虐待との決定的な 違いは﹂との問いに、いとも簡単に﹁かわいいかかわい くないかの違い﹂と答えた人がいた。いとおしさを感じ ない老人は視野に入っていても、事を処すに単なるルー チン︵決まりきった仕事︶業務としてこなしてしまう。 阪神淡路大震災で今なお特養等施設に住まわざるを得な い被災老人は多い。翻って肉親を失った児童が地震後二 四時間以上施設等に保護されたのは記録上皆無である。 施設入所の老人はそれだけで拘束されている。拘束し ていることに無自覚な私たちはその老人に暴力的装置と して対陣する。老人介護に携わりながら、私は老人にと って敵なのか味方なのか、果たして何者なのかと今なお 悩む。事件翌朝の申し送りに参加していた車イスの入居 者より、﹁ああ怖いこっちゃ﹂と口を突いて出たことか らも、介護の持つ暴力的側面にこれまた気づかされた。四日市から⑨
時間の過ごし方に学ぶ
|﹁めだかの学校﹂のことなど坂
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さんの口ぐせは﹁いざという時、とんできてくれる 友人を三キロ以内に三人つくっておかないと老後は困る の よ ﹂ 。C
さんは今年八十歳。体も口も達者である。 先日、草もちをみんなでつくるから食べにいらっしゃ い と お 誘 い を 受 け た 。 朝早く起き、よもぎをスーパーの買い物袋いっぱい摘 んだとか。手間ひまをかけた少々大きめの草もちは、丁 度お昼頃には出来上がっていた。 草もちはメンバー八名のグループ﹃めだかの学校﹂の 作 品 で あ る 。 勿 論 、C
さんが最年長で、六十代、七十代 の同じ地域に住まう女性で構成されている。 ﹁三キロ以内に三人の友﹂を確保するためにC
さんが 二十年前に呼びかけて誕生したグループだ。童話﹃めだ かの学校﹂の歌詞にあるように、グだあれが生徒か先生 か μ を貫き、リーダーを決めないところが、みんなフラ ンクに行動でき、新鮮さを保っている所以かもしれない。 結成以来、土曜日になると、お弁当を持って地域の市 民センターに集まる。そして、おしゃべりをしながら縫 い物をする。これが、このグループの背骨になる活動だ。 市民センターの入り口の問に使い古したタオルを入れ る段ボール箱が置いてある。センターを訪れる心ある住 民が古タオルを持ってきてくれる。彼女たちはこのタオ ルで雑巾を縫う。そしてそれを必要とする福祉施設へ届 け て い る そ う だ 。 九月の老人の日には、ご自分の方がいただく側、だと言 うのに、地域で高齢者の在宅介護をしている家族に手製 のエプロンをプレゼントする。﹁介護は毎日のことだか ら大変。感謝しなきゃ﹂とC
さ ん 。 他所に災害があれば、見舞金や品物を即刻送る。﹁あ しなが資金﹂にも毎年二疋額を送り続けているとか。 ﹁子どもは国の宝だもの﹂と言いながら。C
さんたちは、このように地味に、いつも変わらぬ姿 勢で、誰のマネでもない活動をしながら、自分が住む地 に根を張り続けているのである。 ﹁たんと召しあがれ!﹂と言われるままに草もちをい くついただいたことか。私は草もちが大好物。お腹も心 も い っ ぱ い に な り 、C
さんたちに包まれている幸せをか こぺる 15み し め る 。 振り返れば、私が退職した時も、草もちパーティーを してねぎらつてくれたのだった。 C さんの横顔のふとした表情に私は亡き母を見ること がある。それは顔形ではなく、きっと
C
さんの発する母 性にふれたからに違いない。 C さんに何かあったら、私 も駆けつけるのだと心の中で自分に誓う。 さて、今年の春、四日市市の女性センターでかおばあ ちゃんの市 U を 聞 い た 。 農作物や手づくりのお菓子、五目ごはん、お手玉など の 商 品 が 並 ん だ 。 C さんたちの﹃めだかの学校﹄も﹁喜 ん で ・ : ﹂ と 出 店 。 勿 論 、 手 守 つ く り の 製 品 ば か り 。 着 物 地 でつくった大きさいろいろの小物入れに人気が集まり、 すぐに売り切れてしまい、グご注文、承ります μ という こ と に ま で な っ た 。 C さんたちは大よろこび。土曜日の定例会の作業にも 力が入る。注文の品をいただきに訪れた私はメンバーの 一人ひとりの顔がきらきら光っているのに驚いた。 国は介護保険を利用しないための予防策としてか筋肉 トレーニング u を高齢者に進めるらしいが、筋トレより も高齢者を元気にするのは社会と結びついた稼げる仕事 だと、私はその時、確信した。 ﹃ め だ か の 学 校 ﹂ だ け で な く 、 C さんは地域でグなつ かしの映画会。を五年も前から続けていることを最近聞 いた。毎月一回、地域の人と手を組み実行しているそう だ。﹁昔の映画はいいねえ。パl
グマンはステキだわ。 常連さんが多いのよ。待っててくれるのよ。引っ越して 行ったご夫婦も観にくるのよ﹂とC
さんのおしゃべりは 止 ま ら な い 。 ある日、か子どもの本の講座。で学習している C さ ん とばったり出会った。行動派の C さんが家の近くの学童 保育所で、子どもたちに絵本の読み聞かせをしているこ とを、その時はじめて私は知った。 ま た 、 C さんはよく仲間と旅をするが、旅行社まかせ にしないで、一番安い費用で、しかも満足度の高い旅の 企画を自分で練るのが楽しいらしい。鈍行列車の旅が多 く な る と 一 宇 一 口 、 つ が 、 そ の ゆ っ く り ゆ っ く り が 豊 か な 気 持 ち にさせてくれるのだそうだ。 C さんと話していると、彼女が八十歳であることを忘 れてしまう。と同時に能動的でありながら、淡淡とした 彼女の時間の過ごし方にいつも人生の師を感じ、憧れる。 先日のこと。﹁うちの犬も老犬なので私とどっちが先 にあの世に行くかというとこよ﹂と笑顔、で言った C さ ん の言葉が少し哀しく私の心に残っている。鴨水記 マ日記抄久しぶりに浜松の