日(毎月1回25日発行)ISSN伺194制3
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こべる刊行会NO. 202
尼崎だより⑫ 人は人にかかわって、はじめて人となる 中村大蔵 自分史のこころみ⑤ 「朝鮮J
を受け入れる 「在日J
から見えてくるもの(2) 金 光 敏 最近読んだ本から@ あらためて「屠場差別」について考える ー佐}||光晴『牛を屠るj 小j畢 覚 いのちを生きる@ うれしい出会い 長谷川洋子 映画の現場一写真と文 小 林 茂写真と文一小林茂 「Pビニールシートで作った僕の家は/役所のヤツらに取り壊された/もう 僕には寝:場所がない/トラックの下が僕の寝床さ/僕のからだに寒さがおそい ののし かかる/警察には泥棒って言われ/人々からは“チヨコラ”と罵られる/本当 に貧乏はたまらない…
J
。子どもたちは踊りながら歌った。 一一「チョコラ!J
(記念撮影。左から 2人目育回カメラマン、 4人目筆者、 2006年) ケニアでの撮影期間は5カ月問。悪路に揺られ血尿が続く。「なぜ、こんな遠くアフリ カまで来てカメラを回すのか」。その問いに答えられるものは何もない。既存の価値観で 彼らを断罪する視点をいかに捨てられるか。サパイパルな世界を生きる子どもたち。足元 から揺さぶられている私。浮遊するもの同土、カメラを介してどのような対話ーが成り立つ のか。 「思春期」の川を泳ぐ子どもたちの心情が浮かぴ上がった。 帰国後、私は持不全が悪化し透析治療に入った。 1年半の編集作業を経て映画は完成し た。人生は不可思議である。安しみの裏側に人制fはりつく。これからも映画を作れるだ あかと ろうか。作品をつくることは生きている証のようなもの 私の目標としてただそこにあ る。 2年間の連載を終了しますが、編集部より継続のお話をいただきました。新たな連載に もう少しおつきあいいただけましたら幸いです。尼崎だより⑫
人は人にかかわって、
はじめて人となる
中村大蔵︵特別養護老人ホ l ム 園 田 苑 ・ 尼 崎 市 在 住 ︶ 二人が園田苑を出奔したのは六月六日の夜一O
時過ぎ だった。わかったのが翌朝の九時前であった。起きてこ の ぞ く る な いA
の苑内にある部屋を覗きに行った。布団に包まっ て寝ているように見えた。外から声をかけても返事がな い。部屋に入り頭の方に回ると、そこには衣類が詰めら れていた。﹁図られた!﹂今度はもう一人の少女K
に 借 りてやっているアパートへ急行した。 あ い か ぎ 合鍵を本人承諾のもと苑に置いてあるので、ドアを開 けるともぬけの殻。独り者の部屋にふさわしい乱雑ぶり である。しかし、保険証や貴重品は二人とも置き去りに したままである。すぐに帰りそうでもあった。 これですべてがわかった。私が会議で遅くなることを 知っていたA
の誘導で二人が無断外出したのだ︵と思っ た ︶ 。 一 一 、 コ 一 日 様 子 を み よ う と 腹 を く く っ た が 、 私 の 腹 の虫は納まらない。あれほど﹁長時間の無断外出はする な﹂と言い渡していたのだから。 それよりも、面白くなかったのは園田苑に補導委託さ れた少年、少女たちは一九九五年の初補受託以来、今日 まで四O
名近くなるが、苑を出奔した者がゼロであるこ とが自慢の種だった。私はその﹁誇るべき記録﹂が破ら れたことのくやしさの方が先んじた。 鑑別所から出てきて、すぐさま問題行動K
はO
八年一一月に苑にやって来た。一七歳だった。 フィリピン人を母に日本人を父とするハl
フ で あ る が 、 父の籍には入ることが出来ず国籍は母方である。フィリ ピンには父の違う姉がいた。K
は実父と面識はない。母は日本人夫と別れてから極 度のアルコール依存症に陥ったというO
K
はその母に養 育されたとの自覚がない。母の友人と称する人物に衣食を与えられながら﹁軟禁﹂状態に置かれていた。高校も たつた二日しか行かせてもらえなかった。その人物は
K
母子の面倒をみることの引き換えに母子に支給されてい た生活保護費を完全管理していた。K
はその人物から投げかけられた言葉を今も忘れてい ない。﹁お前が生活保護を受けてなかったら誰が面倒み て や る か ﹂O
K
がそのことを私にしゃべったのは付き合 た って数ヶ月経ってからだった。それまで警察や裁判所で もしゃべってはいない。しゃべってもどうしょうもない ことだとK
は 言 う 。 う か が 家庭裁判所からの﹁補導委託書﹂から窺うと、フィ リピン人やその国籍に触れることは嫌がってたようであ る。苑にやってきた当初は﹁一八歳になったら国籍を日 本にかえる﹂と言い張っていた。私が母やフィリピンの ことについて聞き出そうとすると、かなり嫌がった OK
は将来保育士の仕事をしたいと言ったので、私が理 事長をしている保育園にボランティアで通わせた。早速、 問題を起こした。職員のケイタイ電話を失敬してしまっ た。それも二台も。一人でいる時の寂しさをそれで紛ら わせていた。すぐ足のつくことをいとも簡単にやってし まうところにK
の社会性と幼児性が表れていた。 と ﹁なんで盗ったのか﹂との問いに﹁わからん﹂と繰り 返すのみだった。K
は﹁軟桂ごされていた時のことを一 ﹁ そ の 日 か ら 私 に は 友 達 は い な く な っ た ﹂ と 日 記 に 書 い た 。 一 家庭裁判所から寝食付︵裁判所用語で身柄付︶で補導一 委託された少年、少女に毎日、日記を書かせている。そ− の日記には今まで口外しなかったことをしばしば書くこ− と が あ る 。 一 少年、少女たちは虐待体験や﹁非行事例﹂を時として一 日記に書く。この子どもたちは警察や裁判所ではウソは一 ’言わないにしても全部をしゃべってはいない。やって来一 た最初の頃は、毎日の出来事を羅列した同じような文章一 なので、こちらから﹁思ったことを書け﹂と促している一 ことも関係している 0 ・ 一 少年の家庭環境によっては弁護士が付くこともある。一 日記を見た弁護士が﹁私にもしゃべってないことを書い− ている﹂と苦笑したこともある。どだい弁護士がどのよ一 うな機能を果たしているのかつまびらかに知らないこと一 も 多 い 。K
は虐待を逃れて警察に駆け込み、その足で児童相談一 所に連れて行かれた。そこで教官に﹁公務執行妨害﹂を一 はたらいたがその時は罪を問われることがなかった。児一 童相談所で四ヶ月いたが親元に帰すことができず、岐阜− にある更正保護施設に移動した。そこで軽微な規則違反− 2を起こしたことがキツカケとなって、前歴の公務執行妨 害があらためて間われ、二回目の鑑別所送りとなった。 一回目は軟禁し虐待を加えた人物にそそのかされて、拾 っ た カ
l
ドで買い物をしたことが罪になった。合計五四 日間の鑑別所暮らしとなった。鑑別所では一事案に付き 収容期間は最長三O
日 で あ る か ら 、K
の場合は長い方で あ る 。 二回目の鑑別所から出て審判を受け補導委託となった。 裁判所調査官から﹁園田苑の苑長の顔は怖いが優しい人 や け ど い い か ﹂ と 言 わ れ 、K
は﹁怖いって、やくざみた いな感じ?﹂と問い返したそうだ。﹁それほどでもな い﹂と言われ、選択の余地なく﹁いいよ﹂と返事して、 園田苑に連れてこられた。この話を聞いたのはかなり後 の方だった。聞いて大笑いした。この調査官とは相性が いいのか、京都に転勤になった折も、京都の少女を半年 宿泊付で受けたこともあった。委託先は一応当該裁判所 の管轄地域内に定められているらしいが、ある程度調査 し ん し ゃ く 官の意向も酪酌されている。 他人から支援を受けながら学校に行ったのにK
には帰るべき場所がないから財政的自立を目指して、 年明けにホ l ム ヘ ル パ l 養成講座を受けることになった。 補導委託された者をその期間内に各種学校に通わせたの は、これが初めてである。受講料は九万円をはるかに越 けげん す。保護者の欄には私の名前。所長は一瞬怪詩な顔をし たが何も聞かずに少女の年齢から推測したのか、﹁先生 もようやるワ﹂とその場で一万円あまりを差し引いてく れた。彼の所長も大学闘争経験者であった。 それでも八万六千八百円は即金で払えない。私のいつ もの悪い癖で、そのうち何とかなるワと五回分割払いに した。それを伝え聞いたボランティアのメンバーが残金 五万二千円を差し出した。さらに、職員から入学祝いと して一万円、ハンセン病関係で知り合った私の友人から 二万円。ありがたいことだった。 真面目に講座を受け、ペーパーテストも九O
点 を と っ た。その日帰ってきたK
は誇らしげに解答用紙を見せな がら叫んだ。﹁中学校での最高は二点だった﹂。何回聞き 返してもグ二O
点 U ではなく J 一 点 d だ っ た 。 日本語の読み書きが出来ない母と、金づるとしてしか 見ていない人物からは読み書きなど教えられたことがな かった。テストには﹁いつも名前を書いて出すだけ﹂だ っ た とK
は 言 う 。 ﹁ 身 柄 付 ﹂ も と れ ﹁ 通 い ﹂ の 補 導 委 託 に 変 わ っ た 一 一 一 月 に、アパートを借りてやり生活保護が開始された。 ホ ーム ヘ ル パ
l
講座も施設実習をあと一日を残し、それさえ 済めば修了証書がもらえるだけとなった日に出奔した。 本人もそのことを重々知っており、ましてや他人から の支援で受講料が払えた恩もあり、そんな馬鹿なことを は ず する筈はないと、思い込んでしまったのが失敗の始まり だ っ た 。 四月から新たに受託した身柄付の一六歳の少女A
に そ そのかされて出て行ったのに違いない。私も弁護士も調 査官もそれを信じて疑わなかった。これがそもそもの間 違 い だ っ た 。 ょ う ま ま は は 杏として二人の行方がわからない。 A も継母の暴力に 耐えかねて児童養護施設に逃げ込んだ一人だ。 A の 母 はA
が三歳の時い、なくなった。実父の居所もA
は知らない O K も A も肉親的な関係は途絶していた。 や 止むを得ず警察に家出人保護願いを出した。警察の担 当官は慣れたものである。私たちがK
には出奔する理由 がないといくら力説しても、﹁それは、あんたたちの勝 手な思い込み。本人がそう思っているかどうかはまた別 問題﹂と、いとも簡単にいなしてしまう。その冷たさに むしろ腹を立てたくらいだ。 母 な る 存 在 に 飢 え て い る 子 ど も た ち − 二人が万引きをして警察に保護されたのは七月五日。一 な ん ま 一ヶ月の間難秘で昼夜逆転の生活を送っていた。昼は親一 も ら 一 切な︵?︶おじさん宅で寝食を共にし、小遣いも貰って一 いた。私などはすぐさまそのおじさんのいやらしい下心一 を疑ってしまうが、K
に何回それらしい質問をしても− ﹁そんなことはなかった﹂と言う。私の方がよっぽどい− やらしいのかと思、つくらいだった。どうも世間には家出一 少女に寝食を無料で提供するおじさんたちがいるらしい。一 さ ら に ア ル コ ー ル も タ バ コ も 提 供 し て い た 。 一 警察から弁護士に連れられて戻ってきた K を見て、ょ一 くぞ殺されずにと思ったものの、私は怒り以外の何も感一 じなかった。それでも、それを聞きつけたパl
トのおば一 ちゃん M さんは、慌てて走って来て、顔を見るなり﹁K
一 ちゃん無事だった﹂と涙流しながら抱き、お互いしばら一 く泣きあっていた。それを横目で見ていた私は﹁おまえ一 ら え え 加 減 に せ え よ ﹂ と 冷 や や か も の だ っ た 。 一 いなくなった期間、私とM
さんは毎日、朝夕にアパl
一 トを訪ね部屋をあらため、時として物の位置を変えて人一 こ ん せ き 一 が入ったら痕跡が残るような工作もした。二人で一緒に− 探 し な が ら も 、 K が戻ってきて涙を流す人と流せない人一 と に 分 か れ た 。 一 4翌日には授業料の援助までしたボランティアのひとり
S
さんが、早速やって来た。﹁K
ちゃん帰ってきたっ て?﹂と言いながら、真新しいT
シャツ二枚をK
ちゃん し か ほ ほ え に手渡した。叱り飛ばすわけでもなく優しく微笑んで、K
に﹁どうしてたん﹂と語りかける。私は昨晩、会議で 遅くなったにもかかわらずK
をたたき起こして、かなり し っ せ き 手荒い叱責をしただけに、M
さんといいS
さ ん と い い 、 その優しさに感心したものだ。 最近、韓国映画﹁母なる証明﹄を観た。殺人容疑の息 子を救うため真犯人を追う母の姿をテl
マ に し て い る 。 そこでは月並みな表現だが子にとって﹁母なるもの﹂の りょうが 存在は、父なる存在を凌駕するどころか、父など到底 ま ね 真似し得ないものであろうとつくづく考えさせられた。 私は裁判所から委託された少年、少女たちを誘ってし ばしば映画を観に行く。常日頃映画などあまり観ること のない私だが、彼ら彼女たちが﹁仕事﹂を離れて一人ぼ っ ち に な る 時 に 誘 う 。 その方が私も職員も安心である。しかも、私は観たい 映画でもあり、彼ら彼女たちは、私が誘わなければまず 観ないだろうと思う映画である。一石二鳥の役得と勝手 に 解 釈 し て い る 。K
とは﹃チェンジリング﹄ ﹃スラムドッグ&ミリオネ ア﹂﹃神の子たち﹄などを一緒に観に行った。どの映画一 もK
は泣いた。特に﹃チェンジリング﹄では周りの客を一 気にするほどしゃくりあげて泣いていた。﹃神の子た一 ち﹄では、﹁何これ、同じ顔や﹂と感想を述べながら、一 ﹁フィリピンにもこんな所があるんや﹂と母の国を一度一 だ け 訪 れ た こ と を 思 い 出 し て い た よ う だ 。 一 実は、﹃母なる証明﹄もK
と一緒に行く予定だったが、一 彼女の勤務の変更により断念せざるを得なかったOK
は 一 母に会うことを拒み続けている。 だが、母が酒を飲みながらたむろしているであろう駅一 前ロータリーには、嫌がりながらも案内した。自分は享一 から一歩も出なかったが、﹁顔がまったく同じだからす一 ぐわかる﹂と、私に母が居そうな場所を指差した。一 ﹁自己防衛能力と自尊﹂の喪失 一ヶ月の長期外泊から帰ってきたK
は、これまたヘル パl
養成所所長の特別な計らいで、新たな実習場所を指 定され、修了式直前に全過程を終えることができた。中 断されていた生活保護も担当職員の努力で直ちに復活さ れた。修了証書を手にしたK
は、九月一七日より園田苑 の非常勤職員となった。 わ ず 最初の僅かな給料を手にしたK
は、授業料の援助をいただいた人たちに手作りのフィリピン料理を振舞った。 それだけでもたいしたものなのに、若干アップした二度 目の給料では、ボランティアが主催する入居者への﹁居 酒屋﹂に高い酒を差し入れし、私にも同じように高級酒 を 買 っ て き た 。 ね ら
K
は、私が不在の時を狙った訳ではないが、ちょうど 公休目だったので尼崎市にオープンしたてのショッピン グ モl
ルに一人で出かけた。翌日、すごい混雑だったこ へ ん と う せ ん とを伝えたが、案の定扇桃腺をやられ通院するハメにな った。それでなくとも、よく病気する子だった。家庭裁 判所からやって来る子供たちは、﹁非行﹂をはたらく体力 を持ちながらも、とにかくよく病気になる。なぜだろう OK
やA
が自ら墓穴を掘るような行為をすることに﹁な ぜ﹂という単純な︵わかりきった︶質問をすることは、 あまり意味のないことのように思う。K
はあと一日でヘ ル パl
証 書 が 手 に 入 る の に 、A
は身柄付補導委託中に脱 走すると必ず逮捕、補導され、少年院に即刻収監される ことを知り尽くしているのに。﹁なぜ後先を考えずに﹂ こんなことをやってしまうのか、などの質問もあまり意 味のないことと思う。 彼ら彼女たちが口癖のように使うフレーズがある。 ﹁もう、どうでもええ﹂﹁どうにもならん﹂﹁ほっとい て﹂である。彼ら彼女たちが今まで生きてきた中で、ど一 うにかなったこと、思うようになったことの記憶はほと− んどなく、ほっとかれたことの余りにも多かったことが− そ う 言 わ し め て い る 。 一 後先のことを考えて行動する生活スタイルなど学び取自 らせる親など大人たちが、身辺にいなかったのだろう。一 ぎ た 無謀な行動をとり警察沙汰になることも、人ごみを避け− し ょ せ ん ず病気になることも、所詮グ自己防衛能力 μ の未成熟か一 らくることなのだろう。これは、人が人にかかわること− の 大 切 な 部 分 、d
尊の形成過程。を喪失してしまった一 結 果 な の で あ る 。 一 そ ん な 中 で 、K
が失敗を繰り返しながらも、成長を遂一 げて行っているのは、園田苑とそれにつながる多くの人一 たちとのかかわりではないだろうか。今は、あれほど嫌− っ て い た フ ィ リ ピ ン 名 を 名 乗 っ て い る 。 一A
は枚方にある少女少年院に収監されて五ヶ月になる。一 私以外に誰も面会にこない、手紙のやりとりもない。そ一 れでも、介護科に選抜された数少ないメンバーに入った。一 院内で国費による授業を受け、出院直前には院外の老人一 施設で実習を受けることができる。出院はまだ先︵長期一 処遇の場合はおおむね六ヶ月︶のことではあるが、A
も 一 また自立に向けて出院後の居場所探しが始まっている。 E 6自分史のこころみ⑤
﹁朝鮮﹂を受け入れる
ー ﹁ 在 日 ﹂ か ら 見 え て く る も の ︵ 2 ︶ 金光敏︵保育土・京都市在住︶ 在日コリアンであることを、人前で何度か話したこと があります。そのつど私の経験に、人に話すほどの普遍 性があるのだろうかと自問してきました。私に限らず誰 でも自分の力ではどうしょうもないことで差別され、悲 しく悔しい思いをした経験があると思います。私の場合 は﹁朝鮮人﹂ということでコンプレックスをもち、それ は民族問題の反映でもあるわけですが、﹁辛かった﹂﹁し んどかった﹂という心情を人に伝えるだけでは意味がな いと感じています。今回は私自身が﹁朝鮮人﹂を受け入 れ、その後の人生に真正面から向き合えるだけの基礎が 形成された中学時代を振り返ります。 物心ついた六0
年代中盤からは、高度経済成長の中で、 少しずつ我が家の生活も向上しました。カラーテレビの 登場に胸をときめかせ、自分の空虚さをテレビと空想あ そびで満たしていました。七0
年代に入ると、時代の変一 化をオイルショックで感じとり、母に頼まれてトイレッ一 トペーパーを買い集めた光景が今でも鮮明に浮かんでき− ます。そんな一九七三年、中学校に入学するわけですが、一 大きな試練が待っていました。中学校の方針が﹁本名を一 名乗ろう﹂だったのです。大阪市立田島中学校には、私一 い か い の の通った小学校と、以前﹁猪飼野﹂という地名であった一 朝鮮人密集地域の小学校の生徒が合流しました。私は一 ﹁名前を変えたくない︵朝鮮人だと知られたくない︶﹂と 主張するのですが、母は﹁校長先生に頼みに行ったけど一 あ か ん か っ た わ ﹂ と さ ら り と か わ す の で す 。 一 その頃、登校拒否という選択肢を知らない私は、絶望一 的な気持ちで中学校の門をくぐりました。ところがそん一 な 私 を 待 っ て い た の は 、 ﹁ 金 ﹂ ﹁ 李 ﹂ ﹁ 朴 ﹂ ﹁ 高 ﹂ と い う 名 − 札を胸に付けた多くの級友たちでした。四人に一人が在一 日コリアンである中学校で私は全く﹁特別な﹂存在では一 なかったのです。そこで私は﹁猪飼野﹂出身の級友たち一 の堂々とした態度に圧倒されました。彼らは近隣にあっ一 け ん か 一 た東大阪朝鮮中級学校の制服を着てみたり、他校と喧嘩一 しに行ったり、おとなしい先生をからかったり、夜通し一 仲間と遊んだりと、とにかく破天荒な行動を繰り返すの−ほ う ふ つ でした。映画﹁パッチギ﹂を訪梯とさせる世界が、私の 前に次々と展開され、私にはカルチャーショックでした。 彼らはいわゆる﹁ヤンキー﹂なのですが、とにかく明る くて、常に仲間と行動し、連帯感が強く、いいことも悪 いことも楽しんでいました。当時、田島中学校でもうひ とつ義務づけられた校則が、男子の丸坊主でした。丸坊 主にしていれば、パチンコ屋や成人映画館ですぐに中学 生と見分けがつくという理由で。今思うと﹁未成年﹂の ﹁名札﹂を強いられたかわいい﹁ヤンキー﹂たちでした。 先生のほうも元気で、朝礼台の上で﹁日本人は日本人と し て 誇 り を も て ! 朝 鮮 人 は 朝 鮮 人 と し て 誇 り を も て!﹂と励ましてくださった方や、﹁朝鮮問題研究会﹂ に積極的に生徒を勧誘する方がおられて、七
0
年代の空 気に満ちていました。特に私の担任が熱心な方で、その 先生は生徒一人一人との交換日記で、生徒が書いた文章 の倍の返事を書いておられました。時には英語の教科書 から離れて﹁KOREAISABEAUTIFU
LCOUNTRY
﹂という教材で授業をなさり、日本 語訳ーのときの﹁ちょうせん﹂のイントネーションにまで こだわって指導されていました。 最初、私は抵抗感と戸惑いを覚えながらも、少しずつ 自然に﹁朝鮮﹂を受け入れていることを自覚し始めてい一 ました。気がつけば、私は﹁ヤンキー﹂の級友たちゃ親− 友と呼べる女友だちゃリベラルな先生のおかげで、自分一 のありのままを表現できるようになっていて、学校が居一 心地の悪い場所どころか、自分にとって﹁ユートピア﹂一 のような場所に変わっていました。私は朝鮮人であるこ一 とや、実は不器用で行動が遅いことや、﹁いい子﹂でな一 いことを認めてもらうことができ、身も心も軽くなった一 のです。自己肯定感の基礎がこの時期に形成され、その一 後の人生の中の困難を前向きにのりきるための貯金をた一 っぷり蓄えたのだと思っています。今でも実家に帰ると、一 級友たちと遊んだ思い出の場所を巡り、元気を回復する一 こ う そ く さ ゅ う 一 自分がいます。数年前、父が脳梗塞で倒れ、実家に急一 き よ 遺帰ったとき、偶然その頃の級友と二十年ぶりに再会し一 ました。髪振り乱し悲壮な顔をしている私に対して、彼一 の第一声は﹁飯、食ったか?﹂でした。二十年ぶりであ E つでも、昨日今日会ったようないたわりの会話に心が安一 らぎました。この時期に全く読書しなかったことを時々一 後悔することもありますが、それまで﹁空想﹂の中に逃一 げ込んでいた少女にとって、現実の友人、信頼する教師一 に出会えたこと、厳格な父の目を盗んで遊んだことはか− 8けがえのない経験で、この時代が人生の転換期だったん ル ﹄ p h y だと自分では前向きに捉えています。 生野はまさしく、私が生まれ育った故郷なのです。本 籍地は韓国済州島であっても。大学を卒業したあと済州 島の地に初めて足を踏み入れたとき、自分のル
l
ツ を 確 かめた感慨こそありましたが、それはあくまで淡い恋心 であり、現実感とは遠い感情でした。そこのところは一 世の方々との違いであり、﹁祖国﹂を現実的に自分に近 づけることは三世の私にとって﹁学習﹂と﹁想像力﹂と ﹁努力﹂が求められる作業なのです。自分が育ち生きた 故郷には、入り組んだ路地があり、夏祭りの後の花火の に お 匂いが残り、七0
年代フォークソングが流れていました。 このリアルな感覚で自分を表現するならば、私はまさし く ﹁ 在 日 ﹂ な の で す 。 ただひとつ、この時期の経験の中で記しておきたいこ とがあります。私が自分を取り戻したと有頂天になって いたとき、苦しんでいた級友もいたことです。彼女は前 述した英語の先生の授業で挙手し、はっきりとこう言っ たのです。﹁先生は、朝鮮人の生徒をひいきしていま す﹂と。そのときは彼女の決起に動揺しただけでしたが、 今は彼女の声に示唆を感じるのです。﹁朝鮮人﹂である ことで社会的に差別を受けることや、内面的に悩みを抱− えることは、ある意味わかりやすいのですが、彼女のよ一 うに自分の心の暗部を認めてもらえず苦しんできた人は一 先生方の在日への配慮を﹁逆差別﹂と捉えていたのでは一 ないでしょうか。私の出身校の中で、彼女はマイノリテ一 イであり、﹁過保護﹂にされていた﹁在日コリアン﹂を− う ら や 一 羨 ま し く 思 っ て い た の で し ょ う 。 ↑ しかし一方で﹁ヤンキー﹂仲間の友人たちは先生の指一 導ではなく生活の中でしっかり関係性を築いていました。一 ある友人は高校卒業後就職がなく自衛隊に入り、上司か− ら﹁朝鮮人との友人関係を見直さないと、君の出世に影一 宇 一 と く 響する﹂と言われたことで、仲間たちを国自演されたと憤一 り自衛隊を辞めています。私はこのエピソードをよく人一 前で話しましたが、このことを﹁美談﹂にしてきたこと− に自分なりの﹁誇張﹂を認めています。もちろん事実は一 違わないのですが、同じ時間と空間を共有してきた友人一 の中にも、相反する感じ方の級友がいたことを知らせな一 い と 正 確 で は な い と 思 う か ら で す 。 一 私は自分の経験の中から﹁本名﹂を名乗ることの積極一 的な意味を書きましたが、﹁本名﹂﹁民族名﹂を名乗るこ一 とは自分を証明するためのひとつの﹁方法﹂だったと考一えています。なぜなら私の経験は、生野という在日コリ アンが多数暮らしているという条件、かつ現在のように 国際結婚で生まれた子どもや日本国籍をもっ在日コリア ンがまだ多くはなかった時代という条件にもとづくもの だったからです。在日コリアンの少ない学校では、﹁本 か っ と ま っ 名﹂﹁民族名﹂を名乗るまでには想像以上の葛藤がある でしょうし、そこに至るためのプロセスにこそ﹁自分探 し﹂があるでしょう。また名前が﹁日本名﹂であっても、 自分の意識の中でコリアンにこだわり、名前以外の自己 証明も選択肢としてあるはずです。日本国籍のコリアン である友人は、名前は日本名でありますが、民族文化の 中で自分を発揮しています。更に付け加えるならば、随 い ま 分時代が変化したとはいえ、未だコリアンとして真正面 に勝負するには不利な社会環境があります。私の中学校 で、卒業したあとも﹁本名﹂を名乗り続けているのは私 を含めて数人です。この数字が現実です。だからといっ て同級生たちが﹁コリアン﹂を自分の意識の中でネガテ ィブに捉えているわけではないのです。
七
0
年代前半には、在日青年による韓国の朴大統領船 A ソ み つ 撃事件や先日亡くなられた金大中氏の粒致事件が起こっ す べ ていましたが、当時の私はその政治的意味を理解する術 を持っていませんでした。十四歳のとき、わけもわから お う 立 つ ず真っ黒のインキで機械的に指紋押捺させられた経験も ひとときの不快な感触として残っただけでした。そのこ とに大きな疑問と屈辱を覚えるのは随分後のことです。 この時代の私は、在日コリアンという社会的存在を論理 的に位置づけることはなく、自分の中で感覚としてのみ 受け入れていました。大学生になり、朝鮮の近代史や在 日コリアンの法的地位を仲間たちと学習する中で、少し ずつ自分の輪郭を形作り、自分の経験を客観的に検証す る動機を獲得しました。自分の体験は事実として揺るぎ へ ん ないはずですが、それは﹁思想﹂によりどんな色にも変 貌します。その危うさは避けられないけれど、繰り返し 歴史を見直し、明日につなげることは意味のあることだ と思います。そして自分の中にもつ﹁感覚﹂や﹁感性﹂ という漠然とした生きものは、自分の生きる力の泉であ り、現在の仕事や子育てにも大きく影響しています。 10最近読んだ本から⑩
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別
Lート畢
ノ 、 1 覚 ︵ 地 方 公 務 員 ・ 横 浜 市 在 住 ︶ 以前、本誌︵ m m ・−︶で、内揮旬子﹃世界屠畜紀行﹄ ︵解放出版社︶を紹介させていただいたが、今回取り上げ るのは、北海道大学法学部を卒業後、出版社勤務を経て、 埼玉県の大宮屠場︵現・さいたま市食肉中央卸売市場︶ で十年間屠畜に携わった佐川光晴さんの﹃牛を屠る﹄で ある。佐川さんは、自伝的小説﹃生活の設計﹄︵﹃虹を追 いかける男﹄双葉文庫所収︶で新潮新人賞を、﹁縮んだ 愛﹄で野間文芸新人賞を受賞している作家である。 本書は、大宮屠場での体験と思索をコンパクトにまと めた評論風の作品。屠場は、ごく一部を除き見学できる ところは少ない。屠畜の場面も、﹁屠場差別﹂を扱った 人権啓発ビデオや、日本でも公開された映画﹁いのちの 食 べ 方 ﹄ ︵ 二OO
五 年 、 オ ー ス ト リ ア ・ ド イ ツ 合 作 ︶ 、 昨年、大阪の大学生が加古川食肉センターの内部を撮っ一 たドキュメンタリー映画﹃にくのひと﹄などで見られる一 くらいなので、本書の記述は貴重である。しかも実体験一 の 持 ち 主 が 書 い て い る の だ か ら 説 得 力 が あ る 。 一 さて、本書には、さまざまなエピソードが紹介されて− いる。初めて会社へ行ったときに先輩職員から﹁おめえ同 みたいな奴の来るところじゃねえっ!﹂と怒鳴られたと一 か、翌日、全く未経験の状態のまま胸割りきれた豚の足一 をチェーンに引っ掛ける仕事から屠畜作業を始めたこと− とか、その後、日々先輩から技術指導されながら屠畜を一 行っていく場面、牛・豚が搬入されてから屠畜、内臓出− し、背割りなどの各作業工程を経て枝肉になるまでの過− 程、新人からベテランになっていく職人ならではの世界、一 作業する者同士の心の触れ合いや日常生活など、現場で一 ひ れ き 一 働く者の目線で、その時その時の著者の心情も披涯しな一 がら、きめ細かく書かれている。﹃世界屠畜紀行﹄のよ一 うに詳細なイラストは付いていないが、屠場で働く者が一 読めば、その内容が極めて正確であることがわかる。一 特に印象的なのは、第 6 章﹁様々な闘争i
偏見との闘一 い﹂である。﹁結婚から四年が過ぎても、われわれ夫婦一には子どもができなかった。︵略︶屠殺場で働いている せいで、こんなことになったのではないか。精子減少症 と診断されたときから、私は疑いに捉われていた。訟監 な偏見であり、おれはその程度の人間ではないはずだと いくら言い聞かせても、疑念が収まってくれないのであ は ら る﹂と振り返る。ホルスタインは子牛を苧んでおり、そ の生まれる寸前の子牛を廃棄したり、﹁発達が見込めず に連れて来られる子牛﹂を屠畜するのは、﹁正直気持ち のいいものではなかった。もしも子どもに障害があった らとの不安が、くりかえし私を襲った﹂と率直に述べる。 つ な それは、まさに屠畜に対する偏見に繋がるものであり、 ﹁そのときの苦しさと情けなきは今だに胸の中に残って い る ﹂ と い 、 つ の で あ る 。 お い 屠場で働く人々は、安全で美味しい肉を、いつでも安 心して食してもらえるようにと日々精を出している。仕 事に誇りや自信を持つことはあっても、偏見を抱いたり 差別をしたりすることはないはずだ。しかし、著者は お ぶ 、 ﹁何ものか﹂に畏れを抱き、偏見に繋がる感情を抱いて しまう。それはいったいなぜだろう。著者にそう思わせ てしまったものは何なのか。 士 い は ... .., 0 しミ
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の て と で;;;し は : か な 江 教 い ふ え か ぺ な 私はいま関東のある屠場で事務方として働いている。 別の屠場の話だが、駅から至近の屠場へ通うのに、わざ わざパスに乗って一つ先の停留所まで行き、裏門から入 る職員がいたり、家族にも屠場で働いていると言わずに ﹁市職員﹂とだけ伝えているという職員がいたと聞いた あ い ことがある。私の職場の若い職員は、近所に引越しの挨 さ つ 拶をしたら、﹁お仕事は?﹂と聞かれ、﹁﹁解体業をやっ ています﹂としか答えられなかった自分がいました。差 別について、いつも学んでいるのに、﹁解体業﹂としか 答えられなかった自分が残念です﹂と悔しそうに語った ことがある。中堅クラスの職員からは、娘さんの小学校 入学にあたっての心配を開いた。今ではどこの学校でも 小鳥や鶏、ウサギなどの小動物を飼っている所が多い。 彼はその小動物を基にした教育が心配なのだという。娘 さんは父親が屠畜場で牛・豚を屠畜して肉にする仕事を していることを知っている。しかし、学校では﹁動物を 殺したり、傷つけたりすることは悪いことなので、して 12といったことが心配だというのである。 私は、今の職場に移動するまでは全く異なる部署に勤 務していた。そこでは、人権啓発も含め、研修を企画・ 実施する立場にあり、また、個人的にはハンセン病回復 者や性同一性障害の当事者と交流を持っていた。だから、 人権について﹁ちょっとは知ってる﹂人間であると自負 していた。しかし、食肉市場への異動を内示されて、こ の高慢な考え方がガラガラと音を立てて一気に崩れた。 ﹁親戚に﹁新しい職場はどこ? L と聞かれたら何と答え よう?近所の人にどう答えよう?﹂とうろたえている 自分がいた。人権研修を重ね、﹁屠場差別﹂をよく理解 していたはずの自分の心の奥底に、こうした説明できな い感情があったことに気付いたのである。心のどこかに、 動物を殺して肉にする屠場を忌避する気持ちがあったの ではないか。私自身の葛藤を通して、著者の﹁心の揺 れ﹂が、ほんの少しではあるが、理解できるようになっ た 気 が す る の で あ る 。 − 下 司 守 主 − 、 ナ J J / いくつか疑問がある。第一に、著者が、﹁屠畜 ではなく、屠殺という言葉がぴったりくる﹂と語るとこ いま一つよくわからなかった。﹃生活の設計﹄で ろ は 、 も、法令などで公式に使用される﹁と場﹂は、戸﹁屠﹂を 前提としなければ意味が通じないと指摘していたが、マ スコミ等では﹁屠場﹂を﹁食肉処理場﹂と言い換えてす ませている。確かに、私の働く屠場内でも、ふだんは 牛・豚を﹁屠殺する﹂とはあまりいわず、﹁屠畜する﹂、 ﹁ つ ぶ す ﹂ な ど と い い 、 ﹁ 殺 ﹂ と い う 言 葉 は ほ と ん ど 使 つ ふ の ていない。この言葉遣いについて、敢えて﹁なぜ?﹂と 間われると、答えに窮する。どこかで﹁殺﹂という文字 に込められた何かを忌避したいという気持ちがあるのだ ろうか。﹁屠殺場﹂という、施設を表すだけの言葉が私 たちに喚起するものは何か。自分の心の中のもう一人の 自分と正面から向き合わなければ答えは見えてこないの か も し れ な い 。 第二に、著者が唐突に部落差別問題を持ち出して論じ るくだりにも違和感を持った。関西方面では、屠場を含 めた現業職に被差別部落出身者を雇用していることが多 いという話を聞いたことがあるが、本書で部落差別問題 に言及しなければならない必然性は見い出せない。 第三に、﹁屠殺場で働くという私の選択は、自分を権 あ た 力から能、っかぎり遠ざけようとする意図によるものであ
ると解釈することができるのかもしれない。さらに、あ えて我が身を﹁織れ﹂の中に浸し込み、そこをくぐり抜 けることで﹁聖﹂へと至ろうとしていたのかもしれな い﹂と書いているけれど、阿部謹也や網野善彦をふまえ ての﹁解釈﹂の試みには、どこか無理がある。屠場で働 くことを選択した理由を、著者はいまも探りつ守つけてい る よ う に 思 え て な ら な い 。 ところで、余談だが、冒頭で触れた﹃世界屠畜紀行﹄ の著者、内揮句子さんは、執筆する中で、自分の心の中 じようし のこだわりに気付き、上梓後、その思いが何であった のかを確かめようと、それぞれに名前をつけた豚を三頭 え さ 飼い、毎日餌をやり、豚小屋を掃除し、愛情を持って丹 精込めて育てたそうである。その経過は内揮さんのブロ グに詳しく載っている。飼っていた豚は、ある屠場で屠 畜・解体してもらい、その肉を知り合いにも食べてもら う会を催したそうである。豚を飼って、肉にして食べる までのことは、内揮さんの﹁心の揺れや変化﹂を含め、 新たな著書で書かれるだろうが、屠畜に詳しいと自認す る内津さんですら、屠畜して食べることをめぐる思いは、 そう一筋縄ではいかないようである。 ﹃ 牛 を 屠 る ﹂ 一一寸 回 ,D.、 しミ Lーー は 14 共感する場面が多くあり、 伊 ﹂ 斗 J
晶
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l l ま た 先 に述べた疑問もいくつかあるのだが、 屠場の現場で仲間 たちと力を合わせ一生懸命働いてきた著者の 確実に読者である私に伝わってきた。 屠場で働く人々が全て著者と同じ思い・考えを抱いて い る の か と い う と 、 そ れ は 違 う だ ろ う 。 , E A V’
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半/中/ 屠場で働 いた一人の人間の体験と思索を赤裸々に描いた本書は、 読者一人ひとりに自分の中の何を見つめなおさねばなら ないのかを、あらためて問う一冊となっている。 ︵ 解 放 出 版 社 、 二 OO 九年七月、本体一五 OO 円 十 税 ︶ * ﹁ と 畜 場 併 設 食 肉 市 場 ﹂ ﹁ と 畜 場 ﹂ 、 ﹁ 食 肉 セ ン タ ー ﹂ 等 とじよう を 一 括 し て ﹁ 屠 場 ﹂ と 表 記 し て い ま す 。 *法律・行政では﹁と畜﹂として﹁屠﹂の字を使用しませ ん が 、 今 回 は 書 籍 に 合 わ せ ﹁ 屠 ﹂ を 使 用 し て い ま す 。 ︵ 筆 者 ︶いのちを生きる⑫
うれしい出会い
長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶ 一O
月 一 九 日 ︵ 月 曜 日 ︶ ﹁長谷川洋子さん、どうぞ﹂と、看護師さんがいつも のように私を呼んだ。しんと静まりかえった待合室に看 し ゅ よ う 護師さんの声はよく響く。他の診療科とはちがい、腫蕩 科は患者がいっぱいいてもにぎわうことはない。 私はいつもより緊張していた。二ヶ月前に腫蕩マー カl
が一・五倍にはねあがったまま九月の職場復帰を迎 えた。仕事は苛酷なものではないが、仕事は仕事だ。こ れまでのパターンだと、数値はあがり続け、今回再発ラ インぎりぎりかラインを突破していることは確実だった。 ﹁なぜ数字ごときに一室二憂するのだ?﹂と言うひと もいるだろう。私もつくづくそう思う。待合室で検査結 果を待つときの心臓のドキドキはたぶん理解してもらえ な い だ ろ う 。 ﹁ 再 々 々 発 と 言 わ れ た ら ・ : ﹂ と 、 心 の 準 備 を す る 。 担当医のS
先生はおだやかな顔で私を迎えた。﹁結果 ですよ﹂と出された用紙に私の顔が吸い寄せられた。 マーカーが元の値に下がっている。治療せずにマー カーが下がったのは、実は今回が初めてだ。私の身体の 中は確かに変化している。免疫の力を確実に感じた瞬間 だった。一棋が出て少しの間話せなかった。﹁正常な期聞 が延びてきたね﹂とS
先生も喜んでくださった。しかし ﹁次は年末前にきてくださいね﹂と締めくくられる。私 がいつも正月明けに再発するパターンを熟知しておられ るのだ。東京のH
先 生 も 、 ﹁ 一 年 後 ︵ 来 年 の 二 月 ︶ 、 気 を つけてくださいね﹂とおっしゃっていた。今年の二月に が ん 体内の癌に注入された樹状細胞︵白血球の一種︶の力が 一年後に衰えてくるからだ。しかし、抵抗力を蓄えてう まくやれば再発がだんだん遠のいていく。文字通り癌と 共 に 生 き る 免 疫 療 法 だ 。 いろいろなことが脳裏をよぎるが、﹁ま、いいか。今 元気に動けて、美味しいものが食べられるし﹂で、いつ ものようにさっさと心配事をしめくくる。 い ろ い ろ一
O
月 = 二 日 ︵ 土 曜 日 ︶ 朝、私は広大な O 大学構内を歩いていた。タ l タ ン チ ェックのような紅葉や澄んだ大気がうれしいはずなのだ が、心はずっと舌打ちをし続ける。 教員免許更新制をご存じだろうか。O
九年四月以降の 教 員 免 許 に 一0
年間の有効期限を設け、それ以前に免許 を取得した教員も一O
年毎に三0
時間の講習を受けるこ とが義務づけられる制度だ。不幸にも、私の生年、一O
歳下、ニO
歳下の生年のひとが大当たり、講習対象者と なった。しかも今月 J 民主党はこの制度を来年度限りで 廃止する方針を出した。つまり私たちは廃止予定の講習 を受けるハメになったのだ。 校長に﹁もし試験に落ちたらどうなるんですか﹂と尋 ねたら、﹁落ちない試験になってます。誠に・申し訳な い﹂と頭を下げた。それより受講料を返してほしいわと 思いながら、私はふてくされてO
大学構内を歩いていた。 一 一 一 日 間 の 講 義 の 中 で う れ し い 出 会 い が あ っ た 。 受 講 者 せ き の前で平気で何度も口を覆わず咳をしたり、テストのと き、部屋が暗いのに灯りをつけなかったり、﹁へつ?﹂ と思う教授もいたが、講習の必須領域をプロデュースし たO
教授と出会えたことは収穫だった。会場に受講者用 のコーヒー、茶、お菓子を自ら用意されたり、お弁当を一 受講者と二日間一緒に食べたり、心遣いが細やかだった。一O
先生は、モンスターベアレントに取り組み、全国中を一 かけめぐっておられる。﹁モンスターベアレント﹂対応一 ではなく、本来のひととひととの共同性をとりもどす取一 り組みで、先生の教え方や心遣いからその取り組みが本一 物 で あ る こ と が わ か っ た 。 一 先生は、﹁定年まで死ぬな。定年後も元気に﹂という言一 葉で講義を締めくくられた。以前、テレピの特集番組で、一 保護者との摩擦がエスカレートして、卒業式の後、橋か一 ら身投げした校長の悲しい事例が紹介されていたが、私一 のまわりには死亡例こそないが、休職、退職の例はわん一 さとある。﹁モンスター﹂と呼ばれる保護者も社会でサ− た た う っ せ き ンドパックのように叩かれ、欝積したものを教員に吐き一 出すのだろう。そう理解はするものの、そこから一歩も一 踏み出せないでいる私に大人の知恵を教え、教師同士の一 共同性がいかに大事かを熱心に説かれた。﹁人事評価は一 共同性をこわすものだと思います。教育改革はろくなこ一 とをしなかった﹂と先生は言い切る。久しぶりに元気を一 も ら っ た 。 先 生 の ご 活 躍 を 願 う 。 一 16鴨水記 マ ﹁ 歴 史 ﹂ 一 一 一 題 。 わ い き ょ く 女﹁歴史を歪曲しようとすると、国 民のためにはマイナスになることが大 きい﹂。十二月一目、東京地裁で沖縄 返還にともなう日米政府間の密約を証 言した、当時の外務省アメリカ局長吉 野文六さん︵引歳︶の記者会見での発 言です。国民は、歴代政府が﹁事実を い ん ぺ い 隠蔽し、歴史を偽造してきた﹂ことに 気づきながら、それを追及しなかった という意味では共犯関係にあったとい えます。それが唯一の原因ではないと しても、いまや﹁隠蔽と偽造﹂﹁糊塗 ぎ ま ん と欺踊﹂による道義的退廃はとどまる 所を知らず、暮らしと仕事などあらゆ る面に広がってしまった。﹁密約の公 式 暴 露 ﹂ が 、 こ の 国 の 見 失 っ た ﹁ 道 義 ﹂ の再発見につながるのかどうか。