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『ボヴァリー夫人』論

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移行と停滞──ヴラジーミル・ナボコフの

『ボヴァリー夫人』論

鈴木 聡

1. ロマンティックなお伽噺 2. 架空の場所、架空の年表 3. 層の主題と対位法的な方法 4. 流体システムとしての移行

1.ロマンティックなお伽噺

大学教師としてのヴラジーミル・ナボコフがもっとも力を注いだ担当科目は、1940年代 から1950年代にかけてウェルズリー大学とコーネル大学で開かれた、十九世紀から二十世 紀にかけてのロシア文学とヨーロッパ文学のいくつかの作品(長篇小説と中篇小説)を順次講 じる体裁のものであった。その概略は、ナボコフの草稿や覚え書きにもとづいてフレッドソン・

バワーズが編纂した、ロシア語小説1)と、英語小説、フランス語小説、ドイツ語小説2)という 二巻からなる講義録から窺い知ることができる。

1950年度よりコーネル大学で「文学三一一‐三一二、ヨーロッパ小説の巨匠たち」、「文 学三二五‐三二六、翻訳で読むロシア文学」などの新たな授業を開講することとなったナボコ フは、とくにイングランド人作家の選定にあたってエドマンド・ウィルソンに助言を仰いだ。

ウィルソンが推薦した作品とは、のちにナボコフが秋学期の最初とそのつぎに取りあげること を慣例とするようになる、ジェイン・オースティンの長篇小説『マンスフィールド・パーク』

(1814年)と、チャールズ・ディケンズの長篇小説『荒涼館』(1852‐53年)であっ た3)

もともとナボコフは、オースティンやディケンズにたいして格別の思い入れを有していたわ けではない。あまりよい印象をいだいていなかったと称しても差し支えないだろう。まったく 乗り気ではなかったものの、熱誠溢れるウィルソンの推薦の弁に促されるようにして、試みに 読んでみたところ、思いも寄らなかったほど興味津々たる作品であることが判明したというの が偽らざる経緯であった。それと同様にほぼ確実なのは、それら二篇の長篇小説が、「ヨーロッ パ小説」を主題とした授業の全体的な組み立てにかんして、ある種の見通しをナボコフに与え たのではないかということである。

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十九世紀前半のヨーロッパ文学という範疇に限定したうえでのこととはいえ、わずか二作品 を読むことにより文学史的パースペクティヴに到達し得る契機が得られるとすれば、まことに 効率がよいといわざるを得ないだろう。だがその点はさておくとして、少なくとも、作品の選 定にあたってナボコフ自身が意図したところが、十九世紀以降の長篇小説の技法の発達過程を 例示することにあったのはたしかである4)。そうした見地に立って、『マンスフィールド・パー ク』と『荒涼館』は、ナボコフがあらかじめ取りあげることを予定していたギュスターヴ・フ ローベールの長篇小説『ボヴァリー夫人──地方風俗』(1856年、1857年)5)の先触 れとして好適であると判断されたのではあるまいか。そのように推測することはけっして不合 理ではない。

いいかたを変えるならば、講義の構成上、もともと『ボヴァリー夫人』は枢要な作品のひと つとしての地位を約束されていたと察することができる。それは、『マンスフィールド・パー ク』や『荒涼館』とは異なり、ナボコフがかねてから親しんでいた作品でもあった6)。また彼は、

新規の授業にかんしてウィルソンに相談する目的で書かれた書簡(1950年四月十七日付)7) のなかで、「西ヨーロッパの虚構作品」の代表例として自分が想定しているものとは「カフカ、

フローベールならびにプルースト」であると明記している。この簡単なリストからは英語圏の 文学者の名が抜け落ちているものの8)、その点だけを除いて、ナボコフ本人の腹案は早い時期 から定まっていたのだと見てかまわないだろう。

『ボヴァリー夫人』を中心に据えて眺めてみるならば、この作品ととくにディケンズの作品 との微かな関連性にナボコフが関心を惹かれたという可能性もおおいにあり得るように感じ られてくる。偶然ながら、ディケンズとフローベールが同時期に、「百マイル」離れた土地 で原稿に取り組んでいたという伝記的事実には、ナボコフ自身が触れている(Nabokov 1980:

126)。ディケンズが『荒涼館』の執筆に携わった一年数箇月の期間(1851年から1853年)

は、創作のためルーアン郊外のクロワッセに隠遁したフローベールが『ボヴァリー夫人』の執 筆に要した数年の歳月(1851年から1856年)にくらべればかなり短いとはいえ、それ と完全にかさなっていた。しかも、1853年八月、『荒涼館』の原稿が完成を見た場所とは、ルー アンからさほど隔たっていない、ドーヴァー海峡沿岸のブーローニュ=シュル=メールだった のである。

物語の内容面に眼を向けるならば、『ボヴァリー夫人』と『荒涼館』というふたつの長篇小 説のどちらにおいても、秘密をかかえた妻と、そのことをまったく与り知ることのない夫との 関係(あるいは関係の破綻)が鍵をなしているという共通性があることははっきりしている。

逆説的な同時代性ということになるかもしれないが、両作品にあっては、登場人物の移動手段 として用いられるのは鉄道ではなく馬車──『ボヴァリー夫人』の場合は、「つばめ」と呼ば

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れる乗合馬車をはじめ、辻馬車、軽二輪馬車など──である。最尖端の文化とテクノロジーは、

いずれの作品にあってもあえて黙殺されている。いくらかアナクロニズムの気配もあるようだ が、それよりもむしろ、どちらのテクストも、現在から多少距離をおいた過去のある時点に焦 点をおいているのだと解釈するほうが正しいかもしれない。

いま述べたような『ボヴァリー夫人』と『荒涼館』の共通性あるいは類似性という話題は、

ナボコフの講義の受講者やその講義録の読者が多少思い浮かべたとしてもなんの不思議もない といってよい。しかしナボコフは、そのような余談めいた話題を一考だにしようとはしない。

二作品の比較ではなく、それぞれの作品の構造上、文体上の特質を解明することに力点がおか れているからである。そのような目的を念頭におくとき、英語で書かれた『マンスフィールド・

パーク』や『荒涼館』のような作品に引きくらべて、フランス語で書かれた『ボヴァリー夫人』

のような作品を合衆国の大学で講じることには不利と困難がどうしても付きまとわざるを得な かった。フランス語で書かれた作品のみならず、ドイツ語作品やロシア語作品の場合も同様で あったけれど、ナボコフの講義にあっては、当時、比較的入手しやすかった英語訳が使用され ることが通例だったのである。

原書ではなく主に翻訳を用いるというのは、いうまでもなく、学生の理解と便宜を優先させ た配慮にほかならない。そうはいっても、『ボヴァリー夫人』のような、みずからがその魅力 に通暁している作品の場合、授業で教える必要でもなかったならば、ナボコフ自身は、英語訳 の存在をことさら意識することはなかったに相違ない。『ボヴァリー夫人』の講義にあたって、

ナボコフは、エレノア・マルクス・エイヴリング9)による英語訳(1886年初版)を授業用 のテクストとして参照することとした。最初の英語訳であるこの翻訳の存在を彼に教えてくれ たウィルソンの示唆(1950年九月八日付書簡)10)を尊重してなされた選択であろう。しかし、

翻訳に依拠せざるを得ないという制約がいかに不本意なものであったかは、講義録の随所に滲 み出ているようである。

遺憾ながら、マルクス・エイヴリングによる翻訳は、ナボコフの考える水準には達していな かった。不正確な箇所が少なからず散見されたのだった。なかでもとりわけ重大な欠陥として 受けとめられたのが、半過去というフランス語特有の時制にたいする翻訳者の無理解であった とことは疑いない。半過去の機能についてナボコフは、マルセル・プルーストの古典的な論攷「フ ローベールの『文体』について」(1920年)をもおそらく参照しつつ、時間の継続性とともに、

出来事の反覆性や登場人物の倦怠感を表わすものとして、その意義を高く評価した。それがた んなる過去形で訳されてしまったのでは、作者の所期の目的は果たされないことになってしま う。フローベールにおける半過去の用法は、セミコロンのあとに「そして」(et)という接続 詞をおくという独特の慣習とも関連した、視覚的な細部を連続させつつ発展させてゆく「開示

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的な方法」(Nabokov 1980: 172)と並んで、ナボコフがフローベールの文体のもっとも重要な 特徴と考えるものなのだ。

既存の英語訳を参照してみたナボコフは、その他にも、フランス語の語義にかかわる微細な 誤りを見いだしている。講義のなかで彼が取りあげている例のひとつは、第一部第二章でシャ ルル・ボヴァリーが、のちに自分の妻となるエンマ(「ルオー嬢」)をはじめて眼にした場面で ある。「真ん中で分けた黒い髪は、左右いずれの鬢も一本一本の別がなくひと続きに見えるほ どなめらかで、分け目の細い筋が頭蓋の曲線どおりに軽くくぼんでいた。さらに髪はこめかみ にかけて波うちながら、耳たぶをわずかに見せて項にまわり、合わさって豊かな髷につかねて あった。こめかみのウエーヴなど、この田舎医者には生まれてはじめての見ものだった。頰は 薔薇色だった。」(Flaubert 2001: I. ii. 63)11) 

ナボコフは、この箇所が「すべての版」において正しく訳されていないことを慨嘆して、エ ンマの外見を正確に視覚化するためには正確な描写がどうしても必要となってくるのだと強く

訴える(Nabokov 1980: 134)。講義のなかでは、言及されている英語訳の訳者名が具体的に示

されることはない。ただ暗に匂わされているのは、マルクス・エイヴリング以外の翻訳もたし かめてみたという含みである。ナボコフがとくに問題視しているのは、「すべての翻訳者」が「耳 たぶ」(le bout de l’oreille)という語句を誤って「耳さき」(the tip of the ear)と訳している点 であった12)

さらにナボコフは、第三部第十一章の英語訳にも同様の過誤を発見している。この最終章の 最後のページで語られるのは、(かつてロドルフとエンマが逢い引きに利用した場所でもある)

庭の四阿のベンチに坐っていたシャルルが発作を起こし、急死するにいたる模様である。そこ では、死の直前にシャルルが眼にし、感じ取った情景が、シャルルの知覚を代行するように して描写される。「ぶどうの葉は砂利の上に影を描き、素そ け い馨の花はかおり、空は青く、咲き乱 れた百合(lis)のまわりに芫はんみょう菁(cantharides)が羽音を立てている。」(Flaubert 2001: III. xi.

446) この一連の描写のうち、花──ナボコフはなぜか百合ではなく「紫丁香花」(lilacs)と いう語に置き換えている──に集まる昆虫とは、英語訳の翻訳者たちが考えているような「丸

花蜂」(bumblebees)ではなく、「明るい緑色の甲虫」であるはずだとナボコフは苦言を呈し

ているのである(Nabokov 1980: 143)。

昆虫学者、鱗翅類学者としてのナボコフの一面からすれば、このような異議申し立ては提起 されるべくして提起されたものといえるようだ。ただし、翻訳者全般を「下劣、不誠実、無教 養」とまで決めつけるのは、いささか勇み足の恐れがあることを否めない。該当箇所を「丸花 蜂」と訳した翻訳(アラン・ラッセル訳)が存在することはたしかであるものの、マルクス・

エイヴリング訳では「スパニッシュ・フライ」(Spanish flies)13)となっているからである。こ

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の例についてナボコフは、まるで、なにごとにせよ中途半端な知識しかもたない薬剤師オメー 氏14)が半可通的に翻訳したかのようだと揶揄しているが、そこまで手厳しく非難するにはお よばなかったのではなかろうか。

自身のロシア語作品の英語訳をはじめとしてかずかずの訳業を遺したナボコフが、翻訳者の 努力そのものになんの意味をも認めなかったとは考えにくい。しかし彼は、自分以外の翻訳者 にたいする根本的な不信の念を払拭することができなかったからしい15)。外国語を解さない 読者のために翻訳がどうしても必要不可欠であるという事情は、ナボコフもじゅうぶんに承知 していたに違いない。だが、彼の心中を忖度するならば──おそらくは自分自身によるそれ や、バーナード・ギルバート・ガーニー訳によるニコラーイ・ゴーゴリの長篇小説『死せる魂』

(1842年)、フョードル・ドストエーフスキイの長篇小説『地下室の手記』(1864年)

その他を少数の例外として──翻訳を原文の忠実な代替物として位置づけるつもりなど微塵も なかったこともまた歴然としている。やむを得ず翻訳を教材として採用するさいにも、教師と してのナボコフは、それを安易に信用しすぎることなく、誤訳その他の陥穽にじゅぶん留意す ることにより、原文の真価を見きわめるための道具として活用できるようにすべきだと学生た ちを戒める途を選んだものと思えるのだ。

『ボヴァリー夫人』の細部に立ち入るまえにナボコフは、すでに『マンスフィールド・パーク』

と『荒涼館』というふたつの作品にかんする講義を受けてきた受講者たちにたいして、両作品 ともある程度関連するこの作品の基本的性格を簡潔明瞭に示しておこうとする。「この連続講 義に登場するすべてのお伽噺のなかで、フローベールの長篇小説『ボヴァリー夫人』はもっと もロマンティックなものだ。文体的には、それは詩が行なうと想定されていることを行なう散 文である。」(Nabokov 1980: 125) 

「お伽噺」というナボコフ特有の用語は、現実の社会状況と無関係に、自律的に成立してい る虚構作品をさすものとしていちおう説明づけておくことができよう。文学には「実際的な価 値」などありはしない。にもかかわらず、それは不朽の生命力を保ち得るのだ。そのことをナ ボコフは随所で主張してきたが、念には念を入れるようにして、ここで重ねて力説しているわ けである。それに加えて彼が、『ボヴァリー夫人』が『マンスフィールド・パーク』や『荒涼館』

より以上に「ロマンティック」なお伽噺であると性格づけているところにも留意すべきだろう。

『ボヴァリー夫人』が文学史上において自然主義文学として位置づけられることが通例となっ ている一般的状況を勘案するならば、これは、やや意表を突いた形容詞である。ナボコフが講 義のべつの箇所で補足した説明によれば、彼自身としては、「ロマンティック」という語を、「主 に文学に由来するピクチャレスクな可能性について思いに耽りがちな、夢みがちで、想像力に 富んだ心の習性を特徴とする」、あるいは「ロマン主義的というよりはむしろロマネスク」と

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いう意味合いで用いているつもりだとされる(Nabokov 1980: 132)。そのような特性は、なに にもまして中心的登場人物であるエンマの読書傾向と、それによって醸成された彼女の現実離 れした夢想や憧憬(ナボコフが「白日夢」と呼ぶもの)にあてはまるものであるようだ。

夢想癖とともにエンマの人間性をしるしづけているものとは、限度を知らない浪費癖である。

それは、ついにはボヴァリー家の家計を破綻させ、彼女を絶望の縁にまで追いこむところまで 悪化してゆく。みずからの内面を支配している因襲的、俗物的な価値観から離脱することので きないエンマを自暴自棄とも思える衝動へ、不道徳かつ非合法な恋情へと駆り立てる欲求が、

根本的にロマンティックな性格のものであるというアイロニーにナボコフは着目しているのだ ろう。

姦通そのものはなんらロマンティックではなく、「因襲的なものを超えようとするもっとも 因襲的な方法」(Nabokov 1980: 133)にすぎないけれども、エンマの属性として思い描かれた ロマンティックな資質は、彼女のふたりの愛人、レオン・デュピュイとロドルフ・ブーラン ジェの凡庸な感性にもある程度の感化と刺戟をおよぼさずにはおかない。しかしながら、じつ をいえば、このお伽噺には「心地よい逆説」が秘められている。「魅力も、頭脳も、教養もない」

凡人であるシャルルこそが、エンマが他の男性に求めても手に入れることができなかった「深 い、誠実な真心」を彼女に注ぐ存在であったのだ。にもかかわらず、その無償の愛をエンマは 一顧だにすることがなかったのである。

2.架空の場所、架空の年表

前置きのなかでナボコフが、『ボヴァリー夫人』の文体をさして「詩が行なうと想定されて いることを行なう散文」と評している点も銘記に価する。フローベールの考えによれば、優れ た散文は韻文と同様の稠密さを備えたもの、変化させられることのあり得ない、リズムを感じ させる、響き豊かなものとならなければならない16)。その点を強く意識したうえでのことで あろうが、ナボコフが、半過去や、セミコロンと接続詞の用いかた、「開示的な方法」(Nabokov

1980: 172)などにたいするフローベールの嗜好を軸としつつ、その文体の魅力を解き明かそう

としていることについては、すでに触れておいた17)

作品を理解するうえでもっとも肝要と考えられることがらにたいする注意を喚起したのに続 いてナボコフは、「フローベールがこのように論じてもらいたいと意図したとおりに」(Nabokov

1980: 126)『ボヴァリー夫人』を論じることを予告する。そのさいに彼が議論の根幹に据えよ

うとするものとは、構造(あるいは「運動」)、主題の系列、文体、詩、登場人物という五つの 事項である。そのそれぞれは相互に有機的に結び合わされていると見ておいたほうがよいだろ う。構造と呼ぶにせよ、主題と呼ぶにせよ、結局のところ、手法の問題に帰着するところも多

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い。念のために断わっておくならば、たとえば「構造」のように、ナボコフが独自の意味合い をこめた用語があることも見おとしてはならない。

『マンスフィールド・パーク』にかんする講義のために用意された覚え書きのなかでナボコ フが註記した用語法にしたがうならば、「構造」とは「書物の構成、ひとつの事件がもうひと つの事件を惹き起こすような出来事の展開、ひとつの主題からもうひとつの主題への推移、登 場人物たちを導き入れたり、新たな筋立ての複合体を開始したりするさい、またあるいは多種 多様な主題を連結させたり、長篇小説を進捗させるために用いたりするさいの抜け目のないや

りかた」(Nabokov 1980: 16)を意味している。その点を読者は記憶にとどめておいたほうが

よいだろう。

作品の分析に着手するにあたってナボコフは、やや無味乾燥な事実から切り出している。『マ ンスフィールド・パーク』にかんする講義のさいには、劈頭近くで「ジェイン・オースティン が四十八章に分けられた約十六万語からなる長篇小説を完成させるのに約二十八箇月を要した ということである」と述べられていた(Nabokov 1980: 9)。『ボヴァリー夫人』にかんする講 義では、書物としての『ボヴァリー夫人』が読者の眼に映じるときにもっともたやすく見極め られるに違いない、そのおおよその構成がまず略述される。「この長篇小説は、それぞれ十ペー ジほどの長さを有する三十五の章からなり、それぞれにルーアンとトスト、ヨンヴィル18)、そ してヨンヴィルからルーアンへと移ったあとで、さらにもう一度ヨンヴィルを舞台とする三部 に分けられている。北フランスに位置する大聖堂のある町ルーアンを除いて、その他の場所は すべて空想上のものである。」

じっさいにはルーアン以外にも実在の地名は登場する。フローベールは、現実とまったく 相容れない仮想空間をテクスト上に投影したわけでなく、実在する町か村をモデルとしつつ、

それらにかりそめの名称を賦与したにすぎないとする見かたももちろん可能となるはずだ19)。 しかしながら、ナボコフのいう「お伽噺」の設定としてとらえるならば、現実の町と架空の町(あ るいは村)が隣り合うように配置された想像上の地勢がいかなる意味を帯びたものであるかは おのずと明らかであるように思える。まことしやかさという印象を読者に与えるために、虚構 は現実に寄生し、現実を擬態することもあり得るという点こそが肝腎なのだ20)。虚構はまた、「そ れ自体の論理、それ自体の約束事、それ自体の偶然の一致」(Nabokov 1980: 146)を第一義と して奉じるがゆえに、現実そのものとはけっして合致しない。むしろ奇妙な齟齬や矛楯が生じ させることもしばしばなのである。

ナボコフにいわせるならば、『マンスフィールド・パーク』以降、彼が取りあげてきたお伽 噺はいずれも「特定の歴史的枠組み」に緩やかに適合するよう作者によって工夫されたもので ある。そこにあっては、いわゆる社会の動きのようなものは入念に排除される。オースティン

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の作品のうちにナポレオン戦争が影を落とすことがなく、ディケンズの作品のうちで選挙法改 正や救貧法改正が話題となることはない。それと同様、ナボコフが「きわめてフローベール的

な人物」(Nabokov 1980: 146)と呼ぶ国王ルイ・フィリップの治世を背景としているはずの『ボ

ヴァリー夫人』のうちにあって、1830年の七月革命や1848年の二月革命がいささかで も仄めかされる機会は生じ得ないのだ。

『マンスフィールド・パーク』の講義にあたってナボコフは、本文の精緻な読解にもとづく 年表(1781年にはじまる三十年間にわたるもの)を作成した。作品中で具体的な日付とし て現われるのは、女性主人公であるファニー・プライスのために彼女の後見人であるサー・ト マス・バートラムが舞踏会を催すこととした十二月二十二日だけである。その日が木曜日とさ れていることから、作者が参考にしているものが1808年のカレンダーであることが導き出 される。このデータとその前後における歳月の推移にかかわる記述を丹念に拾い集めることに より、主要な出来事の生じた時期が特定されるわけである。

いっぽう『荒涼館』の場合は、『マンスフィールド・パーク』とは異なって、日付がいっさ い記されていないところに特徴がある。第三章で記述される、エスタ・サマソンがグリーンリー フの寄宿学校で過ごした「幸福で、平穏な六年間」、最終章で記述される、アラン・ウッドコー トと結婚したのち、彼女がかつての後見人ジョン・ジャーンダイスから贈られたヨークシャー の屋敷(新たな「荒涼館」)で暮らしはじめてからの七年間のように、物語の空白部分として 時間の経過が示されているのみである。だが、テクストの細部(司法制度、慈善事業、交通機 関、照明設備、君主の性別などへの言及)から判断する限り、物語の時代設定は、創作年代で ある1850年代ではなく、それより以前であると考えられる。その点にかんしては、べつの 論文で若干考察を行なったことがある。

『ボヴァリー夫人』の場合はどうであろうか。史実との直接的なかかわりこそもたないものの、

ナボコフも論じているとおり、物語の筋立ての大部分が、1830年代と1840年代に属し ていることはまちがいなさそうだ。といっても、彼がそのように推測した根拠自体が明確に示 されているわけではない。しかし、なにを根拠としたかは容易に察しがつくはずだと確言して おいてよかろう。一般の読者のだれしもが試みに行ない得るように、『ボヴァリー夫人』の本 文によって与えられたいくつかの断片的な情報にもとづいて、ナボコフは年代の推定を行なっ たに違いないのである。

本文中には、はっきりと年が示されている箇所もある。まずひとつには、シャルルの父であ るシャルル=ドニ=バルトロメ・ボヴァリーが、徴兵関係の事件に連座して軍医補を免職に なったのは「1812年ごろ」であったとされる(Flaubert 2001: I. i. 50)。そのころの彼の年 齢は不明であるが、さまざまな事業に手を出し、失敗を重ねたあげく、彼が四十五歳のときに

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「コー地方とピカルディー州との境の村」(Flaubert 2001: I. i. 51)に隠遁し、物語の終盤に差 しかかったあたりで、五十八歳で亡くなった(Flaubert 2001: III. ii. 334)こともわかっている。

1812年からどれほどの歳月が経過しているかは定かでない。しかし、ヨンヴィルにいたる 交通の便にかんして説明するくだりで、「1835年までは、ヨンヴィルへ通じる道といって も車馬の往来ができるようなのは一本もなかった」(Flaubert 2001: I. i. 47)と記されているこ とから、物語の主要部分は1830年代後半から40年代にかけて生起しているものと判断し てよいであろう21)

それ以外にも、細かく見てみれば、「コレラが流行った年」(Flaubert 2001: II. i. 128)22)とい う表現が地の文に含まれているし、主に『ルーアンの燈火』紙の通信員でもある薬剤師オメー の社会的な関心事として、「ポーランドの難民救済資金」、「リヨン市水害義援金」(Flaubert

2001: II. i. 130)23)などが話にもち出される場面がある。また、名声を得、レジオン・ドヌール

勲章を授けられることを切望しているオメーの日々の刻苦勉励ぶりにかんして、「彼は『ヨン ヴィル地区の一般統計、ならびに気候学的考察』をものし、ついで統計学を通り越して哲学に 向かい、社会問題、貧民層の善導教化、養魚法、弾性ゴム、鉄道など諸般の大問題を考究した」

(Flaubert 2001: III. xi. 441)と語られていることからも窺えるとおり、『ボヴァリー夫人』のテ

クストは、同時代の風俗や社会背景にたいして完全に背を向けているわけではなく、それらを いちおうの遠景とすることを選んでいるようなのだ。

このように見てくるとき、『マンスフィールド・パーク』の場合と同じく、『ボヴァリー夫人』

のうちにあっても、一箇所だけ日付が記されていることが注目される。それが年代推定の要と なることはまちがいない。第二部第十二章で、エンマがロドルフと駆け落ちすることを約束し ていた「九月四日の月曜日」(Flaubert 2001: II. xii. 273)という箇所がそれに該当する。調べ てみて簡単に判明するとおり、それは(1837年や1848年という可能性もけっして皆無 ではなかろうが)1843年のある一日ということになる。

スティーヴン・ヒースは、「『ボヴァリー夫人』とバルザックの長篇小説の違いのひとつは、

日付ならびにその他の明白な歴史的指標の欠如である」と指摘する24)。フローベールは、草 稿の各段階(「プランとセナリオ」と呼ばれるもの)において年代を明示する語句を徐々に削 除していった。それは、時が移り変わってゆくことよりも、発展も変化も生じず、恒常的な状 態がいつまでも持続してゆくことに重きをおこうとする、作者の意図からきた必然的な選択で あるとヒースは考えているのだ。

フローベールの推敲がいかに徹底したものであったかについて、ここで贅言を述べ立てるに はおよぶまい。ひとつだけ例を挙げておくならば、もっとも早い時期の下書きを見ると、物語 のはじまる時点におけるシャルルの年齢が「三十三歳」で、学校にはいるまえ、田舎で過ごし

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た期間は「十五歳」まで続いたと記載されていたことがわかる25)。作者が登場人物のひとと なりを具体的に思い浮かべる助けとする便宜のためであろうが、そのような初期の設定をも含 めて、時間や歳月にかかわる表現が本文から極力省かれるにいたったのは、ここに呈示されて いるものが時の移ろいの対立物(すなわち停滞)であるという理由だけでなく、すべてを読者 の想像力に委ねるという目的にも由来していると考えることができるだろう。

そうした方針がかりにあったとして、それにもかかわらず、「九月四日の月曜日」という日 付が唯一残されたのはなぜか。おそらくそれは、ロドルフとの約束がエンマの生涯における重 大事であることを強調するためであったと考えてよいかもしれない。ともあれ、この日付を中 心とすることにより、フローベールが『ボヴァリー夫人』の執筆途上で脳裡に概略を思い浮か べていたであろう年表のようなものを再構築する試みが可能となることはたしかである。たと えば、ヒースが説くところによると、シャルルがエンマと結婚したのは1838年(あるいは 1839年)、エンマとロドルフとの関係は1842年から1843年のあいだ、レオンとの 関係は1844年から1846年のあいだ、エンマが服毒自殺するのは1846年三月、シャ ルルが急死するのも同じ年、ボヴァリー夫妻の娘ベルトが綿糸工場で働くようになり、オメー が待望久しいレジオン・ドヌール勲章を授与された現在とは、作品の脱稿の年、1856年と いうことになる26)

それと一致している点もあるものの、ナボコフの推定に含まれる範囲はもう少し広くなって いる。「シャルル・ボヴァリーは、私の計算によれば、1815年に生まれ、1828年に学 校にはいり、1835年に(博士より一段階下位にあたる)『衛生官』27)となり、同年、最初 の妻となる未亡人デュピックとトストで結婚、そこで医院を開業する。妻を亡くしたのちに彼 は、1838年、エンマ・ルオー(この長篇小説の女性主人公)と再婚して、1840年、ヨ ンヴィルというべつの町に引っ越し、1846年、後妻を亡くし、1847年、三十二歳で亡 くなった。」(Nabokov 1980: 127)

第一部第一章で、匿名の語り手も生徒のひとりであったルーアンの中学校の二年次に編入さ れたとき、シャルルは「十五歳ぐらい」に見え(Flaubert 2001: I. i. 47)、じっさい、彼の十二 歳以降の出来事のあらましから計算すると、少なくとも十五歳を超えていたことは確実である ようだ(Flaubert 2001: I. i. 53-54)。また、ナボコフの推定にしたがうならば、最終章で語られる、

エンマの死という痛手からついに立ち直ることのできなかったシャルルの悲嘆は一年以上続い たことになる。だが、彼が亡くなったのがエンマが亡くなった翌年の夏であったように読むこ とははたして妥当であろうか。それらの事項にかんしては議論が分かれる可能性がある。とは いえ、その他の年代についてはことさら異を唱えるにおよばないようである。

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3.層の主題と対位法的な方法

以上のようにして「書物の年譜」を「カプセル」のうちに要約し終えたところで、ナボコフは「わ れわれの最初の主題の系列」(Nabokov 1980: 128)へと話を移そうとする。すなわちそれは、

第一部第一章の冒頭に近いあたりで早くも読者が出会うことになる「層あるいはレイヤー・ケー キの主題」にほかならない。例として取りあげられるのは、校長が自習室に連れてきた「新入生」

シャルルの帽子である。「その帽子というのが、毛皮の軽騎兵帽とポーランド風槍騎兵帽と山 高帽と川獺皮の庇帽とナイト・キャップの諸要素が多少とも見いだされるがそのいずれでない という混合様式の帽子であり、言うなれば、その黙然たる醜さが白痴の顔のような深刻な表情 をたたえているといったたぐいの、あのみじめな珍物の一種だった。」(Flaubert 2001: I. i. 48) そのシャルルの帽子にかんしてフローベールはさらに、微視的ともいえるほどの詳細な説明 を付け加える。「それは鯨骨を芯に張った中ぶくれの楕円形で、まずいちばん下には三重の腸 詰状丸縁がぐるりをとりまき、つぎにビロードの菱形模様の赤糸の筋をあいだにはさんで兎の 毛の菱形模様と交互にならび、それから上は袋のような形にふくらんで、その天辺には刺繍糸 でごてごてと一面に縫い取りをほどこした多角形の厚紙があって、そこからやけに長っ細いひ もがたれて、その先に飾り総めかして金糸を撚った小さな十字架がぶら下がっていた。帽子は 真新しく、庇が光っていた。」

ナボコフは、この帽子と他の例を引き比べてみることを提案する。彼が着目するのは、シャ ルルの帽子と、第一部第四章に現われる「デコレーション・ケーキ」(pièce montée)28)(Flaubert 2001: I. iv. 76)との形態的類似29)である。「主題の系列」といいつつも、問題となっているのはじっ さいにはイメージの系列ないしは持続であるようだが、ナボコフが重きをおいているのは、重 層的な事物のイメージばかりでなく、記述が積み重ねられ、畳み掛けられてゆくという意味で の重層性が、『ボヴァリー夫人』というテクストの全篇におよぶ明示的な特徴となっている点 なのだ。

第一部第五章におけるトストの家(シャルルが前妻を亡くしたのちひとり暮らしをしていた 家)の描写(Flaubert 2001: I. v. 80-81)が、典型的な例として取りあげられ、エンマの死後にシャ ルルが記す埋葬の指示書(第三部第九章)もまた一例とされる。そのなかで、彼が婚礼衣裳を 着せたエンマのために特別に誂えることを求めた棺自体も「柏と、マホガニーと、鉛」(Flaubert

2001: III. ix. 422)という三層をなしている。「そこに層の主題のすべてが集合してくる」とナ

ボコフはいうのである(Nabokov 1980: 132)。

ナボコフの議論にあっては、シャルルの帽子を、帽子以外のなにかを比喩的に表象したもの であるかのごとく深読みするような選択肢は考えに入れられることがない。それは、他のと ころでも一貫している、いかにも彼らしい姿勢といえるだろう。しかしながら、批評史的に

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1950年代初頭という時代を振り返るとともに、批評家たちがその帽子のうちに読み取って きた幾多のことがら──シャルルの知的能力、彼を取り巻く世界、父から息子へともちこされ る道徳的退行など──に思いを馳せてみるならば、書かれた事物や事象にそれ以上なにも付け 加えようとしないナボコフの断固たる批評態度は、むしろ劃期的であるようにも思えてくる。

ジョナサン・カラーが示唆しているとおり30)、「バルザック的な様式」で書き出されたこの 一節においてめざされていることとは、じつは「象徴的読解のパロディを喚起すること」であっ たかもしれないのだ。象徴的に読めてしまうということ自体が、作者によってあらかじめ仕掛 けられた罠であるとするならば、その罠に見す見す嵌りこんでしまった批評家たちは、ただ昏 迷の度合いを深めてみただけであったことになろう。そもそも、「鯨骨」や「兎の毛」のような、

くだんの帽子を構成している雑多な素材にかんしては、なにかの象徴であるかのように読む必 要などまったくない。あくまでも即物的に対象に接近する立場から、個々の素材について、純 然たる文化史的ないしは民俗学的な解釈の可能性を探るということもできそうだ。けれども、

それもまたナボコフが絶対に採用しようとしない議論の方向である。

作品論の観点から見るならば、もちろん、トニー・タナーが行なっているように、帽子の描 写があえて異種混淆的な記号の集積──「本来的に完全に異質であった諸要素の均質化」、「そ の記号の不条理な雑多さと、視覚化不可能なまでの過剰さ」31)──として読者に与えられて いる点を重視し、細部にわたって緻密に分析するという手順も顧みられてよいはずだ。そのよ うな描写あるいは記号の過剰、氾濫という側面を等閑に付しているという弱点は否めないとは いえ、取りあえず、ナボコフの講義にあっては、タナーが『ボヴァリー夫人』のテクストのう ちに充満していると見なす「二重化、三重化、反覆、複製」32)が、「層の主題」として浮上し てきていると考えることができるのではないだろうか。

ナボコフは触れていない点だが、「層の主題」との関連からいえば、『ボヴァリー夫人』のう ちに三という数字が頻出することも見逃せないと思われる。作品全体の三部構成、「ボヴァリー 夫人」と呼ばれる三人の女性(シャルルの母、シャルルの前妻であるエロイーズ、後妻である エンマ)、エンマの周囲の三人の男性(シャルル、ロドルフ、レオン)──彼らはいずれも、

彼女が現在の環境から離脱する契機を与えてくれるかもしれないという期待を寄せる存在であ る33)──などがもっとも眼につきやすい。第三部第七章から第八章にかけてエンマが「三千 フラン」の金策に三度失敗することなども一例としておいてよいだろう。

エンマの棺が三重に封印されるようシャルルによって指図されたことはすでに触れた。彼女 の死が頂点となる第三部では四人の人物が亡くなるが、そのうち三人(エンマ、シャルル、ボ ヴァリー老夫人)の死は、もっとも長く見積もったとしても二年足らずのうちに生じた出来事 である。エンマの臨終の床には、シャルルとカニヴェ先生とラリヴィエール博士という三人の

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医者が付き添っていた。エンマの死が語られるのは第三部第八章であり、そのあとには三つの 章(第九章、第十章、第十一章)が続く。この第三部の末尾に近いあたりで、とくに三という 数字が執拗に繰り返されているという事実に読者は気づくであろう。

「啓蒙思想家」オメーは、三冊の本を携えてエンマの通夜にやってくる(Flaubert 2001: III.

ix. 423)。手紙で娘の死を知らされたエンマの父、ルオー爺さんは、ヨンヴィルへ向かう道中、

明け方に一本の木で「三羽の黒い雌鳥」(Flaubert 2001: III. x. 430)が眠っているという凶兆を 目の当たりにして、「三かさねの上祭服」を教会に寄進することを心に誓う。途中のカンカン ポワという村で彼はコーヒーを三杯飲む。エンマの葬儀が執り行なわれる教会では、「三人の 聖歌手」(Flaubert 2001: III. x. 431)が詩篇を詠唱し、エンマの棺は、「両側に三人ずつ」(Flaubert 2001: III. x. 433)六人の男たちによって担われる。

埋葬が終わったあと、墓地からボヴァリー家に帰ってくるのは、シャルル、ルオー爺さん、

ボヴァリー老夫人という三人である(Flaubert 2001: III. x. 435)。エンマが残した借財を精算し ようとしたシャルルにたいして、貸本屋は「三年分の購読料」(Flaubert 2001: III. xi. 437)を 請求する。シャルルの死後のヨンヴィルでは、「三人の医者」(Flaubert 2001: III. xi. 446)が相 次いで開業したが、いずれも長続きしなかった。「オメー氏が待ちかまえていて、ひねりつぶ すからである。」オメーの巧みな口舌に幻惑され、彼の医学知識を盲信するヨンヴィルの住民 たちは、医者の診断よりも薬剤師の処方のほうを頼りにしたのだった34)

テクスト内で三という数字が多用されていることにかんしては、作者のなんらかの意図が働 いていると見てもよさそうである。といっても、その基底にあるものとは、民話やお伽噺のた ぐいにおける物語の構成単位のひとつとしての意味合いではなく、ましてや数秘学的なそれな どではない。類似性もしくは共通性によってしるしづけられる複数の事物、複数の事象の偶発 的な併存や継起という様相が、テクストの全体を貫いていることを読者に理解しやすい形で示 す目的で、指標となるひとつの数字を繰り返す手法がとられていると見たほうがよいだろう。

いうまでもなく、この繰り返しのうちにあっては、いわゆる三角関係の場合のように、三者 のいずれかが当事者としての機能を喪失し排除されかねないという、不安定さが含意されるこ とも起こり得る。「ボヴァリー夫人」と呼ばれる女性は、テクスト上では三人存在するが、少 なくともそのうちのひとりは、他のふたりと同一の時空に共存することが絶対にない。時とし ては、三つめの項目があからさまに余剰であるという事態も生じる。第二部第八章の農事共進 会の場面で、エンマを役場の二階の「会議室」(Flaubert 2001: II. viii. 208)に誘ったロドルフは、

ふたりで坐るために三脚の「スツール」(tabourets)を窓際に運んで並べるのだ35)

この空間においては、テクスト上、それぞれが交互に挿入される関係におかれ、並列化され た三つの声が、ほぼ同時に聞き取られるものと想定される。すなわち、ロドルフとエンマの声、

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そして広場で演説しているリューヴァン参事官の声である。華々しい修辞を駆使したその長広 舌は、内容空疎で、本筋とは無関係なもののように映るかもしれない。だが、ナボコフも指摘 するとおり(Nabokov 1980: 157)、ジャーナリストや政治家の雄弁によく見られるような常套 句を丹念に拾い集めたうえで、精緻に組み立てあげられた「新聞口調」が、ロドルフとエンマ のあいだで交わされる「ロマンス口調」と組み合わされ、対比されるところにこそ、フローベー ルの文体的達成の妙味があるといえる。「フローベールは、自分でもそう発言したことがある ように、色のうえに色を塗り重ねるのである。」

取りあつかわれる対象とそれらを取りあつかうために動員される語彙がいかに卑俗であろう と、陳腐であろうと、すべての要素を網羅して、効果的に配置し、徹底的に磨きあげ、洗練さ れた律動や生彩すらもたらすことができるというのは、フローベールが『ボヴァリー夫人』の 随所で遺憾なく発揮している最大の強みであり、その文学的創造行為の真骨頂でもある。他の ところで、オメーの俗悪さという話題に関連してナボコフが述べていることは、ここでもあて はまるようだ。「題材は下品で不快であるかもしれない。その表現のほうは藝術的に調整され、

均衡を保っている。これが文体なのだ。これが藝術なのだ。これこそが書物のうちにあって真 に重要な唯一のことなのだ。」(Nabokov 1980: 138)

リューヴァン氏の演説が締め括りを迎えると、第三の声は、審査委員長を務めるドロズレス 氏のものへと切り替わる。「言葉の華美の点ではおそらく参事官のそれに敵しなかったとはい え、彼の演説はいっそう実証的な文体の特質、つまりいっそう専門的な知識と高所に立った見 解とによって光っていた。かくて、そこには政府の讃美がより少なく、そのかわり宗教と農業 がより多くの内容を占めていた。宗教と農業の相互関係が論ぜられ、また両者がどのようにし て、つねに文明に寄与してきたかが説かれた。」(Flaubert 2001: II. viii. 215-16)この第八章の末 尾では、共進会の祝賀行事の模様を麗々しく報告する、オメーが『ルーアンの燈火』紙に寄稿 した記事が紹介されるので、この章の全体をとおして見れば、誇張と我田引水と美辞麗句を特 徴とした──外見は重厚長大を装いながら、実質においては軽佻浮薄な──言説の三つの例が 列挙されていることになる。

執筆のために少なくとも三箇月を要した農業共進会の章については、フローベール自身、す べてのものがひとつの巨大な咆哮となって響くのを読者が耳にすることができるような、「交 響曲の効果」36)を有するものと自負していた。この章は、ジェイムズ・ジョイスに「絶大な影響」

をおよぼしたとナボコフは考えている。「表面的な革新があるとはいえ、ジョイスはフローベー ルから一歩も先に前進してはいない。」(Nabokov 1980: 160)この章にナボコフが重点をおいて いるのは、そこで彼のいう「対位法的な方法」(Nabokov 1980: 147)がもっとも大々的な、眼 醒ましい成果を挙げているからでもあるだろう。

(15)

ナボコフによれば、「対位法的な方法」とは、「ふたつないしそれ以上の会話や思考の流れの 並行的な書きこみと割りこみの方法」である。それによってフローベールは、同じひとつの場 面のなかで複数の事態を進行させるとともに、それぞれの登場人物たちの視線や思惑を絡み合 わせることができる。そればかりでなく、さらには、ひとつの場面に複数の意味を帯びさせ、

ひとつの出来事にたいする複数の見かた、互いに相容れることのあり得ない複数の価値観をも 一点に集約させることができる。そうした手法を縦横に駆使することにより、一見したところ、

取り立ててなにも起こっていないかのような日常の背後に、不穏な波瀾の予兆を匂わせること も可能となるわけである。

4.流体システムとしての移行

このように眺めてみると、ナボコフのいう「層の主題」は、たんに層状をなした事物のイメー ジ(帽子、ケーキなど)のような、重層的な形象とその記述のみにかかわるものではないと見 なすべき必然性が生じてくる。講義のなかでは「対位法的な方法」などとは別個の事項として 取りあつかわれているものの、「層の主題」は、それ自体が重層的、多層的な意味の広がりを 有するものとして、作品の構造、主題、文体などあらゆる側面にわたって、なんらかの形で波 及しているものとして提起されたほうが、より適切であったようにも思えるのだ。それはとり もなおさず、『ボヴァリー夫人』のテクスト自体が多層的、多面的、多声的な構造からなって いるという事実の確認につながってくることだろう。

その構造をなりたたせている方法の実験性には、まことに瞠目すべきものがある。税金の納 付を猶予してくれるよう懇願するため、エンマが収税吏のビネーを訪ねる箇所(第三部第七章)

では、ふたつの場面が近景と遠景として組み合わされると同時に、両者の関係が自在に逆転し 得るものとなる。理屈のうえからいえば、主眼がおかれるべきは、ビネーが、趣味である「例 のなんとも名状しがたい象牙細工の一つ」(Flaubert 2001: III. vii. 396)を木材で模造する作業

──轆轤を使った工作──に熱中している屋根裏部屋であるはずだ。しかしここでは、エンマ の行動を不審に思い、附近のべつの家の屋根裏から監視しているチュヴァッシュ夫人とカロン 夫人というふたりの女性の視線こそが主体となっている。エンマとビネーの会話は聞き取れず、

観察者の推測に委ねられるのだ。さらにその外部に読者の視点が組みこまれることから、ここ では、紋章学でいう紋中紋を思わせる構造が実体化していることになる。

特定の場面においてなにが視点となっているか、なにが焦点となっているかを厳密に把握す ることは、フローベールのテクストを読み解くうえで欠かせない鍵となる手順であるようだ。

「対位法的な方法」の最初の例としてナボコフが挙げるのは、第二部第二章37)で、ボヴァリー 夫妻がヨンヴィルに到着した日、旅館「金獅子」で、エンマと公証人ギヨーマンの書記レオン

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がはじめて出会う場面である。そこでは、煖炉の火に足をかざすエンマの姿がレオンの視線に よってとらえられ、少し離れたところからそれを見つめる「金髪の青年」(un jeune homme à chevelure blonde)(Flaubert 2001: II. ii. 136)、すなわちレオンの姿がエンマの視線によってと らえ返される。

べつの箇所において、レオンの髪の色をさす目的で用いられる形容詞が異なっている──「栗 色の髪の毛」([Ses] cheveux châtains)(Flaubert 2001: II. iii. 153)──ことからも判明すると おり、われわれが読んだものが客観的、中立的な描写であったという保証は、文脈からはつい に与えられることがない。テクスト上に布置された視覚情報がその場限りの一過性のものにす ぎず、光源の明るさやその色合いに応じて容易に変動し得るものかもしれないという可能性は つねに付きまとう。そこには、ひとの知覚の危うさ、あやふやさ自体が反映しているはずである。

いまだ経験に乏しかった当時のレオンの眼をとおして定着されたエンマの印象は、ラ・ユ シェットの農場主ロドルフ(三十四歳の漁色家である)の眼にはじめて映じたときの彼女の印

象(Flaubert 2001: II. vii. 193)と対置され対比されて、微妙な擦れを生じさせているというこ

ともできる38)。同じひとりの女性をさし示すために、「ボヴァリー夫人」と「エンマ」という 二種類の呼称が用いられ、レオンやロドルフの名に敬称が付されたり、付されなかったりする ことについても、複数の視点の同時並行的、対位法的な共存、ならびにその揺らぎを証すもの として読むことはじゅうぶんに可能であろう。

「対位法的な方法」が時として設定そのものまでにおよぶ大規模なものとなり得ることは、

すでに取りあげた農業共進会の挿話が遺憾なく例証している。もうひとつの例としては、第二 部第十五章におけるサルヴァトーレ・カンマラーノ台本、ガエターノ・ドニゼッティ作曲の歌 劇『ランメルモールのルチア』(1835年)39)の公演にかかわる挿話、とりわけ、それにた いするエンマ、シャルル、レオン40)三者三様の反応が挙げられるだろう。ロドルフとの別離 以来、数箇月病床に臥していた期間を挟んでもなお傷心から立ちなおっていないエンマは、歌 劇の女性主人公ルチア(フランス語版ではリュシー)の運命と自分のそれを重ね合わせている。

しかし、フローベールが台本に則して筋を忠実にたどり、アリアやカバレッタやカヴァティー ナ、第二幕幕切れの有名な六重唱などの聞かせどころを丹念に押さえているのにたいして、エ ンマは、かつて『ランメルモールのルチア』の原作、ウォルター・スコットの長篇小説『ラマー ムアの花嫁』(1819年)を愛読したという記憶を、劇場に満ちる音楽と、舞台上で繰り広 げられる物語に易々と接続させるにすぎない。彼女は、物語のなかでは破滅に終わることを 運命づけられているロマンティックな愛という夢想を醒めた眼で見放そうとしながらも、その 甘美さからなかなか逃れることができず、自己と女性主人公との安直な一体化に自己陶酔的に 舞いもどることしかできないのだ。

(17)

ルチアとアルトゥーロ(フランス語版ではアルチュール)の結婚の祝宴に乱入するエドガル ド(フランス語版ではエドガール)41)の熱烈さ、その胸のうちに貯えられているに相違ない「無 限の愛」(Flaubert 2001: II. xv. 305)に心打たれたエンマが、その直後、幕間に出会ったレオンを、

理想的な恋人の代用品のように思いこんでしまうのは、彼女がけっして脱却することのできな い夢想(あるいは白日夢)の延長上で生じた偶発事ということになろう。かつての恋慕の情が 再燃するのも、『ランメルモールのルチア』の女性主人公と同様の「狂気に似た思い」(Flaubert

2001: II. xv. 306)が彼女をとらえていたからこそであった。時を同じくして、エンマは歌劇に

たいする興味を急激に失ってしまい、彼女とシャルルとレオンの三人は、途中で席を立って劇 場を去る次第となる。かくして、錯雑した諸要素は、エンマの身勝手な偏執を焦点とし、そこ に収斂するにいたるのである。

ナボコフは、いま触れた第二部第十五章に続くふたつの章、第三部第一章(ルーアンのノー トル=ダム大聖堂を訪れたあとエンマとレオンは辻馬車で当てもなく町中を彷徨する)と第二 章(ルーアンからヨンヴィルにもどってきたエンマはオメーの薬局でシャルルの父の訃報に接 する)にも、引き続き「対位法的な方法」の働きを見て取っている。大聖堂の守衛や辻馬車の 御者が、ふたりきりで時を過ごそうとするエンマとレオンのあいだに介入することを許されな い第三者として、疎外された傍観者としての立場に追いやられていることは明白であろう。

エンマが女中のフェリシテから伝言を聞いて薬局を訪れたちょうどそのときは、オメーが ジュスタンを叱っているさなかであった。ジャムを煮る鍋を買ってくるよう命じられたのに、

無精したジュスタンは、ふだんオメーが薬品の調合用に使っている鍋を取ってこようとしたの だった。それは、オメーが「階上倉庫」(Flaubert 2001: III. ii. 329)と呼ぶ屋根裏部屋の棚のう えにある砒素の薬瓶のすぐにそばにおかれていた。憤慨のあまりオメーは、エンマに伝えるべ き重大事があったにもかかわらず、肝腎の用件を忘れてしまう。

シャルルの父の死を知って、凝りに凝った悔やみの言葉を練りあげていたオメーの準備は無 駄に終わる。訃報をエンマに伝えるのは、オメー夫人の役まわりとなるのである。エンマはこ のときほとんど発言していない。だが、この場面において彼女が砒素の保管場所と鍵の所在を 知ったということが、のちのち重要な伏線となってくるはずである。このような箇所において われわれは、複数の意味、複数の解釈の可能性のうちどれかひとつを安易に見捨てるようなこ とがあってはならないのだ。

個々の挿話、個々の場面の組み立ての複雑さだけでなく、個々の章の構成に認められる複雑 さもまた、検討してみるに価しよう。第三部第一章のように、複数の場面、複数の挿話からな る構成は、『ボヴァリー夫人』にあってはむしろ常態となっている。第一部第一章のように、

三十年間ほどの出来事がわずかのページのうちに縮約されることすらあり得るのだ。ナボコフ

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が「構造的な移行」(Nabokov 1980: 151)と呼ぶこの手法は、「対位法的な方法」と並んで彼 が重要視しているフローベールのテクストの特質である。事件らしい事件、筋書きらしい筋書 きがかりに存在せず、ひたすら退屈な日常、代わり映えのしない停滞のみが続くとしても、精 妙に調整された文体によって読者の興味を惹きつけることは可能だと信じるフローベールは、

劇的な出来事ではなく、個々の叙述、ならびにそれらの配置と連鎖、それらのあいだにもたら される微細な変化に心を砕いているのだ42)

第一部第一章以外にナボコフが例として取りあげるのは、第二部第六章で、レオンが法律の 勉強のためパリに遊学する決意を固め、出立の計画を練る中盤までの箇所である。この章で生 起している「移行の構造的蛇行」にナボコフは着目している。そこでは、教会を訪れ、ブール ニジャン司祭と話をしようとして目的を果たすことができなかったエンマが、苛立っていたせ いで、娘のベルトを邪険にあつかい怪我をさせてしまう挿話、シャルルがレオンに洩らす自分 の肖像写真を妻に贈りたいという希望、最近レオンが元気がないことをめぐる「金獅子」の女 将ルフランソワと収税吏ビネーの懸念、エンマとの関係がいっこうに進展せず、「相も変わら ぬ生活の繰りかえし」(Flaubert 2001: II. vi. 180)に倦み疲れたレオンが胸中にかかえた虚無感 などを経て、パリにたいする彼の憧憬と、変化を求めようとする決断、母の承諾を得るための 苦労などというように、焦点をおかれる登場人物も中心的話題も順次移り変わってゆく。

その他にナボコフが「周到な移行」(Nabokov 1980: 152)の例として取りあげるものとし ては、エンマとロドルフのはじめての出会いにいたる経緯が語られる第二部第七章がある43)。 そこでは、レオンとの別離も間接的な原因となっているらしいエンマの憔悴、それを心配する 息子の懇望に応じてやってきたボヴァリー老夫人が、嫁の読書癖を害悪と見なし、貸本屋の購 読契約を勝手に打ち切るという挿話、ヨンヴィルの市の日、エンマが窓から見たひとりの紳士

(あとでロドルフであることがわかる)、その紳士が着ていた「緑色のビロードのフロック」44)

(Flaubert 2001: II. vii. 197)、彼の農場で働く下男にシャルルが施す瀉血と、それを手伝ったジュ

スタンの卒倒というふうに話題が推移してゆく。

これらの箇所から如実に読み取ることできるフローベールの手法について、ナボコフはつぎ のように解説する。「フローベールは、高度に藝術的な構造をみずからの書物に賦与するとい う務めに専念した。対位法に付け加えられるべき彼の技巧のひとつは、各章の内部において、

可能な限り優美にまた円滑に、ひとつまたひとつと主題間の移行を進めることである。……『荒 涼館』における移行が、昇降するパターンをもった、階段に喩えられるべきものであったとす るならば、『ボヴァリー夫人』におけるパターンとは、波の連続からなる流体システムなのだ。」 

「構造的な移行」の手法を用いることによってフローベールは、一章のうちにあって、主観的 叙述から客観的叙述へ、過去のある時点から他の時点へ、さらには現在へと読者を融通無碍に

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導いてゆくことができるのである。それは、彼以前の長篇小説家たちには実現不可能な離れ業 であった。

『ボヴァリー夫人』という比類ない作品を礼讃することにかけて、ナボコフは人後に落ちる ものではない。だが、その独自性のみならず、彼が強調している点があることを忘れてはな らないだろう。つまり、長篇小説の方法の進化過程を要点とした文学史的パースペクティヴ ということである。薄汚れた卑小な日常にすぎないものを「詩的な虚構作品」(Nabokov 1980:

147)へと一変させるフローベルの手腕は、長篇小説の歴史上、前例を見ないものである。彼は、

「あらゆる部分を調和させることにより、文体の内的な力を駆使し、対位法的に生じるひとつ の主題からもうひとつの主題への移行、暗示と反響などといった形式上の仕掛けを凝らすこと により」、そのような変容をなし遂げることができる。

その手法は、フローベール以後のあらゆる長篇小説家たちの先鞭を着けるものであった。「フ ローベールなくしてフランスにマルセル・プルーストはなく、アイルランドにジェイムズ・ジョ イスはなかった。ロシアのチェーホフはまったくチェーホフらしからぬ別物と化していただろ う」──いうまでもなく、それらの名前のあとにナボコフ自身の名を添えてもなんら差し支え はなかったはずなのである。

1) Vladimir Nabokov, Lectures on Russian Literature, ed. Fredson Bowers (New York: Harcourt Brace Jovanovich/ Bruccoli Clark, 1981) としてまとめられている。

2) Vladimir Nabokov, Lectures on Literature, ed. Fredson Bowers (New York: Harcourt Brace Jovanovich/

Bruccoli Clark, 1980) としてまとめられている。引用箇所は括弧内のページ番号によって示すこととす る。

3) これら二篇の長篇小説についてはすでに論じたことがある。鈴木聡「虚構と構造──ヴラジーミル・

ナボコフの『マンスフィールド・パーク』論」(『東京外国語大学論集』第84号、2012年)。鈴 木聡「霧と変化──ヴラジーミル・ナボコフの『荒涼館』論」(『東京外国語大学論集』第86号、

2013年)。

4) いくつかの試行錯誤があったことは事実であり、年度によっては『マンスフィールド・パーク』の直 後にアレクサーンドル・プーシキンの短篇小説「スペードの女王」(1835年)が続く場合もあった が、その場合にあっても年代順が意識されていることは明らかである。Boyd 1991: 171.

5) Gustave Flaubert, Madame Bovary: mœurs de province, ed. Thierry Laget (Paris: Gallimard, Folio Classique, 2001).

6) 1911年、サンクト・ペテルブルクのテニシェフ校に入学したころ、すでにナボコフは『ボヴァ リー夫人』とフローベールの書簡集を愛読していた。Cf. Boyd 1990: 92-93. 『ボヴァリー夫人』はナボ コフにとって、文学的創造行為の藝術性を理想的に具現した作品であったが、そればかりではない。

彼は、三角関係(とくに妻の不貞)という状況を繰り返し作中に取り入れることにより、フローベー ル的主題の変奏をめざしている。『キング、クイーンそしてジャック』(ロシア語版1928年、英語 版1968年)、『暗箱』(ロシア語版1933年、英語版[『暗闇のなかの笑い』と改題]1938年)

などが初期の例ということになる。同一のモティーフの系列は、後年の『ロリータ』(1955年、

58年)を経て、『透明な対象』(1972年)まで連続しているものと見なすことができる。

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